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2019年6月15日 (土)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-5)

『資本論』第3部第5篇第21章の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き、第26パラグラフからである。

【26】

 〈ところが,利子生み資本ではそうではない。そして,まさにこのことこそが利子生み資本の独自な性格をなしているのである。〉 (181頁)

 〈ところが、利子生み資本ではそうではないのです。つまり今度は、貨幣が資本として流通に入るのです。そして、まさにこのことこそが利子生み資本の独自の性格をなしているのです。〉

 【ここから一転して、利子生み資本の考察に戻っている。つまり【20】~【25】パラグラフでは、『資本論』第2巻で考察したような、資本の流通過程における商品資本や貨幣資本が実際の流通においては、単なる商品や貨幣として振る舞い、決して資本として流通に入っていくのではないことを確認した上で、それに対して、この【26】からは、しかし利子生み資本はそうではないのだと話を転じている。そしてそれこそが利子生み資本の独自の性格をなしているのだというわけである。】

【27】

 自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所持者は,それを流通のなかに投じて,第三者に譲渡し,それを資本としての商品にする。それは,それを譲渡する彼にとっての資本としてだけでなく,資本として,剰余価値,利潤を創造するという使用価値をもつ価値として,第三者に引き渡されるのである。つまり,それが彼に引き渡されるのは,資本として,すなわち,運動のなかで自分を維持し,機能し終えたのちにその最初の引渡人の手に,ここでは貨幣所持者の手に帰ってくる価値としてである。つまり,ただしばらくのあいだだけ彼の手から離れ,その所有者の占有から機能資本家の占有に移るのであって,支払われてしまうのでも売られるのでもなく,ただ貸し付けられる,貸し出されるだけの価値としてである。すなわち,一定期間ののちにはその出発点に帰ってくる〔returniren〕という,また第2には実現された資本として,したがって剰余価値を生産するというその使用価値を実現した資本として,還流する〔returniren〕という条件のもとでのみ,その価値は手放されるのである。a)/

①〔異文〕「……にする」という書きかけを消して「……として手放す」と書いたのち,これも消している。
②〔異文〕「に」zu←an
③〔異文〕「手放〔entäussern〕される」← 「譲渡〔vcraussern〕される」〉 (181-182頁)

 〈自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所持者は、それを流通に投じて、第三者に譲渡します。しかしその場合の貨幣は、単なる貨幣としてではなく、資本としての商品として手放されるのです。それは譲渡する貨幣所持者にとってそうである(なぜなら彼はそれを増殖しようとして手放すわけですから)だけではなくて、実際にも、それは資本としての商品として譲渡されるのです。つまりそれは剰余価値を、利潤を創造するという使用価値をもつ価値として、引き渡されます。つまりそれが第三者に引き渡されるのは、資本として、つまり運動のなかで自分を維持し、機能し終えたのちに、その最初の引渡し人の手に、貨幣所持者の手に帰ってくる価値としてです。つまり、ただしばらくのあいだだけ貨幣所持者の手から離れて、その所有者の占有から機能資本家たる第三者の占有に移るのであって、支払われてしまうわけでも売られてしまうわけでもないのです。ただ貸し付けられる、貸し出されるだけの価値としてそれは第三者に譲渡されるのです。それは、第1に一定期間ののちにはその出発点に帰ってくるものとして、第2には実現された資本として、したがって剰余価値を生産するというその使用価値を実現した資本として、還流するという条件のもとでのみ、その価値は手放されるのです。〉

 【ここから利子生み資本の場合は、資本の流通過程における商品資本や貨幣資本とは異なり、資本として流通に投じられることが指摘されている。それをマルクスは「資本としての商品」にすると述べ、草稿ではこの「資本として」に二重の下線が引かれているという。つまり利子生み資本の場合、それが「資本として」流通に投じられるということがその独自の性格なのだというのがマルクスの強調したいところである。それが資本として流通に投じられる理由とし、一つは最初の貨幣所持者にとってそうであるから。なぜなら、彼はそれを利子生み資本として増殖しようとして流通に投じるのだからである。しかしそれだけではなくて、それが資本として流通に入るのは、それ自体が剰余価値、利潤を創造するという使用価値をもつ価値であるという意味でも、それは資本として流通に入るのだとマルクスは指摘している。
 だからまたここから利子生み資本の運動のもう一つの特徴が出てくる。つまりそれが資本として貨幣所持者によって手放されるということは、それは資本としての運動を行うものとして、資本としての循環を経るものとしてでなければならない。つまり運動のなかで自分を維持し、機能し終えた後には、その増殖分と一緒に最初の出発点に帰ってくるという資本の運動である。だから最初の貨幣所持者が、それを資本として手放すということは、第三者にただ一時的に占有させるということであり、ただ貸し付けれる、貸し出されるというこでしかないわけである。ここにも利子生み資本の運動の独自な性質があるわけである。それは資本として商品になり、販売されるが、しかしそれが資本であるということは資本としての運動を経るということであり、だからそれは支払われてしまうのではなく、貸し出されるだけだということである。
 この点、宇野のように商品になるのは貨幣であって、資本ではない、などという理解ではこうした利子生み資本に固有の運動は分からないことになる。それは資本として商品になるからこそ、資本としての運動を、還流をもたらさなければならず、よってそれは単に支払われたり、売られてしまうわけではなく、一時的な貸付け、貸出でなければならないわけである。そうした利子生み資本に固有の運動を、宇野のような解釈ではあきらかにならないであろう。】

【28】

 [417]|289下|a)追記Zusatz〕。商品が資本として貸し付けられるとき,それは流動資本として貸し付けられることも,固定資本として貸し付けられることもできる。貨幣はどちらの形態でも貸し付けられることができる。固定資本として貸し付けられるのは,たとえば,貨幣が年金のかたちで返済され,したがって利子といっしょに絶えず資本も少しずつ還流する〔returniren〕という場合である。他の諸商品は,その使用価値の性質上,いつでもただ固定資本としてしか貸し付けられることができない。家屋や機械などがそれである。しかし,すべての貸し付けられる資本は,その形態がどうであろうと,またその使用価値の性質によって返済がどのように変形されようとも,つねにただ貨幣資本の特殊な一形態でしかない。というのは,ここで貸し付けられるものは,つねにある一定の貨幣額であって,この場合,利子もまたこの額にたいして計算されるのだからである。もし貸し出されるものが貨幣でも流動資本でもないならば,その返済もまた固定資本が還流する〔returniren〕ような仕方で行なわれる。貸し手は周期的に利子と,固定資本そのものの消費された〔consumirt〕価値の一部分,つまり周期的な損耗分〔Dechet〕の等価とを返してもらう。そして,終わりには,貸し付けられた固定資本の未消費〔unconsumirt〕部分が現物で帰ってくる。もし貸し付けられる資本が流動資本ならば,それはやはり流動資本の還流の仕方〔Returnweise〕で貸し手のもとに還流する。

①〔異文〕手稿ではこの追記は手稿のこのページの最後に書かれており,「a)追記」という標識によってこの箇所に関係づけられている。
②〔注解〕このパラグラフは,カール・マルクス『経済学批判(1861-!863年草稿)』から,変更を加えて,取られている。(MEGAII/3.4.S.1518.18-34.)〉 (182-183頁)

 〈a)への追記。商品が資本として貸し付けられるときは、それは流動資本として貸し付けられることも、あるいは固定資本として貸し付けられることもできます。その商品の使用価値の特性によって規定される資本の循環の違いによって、その違いが出てくるでしょう。そして流動資本の場合は、現実資本の循環に応じて一度に返済は可能ですが、固定資本の場合は、その返済は数回の資本の回転期間を要するか、あるいはその磨滅部分だけが還流するに応じて、すこしずつ徐々に返済されることもあります。しかし貨幣の場合はどちらの形態でも貸し付けられることができます。つまりその還流の形態が流動資本のように資本の循環ごとにいっぺんに還流し、返済を受けることも可能なら、他方で固定資本のように、例えば貨幣が年金のかたちで返済され、したがって利子といっしょに絶えず資本もすこしずつ還流するというようにです。他の諸商品は、その使用価値の性質上、いつもただ固定資本としてしか貸し付けられることができない場合もあります。家屋や機械などはそうでしょう。しかしすべての貸し付けられる資本は、その形態がどうであろうとも、その使用価値の性質によって返済がどのように変形されようと、つねにただ貨幣資本の特殊な一形態でしかないということです。というのは、ここで貸し付けられるものは、つねにある一定の貨幣額であって、利子もまたこの額に対して計算されるのだからです。もし貸し出されるものが、貨幣でも流動資本でもなく、固定資本ならば、その返済もまた固定資本が還流するのと同じような仕方で行われます。貸し手は周期的に利子と、固定資本そのものの消費された価値の一部分、つまり周期的な損耗部分の等価を返してもらいます。そして最終的には、貸し付けられた固定資本の未消費部分が現物で帰ってきます。もし貸し付けられる資本が流動資本ならば、それはやはり流動資本の還流の仕方で貸し手のもとに還流します。〉

 【ここでは商品が資本として貸し付けられる場合が論じられている。この部分は61-63草稿から変更を加えて取り入れられているということだから、まずその61-63草稿の元の文を見てみることにしよう。ここでは少し関連すると思われる部分を多く抜粋してみよう。それは次のようになっている。

 商品(貨幣)は資本として貸し出されるのだから、それは流動資本や固定資本として貸し出されることができる。貨幣は両方の形態で貸し出されることができるのであって、たとえば固定資本として貸し出されるならば、その場合には、貨幣は年金の形態で返済され、したがって、資本の一部も利子を伴って絶えず帰ってくる。その他の商品は、その使用価値の本性からすれば、家屋、機械などのように、しばしば、ただ固定資本としてのみ貸し出されることができる。だが、貸付資本はすべて、その形態がどうであろうと、またその返済の形態が、それの存在する使用価値の独自な本性によって、どのように修正されようとも、つねに、ただ、貨幣資本の特殊な形態であるにすぎない。というのは、ここでは、貸し出されるものは、どんな使用価値で存在しようと、一定額の貨幣であり、さらにまた利子もこの金額にたいして計算されるのだからである。貸し出されるものが、貨幣でも流動資本でもなく、固定資本であるとすれば、それはまた固定資本の仕方で返済される。貸し手は定期的に利子と、固定資本そのものの消費される価値部分すなわち定期的な損耗分の等価とを返済される。最後は、現物で貸し出された固定資本のうちの消費されていない部分が帰ってくる。

①〔異文〕「(貨幣)」--あとから書き加えられている。

 貸し付けられる資本が流通するさいの形態は、次のとおりである。
 一、貨幣は支払手段として機能する、すなわち、資本は手放されるかそれとも売られるが、しかし、一定の期日後にはじめて支払われる。支払手段としての貨幣の機能は、すでに見たように、単純な商品交換から生ずる。したがって、このことは、貨幣資本にとってはなんら特徴的なことではない。

①〔異文〕「……かそれとも」←「そして」

 二、一定期間ののちにそれは貸し手のもとに還流する。それが一部ずつ利子を伴って還流しようと、またはそれが(利子を伴って全部還流しようと、あるいはそれが一部の期間中はただ利子だけを還流させ、いろいろに違う期間の終わりにはじめて資本を最終期間の利子を伴って還流させようと、そうなのである。

①〔異文〕はじめここに「彼がそれを定期的に利子から」と書いたが、消している。

 見られるように、こうした、返済すなわち貸し手のもとへの資本の復帰の仕方は、資本が総じてその循環のなかで行なう運動、資本の出発点への復帰、以外のなにものでもない。もし、資本がたとえば年々一部ずつ利子を伴って返済されるならば、これは、固定資本が還流する仕方であり、それがその流通のなかでその出発点に復帰する仕方である。これに反して、年度末にまたは別の期間の終わりに資本が利子を伴って全部帰ってくるならば、それは流動資本の還流方法である。貸し出される資本は二重に還流する。すなわち、現実の過程では、それは産業資本のもとに還流し、それから、この復帰は、もう一度、貨幣資本家への移動として、つまり貸し出される資本の現実の所有者、それの法律的な出発点、へのその返済として、繰り返されるのである。

①〔異文〕「循環」←「回転」
②〔異文〕「貸し出される資本」←「資【本】」
③〔異文〕「貸し出される資本の……への〔an seinen〕」←「……への〔an den〕」〉 (草稿集⑦508-510頁)

 この61-63草稿はただ紹介するだけにとどめ、特に加えて言及する必要はないであろう。
 ここでは、そもそも商品を資本として貸し付けるということはいわゆるリースというのとどう異なるのか、という問題を考えてみたい。大谷氏は氏の弟子を自認する友人によれば、マルクスが利子生み資本の範疇を資本として貸し付けられる一定の価値額として、その価値額が貨幣の形態をとろうと商品の形態をとろうとやはり利子生み資本だとしていることに疑問を持っているのだという。というのは、マルクスがここで挙げている家屋や機械などの貸付けの場合は、それは家屋や機械を一定期間使用する使用価値を販売すると解すべきという理由からであるらしい。いわゆるリース産業というものは、果たして利子生み資本を貸し付ける資本家なのか、それとも一定期間に限ってその使用価値の使用を販売する資本家なのか、ということである。マルクスは『経済学批判』のなかで、貨幣の支払手段としての機能に関連して、同じ様な問題を論じている。それを少し参照してみよう。

 〈さらにまた、一連の使用価値は、その性質上、商品の実際の引渡しとともにではなく、ただ一定の期間それをゆだねることによってはじめて現実に譲渡されるということになる。たとえば家屋の使用が一ヵ月だけ売られるとすると、その家屋は月のはじめにその使い手を変えるけれども、その使用価値は一ヵ月が経過したあとで引渡しずみとなる。この場合には、使用価値を事実上ゆだねることと、その現実の譲渡とは、時間的にくいちがっているから、その価格の実現も同じくその位置変換より遅れて行なわれる。〉 (草稿集③368頁)

 これは販売される使用価値の性質上、その販売による使用価値の譲渡が貨幣との引き換えにではなく、使用価値の譲渡そのものに一定期間を要するために、使用価値が渡され終わったのちに、その支払がなされるという支払手段としての貨幣の機能の一例として、マルクスは述べているわけである。販売される使用価値の性質からくる貨幣の支払手段としての機能の一例である。だからこの場合、明らかにマルクスは家屋の場合は、その使用が一カ月なら一カ月だけ販売されるとしている。これは商品の販売であって貸付けではない。では、家屋が利子生み資本として貸し付けられるという場合はそれとはどう違うのであろうか。それが問題である。大谷氏はおそらくこの『批判』の支払手段の例が頭にあったので、家屋や機械などは、ただその使用が期間限定で販売されるだけであって、一定の価値額が貸し付けられるのとは異なるのではないか、と考えたのであろう。
 しかしその場合、つまり使用価値の一定期間の使用を販売すると考える場合は、一定期間ののちに支払われる価値額は、家屋や機械の使用する価値の実現されたものになる。これは家屋や機械の耐久性を考えて、一定期間後のその使用価値の損耗分の価値額と考えることができる。例えば機械の価値が100万円で、10年の耐用期間があるとすれば、その使用が一年間販売されたとするなら、その使用価値は一年後に譲渡し終わるのだから、その価値は一年後に10万円として実現する。この場合、貨幣は支払手段として機能する。
 しかしそれらが利子生み資本としての貸付けなら、一年後に支払われる価値額は、機械の価値100万円という貨幣額の貸付けだから、だから一年後には、その機械の現物の返還と同時に、その100万円の貨幣額に対する利子5万円と、さらに機械の一年間の使用にともなう損耗分の10万円、つまり合計15万円が支払われることになる。果たしてどちらが正しいのであろうか。
 われわれはここでマルクスが利子生み資本について指摘していたことを思い出す必要がある。つまり利子生み資本の場合の第一の場所変換は、再生産過程の契機ではないということをである。つまり利子生み資本としての商品の譲渡と単なる商品の販売としての譲渡との違いは、後者は再生産過程の一契機であるのに対して、前者はそうではないということである。だから利子生み資本としての商品の貸付けは、譲渡されるのは商品ではあるが、しかしそれは再生産過程の外からの商品の譲渡であり、よってまたそれはその還流も再生産過程の外への還流であるということである。それに対して、家屋や機械の使用の販売は文字どおりの商品の販売であり、ただその使用価値の性質から、その使用価値の譲渡とその価値の実現とがずれるケースに過ぎない。だからこの場合は貨幣は支払手段として機能するわけである。しかしそれらが再生産過程の一契機であるということは疑うべくもない。しかし利子生み資本としての商品の貸付けはそうではない。それは再生産過程の契機をなしていないとマルクスは指摘しているのである。だからこそ、それは利子をともなって返還されなければならないのである。それは資本としての貸付けだから、その商品は剰余価値を創造する使用価値を持った価値として貸付けられるのである。だから、その貸し付けられる家屋や機械も当然利潤を生産するものとして機能することになる。だからこそそれらが生み出した利潤の一部が利子として最初の貸付けた人に還流するわけである。
 両者の違いは、一定の期間の使用の販売という点では同じであるが、利子生み資本の場合は、その使用が利潤を生む使用価値であり、よってその利潤の一部が利子として貸付けた人に還流しなければならないということである。それに対して貨幣の支払手段として機能の場合の商品の使用の販売の場合は、その使用がただの使用価値の実現でしかなく、それが利潤を生むためのものには限定されないということである。ただそれは個人的な消費のために家屋の使用を買ったといえるし、機械の場合もただ個人的に使用するために一定期間の使用を買ったのである。しかし利子生み資本としての商品の貸付けの場合は、その商品の使用価値は利潤を生むという独特の使用価値であり、よってその使用によって創造された利潤の一部が利子として最初の貸付けた人に還流する必要があるわけである。】

【29】

 還流Retrunの仕方は,再生産する資本の,またその特殊的な種類の,現実の循環運動によって規定されている。しかし,貸し付けられる資本にとっては還流〔return〕は返済,repaymentという形態をとる。なぜならば,その前貸,その手放し〔Entausserung〕が貸付という形態をもっているからである。

① 〔異文〕「再生産」← 「生産」〉 (183-184頁)

 〈実際の資本の還流の仕方は、再生産する資本の、またその特殊な種類の違いによって、違ってきます。例えば流動資本の場合は、一回の資本の回転で還流しますが、固定資本の場合は、その損耗分だけが還流するだけです。つまり現実の資本の循環運動にそれは規定されているわけです。しかし貸し付けられる資本にとっては、還流は返済という形態をとります。というのは、それはそもそもその前貸し、その手放しが、貸付という形態をもっていたからです。〉

 【ここでは利子生み資本がどういう形態で貸し付けられようと、それは貸付という形態をとるということは同じであり、よってまたその還流が返済という形態をとることも変わらないのだという指摘がされている。これはこれまで利子生み資本の説明を読んでいる限りでは当たり前のように思えるのであるが、実際にはさにあらずである。というのは、例えば株式を購入する場合、購入者の意識においても、それを貸付と意識することはないからであり、だからまた株式を販売した場合も、それを返済と意識することはないからである。しかしそうした場合も、マルクスはそれは利子生み資本の貸付と返済なのだと指摘しているのである。だからこの一文は短いが決してどうでもよいことでも分かりきったことを言っているのでもないのである。】

【30】

 〈この項目でわれわれが取り扱うのはただ本来の貨幣資本だけであって,そのほかの貸付資本の諸形態はこの貨幣資本から派生したものである。〉 (184頁)

 〈この項目で私たちが取り扱うのは、ただ本来の貨幣資本だけです。それ以外の貸付資本の諸形態は、この貨幣資本から派生したものです。〉

 【先のパラグラフで貸付と返済という利子生み資本の独特の運動がどうでもよい問題ではないと指摘したが、ここでマルクスはただここでわれわれが取り扱うのは本来の貨幣資本だと指摘している。それ以外の貸付資本の諸形態はそれから派生したものだというのである。〈そのほかの貸付資本の諸形態〉としてマルクスは何を考えているのかは分からないが、どいう貸付資本の形態があるのであろうか。後にマルクスは「III)」と番号を打った項目(これはエンゲルス版=現行版では第30~32章に該当する)のなかで貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積との関連を問題にする時に、貸付可能な貨幣資本に問題を限定して論じている。そしてそれを論じる前提として、それ以外の貨幣資本として架空な貨幣資本の例を挙げて論じているのである。それは例えば国債であるとか株式等々である。だからここでマルクスが〈そのほかの貸付資本の諸形態〉と述べているものとして考えられるのは、国債や株式、あるいは手形などの有価証券の類と考えられるかも知れない。】

【31】

 〈貸し出された資本は二重に還流する〔returniren〕。現実の過程ではそれは機能資本家の手に還流し,それからもう一度,貸し手〔lender〕すなわち貨幣資本家〔monied capitalist〕への移転〔transfer〕として,つまり,資本の現実の所有者,その法律上の出発点への返済として,還流が繰り返される。〉 (184頁)

 〈貸し出された資本は二重に還流します。一つは現実に資本として機能する過程では、それは機能資本家の手に還流しますし、それからもう一度、今度はその機能資本家の手から、それを最初に貸し付けた資本家、すなわち貨幣資本家の手に還流し、返済されます。この貨幣資本家というのは、資本の現実の所有者であり、その法律上の所有者、出発点です。〉

 【これは【13】パラグラフで〈ここで二重に現われているのは,1)資本としての貨幣の支出であり,2)実現された資本としての,G'またはG+△Gとしての,それの還流〔Return〕である〉と言われていたことの後半部分が再度確認されている。たがらこの二重の還流は、最初の貨幣の支出が二重に行われた(最初は貸付として、その次に現実資本への転換として)ことに対応しているわけである。】

【32】

 〈現実の流通過程では資本はいつでも商品および貨幣として現われるのであって,その運動は一連の交換,売買に帰着する。要するに,流通過程は商品の変態に帰着するのである。ところが,過程の全体を見れば,そうではない。貨幣から出発して見れば{商品から出発しても同じことである。というのは,その場合には商品の価値から出発するのであり,したがってそれら自身をも貨幣の姿で〔subspecie〕見るのだからである},その場合にはある貨幣額が引き渡されて,ある期間ののちにその貨幣額ならびにそれを越えるある超過分,それのある増加分が帰ってくる。増大した貨幣額が,最初の価値の補填分・プラス・剰余価値が帰ってくる。それは,ある[418]循環を通り抜けるなかで自分を維持し増殖したのである。ところで,貨幣は,それが資本として貸し付けられるかぎりでは,まさに,このような自分を維持し増殖する貨幣額として貸し出されるのであって,この貨幣額はある期間ののちには利潤とともに帰ってきて絶えず繰り返し新たに同じ過程を通ることができるのである。それは貨幣として引き渡されるのでもなければ商品として引き渡されるのでもない。つまり,(貨幣として前貸される場合)商品と交換されるのではなく,(商品として前貸される場合)貨幣と引き換えに売られるのではない。そうではなくて,それは資本として引き渡されるのである。資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば,資本は自分自身にたいする関係として現われるのであるが,この,自分自身にたいする関係が,ここでは媒介する中間運動なしに単純に資本の性格として,資本の規定性として,資本に合体されるのである。そして,それはこのような規定性において譲渡されるのである。〔「a)追記」終わり〕|〉 (184-185頁)

 〈現実の資本の流通過程では、資本はいつでも単なる商品や貨幣として現れます。その運動は一連の交換や販売に帰着します。ようするに、資本の流通過程もわれわれが『資本論』の冒頭で考察した商品の変態に帰着するのです。
  ところが、過程の全体をみればそうではありません。貨幣から出発して全体を見れば、まずある貨幣額が引き渡されて、ある期間ののちにその貨幣額ならびにそれを越えるある超過分、その増加分が帰ってくる運動を見渡すことができます。貨幣ではなく、商品を出発点に考えても同じです。というのは、その場合も商品の価値が出発点であり、したがってそれらも貨幣の姿でみることができるからです。
  増大した貨幣額が、最初の価値の補填分・プラス・剰余価値として帰ってきます。それはある循環を通り抜けるなかで自分を維持し増殖したのです。つまり全体との関連でみれば、資本の流通過程は、まさに「資本」の流通と再生産として現れるのです。それはある価値額が、自分の価値を維持するだけではなく、その増殖分を含んだものとして出発点に帰ってくる資本の運動として捉えることができます。しかし流通過程では、最初にも確認したようにそれらは単なる商品や貨幣として振る舞うだけなのです。だからそれらが資本の流通でもあるというのは全体の関連の中で言いうるだけなのです。
  ところが貨幣は、それが資本として貸し付けられる場合は、まさに最初から、このように自分を維持し増殖する貨幣額として貸し付けられるのです。この貨幣額はある期間ののちには利潤とともに出発点に帰ってきて、それを絶えず繰り返して新たに同じ過程を通ることができます。
  だからそれは単なる貨幣として引き渡されるのでもなければ、単なる商品として引き渡されるのではありません。それは単なる貨幣としての引き渡しのように商品と交換されるわけでもなく、単なる商品として引き渡される場合のように貨幣と交換に売られるわけでもないのです。そうではなく、それは資本として引き渡されるのです。資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば、資本は自分自身にたいする関係として現れますが、その自分自身にたいする関係が、ここでは媒介する中間運動なしに単純に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体されているのです。それはそのような規定性において譲渡されるのです。〉

 【ここでは資本の流通過程では、商品資本や貨幣資本も、単なる商品や貨幣として振る舞うこと、それらが資本であるのは、あくまでも全運動の契機として見た場合にいいうるに過ぎないということをまず指摘し、しかし利子生み資本の場合は、貨幣は最初から資本として譲渡されること、だから貨幣が資本としての規定性もつ全関連がそこでなくなっていること、それは媒介する中間運動なしに単純に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体されていると指摘されている。つまり利子生み資本の資本としての性格は無媒介的であることを指摘しているわけである。それに対して流通過程における商品資本や貨幣資本が資本としての規定性を受けとるためには資本主義的生産過程を全体および統一体としてみる、その一契機であるとする媒介を必要とするわけである。利子生み資本の資本としての規定性は、そうした媒介なしの規定性だとマルクスは指摘しているわけである。ここで「a)」として追記された部分は終わっている。】

 (以下、続く)

 

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