無料ブログはココログ

« 「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(2) | トップページ | 「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(4) »

2018年3月19日 (月)

「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(3)

「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか(3)

(前回は「◎6.第2稿第3章のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の意味は?」の途中で終わったので、以下は、その続きである。)

●第3章のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」はその内容に相応しくない?

 上記のように論を展開した大谷氏は、いよいよ本題に入っていく。次のように述べている。

  〈第3章がこのような見地でこのような対象を分析するのだとすると,この章につけられたタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」はそれに相応しいものだったであろうか。もし,このタイトルのなかの「実体的諸条件」がかつての第1稿での意味のものでしかなかったとすれば,このタイトルは新たな第3章の内容を適切に表現するものではないと言うべきであろう。しかし,「実体的」という語が,いま見てきたような,「資本価値が使用価値の形態を転化させ,かつ価値を増大させながら過程を進行していく」という新たな合意をもつようになっていたのだとすれば,「実体的諸条件」とは,資本価値のこのような過程進行の諸条件という意味に理解することも不可能ではない。そして,そのように見るかぎりでは,第3章のかのタイトルはこの章の内容を表現していると言うこともできるであろう。〉 (21頁、下線は大谷氏による強調)

  ここでは大谷氏はまだやや曖昧である。「実体的」という語が、第1稿と同じ意味でなら、それは相応しくないが、第2稿の意味なら、限定付きでまあ許せるということらしい。しかしこうした言いぐさもおかしなものである。なぜなら、大谷氏は第2稿の第3章の表題を問題にしているのではないだろうか。なぜなら、第1稿の第3章のタイトルは「流通と再生産」だったのであり、第1稿の最後のプランにあるのは「流通(再生産)の実体的諸条件」というものである。だから「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」というタイトルそのものは第2稿でしか見られないものだからである。だからそれを〈もし,このタイトルのなかの「実体的諸条件」がかつての第1稿での意味のものでしかなかったとすれば,このタイトルは新たな第3章の内容を適切に表現するものではないと言うべきであろう〉という言いぐさはいらざる難癖としか言いようがない。第2稿のタイトルがどうして第1稿での意味のものでしかないことがありうるのか、子供でも分かる道理である。そしてわれわれは、そもそも大谷氏がいう第1稿と第2稿とでは、「実体的」の意味が違っていて、第2稿ではその意味が拡張されているという主張の根拠のなさも指摘したのであるから、こうした大谷氏の難癖にはただただ苦笑で返すしかないのである。何とか大谷氏としてはマルクスの第3章のタイトル付けに難癖をつけたいのであるが、しかしそれもなかなか思うようにならず、条件付きなら、まあ内容を表現していると言えると認めるわけである。しかし大谷氏がいうところの条件なるものも、すでに眉唾物であることは指摘しておいた。
  そもそも大谷氏が目標とするのは、マルクスが第2稿の表紙に書いたプランは、プランではなく、単なる「目次」であり、それはエンゲルスがいうように、第8稿では獲得された新しい視点において否定されたものなのだ、すなわちそこで書かれている二段構えの再生産過程の考察は第8稿では破棄されたのだ、再生産過程の考察は貨幣流通の媒介なしには考察することはできない(あるいは考察する意味はない)、等々という結論に持っていくことが狙いなのである。ではそのお手並みを拝見しよう。

  そういうわけで大谷氏の次のターゲットは第2稿の表紙に書かれたプランそのものである。次のように述べている。

〈マルクスは,第2稿の執筆を打ち切つたのちに,「目次〔Inhalt〕」という見出しのもとに,この草稿の表紙としていた紙葉に内容目次を書きつけた。これは,草稿の該当ページもつけられていることからも明らかなように,それ自体としてはすでに書いてある草稿の内容について作成された「目次」であって,最終的に仕上げようとする第2部完成稿のためのプランではなかったが, しかし,あちこちで草稿の内部での表題に手を加え,また,のちに採用すべき用語を明示したりしたほか,第3章については,草稿では筆が及んでいなかった「拡大された規模での再生産。蓄積」の項目を書き加えているところからもわかるように,この時点での彼の第2部構想を示すものと見ることができるものである。(MEGA②Ⅱ/11,S.3-4)。〉 (21-22頁)

  ここでも大谷氏の攻撃は一進一退である。まず第2稿の表紙に書かれたものはプランではなく、「目次」であると主張する。しかし他方で、その「目次」には、実際の第2稿の本文にはない項目も書かれているから、第2稿を書き上げた時点における第2部全体のマルクスの構想を示すものだと渋々認めるわけである。第2部全体の構想を示すものと認めるなら、それを第2部全体のプランと認めることではないのだろうか。大谷氏はただ言葉を言い換えているだけではないか。大谷氏はマルクスがこの第2稿の表紙に書きつけた第2部全体のプラン(「目次」と呼ぼうがどうでもよいことである)こそが、第2部全体の見通しを書いた最後のものであるという事実にも目をつぶっている。マルクス自身が書いたものとしては、これ以降に書かれた諸草稿においては、第2部全体の、あるいは第3章(篇)に限ってもよいが、その構想らしきものについて言及しているものは皆無なのである。そしてマルクス自身が先に大谷氏が〈マルクスは,のちに1877年春に,ふたたび第2部の仕事に立ち戻ろうとして,以前に書いた諸草稿のなかの利用すべき箇所への指示ないし摘要を作成した。MEGA編集者はこれに「以前の叙述(第1-4稿)のうちの利用すべきテキスト諸箇所」という,いささか回りくどいタイトルを付けているが,これは,エングルスが彼の第2部序文で「最後の改訂のための覚え書」ないし「四つの草稿からの指示や覚え書」と呼んだものである(MEW 24,S.11)〉(17頁)と紹介していた「指示書き」において、この第2稿を常に基礎に据える必要があると指示しているのである。そしてマルクスが第2稿を基礎に据えるということは、その表紙に書いているプランを基礎に据えよ、という指示ではないか。実は大谷氏はこうしたことを知りながら、無視しているのである。どうも一旦出来上がったドグマというものは、なかなか克服できないもののようである。

●「実体的諸条件」という用語は、第2稿以降の諸草稿では、第2稿のタイトル以外では「完全に消え失せる」?

  しかしいずれにせよ、大谷氏もマルクスが第3章のタイトルとして「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」を考えていたことは認めざるを得ないようである。しかしさらに大谷氏の攻撃は続くのである。大谷氏はマルクスは第2稿では、このタイトル以外ではこの用語そのものは使わなかったなどと今度は主張しはじめる。次のように述べている。

〈マルクスは,第1稿で第3章のタイトルとして考えていた「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」を第2稿の第3章でもそのまま維持した。上で見たように,「実体的諸条件」という語には新たな意味が加えられており,マルクスはそのような意味をも込めて第3章のタイトルとして書きつけたのであろうが,すでに第2稿第3章の冒頭で記した,第1稿の段階をはるかに越えるこの章での問題意識を適切に表現するものとは言えなくなっていた。第2稿の「目次」ではなおこのタイトルが維持されているが,このあとの第2部諸草稿にはもはや「実体的諸条件」という表現は完全に消え失せる。これは,「実体的諸条件」という表現が新たに得られた第3章の内容にそぐわないものとなっていたからであろう。〉 (22頁)

  おかしなことに、ここでは大谷氏は〈「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」を〉〈マルクスは,第1稿で第3章のタイトルとして考えていた〉としている。しかしそれなら、先にわれわれが見た〈タイトルで見るかぎりでは,「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の解明は,第3章でなによりもまず明らかにされるべき中核的課題という位置から,第3章がその全体をもって答えるべき課題という位置に引きあげられた〉(15頁)という主張とどのように整合するのであろうか。
  しかしまあ、そんなことはどうでも良い問題である。大谷氏は「実体的諸条件」という文言だけを問題にしている。そしてその用語が第2稿の本文ではまったく使われていないとか、第2部のそれ以降の諸草稿では、〈完全に消え失せる〉などという。そしてそこから大谷氏は〈これは,「実体的諸条件」という表現が新たに得られた第3章の内容にそぐわないものとなっていたからであろう〉などと推論するのである。何と無茶苦茶で乱暴な推論ではないか! タイトルにある文言が本文では使われていないということだけから、だから本文の内容はタイトルとはすでにそぐわないものになっていた、などというのは暴論としかいいようがない。大谷氏は実際の第3章の内容を具体的に検討することもせずに、ただタイトルに使われた文言が、本文のなかにはないと言っているだけである。しかしこんなことは一般的にはよくあることではないか。小説などでもその本のタイトルに使われた文言が本文のなかで必ず出てくるというものではない。例を挙げよう。今、私は宇野弘蔵著作集の最後巻である「別巻」を読んでいるが、ここには随想や評論などさまざまな雑文が集められている。もちろん、雑文だからといって内容がないと言っているのではない。その今読んでいる随想の一つを見てみよう。「学究生活の思い出」という随想がある(同著作集別巻88~103頁)。ではその本文のなかに「学級生活」という文言や「思い出」という文言が出てくるかといえば一つも出てこない。大谷氏流に言えば〈完全に消え失せる〉! では、果たして大谷氏はここからこの宇野の随想のタイトルはその本文の内容にそぐわないと結論するのであろうか。しかし実際にはその随想はそのタイトルどおりの内容なのである。これを見ても大谷氏の論証の仕方はあまりにも杜撰でいい加減なものであることが分かるであろう。
 大谷氏はその少し前では、「実体的諸条件」の「実体的」の意味が第1稿でのそれより第2稿では拡張されているとして、「実体的変態」という文言の使用例を第2稿や第4稿、さらには1877年の覚書等々から紹介していたのではないだろうか。「実体的変態」は使われているが、「実体的諸条件」は使われていない、というのであろうか。しかし「実体的変態」は「実体的諸条件」の具体的な内容の一つではないだろうか。そもそも大谷氏は「実体的諸条件」の意味の拡張を論じるために、「実体的変態」という用語を取り上げたのではないだろうか。つまりそれは両者が共通した対象を論ずるものと考えたから、後者ではマルクスは二重の意味をもつと述べているから、だから前者でもそうだとしたのではないのだろうか。もしそうであるなら、例え「実体的諸条件」という文言がないからといって大騒ぎすることもないし、それを根拠に、もはや〈「実体的諸条件」という表現が新たに得られた第3章の内容にそぐわないものとなってい〉るというのは、あまりにも乱暴であり、飛躍し過ぎた論理ではないだろうか。問題はマルクスが「実体的諸条件」という言葉で何を論じようとしているかということであろう。そしてその同じ問題を第2稿やそれ以降の諸草稿(例えば第8稿等々)でマルクスは問題にしているのかどうかということではないか。大谷氏がご丁寧にもいろいろと紹介してくれているように、それらの諸草稿でマルクスは「実体的変態」という用語を使っていろいろと論じているのだから、やはりマルクスはそれらの諸草稿でも「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」を具体的に探求しているということではないのか。マルクスが第3章(篇)の考察において、再生産過程の実体的諸条件といえるものを考察の対象にしていないというのなら、確かに大谷氏の主張にも一定の根拠があるが、しかし大谷氏はそれを論証したわけではない。そればかりかむしろそれを反証する数々の抜粋をわれわれに紹介してくれている。ただ字面だけを調べて(こんなことはデジタル・データを検索にかければ簡単に分かることだが)、一つもヒットしなかったということだけではあまりにも安易であり、根拠薄弱としか言いようがない。

 確かに大谷氏が指摘するように第1稿には「実態的諸条件」という用語が頻出する。それに対して、それ以降の諸草稿では、第3章のタイトル以外にはそれを使っていないらしい(とりあえず大谷氏の言明を信用しよう)。しかしこれは第1稿の性格から来ているように私には思える。第1稿には第2部を考察し、叙述する上での方法上の問題が常に意識され書き留められているからである。しかし第2稿以降では、そうした方法上の問題意識はもちろんあるにしても、背後に隠され、明示的に書き留められているわけではないからである。だから第2稿以降の諸草稿に「実体的諸条件」という文言がないということには何の不思議もないのである。

 そこで少し思い出したことがある。大谷氏はこの論文を、以前、『経済』誌に発表された論文(『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡――メガ第II部門第11巻の刊行に寄せて――『経済』09年3・4・5月号掲載)の補足として書かれたものだそうだが、確かその論文の中でも同じような主張をされていたのである。そこで昔のその大谷氏の論文を批判的に検討して書いたものを捜してみたら、やはりあった。そこでは私は次のように批判している。長くなるが、ご容赦ねがいたい。以下、【 】内は私の同論文の批判的検討(『資本論』第2部諸草稿(特に第8稿)の研究)からである。

 【●【「実体的諸条件」の解明から社会的総再生産過程の考察への課題の転換】についても疑問

 これは「(3) 第2稿第3章にたいする第8稿第3章の理論的前進」の二つ目の項目であるが、ここで大谷氏は、それを次のように説明されている。

 〈第8稿では、第3篇の課題について、さきに第2稿で獲得された「e 第3章の課題についての新たな視点」として述べた観点が、考察の全体を貫くようになった。ここにはもはや、第2稿までの、社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない。〉 (中130頁)

 しかし第8稿が貨幣流通による媒介を顧慮した社会的総再生産過程(単純および拡大)の考察に、マルクス自身は限定して、それを「先取りして」論じているということが理解され得るなら、すなわち第8稿がそうした限定された性格のものであることが分かっておられるなら--そしてわれわれはすでに「利用すべき諸箇所」の「ノートII」のところで、マルクスが《この第二の叙述が基礎に置かれなければならない》と書いたこと、そしてこの指示のあとに書かれたマルクスの諸草稿は、まさにそうした指示にもとづいた性格を持っていること、すなわちそれらすべてが部分的・断片的なものにすぎず、第8稿もその例に洩れないことを指摘した--、そこで〈社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない〉ことは、何ら不思議でもなんでもないことに、大谷氏も気付かれたのではないだろうか。というのはすでに問題の重点はそうした問題にはないからである。しかしそのことは「実体的素材変換」や「実体的諸条件」がどうでもよいものであるということでは決してない。事実、マルクス自身も第8稿の《II 蓄積または拡大された規模での生産》でもそうした考察を行なっているからである。その一例を次に紹介してみよう。

 マルクスは蓄積にはそれに先行する潜勢的貨幣資本である貨幣の蓄蔵が不可欠なことを指摘して、その蓄蔵貨幣が如何に形成されるかを論じているところで、次のように述べている(下線はマルクスによる強調)。

  《この剰余生産物を次々に売っていくことによって,資本家たちは蓄蔵貨幣,《追加的な》潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には,この剰余価値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余生産物は,B,B',B”,《等々》( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは,可能的には、それが売られる以前から,貨幣蓄蔵者A,A’,A”等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは, I の側での《再》生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである。というのは,この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく,また単純再生産の基礎の上で支出されたのよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。違う点は,ここではただ,充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである。この剰余労働は,IIのために機能すべき,またそこでcII)となるべき生産手段生産にではなくて,生産手段( I )の生産手段に支出されたのである。……
  したがって、単純再生産--《たんに》価値の大きさ《だけ》から見れば--の内部で、拡大された規模での再生産の、現実の資本蓄積の、物質的土台〔Substrat〕が生産されるということになる。それはまさにとりもなおさず(当面の場合には)、《直接に》生産手段の生産に支出された剰余労働 I 、すなわち可能的剰余不変資本の創造に支出された、労働者階級( I )の剰余労働である。だから、 I のA、A'、A"、等々の側での可能的な新追加貨幣資本の形成……は、生産手段( I )の追加的生産の単なる貨幣形態なのである。
  したがって、可能的追加貨幣資本の生産は、ここでは……、生産過程そのものの現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない。》
(大谷訳『経済志林』54-58頁)

 ここではマルクスは、蓄積の本質、その概念を解明しているのであるが、蓄積に必要な貨幣蓄蔵は剰余価値を実現して入手した貨幣を蓄蔵するのであるが、しかしその販売される剰余生産物そのものがすでに追加的な生産手段として生産されていなければならないこと、だから蓄積というのは剰余生産物を生産する労働者の《充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけ》が問題なのであり、だから蓄積というのは--そしてそれに必要な潜勢的貨幣資本の形成というのは--、《生産過程そのものの一現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない》と述べている。つまりここでマルクスが問題にしているのは、資本の蓄積の一契機である蓄蔵貨幣の形成という問題の背後にあるまさに「実体的諸条件」そのものなのである。そしてこれが資本家Aから資本家Bに生産手段の生産手段として販売されるのであるから、それが「実体的素材変換」でもあることはいうまでもないであろう。だから第8稿では〈社会的再生産における「実体的素材変換」にかかわる「実体的諸条件」という文言はどこにも見ることができない〉などという大谷氏の主張はまったく正しくないであろう。】

 このように先の『経済』掲載論文では、大谷氏は第8稿では「実体的諸条件」という文言はどこにも見い出せないと主張していたのであるが、今度は、さらにそれを拡大して、第2稿における第3章のタイトルを除くと、その本文でも、さらにはそれ以降の諸草稿でもそれは〈完全に消え失せる〉などと主張しているわけである。しかし上記において批判しておいたように、マルクス自身は第8稿でもその内容において、実体的諸条件を考察していることはあきらかなのである。大谷氏はただ「実体的諸条件」という文言だけを問題にしているから、こんな馬鹿げた結論になってしまうのである。先に紹介した第8稿のなかでもマルクスは〈したがって、可能的追加貨幣資本生産は、ここでは……、生産過程そのものの現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない〉と述べている。これは蓄積の概念としてきわめて重要な指摘なのであるが、ここでは明確にマルクスは〈実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象〉という形で「実体的諸条件」について述べているわけである。

 ついでにやや前後するが、上記の引用文のなかで大谷氏が〈第8稿では、第3篇の課題について、さきに第2稿で獲得された「e 第3章の課題についての新たな視点」として述べた観点が、考察の全体を貫くようになった〉と述べている〈第2稿で獲得された「e 第3章の課題についての新たな視点」〉なるものについても、私は次のように批判したので、これも長くなるが関連すると思うので、紹介しておこう。

 【●[a 第3章の課題についての新たな視点]なるものの説明も納得がいかない

 次に大谷氏が第2稿の理論的進展として説明されているもので引っ掛かったのは、〈第3章の課題についての新たな視点〉というものである。というのは、その論旨が今一つジグザグしているような気がしたからである。……

 ……(中略・ジグザグしている理由を述べている部分はカット)……

 また大谷氏は「実体的諸条件」ということでマルクスが何を考えていたかについて、次のように説明されている。

 〈第1稿で頻出するこの「実体的〔realまたはreell〕」という形容詞でマルクスが考えていたのは、資本の循環に即して言えば、W_Gが、商品形態から貨幣形態への資本のたんなる「形態的〔formalまたはformell〕」な変態であるのにたいして、生産過程での変態は、生産手段および労働力という特定の使用価値をもつ生産諸要素が特定の使用価値をもつ生産物に形態変化するという変態であり、したがってまたG_Wも、貨幣がそのような特定の使用価値をもつ生産諸要素に転化するという変態だということであって、こうした意味でG_Wおよび _P_ は、ともに実体的な変態なのである。このように、「実体的」とは、使用価値にかかわる、という意味であった。だから、第3章が明らかにすべき「再生産の実体的諸条件」とは、社会的再生産の進行のために、使用価値の観点から区別される生産諸部門のあいだで、使用価値を異にする生産物が相互に転換されるのに必要な諸条件、ということであった。マルクスは、社会の生産諸部門を生産手段生産部門と消費手段生産部門との二つの部門に分割し、両部門の内部補填と両部門間での相互補填とによって再生産が進行するために必要な諸条件、諸法則がどのようなものであるか、ということを明らかにしなければならないと考え、これを「再生産の実体的諸条件」と呼んだのである。〉 (上154頁)

 もちろん、こうした説明が間違っているというのではない。しかしここでも大谷氏は〈資本の循環に即して言えば、……〉として資本の循環から説明されているのであるが、これは果たして問題の説明としては正しいやり方であろうか。これはすでに紹介した一文であるが、マルクスは《実体的な再生産過程の考察のためには、貨幣をひとまず捨象することができる》理由を次のように説明していた。

 《そのかぎりでは資本の貨幣形態は、商品の変態W-G-Wにおける貨幣一般と同様に、再生産の、媒介的ですぐに消えてしまう形態として〔機能する〕にすぎないし、また、現実的再生産過程そのものとはなんのかかわりももたない。……したがってどちらの場合にも、実体的(レアール)再生産過程の考察のためには、貨幣をひとまず捨象することができるのである(つまり、資本が貨幣に形態的に転化すること、資本が貨幣形態を周期的にとることが、摩擦なしに行なわれるものと前提する場合には〔そうすることができるのであり〕、またじっさいわれわれはさしあたりこのように前提するのである)。それゆえわれわれは、この考察においては貨幣流通(および貨幣資本としての形態にある資本)を捨象する。》 (200-201頁)

 だから問題は資本の形態転換が問題になる「資本の循環に即し」た説明ではなく、ここでマルクスが述べているようにW-G-Wの過程における貨幣と同様に、それを捨象して問題を捉えなければならないということである。つまりW-Wの過程として問題を考えるべきだということである。これは資本の再生産過程としては社会的な総商品資本の相互の補填関係を意味している。社会の総商品資本を素材と価値との両面からの相互の補填関係を論じる場合には、貨幣はただ媒介的な契機として現われるだけだから、捨象して考えることができるし、しなければならないというのが、マルクスの考え方なのである。
 またマルクスは第1稿の「第1節 資本の諸変態」の最初のあたりで、それぞれの章の課題を明らかにしているが、そこでは「第3章」について、次のような説明がある。

 《{第3章で行なうように、流通過程を現実の再生産過程および蓄積過程として考察するさいには、たんに形態を考察するだけではなくて、次のような実体的(レア-ル)な諸契機がつけ加わる。
 (1) 実体的(レアール)な再生産(これは蓄積--ここではただ、拡大された規模での再生産のことである--を含む)に必要な諸使用価値が再生産され、かつ相互に条件づけあう、そのしかた。
 (2) 再生産は、再生産を構成するその諸契機の、前提された価値=価格諸関係によって条件づけられているのであるが、この諸関係は、諸商品がその価値で売られる場合は、労働の生産力変化よって生じるその真実価値の変動によって変化しうるものである。
 (3) 流通過程によって媒介されたものとして表現される、不変資本可変資本剰余価値関係。》
(9頁)

 つまりマルクスが第3章でやろうとしていることは、社会の総商品資本を素材(使用価値)と価値(これは与えられた諸使用価値の生産諸力において、社会の総労働を諸使用価値の生産諸部門に如何に配分すべきかの指標を意味している)の両面から、それらがどのように交換されて補填し合わなければならないかを考察しようということである。だからこそ、ここでは諸使用価値が重要な考察の対象になってくるのである。そしてそれをマルクスは《実体的(レアール)な再生産過程》と述べているのである。
 マルクスは諸商品の諸使用価値においては、社会的な分業が示されていることを次のように説明していた。

 《さまざまな種類の使用価値または商品体の総体のうちには、同じように多様な、属、種、科、亜種、変種を異にする有用労働の総体--社会的分業--が現れている。……どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。》 (全集版第1巻57頁)

 社会的総再生産過程を考察する第3章の課題は、社会の総生産物が過不足なく、社会的分業にもとづいて、それぞれが必要な生産諸部門や諸個人に配分され消費される過程を(商品資本の流通過程として)考察することである。そうした社会的分業を体現しているのが、諸商品の使用価値なのである。だからこそ第3章では諸使用価値が問題にならなければならないのである。生産手段部門と生活手段部門とに社会的生産が大きく分けられるのは、それが一つの多岐的な体制となっている社会的分業のもっとも基本的な構成部分だからである。実際には、社会的な総生産物は、素材的にも価値的にも、社会的分業にもとづいて、あらゆる生産部門間における生産的消費や社会を構成する労働者や資本家たちの個人的消費に対して、相互に補填し合わなければならないのである。それらは部門 I 内部での、あるいは部門 I と部門IIとの間での、さらには部門II内部での相互の補填関係として捉えることができる。使用価値が問題になる理由はそうしたところにあるのであって、そうした観点が大谷氏には欠けているように思えるのである。
 大谷氏は〈第2稿の第3章では、第1稿の第3章ではまだ十分に意識されていなかった見地を基本に据えることになった〉として次のようにその内容を説明されている。

 〈すなわち、第一に、商品資本→貨幣資本→生産資本→商品資本、と形態を変化させていく資本の循環過程。第二に、商品資本のうちの剰余価値を表わす部分→貨幣→資本家の個人的消費手段、と形態を変化させていく資本家の収入(剰余価値)の変態。そして第三に、労働力→貨幣→必要生活手段、と形態を変化させていく労働者の労働力の変態、この三つの循環ないし変態が互いにどのように絡み合って社会的総再生産過程を形成しているのか、ということを、商品資本の循環を基礎に据えて全面的に考察する、という見地である。第2稿の第3章の各所でマルクスは、社会的総再生産過程をこの視点から考察しようと努めた。〉 (上154-155頁)

 しかしこれらも、やはり貨幣流通と貨幣資本を考慮した場合の問題である。それらを捨象して考察している第1稿で、そうした「見地」が「十分に意識されていなかった」どころか、マルクスは「十分に意識して」それらを捨象しているのである。そして第2稿では、今度は問題は「二段構えの構成」で考察されており、よって単純再生産もまずは「a 貨幣流通による媒介なしの敍述」がなされたあと、「b 貨幣流通による媒介を入れた敍述」がなされているわけである。だからその意味では貨幣流通や貨幣資本の契機も考察の対象に入ってくるわけで、大谷氏が指摘するような「見地」が入ってくることは確かであろう。しかしそのことは何かそうした「見地を基本に据えることになった」ことを意味しないであろう。そうした見地も考察の対象として入ってくることになったということだけではないかと思うのである。】

 そして大谷氏は、マルクスが第2稿の第3章のタイトル以外には、第2稿の本文やそれ以降の諸草稿で、「実体的諸条件」という用語を使わなくなったことについて、次のようなもっともらしい理屈を考え出すのである。

 〈このこと(つまり〈肝心のこの第2稿で,マルクスはこのタイトルのなか以外には,この語そのものをまったく使わなかった〉ということ--引用者)が示唆しているのは,あらたなより深い認識は,それが得られたときにいつでもただちにそれに相応しい概念や枠組みを獲得できるわけではなく,多くの場合,とりあえずそれ以前の概念や枠組みを使って表現されるのだ,ということである。このようなずれは,マルクスにかぎったことではない。それは,偉大な思想家たち,理論家たちの認識の深化の過程でつねに見られるものである。彼らの思想や理論の形成の過程を解明するさいには,一方で,生まれ育まれたあらたな認識やそれまでの認識の刷新を旧来の概念や枠組みのなかでの叙述のなかに発見することが必要であり,他方では,その新たなものが古い枠組みや概念によって受けている制約を見抜き,理論家たち自身によつて古い概念や枠組みがついに脱ぎすてられていく過程をリアルに見ることが必要である。〉 (22頁)

 このような理屈を述べて、大谷氏は次のテーマ、いわばその最終目標(二段構えの叙述プランの放棄)に入っていくわけである。

(以下、4に続く)

« 「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(2) | トップページ | 「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(4) »

「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1480743/73134603

この記事へのトラックバック一覧です: 「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(3):

« 「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(2) | トップページ | 「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(4) »