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2016年10月17日 (月)

現代貨幣論研究(11)

「預金通貨」概念を擁護する大谷氏の主張の批判的検討(3)

 さて、前回のように大谷氏が引用した一文を解読したので、次は大谷氏のこの引用文の解説を検討することにしよう。まず大谷氏は次のようにこの引用文を解説している。

 〈まず,Aが5000ポンド・スターリングの小切手を振り出したとき,5000ポンド・スターリングの預金はAにとって「可能的な貨幣〔money potentialiter〕」として機能する,と言われている。ここで「可能的」というのは,小切手の額が預金から引き落とされたときに,この金額のAが預金した貨幣は貨幣機能を果たした,と言いうるのだからである。この場合の「貨幣としての機能」とは,この預金でBの商品の価格を実現する機能,すなわち流通手段の機能にほかならない。〉 (361頁)

 この大谷氏の一文は簡単には理解可能ではない。大谷氏は預金は流通手段として機能したというのであるが、果たしてそれは正しいであろうか。AがBから商品を現金(金、または法貨としての銀行券、要するに通貨)で支払うなら、その現金は流通手段として機能したといいうるであろう。しかしAが支払うのは小切手である。小切手とは何か、マルクスも述べているように〈貨幣への請求権〉である。つまりAはBから商品を購入したが、すぐに現金では支払わずに、支払を約束する証書を渡したにすぎない。つまりここではAとBは信用取引をやったのである。Aは債務者であり、B債権者である。だからこれらの一連の取り引きは、支払手段としての貨幣の機能にもとづいている。大谷氏にはこの根本的な認識が欠けているように思えるのだが、果たしてどうであろうか。

 だからわれわれは、少し横道に逸れるが、支払手段としての貨幣の機能についてもう一度確認しておこう。マルクスは『経済学批判』で次のように述べている。若干長くなるが、原点に帰るという意味で、われわれはキッチリ理解しなければならない。

 〈売り手(われわれの例ではB--引用者、以下同)は商品を実際に譲渡し、またそれの価格を実現するが、この実現はそれ自身、さしあたってこれまたただ観念的なものにすぎない(われわれの例では、小切手という形での実現である--同)。彼は商品をその価格で売ったのであるが、この価絡はそののちのある確定された時点ではじめて実現される。売り手は現在の商品の占有者として売るのに、買い手(われわれの例ではA)は将来の貨幣の代表者として買うのである。売り手(B)の側では、商品は価格として現実に実現されないのに、使用価値として現実に譲渡される。買い手(A)の側では、貨幣は交換価値として現実に譲渡されないのに、商品の使用価値のかたちで現実に実現される。まえには(流通手段としての貨幣の機能の時には--同)価値章標が貨幣を象徴的に代表したのに、ここでは買い手(A)自身が貨幣を象徴的に代表する。だがまえには、価値章標の一般的象徴性が国家の保証と強制通用力とを呼び起こしたように、いまは買い手(A)の人格的象徴性が商品占有者間の法律的強制力ある私的契約を呼び起こすのである。〉 (草稿集③365頁)
 〈売り手(B)と買い手(A)は、債権者と債務者になる。〉 (同366頁)
 〈だから、商品が現存し貨幣がただ代表されているにすぎない変化した形態のW-Gでは、貨幣はまず価値の尺度として機能する。商品の交換価値は、その尺度としての貨幣で評価される。だが価格は契約上測られた交換価値としては、ただ売り手B)の頭のなかに実在するだけでなく、同時に買い手(A)の義務の尺度としても実在する。第二に、この場合貨幣は、ただ自分の将来の定在の影を自分の前に投じているだけであるとはいえ、購買手段として機能する。すなわち、貨幣は商品をその場所から、つまり売り手(B)の手から買い手(A)の手へと引き出す。契約履行の期限が来れば、貨幣は流通に入っていく。というのは、貨幣は位置を変換して、過去の買い手(A)の手から過去の売り手(B)の手に移って行くからである。だが貨幣は、流通手段または購買手段として流通に入るのではない。貨幣がそういうものとして機能したのは、それがそこにある以前のことであり、貨幣が現われるのは、そういうものとして機能することをやめたあとのことである。それはむしろ、商品にとっての唯一の適合的な等価物として、交換価値の絶対的定在として、交換過程の最後の言葉として、要するに貨幣として、しかも一般的支払手段としての特定の機能における貨幣として流通に入るのである。〉 (同)

 ここではマルクスは買い手(A)自身が貨幣を象徴的に代表すると述べている。つまり買い手(A)は貨幣の支払約束をするのである。買い手の支払約束が売り手からの商品の譲渡をもたらしたのである。売り手は買い手に信用を与え、売り手は債権者、買い手は債務者になった。買い手の支払約束は〈法律的強制力ある私的契約〉にもとづいている。この場合、Aが支払約束の証書として手形を振り出すか、あるいは自身の取引銀行の小切手を振り出すとしても、それらが支払手段としての貨幣の機能にもとづいているという点では同じである。大谷氏に欠けているのは、まさにこの認識である。
 マルクスは第25章該当部分の草稿でも次のように述べていた。

 〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした。(『経済学批判』)。商業が発展し,ただ流通だけを考えて生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて,信用システムのこの自然発生的な基礎Grundlage〕は拡大され,一般化され,仕上げられていく。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち,商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られるのであって,この支払約束をわれわれは手形という一般的範疇のもとに包括することができる。〉 (大谷本第2巻159頁)

 われわれが検討しているAとBとの間にも債務者と債権者との関係が成立していることは明らかである。Bは支払約束にもとづいて、Aに商品を譲渡し、Aは自身の銀行にある預金からの支払を約束して小切手を振り出し商品を入手した。だから小切手もその意味では手形と同様の支払約束なのである。ただそれは約束手形と違うのは、債務者である商品購買者に代わって、支払うのが銀行であるにすぎない。つまり商業信用に、この場合は貨幣信用が絡み合っているわけである。しかしそれが信用関係であることは断るまでもないであろう。大谷氏はこうした信用関係を見ていないように思われる。大谷氏は〈小切手の額が預金から引き落とされたときに,この金額のAが預金した貨幣は貨幣機能を果たした,と言いうる〉というが、しかし商品の譲渡を引き出した(つまり購買手段として機能した)のは、Aが支払約束をした時点、すなわち小切手を振り出した時点であろう。この場合、〈商品は,貨幣と引き換えにではなく,書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られ〉たのだからである。預金が引き落とされるのは、Bが小切手を銀行に持参して現金の支払を求めた時であるが、それはすでに商品が売り渡された後である。だからこそ、この場合は、貨幣は支払手段として流通に入るのである。いずれにせよこれらの一連の取り引きは支払手段としての貨幣の機能から生じていることなのである。だから大谷氏が預金が流通手段として機能したなどというのは明らかに間違いである。マルクス自身はそんなことは何も言っていないのである。

 次に大谷氏は解説を次のように続けている。

 〈次に,Aが「取引銀行業者あての小切手でBに支払い,Bはこの小切手を取り引き銀行業者に預金し,そしてAの取引銀行業者もまたBの取引銀行業者あての小切手をもっており,そしていま,この二人の銀行業者がこれらの小切手を交換するなら,Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たしたわけである」と言われている。この小切手交換の結果,Bの取引業者のもとでBの預金が5000ポンド増加し,Aの取引業者のもとでAの預金が5000ポンド減少した。マルクスは,Aが預金した貨幣は「第1には,Aが預金した貨幣を受け取った人〔すなわちB〕の手で」,「第2には,A自身の手で」,貨幣機能を果たした,と言う。すなわち「第1には」Bのもとで5000ポンドの商品価格が実現した。マルクスはこのことを,Aの預金は「現実の貨幣として」機能した,と言う。すなわち,Bが小切手を受けとったときにはまだ「可能的な貨幣」であったAの預金5000ポンドがいまやBのもとで現実の貨幣になった,と言うのである。これにたいして「第2に」,Aのもとでは,Aの預金は「貨幣への請求権」すなわち債権として働く,と言う。すなわち,この場合には,Aのもつ債権とBの取引銀行業者の債権との相殺が行なわれる。もちろん,この相殺はBにはなんのかかわりもないものである。相殺というのは,貨幣による債権の支払いではない。債権と債権とを互いに帳消しにすることである。だからそれは「貨幣の介入なしに行なわれる」のである。にもかかわらず,マルクスはこの第2の場合にも「Aが預金した貨幣は……貨幣機能を果たした」と言っている。なぜであろうか。それはさきに見たように,この相殺によってAの預金が5000ポンド引き落とされたときに,Aが預金した貨幣は,可能的にではなく現実に,貨幣機能を果たした,と言いうるのだからである。この場合の貨幣機能とは,さきに見たように流通手段としての貨幣の機能である。〉 (同書361-362頁)

 ご覧のとおり大谷氏の理解はわれわれとまったく違ったものになっている。大谷氏は〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉を説明して、〈〔すなわちB〕〉と述べている。しかしBは決して貨幣を受け取るのではない。彼はただAの振り出した小切手を受け取っただけである。しかも彼はそれを自分の取引銀行に預金したのだから、Bは〈現実の貨幣〉を受け取ることは決してないのである(BがAの振り出した小切手をAの取引銀行に提示して支払を受けるなら、Bは貨幣を受け取るであろうが)。そもそもここには現実の貨幣そのものはまったく出てこないケースをマルクスは問題にしているのである。だからマルクスが〈第一に〉と述べている〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉というのは、決してBではない。もしBであるのなら、どうしてマルクスは〈預金した貨幣を受け取ったBの手で〉と書かなかったのであろうか。続けてマルクスは〈第2には,A自身の手で〉と述べているのだから、そしてここではAとBとの取り引きが問題になっているのだから、当然、Bと書いたであろう。だからこの場合、〈Aが預金した貨幣を受け取った人〉とマルクスが敢えて書いたのは、その〈〉というのはBではなく、Aの取引銀行からその預金された貨幣の貸し出しを受けた〈〉なのである。そしてその場合は、その貨幣はその貸し出しを受けた人の手で〈現実の貨幣として〉機能するわけである。
 大谷氏は〈すなわち「第1には」Bのもとで5000ポンドの商品価格が実現した。マルクスはこのことを,Aの預金は「現実の貨幣として」機能した,と言う〉と述べているが、しかしBの5000ポンドの商品価格の実現は、現実の貨幣なしに行われたのである。Bの商品価格の実現は、最初はAの振り出した小切手という形で実現し、さらにBがそれを取引銀行に預金し、AとBのそれぞれの取引銀行間で債権の相殺が行われ、預金の振替が行われた時点で最終的な実現が完了するのである。だからBの商品価値の最終的な実現は、貨幣の支払手段としての機能にもとづいて、商品の譲渡のあとに行われたのである。それはマルクスが第2の機能として述べていることにもとづいている。

 続く大谷氏の説明もチンプンカンプンである。すなわち次のように述べている。

 〈これにたいして「第2に」,Aのもとでは,Aの預金は「貨幣への請求権」すなわち債権として働く,と言う。すなわち,この場合には,Aのもつ債権とBの取引銀行業者の債権との相殺が行なわれる。もちろん,この相殺はBにはなんのかかわりもないものである。相殺というのは,貨幣による債権の支払いではない。債権と債権とを互いに帳消しにすることである。だからそれは「貨幣の介入なしに行なわれる」のである。〉

 Aの預金は確かにAにとっては債権である(銀行にとっては債務)。しかしAはその預金に当てて、小切手を切り、Bに手渡したのである。だからAの債権は、今ではBの持つものになっている。すなわちBの債権である。Bは自分の商品を小切手と引き換えに手渡した。その限りではBはAに信用を与えた。AはBに負った債務を自身の銀行に対する債権で支払ったのである。BはそのAの振り出した小切手、すなわち彼にとっては債権(つまり貨幣への請求権)を自分の取引銀行に預金した。だから小切手は今はBの取引銀行の手にある。だからBの取引銀行はAの取引銀行に対する債権を、すなわち貨幣への請求権を持つことになる。しかし他方でAの取引銀行は、Bの取引銀行の支払義務を負った債権を持っていたので(もちろん、この債権はAともBとも無関係のもので、Aの取引銀行はそれを別の機会に入手したとこの場合は想定されているのである)、それを手形交換所でBの取引銀行の持つ、Aの振り出した自行の支払義務のある小切手と交換する。こうして、両者は互いに相手に対する債権を交換して相殺したのである。だからマルクスは〈債権の(Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権とこの銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権との)相殺である〉と言っているのである。
 〈Aが取引銀行業者にたいしてもっている債権〉というのは、Bの取引銀行業者が持つ、Aが振り出した小切手のことである。それに対して〈この銀行業者(=Aの取引銀行業者--引用者)がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権〉というのは、この場合、AともBとも無関係の別の何らかの取り引きの結果持つことになったものなのである(例えば、Aの取引銀行と取引のあるCが、Bの取引銀行と取引のあるDに信用で5000ポンドの商品を販売し、Dが自身の取引銀行〔Bの取引銀行でもある〕にある自分の預金に当てて小切手を振り出して、Cに手渡し、Cがその小切手を自分の取引銀行〔つまりAの取引銀行でもある〕に預金した結果、Aの取引銀行が持っている〈Bの取引銀行業者にたいしてもっている債権〉、つまりDの振り出した小切手などが考えられる。そしてこの場合、預金の振替は、Aの取引銀行はAの預金から5000ポンドを消し、その分だけCの預金に5000ポンドを書き加え、Bの取引銀行はDの預金から5000ポンドを消して、Bの預金に書き加えるという操作のことをいう。振替は、それぞれの銀行内で行われるのである)。
 だからこの場合、大谷氏がいうように、〈Aのもつ債権とBの取引銀行業者の債権との相殺が行なわれる〉などということではまったくない。大谷氏は〈Aのもつ債権〉というが、それはAの小切手としてすでにBの取引銀行業者の手にあることに気づいていない。だから〈Bの取引銀行業者の債権〉などとも述べているのだが、それは何を意味するのかも十分考え抜いていないのである。それは一体何なのか。Bの取引銀行業者の持っている債権のことか、それならそれはAの振り出した小切手のことであり、それは〈Aが自分の取引銀行業者に持っている債権〉のことである。だからもしそういう意味なら、大谷氏の述べていることは、〈Aのもつ債権とAのもつ債権との相殺が行われる〉などという無意味な同義反復を述べていることになる。

 大谷氏はマルクスが〈Aが自分の取引銀行業者に持ってる債権〉と述べていることを、〈Aのもつ債権〉と言い換えているが、それが今ではその預金を目当てに振り出した小切手としてBの取引銀行業者の手にあることが分かっていない。そしてマルクスが〈この銀行業者がBの取引銀行業者にたいしてもっている債権〉と述べていることを、〈Bの取引銀行業者の債権〉と簡単に言い換えたつもりなのかもしれないが、しかしマルクスが述べているのは、〈この銀行業者〉,つまりAの取引銀行業者がBの取引銀行業者に対して持っている債権なのだから、それはBの取引銀行業者にとっては債務なのである(それはBの取引銀行業者が持っているAの振り出した小切手が、Aの取引銀行業者にとっては債務なのに対応している)。だから〈Bの取引銀行業者の債務〉という方が本当は正しい。いずれにせよ大谷氏の説明ではチンプンカンプンなのである。

 さらに大谷氏の混乱は続く。

 〈にもかかわらず,マルクスはこの第2の場合にも「Aが預金した貨幣は……貨幣機能を果たした」と言っている。なぜであろうか。それはさきに見たように,この相殺によってAの預金が5000ポンド引き落とされたときに,Aが預金した貨幣は,可能的にではなく現実に,貨幣機能を果たした,と言いうるのだからである。この場合の貨幣機能とは,さきに見たように流通手段としての貨幣の機能である。〉

 しかしこうした預金の振り替えによる相殺をマルクスは決して預金が流通手段として機能したなどとは説明してないことを、われわれは第29章該当個所の草稿(われわれが解読のために便宜的に打ったパラグラフ番号では【28】)の解読のなかで確認した。マルクスは次のように述べていたのである。

 〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉。

 ここではマルクスは明確に〈預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけである。だから預金は決して流通手段として機能するのではない。むしろそれらは貨幣の支払手段としての機能にもとづいた操作なのである。こんな誤った理解をしているから、大谷氏はブルジョア的な用語である「預金通貨」といったものを肯定し、彼らに追随することになってしまっているのである。

 ところで大谷氏の解説は以上で終わったわけではない。さらに次のように念を押している。

 〈マルクスはこのように,小切手による商品の購買のさいに小切手の金額が預金から引き落とされたときに,預金が貨幣として,流通手段として機能した,と言うのである。小切手が流通手段として機能するのではなく,預金が流通手段として機能するのである。これを,預金通貨として機能する,と言い換えることも許されるであろう。マルクス自身は預金を「預金通貨」と呼ぶことはしなかったが,「III)」のここでの彼の記述からは,彼が,預金の通貨機能を認めていたことを明瞭に読み取ることができるのである。〉 (同書362頁、但し下線は大谷氏による傍点による強調個所)

 われわれが確認してきたように、マルクス自身は一言も預金が〈流通手段として機能した〉とは述べていない。にも関わらず大谷氏は、マルクスの言っていないことを、マルクスが〈言う〉と主張しているのである。こんな大谷氏だからこそ、〈マルクス自身は預金を「預金通貨」と呼ぶことはしなかった〉ことを認めざる得ないにも関わらず、マルクスは〈預金の通貨機能を認めていた〉とも強弁するのである。マルクスに対する自分の無理解をよそに、勝手な解釈を押しつけて、それがマルクスの主張だと言い張るなら、そんな大谷氏にエンゲルスを批判する資格はないと言わざるを得ない。

 もう一度確認しよう。マルクスは確かに〈Aが預金した貨幣は二度貨幣機能を果たした〉と述べている。一方では、Aの預金はすぐにその取引銀行によって利子生み資本として貸し出され、その借手のもとで現実の貨幣として機能するからであり、他方ではそれはAとBとの信用取り引きの振替決済に利用されるからである。この場合の取り引きは貨幣の支払手段としての機能にもとづいているのである。〈貨幣機能〉と言ってもいろいろあるというものである。価値尺度や計算貨幣としての機能や、流通手段としての機能等々。しかし流通手段としての機能は鋳貨機能であり、預金がそうしたものでないことは明らかである。預金が債権として果たす役割は、マルクスはそれを〈ただ債権の相殺によってのみ〉と述べているように、貨幣の支払手段としての機能にもとづいたものなのである。なぜなら、マルクスが〈私は前に,どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され,それとともにまた商品生産者や商品取扱業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか,を明らかにした〉と述べていたように、債権者と債務者という関係は、貨幣の支払手段としての機能から形成されるものだからである。ここには貨幣の流通手段としての機能などないのだ。こうした基本的なことが大谷氏に理解されていないことはただただ驚きでしかない。

 以下の引用文は、先に見た第29章該当個所の草稿の解読のなかで、私のT氏へのメールの中で引用しているものであるが、大谷氏も「信用による貨幣の節約」を説明するなかで引用している一文でもある。マルクスは次のように述べている。

 〈たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くことにもとづいており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払いの集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ二つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。〉 (大谷本365頁)

 このようにマルクスは振替という方法は、〈完全に支払手段としての貨幣の機能にもとづいており,この機能はこれまた信用にもとづいている〉と述べている。また〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである〉と、手形と小切手とを振替決済を行う信用用具として同等に取り扱っている。こうしたマルクスの主張を踏まえれば、大谷氏の主張がどれほどマルクスのものとかけ離れた奇妙なものになっているかが分かるであろう。大谷氏はマルクスが貨幣の〈節約が最高の形態で現われる〉と述べているものを、そのこと自体を「通貨」というのであり、そうなれば、マルクスが指摘している貨幣(通貨)の節約の意味がまったくなくなってしまうことになる。こうした矛盾に気づかないのはただただ不思議としか言いようがない。ブルジョア的なものに影響されていなければ幸いではあるが……。

 ついでに大谷氏が補足的に述べていることも検討しておこう。次のように述べている。

 〈なお,上の例では,AがBに小切手を振り出すのはAがBから商品を買ったものと仮定したので,預金は狭義の流通手段として機能したということになっているが,AがBに小切手で債務を支払ったのだとすれば,預金は支払手段として機能することになる。しかし,支払手段は広義の流通手段に含まれるので,預金は広義の流通手段として機能したと言いうる。「預金通貨」における「通貨」の機能は広義の流通手段なのである。〉 (362頁)

 Bの商品が現金と引き換えではなく、Aの振り出した小切手、すなわち〈書面での……支払約束と引き換えに売られ〉たのは、BがAに信用を与えたからである。つまりこの取り引きは信用取り引きなのであり、AはBに対する債務者であり、BはAに対する債権者である。Bがその小切手をAの取り引き銀行に持参して現金の支払を受けて、初めてBの商品価値は最終的に実現するのである。Bが小切手を受け取った時点では、Bの商品価値は小切手という形での実現でしかない。だからそれは最終的な実現ではないのである。それはAがBから商品の譲渡を受けて、〈書面での一定期日の支払約束〉である手形を振り出した場合と基本的には同じなのである。手形も小切手も諸支払を決済するための信用諸用具の一つである。大谷氏はこうした貨幣の支払手段としての機能から生じている信用関係をまったく見ていないのである。

(以上)

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