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2017年12月19日 (火)

現代貨幣論研究(13)

「通貨」概念の混乱を正す

--通貨とmonied capitalという意味での貨幣資本との区別の重要性--(2)

 マルクスがこの問題について、極めて明確な「回答」を持っていたことは、大谷新本では第4巻で紹介されている、エンゲルス版の第33章と第34章に使われた草稿である、『銀行法委員会報告』1857年の〔チャプマンの証言〕の幾つかの抜粋に挿入されているマルクスの長い書き込みにおいてはっきりと見ることができる。もちろん、この部分は大谷氏がいうところの「III)」の本文の枠内のことではないが、しかしそうした本文を記述するための資料として作成されたマルクス自身による抜粋ノートなのである。だからそこでのマルクスの考察を検討すれば、マルクスがこの問題についてどのように考えていたかが理解できるのである。
 よって私自身のその部分のノートを長くなるが紹介しておきたい。ノートをそのまま紹介するのはやや無粋に過ぎるが、何しろのこの『マルクス研究会通信』は、ブログの表題の下に「マルクスの研究をやっています。その研究ノートを少しずつ紹介」とあるように、基本的にはノートの紹介を本来の課題としている。だから、やや言い訳めくが、十分に推考して完成させたものではないノートを、そのまま紹介しても許されるであろう。それに対するご批判やご意見を仰ぎ、さらに研究を深める一助にすればよいと考えている。(なお【 】で括られた番号は、私が任意につけた草稿のパラグラフ番号である。[ ]で括られた番号はMEGAの頁数、||362|というのはマルクスの草稿の362原ページがここから始まるということである。〔 〕で括られた表題等は大谷氏がつけたものである。①、②……はMEGAの注釈や異文等である。マルクスの草稿は青太字、大谷氏の書いたものやMEGAの注釈等は青字になっている。)

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(以下は私のノートから)

§[597]/360/〔混乱。続き〕

〔c『銀行法委員会報告』1857年からの抜粋II〕

〔(4)チャプマンの証言〕

  以下、このチャプマンの証言の部分はマルクスの長い書き込みがあり、重要である。このマルクスの書き込みは、いわゆる「流通手段の前貸しか、資本の前貸しか」という問題とも関連して多くの論者によって言及されてきた部分でもあり、以下、抜粋しておこう。

   この部分では〈第4868号。(チャプマン)貨幣の量。〉というマルクス自身による見出しがつけられているように、「貨幣の量」が問題になっている。①②……はMEGAにつけられた注解や異文等である。)

【195】

〈{けっして忘れてならないのは,名目的にはだいたいいつでも1900万から2000万ポンド・スターリングの銀行券が公衆の手にあることになっているが,これらの銀行券のうち現実に流通している部分と,運用されずに準備として銀行業者のもとにとどまっている部分との割合は絶えず,また大きく変動しているということである。後者の準備〔の部分〕が大きいときに(だからまさに流通*が少ない〔low〕ときに),貨幣市場の立場からすると,*流 通〔Circulationは〕潤沢〔full〕なのであり,この準備が小さい〔small〕ときに(だから*流通〔Circulation〕が潤沢〔full〕なときに),〔貨幣市場の立場からすると〕*流通は,すなわち遊休している貨幣資本〔unemployed money capital〕という存在形態にある部分は,少ない〔low〕のである。*流通〔Circulation〕の,事業の状態にはかかわりのない{したがって公衆の必要とする額が同じままでの①}現実の膨張または収縮は,ただ技術的な諸原因から生じるだけである。たとえば,租税支払いの期日には銀行券(と鋳貨)が普通の程度を越えてイングランド銀行に流れ込んで,事実上*流通〔Circulation〕を,それの必要にはおかまいなしに収縮させる。国債の利子が払い出されるときにはその逆になる。前者の場合,流通〔Circulationの〕ためにイングランド銀行からの貸付〔loans〕が行なわれる。後者の場合,個人銀行業者のもとでは,彼らの準備が一時的に増える[601]ので利子率が下がる。これは*流通〔Circulation〕の絶対量とはなんの関係もないことであって,ただ,それを発行する当事者に関係があるだけである。そしてこれらの銀行業者にとってはそれが貸付可能な資本〔loanable capital〕の発行として||362|現われるのであり,だから彼はこの発行〔issue〕のもたらす利潤をポケットに入れるのである。

  ①〔訂正〕「}」--手稿では欠けている。〉 (110-111頁)

*大谷氏は〔Circulation〕を〈流通〉と訳しているが、ここはやはり「通貨」とすべきではないだろうか。こうした翻訳のまずさは【195】~【202】全体についても言えることである。

 ここで〈名目的にはだいたいいつでも1900万から2000万ポンド・スターリングの銀行券が公衆の手にあることになっている〉とあるが、イングランド銀行の発券は1844年の銀行条例によって1400万ポンドまでは有価証券を担保に発行され、それ以上は地金の保有高に基づいて発行されることになっている。マルクスは具体的な例として地金が1000万ポンドとして発行高を2400万ポンドと計算しているケースもあるが、このうち公衆が必要とするものとしてここでは〈1900万から2000万ポンド〉が指摘されている。とするなら残りの400万から500万はイングランド銀行の銀行部の準備となっているわけである。つまりここで言われている〈公衆の手〉というのは、イングランド銀行以外の地方銀行や個人銀行そして文字どおりの公衆、つまり資本家や労働者や業者等々の手の中にあるということである。そしてここで問題になっているのは、このイングランド銀行の外に出ている銀行券のうち、一部は地方銀行や個人銀行の準備としてあり、他方は実際に流通しているとマルクスは想定しているわけである。ここでマルクスが〈貨幣市場〉と述べているのはいうまでもなく、貨幣の貸し借りの市場であり、ここではもっぱら地方銀行から再生産的資本家(産業資本や商業資本)たちへの貸し付けである(なおついでに述べておくと、イングランド銀行の銀行部は他の一般の銀行と基本的には同じ位置づけであり、地方銀行等と同じように、資本家等への貸し付けが行われていた)。その場合の貸し付け可能な貨幣資本の大きさはそれぞれの銀行の準備金の状況によって規定されているが、その準備は現実の商品市場における銀行券(通貨)の流通高に対応して常に増減していると指摘しているわけである。
  通貨の増減そのものは、公衆の必要に応じて、要するに商品市場の状況に対応して、増減するのだが、一部はただ技術的な理由で増減するとして、その例を二つ上げている。一つは租税支払の期日にはその支払いのために必要な通貨が吸収され、公衆の必要とする通貨の量が増大すること、もう一つは国債の利子支払がなされるときには、通貨は商品市場が必要とする以上に流通に出回り(よって社会的な物質代謝の状況とは無関係に)、公衆の持つ通貨が増えることが指摘されている。
 租税支払の場合は、通貨はイングランド銀行に流れ込むことになる。だからその場合は恐らく公衆の手にあるという1900万から2000万の全体額が減少しているときであろう。商品市場における通貨の流通高には変化がないのだから、この場合は地方銀行等の準備を逼迫させるであろう。だから利子率が上昇する。他方で国債の利子支払の場合はその逆であって、公衆に出回っている1900万から2000万の銀行券そのものがさらに増加してそれ以上になる場合である。この場合も商品市場における通貨の流通量には何の変化もないとすれば、今度は地方銀行等の準備は潤沢になるわけである。だから利子率は低下するというわけであるが、マルクスはそれは貸付可能な貨幣資本(monied capital)の増大になるのであり、彼らの利潤を増やすのだと指摘している。

【196】

〈①一方の場合には,流通媒介物の②一時的な移動〔Deplacement〕が生じるだけであって③,それをイングランド銀行は,国債利子の支払いの少し前に低利の短期貸付〔1oans〕をすることによって調整するのであり,したがって,この同じ余分な銀行券〔surplusnotes〕が,租税の支払いによってできた穴を埋め,またそれらの前貸の払い込み(返済)が,国債〔利子〕の払い出しがつくりだす余分〔Surplue〕を減少する〔ようにする〕のである 。

①〔異文〕ここに,「どちらの場合も……〔Beide Falle haben das gemein〕」と書いたのち消している。
②〔異文〕「一時的な」--あとから書き加えられている。
③〔異文〕はじめ,文をここで終えるつもりでここにピリオドを置いたが,それを消して以下の部分を続けている。〉
(111頁)

 このパラグラフと次のパラグラフは【195】パラグラフを直接受けてそれに関連して述べられている。ここで大谷氏は〈一方の場合には〉とか次のパラグラフでは〈他方の場合には〉と訳しているのであるが、恐らくこの翻訳は適切とはいえないだろう。というのはこれだと【195】で指摘されている二つのケース、つまり一つは租税支払、もう一つは国債の利子の払い出しのそれぞれを指していると捕らえてしまうからである。しかしマルクスが述べているのはそういうことではない。【195】の両方に言えることとして二つのことを指摘し、「一つは」として今回のパラグラフで言われているのだからである。要するにどちらにもいいうることは〈流通媒介物の一時的な移動〔Deplacement〕が生じるだけ〉だということである。すでに【195】の解読で書いたように、租税支払の場合はイングランド銀行の外にある銀行券の総額が通常の時より減少すること、国債利子の払い出しの場合はその逆である。だからイングランド銀行は低利の短期貸付によってそれらを調整するのだとしているのである。つまり国債利子の払い出しの少し前に貸し出しをやって、公衆の中に増えた通貨をその返済としてイングランド銀行に還流してくるように仕向け、租税支払によって逼迫した通貨をその短期貸付によってその穴を埋めるのだというのである。

【197】

他方の場合には,流通が少ないか潤沢かということ〔low od.full circulation〕は,いつでも,ただ,同量の流通〔Circulation〕の,①現実の流通手段と貸付〔loans〕の用具(預金されている〔onDeposits〕)とへの配分でしかない。

①〔異文〕「現実の〔actually〕」--あとから書き加えられている。〉 (111頁)

  これも【195】で指摘されているいずれのケースにも共通するものとしてマルクスは述べていることが分かる。だからここで〈他方の場合には〉というのも適訳とはいえず、マルクスの意図としては「もう一つ言えることは」という程度のものであろう。つまり 【195】の二つのケースについてもう一つ言えることは、〈流通が少ないか潤沢かということ〉は〈同量の流通〔Circulation〕の,①現実の流通手段と貸付〔loans〕の用具(預金されている〔onDeposits〕)とへの配分でしかない〉ということであるが、ここでも大谷氏の翻訳のまずさが理解を困難にしている。最初の〈流通が少ないか潤沢かということ〉というのは「通貨が少ないか潤沢かということ」である。しかもこれは銀行業者たちがそのように感じるということであって、実際に起きている事態ではないということにも注意が必要である。つまり銀行業者たちが、通貨が逼迫しているとか潤沢だとか意識するのは、彼らの準備金の増減がそのように彼らに思わせている現象なのである。しかし実際に起きていることは、イングランド銀行から外にてでいる通貨(イングランド銀行券)そのものの増減は今いったような一時的のものを除けばそれほど大きな変化はなく、ただそれが商品市場の需要にもとづいて通貨として出ているか、それとも地方銀行の準備として留まっているかという配分の問題なのだというのがここでマルクスが述べていることである。つまり地方の銀行業者たちは通貨が逼迫していると感じるのは、実は商品市場の活性によって流通媒介物としての通貨が必要とされ、そのために彼らの準備が少なくなっている状態のことなのである。つまり実際には文字通りの意味での通貨(流通手段と支払手段として実際に流通しているもの)はむしろ多いからこそ、銀行業者には逼迫していると感じるのであり、そして反対の場合は反対なのだというのがマルクスがここで指摘していることである。こうした銀行業者の転倒した意識は、彼等が通貨とmonied capitalとしての貨幣資本との区別ができていないことから来ているのである。つまり彼らの準備金(つまり貸し付け可能な貨幣資本、すなわちmonied capital)が少ないときには、通貨が逼迫していると考え(しかし実際には、流通に出回っている通貨そのものは多いから、彼らの準備が逼迫しているのである)、彼らの準備金(monied capital)が多いときには通貨は潤沢だと考えるということである(しかし実際には、流通に出回っている通貨が少ないから、すなわち実際の商品流通で通貨がそれほど必要とされていないから、彼らの準備金が潤沢なのである)。

【198】

他方,たとえば地金流入によって,それと引き換えに発行される銀行券の数が増やされる場合には,この銀行券はイングランド銀行の外で割引に役立ち,同行の銀行券は貸付〔loans〕の返済で還流する①のにたいして,新たな割引は同行の壁の外で行なわれ,したがって流通銀行券〔d.circulirenden Notes〕の絶対量はただ一時的に増やされるだけである。

① 〔異文〕はじめ,文をここで終えるつもりでここにピリオドを置いたが,それを消して以下の部分を続けている。〉 (112頁)
                  

 今回は地金の流入のケースを見ている。地金が何らかの理由で外国から輸入され、それがイングランド銀行に持ち込まれて、それに代わって銀行券が出ていくケースである。確かにこの場合は国内の通常の銀行券の流通高に変化がなくても、銀行券の流通に変化が生じるであろう。つまり1900~2000万ポンド以上の銀行券が出てくることになる。これらの銀行券は当然、イングランド銀行の外の銀行、つまり地方銀行等の準備を潤沢にするわけである。彼らはそれを割引に役立てるとマルクスは指摘している(つまりmonied capitalとして貸し付けられる)。しかしそれらも貸付の返済というかたちでイングランド銀行に還流するので、銀行券の絶対量はただ一時的に増えるだけだとマルクスは指摘している。
 ただここで注解①によるとマルクスは一旦、ピリオドをおいて文章を打ち切りながら、それを消し以下の部分を続けたと指摘されているが、それがために文章がややおかしくなっている。以下の文章というのは〈のにたいして,新たな割引は同行の壁の外で行なわれ,〉というものだが、しかしこれは、すでにその前に〈この銀行券はイングランド銀行の外で割引に役立ち〉と述べていることを、そのまま繰り返すことになっているからである。むしろピリオドで文章を一旦切り、その上で〈したがって流通銀行券〔d.circulirenden Notes〕の絶対量はただ一時的に増やされるだけである〉と繋がってゆくべきなのである。

【199】

もし取引が拡大されたために流通〔Circulation〕が潤沢〔full〕だとすれば(それは物価が①相対的に低い場合にも起こりうる),利子率が(利潤の増大や企業の増加によるmoneyed capitalの需要のために)相対的に高いこともありうる。もし②取引の縮小のために{あるいはまた信用が流動的であるために}流通が少なく〔low〕なっているとすれば,{物価は高くても③}利子率は低いことがありうる。(④ハバドを見よ。)

① 〔異文〕「相対的に」--あとから書き加えられている。
② 〔異文〕,「取引の縮小のために{あるいはまた信用が流動的であるために}」--はじめ「流通高が低位になっているとすれば,利子率は低いことがありうる」と書き始めたが,すぐにこの部分を書き加えている。
③ 〔訂正〕「}」--手稿では欠けている。
④ 〔注解〕「ハバドを見よ。」--〔MEGAII/4.2の〕565ページ16行一566ページ34行〔本書本巻64ページ9行一66ページ6行〕を見よ。〉
(112頁)

 ここでも翻訳のまずさをまず指摘しておく必要がある。最初の〈流通〔Circulation〕〉はマルクスの意図を考えるなら、やはり「通貨」と訳すべきである。また〈潤沢〔full〕だとすれば〉もそのあとの〈〔low〕〉を〈少なく〔low〕なっているとすれば〉と訳しているのだから、むしろここでは「増大しているとすれば」か「増えていれば」とすべきだろう。
 ここでマルクスが述べていることは、取引が拡大されたために、商品市場で必要な通貨の流通量が増え、その分、地方銀行の準備が圧迫されること、しかも景気の拡大は利潤の増大や企業数の増加などによってmoneyed capitalへの需要も増す。だから一方は銀行の準備が圧迫されるだけでなく、貸し出しへの需要も増えるのだから、当然、利子率が上昇せざる得ないということである。
 そしてその次はその反対のケースである。取引が縮小すれば、当然、商品市場の不活発から通貨の流通量も減少し、その分、銀行の準備は豊かになる。しかし同時に企業の投資も不活発になるからmoneyed capitalへの需要も減退する。だから利子率は低下せざるを得ないということである。
  しかしマルクスは、物価が高くてもそうなる場合もあると述べている。この場合は、次のようなことが考えられる。商品市場の不活発が原因ではなく、商品市場が活発でも、信用が流動的なために、つまり信用取引や預金の振り替え決済による取引が活発なために、通貨の節約が生じ、通貨の流通量そのものは増えないか、むしろ減少する場合、当然、物価は高いままだし、銀行にたいするmoneyed capitalへの需要にも変化がなくても、あるいは増大しても、やはり流通に必要な通貨量の減少は、その分だけ銀行の準備を豊かにして、利子率押し下げることになるわけである。

【200】

流通〔Circulation〕の絶対量が規定的なものとして利子率と一致するのは,ただ逼迫期だけのことである。このような場合,一方では,潤沢な流通〔full circulation〕にたいする需要は,ただ,信用喪失〔Discredit〕のために(流通〔Circulation〕の速度の低下や同じ貨幣が絶えず貸付可能な資本に転換される速度の低下を別として①)生じた蓄蔵にたいする需要〔でありうるのであって〕,たとえば1847年には,政府書簡は流通〔Circuration〕膨張を引き起こさなかった。他方では,事情によっては,現実により多くの流通手段が必要になっていることもありうる(たとえば1857年には,政府書簡ののちしばらくのあいだ,現実に流通〔Circulation〕が増大した)。

①〔訂正〕「)」--手稿では欠けている。〉 (112-113頁)

 ここでもまず指摘しておくべきは、訳者が〈流通〔Circulation〕〉としているものはすべて「通貨」と訳すべきであろう。
 ここでマルクスが言っているのは通貨の量そのものが利子率に規定的に作用するのは、恐慌のときだけであるということである。というのはこうした場合の通貨に対する需要、銀行券への需要は信用が喪失しために、支払手段としての現金への需要か、あるいは信用用具への不信から、現金を退蔵するための蓄蔵貨幣への需要だからであり、こうした場合は通貨の絶対量の枯渇が利子率を異常に高めるからだということである。
 それは1847年の恐慌時に政府が銀行条例を停止させる書簡を送っただけで、通貨の膨張そのものは生じなかった例を挙げている。この書簡によってイングランド銀行は銀行券の発行を制限を超えてできることになったが、しかし実際には、それだけで信用は安定し、銀行券の発行の増大そのものは必要なかったということである。信用が安定すれば、通貨を退蔵しておく必要もないし、信用取引が可能なら、直ちに現金による支払を迫られることもないからである。ただ1857年の恐慌のときにはイングランド銀行券の発行は一時期異常に増大したことはあることも指摘されている。これは以前、第5編草稿の第28章該当部分の解読をやったときにアンドレァデス著『イングランド銀行史』に掲載されているグラフを紹介したことがあったので、それを参照してもらいたい。

【201】

〈このような場合のほかは,流通〔Circulation〕の絶対量は利子率には影響しない。というのは,この絶対量は,節約や速度を不変と前提すれば,諸商品の価格と諸取引の量とによって規定されており{たいていは一方の契機が他方の契機の作用を麻痺させる},また信用の状態によって規定されているのであって,逆にそれが信用の状態を規定するのではないからであり,他方では,物価と利子率とのあいだにはなにも必然的な関連はないからである。〉 (113頁)

 この場合も、いやこの場合でさえも、というべきか、大谷氏が〈Circulation〉を〈流通〉と訳しているのは不可解である。あるいは「Circulation」は面倒だからすべて「流通」と訳してしまおうという意図でもあったのであろうか。というのは今回の場合は、明らかにマルクスは『資本論』第1部第3章で明らかにしている流通する貨幣の量を規制する法則を再確認しているのだからである。すなわち通貨の量は節約や速度を不変と前提すれば、商品価格の総額と取引の量に規定されていると述べているように、それは通貨の流通量について述べていることは明白だからである。またここでマルクスが〈また信用の状態によって規定されている〉というのは商業信用について述べているのである。もちろん、それに貨幣信用が絡まって、預金の振替決済等々によっても通貨の節約が行われることはありうるが、最初に〈節約や速度を不変と前提すれば〉と書いているからそうした場合は除外されていると考えるべきであろう。

【202】

通貨の発行〔lssue of Circulation〕と資本の貸付〔Loan of Capital〕との区別は,現実の再生産過程で最もよく現われる。①われわれは前に,生産のさまざまの構成部分がどのように交換されるかを見[602]た。しかしこの交換は貨幣によって媒介されている。たとえば,可変資本は実際には労働者の生活手段〔provisions d.workingmen〕であり,彼ら自身の生産物の一部分である。しかし,それは彼らには(少しずつ)貨幣で支払われてきたものである。この貨幣は資本家が前貸しなければならず,また,前の週に彼が支払った②その古い貨幣で次の週にふたたび新しい可変資本を支払うことができるかどうかは信用制度の組織によるところが大きい。資本のさまざまの範疇(たとえば不変資本と生活手段〔Lebmsmittel〕のかたちで存在する資本と)のあいだの交換の場合も同じである。しかし,資本の流通〔Circulation〕のための貨幣は,一方の側によって,またはそれぞれの分に応じて〔pro parte〕双方の側によって前貸されなければならない。それからこの貨幣は流通〔Circulation〕のなかにとどまるが,つねにそれを前貸した人の手にまた帰ってくる。というのは,その貨幣は彼にとっては余分の資本〔Surpluscapital〕(彼の生産的資本以外の)の投下をなすのだからである。貨幣が銀行業者の手に集中されている発達した信用制度にあっては,貨幣を前貸するのは彼らである(少なくとも名目的には)。この前貸は,ただ流通〔Circulation〕のなかにある貨幣に連関するだけである。それは通貨〔Circulation〕の前貸であって,それが流通〔circuliren〕させる資本の前貸ではない。}

① 〔注解〕「われわれは前に,生産のさまざまの構成成分がどのように交換されるかを見た。」-----カール・マルクス『経済学草稿(1863-1865年)』,第2部「第1稿」,MEGA第II部門第4巻第1分冊,301-343ページ〔中峯・大谷他訳『資本の流通過程』,大月書店,1982年,199-251ページ〕,を見よ。
② 〔異文〕「その古い貨幣で……新しい可変資本を」← 「同一の貨幣で……同一の資本を」〉
(113-114頁)

 このパラグラフはいわゆる「貨幣(流通手段)の前貸しか、資本の前貸しか」という多くの論者に論争を呼び起こした問題に関連している。
 ただマルクスがここで〈通貨の発行〔lssue of Circulation〕と資本の貸付〔Loan of Capital〕との区別は,現実の再生産過程で最もよく現われる〉と書き出しているが、これまでのパラグラフで述べてきたことも、まさにこの両者の〈区別〉の問題だったということである。イングランド銀行によって発行された銀行券は、一つはイングランド銀行自身のその銀行部の準備になり、それ以外はイングランド銀行の外に、つまり公衆の持つことになるのであるが、しかしこの公衆の中には、一つは銀行(地方銀行あるいは個人銀行等々)があり、もう一つはそれ以外の資本家や労働者などがあるということである。だからその公衆の持つ銀行券は、一つは実際の商品市場で通貨として流通している部分をなし、それ以外の部分は地方銀行や個人銀行の準備を形成するとマルクスは論じていたわけである。そしてこの両者は一方が増えれば他方はその分だけ減るというような増減を常に繰り返しているということである。つまり一般の商品市場での通貨の流通量が増大すれば、それだけ銀行の準備が減少し、それが銀行家には通貨の逼迫として意識され、逆の場合は逆だということである。だから実際の通貨が市場に多く出回ると銀行家たちには通貨は逼迫していると意識され、反対の場合は反対という、まったくちぐはぐな逆の意識がそこでは生じていることになる。もちろん、ここには銀行家たちの通貨とmonied capitalとの無区別、混同がある。銀行家たちは彼らが貸し出す銀行券も通貨だという意識がある。だからその準備が少なくなっていることを通貨が逼迫していると考えるのである。しかし彼らが逼迫していると考えているのは、通貨ではなく彼らが貸し出す利子生み資本なである。つまりマルクスがここで論じていることは、通貨と利子生み資本(monied capitalという意味での貨幣資本)の区別なのである。その区別が最もよく現れるのが再生産過程だと述べているのである。
 もちろん、銀行が貸し出すmonied capitalはこうしたイングランド銀行券によるものだけではなく、銀行はさまざまな形での信用による貸し付けを行うのであり、だからmonied capitalの増減はこうしたものだけに厳密に規定されているわけではない(いやむしろmoneyed capitalの量は先の例で100ポンドの銀行券が2000ポンドの預金を形成したように、通貨の量とはまったく異なった動きをするのである)。しかしここでマルクスが述べているイングランド銀行券が地方銀行等の準備金を形成しているものというのは、彼らのmonied capitalのもっともコアな部分をなしていると考えることができるわけである。
 ここでマルクスが通貨の前貸しと述べているのは、流通過程に必要な貨幣そのものの供給ということである。この貨幣そのものは実際には歴史的に貨幣商品として市場からはじき出されたものであり、それはだから一部は蓄蔵状態にあるが、それ以外は流通過程に本来的に存在するものなのである。ただ発展した資本主義社会では実際の貨幣商品としての金ではなく、多くはその代替物がそれに代わって流通している。ここでマルクスが想定しているのはイングランド銀行券であるが、その場合はそれを供給するのはイングランド銀行であり、あるいは地方銀行だと述べているのである。だからこの場合は銀行券の前貸しは確かに銀行にとっては利子生み資本としての貸付か、あるいは単なる預金の払い出しかもしれないが、しかし再生産過程でみると、それは通貨の前貸しであって、資本の前貸しではないと指摘しているのである。というのはそれは単に流通に必要な貨幣の供給でしかないからである。しかしこれは再生産過程をそれ自体として抽象的に考察している限りで問題になる問題でもあるのである。というのは貨幣商品そのものは歴史的に本源的には金生産者から一商品として物々交換によって供給され流通過程に入り、流通過程に留まるか、あるいは蓄蔵貨幣として停止した状態にあるかするのだからである。だからそれを銀行が前貸しで供給するというようなことは本来的にはないのである。ただ蓄蔵貨幣は発達したブルジョア社会では銀行の準備金という形態をとっているので、それが流通に出てくる媒体として銀行があるということにすぎない。いずれにせよ『資本論』第2部第3篇の再生産表式を使った再生産過程の考察では流通を媒介する貨幣は資本家が投ずると想定せざるを得ないからこうした不可解な貨幣の運動が見られるのである。
 もし流通を媒介する貨幣がいかなる形で流通に供給されるのかという問題を論じるなら、やはり『経済学批判』でマルクスが論じているように、金銀の流通を問題にしなければならないのである。イングランド銀行券などの流通はただそれを代理して流通しているのであって、こうした金属流通を前提してしか考えることはできないのである(一度、こうした問題を金貨幣の本源的な流通との関連で考察してみる必要があるかもしれない。)
 しかしいずれにせよ、この問題はもっとよく考えてみることにしよう。この問題は大谷氏の『第2部仕上げのための苦闘の軌跡』を批判する中でかなり論じたが、しかしエンゲルスの「追加貨幣」という勝手な修正を知らないままに論じたという欠陥があり、だからもう一度きっちり論じておくべき問題だからである(この大谷氏の論文の批判は、電子書籍化してあるので、興味のある方は参照してください)。このノートもいずれ、草稿のパラグラフごとの解読として公表するときがあると思うが、そのときはもっと本格的に論じることにしたい。

【216】

貨幣の量第5196号。「〔チャプマン〕各四半期中には(国債利子が支払われるときに)… … わたしどもがイングランド銀行に頼ることは……どうしても必要です。国債利子〔支払い〕の事前処理で600万ポンド・スターリングか700万ポンド・スターリングの〔国家〕収入が流通〔circulation〕から引き揚げられるときには,そのあいだの期間,だれかがこの金額を用立てる仲介者medium〕とならなければなりません。」(この場合に問題なのは貨幣の供給であって,資本の供給ではない。)(またmoneyed capitalの供給でもない。①)

 ①〔訂正〕 「)」--手稿では欠けている。〉 (118-119頁)

 ここで論じられているものも通貨とmoneyed capitalとの区別の問題である。マルクスはこの場合の貨幣の供給は通貨の供給であって、資本の供給ではない、moneyed capitalの供給でもないと指摘している。しかしこの点については、一つ前のパラグラフで論じたので、ここでは必要ないであろう。

 (以下、「チャプマンの証言」のノートは続くが、割愛する。ノートの紹介は以上である。)

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 このようにマルクスによって抜粋された「チャプマンの証言」やそこに挿入されたマルクスの文章を吟味すれば、〈マルクスはmonied capitalと貨幣量とのあいだにどのような関連があるのか,という問題を立てながら,「5)信用。架空資本」の内部ではこれに答えることをしなかったし,マルクス自身も答え終えたと考えてはいなかったと言わざるをえない〉(④261頁)と大谷氏がいうのは正しいとは言い難い。

 マルクスは明確な問題意識をもって論じているのである。今一度、その内容を確認してみよう。われわれはこれまでマルクスの文章を見てきた順序に拘らずに、全体としてこの問題を考察する場合に必要なことについて、項目的に論じてみることにしよう。

(1)まず確認しなければならないのは、マルクスが〈ここで通貨〔Circulation〕の量と言うのは,すべての銀行券と地金のことである〉と述べているように、マルクスが通貨という場合はイングランド銀行券か地金を指しているということである。そしてマルクスが主に通貨として問題にしているのはイングランド銀行券のことである。

(2)但し、イングランド銀行券がすべて通貨というわけではない。イングランド銀行券は、1844年の銀行条例によって、その発行額は制限されており、1400万ポンドは証券を担保に発行できるが、それ以上はイングランド銀行の保有する地金に連動させて発行されることになっていた。例えば発券部の準備金が1000万ポンドの場合、発行限度額は2400万ポンドになる。しかしこの2400万ポンドがすべて通貨かというとそうではないのである。このうち公衆が必要とする部分が、仮に2000万ポンドであれば、残りの400万ボンドは銀行部の準備になるわけである。銀行部は他の普通の銀行と基本的には同じ営業を行うものとの位置づけであったから、この準備は少なくともその一部は銀行部の運用資金(monied capital)ということができる。では残りの公衆が手にする2000万ポンドが、では通貨の量かというとやはり違うのである。この公衆の手にあるイングランド銀行券は二つの部分に別れる。一つは通貨であり、実際に流通媒介物として流通しているものであり、もう一つは地方銀行や個人銀行が準備金として保有するものである(これ以外にも個人や資本家によって退蔵される部分もあるが、これはいまは無視しよう)。

(3)つまりイングランド銀行が発行する銀行券のうち、実際に通貨として流通している量というのは、文字通り商品流通を媒介している量のことある。そしてこの流通量は一つは流通する商品の価格総額、流通速度、諸支払の相殺度合い(マルクスは節約と述べている)、あるいは商業信用の発展度合い等によって規定されており、これは結局は、社会的な物質代謝の運動に規定されているわけである。
 だから例えイングランド銀行であってもそれを左右できるものでは決してないのである。つまり通貨の流通量というのは、実際の商品市場の現実に規定されている独立した数値なのである。それは銀行によって増大させたり、減少させるということは絶対にできないものである。
 今日のブルジョア経済学者はいうに及ばず、多くのマルクス経済学者においても、現代の資本主義においては通貨は国家によって管理されているなどという理解が一般的であるが、こうした理解の間違いは、通貨概念そのものが混乱していることにある。この点では、マルクスの生きていた当時の銀行家、例えばチャプマンのようなブルジョアや、フラートンのような銀行学派たちの混乱から彼等は一歩も前進していないのである。彼等も通貨とmonied capitalとの区別ができていないのである。しかしマルクスが強調しているのは、まさにこの区別であり、その必要なのである。

(4)例えば発行されたイングランド銀行券のうち銀行部の準備以外は、イングランド銀行の外に出回っていることになるが、しかしそのうち地方銀行や個人銀行の準備金を形成するものは、利子生み資本、すなわち貸し付け可能な貨幣資本、monied capitalとなる。マルクスはだから現実の流通を媒介する通貨量が増えれば、それだけ準備金としての銀行券が逼迫するので、銀行業者たちはそれを通貨の逼迫と捉えると指摘しているわけである。しかし実際には、通貨は現実の商品市場では多く出回っているのだ、というのがマルクスの批判である。

(5)しかしこれだけなら、通貨と利子生み資本(monied capital)とは、一方が増えれば他方は減るという関係にありそうに思える。つまり通貨の量とmonied capitalとの関係はその限りでは関連があることになる。

(6)しかし利子生み資本を形成するものは、こうした銀行が保有する銀行券だけに限らないのである。それはすでに見たように、同じ貨幣片が何度も流通を媒介することによって、多くの商品の価値を実現することができるのと同じように、同じ通貨が銀行に預金や支払として還流することによって、それが何度も利子生み資本として貸し出すことが可能になるのであり、だから同じ一定の通貨量がその何倍もの利子生み資本を形成することになるからである。そればかりではない、銀行はその準備に引き当てて、当座貸し越し、つまり帳簿信用によって貸し出すこともできるのである。

(7)よって、マルクスは次のように結論しているのである。

〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものである〉 (③488頁)

  だから何度も言うが、大谷氏のように、この第2の問題に対してマルクスが何の回答も与えなかったなどということは到底ありえないのである。

(以下、次回に続く)

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