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2017年8月31日 (木)

林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(4)

社会主義でも「抽象的人間労働」は意義を持つ?

 以下、ノートからの紹介を続ける。(★印の表題は本書のもの)

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★三、価値の形態をとる労働の特殊歴史的な性格
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   〈もし初めから自覚的に社会的労働として支出されるなら、その労働は決して"価値"の形態をとらないし、とる必要はないのである。貨幣は、こうした資本主義のもとにおける、人間の社会的労働の矛盾の表現であり、結果である。〉(18頁)

 これは別に問題があるから引用したのではなく、こうした認識があるのに、林氏は社会主義における分配問題になるとこうした問題意識がなくなるのは何故なのかと思ったのである。

 〈ここで注意されるべきは、抽象的人間労働を超歴史的カテゴリーと考えてはならないということである。つまり“価値”という歴史的カテゴリーにたいして、抽象的労働は人間社会一般に共通な超歴史的なカテゴリーと思われる。しかし実際には、それもまたすぐれて歴史的なカテゴリーである。このことは、例えば、一般にこれまでの共同体では、労働が価値の形をとらず、したがってまた、抽象的入間労働としては現われなかったことからも明らかであろう。〉(19頁)
 〈誰のものでもない、何を生産するのでもない、単なる労働力の支出としての労働。これこそ、一方で個々人の人格的独立と平等を語るとともに、他方で個々人の徹底的な社会的相互依存を語っているのである。各人の労働は、社会的必要を満たすものを生産するかぎり、抽象的労働として全く平等で、どんな差別、区別もないのである!まさに資本主義の(商品生産社会の)現実の中にこの関係を(事実を)発見したとき、近代の社会王義はその本当の自覚的基礎を獲得し、科学的社会主義に転化した、というべきだろう。価値の"実体"としての抽象的人間労働は、まさに人類史の決定的な段階を、つまり社会主義が現実的なものになったことを明らかしたのであり、それ自体、決して超歴史的カテゴリーといったものではない。もしそんな風に考えるなら、現代の社会主義、すなわち科学的社会主義はその一切の現実的基盤を失うだろう。〉(20頁)

 今の私は抽象的人間労働を超歴史的カテゴリーではないという林氏の主張には賛同できる。しかしその理由は異なる(私自身の考えは後に述べる)。
 林氏は『要綱』の序説から引用しているが、その引用のなかでマルクスは〈こうしてもつとも単純な抽象は、近代の経済学がその一番初めにかかげており、しかも、すべての社会形態にあてはまるきわめて古い関係を表現しているのではあるが、やはりこうした抽象としては、ただもっとも近代的な社会のカテゴリーとしてだけしか、実際にも正しいものとしては現われないのである〉〈労働のこの例が適切に示していることは、もっとも抽象的な諸カテゴリーでさえ--その抽象性のために--すべての時代にたいしてあてはまるにもかかわらず、なおこういう抽象という規定性の点で、それ自身やはり歴史的な諸関係の産物であるということ、そしてそれが完全にあてはまるのは、ただ歴史的な諸関係にたいしてだけであり、かつその内部においてだけだということである〉と述べている。これは自体は、抽象的なカテゴリーはその意味では歴史貫通的なものであることを認めているとも読める。しかしそうした抽象性として実際に現われるのは近代的な社会的カテゴリーとしてしか現実性を持たないと言っているだけではないのか。つまりマルクスが述べていることと林氏の主張していることには微妙な違いがあるように思えるのである。

 〈「単なる労働」、抽象的な一般的労働はまさに資本主義的生産こそが生み出し、発展させて来た「歴史的カテゴリー」であり、それが社会主義社会で意義をもつからといって、超歴史的なカテゴリーであるというわけではない--マルクスはこう語っているのだ。〉(21頁)

 果たしてマルクスは、林氏がいうようなことを言っているといえるのかどうか、それは疑問である。少なくともマルクスは〈それが社会主義社会で意義をもつからといって、超歴史的なカテゴリーであるというわけではない〉などとは述べていない。マルクスが言っているのは、単なる労働のようなもっとも簡単なカテゴリーでも、その抽象性においては、確かにあらゆる歴史に妥当するものではあるが(その限りでは歴史貫通的な性格を持つが)、しかしそれが歴史的に十全な妥当性において現れてくるのは、ブルジョア社会を待ってであるということである。労働をこのような抽象性において捉えることそのものが一つの歴史的な産物なのだということである。もし抽象的なカテゴリーとしての労働をこうした意味で歴史的なものだというなら正しい。しかしそれは抽象的な労働がその抽象性ゆえにあらゆる歴史において妥当するという一面を無視してよいというものではない。それを敢えて無視して抽象的な労働をただ歴史的なものとしてのみ捉えようとするところに林氏の恣意性を感じざるえない。

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 〈さてここで、資本主義社会における(商品を生産する)労働の特殊な性格は分かったが、しかし社会主義社会ではどうなのか、という疑問が当然出てくるだろう。
 まさに、それが問題である!社会主義社会では、人間の労働は抽象的労働であるという規定性を脱却するのであろうか。
 決してそんなことはない!確かに社会主義社会では、すでに人間労働は直接に杜会的なものになり、従って価値の形態、貨幣の形態を取らないだろう。だが商品生産の中で与えられた人間労働のこの側面は、社会主義社会の中でも廃棄されないばかりか、むしろそれはある意味でいっそう重要な意義を獲得する。
 価値の形態をとる労働は、抽象的な人間的労働である。そして社会王義社会においても、労働はやはり抽象的な労働として、社会的であろう。マルクスが「価値規定の内容は残る」といった所以である。ただ、資本主義との違いは、社会主義社会では、資本主義と違って、具体的有用労働と抽象的労働とは切り離されず、対立的な形をとらないということ、したがって価値という〃物象的な"かたちをとらない、ということである。
 抽象的人間労働とは、人間が社会的消費対象を生産するかぎり、その労働は無差別であり、平等であることを表現しており、従ってこの社会のすべての人々が平等であり、自由であることの社会的な根拠をなしている。社会主義社会では、"価値"というブルジョア的形態を脱ぎすてるとはいえ、この内容は新しい社会でも保持される、否、人々(労働者)の「特殊な社会的労働」への自覚こそ、社会主義の大前提であり、出発点である。これは、マルクスがi価値規定の内容」と呼んだものであり、社会的生産の計画でも、個々人への分配においても、この概念は本質的な役割を演じ、決定的な意義を持つようになるのである。
 我々は、資本主義社会で、労働が価値(さらには貨幣)という歴史的形態で現わされるようになったことの巨大な意義を確認しなければならない。それは、極端にいえば、世界中の人々の労働が一般的・抽象的人間労働として、世界的な意味を持つ〃社会性"として登場し、人々が世界的に結び付いたことの(この結び付きがますます発展してきたことの)表現である。
 確かに、社会主義では、人々の労働は直接的に社会的労働として現われ、そのかぎり「抽象的一般的労働」という規定は背景に退く、もしくは直接の意義を失うかである。だが、それは、具体的、有用的労働と抽象的、一般的労働の対立、矛盾が廃棄されるということであって、"近代的"労働の規定である、抽象的、人間的労働の規定が廃棄されるということではない。そんなことは、現実的に不可能である。むしろ反対に、人間労働のこの規定は、社会主義においてこそ真実の意義を獲得する、とさえ言えるのである(というのは、その限界のあるブルジョア的規定性を脱ぎすてるのだから)。〉
(25-26頁)   

 ここには幾つかの混乱がある。林氏は抽象的人間労働というのは、「価値規定の内容」を意味すると考えている。しかしこれは本当だろうか。実は私も以前はそう考えていたのである。しかしマルクス自身は明確に区別していたことを最近理解するようになった。まずマルクスが「価値規定の内容」として述べている部分を引用してみよう。

 〈だから、商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこないのである。それはまた価値規定の内容からも出てこない。なぜならば、第一に、いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。第二に、価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量について言えば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである。どんな状態のもとでも、生活手段の生産に費やされる労働時間は、人間の関心事働でなければならなかった・といっても発展段階の相違によっ一様ではないが。最後に、人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつことになるのである。〉 (全集版96-97頁)

 このように、マルクスが「価値規定の内容」として述べているものの中には「抽象的人間労働」という言葉は出て来ない。抽象的人間労働は価値の実体ではあるが、マルクスが述べているのは、価値の実体の基礎にあるものなのである。マルクスは他方で「価値量の規定の根底にあるもの」とも述べているが、つまりマルクスが「価値規定の内容」として述べているのは、「価値の規定」そのものではなく、その「根底にあるもの」なのである。価値の規定ならば、それば抽象的人間労働の凝固であり、価値の大きさは、社会的に必要な労働時間ということになる。しかし、マルクスが述べているのはそういうことではない。マルクスが述べているのは、抽象的人間労働の基礎にあるものであり、それはその形態がどのように違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、だからこのような機能は価値の実体である抽象的人間労働の「基礎にあるもの」であり、あるいはその「根底にあるもの」ものなのである。それをマルクスは「価値規定の内容」として述べているのである。それは〈いろいろな有用労働または生産活動がどんな、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だ〉というものである。あるいは〈価値量の規定の根底にあるもの、すなわち前述の支出の継続時間、または労働の量について言えば、この量は感覚的にも労働の質とは区別されうるものである〉というのである。もう一つ〈人間がなにかの仕方で相互のために労働するようになれば、彼らの労働もまた社会的な形態をもつ〉というものである。

 こうした「価値規定の内容」を林氏は正しく理解しているとは言い難い。だからまた社会主義では労働は直接社会的なものになると言いながらその内容を正確につかみ取っていないのである。社会主義社会では、価値の実体である抽象的人間労働が意義をもつわけではない(価値が歴史的な産物であるように、その実体である「抽象的人間労働」も歴史的な産物なのだ)。社会主義で意義をもつのは、その価値の実体の根底にある生理学的な意味での人間労働力の支出とその継続時間だけである。ここらあたりはなかなか難しいが林氏には分かっていないし、私も少し前までは分かっていなかった。だから実はあまりエラそうなことはいえない。

 {もっともマルクスも『資本論』第3巻では「価値規定」そのものが社会主義で意義をもつかに述べているところもある。しかし、マルクス自身、第3巻を書いていた時はまだそこらあたりはハッキリしていなかったかも知れないのである。というのはマルクスは『資本論』の初版では、まだ「価値規定の内容」とは言わずに「それ自体として観察された価値規定」と述べているからである。もっともマルクスにとっては両者は同じものとして捉えられていたのかも知れないが。ただマルクスが初版に手を入れて第二版を出版する準備として作成した「補足と改定」を見ると、第二節の「商品に現われる労働の二重性」の最後のパラグラフは次のような変遷を経ている。
 まず第二版の最後のパラグラフは次のようになっている。

 〈すぺての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。〉(全集版63頁)

 次は「補足と改定」から

 〈[A]
[5] p.13)すべての労働は,一面では,人間的労働力の支出である。他面では,目的を規定された形態でのすべての力の支出である。労働力が支出されるこの特殊な形態あるいはあり方は,商品の使用価値を,つまり一定の有用効果をもたらす。それとは反対に,商品価値は,次の事を述べているにすぎない。すなわち,この物は人間的労働力の支出以外のなにものも現わしてはおらず,この支出の量はそれの価値の大きさに現わされている,ということである。
  [B]
 すべての労働は,一面では,人間的労働力の支出である。生産物の価値は,その生産物が支出された労働力すなわち人間的労働そのもの以外のなにものも現わしてはいないということ,そしてその支出の量はその価値の大きさに表わされている,ということを意味しているのである。他面において,労働力は何らかの規定された形態において支出される,すなわち何らかの方法で使われた,そして特殊な,目的を規定された生産的行為としてのみ労働力は使用価値をすなわち有用効果を生み出す。
  [C]
 [すべての労働は]一面では,人間的労働力一般の支出,したがって抽象的人間的労働である。そして,抽象的人間的労働というこの属性において労働は価値を形成する。他面において,すべての労働は何らかの特殊な目的を規定された形態での人間的労働力の支出であり,そしてそのような具体的有用労働として労働は商品の使用価値を生産するのである。〉(小黒訳上57-58頁)

 つまりマルクス自身にとっても、初版から第二版への過程で、このような推考によって、むしろ問題が厳密化され明確になっていったと思えるのである。これは「価値体」と「価値物」との区別と関連についても同じことがいえるような気がする。だから現行の第3巻の上記のような記述があるからといって、こうしたマルクスが最終的に到達した問題意識を否定する根拠にはならないのである。}

 私はこの第二版の最後のパラグラフと関連させて、価値規定の内容について、電子書籍《『資本論』第1章・第2章詳解》のなかで、次のように解説した。(以下、電子書籍から)。

 【 (イ)したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。 (ロ)それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。 (ハ)と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。 (ニ)第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。 (ホ)どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった(26)。 (ヘ)最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。〉

 (イ) だから商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではありません。

 (ロ) では、それは商品の価値から生じているのでしょうか。しかしまた、商品の価値規定の内容を見る限りでは、そこから生じているともいえないのです。

 (ハ) というのは、商品の価値規定の内容というのは、第一に、有用労働が、あるいは生産的な活動がそれがどんなに互いに違っていたとしても、それらが人間有機体の諸機能だという点ではどんな違いもありませんし、またそれがどういう具体的な形態でなされるかに違いはあったとしても、それらはどれも本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるという点では同じであることは、生理学的真理であって、これ自体には何の神秘的な性格もないわけです。

  ここで注意が必要なのは、マルクスが「価値規定の内容」として語っているものには、「価値の実体」と言われる「抽象的人間労働の凝固」という言葉がないことです。だから「価値規定の内容」というのは「価値の実体」とはまた違って、その基礎にあるものだということです。

 (ニ)、(ホ) 次に価値規定の内容として問題になるのは、価値の大きさの基礎にあるもの、すなわち先の生理学的な労働力の支出の継続時間、またはその労働の量については、労働の質とは感覚的に区別されるものです。

  ここでも注意深く吟味してみる必要があるのは、マルクスは「価値の大きさ」そのものを問題にしているのではなく、「価値の大きさの基礎にあるもの」を問題にしているということです。価値の大きさは商品の生産に社会的に必要な労働時間ですが、そうしたものを直接問題にしているのではなく、その「基礎にあるもの」なのです。それはマルクスが「価値規定の内容」として抽象的人間労働を問題とせず、さまざまな具体的な形態が規定された人間労働力の支出というものが、その具体的形態が如何なるものであろうと、人間有機体の諸機能であり、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出なのだとして捉えていることに対応しています。

  以前、第2節の最後のパラグラフを分析したときに、このパラグラフがシンメトリーの構成になっていることと、三層の構造を持っていることを指摘しました。それをもう一度思い出してみましょう。まず、第2節の最後のパラグラフを紹介します。

   《すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間労働力の支出であり、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出であり、この具体的有用労働という属性において、それは使用価値を生産する。》(全集版63頁)

  このパラグラフの構成を図示したものも紹介しておきます。
Photo
  つまりマルクスは「商品価値を形成する」労働を分析して、「生理学的意味での人間労働力の支出」というものと「同等な人間労働または抽象的人間労働」という属性とを区別しているということです。同じように「使用価値を生産する」労働についても、「特殊な、目的を規定された形態での人間労働力の支出」ということと、「具体的有用労働」という属性とが区別されています。

  だから今ここで、マルクスが「価値規定の内容」として述べているものでいえるのは、「価値を形成する」労働のうち、まさに最初の層、つまり「生理学的意味での人間労働力の支出」とその継続時間なのだということです。第二層、つまり価値の実体である「同等な人間労働または抽象的人間労働」の凝固と社会的に必要な人間労働の継続時間ではないということに注意が必要なのです。多くのマルクス経済学者は「抽象的人間労働」と「生理学的な意味での人間労働力の支出」を同じものとして扱っていますが、マルクス自身はこれらを明確に区別していることに注意が必要なのです。

 (ヘ) そして最後に、人間が何らかの様式で互いのために労働するようになるやいなや、彼らの労働も社会的な形態を受け取るということはあたりまえのことであり、彼の労働が社会的な形態を持っているということ自体には何の神秘的なものもないのです。

 ここでは〈価値規定の内容〉という言葉が出てきます。マルクスはこの内容を三つの部分からなると考えているようです。では、それは第1節のどういう内容に照応しているのでしょうか。

 (1)まず価値規定、つまり価値の規定というのは、次のような第一節の一文を指すのではないでしょうか。

 〈そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。
 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。
 したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。〉

  これが「価値規定」です。しかし、ここでマルクスが問題にしているのは、こうした「価値規定」そのものではなく、その基礎にあるものとだということです。それが「価値規定の内容」なのです。

 (2) 次は量的な価値規定について、

 〈では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。……
 したがって、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、社会的に必要な労働の量、または、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間にほかならない。〉

  この場合も、しかしマルクスがここで問題にしているのは価値の量的規定そのものではなく、「その基礎にあるもの」なのだということが重要です。

 (3)次は、価値を形成する労働の社会的性格についてです。

 〈商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。〉 
 〈したがって、われわれは次のことを見てきた--どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。〉

  しかしこうした労働の社会的形態は、商品を生産するという様式において取り結ぶ社会的形態であるということが理解されなければなりません。価値規定の内容としてマルクスが述べているのは、そうしたもののさらに一般化されたものだということです。

 報告者のレジュメでは、以前、大阪でやっていた「『資本論』を学ぶ会」のニュースNo.23(1998/11/5)からの紹介がありました。だからそれも少し紹介しておきましょう。

  《ここではマルクスは「価値規定の内容」とは、労働を基礎とする人間のどんな社会にも妥当するような、もっとも基本的なものだと述べているように思えます。だからそれは資本主義以前の社会はもちろん、将来の社会、つまり社会主義、共産主義の社会においても存在するものだということでもあります。だからこうしたものには何の神秘的なものもないのだということだと思います。このようなマルクスの考えは、それ以外の文献でも色々と述べられています。今、その主なものを紹介しておきましょう。

 例えばマルクスは1868年7月11日付けの「クーゲルマンへの手紙」で次のように書いています。

 〈価値概念を証明する必要があるなどというおしゃべりは、当面の問題についての、さらにまた、この科学の方法についての完全な無知にもとづくものにほかならない。いかなる国民でも、一年間はおろか二、三週間でも労働を停止しようものなら、たちまちまいってしまうということは、どんな子どもでも知っている。また、種々の欲望の量に応じる諸生産物の量は、社会的総労働の種々のそして特定の分量を必要とするということもどんな子どもでも知っていることである。このように社会的労働を一定の割合で配分する必要は、社会的生産の一定の形態によってなくされるものではなくて、ただそのあらわれかたが変わるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことはけっしてできないことである。いろいろの歴史的状態につれて変化しうるのは、それらの法則が貫徹される形態だけである。そして、社会的労働の連関が個人的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態においてこの労働の比例的配分が貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値なのである。〉(国民文庫版87~9頁)

 (中略)つまりマルクスが「価値規定の内容」として述べていることは、いわばこの手紙でマルクスが「自然法則」として述べていることと同義であって、だから商品生産社会において「それらの法則が貫徹される形態」こそが、まさに「生産物の交換価値」であり、それが「労働生産物の謎的性格」をもたらすのだ、ということではないでしょうか。

 もう一つ紹介しましょう。「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」では次のような一文が見られます。

 〈さて、ロートベルトゥスが--私はあとでなぜ彼にこれがわからなかったのか、その理由を言おう--すすんで商品の交換価値を分析したとすれば、--交換価値は商品が複数で見いだされ、さまざまな商品種類が見いだされるところにだけ存在するのだから--彼はこの現象形態の背後に「価値」を発見したはずである。彼がさらにすすんで価値を調べたとすれば、彼はさらに、価値においては物、「使用価値」は人間労働のたんなる対象化、等一な人間労働力の支出と見なされ、したがってこの内容が物の対象的性格として、商品自身に物的にそなわった〔性格〕として表示されていること、もっともこの対象性は商品の現物形態には現れないということ〔そして、このことが特別な価値形態を必要にするのである〕、こういうことを発見したことであろう。つまり、商品の「価値」は、他のすべての歴史的社会形態にも別の形態でではあるが、同様に存在するもの、すなわち労働の社会的性格--労働が「社会的」労働力の支出として存在するかぎりでの--を、ただ歴史的に発展した一形態で表現するだけだということを発見したことであろう。このように商品の「価値」があらゆる社会形態に存在するものの特定の歴史的形態にすぎぬとすれば、商品の「使用価値」を特徴づける「社会的使用価値」もやはりそうである。〉 (全集・376~7頁)

 こうしたマルクスの論述は、それ以外の諸文献でも見ることができます。ここで重要なのは、マルクスはこうした「価値規定の内容」は、確かにあらゆる社会に存在するものではあるが、しかしそれは「価値」がそうであるとは言っていないということです。むしろ「価値」はその「特定の歴史的形態にすぎない」と述べています。(以下略)》

 ところで、初版本文では、このパラグラフに続いて、現行版では12パラグラフに来るロビンソンの例と15パラグラフに来る共同社会の例の二つのパラグラフが続いています。つまりこの価値規定の内容には何の神秘的な性格はないということを説明する例として、ロビンソンの孤島での生活や将来の共同社会の例が展開されているのです。この現行版の二つのパラグラフは、当然、後に問題になるわけですが、初版本文の展開の意義を確認するために、若干先取りして、その内容を少しだけ検討しておきましょう。

 まずロビンソンの島の生活においては、〈ロビンソンと彼の自家製の富を形成している物とのあいだのいっさいの関係は、ここではきわめて簡単明快〉だと指摘しながら、〈それにもかかわらず、これらの関係のうちには、価値のすべての本質的な規定が含まれている〉とも述べられています。つまりそれらが価値規定の内容を意味することが示唆されているのです。

 また〈共同の生産手段を用いて労働し、自分たちのたくさんの個人的な労働力を意識的にさて、一つの社会的な労働力として支出するところの、自由な人々の団体〉については、〈ロビンソンの労働のあらゆる規定が繰り返されるが、このことは、個人的にではなく社会的にというにすぎない〉と指摘され、やはり〈人々が彼らの労働や彼らの労働生産物にたいしてもっている社会的な諸関係は、ここでは依然として、生産においても分配においても、透明で簡単である〉と述べられています。つまり先に「クーゲルマンへの手紙」や「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」でも指摘されていましたが、それらはあらゆる社会に共通な内容をもったものであり、こうした関係には何の神秘的な性格もないと言うわけです。

 そして初版本文では、こうした二つのパラグラフによる価値規定の内容の具体的な例の検討を行ったあと、それを受けて、次のパラグラフで〈それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか? 〉と続いているのです(しかしその後の展開は現行版とは若干異なります。その検討は次回以降にしたいと思います)。】(電子書籍からの紹介終わり)

 「抽象的人間労働」というのは、マルクスによって「同等な人間労働」とも言い換えられているが、それは商品生産の社会において、諸労働生産物に個々バラバラに支出された私的諸労働が、諸商品の交換を通じて同等な人間労働に還元されたものであり、同等な人間労働または抽象的人間労働として、労働生産物の価値対象性として結実しているものである。だからそれは商品を生産する社会に固有のものなのである。だからそういうものが社会主義でも意義を持つかに主張する林氏の主張は明らかに間違っている。社会主義ではそうしたものの根底にあるもの(価値規定の内容)こそが意義を持つのである。

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