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2018年3月21日 (水)

「第2部仕上げのための苦闘の軌跡」検討の番外篇(4)

「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」とはなにか(4)

◎ 7.二段構えの叙述方法という旧来の枠組みの制約とそれの突破

 次のように大谷氏は述べている。

 〈このような,新たな認識とそれを表現する枠組みとのずれが,もっと鮮明に読みとれるのが,さきに触れた,『1861-1863年草稿』にすでに萌芽があり,第1稿で第3章の叙述方法として採用することを決め,第2稿第3章で実際に枠組みとして使われた,社会的総再生産過程の二段構えの叙述方法と,マルクスが第3章で叙述しなければならないと考えていた内容とのずれである。〉 (23頁、下線は大谷氏による強調)

 このように大谷氏は、再生産過程の考察は貨幣流通の媒介なしにはできないという、自分の勝手な思いつき(もちろん、これはエンゲルスに影響されたものであるが)を、あたかも〈マルクスが第3章で叙述しなければならないと考えていた内容〉だと強弁するのである。ではその論証を検討してみよう。

 まず大谷氏は〈社会的総再生産の過程は,生産手段生産部門(第I部門)と消費手段生産部門(第Ⅱ部門)との二部門に総括して考察する場合には,この両部門のそれぞれにおける,商品資本の循環,労働者の労働力の変態,資本家の剰余価値の変態という,六つの自立的な循環ないし変態が,商品の売買,すなわち商品と貨幣との位置変換によって絡み合うことによって進行する〉(23頁)ものであり、ここで貨幣流通による媒介を捨象するということは、〈社会的総再生産過程における商品の販売および購買をすべて商品と商品との交換に還元する, ということである〉(同)という。
  しかしここにすでに問題の歪曲がある。確かに貨幣流通による媒介を捨象するということはG-W-GをW-Wに還元することであるが、これは単に社会的総再生産過程を商品と商品の交換に還元するということだけではない。そうではなく、社会的総再生産過程を商品資本相互(W'-W')の補填関係に還元してみるということである。

  社会的総再生産過程を考察するということはどういうことであろうか。社会全体が年々その生産によって維持され再生産されている過程の内在的な関係や諸法則をみるということである。われわれが対象とする資本主義社会というのは、とりあえず労働者と資本家という二種類の人間がその構成員として存在している。その彼らがその生活を維持しこの社会を作っている。彼らが生活を維持するには、彼らが毎年必要とする消費手段が生産され、それが消費されて、この社会は維持されているわけである。しかし彼らの消費手段を生産するためには、同時に毎年その消費手段を生産するに必要な生産手段が生産的に消費されている。だから社会は毎年、労働者と資本が消費する消費手段だけではなく、その消費手段を生産するに必要な生産手段も常に再生産する必要がある。さらにそれだけではなく、その生産手段を生産する過程でも、やはりその生産に固有の生産手段が生産的に消費されるわけだから、社会は毎年、生産的に消費される生産手段のための生産手段もやはり再生産する必要がある。こうして始めて社会を構成する構成員の生活は維持され再生産されて、彼らの社会的関係もまた維持され再生産されているわけである。
  こうしたなかでとりあえず貨幣流通による媒介を捨象するというマルクスの意図は、まずはこの資本主義的な総再生産過程の基礎にある物質的な素材的な関係をみようということなのである。これはあらゆる社会がその基礎にもっているような関係である。資本主義的な総再生産過程をその素材的側面でみると、この社会は社会が必要とするさまざまな使用価値を生産している。それらの使用価値は一つは社会の構成員が個人的に消費する消費手段であり、もう一つはそうした消費手段を生産するに必要な生産手段であり、さらには生産手段のための生産手段とに大別できる。それらはその使用価値によってそれぞれ社会的な関連をもっている。例えば綿花は綿糸の原材料となり、綿糸は綿布の原材料となっている等々。綿布で作られた衣服はそれらの工場で働く人たちの服にもなる、等々。つまり社会が生産するさまざまな使用価値は、それを作る労働の社会的な分業の体系を表しているのである。社会のさまざまな労働はその有用的な属性によって社会的に結びついているが、しかし資本主義社会では、その社会的な結びつきは直接的なものではない。そうではなく、それらの労働は個々別々に私的な目的と意図のもとになされているだけである。だからそれらの労働を社会的に結びつけるためには、それらの労働の生産物を商品として互いに交換し合わなければならない。商品の使用価値は、それらの労働の社会分業の環を示しており、価値はその生産に支出された労働が社会に必要な形で支出されていることを示している。価値法則というのは、こうした社会を維持するに必要な労働が社会的に本来的に結びついて支出されるべきことが一つの客観的な自然法則として、社会の中に貫いている(これは将来の社会主義社会でも同じである)ことの商品社会に固有の現れなのである。
  資本主義的な総再生産過程を貨幣流通の媒介なしに考察するということは、年間の社会の総生産物が、社会的にどのように必要なところに配分され、補填しあっているかを見ることである。社会の総生産物は、資本主義社会では総商品資本として存在している。だから総再生産過程の貨幣流通の媒介なしの考察というのは、社会の総商品資本がその使用価値と価値にもとづいて、相互にどのような補填関係にあるかを見ることなのである。
   こうした考察がなぜ必要なのは、明らかである。それはあらゆる社会がその基礎においてなされなければならない社会的な総再生産に内在的に貫いている法則をみることだからである。それを資本主義社会は、資本家的商品の生産とその流通によって行っているわけである。だから資本主義に固有の問題は、当然、貨幣流通の媒介なしには問題にはならない。しかし資本主義的生産に固有の形態規定性は、すでに第1章(篇)、第2章(篇)においても考察してきたのである。しかし資本の循環を考察した第1章(篇)や資本の回転を考察した第2章(篇)では、問題になるのは個別の資本の運動だけであった。それに対して第3章(篇)は、商品資本の循環の形式を通して、社会的な総資本の運動が問題になるのである。そこではあらゆる社会が共通にもつ物質代謝の過程が、資本家的な商品経済という形式によって現実化されている。だからこそ第3章(篇)では、社会の総再生産を規定するもっとも基礎的な関係を、まずはそれらを媒介する貨幣や貨幣資本を捨象して考察し、そしてその後にそれらの媒介を入れて考察して、資本主義に固有の諸関係とそこに内在する諸矛盾を論じるという二段構えの考察をしようというのがマルクスの意図なのである。マルクスは第2稿で次のように述べている。

 〈直接にわれわれの目前に提示されている問題は、次のことである:すなわち、いかに,して生産過程で消費された資本が、--その価値および素材にしたがって--年生産物のなかから補填されるのか、また、この補填の運動が、資本家による剰余価値の消費および労働者による賃金の消費と、どのようにからみあっているのか?〉 (142原頁、MEGA②Ⅱ/11,S.369)
 〈最後に、問題をもっとも単純な諸条件に戻すために、さし当たり、貨幣流通から、したがって資本の貨幣形態からも、まったく切り離す必要がある。流通する貨幣量は、明らかに、それが流通させる社会的生産物の価値のいかなる部分をも形成しない。したがって、もし総生産物の価値がどのように不変価値等々に分割されるのかが問題となるならば、この問いそのものが、貨幣流通には関係がない。問題を貨幣流通への顧慮ぬきに取り上げた後にはじめて、現象が貨幣流通に媒介されたものとしてどのように現れるかが考察されるべきである。〉 (同原頁、MEGA②Ⅱ/11,S.369))

 こうしたわけで第3章(篇)のタイトルは「流通過程および再生産過程の実体的諸条件」となっているのである。大谷氏はこうしたマルクスの意図をまったく理解できず、勝手な憶測をドグマにまでしてしまっているのである。

 マルクスがこうした資本主義的生産の基礎にあるものと資本主義に固有のものを区別して論じていることを示すもう一つの例を紹介しておこう。マルクスは現行版の第3篇「社会的総資本の再生産と流通」の第18章「緒論」の第2節「貨幣資本の役割」のなかで回転期間の長短が生産資本を動かすために必要な貨幣資本の量の大小を規定することを指摘しながら、次のように「社会的生産」と「資本主義的生産」を対比した考察を行っている。

 〈社会的生産の基礎の上では、このような、かなり長い期間にわたって労働力や生産手段を引きあげながらそのあいだ有用効果としての生産物を供給しない作業が、定められた基準に従って、年じゅう連続的または反復的に労働力や生産手段を引きあげるだけではなくまた生活手段や生産手段を供給しもする生産部門を害しないで遂行できるようにされなければならない。社会的生産の場合にも、資本主義的生産の場合と同様に、労働期間の比較的短い事業部門の労働者が生産物を返さずに生産物を引きあげている期間はやはり短いであろうし、他方、労働期間の長い事業部門は生産物を返す前にかなり長い期間にわたって引き続き生産物を引きあげているであろう。だから、このような事情は、その労働過程の物的な諸条件から生ずるのであって、その労働過程の社会的形態から生ずるのではない。社会的生産では貨幣資本はなくなる。社会は労働力や生産手段をいろいろな事業部門に配分する。生産者たちは、たとえば指定券を受け取って、それと引き換えに、社会の消費用在庫のなかから自分たちの労働時間に相当する量を引き出すことになるかもしれない。この指定券は貨幣ではない。それは流通しはしないのである。〉 (全集第24巻437-438頁)

 このようにここでマルクスが「社会的生産」と述べているのは、明らかに将来の社会主義的生産のことであろう。そしてその社会では貨幣資本はなくなると述べ、しかし労働過程という物質的な条件から生じる事態は、資本主義的生産と同じだと述べているのである。ただ資本主義的生産における貨幣資本の存在は、貨幣市場の攪乱等を引き起こすし、よってまた再生産過程の攪乱をももたらすわけである。
  大谷氏が資本主義的な社会的総再生産過程は、貨幣流通の媒介なしに考察することはできないと結論するなら、資本主義的生産の基礎にある社会的な素材的な関係を見ることを拒否することである。それは資本主義的生産において、それに固有の矛盾と攪乱を繰り返しながらも急速に発展して将来の社会の物質的諸条件を形成している本質的な関係をもみることを拒否することでもあるのである。それは当然、同時に資本主義に固有の問題や矛盾をそれ自体として見ることができないことでもある。こんな一面的な理解にどうして到達してしまったのか、実に残念でならないのである。

  もうすでに結論めいたことを書いてしまったのであるが、とりあえず、大谷氏の論証なるものの検討を続けよう。大谷氏はまず次のように書いている。

 〈そこで,社会的総再生産過程での六つの自立的な循環ないし変態が,すべて,等価値量の商品と商品との交換によって絡み合い,進行するのだと考えてみよう。〉 (23頁)

  ここで〈社会的総再生産過程での六つの自立的な循環ないし変態〉というのは、〈社会的総再生産の過程は,生産手段生産部門(第I部門)と消費手段生産部門(第Ⅱ部門)との二部門に総括して考察する場合には,この両部門のそれぞれにおける,商品資本の循環,労働者の労働力の変態,資本家の剰余価値の変態という,六つの自立的な循環ないし変態が,商品の売買,すなわち商品と貨幣との位置変換によって絡み合うことによって進行する〉(同頁)というものである。 そしてそれを〈すべて,等価値量の商品と商品との交換によって絡み合い,進行するのだと考えてみよう〉というのである。しかしすでに述べたように、こうした問題提起自体にすでに問題を含んでいるのである。大谷氏には、こうした〈六つの自立的な循環ないし変態〉の背後にある素材的な関係、あるいは商品資本の使用価値と価値との両面からの補填関係を見るという視点が欠落しているのである。だからそれをただ単に〈等価値量の商品と商品との交換〉という問題に一面的に還元するのである。そして次のように問題点を指摘する。

 〈その場合,第I部門の内部での,不変資本価値を担う商品どうしの交換,第Ⅱ部門の内部での,可変資本価値を担う消費手段と労働力商品との交換,および,剰余価値を担う商品どうしのあいだでの交換,以上の三つの交換については,流通手段としての貨幣の媒介を度外視して考察できることは確かである。また,第I部門の資本家と第Ⅱ部門の資本家とのあいだで行なわれる交換,すなわち前者のもとで生産手段の形態にある剰余価値と後者のもとで消費手段の形態にある不変資本との交換でも,流通手段としての貨幣を度外視しても理解することができる。以上のすべての交換では,流通手段による媒介は,つねに双方向的に進行する販売および購買なのだから,この媒介を捨象すれば,等価値量の商品と商品との交換が残るのだからである。
  ところが,第Ⅱ部門の商品資本のうちの不変資本価値を表わす部分が生産手段に転態し,第I部門の商品資本のうちの可変資本価値を表わす部分が労働力に転態し,そして,第I部門の労働者の労働力商品が彼らの消費すべき消費手段に転態する,という三つの転態については,事情はまったく異なっている。これらが貨幣流通によって媒介されるさいには,そこで行なわれる販売および購買はいずれも,買い手にとつての一方的購買,売り手にとっての一方的販売であって,媒介する流通手段を捨象すれば,そこに残るのは,第I部門の資本家から第Ⅱ部門の資本家への生産手段の一方的移転,第I部門の労働者から同じ第I部門の資本家への労働力の一方的移転,第Ⅱ部門の資本家から第I部門の労働者への消費手段の一方的移転,という商品の三つの一方的移転であつて,等価値量の商品どおしの交換ではない。〉
(23-24頁)

   しかしおかしな話ではないか。一つだけ例を取り上げてみよう。大谷氏は〈不変資本価値を担う商品どうしの交換〉では〈流通手段としての貨幣の媒介を度外視して考察できる〉という、そしてその理由は〈以上のすべての交換では,流通手段による媒介は,つねに双方向的に進行する販売および購買なのだから,この媒介を捨象すれば,等価値量の商品と商品との交換が残るのだから〉というのである。ところが部門Ⅰの可変資本部分と部門IIの不変資本部分との関係では、そうでなく、そこでは一方的販売と一方的購買の関係が生じるから、だから貨幣流通による媒介を捨象できないのだというのである。
  しかしわれわれが先に例に上げたものを使ってここでも具体的に考えてみよう。綿花製造業者は、綿糸製造業者に綿花を販売するが、彼らはその代わりに綿糸を綿糸製造業者から買うわけではない。彼らはただ一方的に販売するだけである。同じく綿糸製造業者も、やはり綿糸を綿布製造業者に一方的に販売する、等々。これらは商品流通にある意味では一般的なことである。そもそも商品流通そのものが決して〈双方向的に進行する販売および購買〉ではないのである。彼らのほとんどは売る相手と買う相手とは違っているのである。もし一方的販売と一方的購買の関係にあるから、〈等価値量の商品どおしの交換ではない〉などと言えば、商品流通そのものが等価値量の商品どうしの交換関係ではないと主張することになる。しかしわれわれの想定では、綿花製造業者は綿花を売って、そのお金で一つは綿花栽培に必要な肥料や農耕機械の補填等をまかない、彼らの生活に必要なものを買うのであるが、しかし彼が販売した綿花の価値と、彼が買う生産諸手段と生活諸手段の価値の合計とが、等量であることは明らかである。彼らは一方的販売と一方的購買を行うが、しかし彼らが一方的に販売する商品と、彼らが一方的に買う商品とは等価値量である。こんなことは商品流通を想定するなら当然のことではないか。
  部門Ⅰの労働者が部門Ⅰの資本家に販売する彼らの労働力の価値は、部門IIの資本家から買う生活手段の価値とは等しい。確かに彼らの販売する相手と彼らが購買する相手とは違っているが、こんなことは商品流通には当たり前のことである。それらは社会的にみれば〈等価値の商品どうしの交換〉なのである。もしそれがそうでないというなら、そもそも大谷氏は商品流通そのものを否定することになるであろう。
  とにかく大谷氏は部門Ⅰと部門IIの間の商品資本の補填関係においては、〈等価値量の商品どうしの交換〉は成立しないとして、次のように続けている。

 〈そこで,この三つの転換を,なんとかして,等価値量の商品どおしの交換に還元しようとするなら,次の二つのどちらかを想定するほかはない。第1:まず,第I部門の資本家が,自己の商品資本のうちの可変資本価値が体化した部分を,第Ⅱ部門の商品資本のうちの不変資本価値が体化した部分のうちの一部と交換し,次に,これによって入手した消費手段を第I部門の労働者の労働力と交換する,という想定。第2:まず,第I部門の労働者が自己の労働力と第I部門の生産物である生産手段と交換し,次に,こうして入手した生産手段を第Ⅱ部門の資本家がもつ消費手段と交換する, という想定である。後者の想定は,第I部門の生産手段と第Ⅱ部門の消費手段との交換を労働者が担うという,あまりにも現実離れした滑稽きわまりないものであるから論外とすると,前者の想定だけが残ることになる。〉 (24頁)

  そして大谷氏は〈実際にマルクスは第2稿で,このように想定して,次のように書いた〉と第2稿からの抜粋を紹介している。その抜粋を考察する前に、大谷氏は上記の第2番目の想定が〈あまりにも現実離れした滑稽きわまりないものであるから論外とする〉というのであるが、しかしマルクス自身は第2稿で次のように書いているのを果たして知って言っているのであろうか。

 〈資本家階級II(これは第2稿では生産手段の生産部門のことであり、第8稿、よってまた現行版では部門Ⅰのことである。--引用者)は、資本家階級(つまり現行版の部門II、すなわち消費手段の生産部門--同)と同じように、労働者に彼自身の生産物(生産手段--同)の一部分を与えることによって、労働力に対して支払う--それに前貸し、かくして自分の可変資本を補填する--。(ここではまだ貨幣流通を捨象していることを理解しておかねばならない。)しかし労働者階級II(現行版の部門Ⅰの労働者--同)は,200£に等しい生産物(これは生産手段である--同)を、それを消費しうるためには、200£の価値の生産物(現行版の部門IIの生産物、すなわち消費手段--同)と交換しなければならない。〉 (145原頁、MEGA②Ⅱ/11.S.378)

  ご覧のように、ここではマルクスは部門Ⅰ(生産手段の生産部門)の資本家は、彼の生産物(商品資本,現物形態としては生産手段)のうち可変資本部分を部門Ⅰの労働者に与えて、彼の可変資本を補填するとしている。つまり彼の商品資本(生産手段の現物形態をもっている)の可変資本部分を労働力という生産に必要な現物形態に転換するのである。そして部門Ⅰの労働者は資本家から受け取った彼の労働力商品の価値の対価である生産物(生産手段)を、彼が消費しうる部門IIの生産物(消費手段)と交換するとしているのである。つまり大谷氏が〈あまりにも現実離れした滑稽きわまりないから論外とする〉とした想定を、実はマルクス自身がやっているのである。
  確かに次に紹介するように、大谷氏がまだ〈論外〉ではないと考えているらしい想定もマルクスはやっているように見えなくもない。その一文を大谷氏の論文から重引してみよう。

 〈「われわれはここではまず,貨幣流通のない再生産過程を,だからまた貨幣資本が介在しない可変資本の前貸を考察する。いっさいの富が,総資本家階級の所有として,ここではわれわれが株式会社〔Jointstock Company〕とみなすべき手のなかにある。一部分は,生産資本の姿をとって彼らの生産ファンドのなかにあり,他の一部分は,彼らの商品資本として市場にある(市場はここでは,個別の資本家たちが自分の商品をそれぞれ手持ちしている,総資本家階級の共同のバザール〔Bazar〕とみなすことができる)。彼らは労働者たちに資本の可変的部分を--ここで行なっている,貨幣流通を度外視する,という想定のもとでは--消費手段の形態で前貸するほかはない。彼らは300ポンド・スターリングの価値の消費手段を彼らの商品資本から引きあげ,これをもって300ポンド・スターリングの労働力を買う。この労働力はいまでは彼らの生産資本の一部となっており,彼らの生産過程に合体され,そして,活動している労働力として,生産過程における可変資本部分の現実的,素材的定在となっている。生産物,つまり商品資本では,前貸された労働力価値が再生産されており,さらに剰余価値が加わつている。そしてこのことが,資本の流通としての資本の流通と見なされているのである。しかしここではわれわれは--問題となっているのは総生産物の再生産なのだから--,資本の流通に関わるだけではなく,資本家のであろうと労働者のであろうと,個人的消費にはいる商品生産物の諸要素にも関わらなければならないのである。」(MEGA② Ⅱ/11,S.406-407。)〉 (24-25頁、下線はマルクスによる強調、太字は大谷氏による強調)

  大谷氏はどうやらこの引用されている内容が、彼が先に論じた問題〈第1:まず,第I部門の資本家が,自己の商品資本のうちの可変資本価値が体化した部分を,第Ⅱ部門の商品資本のうちの不変資本価値が体化した部分のうちの一部と交換し,次に,これによって入手した消費手段を第I部門の労働者の労働力と交換する,という想定〉と同じことを論じていると考えたらしい。しかしそれは正しくこの文章を理解したものといえるであろうか。われわれが先に紹介した第2稿の引用文と比べてみると、先のものは200£になっていたのに、今回は300ポンドになっている。つまり数値が違うのである。なぜ違うのか。今回の引用文ではマルクスは社会の総可変資本を問題にしているのであって、部門Ⅰの可変資本だけを問題にしているのではないからなのである。われわれはそれが分かるように、マルクスが第2稿で想定している単純な規模での再生産の過程を、われわれにとっておなじみの表式を使って紹介してみよう。ただし注意が必要なのは、第2稿では、部門Ⅰと部門Ⅱの位置づけが第8稿や現行版ととは反対になっているということである。

Ⅰ)(消費手段の生産部門)400c+100v+100m
Ⅱ)(生産手段の生産部門)800c+200v+200m

 だから100ポンドというのは部門Ⅰの(現行版では部門Ⅱ、つまり消費手段の生産部門)の可変資本部分なのである。マルクスは大谷氏が引用している一文では〈いっさいの富が,総資本家階級の所有として,ここではわれわれが株式会社〔Jointstock Company〕とみなすべき手のなかにある〉と述べている。つまりマルクスが問題にしているのは決して部門Ⅰだけの問題でも、部門Ⅰと部門IIとの関係でもないのである。社会の総生産物の再生産を行うために必要な労働力を、如何にして総資本家階級は彼らの可変資本の現物補填として獲得するかを問題にしているのである。
 だから、大谷氏がいうような部門Ⅰの可変資本の補填にかぎって問題にするならば、マルクス自身は部門Ⅰの労働者が部門Ⅰの生産手段で支払を受け、それを部門IIの生産物である消費手段と交換するという、大谷氏が〈あまりにも現実離れした滑稽きわまりないから論外とする〉とした想定をこそしているのである。
  しかしまあ、このような大谷氏の読み誤りをアレコレ詮索してもしようがない。いずれにしても、貨幣流通による媒介を捨象するということはそうした想定が必要だということである。ところが大谷氏はマルクスが〈資本家は「労働者たちに資本の可変的部分を消費手段の形態で前貸するほかはない」〉と述べていることから、次のように結論するのである。

 〈ここに,「貨幣流通を捨象した叙述」と「貨幣流通を伴う叙述」ないし「それに伴う貨幣流通の叙述」という二段構えの叙述方法の決定的な問題点が現われている。〉 (25頁)

  しかしこうした想定の何が〈決定的な問題点〉であろうか。マルクスが問題にしているのは社会の総生産物の再生産のために、その総生産物(総商品資本)が如何にして補填され合うべきかを問題にしているのである。労働者たちに社会の総生産物(総商品資本)のうちの可変資本部分を消費手段の形態で前貸しするということは当たり前ではないか。大谷氏はそれを部門Ⅰの資本家が部門IIの資本家とそれぞれの生産物である生産手段と消費手段とを交換して、その交換した消費手段で部門Ⅰの労働者に支払うと考えたから、それはおかしい、部門Ⅰと部門IIの資本家たちはそんな奇妙な商品交換をするのではないと考えたのであろう。あるいは部門Ⅰの労働者が彼らの生産した可変資本部分の生産物(生産手段)で支払を受け、それを部門IIの資本家からその不変資本部分の生産物である消費手段と交換するというような想定も〈論外〉だというのであろう。貨幣流通による媒介を捨象するから、このような奇妙なことになるのだ、だから貨幣流通による媒介を捨象することなど不可能だし、無意味だというのであろう。そして第8稿では、マルクスはやっとこうしたことに気づき、だから第2稿で考えていた二段構えの叙述方法を廃棄したのだ、と言いたいわけである。しかし何度もいうが、社会的な総生産物が如何に配分されて相互に補填されあい、社会が維持され、再生産されているかを見るということこそが肝腎なのであって、だから資本家が商品交換を担うか、労働者が担うか、というようなことはその限りではどうでもいいことなのである。だからこそマルクスはとりあえず、労働者がそれを担うと想定したのである。問題は部門Ⅰの可変資本部分(部門Ⅰの労働者の消費フォンド)が部門IIの不変資本部分の一部と補填関係にあるということを究明することなのである。

  大谷氏はマルクスは第8稿ではこうした〈問題点〉を克服したとして次のように述べている。

 〈のちに第8稿でマルクスが繰り返して強調したように,社会的総再生産過程の根幹をなす資本価値の自立的循環では,貨幣形態での可変資本の前貸が, したがってまた可変資本の貨幣形態での還流が決定的に重要であつて,社会的総再生産過程の分析では捨象することができないものである。「貨幣資本が介在しない可変資本の前貸」は,第1部第7篇の「第21章単純再生産」での資本の再生産過程の把握では意味をもつ想定0ではありえても,社会的総再生産過程の分析では,旧来の枠組みに囚われた叙述方法によつてやむなくとらぎるをえなかつた,現実離れした想定だったと言わざるをえないのである。
  マルクスは第8稿で,この二段構えの叙述方法を完全に放棄し,最初から,貨幣のもろもろ
の機能を度外視せずに, したがつてまた貨幣資本を度外視せずに,これらを前提し,組み入れた叙述を行なった。これによって彼は,社会的総再生産過程の核心的な諸転換を明晰に解明することができ,旧来の枠組みを廃棄して,分析の内容に相応しいあたらしい枠組みを獲得したのであった。〉 (25頁、下線は大谷氏による強調)

  確かにマルクスは第8稿で〈繰り返して強調した〉かどうかはともかく〈貨幣形態での可変資本の前貸が, したがってまた可変資本の貨幣形態での還流が決定的に重要〉だと述べている。しかしこの問題も、実は先の『軌跡』の批判のなかでとりあげたのである。だからそれも長くなるが、紹介しておきたい。

【〈マルクスは第8稿で、資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなすこと、だからまた、社会的総資本の再生産過程の考察でも、この前貸および還流の分析が決定的に重要であることを強調した〉ということはまあよいとしましよう。確かにマルクスは「第20節 単純再生産」の「第3節 両部門間の転換  I (v+m)対IIc」(この部分は第8稿)のなかで次のように述べているからである。

 《しかし、この相互転換は貨幣流通によって成立するのであって、貨幣流通はそれを媒介するとともにそれの理解を困難にするのであるが、しかしそれは決定的に重要である。というのは、可変資本部分は絶えず繰り返し貨幣形態で現れなければならないからである。すなわち貨幣形態から労働力に転換される可変資本として現れなければならないからである。》 (全集版490頁)

 しかしこのマルクスの文言を金科玉条にして、貨幣資本の還流の決定的意義なるものをあまりにも強調しすぎることは正しくないであろう。なぜなら、マルクスがここで強調しているのは、可変資本の場合は常に貨幣形態でそれが労働力に転換されなければならないからだとの理由によるからである。労賃は例えそれが後払いであろうが、先払いであろうが、常に現金で支払われる必要がある。だから可変資本は常に貨幣形態で資本家の手許に還流する必要がある。マルクスが指摘しているのはこの事実である。しかしこうした理由は事態の具体的な側面である。そして具体的には不変資本部分の場合には資本家たちは相互に信用を与え合うことによって、貨幣を媒介せずに商品資本を相互に補填し合うケースが多く、だから必ずしも貨幣形態で還流する必要はないのである。しかし注意が必要なのは、われわれが考察している社会的な総再生産過程では、そうした信用など具体的な諸契機は捨象されているのである。だから可変資本部分だけではなく、不変資本部分も剰余価値部分も、資本家たちはそれらすべての商品資本を一旦は貨幣資本に転換すると仮定されているのである。それゆえ、可変資本が常に貨幣形態で労働力に転換されなければならないということだけをことさら強調することは、われわれが考察している抽象レベルを考慮しないことであり、それ自体が誤りに転ずる可能性を持っているのである。
 だから大谷氏らが、可変資本部分が常に貨幣形態で還流する必要があるということを強調するあまり、〈だから生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察することで満足しているわけにはいかない〉などというのはおかしな議論なのである。一体、誰が満足しているのか分からないが、このように言うことは、大谷氏は少なくとも〈生産手段、消費手段、労働力という商品の相互間の「素材的転換」を考察する〉意義そのものは認めておられるのであろうか。それは必要な考察の一つの段階ではあるが、それだけに〈満足して〉留まっていてはダメだということなら、まったくそのとおりであり、誰も文句は言わないであろう。誰もそれに満足せよとか、そこに留まっておるべきだなどとは主張していないからである。しかしその前では大谷氏はその意義さえも認めずに、「二段構えの敍述方法」をマルクスは放棄したと言われたのではなかっただろうか。それとも〈満足しているわけにはいかない〉というのは、それ自体を否定するための単なるレトリックなのであろうか。
 確かに〈資本主義的生産では貨幣形態での可変資本の前貸とそれの貨幣形態での還流とが決定的な契機をなす〉ことは認めることにしよう。しかしだからといって、〈貨幣を媒介にしたこれらの転換(=商品相互の素材転換)が、可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか、ということがつかまれなければならないのである〉というなら、それは行き過ぎであり、問題の一面化である。なぜなら、単に問題は〈可変資本の貨幣形態での前貸および還流とどのように絡み合っているのか〉ということだけが問題ではないし、それだけが解明されればよいという問題でもないからである。不変資本や剰余価値もそれぞれが貨幣流通に媒介されてどのように補填され合うのかも解明される必要があるからである。】

  確かにマルクスは第8稿では可変資本が貨幣形態で還流する必要を指摘している。しかしだからといって〈社会的総再生産過程の分析では〔貨幣流通を〕捨象することができない〉などと述べているわけではない。あくまでも貨幣流通による媒介を入れた叙述においてはそうだと述べているだけなのである。そもそも大谷氏は第8稿では、マルクスは単純再生産の叙述をはじめるところや、拡大再生産の叙述を開始するところに、〈先取り〉と欄外に書いていることを無視している。もちろんこの〈先取り〉を如何に理解するかで色々と議論があるが、しかし明らかにマルクスは第8稿では問題を限定して〈先取り〉して論じているという前提で書いているのである。そしてそれは貨幣流通による媒介を入れた考察そのものは、それを捨象した考察が本来は先行するべきだが、しかしとりあえずそれを〈先取り〉して論じるということなのである。つまりそれはその前に貨幣流通による媒介を捨象した叙述が来なければならないというマルクスの考えをそれらの書き込みは示しているのである。もちろん、大谷氏はこうした〈先取り〉というマルクスの欄外への書き込みに関しては氏独特の解釈をしている。それらについても先の論文(『軌跡』)を批判するなかでも論じておいたが、ここで新たに気づいたもう一つの証拠というべきものを付け加えておこう。
 マルクスは第2部の第2稿の第3章のなかで、現行版の第3篇「社会的総資本の再生産と流通」の第18章「緒論」の第1節「研究の対象」に採用された部分の叙述を行ったあと、やはり現行版の同章第2節「貨幣資本の役割」(この表題はエンゲルスによるもので、マルクスは「社会的総資本の構成部分としての貨幣資本」としている)にとりかかる直前に、〔 〕に入れて、次のように書いている。

 〈〔以下のものは、この章の後の方の部分に関するものにすぎないが、それにもかかわらず、あえてまさに今これを考察するつもりである。〕〉 (第2稿131原頁、MEGA②Ⅱ/11,S.343)

 この一文そのものは、現行版の第18章第2節の冒頭、エンゲルスによって{ }に入れられて紹介されている。
 このマルクスの断り書きが何を意味するかは明らかである。「社会的総資本の構成部分としての貨幣資本」の考察は、当然、貨幣流通による媒介を顧慮した考察においてなされるべきものである。だからそれは貨幣流通による媒介を捨象した考察のあとに行われべきものなのである。しかしわれわれはあえて今これを考察するのだ、ということである。もちろん、これは第2稿だから第2稿のプランどおりに書かれているのは当然というかも知れない。しかし注目すべきはマルクスはこのように第2稿でも問題を先取りして論じるということをやっているという事実である。だからこそマルクスは第8稿でも貨幣流通による媒介を入れた単純再生産や拡大再生産の考察を開始するところに〈後におくべきものの先取り〉と断って書き始めているのである。だからマルクスが第8稿では貨幣流通による媒介を入れた考察だけをやっているからといって、エンゲルスのように、それが〈著者(=マルクス)の拡大された視野に照応するように書き直され〉(序文)たものだなどと評価するのはお門違いなのである。

 大谷氏は、第8稿ではマルクスは最初から再生産過程を貨幣流通による媒介を入れて考察しているという事実から出発する(しかしすでに述べたように、マルクスの意図としてはそれらは貨幣流通による媒介を捨象したあとになされるべきものを〈先取り〉して考察しているつもりなのであるが)。そしてこれこそが、マルクスが第8稿に至って獲得した新しい見地であるとエンゲルスと一緒に主張し、そもそも再生産過程というのは貨幣流通による媒介を捨象して考察することはできないのだ、あるいは貨幣流通による媒介を捨象したのでは内容のない、無意味なものになるのだと主張するのである。だから貨幣流通による媒介を捨象することを想定させるような「流通過程と再生産過程の実体的諸条件」という第3章(篇)のタイトルも、貨幣流通による媒介を最初から入れて考察するべき第3章の内容には合致しなくなっていると強弁するわけである。
 無理に無理を重ねて、こうしたことを論証して、先の『軌跡』での主張を補足しようとしたのであるが、しかし残念ながらそれらは完全に失敗に終わっているとしか言いようがないのである。

(完)

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