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2018年3月16日 (金)

「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(2)

「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか(2)

◎6.第2稿第3章のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の意味は?

  さて、いよいよ第2稿の第3章のタイトルとしてマルクスが書いている「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の意味が問題とされるところまて来たわけである。ところで、大谷氏はこのタイトルで追求するテーマが、第1稿と第2稿とでは位置づけが変わっていると次のように述べている。

  〈マルクスは,第1稿の最後のページに書き付けた第3章プランではこの章の第1節のタイトルとしていた「流通(再生産)の実体的諸条件」という句を,第2稿の第3章冒頭で,いわば一段の格上げを行なって,第3章全体のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」にした。これによって,タイトルで見るかぎりでは,「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」の解明は,第3章でなによりもまず明らかにされるべき中核的課題という位置から,第3章がその全体をもって答えるべき課題という位置に引きあげられたのであった。〉 (15頁)

  しかしこうした指摘にはやや首を傾げるところがある。第1稿の最後に書かれたプランはすでに紹介したが、そこでは〈したがって、この第3章の項目は次の通りである〉と書かれており、第3章のタイトルそのものは書かれていなかった。とすれば、マルクスは第1稿の本文の第3章につけたタイトル「流通と再生産」を前提してこのように述べていると考えるしかない。とするなら、大谷氏はこの第3章のタイトルについて次のように述べていたことを思い出すからである。

  〈第1稿の第3章につけられたタイトルは「流通と再生産〔Circulation uo Reproduction〕」(MEGA② Ⅱ/4.1,S.301)であったが, じつは,第1稿の第3章でマルクスが書こうとしていたものの実際の内容が第2稿第3章のタイトルに合致するものであって,第1稿での「流通と再生産」というタイトルは第2稿での「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」というタイトルのいわば短縮形であったことは,第1稿の各所での記述から明確に読み取ることができる。〉 (2頁)

つまり大谷氏のこの主張にもとづけば、マルクスは第1稿の段階でも「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」という表題を第3章の表題として考えていたのであり、ただそれを「流通と再生産」という短縮した形でつけたのだということになる。つまりこの主張にもとづけば、マルクスは第1稿の段階から「流通および再生産過程の実体的諸条件」というタイトルを〈第3章がその全体をもって答えるべき課題〉として位置づけていたということではないのか。となると大谷氏の先の〈という位置に引きあげられた〉という評価には納得ゆかないものが生じてくる。しかしまあ、これは大した問題ではない。
  次に疑問とするのは、先に紹介した第1稿の最後にマルクスが書いた第3章のプランそのものは、まだかなり大雑把なものだということである。というのは、このプランを書く直前に、つまり本文の最後で、マルクスは〈第9節 再生産過程の攪乱〉という表題を書いているが、しかしそこにはただ〈これは、第3部第7章で考察すべきである〉(上掲294頁)と書かれているだけなのである。だからこの第9節が書かれた時点では、マルクス自身はこれは第3部第7章で考察されるべきものだと考えていたということになる。ところがそれに続く、草稿の最後の部分で第3章の全体のプランを書いた時には、いまだそれは第2部第3章の課題だとマルクス自身は考えていたという奇妙なことになるからである。だから第1稿の本文とこの最後に書かれた第3章全体のプランとにはある程度の時間的ずれがあることも考えられるのである。草稿の状況を直に調べることができたなら、このプランが、第3章の本文の最後の一文に続けて書かれているのか、それとも別の紙葉に書かれたものなのかによって、そこらあたりの見当はつけられるであろうが、それは今の時点ではかなわぬことである。いずれにせよ、その直前の本文で第3部第7章で考察すべきとしているのに、どうしてその直後の第3章のプランのなかに、依然として今度は項目としては6に変更されているが、〈再生産過程の攪乱〉が入っているのかという疑問が当然生じるであろう。

  第1稿の第3章の本文のなかにつけられた項目を掲げてみよう。

第3章 流通と再生産
  第1節 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産
  第2節 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)
〔第3節 再生産過程における固定資本の役割〕
〔第4節 再生産の弾力性〕
  第5節 蓄積、すなわち、拡大された規模での再生産
  第6節 蓄積を媒介する貨幣流通
  第7節 再生産過程の並行、段階的連続、上向的進行、循環
  第8節 必要労働と剰余労働(剰余生産物)
  第9節 再生産過程の攪乱

  {ここで〔 〕に括られた項目と表題は訳者によってつけられたものであり、第3節は、ここからはじまるパラグラフの冒頭に(3)と番号が打たれて、それ以降の課題が書かれてあるのを、それをそのまま表題にしたものであり、第4節は、内容的にここからは明らかに最後に書かれているプランにあるものと一致するということでつけられたもののようである。}

 いま単純に、先に紹介した第1稿の最後に書かれているプランと、第1稿本文の中の項目とを引き比べてみると、もし本文を書いてから、このプランが書かれたとするなら、プランの〈1、流通(再生産)の実体的諸条件〉に該当するのは次の三項目であろう。

 第1節 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産
  第2節 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)
〔第3節 再生産過程における固定資本の役割〕

 これは両者に共通な「再生産過程の弾力性」の位置から推し量ることができる。だからこれらの三項目に書かれている表題の内容を考察するということは、すなわち〈流通(再生産)の実体的諸条件〉を解明していくということだと分かる。

  いずれにしても、この第1稿の最後に書かれたプランそのものは、マルクスが第1稿を書いたあと、『資本論』第1巻の執筆に取り組み、それを刊行、後にようやく第2部第2稿の執筆に取り組み、それを途中まで書き上げたあとに、第2部全体を見渡してそのプランを第2稿の表紙に書いた時点では、すでに過去のものになったと考えるべきであろう。ただそうだと言っても、マルクス自身のプランに何か大きな変化や転換があったとは考えられない。事実、これらの三つのプラン、すなわち①第1稿の本文の中に書かれた項目、②第1稿の最後に書かれたプラン、③第2稿の表紙に書かれたプランについて、第3章に限ってみても、やはり内容的には引き継がれたものがあることが分かるのである。それが分かるように、第2稿の表紙に書かれた第2部全体のプランのうち、第3章の項目を紹介してみよう。

第3章 流通過程および再生産過程の現実的諸条件
  (1)社会的に考察された不変資本、可変資本、および剰余価値
  (A) 単純な規模での再生産
    (a)  貨幣流通による媒介なしの叙述
    (b)  貨幣流通による媒介を入れた叙述
  (B) 拡大された規模での再生産、蓄積
    (a)  貨幣流通なしの叙述
    (b)  貨幣流通による媒介を入れた叙述
  (2)

  {ここで(2)は項目番号が打たれているだけであるということである。}

 ここで「(1)社会的に考察された不変資本、可変資本、および剰余価値」というのは、内容的には、第1稿の本文の項目の「第1節 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産」「第2節 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)」の内容に合致するものであろう。だからまたそれはすでに指摘したように、第1稿のプランの〈流通(再生産)の実体的諸条件〉に通じ、よって第2稿の第3章の表題「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」に一致しているわけである。このようにマルクスの第2部第3章(篇)の構想そのものは基本的には第1稿からそれほど大きな変化もなく引き継がれていると考えるべきではないだろうか。

●「実体的諸条件」の意味の拡張?

  大谷氏は、第1稿でマルクスが〈実体的諸条件〉と述べている意味が、第2稿では拡張されて使われていると指摘している。確か大谷氏の先の『経済』連載論文でもそのような指摘があったが、その時にはその詳しい説明が省かれていた。私はそれについて次のように書いたことがある。

  【ついでにいうと、大谷氏は「実体的」という概念を第2稿では拡張しているとして次のように指摘されている。

 〈第2稿の第1章では、価値増殖過程での価値量の変化(増大)をも「実体的変化」と呼ぶことによって、この「実体的」という概念は価値の量的変化をも含むものに拡張された〉 (11頁下段)
 
 しかし具体的には第2稿の当該部分が引用されているわけでもなく、指示されてもいなので何とも確認しようがない(第2稿の第1章については、すでに八柳良次郎氏による翻訳があるのではあるが)。このあたりも少し配慮が必要なように思えた。
 因みに、この問題については、早坂啓造氏の詳細な考察がある(《『資本論』第II部の成立と新メガ》東北大学出版会、250-264頁)。ただし同氏も第1稿だけにもとづいて考察しているだけである。同氏は概念の拡張といった観点ではなく、マルクスはこの用語を「2様に使い分けて」いると指摘されている。これはただ参考のために紹介するだけであるが。】

  しかし今回、大谷氏はマルクスの諸草稿を紹介しながら、その意味の拡張について具体的に論じている。そのために、大谷氏は〈実体的変態〉という用語を検討し、次のように指摘されている。

  〈ところが,第2稿では,②P(生産過程)が「実体的変態」と呼ばれるのに,生産諸要因すなわち生産手段および労働力が生産物に変わるという使用価値の変化という意味のほかに,明らかにもう一つの意味が付け加わったのである。すなわち,この過程を通過するなかで資本価値が増大する,量的に変化する,という観点である。こうして,P(生産過程)は,二重の意味で「実体的変態」と呼ばれることになった。〉 (16-17頁)

  そして大谷氏はこのことをはっきり示している箇所として、第2稿からと第2稿と前後して書かれたという第4稿、さらには1877年にふたたび第2部の仕事にたち戻ろうとして、以前に書いた諸草稿の利用すべき諸箇所を摘要して作成したもの(エンゲルスは第2部序文で「最後の改定のための覚書」と呼んだ)から、幾つかの文書を紹介している。とえあえず、われわれは最後のもの(覚書の文章)を重引しておこう。

  〈「実体的変態〔reelle Metamorphose〕。二重に,すなわち素材的に,つまり新生産物,第2に,価値変化,価値増殖過程。」(MEGA②II/11,S.541.)〉 (18頁)

  こうして大谷氏は次のように結論している。

  〈以上のところからはっきりと読みとれるように,マルクスはいまや,生産過程は,労働過程としての観点において,および,価値増殖過程の観点において,ともに「実体的な変態」が生じる過程であり,前者においては使用価値の形態の変化が生じ,後者においては価値の量の変化=増大が生じるのだ,このような意味において,生産過程は二重の意味で「実体的変態」なのだ,という認識をもつようになったのである。〉 (18頁)

  つまり第1稿では、〈実体的変態〉という言葉は、生産過程において使用価値の異なる生産物に変わるという意味で使われていたが、第2稿では、〈実体的変態〉には、生産過程において資本価値の素材的担い手である使用価値が変化するという意味でだけではなく、価値も増大するとういう意味でも、マルクスは〈実体的変態〉と述べているというのである。そしてそれが第1稿から第2稿へのマルクスの問題意識の発展であり、展開だと主張されている。
   しかし大谷氏は、資本価値が増大することを、なぜマルクスは実体的な変態としてとらえているのかということを深く考えなかったように思われる。もしそれを深く考えたなら、そのような認識が第2部の諸草稿の第2稿の段階でマルクスがはじめて到達したなどということがありえないことが分かったであろう。(ついでにいえば、大谷氏は「資本価値」という用語を資本の運動の主体として捉えたのも第2稿になってからであるかに述べているが、これも噴飯ものといえるが、これについては項を改めて論じたい)。
  なぜ、マルクスは資本価値が増大することについて、それを実体的な変態だと述べているのであろうか。それは『資本論』の第1巻を読めば分かる。つまり第2部の第1稿の後の諸草稿が書かれる前に書かれた第1巻のなかにそれが書かれているのである。
  資本の価値が増大するということは、最初に投じた貨幣資本GがG'になるということである。そしてそのために最初に投じたG(貨幣資本)は、まず生産過程に必要な、商品資本と商品に、つまり生産手段と労働力に転化しなければならない。この貨幣資本の生産資本への転化をマルクスは形態的な変態と述べているわけである(もちろん、生産された商品資本(W')を貨幣資本(G')に転化する過程も、やはり形態的な変態である)。それにたいして、資本はその価値を増殖するためには、貨幣資本から転化した生産資本の現物形態である生産手段と労働力を使って、新たな使用価値を生産しなければならない。それがすなわち実体的な変態である。そしてその過程を通して、資本はその最初に投じた資本を維持するだけではなく、増殖するわけである。では、それが行われるということはどういうことであろうか。生産過程で何が行われているのか。まず生産過程で消費される生産諸手段の価値が、その生産過程のなかで維持されるばかりでなく、新たな使用価値(生産物)の価値として移転され保持される必要がある。そしてこうした価値の保持と移転が行われるのは、まさに生産過程の実体的な過程においてなのである。マルクスは次のように述べている。

 〈生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。それは、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移る。しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行なわれる。労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働をつけ加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない。なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態でつけ加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからである。だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。そして、この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのである。〉 (全集23a270頁)

  労働者がその労働の特定の有用な形態で生産手段に働きかけ、それを加工し、変形して、要するに生産的に消費して、新たな生産物(使用価値)を形成するという実体的な変態の過程こそ、同時に、生産手段の価値を維持し移転させる過程なのである。この生産手段の価値の移転と保持は具体的有用労働の契機によって行われる実体的な過程である。そして労働者はいうまでもなく、生産手段の価値を移転し保持するだけでなく、その過程を通じて新たな価値をも付け加えるのであるが、労働者は自身の労働力の価値部分を越えてそれを行うのであり、だからこそ資本価値は増殖するわけである。そしてこうしたことからマルクスは資本価値の増殖を実体的な変態の過程だと述べているのである。資本価値の形態の変態(G-W、W'-G')は資本の流通過程の問題であり、価値の大きさには何の変化ももたらさない。だから資本価値の量的変化は、生産過程という実体的過程において行われるわけである。だからマルクスは資本価値の増大を実体的な変態としているのである。
  だから敢えていうまでもないが、こうしたことは『資本論』の第1巻を執筆し終えていたマルクスにとっては当然了解済みのことであり、第2部の第2稿の執筆段階において始めて獲得されたというようなものでないことは明らかである。大谷氏はマルクスの文章の字面だけを追って、その内容を深く考えることをしなかったために、こうした誤りに陥ったのであろう。

●「資本価値」も概念的把握は第2稿からだって?(商品価値と資本価値)

  大谷氏は先の〈実体的変態〉の意味を二重の意味として、マルクスが第2稿ではじめて獲得したものであると論じたあとに、すぐに続いて、次のように述べている。

〈この認識(つまり〈実体的変態〉を二重の意味でとらえるという認識--引用者)は, じつは,第1稿までにはなかった, もう一つの概念的把握の誕生と結びついていた。それは,「資本価値〔Capitalwerth〕」という概念である。〉 (18頁)

  こういう主張を聞いて、多くの人は驚くであろう。そして実際、大谷氏もそれを予想して、次のように続けている。

〈「資本価値」という概念は, きわめてありふれたもので,それが新たな概念的把握だなどと言うのは滑稽きわまる, という粗忽な論者もあるに違いない。
  もちろん,マルクスは『経済学批判要綱』以前から,資本が運動するなかで増殖する価値であることを知っており, したがってそのような資本の価値を「資本価値」と呼んだことも当然にあってしかるべきだ,と言つてもいいであろう。
  ところが,『経済学批判要綱』でも『1861-1863年草稿』でも,運動の主体としての「資本」についてはいたるところで語られているけれども,「資本価値」が資本の循環運動のなかで量的に増大して行く「主体」として注目されている箇所はほとんど存在しない。およそ,「資本価値〔Capitalwerth〕」という語がきわめてわずかしか使われていないのである。
   このいわば平凡きわまる「資本価値」という概念は,いま見ている第2部の第4稿および第2稿で使われ始めると,このあと,重要な概念としていたるところに登場するようになるのである。〉
(18頁)

  はっきり言って、私も、大谷氏がいうところの、その〈粗忽な論者〉の一人であることを正直に認めざるを得ない。しかし、果たしてどちらが〈粗忽な論者〉なのであろうか。
  マルクスが「資本価値」という用語を資本の運動の主体としてとらえて、それが増殖していくものとして捉えているのは、第2部第2稿の段階からだなどという馬鹿げた主張をしている人こそ、〈粗忽な論者〉とは言えないか。
  例えば、マルクスは、すでに商品の流通においても、「商品価値」を主体としてとらえて、その姿を商品体から金体へと変換していくものと捉えている。だから資本の運動においても、その主体が「資本価値」であることは、マルクスにとってはまったく自明のことである。まず「商品価値」について、マルクスはどのように述べていたかを見てみよう。

 〈W-G、商品の第一変態または売り。商品体から金体への商品価値の飛び移りは、私が別のところで言ったように〔本全集、第13巻、71(原)ページ〕、商品の命がけの飛躍である。〉 (全集23a141頁、赤字は引用者)

  次ぎに「資本価値」についても、マルクスは次のように述べている。

 〈われわれは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。〉 (全集23a273頁、赤字は引用者)

  このようにマルクスは資本の増殖を資本価値を主体としてそれが増大するものと捉えている。これは『資本論』第1部であるから、いうまでもなく、第2部第2稿の前に書かれたものである。〈粗忽な論者〉が誰かは明白である。

●第3章のタイトル「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」についても、意味の変化があった?

  上記のように、大谷氏は〈実体的変態〉の意味が第1稿から第2稿に移る過程で、その意味が拡張して使われているとし、そしてそこから次のような結論を導き出す。

  〈このように,第1稿での「再生産の実体的変態」では,それが「実体的」と呼ばれたのが,資本の使用価値の形態変化についてであったのにたいして,第2稿での「資本価値の実体的変態」では,いまや,使用価値の形態の変化についてだけでなく,価値の量的変化についても「実体的な変態」と呼ばれるようになったとすれば,第3章のタイトルとされた「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」についても,それに対応する意味の変化があったと考えるのが至当であろう。〉 (19頁)

  こうした意味の変化は〈どのような新しい合意を得ていると考えられるであろうか〉(20頁)というのが、次の大谷氏の問題意識である。そしてそれは「資本価値」を主体として捉えて、それが実体的な変態を通過するだけではなく、価値量の増大という実体的変態をも通過するという二重の観点からみられた「諸条件」だというのである。次のように述べている。やや長くなるが、正確を期すために必要な部分を全文紹介しておこう。

  〈すなわち,一方では, どの個別資本も,「一般的商品流通のなかで貨幣として,あるいは商品として機能」し,G-WおよびW′-G′によって「商品世界の諸変態列のなかでつなぎ合わされて〔verkettet〕いる」, という観点,他方では,個別資本が「一般的商品流通の内部で取つたり捨てたりする諸形態」は,「過程を進行する資本価値の機能的に規定された諸形態」にすぎず, どの個別資本も,「生産部面を一つの通過段階とする自己自身の自立的な循環」を描いて,つねにその出発点での形態に戻つてくる」, という観点,この二重の観点である。
  もちろん,一般的商品流通の内部で「つなぎ合わされている」のは,個別資本の自立的な循環の相互のあいだだけではなく,さらに,資本家の剰余価値を表わしている商品生産物=商品資本の価値部分の自立的な変態,および,労働力のW-G-Wという商品変態をも加えなければならない。しかし,資本価値の自立的循環,剰余価値の自立的変態,労働力商品の自立的変態,の三つの循環ないし変態をそれぞれ自立的な運動としてとらえて,これらの自立的な運動相互間の「つなぎ合わせ〔Verkettung〕」ないし「絡み合い〔Verschlingung〕」をとらえる, という視点のかなめは,過程の全体を統括する〔ibergreifen〕資本の運動を「過程を進行する資本価値」の自立的循環としてとらえることにある。この把握の徹底は,剰余価値の自立的変態運動および労働力商品の自立的変態という他の二つの自立的運動をそのようなものとしてとらえて,これらと「過程を進行する資本価値」の循環との「絡み合い」を解明する,という新たな視点を切り開くことになるのである。ここで「新たな視点」というのは,第1稿では,社会的再生産過程を三つの異なる自立的な変態ないし循環の「絡み合い」としてとらえる観点が, ときおりあちらこちらで見え隠れしてはいても,基本的な視角とはなっていなかったのたいして,第2稿では,まさにこの観点こそが,社会的再生産過程を分析するさいの基本的観点となっているからである。ここに,第1稿に対する第2稿の「新しさ」がある。〉
(20頁、下線は大谷氏による傍点による強調箇所)

  しかしこうした大谷氏が指摘する「新しさ」なるものも眉唾物である。というのは、われわれが最初にみた、第1稿の本文の項目を思い出してみよう。それは次のようなものであった。

第3章 流通と再生産
  第1節 資本と資本との交換、資本と収入との交換、および、不変資本の再生産
  第2節 収入と資本。収入と収入。資本と資本。(それらのあいだの交換)

  大谷氏によれば、こうした観点は第2稿や第8稿では「克服」されるらしいのだが、ここでマルクスが「資本と資本との交換」や「資本と収入との交換」「収入と収入」との交換をそれぞれ独自に見ているということは、それらが独自の運動をするとともに絡み合っているということではないのか。その全体をとらえるために、まずはそれぞれを独自に考察するということではないだろうか。そんな観点が、第2稿で新たに獲得された「新しい」観点だなどといわれるとそれまでのマルクスの考察を振り返ると納得がいかないのである。
  そして大谷氏は、以上の観点を端的に示しているものとして、第2稿の第3章の冒頭部分の中で第3章での分析を特徴づけている次の一文だというのである(この一文は現行版の第3篇第18章第1節「研究の対象」の最後の部分に使われている)。

  〈「個別資本の循環は,互いに絡み合い,互いに前提し合い,互いに条件をなし合っているのであって,まさにこの絡み合いというかたちをとって社会的総資本の運動を形成している。単純な商品流通の場合に一商品の総変態が商品世界の変態列の環として現われたように,いまでは個別資本の変態が社会的資本の変態列の環として現われる。しかし,単純な商品流通はけつして必然的には資本の流通を含んではいなかったが--というのも,それは非資本主義的な生産の基礎の上でも行なわれうるのだからである--,すでに述べたように,社会的総資本の流通,循環は,個々の資本の循環には属さない商品流通,すなわち資本を形成しない諸商品の流通をも含んでいる。/そこで今度は,社会的総資本の構成部分としての個別諸資本の流通過程(その総体において再生産過程の形態であるもの)が,つまりこうした社会的総資本の流通過程が,考察されなければならない。」(MEGA②II/11,S.342-343;MEW24,S.353-354.)〉 (21頁)

  確かにこれは第3章の課題を明らかにするものであるが、しかし大谷氏が自説を〈端的に示している〉というのであるが、しかし残念ながら、このマルクスのこの一文には大谷氏が〈視点のかなめ〉とする、「資本価値」という文言そのものが見当たらない。そもそも〈これらの自立的な運動相互間の「つなぎ合わせ〔Verkettung〕」ないし「絡み合い〔Verschlingung〕」をとらえる, という視点のかなめは,過程の全体を統括する〔ibergreifen〕資本の運動を「過程を進行する資本価値」の自立的循環としてとらえることにある〉と力説されていた観点が、果たして上記のマルクスの一文にはあるであろうか。

  上記の一文でマルクスが述べているのは、次のようなことである。

  (1)個別資本の循環は、互いに絡みあい、互いに前提し合い、互いに条件をなしあって、社会的総資本の運動を形成している。
  (2)(個別資本の循環を考察している限りでは)、単純な商品流通は決して必然的に資本の流通を含んでいなかったが、社会的総資本の流通、循環は、個々の資本の循環には属さない商品流通、資本を形成しない流通をも含んでいる。
  (3)だから、今度は、社会的総資本の構成部分としての流通過程、つまりこうした社会的総資本の流通過程が考察される。

  この三つの項目で、例えば(1)で述べていることが、果たして第2稿でマルクスが新しく到達した観点だなどとは言えないことは明らかではないか。例えば第1稿の第3章の全体がそうしたものの考察といえるし、「第7節 再生産過程の並行、段階的連続、上向的進行、循環」や、とりわけそのなかにある小項目「再生産における資本の実体的変態」では、まさにそうした個別資本の循環の社会的な絡み合いや、相互の前提関係、条件をなしあう関係が考察されているのである。文言として〈個別資本の循環は,互いに絡み合い,互いに前提し合い,互いに条件をなし合っているのであって,まさにこの絡み合いというかたちをとって社会的総資本の運動を形成している〉という一文があるかどうかではなく、第1稿第3章で論じられている内容を考えれば、まさにそした文言に合致するものが考察されているのである。
  そもそも(1)で述べられているようなことは、ある意味では直感的にでも捉えられるようなことである。実際の諸資本の運動の内的関連やその法則性を解明し、社会的総資本の運動全体を解明していくことは、決して簡単なことではないし、詳しい科学的な考察を必要とするが、社会的な総資本の運動が、それを構成するさまさまな個別資本の、個々別々の運動が互いに絡まりあい、相互に前提し合い、条件づけあっているというような認識は、別に科学的な認識なくしても、現象的をただあるがままに見るだけでもわかる道理ではないだろうか。
 では(2)はどうであろうか。社会的総資本の流通や循環では、個々の資本の循環を考察している限りでは、入ってこなかった単純な商品流通、つまり労働者や資本家の消費を媒介する流通も考察の対象に入ってくるというのは、別に第2稿で新しく獲得された観点などではない。これもすでに第1稿でも述べられている。
 つまり大谷氏が〈ここに,第1稿に対する第2稿の「新しさ」がある〉と述べ、それを〈端的に示している〉とする一文には、まったく第2稿で新しく獲得されたものといえるようなものは何もないということである。

(以下、3に続く)

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