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2019年7月

2019年7月27日 (土)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-4)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続く)

 

  前回の続き第【30】パラグラフからである。


【30】

 /297上/絶えず変動する市場率とは区別される,一国で支配的な利子の--利子率の--中位的な率または平均率は,どんな法則によっても全然規定することのできないものである。利子の自然的な率a natural rate of interest〕というものは,たとえば利潤の自然的な率〔a natural rate of profit〕または賃金の自然的な率〔a natural rate of wages〕が存在するというようなこういう仕方では,存在しない。g) 需要と供給との一致--平均利潤率を与えられたものとして前提して--はここでは全然なにも意味してはいない。ほかの場合にこの定式を頼りとするときには(そしてそのような場合,そうするのは実際にも正しいのであるが),それは,競争には左右されないでむしろ競争を規定する原則(規制する限界,または限界を画する大きさ〔the regulating limits,or the limiting magnitudes〕)を見いだすための定式なのである。ことに,競争の実際や競争の諸現象やそれらの運動から[436]発展する諸観念やにとらわれている人びとにとって,競争のなかで表われる経済的諸関係の内的な関連の一つの観念--たとえこれ自身また皮相な観念であるとはいえ--に到達するための定式なのである。それは,競争に伴う諸変動からこの諸限界に到達するための方法である。平均利子率の場合はそうではない。||298上|貸し手〔lenders〕と借り手〔borrowers〕とのあいだの中位の競争関係が,なぜ貨幣の貸し手に彼の資本にたいする3%とか4%とか5%とかの利子を与えることになるのか,あるいは,なぜそれ〔中位の競争関係〕が彼に,総利潤gross profitにたいするこの一定の百分比的分けまえを,総利潤〔gross profit〕のうちの20%とか50%とか,等々を与えることになるのか,その理由は全然ないのである。競争そのものが決定する場合には,規定はそれ自体として偶然的であり,純粋に経験的であって,ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのである。a) 通貨と銀行業とに関する1857年と1858年の議会報告(タイトルは調べること)のなかでなによりもおもしろいのは,イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者〔Country Bankers〕や職業的理論家たちが,月並みな文句,たとえば,⑨⑩貸付可能な資本の使用にたいして支払われる価格は,そのような資本の供給につれて変動するはずだ」とか,「高い利子率と低い利潤率とは長きにわたってpermanently〕両立することはできない」とかいった文句や,その他このたぐいのきまり文句〔platitudes〕から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっているのを聞くことである。b) 慣習,法律的伝統,等々が中位の利子率の規定に関係がある{この中位の利子率がただ平均数として存在するだけではなく実際の大きさとして存在するかぎりはそうである}のは,競争そのものがそれに関係があるのと同様である。それゆえこの件の考察は,競争の項目Abschnitt v.d.Conkurrenz〕で行なわれるべきことなのである。{中位[437]の利子率は,利子の計算を必要とするすでに多くの法律上の係争事件でも,適法に認められなければならない。}ところで,さらに,なぜ平均的なまたは中位の利子率の限界〔limits〕を一般的な諸法則から展開することはできないのか,と問う人があるならば,その答えは単純に利子の性質のうちにある。利子はただ平均利潤の一部分でしかない。同じ資本が二重の規定で現われるのである。すなわち,貸し手〔lenders〕の手のなかで貸付可能な資本〔1oanable Captial〕として現われ,機能資本家の手のなかでは産業資本または商業資本として現われるのである。しかし,それが機能するのはただ一度だけであり,それ自身で利潤を生みだすのはただ一度だけである。それの生産過程そのものでは,資本は貸付可能な資本としてはなんの役割も演じない。この利潤にたいする要求権をもつこの二人の人物がこれをどのように分けるかは,それ自体としては,一つの会社事業をもつさまざまの出資者が共同利潤の百分比的分けまえについて折り合いをつける場合と同じく,純粋に経験的な事実である。本質的に利潤率の規定の基礎となっている,剰余価値と労賃とのあいだの分割では,二つのまったく違った要素である労働能力と資本という函数が互いに限界づけ合っている。そして,それらの質的な区別から,生産された価値の量的な分割が出てくるのである。剰余価値が地代と利潤とに分割される場合にも同じことが生じるということは,あとでわかるであろう。利子の場合にはこのようなことはなにも生じない。いますぐに見るように,逆に,質的な分割が,剰余価値の同一の部分の純粋に量的な分割から出てくるのである。/

  ①〔異文〕「絶えず変動する市場率とは区別される」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「さえ〔selbst〕」と書き加えたが,これを消している。
  ③〔異文〕「発展する」← 「形成される」
  ④〔異文〕「とらわれている人びとに」--書き加えられている。
  ⑤〔異文〕「総利潤のうちの」--書き加えられている。
  ⑥〔異文〕「ア・プリオリに」という書きかけが消されている。
  ⑦〔注解〕「通貨と銀行業とに関する1857年と1858年の議会報告」--『銀行法特別委員会報告…… 。1857年7月30日』,--『銀行法特別委員会報告…… 。1858年7月1日』。
  ⑧〔異文〕「月並みな文句,たとえば,」← 「……のような月並みな文句〔solche Gemeinplätze〕」
  ⑨〔注解〕マルクスがここで関説しているのは,『銀行法特別委員会報告……。1857年7月30日』でのサミュエル・ジョーンズ・ロイドの証言(359-360ページ)である。
  ⑩〔注解〕「貸付可能な資本の使用にたいして支払われる価格は,そのような資本の供給につれて変動するはずだ」--『銀行法特別委員会報告……』では次のようになっている。--「[第3855号]……資本の使用にたいする価格は,他のどんな商品の価格もそれの供給と需要との変動によって定まるのと同じようにして,決められるべきものです。」
  ⑪〔注解〕「高い利子率と低い利潤率とは長きにわたって両立することはできない」--『銀行法特別委員会報告……』では次のようになっている。--「[第3866号]私は,高い利子率と低い利潤率とは長きにわたって両立することはできないと思います。」
  ⑫〔注解〕「競争の項目」--〔MEGA II/4.2の〕178ページ18-25行への注解を見よ。〔この注解では次のように書かれている。--『経済学批判要綱』は「資本」という部のためのマルクスのプランを含んでおり,それは次の四つの篇に編制されるべきものだった:資本一般,競争,信用,株式資本(MEGA II/1.1の187ページおよび199ページを見よ)。--エンゲルスあてのマルクスの手紙,1858年4月2日。--カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』をも見よ。所収:MEGA II/2,S.99,長年にわたる自己了解過程の中心にあったのは,一方では第1篇であり,純粋な姿態における価値および剰余価値についてのこの篇の論述は最終的には『資本論』に結実した。他方では平均利潤および生産価格の理論であって,『1861-1863年草稿』でのこの理論の仕上げは,なにをおいても,「資本一般」と資本の「現実の〔real〕」運動--競争と信用--とのあいだの徹底した分離をマルクスに放棄させることになった。この運動のうちの基本的な事柄は主著〔『資本論』〕に取り入れられ,それより具体的な事柄は,主著とは別のもろもろの特殊研究に留保されるべきものとなった。これらの特殊研究は書かれなかった。〕
  ⑬〔異文〕「〔……の〕一〔部分〕としての〔als eines〕」という書きかけが消されている。
  ⑭〔異文〕「資本は二重に現われる」という書きかけが消されている。
  ⑮〔異文〕「それの生産過程そのものでは,資本は貸付可能な資本としてはなんの役割も演じない。」--書き加えられている。
  ⑯〔異文〕「百分比的分けまえについて折り合いをつける」← 「百分比的分けまえへと分割する」
  ⑰〔異文〕「本質的に」--書き加えられている。
  ⑱〔異文〕「二つのまったく違った要素が……っている〔kommen zwei ganz verschiedne Elemente〕」という書きかけが消されている。〉 (233-238頁)

 〈(1)絶えず変動する市場率とは区別される、一国で支配的な利子(率)の中位的な率または平均率は、どんな法則によっても全然規定することのできないものです。利子の自然的な率というものは、例えば利潤の自然的な率または賃金の自然的な率が存在するというようなこういう仕方では、存在しないのです。平均利潤率が与えられたものと前提すれば、貨幣の貸し手と借り手とのあいだにおける需要と供給との一致というものは、ここでは全然なにも意味しないのです。
  (2)他の場合、こうした需給の一致という定式を頼りにするのは、それはそれで正しいのですが、それは、競争には左右されないでむしろ競争を規定する原則(規制する限界、または限界を画する大きさ)を見いだすための定式なのです。ことに、競争の実際や競争の諸現象やそれらの運動から発展する諸観念やにとらわれている人々にとって、競争のなかで表れる経済的諸関係の内的な関連の一つの観念に到達するための定式なのです。もっともその結果が、たとえこれ自身また皮相な観念であるとはいえです。それは、競争に伴う諸変動からこの諸限界に到達するための方法なのです。
  (3)しかし平均利子率の場合はそうではないのです。貸し手と借り手とのあいだの中位の競争関係が、なぜ貨幣の貸し手に彼の資本にたいする3%とか4%とか5%とかの利子を与えることになるのか、その理由は全然ないのです。同じことですが、なぜその中位の競争関係が彼に、総利潤にたいするこの一定の百分比的分け前を、総利潤のうちの20%とか50%とか、等々を与えることになるのかについても、その理由は全然ないのです。
  (4)競争そのものが決定する場合には、規定はそれ自体として偶然的であり、純粋に経験的であって、ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのです。
  (5)通貨と銀行業とに関する1857年と1858年の議会報告のなかでなによりもおもしろいのは、イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者や職業的理論家たちが、次のような月並みな文句をしゃべりまくっていることを聞くことです。例えば「貸付可能な資本の使用にたいして支払われる価格は,そのような資本の供給につれて変動するはずだ」とか「高い利子率と低い利潤率とは長きにわたって両立することはできない」とかいった文句や,その他このたぐいのきまり文句から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっていることです。
  (6)習慣や法律的伝統、等々が中位の利子率の規定に関係があるのは、競争そのものがそれに関係あるのと同様です。この中位の利子率がただ平均数として存在するだけではなく実際の大きさとして存在するかぎりではそうなのです。しかしだからこそ、この問題の考察は、競争の項目で行われるべきことです。{そして実際問題として、中位の利子率は、利子の計算を必要とするすでに多くの法律上の係争事件でも、適法に認められなければならないのです。}
  (7)ところで、もしさらに、なぜ平均的なまたは中位の利子率の限界を一般的な諸法則から展開することはできないのか、と問う人があるならば、単純にそれは利子の性質のうちにあると答えなければなりません。利子はただ平均利潤の一部でしかありません。ここでは同じ資本が二重の規定で現れるのです。すなわち、貸し手のなかで貸付可能な資本として現れ、機能資本家の手のなかでは産業資本または商業資本として現れます。しかし、それが機能するのはただ一度だけです。それ自身が利潤を生み出すのもただ一度だけです。そして生産過程そのものでは、資本は貸付可能な資本としては何の役割も演じないのです。利潤にたいする要求権を持つこの二人の人物がこれをどのように分けるかは、それ自体としては、一つの会社事業をもつさまざまな出資者が共同的利潤の百分比的分け前について折り合いをつける場合と同じく、純粋に経験的な事実なのです。
  (8)本質的に利潤率の規定の基礎となっている、剰余価値と労賃とのあいだの分割では、二つのまったく違った要素である労働能力と資本という函数が互いに限界付けあっています。そして、それらの質的な区別から、生産された価値の量的な分割が出てくるのです。剰余価値が地代と利潤とに分割される場合にも同じことが生じるということはあとでわかるでしょう。しかし利子の場合にはこのようなことはなにも生じないのです。いますぐ見ますように、逆に、質的な分割が、剰余価値の同一の部分の純粋に量的な分割から出てくるのです。 〉

 【このパラグラフは非常に長いのであるが、内容的には幾つかにわけることができそうである。平易な書き下し文ではそうした意図のもとに改行を入れておいた。それぞれの部分に番号を打って、その内容を吟味しておこう。
  (1)まずここでは一国の支配的な利子の中位的な平均率というようなものは、どんな法則によっても全然規定することのできないものだと指摘されている。そしてこの点で、利潤の自然率とか賃金の自然率というようなものと同じような意味で利子の自然率というようなものは存在しないのだと主張されている。つまりここでは需要と供給の一致というようものは全然なにも意味していないというのである。
  (2)そしてこの需給の一致というものは、他の場合は、われわれが競争に作用されないで、むしろ競争を規定する原則を見いだすために必要な定式なのであり、そうした競争のなかでさまざまな諸観念に捕らわれている人たちに、その内的な関連を示すための、あるいはそうしたものに到達するための方法でもあるという説明がある。
  (3)しかし平均利子率の場合には、まったくそうした定式は意味がないと指摘する。つまり貸し手と借り手とのあいだの中位の競争関係というものが、利子が何%になるとか、あるいは利潤のうちの何%を利子として支払う必要があるということを規制するわけではないと述べている
  (4)次ぎにこれは一般的な形で、競争そのものが決定する場合には、規定はそれ自体として偶然的であり、純粋に経験的なものだ、との指摘がある。だからそれを何か必然的なものとして説明するのは、ただ衒学的な馬鹿話か妄想だけだ、と。
  (5)次はやや話は変わって、そうした実際に衒学的な馬鹿話の例として、議会報告の紹介がされている。
  (6)ここでは習慣や法律的な伝統などが、中位の利子率の規定に関係することがあるという場合について述べている。これは例えば法律上の係争事件で、損害賠償金の計算の時に、一定の利子率にもとづいて計算する必要があるが、そうした利子率のことであろう。しかしこうした問題は競争の項目で考察されるべきだと指摘されている。
  (7)ここからはどうして平均的なまたは中位の利子率の限界を一般的な法則から展開することはできないのか、その理由が説明されている。それはまず利子の性質のうちにその理由があるとされている。利子は平均利潤の一部でしかないこと、しかし同じ資本が二重の規定として現れること、一つは貸付資本、もう一つは産業資本あるいは商業資本である。
しかしそれは実際に利潤を生むのはただ一度だけであり、それが生産過程にあるときである。しかし生産過程にあるときには、貸付可能な資本としては何の役割も演じないこと、だからこの生産される利潤にたいする要求権をもつ二人の人物がこれをどのように分けるかは、純粋に経験的な事実なのだと説明されている。
  (8)次ぎに、ここでは利潤率の規定は、剰余価値と労賃とに、生産された価値が分割されることから決まるが、この分割はまったく違った要素として互いに限界付けあっていること。つまり質的な区別から、その量的な分割が出てくるのだが(そしてそれは地代と利潤との分割にもいいうるが)、利子の場合にはこのようなことはなにも生じない。むしろ質的な分割が、量的な分割から出てくるとの指摘がある。

  ところで注解⑫は「競争の項目」についての長い説明がある。この注解そのものは別の注解を見よという指示だけだが、大谷氏によるその参照指示された注解の長い紹介がある。
  この注解の主旨は、要するにここでマルクスが〈それゆえこの件の考察は,競争の項目Abschnitt v.d.Conkurrenz〕で行なわれるべきことなのである〉と述べている「競争の項目」とは、最終的には『資本論』が対象としたものとは別に考えられていた、〈もろもろの特殊研究に留保されるべきものとなった〉ものを指しているのだ、ということである。
  それを説明するために『経済学批判要綱』当時のプランからその変遷を説明して、最終的には当初のプランの「資本一般」が「資本の一般的分析」(『資本論』)へと変遷する過程で、「資本一般」と区別されていた「競争」「信用」「株式資本」などの一部は、「資本の一般的分析」(『資本論』)の中に取り入れられ、それ以外ものはそれぞれの特殊研究として保留されたということである。こうしたプランの変遷過程については大谷氏によって何度も考察されているが、それは佐藤金三郎氏が最初に主張されたことだと大谷氏も指摘している。そこで参考のために大谷氏の生前最後の著書となった『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』に所収された「第13章 書評・佐藤金三郎著『『資本論』研究序説』」から関連する部分を紹介しておこう。

  〈第1部冒頭の「「経済学批判」体系と『資本論』」(1954年)は,『経済学批判要綱』の考証的検討を通じて「プラン問題」に独自の見解を示して論議のその後の流れにきわめて大きな影響を与え,また『資本論』形成史研究と呼ばれる領域を新たに切り開いたものであった。それまでほぼ通説であった久留間鮫造氏に代表される『資本論』=「資本一般」説にたいして,著者の新見解は,『資本論』は依然として「資本一般」ではあるが,「資本一般」の内容は著しく拡充され,「競争」・「信用」・「土地所有」・「賃労働」の諸考察は,「資本一般」としての『資本論』に取り入れられたそれらの基本規定と,『資本論』の外に残されているそれらの「特殊研究」とに「両極分解」した,というものであった。
  著者はその後も研究を重ね,最後のシンポジウム報告(1987年)でその到達点を公開した。そこでは著者は,「両極分解」説を維持したうえで,『資本論』を「資本一般」だとしていた点については,『要綱』ののち「資本一般」の意味がしだいに変わっていった結果,この概念そのものが使われなくなったとし,『資本論』は「資本の一般的分析」と特徴づけられるべきだ,と述べている。当初プランで「資本の一般的分析」に当たるのは,第1篇「資本一般」だけではない。第1部「資本」全体,さらに3大階級の経済的基礎の分析が完了するはずの前半3部もそう見ることができる。だから著者はここで,「『資本論』は「資本一般」ではないと言ったほうがいい」と言い切ったのである。こうしてプラン問題について著者が最後に到達したのは,事実上,当初の「経済学批判」体系は,「競争」~ 「賃労働」の諸項目の「両極分解」を経て,「資本の一般的分析」としての『資本論』に終わった,というプラン「変更説」であった。
  評者(大谷--引用者)はこの結論に同意する。そのうえで,著者のこの結論の含意は,さらに次のように明示されるべきだと考える。すなわち,当初の「資本一般」とは,「多数の諸資本」を捨象した「一つの資本」,「国民的資本」,「社会的資本」という,分析対象の一般性の規定であって,その分析ののちに「多数の諸資本」を前提した諸分析がなされてはじめて「資本の一般的分析」として完了しうるはずのものであったが,それにたいして,「資本の一般的分析」とは,資本の「特殊的分析」・「特殊研究」にたいするもの,すなわち分析・研究の一般性の規定であって,『資本論』は「資本の一般的分析」として完結すべき性格のものであった,ということである。(以下、略)〉(567-568頁)】


【31】

 〈[435]/297下/〔原注〕g)すでにマッシーもこの点については十分に正当に次のように言っている。--「この場合にだれかが疑問とするかもしれないただ一つのことは,これらの利潤のどれだけの割合が正当に借り手のものであり,どれだけが貸し手のものであるかという問題である。そして,これを決定するには,一般の借り手と貸し手との意見によるほかにはなんの方法もない。なぜならば,正も不正も,この点では,ただ一般的な同意が正とし不正とするものでしかないからである。」(同前,49ページ。)〔原注g)終わり〕|〉 (238頁)

  【これは原注であるが、ほぼマッシーからの抜粋なので、平易な書き下し文は不要であろう。これは〈一国で支配的な利子の--利子率の--中位的な率または平均率は,どんな法則によっても全然規定することのできないものである。利子の自然的な率a natural rate of interest〕というものは,たとえば利潤の自然的な率〔a natural rate of profit〕または賃金の自然的な率〔a natural rate of wages〕が存在するというようなこういう仕方では,存在しない〉という部分に対する原注であり、同じことはすでにマッシーによって指摘されているというものである。】


【32】

 [436]298下|〔原注〕a)たとえば,オプダイク,アルント,等々を見よ。--G.オプダイク経済学に関する一論』,ニューヨーク,1851年,は,5%という利子率の一般性を永久的な諸法則から説明しようとする,極度に失敗した試みをやっている。それよりもはるかに素朴なのは,『独占精神と共産主義とに対立する自然的国民経済,云々』,ハーナウ,1845年,のなかでのカール・アルント氏である。そこには次のようなことが書いてある。「財貨生産が自然的に進行する場合には,利子率を--十分に開拓された諸国で--ある程度規制するに適していると思われる現象が,ただ一つだけある。それは,ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によってふえて行く割合である。この生長は,樹木の交換価値とはまったく無関係に」--樹木が自分の生長を「自分の交換価値と無関係に」調整するとはなんという滑稽なことか!--「100にたいして3から4の割合で行なわれる。--したがってこれによれば」{すなわち,樹木の交換価値がどんなに樹木の生長に左右されようとも,樹木の生長は樹木の交換価値とは無関係なのだから}「それ」(利子率)「が,この上なく豊かな国ぐにでの現在の水準よりも下がるということは,期待できないであろう。」(同上,124,125ページ。)これは,「森林起源的利子率」と名づけられるのに値いする。そして,その発見者はここに引用した著書のなかで「われわれの科学」のために自分を「畜犬税の哲学者」の名にも値いさせているのである[420.421ページ]。〔原注a)終わり〕

  ①〔注解〕マルクスはここで,ジョージ・オプダイクの著書『経済学に関する一論』,86-87ページでの次の章句をほのめかしているのかもしれない。--「ある個人が貨幣を他人に貸し付けるとき,よく知られていることであるが,彼はそれのサーヴィスまたは使用にたいして,利子と呼ばれる報酬を受け取る。この報酬は,通常,貸し付けられた額にたいする年率で3%から9%のあいだ--ときとして異常な事情がこの率を短期間のあいだこれらの限度を越えさせることもあるが--のどこかにある。だから,その中間点は約6%である。だが,租税や損失の危険にたいしてさらに1%を差し引けば,貨幣の形態にある資本の平均的な純収入として,年率5%が残る。さて,貨幣と,生産的資本のその他のあらゆる形態とは,それらの所有者たちによって随意に,互いに等しい諸部分が交換されることができるし,また交換されているので,このことから,年率5%は,あらゆる種類の生産的資本の中間的純収入だ,ということになる。また生産的資本と土地とは等しい諸部分が相互に交換されるのだから,このことから,土地の純年間収入はほぼ5%だ,ということになる。」
  ②〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.4,S.1502.23-27)から取られている。〉 (238-239頁)

 〈衒学または妄想だけが偶然的なものを何か必然的なものとして説明しようとする例としてあげることができるのは、たとえば、オプダイク、アルント等々です。オプダイクは5%という利子率の一般性を永久的な諸法則から説明しようとして、極度に失敗した試みをしています。それよりはるかに素朴なのは、アルント氏の次のような説明です。「財貨生産が自然的に進行する場合には,利子率を--十分に開拓された諸国で--ある程度規制するに適していると思われる現象が,ただ一つだけある。それは,ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によってふえて行く割合である。この生長は,樹木の交換価値とはまったく無関係に」--樹木が自分の生長を「自分の交換価値と無関係に」調整するとはなんという滑稽なことでしょう!--「100にたいして3から4の割合で行なわれる。--したがってこれによれば」{すなわち,樹木の交換価値がどんなに樹木の生長に左右されようとも,樹木の生長は樹木の交換価値とは無関係なのだから}「それ」(利子率)「が,この上なく豊かな国ぐにでの現在の水準よりも下がるということは,期待できないであろう。」これは「森林起源的利子率」と名づけられるのに値するものです。そしてその発見者はここの引用した著書のなかで「われわれの科学」のために自分を「蓄犬税の哲学者」の名にも値させているのです。〉

 【これは〈競争そのものが決定する場合には,規定はそれ自体として偶然的であり,純粋に経験的であって,ただ衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができるのである〉という一文につけらた原注である。つまり〈衒学または妄想だけがこの偶然性をなにか必然的なものとして説明しようとすることができる〉例としてオプダイク、とくにアルントの主張を滑稽なものとして紹介している。
  オプダイクについては、注解①が詳しくその主張を紹介している。
  アルントについて、最後にマルクスが〈「畜犬税の哲学者」〉と紹介している文言について、大谷氏は訳者注で、次のように説明している。

  〈「「畜犬税の哲学者」」--アルントはその著書の420-421ページで,犬は,放たれていると人間の交通の余地を狭くし,吠えたり噛んだりすることで公衆を困らせ,狂犬となって人間生活を脅かし,そのエサの消費で人間の食物を制限するのだから,有用な目的なしに犬を飼う人びとに畜犬税を課すのが道理である,と書いている。マルクスはこれを皮肉っているのである。〉 (239頁)

  なお注解②によれば、このアルントについての抜粋は61-63草稿からとられているということだから、その原文も見ておこう(しかしMEGAの注解等は省略)。

  〈「われわれの科学」を「用心深く」発展させるこの同じ人(アルントのこと--引用者)は、次のようなおもしろい発見をしている。
 「財貨生産の自然的な行程では、利子率を--まったく開拓された国々において--ある程度まで調整するべく定められているように見えるただ一つの現象がある。--それは、ヨーロッパの森林の樹木量がその年々の生長によって増加する割合であって--この生長は、まったくその交換価値にはかかわりなしに(樹木の生長を「交換価値にかかわりなしに」調整するとは、なんとこっけいなことだろう!) 3%ないし4%の割合で行なわれる。--だから、これによれば {というのは、たとえ樹木の交換価値がどんなにその生長によって定まろうとも、その生長はその「交換価値にはかかわりがない」のだから!} 現在それ(利子率)が貨幣の最も豊富な国々で到達している高さよりも低く下がることは、期待できないであろう。」(同前、124、125ページ)
  これは「森林から発生した利子率」と名づけるに値する。そして、その発見者は、はこに引用した「われわれの科学」に関する著作のなかで「畜犬税」の哲学者としても世の注目を浴びたのである。〉 (草稿集⑦483頁)】


【33】

 〈〔原注〕b)イングランド銀行は,バンク・レートbankrate〕を,(もちろん銀行の外で支配的な率をつねに顧慮しながらであるとはいえ),地金の流入と流出とに応じて引き上げたり引き下げたりする。「これによって,バンク・レートの変動の予想による割引投機が,いまでは貨幣中枢部の」(すなわちロンドンの)「巨頭たちの取引の半分を占めるようになった。」(〔ヘンリ・ロイ〕『為替の理論,云々』,113ページ。)〔原注b)終わり〕/〉 (239-240頁)

 〈イングランド銀行は、バンク・レートを、もちろん銀行の外で支配的な率をつねに顧慮しながらではありますが、地金の流入と流出とに応じて引き上げたり引き下げたりします。「これによって,バンク・レートの変動の予想による割引投機が,いまでは貨幣中枢部の」(すなわちロンドンの)「巨頭たちの取引の半分を占めるようになった。」(〔ヘンリ・ロイ〕〉

 【これは〈イングランド銀行の銀行理事やロンドンの銀行業者や地方の銀行業者〔Country Bankers〕や職業的理論家たちが,月並みな文句〉や〈きまり文句〔platitudes〕から一歩も出ることなしに,「生みだされた現実の〔利子〕率」についてあれこれとしゃべりまくっている〉という一文につけらた原注である。本文では議会報告の〈サミュエル・ジョーンズ・ロイドの証言〉が取り上げられていたが、しかし現実の利子率、つまりイングランド銀行のバンクレートそのものは、貨幣市場での支配的な利子率を顧慮しながらも、地金の流出入によって上下させていることを指摘し、これによって利子率の変動を予想しての割引投機が、ロンドンの巨頭たちの取り引きの半分を占めるようになったというヘンリ・ロイの一文が紹介されている。
  イングランド銀行が地金の流出入に応じてバンクレートを上下させたというのは、1844年のピール銀行条例によって、1400万ポンド以上のイングランド銀行券の発行については同銀行の地金保有高に応じて発行するように発行高の上限が制限されたからである。同行の銀行部は他の市中銀行と同じように貸し付け業務を行っていたが、当時の貸し付け業務の主要な内容は、手形の割引業務であり、その割引率を規定するのがバンクレートである。だから銀行業者たちは民間業者が持ち込む手形の割引率をどうするかについて、その時々の利子率の変動を見越して投機的な取り引きを行い、将来利子率が下がると予想すれば、今の相対的に高い利率での割引数を増やし、その反対であれば、今の低い利率での割引を控えようとする等々の操作を行い、それで儲けようとしたということである。そうした投機による取り引きが、取り引きの半分を占めるほどになったというわけである。しかしそれが投機の対象になることを考えても、利子率の変動に何か一定の法則性があるわけではないということである。】

 (続く)

2019年7月25日 (木)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-3)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き第【23】パラグラフからである。


【23】

 〈/297上/利子率が利潤率の変動〔Variations〕にはかかわりなしに低落するという傾向。--〉 (229頁)

 〈利子率が利潤率の変動にはかかわりなしに低落するという傾向について見ていこう。〉

 【ここからまた話は変わっている。【15】パラグラフで産業循環の回転に応じて利子はどのように変化するかが論じられていたが、ここからは利子率は利潤率の変動とはかかわりなしに低落する傾向があるという指摘から始まっている。そして次のパラグラフからは「1)」と番号を打ってラムジからの抜粋を行っている。】


【24】

 1)「生産的投下のためよりほかには資本が借り入れられることはけっしてないとさえ想定しても,なお,総利潤の率にはなんの変動もないのに利子が変動するということもありうる。②というのは,一国民がますます富を発展させるのにつれて,自分たちの父祖の労働によってファンドを与えられてただその利子だけで生活ができるような人びとの一階級が発生し,しかもますますそれが大きくなるならである。また,青年期や壮年期には積極的に事業に参加しても,隠退してからは,蓄積した金額の利子で静かに晩年を送ろうとする人びとも多い。これら二つの部類の人々は,国富の増大につれてふえていく傾向がある。なぜならば,はじめから相当な資本で始める人びとは,わずかな資本で始める人びとよりもいっそうたやすく独立の財産をつくりあげることができるからである。それゆえ,古くて[435]豊かな国ぐにでは,新しくできた貧しい国ぐにでよりも,国民資本のうち自分で充用しようとしない人びとに属する部分が,社会の総生産的資本にたいしてより大きい割合をなしているのである。イギリスでは金利生活者〔rentiers〕の階級の人数がなんと多いではないか! 金利生活者rentiers〕の階級が大きくなるのにつれて,資本の貸し手の階級も大きくなる。というのは,この二つの階級は同じものだからである。この原因からだけでも,利子は古い国ぐにでは下落する傾向をもたなければならないであろう。」d)/

  ①〔注解〕この引用は,ラムジでは次のようになっている。--「しかし,資本は生産的充用以外の目的ではけっして借りられたことがない,と想定すべきだとした場合でさえも,総利潤の率にはなんの変動もないのに利子が変動しうるということは大いにありうることだ,と私は思う。なぜなら,一国の富の発展が進むにつれて,自分たちの先祖の労働によってただその利子だけで相当な暮らしを余裕をもってやっていけるようなファンドをあり余るほど十分に所有する人びとの一階級が発生して,ますます増大していくからである。また,若年および壮年期には事業で活発に働いて,引退してからは,自分自身が蓄積した金額の利子によって晩年を静かに送るという人びとも,たくさんいる。この階級も前のほうの階級も,その国の富が増大するにつれて増大する傾向がある。なぜなら,かなりの資材で仕事を始める人びとは,わずかばかりのもので始める人びとよりも早く,独立しやすいからである。それゆえ,古くて富んでいる国ぐにでは,新たに植民されたより貧しい諸地域に比べて,全国の資本のうちそれを自分で充用する労を取ろうとしない人びとに属する額が,社会の全生産資材にたいしてより大きい割合を占めるのである。イギリスでは,ほとんどだれもがなにかの仕事に携わっているアメリカでよりも,フランス人の言う金利生活者rentiers〕の階級は人口中に占めるその人数の割合がなんと大きいことか! 金利生活者rentiers〕の階級が大きくなるにつれて,資本の貸し手の階級も大きくなる。なぜなら,それらは一つで同じものだからである。したがって,このような原因から,利子は,古い国ぐにでは低落するという傾向をもたざるをえないのである。……」--この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S.1797.24-41)から取られている。
  ②〔異文〕「ある国では,また……のあ[いだ]では〔zw[ischen]〕」という書きかけが消されている。〉 (230-231頁)

 【このパラグラフは本文であるが、「1)」という項目以外すべて抜粋なので、平易な書き下しは省略する。この「1)」は、【26】パラグラフの「2)」、および【33】パラグラフの「3)」に対応している。そしてそれらを踏まえて【35】パラグラフ以下の展開があるように思えるが、しかしそれは実際に検討してみてまた判断することにしよう。
  ここでは利潤率がそれほど変わらなくても利子率は低下する傾向があることの理由として、ラムジは次のような理由を挙げている。
  (1)自分たちの祖先の築いた財産をもとにその利子だけで生活できるような一階級が発生し、ますます増大するから。
  (2)若いときは事業で一財産を築き、年取ってからはその財産の利子だけで生活する人々が多くなるから。
  (3)この二つの部類の人々は、国富の増大につれて増えていく傾向がある。
  (4)よって古くて豊かな国では、新しくできた貧しい国でよりも、金利生活者の階級が多くなる。
  (5)こうした金利生活者が多いということは、資本の貸し手の階級も多いということである。
  (6)こうしたことから古い国々では利子は下落する傾向がある。
  まあざっとこうしたことが述べられているのであるが、これをマルクスは肯定的に引用していることは明らかである。少なくとも利子が利潤率にかかわりなしに低落する傾向がある理由の一つと考えているわけである。】


【25】

 〈/297下/〔原注〕d)ラムジ,同前〔『富の分配に関する一論』,エディンバラ,1836年〕,201ページ以下。〔原注d)終わり〕/〉 (231頁)

 【これは先の本文として抜粋したものの典拠を示すだけなので、平易な書き下しは不要であろう。MEGAの注解ではこのラムジからの抜粋は61-63草稿から取ってきているということなので、その原文を見ておくことにしよう。かなり長くなるが、前後も含めて抜粋しておこう。マルクスがラムジをどの程度評価しているかが分かる(但しMEGAによる注解ではラムジの著書ではこうなっていると原文が示されているが、それは省略する)。

  一般利潤率の低下に関しては、ラムジは、リカードウと同様に、A・スミスに反論している。
  彼はA・スミスに反対して次のように言っている。「資本家的企業者たちの競争は、確かに、特に水準よりも高くなっている利潤を平準化することができるであろう。{この平準化は、一般的利潤率の形成を説明するには、けっして十分ではない。}しかし、この通常の水準そのものが引き下げられるということは、まちがいである。」(179/180ページ。)「原料であろうと製品であろうと、どの商品でも、その価格が生産者間の競争のために下がるということはありうるとしても、このことが利潤に影響することはけっしてありえないであろう。どの資本家的企業者も自分の生産物をより少ない貨幣と引き換えに売るであろうが、他方、それに応じて、彼が費用を支出するどの物品も、それが固定資本に属しようと流動資本に属しようと、彼にとってはより少ない額の費用で足りるであろう。」(180/181ページ) 同様にマルサスに反対して。「利潤が消費者によって支払われるという考えは、確かに非常にばかげている。消費者とはだれなのか? それは地主か、資本家か、雇い主か、労働者か、そのほか給料などを受け取る人々かでなければならない。」(183ページ)「総利潤の一般的な率に影響することができる唯一の競争は、資本家的企業者と労働者とのあいだの競争である。」(206ページ) このすぐ前の文章のなかではリカードウの命題が正しいものに還元されている。利潤率は資本と労働との競争によることなく低下することもありうるが、しかし、利潤率がそのために下がるというととがありうる唯一の競争は、この競争である。だが、ラムジ自身も、なぜ一般的利潤率は低下への傾向をもつのかという理由は、なにも示してはくれない。彼が言っている唯一のこと--そして正しいこと--は、利子率は一国における総利潤の率にはまったくかかわりなしに、しかも次のようにして、下がることがありうる、ということである。「われわれ自身が、資本は生産的充用以外の目的では借り入れられたことがない、と想定しても、それでもなお、総利潤の率にはなんの変動もないのに利子が変動するということは可能である。なぜならば、一国の富の発展が進むにつれて、自分たちの先祖の労働{搾取、盗奪}によってただその利子だけで暮らしてゆけるような財産を所有する人々の一階級が発生して、ますます増大してゆくからである。また、若年および壮年期には積極的に事業で働いて、引退してからは、自分自身が蓄積した金額の利子によって晩年を静かに送るという人々も、たくさんある。この二つの階級は、その国の富が増大するにつれて増大する傾向がある。なぜならば、かなりの資財で仕事を始める人々は、わずかばかりのもので始める人々よりも早く、独立しやすいからである。それゆえ、古くて富んでいる国々では、新たに植民された貧しい国々に比べて、全国の資本のうちそれを自分で充用しようとしない人々に属する額が、社会の全生産資財にたいしてより大きい割合を占めるのである。イギリスでは金利生活者の階級がなんと大人数であることか! 金利生活者の階級が大きくなるにつれて、資本を貸す人々の階級も大きくなる。なぜならば、それらは一つで同じものだからである。このような原因だけからも、利子は、古い国々では低落するという傾向をもたざるをえないであろう。」(201ページ以下。)〉 (草稿集⑧427-428頁)

  このようにマルクスはラムジからの抜粋について〈彼が言っている唯一のこと--そして正しいこと--は、利子率は一国における総利潤の率にはまったくかかわりなしに、しかも次のようにして、下がることがありうる、ということである〉と述べていることから明らかなように、ラムジのこうした理由の説明は正しいと判断しているわけである。】


【26】

 〈/297上/2)信用システムの発展,また,それだから社会のあらゆる階級のあらゆる貨幣貯蓄〔money savings〕を産業家や商業家が(銀行業者〔bankers〕の媒介によって)ますます多く利用できるようになるということ,また,この貯蓄〔savings〕の集積が進んで,それが貨幣資本として働くことができるような量になるということによって。(あとを見よ。) 〉 (231頁)

 〈利子率が利潤率の変動とは関わりなしに低下する傾向がある理由として考えられる第二のものとしては、2)信用システムの発展です。また、それにもとづいて社会のあらゆる階級のあらゆる貨幣貯蓄を産業家や商業家が銀行業者の媒介によってますます多く利用できるようになるということです。またそうした貯蓄の集積が進んで、それが貨幣資本として働くことができるような量になるということによってです。(この問題についてはあとで見ます。)〉

 【ここではもう一つの理由として、信用システムの発展があげられている。そうなると社会のあらゆる階級のあらゆの貨幣貯蓄が銀行を介して、産業家や商業家によってますます利用できるようになるというわけである。またそうした個別的にはわずかな貨幣貯蓄でも銀行によって集積されることによって、貨幣資本として前貸しできる量に達することができるようになる、こうしたことから余すことなく社会の貨幣貯蓄は貨幣資本として動員されるようになるというわけである。だから利子率はそうした理由からも低下する傾向があるわけである。】


【27】

 ラムジは利子率純利潤の率と呼んでいるのであるが,この利子率の規定について,彼は次のように言っている。利子率は,「一部は総利潤の率によって定まり,また一部は総利潤が利子と企業利潤〔profit of enterprise〕とに分割される割合によって定まる。この割合は資本の貸し手と借り手とのあいだの競争によって定まる。この競争は,実現されると期待される総利潤の率によって影響されるが,ただそれだけによって規制されるわけではない。e)競争はただこの原因だけによって規制されるのではないというのは,一方では,生産的な投資をする意図はなにもないのに借りる人も多いからであり,他方では,貸付可能な国民的資本の全体の大きさは,総利潤のなんらかの変動にかかわりなく,その国の富の変動につれて変動するからである。」f)/

  ①〔注解〕この引用は,ラムジでは次のようになっている。「これらのものの率は,一部には総利潤の率により(というのは,全体が増大するか減少するときには,全体の各部分も同じく増大するか減少するのだからである),一部には総利潤が資本の利潤と企業の利潤とに〔into profits of capital and those of enterprise〕分かれる割合によって定まる。この割合は,これはまたこれで,資本の貸し手と提供すべき優良な担保をもつすべての借り手とのあいだの競争によって定まる。この競争は,実現が期待される総利潤の率によって,完全に調整されるのではないにしても,影響を受ける。そして,競争がこの原因だけによって調整されるのではないというわけは,一方では,どんな生産的に充用する目的もなしに借りる人びとがたくさんいるからであり,他方では,国内の貸付可能な全資本〔the whole national capital to be lent〕の割合は,総利潤のどんな変動にもかかわりなく,その国の富とともに変動するからである。」--この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.5,S.1798.1-10)から取られている。〉 (231-232頁)

 〈ラムジは利子率を純利潤の率と呼んでいますが、この利子率の規定について、次のように言っています。利子率は、「一部は総利潤の率によって定まり,また一部は総利潤が利子と企業利潤〔profit of enterprise〕とに分割される割合によって定まる。この割合は資本の貸し手と借り手とのあいだの競争によって定まる。この競争は,実現されると期待される総利潤の率によって影響されるが,ただそれだけによって規制されるわけではない。競争はただこの原因だけによって規制されるのではないというのは,一方では,生産的な投資をする意図はなにもないのに借りる人も多いからであり,他方では,貸付可能な国民的資本の全体の大きさは,総利潤のなんらかの変動にかかわりなく,その国の富の変動につれて変動するからである。」〉

 【このパラグラフはほぼラムジからの引用であるが、最初はマルクス自身の文章なので、一応、平易な書き下しをしておいた。
  このパラグラフは、ラムジが利子率について正確な理解を持っていたことを紹介しているように思える。彼はまず利子率は総利潤率によって規制されることをはっきりととらえている。〈というのは,全体が増大するか減少するときには,全体の各部分も同じく増大するか減少するのだからである〉とその規制の内容も明確に理解していることを示している。そしてさらに利子率は〈総利潤が利子と企業利潤〔profit of enterprise〕とに分割される割合によって定まる〉こと、そしてこの割合は〈資本の貸し手と借り手とのあいだの競争によって定まる〉とも明確にのべている。さらにこうした貸し手と借り手とのあいだの競争は総利潤の率によって影響はされるが、それだけによって規制されるわけではないとして、生産的に投資する意図はなにもないのに借りる人も多いからであり、貸付可能な国民的資本全体の大きさも、総利潤の変動とはかかわりなく変動するからだとしている。
  このパラグラフそのものは必ずしもその前の【26】パラグラフに関連して述べられているとはいえないように思える。】


【28】

 /297下/〔原注〕e)利子率は全体としては平均利潤率によって規定されているのではあるが,異常なブームが低い利子率と結びついていることも非常にしばしばありうる。たとえば鉄道ブーム。利子率(バンク・レート)は,1844年10月16日に,やっと3%に引き上げられた。〔原注e)終わり〕/

  ①〔異文〕「利子率」← 「利子」〉 (232-233頁)

 〈利子率は全体としては平均利潤率によって規定されていますが、異常なブームが低い利子率と結びついていることも非常にしばしばありえます。たとえば鉄道ブーム。この場合は、利子率(バンク・レート)は、1844年10月16日に、やっと3%に引き上げられたのでした。〉

 【この原注は、ラムジの引用文のなかの〈資本の貸し手と借り手とのあいだの競争〉は〈実現されると期待される総利潤の率によって影響されるが,ただそれだけによって規制されるわけではない〉という部分につけられた原注である。つまり総利潤の率に影響されるが、それだけによって規制されるわけではない一つの実例として、マルクスは鉄道ブームを挙げているわけである。鉄道ブームは低い利子率と結びついて生じたとマルクスは指摘している。低い利子率は鉄道株の高騰を招き、その高騰を目当てに投機が盛んに行われてブームとなったわけである。
  ここで鉄道ブームについて詳述する必要は必ずしもないが、『恐慌史研究』(鈴木鴻一郎編、日本評論社1973.7.25)に詳しい説明があるので、少しだけ引用しておこう。

  〈すでに(18)45年の1月初から、既存路線の株式ばかりでなく新たに設立された暫定登録会社の仮株券が圧倒的な人気を博し始めていたが、2月頃までの状況は、前年以来の鉄道熱の継続とみうる性格のものだったことが知られている。鉄道株市場が急速に投機的な色彩を強めたのは三月以降のことであって「小金を貯めた年配の男女、あらゆる種類のトレード・メン、年金生活者、専門的職業人、貿易商、地方の田紳達」あるいは「召使、下僕、執事から有爵の老嬢や教会の高僧までのすべての階層とすべての職業」にわたる多数の投資家達が、たんなる高配当の期待だけでなく、株式の転売による利得の可能性をめざして、市場に殺到し始めたのである。『エコノミスト』がいち早く注目しているように、じゅうらい証券投資の慣行をまったく持たなかったこれら中小の投資家が大量に登場し始めた点は、その資金調達源としての規模を別とすれば、イギリス資本市場にとって画期的な新事態をなすものだったといわなければならない。以前には1〜2日ですんでいた定期取引の決済に1週間を要するほどの、取引所内部における大膨張が見られたばかりでなく、取引所外部のコーヒー店その他で多数の非加盟ブローカーを交えた売買契約がとり行なわれることとなったのであって、シティにおける熱狂の異常な様相にかんする記述については、枚挙にいとまがない。しかも雑多な投資家が全国各地に登場したことから容易に推測されるように、ロンドン以外の地方証券取引所がこのブームを契機にして急激な勃興を見て、「1万ないし2万以上の人口を有するほとんどすべての町に株式ブローカーの常設機関が出現した」といわれるほどとなったのである。なかでもリヴァプール・マンチェスター・リーズ・ブリストル、さらにはグラスゴー・エディンバラ・ダブリン等の取引所における鉄道株式投資は、ロンドンにまさるともおとらぬ規模をもっていたことが確認されている。〉(185頁)
  (ここで「仮株券」というのは、鉄道建設の計画段階のもので、将来株式の払い込みを約定する手続きをしただけで発行されるもので、後に計画が法的認可を受けたあと、本株券への転換を約束したものである。しかしにも関わらず、計画がまだ政府の認可を受けられるかどうかも分からない段階で、これにプレミアがついて売買されたのである。--引用者)

  ただマルクスは〈利子率(バンク・レート)は,1844年10月16日に,やっと3%に引き上げられた〉と述べているが、上記の著書に掲載されている統計表(290頁)によるとバンクレートは1841年5月から1842年2月までは5%、同5月から1844年8月までは4%、同11月から1845年11月まで2.5%となっている。】


【29】

 /297下/〔原注〕f)ラムジ,同前(206,207ページ。)〔原注f)終わり〕/

  ①〔注解〕ジョージ・ラムジ『富の分配に関する一論』,エディンバラ,ロンドン,1836年。〉 (233頁)

 【これも【27】パラグラフにおけるラムジからの引用の典拠を示すだけなので、平易な書き下しは省略した。【27】パラグラフの注解によれば、この部分も61-63草稿から採られているということである。実は、これは先に紹介したものの続きの部分である。だから、それも見ておくことにしよう(但し、今回も、ラムジの原文などMEGAや訳者によって付けられている注の類は煩雑になり、あまりにも引用が長くなりすぎるので、省略する)。

  純利潤(利子)の率については、R 〔ラムジ〕は次のように言っている、この率は、「一部には総利潤の率により、また一部には総利潤が利子と産業利潤とに分かれる割合によって定まる。この割合は、資本の貸し手と借り手との競争によって定まる。この競争は、実現が期待される総利潤の率によって影響されはするが、これによって完全に調整されるわけではない。そして、競争がただこの原因だけによって調整されるのではないというわけは、一方では、なんら生産的に充用する目的なしに借りる人々がたくさんいるからであり、他方では、国内の貸付可能な全資本の割合は総利潤のなんらかの変動にかかわりなくその国の富とともに変動するからである。」(206、207ページ)企業の利潤は資本の純利潤によって定まるのであって、後者が前者によって定まるのではない。」(204ページ〉 (草稿集⑧429頁)

  この最後の部分で、ラムジが言っていることも注目に値する。つまり企業の利潤は利子によって定まるのであって、後者が前者によって定まるのではないというのである。企業にとっては利子は所与であって、総利潤から利子が控除されたものが、企業の利潤をなすという関係もラムジによって正確にとらえられていることが分かる。】

 (続く)

 

2019年7月21日 (日)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-2)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き第【10】パラグラフからである。


【10】

 〈/296上/とにかく,利潤の平均率は,利子を窮極的に調整する限界ultimate regulating limit〕とみなされるべきである。〉 (224頁)

 〈以上のように、とにかく利潤の平均率は、利子を究極的に調整する限界と見なされるべきです。〉

 【これはこれまでのすなわち【7】~【9】パラグラフのいわば結論である。現実には利子は機能資本家にとっては、一つの所与であり、前提として現れるが、しかし本質的には利子は総利潤の分割されたものなのだから、それは利潤によって規制される、あるいは限界づけられているわけである。】


【11】

 〈利子は平均利潤に関連づけて説明すべきだという事情は,すぐあとでもっと詳しく考察するであろう。|〉 (224頁)

 〈利子は平均利潤に関連づけて説明すべきだという事情は、すぐあとでもっと詳しく考察します。〉

 【利子は平均利潤に関連づけて説明すべきだという事情とは何を指すのであろうか。実際の産業循環の過程をみると、必ずしもそういう関連はみられない。中位の活気、繁栄、過熱、恐慌、停滞、中位の活気という循環の過程でみるなら、中位の活気の場合は、利潤率は高いが信用はまだまだ安定しており、その分、利子生み資本への需要はそれほど高くないから、利子もまだ低いままである。繁栄の状態では、利潤率は傾向的に低下しつつあるが、資本は利潤量の絶対的拡大のために蓄積を旺盛に行い、それだけ利子生み資本への需要も活発になる。そして突然の崩壊、恐慌においては利潤率は突然低下するが、しかし支払手段への需要から利子率はむしろ高騰する。停滞、利潤率は低く低調であり、利子生み資本への需要も停滞して利子率は低い状態であろう。このように利潤率と利子率とは必ずしも一方が高ければ高いなどという関係にないことは明らかなのである。しかしもちろん、ここでのマルクスの考察はこうした具体的な運動の背後にある関係であり、もっと本質的な関係なのである。そしてそうした関係としては利潤の平均率は、利子を究極的に限界づけるとみなされるべきなのである。】


【12】

 {一つの全体--利潤のような--が二人のあいだに分割されなければならない場合には,もちろんまず問題になるのは,この分割されるべきものの大きさであり,そしてこの①利潤の大きさは,利潤の平均率によって規定されているのである。}

  ①〔異文〕「利潤の大きさ」← 「利潤」〉 (224頁)

 〈一つの全体が二人のあいだに分割されなければならない場合、問題になるのは、この分割されるべきものの大きさです。そして、われわれが今問題にしている分割されるべき全体というのは利潤ですが、利潤の大きさは、利潤の平均率によって規定されているのです。〉

 【このパラグラフは全体が{ }に括られている。つまり上記の記述に関連して、論じられているが、しかし本論とはやや外れるものと考えるべきであろう。ここでは一つの全体を二人に分割しなければならないときに問題なるのは、というようにかなり一般的な問題の立て方をしている。全体を二人で分けようとするなら、その全体の大きさがまず問題になるというある意味では当たり前のことが確認されて、利潤の場合その全体は利潤の平均率によって規定されているということが確認されているわけである。これがどんな意味があるのかはもう少し展開をみてから考えるべきであろう。】


【13】

 一般的利潤率,つまりたとえば100という与えられた大きさの資本にとっての利潤の大きさを,不変なものとして,与えられたものとして前提すれば,利子の変動は,明らかに,利潤のうちの①機能資本家の手に残る部分に反比例する。彼が借入資本で仕事をするかぎりは,そうである。言い換えれば,これら二つの種類の資本家が剰余価値または剰余生産物(不払労働が物質化している生産物)を自分たちのあいだで分割する比率に反比例する。そして,分割されるべき利潤の大きさを規定する事情は,この二つの種類の資本家のあいだへの利潤の分割を規定する事情とは非常に違うのであって,しばしばまったく反対の方向に作用するのである。

  ① 〔異文〕「産[業]〔indus[triellen]〕」という書きかけが消されている。〉 (224-225頁)

 〈一般的利潤率を不変なものとして、与えられたものとして前提しましょう。例えば100という与えられた資本にとっての利潤の大きさを、不変なもの、与えられたものと前提すれば、利子の変動は、明らかに、利潤のうちの機能資本家の手に残る部分に反比例します。彼が借入資本で仕事をするかぎりではそうでしょう。言い換えれば、これらの二つの種類の資本家が剰余価値または剰余生産物(不払労働が物質化している生産物)を自分たちのあいだで分割する比率に反比例します。そして分割されるべき利潤の大きさを規定する事情は、この二つの種類の資本家のあいだへの利潤の分割を規定する事情とは非常に違うのです。むしろそれはしばしばまったく反対の方向に作用するのです。〉

 【ここでは分割されるべき総利潤の大きさを規定する事情と、それを二つの種類の資本家--機能資本家と貨幣資本家へに分割する事情とは非常に違うことが確認されている。あるいはそれはまったく反対の方向に作用するとも述べられている。つまり総利潤が高くなる事情、つまり繁栄期において、では利子率は高いかというと必ずしもそうではない。むしろそうした場合は資本の循環は順調であり、貨幣資本の還流も安定しているから、機能資本家は追加的な貨幣資本の必要をそれほど感じないために、利子生み資本への需要もそれほど増大しないので利子率はむしろ低いのである。この場合、分割されるべき全体である総利潤は高いが、しかしそれは利子として分割されるものを高くするとは必ずしもいえず、反対に作用するといえるだろう。】


【14】

 〈①Nb.この2)が進むなかで明らかになってくるのは,やはり,利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって,この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい,ということだ。§1からこの点に〔dazu〕移行するために必要なのは,--以前に行なった展開のあとでは平均利潤率と平均利潤とが与えられているのだから〔--〕さしあたり利子を,この〔平均〕利潤のうちの任意の, それ以上詳しくは規定されていない部分と等しいと置くこと,等しいと前提することだけである。〔「Nb」として書かれた部分終わり〕

  ①〔異文〕このパラグラフは,左の欄外につけられた弓括弧〔{〕によって特別に強調されている。
  ②〔異文〕「そのさい」という書きかけが消されている。
  ③〔異文〕「等しいと」--書き加えられている。〉 (225-226頁)

 〈ここで、この叙述の展開で気づいたことをメモ書きしておくと、この2)が進むなかで明らかになってくるのは、やはり、利潤の分割の諸法則を研究する前にまずもって、この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいいということです。1)からこの点に移行するために必要なのは、以前行った展開のあとでは平均利潤率と平均利潤とは与えられているのですから、さしあたり利子を、この平均利潤のうちの任意の、それ以上は詳しく規定されていない部分と等しいと置くこと、等しいと前提することだけです。〉

 【このパラグラフは「Nb.」という記号から始まっているが、この「Nb.」については、大谷氏は訳者注で次のように書いている。

 〈この「Nb.」で始まる1パラグラフは,エンゲルス版では,「原稿にはここに次のような覚え書がある。--」という前置きとともに,脚注に収められている。
 なお草稿では,「Nb.」を除いてこのパラグラフは二つの文から成っているが,第1の文の左側に,インクでやや弓なりの縦線が引かれており,さらにそれに追加するように,第2の文の左側にも同様の縦線がつけられている。「Nb.」という文字は,前者の縦線の左側の上部に書かれている。こうして,このパラグラフの全体が前後から区別される「Nb.」の部分となっていることが示されている。この縦線の状態から見ると,「Nb.」として第1の文を書いたのち,すぐにそれに第2の文をつけ加えたのかもしれない。〉 (225頁)

 こうした原稿の状況からみても、このパラグラフが全体の続きとは区別されるものであり、マルクス自身の叙述上の覚書のようなものであろう。
 つまりマルクスは、これまでの展開から明らかなように、まず〈利潤の分割の諸法則を研究する〉という意図のもとに叙述を進めてきたわけである。しかしここにきて、その前に、〈この量的な分割が質的な分割になる次第を展開したほうがいい〉と思ったということであろう。
 もう一つの覚書としては、前の「1)」(21章該当部分)から、この点--これははっきりとはしないが、恐らく〈量的な分割が質的な分割になる次第を展開〉する点ということであろうか--に移行するために必要なのは、利子を平均利潤のうちの任意の部分として前提することだけだと述べている。つまり利子をそうした平均利潤の任意の部分として前提するだけで、そうした量的分割が質的分割になる次第を展開したうえで、利潤の分割の諸法則を次ぎに研究するという順序の方がよいだろうというのが、ここでのマルクスの覚書の内容ではないかと思える。】


【15】

 現代産業がそのなかで運動する回転循環--沈静状態,活気増大,繁栄,過剰生産,恐慌,停滞,沈静,等々〔state of quiescence,growing animation,prosperity,overproduction,crisis,stagnation,quiescence etc〕--(この循環の詳しい分析はわれわれの考察の圏外にある)を考察してみれば,そこで見いだされることは,利子の低い状態はたいていは繁栄または特別利潤の時期に対応し,①利子の上昇は②繁栄とその転換との分かれ目に対応するが,極度の高[434]利にもなる利子の最高限は恐慌に対応するということであろう。b)③「1843年の夏からは明瞭な繁栄が始まった。1842年の春には4[1/4]%だった利子率が,1843年の||297上|春と夏には2%に下がり」a),9月には1[1/2]%にさえ下がった。b)やがて④1847年の恐慌中には8%,そしてそれ以上に上がった。/

  ①〔異文〕「他方で〔während〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「〔……の〕瀬戸際で〔auf der Kippe〕」という書きかけが消されている。
  ③〔注解〕この引用は,トゥクでは次のようになっている。--「同様に,1842年の春には4[1/2]%だった利子率が1843年の春と夏にはほぼ2%にまで急速に下がり……」
  ④〔注解〕「1847年の恐慌」--40年代半ばに不作が生じたのち,イギリスの食糧輸入は増大し,イングランド銀行からの金流出が始まった。1847年4月には貨幣市場でのパニックが生じた。同時に,穀物市場の充溢が貨幣と信用とへの大きな需要を引き起こした。1847年〔MEGAは「1846年」と誤記〕10月には恐慌は頂点に達した。1844年のピール銀行法の停止によって,イングランド銀行は行動のための新たな余地を得たので,恐慌の本来の原因である過剰生産は残されたままだったが,貨幣恐慌は急速に克服されることができた。〉 (226-227頁)

 〈現代の産業がそのなかで運動する回転循環--沈静状態、活気増大、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞、沈静、等々(この循環の詳しい分析は、すでに述べましたが、私たちの考察の圏外にあります)--を考えてみますと、そこで見いだされることは、利子の低い状態はたいてい繁栄または特別利潤の時期に対応し、利子の上昇は繁栄とその転換との分かれ目に対応しますが、極度の高利になる利子の最高限は恐慌に対応するということです。「1843年の夏からは明瞭な繁栄が始まった。1842年の春には4[1/4]%だった利子率が,1843年の春と夏には2%に下がり」、9月には1[1/2]にさえ下がりましたし、やがて1847年の恐慌中には8%、そしてそれ以上に上がりました。〉

 【ここでは突然、産業循環の詳しい考察は圏外にあるとしながらも、産業循環と利子率の対応が考察されている。利子の低い状態は繁栄または特別利潤の時期としている。繁栄はよいとしても「特別利潤の時期」とは何であろうか。これはあたらしい生産力を導入した資本が、その新技術が一般化するまでの間に手にする特別な利潤のことであろう。つまり新しい生産方法がどんどん導入されて社会的な生産が発展していくような状況を意味している。そうした時代には資本の循環も順調で、貸付資本への需要も低いということである。利子が上昇してくるのは、繁栄とその転換との分かれ目に対応するとされている。こうした生産力の発展と拡大は他方で利潤率を傾向的に低下させ、やがて過剰生産へと導く、しかし資本は利潤率の低下を利潤量の絶対的拡大によって補うために、一層の蓄積と拡大を推し進める、それは一方では貨幣資本への需要を増大させ、利子率の上昇を招く、他方で労働力を生産過程に吸収して、その枯渇を招くまでに死に物狂いの拡大を行うように競争の笞が打たれる、そしてその行き着く先が奈落の底であり、恐慌なのである。恐慌時には信用も動揺あるいは崩壊し支払手段への需要が極度に高まり、利子も最高限まで高騰する、等々である。マルクスは1847年の恐慌への過程がそれを示しているとして、トゥクから引用している。こうした恐慌時の支払手段への激しい需要については、1847年恐慌ではないが1825年恐慌時の状況について第28章の解読のなかで詳しい紹介をしたことがある。】


【16】

 /296下/〔原注〕b)「不況〔Pressure〕直後の第1の時期には,投機がなくて貨幣は豊富である。第2の時期には貨幣は豊富で投機も盛んである。第3の時期には投機は衰え始めて貨幣が求められる。第4の時期には貨幣が払底して不況が始まる。」(W.ギルバト〔『銀行実務論』,第5版,ロンドン,1849年〕,第1巻,149ページ。)〔原注b)終わり〕|

  ① 〔注解〕この引用は,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートIII(MEGAIV/7,S.137.6-10)から取られている。
  ② 〔訂正〕「ギルバト」--草稿では「ギルバト,同前」と書かれている。〉 (227頁)

 【これは先のパラグラフにおいて、産業循環と利子の関連を見たあとに付けられた原注である。ギルバトからの抜粋だけなので平易な書き直しは省略した。ギルバトは産業循環を四つの時期に区分している。それをマルクスの産業循環と対応させてみると、第1の時期--活気増大、第2の時期--繁栄、過剰生産、第3の時期--恐慌、第4の時期--沈静状態、であろうか。】


【17】

 |297下|〔原注〕a)トゥクはこの低落を「その前の数年間は有利な投資部面がなかったということの必然的な随伴現象としての過剰資本の蓄積によって,蓄蔵貨幣の放出によって,また商業上の見通しにおける信頼の回復によって」説明している。(①『物価史,1839年から1847年まで』,ロンドン,1848年,54ページ〔藤塚知義訳『物価史』,第4巻,東洋経済新報社,1981年,64ページ〕。)〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕トマス・トゥクの『物価史』は,1838年から1857年にかけて刊行された六つの巻からなっている。第1巻と第2巻は,『1793年から1837年にいたる物価および通貨流通状態の歴史… …』,全2巻,ロンドン,1838年,である。第3巻のタイトルは『1838年および1839年における物価および通貨流通状態の歴史,あわせて,穀物法についての,およびわが国の銀行制度にかんして提起されている改革案の若干についての,評言を付す。1793年から1837年に至る物価の歴史の続編をなす』,ロンドン,1840年,である。第4巻は『1839年から1847年に至る(両年を含む)物価および通貨流通状態の歴史,通貨問題の一般的論評およびヴィクトリア治世第7・8年法律第32号の作用についての評言を付す。1793年から1839年にいたる物価の歴史の続編をなす』,ロンドン,1848年,となっている。最後に,1857年に第5巻および第6巻が,『1848年から1856年に至る9年間における物価および通貨流通状態の歴史… … 』,全2巻,というタイトルのもとで刊行されたが,この2巻の著者は,トマス・トゥクとウィリアム・ニューマーチである。〉 (227頁)

 〈トゥクは1847年の春と夏の利子の2%への低下を「その前の数年間は有利な投資部面がなかったということの必然的な随伴現象としての過剰資本の蓄積によって,蓄蔵貨幣の放出によって,また商業上の見通しにおける信頼の回復によって」と説明しています。〉

 【これも原注であるが、トゥクが1847年の春と夏の利子の低下を何によって説明しているかをただ紹介しているだけである。それに対するマルクスの評価は何もない。ここでトゥクが〈有利な投資部面がなかったということの必然的な随伴現象としての過剰資本の蓄積〉と言っているのは、恐らくいわゆるプレトラを指しているのであろう。だからこの春から夏の時期というのは産業循環でいえば繁栄と過剰生産の時期である。利潤率の傾向的低下が一定程度進むことによってもはや小資本や新芽の資本がその低下した利潤率では生産を維持できず、破綻するか、投資先を失う。だからそれらはただの貨幣資本として遊休し、その一部は投機に走り、あるいは大資本への融通という形で吸収されるのだが、しかし過剰な貨幣資本(いわゆるプレトラ)の存在は、利子率を押し下げることになる。だからこの時点では、まだ過剰生産そのものは潜在化しており、崩落は一部の小資本や新芽の資本に留まっていて、信用はむしろしっかりしているように見えるし、利潤率の低下を利潤量の増大によって補おうとする大資本による強蓄積が激しい競争によって行われる時期でもある。だから〈商業上の見通しにおける信頼の回復〉も依然としてしっかりしているように見える時期でもあるのである。】


【18】

 /297下/〔原注〕b)①ギルバト,同前,第1巻,166ページ。〔原注b)終わり〕/

  ①〔注解〕ジェイムズ・ウィリアム・ギルバト『銀行実務論』,第5版,全2巻,第1巻,ロンドン,1849年。〉  (227-228頁)

【この原注はマルクスが〈9月には1[1/2]%にさえ下がった〉と書いた部分に付けられたものである。つまりその数字の根拠としてギルバトの著書の叙述をあげているだけである。】


【19】

 〈/297上/(もちろん,他面では,低い利子が停滞といっしょになり,利子の上昇(適度ではあるが)が活気の増大〔growing animation〕といっしょになるということもありうる。〉 (228頁)

 〈もちろん、他面では、低い利子が停滞といっしょになり、利子の適度の上昇が活気の増大といっしょになるということもありえます。〉

 【このパラグラフと次のパラグラフは全体が丸カッコに括られている。どちらも【15】パラグラフに関連して述べられているものであろう。つまり【15】パラグラフでは〈利子の低い状態はたいていは繁栄または特別利潤の時期に対応〉すると指摘されていたが、しかし低い利子ということだけなら、それは停滞時においてもそうであることを補足しているわけである。また〈利子の上昇は繁栄とその転換との分かれ目に対応する〉と書いているが、しかし利子の適度の上昇の兆しはすでに活気増大の時期からはじまると述べているわけである。】


【20】

 (利子の平均率を見いだすためには,1)①回転循環のなかでの利子率の諸変動をつうじてその平均を②計算しなければならない。2)資本がかなり長い期間にわたって前貸される投資での利子率を計算しなければならない。)

  ①〔異文〕「この時期〔Periode〕全体のなかでの」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「計算し〔berechnen〕」← 「考察し〔betrachten〕」〉 (228頁)

 〈利子の平均率を見いだすためには、1)回転循環(産業循環)のなかでの利子率の諸変動をつうじてその平均を計算しなければなりません。また2)資本がかなり長い期間にわたって前貸しされる投資での利子率を計算しなければなりません。〉

 【ここでは利子率の平均率を計算するという場合は、産業循環に応じて変動する利子率の変動をつうじてその平均を計算すべきということ、またもう一つはかなり長い期間にわたって前貸しされる投資(例えば鉄道投資)での利子率を計算すべきとしている。産業循環の一回転期間(それはほぼ10年とされているが)の平均利子率というのは、ある意味では資本主義的生産の発展程度による利子率の変化とでもいうべきものかもしれない。産業循環はただ同じサイクルを繰り返すのではなく、一循環ごとに資本の生産力を高度化し発展させる。次の循環はその発展したものをベースに開始されるわけである。だから一つの産業循環の平均の利子率と次の産業循環の平均の利子率は資本主義的発展による利子率の変化を示すと考えられるわけである。もう一つの平均利子率はある意味では現実的なものである。長い期間を要する前貸資本の場合の利子率は平均利子率を示しているとマルクスは考えているわけである。これも全体が丸カッコに括られていることは、いわばついでに関連して論じたという程度の問題なのであろう。】


【21】

 〈利子率が極度の高さに達するのは恐慌中のことであって,そのときには支払いをするためにはどんなに高くついても〔coúte que coúte〕借りなければならない。(この形態についてはもっとあとで。)c)/〉 (228頁)

 〈利子率が極度の高さに達するのは恐慌中のことです。そのときには支払をするためにはどんなに高くついても借りなければならなくなるからです。しかしこの形態についてはもっとあとで詳しく見ます(第28章該当個所で論じられています)。〉

 【このパラグラフも【15】パラグラフの叙述の延長のようなものである。つまり利子率が高騰するのは恐慌時だということである。そしてその理由は支払手段の枯渇によるということである。諸支払の時期(満期)が迫ってきているのに、前貸し資本は還流せず(商品は売れず、商品資本の実現は停滞するから、それは貨幣資本としても還流してこない)、よって支払手段に窮する諸資本は、ただ清水を求めて鳴く鹿のごとく、銀行に貸付を求めるわけである。それがために利子は極端まで高くなるわけである。当時のイングランド銀行はそうした貸付に応じるには銀行法による足枷を取っ払う必要があり、銀行法は一時的に停止されて、ようやく貨幣恐慌は乗り切られたわけである。こうした事態は第28章該当個所でフラートン批判のなかで展開されている。】


【22】

 /297下/〔原注〕c)これは同時に,というのは利子の上昇は有価証券価格の下落に対応するからであるが,①そのような利子生み証券を捨て値で手に入れる絶好の機会なのであって,このような証券は,通例の経過では,利子率がふたたび下がればすぐにまたその平均の高さ(およびそれ以上)に達するに違いないのである。これらの恐慌は,銀行業者たちが,「自分たちの私的証券を減価させて利子率を最小限にまで縮小する崩落を先取りして,自分たちの資本を減価した株式に再投下する」ことを可能にする(②『為替の理論1844年の銀行特許法,云々』,ロンドン,1864年,100ページ)。1847年の恐慌のあいだに,「ある銀行家の古くからの顧客が,20万ポンド・スターリングの価値ある証券を担保にした貸付を拒絶された。彼が自分の支払停止を通告するために立ち去ろうとしたとき,銀行家は彼に,そんな処置をとる必要はない,このさいのことだからその証券を15万ポンド・スターリングで買ってもよい,と言った。」(同前,80ページ。)〔原注c)終わり〕/

  ①〔異文〕「安値で」という書きかけが消されている。
  ②〔注解〕この書の著者はヘンリー・ロイである。〉 (228-229頁)

 〈こうした恐慌時の利子率の上昇は、有価証券の価格の下落をもたらすから、そのような利子生み証券を捨て値で手に入れる絶好の機会なのであって、このような証券は、通例の経過では、利子率が再び下がればまたその平均の高さに、あるいはそれ以上に達するに違いないのです。だからこれらの恐慌は、銀行業者たちが「自分たちの私的証券を減価させて利子率を最小限にまで縮小する崩落を先取りして,自分たちの資本を減価した株式に再投下する」ことを可能にします。1847年の恐慌のあいだに、「ある銀行家の古くからの顧客が,20万ポンド・スターリングの価値ある証券を担保にした貸付を拒絶された。彼が自分の支払停止を通告するために立ち去ろうとしたとき,銀行家は彼に,そんな処置をとる必要はない,このさいのことだからその証券を15万ポンド・スターリングで買ってもよい,と言った」のだそうです。〉

 【このパラグラフは【21】パラグラフの恐慌中に利子率が高騰するのは、支払手段への需要が高まるからだという一文につけられた原注である。ここではそうした利子率の高騰は、他方で有価証券の価格の下落を招くので、それらを捨て値で買い取る絶好の機会になるということ、そのことによって銀行業者は大儲けをすることが指摘されている。ただマルクスが引用している『為替の理論。1844年の銀行特許法、云々』からの抜粋はよくわからない。まず〈自分たちの私的証券を減価させて利子率を最小限にまで縮小する崩落を先取りして〉という一文が不可解である。何をいいたいのかよくわからないし、果たして正しいことを言っているのかもわからない。そもそも崩落時には利子率が高騰するのであって、利子率を最小限にまで縮小するなどというのはおかしいし、私的証券を減価させてそれを行うなどということも一体何をいいたいのかもわからない。マルクスの引用が正確でないのか、あるいはその著書の記述そのものが間違っているのか、よく分からない。MEGAも、大谷氏も何も注記していない。だがエンゲルスはこの一文を編集段階で削除したことが訳者注では書かれている。恐らくエンゲルスも意味不明ということで、編集ではこの原注の前半部分を本文にしたのだが、この引用部分そのものは削除したのであろう。その後半部分の引用はよく分かるのであるが。】

  (続く)

2019年7月17日 (水)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読(22-1)

第3部第5篇第22章「 利潤の分割  利子率  利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読

 

 今回からエンゲルス版第22章「利潤の分割 利子率 利子率の「自然的な」率」の草稿の段落ごとの解読を行う。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。大谷氏による翻訳文を利用させていただき、マルクスの草稿をパラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示す。そしてその上でその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆく。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。


【1】

 〈[431]/295上/2)利潤の分割。利子率。利子の自然的な率。〉 (219頁)

  【これはマルクス自身による表題なので、特に平易な書き下しは不要であろう。その内容については特に言及することはないが、この章が終わってまた何か書くことがあれば書くことにしよう。】


【2】

 {この§の対象(ならびに,のちに,信用について言うべきすべてのこと)は,ここではけっして,細目にわたって取り扱うことはできない。明らかなのは,1)貸し手と借り手とのあいだの競争およびその結果としての貨幣市場の短期的変動〔Oscillationen〕は,われわれの考察範囲の外にあるということ,2)産業循環〔industrial cycle〕のあいだに利子率が通る円環〔Cirkel〕は,それを叙述するためにはこの〔産業〕循環〔cycle〕の叙述を前提するのであるが,これもまた同じくここではすることができないということ,3)世界市場での利子の大なり小なりの大きな均等化等々も,同様であるということである。われわれがここでしなければならないのは,ただ,一方で利子生み資本の姿態を展開することと,〔他方で〕利潤にたいする利子の自立化を展開することだけである。}

  ①〔異文〕「貸し手」Verleiher←Leiher
  ②〔異文〕「これ〔was〕」← 「この叙述〔die〕」〉 (219-220頁)

 〈この部分で、そして後に信用について言うべきことについても同じですが、私たちは決して細目にわたって取り扱うことはできません。明らかに、次のような問題についても私たちの考察の範囲の外にあります。1)貸し手と借り手とのあいだの競争、およびその結果としての貨幣市場の短期的変動、2)産業循環のあいだに利子率が通る円環、これを述べるためには産業循環の叙述を前提しなければならないから、3)世界市場での利子の大なり小なりの大きな均等化。だから私たちがここでしなければならないのは、ただ一方で利子生み資本の姿態を展開することと、他方で利潤にたいする利子の自立化を展開することだけです。〉

 【このパラグラフ全体が{  }で括られており、マルクスが「§」を考察するための前提、あるいは問題の限定化が述べられている。では「§」は一体何を指しているのであろうか。これは「セクションの記号」との説明があるが、やはり、この「2)」と番号が打たれた部分を指していると考えるべきであろう。そしてマルクスは、ここでの課題を次のように述べている。

 〈われわれがここでしなければならないのは,ただ,一方で利子生み資本の姿態を展開することと,〔他方で〕利潤にたいする利子の自立化を展開することだけである。〉 (220頁)

  マルクスがこうした考察の前提として問題を限定しているのだが、まずそれを次のように述べている。

 〈この§の対象(ならびに,のちに,信用について言うべきすべてのこと)は,ここではけっして,細目にわたって取り扱うことはできない。〉 (219頁)

  つまり利潤の分割や利子率、あるいは利子の自然率といった問題は細目にわたって取り扱うことはできないというのである。同時にマルクスは信用についていうべきことも、やはり細目にわたって取り扱えないとしている。これは実際、第25章該当部分の草稿の冒頭でマルクスが問題を限定して論じているのに対応しているといえる(それについては当該部分の段落ごとの解読で取り上げる)。そしてマルクスは、次の三項目についても、やはりわれわれの考察の範囲の外にあると述べている。すなわち……

  (1)〈貸し手と借り手とのあいだの競争およびその結果としての貨幣市場の短期的変動〔Oscillationen 〕は,われわれの考察範囲の外にある〉 (219頁)
  (2)〈産業循環〔industrial cycle〕のあいだに利子率が通る円環〔Cirkel〕は,それを叙述するためにはこの〔産業〕循環〔cycle〕の叙述を前提するのであるが,これもまた同じくここではすることができない〉 (同)
  (3)〈世界市場での利子の大なり小なりの大きな均等化等々も,同様である〉 (同)

  このようにマルクスは問題を限定して論じているのであるが、総じて宇野はマルクスがこのように問題を限定して論じているものに対して、そうした限定を無視して、やれ産業循環を論じていないからどうのこうのと難癖をつけるのが彼の「批評」なるものの常套手段なのである。】


【3】

 利子は,利潤のうちの,(われわれのこれまでの前提によれば,)機能資本家から貨幣資本家〔manied capitalist〕に支払われるべき一部分でしかないのだから,利子の最高限界Maximumlimit〕として現われるのは利潤そのものであって,その場合には機能資本家のものになる部分はゼロに等しい。(利子が実際に〔faktisch〕利潤よりも大きく,したがってまた利潤から支払われることもできないような)個々の場合を別にすれば,もしかすると,利潤のうち監督賃金〔wages of superintendence〕に分解できるものとしてもっとあとで展開されるべき部分を利潤全体から引き去ったものを,あるいは利子の最高限界〔Maxlmumlimit〕とみなすことができるかもしれない。ところで,利子の最低限の率Minimumrate〕は全然規定することのできないものであって,利子はどんな低さにでも下がることができる。とはいえ,つねにやがてまた反作用する事情が現われて,利子をふたたびこの最低の水準よりも高く引き上げる。

  ①〔異文〕「機能資本家」← 「生産的資本家」
  ②〔異文〕「監督賃金に分解できる」der in wages of superintendence auflösbar←der sich in wages of superintendence aufgelöst〉 (220-221頁)

 〈利子は、私たちのこれまでの前提によれば、機能資本家から貨幣資本家に支払われるべき利潤の一部分でしかないのですから、利子の最高限界は利潤そのものです。そしてその場合には機能資本家のものになる部分はゼロに等しくなります。利子が実際には利潤よりも大きく、したがって利潤から支払われることもできないような個々の場合を別にすると、もしかすると、利潤のうち監督賃金に分解できるものとしてもっとあとで展開されるべき部分を利潤全体から引き去ったものを、あるいは利子の最高限界とみなすことかできるかもしれません。
 ところが、利子の最低の率は全然規定することはできません。利子はどんな低さにも下がることはできるからです。とはいっても、つねにやがてはまた反作用が生じる事情が現れて、利子をふたたびこの最低の水準よりも高く引き上げることになります。〉

 【ここでは利子の最高限界と最低限界を明らかにしている。最高は利潤全部、最低はゼロであるが、最近ではマイナス金利なるものもあるからゼロとはいい得ないのかもしれない。
 マルクスはここで興味深い指摘をしている。利子が最高限界にまで達したなら、機能資本家の利得はゼロになってしまう。それならそもそも彼らが利子生み資本を借りてそれを機能させる意味がない。だからマルクスは、利子の最高限界を、機能資本家の利潤がゼロになるところではなく、本来は利潤の一部が分解したものに過ぎないのに、現象的には賃金として現れる、監督賃金を差し引いたものが利子の最高限界と見なすことができるかもしれないと述べている。
 つまりここでは明らかに、マルクスは機能資本家(経営者あるいはマネージャー等々)に支払われる監督賃金は賃金の形態をとってはいるが、その原資は利潤であるという認識を示しているわけである。これが後の監督賃金の説明と果たして整合するのかどうか、それが問題である。しかしそれは少し先走りすぎるので、ここでは注意を促すだけにしておこう。】


【4】

 〈①「資本の使用にたいして支払われる金額とこの資本との関係は,貨幣で計った利子の率を[432]表わしている。」(『エコノミスト』,1853年1月22日。)

  ①〔注解〕この引用は次のものから取られている。--「利子率と貴金属の過剰ないし欠乏との関係」。所収:『エコノミスト』,ロンドン,第491号。1853年1月22日。90ページ。「貸付資本を表わし移転するのに必要な貨幣額が大きくなれば,それに比例して,貸付資本の使用にたいして支払われる利子を表わす貨幣額が大きくなるであろう。そこで,貨幣で測った利子の率を表わす,この両者の関係は……」〉 (221頁)

 【これは引用だけなので、平易な解説は省略した。次のパラグラフも引用だけだが、しかし二つとも原注ではなく本文である。マルクスは本文として二つの引用をしているわけである。ここではマルクスは利子率の規定として『エコノミスト』の抜粋をもってしているわけだが、それは利子率については当時においても少なくとも直接的な表象においてその内容が捉えられているものとして紹介しているわけである。すでに利子率については、前の章(「1)」)のわれわれのパラグラフでは【68】で次のように明らかにされていた。

 〈資本としての資本が自分を表明するのは,その価値増殖によってである。その価値増殖の程度は,それが資本として(量的に)実現される程度を表現している。この剰余価値または利潤--その率または高さ--は,ただ利潤を前貸資本の価値と比較することによってのみ測ることができる。したがってまた,利子生み資本の価値増殖の大小も,利子の高さ(総利潤のうちからその資本のものになる部分)を,前貸資本の価値と比較することによってのみ,測ることができる。〉 (205頁)

 つまり、こうした利子率の概念そのものは通常の経済人にとってもつかまれていたということである。】


【5】

 〈①利子率は,1)利潤率によって,2)総利潤が貸し手と借り手とのあいだで分割される割合によって,定まる。」(同前。)「自分が借りたものの使用にたいして利子として支払うものは,借りたもので生産することのできる利潤の一部分なのだから,この利子はいつでもそれらの利潤によって左右されるよりほかはないのである。」a)/

  ①〔注解〕この引用は『エコノミスト』では次のようになっている。--「…… 通常の産業における利子率…… 。これは,二つの事情によって定まる。すなわち,第1に,利潤率によって,第2に,総利潤が貸し手と借り手とのあいだで分割される割合によって。」--カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3,5,S.1863.2-4)から取られている。
  ②〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3.6,S.2125.16-18)から取られている。〉 (221頁)

 【これも引用だけになっているが、しかし利子率が明確に捉えられている。しかもそれが総利潤の分割されたものだということも認識されており、よってまた利子は利潤によって左右されるとも明確に語られている。マルクスはこうした当時の雑誌の一文を引用することによって、こうした認識は一般の経済人によっても捉えられていたことを示しているわけである。これらは61-63草稿からとられているということだから、その原文を見ておくことにしよう(ただしMEGAの注解等については煩雑になるので省略した)。

 利子率について『エコノミスト』は次のように述べている。
 「利子率は、1、利潤率によって、2、総利潤が貸し手と借り手とのあいだに分けられる割合によって、定まる。」(『エコノミスト』、同前。)『エコノミスト』は、すべてのイギりスの経済学者たちと同じように、当然、利潤を総剰余価値-地代と等置する。利子はただそれの一部分でしかない。「貴金属の多寡、現行の一般的物価水準の高低は、他のあらゆる種類の交換を行なう場合と同様に、ただ、借り手と貸し手とのあいだの交換を行なうのに必要な貨幣量の多少を決定するだけである。……相違は、ただ、貸付けられた資本を代表し引き渡すのに、より大きな額の貨幣が必要とされるということだけである。……資本の使用にたいして支払われる額と資本との関係は貨幣で計られた利子率を表わす。」(89/90ページ)〉 (草稿集⑧544頁)

 これをみると、先の【4】パラグラフの引用も、MEGAの注記はなかったが、ここからとられていることがわかる。続く引用の原文は、すでに「1)」の【62】パラグラフに関連して紹介したので、それをそのまま再度紹介しておこう。

  利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものはその借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オランダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなわちその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)

  ①〔注解〕以下、四つのパラグラフでの強調はマルクスによる。
  ⑤〔訳注〕「その借り入れるものが生み出すことのできる利潤の一部分」--|強調は二重の下線による。
  ⑥〔訂正〕「(50ページ。)」--手稿では「(50、51ページ。)」となっている。
  ⑦〔注解〕以下の三つの文は、マッシーの原文では次のようになっている。「なぜイングランドでは利子は100年前には8%で、現在は4%でしかないのか、また、なぜオランダでは利子は、この期間中にイングランドで利子が低下したのとほぼ同じ比率で低下したのか、と問われれば、その答えはこうである。すなわち、商人たちと事業家たちは、一般に……、その当時は、彼らが現在得ている利潤の倍儲けていたからである、と。
 あるいは、なぜ利子は、オランダでは3%フランスドイツおよびポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは7、8および9%、トルコでは10-12%であって、すべての交易国において同一でないのか、と関われれば、その答えはこうである。」〉 (草稿集⑨363-365頁)】


【6】

 〈|295下|〔原注〕a)マッシー,同前。(49ページ。)〔原注a)終わり〕|〉 (221頁)

 【これは上記の引用がマッシーの『自然的利子率を支配する諸原因に関する一論。この命題に関するサー・W・ペティおよびロック氏の意見の検討』ロンドン、1750年からの抜粋であることを示している。但しこの著書は匿名で書かれている。】


【7】

 /295上/はじめにまず,総利潤と,そのうちの利子として貨幣資本家〔monied Capitalist〕に支払われるべき部分とのあいだに,ある固定した割合〔Proportion〕があるものと仮定してみよう。この仮定のもとでは,明らかに,利子は総利潤につれて上がり下がりするであろう。そして,総利潤は平均利潤率(とこの平均利潤率の変動と)によって規定されている。たとえば,平均利潤率が20%で利子が利潤の1/4ならば,〔利子率は〕5%であろう。平均利潤率が16%ならば利子は4%であろう,等々。(第1の場合に利子が8%に上がることもありうるであろうが,この場合にもやはり産業資本家は,〔利潤〕率が16%で利子が4%の場合と同じ利潤,すなわち12p./c.をあげるであろう。もし利子が6%か7%に上がれば,彼はやはり,平均利潤率が16%で利子が4%であるような場合よりも,利潤のより大きい部分を確保するであろう。){もし利子が平均利潤の不変の部分に等しいならば,その場合には,一般的利潤率が高ければ高いほど,総利潤と利子との||296上|絶対的差額はそれだけ大きく,したがって,総利潤のうちから機能資本家のものになる部分もそれだけ大きいということになり,また逆の場合は逆になるであろう。10の1/5は2であり,総利潤と利子を引いたのちの利潤との差額は8である。20の1/5は4であり,差額は20-4=16である。25の1/5は5で,差額は25-5=20である。30の1/5は6で,差額は30-6=24である。35の1/5は7で,差額は35-7=28である。4%,5%,6%,7%といういろいろに違った利子率が,ここではつねに総利潤のただ1/5だけを,すなわち20%だけを表わすであろう。利潤率がいろいろに違えば,いろいろに違った利子率総利潤の同じ可除部分または総利潤からの同じ百分比的分けまえを表わすことができるのである。利子の割合がこのように不変な場合には,産業利潤(総利潤と利子との差額)は,一般的利潤率が高ければ高いほどますます大きくなり,逆ならば逆であろう。}

  ①〔異文〕ここに,「16%で利子が総利潤の%ならば,利子は3%であろう。平均利潤が20%であれば,」と書いたのち,消している。
  ②〔異文〕ここに「)」と書いたのち,消している。
  ③〔異文〕「もし分母が同じままであれば」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「20%」という書きかけが消されている。
  ⑤〔異文〕「利子の」--書き加えられている。〉 (222-223頁)

 〈まず最初は、総利潤とそのうち利子として貨幣資本家に支払われるべき部分とのあいだに、ある固定した割合があるものと仮定しましょう。この仮定のもとでは、明らかに、利子は総利潤につれて上がり下がりします。総利潤は平均利潤率とその変動に規定されています。例えば平均利潤率が20%で利子がその1/4ならば利子率は5%です。平均利潤率が16%ならば利子は4%でしょう、等々。(第1の場合に利子が8%に上がることもありうるでしょうが、その場合は、産業資本家は、平均利潤率が16%と利子が4%とした場合と同じ12%の産業利潤率をあげます。しかしその場合は、われわれの仮定はなくなり、利子は利潤の2/3になります。同じように、もし利子が6%か7%に上がれば、産業資本家はそれぞれ14%、13%の産業利潤率をあげ、これは平均利潤率が16%と利子が4%とした場合の産業利潤率12%よりも大きく、平均利潤のより大きい部分を確保することなります。){もし利子が平均利潤に対して不変の割合であるならば、一般利潤率が高ければ高いほど、総利潤と利子との絶対的な差額はそれだけ大きく、したがって、総利潤のうちから機能資本家のものになる部分もそれだけ大きくなるということになります。逆の場合は逆になります。例えば今その不変の割合を1/5としますと、10の1/5は2ですから、総利潤と利子を引いたのちの利潤との差額は8になります。同じように20の1/5は4であり、差額は20-4=16です。25の1/5は5で、差額は25-5=20です。30の1/5は6で、差額は30-6=24です。35の1/5は7で、差額は35-7=28です。2%、4%、5%、6%、7%といういろいろに違った利子率が、ここではつねに総利潤の1/5だけを、つまり20%だけを表します。利潤率がいろいろに違えば、いろいろ違った利子率が総利潤の同じ加除部分または総利潤からの同じ百分比的分け前を表すことができるのです。利子の割合がこのように不変な場合には、産業利潤(総利潤と利子との差額)は、一般利潤率が高ければ高いほどますます大きくなり、逆ならば逆になります。}〉

 【このパラグラフは数字がごちゃごちゃ出てきてややこしいので、少し補足しながら平易な解読を試みた。
 マルクスは突然ここから総利潤と利子とその差額(産業利潤)の量的分析を開始している。この背景には、後に展開されるであろう、総利潤の利子と産業利潤とへの量的分割が質的分割に転化するという認識がマルクスにあるからである。つまりこれまでの考察では質的な考察のあとに量的考察が来たが、今回はそれが逆転して展開されるわけである。
 それではその内容について少し吟味してみよう。
 まず最初にマルクスは総利潤と利子との固定した割合(1/4)を仮定する。その場合は、利子率は利潤率の上下につれて上下する。利潤率が20%なら利子率は5%。16%なら4%、等々。もちろん、利子が総利潤の固定した割合をなし、後者の増減につれて増減するなどいうことはない。むしろ利子は産業資本にとっては所与であり、彼がどれだけの総利潤をあげようが、利子はそこから控除されるべき対象として存在しているというのが本当の関係である。しかしマルクスはこうしたことを承知のうえで、仮にこのように仮定するなら、利子は総利潤の増減に応じて増減することを確認しているわけである。
  しかしマルクスは丸カッコのなかでは、この仮定をはずして、利潤率が20%のまま、利子率が8%に上がった場合、あるいは6%や7%の場合を考え、しかしそのばあいでも最初の仮定のときの平均利潤率が16%に下がった時の利子率4%の場合よりも、産業資本家が手にする産業利潤は同じか大きくなることを示す。すなわち、8%の場合は12%、6%の場合は14%、7%の場合は13%である。これは何を見ているのかというと、平均利潤率が高い場合、少々利子率が高くても、平均利潤率が低い場合に比べれば、産業利潤率は高くなるということである。もちろん、ここでマルクスが仮定しているような総利潤と利子とが固定した割合になるという必然性はないし、両者に内的関連があるわけでもない。マルクスはただ現象的に両者の数値的関連を見ているということができるだろう。
  つぎにマルクスが{ }で括った部分では、最初の仮定にもどって利子率を平均利潤率の1/5に固定した場合を考えている。しかしその場合にマルクスが見ているのは、産業資本家が手にする利潤の絶対額である。平均利潤率が変動して、10%、20%、25%、30%、35%になった場合、利子率はその1/5だから2%、4%、5%、6%、7%になるが、しかし産業利潤の率は8、16、20、24、28になるということである。そしてマルクスはその結論として利子の総利潤に対する割合が不変な場合には、産業利潤は、一般的利潤率が高ければ高いほど大きくなり、逆ならば逆になるとする。
  こうした一連の考察は、利潤率と利子率との相対的な関連を見ていることになる。利潤率が高い場合、利子率も高いとは必ずしもいえず、利潤率が低ければ利子率も低いともまたいえないのだが、しかし利子と産業利潤が総利潤の分割したものであるかぎり、一方が大きくなれば、他方はそれだけ少なくなるという関連があることは明らかである。いずれにせよ、こうしたマルクスの考察がどういう意味があるのかはもう少し読み進めてからもう一度考え直してみることにしよう。】


【8】

 他の事情はすべて変わらないとすれば(あるいは同じことになるが,利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば),機能資本家は,利潤率の高さに正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるであろうし,また支払うことを辞さないであろう。a)すでに見たように,利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反[433]比例するのだから,したがってまた一国の利子率の高低も産業的発展の高さにたいしてやはり反比例するということになる--利子の相違が現実に利潤率の相違を表わすかぎりではそうである。そうなるとかぎらないことは,もっとあとで見るであろう。この意味では,利子は利潤によって,より詳しくは一般的利潤率によって,規制されている,と言うことができる。そして,このような利子の規制の仕方は,利子の平均にさえもあてはまるのである。/

  ①〔異文〕「[……]の一般的な率〔general rate of〕」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「割合」ratio←relation
  ③〔異文〕「比例して」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「できるであろう〔wird…fahig…sein〕」← 「できる〔kann〕」
  ⑤〔異文〕「利子率が」という書きかけが消されている。〉 (223-224頁)

 〈他の事情はすべて変わらないものと仮定すれば(あるいは同じことですが、利子と総利潤との割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば)、機能資本家は、利潤率の高さに正比例してより高いかまたはより低い利子を支払うことができるでしょうし、また支払うことを辞さないでしょう。すでに見たように、利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのですから、よってまた一国の利子率の高低も産業的発展の高さに対してやはり反比例するということになります。--利子の相違が現実に利潤率の相違を表すかぎりではそうでしょう。そうなるとかぎらないことは、もっとあとで見るでしょう。この意味では、利子は利潤によって、より詳しくは一般利潤率によって、規制されていると言うことができます。そして、このような利子の規制の仕方は、利子の平均にさえも当てはまるのです。〉

 【ここでの展開は次のようになっている。
 (1)利子と総利潤の割合を多かれ少なかれ不変のものと仮定すれば、機能資本家は利潤率の高さに正比例してより高いかまたは低い利子を支払うことができる。またそれを辞さないことになる。
 (2)利潤率の高さは資本主義的生産の発展に反比例するのだから、一国の利子率の高さも産業的発展の高さに対して反比例する。利子の相違が利潤の相違を表すかぎりではそうなる。
 (3)こうしたことから一般的にいえることは、利子は利潤によって、より詳しくは一般利潤率によって、規制されているということである。このような利子の規制の仕方は平均利子についてもあてはまる。
 つまりここでは(1)と(2)のことから(3)を導き出すという展開になっている。(1)と(2)はある意味ではまったく違った問題である。しかし利子は利潤によって規制されるという一般的な結論としては、上記の二つのことからそれが導き出されるとマルクスは考えているわけである。】


【9】

 |296下|〔原注〕a)「利子の自然的な率は個々人の事業の利潤によって左右される。」(マッシー,同前,51ページ。〉〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕この引用は,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』(MEGAII/3,6,S.2125.28-29)から取られている。〉 (224頁)

  【これは原注でマッシーからの抜粋だけなので平易な書き直しは不要であろう。このマッシーの一文は、すでに【5】パラグラフの解読のなかで紹介した61-63草稿からの抜粋のなかに含まれている。】

 (続く)

 

2019年7月14日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-10)

『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第73パラグラフからである。

 

【73】

 〈しかし,ここで資本そのものが商品として現われるのは,資本が市場で売り出されて資本としての貨幣の使用価値が現実に譲渡されるかぎりでのことである。しかし,資本の使用価値そのものは,利潤を生む〔setzen〕ということである。十十)/〉 (209頁)

 〈しかし、ここで資本そのものが商品として現れるのは、資本が市場で売り出されて資本としての貨幣の使用価値が現実に譲渡されるかぎりでのことです。そして資本の使用価値というのは、利潤を生むということです。〉

 【ここでも資本そのものが商品として現れるとマルクスは明確に述べている。というのはその使用価値が利潤を生むからだというわけである。宇野は利子生み資本というのは、貨幣が商品になるのであって、資本が商品になるのではない。資本が商品になるりうるのは、国債や株式などについて言いうるのだと主張する。確かに一般には貨幣の貸し借りの市場を貨幣市場といい、資本市場というのは、国債や株式などの売買市場を意味するのだが、宇野の主張はただこうした常識的な意識をもとにしたものでしかないのである。しかしマルクスの利子生み資本の概念は、貨幣が資本として貸し付けられるというところに眼目があるのである。だからこそ貨幣は資本として商品になるのである。貨幣が利潤を生むという使用価値を持っているから、つまりその価値を維持するだけではなく、増殖して貫流するからこそ、すなわち資本という属性によって、それは商品になるのである。】


【74】

 〈/294下/十十)資本としての貨幣または商品の価値は,貨幣または商品としてのそれらの価値によってではなく,それらがそれらの所持者のために「生産する」剰余価値量によって規定されている。資本の生産物は利潤である。貨幣が貨幣として支出されるか,それとも資本として支出されるかは,資本主義的生産の基礎のうえでは,ただ貨幣の使い方Anwendung〕の相違でしかない。貨幣(商品)は,即自的に資本なのである(それはちょうど労働能力が即自的に労働であるようなものである)。というのは,1)貨幣は生産諸条件に転化させられることができ,そのままで生産諸条件のたんに抽象的な表現であり,価値としての生産諸条件の定在だからである。また,2)富の対象的諸要素は,資本であるという属性を即自的にもっているからである。なぜならば,それらの対立物--賃労働--が,それらを資本にするものが,社会的生産の基礎として現存しているからである。労働に対立する対象的富の対立的な社会的規定性は,過程そのものから引き離されて,資本所有そのものに表現されている。この一契機,それは資本主義的生産過程の恒常的な結果であり,またこの過程の恒常的な結果としてこの過程の恒常的な前提なのであるが,この契機は,もっぱら,資本主義的生産過程そのものからは引き離されて,次のことに表わされているのである。すなわち,貨幣,商品は,即自的に,潜在的にlatent〕,資本であるということ,それは資本として売られることができるということ,また,それらがこの形態では他人の労働にたいする指揮権〔Commando〕であり,したがってまた自分を増殖する価値であるということである{他人の労働の取得への要求権}。ここではまた次のことも明らかになる。すなわち,この関係は他人の労働を取得するための権原および手段であり,資本家の側からの対価としてのなんらかの労働ではないということである。〔十十)による追記部分終わり〕/

  ①〔異文〕このテキスト補足は手稿のこのページの下部に書かれており,原注a)に続くものである。それは++という標識によってこの箇所に関係づけられている。〉 (209-211頁)

 〈資本としての貨幣または商品の価値(価格=利子)は、貨幣または商品としてのそれらの価値 によってではなく、それらがそれらの所持者のために「生産する」剰余価値量(利子)によって規定されています。資本の生産物は利潤です。貨幣が貨幣として支出されるか、それとも資本として支出されるかは、資本主義的生産の基礎のうえでは、ただ貨幣の使い方の相違でしかありません。貨幣(商品)は、ただ即時的に(可能性として)資本なのです。(それはちょうど労働能力が即時的に(可能性として)労働であるようなものです)。というのは、1)貨幣は生産諸条件に転化させられることができ、そのままで生産諸条件の単に抽象的な表現であり、価値としての生産諸条件の定在なのだからです。また2)富の対象的諸要素は、資本であるという属性を即時的にもっているからです。なぜなら、それらの対立物である賃労働が、それらを資本にするのですが、それが社会的基礎として現存しているからです。労働に対立する対象的富の対立的な社会的規定性は、過程そのものから引き離されて、資本所有そのものに表現されています。この一契機、それは資本主義的生産過程の恒常的な結果であり、またこの過程の恒常的な結果としてこの過程の恒常的な前提なのですが、この契機は、もっぱら、資本主義的生産過程そのものからは引き離されて、次のように表されているのです。つまり、貨幣、商品は、即時的に、潜在的に、資本であるということ、それは資本として売られることができるということ、また、それらがこの形態では他人の労働にたいする指揮権であり、したがってまた自分を増殖する価値であるということです。{他人の労働の取得への要求権}。ここではまた次のことも明らかになります。つまり、この関係は他人の労働を取得するための権原および手段であり、資本家の側からの対価としてのなんらかの労働ではないということです。〉

 【このパラグラフは下段に書かれているが、先のパラグラフ(【73】)の追記をなしているから本文である。しかしここで書かれていることは、なかなか難しく理解が容易ではない。
  ここではマルクスは、貨幣(商品)は、即時的(潜在的)に資本なのだが、それはどうしてそうなのか、ということを明らかにしようとしている。まず第一に、それは生産諸条件に転化することができるから、そして第二に、富の対象的諸条件(生産手段等)は、資本であるという属性を即時的(潜在的)にもっているから、とまず説明する。しかしそれらを資本にするのは、そもそも社会的基礎としてそうした条件があるからだという。しかもそうした対立的な社会的規定性は、過程そのものから、つまり資本主義的生産過程そのものから引き離されて、ただ貨幣や商品は、潜在的(可能的)に資本であり、資本として売られるという形で表されているというのである。それらが資本であるのは、労働の対象的諸条件が資本として労働に対立し、労働が賃労働になっているからであるが、それは資本所有そのものに表現されているのだとも指摘されている。そしてこの資本所有というのは、資本主義的生産過程の恒常的な結果であり、この過程の恒常的な結果としてこの過程の恒常的な前提なのだが、しかし資本所有というのは、それ自体としては資本主義的生産過程そのものからは引き離されて表現されるのだというのである。
  ようするに、ここでマルクスが言いたいことは、貨幣(商品)が資本として売られるということは、資本主義的生産過程を前提するが、それらが資本としてあるということ自体は、資本所有そのものにあるのであって、その限りでは資本主義的生産過程そのものからは引き離されていること、だから利子生み資本としての資本の運動は、生産過程とは直接関係しない資本関係なのだということである。資本が資本であるのは生産過程で剰余価値を生産することである。それがすべての基礎であり、社会的生産の基礎である。しかし貨幣や商品が即時的(潜在的)に資本だという場合、そうした社会的規定性を前提しながらも、しかし直接にはそれとは切り離された関係として表されているのだというのである。
  だからそれらが資本であるというのは他人の労働にたいする指揮権、だからまたそのことによって自分を増殖する価値であるということ、だからそれは他人の労働を取得するための権原、あるいは手段であるが、資本家がそのために何らかの労働をするということではないということだ、とも指摘されている。
  ここでマルクスが述べていることは、利子生み資本が再生産資本家たちとは外的な関係にあるということ、貨幣信用は再生産過程外の信用だということとも関連しているのである(それに対して商業信用は再生産過程内の信用なのである)。その意味では極めて重要な考察なのである。】


【75】

 [430]/294上/さらに,利子と本来の利潤とへの利潤の分割が,商品の市場価格と同様に,需要と供給によって,つまり競争によって規制されるかぎりでも,資本は商品として現われる。しかし,ここでは区別も類似と同様にはっきりと現われている。需要と供給とが一致すれば,商品の市場価格は生産価格に一致する。すなわち,そのとき商品の価格は,競争にはかかわりなく資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして現われる。というのは,需要と供給の変動はそれらの生産価格からの市場価格の諸偏倚のほかにはなにも説明するものではないからである。(これらの偏倚は相殺されて,いくらか長い期間について見れば平均市場価格は生産価格に等しい。)需要と供給とが一致すれば,これらの力は一方の側にも他方の側にも作用しなくなり,麻痺させ合うのであって,そうなれば内在的な価格規定が個々の場合の法則として現われる。言い換えれば,その場合には市場価格は,その直接的定在において,(ただたんに諸市場価格の運動の平均としてだけではなく)生産価格に一致する。労賃の場合にも同様である。需要と供給とが一致すれば,それらの規定は相殺されて,労賃は労働能力の価値に等しい。ところが,monied Capita1はそうではない。ここでは競争が法則からの偏倚を規定するのではなく,競争によって強制される法則よりほかには分割の法則は存在しないのである。なぜならば,のちにもっと詳しく見るであろうように,自然的利子率なるものは存在しないno natural rate of interest〕からである。利子率の自然的な率〔d.natural rate of interest〕というのは,むしろ,自由な競争によって確定されたもののことである。利子率の自然的限界natural limit of the rate of interest〕というものはないのである。競争がただたんに偏倚,変動〔Oscillationen〕を規定するだけではない場合,つまり,競争の相反する諸力が均衡したときに〔bei d, Equipoising〕規定することをやめてしまうのではない場合には,規定されるべきものは,それ自体として無法則なもの,任意なものなのである。(しかしこれについては2でもっと詳しく述べる。)

  ①〔異文〕「本来の」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「一致すれば〔decken〕」← 「対応すれば〔entsprechen〕」
  ③〔異文〕「競争がそのような〔……〕として〔……〕場合〔Wo die Conkurrenz als so〕という書きかけが消されている。〉 (211-213頁)

 〈さらに、利子と本来の利潤とへの利潤の分割が、商品の市場価格と同様に、需要と供給によって、つまり競争によって規制されるかぎりでも、資本は商品として現れます。しかし、ここでは区別も類似と同様にはっきりと現れてきます。
  需要と供給が一致すれば、商品の市場価格は生産価格に一致します。つまり、その時の商品の価格は、競争には関わりなく資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして現れます。というのは、需要と供給の変動はそれらの生産価格からの市場価格の諸偏倚のほかには何も説明するものではないからです。(これらの偏倚は相殺されていきます。またいくらか長い期間についてみれば平均市場価格は生産価格に等しくなります。)需要と供給が一致すれば、これらの力は一方の側にも他方の側にも作用しなくなり、麻痺させあうのであって、そうなれば内在的な価格規定が個々の場合の法則として現れます。言い換えれば、その場合には市場価格は、その直接的定在において、(ただたんに諸市場価格の運動の平均としてだけではなく)生産価格に一致します。労賃の場合も同じです。需要と供給が一致すれば、それらの規定は相殺されて、労賃は労働能力の価値に等しい。
  ところが、moneyed capitalはそうではありません。ここでは競争が法則からの偏倚を規定するのではなく、競争によって強制される法則よりほかには分割の法則はないのです。なぜならば、のちにもっと詳しく見るでしょうが、自然利子率なるものは存在しないからです。利子率の自然的な率というのは、むしろ、自由な競争によって確定されたもののことです。利子率の自然的限界というものはないのです。競争がただたんに偏倚や変動を規定するだけではない場合、つまり、競争の相反する緒力が均衡したときに規定することをやめてしまうのではない場合には、規定されるべきものは、それ自体として無法則なもの、任意なものです。(しかしこれについては2(次の章)でもっと詳しく述べます。〉

 【ここでは普通の商品の市場価格が需要と供給によって、競争によって規制されるように、利子生み資本という商品もその需要と供給によってその価格(利子)が規定されるという点でも、それが商品として現れる理由でもあると述べたあと、しかし類似と同時に区別も明確になるとして、普通の商品の場合は需要と供給が一致した場合、商品の市場価格は生産価格に一致すること、その場合は商品の価格は資本主義的生産の内的法則によって規制されるものとして現れるが、しかし利子生み資本という商品の価格である利子率は需要と供給以外にそれを規制するものはない、とマルクスは指摘している。その理由としてはマルクスは後に詳しく見るといいながら、利子には自然利子率というようなものがないことをあげている。利子率には自然的限界というものはないとも述べている。そして競争がたんなる偏倚や変動を規定するだけではなく、競争の諸力が均衡してもその規制をやめない場合には、そうしたものはそれ自体、無法則なものであり、任意なものだとも指摘している。】


【76】

 利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現われる--資本の前貸は,貸し手から借り手への資本のたんなる移転〔transfer〕として現われ,実現された資本としての還流〔Return〕は,借り手から貸し手への利子をつけてのたんなる逆移転〔Retransfer〕(返済〔repayment〕)として現われる--ように,利潤率は利潤の前貸資本価値にたいする割合によって規定されているだけではなく,利潤が実現される回転時間によっても規定されており,したがって生産的資本が一定の期間にあげる利潤として規定されている,という資本主義的生産様式に内在する規定も,〔利子生み資本では,〕外面的なものとして現われる。利子生み資本の場合には,このことはまったく外面的に,一定の期間について売り手に一定の||295上|利子が支払われるというふうに,現われるのである。

  ①〔異文〕「貸し手」Verleiher←Leiher
  ②〔異文〕「たんなる」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「利子が」という書きかけが消されている。〉 (213頁)

 〈利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れます。資本の前貸しは、貸し手から借り手への資本のたんなる移転として現れ、実現された資本としての還流は、借り手から貸し手への利子をつけてのたんなる逆移転(返済)として現れます。利潤率が利潤の前貸資本にたいする割合によって規定されているだけではなく、利潤が実現される回転時間によっても規定されているという、資本主義的生産様式に内在する規定も、利子生み資本では、外面的なものとして現れます。すなわち、利子生み資本の場合は、このことはまったく外面的に一定の期間について売り手に一定の利子が支払われるというふうに、現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れるということが二点にわたって言われている。一つは資本の前貸しが単なる貸し手から借り手への資本の移転として現れ、実現された資本としての還流も、その逆移転(返済)として現れるからである。本来は資本の前貸しは、それを生産資本に転化し、生産諸条件(生産手段と労働力)に転化することだが、利子生み資本の場合はまったく外面的な単なる資本の移転として現れるだけであり、その還流も本来なら生産された商品資本の実現によって還流するが、利子生み資本の場合は、やはりただ借り手から貸し手への移転(返済)として現れるだけだということである。もう一つは、現実の資本の場合、利潤率は利潤の前貸資本に対する割合だけでなく、資本の回転時間によっても規定されるが、利子生み資本の場合は、資本の回転時間というのは、ただ貸し手と借り手とのあいだの法的約定にもとづいて、ただ外面的に一定期間後に利子が支払われるというような形で現れるわけである。】


【77】

 諸物〔Dinge〕の内的関連を見抜く彼の日ごろの洞察力をもって,ロマン派のA .ミュラーは次のように言っている。--
  [431]「諸物〔Dinge〕の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる。」(アダム・H.ミュラー政治学要論』,ベルリン,1809年,第2巻,①138ページ。)

  ①〔訂正〕「138ページ」--草稿では「137,138ページ」と書かれている。〉 (213-214頁)

 〈緒物の内的関連を見抜く洞察力をもって、ロマン派のミュラーは次のように述べています。「諸物〔Dinge〕の価格の決定では時間は問題にならない。利子の決定では時間がおもに計算にはいる。」〉

 【このパラグラフは明らかにその一つ前のパラグラフの後半で、回転時間も利子生み資本では外面的なものとして現れることに関連して書かれていることは明らかである。ただここでマルクスが引用しているミュラーの一文は、次のパラグラフで明らかになるように、決して肯定的に引用されているのではない。〈諸物〔Dinge〕の内的関連を見抜く彼の日ごろの洞察力をもって〉という一文は、文字どおりの意味ではなく、マルクス一流の皮肉なのである。マルクスはミュラーは自分は物事の内的関連を見抜く洞察力を持っていると自負しているが、それを皮肉ってこのように述べているわけである。彼は利子の決定では時間が問題になると言いながら、価格の決定では時間は問題にならないと述べているのだが、しかしマルクスは価格の決定でも資本の回転時間は利潤率に影響し、よって商品の価格にも影響するのだと批判しているわけである。つまりミュラーは利子が一定の期間を経て支払われるという外面的な関係には気づいているが、しかし資本の利潤が資本の回転時間にも規定されているという内的な関連には気づいていないことを指摘しているわけである。】


【78】

 彼にわかっていないのは,労働時間流通時間諸商品の価格の規定にはいってくるということ,そしてまさにこれによって資本の与えられた1回転時間についての利潤率が規定されているということ,しかしまた与えられた1時間についての利潤の規定によって利子の規定も規定されているということである。彼の深い洞察は,ここでもまた,いつものように,ただ,表面の砂ほこりを見てこのほこりだらけのものを大げさになにか秘密に満ちた重大なものでもあるかのように言い立てることだけにあるのである。/

  ①〔異文〕「商品の価格の規定にさいして」という書きかけが消されている。
  ②〔異文〕「表面の砂ぼこりを見てこのほこりだらけのものを」← 「表面を見てこのまったく表面的なものを」〉 (214頁)

 〈彼(ミュラー)にわかっていないのは、労働時間や流通時間が諸商品の価格の規定に入ってくるということです。またまさにこれによって資本の与えられた1回転時間についての利潤率が規定されているということ、そしてこの与えられた1時間についての利潤の規定によって利子の規定も規定されているということです。彼の深い洞察力は、ここでもまた、いつものように、ただ表面の砂ぼこりを見て、このほこりだらけのものを大げさになにか秘密に満ちた重大なものであるかのように言い立てるだけのことにあるのです。〉

 【この一文はその前のパラグラフと一体のものである。以上で、第21章該当部分の草稿は終わっている。つまりマルクスは利子生み資本ではすべてのものが外面的なものとしてあらわれるという指摘でこの節を締めくくっているわけである。これはこれで留意しておくべきことである。】

 


第21章該当部分(「1)」の部分)全体の構成と内容

 

 まずマルクスはこの章(マルクス自身は恐らく第5章の第1節と考えていたのだろうし、実際にはただ「1)」と番号が打たれているだけだが)を、まずこれからわれわれが平均利潤(率)という場合は、一般的利潤率の形成に商業資本も参加していることが前提されているのであり、その意味ではより完成された姿態で一般利潤率(平均利潤率)を考える必要があるということから書き始めている(【1】)。(しかし後に(【67】)マルクスは利子生み資本の関係を純粋に考察するために、貨幣資本家と生産資本家だけを前提すると述べて、利子生み資本を商業資本に貸し出すケースは除外しているのであるが)。これは要するに、この第5章(篇)は、第4章(篇)を前提としているということを指摘しているものと理解すべきであろう。
 次ぎに(【3】)、マルクスは貨幣は資本主義的生産の基礎上では資本に転化させられうることを指摘する。つまり資本家に労働者から不払労働、剰余価値を引き出して取得する能力を与えることを指摘する。そしてそれが貨幣がもっている使用価値のほかに追加される新しい使用価値だと述べている。貨幣は、商品を購買するという使用価値に、さらに資本として機能するという使用価値を受け取るわけである。{宇野は、貨幣は生産手段や労働力を購買することによって、つまり購買手段という使用価値によって資本になるのであって、だから貨幣そのものに資本として機能するというような使用価値はないと主張している。}
 そしてこのような可能的な資本としての、利潤を生産するための手段としての属性において、貨幣は商品になる、といっても一つの独特な種類の商品になると指摘し、同じことに帰着するが、資本としての資本が商品になるとしている。
 そしてこの最期の一文に注a)を付けて(【4】)、経済人が事柄をこのように考えている二三の箇所をここに引用すべきと注記している。そして『銀行法委員会報告』からイングランド銀行は「資本という商品を取り扱う非常に大きな商人ですね?」という一文を紹介している。
 つまり貨幣が資本として機能しうるという使用価値によって商品になるというのは、経済人が考えていることなのである。宇野はマルクス自身が貨幣が資本としての使用価値によって商品になると考えているかに、だから資本としての機能にもとづいて貨幣が商品として販売されることについても、それが貸付であることをマルクスが知らずに販売と捉えているかに論じているが、これはまったく不当な言いがかり以上ではない。貨幣が資本として機能するという属性によって商品になる、すなわち資本としての資本として商品になるというのは、経済人が経験的に抱いている外観なのである。もちろん、彼らはその内的な関連を知らないが、しかし経験的事実として銀行は資本という商品を取り扱う商人だと考えているわけである。
 マルクスはまずそうした当時の(といってもこうした外観は決して当時だけに限られないのだが)経済人たちが抱いていた外観(貨幣が資本として商品になるという)を前提し、事実として受け止め、なぜそれが商品として彼らに捉えられるのかというところから解明しようとしているのである。{ところが宇野は貨幣が資本として商品になるというのがマルクス自身の理解と考えている。だからマルクスが貨幣が商品として販売されるということを指摘していることに対して、それは販売されるのではない貸しつけられるのだなどと言って批判したつもりになっているのである。なんと馬鹿げた難癖であろうか。}
 次ぎに(【6】)、マルクスは100ポンド・スターリングを持っているということが、その所有者に利子を代償として要求する力を与えると指摘する。つまりここでは貨幣の資本としての規定性は、その資本所有そのものに表現されていると後に(【74】)マルクスが指摘していることが先取りされて述べられている。つまり貨幣が資本としての規定性をもつのは、その所有者がそれを資本として手放すということにあるのである。もちろんこのことには資本主義的生産の基礎という社会的な関係が前提されているのであるが、彼の貨幣が資本になるということ自体は、この基礎から切り離された関係として現れてくるのである。彼がその所有する貨幣を資本として支出しなければ、それは現実に資本として機能し、剰余価値を生産することもできないわけだから、彼が、その所有者がそれを資本として支出するということがすべての出発点なのだということである。
 ここにもマルクスは原注をつけている(【7】)。ギルバトからの引用であるが、ただこの引用に関連して、次のパラグラフ(【8】、これは原注ではなく本文であるが)も書かれている。つまりギルバトは「自然的公正の自明な原理」云々と述べていることを受けて、【8】パラグラフが書かれているが、これは若干本題とずれているので、とりあえずは無視しよう。
 だから【6】パラグラフに直接繋がっているのは【9】パラグラフである。しかし、ここでは【6】パラグラフで述べていることがさらに詳しく述べられているだけである。100ポンド・スターリングの所有者をAとし、それを借り入れる機能資本家をBとして論じ、ようするにAが100ポンド・スターリングを資本として支出するということがとにかく出発点であることが確認されているのである。
 そして次から(【10】以降)、話を一転させて、第1には、利子生み資本の特有な流通を考察するとしている。そして第2には、それが商品として売られる独特な仕方、つまり売られる代わりに貸しつけられる、という独特な仕方を論じるとしている。
 ところでここでマルクスが二つのことを考察するしているが、それはどこからどこまでで論じられているのか少し考えてみよう。まず最初の「利子生み資本の特有な流通」については、恐らく【11】パラグラフから始まり、【18】パラグラフまで続いているように思える。そして次の利子生み資本が商品として売られる独特の仕方については、【19】パラグラフから、【42】パラグラフまで続くように思える。関連して最後の部分でプルドンの批判が行われている(【33】~【42】)。そして【43】パラグラフからは利子生み資本を特徴づけるものとしての外面性が考察されている。そして【50】パラグラフからは、一転して利子の考察が始まる。そしてそれが最後まで続いているように思える。だからこの「1)」の全体の構成は大まかには次のようになっていると思える。

(1)利子生み資本の直接的規定、貨幣が資本として商品になる(ブルジョア経済学者や経済人にもとらえられるものとしての利子生み資本)(【2】~【9】)
(2)利子生み資本の特有な流通の考察(【10】~【18】)
(3)利子生み資本が商品として売られる独特な仕方の考察(【19】~【42】)
    (プルドン批判【33】~【42】)
(4)利子生み資本を特徴づける外面的な形態(【43】~【49】)
(5)利子の考察(【50】~【78】)
 (利子を貨幣資本の価格とするのは不合理である【67】~【72】)
 (利子生み資本の運動に対して商品の買い手と売り手という単純な諸関係を直接に適用しようとすることは、はじめから馬鹿げたことである。【72】~【74】)
 (利子と本来の利潤とへの利潤の分割が、需給によって決まるという問題【75】)
 (利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れるが、利子もまたただ一定の期間に対して利子が支払われるという外面的な形態を取る。【76】~【78】)

 つまりこの「1)」(第21章)は、このように大きくは五つの部分に分けられて展開されているのである。

 全体の大まかな構成に見通しをつけたので、引き続きそれらの細部の検討に入っていこう。以下では、われわれが付けた項目を立てて検討してゆこう。

(2)まず利子生み資本の特有な流通の考察である。マルクスはその運動をG_G_W_G'_G'と表している。ここで利子生み資本に特有な流通は最初のG_Gと最期のG'_G'である。{なぜか、マルクスはそのあいだのG_W_G'を商業資本の運動としているが、これが産業資本の運動G_W(P,A)…P…W'_G'としても良いわけだが、それについては何も言及していない。ただ先にも指摘したように、【67】パラグラフでは、〈前提によれば,全取引は二つの種類の資本家のあいだで,すなわち貨幣資本家と生産的資本家とのあいだで,行なわれる〉と述べて、生産的資本家を前提することが述べられている。}ここで利子生み資本の特有な流通として重要なことは、利子生み資本の特有な流通である最初のG_Gも最後のG'_G'も資本の現実の変態の契機、あるいは再生産過程の契機ではないということである。

(3) 次ぎに利子生み資本が商品として売られる独特な仕方の考察であるが、この部分は単純な商品流通や現実の資本の流通と比較されるなかで検討されている。
  まずマルクスは商品としての資本に特有な形態である、貸付という形態をとるのは、資本がここでは商品として現れるという、または資本として貨幣が商品になるという規定そのものから出てくるのだと指摘する。
   ただ〈資本が商品として現れる〉とか〈資本としての貨幣が商品になる〉と言っても、それはどういうことかが問題である。それをマルクスは〈ここでは次のような区別をしなければならない〉として、単純な商品流通や資本の流通との比較のなかで明らかにしているように思える。
  まず資本が流通過程では貨幣資本や商品資本という形態をとるが、しかし貨幣資本も商品資本も実際の流通に出てゆくならば、それは単なる貨幣や商品として振る舞うこと、だからそれらが資本としての規定性を受け取るのは、その流通行為によってではなく、それらが資本の再生産過程の一契機であり、資本としての総運動との関連によってであることを指摘する。だから貨幣や商品が資本として現れるのは全過程との関連でそれらが捉えられるかぎりであり、それらの流通過程では決して資本として譲渡されるわけではないこと、現実の運動のなかで資本が資本として存在するのは、ただ生産過程においてであることが指摘されている。
  そしてそれと比較するかたちで、利子生み資本の場合が論じられるのである。つまり利子生み資本では資本の流通過程とは異なり、貨幣や商品は資本として流通過程に入っていくのである。 それが利子生み資本の独特な性格をなしていると指摘されている。
  利子生み資本の場合は、それを第三者に譲渡する人にとっても、それは資本であるし、それを受け取る第三者にとっても資本なのだというわけである。
  {ここでマルクスは追記として貸付や還流にはさまざまな形態がありうることに言及しているが、それはとりあえずはわれわれとしては割愛しよう。}
  次ぎにマルクスは関連させて、この問題で混乱しているプルドンの批判を展開している。
その批判は次の一文に集約されている。

  〈それでは,利子生み資本の特有の運動のなかでプルドンを当惑させているものはなにか?
  それは,売る,価格,対象を譲渡する,という範躊であり,また,ここでは剰余価値が現われている外面的で無媒介的な形態である。要するに,ここでは資本としての資本が商品になってしまっているという現象,それゆえ,売ることが貸すことに転化し,価格が剰余価値の分け前に転化してしまっているという現象である。〉 (190頁)  

(4)利子生み資本を特徴づけるのは、それが増殖してその出発点に帰ってくるということではない。それは資本一般の特徴づけである。利子生み資本が利子生み資本として特徴的なのは、そうした出発点への復帰が、その媒介から切り離された、外面的な形態だということである。だから貸付や返済は任意な法律的取引によって媒介される運動として現れるのであって、これらは現実の資本の運動自身とは何の関係もないものである。取り戻しを条件とする手放し、すなわち貸付と借受が、この独自な形態の運動である。利子生み資本の場合には、復帰も手放しも、ただ資本の所有者とある第三者との法律上の取引の結果でしかない。それはただ、貨幣の貸付と返済として現れるだけで、その間に生じたことは、すべて消えてしまっているのである。しかしいうまでもなく、貨幣資本家が彼の貨幣を資本として貸しつけることができるのは、それが現実に資本として運動し循環運動を行うからである。ただそれが利子生み資本の運動ではそれは前提されているが、直接には関係ないものとして消えているのである。

(5)利子の考察。まずマルクスは利子について〈平均利潤のうち機能資本家の手にとどまっていないで貨幣資本家のものになる部分〉と規定している。
 ここでもマルクスはまず〈貨幣資本家は,借り手である生産的資本家になにを与えるのか? 前者は後者に実際にはなにを譲渡するのか? そして,ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,する〉と述べている。そして何を譲渡するかという問いに、〈このような,資本としての貨幣の使用価値--平均利潤を生むという--を貨幣資本家は貸付の期間のあいだ生産的資本家に譲渡するのであって,この期間中は,前者は後者に貸し付けた資本の処分能力を譲るのである〉と答えている。
 そして次ぎにマルクスは〈では,生産的資本家はなにを支払うのか? したがってまた,貸し出される資本の価格とはなにか?〉と問い、借りられた貨幣が生産することのできる利潤の一部分だというマッシーの一文を引いて答えている。そして単純な商品と関連させてこの問題を論じているのであるが、ただマルクスはこうした考察を踏まえて、利子が資本の価格として現れることはもともとは不合理であり(価格の概念からすれば)、資本の貸付を単純な商品の関係と関連させて論じるのはもともとばかげたことなのだとも指摘している。さらに利子と本来の利潤とへの利潤の分割は需要と供給によって決まるということ、その点で単なる商品の価格とは異なることが指摘される。そして最後に、利子生み資本ではすべてが外面的なものとして現れるが、利子においてもただ一定の期間に対して利子が支払われるという外面的な形態をとるのだと指摘して、この「1)」を終えている。

  こうして全体をみると、この「1)」は、まず最初は利子生み資本の概念が与えられている。そして次ぎに「利子」が考察され、その概念が与えられるという二つの部分に分けることができる。そして全体としては単純な商品や資本の関係と比較・関連させて、利子生み資本に特徴的なものを明らかにするという手法をとっているということができるだろうか。
  「利子生み資本」とは、その所持者が、第三者に貸しつけて、利子をつけて返済を受ける貨幣、または商品のことである。ここでは貨幣(商品)は、その所持者はそれを資本として手放し、それを借り受ける第三者にとってもそれを資本として利用するわけである。だから利子生み資本に特徴的な流通は、貨幣または商品の単なる移転でしかなく、それ自体は再生産過程の契機ではないし、その外部に属し、よって外面的な関係として現れてくるということである。だからまたそれは法的約定によって行われる取引でもある。そしてこの資本としての譲渡ということが、それが商品として現れてくる理由でもある。それは貸付であるが、あたかも貨幣という商品が販売されるかの外観を得るわけである。経済人たちが銀行は資本という商品を扱う商人だとするのもそうした理由からである。だから利子生み資本にもっとも特徴的なのはそれが外面的な関係にあるということである。つまり再生産過程の契機をなさず、その外の関係として、一定の法律的取引として、あるということである。
  しかしそれが資本であるのは、その価値を維持するだけではなく、増殖して、還流してくるからである。その増殖分、生産的資本家が彼が生み出す利潤のうち彼のものではなく、貨幣資本家のものになる部分がすなわち利子である。資本としての貨幣が商品になる関係から利子はこの商品の価格となるのであるが、しかし利子が価格になるというのはもともと価格の概念からして不合理である。利子生み資本は、本来外面的なものであるが、利子についても、ただそれが一定期間に対して支払われるという外面的な形で現れる。
  まあ、ざっと以上のことが語られているわけである。

 

  (以上でエンゲルス版第21章該当部分の草稿の段落ごとの解読は終了する。次回からは第22章該当部分の草稿の段落ごとの解読に取りかかることにしたい。)

 

2019年7月12日 (金)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-9)

『資本論』第3部第21章の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第63パラグラフからである。


【63】

 〈[425]/293上/では,生産的資本家はなにを支払うのか? したがってまた,貸し出される資本の価格とはなにか? 「人びとが借りたものの使用にたいする利子として支払うもの」は,「それ」(借りられた貨幣〔d.geliehne Geld〕)「が生産することのできる利潤の一部分」である。b)/〉 (203頁)

 〈では、生産的資本家は何を支払うのでしょうか? だからまた、貸し出される資本の価格というのは何でしょうか? 「人びとが借りたものの使用にたいする利子として支払うもの」は,「それ」(借りられた貨幣〔d.geliehne Geld〕)「が生産することのできる利潤の一部分」です。〉

 【ここでようやく利子の考察に入っている。生産的資本家が支払うものは何か、生産的資本家は彼が買った商品に対して、支払うのだからそれはその商品の価格だというわけである。そしてそれは彼が借りた資本の使用によって得られた利潤の一部であり、利子だというわけである。】


【64】

 〈/293下/〔原注〕b)同前。「富者たちは,……彼らの貨幣を自分では使わないで……それを他の人びとに貸し出し,これによって他の人びとは利潤をあげ,こうしてあげた利潤の一部分を所有者のために保留する。」(同前,23[,24]ページ。)〔原注b)終わり〕|〉 (203頁)

 【これは原注なので、平易な書き出しは省略する。これは〈同前,23[,24]ページ〉とあるので、マッシーの著書からとられていることが分かる。MEGAの注解はないが、これもやはり61-63草稿から取られているようなので、原文を示しておこう

  〈富裕な人々が「彼らの貨幣をみずから使わずに、それを他の人々に貸しだすのは、他の人々が、それで利潤を得て、得られる利潤の一部を所有者のためにとっておくから、である。しかし、一国の富が多くの人々の手に分散され、また均等に配分されていて、そのために、多くの人々にとっては、〔借り入れる〕貨幣を事業に用いても、二家族を扶養するのに足りるだけのものが残らないならば、ほとんど借り入れはなされえない。というのは、2万ポンド・スターリングは、それが一人の人のものである場合には、その利子で一家族を養えるので、貸し付けられるかもしれないが、もし2万ポンド・スターリングが10人の人のものであれば、その利子では10家族を養えないので、それが貸し付けられることはありえないから、である。(23、24ページ。)〉 (草稿集⑨362-363頁)】


【65】

 〈/293上/普通の商品の買い手が買うものは,それの使用価値である。彼が支払うものは,その商品の交換価値である。貨幣の借り手〔Leiher〕が買うものも,やはり,貨幣の資本としての使用価値(使用)である。しかし,彼はなにを支払うのか? たしかに,商品の場合とは違って,その価格または価値ではない。貸し手と借り手とのあいだでは,買い手と売り手とのあいだでとは違って,価値の形態変換は,したがってこの価値が一度は貨幣の形態で存在しもう一度は商品の形態で存在するということは,行なわれない。手放される価値と取り戻される価値との同一性は,ここではまったく別の仕方で現われる。価値額(貨幣)は,等価なしに渡されてしまって,ある期間ののちに返され,返済される。貸し手が,自分が手放すのと同じ価値を取り戻すのは,ただ,こうした仕方,つまり,貸し手は実際にいつでも同じ価値の所有者であって,この価値が彼の手から借り手の手に移ったあとでもやはりそうである,という仕方ででしかない。{単純な商品の場合の関係との次のような違いが明らかになる。ここでは,貨幣はつねに買い手の側にある。ところが,貸付の場合には貨幣は売り手の側にある。売り手は貨幣をある期間譲渡し,手放すのであり,資本の買い手はそれを商品として受け取るのである。しかし,こういうことが可能なのは,ただ,貨幣が資本として機能し,したがってまた前貸されるかぎりでのことである。}借り手が貨幣を借りる〔leihen〕のは,資本としてであり,自分を増殖する価値としてである。しかし,それが資本であるのは,どの資本でもその出発点で,その第1の前貸の瞬間にそうであるように,まだやっと即自的にでしかない。その使用によってはじめてそれは増殖され,資本として実現されるのである。ところが,借り手はそれを実現された資本として,つまり価値・プラス・剰余価値(利子)として,返済しなければならない。そして,このあとのほうのものは,ただ彼によって実現された利潤の一部分でしかありえない。ただ一部分だけであって,全部ではない。というのは,使用価値は借り手にとっては,それが彼のために利潤を生産することだからである。そうでなければ,貸し手の側での使用価値の譲渡は行なわれなかったであろう。しかし,利潤が全部借り手のものになるわけにはいかない。もしそうなるとすれば,彼は使用価値の譲渡にたいしてなにも支払わないことになり,前貸された貨幣を貸し手に資本として,実現された資本として,還流させるのではないということになるであろう。というのは,それが実現された資本であるのは,ただG+△Gとしてのみだからである。〉 (203-204頁)

 〈普通の商品の買い手が買うものは、それの使用価値です。彼が支払うものは、その商品の交換価値です。貨幣の借り手が買うものも、やはり、貨幣の資本としての使用価値(使用)です。しかし彼は何を支払うのでしょうか? たしかに、商品の場合とは違って、その価格または価値ではありません。貸し手と借り手とのあいだでは、買い手と売り手とのあいだでと違って、価値の形態変換は、したがってこの価値が一度は貨幣の形態で存在し、もう一度は商品の形態で存在するといったことは、行われません。手放される価値と取り戻される価値との同一性は、ここではまったく別の仕方で現れます。価値額(貨幣)は、等価なしに渡されてしまって、ある期間の後に返され、返済されます。貸し手が、自分が手放すのと同じ価値を取り戻すのは、ただ、こうした仕方、つまり、貸し手はじっさいにいつでも同じ価値の所有者であって、この価値が彼の手から借り手の手に移ったあとでもはやりそうだ、という仕方ででしかないのです。{単純な商品の場合の関係とは次のような違いが明らかになります。単純な商品の売買の場合は、貨幣はつねに買い手の側にあります。ところが、貸付の場合には貨幣は売り手の側にあるのです。売り手は貨幣をある期間譲渡し、手放すのですが、資本の買い手はそれを商品として受け取るのです。しかしこういうことが可能なのは、ただ、貨幣が資本として機能し、したがってまた前貸しされる限りでのことです。}借り手が貨幣を借りるのは、資本としてであり、自分を増殖する価値としてです。しかし、それが資本であるのは、どの資本でもその出発点で、その第一の前貸しの瞬間にそうであるように、まだやっと即時的にそうであるだけなのです。その使用によってはじめてそれは増殖され、資本として実現されるのです。ところが、借り手はそれを実現された資本として、すなわち価値・プラス・剰余価値(利子)として、返済しなければなりません。そして、このあとのほうのもの(プラス・利子)は、ただ彼によって実現された利潤の一部でしかあり得ないのです。ただ一部であって、全部ではありません。というのは、使用価値は借り手にとっては、それが彼のために利潤を生産することだからです。そうでなければ、貸し手の側での使用価値の譲渡は行われなかったでしょう。しかし、利潤が全部借り手のものになるわけにはいきません。もしそうなるとすれば、彼は使用価値の譲渡にたいしてなにも支払わないことになり、前貸しされた貨幣を貸し手に資本として、実現された資本として、還流させるのではないということになるでしょうから。というのは、実現された資本であるのは、ただG+ΔGとしてのみだからです。〉

 【ここでもやはり普通の商品の売買と、利子生み資本の貸出との相違が指摘されながら、利子生み資本に固有の問題が何かを明らかにしようとしている。やはり長文であるから、まとめるために、箇条書き的に書き出してみよう。
  (1)普通の商品の買い手が買うのは商品の使用価値であり、彼が支払うのは商品の交換価値である。
  (2)利子生み資本の場合、貨幣の借り手が買うものも、やはり、その商品(貨幣)の使用価値である。つまり資本としての使用価値(使用)である。
  (3)しかし貨幣の借り手は何を支払うのか? 明らかに、普通の商品の場合とは違って、その商品の価値ではない。
  (4)利子生み資本の場合には、普通の商品の買い手と売り手とのあいだとは違って、価値の形態変換は生じない。つまり価値があるときには貨幣の形態であり、もう一度は商品の形態であるというようには現れない。
  (5)利子生み資本の場合、手放される価値と取り戻される価値との同一性は、まったく別の仕方で現れる。すなわち価値は等価なしに渡されてしまい、ある期間ののちに返され、返済されるという形で現れる。
  (6)貸し手が自分が手放した貨幣と同じ価値を取り戻すのは、ただこうした仕方、つまり貸し手は実際にはいつでも同じ価値の所有者であって、この価値が彼の手から借り手の手に移ったあとでもやはりそうなのだ、という仕方でである。
{(7)利子生み資本の場合と単純な商品の場合との違いは、後者の場合は貨幣はつねに買い手の側にあるが、前者の場合は売り手の側にあるということである。}
  (8)借り手が貨幣を借りるのは、資本としてである。
  (9)しかしそれが資本であるのは、それが現実資本として前貸しされる瞬間である。だからそれが資本であるというのは即時的にそうだというに過ぎない。実際には、それが使用されてはじめてそれは増殖され、資本として実現されるのである。
  (10)借り手はそれを実現された資本として、つまり価値・プラス・剰余価値(利子)として返済しなければならない。
  (11)彼が返済するあとほうのもの(・剰余価値(利子))は、彼によって実現された利潤の一部分である。それは利潤の一部であって全部ではない。なぜなら、借り手にとっての使用価値は、彼のために利潤を生産するということだから、そうでなければ、そもそも貸し手の側からの使用価値の譲渡は行われなかったであろう。
  (12)他方で、彼が生み出した利潤がすべて彼のものになるわけではない。もしそうなれば、彼は使用価値の譲渡にたいして何も支払わないことになり、前貸しされた貨幣を貸し手に資本として、実現された資本として還流させることにはならないからである。実現された資本というのは、ただG+ΔGとしてのみだからである。
  結局、ただ箇条書きに書き直したに過ぎないが、全体としては何もむずかしいことは言っていないので、これぐらいにしておこう。】


【66】

 〈貸し手も[426]借り手も,両方とも同じ貨幣額を資本として支出する。しかし,ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能する。利潤は,同じ貨幣額が2人の人にとって二重に資本として定在することによっては,2倍にはならない。それが両方の人にとって資本として機能することができるのは,利潤の分割によるよりほかはない。貸し手のものになる部分は利子と呼ばれる。|〉 (205頁)

 〈貸し手も借り手も同じ貨幣額を資本として支出します。しかし、実際には、ただ後者の手のなかだけでそれは資本として機能するのです。利潤は、同じ貨幣額が二人の人の手で二重に資本として定在するということだけでは二倍にはなりません。だからそれが両方の人にとって資本として機能することができるためには、利潤が分割されることによるほかにはないのです。そして貸し手のものになる部分は利子と呼ばれるのです。〉

 【同じ貨幣額が、貸し手にとっても資本であり、その借り手にとっても資本である。しかし実際に資本として機能するのは貸し手の手のなかでだけである。だからそれが資本として機能し、利潤を生産するのは貸し手のなかだけの話である。それが資本として二重に存在するからといって利潤が二倍になるわけではない。だから両方の人にその同じ価値額が資本として機能することができるのは、結局、一方の側で現実に資本として機能して生産した利潤を分割することによるしかない。貸し手のものになるものを利子といい、借り手のものになるものが企業利得というわけである。】


【67】

 〈|294上|前提によれば,全取引は二つの種類の資本家のあいだで,すなわち貨幣資本家〔monied Capitalist〕と生産的資本家とのあいだで,行なわれる。〉 (205頁)

 〈前提によれば、全取引は二つの種類の資本家のあいだで、つまり貨幣資本家と生産的資本家とのあいだで、行われます。〉

 【このようにマルクスは利子生み資本の考察では、全取引は二つの種類の資本家のあいだで行われるものとして前提している。貨幣資本家と生産的資本家である。だから貨幣資本家というのは貨幣を貸しつけて利子を得ることを目的にした資本家である。だから本来的貨幣資本家というものには銀行などそれを媒介する機関はとりあえずはより具体的な内容規定を持ったものとして捨象されていると考えるべきだろう。他方、利子生み資本を借り受ける資本家としては生産的資本を前提している。つまり現実に貨幣資本を生産資本に転化して剰余価値を生産する資本家である。だから剰余価値を生まず、その分け前を受け取るだけの例えば商業資本家などは捨象されているのである。マルクスは利子生み資本の概念を考察するときには、それは平均利潤を得るという使用価値を譲渡するということから説明し、その平均利潤の成立には商業資本も参加することが前提になっているかに論じていたが、しかしここでは利子生み資本をそれ自体として純粋に考察するためには、こうした前提が必要だと考えているように思える。】


【68】

 資本がここではそれ自身商品として現われるとすれば,この場合,忘れてはならないのは,資本は資本として商品なのだということ,言い換えれば,ここで問題になっている商品は資本なのだということである。それゆえ,ここで現われるすべての関係は,単純な商品の立場から見れば,または資本の立場から見ても,資本がその総過程で商品資本として機能するかぎりでは,不合理であろう。貸付借受であって販売購買ではないということが,ここでは,商品--資本--の独自な性質から出てくる区別である。また,ここで支払われるものが利子であって商品の価格ではないということも,そうである。もしも利子を貨幣資本の価格と名づけようとするならば,それは価格の不合理な形態であって,商品の価格の概念とはまったく矛盾している。a) 資本としての資本が自分を[429]表明するのは,その価値増殖によってである。その価値増殖の程度は,それが資本として(量的に)実現される程度を表現している。この剰余価値または利潤--その率または高さ--は,ただ利潤を前貸資本の価値と比較することによってのみ測ることができる。②したがってまた,利子生み資本の価値増殖の大小も,利子の高さ(総利潤のうちからその資本のものになる部分)を,前貸資本の価値と比較することによってのみ,測ることができる。それゆえ,価格が商品の価値を表わすように,利子はmonied Capitalの価値増殖を表わすのであり,だからまた,monied capita1にたいして貸し手〔Ausleiher〕に支払われる価格として現われるのである。/

  ①〔異文〕[貸付と借受〔Verleihen und Borgen〕」← 「貸し〔Leihen〕」
  ②〔異文〕「したがってまた……によってのみ,測ることができる」ist daher auch nur meßbar←kann daher auch nur gemessen〉 (205-206頁)

 〈資本がここでは商品として現れるとするなら、この場合、忘れてならないのは、資本は資本として商品なのだということです。言い換えれば、ここで問題になっているのは資本なのだということです。だから、ここで現れるすべての関係は、単純な商品の立場から見れば、または資本の立場から見ても、資本がその総過程で商品資本として機能する限りでは、不合理でしょう。貸付と借受であって販売と購買ではないということが、ここでは資本という商品の独自な性質から出てくる区別なのです。またここで支払われるものが利子であって商品の価格ではないといこともそうです。もしも利子を貨幣資本の価格と名づけようとするならば、それは価格の不合理な形態であって、商品の価格の概念とはまったく矛盾しています。資本としての資本が自分を表明するのは、その価値増殖によってです。その価値増殖の程度は、それが資本として量的に実現される程度を表明しています。この剰余価値または利潤の率または高さは、ただ利潤を前貸資本の価値と比較することによってのみ測ることができます。したがってまた、利子生み資本の価値増殖の大小も、利子の高さを、前貸資本の価値と比較することによってのみ、測ることができます。それゆえ、価格が商品の価値を表すように、利子はmoneyed capitalの価値増殖を表すのです。よってまた、貸し手に支払われるmoneyed capitalの価格として現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本では資本が商品になるということが強調されている。この点、宇野は次のように批判する。「マルクスは間違っている。貨幣が商品になるのであって資本が商品になるのではない」と。しかし貨幣が商品になるのは、その貨幣の資本としての使用価値によって商品になるのである。だからここで重要なのは資本が資本として商品になるということなのである。この資本として商品なのだということが、貸付と借受という独自の行為を生み出すのだからである。また支払われるものが商品の価格ではなく利子であるということも資本が商品になるということから生まれてくるのだからである。貨幣が商品になるということだけでは、何故に貨幣が商品になるのか分からなくなる。それは貨幣が資本として機能するという独特の使用価値をもつからであろう。つまり資本だからである。だからこそマルクスは資本として商品になることを強調しているのである。
  ここでは利子がどうしてmoneyed capitalの価格として現れるのかを説明している。というのは利子は前貸資本の増殖分であり、借り手が貸し手に支払うものだから、だから貨幣を資本として商品にして譲渡する貸し手に支払うわけだから、だから商品としてのmoneyed capitalのそれは価格なのだということである。】


【69】

 〈[426]|294下|〔原注〕a)ここでは,価格は,使用価値としてなんらかの仕方で働くなんらかのものにたいして支払われる一定の貨幣額だというその純粋に抽象的で無内容な形態に還元されているのであるが,価格の概念から見れば,価格は,この使用価値の交換価値を貨幣で表わしたものなのである。〉 (206頁)

 〈ここでは、価格は使用価値として何らかの仕方で働く何らかのものにたいして支払われる一定の貨幣額だということになりますが、これはその純粋に抽象的で無内容な形態に還元されています。これは価格の概念からすれば不合理です。なぜなら、商品の価格とは使用価値の交換価値を貨幣で表したものだからです。〉

 【これは〈もしも利子を貨幣資本の価格と名づけようとするならば,それは価格の不合理な形態であって,商品の価格の概念とはまったく矛盾している〉という一文につけられた原注であるが、すべてマルクス自身の文となっている。だから一応平易な書き下し文をつけておいた。つまり利子を利子生み資本の価格だという場合、それは使用価値として何らかの仕方で働くものにたいして支払われる一定の貨幣額というような内容になるが、これではまったく抽象的で無内容なものに還元されているし、商品の価格の概念からすれば不合理以外の何ものでもないというわけである。】


【70】

 〈①②「通貨に適用される価値という術語には三つの意味がある。……第2には,後日受け取られるべき同一額の通貨と比べての,現実に手にしている通貨。この場合には,通貨の価値は利子率によって測られており,また利子率は貸付可能資本〔loanable capital〕とそれにたいする需要との割合によって,規定されている。」(R.トランズ商業信用に影響を及ぼす1844年の銀行特許法の運用について』,第2版,ロンドン,1847年,5[,6]ページ。〔)〕゜(下方)/

  ①〔注解〕このパラグラフについては,「ロンドン・ノート1850-1853年」のノートVIIを見よ。(MEGAIV/8,S.212.15-22.)
  ②〔注解〕トランズでは次のとおり。--「価値という術語は,通貨に適用されるときには,三つの異なった意味がある。……現実に手にしている通貨が,将来のある日に受け取られるべき同一額の通貨と比べられることがある。この場合には,通貨の価値は利子率によって測られており,また,利子率は貸付可能資本とそれにたいする需要との割合によって,規定されているので,それは利子率が下落または上昇するのに応じて上昇または下落すると言ってよい。」〉 (206-207頁)

 【これは原注a)の続きである。この原注a)は次のパラグラフまで続いている。このパラグラフはトランズの著書からの抜粋だけだから、平易な書き下しは不要であろう。トランズは価値という述語が通貨に適用されると三つの異なる意味がある、と述べて、利子を通貨の価値としているわけである。そして利子率は貸付可能資本の需給によって規定されるとも指摘している。】


【71】

 /294下/(資本の価格としての利子というのは,もともと〔de prime abord〕まったく不合理な表現である。ここでは一つの商品が二重の価値をもっている。すなわち,まず第1にある価値をもち,次にはこの価値とは違った価格をもっている。他方では,価格とは価値の貨幣表現〔monetary expression of value〕なのである。)貨幣資本は,さしあたりは,ある貨幣額にほかならない。または,一定の価値量の価値が貨幣額として固定されたものにほかならない。もし商品が資本として貸し付けられるとすれば,その商品は,ただ,ある貨幣額の仮装形態でしかない。というのは,資本として貸し付けられるものは重量何ポンドかの綿花ではなく,綿花という形態のなかに(綿花の価値として)存在するいくらかの額の貨幣だからである。それゆえ,資本の価格は,トランズ氏の言うように通貨としての,ではないにしても,貨幣額としての資本に連関する。いったいどうして,ある価値額は,それ自身の貨幣形態で表わされている価格のほかに,ある価格をもつのか? 価格とは,商品の使用価値から区別された商品の価値のことなのだから。(そして市場価格の場合もやはりそうであって,市場価格と価値との相違は,質的ではなく,ただ量的であるだけであって,ただ価値量に連関するだけである。)価値と質的に異なるものとしての価格というものは,名辞矛盾〔contradictio in terminis〕である。「貨幣または通貨の価値という言葉が,現に見られるように,商品と交換されるさいの価値と,資本として使用されるさいの価値との両方を表わすために無差別に使用されるならば,この言葉の両義性は混乱〔confusion〕の絶えざる源泉である。」(トゥク通貨原理の研究』,77ページ。〔玉野井芳郎訳『トゥック通貨原理の研究』,『世界古典文庫』,日本評論社,1947年,135ページ。〕)交換価値そのものが(利子が)資本の使用価値になる{このことによって,資本は,交換価値を生みだす使用価値をもつ労働能力と同一視される}という主要な「混乱」〔Haupt“confusion”〕(事柄そのもののうちにある)がトゥクにはわからないのである。〔原注a)終わり〕|

  ①〔異文〕この挿入は手稿のこのページの最後に書かれており,原注a)への補足となっている。この部分は標識oによってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔訂正〕「(」--草稿では欠けている。
  ③〔異文〕「表[現]〔Ausdru[ck]〕」という書きかけが消されている。
  ④〔異文〕「貨幣資本〔Das Geldcapital〕」← 「資本〔Capital〕」〉 (207-208頁)

 〈(資本の価格としての利子というのは、もともとまったく不合理な表現です。というのは、利子生み資本においては、一つの商品が二重の価値を持っています。まず第一にそはある価値を持ちます。それは一定の貨幣額なのですから。次ぎにその価値とは違った価格(利子)をもっています。価格というのは、本来は価値の貨幣表現なのですから、だからここでは一つの商品が二重の価値をもつことになってしまいます。)貨幣資本は、さしあたりは、ある貨幣額です。または、一定の商品量の価値が貨幣額として固定されたものです。もし商品が資本として貸しつけられるとすれば、その商品は、ただある貨幣額の仮装形態でしかありません。というのは、資本として貸し付けられるものは重量何ポンドかの綿花ではなく、綿花という形態のなかに(綿花の価値として)存在するいくらかの額の貨幣だからです。だから、資本の価格は、トランズ氏の言うように通貨としての、ではないにしても、貨幣額としての資本に関連します。いったいどうして、ある価値額は、それ自身の貨幣形態で表されている価格のほかに、ある価格を持つのでしょうか? 価格とは、商品の使用価値から区別された商品の価値のことなのですから。(市場価格の場合もやはりそうであって、ただ価値量に関連するだけです。)価値と質的に異なるものとしての価格というものは、名辞矛盾(=概念矛盾)です。トゥクは「貨幣または通貨の価値という言葉が,現に見られるように,商品と交換されるさいの価値と,資本として使用されるさいの価値との両方を表わすために無差別に使用されるならば,この言葉の両義性は混乱〔confusion〕の絶えざる源泉である」と書いていますが、交換価値、つまり利子が資本の使用価値になる、そしてこのことによって、資本は交換価値を生み出す使用価値をもつ労働能力と同一視されますが、こうした事柄そのものにある混乱が彼には分からないのです。〉

 【これは原注a)に関連づけて追加された一文のようであるが、ようするに「利子」が「価格」というのは、価格の概念からしても不合理だということがいろいろと述べられている。またトゥクもこの点では混乱していることが指摘されている。まあ、こうしたこと自体にはそれほど理解の困難さはないから次ぎに行こう。】


【72】

 [429]/294上/このことからも明らかなように,貨幣によって媒介される交換,つまり買い手と売り手という単純な諸関係を直接にこの場合に適用しようとすることは,じつにはじめからばかげたことである。根本前提は,貨幣が資本として機能するということ,したがってまた資本(即自的な)として,第三者に引き渡されることができるということなのである。

  ①〔異文〕「買い手と売り手という単純な諸関係」← 「諸商品と〔……〕との諸関係」
  ②〔異文〕「(即自的な)」--書き加えられている。
  ③〔異文〕「貸し付けられる」という書きかけが消されている。〉 (208-209頁)

 〈このことから分かりますように、貨幣によって媒介される交換、つまり買い手と売り手という単純な諸関係を、直接この場合(利子生み資本の場合)に適用しようとすることは、実に、はじめから馬鹿げたことなのです。根本前提は、貨幣が資本として機能するということです。だからまた即時的資本として第三者に引き渡されることができるということなのです。〉

 【ここでもマルクスは、貨幣が商品として販売されるのはそれが資本として機能するからだと強調している。だからこそその販売は貸付になり、その購買は借受になるわけである。根本前提は貨幣が資本として機能するということであり、貨幣が即時的な(潜在的な、可能的な)資本として第三者に引き渡されるということなのである。】

  (以下、続く)

2019年7月 7日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-8)

『資本論』第3部第21章の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第50パラグラフからである。


【50】

 |292上|これまでの考察は,所有者と生産的資本家とのあいだでの貸付資本の運動にかかわるだけである。今度は利子を考察しなければならない。

  ①〔異文〕「所有者と」← 「貸し手と」〉 (197-198頁)

 〈これまでの考察は、所有者と生産的資本家とのあいだでの貸付資本の運動にかかわるものだけでした。今度は利子を考察することにしましょう。〉

 【これまでは利子生み資本の考察を行い、それに固有の運動を考察してきたが、ここからは話を転じて、「利子」の考察に移っている。】


【51】

 貸し手は自分の貨幣を資本として引き渡す。彼が第三者に譲渡する商品は,資本であって,だからこそ彼のもとに還流する〔returniren〕のであり,売られるのではなくて,一定期間のあいだ貸し付けられるだけである。しかし,その額がただ帰ってくるだけでは,それは貸し付けられた価値額の資本としての還流〔return〕ではなくて,貸し付けられた価値額のたんなる返済であろう。資本として還流する〔returniren〕ためには,ただ前貸された価値額が,運動のなかで自分を維持しただけではなく,運動のなかで自分を増殖し,その価値量をふやしていなければならず,つまり剰余価値を伴って,G+△Gとして帰ってこなければならない。そして,この△Gはここでは,利潤(平均利潤)のうち機能資本家の手のなかにとどまっていないで貨幣資本家〔moniedcapitalist〕のものになる部分としての,利子である。

  ①〔異文〕「帰ってくる〔Rückkehrung〕」← 「返済[される]〔Rückzahl[ung]〕」
  ②〔異文〕「貸し付けられた価値額の」← 「資本の」〉 (198頁)

 〈貸し手は自分の貨幣を資本として引き渡します。彼が第三者に譲渡する商品は、資本なのです。だからそれは彼のもとに還流します。それは売られるのではなく、一定期間のあいだ貸しつけられるのです。しかしその額がただ帰ってくるだけでは、それは貸しつけられた価値額の資本としての還流とはいえません。ただ単なる貸しつけられた価値額のたんる返済でしょう。それが資本として還流するためには、前貸しされた価値額が、運動の中で自分を維持するだけではなく、運動の中で自分を増殖し、その価値額をふやしていなければなりません。つまり剰余価値を伴って、G+ΔGとして帰って来なければならないのです。そしてこのΔGこそ利子なのです。これは利潤(平均利潤)のうちの機能資本家の手にとどまっていないで貨幣資本家のものになる部分なのです。〉

 【まずここでは利子とは何かを規定している。それは利子生み資本が貸しつけられて、資本として機能する過程での増殖分であり、よって機能資本家が彼が獲得した利潤(平均利潤)のうち、彼の手に留まっていないで貨幣資本家のものになる部分だとしている。それは金額的には平均利潤から企業利得を差し引いたものに該当するが、しかし機能資本家にとってはまず利子支払があり、そして残った部分が自分の取り分(企業利得)となるのであって逆ではない。だからマルクスは利子を説明して〈そして,この△Gはここでは,利潤(平均利潤)のうち機能資本家の手のなかにとどまっていないで貨幣資本家〔moniedcapitalist〕のものになる部分としての,利子である〉というややまどろっこしい説明をしているわけである。これは生産的資本家に利潤が還流しても、その一部は生産的資本家の手にとどまっていないでそのまま貨幣資本家へと還流してしまう部分として機能資本家には意識されるということなのである。それがすなわち「利子」なのだというわけである。】


【52】

 〈それが資本として彼によって譲渡されるということは,それがG+△Gとして彼に還流させられなければならないということである。{中間の時期に利子は還流する〔returniren〕が,資本は還流しないという形態は,あとでもう一度別に考察されなければならない。}〉 (198-199頁)

 〈それはすでに何度も述べたが、資本として彼(貨幣資本家)によって譲渡されるのです。だからそれはG+ΔGとして彼に還流しなければならないのです。(もちろん、中間の時期に利子だけが還流して、資本は還流しないという形態もありますが、そうしたものはもっとあとで別に考察されなければなりません。)〉

 【ここでも利子生み資本は、あくまでも資本として第三者に譲渡されるということが強調されている。だからそれは利子を伴って還流しなければならないのである。また利子だけが還流して、もとの資本はある一定の時期を待って還流する場合や、あるいは利子と共にもとの資本の一部分ずつが少しずつ還流するというような形態、つまり資本と利子の還流の諸形態そのものはもう一度別に考察するとの断りがなされている。】


【53】

 〈貨幣資本家〔monied Capitalist〕は,借り手〔Leiher〕である生産的資本家になにを与えるのか? 前者は後者に実際にはなにを譲渡するのか? そして,ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,するのである。〉 (199頁)

 〈貨幣資本家は、借り手である生産的資本家に何を与えるのでしょうか。前者は後者に実際には何を譲渡するのでしょうか。そして、ただこの譲渡という行為(その内容)だけが、貨幣の貸付を、資本としての貨幣の譲渡に、つまり商品としての資本そのものの譲渡に、するのです。〉

 【貨幣資本家は、生産的資本家に何を与えるのか? との問いが発せられている。それは実際には貨幣を譲渡するのであるが、その貨幣は平均利潤を生むという独特の使用価値をもっている。だから前者は後者に何を譲渡するのか、といえば、それは資本として利潤を生む使用価値を譲渡するわけである。しかしその使用価値の実現というのは、その貨幣を資本として機能させるということであって、新たな増殖された価値として還流させるということである。ただここでマルクスが〈そして,ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,するのである〉と述べている意図がいま一つはっきりしない。これでマルクスは何を言いたいのであろうか。そこで〈ただ譲渡という行為だけが〉というのは、その譲渡の内容、何が譲渡されるかということこそが、〈資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,するのである〉と理解すれば、譲渡の内容、つまり平均利潤を生むという独特の使用価値が譲渡されるという内容が問題であることが分かるのではないかと思う。】


【54】

 資本が貨幣の貸し手によって--monied Capitalの形態で〔--〕商品として手放されるということ,または,彼の自由に使える商品が第三者に資本として手放されるということは,ただこの譲渡という過程〔Prozeβ〕によってのみ行なわれるのである。〉 (199頁)

 〈資本が貨幣の貸し手によって、moneyed capitalという形態で、商品として手放されるということは、あるいはまた、彼の自由に使える商品が第三者に資本として手放されるということは、ただこの譲渡という過程によってのみ行われるのです。〉

 【ここでも先のパラグラフにつづいて、「譲渡」という行為、あるいは過程が強調されている。こうした譲渡の強調にはどういう意図があるのか。これは【53】パラグラフで〈前者は後者に実際にはなにを譲渡するのか? 〉と問いながら、それにはっきりとした回答を与えているようには思えないことや。またそれに続く一文〈ただ譲渡という行為だけが,貨幣の貸付を,資本としての貨幣の譲渡に,すなわち商品としての資本そのものの譲渡に,する〉も、譲渡が譲渡にするという同義反復のような文章になっていることなど、不可解なことが続く。しかしいずれにせよ平均利潤を生むという独特の使用価値を譲渡するから、それは〈資本としての貨幣の譲渡に〉なるということ、あるいは商品としての資本そのものの譲渡にする〉ということであろう。】


【55】

 普通の販売ではなにが譲渡されるのか? 売られる商品の価値ではない。というのは,この価値はただ形態を変えるだけだからである。この価値は,①現実に〔reell〕貨幣の形態で売り手の手に移る前に,価格として観念的に〔ideell〕商品のなかに存在している。同じ価値,そして同じ価値量が,ここではただ形態を取り替えるだけである。同じ価値,同じ価値量が一度は商品形態で存在し,もう一度は貨幣形態で存在する。現実に売り手によって譲渡される(したがってまた買い手の個人的または生産的消費にはいって行く)ものは,商品の使用価値であり,使用価値としての商品である。

  ① 〔異文〕「〔……〕ではなくて〔nicht〕」という書きかけが消されている。〉 (199頁)

 〈普通の商品の販売では何が譲渡されるのでしょうか? 売られる商品の価値ではありません。というのは商品の価値はただ形態を変えるだけだからです。この価値は、現実に貨幣の形態で売り手の手に移る前に、価格として観念的に商品のなかにあります。同じ価値、そして同じ価値量が、ここではただ形態を取り替えるだけです。同じ価値、同じ価値量が一度は商品の形態で存在し、もう一度は今度は貨幣の形態で存在します。現実に売り手によって譲渡される(したがってまた買い手の個人的または生産的消費に入っていく)ものは、商品の使用価値であり、使用価値としての商品なのです。〉

 【このパラグラフで利子生み資本では何か譲渡されるか、と問うた【53】パラグラフの問いかけに答えるために、まずは普通の商品の販売では何が譲渡されるのかを問題にしている。それは商品の価値ではなく、その使用価値だというのがマルクスの回答である。だからまた利子生み資本としての一定の価値額の譲渡も、それの資本としての使用価値の譲渡なのだというのがマルクスが次ぎにいいたことなのであろう。つまり資本としての使用価値、平均利潤を生むという使用価値を譲渡するのだ、というのがマルクスが言いたいことで、それを強調するための展開なのである。ただこうしたことは利子生み資本そのものの規定で言われてきたことでもあるのであり、今は利子を考察する観点からもう一度問題にするということであろうか。】


【56】

 〈それでは,貨幣資本家〔monied capitaist〕が貸出期間のあいだ譲渡して,借り手〔Leiher〕である生産的資本家に譲る使用価値とはなにか?〉 (200頁)

 〈それでは貨幣資本家が貸出期間のあいだ譲渡して、借り手である生産的資本家に譲る使用価値とは何でしょうか?〉

 【利子生み資本としては、貨幣が独特の商品として第三者に引き渡される。この譲渡は何を譲渡するのか、普通の商品の販売では、価値は譲渡されず、その使用価値が譲渡されるのだが、利子生み資本としての貨幣の場合、商品としての貨幣の譲渡では、譲渡される使用価値とは何か、という問いであるが、これは利子生み資本の概念そのものを考察してきたものにとっては明らかである。それは平均利潤を生むという使用価値である。】


【57】

 〔それは,〕貨幣が資本に転化させられることができ,資本として機能することができる,ということによって,したがってまた,貨幣が自分の元来の価値量を維持し,保存する〔conserviren〕ことを別として,その運動中に一定[424]の剰余価値--平均利潤(それよりも大きかったり小さかったりすることはここでは偶然として,また資本としての資本の機能には外面的なこととして現われる)〔--〕を生むということによって,貨幣が受け取る使用価値〔である〕。

  ①〔異文〕「自分自身を」という書きかけが消されている。〉 (200頁)

 〈利子生み資本においては、譲渡される使用価値というのは、その譲渡される貨幣が資本に転化させられることができ、資本として機能することができるということです。貨幣が自分の元来の価値を維持し、保存するだけではなく、その運動のなかで一定の剰余価値を生むということ、それが商品としての貨幣の使用価値なのです。この剰余価値が平均利潤よりも大きかったり小さかったりすることはここでは偶然のこととして、また資本としての機能にとっては外面的なこととして現れますので、考慮する必要はありません。〉

 【これまでマルクスは「譲渡」ということを強調して、何を譲渡するのかと問うてきたが、それは貨幣が資本として機能するという独特の使用価値が譲渡されるのだということがここで明らかにされている。しかしこれらの考察は果たして利子そのものの考察としてどれだけ必要なものなのかはいま少しよく分からない。】


【58】

 〈このような,資本としての貨幣の使用価値--平均利潤を生むという--を貨幣資本家〔monied Capitalist〕は貸付の期間のあいだ生産的資本家に譲渡するのであって,この期間中は,前者は後者に貸し付けた資本の処分能力を譲るのである。〉 (200頁)

 〈このような、資本としての貨幣の使用価値、平均利潤を生むという使用価値、を貨幣資本家は貸付の期間のあいだ生産的資本家に譲渡するのです。この期間中は、前者は後者に貸しつけた資本の処分能力を譲るのです。〉

 【ここでようやく【53】パラグラフで発せられた問いに対する回答が与えられている。しかしこれはある意味では利子生み資本そのものの概念に含まれることでもあったのではないだろうか。なぜ、ここでそれが再び強調されるのか、それが問題である。しかしそれは先に進む中でおいおい明らかになるのであろう。】


【59】

 このようにして貸し付けられる貨幣は,そのかぎりでは,労働能力が生産的資本家にたいしてもつ地位と次のような類似点をもっている。(ただし,後者は労働能力の価値を支払うのであるが,生産的資本家は貸し付けられた資本の価値を単純に返済するのである。)生産的資本家にとっては,労働能力の使用価値は,労働能力自身がもっているよりも,また労働能力に費やされるよりも,より多くの価値(利潤)をその消費〔Consumtion〕のなかで生みだすということである。交換価値のこの超過分が生産的資本家にとっての労働能力の使用価値である。こうして同様に,前貸された貨幣資本の使用価値も,やはり交換価値を生んでふやすというそれの能力として現われるのである。|

  ①〔異文〕「交換価値」← 「価値」〉 (200-201頁)

 〈このような利子生み資本がこのよう使用価値を持つものとして貸しつけられるということは、そのかぎりでは、労働能力が生産的資本家に対してもつ地位と次のよう類似点をもっています。(ただし、後者の場合は生産的資本家は労働能力の価値を支払うのであって、それを借り受けるのではありません。それに対して、利子生み資本では、生産的資本家は貸しつけられた資本の価値を単純に返済するのです)。生産的資本家にとっては、労働能力の使用価値は、労働能力自身がもっているよりも、また労働能力に費やされるよりも、より多くの価値(利潤)をその消費の中で生み出すということです。交換価値のこの超過分が生産的資本家にとっての労働能力の使用価値です。これと同様に、利子生み資本の場合も、前貸しされた貨幣資本の使用価値も、やはり交換価値を生んでふやすというそれの能力として現れるのです。〉

 【ここでは利子生み資本の貸付で譲渡されるのは、貨幣の資本として機能するという使用価値であることが確認されたが、こうした使用価値は、労働力の使用価値との類似点があるということが指摘されている。ただ労働力に対しては生産的資本家はその価値を支払うのだが、利子生み資本の場合はその貨幣額を貸しつけられるだけで、だから彼はそれを一定期間後にはただ返済するだけである。しかし生産的資本家にとっては労働能力の使用価値というのは、それがもっている価値以上の価値を生み出すという能力であり、その使用価値の実現、消費の過程で、資本家は剰余価値を得るのである。だから生産的資本家にとっての労働能力の使用価値というのは、この超過分(利潤)である。それと同じように、利子生み資本の場合も、その貸しつけられる貨幣の使用価値は平均利潤を生むというものであり、生産的資本家はその使用価値を実現して、利潤を得るわけである。】


【60】

 |293上|貨幣資本家〔monied capitalist〕は,じっさい,ある使用価値を譲渡するのであって,そうすることによって,彼が手放すものは商品として手放されるのである。そして,そのかぎりでは,商品としての商品との類似は完全である。1)一方の手から他方の手に移るものは価値である。普通の商品,商品としての商品の場合には,買う人の手にも売る人の手にも同じ価値がとどまっている。というのは,彼らは両方とも相変わらず,自分たちが譲渡したのと同じ価値を,ただし異なった形態で,つまり一方は商品形態で,他方は貨幣形態で,取り戻すのだからである。区別は,ただ貨幣資本家〔monied capita1ist〕のほうだけがこの取引で価値を渡してしまうということであるが,しかし彼は,返済〔repayment〕によってこの価値を保持する〔conserviren〕のである。一方の側だけによって価値が受け取られることができるのであるが,それは,この貸付という取引においては,一方の側だけによって価値が手放されるからである。2)一方の側では現実の使用価値が譲渡され,他方の側ではそれが受け取られて消費される〔erhalte u.consummirt werden〕。しかし,商品としての商品の場合とは違って,この使用価値はそれ自身が交換価値である。すなわち,(貨幣を資本として)使用することによって生じる価値量が貨幣のもとの価値を越えるその超過分である。利潤はこの使用価値である。

  ①〔異文〕「彼が譲渡してしまうものは〔das,waserveraussertweg〕」という書きかけが消されている。〉 (201-202頁)

 〈貨幣資本家は、じっさい、ある使用価値を譲渡するのです。そうすることによって、彼が手放すものは商品として手放されるのです。そして、そのかぎりでは、商品としての商品との類似は完全です。なぜなら1)一方の手から他方の手に移るものは価値だからです。普通の商品、商品としての商品の場合には、買う人の手にも売る人の手にも同じ価値が留まっています。というのは、彼らは両方とも相変わらず、自分たちが譲渡したのと同じ価値をただ異なった形態で、つまり一方は商品形態で、他方は貨幣形態で、取り戻すのだからです。区別は、ただ貨幣資本家のほうだけがこの取引で価値を渡してしまうということですが、しかし彼は、返済によってこの価値を保持するのです。一方の側だけによって価値が受け取られることができますが、それはこの貸付という取引においては、一方の側だけによって価値が手放されるからです。2)一方の側では現実の使用価値が譲渡され、他方の側ではそれが受け取られて消費されます。しかし、商品としての商品の場合とは違って、この使用価値はそれ自身が交換価値なのです。つまり、(貨幣を資本として)使用することによって生じる価値量が貨幣のもとの価値を越えるその超過分のことです。だから利潤はこの商品の使用価値なのです。】

 【ここでは貨幣資本家が譲渡する商品の使用価値の独特の性質を、普通の商品の売買と比較しながら、明らかにしている。それは確かに普通の商品の売買と類似しているが、しかし明らかに異なる点もあると指摘されている。まず類似点としては、それは商品として手放されるという点である。また手放されるのは商品の使用価値だということも類似している。しかし区別される点は、普通の商品の売買の場合は、価値は手放されないということである。しかし利子生み資本では価値そのものが手放されるわけである。しかしその代わりに手放される価値は、返済という形でもとに戻されなければならない。もう一つの区別は、普通の商品の場合、譲渡される使用価値は、購買者によって個人的に消費されるか、あるいは生産的に消費される。しかし利子生み資本の場合に譲渡される使用価値というのは、平均利潤を生むという独特の使用価値であり、よってその使用価値の消費過程というのは、それを資本として機能させるということである。つまりその使用価値というのはそれを資本として機能させることによって生じる利潤こそがそれだとマルクスは指摘しているのである。】


【61】

 〈貸し出される貨幣の使用価値は,資本として機能することができるということ,資本として平均的事情のもとでは平均利潤を生産するということである。a)/〉 (202頁)

 〈貸し出される貨幣の使用価値というのは、資本として機能することができるということです。つまり平均的事情のもでは平均利潤を生産するということです。〉

 【ここでも基本的には同じことが指摘されている。つまり利子生み資本で譲渡される貨幣の独特の使用価値というのは、それが資本として機能することかできるということである。平均利潤を生むことができるという使用価値なのである。】


【62】

 |293下|〔原注〕a)「利子を取ることの正当さ〔equitableness〕は,人が利潤をあげるかどうかによって定まるのではなく,それ」(借りられるもの)「が正しく使われれば利潤を生むという能力があるということによって定まるのである。」(『自然的利子率を支配する諸原因に関する一論。この論題に関するサー・W.ペテイおよびロック氏の意見の検討』,ロンドン,1750年,49ページ。)(この書の匿名の筆者は,J.マッシーである。)〔原注a)終わり〕/

  ①〔注解〕この引用はカール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』から取られている。(MEGAII/3.6,S.2125.14-16.)〉 (202頁)

 【これは原注でほぼ引用だけなので、特に平易な書き下しは不要であろう。この原注は【61】パラグラフに〈資本として機能することができる〉ということを、〈平均的事情のもとでは平均利潤を生産するということ〉という説明と関連して付けられたものであろう。この原注では、利子は貸し出された資本がじっさいに利潤を得るかどうかではなく、それが正しく使われるなら利潤を生む能力があるということによって決まるのだと指摘されている。だから貸し出された貨幣が正当に資本として使用されなくても、しかし借り受けた人は利子を支払う義務を負うわけである。この原注は注解によれば61-63草稿からとられているが、その内容をもう少し長く抜粋して紹介しておこう。なかなか興味深いことが語られているからである。

 利子をとることの正当性は、人が、その借り入れるものによって利潤を得るかどうかにかかっているのではなく、その借り入れるものが、もし正しく用いられれば、利潤を生むことができるということにかかっているのである。(49ページ。)人々が借り入れるものにたいして利子として支払うものは、その借り入れるものが生みだすことのできる利潤の一部分であるとすれば、この利子は、つねにその利潤によって支配されざるをえない。(49ページ。)これらの利潤のうち、どれだけの割合が借り手に属し、どれだけの割合が貸し手に属するのが公正であろうか? これを決定するには、一般に、貸し手たちと借り手たちの意見による以外には方法はない。というのは、この点についての正否は、共通の同意がそれを判断するしかないからである。(49ページ。)けれども、利潤分割のこの規則は、それぞれの貸し手と借り手とに個々に適用されるべきではなく、貸し手たちと借り手たちとに一般的に適用されるべきである。……いちじるしく大きい利得は熟練の報酬であり、いちじるしく小さい利得は知識の不足のむくいであるが、それには貸し手たちはなんのかかわりもない。というのは、彼らは、前者〔いちじるしく小さい利得〕によって損をしないかぎり、後者〔いちじるしく大きい利得〕によって得をするべきではないからである。同じ事業に従事する個々の人々について述べたことは、個々の事業種についてもあてはまる。(50ページ。)自然的利子率は、個々の人にたいする事業利潤によって支配される。(51ページ)」。では、なぜイングランドでは利子は以前のように8%ではなく4%であるのか? イギリスの商人たちが、その当時は、「彼らが現在得ている利潤の倍儲けていた」からである。なぜ〔利子は〕オラン、ダでは3%、フランス、ドイツ、ポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは9%、トルコでは12%であるのか? 「そのすべてについて、一つの一般的な答えで足りる、であろう。すなその答えとは、これらの諸国における事業利潤はわが国の事業利潤とは相違するということ、しかも、そうしたすべての異なった利子率を生みだすほどに相違しているということである。」(51ページ。)

  ①〔注解〕以下、四つのパラグラフでの強調はマルクスによる。
  ⑤〔訳注〕「その借り入れるものが生み出すことのできる利潤の一部分」--|強調は二重の下線による。
  ⑥〔訂正〕「(50ページ。)」--手稿では「(50、51ページ。)」となっている。
  ⑦〔注解〕以下の三つの文は、マッシーの原文では次のようになっている。「なぜイングランドでは利子は100年前には8%で、現在は4%でしかないのか、また、なぜオランダでは利子は、この期間中にイングランドで利子が低下したのとほぼ同じ比率で低下したのか、と関われれば、その答えはこうである。すなわち、商人たちと事業家たちは、一般に……、その当時は、彼らが現在得ている利潤の倍儲けていたからである、と。
 あるいは、なぜ利子は、オランダでは3%フランスドイツおよびポルトガルでは5および6%、西インド諸島および東インドでは7、8および9%、トルコでは10-12%であって、すべての交易国において同一でないのか、と問われれば、その答えはこうである。」〉 (草稿集⑧363-365頁)】

 (以下、続く)

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