無料ブログはココログ

« 2016年7月 | トップページ | 2017年7月 »

2016年10月

2016年10月17日 (月)

現代貨幣論研究(11)

「預金通貨」概念を擁護する大谷氏の主張の批判的検討(3)

 さて、前回のように大谷氏が引用した一文を解読したので、次は大谷氏のこの引用文の解説を検討することにしよう。まず大谷氏は次のようにこの引用文を解説している。

 〈まず,Aが5000ポンド・スターリングの小切手を振り出したとき,5000ポンド・スターリングの預金はAにとって「可能的な貨幣〔money potentialiter〕」として機能する,と言われている。ここで「可能的」というのは,小切手の額が預金から引き落とされたときに,この金額のAが預金した貨幣は貨幣機能を果たした,と言いうるのだからである。この場合の「貨幣としての機能」とは,この預金でBの商品の価格を実現する機能,すなわち流通手段の機能にほかならない。〉 (361頁)

 この大谷氏の一文は簡単には理解可能ではない。大谷氏は預金は流通手段として機能したというのであるが、果たしてそれは正しいであろうか。AがBから商品を現金(金、または法貨としての銀行券、要するに通貨)で支払うなら、その現金は流通手段として機能したといいうるであろう。しかしAが支払うのは小切手である。小切手とは何か、マルクスも述べているように〈貨幣への請求権〉である。つまりAはBから商品を購入したが、すぐに現金では支払わずに、支払を約束する証書を渡したにすぎない。つまりここではAとBは信用取引をやったのである。Aは債務者であり、B債権者である。だからこれらの一連の取り引きは、支払手段としての貨幣の機能にもとづいている。大谷氏にはこの根本的な認識が欠けているように思えるのだが、果たしてどうであろうか。

 だからわれわれは、少し横道に逸れるが、支払手段としての貨幣の機能についてもう一度確認しておこう。マルクスは『経済学批判』で次のように述べている。若干長くなるが、原点に帰るという意味で、われわれはキッチリ理解しなければならない。

 〈売り手(われわれの例ではB--引用者、以下同)は商品を実際に譲渡し、またそれの価格を実現するが、この実現はそれ自身、さしあたってこれまたただ観念的なものにすぎない(われわれの例では、小切手という形での実現である--同)。彼は商品をその価格で売ったのであるが、この価絡はそののちのある確定された時点ではじめて実現される。売り手は現在の商品の占有者として売るのに、買い手(われわれの例ではA)は将来の貨幣の代表者として買うのである。売り手(B)の側では、商品は価格として現実に実現されないのに、使用価値として現実に譲渡される。買い手(A)の側では、貨幣は交換価値として現実に譲渡されないのに、商品の使用価値のかたちで現実に実現される。まえには(流通手段としての貨幣の機能の時には--同)価値章標が貨幣を象徴的に代表したのに、ここでは買い手(A)自身が貨幣を象徴的に代表する。だがまえには、価値章標の一般的象徴性が国家の保証と強制通用力とを呼び起こしたように、いまは買い手(A)の人格的象徴性が商品占有者間の法律的強制力ある私的契約を呼び起こすのである。〉 (草稿集③365頁)
 〈売り手(B)と買い手(A)は、債権者と債務者になる。〉 (同366頁)
 〈だから、商品が現存し貨幣がただ代表されているにすぎない変化した形態のW-Gでは、貨幣はまず価値の尺度として機能する。商品の交換価値は、その尺度としての貨幣で評価される。だが価格は契約上測られた交換価値としては、ただ売り手B)の頭のなかに実在するだけでなく、同時に買い手(A)の義務の尺度としても実在する。第二に、この場合貨幣は、ただ自分の将来の定在の影を自分の前に投じているだけであるとはいえ、購買手段として機能する。すなわち、貨幣は商品をその場所から、つまり売り手(B)の手から買い手(A)の手へと引き出す。契約履行の期限が来れば、貨幣は流通に入っていく。というのは、貨幣は位置を変換して、過去の買い手(A)の手から過去の売り手(B)の手に移って行くからである。だが貨幣は、流通手段または購買手段として流通に入るのではない。貨幣がそういうものとして機能したのは、それがそこにある以前のことであり、貨幣が現われるのは、そういうものとして機能することをやめたあとのことである。それはむしろ、商品にとっての唯一の適合的な等価物として、交換価値の絶対的定在として、交換過程の最後の言葉として、要するに貨幣として、しかも一般的支払手段としての特定の機能における貨幣として流通に入るのである。〉 (同)

 ここではマルクスは買い手(A)自身が貨幣を象徴的に代表すると述べている。つまり買い手(A)は貨幣の支払約束をするのである。買い手の支払約束が売り手からの商品の譲渡をもたらしたのである。売り手は買い手に信用を与え、売り手は債権者、買い手は債務者になった。買い手の支払約束は〈法律的強制力ある私的契約〉にもとづいている。この場合、Aが支払約束の証書として手形を振り出すか、あるいは自身の取引銀行の小切手を振り出すとしても、それらが支払手段としての貨幣の機能にもとづいているという点では同じである。大谷氏に欠けているのは、まさにこの認識である。
 マルクスは第25章該当部分の草稿でも次のように述べていた。

 〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした。(『経済学批判』)。商業が発展し,ただ流通だけを考えて生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて,信用システムのこの自然発生的な基礎Grundlage〕は拡大され,一般化され,仕上げられていく。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち,商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られるのであって,この支払約束をわれわれは手形という一般的範疇のもとに包括することができる。〉 (大谷本第2巻159頁)

 われわれが検討しているAとBとの間にも債務者と債権者との関係が成立していることは明らかである。Bは支払約束にもとづいて、Aに商品を譲渡し、Aは自身の銀行にある預金からの支払を約束して小切手を振り出し商品を入手した。だから小切手もその意味では手形と同様の支払約束なのである。ただそれは約束手形と違うのは、債務者である商品購買者に代わって、支払うのが銀行であるにすぎない。つまり商業信用に、この場合は貨幣信用が絡み合っているわけである。しかしそれが信用関係であることは断るまでもないであろう。大谷氏はこうした信用関係を見ていないように思われる。大谷氏は〈小切手の額が預金から引き落とされたときに,この金額のAが預金した貨幣は貨幣機能を果たした,と言いうる〉というが、しかし商品の譲渡を引き出した(つまり購買手段として機能した)のは、Aが支払約束をした時点、すなわち小切手を振り出した時点であろう。この場合、〈商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られ〉たのだからである。預金が引き落とされるのは、Bが小切手を銀行に持参して現金の支払を求めた時であるが、それはすでに商品が売り渡された後である。だからこそ、この場合は、貨幣は支払手段として流通に入るのである。いずれにせよこれらの一連の取り引きは支払手段としての貨幣の機能から生じていることなのである。だから大谷氏が預金が流通手段として機能したなどというのは明らかに間違いである。マルクス自身はそんなことは何も言っていないのである。

 次に大谷氏は解説を次のように続けている。

 〈次に,Aが「取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取り引き銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たしたわけである」と言われている。この小切手交換の結果,Bの取引業者のもとでBの預金が5000ポンド増加し,Aの取引業者のもとでAの預金が5000ポンド減少した。マルクスは,Aが預金した貨幣は「第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人〔すなわちB〕の手で」,「第2には,A自身の手で」,貨幣機能を果たした,と言う。すなわち「第1には」Bのもとで5000ポンドの商品価格が実現した。マルクスはこのことを,Aの預金は「現実の貨幣として」機能した,と言う。すなわち,Bが小切手を受けとったときにはまだ「可能的な貨幣」であったAの預金5000ポンドがいまやBのもとで現実の貨幣になった,と言うのである。これにたいして「第2に」,Aのもとでは,Aの預金は「貨幣への請求権」すなわち債権として働く,と言う。すなわち,この場合には,Aのもつ債権とBの取引銀行業者の債権との相殺が行なわれる。もちろん,この相殺はBにはなんのかかわりもないものである。相殺というのは,貨幣による債権の支払いではない。債権と債権とを互いに帳消しにすることである。だからそれは「貨幣の介入なしに行なわれる」のである。にもかかわらず,マルクスはこの第2の場合にも「Aが預金した貨幣は……貨幣機能を果たした」と言っている。なぜであろうか。それはさきに見たように,この相殺によってAの預金が5000ポンド引き落とされたときに,Aが預金した貨幣は,可能的にではなく現実に,貨幣機能を果たした,と言いうるのだからである。この場合の貨幣機能とは,さきに見たように流通手段としての貨幣の機能である。〉 (同書361-362頁)

 ご覧のとおり大谷氏の理解はわれわれとまったく違ったものになっている。大谷氏は〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉を説明して、〈〔すなわちB〕〉と述べている。しかしBは決して貨幣を受け取るのではない。彼はただAの振り出した小切手を受け取っただけである。しかも彼はそれを自分の取引銀行に預金したのだから、Bは〈現実の貨幣〉を受け取ることは決してないのである(BがAの振り出した小切手をAの取引銀行に提示して支払を受けるなら、Bは貨幣を受け取るであろうが)。そもそもここには現実の貨幣そのものはまったく出てこないケースをマルクスは問題にしているのである。だからマルクスが〈第一に〉と述べている〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉というのは、決してBではない。もしBであるのなら、どうしてマルクスは〈預金した貨幣を受け取ったBの手で〉と書かなかったのであろうか。続けてマルクスは〈第2には,A自身の手で〉と述べているのだから、そしてここではAとBとの取り引きが問題になっているのだから、当然、Bと書いたであろう。だからこの場合、〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉とマルクスが敢えて書いたのは、その〈〉というのはBではなく、Aの取引銀行からその預金された貨幣の貸し出しを受けた〈〉なのである。そしてその場合は、その貨幣はその貸し出しを受けた人の手で〈現実の貨幣として〉機能するわけである。
 大谷氏は〈すなわち「第1には」Bのもとで5000ポンドの商品価格が実現した。マルクスはこのことを,Aの預金は「現実の貨幣として」機能した,と言う〉と述べているが、しかしBの5000ポンドの商品価格の実現は、現実の貨幣なしに行われたのである。Bの商品価格の実現は、最初はAの振り出した小切手という形で実現し、さらにBがそれを取引銀行に預金し、AとBのそれぞれの取引銀行間で債権の相殺が行われ、預金の振替が行われた時点で最終的な実現が完了するのである。だからBの商品価値の最終的な実現は、貨幣の支払手段としての機能にもとづいて、商品の譲渡のあとに行われたのである。それはマルクスが第2の機能として述べていることにもとづいている。

 続く大谷氏の説明もチンプンカンプンである。すなわち次のように述べている。

 〈これにたいして「第2に」,Aのもとでは,Aの預金は「貨幣への請求権」すなわち債権として働く,と言う。すなわち,この場合には,Aのもつ債権とBの取引銀行業者の債権との相殺が行なわれる。もちろん,この相殺はBにはなんのかかわりもないものである。相殺というのは,貨幣による債権の支払いではない。債権と債権とを互いに帳消しにすることである。だからそれは「貨幣の介入なしに行なわれる」のである。〉

 Aの預金は確かにAにとっては債権である(銀行にとっては債務)。しかしAはその預金に当てて、小切手を切り、Bに手渡したのである。だからAの債権は、今ではBの持つものになっている。すなわちBの債権である。Bは自分の商品を小切手と引き換えに手渡した。その限りではBはAに信用を与えた。AはBに負った債務を自身の銀行に対する債権で支払ったのである。BはそのAの振り出した小切手、すなわち彼にとっては債権(つまり貨幣への請求権)を自分の取引銀行に預金した。だから小切手は今はBの取引銀行の手にある。だからBの取引銀行はAの取引銀行に対する債権を、すなわち貨幣への請求権を持つことになる。しかし他方でAの取引銀行は、Bの取引銀行の支払義務を負った債権を持っていたので(もちろん、この債権はAともBとも無関係のもので、Aの取引銀行はそれを別の機会に入手したとこの場合は想定されているのである)、それを手形交換所でBの取引銀行の持つ、Aの振り出した自行の支払義務のある小切手と交換する。こうして、両者は互いに相手に対する債権を交換して相殺したのである。だからマルクスは〈債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である〉と言っているのである。
 〈Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権〉というのは、Bの取引銀行業者が持つ、Aが振り出した小切手のことである。それに対して〈この銀行業者(=Aの取引銀行業者--引用者)がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権〉というのは、この場合、AともBとも無関係の別の何らかの取り引きの結果持つことになったものなのである(例えば、Aの取引銀行と取引のあるCが、Bの取引銀行と取引のあるDに信用で5000ポンドの商品を販売し、Dが自身の取引銀行〔Bの取引銀行でもある〕にある自分の預金に当てて小切手を振り出して、Cに手渡し、Cがその小切手を自分の取引銀行〔つまりAの取引銀行でもある〕に預金した結果、Aの取引銀行が持っている〈Bの取引銀行業者にたいしてもっている債権〉、つまりDの振り出した小切手などが考えられる。そしてこの場合、預金の振替は、Aの取引銀行はAの預金から5000ポンドを消し、その分だけCの預金に5000ポンドを書き加え、Bの取引銀行はDの預金から5000ポンドを消して、Bの預金に書き加えるという操作のことをいう。振替は、それぞれの銀行内で行われるのである)。
 だからこの場合、大谷氏がいうように、〈Aのもつ債権とBの取引銀行業者の債権との相殺が行なわれる〉などということではまったくない。大谷氏は〈Aのもつ債権〉というが、それはAの小切手としてすでにBの取引銀行業者の手にあることに気づいていない。だから〈Bの取引銀行業者の債権〉などとも述べているのだが、それは何を意味するのかも十分考え抜いていないのである。それは一体何なのか。Bの取引銀行業者の持っている債権のことか、それならそれはAの振り出した小切手のことであり、それは〈Aが自分の取引銀行業者に持っている債権〉のことである。だからもしそういう意味なら、大谷氏の述べていることは、〈Aのもつ債権とAのもつ債権との相殺が行われる〉などという無意味な同義反復を述べていることになる。

 大谷氏はマルクスが〈Aが自分の取引銀行業者に持ってる債権〉と述べていることを、〈Aのもつ債権〉と言い換えているが、それが今ではその預金を目当てに振り出した小切手としてBの取引銀行業者の手にあることが分かっていない。そしてマルクスが〈この銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権〉と述べていることを、〈Bの取引銀行業者の債権〉と簡単に言い換えたつもりなのかもしれないが、しかしマルクスが述べているのは、〈この銀行業者〉,つまりAの取引銀行業者がBの取引銀行業者に対して持っている債権なのだから、それはBの取引銀行業者にとっては債務なのである(それはBの取引銀行業者が持っているAの振り出した小切手が、Aの取引銀行業者にとっては債務なのに対応している)。だから〈Bの取引銀行業者の債務〉という方が本当は正しい。いずれにせよ大谷氏の説明ではチンプンカンプンなのである。

 さらに大谷氏の混乱は続く。

 〈にもかかわらず,マルクスはこの第2の場合にも「Aが預金した貨幣は……貨幣機能を果たした」と言っている。なぜであろうか。それはさきに見たように,この相殺によってAの預金が5000ポンド引き落とされたときに,Aが預金した貨幣は,可能的にではなく現実に,貨幣機能を果たした,と言いうるのだからである。この場合の貨幣機能とは,さきに見たように流通手段としての貨幣の機能である。〉

 しかしこうした預金の振り替えによる相殺をマルクスは決して預金が流通手段として機能したなどとは説明してないことを、われわれは第29章該当個所の草稿(われわれが解読のために便宜的に打ったパラグラフ番号では【28】)の解読のなかで確認した。マルクスは次のように述べていたのである。

 〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉。

 ここではマルクスは明確に〈預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけである。だから預金は決して流通手段として機能するのではない。むしろそれらは貨幣の支払手段としての機能にもとづいた操作なのである。こんな誤った理解をしているから、大谷氏はブルジョア的な用語である「預金通貨」といったものを肯定し、彼らに追随することになってしまっているのである。

 ところで大谷氏の解説は以上で終わったわけではない。さらに次のように念を押している。

 〈マルクスはこのように,小切手による商品の購買のさいに小切手の金額が預金から引き落とされたときに,預金が貨幣として,流通手段として機能した,と言うのである。小切手が流通手段として機能するのではなく,預金が流通手段として機能するのである。これを,預金通貨として機能する,と言い換えることも許されるであろう。マルクス自身は預金を「預金通貨」と呼ぶことはしなかったが,「III)」のここでの彼の記述からは,彼が,預金の通貨機能を認めていたことを明瞭に読み取ることができるのである。〉 (同書362頁、但し下線は大谷氏による傍点による強調個所)

 われわれが確認してきたように、マルクス自身は一言も預金が〈流通手段として機能した〉とは述べていない。にも関わらず大谷氏は、マルクスの言っていないことを、マルクスが〈言う〉と主張しているのである。こんな大谷氏だからこそ、〈マルクス自身は預金を「預金通貨」と呼ぶことはしなかった〉ことを認めざる得ないにも関わらず、マルクスは〈預金の通貨機能を認めていた〉とも強弁するのである。マルクスに対する自分の無理解をよそに、勝手な解釈を押しつけて、それがマルクスの主張だと言い張るなら、そんな大谷氏にエンゲルスを批判する資格はないと言わざるを得ない。

 もう一度確認しよう。マルクスは確かに〈Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たした〉と述べている。一方では、Aの預金はすぐにその取引銀行によって利子生み資本として貸し出され、その借手のもとで現実の貨幣として機能するからであり、他方ではそれはAとBとの信用取り引きの振替決済に利用されるからである。この場合の取り引きは貨幣の支払手段としての機能にもとづいているのである。〈貨幣機能〉と言ってもいろいろあるというものである。価値尺度や計算貨幣としての機能や、流通手段としての機能等々。しかし流通手段としての機能は鋳貨機能であり、預金がそうしたものでないことは明らかである。預金が債権として果たす役割は、マルクスはそれを〈ただ債権の相殺によってのみ〉と述べているように、貨幣の支払手段としての機能にもとづいたものなのである。なぜなら、マルクスが〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした〉と述べていたように、債権者と債務者という関係は、貨幣の支払手段としての機能から形成されるものだからである。ここには貨幣の流通手段としての機能などないのだ。こうした基本的なことが大谷氏に理解されていないことはただただ驚きでしかない。

 以下の引用文は、先に見た第29章該当個所の草稿の解読のなかで、私のT氏へのメールの中で引用しているものであるが、大谷氏も「信用による貨幣の節約」を説明するなかで引用している一文でもある。マルクスは次のように述べている。

 〈たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くことにもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払いの集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ二つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。〉 (大谷本365頁)

 このようにマルクスは振替という方法は、〈完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている〉と述べている。また〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである〉と、手形と小切手とを振替決済を行う信用用具として同等に取り扱っている。こうしたマルクスの主張を踏まえれば、大谷氏の主張がどれほどマルクスのものとかけ離れた奇妙なものになっているかが分かるであろう。大谷氏はマルクスが貨幣の〈節約が最高の形態で現われる〉と述べているものを、そのこと自体を「通貨」というのであり、そうなれば、マルクスが指摘している貨幣(通貨)の節約の意味がまったくなくなってしまうことになる。こうした矛盾に気づかないのはただただ不思議としか言いようがない。ブルジョア的なものに影響されていなければ幸いではあるが……。

 ついでに大谷氏が補足的に述べていることも検討しておこう。次のように述べている。

 〈なお,上の例では,AがBに小切手を振り出すのはAがBから商品を買ったものと仮定したので,預金は狭義の流通手段として機能したということになっているが,AがBに小切手で債務を支払ったのだとすれば,預金は支払手段として機能することになる。しかし,支払手段は広義の流通手段に含まれるので,預金は広義の流通手段として機能したと言いうる。「預金通貨」における「通貨」の機能は広義の流通手段なのである。〉 (362頁)

 Bの商品が現金と引き換えではなく、Aの振り出した小切手、すなわち〈書面での……支払約束と引き換えに売られ〉たのは、BがAに信用を与えたからである。つまりこの取り引きは信用取り引きなのであり、AはBに対する債務者であり、BはAに対する債権者である。Bがその小切手をAの取り引き銀行に持参して現金の支払を受けて、初めてBの商品価値は最終的に実現するのである。Bが小切手を受け取った時点では、Bの商品価値は小切手という形での実現でしかない。だからそれは最終的な実現ではないのである。それはAがBから商品の譲渡を受けて、〈書面での一定期日の支払約束〉である手形を振り出した場合と基本的には同じなのである。手形も小切手も諸支払を決済するための信用諸用具の一つである。大谷氏はこうした貨幣の支払手段としての機能から生じている信用関係をまったく見ていないのである。

(以上)

2016年10月14日 (金)

現代貨幣論研究(10)

「預金通貨」概念を擁護する大谷氏の主張の批判的検討 (2)

◎大谷氏の説明の批判的検討

 それでは大谷氏の説明を検討して行こう。
 まず大谷氏は、信用による貨幣の節約について、マルクスはエンゲルス版の第27章部分で箇条書き的にまとめていることを指摘している。だからわれわれもそのマルクスの草稿を見てみることにしよう(マルクスは改行をせずに書いているが、われわれは分かりやすくするために改行を入れて整理して紹介しよう)。

 〈II)流通費の節減。

 A) 一つの主要流通費は,自己価値であるかぎりでの貨幣そのものである。信用によって三つの仕方で節約される。

 a)取引の大きな一部分で貨幣が全然用いられないことによって。
 b)金属通貨または紙券通貨の流通が加速されることによって。(これは,部分的には,c)で述べるべきことと一致する。すなわち,一面では加速は技術的〔technisch〕である。すなわち,実体的な〔real〕商品流通が,あるいは事業取引の量が変わらないのに,より少ない総量の銀行券が同じ役だちをするのである。このことは銀行制度の技術と関連している。他面では,信用は商品変態の速度を速め,したがってまた貨幣流通の速度を速める。)
 c)金貨幣が紙券で置き換えられること。

 B) 信用によって,流通または商品変態の,さらには資本の商品変態のさまざまの段階が速められること(したがって再生産過程一般が速められること)。{他面では信用は,購買と販売という行為をかなり長いあいだ分離しておくことを許し,したがってまた投機の基礎として役だつ。} 準備ファンドの縮小。これは二つの面から考察することができる。A)では,通貨の減少として,B)では,資本のうちの絶えず貨幣形態で存在しなければならない部分の削減として。/〉(大谷新著第2巻287-288頁)

 ここで項目的に挙げているものを、マルクスは「III)」では具体的に述べていると大谷氏は指摘している。そしてそれぞれの項目ごとに、「III)」から関連する部分を引用・紹介している。それはかなり長い引用になっているが、ここで詳しく紹介することは割愛したい(興味のある方は各自同書を検討していただきたい)。われわれにとって当面の問題として興味深いのは、そのあと大谷氏が〈預金が果たす貨幣機能〉について触れている問題である。大谷氏は次の一文を紹介し、その内容を解説している。まず大谷氏が抜粋している一文を紹介しておこう。

 〈「5000ポンド・スターリングを預金したAは,小切手を振り出すことができる(彼がその5000ポンド・スターリングを〔現金で〕もっていた場合と同じにそれを自由に処分することができる〔)〕。そのかぎりでは,5000ポンド・スターリングは彼にとって,可能的な貨幣として機能する。しかしいずれにせよ,彼はそれだけ自分の預金をなくすわけである。彼が現実の貨幣を引き出すとすれば,そして彼の貨幣は貸し付けられているのだとすれば,彼は自分の貨幣で支払いを受けるのではなく,他人が預金した貨幣で支払いを受けるのである。彼が取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取引銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たしたわけである。第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人の手で。第2には,A自身の手で。第2の機能では,それは,貨幣の介入なしに行なわれる,債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である。この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そして貨幣への請求権として,働くのである。預金が貨幣(それ自身がこれまた他人の現預金から実現される,というのではない貨幣)へのたんなる請求権として働くことができるのは,ただ債権の相殺によってのみなのである。」(MEGAII/42,S.588-589;本書本巻521-523ページ。)〉(大谷新著第3巻360-361頁、ただし下線はマルクスによる強調、太字は大谷氏による強調)

 大谷氏のこの引用文に対する解説を検討する前に、我々としてはまずこの一文をしっかり解読してみよう。この一文を読んで気づくのは、われわれが先に確認のために紹介した第29章該当部分の草稿からの引用文と同じことを、ここでもマルクスが述べているように思えることである。今回、マルクスが〈Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たした〉として述べている内容は、先に見た【28】パラグラフで〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたことと同じように思えるのだが、果たしてどうであろうか。それを検討してみよう。

 【28】パラグラフでマルクスが〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたことは、もう一度確認のために、但し今回の引用文と比較するために具体例を同じにして述べてみると、Aが預金した5000ポンドはすぐに銀行から利子生み資本として貸し出されて、銀行にはただ帳簿上の記録があるだけだが、しかし、その帳簿上の記録がもう一つの役割(つまり諸支払を相殺するという役割)を演じるのだというものであった。つまりここで〈二重の役割〉というのは、5000ポンドは現実の貨幣としては銀行によって利子生み資本として貸し出されてしまうこと、つまり利子生み資本としての役割である。もう一つはその現実の5000ポンドのいわば“脱け殻”にすぎないのだが、銀行の帳簿上の記録が諸支払を相殺する役割をも果たすということであった。

 しかし今回の引用文では、そこらあたりがやや分かりにくいものになっている。今回もAが預金した5000ポンドはすぐに貸し出されるとマルクスは想定しているように思える。だからもしAが自分の預金を引き出したとしてもそれは彼が預金した5000ポンドではなく、他の誰かが預金した5000ポンドだろうとも述べていることからもそのことが分かる。つまり今回もAの5000ポンドの預金は現実の貨幣としては、すぐに銀行から貸し出されて、利子生み資本としての役割を演じることは想定されているのである。しかしそのことをここではマルクスは必ずしも強調しているわけではないようにも思える(だから後に見るように、大谷氏はそれを見落としたのであろう)。そういうことから、ここでマルクスが〈Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たした〉として述べている内容は、必ずしも【28】パラグラフでマルクスが〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたものと同じとはいえないような印象を受けるのである。だからこそ、我々としては、今回の引用文をさらに詳しく吟味してみなければならない。われわれは問題を厳密に吟味し、整理するために、問題ごとに箇条書き的に検討を進めることにしよう。

 (1) まずマルクスは〈5000ポンド・スターリングを預金したAは,小切手を振り出すことができる〉と述べ、〈そのかぎりでは,5000ポンド・スターリングは彼にとって,可能的な貨幣として機能する〉と述べている。そしてそれは〈彼がその5000ポンド・スターリングを〔現金で〕もっていた場合と同じにそれを自由に処分することができる〉とも述べている。しかしそもそもAが預金した5000ポンドはすぐに銀行によって貸し出されてすでに銀行にはないのである。彼は小切手を振り出すことはできるが、しかし小切手は決して現金ではない。それはそれを受け取ったBにとっては貨幣へのたんなる請求権でしかなく、AからいうならBに対する支払約束でしかない。だからこの場合は、AはBから信用を受けているのである。そして銀行がBの持参した小切手に現金を支払えば、その時点でAの預金はなくなり、AのBに対する債務は決済されたことになる。しかしその時点で銀行が支払う現金5000ポンドはAの預金したものとは限らず、恐らく他人の預金したものであろう。マルクスが〈可能的な貨幣として機能する〉と述べていることの実際の内容はこうしたものであろう。

 (2) 次にマルクスは〈彼が現実の貨幣を引き出すとすれば,そして彼の貨幣は貸し付けられているのだとすれば,彼は自分の貨幣で支払いを受けるのではなく,他人が預金した貨幣で支払いを受けるのである〉とも書いている。つまり預金は、その預金者が必要な時はいつでも現金で引き出せるものである。だからその限りでは預金は〈可能的な貨幣〉といえる。つまりAにとっては準備状態にある貨幣である。だから預金としてある段階では、貨幣としてはあくまでも可能的なものであり、実際に引き出された時点では、その預金は失われ、引き出された現金こそが貨幣としての機能を果たすわけである。これは当たり前の話である。だからこれを預金の貨幣的機能と敢えていうなら、それは蓄蔵貨幣としての機能であろう。

 (3)上記の議論を受けて、次にマルクスは次のように述べている。

 〈彼が取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取引銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たしたわけである。第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人の手で。第2には,A自身の手で。〉

 ここで問題なのは〈第一には〉としてのべている〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉とは誰のことかということである。Bが受け取るのは小切手だからBでないことは確かである。とするなら、やはりそれは〈Aが預金した貨幣を〉Aの取引銀行がすぐに利子生み資本として貸し出した〈〉でしかない。それまでの叙述では、マルクスはこのAの預金した5000ポンドが銀行によって利子生み資本としてすぐに貸し出されるということについてはあまり論じていないが、しかし、それ以外には考えようがないであろう。だからこの限りでは、やはりここでマルクスが〈二度貨幣機能を果〉すとのべているのは、【28】パラグラフでマルクスが〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたことと同じ内容を述べていると考えられる。というのはここで〈第2には,A自身の手で〉と述べているのは、そのあとに続く文章で〈第2の機能では,それは,貨幣の介入なしに行なわれる,債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である〉と述べていることを見ても、その前で述べていたこと、すなわち〈彼が取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取引銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換する〉場合のことであることは明らかだからである。

 (4) だから引き続く文章もその内容は明らかである。

 〈この場合には,預金は2度貨幣として,すなわち,現実の貨幣として,そして貨幣への請求権として,働くのである。預金が貨幣(それ自身がこれまた他人の現預金から実現される,というのではない貨幣)へのたんなる請求権として働くことができるのは,ただ債権の相殺によってのみなのである。〉

 ここでマルクスが〈現実の貨幣として〉と述べているのは、Aの預金5000ポンドが銀行によってすぐに利子生み資本として貸し出されて、そこで〈現実の貨幣として〉演じる働きのことである。そして〈貨幣への請求権として,働く〉というのは、マルクスが〈第2の機能〉と述べていることであろう。ここで〈それ自身がこれまた他人の現預金から実現される,というのではない貨幣〉という説明は、要するにA自身が自分の預金を引き出すということであろう(Aの引き出した預金は実際には〈他人の現預金〉である)。Aの預金はA自身がいつでも現金を引き出せるという意味では、Aにとっても貨幣の請求権としてある。だからここで述べているのは、そういう場合ではないケースということであろう。そしてその場合は〈ただ債権の相殺によってのみ〉働くというのは、われわれにとっては【28】パラグラフの一文の分析でも明らかである。

 だから結論として言えるのは、今回の引用文でマルクスが預金は〈二度貨幣機能を果す〉と述べていることは、【28】パラグラフでマルクスが〈預金そのものは二重の役割を演じる〉と述べていたことと同じ内容を述べているのだということである。

 そこでこの両者を比較するために図式化してもう一度整理して書いてみよう。

●《【28】パラグラフの記述》=預金そのものは二重の役割を演じる〉

 ①〈一方ではそれは,……利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。〉
 ②〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する。〉

●《今回の引用文の記述》=〈Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たした〉

 ①〈第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人の手で〉この場合、預金は〈現実の貨幣として……働く〉。ここでマルクスが〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉と述べているのは、銀行から利子生み資本として貸し出されたAの預金5000ポンドを受け取った人のことである。
 ②〈第2には,A自身の手で。第2の機能では,それは,貨幣の介入なしに行なわれる,債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である。〉この場合、預金は〈貨幣への請求権として,働くのである。預金が貨幣へのたんなる請求権として働くことができるのは,ただ債権の相殺によってのみなのである。〉

(続く)

2016年10月13日 (木)

現代貨幣論研究(9)

「預金通貨」概念を擁護する大谷氏の主張の批判的検討(1)

【はじめに】

 今年(2016年)の6月、大谷禎之介氏は『マルクスの利子生み資本論』全4巻(桜井書店)を上梓された。氏がながい年月をかけて研究され、『経済誌林』に発表されてきた『資本論』第3部第5章(現行版では第5篇)の草稿の一連の研究をまとめられたものである。
 私自身はそれをいま研究途中であり、いずれはそれに対する何らかのまとまったものを発表したいとは思っているが、しかし、それは膨大な研究成果であり、なかなか一筋縄では行かないものでもある。だからとりあえず、いわば“つまみ食い”的に問題を取り上げてみようと思いついた。今回は、現代貨幣論研究の連載に関連するテーマを取り上げてみよう。
 同書の第3巻はエンゲルス版の第3部第28章、第29章、第30-32章に該当する草稿を取り扱ったものである。それ以外にも関連するさまざまな論考が「補注」や「補論」とし付属している(例えば第30-32章の解説の「3 若干の基本的タームについて」の「(7)産業循環」の項目につけられた「補注 第3部第1稿第3章での利潤率傾向的低下の法則とその貫徹形態との解明」などは今回新たに執筆されたもののように思われる)。
 ここではその同じ第30-32章の解説の中の「4 マルクスは「III)」でなにを明らかにしているか」という項目の「(6)信用による貨幣の節約 預金の貨幣機能」を取り上げたい。
 この部分はいわゆる「預金通貨」に関連する問題を取り扱っている。以前にも、いろいろな機会に大谷氏が「預金通貨」概念を本来はマルクスも科学的なタームとして認めていたのに、エンゲルスは意図的にその部分を削除しているとして、「預金通貨」はマルクス経済学としても有効なものだとして、それを擁護していることは度々指摘し、批判してきた。ここではそれがある意味まとまった形で、マルクスの草稿に依拠する形で論じられており、果たしてそうした大谷氏の草稿の読み方は正しいのかどうかを検討したいと思うのである。

◎ 第29章該当部分の草稿における「預金」

 大谷氏の当該論文を批判的に検討する前に、その準備作業として、マルクス自身の主張を理解しておこう。以前、第29章該当部分の草稿の解読において、マルクスが「預金」ついて論じている部分を解説したものを確認のために紹介しておきたい。そこでも「預金通貨」について批判的に検討したからである。すでに読まれた方には重複することになるが、その場合は飛ばして読んでいただきたい。それは次のようなものであった(但し、今回再掲するに当たり、当面の問題、つまり「預金通貨」に関連する部分だけに絞って、それ以外のものは削除したので、もし全体をお読みいただくなら、ここを参照していただきたい。)

【28】

 〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる。準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式仲買人)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)。預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)。〉

 このパラグラフは、【25】パラグラフで銀行業者の「資本」の最後の部分をなす「現金」について、「預金」とその「貨幣準備」との関連が考察されたが、それを踏まえ、【27】パラグラフで「準備金」が考察されたのに対応させて、【28】パラグラフでは「預金」が考察の対象になっているものである。そしてこの部分は現代的な問題でもあるいわゆる「預金通貨」の概念とも深く関連してくるのである。

 (前半部分の考察は略)

 その次からは預金の機能が考察されており、極めて重要である。

 預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。〉

 ここでマルクスは〈預金そのものは〉と書いているが、これはその前の〈この預金は〉という場合とは若干異なる。その前の場合は、「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味であった。しかし今回の〈預金そのものは〉は、それだけではなく、預金として銀行の帳簿に記録されたものも含まれているわけである。そしてその上でそれは〈二重の役割を演じる〉とされている。
 一つは「預金された貨幣(金または銀行券)」は、すでに見たように、利子生み資本として貸し出される(有価証券の購入も利子生み資本の運動であり、よってその貸し出しである)。だから銀行業者の金庫の中にはそれらはなくて、ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定として銀行の帳簿のなかにあるだけである。預金は銀行にとっては債務であり、預金者は銀行に債権を持っていることになる。預金は銀行にとって負債の部に入るわけである。そしてこの銀行の帳簿上にある預金の記録が独特の機能を果たすわけである。すなわち--

 〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)〉。

 この預金の機能こそ、世間では「預金通貨」と言われているものなのである。具体的な例で紹介しよう。

 今、銀行Nに商人aと商人bがそれぞれ預金口座を持っていたとしよう(この場合、マルクスも述べているように、a、bが別々の銀行に口座を持っていても基本的には同じであり、ただ若干複雑になるだけである)。今、商人aは商人bから商品を購入した代金100万円をN宛の小切手で支払うとしよう。すると商人bはその小切手をNに持ち込み、預金する。するとNはaの口座から100万円を消し、bの口座に100万を書き加える。そうするとaとbとの取引は完了したことになる。この場合、aの預金はbに支払われたのだから、預金が「通貨」として機能したのだ、というのが預金通貨論者の主張なのである。しかしマルクス自身は、こうしたものを「預金通貨」とは述べていない。ただ〈たんなる記録として機能する〉と述べているだけである。実際、預金は決して「通貨」のようにaの口座からbの口座に「流通」したわけではない。ただ帳簿上の記録が書き換えられただけなのである。だからここでは貨幣はただ計算貨幣として機能しているだけなのである。

 ただここに問題が発生する。マルクスは〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは〉と述べているが、しかし今見た具体例では何も相殺もされていないではないか、というのである。ただaの口座がbの口座に振り替えられただけであって、aがbに100万円の貸しがあり、同じようにbもaに100万円の貸しがあり、それらが互いに相殺されたというようなことではない、だから先の具体例は、マルクスがここで預金がただ記録として機能する場合とは異なるのであり、先の具体例には「相殺」の事実は無く、あくまでも預金そのものが支払手段として、よって「通貨」として機能したと捉えるべき事例なのだ、というのである。果たしてそうした主張は正しいのかどうか、それが問題である。
 実は、この問題については、私とT氏との間で長い論争があり、まだ決着がついたとはいえないのであるが、その紹介は後に譲って、もう一人の預金通貨論者である大谷禎之介氏に登場してもらうことにしよう。

 「預金通貨」の概念を肯定する大谷氏は「信用と架空資本」の(下)で次のように述べている。少し長くなるが紹介しておこう。

 〈草稿317ページの下半部には,さらに,上の「a)」と「b)」との両方への注記として書かれた「注aおよびbに」という注がある。この注にある引用はボウズンキットからのものであるが,そのうちのはじめの2つ(82ページ, 82-83ページ〉は,エンゲルス版には取り入れられていない。この省かれた2つの引用の存在は注目に値する。第1のものは次のとおりである。
 「預金が貨幣であるのは,ただ,貨幣の介入なしに財産(property)を人手から人手に移転することができるかぎりでのことである。」
 ボウズンキットの原文ではここは次のようになっている。
 「預金が流通媒介物の一部をなすことについてのいっさいの問題は,私には次のことであるように思われる,--預金は,貨幣の介入なしに,財産を人手から人手に移転することができるのか,できないのか? 貨幣の全目的が預金によって,貨幣なしに達成されるかぎりでは,預金は独立の信用通貨をなすものである。預金が貨幣によって支払をなし遂げ,財産を移転するかぎりでは,預金は通貨ではない。というのは,後者の場合には,支払をなすのは銀行券または鋳貨であって,預金ではないからである。」(J.W.Bosanquet,Metallic,Paper,and Credit Currency,London 1842,p. 82.)
 ボウズンキットは,「金属通貨」と銀行券たる「紙券通貨」とから為替手形と預金とを「信用通貨」として区別するが,この後者の2つは,それらが「貨幣なしに財産を人手から人手に移転する」かぎりで「通貨」たりうるのだとしている。マルクスがここを要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」(?どうして「貨幣」ではなくて「通貨」なのか--引用者)として機能しているのだ,という観点によるものであろう。
 上に続く要約・引用の部分では,貸付のために設定された預金はそれだけの通貨の増加であるとされている。
 「預金は,銀行券または鋳貨がなくても創造されることができる。たとえば,銀行家が不動産所有証書等々を担保として6万ポンドの現金勘定を開設する。彼は自分の預金に6万ポンドを記帳する。通貨のうち,金属と紙との部分の量は変わらないままだが,購買力は明らかに6万ポンドの大きさまで増加されるのである。」
 以上の2つの引用が注目に値するのは,さきの本文パラグラフに関連してマルクスが手形のみならず預金をも考慮に入れていたことが,これによってはじめて明らかとなるからである。信用による貨幣の代位,貨幣機能の遂行は,信用制度のもとでは,銀行券流通と預金の振替という新たな形態をもつようになるが,その基礎が手形とその流通とにあるのだということ,このことをマルクスがここで考えていたことは疑いない。
(「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(下)10-11頁)

 大谷氏はマルクスがボウズンキットから要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりでは、それは「通貨」として機能しているのだ,という観点によるものであろうと考えている。つまりマルクスも預金は通貨として機能するという観点に立っていたのだが、しかしエンゲルスは、意図的にそうした預金の通貨としての機能について述べている部分をカットしているのだ、と言いたいのである。

 しかし、今回の【28】パラグラフを見ても分かるが、マルクス自身は預金の振替について、〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけであって、決して〈「通貨」として機能する〉とは述べていないのである。これを「通貨」というのは、「通貨」概念の混乱でしかないのである。

 では、先に紹介した問題はどのように考えたら良いのであろうか。先の具体的な例は、果たしてここでマルクスが述べているような「相殺」の事例といえないのかどうかである。この点については、これまで私とT氏との間で一定の長い込み入った議論があるが、その一部を紹介することにしよう。次に紹介するのは私のT氏に宛てたメールである。

 【Tさんは大要次のように主張します。a、b間の預金の振替の場合は「相殺」ではない(aの預金が減って、bの預金が増えただけだから)。マルクスが29章で預金が「単なる記録として機能する」として述べているのは、「相殺」されるケースだけであり、だからこの場合はマルクスが述べているケースには当てはまらない。この場合は、「相殺」ではないのに、現金が介在しないケースとして捉えるべきであり、だからこの場合は、マルクスが論じている預金の「二番目の役割」とは異なり、いわば「三番目の役割」ともいうべきものである。この場合、aの預金は「支払手段として流通した」と捉えることができる(実際、aの債務は決済されており、aの預金はaの口座から、bの口座に「移動」したのだから、これを「流通した」と言って何か不都合があるだろうか)。だからこの決済に利用された預金は「広い意味での流通手段」ということができ、だから「預金通貨」と言っても何ら問題ではない、と。
 さて、ここでTさんが預金が決済に使われながら「相殺」にならないケースとして述べているのは、もう一度具体例を上げて言うと次のようなものです。aはbから100万円の商品を購入するが、その支払をaの取引銀行であるN銀行に宛てた100万円の小切手で支払い、それを受け取ったbはやはり自身の取引銀行であるN銀行にそれを持ち込んで預金する、するとaの預金口座からは100万円が減り、bの預金口座には100万円が追加される、つまりここでaの預金100万円はbの口座に「流通」し、aのbに対する債務を決済したのだから、aの預金100万円は支払手段として機能したのである。だから預金はこの場合は「広い意味での流通手段」であり、「通貨」として機能したといえる。だから「預金通貨」という概念は有効である、とまあ、こういう話なわけです。
 問題なのは、a、b間の預金の振替というのは、何も「相殺」にはなっていない。ただaのbに対する債務がaの預金によって(すなわち預金がaの口座からbの口座に「移動」することによって)決済されただけではないか、というTさんの主張です。果たしてこうした主張は正しいのかどうかが十分吟味されなくてはなりません。
 ここで問題なのは、Tさんはaとbとのあいだの債権・債務関係だけを見ていることです。確かにaが同じように信用でbから商品を購入し、その支払を後に現金で行うなら、その場合はその商品流通に直接係わっているのは、その限りではaとbとの二者だけであり、a、bの関係だけを見て論じればよいわけです。しかしTさんの述べているケースは、このケースと同じではなく、a、bは互いに預金口座をN銀行に持っており、その振替で決済を行ったのです。つまりこの商品流通には、N銀行という第三者が最初から係わっているのです。だからわれわれはこの一連の取引を、最初からa・b・Nという三者の関係として捉える必要があるわけです。Tさんは、a、b間の問題に銀行という別の問題を持ち込むと言いましたが、そうではなく、それは「別の問題」ではなく、最初から銀行はa、b間の関係の中に仲介者として存在していたのです。それをTさんは都合よく捨象し、それでいて預金という銀行が介在しないとありえない問題を論じていたというわけなのです。
 だからわれわれは最初からa、b、N銀行という三者の債権・債務関係として先の一連の取引を考えなければならないわけです。それを考えてみましょう。

 (1) まずaが100万円をN銀行に預金します。つまりNはaに100万円の債務を負い、aはNに対して100万円の債権をもちます。

 (2) 次に、aはbから100万円の商品を信用で買う契約をし、商品の譲渡を受けて、それと引換えにNに対する支払指図書(N宛の小切手)をbに手渡します。aは譲渡された商品を消費します(生産的にか、個人的にか)。この場合、aがbに手渡した小切手は、Nにとっては自行の支払約束(手形)ということができます。なぜなら、小切手はaが振り出したものですが、その支払いを実際にするのはN銀行だからです。

 (3) bは受け取った100万円の小切手をNに持ち込み、預金します。すると、Nは自身の支払約束が自分自身に帰って来たので、もはや100万円を支払う必要がなくなります。Nはただaの口座から100万円の記録を抹消し、bの口座に100万円の記録を追記すれば済むわけです。

 このように、この一連の取引は、明らかにNにとっては、自身の振り出した支払約束(手形)が自分自身に帰って来たケース(商人Aが振り出した手形が、商人A→商人B→商人C→商人Aという形でAに帰って来たケース。つまり商人Aが信用で商人Bから商品を購入して約束手形を発行した場合、それを受け取った商人Bが、商人Cから信用で商品を購入して、その代金の代わりにAが発行した手形に裏書きして手渡し、次に商人Cがやはり商人Aから信用で商品を購入してA発行の手形をAに手渡した場合、この一連の商品取引による信用の連鎖は相殺されて、貨幣の介在なしに決済されたことになる場合)と類似していると考えられ、だからそれは相殺されたと考えることができます。だからまたNは現金を支払う必要はなかったのだと言うことができます。だからNはただ帳簿上の記録の操作を行うだけで、一連の取引を終えることができたわけです。だからここでは預金は、明らかに「たんなる記録として機能した」と言うことができるでしょう。マルクスもまた次のように述べています。

 《諸支払が相殺される限り、貨幣はただ観念的に、計算貨幣または価値尺度として機能するだけである。》(『資本論』第1部全集版180頁)。

 この場合、もしbがN銀行と取引がなく、aから受け取った小切手をN銀行に提示して現金の支払いを求めるなら、相殺は成立せず、現金が出動する必要があるわけです。これはCがAとの取引がないため、Bから受け取ったA発行の手形を満期がきたので、Aに提示してその支払いを求めるのと同じであり、やはり一連の債権・債務の取引に相殺が成立しなかったことになるでしょう。

 確かにa-b間では、相殺はないかに見えます。aは自身の債務を決済したに過ぎないからです。しかし同じことは、A→B→C→A間の一連の信用取引を見ても、B-C間だけを全体の信用取引から切り離して見れば相殺はないように見えます。BはCに対する自身の債務をただAに対する自分の債権、すなわちAが発行した支払約束で決済しただけだからです。しかし、A→B→C→Aの一連の債権・債務関係の全体を見るなら、Aの発行した手形がA自身に帰ることによってこの一連の信用取引の連鎖は相殺されており、だからこの一連の取引は現金の介在なしに終わっているわけです。同じことは、N→a→b→Nの一連の債権・債務関係のつながりについても言いうるのではないでしょうか。つまりNの支払約束がN自身に帰ることによって、この信用取引全体が相殺されたので、現金の出動がなかったのだといえるのだと思うわけです。だから信用取引が3者以上にわたり、その取引全体が相殺されている場合、その一連の信用取引の特定の部分だけを全体から切り離して取り出し、その二者のあいだでは相殺はないではないか、と主張する(すでにお分かりだと思いますが、これがTさんの主張です)こと自体が不合理ではないかと思います。

 もちろん、われわれが類似させて検討してきたこの二つの信用取引はまったく同じではありません。A→B→C→Aは商業信用の問題なのに、N→a→b→Nは商業信用に貨幣信用(銀行信用)が絡んでいるからです。だからこれをまったく同一視して論じると恐らく間違いに陥るだろうということもついでにつけ加えておきます。今回はあくまでも債権・債務がつながった一連の信用取引として類似したものとして、そこから類推したに過ぎません。】

 実は、このメールそのものはもっと長いのであるが、後半部分はカットしたのである。その部分で論じている問題はなかなか難しく私自身にもよく分からないところがあるからである。

 もう一つT氏に対するメールを紹介しておこう。

 【これも以前、「預金通貨」と関連して、また前畑雪彦氏の論文にも関連して色々と議論になりました。それに関連する興味深い、マルクスの一文を見つけたので、紹介しておきます。

 〈{通貨〔currency〕の速度の調節者としての信用。「通貨〔Circulation〕の速度の大きな調節者は信用であって,このことから,なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通高〔a full circulation〕と同時に生じるのかということが説明される。」(『通貨理論論評』)(65ページ。)このことは,二様に解されなければならない。一方では,通貨〔Circulation〕を節約するすべての方法が信用にもとづいている。しかし第2に,たとえば1枚の500ポンド銀行券をとってみよう。Aは今日,手形の支払でこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引きしてやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで〔on call〕前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払に役立つ速度は,ここでは,それがたえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている。たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くこと〔suppression〕にもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとついており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払の集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ2つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。一人のビル・ブローカー,たとえば〔オーヴァレンド・〕ガーニ商会の手に800万-1000万〔ポンド・スターリング〕の手形が集中するということは,ある地方でこの相殺の規模を拡大する主要な手段の一つである。この節約によってたんなる差額決済のために必要な通貨〔currency)の量が少なくなるかぎりで,それの効果が高められるのである。〉(「貨幣資本と現実資本」〔『資本論』第3部第30-32章〕の草稿について、165-6頁)

 このマルクスの一文で興味深いのは、マルクスは「銀行券」については「通貨」と述べていますが、しかしそれらが「たえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰」るとは言っていますが、その預金を「通貨」などとは考えていないことです。むしろ預金を使った振替決済を「通貨の節約」と述べていることです。
 さらに重要なのは、手形や小切手にもとづく銀行での預金の振替決済を「相殺」と述べていることです。例えば〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけである〉とマルクスが述べている場合、ここで〈一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替える〉というのは、当然、一方の人の預金の口座から、他方の人の預金の口座に債権を書き替えることを意味していることは明らかでしょう。それをマルクスは〈同じ銀行業者のもとで相殺されて〉いると述べているのです。また銀行が違っている場合もやはりマルクスは〈銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれる〉と述べています。そしてそうしたケースをすべて「通貨」の節約をもたらすものとして紹介しており、通貨としては相殺の〈差額決済のために必要な通貨〉だけを問題にしていることです。だから「預金通貨」論者は、マルクスが「通貨」の節約と述べている同じ過程を、「通貨」そのものであるかに述べていることになります。これを見ても「預金通貨」論がマルクスの主張とは相いれないことは明らかではないでしょうか。】

 いずれにせよ、預金による振替決済は、この【28】パラグラフでマルクスが述べているような相殺が行われているケースなのであり、だからこそ貨幣の介在なしに取引が完了したといえるのである(貨幣は、ただ観念的な計算貨幣あるいは価値尺度として機能したに過ぎない)。そしてこの場合は、マルクスもいうように、預金はただ記録として機能しているだけで、それを「通貨」というのは間違いだということである。

(続く)

« 2016年7月 | トップページ | 2017年7月 »