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2017年12月27日 (水)

現代貨幣論研究(14)

「通貨」概念の混乱を正す
--通貨とmonied capitalという意味での貨幣資本との区別の重要性--(3)

◎大谷新本第4巻での言及

 大谷氏はその新著の第4巻でも、同様の問題を論じている。それは《第12章 「貴金属と為替相場」(エンゲルス版第35章)に使われたマルクスの草稿について》の最後の項目「14 monied capitalと貨幣量との関連の問題」においてである。
  ここでは〈「現実資本と貨幣資本」で解明されるべきものとして提起されていた二つの基本問題のうち,monied capitalと「貨幣の量」との関連について答が出されていたのかどうか〉を問い、次のように結論づけている。

 〈マルクスはmonied capitalと貨幣量とのあいだにどのような関連があるのか,という問題を立てながら,「5)信用。架空資本」の内部ではこれに答えることをしなかったし,マルクス自身も答え終えたと考えてはいなかったと言わざるをえない。〉 (④261頁)

  そして大谷氏は、しかしそれでは〈いったいマルクスは,「moniedcapitalと貨幣量との関連」について,どういうことが解明されなければならない難問だと考えていたのだろうか〉と問題を提起して、次のように自身の見解を展開している。

 〈「マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。マルクス自身は直接に書くことがなかったけれども,この貨幣量も,「商品」の流通に必要な貨幣の量としては,広義での「流通に必要な貨幣量」であり,社会的再生産を媒介する流通のために必要な貨幣量と渾然一体となって一見するとそのすべてが中央銀行から供給されている。しかし,このような「流通必要貨幣量」は社会的再生産を媒介する流通必要貨幣量とはまったく異なるものであり,それとははっきりと区別されなければならない独自な「貨幣の量」である。そこで,この両者はmonied capita1の運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,どのように区別され,かつ関連しあっているのか,ということが問われることになる。現代の資本主義諸国とその絡み合いの全体としての現代資本主義世界のなかでこの問題を具体的に分析するためには,「資本の一般的分析」のなかで,土地をも含む架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連がしかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連においで理論的に解明されていなければならないであろう。筆者は,マルクスが提起した,monied capitalと貨幣量との関連という問題は,このような現代の課題に連繋するものではないかと考えている。〉 (④261-262頁)--B

  しかしこの大谷氏の主張は、氏の新著を読み進め、マルクスの草稿をつぶさに検討してきたものにとっては、ただただ驚きである。というのは、この一文はまったくの混乱としか言いようがない代物だからである。一体、マルクスをどう読み、どう学んできたのか、といわざるを得ない。
  その内容の混乱を指摘する前に、そもそもこの一文は、大谷氏が現行の『資本論』の第35章の草稿を紹介した論文《「貴金属と為替相場」(『資本論』第3部第35章)の草稿について--『資本論』第3第l稿の第5章から》のなかでその解説として「monied capitalと貨幣量との関連の問題」と題して次のように論じていたものを、一部手直して再掲載されたものなのである。まずはそれと引き比べてみることにしよう。

 〈「マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」--株式,証券,オプション,デリパティブ,土地,その他の利殖機会--や「商品」としての土地の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。このような貨幣も中央銀行が発行する銀行券ないしそれへの請求権の一部であって,社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量と揮然一体となって,銀行の預金の一部をなしている。そこで,一見したところ,このような「商品」の流通に必要な貨幣の量も「流通に必要な貨幣量」の一部であるように見える。しかし,このような「商品」の流通に必要な貨幣量は社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量とは本質的に異なるものであって,これとははっきりと区別されなければならない。それは,ありとあらゆる投資(利殖または投機)の機会ないし可能性がとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣であると同時に,その購買に支出されるのは,生産資本ではなくて増殖先を求めるmonied capitalであり,買われたのちにもこの「商品」はけっして再生産過程にはいらず,架空のmonied capitalの諸形態の一つにとどまる。さらに,流通貨幣の具体的な実存形態としての鋳貨準備(流通手段および支払手段の準備ファンド)とは区別される蓄蔵貨幣の形成は,現代ではそのきわめて大きな部分が,そのような増殖先を求めるmonied capitalの形成にほかならず,巨大なものに膨れあがったmonied capitalは,「商品」として買うべき増殖機会を見いだせないときにはmonied capitalとして銀行のもとに滞留するほかはない。そこで,架空なmonied capitalの流通のための「必要貨幣量」は,銀行制度を中心とする信用システムのなかで, したがってまたmonied capitalの運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,本来の社会的再生産のための「流通貨幣量」とどのように区別され, どのような仕方で絡み合っているのか, ということが問われることになる。現代の資本主義諸社会とその総体としての現代資本主義世界のなかで生じているこのような問題を具体的に分析するためには, 「資本の一般的分析」のなかで,架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連が,しかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連において,理論的に解明されていなければならない。言うまでもなく,そのさいなによりもまず,兌換制のもとでの動きが明らかにされなければならない。マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる。〉 (93-4頁)--A

  新著の一文は、以前の論文の一文をただかなり圧縮したものだけのように思えるかも知れない。しかしよくよく二つの文章を引き比べてみると、今回の文章は改悪であり、混乱した代物でしかないことが分かるのである。まずはこの二つの文章を比較検討して両者の違いを見ていくことにしよう。そのために今、便宜的に新著の一文をB文、以前の論文の一文をA文としよう。

(1)まず次の二つを比べてみよう。

〈マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」--株式,証券,オプション,デリパティブ,土地,その他の利殖機会--や「商品」としての土地の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。〉

〈「マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。〉

  Aでは〈「金融商品」--株式,証券,オプション,デリパティブ,土地,その他の利殖機会--や「商品」としての土地の流通〉と詳しく書かれているが、Bではそれが〈「金融商品」の流通〉と簡略化されているだけで、内容的には大きな違いはない。

  (2)それでは次の二つはどうであろうか。

〈このような貨幣も中央銀行が発行する銀行券ないしそれへの請求権の一部であって,社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量と揮然一体となって,銀行の預金の一部をなしている。そこで,一見したところ,このような「商品」の流通に必要な貨幣の量も「流通に必要な貨幣量」の一部であるように見える。しかし,このような「商品」の流通に必要な貨幣量は社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量とは本質的に異なるものであって,これとははっきりと区別されなければならない。〉

〈マルクス自身は直接に書くことがなかったけれども,この貨幣量も,「商品」の流通に必要な貨幣の量としては,広義での「流通に必要な貨幣量」であり,社会的再生産を媒介する流通のために必要な貨幣量と渾然一体となって一見するとそのすべてが中央銀行から供給されている。しかし,このような「流通必要貨幣量」は社会的再生産を媒介する流通必要貨幣量とはまったく異なるものであり,それとははっきりと区別されなければならない独自な「貨幣の量」である。〉

  この両者はかなり書き換えられている。Aでは、金融商品の流通に必要な貨幣量というものについて、やや曖昧さはあるものの、少なくとも再生産過程を媒介する貨幣量とは本質的に異なるものであり、はっきり区別されなければならない、としている。しかしBでは、マルクス自身は書かなかったものの、こうした金融商品の流通に必要な貨幣も広義での流通に必要な貨幣量であるとしているのである。ただ社会的再生産を媒介する流通貨幣量とはまったく異なるものであり、それとはっきり区別されるべきことは指摘されていることは同じである。

  (3)さらにその次を見てみよう。

〈それは,ありとあらゆる投資(利殖または投機)の機会ないし可能性がとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣であると同時に,その購買に支出されるのは,生産資本ではなくて増殖先を求めるmonied capitalであり,買われたのちにもこの「商品」はけっして再生産過程にはいらず,架空のmonied capitalの諸形態の一つにとどまる。〉

B〈これに該当する文章は見当たらない〉

  つまりこの一文を削除したことはある意味では決定的なのである。先の一文ではやや曖昧だったのだが、ここでは大谷氏はいわゆる金融商品の流通を媒介する貨幣というのは、monied capitalだと明確に述べている。ただやはり〈「商品」の流通に必要な貨幣であると同時に〉という余計な一文が入っており、大谷氏の理解の曖昧さを示しているのだが(こうした曖昧さがあったからこそ、今回の決定的な改悪に結果したともいえるかもしれない)。そもそも貨幣市場における「商品」というのは貨幣そのものであり、貨幣の貸し借りが「商品の売買」という仮象をとるのである。だから株式の購入という一見すると、株式という金融商品が購買されるかのような仮象のもとに、その実際の内容は利子生み資本が株式に投資されることであり、よって利子生み資本の貸し付けなのである。だからそこで支出される貨幣というのは、利子生み資本(=monied capitalという意味での貨幣資本)以外の何ものでもないのである。それが再生産過程を媒介する貨幣と渾然一体となっているかに考えるのは、こうした金融商品の「売買」という仮象に惑わされているからである。
  確かにリンゴ業者がその売り上げの一部で来年の肥料や薬剤等々を買うのと同じように、その一部で株式を買った場合、彼には商品を購入するという点で同じに見えるかもしれない。しかし株式の購入に当てられた貨幣は、彼が時期を見て株式を売り出して、何らかの利殖を得ようという思惑で買ったのであって、それは実際には彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたのである。肥料や薬剤を買うのも、次の収穫によってより多くの利潤を得るためなのであり、彼にとっては利潤を得るという目的に違いはないが、社会的再生産の観点からは決定的な相違がある。前者は社会的な物質代謝を媒介する商品市場にある貨幣の一部を形成するが、後者はそうしたものの外部にある信用の世界、貨幣市場の問題なのである。この両者を区別することこそ、通貨とmonied capitalとの区別なのである。その理解が大谷氏には曖昧なのである。

  (4)とえあえず、両文書の比較検討を進めよう。

〈さらに,流通貨幣の具体的な実存形態としての鋳貨準備(流通手段および支払手段の準備ファンド)とは区別される蓄蔵貨幣の形成は,現代ではそのきわめて大きな部分が,そのような増殖先を求めるmonied capitalの形成にほかならず,巨大なものに膨れあがったmonied capitalは,「商品」として買うべき増殖機会を見いだせないときにはmonied capitalとして銀行のもとに滞留するほかはない。そこで,架空なmonied capitalの流通のための「必要貨幣量」は,銀行制度を中心とする信用システムのなかで, したがってまたmonied capitalの運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,本来の社会的再生産のための「流通貨幣量」とどのように区別され, どのような仕方で絡み合っているのか, ということが問われることになる。〉

〈そこで,この両者はmonied capita1の運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,どのように区別され,かつ関連しあっているのか,ということが問われることになる。〉

 この両者は、Bはかなり圧縮されているが、その内容には本質的な相違は見られない。Aの一文は長いが、細かく見て行けば、いろいろと問題が散見されるがそれを書き出せばあまりにも煩雑になるので、ここではとりあえず無視しよう。
 大谷氏がここで論じている「絡み合い」なるものについては、すでにわれわれは『銀行法委員会報告』1857年からの抜粋のなかに挿入されたマルクスの書き込みにおいて検討ずみのものである。つまりイングランド銀行が発行した銀行券は、一部は同銀行の銀行部の準備になり、それ以外の公衆の手にあるもの、つまりイングランド銀行の外に出ている部分については、一つは地方銀行や個人銀行の準備を形成し、他方は商品市場において、商品の流通を媒介する通貨として流通しているのである。そしてマルクスが通貨の量と述べているのは、この商品市場で流通している流通通貨量であること、そしてイングランド銀行と地方銀行や個人銀行の準備を形成する銀行券はmonied capitalとしてあるということである。そしてこの限りでは一方が増えれば他方がそれだけ減少するという関係にあり、よってそれによって利子率が上下するということであった。しかしmonied capitalそのものは、こうしたものに限らないこと、なぜなら、同じ貨幣量がその何倍もの商品の価格を実現するように、同じ貨幣量が何度も銀行に還流することによってその何倍もの貨幣資本(monied capital)を形成するからであり、さらには銀行は帳簿信用等によっても貸し付けを行うことができるからである。だからマルクスは、一国のなかにある貨幣量と利子生み資本(monied capitalという意味での貨幣資本)の量とはまったく異なるものだと結論していたのである。
 だから大谷氏がここで提起している問題は、こうしたマルクスの考察を十分理解しているとは言い難いものなのである。

 (5)続く次の一文

〈現代の資本主義諸社会とその総体としての現代資本主義世界のなかで生じているこのような問題を具体的に分析するためには, 「資本の一般的分析」のなかで,架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連が,しかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連において,理論的に解明されていなければならない。〉

〈現代の資本主義諸国とその絡み合いの全体としての現代資本主義世界のなかでこの問題を具体的に分析するためには,「資本の一般的分析」のなかで,土地をも含む架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連がしかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連においで理論的に解明されていなければならないであろう。〉

 この両者は一見すると、微調整はあるものの、それほど内容的には変わっていないと思えるかもしれない。しかしある一点で、決定的な改悪があるのである。Aには〈架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--〉という一文ある。しかしBには〈--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--〉という説明が抜け落ちてしまっている。
 つまりAには、「金融商品」などの流通に必要な貨幣などというものは、結局は、利子生み資本そのもの、monied capitalなのだという理解が示されている。だからそれがあたかも「金融商品」の流通に必要な貨幣量であり、〈この貨幣量も,「商品」の流通に必要な貨幣の量としては,広義での「流通に必要な貨幣量」であ〉るなどという理解はとんでもないことであることが了解できるのである(もっとも大谷氏がそれほど明瞭に理解していなかったからこそ今回の改悪に繋がったのではあるが)。

 (6)最後の結論的部分である

〈言うまでもなく,そのさいなによりもまず,兌換制のもとでの動きが明らかにされなければならない。マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる。〉

〈筆者は,マルクスが提起した,monied capitalと貨幣量との関連という問題は,このような現代の課題に連繋するものではないかと考えている。〉

 この両者は〈monied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋する〉という点でほぼ同じ問題意識ということができる。しかし大谷氏はマルクス自身が〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものである〉(③488頁)と結論していることを無視していないであろうか。それでもなお〈monied capitalと貨幣量との関連という問題の解明〉を課題とするならそれは大谷氏の勝手であるが、無駄な試みとしかいいようがない。とりあえず、以上で、われわれは二つの文章の比較検討を終えることにしよう。

◎大谷氏の無理解

 さて、大谷氏は〈架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」の流通に必要とされる貨幣の量〉を問題にする。しかしどうしてそんなものが必要なのであろうか。架空資本を、例えば国債や株式を、例え貨幣資本家が現金で買うとしてもそれは実際には一般的な商品の購買ではない。こんなことは、利子生み資本の概念が分かっていれば常識の類である。マルクスが第5篇第21章以下で明らかにしているように、それらが商品の売買と見られるのは一つの仮象であって、実際には、利子生み資本の貸し借りなのである。だからそれらはすべて利子生み資本に固有の運動である貨幣の貸し付けや返済の運動なのである。それを単なる商品の売買、すなわちその流通として見てしまっていることがまず大谷氏の決定的な間違いである。これは手形の割引を、普通の商品の買い取りと同じと考えてしまったエンゲルスと同じ過ちを犯すものである。実に残念である。ここまで第5編の研究を20数年にもわたって積み重ねてきたのに、肝心要のところの理解が抜け落ちてしまっている。金融商品の売買が実際には利子生み資本の運動でしかないと理解すれば、そんなものの流通に「流通必要貨幣量」など必要ないことは明らかである。というのは利子生み資本の運動とは、貨幣そのものが商品として売買(貸し借り)されることだからであり、つまり貨幣が返済を条件に一定期間貸し付けられることだからである。この場合、確かに利子生み資本である貨幣が流通に出てゆくが、貨幣市場に出て行くのであって、決して商品市場に出て行くのではない。大谷氏には貨幣市場と商品市場との区別もはっきりとはしていない。貨幣市場とは、貨幣そのものが売買、つまり貸し付けられたり返済されたりしている市場である。大谷氏の言っていることは貨幣そのものが流通に出て行くのに必要な流通貨幣量などという馬鹿げた同義反復でしかないのである。
 確かに手形やそれ以外の有価証券の類、つまり大谷氏のいう「金融商品」は、利子生み資本の運用、つまり利子生み資本の投資対象である。しかしそのことはそれが利子生み資本の運動であることを否定することにはならない。それもやはり貨幣の貸し借りであり、金融商品を購入するということは、その本質的な内容は、返済を条件に一時的に貸し付けられることなのである。それが「金融商品」を「買う」という仮象に隠されている本質である。だからそれはどれだけ「買われる」かは、moneyed capitalそのものの量によって規定されている。しかし何度もいうが、それは決して流通貨幣の一部を形成するのではない。そんなことを言っていては、マルクスがmonied capitalと通貨との区別の重要性を何度も強調している意味がまったく理解されていないということではないか。
 流通貨幣というのは再生産過程における商品の流通を媒介する貨幣であり、社会の物質代謝を維持するに必要な貨幣量なのである。だからそれは商品市場において流通するものだけに限られるのである。それに対して、monied capitalというのは、再生産過程の外の貨幣の運動であり、信用の問題なのである。だからそれをマルクスは貨幣市場として商品市場と区別しているのである。この区別は極めて重要である。

 大谷氏は〈マルクスはmonied capitalと貨幣量とのあいだにどのような関連があるのか,という問題を立てながら,「5)信用。架空資本」の内部ではこれに答えることをしなかったし,マルクス自身も答え終えたと考えてはいなかったと言わざるをえない〉(④261頁)というのであるが、この問題でのマルクスの展開の少なさは、この問題そのものが初めから明瞭であり、それほど論じるまでもなかったからであろう。つまりマルクスはmoneyed capitalと貨幣の量との間には、恐慌時のような特殊な一時期を除けば、基本的には異なるものであると結論づけたからこそ、多くを展開する必要を感じなかったのである。
   そもそも流通する貨幣の量を規制する法則は『資本論』第1部第3章で与えられているように、それ自体は商品流通の現実に規定されており、その限りではmonied capitalという意味での貨幣資本とは直接には関係のない独立変数なのである。マルクスは第28章該当部分の草稿でそのことを次のように指摘していた。

  〈貨幣が流通しているかぎりでは,購買手段としてであろうと支払手段としてであろうと--また,二つの部面のどちらでであろう、またその機能が収入の,それとも資本の金化ないし銀化であるのかにまったくかかわりなく--,貨幣の流通する総量の量については,以前に単純な商品流通を考察したときに展開した諸法則があてはまる。流通速度,つまりある一定の期間に同じ貨幣片が購買手段および支払手段として行なう同じ諸機能の反復の回数,同時に行なわれる売買,支払いの総量,流通する商品の価格総額,最後に同じ時に決済されるべき支払差額,これらのものが,どちらの場合にも,流通する貨幣の総量,通貨currencyの総量を規定している。このような機能をする貨幣がそれの支払者または受領者にとって資本を表わしているか収入を表わしているかは,ここでは事柄をまったく変えない。流通する貨幣の総量は購買手段および支払手段としての貨幣の機能によって規定されて〔いる〕のである。〉 (大谷新著第3巻105-106頁)

  ただイングランド銀行券の発券高と流通高とをみる場合、発行されたイングランド銀行券のうち通貨として流通しているもの以外は、個人的な退蔵を除けば、銀行の準備金として存在しており、その限りではそれは貸し付け可能な貨幣資本、すなわちmoneyed capitalとして存在しており、そうした関係だけを見れば、流通貨幣量とmoneyed capitalとの間には一方が増えれば、他方は減少するという関係がある。つまり流通貨幣量が増えれば、それだけ銀行の準備を圧迫し、moneyed capitalが減少する、よってまた利子率を押し上げるという関係がある。しかしすでに何度も言ってきたように、銀行はこうした同じ銀行券を何度も還流させて、一つの貨幣量の何倍何十倍もの額の利子生み資本を貸し付けることができるのである。それはたった10ポンドの銀行券片が流通速度によっては、1000ポンドもの商品を流通させ、その価値を実現することができるように、100ポンドの銀行券が、何度も銀行に還流することによって、2000ポンドの預金を形成し、よって2000ポンドの利子生み資本として銀行から貸し出されることが可能なのである。そればかりか銀行は、銀行券以外にもさまざまな形での信用による貸し付けも行いうるのであり、だから彼らが貸し付けるmoneyed capital全体はそうした手持ちの準備状態にある銀行券に限定されないのである。だから何度も紹介するが〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものである〉(③488頁)

〔完〕

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