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2019年6月

2019年6月29日 (土)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-7)

『資本論』第3部第21章の段落ごとの解読(続き)

 

 前回の続き、第43パラグラフからである。


【43】

 〈①資本が自分の出発点に帰るということは,そもそも,資本がその総過程のなかで行なう特徴的な運動である。だから,このことはけっして利子生み資本を特徴づけるものではない。利子生み資本を特徴づけるものは,この復帰の,媒介から分離された,外面的な形態である。

  ①〔異文〕「第1に」という書きかけが消されている。〉 (190頁)

 〈プルドンは〈貨幣資本は交換が行なわれるごとに絶えずその源泉に帰るのだから,絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しはつねに同じ人に利益をもたらすということになる〉と論じていますが、しかし資本が自分の出発点に帰るということそのものは、資本がその総過程のなかで行う特徴的な運動であって、決して利子生み資本に固有のものでも、それを特徴づけるものでもないのです。利子生み資本を特徴づけるものは、この資本の本来の復帰、現実資本の循環という媒介から分離された、外面的な形態であるというところにあるのです。〉

 【プルドンは資本の循環と貸付資本の循環の区別が分からずに混同しているわけである。それをマルクスは資本がその出発点に帰ってくるというのは資本が総過程のなかで行う特徴的な運動であって、利子生み資本を特徴づけるものではないという。もちろん、利子生み資本も資本である限りは、資本の総過程のなかで行う特徴的な運動を備えているが、しかしそれが利子生み資本を特徴づけるわけではない。あるいは利子生み資本とそれ以外の他の資本との区別をもたらすものではないというのが、マルクスのいわんとすることである。利子生み資本の運動を特徴づけるのは、現実資本の運動という媒介から分離された、外面的な形態であるというところにあるのだというのである。これは利子生み資本の第1の運動であるG_Gや、第2の運動であるG’_G'は再生産過程の外部の運動だとしていたのと同じことを述べているのである。】


【44】

 貸付資本家〔d.Capitalist préteur〕は,等価を受け取ることなしに自分の資本を手放し,それを生産的資本家に移転する。資本を手放すことは,けっして資本の現実の流通過程の行為ではなく,ただ生産的資本家の側での資本の流通を準備するだけである。このような,貨幣の第1の場所変換は,変態のどんな行為も,購買も販売も,表わしていない。所有は譲り渡されない〔d.propriéré n'est pascédée〕。なぜなら,交換過程も生じないし,等価も受け取られないからである。||291上|貨幣が生産的資本家の手から貸付資本家〔capit.prêteur〕の手に帰るということは,ただ,資本を手放すという第1の行為を補足するだけである。資本は,貨幣として前貸されて,ふたたび貨幣形態で生産的資本家の手に帰ってくる。しかし,資本は,引き渡されるときに彼のものではなかったのだから,帰ってくるときにも彼のものではない。(再生産過程も,この資本を彼の所有に転化することはできない。)だから,彼はそれを貸し手〔Ausleiher〕に返さなければならない。資本を貸し手の手から借り手〔Leiher〕の手に移転する第1の引き渡しは法律上の取引であるが,この取引は資本の現実の流通過程および生産過程とはなんの関係もなく,ただそれを準備するeinleiten〕だけである。復帰した資本をふたたび借り手〔Leiher〕の手から貸し手の手に返済する復帰は,第2の法律的取引であり,第1の取引の補足〔complement〕である。一方は現実の過程を準備し,他方は現実の過程のあとの補足的な行為である。だから,貸付資本の出発点-手放し,復帰点-返済は,任意な,法律的取引によって媒介される運動として現われるのであって,これらの運動は資本の現実の運動の前後に行なわれるもので,この現実の運動自身とはなんの関係もないものである。というのは,資本がはじめから生産的資本家のものであり,したがって彼の所有として彼の手に還流する〔returniren〕だけであったとしても,それは資本の現実の運動にとってはどうでもよいことであろうからである。第1の準備行為では貸し手が自分の資本を借り手〔Leiher〕に手放す。第2の補足的終結行為では借り手〔Leiher〕が資本を貸し手に返す。貸し手と借り手とのあいだの取引だけを考察するかぎりでは--そしてしばらく利子を無視すれば,つまり貸し手と借り手〔Leiher〕とのあいだでの貸される資本の運動だけを問題にするかぎりでは--,(資本の現実の運動が行なわれる)長短の時間によって分離されているこの二つの行為がこの運動の全体を包括する。[421]そしてそもそもこの運動,ある価値額の,それの所有者から,この価値額を一定期間後に返済しなければならないある第三者への移転,すなわち取り戻しを条件とする手放しが,貸付と借受の,すなわち,貨幣または商品のただ条件つきでの〔conditionel1〕譲渡というこの独自な形態の,運動なのである。十十)/

  ①〔異文〕「第1の」--書き加えられている。
  ②〔訂正〕「それ〔es〕」〔資本を指す〕--手稿では「それ〔sie〕」となっている。〔1894年のエンゲルス版〕刊本にならって訂正。〔sieではなにを指すのかわからない。〕
  ③〔異文〕「準備〔einleitend」〕--書き加えられている。
  ④〔異文〕「借り手に手放す」← 「借り手に与える」
  ⑤〔異文〕「すなわち取り戻しを条件とする手放し」--書き加えられている。〉 (190-193頁)

 〈貸付資本家は、等価を受けとることになしに自分の資本を手放し、それを生産的資本家に移転します。この第1の資本の移転、つまり資本を手放すことは、決して資本の現実の流通過程の行為ではありません。それはただ生産的資本家の側での資本の準備するだけです。このような貨幣の第1の場所変換は、商品価値の変態のどんな行為も、つまり購買も販売も、表していません。所有は譲り渡されていません。というのは、交換過程自体が生じていないからです。だから等価も受け取られていません。
 貨幣が生産的資本家の手から貸付資本家の手に帰るということは、ただ、資本を手放すという第1の行為を補足するだけです。資本は、貨幣とし前貸しされて、ふたたび貨幣形態で生産的資本家の手に帰ってきます。しかし、資本は、引き渡されるときに彼のものではなかったのだから、それが帰って来たとしてもやはり彼のものではないのです。(再生産過程も、この資本を彼の所有に転化することはできないのです。)だから、彼はそれを貸し手に返さなければなりません。
 資本を貸し手の手から借り手の手に移転する第1の引き渡しは法律上の取引ですが、この取引は資本の現実の流通過程および生産過程とは何の関係もありません。それはただそれを準備するだけです。復帰した資本をふたたび借り手の手から貸し手の手に返済する復帰は、第2の法律的取引ですが、それは第1の取引の補足です。一方は現実の資本の出発点を準備し、他方は現実の過程のあとの補足的な行為です。だから、貸付資本の出発点-手放し、復帰点-返済は、任意な、法律的取引によって媒介される運動として現れるのです。これらの運動は資本の現実の運動の前後に行われるもので、この現実の運動自身とはなんの関係もないのです。というのは、資本がはじめから生産的資本家のものであり、したがって彼の所有として彼の手に還流するだけであったとしても、それは資本の現実の運動にとってはどうでもよいことでしょうからです。
 第1の準備行為では貸し手が自分の資本を借り手に手放します。第2の補足的行為では借り手が資本を貸し手に返します。貸し手と借り手との間の取引だけを考察するならば--そしてしばらく利子を無視するとすれば、つまり貸し手と借り手のあいだでの貸される資本の運動だけを問題にするのであれば--、現実の資本の運動が行われる時間の長短によって分離されているこの二つの行為がこの運動の全体を包括しています。そしてそもそもこの運動、あるいは価値額の、それの所有者から、この価値額を一定期間後に返済しなければならないある第三者への移転、すなわち取り戻しを条件とする手放しが、貸付と借受の、つまり貨幣または商品のただ条件付きでの譲渡というこの独自な形態の運動なのです。〉

 【ここでは利子生み資本の独自な運動の幾つかの特徴が指摘されている。それをわれわれは分かりやすくするために箇条書き的に書き直してみよう。
 (1)貸付資本の第1の運動、G-Gは、等価を受け取るものではなく、商品の価値の変態のどんな行為も、つまり購買も販売も表していない。
 (2)だからそれは資本の現実の流通過程の行為ではない。
 (3)第1の場所変換は、生産的資本家の側での流通を準備するだけである。
 (4)第1の場所変換では、しかし所有は譲り渡されない。なぜなら、交換過程が生じないし、等価が受け取られるわけではないから。
 (5)生産的資本家の手から貸付資本家の手に帰るのは、ただ、最初の資本を手放した第1の行為を補足するだけである。
 (6)現実の資本家は、資本を前貸しして、ふたたび貨幣形態で彼の手にそれが帰ってくるのであるが、しかし資本が最初に彼の手から引き渡される時点ですでに彼のものではなかったのだから、それが復帰してもやはり彼のものではない。再生産過程も、この資本を彼の所有に転化することはできなかった。だから彼はそれを貸し手に返さなければならない。
 (7)資本の貸し手の手から借り手の手に移転する第1の行為は法律上の取引であるが、これは現実の資本の流通過程および生産過程とはなんの関係もなく、ただそれを準備するだけである。
 (8)生産的資本家の手に復帰した資本をふたたび借り手の手から貸し手の手に返済する復帰は、第2の法律的取引であるが、それは第1の取引の補足である。
 (9)一方は現実の過程の準備であり、他方は現実の過程のあとの補足的行為である。
 (10)第1の行為も、その補足としての第2の行為も、任意な、法律的取引によって媒介される運動として現れるのであって、これらの運動は資本の現実の運動の前後に行われるもので、この現実の運動自身とはなんの関係もないものである。
 (11)というのはもし第1の行為も第2の行為もなく、資本がはじめから生産的資本家のものであって、彼の所有として彼の手に還流するのであっても、資本の現実の運動にとってはどうでもよいことだからである。
 (12)第1の行為と第2の行為との間には資本の現実の運動が行われる長短の時間によって分離されているが、しかしこの二つの前後の行為がこの運動の全体を包括するものである。
 (13)ある価値額の運動、すなわち一定期間後に返済しなければならないという条件によるある第三者への移転、つまり取り戻しを条件とする手放しが、貸付と借受の、貨幣または商品のただ条件付きでの譲渡というこの独自な形態こそが利子生み資本の運動の独自性なのである。

 結局、箇条書き的に書いてみたが、それ自体が長くなってわけのわからないものになったが、要するに、マルクスが利子生み資本の独自の運動として述べていることは、次の三点に要約することができるだろう。
 (1)利子生み資本としての一定の価値額(貨幣あるいは商品)の第1の場所変換も第2の場所変換も現実の資本の再生産過程とは何の関係もないということ。
 (2)またそれらは現実の資本の運動の準備、あるいはその補足として、現実の資本の運動の前やあとに行われるだけの、任意な、法律的行為であるということ。
 (3)このような取り戻しを条件とする手放し、貸付と借受こそが利子生み資本の独自な運動形態である。
 とまあ、とりあえず以上を踏まえておけばいいだろ。】


【45】

 |291下|十十)資本の特徴的な運動は,貨幣の資本家への復帰である。資本のそれの出発点へのこの復帰は,利子生み資本では,この復帰という形態をとる現実の運動からは切り離された,まったく外面的な姿態を受け取る。Aが自分の貨幣を引き渡すのは,貨幣としてではなく,資本としてである。ここでは資本にはなんの変化も生じない。それはただ持ち手を取り替えるだけである。貨幣の資本への現実の転化は,Bの手によってはじめて行なわれる。しかし,Aにとってそれが資本となったのは,Bへのそれのたんなる手放しによってである。生産過程および流通過程からの資本の現実の還流〔Return〕が生じるのはBにとってである。しかし,Aにとっては還流〔Return〕は譲渡と同じ仕方で(たんなる返済として)行なわれる。それはBの手からふたたびAの手に帰る。ある期間を限っての貨幣の手放し(貸付),そして利子(剰余価値)をつけてのその回収,これが利子生み資本そのものに固有な運動形態の全体である。貸し出された貨幣が資本として行なう現実の運動は,貨幣〔money〕の貸し手と借り手〔lenderu,borrower〕とのあいだの取引のかなたにある操作である。これらの取引では,この媒介は消えていて,見えなくなっており,直接にはそれに含まれていない。独特の種類の商品〔Waare suigeneris〕として,資本はまた特有な譲渡の形態をもっている。したがってまた,ここでは還流も一系列の経済的諸過程〔Prozesse〕の帰結や結果として表現されるのではなく,買い手と売り手とのあいだの特殊的な〔besonder〕法律上の約定〔Conventlon〕の結果として表現されるのである。還流〔Return〕の時間は現実の生産過程にかかっている。利子生み資本では,資本としてのその還流は,貸し手と借り手〔Borger〕とのあいだのたんなる約定〔Convention〕によって定まるかのように見える。したがって,資本の還流〔Return〕は,この取引に関してはもはや生産過程によって規定された結果としては現われないで,まるで,貨幣の形態が資本から瞬時もなくならないように見える。たしかにこれらの取引は現実の還流〔real returns〕によって規定されている。しかし,このことは取引そのもののなかには現われない。{経験上でもつねに現われない,というわけではけっしてない。もし現実の還流〔real return〕が適時に行なわれないならば,借り手〔borrower〕は,そのほかのどんな財源〔resources〕から貸し手〔lender〕にたいする自分の債務〔obligations〕を履行すればよいかを考えなければならない。}資本のたんなる形態,すなわち,Aという金額として引き渡されて,ある期間のうちに,引き渡しと返済とのあ[422]いだに経過するこの時間的間隔のほかにはなんの媒介もなしに,A+[1/X]Aという金額として帰ってくる貨幣。現実の運動の無概念的な形態。〔十十)による追記部分終わり〕|

  ①〔異文〕手稿では,この補足〔++)以下の部分〕は手稿のこのページの最後に書かれており,++という標識によってこの箇所に関係づけられている。
  ②〔注解〕このパラグラフのここから,{}が付された文の直前までは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』から,変更を加えて取られている。(MEGAII/3.4,S.1456.3-1457.21und1458.24-31.)
  ③〔異文〕「特有な〔eigenthümlich〕」← 「固有の〔eigen〕」
  ④〔異文〕「約定〔Convention〕」← 「取[引]〔Tra[nsaction]〕」〉  (193-195頁)

 〈一般的に資本の特徴的な運動は、貨幣の資本家への復帰です。資本のその出発点への復帰という点では、利子生み資本では、この復帰という形態をとる現実の資本からは切り離された、まったく外面的な姿態を受け取ります。Aが自分の貨幣を引き渡すのは、単なる貨幣としてではなく、資本としてです。ここでは資本には何の変化も生じません。それはただ持ち手を取り替えるだけです。貨幣の資本への現実の転化は、Bの手によってはじめて行われます。しかし、Aにとってはそれが資本となったのは、Bへのそのたんなる手放しによってです。生産過程および流通過程からの資本の現実の還流が生じるのはBにとってです。しかし、Aにとっては還流は譲渡と同じ仕方で、つまり現実の過程とは何の関係もない外面的な、単なる返済として行われます。それはBの手からふたたびAの手に帰ります。ある期間を限っての貨幣の手放し(貸付)、そして利子(剰余価値)をつけてのその回収、これが利子生み資本そのものに固有な運動形態の全体です。貸し出された貨幣が資本として行う現実の運動は、貨幣の貸し手と借り手との間の取引のかなたにある操作です。これらの取引では、この媒介は消えていて、見えませんし、直接にはそれに含まれていません。独特の種類の商品として、資本はまた特有な譲渡の形態をもっているのです。したがって、ここでは還流も一系列の経済的諸過程の帰結や結果として表現されるのではなく、買い手と売り手とのあいだの特殊的な法律上の約定の結果として表現されるのです。実際の還流の時間は現実の生産過程にかかっています。しかし利子生み資本では、資本としてのその還流は、貸し手と借り手のあいだのたんなる約定によって定まるかのように見えます。だから利子生み資本の場合、資本の還流はもはや生産過程によって規定された結果としては現れないで、まるで、貨幣の形態が資本から瞬時もなくならないように見えるのです。たしかにこれらの取引は現実資本の還流によって規定されています。しかしこのことは利子生み資本の貸し借りという取引そのものなかには現れないのです。{経験上でも常に現れないというわけではありません。もし現実の還流が適時に行われなければ、借り手は、その以外のどんな財源から貸し手にたいする自分の債務を履行すればよいかを考えなければならないからです。}資本のたんなる形態、つまりAという金額として引き渡されて、ある期間のうちに、引き渡しと返済とのあいだに経過するこの時間的間隔のほかにはなんの媒介もなしに、A+[1/X]Aという金額として帰ってくる貨幣。現実の運動の無概念的な形態。これこそが利子生み資本に固有の運動なのです。 〉

 【これは291頁の下段に書かれているが、同頁の本文、つまり先のパラグラフの補足であり、追加と考えられる。注解によれば、前半のほとんどは61-63草稿から変更を加えて取られているということだから、まずその原文を見ておくことにしよう。しかし指摘されている頁数はかなりのものであり、全体を抜き書きすると大きなものになるが、しかし書かれていることはこれまでのテキストとも関連するので、全体を抜粋しておこう(但し、煩雑を避けるために、MEGAによる異文や注解等は省略する)。

  〈資本の特徴的な運動は、生産過程にあっても流通過程にあっても、貨幣または商品がその出発点たる資本家のもとに復帰するということである。これは、商品がその生産条件に転化させられ生産条件が再び商品の形態に転化させられるという実体的な変態、すなわち再生産を表わすとともに、他方では、商品が貨幣に転化させられ貨幣が再び商品に転化させられるという形態的な変態を表わしている。そして最後に、価値が何倍にもされること、G-W-G'を表わしている。元の価値、といってもこの過程のなかで増大するのではあるが、それはつねに同じ資本家の手のなかにある。ただ、彼の手のなかにあるこの価値の形態が、貨幣や商品として、または生産過程そのものの形態というように、変わるだけである。このような、その出発点への資本の復帰は、利子生み資本にあっては、この復帰という形態をとる現実の運動からは切り離されたまったく外的な姿を受け取る。Aは彼の貨幣を支出するが、貨幣としてではなく、資本としてである。ここでは貨幣にはなんの変化も生じない。それはただ持ち手を取り替えるだけである。この貨幣の資本への現実の転化はBの手のなかではじめて行なわれる。しかし、Aにとっては、それは、Aの手からBの手への貨幣の移行によって、資本になっている。生産過程および流通過程からのこの資本の現実の復帰は、Bにとって行なわれる。しかし、Aにとっては回収は譲渡と同じ仕方で行なわれる。それはBの手から再びAの手に帰ってくる。Aは貨幣を貸すのであって、支出するのではない。
  資本の現実の生産過程における貨幣のどの場所変換も、貨幣の労働への転化であれ、完成商品の貨幣への転化(生産行為の結び)であれ、貨幣の商品への再転化(生産過程の更新、再生産の再開)であれ、再生産の一契機を表わしている。貨幣の場所変換は、貨幣が資本として貸される場合には、つまり資本に転化させられるのではなくて資本として流通にはいる場合には、一方の手から他方の手へ同じ貨幣の引き渡し以外のなにものをも表わしてはいない。所有権は引き続き貸し主の手にあるが、占有は産業資本家の手に移っている。しかし、貸し手にとっては、貨幣の資本への転化は、彼がそれを貨幣として支出せずに資本として支出する瞬間から、すなわちそれを産業資本家の手に渡す瞬間から、始まるのである。(彼がそれを産業家にではなく浪費家に貸しても、あるいはまた家賃を支払うことができない労働者に貸しても、それが彼にとって資本であることに変わりはない。質屋の歴史のすべて。)確かに、他方の人はそれを資本に転化させる。しかし、それは、貸し手と借り手とのあいだで行なわれる操作とは別のところで行なわれる操作である。貸し手と借り手とのあいだの操作ではこの媒介は消え去っており、自には見えず、直接にそのなかに含まれてはいない。貨幣の資本への現実の転化に代わって、ここではただその無内容な形態だけが現われている。労働能力の場合と同じように、ここでは貨幣の使用価値は、交換価値を創造するという、すなわちそれ自身に含まれているよりも大きな交換価値を創造するという使用価値となる。貨幣は自分を価値増殖する価値として貸される。商品〔として〕、だが、まさにこの属性によって商品としての商品から区別され、したがってまた独自な譲渡形式をもつところの商品〔として〕、貸される。
  資本の出発点は、商品所持者であり、貨幣所持者であり、簡単に言えば、資本家である。資本の場合には出発点と復帰点とは同じなのだから、それは資本家のもとに帰ってくる。だが、ここでは資本家は二重に存在する。すなわち、資本の所有者と、現実に貨幣を資本に転化させる産業資本家とである。事実上は資本は彼から流れ出て彼のもとに帰る。しかし、ただ、所有権保持者としての彼から彼へである。資本家は二重に存在する。法律的にと経済的にとである。したがってまた、所有物としては資本は法律上の資本家の手に、腹黒い男の手に、帰ってくる。しかし、資本価値の維持を含んでいて、資本をば自分を維持し永久化する価値として措定するところの、資本の復帰は、確かに資本家第二号にとっては媒介されているが、しかし資本家第一号にとっては媒介されてはいない。したがってまた、復帰はここでは一連の経済的過程の帰結および成果としては現われないで、買い手と売り手とのあいだの特殊な法律上の取引、すなわち、それが売られないで貸し付けられしたがってただ一時的に譲渡されるにすぎないという取引の結果として現われるのである。実際に売られるものは資本の使用価値なのであって、それはここでは交換価値を生むという、利潤を生産するという、資本そのものに含まれているよりも多くの価値を生産するという使用価値なのである。貨幣としては、使用されることによって変えられるわけではない。だが、貨幣としてそれは支出され、そして貨幣としてそれは還流するのである。
  資本が還流するときにとる形態は、資本の再生産様式によって定まる。それが貨幣として貸し出されるならば、それは流動資本の形態で帰ってくる。全価値・プラス・剰余価値として帰ってくる。この剰余価値は、ここでは剰余価値または利潤のうち利子に分解する部分である。つまり、貸し出された貨幣額・プラス・そこから生じた増加額として帰ってくる。
  もしそれが機械や建物などの形態で貸し出されるならば、簡単に言えば、それが生産過程で固定資本として機能しなければならないような素材的形態で貸し出されるならば、それは固定資本の形態で帰ってくる。年賦払いとして、すなわち、たとえば年々、損耗補填分、すなわち固定資本のうち流通にはいっている価値部分に、剰余価値のうち利潤(ここでは利潤の一部分)、つまり利子として固定資本(--といってもそれが固定資本であるかぎりでではなく特定の大きさの資本一般であるかぎりで)にたいして計算された部分を加えたものとして、帰ってくる。
  すでに利潤そのものにおいて、剰余価値は、したがってまたその真の源泉も、不明瞭にされ、不可解にされている。
  一、なぜならば、形態的に見れば、利潤は剰余価値が前貸資本全体にたいして計算されたものであり、資本の各部分は、固定であろうと流動であろうと、原料、機械、労働のどれに投ぜられていようと、同じ大きさの利潤をもたらすからである。
  二、なぜならば、一般的利潤率の規定によって、たとえば500という一つの与えられた資本の場合に、もし剰余価値が50ならば、たとえばどの5分の1も10%をもたらすように、今では500とか100とかいう各資本は、どんな部面で働いていようと、そのなかの可変資本と不変資本との割合がどうであろうと、その回転期間などがどんなに違っていようと、まったく別の有機的諸条件をもった他の各資本と同様に、同じ期間には同じ平均利潤を、たとえば10%というそれを、もたらすからである。したがって、個別的に見た個々の諸資本の利潤と、それらの資本自身によってそれら自身の生産部面で創造される剰余価値とは、現実に違った大きさになるからである。
  もちろん、二つのものにおいては、ただ、すでに一つのなかにあったことがいっそう発展しているだけである。
  ところが、このようなすでに外面化された、まだ誕生の臍帯を示している最初の単純な姿とは違った、そして一見しただけではもはやけっして判別できない、剰余価値の形態、その利潤としての定在にこそ、利子は基づいているのである。利子は、利潤--利子自身はただこの利潤の特別な範疇または項目のもとに配列された一部分でしかない--を直接に前提するのであって、剰余価値を直接に前提するのではない。つまり、利子においては剰余価値は利潤におけるよりもさらにはるかに識別できなくなっているのである。というのは、利子は直接にはただ利潤の形態にある剰余価値に関係をもつだけだからである。
  復帰の時間は現実の生産過程によって定まる。利子生み資本にあっては、それの資本としての復帰は、貸し手と借り手とのあいだの単なる約束によって定まるように見える。だから、資本の復帰は、この取引に関しては、もはや生産過程によって規定された結果としては現われないで、あたかも貨幣形態が一瞬も資本から失われないかのように見える。もちろん、この取引は現実の復帰によって規定されている。しかし、それは、この取引そのものには現われないのである。〉 (草稿集⑦409-413頁)

  こうして61-63草稿の当該部分を読んでみると、なかなか分かりやすく書かれていることが分かる。だからこれを読めば、テキストも分かるといえなくもないが、それでは格好がつかないので、一応、テキストの解読をやってみることにしよう。
 ここでも書かれていることをまず箇条書き的にまとめてみることにする。
 (1)まず一般に資本の特徴的な運動は、貨幣の資本家への復帰である。
 (2)利子生み資本では、この復帰という現実の資本の運動とは切り離された、まったく外面的形態を受け取る。
   (3)Aが自分の貨幣を引き渡すのは、単なる貨幣としてではなく、資本としてである。
   (4)しかしAの引き渡しによっては資本にはなんの変化も生じない。それはただ持ち手を取り替えるだけである。貨幣の資本への現実の転化は、Bの手ではじめて行われる。   (5)しかしAにとっては、それが資本となったのは、Bへのそれのたんなる手放しによってである。生産過程および流通過程からの資本の現実の還流が生じるのはBの手によってであるが、それはAには直接の関心はない。
   (6)Aにとって還流は、最初の譲渡と同じ仕方で、つまり単なる返済として行われる。
   (7)ある期間を限っての貨幣の手放し(貸付)、そして利子(剰余価値)をつけてのその回収(返済)、これが利子生み資本そのものに固有な運動形態の全体である。
   (8)貸し出された貨幣が資本として行う現実の運動は、貨幣の貸し手と借り手とのあいだの取引のかなたにある操作である。
   (9)貸し手と借り手との間の取引では、そうした現実の資本の運動という媒介は消えていて、見えないし、直接にはそれには含まれていない。
   (10)独特の種類の商品として、利子生み資本はまた特有な譲渡の形態をもっているのである。したがって、ここでは還流も一系列の経済的過程の帰結や結果として表現されるのではなく、ただ買い手と売り手のあいだの特殊的な法律的な約定の結果として表現されるのである。
   (11)還流の時間は現実の生産過程にかかっているが、利子生み資本では、資本としてのその還流は、ただ貸し手と借り手のあいだのたんなる約定によって定まるかのように見えるのである。
   (12)だから利子生み資本の還流は、この貸し手と借り手のあいだの取引に関しては、もはや生産過程によって規定された結果としては現れないで、まるで、貨幣の形態から瞬時もなくならないように見えるのである。
   (13)確かに利子生み資本の取引も現実の還流に規定されている。しかし、このことはこの取引そのものの中には現れないのである。(もっとも経験上でもつねに現れないというわけではない。もし現実の還流が適時に行われないなら、借り手はそれ以外の財源でその債務の履行を考えなければならないから。)
   (14)利子生み資本のたんなる形態、つまりAという金額を引き渡し、ある期間のうちに、引き渡しと返済とのあいだに経過する時間的間隔のほかにはなんの媒介もなしに、A+[1/X]Aという金額として帰ってくる貨幣、現実の運動の無概念的な形態、それが利子生み資本の運動の特徴なのである。

 まあ、いろいろと書かれていることを箇条書き的に書き直しただけであるが、要するに、このパラグラフでは利子生み資本の運動が現実の資本の運動に対して、外面的であること、だからその運動は無媒介的であり、無概念的な形態をとること。それはAという一定金額が、外観上、その貨幣という形態を一瞬も離れないままに、そのままある期間ののちには、A+[1/X]Aという金額として帰ってくるようにみえ、その間の現実の資本の運動という媒介なしに復帰するように見えるのだということである。そしてそれが利子生み資本という独特の種類の商品の特有な形態なのだというわけである。ここで追記部分は終わっている。】


【46】

 /291上/資本の現実の運動では,復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化される。それは生産過程の結果として商品になる。商品の販売によってそれは貨幣に転化され,この形態で,資本を最初に貨幣形態で前貸した資本家の手に帰ってくる。ところが,利子生み資本の場合には,復帰も手放しも,ただ資本の所有者とある第三者とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。それゆえまた,貨幣資本家〔monied capitalist〕と生産的資本家とのあいだの関係に関するかぎり,それはただ,貨幣の貸付(貨幣の手放し〔Weggabe〕,手放し〔Entausserung〕)と借りられた貨幣の返済(それの還流)として現われるだけである。その間に生じたことは,すべて消えてしまっている。

  ①〔異文〕「復帰も手放しも,ただ」← 「復帰はただ」
  ②〔異文〕「手放し」--書き加えられている。〉 (195頁)

 〈資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機です。まず貨幣が生産手段に転化されます。そしてそれは生産過程の結果として商品になります。商品が販売されればそれは貨幣に転化されて、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家に手に帰ってきます。これが現実の資本の運動です。ところが利子生み資本には、復帰も手放しも、ただ資本の所有者とある第三者との間の法律上の取引の結果でしかありません。だからまた、貨幣資本家と生産的資本家とのあいだの関係に関する限りでは、それはただ、貨幣の貸付(貨幣の手放し)と借りられた貨幣の返済(その還流)として現れるだけです。その間に生じたことは、すべて消えてしまっているのです。〉

 【ここから291頁の上段に移っている。つまり【44】パラグラフに直接続く本文なのである。しかしここで書かれていることは、先の追記(【45】パラグラフ)で書かれていたことと何か別のことが言われているわけではない。むしろ追記の方がより詳しくそこらあたりのことは書かれていたといえるだろう。】


【47】

 しかし,資本として前貸される貨幣は,それを前貸する人,すなわちそれを資本に転化する(支出する)人の手に帰ってくるという属性をもっているのだから,G_W_G'が資本運動の内在的形態なのだから,貨幣所持者は,貨幣を,資本として,すなわち自分の出所に帰るという属性,運動のなかで自分を価値として維持する{そして増殖する}という属性をもつものとして,貸し付けることができるのである。彼がそれを資本として手放すのは,それが資本として使われ,その出発点に復帰するからであり,つまり,まさにそれが借り手〔Leiher〕自身のもとに還流するからこそある時間ののちには借り手から返済されることができるからである。

  ①〔異文〕「内在的形態」← 「一つの内在的形態」
  ②〔異文〕「のは,それが」← 「ときには,彼は〔……〕できる」〉 (195-196頁)

 〈貨幣が貸し手の手に返済される時点では、その間に生じたことはすべて消えてしまっていますが、しかし資本として前貸しされるのですから、その貨幣は、それを前貸しする人、すなわちそれを資本に転化する(支出する)人の手に帰ってくるという属性を当然もっています。だからG_W_G'が資本の運動の内在的形態なのですから、貨幣所持者は、貨幣を資本として、つまり自分の出所に帰るという属性を持ったものとして、運動のなかで自分の価値を維持し(そして増殖する)という属性をもつものとして、貸しつけることができるのです。彼がそれを資本として手放すのは、それが資本として使われ、その出発点に復帰するからです。つまりそれが借り手自身のもとに還流するからこそ、それはある時間ののちには、借り手から貸し手のもとに返済されることができるのです。〉

 【ここでは利子生み資本の手放しと復帰というのは、現実資本の運動があってこそだということが確認されている。しかし利子生み資本の運動の全体は最初の貨幣の手放し(貸付)と最期の復帰(返済)がすべてであって、その間の現実の資本の運動そのものは利子生み資本の運動そのものには入ってこないということを謂わんがための確認である。】


【48】

 〈①だから,資本としての貨幣の貸付--ある期間ののちに返済されるという条件での貨幣の手放し--は,貨幣が資本として使用され現実にその出発点に還流するということにもとづいているのである。つまり,資本としての貨幣の現実の循環運動〔Cirkelbewegung〕は,貸し手から引き渡された貨幣が彼に還流しなければならないという法律上の取引に前提されているのである。{借り手〔Leiher〕がその貨幣を資本として引き渡さなくても,それは彼の勝手である。貸し手は貨幣を資本として貸すのであり,したがって貨幣は資本の諸機能を果たさなければならないのであって,貨幣の循環運動,つまり自分の出発点への貨幣の還流は,これらの機能を含んでいるのである。}

  ①〔異文〕「だから」--書き加えられている。
  ②〔異文〕「資本としての貨幣の」← 「資本の」〉 (196-197頁)

 〈だから資本としての貨幣の貸付、ある期間ののちに返済されるという条件での貨幣の手放しは、その貸し出された貨幣が現実に資本として使用されてその出発点に還流するということにもとづいているのです。つまり資本としての現実の循環運動は、貸し手から引き渡された貨幣が貸し手のものに還流しなければならないという法律上の取引には前提されているのです。(もっとも貨幣の借り手がその貨幣を資本として投資するかどうかは彼の勝手です。しかし貸し手はあくまで貨幣を資本として貸すのですから、だから貨幣は資本の諸機能を果たさなければならないのです。つまりその価値を維持するだけではなく増殖もするという機能です。貨幣の還流運動、つまり自分の出発点への貨幣の還流は、これらの機能を含んでいるのです。)〉

 【ここでも利子生み資本の貸付と返済というその独自の運動は、本来は現実資本の循環運動を前提していることが指摘されている。貸付と返済は法律上の行為であり、取引であるが、しかしそこにはこうした現実資本の循環運動は前提されているのである。また貨幣の借り手がそれを現実の資本として投下するかどうかは彼の勝手であるが、しがし貨幣の貸し手はそれを資本として貸すのだから、それはやはり資本としての運動をなさねばならないのである。つまりその価値を維持し増殖するという運動をである。】


【49】

 〈資本が貨幣として,あるいは商品として機能する流通行為G_WおよびW_G'は,ただ媒介的過程でしかなくそれの総運動の個々の契機でしかない。資本としてはそれは運動G_G'を成し遂げるのである。それは,貨幣(またはなんらかの形態の価値額)として前貸されて,価値額として帰ってくる。貨幣の所有者は,それを商品の購買に支出するのではなく,あるいは,価値額が商品として存在する場合に貨幣と引き換えに売るのではなく,資本として,G_G'として,一定の期限後にふたたびその出発点に帰る貨幣(価値)として,前貸するのである。だから,それで買ったり[423]売ったりするのではなく,彼はそれを貸すのである。つまり,この貸付は,それを貨幣や商品としてではなく資本として譲渡するための適当な形態なのである。(だからといって,貸付が資本主義的な過程とは無関係な取引のための形態ではありえない,というわけではけっしてない。)|〉 (197頁)

 〈資本が貨幣として、あるいは商品として機能する流通行為G_WおよびW'_G'は、単なる媒介的行為でしかありません。それらは資本の総運動の個々の契機でしかありません。資本としてはそれは全体としてはG_G'をなし遂げます。それは貨幣(またはなんからの形態の価値額)として前貸しされて、ある価値額として帰ってきます。しかし利子生み資本の場合は、貨幣の所持者は、それを商品の購買に支出するのではなく、あるいは価値額が商品として存在する場合には、貨幣と引き換えに売るのではなく、資本として、G_G'として、一定の期限後にはふたたびその出発点に帰る貨幣(価値)として、前貸しされるのです。だからそれを買ったり売ったりするのではなく、彼はそれを貸すのです。つまりこの貸付は、それを貨幣や商品としてではなく資本として譲渡するための適当な形態なのです。(だからといって、貸付が資本主義的な過程とは無関係な取引のための形態ではありえない、というわけではけっしてありません。それは資本主義的な生産以前にもありました。〉

 【このパラグラフも基本的には、同じ問題を論じているといえる。貨幣の譲渡、あるいはある価値額の譲渡という場合、それは流通行為としては販売や購買である。しかしその場合は、貨幣や商品は単なる貨幣や商品として機能するだけであり、それが資本であるのはG_G'の全体の運動の契機として言いうるのみである。しかし利子生み資本の場合の貨幣(あるいはある価値額)の譲渡は、最初から資本としての手放しであり、商品の売買とは関係ない。それは貸されるのであり、返済されるわけである。だから貸付という形態は、一定の価値額を単なる貨幣や商品としてしてではなく資本として譲渡するための適当な形態なのである。】

 (以下、続く)

2019年6月23日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-6)

『資本論』第3部第5篇第21章の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き、第33パラグラフからである。

【33】

 〈/289上/信用の無償性。Fr.バスティア氏とプルドン氏との論争』,パリ,1850年。貸すということは,売るということではないという理由で,プルドンにとってはよくないものに思われる。利子を取って貸すということは,自分が売るものの所有をけっして譲り渡すことなしに,同じ対象objet〕を絶えず繰り返して売り,絶えず繰り返してその価格を受け取るという能力である。」(同前,9ページ。)対象〔objet〕(貨幣や家などのような)は,売買の場合とは違って,所有者を取り替えない。ところが,彼が見ていないのは,貨幣が(利子生み資本として)手放される場合には,等価はなにも取り返されていないということである。どの売買行為でも,--およそ交換過程が行なわれるかぎりでは--たしかに対象Objekt〕は手放される。いつでも,売られるものの所有は譲り渡される。しかし,価値は手放されない。売られるときには商品は手放されるが,商品の価値は手放されず,この価値は,貨幣というかたちで(または,ここでは貨幣に代わる別の形態でしかないが,債務証書,支払請求権というかたちで)還流する。買われるときには貨幣は手放されるが,貨幣の価値は手放されず,この価値は商品というかたちで補填される。再生産過程の全体をつうじて生産的資本家は同じ価値を自分の手に保持しているのであって,ただその価値の||290上|形態が変わるだけである。

①〔注解〕ここから,草稿290ページ上半のプルドン『信用の無償性。F.バスティア氏とプルドン氏との論争』140ページからの引用の終わりまでについては,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』を見よ。(MEGAII/3.4,S.1524.7-1525.23.)
②〔注解〕ここで引用されている文章は新聞『人民の声〔La voix dupeuple〕』の編集者のひとりだったシャルル-フランソア・シュヴェによるものである。彼は『信用の無償性。F.バスティア氏とプルドン氏との論争』(パリ,1850年)という書物のなかの第1の手紙を執筆した。
③〔異文〕「交換過程」← 「交換価値」〉 (185-187頁)

 〈『信用の無償性。Fr.バスティア氏とプルドン氏との論争』,パリ,1850年。貸すということは、売るということではないという理由で、プルドンにとってはよくないものに思われます。利子をとって貸すということは、「自分が売るものの所有をけっして譲り渡すことなしに,同じ対象objet〕を絶えず繰り返して売り,絶えず繰り返してその価格を受け取るという能力である」(同前,9ページ)と考えるからです。貨幣や家のような対象を貸す場合は、それを売買する場合とは異なって、その所有者を取り替えません。それがどうやらプルドンには気に入らないのですが、彼が見ていないのは、貨幣が利子生み資本として手放される場合には、等価は何も受け取らないということです。どの売買行為でも、およそ交換過程でそれが行われる場合には、確かに対象は手放されます。いつでも売られるものの所有は譲り渡されます。しかし、その場合、対象の価値は手放されないのです。売られるときには商品は手放されますが、商品の価値は手放されず、この価値は、貨幣というかたちで還流するのです。あるいはその商品が信用で売られるなら、商品の価値は、貨幣に代わる別の形態でしかない、債務証書、あるいは支払請求権というかたちで還流するのです。それとは逆に、買われるときには貨幣は手放されますが、貨幣の価値は手放されず、この価値は商品というかたちで補填されます。再生産過程を全体をつうじて生産的資本家は同じ価値を自分の手に保持しているのであって、ただその価値の形態が変わるだけなのです。〉

 【このパラグラフは文献の抜粋から始まっているが、原注ではなく、289頁上段に書かれた本文である。この一文は、注解によれば61-63草稿からとられているらしいので、その該当部分を例によってまずは参照しておこう。

 〈『信用の無償性。Fr・バスティア氏とプルドン氏との論争』、パリ、185O年。それゆえ、貸すということは彼には有害なことと思われるのであるが、そのわけはそれが売ることではないからである。利子を取って貸すということは、「同じを絶えず繰り返し売って、その代わりに絶えず繰り返し代価を受け取りながら、売る物にたいする所有権はけっして譲渡しないという能力である。」(〔同前、〕9ページ。『ラ・ヴォア・デュ・プープル』の編集者の一人シェヴェの第一の手紙。)彼を迷わせているものは、「物」(たとえば貨幣や家)が売買の場合のように所有者を取り替えないということである。しかし、彼は次のことを見ていない。貨幣が手放されるときにはなんらの等価も取り返されていないが、これに反して現実の過程では、交換という形態で、またその基礎の上で、単に等価が受け取られるだけではなく、代価の支払われていない剰余が受け取られる。取り替え、物の交換が行なわれるかぎりでは、価値の変化は起こらず、相変わらず同じ人が同じ価値の「所有者」なのであり、また、剰余が生ずるかぎりでは、交換は行なわれない。商品や貨幣の交換が再び始まるときには、剰余はすでに商品に吸収されている。プルドンには、利潤は、したがってまた利子も、価値の交換の法則からは出てこない、ということがわかっていない。だから、「家屋」や「貨幣」などは、「資本」として交換されるべきではなく、「原価で……商品」として交換されるべきなのである。([43、]44ページ。)「実際、帽子屋は帽子を売って……その代わりに価値を、それ以上でもそれ以下でもなく、受け取る。だが、金貸し資本家は、……彼の資本をそっくりそのまま返してもらうだけではない。彼は、資本よりも多くを、自分が交換に投ずるよりも多くを、受け取る。彼は資本のほかに利子を受け取るのである。」(69ページ)P 〔プルドン〕氏の帽子屋は、資本家ではなくて職人たち〔Knoten〕、手工業職人であるらしい。〉 (草稿集⑦518-519頁)

 ここでは利子生み資本の固有の運動である貸付と返済の特徴を、商品の売買との対比によって明らかにすることが課題であるが、そのためにマルクスは、同じ問題を論じ、この違いがよく分からずに、金貸し資本家の不当を訴えるプルドンの主張を引きながら説明している。利子生み資本の貸出と商品の売買の相違は、一方は貨幣を手放しても、その所有権を保持しており、よってその一定期間後には利子をともなって返済を受けることにある。他方、売買の場合は、確かに売る側は商品を手放すが、商品の価値は手放さずに、彼はそれを貨幣という形で還流するし、買う場合は貨幣を手放すが、その貨幣の価値は手放さずに、それは商品というかたちで補填されるのだとしているわけである。またプルドンは利子生み資本の場合の貨幣の手放しでは、その対価は受けとらないことも見逃しているとも指摘されている。それに対して商品の売買の場合は、商品の売り手も、商品の買い手も、ともにそれらの価値を一つも手放すことなく、ただその価値の形態を変えているだけなのだ、というのがマルクスの指摘しているところである。
 またマルクスは商品の売買が信用にもとづいて行われる場合は、商品の価値は、すぐに貨幣のかたちで還流しないが、その代わりに貨幣に代わる別の形態でしかない、債務証書、あるいは支払請求権というかたちで還流するのだとも指摘している。別のところではマルクスは信用での売買の場合は商品の価値は債務証書や支払約束という債権の形で実現しているとも指摘している。だからこの場合は商品の価値は実現しているのであるが、しかしそれはいまだ絶対的な価値定在としての貨幣としてではなく、その支払約束という形で実現しているということである。】

【34】

 交換〔échanges〕,すなわち諸対象〔objet〕の交換〔échanges〕が行なわれるかぎりでは,価値の変化〔change of values〕は生じない。同じ資本家はいつでも同じ価値を握っている。しかし,資本家によって剰余価値が生産されるかぎりでは,交換〔échanges〕は行なわれない。そして交換〔échanges〕が行なわれるときには,剰余価値はすでに商品のなかに含まれている。〉 (187頁)

 〈諸対象の交換がおこなわれるかぎりでは、価値の変化は生じません。同じ資本家はいつでも同じ価値を握っているだけです。しかし、資本家によって剰余価値が生産される限りでは、交換は行われないのです。そして一般に交換が行われるときには、すでに剰余価値は商品のなかに含まれています。〉

 【今回も、先の【33】パラグラフの考察の続きと考えられる。商品の交換では、価値の変化は生じないし、そこから資本家は剰余価値を得るわけではない。剰余価値が生産されるのは生産過程においてだから、その生産過程を経て生産物が商品として交換に出されるときには、すでにそこには剰余価値は含まれているのだということである。】

【35】

 そして個々の交換行為を見るのではなく資本の総循環〔Gesammtturnus〕G-W-G'を見るならば,絶えず一定の価値額が前貸されていて,この価値額・プラス・剰余価値または利潤が流通から引き揚げられる。(この過程の媒介は,もちろん,たんなる交換行為では目に見えない。)そして,まさにこのような,資本としてのGの過程こそは,貸付資本家の利子がそれにもとづき,それから発現するものなのである。

①〔異文〕「もとづき,それから発現するものなのである。」← 「もとつくものなのである。」〉 (187頁)

 〈個々の交換行為そのものには何ら価値の変化を見ることはできませんが、しかし資本の総循環G_W_G'を見るのであれば、絶えず一定の価値額が前貸しされて、この価値額・プラス・剰余価値または利潤が流通から引き上げられていることが分かります。だからたんなる商品の交換は、資本の全体の関連からみるなら商品資本の貨幣資本への転換であり、あるいは貨幣資本の商品資本への転換、つまり資本の運動として捉えることができるのです。もちろん、こうした全体の媒介の過程そのものは、単なる交換行為においては見ることはできません。単純な商品流通はブルジョア社会の表面に現象していますが、資本関係はその背後に隠されているからです。しかしまさにこのような資本としてのGの過程こそ、貸付資本家の利子がそれにもとづき、そこから発現するものなのです。〉

 【このパラグラフも同じ問題を論じている。単純流通は、われわれが『資本論』の冒頭で分析したものであるが、それはマルクスが『資本論』の冒頭で〈資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現われ、一つの商品は、その富の基本形態として現われる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる〉(全集版23a47頁)と書いているように、それはブルジョア社会の表層に現れている(現象している)商品を直接観察・分析するところから開始されている。こうした単純な商品や貨幣は実際にはその背後に隠されたより具体的な内容規定を帯びているのであるが、とりあえずはわれわれはそうしたものを捨象して、目に見えるあるがままのものをそれ自体として分析の対象にしているのである。しかしそれらが資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富であり、よって資本家的な商品、すなわち商品資本であり、貨幣資本でもあることは前提されているのである(この点、宇野はこうしたことがわかっていないのだが)。しかしそうした資本関係は、単純流通では背後に隠され、目に見えない。それは資本の総循環を全体として考察して初めてわれわれに捉えることができるものである。そうするとそれは一定の前貸しされた価値が、この価値額・プラス・剰余価値または利潤として流通から引き上げられ、それが繰り返されていることが分かるのである。こうした全体の媒介からみれば単なる商品や貨幣も、商品資本や貨幣資本として捉えることができるのである。そしてわれわれが当面の考察の対象にしている利子も、まさにこうした生産的資本家の生産する剰余価値を源泉にしているということである。】

【36】

 〈「じっさい,帽子を売る帽子製造業者は……帽子のかわりにその価値を受け取るのであり,それより[419]多くも少なくも受け取らない。ところが,貸付資本家〔capitalistepreteur〕は……自分の資本をそっくりそのまま取り返すだけではない。彼は,資本よりも多くを,彼が交換に投じるよりも多くを,受け取る。彼は資本のうえに利子を受け取る。」(同前,69ページ。)〉 (187頁)

 【このパラグラフは引用文だけのなで、平易な書き下ろしは不要であろう。これは〈(同前,69ページ。)とあるように、【33】パラグラフの冒頭〈信用の無償性。Fr.バスティア氏とプルドン氏との論争』,パリ,1850年〉からのものであり、すでにそのパラグラフの考察の中で紹介した61-63草稿の一文の最期の部分をほぼそのまま書き移したものである。
 プルドンは貸付資本家も彼のもつ貨幣を〈交換に投じる〉と考えているが、それについてマルクスはプルドンは貸付資本家の場合、彼の貨幣に対する対価は何も受け取らないことを見ていないと指摘していた。帽子を売る帽子屋は、帽子を手渡すかわりにその価値を貨幣の形で受け取るが、金貸資本家は貨幣をただ手放すだけである。もっとも所有権そのものを彼は保持しており、よってそれは一定期間後には彼のもとに還流する必要があるのであるが。ようするにプルドンは商品の売買と利子生み資本の運動との相違を明確につかんでいないということである。】

【37】

 ここでは帽子製造業者は,貸付資本家〔capitahstepr6teur〕に対立する生産的資本家を代表する。どのようにして生産的資本家は商品をそれの価値で売ることができるのか(生産価格への均等化はプルドンによる問題の把握にとってはどうでもよいことである),また,まさにそうすることによって,どうして自分が交換に投じる資本を越えて〔en sus du capital qu'il a apporté à 1'échange〕利潤を実現するのか,この秘密を明らかにプルドンは見破ることができなかった。帽子100個の生産価格は115ポンド・スターリング,またこの生産価格はたまたま帽子の価値に等しい(したがって帽子を生産する資本は平均的社会的な構成の資本だ)と仮定しよう。利潤が15%ならば,帽子製造業者は,資本をその価値どおりに115ポンド・スターリングで売ることによって,15ポンド・スターリングの利潤を実現する。彼にとっては帽子には100ポンド・スターリングしかかかっていない。彼が自分の資本で生産したのならば,彼は①剰余の15ポンド・スターリングを全部ふところに入れてしまう。もし借りた資本で生産したのならば,彼はたとえばそのうちから5ポンド・スターリングを利子として渡さなければならない。このことは少しも帽子価値を変えるものではなく,ただ,この価値に含まれている剰余価値の,いろいろな人びとのあいだの分配を変えるだけである。つまり帽子の価値は利子の支払いによっては影響を受けないのだから,すでにまえに解明した次のばか話には根拠がないのである。「商業では資本の利子が労働者の賃金に付け加えられて商品の価格を構成するのだから,労働者が自分の労働の生産物を買い戻すことができるということはありえない。労働しながら生きる〔Vivre en travaillant〕,ということは,利子の支配のもとでは矛盾を含んだ原理である。」(同前,105ページ。)a)/

① 異文〕「剰余の15ポンド・スターリングを」← 「115ポンド・スターリングを」〉 (187-188頁)

 〈プルドンにおいては帽子製造業者は、貸付資本家に対立する生産的資本家を代表しています。ではどのようにして生産的資本家は商品をその価値で売ることができるのでしょうか(生産価格への均等化はプルドンの問題の把握にとってはどうでもよいので考慮に入れないでおきます)。そしてそれによって彼はどうして自分が交換に投じる資本を越えて利潤を実現するのでしょうか。この秘密を明らかにプルドンは見破ることができなかったのです。帽子100個の生産価格は115ポンド・スターリング、またこの生産価格はたまたま帽子の価値に等しいとします(つまり帽子を生産する帽子製造業者は社会的に平均的な資本構成だと仮定します)。そうすると平均利潤率が15%だとするなら、帽子製造業者は、商品資本をその価値通りに115ポンド・スターリングで売ることによって、15ポンド・スターリングの利潤を実現します。彼にとっては帽子には100ポンド・スターリングしかかかっていません。彼が自分の資本で生産したのなら、彼は剰余価値の15ポンド・スターリングを全部ふところに入れてしまうでしょう。しかしもし彼が借りた資本で生産したのであれば、彼はそのうち例えば5ポンド・スターリングを利子として渡さなければなりません。このことは少しも帽子の価値を変えるものではありません。ただ帽子の価値に含まれている剰余価値の、いろいろな人々のあいだへの分配を変えるだけです。帽子の価値は利子の支払によっては影響を受けないのですから、すでに前に解明した次の馬鹿話には根拠がないのです。「商業では資本の利子が労働者の賃金に付け加えられて商品の価格を構成するのだから,労働者が自分の労働の生産物を買い戻すことができるということはありえない。労働しながら生きる〔Vivre en travaillant〕,ということは,利子の支配のもとでは矛盾を含んだ原理である。」(同前,105ページ。)〉

 【このパラグラフの最期でマルクスが引用している一文は、さきに【33】パラグラフで紹介した61-63草稿から抜粋したものに直接続く、次のような一文から移されたもののようである。

 〈「商業では資本の利子が労働者の賃金に加わって商品の価格構成するのだから、労働者が自分の労働の生産物を買い戻すことは不可能である。自分の労働によって生活するということは、利子制度のもとでは、矛盾を含む原理である。」(105ページ)第九の手紙(144-152ページ)のなかでは、この勇ましいP〔プルドン〕は、流通手段としての貨幣を資本としての貨幣と混同していて、そのために、フランスに存在する「資本」は160%になる(つまり、10億の資本……「フランスで流通している通貨の総額」にたいして、国債や抵当などでの年利が16億になる)と推論している。〉 (草稿集⑦519頁)

 ここではプルドンが、流通手段としての貨幣と利子生み資本との区別ができず混同しているのであるが、さらに彼はそもそも生産資本家が商品をその価値で販売し、しかもそうすることによって自分が交換に投じた資本を越えて如何にして利潤を実現するのかについて、その秘密について見破っていないことを指摘し、そのカラクリを暴いている。マルクスは生産価格への均等化はプルドンの問題を論じるには必要ないといいながら、しかし具体的例では生産価格を前提して論じ、その平均的資本構成という前提のもとに生産価格と価値が一致しているケースとして論じている。そして利子が剰余価値から分割されたものであって、利子の支払によっては商品の価値には何の変化も生じないことを論証している。そしてそのことは商品の価格が利潤(利子)・賃金・地代によって構成されるとする価値構成説の俗説、馬鹿話には何の根拠もないのだとしているのである。】

【38】

 |290下|〔原注〕a)それだから,「家屋」や「貨幣」などは,「資本」として貸し付けられるのではなく,「商品」として「原価で」(同前,[43,]44ページ)譲渡されるのだということになる。ルターはプルドンよりはいくらか高みに立っていた。彼は,利潤をあげるということが貸すとか売るこという形態によるものではないということをすでに知っていた。購買からも高利は得られる。しかしいまこのことまでも一口にかたづけるわけにはいかない。まず一方を,貸付による高利を,論じなければならない。これを防止してから(最後の審判の日ののちに)買う場合の高利にも訓戒を加えることにしよう。」(M.ルター牧師諸氏へ,高利に反対して,云々』,ヴィッテンベルク,1540年。)〔原注a)終わり〕|

①〔注解〕この一文はバスティア=プルドンでは次のとおり。--「もし商業信用または抵当信用が,言い換えれば貨幣資本が,もっぱら流通するという機能を果たす資本が,無償であるなら,家屋という資本はやがてそれ自身になり,家屋はもはや実際には資本ではなく,商品であろう。……原価で。」
②〔注解〕ルターからの抜粋でマルクスはルターの綴り方でではなく,高地ドイツ語の正書法を使っている。〉 (189頁)

 〈プルドンには、利子の支払は商品の価値には影響せず、ただその価値に含まれている剰余価値の分配に影響を与えるだけだということが分からない。だから、「家屋」や「貨幣」などは「資本」として貸しつけられるのではなく、「商品」として「原価で」譲渡されるのだということになるのです。ルターはこうしたプルドンよりいくらかは高みに立っていました。彼は、利潤をあげることが貸すとか売ることという形態によるものではないということをすでに知っていました。彼は次のように述べているからです。「購買からも高利は得られる。しかしいまこのことまでも一口にかたづけるわけにはいかない。まず一方を,貸付による高利を,論じなければならない。これを防止してから(最後の審判の日ののちに)買う場合の高利にも訓戒を加えることにしよう。」つまりルターは購買や貸付による高利を不当とするのですが、それは高利の源泉が、そうした購買や貸付の形態から生じるものではないということを示唆しているのです。〉

 【このパラグラフは先のパラグラフを直接受けた原注である。先のパラグラフはプルドンの引用で終わっているが、この引用のあとに61-63草稿では〈P〔プルドン〕は、流通手段としての貨幣を資本としての貨幣と混同してい〉ると指摘していた。まさにこうした混同した立場にたっているから〈「家屋」や「貨幣」などは,「資本」として貸し付けられるのではなく,「商品」として「原価で」(同前,[43,]44ページ)譲渡されるのだということになる〉と指摘されているのである。この部分は、すでに【33】の考察のところで紹介した61-63草稿の〈取り替え、物の交換が行なわれるかぎりでは、価値の変化は起こらず、相変わらず同じ人が同じ価値の「所有者」なのであり、また、剰余が生ずるかぎりでは、交換は行なわれない。商品や貨幣の交換が再び始まるときには、剰余はすでに商品に吸収されている。プルドンには、利潤は、したがってまた利子も、価値の交換の法則からは出てこない、ということがわかっていない。だから、「家屋」や「貨幣」などは、「資本」として交換されるべきではなく、「原価で……商品」として交換されるべきなのである〉という部分から引用されている。ここでは〈プルドンには、利潤は、したがってまた利子も、価値の交換の法則からは出てこない、ということがわかっていない〉と指摘されている。それに対してルターの場合は、高利の源泉が交換からは出てこないということに気づいているとマルクスは考えているわけである。だからルターはプルドンより、少し高みにいるという指摘があるわけである。】

【39】

 〈/290上/どんなにプルドンが資本一般の運動を理解しなかったかは,彼が資本一般の運動を利子生み資本に特有な運動として述べている次の文章に現われている。〉 (189頁)

 〈プルドンが資本一般の運動を理解していないかは、彼が資本一般の運動を利子生み資本に特有な運動として述べている次の文章に現れています。〉

 【ここからは再び本文に戻っている。やはりテーマは資本一般の運動と利子生み資本の運動との区別である。その両者を混同しているプルドンを引き合いにして、その区別を明らかにしようというのがマルクスの意図であろう。このようにマルクスはしつこいくらいに単純な流通における商品や貨幣と資本の運動としてのそれらとの違いをまず指摘したのちに、そうした資本の運動とさらに利子生み資本としての固有の運動との相違を明らかにしようとしているわけである。これらの区別の重要性は、後にエンゲルス版の第28章の冒頭次のようにその区別の重要性が指摘されている。

 〈トゥク,ウィルスン,等々がしている,Circulation(「通貨」--引用者)資本との区別は(そしてこの区別をするさいに,鋳貨としての流通手段と,貨幣と,貨幣資本と,利子生み資本(英語の意味でのmoneyed Capital)とのあいだの諸区別が,乱雑に混同されるのであるが),次の二つのことに帰着する。〉 (大谷新著第3巻97-98頁)

 ここでマルクスが〈鋳貨としての流通手段と,貨幣〉と述べているのは、『資本論』の第1部の冒頭で取り扱われているものである。いうまでもなく〈鋳貨としての流通手段〉とあるのは、第3章第2節「流通手段」のことであり、〈貨幣〉とあるのは定冠詞のない貨幣であり、マルクスが「貨幣としての貨幣」、あるいは「本来の貨幣」等々と述べているもので、第3章第4節の「貨幣」である。だからここには蓄蔵貨幣や支払手段あるいは世界貨幣が入る。それに対して〈貨幣資本〉と述べているのは、第2部の資本の流通過程で考察されている商品資本や生産資本と区別されたものとしての貨幣資本なのである。そして利子生み資本はいうまでもなく第3部第5章(篇)で取り扱われているものである。マルクスはこうした『資本論』の各段階で展開される貨幣の抽象的な機能とより具体的な規定性をおびたものとの区別の重要性をここで指摘しているのである。
 もっともこれまでのところでは単に貨幣のそうした区別だけではなく、単純流通と資本の流通過程との違い、また利子生み資本に固有の運動との相違を論じようとしているわけだが。】

【40】

 〈「利子の蓄積によって,貨幣資本は交換が行なわれるごとに絶えずその源泉に帰るのだから,絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しはつねに同じ人に利益をもたらすということになる。」(154ページ。)〉 (189頁)

 【これはプルドンからの引用だけだから、平易な書き下ろしは不要であろう。この一文も先の61-63草稿からとられている。その草稿をここでは紹介しておこう。

 〈さらに次のように言う。「利子の蓄積によって資本貨幣が交換に交換を重ねて絶えずその源泉に帰るということから、絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しがつねに同じ人物に利得をもたらすということになる。」(154ページ)資本は貨幣の形で貸し出されるので、彼は、資本-貨幣〔capital-argent〕すなわち現金がこの独自な属性をもっているものと思いこんでいるのである。いっさいのものは売られるべきものであるが、なにものも貸されるべきものではない、というわけである。言い換えれば、彼は商品を欲したが、それが「貨幣」になることは欲しなかったように、ここでは商品や貨幣を欲するが、それらが資本に発展してはならないのである。すべての空想的な形態を剥ぎ取ってしまえば、これが意味するところは、小さな町人的、農民的で手工業的な生産から、大工業に進展してはならない、ということにほかならないのである。〉 (草稿集⑦519頁)

 とりあえず、ここでは61-63草稿の一文を紹介するだけにする。また必要に応じてこの内容については論じよう。】

【41】

 〈それでは,利子生み資本の特有の運動のなかでプルドンを当惑させている〔puzzle〕ものはなにか?〉 (190頁)

 〈それでは、利子生み資本に特有な運動のなかでプルドンを当惑させているものは何でしょうか?〉

 【これは特に解説のしようもない。】

【42】

 〈それは,売る〔vendre〕,価格〔prix〕,対象を譲渡する〔céder des objets〕,という範躊であり,また,ここでは剰余価値が現われている外面的で無媒介的な形態である。要するに〔in fact〕,ここでは資本としての資本が商品になってしまっているという現[420]象,それゆえ,売ること〔vendre〕が貸すことに転化し,価格〔prix〕が剰余価値の分け前に転化してしまっているという現象である。〉 (190頁)

 〈それは売るという行為、あるいはその価格、対象を譲渡するという範疇です。またここでは剰余価値が現れている外面的で無媒介的な形態そのものが彼を当惑させているのです。つまりここでは資本としての資本が商品になってしまっています。だから売ることが貸すことに転化し、価格が剰余価値の分け前である利子に転化してしまっている現象が彼を惑わしているのです。〉

 【先に紹介した61-63草稿では〈資本は貨幣の形で貸し出されるので、彼(プルドン--引用者)は、資本-貨幣〔capital-argent〕すなわち現金がこの独自な属性をもっているものと思いこんでいるのである。いっさいのものは売られるべきものであるが、なにものも貸されるべきものではない、というわけである〉とマルクスは指摘していた。プルドンは売るという行為が、貸付になっていることが分からないのである。あるいは価格が利子という形態をとっていることが分からない。しかしそれこそ利子生み資本に固有の運動なのである。】

 (以下、続く)

2019年6月15日 (土)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-5)

『資本論』第3部第5篇第21章の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続き、第26パラグラフからである。

【26】

 〈ところが,利子生み資本ではそうではない。そして,まさにこのことこそが利子生み資本の独自な性格をなしているのである。〉 (181頁)

 〈ところが、利子生み資本ではそうではないのです。つまり今度は、貨幣が資本として流通に入るのです。そして、まさにこのことこそが利子生み資本の独自の性格をなしているのです。〉

 【ここから一転して、利子生み資本の考察に戻っている。つまり【20】~【25】パラグラフでは、『資本論』第2巻で考察したような、資本の流通過程における商品資本や貨幣資本が実際の流通においては、単なる商品や貨幣として振る舞い、決して資本として流通に入っていくのではないことを確認した上で、それに対して、この【26】からは、しかし利子生み資本はそうではないのだと話を転じている。そしてそれこそが利子生み資本の独自の性格をなしているのだというわけである。】

【27】

 自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所持者は,それを流通のなかに投じて,第三者に譲渡し,それを資本としての商品にする。それは,それを譲渡する彼にとっての資本としてだけでなく,資本として,剰余価値,利潤を創造するという使用価値をもつ価値として,第三者に引き渡されるのである。つまり,それが彼に引き渡されるのは,資本として,すなわち,運動のなかで自分を維持し,機能し終えたのちにその最初の引渡人の手に,ここでは貨幣所持者の手に帰ってくる価値としてである。つまり,ただしばらくのあいだだけ彼の手から離れ,その所有者の占有から機能資本家の占有に移るのであって,支払われてしまうのでも売られるのでもなく,ただ貸し付けられる,貸し出されるだけの価値としてである。すなわち,一定期間ののちにはその出発点に帰ってくる〔returniren〕という,また第2には実現された資本として,したがって剰余価値を生産するというその使用価値を実現した資本として,還流する〔returniren〕という条件のもとでのみ,その価値は手放されるのである。a)/

①〔異文〕「……にする」という書きかけを消して「……として手放す」と書いたのち,これも消している。
②〔異文〕「に」zu←an
③〔異文〕「手放〔entäussern〕される」← 「譲渡〔vcraussern〕される」〉 (181-182頁)

 〈自分の貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所持者は、それを流通に投じて、第三者に譲渡します。しかしその場合の貨幣は、単なる貨幣としてではなく、資本としての商品として手放されるのです。それは譲渡する貨幣所持者にとってそうである(なぜなら彼はそれを増殖しようとして手放すわけですから)だけではなくて、実際にも、それは資本としての商品として譲渡されるのです。つまりそれは剰余価値を、利潤を創造するという使用価値をもつ価値として、引き渡されます。つまりそれが第三者に引き渡されるのは、資本として、つまり運動のなかで自分を維持し、機能し終えたのちに、その最初の引渡し人の手に、貨幣所持者の手に帰ってくる価値としてです。つまり、ただしばらくのあいだだけ貨幣所持者の手から離れて、その所有者の占有から機能資本家たる第三者の占有に移るのであって、支払われてしまうわけでも売られてしまうわけでもないのです。ただ貸し付けられる、貸し出されるだけの価値としてそれは第三者に譲渡されるのです。それは、第1に一定期間ののちにはその出発点に帰ってくるものとして、第2には実現された資本として、したがって剰余価値を生産するというその使用価値を実現した資本として、還流するという条件のもとでのみ、その価値は手放されるのです。〉

 【ここから利子生み資本の場合は、資本の流通過程における商品資本や貨幣資本とは異なり、資本として流通に投じられることが指摘されている。それをマルクスは「資本としての商品」にすると述べ、草稿ではこの「資本として」に二重の下線が引かれているという。つまり利子生み資本の場合、それが「資本として」流通に投じられるということがその独自の性格なのだというのがマルクスの強調したいところである。それが資本として流通に投じられる理由とし、一つは最初の貨幣所持者にとってそうであるから。なぜなら、彼はそれを利子生み資本として増殖しようとして流通に投じるのだからである。しかしそれだけではなくて、それが資本として流通に入るのは、それ自体が剰余価値、利潤を創造するという使用価値をもつ価値であるという意味でも、それは資本として流通に入るのだとマルクスは指摘している。
 だからまたここから利子生み資本の運動のもう一つの特徴が出てくる。つまりそれが資本として貨幣所持者によって手放されるということは、それは資本としての運動を行うものとして、資本としての循環を経るものとしてでなければならない。つまり運動のなかで自分を維持し、機能し終えた後には、その増殖分と一緒に最初の出発点に帰ってくるという資本の運動である。だから最初の貨幣所持者が、それを資本として手放すということは、第三者にただ一時的に占有させるということであり、ただ貸し付けれる、貸し出されるというこでしかないわけである。ここにも利子生み資本の運動の独自な性質があるわけである。それは資本として商品になり、販売されるが、しかしそれが資本であるということは資本としての運動を経るということであり、だからそれは支払われてしまうのではなく、貸し出されるだけだということである。
 この点、宇野のように商品になるのは貨幣であって、資本ではない、などという理解ではこうした利子生み資本に固有の運動は分からないことになる。それは資本として商品になるからこそ、資本としての運動を、還流をもたらさなければならず、よってそれは単に支払われたり、売られてしまうわけではなく、一時的な貸付け、貸出でなければならないわけである。そうした利子生み資本に固有の運動を、宇野のような解釈ではあきらかにならないであろう。】

【28】

 [417]|289下|a)追記Zusatz〕。商品が資本として貸し付けられるとき,それは流動資本として貸し付けられることも,固定資本として貸し付けられることもできる。貨幣はどちらの形態でも貸し付けられることができる。固定資本として貸し付けられるのは,たとえば,貨幣が年金のかたちで返済され,したがって利子といっしょに絶えず資本も少しずつ還流する〔returniren〕という場合である。他の諸商品は,その使用価値の性質上,いつでもただ固定資本としてしか貸し付けられることができない。家屋や機械などがそれである。しかし,すべての貸し付けられる資本は,その形態がどうであろうと,またその使用価値の性質によって返済がどのように変形されようとも,つねにただ貨幣資本の特殊な一形態でしかない。というのは,ここで貸し付けられるものは,つねにある一定の貨幣額であって,この場合,利子もまたこの額にたいして計算されるのだからである。もし貸し出されるものが貨幣でも流動資本でもないならば,その返済もまた固定資本が還流する〔returniren〕ような仕方で行なわれる。貸し手は周期的に利子と,固定資本そのものの消費された〔consumirt〕価値の一部分,つまり周期的な損耗分〔Dechet〕の等価とを返してもらう。そして,終わりには,貸し付けられた固定資本の未消費〔unconsumirt〕部分が現物で帰ってくる。もし貸し付けられる資本が流動資本ならば,それはやはり流動資本の還流の仕方〔Returnweise〕で貸し手のもとに還流する。

①〔異文〕手稿ではこの追記は手稿のこのページの最後に書かれており,「a)追記」という標識によってこの箇所に関係づけられている。
②〔注解〕このパラグラフは,カール・マルクス『経済学批判(1861-!863年草稿)』から,変更を加えて,取られている。(MEGAII/3.4.S.1518.18-34.)〉 (182-183頁)

 〈a)への追記。商品が資本として貸し付けられるときは、それは流動資本として貸し付けられることも、あるいは固定資本として貸し付けられることもできます。その商品の使用価値の特性によって規定される資本の循環の違いによって、その違いが出てくるでしょう。そして流動資本の場合は、現実資本の循環に応じて一度に返済は可能ですが、固定資本の場合は、その返済は数回の資本の回転期間を要するか、あるいはその磨滅部分だけが還流するに応じて、すこしずつ徐々に返済されることもあります。しかし貨幣の場合はどちらの形態でも貸し付けられることができます。つまりその還流の形態が流動資本のように資本の循環ごとにいっぺんに還流し、返済を受けることも可能なら、他方で固定資本のように、例えば貨幣が年金のかたちで返済され、したがって利子といっしょに絶えず資本もすこしずつ還流するというようにです。他の諸商品は、その使用価値の性質上、いつもただ固定資本としてしか貸し付けられることができない場合もあります。家屋や機械などはそうでしょう。しかしすべての貸し付けられる資本は、その形態がどうであろうとも、その使用価値の性質によって返済がどのように変形されようと、つねにただ貨幣資本の特殊な一形態でしかないということです。というのは、ここで貸し付けられるものは、つねにある一定の貨幣額であって、利子もまたこの額に対して計算されるのだからです。もし貸し出されるものが、貨幣でも流動資本でもなく、固定資本ならば、その返済もまた固定資本が還流するのと同じような仕方で行われます。貸し手は周期的に利子と、固定資本そのものの消費された価値の一部分、つまり周期的な損耗部分の等価を返してもらいます。そして最終的には、貸し付けられた固定資本の未消費部分が現物で帰ってきます。もし貸し付けられる資本が流動資本ならば、それはやはり流動資本の還流の仕方で貸し手のもとに還流します。〉

 【ここでは商品が資本として貸し付けられる場合が論じられている。この部分は61-63草稿から変更を加えて取り入れられているということだから、まずその61-63草稿の元の文を見てみることにしよう。ここでは少し関連すると思われる部分を多く抜粋してみよう。それは次のようになっている。

 商品(貨幣)は資本として貸し出されるのだから、それは流動資本や固定資本として貸し出されることができる。貨幣は両方の形態で貸し出されることができるのであって、たとえば固定資本として貸し出されるならば、その場合には、貨幣は年金の形態で返済され、したがって、資本の一部も利子を伴って絶えず帰ってくる。その他の商品は、その使用価値の本性からすれば、家屋、機械などのように、しばしば、ただ固定資本としてのみ貸し出されることができる。だが、貸付資本はすべて、その形態がどうであろうと、またその返済の形態が、それの存在する使用価値の独自な本性によって、どのように修正されようとも、つねに、ただ、貨幣資本の特殊な形態であるにすぎない。というのは、ここでは、貸し出されるものは、どんな使用価値で存在しようと、一定額の貨幣であり、さらにまた利子もこの金額にたいして計算されるのだからである。貸し出されるものが、貨幣でも流動資本でもなく、固定資本であるとすれば、それはまた固定資本の仕方で返済される。貸し手は定期的に利子と、固定資本そのものの消費される価値部分すなわち定期的な損耗分の等価とを返済される。最後は、現物で貸し出された固定資本のうちの消費されていない部分が帰ってくる。

①〔異文〕「(貨幣)」--あとから書き加えられている。

 貸し付けられる資本が流通するさいの形態は、次のとおりである。
 一、貨幣は支払手段として機能する、すなわち、資本は手放されるかそれとも売られるが、しかし、一定の期日後にはじめて支払われる。支払手段としての貨幣の機能は、すでに見たように、単純な商品交換から生ずる。したがって、このことは、貨幣資本にとってはなんら特徴的なことではない。

①〔異文〕「……かそれとも」←「そして」

 二、一定期間ののちにそれは貸し手のもとに還流する。それが一部ずつ利子を伴って還流しようと、またはそれが(利子を伴って全部還流しようと、あるいはそれが一部の期間中はただ利子だけを還流させ、いろいろに違う期間の終わりにはじめて資本を最終期間の利子を伴って還流させようと、そうなのである。

①〔異文〕はじめここに「彼がそれを定期的に利子から」と書いたが、消している。

 見られるように、こうした、返済すなわち貸し手のもとへの資本の復帰の仕方は、資本が総じてその循環のなかで行なう運動、資本の出発点への復帰、以外のなにものでもない。もし、資本がたとえば年々一部ずつ利子を伴って返済されるならば、これは、固定資本が還流する仕方であり、それがその流通のなかでその出発点に復帰する仕方である。これに反して、年度末にまたは別の期間の終わりに資本が利子を伴って全部帰ってくるならば、それは流動資本の還流方法である。貸し出される資本は二重に還流する。すなわち、現実の過程では、それは産業資本のもとに還流し、それから、この復帰は、もう一度、貨幣資本家への移動として、つまり貸し出される資本の現実の所有者、それの法律的な出発点、へのその返済として、繰り返されるのである。

①〔異文〕「循環」←「回転」
②〔異文〕「貸し出される資本」←「資【本】」
③〔異文〕「貸し出される資本の……への〔an seinen〕」←「……への〔an den〕」〉 (草稿集⑦508-510頁)

 この61-63草稿はただ紹介するだけにとどめ、特に加えて言及する必要はないであろう。
 ここでは、そもそも商品を資本として貸し付けるということはいわゆるリースというのとどう異なるのか、という問題を考えてみたい。大谷氏は氏の弟子を自認する友人によれば、マルクスが利子生み資本の範疇を資本として貸し付けられる一定の価値額として、その価値額が貨幣の形態をとろうと商品の形態をとろうとやはり利子生み資本だとしていることに疑問を持っているのだという。というのは、マルクスがここで挙げている家屋や機械などの貸付けの場合は、それは家屋や機械を一定期間使用する使用価値を販売すると解すべきという理由からであるらしい。いわゆるリース産業というものは、果たして利子生み資本を貸し付ける資本家なのか、それとも一定期間に限ってその使用価値の使用を販売する資本家なのか、ということである。マルクスは『経済学批判』のなかで、貨幣の支払手段としての機能に関連して、同じ様な問題を論じている。それを少し参照してみよう。

 〈さらにまた、一連の使用価値は、その性質上、商品の実際の引渡しとともにではなく、ただ一定の期間それをゆだねることによってはじめて現実に譲渡されるということになる。たとえば家屋の使用が一ヵ月だけ売られるとすると、その家屋は月のはじめにその使い手を変えるけれども、その使用価値は一ヵ月が経過したあとで引渡しずみとなる。この場合には、使用価値を事実上ゆだねることと、その現実の譲渡とは、時間的にくいちがっているから、その価格の実現も同じくその位置変換より遅れて行なわれる。〉 (草稿集③368頁)

 これは販売される使用価値の性質上、その販売による使用価値の譲渡が貨幣との引き換えにではなく、使用価値の譲渡そのものに一定期間を要するために、使用価値が渡され終わったのちに、その支払がなされるという支払手段としての貨幣の機能の一例として、マルクスは述べているわけである。販売される使用価値の性質からくる貨幣の支払手段としての機能の一例である。だからこの場合、明らかにマルクスは家屋の場合は、その使用が一カ月なら一カ月だけ販売されるとしている。これは商品の販売であって貸付けではない。では、家屋が利子生み資本として貸し付けられるという場合はそれとはどう違うのであろうか。それが問題である。大谷氏はおそらくこの『批判』の支払手段の例が頭にあったので、家屋や機械などは、ただその使用が期間限定で販売されるだけであって、一定の価値額が貸し付けられるのとは異なるのではないか、と考えたのであろう。
 しかしその場合、つまり使用価値の一定期間の使用を販売すると考える場合は、一定期間ののちに支払われる価値額は、家屋や機械の使用する価値の実現されたものになる。これは家屋や機械の耐久性を考えて、一定期間後のその使用価値の損耗分の価値額と考えることができる。例えば機械の価値が100万円で、10年の耐用期間があるとすれば、その使用が一年間販売されたとするなら、その使用価値は一年後に譲渡し終わるのだから、その価値は一年後に10万円として実現する。この場合、貨幣は支払手段として機能する。
 しかしそれらが利子生み資本としての貸付けなら、一年後に支払われる価値額は、機械の価値100万円という貨幣額の貸付けだから、だから一年後には、その機械の現物の返還と同時に、その100万円の貨幣額に対する利子5万円と、さらに機械の一年間の使用にともなう損耗分の10万円、つまり合計15万円が支払われることになる。果たしてどちらが正しいのであろうか。
 われわれはここでマルクスが利子生み資本について指摘していたことを思い出す必要がある。つまり利子生み資本の場合の第一の場所変換は、再生産過程の契機ではないということをである。つまり利子生み資本としての商品の譲渡と単なる商品の販売としての譲渡との違いは、後者は再生産過程の一契機であるのに対して、前者はそうではないということである。だから利子生み資本としての商品の貸付けは、譲渡されるのは商品ではあるが、しかしそれは再生産過程の外からの商品の譲渡であり、よってまたそれはその還流も再生産過程の外への還流であるということである。それに対して、家屋や機械の使用の販売は文字どおりの商品の販売であり、ただその使用価値の性質から、その使用価値の譲渡とその価値の実現とがずれるケースに過ぎない。だからこの場合は貨幣は支払手段として機能するわけである。しかしそれらが再生産過程の一契機であるということは疑うべくもない。しかし利子生み資本としての商品の貸付けはそうではない。それは再生産過程の契機をなしていないとマルクスは指摘しているのである。だからこそ、それは利子をともなって返還されなければならないのである。それは資本としての貸付けだから、その商品は剰余価値を創造する使用価値を持った価値として貸付けられるのである。だから、その貸し付けられる家屋や機械も当然利潤を生産するものとして機能することになる。だからこそそれらが生み出した利潤の一部が利子として最初の貸付けた人に還流するわけである。
 両者の違いは、一定の期間の使用の販売という点では同じであるが、利子生み資本の場合は、その使用が利潤を生む使用価値であり、よってその利潤の一部が利子として貸付けた人に還流しなければならないということである。それに対して貨幣の支払手段として機能の場合の商品の使用の販売の場合は、その使用がただの使用価値の実現でしかなく、それが利潤を生むためのものには限定されないということである。ただそれは個人的な消費のために家屋の使用を買ったといえるし、機械の場合もただ個人的に使用するために一定期間の使用を買ったのである。しかし利子生み資本としての商品の貸付けの場合は、その商品の使用価値は利潤を生むという独特の使用価値であり、よってその使用によって創造された利潤の一部が利子として最初の貸付けた人に還流する必要があるわけである。】

【29】

 還流Retrunの仕方は,再生産する資本の,またその特殊的な種類の,現実の循環運動によって規定されている。しかし,貸し付けられる資本にとっては還流〔return〕は返済,repaymentという形態をとる。なぜならば,その前貸,その手放し〔Entausserung〕が貸付という形態をもっているからである。

① 〔異文〕「再生産」← 「生産」〉 (183-184頁)

 〈実際の資本の還流の仕方は、再生産する資本の、またその特殊な種類の違いによって、違ってきます。例えば流動資本の場合は、一回の資本の回転で還流しますが、固定資本の場合は、その損耗分だけが還流するだけです。つまり現実の資本の循環運動にそれは規定されているわけです。しかし貸し付けられる資本にとっては、還流は返済という形態をとります。というのは、それはそもそもその前貸し、その手放しが、貸付という形態をもっていたからです。〉

 【ここでは利子生み資本がどういう形態で貸し付けられようと、それは貸付という形態をとるということは同じであり、よってまたその還流が返済という形態をとることも変わらないのだという指摘がされている。これはこれまで利子生み資本の説明を読んでいる限りでは当たり前のように思えるのであるが、実際にはさにあらずである。というのは、例えば株式を購入する場合、購入者の意識においても、それを貸付と意識することはないからであり、だからまた株式を販売した場合も、それを返済と意識することはないからである。しかしそうした場合も、マルクスはそれは利子生み資本の貸付と返済なのだと指摘しているのである。だからこの一文は短いが決してどうでもよいことでも分かりきったことを言っているのでもないのである。】

【30】

 〈この項目でわれわれが取り扱うのはただ本来の貨幣資本だけであって,そのほかの貸付資本の諸形態はこの貨幣資本から派生したものである。〉 (184頁)

 〈この項目で私たちが取り扱うのは、ただ本来の貨幣資本だけです。それ以外の貸付資本の諸形態は、この貨幣資本から派生したものです。〉

 【先のパラグラフで貸付と返済という利子生み資本の独特の運動がどうでもよい問題ではないと指摘したが、ここでマルクスはただここでわれわれが取り扱うのは本来の貨幣資本だと指摘している。それ以外の貸付資本の諸形態はそれから派生したものだというのである。〈そのほかの貸付資本の諸形態〉としてマルクスは何を考えているのかは分からないが、どいう貸付資本の形態があるのであろうか。後にマルクスは「III)」と番号を打った項目(これはエンゲルス版=現行版では第30~32章に該当する)のなかで貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積との関連を問題にする時に、貸付可能な貨幣資本に問題を限定して論じている。そしてそれを論じる前提として、それ以外の貨幣資本として架空な貨幣資本の例を挙げて論じているのである。それは例えば国債であるとか株式等々である。だからここでマルクスが〈そのほかの貸付資本の諸形態〉と述べているものとして考えられるのは、国債や株式、あるいは手形などの有価証券の類と考えられるかも知れない。】

【31】

 〈貸し出された資本は二重に還流する〔returniren〕。現実の過程ではそれは機能資本家の手に還流し,それからもう一度,貸し手〔lender〕すなわち貨幣資本家〔monied capitalist〕への移転〔transfer〕として,つまり,資本の現実の所有者,その法律上の出発点への返済として,還流が繰り返される。〉 (184頁)

 〈貸し出された資本は二重に還流します。一つは現実に資本として機能する過程では、それは機能資本家の手に還流しますし、それからもう一度、今度はその機能資本家の手から、それを最初に貸し付けた資本家、すなわち貨幣資本家の手に還流し、返済されます。この貨幣資本家というのは、資本の現実の所有者であり、その法律上の所有者、出発点です。〉

 【これは【13】パラグラフで〈ここで二重に現われているのは,1)資本としての貨幣の支出であり,2)実現された資本としての,G'またはG+△Gとしての,それの還流〔Return〕である〉と言われていたことの後半部分が再度確認されている。たがらこの二重の還流は、最初の貨幣の支出が二重に行われた(最初は貸付として、その次に現実資本への転換として)ことに対応しているわけである。】

【32】

 〈現実の流通過程では資本はいつでも商品および貨幣として現われるのであって,その運動は一連の交換,売買に帰着する。要するに,流通過程は商品の変態に帰着するのである。ところが,過程の全体を見れば,そうではない。貨幣から出発して見れば{商品から出発しても同じことである。というのは,その場合には商品の価値から出発するのであり,したがってそれら自身をも貨幣の姿で〔subspecie〕見るのだからである},その場合にはある貨幣額が引き渡されて,ある期間ののちにその貨幣額ならびにそれを越えるある超過分,それのある増加分が帰ってくる。増大した貨幣額が,最初の価値の補填分・プラス・剰余価値が帰ってくる。それは,ある[418]循環を通り抜けるなかで自分を維持し増殖したのである。ところで,貨幣は,それが資本として貸し付けられるかぎりでは,まさに,このような自分を維持し増殖する貨幣額として貸し出されるのであって,この貨幣額はある期間ののちには利潤とともに帰ってきて絶えず繰り返し新たに同じ過程を通ることができるのである。それは貨幣として引き渡されるのでもなければ商品として引き渡されるのでもない。つまり,(貨幣として前貸される場合)商品と交換されるのではなく,(商品として前貸される場合)貨幣と引き換えに売られるのではない。そうではなくて,それは資本として引き渡されるのである。資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば,資本は自分自身にたいする関係として現われるのであるが,この,自分自身にたいする関係が,ここでは媒介する中間運動なしに単純に資本の性格として,資本の規定性として,資本に合体されるのである。そして,それはこのような規定性において譲渡されるのである。〔「a)追記」終わり〕|〉 (184-185頁)

 〈現実の資本の流通過程では、資本はいつでも単なる商品や貨幣として現れます。その運動は一連の交換や販売に帰着します。ようするに、資本の流通過程もわれわれが『資本論』の冒頭で考察した商品の変態に帰着するのです。
  ところが、過程の全体をみればそうではありません。貨幣から出発して全体を見れば、まずある貨幣額が引き渡されて、ある期間ののちにその貨幣額ならびにそれを越えるある超過分、その増加分が帰ってくる運動を見渡すことができます。貨幣ではなく、商品を出発点に考えても同じです。というのは、その場合も商品の価値が出発点であり、したがってそれらも貨幣の姿でみることができるからです。
  増大した貨幣額が、最初の価値の補填分・プラス・剰余価値として帰ってきます。それはある循環を通り抜けるなかで自分を維持し増殖したのです。つまり全体との関連でみれば、資本の流通過程は、まさに「資本」の流通と再生産として現れるのです。それはある価値額が、自分の価値を維持するだけではなく、その増殖分を含んだものとして出発点に帰ってくる資本の運動として捉えることができます。しかし流通過程では、最初にも確認したようにそれらは単なる商品や貨幣として振る舞うだけなのです。だからそれらが資本の流通でもあるというのは全体の関連の中で言いうるだけなのです。
  ところが貨幣は、それが資本として貸し付けられる場合は、まさに最初から、このように自分を維持し増殖する貨幣額として貸し付けられるのです。この貨幣額はある期間ののちには利潤とともに出発点に帰ってきて、それを絶えず繰り返して新たに同じ過程を通ることができます。
  だからそれは単なる貨幣として引き渡されるのでもなければ、単なる商品として引き渡されるのではありません。それは単なる貨幣としての引き渡しのように商品と交換されるわけでもなく、単なる商品として引き渡される場合のように貨幣と交換に売られるわけでもないのです。そうではなく、それは資本として引き渡されるのです。資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば、資本は自分自身にたいする関係として現れますが、その自分自身にたいする関係が、ここでは媒介する中間運動なしに単純に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体されているのです。それはそのような規定性において譲渡されるのです。〉

 【ここでは資本の流通過程では、商品資本や貨幣資本も、単なる商品や貨幣として振る舞うこと、それらが資本であるのは、あくまでも全運動の契機として見た場合にいいうるに過ぎないということをまず指摘し、しかし利子生み資本の場合は、貨幣は最初から資本として譲渡されること、だから貨幣が資本としての規定性もつ全関連がそこでなくなっていること、それは媒介する中間運動なしに単純に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体されていると指摘されている。つまり利子生み資本の資本としての性格は無媒介的であることを指摘しているわけである。それに対して流通過程における商品資本や貨幣資本が資本としての規定性を受けとるためには資本主義的生産過程を全体および統一体としてみる、その一契機であるとする媒介を必要とするわけである。利子生み資本の資本としての規定性は、そうした媒介なしの規定性だとマルクスは指摘しているわけである。ここで「a)」として追記された部分は終わっている。】

 (以下、続く)

 

2019年6月 2日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-4)

『資本論』第3部第5篇第21章の段落ごとの解読(続き)

 

   前回の続きで、第19パラグラフからである。

【19】

 〈この商品に,すなわち商品としての資本に特有な,販売という[415]形態に代わる貸付という形態(ただし〔この形態は〕他の諸取引でも見られる)は,資本がここでは商品として現われるという,または資本としての貨幣が商品になるという規定そのものから,出てくるのである。〉 (177頁)

 〈商品としての資本、つまり利子生み資本に特有な、販売という形態に代わる貸付という形態は、資本がここでは商品として現れるという、あるいは資本としての貨幣が商品になるという規定そものものから出てくるのです。もっとも貸付という形態そのものは他の諸取り引きでも見られますが、いまはそれは考慮の外においておきましょう。〉

 【ここからまた第一の流通、G-Gの考察に変わっている。「商品としての資本」に特有な貸付という形態は、資本としての貨幣が商品になるという規定そのものから出てくると指摘されている。これは利子生み資本に固有の運動として重要である。例えば株式の購買の場合、まったく普通の商品の購買と同じように見えるからである。しかしそれもやはり利子生み資本に固有の運動であり、貸付なのである。つまり株式を株式市場で購入する人は、自分の所有する貨幣を利子生み資本として貸し付けているのである。だから彼はそれが利子を伴って還流してくることを期待している。もちろん、株式を購入する人は、必ずしもそうした意識をもっているとは限らないだろう。彼は配当を期待しているのかも知れない。しかし彼が株式を購入するために投じた貨幣が、利子生み資本だと理解されるなら、彼の手にする配当は、彼が投じた利子生み資本の利子になるのである(ここらあたりは第29章の「銀行資本の構成部分」の考察のなかで問題になる架空資本と関連してくるが、今はそれは置いておこう)。あるいは彼は株式が購入した価格より高値がついたときに売り抜き、キャピタルゲインを得ようとするかも知れない。しかしその場合でも、彼が株式を売るということは、彼の利子生み資本の返済を受けることを意味するわけである。これらは株式を売買している人たちの直接の意識とは異なるものかも知れないが、しかし株式の売買が利子生み資本の運動である限り、その実際の内容はそうしたものなのである。株式の売買というのは、あくまでも外観に過ぎず、その本質は利子生み資本の運動であり、だからそれは資本としての貨幣の貸し借りとして理解すべきものなのである。】

【20】

 ここでは次のような区別をしなければならない。
すでに見たように,資本は流通過程では商品資本および貨幣資本として機能する。)

 ①〔注解〕「すでに見たように」--カール・マルクス『資本論』〈経済学草稿1863-1865年〉。第2部〈第1稿〉。(MEGAII/4.1,S.140-191.〔中峯・大谷他訳『資本の流通過程』,大月書店,1982年,9-68ページ。〕)〉 (178頁)

 〈ここでは次のような区別をしなければなりません。
 一つはすでに見たように、資本は流通過程では商品資本および貨幣資本として機能します。〉

 【〈ここでは〉というのは、その一つ前のパラグラフを指しているように思える。そして〈次のような区別〉というのは、一つはこのパラグラフ(【20】)から【25】パラグラフまでの間で考察されている資本の流通過程における商品資本と貨幣資本の特徴と、利子生み資本という意味での貨幣資本(moneyed capital)との区別ということであろう。
 だからわれわれがやろうとしているのは、すでに資本の流通過程で考察した商品資本や貨幣資本の特徴の確認である。すわなち、資本は流通過程では、商品資本または貨幣資本として機能するとまず確認されている。この資本の流通過程の考察は【25】パラグラフまで続く。】

【21】

 〈しかし,この二つの形態では,資本は資本としては商品にならない。〉 (178頁)

 〈しかし、この二つの形態、つまり商品資本や貨幣資本という形態では、資本が資本として商品になるわけではありません。〉

 【資本の流通過程における商品資本や貨幣資本は、資本が資本として商品になるわけではないと指摘されている。商品資本や貨幣資本は資本の流通過程における資本の形態規定性であるが、しかし実際に、それらが資本の流通過程に出てゆくと、単なる商品や貨幣として振る舞うわけであって、それらが資本であるのは、あくまでも資本関係のもとにおける形態規定としてそうであるに過ぎないわけである。だから「商品資本」といっても、資本が資本として商品になっていることを意味しないということである。それは商品が資本という形態規定を受け取っているだけなのである。】

【22】

 生産資本が商品資本に転化したならば,それは,商品として売られるために,市場に投じられなければならない。ここではそれは単純に商品として機能する。ここでは資本家はただ商品の売り手として現われるのであり,それは買い手が商品の買い手として現われるのと同様である。商品としては,生産物は流通過程でその販売によってその価値を実現しなければならず,貨幣としてのその転化した姿態をとらなければならない。したがってまた,この商品が消費者によって生活手段として買われるか,それとも資本家によって生産手段として,資本成分として,買われるかということも,まったくどうでもよいこと〔vollstandig indifferent〕である。現実の機能では,流通行為では,商品資本はただ商品として機能するだけで,資本として機能するのではない。それが単純な商品とは違う商品資本であるのは,1)それがすでに剰余価値をはらんでおり,したがってその価値の実現が同時に剰余価値の実現だからである。といっても,このことは,商品としての,一定の価格をもつ生産物としての,それの単純な存在を少しも変えるものではない。2)このような,商品としての商品資本の機能は,資本としての商品資本の再生産過程の一契機であり,したがってまた,商品としての商品資本の運動は,過程の全体に連関させるならば,同時にまた,資本としての商品資本の運動だからである。しかしそうであるのは,売るという行為または商品の変態そのものによってではなく,ただ,商品としての商品資本の運命または運動と,資本としての商品資本の総運動との関連Zusammenhang〕によってのみである。

 ① 〔異文〕「単純な」← 「個々の」
 ② 〔異文〕「あり,」← 「であるが,資本としてのそれが」〉 (178-179頁)

 〈生産資本が商品資本に転化したなら、それは、商品として売られるために、市場に投じられます。しかし商品市場ではそれらは単なる商品として機能するだけです。ここでは資本家はただ商品の売り手として現れるだけです。それは、それを買う人が例え資本家であっても、ただ単なる商品の買い手として現れるのに対応しています。商品としては、流通過程では、販売によってその価値を実現し、貨幣に転化されなければならないということを示すだけです。だからこの商品が消費者によって生活手段として買われるか、それとも資本家によって生産手段として、つまり資本の成分として、買われるかということも、この流通過程としてはまったくどうでもよいことです。現実の流通行為においては、商品資本はただ商品として機能するだけで、資本として機能するわけではありません。それは単純な商品と違う商品資本であるのは、1)それがすでに剰余価値をはらんでおり、したがってその価値の実現が同時に剰余価値の実現でもあるからです。といっても、このことは、商品としての、一定の価格をもつ生産物としての、それの単純な存在を少しも変えるものではありません。2)単純な商品の商品資本としての機能は、資本の再生産過程の一契機としてそれが存在することから生じます。だから、単なる商品としての商品資本の運動というのは、単純な商品の流通過程での運動を、資本の運動全体の関連のなかで考えるならば、資本としての商品資本の運動として捉えられるというこです。しかしそうであるのは、売るという行為、あるいは商品の変態そのものによってそうなるのではなく、商品としての商品資本の運命または運動と、資本としての商品資本の総運動との関連からのみそういいうるのです。〉

 【ここでは単純流通と資本の流通過程との区別が論じられている。そもそも『資本論』の冒頭(第1篇)に出てくる商品や貨幣というのは、ブルジョア社会の表面に現象しているものを直接観察することから得られるものであるが、それは資本の流通過程から資本関係を捨象して得られるものでもあるのである。ブルジョア社会ではあらゆる生産物は商品として資本によって生産されることが前提されている。だからそれらはすべて資本家的商品である。つまり商品資本なのである。しかしそれは流通過程では単なる商品として振る舞い、だから単なる貨幣へと変態するだけなのである。つまり『資本論』の冒頭篇の商品や貨幣、あるいはその単純な流通も、ブルジョア社会の最も表面に現象しているものをその背後に隠れている資本関係をとりあえずは捨象して得られるものを分析の対象にしたものなのである。
 だから資本の流通過程での商品資本や貨幣資本の機能も、それが実際の流通過程では、単純な商品や貨幣として振る舞うのであり、それらが商品「資本」や貨幣「資本」でもあるのは、そうした単純な商品や貨幣を、それらがその背後に隠している資本関係のもとで、その全体の運動や関係のなかで見た場合に、新たに加わるより具体的な形態規定性ということができるのである。だから単純流通というのは、ブルジョア社会の表面に現れているものあるが、しかしそれらをそれ自体として考察するということは、資本主義的関係を一旦は捨象して、それらを抽象的なものとして考察することであるが、しかしこうした抽象的なものは、その抽象性においては、資本主義以前の単純な商品や貨幣の振る舞いにも妥当するわけである。しかし資本主義以前の単純な商品や貨幣は、ブルジョア社会を背後に持ったもののようには、その概念に相応しい十全なものとして存在しているわけではない。それらはブルジョア社会の抽象物としての商品や貨幣の考察を前提してはじめてそれとして捉えることが可能になるだけである。】

【23】

 〈同様に,貨幣資本としても,資本は事実上ただ単純に貨幣として,すなわち商品(生産手段)の買い手として,作用するだけである。この貨幣がここでは同時に貨幣資本であり,すなわち資本の形態であるということは,買うという行為すなわち資本がここで貨幣として行なうそれの現実の機能から出てくるのではない。それは,この行為と資本の総運動との関連から,もっと詳しく言えば,それが貨幣として行なうこれらの購買行為が資本主義的生産過程を導入するということによって,出てくるのである。|〉 (179頁)

 〈商品資本と同様に、貨幣資本も、実際の流通では、事実上ただ単純な貨幣として、すなわち商品(生産手段)の買い手として、作用するだけです。この貨幣がここでは同時に貨幣資本であり、資本の形態でもあるということは、買うという行為、つまり資本がここで貨幣として行うそれの現実の機能から出てくるのではありません。それが貨幣「資本」であるという規定性は、この買うという行為と資本の総運動との関連から、もっと詳しくいえば、それが貨幣として行うこれらの売買行為が、資本主義的生産過程を導入するためものもであるという関連によって、出てくるのです。〉

 【こうした単純流通における商品と貨幣と、資本の流通過程における商品資本と貨幣資本との区別と同一性を如何に捉えるべきか、というのは『資本論』第2部の第1篇の資本の循環のなかで論じられている。以前、大谷氏の『経済』連載論文「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」を批判した際に、大谷氏は、『資本論』第2部第6稿・第7稿でマルクスが第2部第1篇第1章の「書き出し」を何度も推敲して「資本循環論における理論的前進」をかちとったかに主張している部分を批判して、実際の第6稿・第7稿を使って書かれている第1章の内容を長く紹介したことがあるが、それが今回の問題を考える上で、参考になると思うので、少し長くなるが、紹介しておこう。
 
 《マルクスは「第1章 貨幣資本の循環」の「第1節 第一段階 G-W」(ここから第7稿である)の冒頭、次のように書きはじめている。

 〈G-Wは、ある貨幣額がある額の諸商品に転換されることを表わし、買い手にとっては彼の貨幣の商品への転化であり、売り手たちにとっては彼らの諸商品の貨幣への転化である。一般的商品流通のこの過程を、同時に一つの個別資本の自立的循環の中の機能的に規定された一部分にするものは、さしあたり、この過程の形態ではなく、それの素材的内実であり、貨幣と席を換える諸商品の独自な使用の性格である。これらの商品は、一方では生産諸手段、他方では労働力であり、商品生産の物的要因および人的要因であって、これらの要因の特殊な性質は、もちろん、生産されるべき物品の種類に照応しなければならない。〉 (全集版36-37頁)

 そして〈Gが転換される商品総額のこの質的分割の他に、もう一つのきわめて特徴的な量的関係〉(同37頁)があるとして、その量の考察に移り、その後、次のように述べている。

 〈貨幣資本としては、資本は、貨幣諸機能、いまの場合には一般的購買手段と一般的支払手段との機能を果たしうる状態にある。……この能力は、貨幣資本が資本であることから生じるのではなく、貨幣資本が貨幣であることから生じる。
 他方では、貨幣状態にある資本価値もまた、貨幣諸機能を果たしうるだけで、他の機能は果たし得ない。この貨幣諸機能を資本諸機能にするものは、資本の運動の中での資本諸機能の一定の役割であり、それゆえまた、貨幣諸機能が現われる段階と資本の循環の他の諸段階との連関である。たとえば、さしあたりいまの場合には、貨幣が諸商品に転化されるのであって、それら諸商品の結合が生産資本の現物形態をなし、したがって、この形態は、潜在的に--可能性から見て--すでに資本主義的生産過程の結果を自己のうちに包蔵しているのである。〉 (同39頁)
 〈貨幣がどんな種類の商品に転化されるかは、貨幣にとってはまったくどうでもよいことである。貨幣はすべての商品の一般的等価形態であり、すべての商品は、それらが観念的に一定額の貨幣を表わし、貨幣への転化を期待し、そして貨幣との場所変換によってのみ、商品所有者にとっての使用価値に転化されうる形態を受け取るということを、すでにそれらの価格において示している。それ故、労働力がひとたびその所有者の商品として市場に現われ、その販売が労働に対する支払いの形態で--労賃の姿態で--行なわれるやいなや、労働力の売買は、他のどの商品の売買と比べても、奇異な感を与えるような点はまったく見られない。商品である労働力が買いうるものであるということが特徴的なのではなく、労働力が商品として現われることが特徴的なのである。〉 (同41-42頁)
 〈それ故、G-Aという行為では、貨幣所有者と労働力所有者とは、買い手および売り手として関係し合い、貨幣所有者および商品所有者として相対するにすぎず、したがってこの面から見れば互いに単なる貨幣関係にあるにすぎないとはいえ--それにもかかわらず、買い手は、最初から同時に生産諸手段の所有者として登場するのであって、この生産諸手段は、労働力の所有者が労働力を生産的に支出するための対象的諸条件をなしている。言い換えれば、この生産諸手段は、労働力の所有者に対して他人の所有物として相対する。他方では、労働力の売り手は、その買い手に対して他人の労働力として相対するのであり、この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として自己を発現するために買い手の支配下に移り、彼の資本に合体されなければならない。したがって、資本家と賃労働者との階級関係は、両者がG-A(労働者の側から見ればA-G)という行為で相対する瞬間に、すでに現存し、すでに前提されている。それは、売買であり、貨幣関係であるが、しかし、買い手は資本家として、売り手は賃労働者として、前提される売買であり、この関係は、労働力の具現のための諸条件--生活諸手段および生産諸手段--が他人の所有物として労働力の所有者から分離されるとともに、与えられている。〉 (同42-43頁)
 〈資本関係が生産過程中に出現してくるのは、ただ、この関係自体が流通行為のうちに、買い手と売り手とが相対し合う異なる経済的基本諸条件のうちに、彼らの階級関係のうちに、実存するからにすぎない。貨幣の本性とともにこの関係が与えられているのではない。むしろ、この関係の定在こそが、単なる貨幣機能を資本機能に転化させうるのである。〉 (同43頁)

 ながながと引用したが、要約ではなく、マルクス自身の言葉としてその内容を確認したかったからである。これがほぼ第1節でマルクスが貨幣資本と貨幣との区別について述べている主要な内容である。ここでマルクスが述べていることで重要なことは二つだけである。
 (1)G-Wは一般的な商品流通としては、たんなる貨幣の商品への転換(たんなる購買)である。
 (2)だからG-Wを貨幣資本の生産資本への転換にするのは、この一般的な商品流通そのものではなくて、それ以外の関係による。それは資本制的生産関係である。
  以上、貨幣と貨幣資本との区別としては、マルクスはこれ以外のことは述べていないのである。
 つまり「資本の流通過程」も、その流通過程だけを取り出せば、つまり資本制的な生産関係を捨象して流通過程だけを見るなら、それは単純な一般的な商品流通の過程としてわれわれの前に現われる。だからそこでは貨幣資本や商品資本も、たんなる貨幣であり、たんなる商品として現われ、そのようなものとして振る舞う(機能する)のである。そもそも単純な商品流通というのは、資本の流通過程を資本関係を捨象して、そうした抽象的なレベルでみたものなのである。単純な商品流通は、資本制的生産関係の表面に現われているもっとも抽象的な関係なのであり、歴史的にも論理的にも資本主義的生産様式に先行するものなのである。だからこそ、『資本論』の第1部の冒頭(第1篇)は単純流通にある「商品と貨幣」の分析から始まっているのである。だからこんなことが第6稿や第7稿の執筆段階までマルクスにとって不分明であったなどということはおよそ考えることは出来ない。そればかりかマルクスが『経済学批判』を彼の経済学批判体系の「第一分冊」として構想した時点で、すでにそんなことはマルクスにとって明らかだったといえるだろう。》】

【24】

 〈|289上|しかし,それらが現実に機能し,現実に過程のなかでそれらの役割を演じるかぎりでは,ここでは商品資本はただ商品として働き,貨幣資本はただ貨幣として働くだけである。変態の諸契機をそれ自身として見れば,どの契機でも資本家は,たとえその商品が彼にとっては資本を表わすにしても,商品資本として買い手に売るのではなく,あるいはまた貨幣を資本として売り手に譲渡するのでもない。どちらの場合にも,彼は商品を単純に商品として譲渡するのであり,また貨幣を単純に購買手段として支出する,すなわちそれで商品を買うのである。〉 (179-180頁)

 〈商品資本や貨幣資本も、それらが資本の流通過程おいて、現実に機能し、現実の過程でそれらの役割を演じる限りでは、商品資本はただ商品として働き、貨幣資本はただ貨幣として働くだけです。変態の諸契機をそれ自身として見るなら、どの契機でも資本家は、例えその商品が彼にとっては資本を表すにしても、商品を資本として買い手に売るわけではありません。また貨幣を資本として売り手に譲渡するわけでもないのです。どちらの場合も、彼は商品を単純に商品として譲渡するのであり、また貨幣を単純に購買手段として支出するのです。つまりそれでただ商品を買うだけです。〉

 【このパラグラフと次のパラグラフは、これまでの考察(【20】~【23】の考察)のいわばまとめである。商品資本や貨幣資本は、実際の流通過程では、資本として振る舞うわけではなく、単純な商品や貨幣として振る舞うこと、それらが資本であるのは、資本の生産関係全体のなかでそれらの行為を捉えることから得られる形態規定性なのだということである。】

【25】

 資本が流通過程資本として現われるのは,ただ,全過程の関連のなかだけでのことであり,出発過程が同時に復帰点として現われる契[416]機G_G'(または,出発点としての商品から出発される場合には,W_W')のなかだけでのことである。(生産過程では,資本が資本として現われるのは資本家への労働者の従属と剰余価値の生産とによるのである。)だが,ここでは,媒介は消え去っている。そこにあるものは,G'またはG+△Gであり(この△Gだけふえた価値額が貨幣の形態で存在しようと,商品の形態で存在しようと,生産手段,固定資本等々の形態で存在しようと),投下された最初の貨幣額・プラス・それを越える超過分すなわち実現された剰余価値,に等しい貨幣額である。だが,まさにこの復帰点では,すなわち資本が実現された資本として,増殖した価値として存在するこの復帰点では,この形態では,--この点が,想像的であろうと現実にであろうと,休止点として固定されるかぎりでは--資本はけっして流通にははいらないのであり,むしろ流通から引き揚げられたものとして,全過程の結果として,現われるのである。それがふたたび支出されるときには,それはけっして資本として第三者に譲渡されるのではなく,単純な商品として第三者に売られるか,または単純な貨幣として商品に転化される。資本は,その流通過程ではけっして資本としては譲渡されないで,ただ商品または貨幣として譲渡されるだけであって,これがここでは資本の唯一の,他者にとっての定在なのである。商品や貨幣がここで資本であるのは,一方が貨幣に転化し他方が商品に転化するかぎりでのことではなく,買い手または売り手にたいする商品や貨幣の諸連関のなかでのことではなく,ただ,資本家自身にたいする(主観的に見れば),または総過程の諸契機としての(客観的に見れば),商品や貨幣の観念的なideell諸連関のなかだけでのことである。現実の運動のなかで資本が資本として存在するのは,流通過程でのことではなく,ただ生産過程のなかでだけのことである。

 ①〔異文〕「実現された」--書き加えられている。
 ②〔異文〕「…… 機能する」という書きかけが消されている。
 ③〔異文〕「その流通過程」← 「流通過程」
 ④〔異文〕「たいする(主観的に見れば),」← 「たいする,」
 ⑤〔異文〕「諸連関」← 「連関」〉 (180-181頁)

 〈資本が流通過程で資本として現れるのは、ただ全過程の関連のなかだけのことです。それは出発点が同時に復帰点として運動する全過程です。例えば出発点が貨幣資本ならG-G'として、あるいは商品資本ならW-W'として現れる過程においてだけです。(もちろんいうまでもなく、生産過程では資本が資本として現れるのは資本家への労働者の従属と剰余価値の生産とによります。)ただ全過程の結果においては、それ以前の関連は消えています。そこにあるのは、G'またはG+ΔGです(このΔGだけ増えた価値額が貨幣の形態で存在しようと、商品の形態で存在しようと、あるいは生産手段、固定資本等々の形態で存在しようと)、いずれよせにそれは投下された最初の貨幣額・プラス・それを越える超過分すなわち実現された剰余価値、に等しい貨幣額です。まさにこの復帰点では、資本は実現された資本として、増殖された価値として存在しています。しかしこの形態では、それが想像的であろうと現実にであろうと、休止点として固定されるならば、資本は決して流通に入らないのです。むしろそれは流通から引き上げられたものとして、全過程の結果として、資本として現れるのです。それが再び支出されるときには、それは決して資本として第三者に譲渡されるのではなく、単純な商品として第三者に売られるか、あるいは単純な貨幣として商品に転化されるだけです。資本は、その流通過程ではけっして資本としては譲渡されないで、ただ商品または貨幣として譲渡されるだけなのです。これがここでは資本の唯一の他者にとっての定在なのです。商品や貨幣がここで資本であるのは、一方が貨幣に転化し、他方が商品に転化するかぎりのことではなく、あるいは買い手または売り手に対する商品や貨幣の諸連関のなかでのことではなく、主観的に見れば、資本家自身に対する、あるいは客観的にみれば、総過程の諸契機としての、商品や貨幣の観念的諸連関のなかにおいてだけなのです。現実の運動のなかで資本が資本として存在するのは、流通過程でのことではなく、ただ生産過程のなかだけのことです。〉

 【ここでは商品資本や貨幣資本が流通過程では、単なる商品や貨幣として現れること、だからそれらが資本としてあるのは、一つは資本家の主観的なものとしてそうであり、客観的には資本の総過程の関連のなかで言いうることだけだ、と指摘されている。だからそうした商品資本や貨幣資本が資本であるという規定性は、現実に存在する商品や貨幣からみれば観念的諸連関にすぎず、それは直接的表象として得られる商品や貨幣をただ観察することからさらにそれを全体との関連のなかで分析することによって得られるわけである。単純な流通過程にある商品も、それが如何なる過程を通して流通に商品として登場しているのかを辿れば、その直接的な商品としての定在の背後に隠された、資本関係のより具体的なものが見えてくるわけである。単なる貨幣も、その貨幣所持者が、如何なる関係のもとにその貨幣を流通に投じるのか、単なる生活手段を購入する意図をもって貨幣を投じるのか、それともそれで資本の生産過程を開始するために投じるのかというより具体的な関連をさぐるなら、その単なる貨幣は、より具体的な規定性としては貨幣資本とし存在しその機能を果たすことも分かるのである。】

 (以下、続く)

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