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2019年6月 2日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-4)

『資本論』第3部第5篇第21章の段落ごとの解読(続き)

 

   前回の続きで、第19パラグラフからである。

【19】

 〈この商品に,すなわち商品としての資本に特有な,販売という[415]形態に代わる貸付という形態(ただし〔この形態は〕他の諸取引でも見られる)は,資本がここでは商品として現われるという,または資本としての貨幣が商品になるという規定そのものから,出てくるのである。〉 (177頁)

 〈商品としての資本、つまり利子生み資本に特有な、販売という形態に代わる貸付という形態は、資本がここでは商品として現れるという、あるいは資本としての貨幣が商品になるという規定そものものから出てくるのです。もっとも貸付という形態そのものは他の諸取り引きでも見られますが、いまはそれは考慮の外においておきましょう。〉

 【ここからまた第一の流通、G-Gの考察に変わっている。「商品としての資本」に特有な貸付という形態は、資本としての貨幣が商品になるという規定そのものから出てくると指摘されている。これは利子生み資本に固有の運動として重要である。例えば株式の購買の場合、まったく普通の商品の購買と同じように見えるからである。しかしそれもやはり利子生み資本に固有の運動であり、貸付なのである。つまり株式を株式市場で購入する人は、自分の所有する貨幣を利子生み資本として貸し付けているのである。だから彼はそれが利子を伴って還流してくることを期待している。もちろん、株式を購入する人は、必ずしもそうした意識をもっているとは限らないだろう。彼は配当を期待しているのかも知れない。しかし彼が株式を購入するために投じた貨幣が、利子生み資本だと理解されるなら、彼の手にする配当は、彼が投じた利子生み資本の利子になるのである(ここらあたりは第29章の「銀行資本の構成部分」の考察のなかで問題になる架空資本と関連してくるが、今はそれは置いておこう)。あるいは彼は株式が購入した価格より高値がついたときに売り抜き、キャピタルゲインを得ようとするかも知れない。しかしその場合でも、彼が株式を売るということは、彼の利子生み資本の返済を受けることを意味するわけである。これらは株式を売買している人たちの直接の意識とは異なるものかも知れないが、しかし株式の売買が利子生み資本の運動である限り、その実際の内容はそうしたものなのである。株式の売買というのは、あくまでも外観に過ぎず、その本質は利子生み資本の運動であり、だからそれは資本としての貨幣の貸し借りとして理解すべきものなのである。】

【20】

 ここでは次のような区別をしなければならない。
すでに見たように,資本は流通過程では商品資本および貨幣資本として機能する。)

 ①〔注解〕「すでに見たように」--カール・マルクス『資本論』〈経済学草稿1863-1865年〉。第2部〈第1稿〉。(MEGAII/4.1,S.140-191.〔中峯・大谷他訳『資本の流通過程』,大月書店,1982年,9-68ページ。〕)〉 (178頁)

 〈ここでは次のような区別をしなければなりません。
 一つはすでに見たように、資本は流通過程では商品資本および貨幣資本として機能します。〉

 【〈ここでは〉というのは、その一つ前のパラグラフを指しているように思える。そして〈次のような区別〉というのは、一つはこのパラグラフ(【20】)から【25】パラグラフまでの間で考察されている資本の流通過程における商品資本と貨幣資本の特徴と、利子生み資本という意味での貨幣資本(moneyed capital)との区別ということであろう。
 だからわれわれがやろうとしているのは、すでに資本の流通過程で考察した商品資本や貨幣資本の特徴の確認である。すわなち、資本は流通過程では、商品資本または貨幣資本として機能するとまず確認されている。この資本の流通過程の考察は【25】パラグラフまで続く。】

【21】

 〈しかし,この二つの形態では,資本は資本としては商品にならない。〉 (178頁)

 〈しかし、この二つの形態、つまり商品資本や貨幣資本という形態では、資本が資本として商品になるわけではありません。〉

 【資本の流通過程における商品資本や貨幣資本は、資本が資本として商品になるわけではないと指摘されている。商品資本や貨幣資本は資本の流通過程における資本の形態規定性であるが、しかし実際に、それらが資本の流通過程に出てゆくと、単なる商品や貨幣として振る舞うわけであって、それらが資本であるのは、あくまでも資本関係のもとにおける形態規定としてそうであるに過ぎないわけである。だから「商品資本」といっても、資本が資本として商品になっていることを意味しないということである。それは商品が資本という形態規定を受け取っているだけなのである。】

【22】

 生産資本が商品資本に転化したならば,それは,商品として売られるために,市場に投じられなければならない。ここではそれは単純に商品として機能する。ここでは資本家はただ商品の売り手として現われるのであり,それは買い手が商品の買い手として現われるのと同様である。商品としては,生産物は流通過程でその販売によってその価値を実現しなければならず,貨幣としてのその転化した姿態をとらなければならない。したがってまた,この商品が消費者によって生活手段として買われるか,それとも資本家によって生産手段として,資本成分として,買われるかということも,まったくどうでもよいこと〔vollstandig indifferent〕である。現実の機能では,流通行為では,商品資本はただ商品として機能するだけで,資本として機能するのではない。それが単純な商品とは違う商品資本であるのは,1)それがすでに剰余価値をはらんでおり,したがってその価値の実現が同時に剰余価値の実現だからである。といっても,このことは,商品としての,一定の価格をもつ生産物としての,それの単純な存在を少しも変えるものではない。2)このような,商品としての商品資本の機能は,資本としての商品資本の再生産過程の一契機であり,したがってまた,商品としての商品資本の運動は,過程の全体に連関させるならば,同時にまた,資本としての商品資本の運動だからである。しかしそうであるのは,売るという行為または商品の変態そのものによってではなく,ただ,商品としての商品資本の運命または運動と,資本としての商品資本の総運動との関連Zusammenhang〕によってのみである。

 ① 〔異文〕「単純な」← 「個々の」
 ② 〔異文〕「あり,」← 「であるが,資本としてのそれが」〉 (178-179頁)

 〈生産資本が商品資本に転化したなら、それは、商品として売られるために、市場に投じられます。しかし商品市場ではそれらは単なる商品として機能するだけです。ここでは資本家はただ商品の売り手として現れるだけです。それは、それを買う人が例え資本家であっても、ただ単なる商品の買い手として現れるのに対応しています。商品としては、流通過程では、販売によってその価値を実現し、貨幣に転化されなければならないということを示すだけです。だからこの商品が消費者によって生活手段として買われるか、それとも資本家によって生産手段として、つまり資本の成分として、買われるかということも、この流通過程としてはまったくどうでもよいことです。現実の流通行為においては、商品資本はただ商品として機能するだけで、資本として機能するわけではありません。それは単純な商品と違う商品資本であるのは、1)それがすでに剰余価値をはらんでおり、したがってその価値の実現が同時に剰余価値の実現でもあるからです。といっても、このことは、商品としての、一定の価格をもつ生産物としての、それの単純な存在を少しも変えるものではありません。2)単純な商品の商品資本としての機能は、資本の再生産過程の一契機としてそれが存在することから生じます。だから、単なる商品としての商品資本の運動というのは、単純な商品の流通過程での運動を、資本の運動全体の関連のなかで考えるならば、資本としての商品資本の運動として捉えられるというこです。しかしそうであるのは、売るという行為、あるいは商品の変態そのものによってそうなるのではなく、商品としての商品資本の運命または運動と、資本としての商品資本の総運動との関連からのみそういいうるのです。〉

 【ここでは単純流通と資本の流通過程との区別が論じられている。そもそも『資本論』の冒頭(第1篇)に出てくる商品や貨幣というのは、ブルジョア社会の表面に現象しているものを直接観察することから得られるものであるが、それは資本の流通過程から資本関係を捨象して得られるものでもあるのである。ブルジョア社会ではあらゆる生産物は商品として資本によって生産されることが前提されている。だからそれらはすべて資本家的商品である。つまり商品資本なのである。しかしそれは流通過程では単なる商品として振る舞い、だから単なる貨幣へと変態するだけなのである。つまり『資本論』の冒頭篇の商品や貨幣、あるいはその単純な流通も、ブルジョア社会の最も表面に現象しているものをその背後に隠れている資本関係をとりあえずは捨象して得られるものを分析の対象にしたものなのである。
 だから資本の流通過程での商品資本や貨幣資本の機能も、それが実際の流通過程では、単純な商品や貨幣として振る舞うのであり、それらが商品「資本」や貨幣「資本」でもあるのは、そうした単純な商品や貨幣を、それらがその背後に隠している資本関係のもとで、その全体の運動や関係のなかで見た場合に、新たに加わるより具体的な形態規定性ということができるのである。だから単純流通というのは、ブルジョア社会の表面に現れているものあるが、しかしそれらをそれ自体として考察するということは、資本主義的関係を一旦は捨象して、それらを抽象的なものとして考察することであるが、しかしこうした抽象的なものは、その抽象性においては、資本主義以前の単純な商品や貨幣の振る舞いにも妥当するわけである。しかし資本主義以前の単純な商品や貨幣は、ブルジョア社会を背後に持ったもののようには、その概念に相応しい十全なものとして存在しているわけではない。それらはブルジョア社会の抽象物としての商品や貨幣の考察を前提してはじめてそれとして捉えることが可能になるだけである。】

【23】

 〈同様に,貨幣資本としても,資本は事実上ただ単純に貨幣として,すなわち商品(生産手段)の買い手として,作用するだけである。この貨幣がここでは同時に貨幣資本であり,すなわち資本の形態であるということは,買うという行為すなわち資本がここで貨幣として行なうそれの現実の機能から出てくるのではない。それは,この行為と資本の総運動との関連から,もっと詳しく言えば,それが貨幣として行なうこれらの購買行為が資本主義的生産過程を導入するということによって,出てくるのである。|〉 (179頁)

 〈商品資本と同様に、貨幣資本も、実際の流通では、事実上ただ単純な貨幣として、すなわち商品(生産手段)の買い手として、作用するだけです。この貨幣がここでは同時に貨幣資本であり、資本の形態でもあるということは、買うという行為、つまり資本がここで貨幣として行うそれの現実の機能から出てくるのではありません。それが貨幣「資本」であるという規定性は、この買うという行為と資本の総運動との関連から、もっと詳しくいえば、それが貨幣として行うこれらの売買行為が、資本主義的生産過程を導入するためものもであるという関連によって、出てくるのです。〉

 【こうした単純流通における商品と貨幣と、資本の流通過程における商品資本と貨幣資本との区別と同一性を如何に捉えるべきか、というのは『資本論』第2部の第1篇の資本の循環のなかで論じられている。以前、大谷氏の『経済』連載論文「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」を批判した際に、大谷氏は、『資本論』第2部第6稿・第7稿でマルクスが第2部第1篇第1章の「書き出し」を何度も推敲して「資本循環論における理論的前進」をかちとったかに主張している部分を批判して、実際の第6稿・第7稿を使って書かれている第1章の内容を長く紹介したことがあるが、それが今回の問題を考える上で、参考になると思うので、少し長くなるが、紹介しておこう。
 
 《マルクスは「第1章 貨幣資本の循環」の「第1節 第一段階 G-W」(ここから第7稿である)の冒頭、次のように書きはじめている。

 〈G-Wは、ある貨幣額がある額の諸商品に転換されることを表わし、買い手にとっては彼の貨幣の商品への転化であり、売り手たちにとっては彼らの諸商品の貨幣への転化である。一般的商品流通のこの過程を、同時に一つの個別資本の自立的循環の中の機能的に規定された一部分にするものは、さしあたり、この過程の形態ではなく、それの素材的内実であり、貨幣と席を換える諸商品の独自な使用の性格である。これらの商品は、一方では生産諸手段、他方では労働力であり、商品生産の物的要因および人的要因であって、これらの要因の特殊な性質は、もちろん、生産されるべき物品の種類に照応しなければならない。〉 (全集版36-37頁)

 そして〈Gが転換される商品総額のこの質的分割の他に、もう一つのきわめて特徴的な量的関係〉(同37頁)があるとして、その量の考察に移り、その後、次のように述べている。

 〈貨幣資本としては、資本は、貨幣諸機能、いまの場合には一般的購買手段と一般的支払手段との機能を果たしうる状態にある。……この能力は、貨幣資本が資本であることから生じるのではなく、貨幣資本が貨幣であることから生じる。
 他方では、貨幣状態にある資本価値もまた、貨幣諸機能を果たしうるだけで、他の機能は果たし得ない。この貨幣諸機能を資本諸機能にするものは、資本の運動の中での資本諸機能の一定の役割であり、それゆえまた、貨幣諸機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との連関である。たとえば、さしあたりいまの場合には、貨幣が諸商品に転化されるのであって、それら諸商品の結合が生産資本の現物形態をなし、したがって、この形態は、潜在的に--可能性から見て--すでに資本主義的生産過程の結果を自己のうちに包蔵しているのである。〉 (同39頁)
 〈貨幣がどんな種類の商品に転化されるかは、貨幣にとってはまったくどうでもよいことである。貨幣はすべての商品の一般的等価形態であり、すべての商品は、それらが観念的に一定額の貨幣を表わし、貨幣への転化を期待し、そして貨幣との場所変換によってのみ、商品所有者にとっての使用価値に転化されうる形態を受け取るということを、すでにそれらの価格において示している。それ故、労働力がひとたびその所有者の商品として市場に現われ、その販売が労働に対する支払いの形態で--労賃の姿態で--行なわれるやいなや、労働力の売買は、他のどの商品の売買と比べても、奇異な感を与えるような点はまったく見られない。商品である労働力が買いうるものであるということが特徴的なのではなく、労働力が商品として現われることが特徴的なのである。〉 (同41-42頁)
 〈それ故、G-Aという行為では、貨幣所有者と労働力所有者とは、買い手および売り手として関係し合い、貨幣所有者および商品所有者として相対するにすぎず、したがってこの面から見れば互いに単なる貨幣関係にあるにすぎないとはいえ--それにもかかわらず、買い手は、最初から同時に生産諸手段の所有者として登場するのであって、この生産諸手段は、労働力の所有者が労働力を生産的に支出するための対象的諸条件をなしている。言い換えれば、この生産諸手段は、労働力の所有者に対して他人の所有物として相対する。他方では、労働力の売り手は、その買い手に対して他人の労働力として相対するのであり、この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として自己を発現するために買い手の支配下に移り、彼の資本に合体されなければならない。したがって、資本家と賃労働者との階級関係は、両者がG-A(労働者の側から見ればA-G)という行為で相対する瞬間に、すでに現存し、すでに前提されている。それは、売買であり、貨幣関係であるが、しかし、買い手は資本家として、売り手は賃労働者として、前提される売買であり、この関係は、労働力の具現のための諸条件--生活諸手段および生産諸手段--が他人の所有物として労働力の所有者から分離されるとともに、与えられている。〉 (同42-43頁)
 〈資本関係が生産過程中に出現してくるのは、ただ、この関係自体が流通行為のうちに、買い手と売り手とが相対し合う異なる経済的基本諸条件のうちに、彼らの階級関係のうちに、実存するからにすぎない。貨幣の本性とともにこの関係が与えられているのではない。むしろ、この関係の定在こそが、単なる貨幣機能を資本機能に転化させうるのである。〉 (同43頁)

 ながながと引用したが、要約ではなく、マルクス自身の言葉としてその内容を確認したかったからである。これがほぼ第1節でマルクスが貨幣資本と貨幣との区別について述べている主要な内容である。ここでマルクスが述べていることで重要なことは二つだけである。
 (1)G-Wは一般的な商品流通としては、たんなる貨幣の商品への転換(たんなる購買)である。
 (2)だからG-Wを貨幣資本の生産資本への転換にするのは、この一般的な商品流通そのものではなくて、それ以外の関係による。それは資本制的生産関係である。
  以上、貨幣と貨幣資本との区別としては、マルクスはこれ以外のことは述べていないのである。
 つまり「資本の流通過程」も、その流通過程だけを取り出せば、つまり資本制的な生産関係を捨象して流通過程だけを見るなら、それは単純な一般的な商品流通の過程としてわれわれの前に現われる。だからそこでは貨幣資本や商品資本も、たんなる貨幣であり、たんなる商品として現われ、そのようなものとして振る舞う(機能する)のである。そもそも単純な商品流通というのは、資本の流通過程を資本関係を捨象して、そうした抽象的なレベルでみたものなのである。単純な商品流通は、資本制的生産関係の表面に現われているもっとも抽象的な関係なのであり、歴史的にも論理的にも資本主義的生産様式に先行するものなのである。だからこそ、『資本論』の第1部の冒頭(第1篇)は単純流通にある「商品と貨幣」の分析から始まっているのである。だからこんなことが第6稿や第7稿の執筆段階までマルクスにとって不分明であったなどということはおよそ考えることは出来ない。そればかりかマルクスが『経済学批判』を彼の経済学批判体系の「第一分冊」として構想した時点で、すでにそんなことはマルクスにとって明らかだったといえるだろう。》】

【24】

 〈|289上|しかし,それらが現実に機能し,現実に過程のなかでそれらの役割を演じるかぎりでは,ここでは商品資本はただ商品として働き,貨幣資本はただ貨幣として働くだけである。変態の諸契機をそれ自身として見れば,どの契機でも資本家は,たとえその商品が彼にとっては資本を表わすにしても,商品資本として買い手に売るのではなく,あるいはまた貨幣を資本として売り手に譲渡するのでもない。どちらの場合にも,彼は商品を単純に商品として譲渡するのであり,また貨幣を単純に購買手段として支出する,すなわちそれで商品を買うのである。〉 (179-180頁)

 〈商品資本や貨幣資本も、それらが資本の流通過程おいて、現実に機能し、現実の過程でそれらの役割を演じる限りでは、商品資本はただ商品として働き、貨幣資本はただ貨幣として働くだけです。変態の諸契機をそれ自身として見るなら、どの契機でも資本家は、例えその商品が彼にとっては資本を表すにしても、商品を資本として買い手に売るわけではありません。また貨幣を資本として売り手に譲渡するわけでもないのです。どちらの場合も、彼は商品を単純に商品として譲渡するのであり、また貨幣を単純に購買手段として支出するのです。つまりそれでただ商品を買うだけです。〉

 【このパラグラフと次のパラグラフは、これまでの考察(【20】~【23】の考察)のいわばまとめである。商品資本や貨幣資本は、実際の流通過程では、資本として振る舞うわけではなく、単純な商品や貨幣として振る舞うこと、それらが資本であるのは、資本の生産関係全体のなかでそれらの行為を捉えることから得られる形態規定性なのだということである。】

【25】

 資本が流通過程資本として現われるのは,ただ,全過程の関連のなかだけでのことであり,出発過程が同時に復帰点として現われる契[416]機G_G'(または,出発点としての商品から出発される場合には,W_W')のなかだけでのことである。(生産過程では,資本が資本として現われるのは資本家への労働者の従属と剰余価値の生産とによるのである。)だが,ここでは,媒介は消え去っている。そこにあるものは,G'またはG+△Gであり(この△Gだけふえた価値額が貨幣の形態で存在しようと,商品の形態で存在しようと,生産手段,固定資本等々の形態で存在しようと),投下された最初の貨幣額・プラス・それを越える超過分すなわち実現された剰余価値,に等しい貨幣額である。だが,まさにこの復帰点では,すなわち資本が実現された資本として,増殖した価値として存在するこの復帰点では,この形態では,--この点が,想像的であろうと現実にであろうと,休止点として固定されるかぎりでは--資本はけっして流通にははいらないのであり,むしろ流通から引き揚げられたものとして,全過程の結果として,現われるのである。それがふたたび支出されるときには,それはけっして資本として第三者に譲渡されるのではなく,単純な商品として第三者に売られるか,または単純な貨幣として商品に転化される。資本は,その流通過程ではけっして資本としては譲渡されないで,ただ商品または貨幣として譲渡されるだけであって,これがここでは資本の唯一の,他者にとっての定在なのである。商品や貨幣がここで資本であるのは,一方が貨幣に転化し他方が商品に転化するかぎりでのことではなく,買い手または売り手にたいする商品や貨幣の諸連関のなかでのことではなく,ただ,資本家自身にたいする(主観的に見れば),または総過程の諸契機としての(客観的に見れば),商品や貨幣の観念的なideell諸連関のなかだけでのことである。現実の運動のなかで資本が資本として存在するのは,流通過程でのことではなく,ただ生産過程のなかでだけのことである。

 ①〔異文〕「実現された」--書き加えられている。
 ②〔異文〕「…… 機能する」という書きかけが消されている。
 ③〔異文〕「その流通過程」← 「流通過程」
 ④〔異文〕「たいする(主観的に見れば),」← 「たいする,」
 ⑤〔異文〕「諸連関」← 「連関」〉 (180-181頁)

 〈資本が流通過程で資本として現れるのは、ただ全過程の関連のなかだけのことです。それは出発点が同時に復帰点として運動する全過程です。例えば出発点が貨幣資本ならG-G'として、あるいは商品資本ならW-W'として現れる過程においてだけです。(もちろんいうまでもなく、生産過程では資本が資本として現れるのは資本家への労働者の従属と剰余価値の生産とによります。)ただ全過程の結果においては、それ以前の関連は消えています。そこにあるのは、G'またはG+ΔGです(このΔGだけ増えた価値額が貨幣の形態で存在しようと、商品の形態で存在しようと、あるいは生産手段、固定資本等々の形態で存在しようと)、いずれよせにそれは投下された最初の貨幣額・プラス・それを越える超過分すなわち実現された剰余価値、に等しい貨幣額です。まさにこの復帰点では、資本は実現された資本として、増殖された価値として存在しています。しかしこの形態では、それが想像的であろうと現実にであろうと、休止点として固定されるならば、資本は決して流通に入らないのです。むしろそれは流通から引き上げられたものとして、全過程の結果として、資本として現れるのです。それが再び支出されるときには、それは決して資本として第三者に譲渡されるのではなく、単純な商品として第三者に売られるか、あるいは単純な貨幣として商品に転化されるだけです。資本は、その流通過程ではけっして資本としては譲渡されないで、ただ商品または貨幣として譲渡されるだけなのです。これがここでは資本の唯一の他者にとっての定在なのです。商品や貨幣がここで資本であるのは、一方が貨幣に転化し、他方が商品に転化するかぎりのことではなく、あるいは買い手または売り手に対する商品や貨幣の諸連関のなかでのことではなく、主観的に見れば、資本家自身に対する、あるいは客観的にみれば、総過程の諸契機としての、商品や貨幣の観念的諸連関のなかにおいてだけなのです。現実の運動のなかで資本が資本として存在するのは、流通過程でのことではなく、ただ生産過程のなかだけのことです。〉

 【ここでは商品資本や貨幣資本が流通過程では、単なる商品や貨幣として現れること、だからそれらが資本としてあるのは、一つは資本家の主観的なものとしてそうであり、客観的には資本の総過程の関連のなかで言いうることだけだ、と指摘されている。だからそうした商品資本や貨幣資本が資本であるという規定性は、現実に存在する商品や貨幣からみれば観念的諸連関にすぎず、それは直接的表象として得られる商品や貨幣をただ観察することからさらにそれを全体との関連のなかで分析することによって得られるわけである。単純な流通過程にある商品も、それが如何なる過程を通して流通に商品として登場しているのかを辿れば、その直接的な商品としての定在の背後に隠された、資本関係のより具体的なものが見えてくるわけである。単なる貨幣も、その貨幣所持者が、如何なる関係のもとにその貨幣を流通に投じるのか、単なる生活手段を購入する意図をもって貨幣を投じるのか、それともそれで資本の生産過程を開始するために投じるのかというより具体的な関連をさぐるなら、その単なる貨幣は、より具体的な規定性としては貨幣資本とし存在しその機能を果たすことも分かるのである。】

 (以下、続く)

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