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2019年6月29日 (土)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-7)

『資本論』第3部第21章の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第43パラグラフからである。


【43】

 〈①資本が自分の出発点に帰るということは,そもそも,資本がその総過程のなかで行なう特徴的な運動である。だから,このことはけっして利子生み資本を特徴づけるものではない。利子生み資本を特徴づけるものは,この復帰の,媒介から分離された,外面的な形態である。

  ①〔異文〕「第1に」という書きかけが消されている。〉 (190頁)

 〈プルドンは〈貨幣資本は交換が行なわれるごとに絶えずその源泉に帰るのだから,絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しはつねに同じ人に利益をもたらすということになる〉と論じていますが、しかし資本が自分の出発点に帰るということそのものは、資本がその総過程のなかで行う特徴的な運動であって、決して利子生み資本に固有のものでも、それを特徴づけるものでもないのです。利子生み資本を特徴づけるものは、この資本の本来の復帰、現実資本の循環という媒介から分離された、外面的な形態であるというところにあるのです。〉

 【プルドンは資本の循環と貸付資本の循環の区別が分からずに混同しているわけである。それをマルクスは資本がその出発点に帰ってくるというのは資本が総過程のなかで行う特徴的な運動であって、利子生み資本を特徴づけるものではないという。もちろん、利子生み資本も資本である限りは、資本の総過程のなかで行う特徴的な運動を備えているが、しかしそれが利子生み資本を特徴づけるわけではない。あるいは利子生み資本とそれ以外の他の資本との区別をもたらすものではないというのが、マルクスのいわんとすることである。利子生み資本の運動を特徴づけるのは、現実資本の運動という媒介から分離された、外面的な形態であるというところにあるのだというのである。これは利子生み資本の第1の運動であるG_Gや、第2の運動であるG’_G'は再生産過程の外部の運動だとしていたのと同じことを述べているのである。】


【44】

 貸付資本家〔d.Capitalist préteur〕は,等価を受け取ることなしに自分の資本を手放し,それを生産的資本家に移転する。資本を手放すことは,けっして資本の現実の流通過程の行為ではなく,ただ生産的資本家の側での資本の流通を準備するだけである。このような,貨幣の第1の場所変換は,変態のどんな行為も,購買も販売も,表わしていない。所有は譲り渡されない〔d.propriéré n'est pascédée〕。なぜなら,交換過程も生じないし,等価も受け取られないからである。||291上|貨幣が生産的資本家の手から貸付資本家〔capit.prêteur〕の手に帰るということは,ただ,資本を手放すという第1の行為を補足するだけである。資本は,貨幣として前貸されて,ふたたび貨幣形態で生産的資本家の手に帰ってくる。しかし,資本は,引き渡されるときに彼のものではなかったのだから,帰ってくるときにも彼のものではない。(再生産過程も,この資本を彼の所有に転化することはできない。)だから,彼はそれを貸し手〔Ausleiher〕に返さなければならない。資本を貸し手の手から借り手〔Leiher〕の手に移転する第1の引き渡しは法律上の取引であるが,この取引は資本の現実の流通過程および生産過程とはなんの関係もなく,ただそれを準備するeinleiten〕だけである。復帰した資本をふたたび借り手〔Leiher〕の手から貸し手の手に返済する復帰は,第2の法律的取引であり,第1の取引の補足〔complement〕である。一方は現実の過程を準備し,他方は現実の過程のあとの補足的な行為である。だから,貸付資本の出発点-手放し,復帰点-返済は,任意な,法律的取引によって媒介される運動として現われるのであって,これらの運動は資本の現実の運動の前後に行なわれるもので,この現実の運動自身とはなんの関係もないものである。というのは,資本がはじめから生産的資本家のものであり,したがって彼の所有として彼の手に還流する〔returniren〕だけであったとしても,それは資本の現実の運動にとってはどうでもよいことであろうからである。第1の準備行為では貸し手が自分の資本を借り手〔Leiher〕に手放す。第2の補足的終結行為では借り手〔Leiher〕が資本を貸し手に返す。貸し手と借り手とのあいだの取引だけを考察するかぎりでは--そしてしばらく利子を無視すれば,つまり貸し手と借り手〔Leiher〕とのあいだでの貸される資本の運動だけを問題にするかぎりでは--,(資本の現実の運動が行なわれる)長短の時間によって分離されているこの二つの行為がこの運動の全体を包括する。[421]そしてそもそもこの運動,ある価値額の,それの所有者から,この価値額を一定期間後に返済しなければならないある第三者への移転,すなわち取り戻しを条件とする手放しが,貸付と借受の,すなわち,貨幣または商品のただ条件つきでの〔conditionel1〕譲渡というこの独自な形態の,運動なのである。十十)/

  ①〔異文〕「第1の」--書き加えられている。
  ②〔訂正〕「それ〔es〕」〔資本を指す〕--手稿では「それ〔sie〕」となっている。〔1894年のエンゲルス版〕刊本にならって訂正。〔sieではなにを指すのかわからない。〕
  ③〔異文〕「準備〔einleitend」〕--書き加えられている。
  ④〔異文〕「借り手に手放す」← 「借り手に与える」
  ⑤〔異文〕「すなわち取り戻しを条件とする手放し」--書き加えられている。〉 (190-193頁)

 〈貸付資本家は、等価を受けとることになしに自分の資本を手放し、それを生産的資本家に移転します。この第1の資本の移転、つまり資本を手放すことは、決して資本の現実の流通過程の行為ではありません。それはただ生産的資本家の側での資本の準備するだけです。このような貨幣の第1の場所変換は、商品価値の変態のどんな行為も、つまり購買も販売も、表していません。所有は譲り渡されていません。というのは、交換過程自体が生じていないからです。だから等価も受け取られていません。
 貨幣が生産的資本家の手から貸付資本家の手に帰るということは、ただ、資本を手放すという第1の行為を補足するだけです。資本は、貨幣とし前貸しされて、ふたたび貨幣形態で生産的資本家の手に帰ってきます。しかし、資本は、引き渡されるときに彼のものではなかったのだから、それが帰って来たとしてもやはり彼のものではないのです。(再生産過程も、この資本を彼の所有に転化することはできないのです。)だから、彼はそれを貸し手に返さなければなりません。
 資本を貸し手の手から借り手の手に移転する第1の引き渡しは法律上の取引ですが、この取引は資本の現実の流通過程および生産過程とは何の関係もありません。それはただそれを準備するだけです。復帰した資本をふたたび借り手の手から貸し手の手に返済する復帰は、第2の法律的取引ですが、それは第1の取引の補足です。一方は現実の資本の出発点を準備し、他方は現実の過程のあとの補足的な行為です。だから、貸付資本の出発点-手放し、復帰点-返済は、任意な、法律的取引によって媒介される運動として現れるのです。これらの運動は資本の現実の運動の前後に行われるもので、この現実の運動自身とはなんの関係もないのです。というのは、資本がはじめから生産的資本家のものであり、したがって彼の所有として彼の手に還流するだけであったとしても、それは資本の現実の運動にとってはどうでもよいことでしょうからです。
 第1の準備行為では貸し手が自分の資本を借り手に手放します。第2の補足的行為では借り手が資本を貸し手に返します。貸し手と借り手との間の取引だけを考察するならば--そしてしばらく利子を無視するとすれば、つまり貸し手と借り手のあいだでの貸される資本の運動だけを問題にするのであれば--、現実の資本の運動が行われる時間の長短によって分離されているこの二つの行為がこの運動の全体を包括しています。そしてそもそもこの運動、あるいは価値額の、それの所有者から、この価値額を一定期間後に返済しなければならないある第三者への移転、すなわち取り戻しを条件とする手放しが、貸付と借受の、つまり貨幣または商品のただ条件付きでの譲渡というこの独自な形態の運動なのです。〉

 【ここでは利子生み資本の独自な運動の幾つかの特徴が指摘されている。それをわれわれは分かりやすくするために箇条書き的に書き直してみよう。
 (1)貸付資本の第1の運動、G-Gは、等価を受け取るものではなく、商品の価値の変態のどんな行為も、つまり購買も販売も表していない。
 (2)だからそれは資本の現実の流通過程の行為ではない。
 (3)第1の場所変換は、生産的資本家の側での流通を準備するだけである。
 (4)第1の場所変換では、しかし所有は譲り渡されない。なぜなら、交換過程が生じないし、等価が受け取られるわけではないから。
 (5)生産的資本家の手から貸付資本家の手に帰るのは、ただ、最初の資本を手放した第1の行為を補足するだけである。
 (6)現実の資本家は、資本を前貸しして、ふたたび貨幣形態で彼の手にそれが帰ってくるのであるが、しかし資本が最初に彼の手から引き渡される時点ですでに彼のものではなかったのだから、それが復帰してもやはり彼のものではない。再生産過程も、この資本を彼の所有に転化することはできなかった。だから彼はそれを貸し手に返さなければならない。
 (7)資本の貸し手の手から借り手の手に移転する第1の行為は法律上の取引であるが、これは現実の資本の流通過程および生産過程とはなんの関係もなく、ただそれを準備するだけである。
 (8)生産的資本家の手に復帰した資本をふたたび借り手の手から貸し手の手に返済する復帰は、第2の法律的取引であるが、それは第1の取引の補足である。
 (9)一方は現実の過程の準備であり、他方は現実の過程のあとの補足的行為である。
 (10)第1の行為も、その補足としての第2の行為も、任意な、法律的取引によって媒介される運動として現れるのであって、これらの運動は資本の現実の運動の前後に行われるもので、この現実の運動自身とはなんの関係もないものである。
 (11)というのはもし第1の行為も第2の行為もなく、資本がはじめから生産的資本家のものであって、彼の所有として彼の手に還流するのであっても、資本の現実の運動にとってはどうでもよいことだからである。
 (12)第1の行為と第2の行為との間には資本の現実の運動が行われる長短の時間によって分離されているが、しかしこの二つの前後の行為がこの運動の全体を包括するものである。
 (13)ある価値額の運動、すなわち一定期間後に返済しなければならないという条件によるある第三者への移転、つまり取り戻しを条件とする手放しが、貸付と借受の、貨幣または商品のただ条件付きでの譲渡というこの独自な形態こそが利子生み資本の運動の独自性なのである。

 結局、箇条書き的に書いてみたが、それ自体が長くなってわけのわからないものになったが、要するに、マルクスが利子生み資本の独自の運動として述べていることは、次の三点に要約することができるだろう。
 (1)利子生み資本としての一定の価値額(貨幣あるいは商品)の第1の場所変換も第2の場所変換も現実の資本の再生産過程とは何の関係もないということ。
 (2)またそれらは現実の資本の運動の準備、あるいはその補足として、現実の資本の運動の前やあとに行われるだけの、任意な、法律的行為であるということ。
 (3)このような取り戻しを条件とする手放し、貸付と借受こそが利子生み資本の独自な運動形態である。
 とまあ、とりあえず以上を踏まえておけばいいだろ。】


【45】

 |291下|十十)資本の特徴的な運動は,貨幣の資本家への復帰である。資本のそれの出発点へのこの復帰は,利子生み資本では,この復帰という形態をとる現実の運動からは切り離された,まったく外面的な姿態を受け取る。Aが自分の貨幣を引き渡すのは,貨幣としてではなく,資本としてである。ここでは資本にはなんの変化も生じない。それはただ持ち手を取り替えるだけである。貨幣の資本への現実の転化は,Bの手によってはじめて行なわれる。しかし,Aにとってそれが資本となったのは,Bへのそれのたんなる手放しによってである。生産過程および流通過程からの資本の現実の還流〔Return〕が生じるのはBにとってである。しかし,Aにとっては還流〔Return〕は譲渡と同じ仕方で(たんなる返済として)行なわれる。それはBの手からふたたびAの手に帰る。ある期間を限っての貨幣の手放し(貸付),そして利子(剰余価値)をつけてのその回収,これが利子生み資本そのものに固有な運動形態の全体である。貸し出された貨幣が資本として行なう現実の運動は,貨幣〔money〕の貸し手と借り手〔lenderu,borrower〕とのあいだの取引のかなたにある操作である。これらの取引では,この媒介は消えていて,見えなくなっており,直接にはそれに含まれていない。独特の種類の商品〔Waare suigeneris〕として,資本はまた特有な譲渡の形態をもっている。したがってまた,ここでは還流も一系列の経済的諸過程〔Prozesse〕の帰結や結果として表現されるのではなく,買い手と売り手とのあいだの特殊的な〔besonder〕法律上の約定〔Conventlon〕の結果として表現されるのである。還流〔Return〕の時間は現実の生産過程にかかっている。利子生み資本では,資本としてのその還流は,貸し手と借り手〔Borger〕とのあいだのたんなる約定〔Convention〕によって定まるかのように見える。したがって,資本の還流〔Return〕は,この取引に関してはもはや生産過程によって規定された結果としては現われないで,まるで,貨幣の形態が資本から瞬時もなくならないように見える。たしかにこれらの取引は現実の還流〔real returns〕によって規定されている。しかし,このことは取引そのもののなかには現われない。{経験上でもつねに現われない,というわけではけっしてない。もし現実の還流〔real return〕が適時に行なわれないならば,借り手〔borrower〕は,そのほかのどんな財源〔resources〕から貸し手〔lender〕にたいする自分の債務〔obligations〕を履行すればよいかを考えなければならない。}資本のたんなる形態,すなわち,Aという金額として引き渡されて,ある期間のうちに,引き渡しと返済とのあ[422]いだに経過するこの時間的間隔のほかにはなんの媒介もなしに,A+[1/X]Aという金額として帰ってくる貨幣。現実の運動の無概念的な形態。〔十十)による追記部分終わり〕|

  ①〔異文〕手稿では,この補足〔++)以下の部分〕は手稿のこのページの最後に書かれており,++という標識によってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔注解〕このパラグラフのここから,{}が付された文の直前までは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』から,変更を加えて取られている。(MEGAII/3.4,S.1456.3-1457.21und1458.24-31.)
  ③〔異文〕「特有な〔eigenthümlich〕」← 「固有の〔eigen〕」
  ④〔異文〕「約定〔Convention〕」← 「取[引]〔Tra[nsaction]〕」〉  (193-195頁)

 〈一般的に資本の特徴的な運動は、貨幣の資本家への復帰です。資本のその出発点への復帰という点では、利子生み資本では、この復帰という形態をとる現実の資本からは切り離された、まったく外面的な姿態を受け取ります。Aが自分の貨幣を引き渡すのは、単なる貨幣としてではなく、資本としてです。ここでは資本には何の変化も生じません。それはただ持ち手を取り替えるだけです。貨幣の資本への現実の転化は、Bの手によってはじめて行われます。しかし、Aにとってはそれが資本となったのは、Bへのそのたんなる手放しによってです。生産過程および流通過程からの資本の現実の還流が生じるのはBにとってです。しかし、Aにとっては還流は譲渡と同じ仕方で、つまり現実の過程とは何の関係もない外面的な、単なる返済として行われます。それはBの手からふたたびAの手に帰ります。ある期間を限っての貨幣の手放し(貸付)、そして利子(剰余価値)をつけてのその回収、これが利子生み資本そのものに固有な運動形態の全体です。貸し出された貨幣が資本として行う現実の運動は、貨幣の貸し手と借り手との間の取引のかなたにある操作です。これらの取引では、この媒介は消えていて、見えませんし、直接にはそれに含まれていません。独特の種類の商品として、資本はまた特有な譲渡の形態をもっているのです。したがって、ここでは還流も一系列の経済的諸過程の帰結や結果として表現されるのではなく、買い手と売り手とのあいだの特殊的な法律上の約定の結果として表現されるのです。実際の還流の時間は現実の生産過程にかかっています。しかし利子生み資本では、資本としてのその還流は、貸し手と借り手のあいだのたんなる約定によって定まるかのように見えます。だから利子生み資本の場合、資本の還流はもはや生産過程によって規定された結果としては現れないで、まるで、貨幣の形態が資本から瞬時もなくならないように見えるのです。たしかにこれらの取引は現実資本の還流によって規定されています。しかしこのことは利子生み資本の貸し借りという取引そのものなかには現れないのです。{経験上でも常に現れないというわけではありません。もし現実の還流が適時に行われなければ、借り手は、その以外のどんな財源から貸し手にたいする自分の債務を履行すればよいかを考えなければならないからです。}資本のたんなる形態、つまりAという金額として引き渡されて、ある期間のうちに、引き渡しと返済とのあいだに経過するこの時間的間隔のほかにはなんの媒介もなしに、A+[1/X]Aという金額として帰ってくる貨幣。現実の運動の無概念的な形態。これこそが利子生み資本に固有の運動なのです。 〉

 【これは291頁の下段に書かれているが、同頁の本文、つまり先のパラグラフの補足であり、追加と考えられる。注解によれば、前半のほとんどは61-63草稿から変更を加えて取られているということだから、まずその原文を見ておくことにしよう。しかし指摘されている頁数はかなりのものであり、全体を抜き書きすると大きなものになるが、しかし書かれていることはこれまでのテキストとも関連するので、全体を抜粋しておこう(但し、煩雑を避けるために、MEGAによる異文や注解等は省略する)。

  〈資本の特徴的な運動は、生産過程にあっても流通過程にあっても、貨幣または商品がその出発点たる資本家のもとに復帰するということである。これは、商品がその生産条件に転化させられ生産条件が再び商品の形態に転化させられるという実体的な変態、すなわち再生産を表わすとともに、他方では、商品が貨幣に転化させられ貨幣が再び商品に転化させられるという形態的な変態を表わしている。そして最後に、価値が何倍にもされること、G-W-G'を表わしている。元の価値、といってもこの過程のなかで増大するのではあるが、それはつねに同じ資本家の手のなかにある。ただ、彼の手のなかにあるこの価値の形態が、貨幣や商品として、または生産過程そのものの形態というように、変わるだけである。このような、その出発点への資本の復帰は、利子生み資本にあっては、この復帰という形態をとる現実の運動からは切り離されたまったく外的な姿を受け取る。Aは彼の貨幣を支出するが、貨幣としてではなく、資本としてである。ここでは貨幣にはなんの変化も生じない。それはただ持ち手を取り替えるだけである。この貨幣の資本への現実の転化はBの手のなかではじめて行なわれる。しかし、Aにとっては、それは、Aの手からBの手への貨幣の移行によって、資本になっている。生産過程および流通過程からのこの資本の現実の復帰は、Bにとって行なわれる。しかし、Aにとっては回収は譲渡と同じ仕方で行なわれる。それはBの手から再びAの手に帰ってくる。Aは貨幣を貸すのであって、支出するのではない。
  資本の現実の生産過程における貨幣のどの場所変換も、貨幣の労働への転化であれ、完成商品の貨幣への転化(生産行為の結び)であれ、貨幣の商品への再転化(生産過程の更新、再生産の再開)であれ、再生産の一契機を表わしている。貨幣の場所変換は、貨幣が資本として貸される場合には、つまり資本に転化させられるのではなくて資本として流通にはいる場合には、一方の手から他方の手へ同じ貨幣の引き渡し以外のなにものをも表わしてはいない。所有権は引き続き貸し主の手にあるが、占有は産業資本家の手に移っている。しかし、貸し手にとっては、貨幣の資本への転化は、彼がそれを貨幣として支出せずに資本として支出する瞬間から、すなわちそれを産業資本家の手に渡す瞬間から、始まるのである。(彼がそれを産業家にではなく浪費家に貸しても、あるいはまた家賃を支払うことができない労働者に貸しても、それが彼にとって資本であることに変わりはない。質屋の歴史のすべて。)確かに、他方の人はそれを資本に転化させる。しかし、それは、貸し手と借り手とのあいだで行なわれる操作とは別のところで行なわれる操作である。貸し手と借り手とのあいだの操作ではこの媒介は消え去っており、自には見えず、直接にそのなかに含まれてはいない。貨幣の資本への現実の転化に代わって、ここではただその無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように、ここでは貨幣の使用価値は、交換価値を創造するという、すなわちそれ自身に含まれているよりも大きな交換価値を創造するという使用価値となる。貨幣は自分を価値増殖する価値として貸される。商品〔として〕、だが、まさにこの属性によって商品としての商品から区別され、したがってまた独自な譲渡形式をもつところの商品〔として〕、貸される。
  資本の出発点は、商品所持者であり、貨幣所持者であり、簡単に言えば、資本家である。資本の場合には出発点と復帰点とは同じなのだから、それは資本家のもとに帰ってくる。だが、ここでは資本家は二重に存在する。すなわち、資本の所有者と、現実に貨幣を資本に転化させる産業資本家とである。事実上は資本は彼から流れ出て彼のもとに帰る。しかし、ただ、所有権保持者としての彼から彼へである。資本家は二重に存在する。法律的にと経済的にとである。したがってまた、所有物としては資本は法律上の資本家の手に、腹黒い男の手に、帰ってくる。しかし、資本価値の維持を含んでいて、資本をば自分を維持し永久化する価値として措定するところの、資本の復帰は、確かに資本家第二号にとっては媒介されているが、しかし資本家第一号にとっては媒介されてはいない。したがってまた、復帰はここでは一連の経済的過程の帰結および成果としては現われないで、買い手と売り手とのあいだの特殊な法律上の取引、すなわち、それが売られないで貸し付けられしたがってただ一時的に譲渡されるにすぎないという取引の結果として現われるのである。実際に売られるものは資本の使用価値なのであって、それはここでは交換価値を生むという、利潤を生産するという、資本そのものに含まれているよりも多くの価値を生産するという使用価値なのである。貨幣としては、使用されることによって変えられるわけではない。だが、貨幣としてそれは支出され、そして貨幣としてそれは還流するのである。
  資本が還流するときにとる形態は、資本の再生産様式によって定まる。それが貨幣として貸し出されるならば、それは流動資本の形態で帰ってくる。全価値・プラス・剰余価値として帰ってくる。この剰余価値は、ここでは剰余価値または利潤のうち利子に分解する部分である。つまり、貸し出された貨幣額・プラス・そこから生じた増加額として帰ってくる。
  もしそれが機械や建物などの形態で貸し出されるならば、簡単に言えば、それが生産過程で固定資本として機能しなければならないような素材的形態で貸し出されるならば、それは固定資本の形態で帰ってくる。年賦払いとして、すなわち、たとえば年々、損耗補填分、すなわち固定資本のうち流通にはいっている価値部分に、剰余価値のうち利潤(ここでは利潤の一部分)、つまり利子として固定資本(--といってもそれが固定資本であるかぎりでではなく特定の大きさの資本一般であるかぎりで)にたいして計算された部分を加えたものとして、帰ってくる。
  すでに利潤そのものにおいて、剰余価値は、したがってまたその真の源泉も、不明瞭にされ、不可解にされている。
  一、なぜならば、形態的に見れば、利潤は剰余価値が前貸資本全体にたいして計算されたものであり、資本の各部分は、固定であろうと流動であろうと、原料、機械、労働のどれに投ぜられていようと、同じ大きさの利潤をもたらすからである。
  二、なぜならば、一般的利潤率の規定によって、たとえば500という一つの与えられた資本の場合に、もし剰余価値が50ならば、たとえばどの5分の1も10%をもたらすように、今では500とか100とかいう各資本は、どんな部面で働いていようと、そのなかの可変資本と不変資本との割合がどうであろうと、その回転期間などがどんなに違っていようと、まったく別の有機的諸条件をもった他の各資本と同様に、同じ期間には同じ平均利潤を、たとえば10%というそれを、もたらすからである。したがって、個別的に見た個々の諸資本の利潤と、それらの資本自身によってそれら自身の生産部面で創造される剰余価値とは、現実に違った大きさになるからである。
  もちろん、二つのものにおいては、ただ、すでに一つのなかにあったことがいっそう発展しているだけである。
  ところが、このようなすでに外面化された、まだ誕生の臍帯を示している最初の単純な姿とは違った、そして一見しただけではもはやけっして判別できない、剰余価値の形態、その利潤としての定在にこそ、利子は基づいているのである。利子は、利潤--利子自身はただこの利潤の特別な範疇または項目のもとに配列された一部分でしかない--を直接に前提するのであって、剰余価値を直接に前提するのではない。つまり、利子においては剰余価値は利潤におけるよりもさらにはるかに識別できなくなっているのである。というのは、利子は直接にはただ利潤の形態にある剰余価値に関係をもつだけだからである。
  復帰の時間は現実の生産過程によって定まる。利子生み資本にあっては、それの資本としての復帰は、貸し手と借り手とのあいだの単なる約束によって定まるように見える。だから、資本の復帰は、この取引に関しては、もはや生産過程によって規定された結果としては現われないで、あたかも貨幣形態が一瞬も資本から失われないかのように見える。もちろん、この取引は現実の復帰によって規定されている。しかし、それは、この取引そのものには現われないのである。〉 (草稿集⑦409-413頁)

  こうして61-63草稿の当該部分を読んでみると、なかなか分かりやすく書かれていることが分かる。だからこれを読めば、テキストも分かるといえなくもないが、それでは格好がつかないので、一応、テキストの解読をやってみることにしよう。
 ここでも書かれていることをまず箇条書き的にまとめてみることにする。
 (1)まず一般に資本の特徴的な運動は、貨幣の資本家への復帰である。
 (2)利子生み資本では、この復帰という現実の資本の運動とは切り離された、まったく外面的形態を受け取る。
   (3)Aが自分の貨幣を引き渡すのは、単なる貨幣としてではなく、資本としてである。
   (4)しかしAの引き渡しによっては資本にはなんの変化も生じない。それはただ持ち手を取り替えるだけである。貨幣の資本への現実の転化は、Bの手ではじめて行われる。   (5)しかしAにとっては、それが資本となったのは、Bへのそれのたんなる手放しによってである。生産過程および流通過程からの資本の現実の還流が生じるのはBの手によってであるが、それはAには直接の関心はない。
   (6)Aにとって還流は、最初の譲渡と同じ仕方で、つまり単なる返済として行われる。
   (7)ある期間を限っての貨幣の手放し(貸付)、そして利子(剰余価値)をつけてのその回収(返済)、これが利子生み資本そのものに固有な運動形態の全体である。
   (8)貸し出された貨幣が資本として行う現実の運動は、貨幣の貸し手と借り手とのあいだの取引のかなたにある操作である。
   (9)貸し手と借り手との間の取引では、そうした現実の資本の運動という媒介は消えていて、見えないし、直接にはそれには含まれていない。
   (10)独特の種類の商品として、利子生み資本はまた特有な譲渡の形態をもっているのである。したがって、ここでは還流も一系列の経済的過程の帰結や結果として表現されるのではなく、ただ買い手と売り手のあいだの特殊的な法律的な約定の結果として表現されるのである。
   (11)還流の時間は現実の生産過程にかかっているが、利子生み資本では、資本としてのその還流は、ただ貸し手と借り手のあいだのたんなる約定によって定まるかのように見えるのである。
   (12)だから利子生み資本の還流は、この貸し手と借り手のあいだの取引に関しては、もはや生産過程によって規定された結果としては現れないで、まるで、貨幣の形態から瞬時もなくならないように見えるのである。
   (13)確かに利子生み資本の取引も現実の還流に規定されている。しかし、このことはこの取引そのものの中には現れないのである。(もっとも経験上でもつねに現れないというわけではない。もし現実の還流が適時に行われないなら、借り手はそれ以外の財源でその債務の履行を考えなければならないから。)
   (14)利子生み資本のたんなる形態、つまりAという金額を引き渡し、ある期間のうちに、引き渡しと返済とのあいだに経過する時間的間隔のほかにはなんの媒介もなしに、A+[1/X]Aという金額として帰ってくる貨幣、現実の運動の無概念的な形態、それが利子生み資本の運動の特徴なのである。

 まあ、いろいろと書かれていることを箇条書き的に書き直しただけであるが、要するに、このパラグラフでは利子生み資本の運動が現実の資本の運動に対して、外面的であること、だからその運動は無媒介的であり、無概念的な形態をとること。それはAという一定金額が、外観上、その貨幣という形態を一瞬も離れないままに、そのままある期間ののちには、A+[1/X]Aという金額として帰ってくるようにみえ、その間の現実の資本の運動という媒介なしに復帰するように見えるのだということである。そしてそれが利子生み資本という独特の種類の商品の特有な形態なのだというわけである。ここで追記部分は終わっている。】


【46】

 /291上/資本の現実の運動では,復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化される。それは生産過程の結果として商品になる。商品の販売によってそれは貨幣に転化され,この形態で,資本を最初に貨幣形態で前貸した資本家の手に帰ってくる。ところが,利子生み資本の場合には,復帰も手放しも,ただ資本の所有者とある第三者とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。それゆえまた,貨幣資本家〔monied capitalist〕と生産的資本家とのあいだの関係に関するかぎり,それはただ,貨幣の貸付(貨幣の手放し〔Weggabe〕,手放し〔Entausserung〕)と借りられた貨幣の返済(それの還流)として現われるだけである。その間に生じたことは,すべて消えてしまっている。

  ①〔異文〕「復帰も手放しも,ただ」← 「復帰はただ」
  ②〔異文〕「手放し」--書き加えられている。〉 (195頁)

 〈資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機です。まず貨幣が生産手段に転化されます。そしてそれは生産過程の結果として商品になります。商品が販売されればそれは貨幣に転化されて、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家に手に帰ってきます。これが現実の資本の運動です。ところが利子生み資本には、復帰も手放しも、ただ資本の所有者とある第三者との間の法律上の取引の結果でしかありません。だからまた、貨幣資本家と生産的資本家とのあいだの関係に関する限りでは、それはただ、貨幣の貸付(貨幣の手放し)と借りられた貨幣の返済(その還流)として現れるだけです。その間に生じたことは、すべて消えてしまっているのです。〉

 【ここから291頁の上段に移っている。つまり【44】パラグラフに直接続く本文なのである。しかしここで書かれていることは、先の追記(【45】パラグラフ)で書かれていたことと何か別のことが言われているわけではない。むしろ追記の方がより詳しくそこらあたりのことは書かれていたといえるだろう。】


【47】

 しかし,資本として前貸される貨幣は,それを前貸する人,すなわちそれを資本に転化する(支出する)人の手に帰ってくるという属性をもっているのだから,G_W_G'が資本運動の内在的形態なのだから,貨幣所持者は,貨幣を,資本として,すなわち自分の出所に帰るという属性,運動のなかで自分を価値として維持する{そして増殖する}という属性をもつものとして,貸し付けることができるのである。彼がそれを資本として手放すのは,それが資本として使われ,その出発点に復帰するからであり,つまり,まさにそれが借り手〔Leiher〕自身のもとに還流するからこそある時間ののちには借り手から返済されることができるからである。

  ①〔異文〕「内在的形態」← 「一つの内在的形態」
  ②〔異文〕「のは,それが」← 「ときには,彼は〔……〕できる」〉 (195-196頁)

 〈貨幣が貸し手の手に返済される時点では、その間に生じたことはすべて消えてしまっていますが、しかし資本として前貸しされるのですから、その貨幣は、それを前貸しする人、すなわちそれを資本に転化する(支出する)人の手に帰ってくるという属性を当然もっています。だからG_W_G'が資本の運動の内在的形態なのですから、貨幣所持者は、貨幣を資本として、つまり自分の出所に帰るという属性を持ったものとして、運動のなかで自分の価値を維持し(そして増殖する)という属性をもつものとして、貸しつけることができるのです。彼がそれを資本として手放すのは、それが資本として使われ、その出発点に復帰するからです。つまりそれが借り手自身のもとに還流するからこそ、それはある時間ののちには、借り手から貸し手のもとに返済されることができるのです。〉

 【ここでは利子生み資本の手放しと復帰というのは、現実資本の運動があってこそだということが確認されている。しかし利子生み資本の運動の全体は最初の貨幣の手放し(貸付)と最期の復帰(返済)がすべてであって、その間の現実の資本の運動そのものは利子生み資本の運動そのものには入ってこないということを謂わんがための確認である。】


【48】

 〈①だから,資本としての貨幣の貸付--ある期間ののちに返済されるという条件での貨幣の手放し--は,貨幣が資本として使用され現実にその出発点に還流するということにもとづいているのである。つまり,資本としての貨幣の現実の循環運動〔Cirkelbewegung〕は,貸し手から引き渡された貨幣が彼に還流しなければならないという法律上の取引に前提されているのである。{借り手〔Leiher〕がその貨幣を資本として引き渡さなくても,それは彼の勝手である。貸し手は貨幣を資本として貸すのであり,したがって貨幣は資本の諸機能を果たさなければならないのであって,貨幣の循環運動,つまり自分の出発点への貨幣の還流は,これらの機能を含んでいるのである。}

  ①〔異文〕「だから」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「資本としての貨幣の」← 「資本の」〉 (196-197頁)

 〈だから資本としての貨幣の貸付、ある期間ののちに返済されるという条件での貨幣の手放しは、その貸し出された貨幣が現実に資本として使用されてその出発点に還流するということにもとづいているのです。つまり資本としての現実の循環運動は、貸し手から引き渡された貨幣が貸し手のものに還流しなければならないという法律上の取引には前提されているのです。(もっとも貨幣の借り手がその貨幣を資本として投資するかどうかは彼の勝手です。しかし貸し手はあくまで貨幣を資本として貸すのですから、だから貨幣は資本の諸機能を果たさなければならないのです。つまりその価値を維持するだけではなく増殖もするという機能です。貨幣の還流運動、つまり自分の出発点への貨幣の還流は、これらの機能を含んでいるのです。)〉

 【ここでも利子生み資本の貸付と返済というその独自の運動は、本来は現実資本の循環運動を前提していることが指摘されている。貸付と返済は法律上の行為であり、取引であるが、しかしそこにはこうした現実資本の循環運動は前提されているのである。また貨幣の借り手がそれを現実の資本として投下するかどうかは彼の勝手であるが、しがし貨幣の貸し手はそれを資本として貸すのだから、それはやはり資本としての運動をなさねばならないのである。つまりその価値を維持し増殖するという運動をである。】


【49】

 〈資本が貨幣として,あるいは商品として機能する流通行為G_WおよびW_G'は,ただ媒介的過程でしかなくそれの総運動の個々の契機でしかない。資本としてはそれは運動G_G'を成し遂げるのである。それは,貨幣(またはなんらかの形態の価値額)として前貸されて,価値額として帰ってくる。貨幣の所有者は,それを商品の購買に支出するのではなく,あるいは,価値額が商品として存在する場合に貨幣と引き換えに売るのではなく,資本として,G_G'として,一定の期限後にふたたびその出発点に帰る貨幣(価値)として,前貸するのである。だから,それで買ったり[423]売ったりするのではなく,彼はそれを貸すのである。つまり,この貸付は,それを貨幣や商品としてではなく資本として譲渡するための適当な形態なのである。(だからといって,貸付が資本主義的な過程とは無関係な取引のための形態ではありえない,というわけではけっしてない。)|〉 (197頁)

 〈資本が貨幣として、あるいは商品として機能する流通行為G_WおよびW'_G'は、単なる媒介的行為でしかありません。それらは資本の総運動の個々の契機でしかありません。資本としてはそれは全体としてはG_G'をなし遂げます。それは貨幣(またはなんからの形態の価値額)として前貸しされて、ある価値額として帰ってきます。しかし利子生み資本の場合は、貨幣の所持者は、それを商品の購買に支出するのではなく、あるいは価値額が商品として存在する場合には、貨幣と引き換えに売るのではなく、資本として、G_G'として、一定の期限後にはふたたびその出発点に帰る貨幣(価値)として、前貸しされるのです。だからそれを買ったり売ったりするのではなく、彼はそれを貸すのです。つまりこの貸付は、それを貨幣や商品としてではなく資本として譲渡するための適当な形態なのです。(だからといって、貸付が資本主義的な過程とは無関係な取引のための形態ではありえない、というわけではけっしてありません。それは資本主義的な生産以前にもありました。〉

 【このパラグラフも基本的には、同じ問題を論じているといえる。貨幣の譲渡、あるいはある価値額の譲渡という場合、それは流通行為としては販売や購買である。しかしその場合は、貨幣や商品は単なる貨幣や商品として機能するだけであり、それが資本であるのはG_G'の全体の運動の契機として言いうるのみである。しかし利子生み資本の場合の貨幣(あるいはある価値額)の譲渡は、最初から資本としての手放しであり、商品の売買とは関係ない。それは貸されるのであり、返済されるわけである。だから貸付という形態は、一定の価値額を単なる貨幣や商品としてしてではなく資本として譲渡するための適当な形態なのである。】

 (以下、続く)

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