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2019年6月23日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-6)

『資本論』第3部第5篇第21章の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き、第33パラグラフからである。

【33】

 〈/289上/信用の無償性。Fr.バスティア氏とプルドン氏との論争』,パリ,1850年。貸すということは,売るということではないという理由で,プルドンにとってはよくないものに思われる。利子を取って貸すということは,自分が売るものの所有をけっして譲り渡すことなしに,同じ対象objet〕を絶えず繰り返して売り,絶えず繰り返してその価格を受け取るという能力である。」(同前,9ページ。)対象〔objet〕(貨幣や家などのような)は,売買の場合とは違って,所有者を取り替えない。ところが,彼が見ていないのは,貨幣が(利子生み資本として)手放される場合には,等価はなにも取り返されていないということである。どの売買行為でも,--およそ交換過程が行なわれるかぎりでは--たしかに対象Objekt〕は手放される。いつでも,売られるものの所有は譲り渡される。しかし,価値は手放されない。売られるときには商品は手放されるが,商品の価値は手放されず,この価値は,貨幣というかたちで(または,ここでは貨幣に代わる別の形態でしかないが,債務証書,支払請求権というかたちで)還流する。買われるときには貨幣は手放されるが,貨幣の価値は手放されず,この価値は商品というかたちで補填される。再生産過程の全体をつうじて生産的資本家は同じ価値を自分の手に保持しているのであって,ただその価値の||290上|形態が変わるだけである。

①〔注解〕ここから,草稿290ページ上半のプルドン『信用の無償性。F.バスティア氏とプルドン氏との論争』140ページからの引用の終わりまでについては,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』を見よ。(MEGAII/3.4,S.1524.7-1525.23.)
②〔注解〕ここで引用されている文章は新聞『人民の声〔La voix dupeuple〕』の編集者のひとりだったシャルル-フランソア・シュヴェによるものである。彼は『信用の無償性。F.バスティア氏とプルドン氏との論争』(パリ,1850年)という書物のなかの第1の手紙を執筆した。
③〔異文〕「交換過程」← 「交換価値」〉 (185-187頁)

 〈『信用の無償性。Fr.バスティア氏とプルドン氏との論争』,パリ,1850年。貸すということは、売るということではないという理由で、プルドンにとってはよくないものに思われます。利子をとって貸すということは、「自分が売るものの所有をけっして譲り渡すことなしに,同じ対象objet〕を絶えず繰り返して売り,絶えず繰り返してその価格を受け取るという能力である」(同前,9ページ)と考えるからです。貨幣や家のような対象を貸す場合は、それを売買する場合とは異なって、その所有者を取り替えません。それがどうやらプルドンには気に入らないのですが、彼が見ていないのは、貨幣が利子生み資本として手放される場合には、等価は何も受け取らないということです。どの売買行為でも、およそ交換過程でそれが行われる場合には、確かに対象は手放されます。いつでも売られるものの所有は譲り渡されます。しかし、その場合、対象の価値は手放されないのです。売られるときには商品は手放されますが、商品の価値は手放されず、この価値は、貨幣というかたちで還流するのです。あるいはその商品が信用で売られるなら、商品の価値は、貨幣に代わる別の形態でしかない、債務証書、あるいは支払請求権というかたちで還流するのです。それとは逆に、買われるときには貨幣は手放されますが、貨幣の価値は手放されず、この価値は商品というかたちで補填されます。再生産過程を全体をつうじて生産的資本家は同じ価値を自分の手に保持しているのであって、ただその価値の形態が変わるだけなのです。〉

 【このパラグラフは文献の抜粋から始まっているが、原注ではなく、289頁上段に書かれた本文である。この一文は、注解によれば61-63草稿からとられているらしいので、その該当部分を例によってまずは参照しておこう。

 〈『信用の無償性。Fr・バスティア氏とプルドン氏との論争』、パリ、185O年。それゆえ、貸すということは彼には有害なことと思われるのであるが、そのわけはそれが売ることではないからである。利子を取って貸すということは、「同じを絶えず繰り返し売って、その代わりに絶えず繰り返し代価を受け取りながら、売る物にたいする所有権はけっして譲渡しないという能力である。」(〔同前、〕9ページ。『ラ・ヴォア・デュ・プープル』の編集者の一人シェヴェの第一の手紙。)彼を迷わせているものは、「物」(たとえば貨幣や家)が売買の場合のように所有者を取り替えないということである。しかし、彼は次のことを見ていない。貨幣が手放されるときにはなんらの等価も取り返されていないが、これに反して現実の過程では、交換という形態で、またその基礎の上で、単に等価が受け取られるだけではなく、代価の支払われていない剰余が受け取られる。取り替え、物の交換が行なわれるかぎりでは、価値の変化は起こらず、相変わらず同じ人が同じ価値の「所有者」なのであり、また、剰余が生ずるかぎりでは、交換は行なわれない。商品や貨幣の交換が再び始まるときには、剰余はすでに商品に吸収されている。プルドンには、利潤は、したがってまた利子も、価値の交換の法則からは出てこない、ということがわかっていない。だから、「家屋」や「貨幣」などは、「資本」として交換されるべきではなく、「原価で……商品」として交換されるべきなのである。([43、]44ページ。)「実際、帽子屋は帽子を売って……その代わりに価値を、それ以上でもそれ以下でもなく、受け取る。だが、金貸し資本家は、……彼の資本をそっくりそのまま返してもらうだけではない。彼は、資本よりも多くを、自分が交換に投ずるよりも多くを、受け取る。彼は資本のほかに利子を受け取るのである。」(69ページ)P 〔プルドン〕氏の帽子屋は、資本家ではなくて職人たち〔Knoten〕、手工業職人であるらしい。〉 (草稿集⑦518-519頁)

 ここでは利子生み資本の固有の運動である貸付と返済の特徴を、商品の売買との対比によって明らかにすることが課題であるが、そのためにマルクスは、同じ問題を論じ、この違いがよく分からずに、金貸し資本家の不当を訴えるプルドンの主張を引きながら説明している。利子生み資本の貸出と商品の売買の相違は、一方は貨幣を手放しても、その所有権を保持しており、よってその一定期間後には利子をともなって返済を受けることにある。他方、売買の場合は、確かに売る側は商品を手放すが、商品の価値は手放さずに、彼はそれを貨幣という形で還流するし、買う場合は貨幣を手放すが、その貨幣の価値は手放さずに、それは商品というかたちで補填されるのだとしているわけである。またプルドンは利子生み資本の場合の貨幣の手放しでは、その対価は受けとらないことも見逃しているとも指摘されている。それに対して商品の売買の場合は、商品の売り手も、商品の買い手も、ともにそれらの価値を一つも手放すことなく、ただその価値の形態を変えているだけなのだ、というのがマルクスの指摘しているところである。
 またマルクスは商品の売買が信用にもとづいて行われる場合は、商品の価値は、すぐに貨幣のかたちで還流しないが、その代わりに貨幣に代わる別の形態でしかない、債務証書、あるいは支払請求権というかたちで還流するのだとも指摘している。別のところではマルクスは信用での売買の場合は商品の価値は債務証書や支払約束という債権の形で実現しているとも指摘している。だからこの場合は商品の価値は実現しているのであるが、しかしそれはいまだ絶対的な価値定在としての貨幣としてではなく、その支払約束という形で実現しているということである。】

【34】

 交換〔échanges〕,すなわち諸対象〔objet〕の交換〔échanges〕が行なわれるかぎりでは,価値の変化〔change of values〕は生じない。同じ資本家はいつでも同じ価値を握っている。しかし,資本家によって剰余価値が生産されるかぎりでは,交換〔échanges〕は行なわれない。そして交換〔échanges〕が行なわれるときには,剰余価値はすでに商品のなかに含まれている。〉 (187頁)

 〈諸対象の交換がおこなわれるかぎりでは、価値の変化は生じません。同じ資本家はいつでも同じ価値を握っているだけです。しかし、資本家によって剰余価値が生産される限りでは、交換は行われないのです。そして一般に交換が行われるときには、すでに剰余価値は商品のなかに含まれています。〉

 【今回も、先の【33】パラグラフの考察の続きと考えられる。商品の交換では、価値の変化は生じないし、そこから資本家は剰余価値を得るわけではない。剰余価値が生産されるのは生産過程においてだから、その生産過程を経て生産物が商品として交換に出されるときには、すでにそこには剰余価値は含まれているのだということである。】

【35】

 そして個々の交換行為を見るのではなく資本の総循環〔Gesammtturnus〕G-W-G'を見るならば,絶えず一定の価値額が前貸されていて,この価値額・プラス・剰余価値または利潤が流通から引き揚げられる。(この過程の媒介は,もちろん,たんなる交換行為では目に見えない。)そして,まさにこのような,資本としてのGの過程こそは,貸付資本家の利子がそれにもとづき,それから発現するものなのである。

①〔異文〕「もとづき,それから発現するものなのである。」← 「もとつくものなのである。」〉 (187頁)

 〈個々の交換行為そのものには何ら価値の変化を見ることはできませんが、しかし資本の総循環G_W_G'を見るのであれば、絶えず一定の価値額が前貸しされて、この価値額・プラス・剰余価値または利潤が流通から引き上げられていることが分かります。だからたんなる商品の交換は、資本の全体の関連からみるなら商品資本の貨幣資本への転換であり、あるいは貨幣資本の商品資本への転換、つまり資本の運動として捉えることができるのです。もちろん、こうした全体の媒介の過程そのものは、単なる交換行為においては見ることはできません。単純な商品流通はブルジョア社会の表面に現象していますが、資本関係はその背後に隠されているからです。しかしまさにこのような資本としてのGの過程こそ、貸付資本家の利子がそれにもとづき、そこから発現するものなのです。〉

 【このパラグラフも同じ問題を論じている。単純流通は、われわれが『資本論』の冒頭で分析したものであるが、それはマルクスが『資本論』の冒頭で〈資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる〉(全集版23a47頁)と書いているように、それはブルジョア社会の表層に現れている(現象している)商品を直接観察・分析するところから開始されている。こうした単純な商品や貨幣は実際にはその背後に隠されたより具体的な内容規定を帯びているのであるが、とりあえずはわれわれはそうしたものを捨象して、目に見えるあるがままのものをそれ自体として分析の対象にしているのである。しかしそれらが資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富であり、よって資本家的な商品、すなわち商品資本であり、貨幣資本でもあることは前提されているのである(この点、宇野はこうしたことがわかっていないのだが)。しかしそうした資本関係は、単純流通では背後に隠され、目に見えない。それは資本の総循環を全体として考察して初めてわれわれに捉えることができるものである。そうするとそれは一定の前貸しされた価値が、この価値額・プラス・剰余価値または利潤として流通から引き上げられ、それが繰り返されていることが分かるのである。こうした全体の媒介からみれば単なる商品や貨幣も、商品資本や貨幣資本として捉えることができるのである。そしてわれわれが当面の考察の対象にしている利子も、まさにこうした生産的資本家の生産する剰余価値を源泉にしているということである。】

【36】

 〈「じっさい,帽子を売る帽子製造業者は……帽子のかわりにその価値を受け取るのであり,それより[419]多くも少なくも受け取らない。ところが,貸付資本家〔capitalistepreteur〕は……自分の資本をそっくりそのまま取り返すだけではない。彼は,資本よりも多くを,彼が交換に投じるよりも多くを,受け取る。彼は資本のうえに利子を受け取る。」(同前,69ページ。)〉 (187頁)

 【このパラグラフは引用文だけのなで、平易な書き下ろしは不要であろう。これは〈(同前,69ページ。)とあるように、【33】パラグラフの冒頭〈信用の無償性。Fr.バスティア氏とプルドン氏との論争』,パリ,1850年〉からのものであり、すでにそのパラグラフの考察の中で紹介した61-63草稿の一文の最期の部分をほぼそのまま書き移したものである。
 プルドンは貸付資本家も彼のもつ貨幣を〈交換に投じる〉と考えているが、それについてマルクスはプルドンは貸付資本家の場合、彼の貨幣に対する対価は何も受け取らないことを見ていないと指摘していた。帽子を売る帽子屋は、帽子を手渡すかわりにその価値を貨幣の形で受け取るが、金貸資本家は貨幣をただ手放すだけである。もっとも所有権そのものを彼は保持しており、よってそれは一定期間後には彼のもとに還流する必要があるのであるが。ようするにプルドンは商品の売買と利子生み資本の運動との相違を明確につかんでいないということである。】

【37】

 ここでは帽子製造業者は,貸付資本家〔capitahstepr6teur〕に対立する生産的資本家を代表する。どのようにして生産的資本家は商品をそれの価値で売ることができるのか(生産価格への均等化はプルドンによる問題の把握にとってはどうでもよいことである),また,まさにそうすることによって,どうして自分が交換に投じる資本を越えて〔en sus du capital qu'il a apporté à 1'échange〕利潤を実現するのか,この秘密を明らかにプルドンは見破ることができなかった。帽子100個の生産価格は115ポンド・スターリング,またこの生産価格はたまたま帽子の価値に等しい(したがって帽子を生産する資本は平均的社会的な構成の資本だ)と仮定しよう。利潤が15%ならば,帽子製造業者は,資本をその価値どおりに115ポンド・スターリングで売ることによって,15ポンド・スターリングの利潤を実現する。彼にとっては帽子には100ポンド・スターリングしかかかっていない。彼が自分の資本で生産したのならば,彼は①剰余の15ポンド・スターリングを全部ふところに入れてしまう。もし借りた資本で生産したのならば,彼はたとえばそのうちから5ポンド・スターリングを利子として渡さなければならない。このことは少しも帽子価値を変えるものではなく,ただ,この価値に含まれている剰余価値の,いろいろな人びとのあいだの分配を変えるだけである。つまり帽子の価値は利子の支払いによっては影響を受けないのだから,すでにまえに解明した次のばか話には根拠がないのである。「商業では資本の利子が労働者の賃金に付け加えられて商品の価格を構成するのだから,労働者が自分の労働の生産物を買い戻すことができるということはありえない。労働しながら生きる〔Vivre en travaillant〕,ということは,利子の支配のもとでは矛盾を含んだ原理である。」(同前,105ページ。)a)/

① 異文〕「剰余の15ポンド・スターリングを」← 「115ポンド・スターリングを」〉 (187-188頁)

 〈プルドンにおいては帽子製造業者は、貸付資本家に対立する生産的資本家を代表しています。ではどのようにして生産的資本家は商品をその価値で売ることができるのでしょうか(生産価格への均等化はプルドンの問題の把握にとってはどうでもよいので考慮に入れないでおきます)。そしてそれによって彼はどうして自分が交換に投じる資本を越えて利潤を実現するのでしょうか。この秘密を明らかにプルドンは見破ることができなかったのです。帽子100個の生産価格は115ポンド・スターリング、またこの生産価格はたまたま帽子の価値に等しいとします(つまり帽子を生産する帽子製造業者は社会的に平均的な資本構成だと仮定します)。そうすると平均利潤率が15%だとするなら、帽子製造業者は、商品資本をその価値通りに115ポンド・スターリングで売ることによって、15ポンド・スターリングの利潤を実現します。彼にとっては帽子には100ポンド・スターリングしかかかっていません。彼が自分の資本で生産したのなら、彼は剰余価値の15ポンド・スターリングを全部ふところに入れてしまうでしょう。しかしもし彼が借りた資本で生産したのであれば、彼はそのうち例えば5ポンド・スターリングを利子として渡さなければなりません。このことは少しも帽子の価値を変えるものではありません。ただ帽子の価値に含まれている剰余価値の、いろいろな人々のあいだへの分配を変えるだけです。帽子の価値は利子の支払によっては影響を受けないのですから、すでに前に解明した次の馬鹿話には根拠がないのです。「商業では資本の利子が労働者の賃金に付け加えられて商品の価格を構成するのだから,労働者が自分の労働の生産物を買い戻すことができるということはありえない。労働しながら生きる〔Vivre en travaillant〕,ということは,利子の支配のもとでは矛盾を含んだ原理である。」(同前,105ページ。)〉

 【このパラグラフの最期でマルクスが引用している一文は、さきに【33】パラグラフで紹介した61-63草稿から抜粋したものに直接続く、次のような一文から移されたもののようである。

 〈「商業では資本の利子が労働者の賃金に加わって商品の価格構成するのだから、労働者が自分の労働の生産物を買い戻すことは不可能である。自分の労働によって生活するということは、利子制度のもとでは、矛盾を含む原理である。」(105ページ)第九の手紙(144-152ページ)のなかでは、この勇ましいP〔プルドン〕は、流通手段としての貨幣を資本としての貨幣と混同していて、そのために、フランスに存在する「資本」は160%になる(つまり、10億の資本……「フランスで流通している通貨の総額」にたいして、国債や抵当などでの年利が16億になる)と推論している。〉 (草稿集⑦519頁)

 ここではプルドンが、流通手段としての貨幣と利子生み資本との区別ができず混同しているのであるが、さらに彼はそもそも生産資本家が商品をその価値で販売し、しかもそうすることによって自分が交換に投じた資本を越えて如何にして利潤を実現するのかについて、その秘密について見破っていないことを指摘し、そのカラクリを暴いている。マルクスは生産価格への均等化はプルドンの問題を論じるには必要ないといいながら、しかし具体的例では生産価格を前提して論じ、その平均的資本構成という前提のもとに生産価格と価値が一致しているケースとして論じている。そして利子が剰余価値から分割されたものであって、利子の支払によっては商品の価値には何の変化も生じないことを論証している。そしてそのことは商品の価格が利潤(利子)・賃金・地代によって構成されるとする価値構成説の俗説、馬鹿話には何の根拠もないのだとしているのである。】

【38】

 |290下|〔原注〕a)それだから,「家屋」や「貨幣」などは,「資本」として貸し付けられるのではなく,「商品」として「原価で」(同前,[43,]44ページ)譲渡されるのだということになる。ルターはプルドンよりはいくらか高みに立っていた。彼は,利潤をあげるということが貸すとか売るこという形態によるものではないということをすでに知っていた。購買からも高利は得られる。しかしいまこのことまでも一口にかたづけるわけにはいかない。まず一方を,貸付による高利を,論じなければならない。これを防止してから(最後の審判の日ののちに)買う場合の高利にも訓戒を加えることにしよう。」(M.ルター牧師諸氏へ,高利に反対して,云々』,ヴィッテンベルク,1540年。)〔原注a)終わり〕|

①〔注解〕この一文はバスティア=プルドンでは次のとおり。--「もし商業信用または抵当信用が,言い換えれば貨幣資本が,もっぱら流通するという機能を果たす資本が,無償であるなら,家屋という資本はやがてそれ自身になり,家屋はもはや実際には資本ではなく,商品であろう。……原価で。」
②〔注解〕ルターからの抜粋でマルクスはルターの綴り方でではなく,高地ドイツ語の正書法を使っている。〉 (189頁)

 〈プルドンには、利子の支払は商品の価値には影響せず、ただその価値に含まれている剰余価値の分配に影響を与えるだけだということが分からない。だから、「家屋」や「貨幣」などは「資本」として貸しつけられるのではなく、「商品」として「原価で」譲渡されるのだということになるのです。ルターはこうしたプルドンよりいくらかは高みに立っていました。彼は、利潤をあげることが貸すとか売ることという形態によるものではないということをすでに知っていました。彼は次のように述べているからです。「購買からも高利は得られる。しかしいまこのことまでも一口にかたづけるわけにはいかない。まず一方を,貸付による高利を,論じなければならない。これを防止してから(最後の審判の日ののちに)買う場合の高利にも訓戒を加えることにしよう。」つまりルターは購買や貸付による高利を不当とするのですが、それは高利の源泉が、そうした購買や貸付の形態から生じるものではないということを示唆しているのです。〉

 【このパラグラフは先のパラグラフを直接受けた原注である。先のパラグラフはプルドンの引用で終わっているが、この引用のあとに61-63草稿では〈P〔プルドン〕は、流通手段としての貨幣を資本としての貨幣と混同してい〉ると指摘していた。まさにこうした混同した立場にたっているから〈「家屋」や「貨幣」などは,「資本」として貸し付けられるのではなく,「商品」として「原価で」(同前,[43,]44ページ)譲渡されるのだということになる〉と指摘されているのである。この部分は、すでに【33】の考察のところで紹介した61-63草稿の〈取り替え、物の交換が行なわれるかぎりでは、価値の変化は起こらず、相変わらず同じ人が同じ価値の「所有者」なのであり、また、剰余が生ずるかぎりでは、交換は行なわれない。商品や貨幣の交換が再び始まるときには、剰余はすでに商品に吸収されている。プルドンには、利潤は、したがってまた利子も、価値の交換の法則からは出てこない、ということがわかっていない。だから、「家屋」や「貨幣」などは、「資本」として交換されるべきではなく、「原価で……商品」として交換されるべきなのである〉という部分から引用されている。ここでは〈プルドンには、利潤は、したがってまた利子も、価値の交換の法則からは出てこない、ということがわかっていない〉と指摘されている。それに対してルターの場合は、高利の源泉が交換からは出てこないということに気づいているとマルクスは考えているわけである。だからルターはプルドンより、少し高みにいるという指摘があるわけである。】

【39】

 〈/290上/どんなにプルドンが資本一般の運動を理解しなかったかは,彼が資本一般の運動を利子生み資本に特有な運動として述べている次の文章に現われている。〉 (189頁)

 〈プルドンが資本一般の運動を理解していないかは、彼が資本一般の運動を利子生み資本に特有な運動として述べている次の文章に現れています。〉

 【ここからは再び本文に戻っている。やはりテーマは資本一般の運動と利子生み資本の運動との区別である。その両者を混同しているプルドンを引き合いにして、その区別を明らかにしようというのがマルクスの意図であろう。このようにマルクスはしつこいくらいに単純な流通における商品や貨幣と資本の運動としてのそれらとの違いをまず指摘したのちに、そうした資本の運動とさらに利子生み資本としての固有の運動との相違を明らかにしようとしているわけである。これらの区別の重要性は、後にエンゲルス版の第28章の冒頭次のようにその区別の重要性が指摘されている。

 〈トゥク,ウィルスン,等々がしている,Circulation(「通貨」--引用者)資本との区別は(そしてこの区別をするさいに,鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capital)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同されるのであるが),次の二つのことに帰着する。〉 (大谷新著第3巻97-98頁)

 ここでマルクスが〈鋳貨としての流通手段と,貨幣〉と述べているのは、『資本論』の第1部の冒頭で取り扱われているものである。いうまでもなく〈鋳貨としての流通手段〉とあるのは、第3章第2節「流通手段」のことであり、〈貨幣〉とあるのは定冠詞のない貨幣であり、マルクスが「貨幣としての貨幣」、あるいは「本来の貨幣」等々と述べているもので、第3章第4節の「貨幣」である。だからここには蓄蔵貨幣や支払手段あるいは世界貨幣が入る。それに対して〈貨幣資本〉と述べているのは、第2部の資本の流通過程で考察されている商品資本や生産資本と区別されたものとしての貨幣資本なのである。そして利子生み資本はいうまでもなく第3部第5章(篇)で取り扱われているものである。マルクスはこうした『資本論』の各段階で展開される貨幣の抽象的な機能とより具体的な規定性をおびたものとの区別の重要性をここで指摘しているのである。
 もっともこれまでのところでは単に貨幣のそうした区別だけではなく、単純流通と資本の流通過程との違い、また利子生み資本に固有の運動との相違を論じようとしているわけだが。】

【40】

 〈「利子の蓄積によって,貨幣資本は交換が行なわれるごとに絶えずその源泉に帰るのだから,絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しはつねに同じ人に利益をもたらすということになる。」(154ページ。)〉 (189頁)

 【これはプルドンからの引用だけだから、平易な書き下ろしは不要であろう。この一文も先の61-63草稿からとられている。その草稿をここでは紹介しておこう。

 〈さらに次のように言う。「利子の蓄積によって資本貨幣が交換に交換を重ねて絶えずその源泉に帰るということから、絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しがつねに同じ人物に利得をもたらすということになる。」(154ページ)資本は貨幣の形で貸し出されるので、彼は、資本-貨幣〔capital-argent〕すなわち現金がこの独自な属性をもっているものと思いこんでいるのである。いっさいのものは売られるべきものであるが、なにものも貸されるべきものではない、というわけである。言い換えれば、彼は商品を欲したが、それが「貨幣」になることは欲しなかったように、ここでは商品や貨幣を欲するが、それらが資本に発展してはならないのである。すべての空想的な形態を剥ぎ取ってしまえば、これが意味するところは、小さな町人的、農民的で手工業的な生産から、大工業に進展してはならない、ということにほかならないのである。〉 (草稿集⑦519頁)

 とりあえず、ここでは61-63草稿の一文を紹介するだけにする。また必要に応じてこの内容については論じよう。】

【41】

 〈それでは,利子生み資本の特有の運動のなかでプルドンを当惑させている〔puzzle〕ものはなにか?〉 (190頁)

 〈それでは、利子生み資本に特有な運動のなかでプルドンを当惑させているものは何でしょうか?〉

 【これは特に解説のしようもない。】

【42】

 〈それは,売る〔vendre〕,価格〔prix〕,対象を譲渡する〔céder des objets〕,という範躊であり,また,ここでは剰余価値が現われている外面的で無媒介的な形態である。要するに〔in fact〕,ここでは資本としての資本が商品になってしまっているという現[420]象,それゆえ,売ること〔vendre〕が貸すことに転化し,価格〔prix〕が剰余価値の分け前に転化してしまっているという現象である。〉 (190頁)

 〈それは売るという行為、あるいはその価格、対象を譲渡するという範疇です。またここでは剰余価値が現れている外面的で無媒介的な形態そのものが彼を当惑させているのです。つまりここでは資本としての資本が商品になってしまっています。だから売ることが貸すことに転化し、価格が剰余価値の分け前である利子に転化してしまっている現象が彼を惑わしているのです。〉

 【先に紹介した61-63草稿では〈資本は貨幣の形で貸し出されるので、彼(プルドン--引用者)は、資本-貨幣〔capital-argent〕すなわち現金がこの独自な属性をもっているものと思いこんでいるのである。いっさいのものは売られるべきものであるが、なにものも貸されるべきものではない、というわけである〉とマルクスは指摘していた。プルドンは売るという行為が、貸付になっていることが分からないのである。あるいは価格が利子という形態をとっていることが分からない。しかしそれこそ利子生み資本に固有の運動なのである。】

 (以下、続く)

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