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2019年4月14日 (日)

第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読(19-5)

『資本論』第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読(続き)

 

 以下、第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読の続きである。

【20】

 〈地金取引そのもの--一国から他国への金銀の移転--は商品取引の結果でしかないのであり,為替相場--国際的支払いの状態やさまざまな市場での利子率の状態--によって規定されている。地金取引業者それ自体は,ただもろもろの結果を媒介するだけである。〉 (327頁)

 〈一つの国から他の国への金や銀の移転にともなう地金取引そのものは、商品取引の結果でしかありません。だから,地金取引は、国際的な支払の状態やさまざまな市場での利子率の状態などの為替相場によって規定されているのです。地金取引業者それ自体は,ただもろもろの結果を媒介するだけなのです。〉

 【ここでは国際的な商品取引の結果、金銀の国際的な移動が生じ、地金取引が生じることが指摘されている。だから地金取引は、為替相場に規定されているということと、地金取引はもろもろの結果を媒介するだけという位置づけが与えられている。
  【13】パラグラフでも地金取扱業について言及されていたが、そのときには〈地金取取扱業すなわち世界貨幣としての貨幣の諸機能を媒介する商業〉と説明されていた。
  いずれにせよ、ここでは地金取引が為替相場に規定されているということと、もろもろの商品取引の結果を媒介するだけだとの指摘があることが確認されるべきであろう。】


【21】

 〈[392]貨幣の考察にさいして--貨幣の諸運動やもろもろの形態規定性が単純な商品流通から発展してくる次第を考察したところで--( 第1部第1章)--すでに見たように,流通手段(購買手段)および支払手段として流通する貨幣の量の運動は,商品変態, 交換されるべき商品の価格の規模と速度とによって規定されており,これはまた,いまではわれわれが知っているように,それ自身ただ総再生産過程の契機でしかないのである。貨幣材料--金銀--のその産源地からの調達について言えば,それは結局は直接的商品交換,すなわち商品としての金銀と他の商品との交換に帰着し,したがって,それ自身,鉄やその他の金属の調達とまったく同様に,ただ商品交換の一契機にすぎない。しかし,世界市場での貴金属の運動について言えば{ここでは,一国の他国への資本の貸付を表現するかぎりでの貴金属の運動--そのような貸付は,商品資本の形態ででも行なわれる--は度外視する},それが国際的商品交換によって規定されていることは,国内の購買手段および支払手段としての貨幣の運動が国内の商品交換によって規定されているのとまったく同様である。{ある国民的流通部面から他の国民的流通部面への貴金属の移出移入は,それが国内鋳貨の減価や複本位制の確定によって引き起こされるかぎりでは,貨幣流通それ自体とは無縁であって,国家によって恣意的に引き起こされた偏椅のたんなる訂正である。}最後に,国内商業なり外国貿易なりのための購買手段ないし支払手段の準備ファンドとしての蓄蔵貨幣の形成について言えば,それがただ流通過程の必然的な沈澱物でしかないのは,さしあたり遊休している資本のたんなる形態であるかぎりでの蓄蔵貨幣形成がそうであるのとまったく同様である。

 ①〔異文〕「単純な」--書き加えられている。
 ②〔注解〕「第1部第1章」--もしかすると,マルクスはすでにこの時点で,「商品と貨幣」を『資本論』第1部に第1章として収録することを考えたのかもしれない。1862年のプラン草案(MEGAII/35,S.1861)では,商品および貨幣は「序説」で論じることを予定していたし,「1863-1865年草稿」での『資本論』第1部の草案は「商品と貨幣」についての章を含んでいない。ここのテキストで言及されている事柄をマルクスはすでに彼の著作『経済学批判第1分冊』で分析していた(MEGAII/2,S.170-174)。--〔MEGAII/2の〕189ページ3-4行への注解を見よ。〔「第1部第7章を見よ」という箇所へのこの注解は次のようになっている。--「カール・マルクス『資本論(経済学草稿1863-1865年)』,第1部第6章「直接的生産過程の諸結果」。所収:MEGAII/4.1,S.24-130.マルクスが指示しているこの諸章句は,「諸結果」の36-37ページと48ページにある。--「1863-1865年草稿」の第1部はこの時点ではすでに書き終えられていたのだから,たぶん,章名の書き誤りである。というのは,1862年12月のプラン草案に従えば,それはまだ,資本の生産過程についての篇の第7項目をなすべきものだったからである。けれども,また,完全には排除されえないのは,マルクスのなかで,「商品および貨幣」を第1章として先頭に置こうという考えがしだいに熟して,それ以降の諸章の数え方が一つずつ増えることになった,ということである。(「経済学草稿1863-1865年」,を見よ。所収:MEGAII/4,1,S.445.)同様のずれは,380ページ35-36行でも繰り返されている。ところが,683ページ15行と731ページ4行で,第5章と第2章とを指示しているが,これらは,「貨幣の資本への転化」の章を第1章とした数えかたに合致している。」〕
 ③〔異文〕「交換されるべき商品の価格の規模と速度」← 「それの規模と速度」
 ④〔異文〕「--そのような貸付は,商品資本の形態ででも行なわれる--」--書き加えられている。
 ⑤〔異文〕「あるいは」という書きかけが消されている。〉 (327-330頁)

 このパラグラフは全体としては比較的長いが、しかしそれは本文にさまざまな挿入文が括弧で括られて入っているからである。だからわれわれはまず全体としての文意を掴むために、最初はすべての括弧内の挿入文を外して読み下してみよう。そしてそのうえで、挿入文を一つ一つ吟味することにしよう。

  〈私たちが『資本論』の第1篇「商品と貨幣」のなかで考察したように、単純な商品流通から直接発展してくる貨幣の運動、すなわち流通手段(購買手段)や支払手段として流通する貨幣の量の運動は,ただ商品変態によって、交換されるべき諸商品の価格の規模と流通速度とによって規定されています。そしてこれはまたこれで、すでに第2部「資本の流通過程」を学んだ私たちがすでに知っているように,それ自身ただ総再生産過程の契機でしかありません。
  貨幣材料である金銀のその産源地からの調達についていうと,それは結局は直接的な商品交換(物々交換)に帰着します。つまり商品としての金銀と他の諸商品との直接的な交換に帰着するのです。だからその限りでは,鉄やその他の金属と他の諸商品との直接的な交換(物々交換)とまったく同様に,ただ諸商品の交換過程の一契機にすぎないのです。
  しかし,世界市場における貴金属の運動について言えば、そうしたものとは違います。その運動は、国際的な商品交換によって規定されているのです。それは国内の購買手段および支払手段としての貨幣の運動が、国内の商品交換によって規定されているのとまったく同じなのです。
  最後に,国内の商業や外国貿易のための購買手段、あるいは支払手段の準備ファンドとしての蓄蔵貨幣の形成についていうと,それがただ流通過程の必然的な沈澱物でしかないということです。それは,さしあたり遊休している資本のたんなる形態であるかぎりでの蓄蔵貨幣形成がそうであるのとまったく同じです。

  【括弧内の文の書き下し】

  {ここでは,一国の他国への資本の貸付を表現するかぎりでの貴金属の運動は度外視します。ただそのような貸付だけに限れば、それは商品資本の形態ででも行なわれるのですが。}

  {ある国民的流通部面から他の国民的流通部面への貴金属の移出移入そのものは,それがもし国内鋳貨の減価や複本位制の確定によって引き起こされるのであれば,それは貨幣流通それ自体の運動とは無縁であって,国家によって恣意的に引き起こされた偏椅のたんなる訂正に過ぎません。}〉

 【若干、疑問に思うのは、このパラグラフとその前のパラグラフとはどういう役割をもったものなのかということである。そもそもこの貨幣取扱資本の考察は、【19】パラグラフで終わっているような気がしないでもない。そこでは貨幣取扱業が貨幣の貸借や信用取引と結びついた時こそ、それが完全に発展しているのであるが、しかしこの貸借や信用取引は利子生み資本の問題になり、それは次の章(第5章)の課題なのだ、となっているが、この部分は貨幣取扱資本の考察の締めくくりのような感じがしたのである。ところが【20】パラグラフで、すでに【13】パラグラフ以下で論じてきた地金取扱業について再び論じ、この【21】パラグラフでは、これもすでに【4】や【5】で論じたことを繰り返しているような気がするのである。あるいは【20】パラグラフ以下は、貨幣取扱資本の別の位置づけを論じているのかも知れないので、とりあえず、ここでは若干の疑問を提示するだけにして、結論は最後まで置いておくことにしたい。
  さて、今回のパラグラフはいろいろと挿入文が入ってややこしいが、それを取り除けば、それほど難しくもややこしくもない。いくつかのことが言われているが、今それを箇条書きで書いてみよう。

  (1)貨幣の運動は商品の運動の結果であり、貨幣の量は、流通する商品の価格の規模と速度に規定されている。そしてこれらは総再生産過程の一契機である。
  (2)しかし貨幣の運動といっても金銀の産源地からもろもろの国へ流れ行く運動はこの限りではない。その運動そのものはその発端においては直接的な商品交換(物々交換)に帰着するからである。
  (3)しかし国際的な金銀の運動といっても、世界市場における貴金属の運動としては、やはり、その国内的な運動と同じように、国際的な商品交換に規定されているのである。
  (4)最後に、蓄蔵貨幣としては、それが国内における準備であろうが、国際的な購買手段や支払手段の準備としてであろうが、資本の遊休形態としてであろうが、いずれも蓄蔵貨幣としては同じものである。
  要するに、ここでは貨幣の運動を全体として見ているということができる。そしてこの限りでは、それは次のパラグラフへの考察へと繋がっているのであろう。

  ところでMEGAの注解②では、『資本論』のプランの成立時期について若干の考察を加えており、それに対する大谷氏自身の考えも訳者のコメントとして展開されている。しかしこの問題は、本文の理解とはまったく異なる問題であり、当面のわれわれの関心事ではないので、飛ばしておくことにしよう。また暇でもあれば検討してもよいかも知れないが。】

【22】

 貨幣流通全体が,その範囲においてもその諸形態においてもその諸運動においても,商品流通のたんなる結果であり,この商品流通も資本主義的立場から見ればそれ自身ただ資本の流通過程{これには,収入の支出が小売商業で実現されるかぎりでは,資本と収入との交換も収入と収入との交換も含まれている}を表わしているだけだとすれば,これもまたまったく自明なことであるが,貨幣取扱業は,商品流通のたんなる結果であり現象様式である貨幣流通をただ媒介するだけではない。この貨幣流通そのものは,商品流通の一契機として,貨幣取扱業にとっては与えられたものである。貨幣取扱業が媒介するのはそれの技術的諸操作であって,貨幣取扱業はこれらの操作を集中し短縮し簡単にするのである。貨幣取扱業は,蓄蔵貨幣を形成するのではなく,この蓄蔵貨幣形成が自発的であるかぎり(したがって遊休資本の表現または再生産過程の撹乱の表現でないかぎり),それをその経済的最小限に縮小[393]するための技術的手段を提供するのである。というのは,購買手段および支払手段のための準備ファンドは,資本家階級全体のために管理される場合には,各個別資本家によって管理される場合ほど大きい必要はないからである。貨幣取扱業は,貴金属を買うのではなく,商品取扱業がそれを買ってから,その分配を媒介するだけである。貨幣取扱業は,貨幣が支払手段として機能するかぎりでは,差額の決済を容易にし,また,この決済の人為的機構によって,決済に必要な貨幣量を減少させるが,しかしそれは,相互的な諸支払いの関連も,範囲も,定めはしない。たとえば,銀行業者たちと手形交換所とで相互に交換される手形や小切手は,これらの〔銀行業者や〕交換所そのものからはまったく||278|独立した事業を表わしており,与えられた諸操作の結果であって,問題はただこれらの結果をいっそううまく技術的に決済することだけである。貨幣が購買手段として流通するかぎりでは,売買の規模や度数は,貨幣取扱業にはまったくかかわりのないものである。貨幣取扱業は,ただこの売買にともなう技術的な諸操作を短縮することができるだけであり,そうすることによって,その回転に必要な現金の量を縮小することができるだけである。

 ①〔異文〕「諸運動」← 「運動」
 ②〔異文〕「……交換」という書きかけが消されている。
 ③〔異文〕「り現象様式であ」--書き加えられている。
 ④〔異文〕「それを……に縮小する」という書きかけが消されている。
 ⑤ 〔異文〕「また」← 「しかし」
 ⑥〔異文〕「人為的」← 「集中された」← 「意識的な」
 ⑦〔異文〕「手形〔交換所〕」という書きかけが消されている。
 ⑧〔異文〕「おり,」← 「いる。」
 ⑨〔異文〕「与えられた」--書き加えられている。〉 (330-頁)

  今回も{ }で括られた一文は飛ばして別に考えるとして、まずはそれを省略した書き下し文を書いてみよう。

 〈貨幣流通全体が,その範囲においてもその諸形態においてもその諸運動においても,商品流通のたんなる結果であり,この商品流通も資本主義的立場から見ればそれ自身ただ資本の流通過程を表わしているだけにすぎません。とするならば,これもまったく自明なことですが,その貨幣流通に規定されている貨幣取扱業そのものも,商品流通のたんなる結果であり、その現象様式である貨幣流通をただ媒介するだけに過ぎません。この貨幣流通そのものは,商品流通の一契機として,貨幣取扱業にとっては与えられたものなのです。貨幣取扱業が媒介するのはそれの技術的諸操作であって,貨幣取扱業はこれらの操作を集中し短縮し簡単にするのです。
  また貨幣取扱業は,蓄蔵貨幣を形成するのではありません。蓄蔵貨幣の形成が自発的であるかぎり、だから遊休資本の表現であるとか再生産過程の撹乱の表現ではないかぎりですが、貨幣取扱業は、それをその経済的最小限に縮小するための技術的手段を提供するのです。というのは,購買手段や支払手段のための準備ファンドは,資本家階級全体のために管理される場合には,各個別資本家によって管理される場合ほど大きい必要はないからです。
  貨幣取扱業は,貴金属を買うのではなく,商品取扱業がそれを買ってから,その分配を媒介するだけにすぎません。
  貨幣取扱業は,貨幣が支払手段として機能するかぎりでは,差額の決済を容易にし,また,この決済の人為的機構によって,決済に必要な貨幣量を減少させますが,しかしそれは,相互的な諸支払いの関連も,範囲も,定めません。たとえば,銀行業者たちと手形交換所とで相互に交換される手形や小切手は,これらの銀行業者や交換所そのものからはまったく独立した事業を表わしており,与えられた諸操作の結果であって,問題はただこれらの結果をいっそううまく技術的に決済することだけなのです。
  貨幣が購買手段として流通するかぎりでは,売買の規模や度数は,貨幣取扱業にはまったくかかわりのないものです。貨幣取扱業は,ただこの売買にともなう技術的な諸操作を短縮することができるだけであり,そうすることによって,その回転に必要な現金の量を縮小することができるだけです。

【括弧内の挿入文】

  {資本の流通過程には,収入の支出が小売商業で実現されるかぎりでは,資本と収入との交換も収入と収入との交換も含まれています}〉

 【今回のパラグラフによって分かるのは、その前の【20】も【21】パラグラフも、今回のパラグラフを論じるための前提だったということである。要するに貨幣流通全体の諸運動を【20】【21】パラグラフで検討した上で、それらの諸運動全体が商品流通のたんなる結果に過ぎず、資本の流通過程も、その流通に限れば単純な商品流通に帰着するとすれば、貨幣取扱業というのは、ただ商品流通のたんなる結果を与件として、それを媒介するだけだということである。ただそのための技術的操作をやるだけであって、それによって貨幣取扱業は、その操作を集中し短縮し簡単にするだけだということである。同じように、蓄蔵貨幣の管理や記帳についても、貨幣取扱業が蓄蔵貨幣を形成するのではなく、それを集中管理することによって、それを必要最小限に縮小するための技術的手段を提供するだけだと指摘されている。また諸払いの決済を容易にし、その決済のための人為的機構によって、決済に必要な貨幣量を減少させるが、しかしそのことは相互的な諸支払の関連や範囲などを定めるわけではないとも指摘されている。
 だから次のようにマルクスが述べていることは重要である。
  すなわち〈たとえば,銀行業者たちと手形交換所とで相互に交換される手形や小切手は,これらの〔銀行業者や〕交換所そのものからはまったく独立した事業を表わしており,与えられた諸操作の結果であって,問題はただこれらの結果をいっそううまく技術的に決済することだけである
  つまり直接表象として捉えられる限りでは、如何にも銀行などは大きな力をもち、貨幣の流通を管理し、それをもって商品流通を左右できるかに見えているが、決してそうではなく、それらはただそれらとは独立した事業である商品の流通に規定されているのであり、独自の事業である商品流通の結果をただうまく技術的に操作するためのものを提供するだけに過ぎないのだということである。銀行や手形交換所などはただ商品流通の結果をあれこれしているだけであり、社会の物質代謝を媒介している商品流通こそが前提であり、規定的契機なのだということである。
  ところで本文で〈貨幣取扱業は,商品流通のたんなる結果であり現象様式である貨幣流通をただ媒介するだけではない〉という部分について、大谷氏は訳者注をつけて次のように指摘している。

  〈143)〔E〕草稿では,「貨幣取扱業は貨幣流通をただ媒介するだけではない〔d.Geldhandel nicht nur…d.Geldcirculation vermittelt〕」と書かれており,エンゲルス版もそれをそのまま受け継ぎ,各国語訳,各邦訳もそれによっている。この文章を文字どおりにとれば,「貨幣取扱業は貨幣流通を媒介するが,しかしそれだけではなくてさらにほかのこともする」,そしてそのことは自明だ,という意味である。「さらにほかのこと」というのは,「貨幣流通の技術的諸操作」のことであろうか。とすると,この文章は,「貨幣流通を媒介するだけではなくて,貨幣流通の技術的諸操作をも媒介する」という意味だということになる。この読みかたは適切であろうか? 筆者には,この文章のうちのnichtが不要のように思われる。すなわち,「貨幣取扱業はただ貨幣流通を媒介するだけだ」ということである。そして,これ以下,「貨幣流通を媒介する」と言っても,それは「貨幣流通の技術的操作を媒介するだけなのだ」,と話が続いていくように思われる。nichtはマルクスの消し忘れではないだろうか?〉 (大谷新本第2巻330頁)

  これは全体の文意を読み取れば、大谷氏の指摘がまったく正しいと私も思った。だから書き下し文もそのように書いた。これがエンゲルスによっても、他の諸文献でも訂正されていないというのはむしろ驚きである。】

【23】

 〈だから貨幣取扱業は,ここで考察しているような純粋な形態では,すなわち信用制度から切り離されたものとしては,ただ,商品流通の一契機すなわち貨幣流通の技術と,そこから生じる貨幣のさまざまの機能とに関係があるだけである。〉 (332頁)

 〈だから貨幣取扱業は,ここで考察しているような純粋な形態では,すなわち信用制度から切り離されたものとしては,ただ,商品流通の一契機すなわち貨幣流通の技術と,そこから生じる貨幣のさまざまの機能とに関係があるだけなのです。〉

 【ここでようやく【20】パラグラフ以下の考察の意義が明らかになってくる。【19】パラグラフで貨幣取扱業というのは、その発端から貨幣の貸借や信用取引を伴ったものとして歴史的には現われてくるが、しかしわれわれはそれを厳密に区別して論じる必要がある、というのは貨幣の貸借や信用取引は次章で取り扱う利子生み資本の問題に属するからであると述べていたのであるが、そのあと【20】以下は、そうした貨幣の貸借や信用取引から厳密に区別された貨幣取扱業というものは、単純な貨幣の運動に規定されたものであり、ただその機能をもっぱら担う特殊的資本として分離独立したものであること、だから貨幣取扱業というのは、商品流通に規定されており、ただそれを媒介する貨幣の諸運動の技術的操作に限定してわれわれは考察する必要があるのだということを明らかにするのが、それ以降のパラグラフの役割といえる。つまり純粋な形で取り扱われた貨幣取扱業というものの位置を正確に規定するということであろうか。】

【24】

 〈このことが貨幣取扱業を商品取扱業から本質的に区別する。商品取扱業は商品の変態と商品交換とを媒介し,あるいは,商品資本のこの過程さえも,生産的資本から分離された資本の過程として現われさせる。だから,商品取扱資本はそれ自身の流通形態--G_W_G--を示すのであって,G_W_Gでは貨幣が二度持ち手を取り替え,それによって商品交換を媒介するのとは反対に,この形態では商品が二度場所を取り替え,それによってGが還流するのであるが,これにたいして,貨幣取扱資本については,そのような特殊的形態を示すことができないのである。〉 (332頁)

 〈純粋な形態での貨幣取扱業というのが、ただ商品流通の結果に関連し、そこでの貨幣の機能の技術的操作を担うだけであるということこそ、貨幣取扱業を商品取扱業から本質的に区別するのです。商品取扱業の場合は商品の変態と商品交換とを媒介します。そして商品資本のこうした運動が、生産的資本の運動から分離された独自の資本の過程として現われるのです。だから,商品取扱資本はそれ自身の流通形態--G_W_G--を示すのです。単純な商品の変態であるW_G_Wでは、貨幣が二度持ち手を取り替え,それによって商品交換を媒介します。しかし商品資本の運動G_W_Gにおいては、反対に商品が二度場所を取り替え,それによってGが還流するのです。これにたいして,単に貨幣の機能の技術的操作に関わるだけの貨幣取扱資本については,そのような特殊的形態を示すことができないのです。〉

 【ここでは貨幣取扱資本の商品取扱資本との本質的な区別が論じられている。どちらも生産的資本の循環の一契機である商品資本や貨幣資本が特殊的資本として自立化したものといえるが、一方の商品取扱資本は、生産的資本の循環(P…W’-G’-W…P)の流通過程にある変態(W’-G’-W)を独自の資本の運動(G-W-G)として担うものであり、その限りではこうした商品と貨幣との交換過程を媒介するが、しかし貨幣取扱資本というのは、ただ生産的資本や商品取扱資本の運動の一契機である貨幣資本の、しかもそのただ単なる貨幣としての機能を純粋に技術的操作に限って代行するもの過ぎないわけである。だからそれは独自の特殊的形態としての循環を示すことはないのである。これが両者の、すなわち貨幣取扱資本と商品取扱資本との本質的な区別をなすのだというわけである。】

 (続く)

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