無料ブログはココログ

« 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-2) | トップページ | 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-4) »

2019年5月26日 (日)

第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-3)

『資本論』第3部第5篇第21章草稿の段落ごとの解読(続き)

 

  前回の続きで、第10パラグラフからである。

 

【10】

 〈まず,利子生み資本の特有な流通を考察しよう。次いで第2には,それが商品として売られる独特な仕方,すなわち売られる代わりに貸し付けられる,という独特な仕方に言及しなければならない。〉 (174頁)

 〈まず、利子生み資本の特有な流通について考察しましょう。そしてその次には、利子生み資本が商品として売られる独特な仕方、売られる代わりに貸し付けられる、という独特な仕方について論じることにしましょう。〉

 【ここから利子生み資本に特有な流通が考察されている。それが貨幣が商品として売買されるという形式をとりながら、実際には貸し借りされているというものである。貨幣が商品として売買されているという現実は、貨幣市場の直接的な表象であり、銀行が資本という商品を取り扱っているということも、経済人が常に自覚していることである。つまりそれらは利子生み資本の流通の直接的表象ということができる。しかし商品の流通と言っても、それは独特な種類の商品であり、だから独特な流通の仕方があるのだというのである。それをこれから考察するというわけである。】

【11】

 〈①第1。出発点は,AがBに前貸する貨幣である。{この前貸は,担保つきでも,無担保でも行なわれうる。とはいえ,担保つきという形態は,商品を担保として,あるいは手形等々のような債務証書を担保として行なわれる前貸の場合を別とすれば,古風なものである。これらの特殊な形態はここではわれわれに関係がない。われわれが取り扱うのは普通の形態の利子生み資本である。}Bの手でこの貨幣は現実に資本に転化させられ,運動G-W-G’をすませてから,G'として,G+△Gとして,Aに直接に帰ってくる。この△Gは利子を表わす。(それがかなり長いあいだBの手にとどまっていて,Bは一定の期日ごとに利子を支払うだけであり,資本はかなり長い期間を経たのちにはじめて,最後に支払われるべき利子とともに還流してくる〔returniren〕,ということもありうる。ここでは,簡単にするために,このような場合もしばらく問題にしないことにする。)

 ①〔異文〕「第1。」--書き加えられている。
 ②〔異文〕「この貨幣」← 「貨幣」
 ③〔異文〕「直接に」書き加えられている。
 ④〔異文〕「すべてのこと〔AUes〕」という書きかけが消されている。〉 (174-175頁)

 〈第1。出発点は、AがBに前貸しする貨幣です。この場合、担保付きでも、無担保でも行われます。しかし、担保付きというのは、商品を担保にする場合や手形等の債務証書を担保にする場合を除くと、古風なものです。だからここではそうした特殊なケースは考慮に入れないことにします。私たちが取り扱うのは普通の利子生み資本だからです。Bの手で貨幣は現実に資本に転化させられ、運動G-W-G'をすませます(つまりそれはBの手で生産手段と労働力の購入のために支出され、生産過程でW'、つまり剰余価値を含んだ商品資本を生産します。そしてそれが販売されてG'としてBの手に還流してきます。ただしここではΔGは利潤)。そしてG'は、さらにG+ΔGとして、Aに帰ってきます。Aに帰ってくる場合のΔGは利子を表します。もちろん、この場合も、Bの手に長い間とどまっていて、Bは一定期間ごとに利子を支払うだけで、元の貸付られた資本自体はながい期間を経たのちにはじめて、最後にAに利子とともに支払われるということもありえます。しかしこうしたことは、問題を簡単にするために考慮の外に置くことにします。〉

 【ここでは最初に〈第1〉とあり、MEGAの〔異文〕によれば書き加えられたもののようである。しかしそれに対応する「第2」というのがどこか見当たらない。マルクスの場合、こうした例が多いのだが、その場合は結局、内容で考えるしかない。そのヒントになるのは、われわれのパラグラフ番号では【42】の次のような文言である。

 〈第1の準備行為では貸し手が自分の資本を借り手〔Leiher〕に手放す。第2の補足的終結行為では借り手〔Leiher〕が資本を貸し手に返す。〉 (192頁)

 つまりここで〈第1〉とあるのは、AがBに貨幣を前貸しすることである。そして第2というのは、今度は逆にBがAに貨幣を返済することを意味するわけである。このように貸付と返済を第1と第2の行為として論じるのは、少なくともこの第21章該当部分全体で一貫しているうように思える。
 マルクスは出発点はAがBに前貸しする貨幣Gだとする。そしてこのGはBの手で現実に資本に転化させられ、G-W-G'を済ませてから、G'としてAに直接帰ってくるとするのであるが、この場合のG'をG+ΔGとしてΔGを「利子」としているのである。だからここには実際の貨幣資本の運動しては大幅な省略がある。Bの手でそれが資本として現実に機能させられる過程、つまりG-W…P…W’-G’が省略されているわけである。しかもこの場合のG’はG+ΔGと書くなら、ΔGは利子ではなく利潤である。Bは利潤(ΔG)の一部を利子(Δg)として最初のGとともにAに返済するわけである。マルクスはそうした過程を一切省略して、Bの手でG-W-G'を済ますと書いている。
 またここでは実際には行われている担保付き貸付についてもわれわれの考察では考慮しないことや、返済も一つの循環を終えれば資本も利子も一括して返済されると仮定して論じるとしている。要するに利子生み資本の運動をそれ自体として純粋に考察するためには、こうした簡略化は必要なのであ。】

【12】

 〈[414]つまりこの運動はG_G_W_G'_G'である。〉 (175頁)

 〈つまりこの運動はG-G-W-G'-G'です。G-GはAのBへの貨幣の前貸しであり、G'-G'はBによるAへのもとの貨幣の利子をともなった返済です。〉

 【これが利子生み資本の循環を示す図である。ここで大谷氏の翻訳ではGの上に「vv」というものか書かれている。大谷氏はそれに注をつけているが、それはMEGAでは省かれているというだけでマルクスはどういう意図でそういう記号をつけたのかについては何も述べていない。この記号はGだけではなく、別のところではWにもついており、マルクスの何らかの意図を示すものと考えられるが、とりあえずは分からないのでその意味の解明は保留しておこう。】

【13】

  〈ここで二重に現われているのは,1)資本としての貨幣の支出であり,2)実現された資本としての,G'またはG+△Gとしての,それの還流〔Return〕である。〉 (175頁)

 〈ここで二重に現れているのは、一つは資本としての貨幣の支出であり、もう一つは実現された資本としての、G'またはG+ΔGとしての、その還流です。〉

 【ここで〈二重に現われている〉とマルクスは述べている。何が二重なのか。恐らく「G_G」と「G'_G'」というのは、前者はまったく同じGが二回、後者もまったく同じG'が二回現れているという意味であろう。そこには資本としての現実的な転換はなにもないわけである。ただ持ち手が変わっているだけだということであろうか。】

【14】

 商業資本〔mercantiles Capita1〕の運動G_W_G'では同じ商品が二度,または(最初の売り手と最後の買い手とのあいだに何人もの商人〔がはいる〕場合には)何度も,持ち手を取り替える。しかし,同じ商品のこのような場所変換は,そのそれぞれがその商品の一つの変態,その購買または販売を示しているのであって,その商品の最終的な販売までにこの過程が何度繰り返されようとも,そうなのである。

 ①〔異文〕「同じ商品が」← 「商品が」〉 (175-176頁)

 〈商業資本の運動G-W-G'では、同じ商品が二度持ち手を変えます。まずその商品の生産者の手から、商業資本の手へ、そして商業資本の手から、その商品の購買者の手へと。もちろん最初の売り手と最後の買い手とのあいだに何人もの商人が入る場合もあり、その場合は何度も持ち手を取り替えます。しかしいずれもこの同じ商品のこのような場所変換は、それぞれがその商品の変態を表しています。つまりその購買または販売を示しているのです。その商品が最終的に販売されるまで、この過程が何度繰り返されようと、そうなのです。〉

 【このパラグラフは、【12】パラグラフで示した利子生み資本の運動の特徴を明らかにするために、まずはその前提として、あるいはその特徴をとらえるための比較として、同じように同じ価値額の持ち手の変換が生じる事象として、今回のパラグラフでは商業資本の運動、そして次のパラグラフ(【15】)では商品の流通のそれぞれの特徴をまず確認しておこうということであろう。
 商業資本の運動では〈同じ商品が二度……持ち手を取り替える〉と指摘されている。ここで〈二度……持ち手を取り替える〉というのは、利子生み資本の先の運動の特徴として〈二重に現われている〉と述べていたことに対応している。つまり商業資本の運動でも同じ商品が二度持ち手を取り替えるが、しかしそれぞれには商品の変態が対応しているのだ、つまりその購買または販売を示しているのだ、というのである。それに対して利子生み資本のG-GやG'-G'のように、まったく同じGやG’が持ち手を取り替えているのに、そこには何の変換や変態をも示すものはないというのがマルクスの言いたいことであろう。】

【15】

 他方,W_G_Wのなかには同じ貨幣の2度の場所変換(持ち手変換)があるが,しかし,それは商品の完全な変態を示しているのであって,商品はまず||288上|貨幣に転化され,次に貨幣からふたたび商品に転化される。

 ①〔異文〕「(持ち手変換)」--「場所変換」の上部に挿入記号なしに書かれている。〉 (176頁)

 〈他方、商品流通W-G-Wのなかには同じ貨幣が2度の場所変換(持ち手変換)がありますが、しかし、それは商品の完全な変態を示しています。商品はまず貨幣に転化され、次に再び商品に転化されるのです。〉

 【この場合もすでに述べたように、利子生み資本の運動の特徴を明らかにするために、その比較のために同じ貨幣が二度の持ち手変換がある。つまり商品の生産者はそれを販売して貨幣に変換し、次にその貨幣で自分に必要な商品を購買する。ここでは貨幣は2度の場所変換を媒介しているが、それは商品の完全な変態を伴うものだ。それに比して利子生み資本の場合はどうか、というのが次のパラグラフからの問題である。
 いずれにせよ、マルクスが商業資本や商品流通の運動で明らかにしているのは、それらは資本の再生産過程の一契機として存在しているということである。それらは再生産過程内の資本や商品の転換であり、変態なのである。つまり資本主義的生産様式において社会的物質代謝を維持する上での不可欠な契機としてそれらは存在しているということである。それに対して、利子生み資本の最初と最後の場所変換は、まったくそうしたものを示していないというのがマルクスが言いたいことであろう。利子生み資本の運動が再生産過程外の信用にもとづくものだという理解の根底を示すものともいえる。】

【16】

 〈これに反して,利子生み資本の場合にはGによる第1の場所変換は,けっして資本の変態の契機あるいは資本の再生産過程の契機ではない。Gは第2の支出ではじめてこのような契機になる。すなわち,このGで商品取り扱い等々を営むかまたはそれを生産的資本に転化させる機能資本家の手のなかではじめてそうなるのである。ここでGの第1の場所変換が表わしているものは,Gの移転,AからBへのGの移転または引き渡し以外のなにものでもない(この移転は,ある法律上の形式と留保とのもとで行なわれるのである)。〉 (176頁)

 〈商業資本の運動や商品流通における変態とは違って、利子生み資本の場合にはGによる第1の場所変換は、決して資本の変態の契機やあるいは資本の再生産過程の契機とはいえません。Gは資本家Bの手で、つまり第2の支出ではじめてこのような契機になるのです。つまりこのGで商品取扱等々を営むか(商業資本)またはそれを生産的資本に転化させる機能資本家の手ではじめてそうなるのです。ここでGの第1の場所変換が表しているものは、Gの移転、AからBへのGの移転または引き渡し以外のなにものでもないのです。この移転は、ある法律上の形式と留保のもとで行われます。〉

 【ここでは利子生み資本の運動の第1の契機、すなわちG-Gの特徴が明らかにされている。そこでマルクスが強調しているのは、それが資本の変態の契機ではないこと、ようするに資本の再生産過程の契機ではないということである。この再生産過程内の問題かそうではなくて再生産過程外の問題かということは決してどうでもよいことではない。マルクスの眼目もここにこそあるということをわれわれも確認しておこう。
 ではそれは何を意味するか、マルクスはそれはただ「移転」あるいは「引き渡し」を意味するだけだと述べている。だからこそそれは何らかの法律上の形式と留保のもとで行われなければならないのだ、ということでもある。
 {ここで〈法律上の形式と留保〉という文言が出てくるが、「留保」というのがいま一つよく分からない。これはインターネットで調べるとさまざまな説明があるが、主要には法律上の用語であり、次の説明がこの場合に一番該当するのではないかと思う。

  〈特に、権利・義務を移す場合に、その全部または一部を残留・保持すること。〉(精選版 日本国語大辞典の解説)

  つまりAからBにGを移転あるいは引き渡す場合、一定の法律上の取り決めにもとづいて行われるが、しかしAにも何らかの権利を「残留・保持する」ことを前提に行われるということではないかと思う。これはこのあとのパラグラフで出てくるが、AはGをBに引き渡しても、依然としてGの所有者でありつづける。つまりGの所有権そのものは「残留・保持する」ことが前提されている、ということではないかと思う。}】

【17】

 〈このような,資本としての貨幣の二重の支出--その第1のものはAからBへのたんなる移転〔transfer〕である--には,それの二重の還流〔Return〕が対応する。それはG'またはG+△Gとして,運動から機能資本家に還流する〔rcturniren〕。次にBはふたたびそれをAにtransferする,移転する。この場合,△Gは利潤に等しいのではなく,ただ利潤の一部分,利子でしかない。Bに貨幣が還流する〔returniren〕のは,ただ,Bが支出したものとして,機能資本として,とはいえAの所有物として,還流するだけである。だから,その還流〔Return〕が完全になるためには,BはそれをふたたびAに移転し〔transfer〕なければならない。しかし,Bは,資本額のほかに,自分がこの資本額であげた利潤の一部分利子という名目でAに引き渡さなければならない。というのは,AがBに貨幣を渡したのは,ただ,資本として,すなわち運動のなかで自分を維持するだけではなく自分の所有者のために或る剰余価値を創造する価値として,渡しただけだからである。|〉 (176-177頁)

 〈このような資本としての貨幣の二重の支出、すなわちまずAからBへの支出、そしてBの手による現実的な資本への転換としての支出、ここでの第1のもの、つまりAからBへの支出は単なる資本の「移転」です。この二重の支出には、それの二重の還流が対応します。まずG'またはG+ΔGとして、機能資本家Bに還流します。次にBはふたたびそれをAに移転します。しかしこの場合のΔGは利潤に等しいのではなく、ただ利潤の一部、である利子でしかありません。Bに貨幣が還流するのは、ただBが支出したものとして、機能資本として還流するのですが、しかしそれはAの所有物としてです。だからその還流を完成させるためには、BはそれをふたたびAに移転しなければならないのです。ただBは、元の資本額だけではなく、自分がこの資本額であげた利潤の一部分を利子という名目でAに引き渡さなければなりません。というのはAがBに貨幣を渡したのは、ただ、資本として、すなわち運動の中で自分を維持するだけではなく自分の所有者のためにある剰余価値を創造する価値として、渡しただけだからです。〉

 【ここで〈資本としての貨幣の二重の支出〉というのは、【13】で〈ここで二重に現われているのは,1)資本としての貨幣の支出であり,2)実現された資本としての,G'またはG+△Gとしての,それの還流〔Return〕である〉と述べていたことをもう一度詳しく論じているように思える。先には〈資本としての貨幣の支出〉が〈二重に現われている〉としていたのが、今回は〈資本としての貨幣の二重の支出〉と言い換えられている。ここで二重というのはAからBへの貨幣の移転も、Aにとってはその貨幣は資本であり、貨幣の資本としての支出だからである。その次のBによるAから借り入れた貨幣の支出は、文字どおり現実資本への転換であり、資本としての貨幣の支出であることは間違いない。
 ここではこうした〈二重の支出〉には〈二重の還流〔Return〕が対応する〉と指摘されている。すなわちG'-G'であるが、最初のG'はBのもとへの還流である。しかしこのBのもとへ還流した貨幣は、依然としてAの所有物として存在しており(これが先の「留保」の意味であろう)、よってもう一つの還流、すなわちAのもとへの還流が行われなければならないというわけである。そしBの元への還流ではΔGは利潤であったが、Aのもとへの還流ではΔGは利潤の一部、つまり利子としての還流でなければならないとしている。そしてその理由としてもともとAの最初の貨幣の支出は、資本としての支出だったからである。つまりその運動のなかで自分を維持するだけではなく、その所有者に剰余価値を創造する価値として機能するものとしてAは渡したのだというわけである。】

【18】

 (この貨幣がBの手にとどまっているのは,ただそれが機能資本であるあいだだけである。そして,その還流〔Return〕(約束の期限がきてからの)とともに,それは資本として機能しなくなる,機能資本であることをやめる。しかし,機能していない資本として,それはふたたびBの手からAの手に,すなわち自分の資本をBに手放しているあいだもずっとそれの法律上の所有者でなくならないAの手に,移転〔transfer〕されなければならないのである。)

 ①〔異文〕「,すなわち自分の資本をBに手放しているあいだもずっとそれの法律上の所有者でなくならないAの手に,」--書き加えられている。〉 (177頁)

 〈この貨幣がBの手に留まっているのは、Bが機能資本として存在している間だけです。そして、それが還流して、返済の期限が来るなら、それは資本として機能しなくなります。つまり機能資本であることをやめます。しかし、機能していない資本としては、それはBの手からAの手に移転させられなければなりません。なぜなら、Aは自分の資本をBに手放しているあいだもずっと法律上の所有者だからです。〉

 【この部分は全体が丸カッコにくくられている。最後の還流(Bの手からAへの移転)は、第一にBに還流した時点で、それはすでに機能資本ではないからであり(もし再び機能資本として機能させるためには、いずれにせよBはAから継続して借り入れる何らかの取り引きが必要である)、つまりBにとっては機能しない資本、Bには不要なものだからであり、第二に、もともとその貨幣はAからBに手放されたものであるが、しかしAはBに貨幣を手放した後も、それがBの手で機能させられている間も、依然としてその法律上の所有権を保持したままだからである。だからBの手で還流した貨幣は、さらにAに最終的に還流する必要があるわけである。
 だからこの部分は第二の還流の補足的な分析と言うことができるだろう。】

  (以下、続く)

 

 

 

« 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-2) | トップページ | 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-4) »

『資本論』第3部第5篇の研究」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-2) | トップページ | 第3部第5篇第21章「利子生み資本」の草稿の段落ごとの解読(21-4) »