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2019年2月

2019年2月23日 (土)

第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読(19-1)

『資本論』第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読

【はじめに】

 「『資本論』第3部第5篇の研究」というこのシリーズは、これまでエンゲルス版(現行版)の第28章第29章とを発表しただけである(いずれもすでに電子書籍化されている)。これらはいずれも私が以前所属していた政治サークル内の論争をきっかけに、支部の学習会のためのレジュメとして準備したものをベースにして、ブログ掲載用に編集し直したものである。掲載に当たっては、レジュメにあった論争的な部分は徹底的に削除した。
 あれから、大分ブランクが生じたが、このシリーズの続きを再開しようと思っている。ただし、今回から始めるものは、以前のような組織内の学習会での議論を経たものではなく、あくまでも私自身の研究のノートの紹介である。もともとこのブログはそうしたことを目的にしたものだが、だから私自身の考察の過程や、いまだハッキリしないがとりあえずこうではないか、というようなものもそのまま書いてある。だからノートという性格からこれからの検討課題とするようなことも書いてあることは、ご了承いただきたい。
 また以前のものは、大谷禎之介氏が『経済志林』に発表された翻訳文にもとづいたものであったが、今回からは同じ大谷氏の著書『マルクスの利子生み資本論』全4巻に所収されている訳文を利用させて頂くことにした。この4巻もの大著は『資本論』第3部第5篇を20年の歳月をかけて研究されてきた同氏の集大成ともいうべきものである。これからこのブログで掲載するシリーズの続きでは、同書にあるマルクスの草稿の翻訳文だけではなく、それに関連する同氏のさまざまな解説や諸見解についても必要な限りで紹介し、また批判的に取り扱う予定である。
 果たして最後の第36章の草稿まで辿り着けるかどうかは分からないが、とにかく再開することにしよう。
 (なお解読の進め方としては、形式は以前のやり方を踏襲して、まず最初に私が付けたパラグラフ番号を書き(【1】 …)、マルクスの草稿の本文を〈青太字〉で紹介し、MEGAの注解や大谷氏の訳者注などは青字で書く(ただし、訳者注は必要な限りで紹介するだけである)、そのあとに本文の書き下し文を〈黒太字〉で書き、【 】をつけて本文の解読などを書いていくことにする。なお大谷氏の見解を紹介するために抜粋・引用するものもすべて青字で紹介する。頁数は特に断りがない場合は、すべて大谷氏の著書からのもの〔今回は主に第2巻から〕である。)

  ************************************

◎エンゲルス版『資本論』第3部第4篇第19章「貨幣取扱資本」の草稿の段落ごとの解読

 これから「『資本論』第3部第5篇の研究」のシリーズの一つ(その冒頭部分)として、「貨幣取扱資本」の草稿をパラグラフごとに解読していくが、この草稿は、実はエンゲルス版では第4篇(章)の中にあるものである。なぜ、第4篇にあるものを、第5篇の研究のなかで取り上げるのかというと、それは大谷氏自身が第5篇の草稿の一連の研究のなかで取り上げているからである。どうしてそうしているのかについて、大谷氏は次のように述べている。

 〈第3部エンゲルス版第19章は,本書の本来の対象である第3部第5篇の前の「第4篇 商品資本および貨幣資本の商品取扱資本および貨幣取扱資本(商人資本)への転化」に属するものであるが,貨幣取扱業は銀行制度の土台をなし,銀行制度のもとにおける利子生み資本の管理の基礎となっているものであって,貨幣取扱資本の理論的把握は,信用制度の理解の重要な前提をなしており,、したがってまた,信用制度下の利子生み資本であるmonied capitalの分析の前提でもある。そこで,マルクスが草稿第5章での利子生み資本の分析にはいる前にこの貨幣取扱資本を論じた草稿部分(「第4章商品資本および貨幣資本の商品取扱資本および貨幣取扱資本への,すなわち商人資本への転化」の「4)貨幣取扱資本」)を,第5章の草稿部分と同じ仕方で,MEGAによって訳出し,それにエンゲルス版との相違を注記することにした。〉 (第2巻305頁)

  さらにまた次のようにも述べている。

   〈マルクスは銀行資本および銀行業資本がもつ利子生み資本という資本属性だけを純粋に取りだして,草稿第5章の「1)」一「4)」(エンゲルス版第21-24章)で分析したが,その前に,まず,草稿第4章の「4)」で,銀行資本のもつ利子生み資本という資本属性は度外視して,銀行資本の貨幣取扱資本としての資本属性を純粋に取り出し,分析していた。
  草稿第5章の「5)信用。架空資本」の序論的部分のうちの「〔Ⅰ 信用制度の概要〕」でマルクスは,信用=銀行制度が貨幣取扱業務を基礎として成立すること,そしてそれの二つの側面--信用の取り扱いおよび利子生み資本の管理--のうちの利子生み資本の管理という側面が,銀行が行なう貨幣取扱業務と直接に結びついていること,また貨幣取扱業務がもう一つの側面である信用の取り扱いと結びついて行なわれていることを明らかにした。
……
  以上のような理由で,信用制度のもとでの利子生み資本の解明には,貨幣取扱資本の理論的把握がどうしても先行しなければならなかったのである。 〉
(同307-308頁)

  こういう理由で、第5篇の草稿の研究の冒頭に、その前提として、第4篇の「貨幣取扱資本」の考察を行おうというわけである。

【1】

 〈[387]   /275/ 4) 貨幣取扱資本。|〉 (313頁)

 【これは表題なので書き下しは省略する。これはマルクス自身がつけた表題であるが、われわれはそれが第4章(篇)のなかでどういう位置ににあるのかを知るために、まず第4章(篇)の全体の構成を見ておくことにしよう。

 〈第4章 商品資本および貨幣資本の商品取扱資本および貨幣取扱資本への,すなわち商人資本への転化
  1) 商品取扱資本(商業利潤)
  2) 商業利潤とその諸特質
  3) 商人資本の回転。諸価格
  4 )貨幣取扱資本
  5) 商人資本の貨幣蓄積の特殊的形態は次章にはいってから考察する
  6)〔タイトルなし〕
  7)〔タイトルなし〕〉
(306頁)

   大谷氏によれば、〈5)〉にはタイトルはなく、〈商人資本の貨幣蓄積の特殊的形態は次章にはいってから考察する〉とあるのは、この〈5)〉の本文としてこれだけが書かれているだけなのだそうである。だからエンゲルス版の〈第20章 商人資本に関する歴史的事実〉は、実質上、タイトルのない〈6)7)〉からエンゲルスによって編集されたものである(だからタイトルもエンゲルスがつけたものである)。
  このように「貨幣取扱資本」とは、第4章の表題〈商品資本および貨幣資本の商品取扱資本および貨幣取扱資本への,すなわち商人資本への転化〉からも分かるように、生産的資本の流通過程にある一形態である貨幣資本が、自立化してその機能をもっぱら担う特殊的資本となったものなのである。それではそれを具体的に見ていくことにしよう。】

【2】

 生産的資本の流通過程と,いまではそれにつけ加えることのできる商品取扱資本の流通過程(というのは,商品取扱資本は生産的資本の流通過程の一部分を,自分自身の,また自分に特有の運動として請け負うのだから)とのなかで貨幣がなし遂げる純粋に技術的な諸運動,①もっぱらこれらの運動を自分に特有な操作として営むだけの一つの特殊的資本の機能としては,この資本を貨幣取扱資本に転化させる。生産的資本の(そしていまではもっと詳しく言えば,また商品取扱資本の)一部分は,絶えず貨幣形態で,貨幣資本として存在するというばかりでなく,このような技術的機能に従事している貨幣資本として存在することになる。いまや,総資本からその一定部分が自立した貨幣資本として分離するのであるが,その資本としての機能は,ただ産業資本家および商業資本家の階級全体のためにこれらの操作を行なうということだけである。商品取扱資本の場合と同様に,⑥流通過程のなかに貨幣資本の姿で存在する生産的資本からその一部分が分離して,残りの資本全体のために,⑦再生産過程のこれらの操作を行なうのである。だから,この貨幣資本の諸運動は,自分の再生産過程のなかにある生産的資本の一部分が自立したものの運動にすぎないのである(というのは, 商品取扱資本そのものが,生産的資本にたいしてこうした位置にあるのだからである)。

 

①〔異文〕「もっぱら」ausschließlich←nur
②〔異文〕「諸機能または」という書きかけが消されている。
③〔異文〕「存在するというばかりでなく」という書きかけが消されている。
④〔異文〕「このような技術的機能……貨幣資本」という書きかけが消されている。
⑤〔異文〕「総資本のために,産業家および商業資本家の階級全体のために」という書きかけが消されている。
⑥〔異文〕「流通過程に包含されている……の一部分が……かぎり」という書きかけが消されている。
⑦〔異文〕「再生産過程の」--書き加えられている。
⑧〔異文〕「商品取扱資本」← 「商品資本」〉
(313-314頁)

 〈すでにこれまでの分析から明らかなように,商品取扱資本というのは生産的資本の流通過程の一部分を,自分自身の,また自分に特有の運動として請け負うものでした。同じように、生産的資本と商品取扱資本との流通過程のなかで貨幣がなし遂げる純粋に技術的な諸運動も,やはりもっぱらこれらの運動を自分に特有な操作として営むだけの一つの特殊的資本の機能として自立化してきます。それがこれから取り扱う貨幣取扱資本なのです。生産的資本の(そしていまではもっと詳しく言えば,また商品取扱資本の)一部分は,絶えず貨幣形態で,貨幣資本として存在するというばかりでなく,このような技術的機能に従事している貨幣資本として存在することになります。いまや,総資本のうちからその一定部分が自立した貨幣資本として分離するのですが,その資本としての機能は,ただ産業資本家および商業資本家の階級全体のためにこれらの操作を行なうということだけです。商品取扱資本の場合と同様に,流通過程のなかに貨幣資本の姿で存在する生産的資本からその一部分が分離して,残りの資本全体のために,再生産過程上のこれらの操作を行なうのです。だから,この貨幣資本の諸運動は,自分の再生産過程のなかにある生産的資本の一部分が自立化したものの運動にすぎないのです(というのは,商品取扱資本そのものが,生産的資本にたいしてこうした位置にあるのだからです)。つまり商品取扱資本もその純粋に技術的な機能に限った貨幣取扱資本も再生産過程内にある資本と言うことができます。〉

 【ここではこれから取り扱う貨幣取扱資本が、その前に取り扱ってきた商品取扱資本と同様に、生産的資本の流通過程内にある資本が独自の特殊的資本として自立化したものだという位置づけを与えている。生産的資本の循環はP…W’-G’-W…Pであるが、このうちの流通過程にある部分W’-G-WのうちWが自立化したものが商品取扱資本であり、Gが自立化したものが貨幣取扱資本だということである。だから貨幣取扱資本は、生産的資本のみならず商品取扱資本の運動W-G’-Wからもその貨幣資本が自立化したものでもあるのである。だからまたそれは、商品取扱資本がそうであるように、純粋に技術的な操作に限れば再生産過程内にある資本として位置づけられるのである。これから第5章(篇)で取り上げる利子生み資本というのは、こうした流通過程にある貨幣資本が流通過程から外れて貸付資本に転じることから生じてくる(もちろん貸付資本自体はそうしたものに限定されるわけではないが)。しかしすでに貸付資本に転じた貨幣資本においては、もはやそれは再生産過程内にあるものとはいえないのである。マルクスが貨幣取扱資本を〈貨幣がなし遂げる純粋に技術的な諸運動〉に限っているのはこうした理由からである。そこらあたりの区別をまずはここでマルクスは明確にしているのである。それが再生産過程内にあるものか(再生産過程内の信用か)、それともその外にあるものか(再生産過程外の信用か)は、これからも重要な意味を持ってくるからである。】

【3】

 〈①②資本が新たに投下される(蓄積の場合もそうである)ときにだけ,またそのかぎりでだけ,③資本の貨幣形態あるいは貨幣形態にある資本が,④運動の出発点および終点として現われる。だが,ひとたび過程のなかにはいっている資本にとっては,出発点終点も,ただ通過点として現われるだけである。生産的資本は[388]生産部面を離れてからふたたびそこにはいるまでにW'-G-Wをなし遂げなければならないのであって,そのかぎりでは,⑦以前に(商品それ自体の流通のところで)示したように,Gが変態の一段階の結果であるのは,じっさいただ,この段階を補う反対段階の出発点となるためでしかない。(商業資本の場合にも,それにとってはW-GがつねにG-W-Gとして現われるのではあるが,ひとたび過程が始まれば,現実の過程はつねにW-G-Wである。)しかし,資本はW-GとG-Wの両行為を同時になし遂げる。すなわち,一方の資本がW-Gの段階にあるとき他方の資本がG-Wの段階にあるというだけではなくて,同じ資本が,生産過程を連続させるために,絶えず買うと同時に絶えず売るのである。資本は絶えず同時にこの両方の段階にある。その一部分が,のちに商品に再転化するために貨幣に転化するあいだに,同時に他の部分が,貨幣に再転化するために商品に転化するのである。

 

①〔異文〕「同一の」という書きかけが消されている。
②〔異文〕「資本」← 「貨幣資本」
③〔異文〕「資本が」という書きかけが消されている。
④〔異文〕「……あいだで」という書きかけが消されている。
⑤〔注解〕ここから次パラグラフの最後から2番目の文(「……価値を創造する労働ではない。」)までは,カール・マルクス『経済学批判(1861-1863年草稿)』,MEGAII/3.5の1698ページ11-34行から,変更を加えて取られている。
⑥〔異文〕「ふたたびはいる〔Wiedereintritt〕」← 「戻[る]〔Rück[kehr]〕」
⑦〔注解〕「以前に(商品それ自体の流通のところで)」--カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』,ベルリン,1859年,65-77ページ(MEGAII/2,S.158-166)。〉
(315-316頁)

 〈私たちが第2部(巻)で最初に論じたような貨幣資本を出発点にする循環、G-W…P…W'-G'が、実際に現われるのは、まったく新たな資本が投下される場合か、同じことですが、蓄積が行なわれる場合だけです。その場合だけ資本の貨幣形態あるいは貨幣形態にある資本が,運動の出発点および終点として現われます。しかし私たちが第2部で考察した貨幣資本の循環というのは、資本の循環が始まっでその循環を繰り返している過程の一部分を切り取って考察したものに過ぎません。だからひとたび過程にある資本にとっては、こうした出発点も終点も、ただ通貨点として現われるだけなのです。
 すでに紹介しましたように、生産的資本の運動(P…W'-G-W…P)を見ると、生産的資本は生産部面を離れてからふたたびそこにはいるまでには、W'-G-Wという流通過程における転換をなし遂げなければなりません。そのかぎりでは,以前、『資本論』の冒頭篇で考察しましたように,Gが変態の一段階(W_G)の結果であるのは,それはただ,この段階を補う反対段階(G-W)の出発点となるためでしかありません。
 ついでに言うと、商業資本の場合にも,W_Gはつねに商業資本の運動G_W_G'の一部分として現われるのですが,しかしひとたび過程が始まれば,現実の過程はつねにW-G-Wなのです。つまりそれも社会的物質代謝を媒介する一運動に過ぎないのです。
 しかし,常に資本はW-GとG-Wの両行為を同時になし遂げます。すなわち,一方の資本がW-Gの段階にあるとき他方の資本がG-Wの段階にあるというだけではなくて,同じ資本が,生産過程を連続させるために,絶えず買うと同時に絶えず売るのです。資本は絶えず同時にこの両方の段階にあるといえます。その一部分が,のちに商品に再転化するために貨幣に転化するあいだに,同時に他の部分が,貨幣に再転化するために商品に転化するのです。〉

 【ここからは貨幣取扱資本が生産的資本と商品取扱資本から、貨幣資本の運動が特殊的な資本として自立化してくることを見ようとしている。そのために、まず貨幣資本が出発点あるいは終点として現われるのは、ある特別の場合(新たな資本が投下された時とか蓄積が開始される場合)であって、一度資本の循環が開始しされれば、それらはすべて通過点に過ぎないことがまず確認されている。
 そしてマルクスは、ここで『資本論』の冒頭の商品流通で確認したことを再度確認している。資本の流通過程における商品資本の運動や貨幣資本の運動というのも、それがただ流通過程にあるものとみると、それらは単なる商品として、あるいは単なる貨幣として振る舞うのであり、その限りではわれわれが第1巻の冒頭篇で考察した商品の変態の考察が妥当するわけである。だから商品の販売(W-G)は、別の商品の購買(G-W)ためにほかならない。つまりそれらは社会的物質代謝(W-W)を媒介する運動なのである。貨幣資本にしろ商品資本にしろ、それらが流通過程でとる運動は、こうした抽象的な商品流通の考察において明らかにされた抽象的な諸機能や諸規定性が妥当し、それらによって規制される過程でもあるのである。これはだから生産的資本の流通過程における運動においても然りであるし、その運動の一部を代行する商業資本の運動においても然りなのである。つまりGの運動はWの運動の結果に過ぎないということである。だからGが変態の一段階であるのは、それが最終的にはG-Wで過程を終えるためであること、だから商品取扱資本の循環もひとたび過程がはじまればW-G-Wとして現われるのだということを確認しているのである。
 しかし資本の運動という形態規定性においてみると、それは常にW-GとG-Wの両方を同時に行なっているものとして現われてくる。それはさまざまな資本が一方がその過程を辿るときに他方の資本が反対の過程を辿るというだけではなくて、同じ一つの資本の別々の部分についても同じことがいえるのだということである。資本は絶えず一方で売ると同時に買うという操作を繰り返しているわけである。ここではまずこれらのことが確認されている。
 ところでMEGAの注解をみると、この部分は61-63草稿から変更を加えてとられているとの指摘がある。だからその草稿を見てみることにしよう。ただし、以下に紹介するものは、今回のパラグラフだけではなく、それ以降のパラグラフの内容も含んだものになっている。しかし最初でもあり、全体をとりあえずは抜粋しておくことにしたい(但し、異文や訳者注、その他は、特に必要でないかぎりは省略する)。ただ特に注意が必要なのは、マルクスは61-63草稿の段階では、まだ貨幣取扱資本と利子生み資本とを厳密に区別して論じておらず、両者をまぜこぜに論じているということである。その点について、大谷氏は次のように論じているので、それをまず紹介しておこう。

  〈マルクスは草稿第4章の「4) 貨幣取扱資本」では,信用制度のもとで信用の取り扱いおよび利子生み資本の運動と結びついて行なわれている貨幣取扱資本の諸運動を徹底して度外視し,貨幣取扱資本そのものを純粋に取り出して分析しようとしている。この方法の徹底が,『1861-1863年草稿』での貨幣取扱資本の取扱いかたと決定的に異なる点であり,そこに,第3部第1稿における貨幣取扱資本および利子生み資本の分析方法の大きな前進があったと見ることができる。すでに述べたように,マルクスは草稿第4章を書きだしたときには,まだこの章のなかで利子生み資本を論じるつもりでいたのであるが,この章の執筆中に,利子生み資本は商人資本からは完全に切り離して,次の第5章で取り扱うことにした。この変更の理由をマルクス自身はどこにも漏らしていないが,筆者は,そのかなめが,貨幣取扱資本と利子生み資本とをそれぞれ純粋な形態で分析しようと決めたところにあったと考えている。〉 (第2巻308頁)

  こうしたことに留意して貰うようにして、以下、長文ではあるが、61-63草稿からの抜粋を紹介する。後のパラグラフでもこの抜粋を参考にすることになるであろう。

 〈商業資本は--資本主義的再生産過程の内部では--一面では、一般に自分の流通〔部面〕W-G-W(しかし、これは同時に一つの独自な姿態をとる。なぜならば、ここでは商品は資本でありG-W' W"-Gだからである)にある生産資本、つまり売買という自分の機能を果たしつつある生産資本--または自分の流通部面で通過する総変態の運動中にある生産資本以外のなにものでもけっしてなく、他面では、資本のうち生産資本から分離され独立された部分、しかもそれにとっては流通部面がそれの独自な生産部面であるような部分以外のなにものでもけっしてない--こうした事情は貨幣取引業に従事する資本の場合にもまったく同じである。
  流動資本〔Das circulirede Capital〕(すべての資本は流通するのであって、固定資本もその損耗分が価値成分として商品にはいって行くかぎりでは、流通するのである)は、一循環の終わりには貨幣として沈澱するかそれとも循環の出発点として現われる。最初に資本に転化されなければならない価値額にとっては、貨幣は出発点として分離されて現われる。これはただ新たに投下される資本の場合だけである。しかし、すでに過程のなかにはいっている資本、それゆえまた再生産の連続的過程のなかにはいっている資本にとっては、終点も出発点もどちらもただ通過点として現われるだけである。資本は生産部面における滞留とこの部面への復帰とのあいだにW-G-W'を通らなければならないのであるが、そのかぎりでは、Gが変態の一段階の結果であるのは、じっさいただ、この段階を補う反対段階の出発点になるためでしかない。しかし、資本はW-GとG-Wという行為を同時に行なう。すなわち、一方の資本がW-Gの段階にあるとき他方の資本はG-Wの段階にあるだけではなく、同じ資本が、生産過程の連続のために絶えず買うと同時に絶えず売るのである。資本は絶えず同時に両方の段階にある。その一部分が商品に再転化するために貨幣に転化するあいだに、同時に他の部分は貨幣に再転化するために商品に転化するのである。この場合に貨幣が流通手段として機能するか支払手段として機能する--したがって、後者の場合には差額が支払われ、他方の場合には価値がつねに二重に、一方の極には商品として他方の極には貨幣として、存在する--かは、商品交換そのものの形態によることである。しかし、どちらの場合にも、資本家は、絶えず貨幣の支払を受けるために、絶えず貨幣を払い出さなければならない(それも多くの人々に払い出さなければならず、生産資本家は多くの商人に払い出し、商人は多くの資本家に払い出さなければならない等々)。このような、貨幣支払や貨幣収納の単に技術的な操作は、それ自身労働であり、この労働は、貨幣が支払手段として機能するかぎりでは、差額計算や決済行為を必要とする。この労働は一つの流通費である。資本の一定の部分は絶えず蓄蔵貨幣として(貨幣準備、すなわち購買手段の準備金や支払財源つまり支払のための準備金として)存在しなければならないのであって、資本の一部分は絶えずこの形態で還流する。これは、支払や収納のほかに、この蓄蔵貨幣の保管を必要とするが、これもまた一つの特殊な操作である。つまり、それは事実上蓄蔵貨幣が絶えず流通手段や支払手段に分解することであり、また、販売で受け取った貨幣や満期になった支払として蓄蔵貨幣が再形成されることである--このような--〔資本の〕機能そのものから分離した--貨幣として絶えず存在する資本部分の不断の運動、この技術的な運動が、特別な労働や費用の原因になるのである。分業が進むにつれて、資本の機能から生じるこのような技術的な操作は、資本家階級全体のために特定の機能者たちが担当するものになり、しかも、こうしたことは彼らの手に集中するようになる。それはこの場合にも、商人資本の場合のように、二重の意味での分業である。それは特殊な操作、特殊な業務となり、また、それが特殊な業務となりこの階級全体のために行なわれるので、それは集中されて大規模に営まれるようになり、また、この特殊な業務のなかには、互いに独立ないろいろな部門への分裂によって、またこれらの部門のなかでの作業場の発達によって、分業が現われてくる。この運動のなかにある生産資本の一部分は、生産資本から分離して、単にこれらの操作--まず第一に貨幣の保管、貨幣の払出し、貨幣の収納、差額の決済などは、これらの技術的操作を必要とする行為から分離する--にのみ携わるのである。これは貨幣取引業として独立した生産資本である。〉
(資本論草稿集⑧240-241頁)

   さらにMEGAの注解⑦では本文で〈以前に(商品それ自体の流通のところで)示したように〉という部分について、その該当個所として『経済学批判』の参照箇所を挙げているが、それは「2 流通手段」の「a 商品の変態」全体を含んでおり、そのすべてを紹介するのも芸がないので、各自参照して頂くこととして、ここでは紹介は割愛したい。ここでマルクスが〈以前に(商品それ自体の流通のところで)示したように〉という部分が、『経済学批判』であるというのは、それはこの草稿が書かれていた段階では(1863~65年)、いまだ『資本論』は刊行されていなかったからである(初版は1867年刊行)。その限りではMEGAのこうした措置は厳密であり妥当といえる。しかし『資本論』をすでに知っていて、それを前提に読むものにとっては、こうした措置はむしろ反対にわかりにくいともいえる。
  ところでこのパラグラフの冒頭、マルクスが〈資本が新たに投下される(蓄積の場合もそうである)ときにだけ,またそのかぎりでだけ,資本の貨幣形態あるいは貨幣形態にある資本が,運動の出発点および終点として現われる〉と書いていることを金科玉条にして、だから貨幣が貨幣資本として現われるのは、最初に資本が投下されるときか、蓄積のときに限られるのだ云々、などという馬鹿げた主張を展開している御仁がいる(伊藤武氏などを紹介しながらもう少し展開してもよいかも知れない)。しかしこのパラグラフ全体の主旨を理解すれば、こうした主張の馬鹿らしさは明らかであろう。】

【4】

 この場合,貨幣が流通手段として機能するか支払手段として機能するかは,商品交換の形態によることである。どちらの場合にも資本家は,絶えず多くの人びとに貨幣を払い出し,絶えず多くの人びとから貨幣の支払いを受けなければならない。こうした,貨幣支払いや貨幣収納のたんに技術的な操作はそれ自体が労働であり,この操作は,貨幣が支払手段として機能するかぎりでは,差額の計算や決済行為を必要にする。この労働は一つの流通費であって,価値を創造する労働ではない。この労働は,それが特殊な一部類の代行者あるいは資本家によって残りの資本家階級全体のために行なわれることによって短縮されるのである。| 

①〔異文〕「残りの」--書き加えられている。〉 (316頁)

 〈このような資本が絶えず行なっている商品の販売と購買において、貨幣が流通手段として機能するか、あるいは支払手段として機能するかは、その商品交換が如何なる形態で行なわれるかによります。いずれにせよ、資本家は,絶えず多くの人びとに貨幣を払い出したり,絶えず多くの人びとから貨幣の支払いを受けたりしなければなりません。こうした,貨幣支払いや貨幣収納のたんに技術的な操作はそれ自体が一つの労働です。この操作そのものは,貨幣が支払手段として機能するかぎりでは,差額の計算や決済行為となります。こうした労働は一つの流通費であって,価値を創造する労働ではありません。だから資本家たちにとってはそれは一つの負担になります。しかしこの労働が,特殊な一部類の代行者あるいは資本家によって集中して行なわれるようになれば、残りの資本家階級全体のためになり、彼らの負担が縮小されることになるわけです。〉

 【ここでは貨幣取扱資本というのは、生産的資本が日常的に繰り返している商品の売買に必要な貨幣の支払や受け取りおよび収納、そしてそれらに必要な記帳や保管等々、一つの流通費になる剰余価値を生まない諸労働を、それらの機能を集中して代行することによって、資本家階級全体にとってそうした負担を縮小するように、特殊な機能として自立化したものだということが明らかにされている。ここではこうした貨幣資本にまつわるさまざまな機能がそれ自体が労働を必要とするが、しかしそれらは剰余価値を生まない労働であり、純粋な流通費になること、だから資本家にとって負担となること、だからまたそれらの機能を集中させて代行する資本が現われれば、資本家階級全体にとって負担軽減になることが確認されている。
  MEGAによる注解はないが、いうまでもなく、このパラグラフも先に紹介した61-63草稿から部分的に手直ししてとられていることが分かる。その当該個所だけをもう一度紹介しておこう。

  〈この場合に貨幣が流通手段として機能するか支払手段として機能する--したがって、後者の場合には差額が支払われ、他方の場合には価値がつねに二重に、一方の極には商品として他方の極には貨幣として、存在する--かは、商品交換そのものの形態によることである。しかし、どちらの場合にも、資本家は、絶えず貨幣の支払を受けるために、絶えず貨幣を払い出さなければならない(それも多くの人々に払い出さなければならず、生産資本家は多くの商人に払い出し、商人は多くの資本家に払い出さなければならない等々)。このような、貨幣支払や貨幣収納の単に技術的な操作は、それ自身労働であり、この労働は、貨幣が支払手段として機能するかぎりでは、差額計算や決済行為を必要とする。この労働は一つの流通費である。〉 】

(以下、続く)

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