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2017年12月13日 (水)

現代貨幣論研究(12)

「通貨」概念の混乱を正す

--通貨とmonied capitalという意味での貨幣資本との区別の重要性--(1)

◎問題提起が繰り返された謎?

 今回の問題は「現代貨幣論研究」のテーマとは若干ずれるといえばそう言えなくもないが、しかし現代、一般に「通貨」といわれる場合、その多くは概念的には混乱しており、monied capitalという意味での貨幣資本との区別が出来ていない場合が多いのである。その意味では、今回取り上げるテーマも現代貨幣論研究の一環ということができなくもない。今回もこれまでと同じく大谷氏の新著『マルクスの利子生み資本論』に関連した問題提起である。

 大谷氏の新著はその表題のとおり、『資本論』現行版の第3部第5編「利子と企業者利得とへの利潤の分裂 利子生み資本」の草稿を詳しく翻訳紹介するとともに、氏独自の解説を加えたものになっている。今回はその草稿のなかでもマルクス自身が「5)信用。架空資本」と表題を書いた部分(現行版では第25章から35章に該当)についてである。この部分はマルクス自身がつけた項目としてはⅠ)、II)、III)という表題のない三つの項目しかない。そしてそれらは現行版ではだいたい第28章、第29章、第30~32章に該当している。今回問題にするのは、そのうちのIII)と項目が打たれた部分である。

 このIII)は草稿の340原頁から始まっているが、冒頭、マルクスは次のような一文で開始している。

 〈これから取り組もうとしている,この信用の件〔Creditgeschichte〕全体のなかでも比類なく困難な問題は,次のようなものである。--第1に,本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで,現実の資本蓄積の,すなわち拡大された規模での再生産の指標なのか,またどの程度までそうでないのか? いわゆる資本のプレトラ(この表現は,つねにmonied Capitalについて用いられるものである),これは過剰生産と並ぶ一つの特殊的な現象をなすものなのか,それとも過剰生産を表現するための一つの特殊的な仕方にすぎないのか? monied Capitalの過剰供給は,どの程度まで,停滞しているもろもろの貨幣量(鋳貨\ 地金または銀行券)と同時に生じ,したがって貨幣の量の増大で表現されるのか?
 他方では,貨幣逼迫のさい,この逼迫はどの程度まで実物資本〔realcapital〕の欠乏を表現しているのか? それはどの程度まで貨幣そのものの欠乏,支払手段の欠乏と同時に生じるのか?〉
(大谷本第3巻413-414頁、以下「③413-414頁」と略記する)

  いうまでもないが、これはマルクスがこれからIII)で考察しようと考えているテーマを定式化したものだということができる。
 そしてマルクスはエンゲルス版では第30章にあたる部分を終え、第31章が開始されるところで、再び次のように同じような問題を提起している。

 〈しかし,ここでの問題はそもそも,どの程度までmoneyed Capita1の過多〔superabundance〕が,あるいはもっと適切に言えば,どの程度まで貸付可能なmonied capitalの形態での資本の蓄積が,現実の蓄積と同時に生じるのか,ということである。〉 (③408頁)

 これは冒頭の問題提起のうち最初の問題を再度確認したものと言える。
  ところが奇妙なことに、マルクスはテキストをかなり書き進めたあとでも、つまりエンゲルス版では第32章の半ば近くまで書き進めたところで、三度同じような問題提起を行うのである。すなわち草稿の355原頁の途中、次のように書いている。

  〈さて,二つの問題に答えなければならない。第1に,monied Capita1の相対的な増大または減少は,要するにそれの一時的な,またはもっと継続的な蓄積は,生産的資本の蓄積とどのような関係にあるのか? そして第2に,それは,なんらかの形態で国内にある貨幣量とはどのような関係にあるのか?〉 (③523頁)

  エンゲルスは編集ではこの部分全体を削除しているが、このようにかなり考察を押し進めた時点で、冒頭で行ったのとほぼ同じような問題を提起する不自然さからそうしたのであろうと考えられる。しかし、少なくとも草稿では、この時点でも、マルクス自身は冒頭に掲げた解決すべきと考えていた問題が、いまだ最終的には解決しているとは言い難いと考えていたことは明らかではないだろうか。III)全体の草稿は原ページでいうと、340~360頁に該当する。つまりこの問題提起が書かれている355頁というのは、全体のほぼ4分の3が終わったところなのである。こうしたマルクスの問題提起の度重なる記述から、そもそもマルクスは冒頭に掲げた問題を、果たしてこの部分で解決したと言えるのか、という疑問が当然のごとく生じてくるわけである。

 この問題について、大谷氏は特にmonied capitalと貨幣量との関連について、マルクスは問題提起をしながら、結局は未解明に終わっていると、同書第3巻と第4巻で言及している。その問題を少し検討してみたい。

◎大谷新本第3巻での言及

 まず大谷氏の新著『マルクスの利子生み資本論』の第3巻では、【第10章「貨幣資本と現実資本」(エンゲルス版第30-32章)に使われたマルクスの草稿について】の「3 若干の基本的なタームについて」の「(9)貨幣の量」の冒頭、次のように述べている。

 〈さて,「III)」の冒頭で提起されている第2の問題では,monied capitalと,最も一般的な表現を使えば,「貨幣の量」との関連が問われている。「貨幣の量」もまた「III)」の基本的なタームとなっているはずである。
  ところが実際には,この「III」で「貨幣の量」について触れている箇所はわずかである。だからまた,monied capitalと貨幣量との関連について明示的に論じている箇所もさらにわずかである。つまり,マルクスは冒頭で,monied capitalと貨幣量との関連について問題を立てながら,それについては立ち入って論じることをしていなかったように見える。〉
(③297頁)

  次に同じ第10章の最後の締めくくりの「むすびに代えて」のなかでも、やはり同じ問題を次のように論じている。

 〈以上,「III)」のなかでマルクスが論じ,重要視し,明らかにしていると考えられる論点を思いつくままに挙げてきた。最後に,ここでのマルクスの論述をどの程度まで完成したものと見るべきか,などについて一言し,やや長くなったこの解題を終わることにしよう。
 すでに見たように,冒頭で立てられた問題のうち,monied capitalと貨幣の量との関連の問題は,この「III)」の範囲内では本格的に論じられておらず,したがってその答もマルクスによってまとまったかたちで与えられていないと見られる〉
(③397-398頁)

 なお、ついでに述べておけば、この部分では大谷氏は第1の問題--monied capita1の増減と実物資本の蓄積およびその停滞との関連の問題--についても〈マルクス自身は,エンゲルス版第32章にあたる部分を書き終えたところでも,第2の問題ばかりでなく第1の問題についても,答え切った,これで答え終えた,とは感じていなかったように見える〉と結論している。

◎果たして、マルクスは、monied capitalと貨幣の量との関連について、その答えを与えることが出来なかったといえるのかどうか

  しかしマルクスの草稿を読んできて思うのは、果たして大谷氏の指摘は正しいのかという疑問である。というのは、マルクス自身はこの第二の問題について言及するだけでなく、一定の結論を得ていると考えられるからである。それをこれから紹介しておこう。
  マルクスは第二の問題、すなわち〈それ(moneyed capitalの相対的な増大または減少--引用者)は,なんらかの形態で国内にある貨幣量とはどのような関係にあるのか? 〉について次のように述べている。

〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものであること{この量の一部分は,銀行業者の準備であり,この準備は変動している。ここで通貨〔Circulation〕の量と言うのは,すべての銀行券と地金のことである,等々}〉 (③488頁)

通貨〔Circulation〕{地金および鋳貨を含めて}の量が相対的に少ないのに預金が大きいということの可能性だけであれば,それはまった次のことにかかっている。(1)同じ貨幣片によって行なわれる購買や支払の度数。そして,(2)同じ貨幣片が預金として銀行に帰ってくる度数。したがって,同じ貨幣片が購買手段および支払手段としての機能を繰り返すことが,それの預金への転化によって媒介されているのである。たとえば,ある小売商人が毎週100ポンド・スターリングの貨幣を銀行業者に預金するとしよう。銀行業者はこの貨幣で製造業者の預金の一部分を払い出す。製造業者はそれを労働者たちに支払う。労働者たちはそれで小売商人への支払をし,小売商人はそれで新たな預金をする,等々。小売商人の100ポンド・スターリングの預金は,(1)製造業者の預金を払い出すために,(2)労働者に支払うために,(3)その小売商人自身に支払うために,(4)同じ小売商人の貨幣資本〔moneyed capital〕の第2のある部分を預金するために,それぞれ役立ったのである。この場合には,この小売商人は20週間の終りには(もし彼自身がこの貨幣を引き当てに手形を振り出さないとすれば)100ポンド・スターリングで2000ポンド・スターリングを銀行業者のもとに預金したことになるであろう。〉 (③495-496頁)

 このようにマルクスはこの問題についてはっきりと書いているのである。これをみれば、大谷氏のように〈まとまったかたちで答を書かないままに残した〉などとは言えないのではないかと思うのである。最初の引用文では、マルクスは明確に〈貸付可能な資本〔loanable capital〕の大きさは通貨〔Circulation〕の量とはまったく異なるものである〉とその答えを書いているのである。
  次の引用文では、その理由の一つが例示されている。つまり同じ貨幣片が何度も購買手段や支払手段として機能して、その貨幣額の何倍もの商品価値を実現させるように、同じように、その同じ貨幣額は、その何倍もの預金を形成することが可能なのである。だからマルクスの例では、100ポンド・スターリングの貨幣量が、2000ポンド・スターリングの預金を形成することもありうること。そしてこの2000ポンド・スターリングの預金というのは、銀行にとっては、準備として手元に置くもの以外は貸し付け可能な貨幣資本(monied capital)を形成するのである。だから貨幣量(通貨量)とmonied capitalの増減との関係は、この一事を見ても、まったく関連がないといえるのである。

  マルクスにとってはこの問題はある意味ではハッキリした問題だったからこそ、それほど言及する必要は無かったとむしろ考えるべきではないかと思えるのである。

(以下、次回に続く)

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