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2017年12月

2017年12月27日 (水)

現代貨幣論研究(14)

「通貨」概念の混乱を正す
--通貨とmonied capitalという意味での貨幣資本との区別の重要性--(3)

◎大谷新本第4巻での言及

 大谷氏はその新著の第4巻でも、同様の問題を論じている。それは《第12章 「貴金属と為替相場」(エンゲルス版第35章)に使われたマルクスの草稿について》の最後の項目「14 monied capitalと貨幣量との関連の問題」においてである。
  ここでは〈「現実資本と貨幣資本」で解明されるべきものとして提起されていた二つの基本問題のうち,monied capitalと「貨幣の量」との関連について答が出されていたのかどうか〉を問い、次のように結論づけている。

 〈マルクスはmonied capitalと貨幣量とのあいだにどのような関連があるのか,という問題を立てながら,「5)信用。架空資本」の内部ではこれに答えることをしなかったし,マルクス自身も答え終えたと考えてはいなかったと言わざるをえない。〉 (④261頁)

  そして大谷氏は、しかしそれでは〈いったいマルクスは,「moniedcapitalと貨幣量との関連」について,どういうことが解明されなければならない難問だと考えていたのだろうか〉と問題を提起して、次のように自身の見解を展開している。

 〈「マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。マルクス自身は直接に書くことがなかったけれども,この貨幣量も,「商品」の流通に必要な貨幣の量としては,広義での「流通に必要な貨幣量」であり,社会的再生産を媒介する流通のために必要な貨幣量と渾然一体となって一見するとそのすべてが中央銀行から供給されている。しかし,このような「流通必要貨幣量」は社会的再生産を媒介する流通必要貨幣量とはまったく異なるものであり,それとははっきりと区別されなければならない独自な「貨幣の量」である。そこで,この両者はmonied capita1の運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,どのように区別され,かつ関連しあっているのか,ということが問われることになる。現代の資本主義諸国とその絡み合いの全体としての現代資本主義世界のなかでこの問題を具体的に分析するためには,「資本の一般的分析」のなかで,土地をも含む架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連がしかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連においで理論的に解明されていなければならないであろう。筆者は,マルクスが提起した,monied capitalと貨幣量との関連という問題は,このような現代の課題に連繋するものではないかと考えている。〉 (④261-262頁)--B

  しかしこの大谷氏の主張は、氏の新著を読み進め、マルクスの草稿をつぶさに検討してきたものにとっては、ただただ驚きである。というのは、この一文はまったくの混乱としか言いようがない代物だからである。一体、マルクスをどう読み、どう学んできたのか、といわざるを得ない。
  その内容の混乱を指摘する前に、そもそもこの一文は、大谷氏が現行の『資本論』の第35章の草稿を紹介した論文《「貴金属と為替相場」(『資本論』第3部第35章)の草稿について--『資本論』第3第l稿の第5章から》のなかでその解説として「monied capitalと貨幣量との関連の問題」と題して次のように論じていたものを、一部手直して再掲載されたものなのである。まずはそれと引き比べてみることにしよう。

 〈「マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」--株式,証券,オプション,デリパティブ,土地,その他の利殖機会--や「商品」としての土地の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。このような貨幣も中央銀行が発行する銀行券ないしそれへの請求権の一部であって,社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量と揮然一体となって,銀行の預金の一部をなしている。そこで,一見したところ,このような「商品」の流通に必要な貨幣の量も「流通に必要な貨幣量」の一部であるように見える。しかし,このような「商品」の流通に必要な貨幣量は社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量とは本質的に異なるものであって,これとははっきりと区別されなければならない。それは,ありとあらゆる投資(利殖または投機)の機会ないし可能性がとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣であると同時に,その購買に支出されるのは,生産資本ではなくて増殖先を求めるmonied capitalであり,買われたのちにもこの「商品」はけっして再生産過程にはいらず,架空のmonied capitalの諸形態の一つにとどまる。さらに,流通貨幣の具体的な実存形態としての鋳貨準備(流通手段および支払手段の準備ファンド)とは区別される蓄蔵貨幣の形成は,現代ではそのきわめて大きな部分が,そのような増殖先を求めるmonied capitalの形成にほかならず,巨大なものに膨れあがったmonied capitalは,「商品」として買うべき増殖機会を見いだせないときにはmonied capitalとして銀行のもとに滞留するほかはない。そこで,架空なmonied capitalの流通のための「必要貨幣量」は,銀行制度を中心とする信用システムのなかで, したがってまたmonied capitalの運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,本来の社会的再生産のための「流通貨幣量」とどのように区別され, どのような仕方で絡み合っているのか, ということが問われることになる。現代の資本主義諸社会とその総体としての現代資本主義世界のなかで生じているこのような問題を具体的に分析するためには, 「資本の一般的分析」のなかで,架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連が,しかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連において,理論的に解明されていなければならない。言うまでもなく,そのさいなによりもまず,兌換制のもとでの動きが明らかにされなければならない。マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる。〉 (93-4頁)--A

  新著の一文は、以前の論文の一文をただかなり圧縮したものだけのように思えるかも知れない。しかしよくよく二つの文章を引き比べてみると、今回の文章は改悪であり、混乱した代物でしかないことが分かるのである。まずはこの二つの文章を比較検討して両者の違いを見ていくことにしよう。そのために今、便宜的に新著の一文をB文、以前の論文の一文をA文としよう。

(1)まず次の二つを比べてみよう。

〈マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」--株式,証券,オプション,デリパティブ,土地,その他の利殖機会--や「商品」としての土地の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。〉

〈「マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。〉

  Aでは〈「金融商品」--株式,証券,オプション,デリパティブ,土地,その他の利殖機会--や「商品」としての土地の流通〉と詳しく書かれているが、Bではそれが〈「金融商品」の流通〉と簡略化されているだけで、内容的には大きな違いはない。

  (2)それでは次の二つはどうであろうか。

〈このような貨幣も中央銀行が発行する銀行券ないしそれへの請求権の一部であって,社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量と揮然一体となって,銀行の預金の一部をなしている。そこで,一見したところ,このような「商品」の流通に必要な貨幣の量も「流通に必要な貨幣量」の一部であるように見える。しかし,このような「商品」の流通に必要な貨幣量は社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量とは本質的に異なるものであって,これとははっきりと区別されなければならない。〉

〈マルクス自身は直接に書くことがなかったけれども,この貨幣量も,「商品」の流通に必要な貨幣の量としては,広義での「流通に必要な貨幣量」であり,社会的再生産を媒介する流通のために必要な貨幣量と渾然一体となって一見するとそのすべてが中央銀行から供給されている。しかし,このような「流通必要貨幣量」は社会的再生産を媒介する流通必要貨幣量とはまったく異なるものであり,それとははっきりと区別されなければならない独自な「貨幣の量」である。〉

  この両者はかなり書き換えられている。Aでは、金融商品の流通に必要な貨幣量というものについて、やや曖昧さはあるものの、少なくとも再生産過程を媒介する貨幣量とは本質的に異なるものであり、はっきり区別されなければならない、としている。しかしBでは、マルクス自身は書かなかったものの、こうした金融商品の流通に必要な貨幣も広義での流通に必要な貨幣量であるとしているのである。ただ社会的再生産を媒介する流通貨幣量とはまったく異なるものであり、それとはっきり区別されるべきことは指摘されていることは同じである。

  (3)さらにその次を見てみよう。

〈それは,ありとあらゆる投資(利殖または投機)の機会ないし可能性がとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣であると同時に,その購買に支出されるのは,生産資本ではなくて増殖先を求めるmonied capitalであり,買われたのちにもこの「商品」はけっして再生産過程にはいらず,架空のmonied capitalの諸形態の一つにとどまる。〉

B〈これに該当する文章は見当たらない〉

  つまりこの一文を削除したことはある意味では決定的なのである。先の一文ではやや曖昧だったのだが、ここでは大谷氏はいわゆる金融商品の流通を媒介する貨幣というのは、monied capitalだと明確に述べている。ただやはり〈「商品」の流通に必要な貨幣であると同時に〉という余計な一文が入っており、大谷氏の理解の曖昧さを示しているのだが(こうした曖昧さがあったからこそ、今回の決定的な改悪に結果したともいえるかもしれない)。そもそも貨幣市場における「商品」というのは貨幣そのものであり、貨幣の貸し借りが「商品の売買」という仮象をとるのである。だから株式の購入という一見すると、株式という金融商品が購買されるかのような仮象のもとに、その実際の内容は利子生み資本が株式に投資されることであり、よって利子生み資本の貸し付けなのである。だからそこで支出される貨幣というのは、利子生み資本(=monied capitalという意味での貨幣資本)以外の何ものでもないのである。それが再生産過程を媒介する貨幣と渾然一体となっているかに考えるのは、こうした金融商品の「売買」という仮象に惑わされているからである。
  確かにリンゴ業者がその売り上げの一部で来年の肥料や薬剤等々を買うのと同じように、その一部で株式を買った場合、彼には商品を購入するという点で同じに見えるかもしれない。しかし株式の購入に当てられた貨幣は、彼が時期を見て株式を売り出して、何らかの利殖を得ようという思惑で買ったのであって、それは実際には彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたのである。肥料や薬剤を買うのも、次の収穫によってより多くの利潤を得るためなのであり、彼にとっては利潤を得るという目的に違いはないが、社会的再生産の観点からは決定的な相違がある。前者は社会的な物質代謝を媒介する商品市場にある貨幣の一部を形成するが、後者はそうしたものの外部にある信用の世界、貨幣市場の問題なのである。この両者を区別することこそ、通貨とmonied capitalとの区別なのである。その理解が大谷氏には曖昧なのである。

  (4)とえあえず、両文書の比較検討を進めよう。

〈さらに,流通貨幣の具体的な実存形態としての鋳貨準備(流通手段および支払手段の準備ファンド)とは区別される蓄蔵貨幣の形成は,現代ではそのきわめて大きな部分が,そのような増殖先を求めるmonied capitalの形成にほかならず,巨大なものに膨れあがったmonied capitalは,「商品」として買うべき増殖機会を見いだせないときにはmonied capitalとして銀行のもとに滞留するほかはない。そこで,架空なmonied capitalの流通のための「必要貨幣量」は,銀行制度を中心とする信用システムのなかで, したがってまたmonied capitalの運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,本来の社会的再生産のための「流通貨幣量」とどのように区別され, どのような仕方で絡み合っているのか, ということが問われることになる。〉

〈そこで,この両者はmonied capita1の運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,どのように区別され,かつ関連しあっているのか,ということが問われることになる。〉

 この両者は、Bはかなり圧縮されているが、その内容には本質的な相違は見られない。Aの一文は長いが、細かく見て行けば、いろいろと問題が散見されるがそれを書き出せばあまりにも煩雑になるので、ここではとりあえず無視しよう。
 大谷氏がここで論じている「絡み合い」なるものについては、すでにわれわれは『銀行法委員会報告』1857年からの抜粋のなかに挿入されたマルクスの書き込みにおいて検討ずみのものである。つまりイングランド銀行が発行した銀行券は、一部は同銀行の銀行部の準備になり、それ以外の公衆の手にあるもの、つまりイングランド銀行の外に出ている部分については、一つは地方銀行や個人銀行の準備を形成し、他方は商品市場において、商品の流通を媒介する通貨として流通しているのである。そしてマルクスが通貨の量と述べているのは、この商品市場で流通している流通通貨量であること、そしてイングランド銀行と地方銀行や個人銀行の準備を形成する銀行券はmonied capitalとしてあるということである。そしてこの限りでは一方が増えれば他方がそれだけ減少するという関係にあり、よってそれによって利子率が上下するということであった。しかしmonied capitalそのものは、こうしたものに限らないこと、なぜなら、同じ貨幣量がその何倍もの商品の価格を実現するように、同じ貨幣量が何度も銀行に還流することによってその何倍もの貨幣資本(monied capital)を形成するからであり、さらには銀行は帳簿信用等によっても貸し付けを行うことができるからである。だからマルクスは、一国のなかにある貨幣量と利子生み資本(monied capitalという意味での貨幣資本)の量とはまったく異なるものだと結論していたのである。
 だから大谷氏がここで提起している問題は、こうしたマルクスの考察を十分理解しているとは言い難いものなのである。

 (5)続く次の一文

〈現代の資本主義諸社会とその総体としての現代資本主義世界のなかで生じているこのような問題を具体的に分析するためには, 「資本の一般的分析」のなかで,架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連が,しかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連において,理論的に解明されていなければならない。〉

〈現代の資本主義諸国とその絡み合いの全体としての現代資本主義世界のなかでこの問題を具体的に分析するためには,「資本の一般的分析」のなかで,土地をも含む架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連がしかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連においで理論的に解明されていなければならないであろう。〉

 この両者は一見すると、微調整はあるものの、それほど内容的には変わっていないと思えるかもしれない。しかしある一点で、決定的な改悪があるのである。Aには〈架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--〉という一文ある。しかしBには〈--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--〉という説明が抜け落ちてしまっている。
 つまりAには、「金融商品」などの流通に必要な貨幣などというものは、結局は、利子生み資本そのもの、monied capitalなのだという理解が示されている。だからそれがあたかも「金融商品」の流通に必要な貨幣量であり、〈この貨幣量も,「商品」の流通に必要な貨幣の量としては,広義での「流通に必要な貨幣量」であ〉るなどという理解はとんでもないことであることが了解できるのである(もっとも大谷氏がそれほど明瞭に理解していなかったからこそ今回の改悪に繋がったのではあるが)。

 (6)最後の結論的部分である

〈言うまでもなく,そのさいなによりもまず,兌換制のもとでの動きが明らかにされなければならない。マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる。〉

〈筆者は,マルクスが提起した,monied capitalと貨幣量との関連という問題は,このような現代の課題に連繋するものではないかと考えている。〉

 この両者は〈monied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋する〉という点でほぼ同じ問題意識ということができる。しかし大谷氏はマルクス自身が〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものである〉(③488頁)と結論していることを無視していないであろうか。それでもなお〈monied capitalと貨幣量との関連という問題の解明〉を課題とするならそれは大谷氏の勝手であるが、無駄な試みとしかいいようがない。とりあえず、以上で、われわれは二つの文章の比較検討を終えることにしよう。

◎大谷氏の無理解

 さて、大谷氏は〈架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」の流通に必要とされる貨幣の量〉を問題にする。しかしどうしてそんなものが必要なのであろうか。架空資本を、例えば国債や株式を、例え貨幣資本家が現金で買うとしてもそれは実際には一般的な商品の購買ではない。こんなことは、利子生み資本の概念が分かっていれば常識の類である。マルクスが第5篇第21章以下で明らかにしているように、それらが商品の売買と見られるのは一つの仮象であって、実際には、利子生み資本の貸し借りなのである。だからそれらはすべて利子生み資本に固有の運動である貨幣の貸し付けや返済の運動なのである。つまり国債の購入は利子生み資本の貸し付けであり、国債の販売はその返済を受けることである。それを単なる商品の売買、すなわちその流通として見てしまっていることがまず大谷氏の決定的な間違いである。これは手形の割引を、普通の商品の買い取りと同じと考えてしまったエンゲルスと同じ過ちを犯すものである。実に残念である。ここまで第5編の研究を20数年にもわたって積み重ねてきたのに、肝心要のところの理解が抜け落ちてしまっている。
 金融商品の売買が実際には利子生み資本の運動でしかないと理解すれば、そんなものの流通に必要な「流通必要貨幣量」などありえないことは明らかである。というのは利子生み資本の運動とは、貨幣そのものが商品として売買(貸し借り)されることだからであり、つまり貨幣が返済を条件に一定期間貸し付けられることだからである。この場合、確かに利子生み資本である貨幣が流通に出てゆくが、貨幣市場に出て行くのであって、決して商品市場に出て行くのではない。大谷氏には貨幣市場と商品市場との区別さえはっきりとはしていない。貨幣市場とは、貨幣そのものが売買、つまり貸し付けられたり返済されたりしている市場である。大谷氏の言っていることは貨幣そのものが流通に出て行くのに必要な流通貨必要幣量などという馬鹿げた同義反復でしかないのである。
 確かに手形やそれ以外の有価証券の類、つまり大谷氏のいう「金融商品」は、利子生み資本の運用、つまり利子生み資本の投資対象である。しかしそのことはそれが利子生み資本の運動であることを否定することにはならない。それもやはり貨幣の貸し借りであり、金融商品を購入するということは、その本質的な内容は、返済を条件に一時的に貸し付けられることなのである。それが「金融商品」を「買う」という仮象に隠されている本質である。だからそれはどれだけ「買われる」かは、moneyed capitalそのものの量によって規定されている。しかし何度もいうが、それは決して流通貨幣の一部を形成するのではない。そんなことを言っていては、マルクスがmonied capitalと通貨との区別の重要性を何度も強調している意味がまったく理解されていないということではないか。
 流通貨幣というのは再生産過程における商品の流通を媒介する貨幣であり、社会の物質代謝を維持するに必要な貨幣量なのである。だからそれは商品市場において流通するものだけに限られるのである。それに対して、monied capitalというのは、再生産過程の外の貨幣の運動であり、貨幣信用の問題なのである。だからそれをマルクスは貨幣市場として商品市場と区別しているのである。この区別は極めて重要である。

 大谷氏は〈マルクスはmonied capitalと貨幣量とのあいだにどのような関連があるのか,という問題を立てながら,「5)信用。架空資本」の内部ではこれに答えることをしなかったし,マルクス自身も答え終えたと考えてはいなかったと言わざるをえない〉(④261頁)というのであるが、この問題でのマルクスの展開の少なさは、この問題そのものが初めから明瞭であり、それほど論じるまでもなかったからであろう。つまりマルクスはmoneyed capitalと貨幣の量との間には、恐慌時のような特殊な一時期を除けば、基本的には異なるものであると結論づけたからこそ、多くを展開する必要を感じなかったのである。
   そもそも流通する貨幣の量を規制する法則は『資本論』第1部第3章で与えられているように、それ自体は商品流通の現実に規定されており、その限りではmonied capitalという意味での貨幣資本とは直接には関係のない独立変数なのである。マルクスは第28章該当部分の草稿でそのことを次のように指摘していた。

  〈貨幣が流通しているかぎりでは,購買手段としてであろうと支払手段としてであろうと--また,二つの部面のどちらでであろう、またその機能が収入の,それとも資本の金化ないし銀化であるのかにまったくかかわりなく--,貨幣の流通する総量の量については,以前に単純な商品流通を考察したときに展開した諸法則があてはまる。流通速度,つまりある一定の期間に同じ貨幣片が購買手段および支払手段として行なう同じ諸機能の反復の回数,同時に行なわれる売買,支払いの総量,流通する商品の価格総額,最後に同じ時に決済されるべき支払差額,これらのものが,どちらの場合にも,流通する貨幣の総量,通貨currencyの総量を規定している。このような機能をする貨幣がそれの支払者または受領者にとって資本を表わしているか収入を表わしているかは,ここでは事柄をまったく変えない。流通する貨幣の総量は購買手段および支払手段としての貨幣の機能によって規定されて〔いる〕のである。〉 (大谷新著第3巻105-106頁)

  ここで注意すべきは、マルクスは〈流通する貨幣の総量〉を言い換えて〈通貨currencyの総量〉と述べていることである。つまり通貨=流通する貨幣ということである。大谷氏は預金まで通貨の範疇に加えるのであるが、こうした間違いは、ここでもマルクスによって退けられている。
 それはまあよいとして、イングランド銀行券の発券高と流通高とをみた場合、発行されたイングランド銀行券のうち通貨として流通しているもの以外は、個人的な退蔵を除けば、銀行の準備金として存在しており、その限りではそれは貸し付け可能な貨幣資本、すなわちmoneyed capitalとして存在しており、そうした関係だけを見れば、流通貨幣量とmoneyed capitalとの間には一方が増えれば、他方は減少するという関係がある。つまり流通貨幣量が増えれば、それだけ銀行の準備を圧迫し、moneyed capitalが減少する、よってまた利子率を押し上げるという関係がある。しかしすでに何度も言ってきたように、銀行はこうした同じ銀行券を何度も還流させて、一つの貨幣量の何倍何十倍もの額の利子生み資本を貸し付けることができるのである。それはたった10ポンドの銀行券片が流通速度によっては、1000ポンドもの商品を流通させ、その価値を実現することができるように、100ポンドの銀行券が、何度も銀行に還流することによって、2000ポンドの預金を形成し、よって2000ポンドの利子生み資本として銀行から貸し出されることが可能なのである。そればかりか銀行は、銀行券以外にもさまざまな形での信用(例えば銀行手形や口座貸し越し等々)による貸し付けも行いうるのであり、だから彼らが貸し付けるmoneyed capital全体はそうした手持ちの準備状態にある銀行券に限定されないのである。だから何度も紹介するが〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものである〉(③488頁)

〔完〕

2017年12月19日 (火)

現代貨幣論研究(13)

「通貨」概念の混乱を正す

--通貨とmonied capitalという意味での貨幣資本との区別の重要性--(2)

 マルクスがこの問題について、極めて明確な「回答」を持っていたことは、大谷新本では第4巻で紹介されている、エンゲルス版の第33章と第34章に使われた草稿である、『銀行法委員会報告』1857年の〔チャプマンの証言〕の幾つかの抜粋に挿入されているマルクスの長い書き込みにおいてはっきりと見ることができる。もちろん、この部分は大谷氏がいうところの「III)」の本文の枠内のことではないが、しかしそうした本文を記述するための資料として作成されたマルクス自身による抜粋ノートなのである。だからそこでのマルクスの考察を検討すれば、マルクスがこの問題についてどのように考えていたかが理解できるのである。
 よって私自身のその部分のノートを長くなるが紹介しておきたい。ノートをそのまま紹介するのはやや無粋に過ぎるが、何しろのこの『マルクス研究会通信』は、ブログの表題の下に「マルクスの研究をやっています。その研究ノートを少しずつ紹介」とあるように、基本的にはノートの紹介を本来の課題としている。だから、やや言い訳めくが、十分に推考して完成させたものではないノートを、そのまま紹介しても許されるであろう。それに対するご批判やご意見を仰ぎ、さらに研究を深める一助にすればよいと考えている。(なお【 】で括られた番号は、私が任意につけた草稿のパラグラフ番号である。[ ]で括られた番号はMEGAの頁数、||362|というのはマルクスの草稿の362原ページがここから始まるということである。〔 〕で括られた表題等は大谷氏がつけたものである。①、②……はMEGAの注釈や異文等である。マルクスの草稿は青太字、大谷氏の書いたものやMEGAの注釈等は青字になっている。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(以下は私のノートから)

§[597]/360/〔混乱。続き〕

〔c『銀行法委員会報告』1857年からの抜粋II〕

〔(4)チャプマンの証言〕

  以下、このチャプマンの証言の部分はマルクスの長い書き込みがあり、重要である。このマルクスの書き込みは、いわゆる「流通手段の前貸しか、資本の前貸しか」という問題とも関連して多くの論者によって言及されてきた部分でもあり、以下、抜粋しておこう。

   この部分では〈第4868号。(チャプマン)貨幣の量。〉というマルクス自身による見出しがつけられているように、「貨幣の量」が問題になっている。①②……はMEGAにつけられた注解や異文等である。)

【195】

〈{けっして忘れてならないのは,名目的にはだいたいいつでも1900万から2000万ポンド・スターリングの銀行券が公衆の手にあることになっているが,これらの銀行券のうち現実に流通している部分と,運用されずに準備として銀行業者のもとにとどまっている部分との割合は絶えず,また大きく変動しているということである。後者の準備〔の部分〕が大きいときに(だからまさに流通*が少ない〔low〕ときに),貨幣市場の立場からすると,*流 通〔Circulationは〕潤沢〔full〕なのであり,この準備が小さい〔small〕ときに(だから*流通〔Circulation〕が潤沢〔full〕なときに),〔貨幣市場の立場からすると〕*流通は,すなわち遊休している貨幣資本〔unemployed money capital〕という存在形態にある部分は,少ない〔low〕のである。*流通〔Circulation〕の,事業の状態にはかかわりのない{したがって公衆の必要とする額が同じままでの①}現実の膨張または収縮は,ただ技術的な諸原因から生じるだけである。たとえば,租税支払いの期日には銀行券(と鋳貨)が普通の程度を越えてイングランド銀行に流れ込んで,事実上*流通〔Circulation〕を,それの必要にはおかまいなしに収縮させる。国債の利子が払い出されるときにはその逆になる。前者の場合,流通〔Circulationの〕ためにイングランド銀行からの貸付〔loans〕が行なわれる。後者の場合,個人銀行業者のもとでは,彼らの準備が一時的に増える[601]ので利子率が下がる。これは*流通〔Circulation〕の絶対量とはなんの関係もないことであって,ただ,それを発行する当事者に関係があるだけである。そしてこれらの銀行業者にとってはそれが貸付可能な資本〔loanable capital〕の発行として||362|現われるのであり,だから彼はこの発行〔issue〕のもたらす利潤をポケットに入れるのである。

  ①〔訂正〕「}」--手稿では欠けている。〉 (110-111頁)

*大谷氏は〔Circulation〕を〈流通〉と訳しているが、ここはやはり「通貨」とすべきではないだろうか。こうした翻訳のまずさは【195】~【202】全体についても言えることである。

 ここで〈名目的にはだいたいいつでも1900万から2000万ポンド・スターリングの銀行券が公衆の手にあることになっている〉とあるが、イングランド銀行の発券は1844年の銀行条例によって1400万ポンドまでは有価証券を担保に発行され、それ以上は地金の保有高に基づいて発行されることになっている。マルクスは具体的な例として地金が1000万ポンドとして発行高を2400万ポンドと計算しているケースもあるが、このうち公衆が必要とするものとしてここでは〈1900万から2000万ポンド〉が指摘されている。とするなら残りの400万から500万はイングランド銀行の銀行部の準備となっているわけである。つまりここで言われている〈公衆の手〉というのは、イングランド銀行以外の地方銀行や個人銀行そして文字どおりの公衆、つまり資本家や労働者や業者等々の手の中にあるということである。そしてここで問題になっているのは、このイングランド銀行の外に出ている銀行券のうち、一部は地方銀行や個人銀行の準備としてあり、他方は実際に流通しているとマルクスは想定しているわけである。ここでマルクスが〈貨幣市場〉と述べているのはいうまでもなく、貨幣の貸し借りの市場であり、ここではもっぱら地方銀行から再生産的資本家(産業資本や商業資本)たちへの貸し付けである(なおついでに述べておくと、イングランド銀行の銀行部は他の一般の銀行と基本的には同じ位置づけであり、地方銀行等と同じように、資本家等への貸し付けが行われていた)。その場合の貸し付け可能な貨幣資本の大きさはそれぞれの銀行の準備金の状況によって規定されているが、その準備は現実の商品市場における銀行券(通貨)の流通高に対応して常に増減していると指摘しているわけである。
  通貨の増減そのものは、公衆の必要に応じて、要するに商品市場の状況に対応して、増減するのだが、一部はただ技術的な理由で増減するとして、その例を二つ上げている。一つは租税支払の期日にはその支払いのために必要な通貨が吸収され、公衆の必要とする通貨の量が増大すること、もう一つは国債の利子支払がなされるときには、通貨は商品市場が必要とする以上に流通に出回り(よって社会的な物質代謝の状況とは無関係に)、公衆の持つ通貨が増えることが指摘されている。
 租税支払の場合は、通貨はイングランド銀行に流れ込むことになる。だからその場合は恐らく公衆の手にあるという1900万から2000万の全体額が減少しているときであろう。商品市場における通貨の流通高には変化がないのだから、この場合は地方銀行等の準備を逼迫させるであろう。だから利子率が上昇する。他方で国債の利子支払の場合はその逆であって、公衆に出回っている1900万から2000万の銀行券そのものがさらに増加してそれ以上になる場合である。この場合も商品市場における通貨の流通量には何の変化もないとすれば、今度は地方銀行等の準備は潤沢になるわけである。だから利子率は低下するというわけであるが、マルクスはそれは貸付可能な貨幣資本(monied capital)の増大になるのであり、彼らの利潤を増やすのだと指摘している。

【196】

〈①一方の場合には,流通媒介物の②一時的な移動〔Deplacement〕が生じるだけであって③,それをイングランド銀行は,国債利子の支払いの少し前に低利の短期貸付〔1oans〕をすることによって調整するのであり,したがって,この同じ余分な銀行券〔surplusnotes〕が,租税の支払いによってできた穴を埋め,またそれらの前貸の払い込み(返済)が,国債〔利子〕の払い出しがつくりだす余分〔Surplue〕を減少する〔ようにする〕のである 。

①〔異文〕ここに,「どちらの場合も……〔Beide Falle haben das gemein〕」と書いたのち消している。
②〔異文〕「一時的な」--あとから書き加えられている。
③〔異文〕はじめ,文をここで終えるつもりでここにピリオドを置いたが,それを消して以下の部分を続けている。〉
(111頁)

 このパラグラフと次のパラグラフは【195】パラグラフを直接受けてそれに関連して述べられている。ここで大谷氏は〈一方の場合には〉とか次のパラグラフでは〈他方の場合には〉と訳しているのであるが、恐らくこの翻訳は適切とはいえないだろう。というのはこれだと【195】で指摘されている二つのケース、つまり一つは租税支払、もう一つは国債の利子の払い出しのそれぞれを指していると捕らえてしまうからである。しかしマルクスが述べているのはそういうことではない。【195】の両方に言えることとして二つのことを指摘し、「一つは」として今回のパラグラフで言われているのだからである。要するにどちらにもいいうることは〈流通媒介物の一時的な移動〔Deplacement〕が生じるだけ〉だということである。すでに【195】の解読で書いたように、租税支払の場合はイングランド銀行の外にある銀行券の総額が通常の時より減少すること、国債利子の払い出しの場合はその逆である。だからイングランド銀行は低利の短期貸付によってそれらを調整するのだとしているのである。つまり国債利子の払い出しの少し前に貸し出しをやって、公衆の中に増えた通貨をその返済としてイングランド銀行に還流してくるように仕向け、租税支払によって逼迫した通貨をその短期貸付によってその穴を埋めるのだというのである。

【197】

他方の場合には,流通が少ないか潤沢かということ〔low od.full circulation〕は,いつでも,ただ,同量の流通〔Circulation〕の,①現実の流通手段と貸付〔loans〕の用具(預金されている〔onDeposits〕)とへの配分でしかない。

①〔異文〕「現実の〔actually〕」--あとから書き加えられている。〉 (111頁)

  これも【195】で指摘されているいずれのケースにも共通するものとしてマルクスは述べていることが分かる。だからここで〈他方の場合には〉というのも適訳とはいえず、マルクスの意図としては「もう一つ言えることは」という程度のものであろう。つまり 【195】の二つのケースについてもう一つ言えることは、〈流通が少ないか潤沢かということ〉は〈同量の流通〔Circulation〕の,①現実の流通手段と貸付〔loans〕の用具(預金されている〔onDeposits〕)とへの配分でしかない〉ということであるが、ここでも大谷氏の翻訳のまずさが理解を困難にしている。最初の〈流通が少ないか潤沢かということ〉というのは「通貨が少ないか潤沢かということ」である。しかもこれは銀行業者たちがそのように感じるということであって、実際に起きている事態ではないということにも注意が必要である。つまり銀行業者たちが、通貨が逼迫しているとか潤沢だとか意識するのは、彼らの準備金の増減がそのように彼らに思わせている現象なのである。しかし実際に起きていることは、イングランド銀行から外にてでいる通貨(イングランド銀行券)そのものの増減は今いったような一時的のものを除けばそれほど大きな変化はなく、ただそれが商品市場の需要にもとづいて通貨として出ているか、それとも地方銀行の準備として留まっているかという配分の問題なのだというのがここでマルクスが述べていることである。つまり地方の銀行業者たちは通貨が逼迫していると感じるのは、実は商品市場の活性によって流通媒介物としての通貨が必要とされ、そのために彼らの準備が少なくなっている状態のことなのである。つまり実際には文字通りの意味での通貨(流通手段と支払手段として実際に流通しているもの)はむしろ多いからこそ、銀行業者には逼迫していると感じるのであり、そして反対の場合は反対なのだというのがマルクスがここで指摘していることである。こうした銀行業者の転倒した意識は、彼等が通貨とmonied capitalとしての貨幣資本との区別ができていないことから来ているのである。つまり彼らの準備金(つまり貸し付け可能な貨幣資本、すなわちmonied capital)が少ないときには、通貨が逼迫していると考え(しかし実際には、流通に出回っている通貨そのものは多いから、彼らの準備が逼迫しているのである)、彼らの準備金(monied capital)が多いときには通貨は潤沢だと考えるということである(しかし実際には、流通に出回っている通貨が少ないから、すなわち実際の商品流通で通貨がそれほど必要とされていないから、彼らの準備金が潤沢なのである)。

【198】

他方,たとえば地金流入によって,それと引き換えに発行される銀行券の数が増やされる場合には,この銀行券はイングランド銀行の外で割引に役立ち,同行の銀行券は貸付〔loans〕の返済で還流する①のにたいして,新たな割引は同行の壁の外で行なわれ,したがって流通銀行券〔d.circulirenden Notes〕の絶対量はただ一時的に増やされるだけである。

① 〔異文〕はじめ,文をここで終えるつもりでここにピリオドを置いたが,それを消して以下の部分を続けている。〉 (112頁)
                  

 今回は地金の流入のケースを見ている。地金が何らかの理由で外国から輸入され、それがイングランド銀行に持ち込まれて、それに代わって銀行券が出ていくケースである。確かにこの場合は国内の通常の銀行券の流通高に変化がなくても、銀行券の流通に変化が生じるであろう。つまり1900~2000万ポンド以上の銀行券が出てくることになる。これらの銀行券は当然、イングランド銀行の外の銀行、つまり地方銀行等の準備を潤沢にするわけである。彼らはそれを割引に役立てるとマルクスは指摘している(つまりmonied capitalとして貸し付けられる)。しかしそれらも貸付の返済というかたちでイングランド銀行に還流するので、銀行券の絶対量はただ一時的に増えるだけだとマルクスは指摘している。
 ただここで注解①によるとマルクスは一旦、ピリオドをおいて文章を打ち切りながら、それを消し以下の部分を続けたと指摘されているが、それがために文章がややおかしくなっている。以下の文章というのは〈のにたいして,新たな割引は同行の壁の外で行なわれ,〉というものだが、しかしこれは、すでにその前に〈この銀行券はイングランド銀行の外で割引に役立ち〉と述べていることを、そのまま繰り返すことになっているからである。むしろピリオドで文章を一旦切り、その上で〈したがって流通銀行券〔d.circulirenden Notes〕の絶対量はただ一時的に増やされるだけである〉と繋がってゆくべきなのである。

【199】

もし取引が拡大されたために流通〔Circulation〕が潤沢〔full〕だとすれば(それは物価が①相対的に低い場合にも起こりうる),利子率が(利潤の増大や企業の増加によるmoneyed capitalの需要のために)相対的に高いこともありうる。もし②取引の縮小のために{あるいはまた信用が流動的であるために}流通が少なく〔low〕なっているとすれば,{物価は高くても③}利子率は低いことがありうる。(④ハバドを見よ。)

① 〔異文〕「相対的に」--あとから書き加えられている。
② 〔異文〕,「取引の縮小のために{あるいはまた信用が流動的であるために}」--はじめ「流通高が低位になっているとすれば,利子率は低いことがありうる」と書き始めたが,すぐにこの部分を書き加えている。
③ 〔訂正〕「}」--手稿では欠けている。
④ 〔注解〕「ハバドを見よ。」--〔MEGAII/4.2の〕565ページ16行一566ページ34行〔本書本巻64ページ9行一66ページ6行〕を見よ。〉
(112頁)

 ここでも翻訳のまずさをまず指摘しておく必要がある。最初の〈流通〔Circulation〕〉はマルクスの意図を考えるなら、やはり「通貨」と訳すべきである。また〈潤沢〔full〕だとすれば〉もそのあとの〈〔low〕〉を〈少なく〔low〕なっているとすれば〉と訳しているのだから、むしろここでは「増大しているとすれば」か「増えていれば」とすべきだろう。
 ここでマルクスが述べていることは、取引が拡大されたために、商品市場で必要な通貨の流通量が増え、その分、地方銀行の準備が圧迫されること、しかも景気の拡大は利潤の増大や企業数の増加などによってmoneyed capitalへの需要も増す。だから一方は銀行の準備が圧迫されるだけでなく、貸し出しへの需要も増えるのだから、当然、利子率が上昇せざる得ないということである。
 そしてその次はその反対のケースである。取引が縮小すれば、当然、商品市場の不活発から通貨の流通量も減少し、その分、銀行の準備は豊かになる。しかし同時に企業の投資も不活発になるからmoneyed capitalへの需要も減退する。だから利子率は低下せざるを得ないということである。
  しかしマルクスは、物価が高くてもそうなる場合もあると述べている。この場合は、次のようなことが考えられる。商品市場の不活発が原因ではなく、商品市場が活発でも、信用が流動的なために、つまり信用取引や預金の振り替え決済による取引が活発なために、通貨の節約が生じ、通貨の流通量そのものは増えないか、むしろ減少する場合、当然、物価は高いままだし、銀行にたいするmoneyed capitalへの需要にも変化がなくても、あるいは増大しても、やはり流通に必要な通貨量の減少は、その分だけ銀行の準備を豊かにして、利子率押し下げることになるわけである。

【200】

流通〔Circulation〕の絶対量が規定的なものとして利子率と一致するのは,ただ逼迫期だけのことである。このような場合,一方では,潤沢な流通〔full circulation〕にたいする需要は,ただ,信用喪失〔Discredit〕のために(流通〔Circulation〕の速度の低下や同じ貨幣が絶えず貸付可能な資本に転換される速度の低下を別として①)生じた蓄蔵にたいする需要〔でありうるのであって〕,たとえば1847年には,政府書簡は流通〔Circuration〕膨張を引き起こさなかった。他方では,事情によっては,現実により多くの流通手段が必要になっていることもありうる(たとえば1857年には,政府書簡ののちしばらくのあいだ,現実に流通〔Circulation〕が増大した)。

①〔訂正〕「)」--手稿では欠けている。〉 (112-113頁)

 ここでもまず指摘しておくべきは、訳者が〈流通〔Circulation〕〉としているものはすべて「通貨」と訳すべきであろう。
 ここでマルクスが言っているのは通貨の量そのものが利子率に規定的に作用するのは、恐慌のときだけであるということである。というのはこうした場合の通貨に対する需要、銀行券への需要は信用が喪失しために、支払手段としての現金への需要か、あるいは信用用具への不信から、現金を退蔵するための蓄蔵貨幣への需要だからであり、こうした場合は通貨の絶対量の枯渇が利子率を異常に高めるからだということである。
 それは1847年の恐慌時に政府が銀行条例を停止させる書簡を送っただけで、通貨の膨張そのものは生じなかった例を挙げている。この書簡によってイングランド銀行は銀行券の発行を制限を超えてできることになったが、しかし実際には、それだけで信用は安定し、銀行券の発行の増大そのものは必要なかったということである。信用が安定すれば、通貨を退蔵しておく必要もないし、信用取引が可能なら、直ちに現金による支払を迫られることもないからである。ただ1857年の恐慌のときにはイングランド銀行券の発行は一時期異常に増大したことはあることも指摘されている。これは以前、第5編草稿の第28章該当部分の解読をやったときにアンドレァデス著『イングランド銀行史』に掲載されているグラフを紹介したことがあったので、それを参照してもらいたい。

【201】

〈このような場合のほかは,流通〔Circulation〕の絶対量は利子率には影響しない。というのは,この絶対量は,節約や速度を不変と前提すれば,諸商品の価格と諸取引の量とによって規定されており{たいていは一方の契機が他方の契機の作用を麻痺させる},また信用の状態によって規定されているのであって,逆にそれが信用の状態を規定するのではないからであり,他方では,物価と利子率とのあいだにはなにも必然的な関連はないからである。〉 (113頁)

 この場合も、いやこの場合でさえも、というべきか、大谷氏が〈Circulation〉を〈流通〉と訳しているのは不可解である。あるいは「Circulation」は面倒だからすべて「流通」と訳してしまおうという意図でもあったのであろうか。というのは今回の場合は、明らかにマルクスは『資本論』第1部第3章で明らかにしている流通する貨幣の量を規制する法則を再確認しているのだからである。すなわち通貨の量は節約や速度を不変と前提すれば、商品価格の総額と取引の量に規定されていると述べているように、それは通貨の流通量について述べていることは明白だからである。またここでマルクスが〈また信用の状態によって規定されている〉というのは商業信用について述べているのである。もちろん、それに貨幣信用が絡まって、預金の振替決済等々によっても通貨の節約が行われることはありうるが、最初に〈節約や速度を不変と前提すれば〉と書いているからそうした場合は除外されていると考えるべきであろう。

【202】

通貨の発行〔lssue of Circulation〕と資本の貸付〔Loan of Capital〕との区別は,現実の再生産過程で最もよく現われる。①われわれは前に,生産のさまざまの構成部分がどのように交換されるかを見[602]た。しかしこの交換は貨幣によって媒介されている。たとえば,可変資本は実際には労働者の生活手段〔provisions d.workingmen〕であり,彼ら自身の生産物の一部分である。しかし,それは彼らには(少しずつ)貨幣で支払われてきたものである。この貨幣は資本家が前貸しなければならず,また,前の週に彼が支払った②その古い貨幣で次の週にふたたび新しい可変資本を支払うことができるかどうかは信用制度の組織によるところが大きい。資本のさまざまの範疇(たとえば不変資本と生活手段〔Lebmsmittel〕のかたちで存在する資本と)のあいだの交換の場合も同じである。しかし,資本の流通〔Circulation〕のための貨幣は,一方の側によって,またはそれぞれの分に応じて〔pro parte〕双方の側によって前貸されなければならない。それからこの貨幣は流通〔Circulation〕のなかにとどまるが,つねにそれを前貸した人の手にまた帰ってくる。というのは,その貨幣は彼にとっては余分の資本〔Surpluscapital〕(彼の生産的資本以外の)の投下をなすのだからである。貨幣が銀行業者の手に集中されている発達した信用制度にあっては,貨幣を前貸するのは彼らである(少なくとも名目的には)。この前貸は,ただ流通〔Circulation〕のなかにある貨幣に連関するだけである。それは通貨〔Circulation〕の前貸であって,それが流通〔circuliren〕させる資本の前貸ではない。}

① 〔注解〕「われわれは前に,生産のさまざまの構成成分がどのように交換されるかを見た。」-----カール・マルクス『経済学草稿(1863-1865年)』,第2部「第1稿」,MEGA第II部門第4巻第1分冊,301-343ページ〔中峯・大谷他訳『資本の流通過程』,大月書店,1982年,199-251ページ〕,を見よ。
② 〔異文〕「その古い貨幣で……新しい可変資本を」← 「同一の貨幣で……同一の資本を」〉
(113-114頁)

 このパラグラフはいわゆる「貨幣(流通手段)の前貸しか、資本の前貸しか」という多くの論者に論争を呼び起こした問題に関連している。
 ただマルクスがここで〈通貨の発行〔lssue of Circulation〕と資本の貸付〔Loan of Capital〕との区別は,現実の再生産過程で最もよく現われる〉と書き出しているが、これまでのパラグラフで述べてきたことも、まさにこの両者の〈区別〉の問題だったということである。イングランド銀行によって発行された銀行券は、一つはイングランド銀行自身のその銀行部の準備になり、それ以外はイングランド銀行の外に、つまり公衆の持つことになるのであるが、しかしこの公衆の中には、一つは銀行(地方銀行あるいは個人銀行等々)があり、もう一つはそれ以外の資本家や労働者などがあるということである。だからその公衆の持つ銀行券は、一つは実際の商品市場で通貨として流通している部分をなし、それ以外の部分は地方銀行や個人銀行の準備を形成するとマルクスは論じていたわけである。そしてこの両者は一方が増えれば他方はその分だけ減るというような増減を常に繰り返しているということである。つまり一般の商品市場での通貨の流通量が増大すれば、それだけ銀行の準備が減少し、それが銀行家には通貨の逼迫として意識され、逆の場合は逆だということである。だから実際の通貨が市場に多く出回ると銀行家たちには通貨は逼迫していると意識され、反対の場合は反対という、まったくちぐはぐな逆の意識がそこでは生じていることになる。もちろん、ここには銀行家たちの通貨とmonied capitalとの無区別、混同がある。銀行家たちは彼らが貸し出す銀行券も通貨だという意識がある。だからその準備が少なくなっていることを通貨が逼迫していると考えるのである。しかし彼らが逼迫していると考えているのは、通貨ではなく彼らが貸し出す利子生み資本なである。つまりマルクスがここで論じていることは、通貨と利子生み資本(monied capitalという意味での貨幣資本)の区別なのである。その区別が最もよく現れるのが再生産過程だと述べているのである。
 もちろん、銀行が貸し出すmonied capitalはこうしたイングランド銀行券によるものだけではなく、銀行はさまざまな形での信用による貸し付けを行うのであり、だからmonied capitalの増減はこうしたものだけに厳密に規定されているわけではない(いやむしろmoneyed capitalの量は先の例で100ポンドの銀行券が2000ポンドの預金を形成したように、通貨の量とはまったく異なった動きをするのである)。しかしここでマルクスが述べているイングランド銀行券が地方銀行等の準備金を形成しているものというのは、彼らのmonied capitalのもっともコアな部分をなしていると考えることができるわけである。
 ここでマルクスが通貨の前貸しと述べているのは、流通過程に必要な貨幣そのものの供給ということである。この貨幣そのものは実際には歴史的に貨幣商品として市場からはじき出されたものであり、それはだから一部は蓄蔵状態にあるが、それ以外は流通過程に本来的に存在するものなのである。ただ発展した資本主義社会では実際の貨幣商品としての金ではなく、多くはその代替物がそれに代わって流通している。ここでマルクスが想定しているのはイングランド銀行券であるが、その場合はそれを供給するのはイングランド銀行であり、あるいは地方銀行だと述べているのである。だからこの場合は銀行券の前貸しは確かに銀行にとっては利子生み資本としての貸付か、あるいは単なる預金の払い出しかもしれないが、しかし再生産過程でみると、それは通貨の前貸しであって、資本の前貸しではないと指摘しているのである。というのはそれは単に流通に必要な貨幣の供給でしかないからである。しかしこれは再生産過程をそれ自体として抽象的に考察している限りで問題になる問題でもあるのである。というのは貨幣商品そのものは歴史的に本源的には金生産者から一商品として物々交換によって供給され流通過程に入り、流通過程に留まるか、あるいは蓄蔵貨幣として停止した状態にあるかするのだからである。だからそれを銀行が前貸しで供給するというようなことは本来的にはないのである。ただ蓄蔵貨幣は発達したブルジョア社会では銀行の準備金という形態をとっているので、それが流通に出てくる媒体として銀行があるということにすぎない。いずれにせよ『資本論』第2部第3篇の再生産表式を使った再生産過程の考察では流通を媒介する貨幣は資本家が投ずると想定せざるを得ないからこうした不可解な貨幣の運動が見られるのである。
 もし流通を媒介する貨幣がいかなる形で流通に供給されるのかという問題を論じるなら、やはり『経済学批判』でマルクスが論じているように、金銀の流通を問題にしなければならないのである。イングランド銀行券などの流通はただそれを代理して流通しているのであって、こうした金属流通を前提してしか考えることはできないのである(一度、こうした問題を金貨幣の本源的な流通との関連で考察してみる必要があるかもしれない。)
 しかしいずれにせよ、この問題はもっとよく考えてみることにしよう。この問題は大谷氏の『第2部仕上げのための苦闘の軌跡』を批判する中でかなり論じたが、しかしエンゲルスの「追加貨幣」という勝手な修正を知らないままに論じたという欠陥があり、だからもう一度きっちり論じておくべき問題だからである(この大谷氏の論文の批判は、電子書籍化してあるので、興味のある方は参照してください)。このノートもいずれ、草稿のパラグラフごとの解読として公表するときがあると思うが、そのときはもっと本格的に論じることにしたい。

【216】

貨幣の量第5196号。「〔チャプマン〕各四半期中には(国債利子が支払われるときに)… … わたしどもがイングランド銀行に頼ることは……どうしても必要です。国債利子〔支払い〕の事前処理で600万ポンド・スターリングか700万ポンド・スターリングの〔国家〕収入が流通〔circulation〕から引き揚げられるときには,そのあいだの期間,だれかがこの金額を用立てる仲介者medium〕とならなければなりません。」(この場合に問題なのは貨幣の供給であって,資本の供給ではない。)(またmoneyed capitalの供給でもない。①)

 ①〔訂正〕 「)」--手稿では欠けている。〉 (118-119頁)

 ここで論じられているものも通貨とmoneyed capitalとの区別の問題である。マルクスはこの場合の貨幣の供給は通貨の供給であって、資本の供給ではない、moneyed capitalの供給でもないと指摘している。しかしこの点については、一つ前のパラグラフで論じたので、ここでは必要ないであろう。

 (以下、「チャプマンの証言」のノートは続くが、割愛する。ノートの紹介は以上である。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このようにマルクスによって抜粋された「チャプマンの証言」やそこに挿入されたマルクスの文章を吟味すれば、〈マルクスはmonied capitalと貨幣量とのあいだにどのような関連があるのか,という問題を立てながら,「5)信用。架空資本」の内部ではこれに答えることをしなかったし,マルクス自身も答え終えたと考えてはいなかったと言わざるをえない〉(④261頁)と大谷氏がいうのは正しいとは言い難い。

 マルクスは明確な問題意識をもって論じているのである。今一度、その内容を確認してみよう。われわれはこれまでマルクスの文章を見てきた順序に拘らずに、全体としてこの問題を考察する場合に必要なことについて、項目的に論じてみることにしよう。

(1)まず確認しなければならないのは、マルクスが〈ここで通貨〔Circulation〕の量と言うのは,すべての銀行券と地金のことである〉と述べているように、マルクスが通貨という場合はイングランド銀行券か地金を指しているということである。そしてマルクスが主に通貨として問題にしているのはイングランド銀行券のことである。

(2)但し、イングランド銀行券がすべて通貨というわけではない。イングランド銀行券は、1844年の銀行条例によって、その発行額は制限されており、1400万ポンドは証券を担保に発行できるが、それ以上はイングランド銀行の保有する地金に連動させて発行されることになっていた。例えば発券部の準備金が1000万ポンドの場合、発行限度額は2400万ポンドになる。しかしこの2400万ポンドがすべて通貨かというとそうではないのである。このうち公衆が必要とする部分が、仮に2000万ポンドであれば、残りの400万ボンドは銀行部の準備になるわけである。銀行部は他の普通の銀行と基本的には同じ営業を行うものとの位置づけであったから、この準備は少なくともその一部は銀行部の運用資金(monied capital)ということができる。では残りの公衆が手にする2000万ポンドが、では通貨の量かというとやはり違うのである。この公衆の手にあるイングランド銀行券は二つの部分に別れる。一つは通貨であり、実際に流通媒介物として流通しているものであり、もう一つは地方銀行や個人銀行が準備金として保有するものである(これ以外にも個人や資本家によって退蔵される部分もあるが、これはいまは無視しよう)。

(3)つまりイングランド銀行が発行する銀行券のうち、実際に通貨として流通している量というのは、文字通り商品流通を媒介している量のことある。そしてこの流通量は一つは流通する商品の価格総額、流通速度、諸支払の相殺度合い(マルクスは節約と述べている)、あるいは商業信用の発展度合い等によって規定されており、これは結局は、社会的な物質代謝の運動に規定されているわけである。
 だから例えイングランド銀行であってもそれを左右できるものでは決してないのである。つまり通貨の流通量というのは、実際の商品市場の現実に規定されている独立した数値なのである。それは銀行によって増大させたり、減少させるということは絶対にできないものである。
 今日のブルジョア経済学者はいうに及ばず、多くのマルクス経済学者においても、現代の資本主義においては通貨は国家によって管理されているなどという理解が一般的であるが、こうした理解の間違いは、通貨概念そのものが混乱していることにある。この点では、マルクスの生きていた当時の銀行家、例えばチャプマンのようなブルジョアや、フラートンのような銀行学派たちの混乱から彼等は一歩も前進していないのである。彼等も通貨とmonied capitalとの区別ができていないのである。しかしマルクスが強調しているのは、まさにこの区別であり、その必要なのである。

(4)例えば発行されたイングランド銀行券のうち銀行部の準備以外は、イングランド銀行の外に出回っていることになるが、しかしそのうち地方銀行や個人銀行の準備金を形成するものは、利子生み資本、すなわち貸し付け可能な貨幣資本、monied capitalとなる。マルクスはだから現実の流通を媒介する通貨量が増えれば、それだけ準備金としての銀行券が逼迫するので、銀行業者たちはそれを通貨の逼迫と捉えると指摘しているわけである。しかし実際には、通貨は現実の商品市場では多く出回っているのだ、というのがマルクスの批判である。

(5)しかしこれだけなら、通貨と利子生み資本(monied capital)とは、一方が増えれば他方は減るという関係にありそうに思える。つまり通貨の量とmonied capitalとの関係はその限りでは関連があることになる。

(6)しかし利子生み資本を形成するものは、こうした銀行が保有する銀行券だけに限らないのである。それはすでに見たように、同じ貨幣片が何度も流通を媒介することによって、多くの商品の価値を実現することができるのと同じように、同じ通貨が銀行に預金や支払として還流することによって、それが何度も利子生み資本として貸し出すことが可能になるのであり、だから同じ一定の通貨量がその何倍もの利子生み資本を形成することになるからである。そればかりではない、銀行はその準備に引き当てて、当座貸し越し、つまり帳簿信用によって貸し出すこともできるのである。

(7)よって、マルクスは次のように結論しているのである。

〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものである〉 (③488頁)

  だから何度も言うが、大谷氏のように、この第2の問題に対してマルクスが何の回答も与えなかったなどということは到底ありえないのである。

(以下、次回に続く)

2017年12月13日 (水)

現代貨幣論研究(12)

「通貨」概念の混乱を正す

--通貨とmonied capitalという意味での貨幣資本との区別の重要性--(1)

◎問題提起が繰り返された謎?

 今回の問題は「現代貨幣論研究」のテーマとは若干ずれるといえばそう言えなくもないが、しかし現代、一般に「通貨」といわれる場合、その多くは概念的には混乱しており、monied capitalという意味での貨幣資本との区別が出来ていない場合が多いのである。その意味では、今回取り上げるテーマも現代貨幣論研究の一環ということができなくもない。今回もこれまでと同じく大谷氏の新著『マルクスの利子生み資本論』に関連した問題提起である。

 大谷氏の新著はその表題のとおり、『資本論』現行版の第3部第5編「利子と企業者利得とへの利潤の分裂 利子生み資本」の草稿を詳しく翻訳紹介するとともに、氏独自の解説を加えたものになっている。今回はその草稿のなかでもマルクス自身が「5)信用。架空資本」と表題を書いた部分(現行版では第25章から35章に該当)についてである。この部分はマルクス自身がつけた項目としてはⅠ)、II)、III)という表題のない三つの項目しかない。そしてそれらは現行版ではだいたい第28章、第29章、第30~32章に該当している。今回問題にするのは、そのうちのIII)と項目が打たれた部分である。

 このIII)は草稿の340原頁から始まっているが、冒頭、マルクスは次のような一文で開始している。

 〈これから取り組もうとしている,この信用の件〔Creditgeschichte〕全体のなかでも比類なく困難な問題は,次のようなものである。--第1に,本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで,現実の資本蓄積の,すなわち拡大された規模での再生産の指標なのか,またどの程度までそうでないのか? いわゆる資本のプレトラ(この表現は,つねにmonied Capitalについて用いられるものである),これは過剰生産と並ぶ一つの特殊的な現象をなすものなのか,それとも過剰生産を表現するための一つの特殊的な仕方にすぎないのか? monied Capitalの過剰供給は,どの程度まで,停滞しているもろもろの貨幣量(鋳貨\ 地金または銀行券)と同時に生じ,したがって貨幣の量の増大で表現されるのか?
 他方では,貨幣逼迫のさい,この逼迫はどの程度まで実物資本〔realcapital〕の欠乏を表現しているのか? それはどの程度まで貨幣そのものの欠乏,支払手段の欠乏と同時に生じるのか?〉
(大谷本第3巻413-414頁、以下「③413-414頁」と略記する)

  いうまでもないが、これはマルクスがこれからIII)で考察しようと考えているテーマを定式化したものだということができる。
 そしてマルクスはエンゲルス版では第30章にあたる部分を終え、第31章が開始されるところで、再び次のように同じような問題を提起している。

 〈しかし,ここでの問題はそもそも,どの程度までmoneyed Capita1の過多〔superabundance〕が,あるいはもっと適切に言えば,どの程度まで貸付可能なmonied capitalの形態での資本の蓄積が,現実の蓄積と同時に生じるのか,ということである。〉 (③408頁)

 これは冒頭の問題提起のうち最初の問題を再度確認したものと言える。
  ところが奇妙なことに、マルクスはテキストをかなり書き進めたあとでも、つまりエンゲルス版では第32章の半ば近くまで書き進めたところで、三度同じような問題提起を行うのである。すなわち草稿の355原頁の途中、次のように書いている。

  〈さて,二つの問題に答えなければならない。第1に,monied Capita1の相対的な増大または減少は,要するにそれの一時的な,またはもっと継続的な蓄積は,生産的資本の蓄積とどのような関係にあるのか? そして第2に,それは,なんらかの形態で国内にある貨幣量とはどのような関係にあるのか?〉 (③523頁)

  エンゲルスは編集ではこの部分全体を削除しているが、このようにかなり考察を押し進めた時点で、冒頭で行ったのとほぼ同じような問題を提起する不自然さからそうしたのであろうと考えられる。しかし、少なくとも草稿では、この時点でも、マルクス自身は冒頭に掲げた解決すべきと考えていた問題が、いまだ最終的には解決しているとは言い難いと考えていたことは明らかではないだろうか。III)全体の草稿は原ページでいうと、340~360頁に該当する。つまりこの問題提起が書かれている355頁というのは、全体のほぼ4分の3が終わったところなのである。こうしたマルクスの問題提起の度重なる記述から、そもそもマルクスは冒頭に掲げた問題を、果たしてこの部分で解決したと言えるのか、という疑問が当然のごとく生じてくるわけである。

 この問題について、大谷氏は特にmonied capitalと貨幣量との関連について、マルクスは問題提起をしながら、結局は未解明に終わっていると、同書第3巻と第4巻で言及している。その問題を少し検討してみたい。

◎大谷新本第3巻での言及

 まず大谷氏の新著『マルクスの利子生み資本論』の第3巻では、【第10章「貨幣資本と現実資本」(エンゲルス版第30-32章)に使われたマルクスの草稿について】の「3 若干の基本的なタームについて」の「(9)貨幣の量」の冒頭、次のように述べている。

 〈さて,「III)」の冒頭で提起されている第2の問題では,monied capitalと,最も一般的な表現を使えば,「貨幣の量」との関連が問われている。「貨幣の量」もまた「III)」の基本的なタームとなっているはずである。
  ところが実際には,この「III」で「貨幣の量」について触れている箇所はわずかである。だからまた,monied capitalと貨幣量との関連について明示的に論じている箇所もさらにわずかである。つまり,マルクスは冒頭で,monied capitalと貨幣量との関連について問題を立てながら,それについては立ち入って論じることをしていなかったように見える。〉
(③297頁)

  次に同じ第10章の最後の締めくくりの「むすびに代えて」のなかでも、やはり同じ問題を次のように論じている。

 〈以上,「III)」のなかでマルクスが論じ,重要視し,明らかにしていると考えられる論点を思いつくままに挙げてきた。最後に,ここでのマルクスの論述をどの程度まで完成したものと見るべきか,などについて一言し,やや長くなったこの解題を終わることにしよう。
 すでに見たように,冒頭で立てられた問題のうち,monied capitalと貨幣の量との関連の問題は,この「III)」の範囲内では本格的に論じられておらず,したがってその答もマルクスによってまとまったかたちで与えられていないと見られる〉
(③397-398頁)

 なお、ついでに述べておけば、この部分では大谷氏は第1の問題--monied capita1の増減と実物資本の蓄積およびその停滞との関連の問題--についても〈マルクス自身は,エンゲルス版第32章にあたる部分を書き終えたところでも,第2の問題ばかりでなく第1の問題についても,答え切った,これで答え終えた,とは感じていなかったように見える〉と結論している。

◎果たして、マルクスは、monied capitalと貨幣の量との関連について、その答えを与えることが出来なかったといえるのかどうか

  しかしマルクスの草稿を読んできて思うのは、果たして大谷氏の指摘は正しいのかという疑問である。というのは、マルクス自身はこの第二の問題について言及するだけでなく、一定の結論を得ていると考えられるからである。それをこれから紹介しておこう。
  マルクスは第二の問題、すなわち〈それ(moneyed capitalの相対的な増大または減少--引用者)は,なんらかの形態で国内にある貨幣量とはどのような関係にあるのか? 〉について次のように述べている。

〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものであること{この量の一部分は,銀行業者の準備であり,この準備は変動している。ここで通貨〔Circulation〕の量と言うのは,すべての銀行券と地金のことである,等々}〉 (③488頁)

通貨〔Circulation〕{地金および鋳貨を含めて}の量が相対的に少ないのに預金が大きいということの可能性だけであれば,それはまった次のことにかかっている。(1)同じ貨幣片によって行なわれる購買や支払の度数。そして,(2)同じ貨幣片が預金として銀行に帰ってくる度数。したがって,同じ貨幣片が購買手段および支払手段としての機能を繰り返すことが,それの預金への転化によって媒介されているのである。たとえば,ある小売商人が毎週100ポンド・スターリングの貨幣を銀行業者に預金するとしよう。銀行業者はこの貨幣で製造業者の預金の一部分を払い出す。製造業者はそれを労働者たちに支払う。労働者たちはそれで小売商人への支払をし,小売商人はそれで新たな預金をする,等々。小売商人の100ポンド・スターリングの預金は,(1)製造業者の預金を払い出すために,(2)労働者に支払うために,(3)その小売商人自身に支払うために,(4)同じ小売商人の貨幣資本〔moneyed capital〕の第2のある部分を預金するために,それぞれ役立ったのである。この場合には,この小売商人は20週間の終りには(もし彼自身がこの貨幣を引き当てに手形を振り出さないとすれば)100ポンド・スターリングで2000ポンド・スターリングを銀行業者のもとに預金したことになるであろう。〉 (③495-496頁)

 このようにマルクスはこの問題についてはっきりと書いているのである。これをみれば、大谷氏のように〈まとまったかたちで答を書かないままに残した〉などとは言えないのではないかと思うのである。最初の引用文では、マルクスは明確に〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものである〉とその答えを書いているのである。
  次の引用文では、その理由の一つが例示されている。つまり同じ貨幣片が何度も購買手段や支払手段として機能して、その貨幣額の何倍もの商品価値を実現させるように、同じように、その同じ貨幣額は、その何倍もの預金を形成することが可能なのである。だからマルクスの例では、100ポンド・スターリングの貨幣量が、2000ポンド・スターリングの預金を形成することもありうること。そしてこの2000ポンド・スターリングの預金というのは、銀行にとっては、準備として手元に置くもの以外は貸し付け可能な貨幣資本(monied capital)を形成するのである。だから貨幣量(通貨量)とmonied capitalの増減との関係は、この一事を見ても、まったく関連がないといえるのである。

  マルクスにとってはこの問題はある意味ではハッキリした問題だったからこそ、それほど言及する必要は無かったとむしろ考えるべきではないかと思えるのである。

(以下、次回に続く)

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