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2017年7月19日 (水)

林紘義著『変容し解体する資本主義』批判ノート(3)

貨幣概念の欠如

 この連載も長らく中断したままであったが、とにかく私自身のノートの紹介なのだから、ボチボチ再会しようかと思う。

 今回からは、いよいよ本文に入っていく。以下に掲げた表題は林氏の著書から直接引用したものである。今後も、林氏の著書の進展にしたがって、その章や節や項目をそのまま紹介し、その中で疑問に思ったことや自身の考えを、一定の問題意識のもとに表題を付けて(今回は「貨幣概念の欠如」という表題を付けた)、対置するという形でこのノートは書いていくことになる。それではノートを再開しよう。

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§§第一部 "金本位制"から"管理通貨"へ

§第一章 商品生産と貨幣の必然性

 ★一、現代の"貨幣"

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 まず林氏は次のように書き出している。

 〈国際通貨について知るためには、まず貨幣とは何かを理解しなければならない。
 貨幣とは一体何であろうか、そして貨幣を必然化するもの--生産関係--は何であろうか。いまではこの問いに答えるのは、かつてより一層難しくなっている。というのは、かつては、貨幣は現実に流通しており、人々は常にそれを利用し、目の前に具体的に見ていたからである。
 今では貨幣は、ただ「通貨」として、流通過程における機能的な存在としてのみ現れる。
 かつての貨幣は、それ自体価値を持つ定在であり、決して単なる機能的な存在ではなかった。しかし今の“貨幣"は、それ自体としては内在的な価値を持たず、単なる紙っぺらである。それはあたかも、純粋に機能的な存在であるかのものとして立ち現れる。〉(12頁)

 ここで林氏は〈国際通貨について知るためには、まず貨幣とは何かを理解しなければならない〉と述べ、〈貨幣とは一体何であろうか〉という問いを発している。つまり貨幣とは何かということは貨幣の概念を問うているわけである。しかしもし林氏が貨幣の概念が何かを知りたいなら、われわれは『資本論』を研究すべきだと答えるだろう。なぜなら、『資本論』の冒頭篇において、マルクスは余すことなく「貨幣とは何か」という疑問に答えているからである。
 ところがどうしたことか林氏は〈いまではこの問いに答えるのは、かつてより一層難しくなっている〉と言い、〈というのは、かつては、貨幣は現実に流通しており、人々は常にそれを利用し、目の前に具体的に見ていたからである〉とその理由を述べている。これだとマルクスが『資本論』で貨幣の概念を明らかにできたのは、〈貨幣は現実に流通しており、人々は常にそれを利用し、目の前に具体的に見ていたから〉だとでも言うのであろうか。しかしそれは本当ではない。すでに述べたように、マルクスの生きていた時代においても、信用制度が発達していたスコットランドではすでに流通から金貨幣は姿を消していたし、イングランドでも1797年から1821年まではイングランド銀行は銀行券の兌換を停止していたからである。つまり林氏がいうようにそれは〈それ自体としては内在的な価値を持たず、単なる紙っぺら〉だったわけだ。しかしマルクスはこうした歴史的現実を踏まえながらも、なおかつ、貨幣の概念を明らかにしているのである。そしてそれを見ればわかるように、マルクスは、まず商品とは何かを解明して、商品の価値形態の発展を跡づけて商品の貨幣への発展の必然性を明らかにして、貨幣の概念を解明し、展開している。それは決して、現実に金貨幣が流通しているから解明できたというようなものでは決してないのである。
 林氏が今日の問題として指摘するようなことは、単なる現象的な変化でしかないのであり、そうしたものが貨幣の概念そのものに何か根本的な変化をもたらすようなものでは決してないのである。私はすでに林氏は現代の通貨の現象的な変化に惑わされ、囚われすぎて、本質を忘れていると指摘したが、やはりここでもわれわれはそれを指摘しなければならない。
 そもそも林氏には貨幣の概念が無いのではないかと疑わざるを得ない。というのは林氏は〈今では貨幣は、ただ「通貨」として、流通過程における機能的な存在としてのみ現れる〉と述べているからである。ここで私は「のみ」というところに注意を促すために下線を引いたが、これは極めて重要な問題だからである。林氏は今日では貨幣は、ただ通貨としてのみ存在していると考えているらしいからである。しかし『資本論』から貨幣の概念を学んだわれわれは、貨幣は単に通貨、つまり流通手段や支払手段だけではなく、まず持って商品の価値を尺度するという機能において貨幣であり、さらには蓄蔵貨幣や世界貨幣という機能も持っていることを知っているからである。つまり林氏は「通貨」のみを認めて、貨幣の存在を否定するのであるが、ということは価値の尺度機能や蓄蔵貨幣の定在がまったく目に入っていないことを示している。
 林氏は現実の商品流通から金貨幣の姿がなくなり、それに代わって〈それ自体としては内在的な価値を持たず、単なる紙っぺらである〉銀行券を見いだす。そしてその現実に幻惑されてしまっているのである。しかし現実の商品流通においては、他方で、依然として金そのものの売買は行われており、また世界各国の中央銀行には金が依然として蓄蔵されている現実があるのである(*)。ところがこうした現実は林氏の視野にはまったく入っていないのである。

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 *因みに、ウィキペディアで「金」という項目(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91)を見ると、次のような各国の金保有量が紹介されている。

【主要各国の保有量
アメリカ合衆国[16]:8134トン(外貨準備に占める割合は78.2 %)
ドイツ:3413トン(同66.3 %)
フランス:2541トン(同59.4 %)
イタリア:2452トン(同68.1 %)
スイス:1064トン(同39.8 %)
日本:765トン(同2.1 %)
オランダ:621トン(同61.2 %)
中華人民共和国:600トン(同1 %)
インド:358トン(同3.3 %)】
 またこの一覧につけられた注16には〈1999年5月の上院銀行委員会で、当時の FRB 議長であったグリーンスパンは「金(ゴールド)の、売却はいたしません。ゴールドは究極の通貨だからです」と述べている〉と紹介されている。
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  ところで林氏はここでは〈今では貨幣は、ただ「通貨」として、流通過程における機能的な存在としてのみ現れる〉という。ここで〈機能的な存在〉とは何であろうか。〈かつての貨幣は、それ自体価値を持つ定在であり、決して単なる機能的な存在ではなかった〉とも言われている。しかし金鋳貨は、〈それ自体価値を持つ定在であ〉ったが、しかしそれは流通手段としての貨幣の機能が、独自のかたちをとったものではないのか。つまり〈機能的な存在〉ではなかっただろうか。事実、マルクスは『経済学批判』で次のように述べている。

 〈金は流通手段としてのその機能では、独自なかたちをとり、それは鋳貨となる。〉(全集13巻87頁)

 つまりマルクスによれば金鋳貨も〈機能的な存在〉なのである。だから〈機能的な存在〉であるかどうかということは、〈それ自体価値を持つ定在であ〉るかどうかということとは無関係である。確かに紙幣は〈純粋に機能的な存在である〉といえなくもない。それは鋳貨の流通手段としての機能にもとづく仮象性や瞬過性から生じてくるものだからである。

 林氏はまた次のようにも書いている。

 〈貨幣は資本主義社会にとって決定的であるが、しかし現在の資本主義においては、貨幣は現実の流通の中に現れない--ここには大きな、新しい矛盾が、従ってまた解決されるべき重大な一理論問題がある〉(12頁)

 しかし何度も言うが、金貨幣が流通から姿を消し、何らかの代理物に置き換えられるということは、すでにマルクスの時代にも見られたのであり、マルクスによってその根拠は余すところなく理論的に解明されているのである。だからそこには何らの〈新しい矛盾〉など無い。しかしそこには、確かに理論的に解明すべき一問題があることは認めることができる。そうでなければ、そもそも林氏もこうした混迷に陥ることはなかっただろうからである。しかしこれも何度も言うが、『資本論』をしっかり研究さえすれば、〈新しい矛盾〉に見えるものが何らの〈矛盾〉でもなく、また〈解決されるべき重大な一理論問題がある〉ように思えるものも実はすでにマルクスによって解明されていることを知るであろう。

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