無料ブログはココログ

« 第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読(19-6) | トップページ | 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-2) »

2019年5月11日 (土)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-1)

『資本論』第3部第5篇第21章「利子生み資本」草稿の段落ごとの解読(21-1)

 

***************************************

  追悼! 大谷禎之介氏
 
 去る4月29日、大谷禎之介氏が亡くなられました。

 兼ねてから肺ガンを患い闘病中であることは、友人から知らされていました。にもかかわらず、2016年にはそれまでの20数年にわたる『資本論』第3部第5篇草稿研究の集大成ともいうべき『マルクスの利子生み資本論』全4巻を上梓され、さらに昨年11 月には『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』を出版、その次の著書として恐慌と再生産の問題を論じる本を準備中だと聞きました。だからまだまだと思っていたのですが、突然の訃報に驚き、悲しみと共に残念な思いが込み上げてきます。あるいは新しい著書の準備に体力を使い果たされてしまったのかも知れません。

 私自身は大谷氏とは直接の面識はなく、ただ師弟関係にある友人を通してその研究の動向や諸成果を紹介されて来ただけでした。しかしこの『マルクス研究会通信』というブログを見ていただいても分かるように、そのほとんど言ってもいいほど大谷氏が翻訳されたマルクスの草稿の解読などからなっており、大谷氏の研究に大きく依拠しています。

 大谷氏はコツコツとマルクスの草稿を解読・翻訳されて、その研究成果を発表されてきました。学者のなかにはそうした研究姿勢を、“ただの解釈学だ”と揶揄する人たちもいますが、しかし大谷氏の業績ほどマルクス経済学の研究を深め前進させる上で、大きく寄与するものはないのではないかと私は考えています。

  マルクスを深く研究もせずに、アレコレと自分勝手な解釈や思いつきを書き散らしたものを印刷物にして、その“業績”を誇る学者の余りにも多いなかで、あくまでもマルクスの書いたものをとにかく忠実に理解しようとすることに徹底的に拘っていくその姿勢は、師の久留間鮫造氏から受け継いだものだと思いますが、私たちが引き継ぐべき重要な姿勢であろうと考えています。

 これまで公表されてきたエンゲルス版ではなくて、マルクス自身の草稿にもとづいて『資本論』を研究する道を切り開いてくださった最大の功労者ではないかと考えています。しかもミミズの這ったようなマルクスの筆跡を直接読むことのできた数少ない日本の学者の一人でもありました。

 私は今後も大谷氏の業績に依拠して、マルクスの草稿の解読を続けたいと考えています。

 私たちのために、マルクス研究の新たな道を切り開いてくださった大谷禎之介氏に、深甚の感謝の念を捧げます。

   安らかにお眠りください。

 *************************************** 

  以下、今回から、いよいよ本論の第5篇の草稿の解読にとりかかる。テキストの段落ごとの解読では、これまで私がやってきたやり方を踏襲する。まずマルクスの草稿を、大谷氏による翻訳文を利用させていただき、パラグラフごとに太青字で紹介し、次にそのテキストの内容を平易に書き下ろしたものを〈太黒字〉で示し、その上でその内容について補足的に考察したものを【 】を付けて加えるというやり方でやってゆきたい。なお、MEGAによる注釈等は青字、大谷氏の書いたものも青字にして、色分けして一見して識別できるようにする。パラグラフ番号の【1】【2】・・は、引用者が便宜的に付したものである。

【1】

 [411]   |①286上|第5章
利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本。

1)〔利子生み資本〕

① 〔異文〕「286」← 「285」〉 (167頁)

 【これは表題だから、特に平易に書き下ろす必要はないであろう。
 なお念のために書いておくと、第5章の表題はマルクス自身によるものだが、次の〈1)〔利子生み資本〕〉という表題は、大谷氏によれば、草稿ではただ〈1)〉と番号だけが書かれており、よって〈〔利子生み資本〕〉というのはエンゲルス版の表題でもあるものを、大谷氏による表題として書かれたものだということである。
  ついでに少し気になったことを書いておこう。ここではマルクスは「利子」に「企業利得」を対置し、それらは「利潤」が分裂したものだと書いている。ところが「企業利得」に括弧をつけて「産業利潤または商業利潤」ともしている。つまり企業利得とは産業資本の利潤や商業資本の利潤のことだというのである。だからそもそも分裂する前の「利潤」というのはより一般的な、その限りではより本質的な、ものであり、それに対してその具体的な形態として産業資本の利潤や商業資本の利潤があり、それらは「利潤」が利子と企業利得とに分裂した時点で、企業利得を構成すると捉えることができるという関係を見ることができる。
  またこの表題について大谷氏が解説していることに、私はノートの中で少し異論を唱えたので、それをここに再論しておこう。
  まず大谷氏はこの表題を説明して、次のように述べている。

  〈この表題のうち前半の「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂」という部分は,第3部の他の多くの部分の表題と同様に,分配形態かつ収入形態である,剰余価値の転化形態,すなわち剰余価値が受けとる「具体的形態」に即してこの章の主題を示しており,後半の「利子生み資本」は,同じ主題を資本の「具体的形態」に即して示している。これをさらに簡潔に言い表わせば,第5章の主題は,剰余価値の分配形態に即して言えば「利子と企業利得」であり,資本に即して言えば「利子生み資本」である。〉 (大谷禎之介『マルクスの利子生み資本論』第1巻149頁、以下、頁数のみを記す場合は同じ、あるいは「大谷本①○○頁」とも略す。)

  これに対して私は次のようなコメントをノートに記したのである。

 こうした大谷氏の説明はそれほど問題にすべきことはないように思うが、しかし少し問題を提起すれば、このように考えるべきではないだろうか。大谷氏は多分に宇野の「分配論」を意識してこれを書いている嫌いがある。しかし果たしてそれは妥当だろうか。マルクスが第3部で収入の諸形態を問題にしていることは、その最終章で三位一体的形式を批判的に論じていることから、ブルジョア社会の三大階級、資本、賃労働、土地所有のそれぞれの収入形態とその経済的基礎を暴露することが一つの課題であることはあきらかであるが、しかし宇野のように図式的にだから第3部は「分配論」だなどとすることは果たして正しいかどうかである。『資本論』はあくまでも資本主義的生産様式の内在的な諸法則を一般的に解明することを目的にしたものであり、だから第3部でもやはりより具体的な諸形態を展開するものとはいえ、やはり資本主義の諸法則が展開されているものと考えるべきである。単に「分配論」を問題にしているのではないのである。最初の利潤論にしても、それは決して分配論の問題ではない。むしろ第1部、第2部で剰余価値として解明されたものが資本主義のより表層においては(直接的な形象としては)利潤として現れ、しかもその利潤という直接的な形象こそが資本にとってはより決定的な意味をもつことを暴露することにある。そしてそこから資本主義的生産はその諸法則のより具体的な新たな展開をするのであって、それが第1篇~第3篇の内容をなしている。それは決して単に「分配」が問題になっているのではないのである。
 そうした『資本論』の実際の展開に則して考えるならば、この第5章の表題も次のように捉えるべきではないだろうか。この第5章で解明されるのは「利子生み資本」であるが、それは資本主義的生産様式においては、「利潤」が「利子」と「企業利得」とに分裂することを基礎として解明されるべきだということである。つまり資本主義以前の利子生み資本、すなわち高利資本等は、この意味では決して利潤が利子と企業利得とに分裂することを前提にはしていないのである。つまり第5章の表題「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本」」の意味として考えるべきなのは、利潤が利子と企業利得とへ分裂した結果もたらされる利子生み資本(つまり資本主義的生産に従属した利子生み資本)を主題とするというマルクスの意図を示していると考えるべきなのである。この点、大谷氏の説明は若干の疑問とするものである。】

【2】

 一般的利潤率およびそれに対応する平均利潤を最初に考察したときには(この部の第2章では),平均利潤率はまだ,その完成した姿態ではわれわれの前に現われていなかった。というのは,均等化はさまざまの部面に投下された生産的資本の均等化として現われていただけだっただからである。この点は前章で補足されたのであって,そこでは均等化への商業資本の参加が(同時に商業利潤についても)論究された。いまでは一般的利潤率または平均利潤は,前よりも狭い限界のなかで現われている。これ以降の展開では,われわれが一般的利潤率または平均利潤と言う場合には,それはこのあとのほうの意味で言っているのだと,つまりただ平均率の完成した姿態だけについて言っているのだと解されなければならない。このような言葉の使い方では,平均率は産業資本にとっても商業資本にとっても同じなのだから,この平均利潤だけが問題となるかぎりでは,産業利潤と商業利潤とを区別することももはや必要ない。資本は,生産部面のなかで産業的に投下されようと,流通部面のなかで商業的に投下されようと,同じ年間平均利潤をもたらすのである。

①〔異文〕bietenという書きかけが消されている。〔bieten_darと書・こうとしたのであろう。〕
②〔異文〕「均等化は」--書き加えられている。この語のあとにsichと書いたのち,消している。
③〔異文〕「として〔als〕」は,解読に確信がもてない。
④〔異文〕「ただ… … だけ」一書き加えられている。
⑤ 異文〕「このような言葉の使い方では」--書き加えられている。〔はじめ「この場合には〔hier〕」と書いたのち,それをこのように変更した。〕
⑥〔異文〕「生産部面のなかで産業的に投下されようと,流通部面のなかで商業的に投下されようと」← 「生産部面のなかで産業資本として投下されようと,流通部面のなかで商業資本として投下されようと」← 「生産部面のなかで投下されようと,流通部面のなかで投下されようと」〉 (167-169頁) 

  〈私たちは第2章(エンゲルス版では第2篇)で、一般利潤率の形成とそれに対応する平均利潤を考察しました。しかし実は、そこで考察した平均利潤率は、いまだ完成した姿態を示しているものではなかったのです。というのは、以前の考察では、同じ額の貨幣資本でも、それがさまざまな生産部門に投じられるならば、それぞれの生産資本の有機的構成が異なるために、まったく違った剰余価値を得、よってまたまったく互いに違った特殊的利潤率が生じることが明らかになりました。しかし諸資本の競争は、それらの異なる利潤率を均等化するように作用し、そこから一般的利潤率が形成されることが明らかになったのでした。しかし、そこで想定されていた資本は、実は生産資本に限定されていたのです。しかし私たちは今では、第4章(エンゲルス版では第4篇)での考察を前提とすることができます。つまり先の章ではこの均等化への商業資本の参加と商業利潤について論及されたのです。だからいまでは一般利潤率または平均利潤はより具体的な形で、つまりより限定された形で現れています。だからこれ以降の展開では一般利潤率または平均利潤という場合には、それはこうした前よりも狭い限界のなかで現れているものの意味で言っているのだということです。つまり平均利潤率の完成した姿態だけについて言っているのだと解されなければなりません。いまでは一般利潤率は産業資本にも商業資本にも同じようにその前提として現れているのですから。平均利潤だけが問題になる限りでは、産業利潤と商業利潤とを区別する必要はもはやないのです。資本は、生産部面の中で産業的に投下されようと、流通部面で商業的に投下されようと、同じ年間平均利潤をもたらすものと考えることができるのです。〉

  【このパラグラフは先の表題の前半部分、すわなち「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂」の解説と考えることができる。つまりこの第5章以降でわれわれが一般的利潤率や平均利潤を問題にする時には、それが問題となった第2章(篇)の時のものとはやや異なるということを言いたいのである。つまり第2章で論じられた一般的利潤率やそれに対応した平均利潤、あるいは一般利潤率をいいかえた平均利潤率は、その意味ではまだ完成したものではなかったのだということである。なぜなら、われわれがそこで問題にしたのは生産資本がその有機的構成の異なるに応じて、それが生み出す利潤率に相違が生じるが、しかし資本はその投下資本の大きさ応じた利潤を求めること、だから競争はさまざまな分野の特殊的な利潤率を平均化して、一般利潤率の形成をもらたすと論じられていたからである。その結果、諸商品の市場価格は、その価値ではなく、生産価格を中心に変動することになる。つまり以前の第2章の考察では、商業資本の存在は捨象されていたのである。だからそこで考察された一般利潤率やそれに対応した平均利潤は、まだその完成した姿態で捉えられたわけではなかったというのである。しかしすでにこの第5章(篇)は第4章(篇)における商業資本の考察を前提としており、だからこれからわれわれが論じるなかで問題にする一般利潤率や平均利潤は完成した姿態について言っているのだということである。だからこそ第5章(篇)の表題には〈産業利潤または商業利潤〉という文言が入っているのだ、ということである。】

【3】

 [412]貨幣(すなわちここでは貨幣はある価値額の自立的表現と見なされているのであって,この価値額が貨幣のかたちで存在するか商品のかたちで存在するかにはかかわりない)は資本主義的生産様式の基礎の上では資本に転化させられることができるのであり,そしてこの転化によって,貨幣は或る与えられた価値から,自分自身を増殖する,増加させる価値になり,利潤を生産する能力,すなわち資本家に,労働者から一定分量の不払労働,剰余価値,そして剰余生産物を引き出して取得する能力を与えるので,貨幣は,それが貨幣としてもっている使用価値のほかに,一つの追加的使用価値,すなわち資本として機能するという使用価値を受け取る。貨幣の使用価値とは,ここではまさに,それが資本に転化して生産する利潤にある。このような,可能的資本としての,利潤を生産するための手段としての属性において,貨幣は商品に,といっても一つの独特な種類の商品〔Waare sui generis〕になる。または,同じことに帰着するが,資本としての資本商品になるのである。a)/

①〔異文〕「自身」書き加えられている。
②〔異文〕「,増加させる」書き加えられている。
③〔異文〕「利潤」← 「ある利潤」
④〔異文〕「貨幣の使用価値とは,ここではまさに,それが資本に転化して生産する利潤にある。」一書き加えられている。この補足は,草稿では〔MEGAの〕412ページ13行のあと〔このパラグラフのあと〕に書かれており,T字様の記号によってこの箇所を指示している。
⑤〔異文〕「資本に転化して生産する」← 「資本に転化して生産するであろう」← 「資本として支出され[る]」〉 (169-170頁)

 〈資本主義的生産様式の基礎のもとでは、貨幣は資本に転化可能であることは、私たちはすでに第1部「資本の生産過程」や第2部「資本の流通過程」で明らかにしてきたところです。つまりこの転化によって、貨幣はある与えられた価値から、自分自身を増殖する価値に、あるいは増加させる価値になり、利潤を生産する能力、すなわち資本家たちに、労働者から一定分量の不払労働、つまり剰余価値、そして剰余生産物を引き出して取得する能力を与えるのです。ただしここで私たちが貨幣としているのは、ある価値額の自立的表現としてのそれであり、それが貨幣の形で存在するかあるいは商品のかたちで存在するかにはかかわりはありません。こうして貨幣は、それが貨幣としてもっている使用価値、つまりその所持者に彼にとって有用な諸商品を取得させるという使用価値以外に、別の追加的な使用価値を、すなわち資本として機能するという使用価値を受けとることになります。つまりここで分析しているところでは,貨幣の使用価値とは、それが資本に転化して生産する利潤にあるのです。このような可能的な資本としての属性、利潤を生産する手段としての属性において、貨幣は商品になるのです。しかしこの商品は一つの独特な特性をもった商品なのです(それは後に明らかになるでしょう)。また同じことに帰着しますが、こうして資本としての資本が商品になるのです。〉


【ここから利子生み資本の概念の考察が始まるのであるが、マルクスはそれをまず次のパラグラフの原注a)で〈経済人たち〔Oekonomen〕が事柄をこのように考えている二三の箇所をここに引用すべきである〉と書いているように、まさに現実の貨幣市場におけるもっとも直接的な表象から開始しているのである。つまり貨幣市場では貨幣が商品として売買されている現実がある。あるいは資本という商品を彼らは扱っているという自覚がある。この現実からマルクスは出発しているのである。そしてそこからなぜ、貨幣が、あるいは資本が商品として取り引きされるのかを明らかにしようとしている。そしてまず貨幣が資本主義的生産様式のものでは資本に転化させられうることを指摘する。これは第1部や第2部の考察で明らかにされたものをただ振り返って確認しているだけである。ただしマルクスは、貨幣を説明して〈ここでは貨幣はある価値額の自立的表現と見なされているのであって,この価値額が貨幣のかたちで存在するか商品のかたちで存在するかにはかかわりない〉と述べている。つまり一定の価値額が資本主義的生産様式の基礎のものとに資本として投下されれば、自分自身を増殖する価値、利潤を生産する能力を有すること、資本家に労働者から不払労働を取得する能力を与えることを指摘する。それを貨幣の使用価値に追加された新たな使用価値だと述べている。つまりこうした資本として機能するという属性にもとづく使用価値こそが貨幣を商品として売買せしめているものだと指摘しているわけである。ただ貨幣は商品になるといっても、独特な種類の商品だとも述べている。その独特な種類としての特性、それが一般の商品と如何なる点で異なるかについては、後に明らかにされていくことになる。さらにマルクスは〈または,同じことに帰着するが,資本としての資本が商品になるのである〉とも述べている。つまり貨幣が商品になるということは、資本が商品になるということに帰着すると述べているわけである。マルクスがここで〈資本としての資本〉と述べているのは「利子生み資本」のことである。
 だからマルクスが資本が商品として売買されるというのに対して、宇野弘蔵のように貨幣が商品になるのであって、資本が商品になるのではないと批判するものは問題を厳密に正しく理解しているとは言い難いであろう。マルクス自身は貨幣が商品になることを指摘した上で、同じことに帰着するものとして、資本が商品になると述べているのである。
 ついでに言っておけば、マルクスは宇野が主張するような「純粋の資本主義」を想定して問題を論じているのではないということである。あくまでも現実の貨幣市場のなかで経済実務家たちの表象に捉えられるものから出発して、その概念化を試みようとしているということである。それが宇野と根本的に違うところである。マルクスの方法はその唯物論的な立場を示すものであるが、宇野の純粋資本主義なるものは、ただ彼が観念論者でしかないことを示すものに過ぎない。】

【4】

 |286下|〔原注〕a)経済人たち〔Oekonomen〕が事柄をこのように考えている二三の箇所をここに引用すべきである。第1194号あなたがた(イングランド銀行)は,資本という商品を取り扱う非常に大きな商人〔very large dealers in the commodity of capital〕ですね?」(『銀行法委員会報告』,1857年)〔原注a)終わり〕|

①〔注解〕『銀行法特別委員会報告… … 。1857年』,第1部,104ページ,では次のようになっている。「あなたがたが市場で主役を演じている〔you lead the market〕のは,ただ,資本という商品を取り扱う非常に大きな商人であるという意味においてだけですね?」〔証言1194号。証人ウェゲリンにこの質問をしたのはウィルスンである。〕〉 (170頁)

 〈経済人たちが事柄をこのように、つまり貨幣を商品として売買したり、資本という商品をとり扱っていると考えていることを示す引用をすべきでしょう。(以下、引用は略)なおここで「あなたがた」と言われているのはイングランド銀行のことです。ウェゲリンはイングランド銀行総裁。〉

 【これは先のパラグラフ(われわれのパラグラフ番号では【3】)の最後につけられた原注である。これはパラグラフの最後に付けられているが、しかしその直前の文言への原注というよりパラグラフ全体への原注であろう。つまりこれは先のパラグラフの考察はこうした現実の貨幣市場における経済人たちの表象から出発して問題を考えているのだというマルクスの方法上の特徴を明らかにしていると考えるべきなのである。】

 (以下、続く)

 

« 第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読(19-6) | トップページ | 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-2) »

『資本論』第3部第5篇の研究」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読(19-6) | トップページ | 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-2) »