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2016年7月

2016年7月24日 (日)

現代貨幣論研究(8)

     §§2011年のセミナーのレジュメを読んで§§

 (以下のものは、たまたまこのブログで連載している「林理論批判」にアップするのに適当なものがないか、昔のノート類を捜している時に見つけたものです。内容を読むと、必ずしも林氏のセミナーのレジュメに沿ってその内容を批判するというより、「現代の貨幣(通貨)」をいかに理解すべきかという問題に対する自分自身のその時の考えを、レジュメを読んだ感想として綴ったものでした。だからむしろテーマとしては「林理論批判」より、「現代貨幣論研究」の方が良いだろうと考えて、このシリーズとして公開することにしました。

 因みに、文書のなかで言及している2011年のセミナーのレジュメの表題は、林紘義氏のものは「中国の資本主義的発展と“元” 問題」、田口騏一郎氏のものは「衰退するアメリカ資本主義--揺らぐアメリカの覇権」というものでした。

 なお、「林理論批判」として昔書いたものを発表してきましたが、このあと発表できるものとしては、かなり手を入れなければならないようなものばかりのようなので、それほど手間をかけるだけの意欲も意義も見いだせないので、当面は、休止することにします。)

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 林紘義氏や田口騏一郎氏のセミナーのレジュメを読むと、相変わらずの間違った理論を前提にしたものであることがわかる。しかし私はそれを批判するだけの理論的な構築を今の段階では出来ていないから、明確な批判は出来ないのである。要するに戦後の不換制下の資本主義の体制を如何にとらえるかということと関連している。金は実際の商品流通の過程から姿を消すわけだが、金は果たして貨幣として依然として通用しているのか、あるいはそうではなくなったのかという問題である。林氏は、結局、金は貨幣として通用していないという現実から出発し、通貨は政府によって管理されていると理解することになる。
 しかしこれはそもそも商品の価値とは何かという問題と密接に関連しているように思えるのである。つまり金を貨幣ではないとする理解は、結局は、労働価値説を否定することに帰着すると私は考えている。しかしそれを明確に論証するだけのものが今の私自身に構築されているわけではないので、その批判がなかなか難しいわけである。

 商品の価値とは、社会の物質代謝を維持するために、社会が自由にできる総労働をそれぞれの与えられた生産力にもとづいて必要な諸分野に配分するべき指標と言うことができる。それは実際には諸商品の交換関係を通じて客観的な法則として自己を貫徹しているような性格のものなのである。だから商品の価値そのものは直接には目に見えるわけではない。それは法則であり、その法則にもとづく一つの社会的実体なのである。自然の諸法則も見えないという点では同じである。それはさまざまな物体を介して自己を現わすのである。例えば重力の法則は、石ころを放り投げると、それが放物線を描くという形で自己を現わしてくる。諸商品の価値もこうした社会の生産関係のなかに貫く法則なのであり、それは諸商品の交換関係を通じて自己を現わすものなのである。そしてそれを人間の目に見えるように現わしているのが貨幣なのである。だから例え金が実際の流通から姿を消したからといって、この法則がなくなるということはありえない。諸商品に価格が付けられており、商品に値札がついていないと、われわれがそれを商品としてとらえることができないという現実は何一つ変わっていない。マルクスは商品に値札が付いているのはどうしてなのかを、その冒頭の商品論で解明したのであるが、ここで解明されている商品の単純な価値形態から展開されて、最終的に到達した貨幣形態、すなわち価格形態というものは、その限りでは金が実際の商品流通の過程から姿を消したからといってなくなるような性格のものではなく、それは商品が商品である限り、そしてそれに値札が貼っている限り、それらの諸商品が売買されて、交換されている現実の中に貫いている法則なのであり、そういう意味での物象的な過程であり、社会的実体なのである。だからこうした意味での貨幣がなくなるなどということはありえないのである。だからわれわれは不換制下のもとでも商品には値札が付いており、そこには「○○円」という値段が記されていることを知っている。これはまさにその商品の価値が尺度されて価格として現わされている現実を物語っているのである。とするなら、マルクスが冒頭の商品論や貨幣論で解明した諸法則がそこに貫いていることを、それは教えているのである。

 実際に、流通過程に金が貨幣として通用している現実が例えあったとしても、金が鋳貨形態をとると、すでに価値を尺度するものとしての金は直接的なものではなく、ある内在的な社会的実体であることをわれわれにも見える形で現わしてくる。例えば実際に流通している金鋳貨に含まれる金量は、流通における摩滅等で、それが流通手段として機能する前提である価値を尺度する金量とは違ってくるからである。だからこの段階で商品の価値を尺度する金量というのは、ある内在的な社会的実体でしかないのである。それは現実に流通している金量そのものではない。しかし金がもっている価値、つまりそれを生産するに必要な社会的な労働そのものが、この場合、商品の価値を尺度する社会的実体としての内在的な金量を規定していることは明らかであり、だからこの限りでは実在する商品金の内在的な価値そのものが問われていることは依然として同じなのである。金そのものは鋳貨として流通している一方で、実際に地金形態でも、商品として売買されており、金の市場価格というものは常に存在したのである。そして金の市場価格は、明らかに現物としての金そのものが商品として売買されていることから生じている。もちろん、その売買の実体の多くは、決して商品としての金の売買ではないこともわれわれは確認しておく必要がある。つまり金が何らかの工業用の生産材料として売買される場合は、確かにそれは商品としての金の売買であるが、しかしそれが例えば海外への支払の決済のために地金を輸出する必要から購買されたなら、それはただ鋳貨形態を地金形態に転換したに過ぎないだけだからである。あるいは蓄蔵するために、金を購入するなら、それは流通形態を蓄蔵形態に転換したに過ぎない場合も同じである。それらの場合は金の商品としての売買は一つの仮象でしかない。しかし、いずれにせよ実際の金の現物が取り引きされるわけである。こうした金の現物が売買される市場が、兌換制の下であろうが、不換制の下においてであろうが、常に存在したことをわれわれは確認しておく必要がある。つまり金の現物が売買されるというのは、そのときの鋳貨なり、あるいはその代理物(例えば紙幣や銀行券)などが、実際の金との関係をその限りでは常に持つし、持たねばならないということであり、鋳貨やその代理物が、実際に代表している金量がその場合には問われているのであり、金の売買という仮象において現われているのだということである。だから金鋳貨であっても、それが実際の金地金との交換において、それが名目的に代表する金量とは違った評価をされることになる。というのは、ここでは流通手段としての金鋳貨が問題なのではなく(それが流通手段として機能している限りは完全量目との貨幣として機能するが)、それが含有する金量そのものが問われており、地金としてしか評価されないからである。だから如何なる社会においても(といっても当然、原始共同体や社会主義社会は除いてであるが)実際の金の現物が取り引きされる金の市場価格こそが、その時々の通貨が--それが金鋳貨であろうが、紙幣であろうが、銀行券であろうが--、どれだけの金量を代理しているのかを常に表しているものなのである。だから例え金鋳貨が流通している場合においても、金の市場価格があまりにも上がりすぎ、その高価格が維持されるならば、法的な度量標準そのものが、それに合うように変更されるような事態が歴史的には生じてきたわけである。

 こうした社会的実体としての貨幣金の存在を前提すれば(つまり法則的に前提される貨幣だ)、そしてそれの何らかの代理物がどれだけの金量を代理しているかは、実際の、金の市場価格がそれを現わしていると捉えるなら、その代理物が制度として金との兌換を保障されているか否かということは、それ自体は実際の通貨(厳密な意味での)の流通にとっては何ら本質的なものではないということが分かってくる。いずれにしても、諸商品の価値は、社会的な実体である貨幣金で尺度されるのである。ただその尺度される過程そのものは、直接的ではないことから、それはなかなか分からないのであるが、しかし、実際には、金鋳貨が流通している場合でも、本当は諸商品が金によって尺度される過程そのものは目には見えていないのである。それは商品交換当事者の背後でなされている客観的な法則的な過程だからである。われわれには直接的には、諸商品には価格が付けられ(値札が貼り付けられ)、そして貨幣金を代理するもの(銀行券等)で、それらが実際に流通させられている現実を知るだけである。もし金鋳貨がそれらの媒介を行っている場合ですら金鋳貨はただ流通に必要な金量を一つの象徴として代理しているに過ぎないのである。そうした実体を知れば、その代理物が兌換銀行券か不換銀行券かということは本質的なものではないことがわかるであろう。

 さて、このようにそれぞれの国内において諸商品の価値を尺度する貨幣金が社会的実体として存在すること、そしてそれがどれだけの価値を内在しており、また実際に流通している貨幣代理物が、実際には流通に必要な金量をどれだけ代理しているのかは、それぞれの国内における金の市場価格がそれを表していることを認めるなら、戦後のいわゆる「管理通貨制度」というものの認識もわれわれは根本的に改める必要があるということがわかってくる。例えば戦後の一時期、制度としてとられてきた1ドル=360円という固定相場制というものの認識もわれわれは変える必要があるのである。

 ただそれを論じる前に、確認しておくべきことがもう一つある。つまり「通貨」の厳密な意味である。「通貨」はさまざまな形で混乱して理解されてきている。「通貨」とは、物質代謝を媒介する貨幣であり、不換制下のもとにおける今日では、日本銀行券(一万円、千円等のお札)と硬貨(100円、500円、10円等)に限定して理解しないといけない。例えば「預金通貨」という言葉があるが、しかし預金は決して通貨ではない。また手形や小切手等の有価証券の類も決して「通貨」ではないのである。だから当然、為替と通貨も同じではないことに注意が必要である。
 国際的な取り引きにおいて、為替はほとんど通貨と同義として論じられている場合が多い。だから国際的な取り引きにおける為替と通貨との区別と関連を理解することは殊更重要なのである。
 通貨は貨幣の流通手段と支払手段とを併せた機能を果たすものであり(広い意味での流通手段)、そうしたものに限定する必要がある。預金もその振替によって支払を決済するから支払手段と捉えられる場合があるが、しかしこれは実際には、預金が通貨として、つまり支払手段として、流通するのではなく、反対に通貨が節約される相殺の過程であると理解する必要があるのである。だから預金通貨というのは概念としては成立しないのである。また小切手や手形、為替等々も諸支払の相殺を行うための信用諸用具であり、むしろ通貨の節約手段として理解すべきである。もちろん、最終的に相殺が成立しないなら、現金、つまり通貨が流通するケースがないとはいえないが、しかし、今日の信用制度が発達した社会では、実際にはほとんどのケースは預金の振替によって相殺されているのである。だから為替は(内国為替も外国為替も)、信用用具の一つであり、通貨を代理してそれを節約するものではあっても、決して通貨と同じではないことに特に注意が必要である。

 そして通貨がそうしたものであるなら、当然、それはそれぞれの国内では国民服をまとっている(例えばドル札や円札がそれである)。だからそれらが国境を越える場合には国民服を脱ぎ捨てて地金形態にもどる必要がある。しかし今日のように信用制度が世界的にも発達した社会においては、地金が国際的にもやりとりされるわけではない。ではどうするのか。地金形態にもどる代わりに、今日では、それらの国民的通貨は、それぞれの国内における金の市場価格に還元されることになる。金の市場価格に還元されるということは、それぞれの国民通貨が実際にその時々に代表している金量に還元されるということである。そしてその上で、今日では、それらの国際的な諸支払は、すべて国際的な預金の振替決済によって、決済されているのである。

 しかしそれを論じる前に、話をもとに戻そう。それぞれの国の通貨はだからそれぞれの国の国内の商品市場の現実において、その「価値」、つまりそれがどれだけの社会的実体としての貨幣金を代理しているのかが決まってくるということがまず押さえられていなければならない。{もちろん、ここでわれわれは「社会的実体としての貨幣金」と述べたが、しかしそれはそれぞれの金市場で売買されている金と何か別のものなのではないこと、それはあくまでも諸商品の価値を尺度する機能を持つものとしては社会的な実体でしかないと述べているだけであることにも注意が必要である。マルクスも商品の価値を尺度するためには観念的な金で十分であると述べているが、同時に、その金は現物の金として流通過程で実際にうろついている必要があるとも述べている。われわれが社会的な実体としての貨幣金と述べているのは、そうした観念的な金のことを、つまり法則的に貫いているものとしての貨幣金のことを指して言っているのであるが、しかし、まただからこそ、それは実際にその国内の金市場で売買されている金の現物の存在を前提しているのであり、それなくてはまた諸商品の価値を尺度する観念的な金の存在もありえないのである。}それは例えば固定相場制をとっていようとも、何か海外の、例えばアメリカのドルによって円が規制され、規定されているわけではないのである。これは例えば、独自の通貨をもたずに、アメリカのドル札そのものを通貨として使っている国、例えばエクアドル(?)であっても、やはり同じなのである。その国内で実際に流通しているドル札がどれだけの金量を代理するかは、決してアメリカによってではなく、そのエクアドル国内の商品流通の現実によって規定されているのである。

 厳密な意味での通貨の「価値」(それが代理する金量)は、その国内の商品市場の現実によって、つまりその国の物質代謝の現実によって規定されているということを踏まえることが肝心なのである。まず商品流通という現実、物質代謝の現実があって、それによって受動的な貨幣があるという原則をここでもわれわれは思い出す必要がある。

 そしてわれわれは、例えば1ドル=360円の固定相場制を例にあげて、考えてみよう。しかし例として考える場合、360円は半端なので、簡単化のために1ドル=400円の固定相場であると仮定しよう。
 まず、不換銀行券である日本銀行券がどれだけの「価値」(もちろん、この場合は内在的なものではなく、それが代理する金量という意味である)を持つかということは、決して、ドルとの固定相場によって規定されているのではない。それは日本国内の商品市場の現実によって決まってくるのであり、規定されているのである。そしてそれを実際にわれわれが知りうるのは、つまり一万円札がどれだけの金量を代理しているのかを知りうるのは、日本国内における金の市場価格以外にはないのである。つまり円がドルとどういう固定相場にあり、そのドルが金とどのように法的に度量基準が決められているかということは何の関係もないということをわれわれは知る必要があるのである。例えば、そのときの金の市場価格が1グラム=400円としよう。そうすると、この場合1万円札は、25グラムの金量を代理しているわけである。
 もし1ドル=400円の相場が、両国の通貨の代理している金量の比率に合致しているなら、アメリカにおいても金の市場価格は、1グラム=1ドルである。しかしこの場合も忘れてならないのは、1ドルが1グラムの金量を代理しているというのは、あくまでもアメリカの国内の商品市場の現実によって規定されているのであり、アメリカ国内における金の市場価格が金1グラム=1ドルになっているというだけのことなのである。それぞれの通貨がどれだけの金量を代理しているのかは、それぞれの国内の事情によって決まるのであって、両国が固定相場制をとっていようが変動相場制をとっていようが、そんなこととは無関係に決まってくるということがまず第一に押さえておかなければならないことなのである。

 その次に確認しなければならないのは、為替相場というのは、決してそのまま両国の通貨の平価(両国の通貨の「価値」(代表する金量)の比率)と同じではないということである。為替というのは、すでに述べたように、有価証券の一種であり、それ自体は、遠隔地間の諸支払を銀行など金融機関を媒介させることによって、現金を輸送せずに決済するための信用用具であり、だからそれらは最終的には預金の振替によって決済され、だから基本的には諸支払の相殺を行うための諸用具である手形や小切手等と同じものなのである。一昔前までは、国際的な諸支払の相殺が最終的に交換尻が会わない場合、金の現送が行われたのであるが、しかし、今日のように信用制度が国際的にも発達している社会においては、実際に、金が現送されるケースはほとんどなく、国際的にも預金の振替による決済が日常的に行われている。
 またそれらが有価証券であるということがわかれば、その売買は、利子生み資本の運動であり、再生産過程の外部の信用にもとづいている貨幣の運動であることもわかる(つまり直接には物質代謝を媒介しているわけではない)。それらは銀行が介在していることからも分かるように、貨幣信用にもとづくものであり、それらが商品の売買を媒介しているからといって、決して直接的な商業信用、つまり再生産過程内の信用ではないのである(商業信用と貨幣信用が絡んでいるとはいえるであろう)。またそれらが利子生み資本の運動であることを理解するなら、為替の需給によってその価格は上下するということ、そしてその上下には原則として限度がないということもわれわれは知らなければならない。
 ただ兌換制度のもとでは、金の現送点を越えて、為替の相場は上下しないが、しかしそれは実際の為替の売買とその価格が為替の需給だけによって規定されていることを否定するものではないのである。金が現送されるか否かは、為替の価格によって規定されており、そして金が現送されることによって、為替の需給に変化が生じ、その結果、それが為替の価格に反作用を及ぼすに過ぎないのである。だからそれは為替の売買とは直接には関係のないところの話に過ぎないのである。それは金の輸出を禁止すれば、たちまち為替相場はそうした現送点を越えて上下することを見れば明らかである。
 だから為替相場そのものは、あくまでも為替の需給によって決まってくるのであって、通貨の価値(代表する金量)とは直接には関係がないのである。ただ通貨の価値は為替の需給を左右する一つの要因であるにすぎない。しかし為替の需給を左右する要因は他にも色々とあるのであり(貿易の収支もその一つである)、だから通貨の価値はその一つであるにすぎないのである。そして重要なことは、通貨の価値が為替の需給を左右する要因であるということは、決してその逆が真であることを意味しない。つまり為替相場自体は決して通貨の価値を規定することはないということである。この原則さえ踏まえていれば、例えば固定相場制をとっているからといって、日本の円の価値(代表する金量)がドルによって規定されるなどということは決してありえないのである。ドルが金にリンクされているから、円もその固定相場によって、間接的に金にリンクしている、などという主張が一時期いわれたが、こうした主張の誤りは明らかであろう。確かに制度的にはそういうことがいえたとしても、別に円は固定相場を介せずとも、国内の商品市場の現実において常に金とリンクしている(つまり金量を代理している)ということが分かっていないために、こうした馬鹿げた主張が言われたのである。つまり国内的には制度的には円は金との度量基準が決められていないから、だから円は金との関係がないと即断してしまったわけである。しかし法的に基準がないからといって、円が如何なる場合も何らかの金量を代理していないこということは決してありえないということが分かっていないのである。もし円が金量を代理しなければ、そもそも通貨として通用しないからである。

 だから固定相場制について言うと、それは次のような事態を意味している。要するに、日本の政府は1ドル=400円という為替相場を上下何%かのラインを維持するように、為替の需給を調整する義務を負うということである。これ以外の何の意味もない。これは政策的にはどんな意味があるかを少し検討してみよう。今、簡単化のために、商品の輸出入はすべてドル建てで行うこととする。つまりドル為替で売買されるわけである。

 具体例に考察する前に、やはりドル建てという場合の意味を考えておく必要がある。これはドルが度量標準になることである。例えば日本の輸出業者が自動車をアメリカに輸出する場合、当然、その自動車の価値を表さなければならない。つまり尺度する必要がある。それをやるのは当然、金による。しかしその金は直接的なものとして現われて来ないし、実際、輸出業者は金を意識することなくそれをやるのである。しかし彼はそれをどうやるかというと、自動車の価値をドルで表すわけだが、そのドルというのは、アメリカの通貨であり、その「価値」、つまり代表する金量はアメリカ国内の商品市場の現実によって規定されているわけである。つまり日本の輸出業者が自分が輸出する自動車をドル建てでその価値を表そうとするなら、彼はアメリカ国内の商品市場の現実によって規定されているドルの代表する金量にもとづいて、自動車の価値を尺度し、その金量をドルで表示することになる。もちろん、アメリカの国内のドルを代表する金量といっても、その金も観念的なものであり、金としては日本の国内の金と同じである。だから問題はようするに商品の価値を尺度する観念的な金を度量する基準が、アメリカ国内の商品市場の現実によって決まってくるものによって、日本の商品の価値を表示するということにすぎない。つまり自動車の価値をドルで表示する。1万ドルだとしよう。輸出業者は自動車を輸出するために船積みを行い、その船荷証券と一緒にアメリカの輸入元にドル為替を切って、それへの署名を要求する。こうして輸出業者はドル為替を入手するわけだが、それを取り引き銀行に持ち寄って預金するのだが、その預金はもちろん円預金だから、そのときの為替相場によって換算されて円預金になる。日本の銀行はそのドル為替を東京の為替市場に交換に出す。アメリカからの小麦の輸入業者は輸入代金を支払うためにドル為替を必要としていたら、それを購入するであろう。ここに為替の売買が成立する。これ自体はあくまでもドル為替という有価証券の売買であって、決して通貨の交換ではない。しかしドル為替を輸出業者は円で購入するのである。だから当然、そこではドルと円とがどれだけの金量を代表しているかが、問われることになる。しかし為替の売買そのものは、こうしたドルと円が代表する金量が基準にはなってはいるが、しがし当事者はそれを意識することなく、ただ直接には為替の需給によってその価格が決まってくるのであり、当事者もそれを直接意識して売買するだけである。だからもちろんいうまでもないが、ここでは決して通貨そのものが交換されているのではない。確かにドル為替を円で購入するためには、ドルと円がそれぞれどれだけの金量を代表しているのかが、問われるし、それを基準に売買当事者は考える場合がないとはいえないが、しかしそのことはドル札と円札を交換する両替とは本質的に違ったことである。もし人がドル札と円札の交換比率を正しく知りたいなら、アメリカ国内における金の市場価格と日本国内における金の市場価格を比較し、その割合に応じて円とドルとの交換比率を決める必要がある(しかしいうまでもないが、実際の金の市場価格そのものもやはりその時々の金の需給の変動によっても変動するのではあるが)。為替の売買においてもこの金の市場価格比が基準になっていることはなっているが、しかし為替の価格そのものは、直接にはその時々の為替の需給によって上下するのである。そして銀行などが行っている両替はその時々の為替相場にもとづいて行っている。だからそれらは実際の両国の通貨の交換比率にもとづいたものとはいえない場合もあるであろう。

 ところで日本の小麦の輸入業者は円で購入したドル為替を輸入代金としてアメリカに輸送する。アメリカの小麦の輸出業者はそのドル為替を自分の取り引き銀行に預金する。この場合はドル為替にもとづくのだから、当然、ドル預金である。その取り引き銀行はアメリカ国内の手形交換所にそのドル為替を持ち込む。そのドル為替には当然、そのドルの支払を行う銀行が記されている(つまり最初に日本から自動車を輸入した業者の取り引き銀行名である)。だからそのドル為替を買い取る義務が、自動車の輸入業者の取り引き銀行にはあるわけである。しかしその取り引き銀行がアメリカの小麦の輸出業者の取り引き銀行が買い取る義務のある為替をもしもっていれば、そしてそれの支払期日や金額が一致すれば、それらは交換所で交換されるだけで相殺されるであろう(その場合はこの両取り引き銀行内における預金の振替で決済されて終わる)。しかし、もし交換所での交換尻が合わなければ、それぞれの取り引き銀行がもっている連邦準備銀行(FRB)の当座預金間での振替によって決済されるのである。つまりドル為替はいずれにしても、そのドル為替 に最終的な支払義務を負う、アメリカの銀行がバックにあるということを前提しており、だからそれらは最終的にはアメリカの手形交換所に持ち込まれて、交換され、そしてその交換所での交換によって相殺されてしまう分については、それぞれの銀行内における預金の振替によって、相殺され、そして交換所での交換で交換尻の合わない分については、最終的にはアメリカの各銀行がFRBにもっている当座預金間の振替によって最終的な決済が行われているのである。

 そしてこれこそがドルが「基軸通貨」であるとか、「国際通貨体制」などといわれていることの実際の内容なのである。「基軸通貨」とか「管理通貨体制」とか「国際通貨体制」などと、「通貨」という用語が使われていることから、あたかもドル札というアメリカ国内で流通している通貨そのものが国際間でも流通しているかの錯覚があるのであるが、これらはすべて間違いである。映画の007の世界でもない限り、アタッシュケースに入れられたドル札が、麻薬の密売や武器の密売で購買手段として機能するようなことは、実際の貿易においては絶対にないのである。だからここには大きな錯覚というか、間違いがある。輪転機をフル回転してアメリカは世界中から商品を買いまくっている、などと田口氏も書いているが、こんなことが現実にあるわけではない。あるいは田口氏も林氏もドルが国際通貨として、国際的な流通手段や支払手段、蓄蔵貨幣として機能するなどとも書いているが、これらはすべて大きな錯覚であり、間違いなのである。すでに書いたように、ドルが基軸通貨であるというのは、国際的な商品の売買で、商品の価値を尺度するときにドルが計算貨幣として機能しているというだけの話である。計算貨幣のためには、実際の貨幣が必要なのではない。例えば国の予算を組む場合に、90兆円の予算を机上で組んだからといって、90兆円の現ナマを机に積み上げるアホがどこにもいないように、計算貨幣というのは、そうしたものなのである。ドルが世界中で商品の売買の基軸になっているということの意味は、それらの商品が「なんぼや」という問いに、「○○ドルや」と答えているというだけの話しである。そしてドル札ではなく、ドル為替が切られるのである。ドル為替において、実際にドルの支払約束をするのは、あるいはできるのは、直接にはアメリカ国内の市中銀行である。だからドル為替を切るためには、アメリカの市中銀行と何らかの取り引きのある業者が介在していない限り、そもそもドル為替そのものが国際的な商品取り引きで流通しないのである。先に上げた例で説明すると、この場合、日本の自動車の輸出業者がドル為替を切ったのであるが、しかしそのドル為替の支払約束をするのは、アメリカの自動車を輸入する業者の取り引き銀行(アメリカの市中銀行)なのである。だからそのドル為替は、最終的にはアメリカに送られて、アメリカ国内の手形交換所で交換されることになるのである。もちろん、日本の自動車の輸出業者が、直接、為替を送るのではない。彼はそれを自分の取り引き銀行(日本の)に預金するだけである。それはそのときの為替相場にもとづいて、円預金として記帳されるであろう。その日本の取り引き銀行は東京の為替市場に、そのドル為替を売りに出す(もちろん、以前、実際に為替の売買をやる銀行や業者は決められていたが、電子化された今日では相対取り引きも実際には行われているらしい)。するとわれわれの例では、アメリカから小麦を輸入する業者がその輸入代金の支払のために、ドル為替を必要としているなら、それを買うわけである。もちろん、この場合も輸入業者が直接買うわけではない。その日本の取り引き銀行が輸入代金の支払を代行するために、買うわけである。そしてそのドル為替がアメリカに郵送されるわけである。そうするとアメリカの自動車の輸入業者の口座から、小麦の輸出業者の口座に預金が振替られて、日本とアメリカの支払が相殺され、決済されることになるわけである。これは実際に行われている国際的な取り引きの実態であり、ドルが「基軸通貨」として機能しているということの実際の内容なのである。だからドルが「基軸通貨」であるとか、「国際通貨体制」などといわれるが、それは直接には「通貨」や「通貨の体制」というより、世界的な決済システムの問題、世界的な信用システムの問題なのである。国際的な決済がアメリカのメガバンクが中心になって行われており、最終的にはアメリカの中央銀行=FRBにあるメガバンクの当座預金間の振替によってなされているということなのである。そしてこのことの意味は、このFRBが世界の信用システムの軸点になっているということでもある。「国際通貨体制」というのは、こうしたアメリカの中央銀行を中心とした世界的な信用システムの体制のことである。だからこれらはドル札という「通貨」とは直接にはまったく関係がないし、ドル札などは国際的にはまったく流通していないのである。最終的にはFRBの当座預金間の振替が行われてすべての支払は決済され、相殺されているわけである。現金が出てくる余地はまったくない。だからその間、ドルはただ計算貨幣として機能しているだけなのである。流通手段としても支払手段としても機能していないし、もちろん、蓄蔵貨幣としても機能していない。そもそもドルが蓄蔵貨幣として機能するというのは、ドル札をタンス預金という形で(あるいは引き出しにしまい込むという形で)蓄蔵することを意味するのである。ドル札を銀行に持ち込んで預金した場合、確かに預金者にとって、それは蓄蔵貨幣として機能しているように見えるかも知れないが、しかしその預金された現金は、決して銀行に留まっていないのである。だからそれは蓄蔵貨幣ではない。ましてや国際的にはそもそもドル札が流通していないし、だれもそれを貯め込むこともできないのである。もちろん、国際的な麻薬密売組織や武器の密売組織などの場合は別ではあろうが。

 林レジュメでは、元の国際化ということが言われているが、もしそれが現実になるとするなら、同じような国際的な決済システムが、中国人民銀行を信用の軸点として、形成されるということでなければならないのである。しかし林レジュメでは、そんなことがまったく分からずに、論じられている。それが証拠に、ユーロ圏とドル圏が同じようなものとして論じられていたりするし、戦前のブロック化と同じような意味合いで論じられたりしている。しかしこれらはすべて無概念の産物であり、くだらないおしゃべり以上ではない。むしろ混乱や間違った観念を振りまいているものでしかないのである。

 こんな馬鹿げたことがセミナーのレジュメに堂々と書かれて、その間違いが、誰によっても指摘されないでまかり通っている同志会の現実というのは、果たしてどう評価したらよいのであろうか。そしてその間違いを指摘する人がいると、彼は林教祖様から、罵られ、罵倒され、攻撃されるわけである。だから誰一人として、「王様は裸だ」という人がなくなってしまっているのが、同志会の今の現実ではないのか。これが一つの頽廃でなくて、何であろうか。

2016年7月17日 (日)

林理論批判(44)

§§§『海つばめ』1110号の関西セミナーの議論の紹介に関連して§§§--続き

 (今回は、前回、林氏の記事の検討の途中で切れていたものの、続きである。)

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 どうも、ついつい、横道に逸れがちになるが、われわれは、マルクスから謙虚に学ぶことを続けよう。

 マルクスは「株式」について、いくつかの説明を行なっている。

 (1)結合資本に対する所有権を表す証券

 (2)現実の資本を表している。すなわち、これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。

 (3)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。

 これらの説明を読むと、(1)と(2)は株式が「表す」ものが(1)は結合資本に対する「所有権」であり、だからこれは現実の株式会社の所有権を表すと考えることができる。(2)は「現実資本」すなわち、これらの企業で機能している資本、またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸されている「貨幣額」となっている。だからこの(2)は(1)の内容をより具体的に見ていると考えることができる。すなわち「現実資本」というのは、「実物資本」、すなわち実際に機能している資本(生産資本)という意味であり、株式はそれを表しているわけである。または、そうした企業で資本として支出されるために前貸された貨幣額を表しているとされている。だからこの後者の場合は、株式の額面が表しているものと考えることができる。そしてこの貨幣額を前貸している主体を「社団構成員」と述べている。つまり「株主」は「社団」を構成し、個人株主はその構成員であるとの認識がここで示されていると考えることができる。この「社団」は今でいう「株主総会」のことであろうか。だから(1)と(2)を総合して考えるなら、現実の株式会社を所有しているのは、個人株主で構成されている社団であると言えるのかも知れない。個人株主は、その社団の構成員として、その持ち株の按分比に応じて、現実資本に対する所有権を持っていると考えることができるのかもしれない。(3)は株式は、この資本(つまり現実の資本、あるいは前貸されている貨幣額)によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、とされている。

 この(3)の書き方には注意が必要である。まず「実現されるべき剰余価値」というのは、これから実現されるであろう剰余価値ということであり、将来生み出されるであろう剰余価値に対する所有権原である。しかも「所有権原でしかない」という書き方は、それはその前の(1)(2)では、結合資本に対する所有権を表したり、現実の資本、または前貸された貨幣額を表したりしているのだが、しかし、実際には将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ、という含意なのである。

 そしてその次に書いていることは、「剰余価値に対する所有権原でしかない」ということを具体例で説明していると考えることができる。株式を最初に所有していたAからBに販売され、さらにBはCに販売した場合、A、Bは権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させたと書かれているが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本(moneyed Capital)に転化させたということであろう。そしてCは彼の貨幣資本(利子生み資本)を《株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである》とされている。つまりCにおいては、株式はたんなる剰余価値に対する所有権原でしかないとマルクスは考えているわけである。

 《(1)国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。/(2)それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。/(3)一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる《払込》金額が100ポンド・スターリングであり,その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5% で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。/(4)しかし,現実の資本の価値増殖を不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券の価格は利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。《というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。》/(5)貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である》(大谷訳27-29頁)

 このパラグラフは長いので、われわれは便宜的にそれを五つの部分に分けて考えるために、「/」を挿入して、それぞれの部分に番号を記した。それにもとづいて考えていくことにしよう。

 まず(1)の部分である。マルクスは架空資本の自立的な運動を、考察しようとしているのであるが、その書き出しを《国債証券であろうと株式であろうと》と書いている。つまりこれから論じる架空資本の自立的な運動としては、国債も株式も同じことが言えるとの認識がマルクスにあることはこれを見ても明らかなのである。ところが、林氏は国債(彼はそれを「債券」などと一般化して論じるのであるが)と株式とでは違うのだということをことさら強調している。そればかりか林氏は国債の場合は架空資本ではないとさえ主張するわけである。こうした主張を聞けば、誰しも、林氏が本当に『資本論』を読んでいるのかどうかを疑うであろう。セミナー当日、私は林氏に対して、「『資本論』をキッチリ読んで下さい」と言ったのであるが、林氏は、そうした私の発言そのものを不穏当なものとして糾弾しているぐらいだから(恐れ多くも林陛下に何ということを言うのか! というわけである)、恐らくそのあとも『資本論』を一つもまじめに検討などせずに、あの『海つばめ』の関西セミナーの報告を書いているのであろう(もし彼が私のいうとおりに『資本論』を読み直し、そして誠実さのカケラでもあるならあのような記事を平気で書けないハズである。『資本論』を一番しっかり勉強していないのは、実は、林氏本人なのである!)。だからこそ「債券」などというブルジョア経済学的な用語を平気で使い、国債(債券)と株式は違うなどと馬鹿げた主張を展開することになっているわけである。国債と株式とが異なることは誰でも分かっていることである。しかし今問題になっているのは、自立的な運動をする架空資本として両者は同じものと考えることができるかどうかなのである。とにかく林氏に言及すると、ついつい横道に逸れてしまうので、これぐらいにして、マルクスの一文の検討を続けよう。

 (1)《国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。

 これを読むと、マルクスは国債も株式も《所有権原》を表しており、その《価値》が《自立的な運動》を行なうと考えている。もちろん、ここで「価値」というのは、それまでマルクスが述べてきた「架空資本」としての「資本価値」のことである。その自立的な運動が《それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する》というのは、《それらを権原たらしめている》というのは、株式も国債もともにそれぞれ名目的な額面価格があり、その額面が株式の場合はその配当率にもとづいて規則的な一定の貨幣額を請求する権原をその所有者に与えており、国債の場合も確定利率にもとづいて、その額面に応じた年間利息を請求する権原をその所有者に与えているということである。つまり株式も国債もそれぞれの額面の名目的な額に応じて、一方は配当率によって、他方は確定利率によって、一定額の規則的な貨幣利得をその所有者が得る権原があるということである。しかし株式も国債も、そうした貨幣請求権とは別に、その架空資本としての資本価値の自立的な運動によって、あたかも《現実の資本を形成しているかのような外観を確認する》のだというのである。そしてそうした外観にもとづいて、それらは商品になり、すなわち売買され、またそうした商品として《それらの価格は独特な運動および決まり方をする》のだという。ここで《現実の資本を形成しているかのような外観》というわけだから、それらは決して《現実の資本を形成して》いないのに、《形成しているかのような外観》、つまり見かけ上そのように見えるということである。だからそれらは商品として売買されるわけである。しかし実際はそれらは商品でもないし、その売買は本当の意味での売買ではないのである。それらはすべて見かけ上のものである。これは利子生み資本の概念が説明された所でも、貨幣そのものが商品となり利子がその価格となって、売買される外観をとったのと同じことが言えるのである。株式も国債も一見すると商品として売買されているように見えるが、実際は、そうではなく、それは利子生み資本の運動なのであり、だからそれらは貨幣の貸し付けと返済の運動を行なっているに過ぎないわけである。例えば株式を購入する貨幣資本家は彼は彼の所有する貨幣を利子生み資本として投下するわけであり、その意味では彼がそこから得る配当は彼の貨幣資本(moneyed Capital)の果実(利子)である。そして彼がその株式を売り飛ばしたなら、彼はその彼自身が貸し付けた貨幣資本の返済を受けたことになるのである。だから株式の売買も基本的には利子生み資本としての貨幣の運動と同じであり、貨幣の貸し借りが商品としての貨幣の売買という外観を得るのと同じなのである。国債の場合も同じであり、国債の購入も購入者は彼の利子生み資本を投下したのであり、彼が国債を販売するときは、彼の貸し付けた資本(利子生み資本)の返済を受けたことになるのである(株式や国債の場合、「購買」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「販売」が利子生み資本の「返済(回収)」である。貨幣商品の場合は「販売」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「購買」が利子生み資本の「借り入れ」であった)。

 (2)《それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。

 ここには《市場価値》と《名目価値》という用語が使われている。ここで《市場価値》をあまり厳密に考える必要はないように思える。マルクスは第10章で《市場価値》について次のように述べていた。

 《これらの商品のあるものの個別的価値は市場価値よりも低い(すなわちそれらの生産に必要な労働時間は市場価値が表わしている労働時間よりも少ない)であろうし、他のものの個別的価値は市場価値よりも高いであろう。市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値と見られるべきであろう。

 つまり市場価値というのは、同じ商品種類において個別の商品の価値の平均価値という意味である。しかしマルクスは同時に《最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって》とも述べており、だから異常な組み合わせの場合には、こうした意味での市場価値とは異なるケースもありうることを意味している。よって、ここではわれわれにとって重要なのは、《市場価値はそれ自身市場価格の変動の中心なのである》というマルクスの説明であろう。すなわちここで、マルクスが述べている《市場価値》は《市場価格》の中心をなすものという意味での《市場価値》という意味と考えることができる。つまり国債や株式が実際に売買される価格(市場価格)というのは、直接にはそれらの需給によって日常的に上下するのであるが、《市場価値》というのは、そうした日々変動する《市場価格》を規制し、その変動の中心をなすものなのである。これらの「架空資本」の「資本価値」はまったく純粋に幻想的なものだとマルクスは説明してきた。だからそれらの《市場価値》も同じように幻想的と考えるべきものである。しかし、現実にはそうした市場価値を中心にした市場価格でそれらは売買されており、そうした自立的な運動を行なっているわけである。

 さて、以上のようにわれわれはマルクスが『資本論』(の草稿)で述べている内容を詳しく見てきたのであるが、次にわれわれが確認しなければならないのは、こうしたマルクスが『資本論』で述べていることを林氏は果たして正しく理解しているのか、ということである。もし林氏がそうした内容を正しく理解しているのなら、そうした林氏に対して、「『資本論』をしっかり読み直せ」と言った私の発言は、確かに「よくない」(「通信」No.38に紹介されている京都支部の意見)ものであり、ただ「暴言」としか言いようがないものであったであろう。

 もし私の「『資本論』をもう一度良く読み直して下さい」という発言が「よくない」(京都支部の意見)というのなら、それは次のような場合であろう。つまり私の発言は、われわれはマルクスの『資本論』から謙虚に学ぶことを共通の前提にしているのであるが、一部の人たちは、マルクスがどう言っているかといったことはどうでも良いことだと考えているということである。つまりここには両者に共通の前提がそもそもないということである。確かにこうした前提のもとでなら、私の発言は「よくない」というか、無意味なものとなるであろう。京都支部は恐らくそういう前提に立っているのであろう。彼らは自分自身で『資本論』をもう一度確かめた上で、なおかつ私の発言が「よくない」と思っているのであろうか。もしそうなら、そうしたこととしか考えることはできないわけである。
 
 林氏があんな無茶苦茶なことを『海つばめ』で書いているのに、全国の会員からは誰一人として、それは『資本論』でマルクスが論じていることと違うではないか、という会員の声は現われない。一体、彼らは『資本論』を何のために読んでいるのか。一体、支部の学習会として『資本論』を3巻の終わり近くまで勉強しているところもあるのに、彼らは何を勉強したのであろうか。『資本論』を真剣に学んだのなら、林氏の言っていることが間違っていることぐらいはすぐに分かるはずである。にも関わらず誰も一言も何も言わない。言えないのであろうか。こうした同志会の現状はまったく不健康であり、正常とは言い難い。林天皇のお言葉は絶対であり、それに逆らうことは「よくない」(京都支部)とでも考えているのであろうか。馬鹿げた話である。

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 (以上で、この記事を批判する文章は終わっている。恐らくここまで書いて、こんな調子で『資本論』の草稿を読みながら、その内容を確認して行くぐらいなら、そもそも最初から第29章該当部分の草稿の詳しい解読をまずやってからにした方がよいのではないか、と考えて、記事の批判は後回しにして、草稿の解読の方に軸足を移したのであろうと思う。)

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【資料】

●『海つばめ』1110号(2009.12.13) 【三面トップ】
恐慌とその歴史について
関西労働者セミナーの議論

 十一月二十八、二十九日、首都圏についで関西でも、「恐慌とその歴史を探る」という同じテーマで労働者セミナーが開催された。もちろん、首都圏と同じ傾向の議論もあったが、またそれとは別の問題や、首都圏では全く論じられなかった問題も討論の中で突き出された。ここでは、主として首都圏とは違った議論を紹介しよう。
◆社会関係から説く視点弱く
 最初の平岡報告――産業資本が勃興してきた時代、資本主義の自由競争の時代の恐慌――については、首都圏セミナーと同様に、産業資本が社会の主要な(あるいは支配的な)契機もしくは内容として展開してきたという視点がなく、“生産力主義的”な偏向があり、恐慌の説明として説得的でなかったということが基本的な批判点として出された。
 資本主義的恐慌は資本の本性と密接に関係しているのであって、単に生産力の発展とか一般的競争の激化ということだけの問題ではない。例えば、資本は「自己増殖する価値」であり、蓄積のための蓄積、生産のための生産を――つまり労働を搾取し、剰余価値を、より大きな剰余価値を獲得するための、たえず増大する資本の蓄積を――本性とするのであって、その本性は「貿易や投機」とか、「市場を開拓する歴史」ということとはいささか違った次元に属するだろう。
 またレジュメの始めで、イギリスにおいて最初に資本主義が発展したことの説明として、それが綿工業と結び付いており、イギリスが海外から綿花を手に入れやすい条件を幸運にも持っており、その点で他国よりも有利な地位にあったからである、と主張し、またこれは首都圏でも疑問としてだされたが、「つまり恐慌を克服するために市場を開拓する歴史を繰り広げてきたが、それはより大きな過剰生産、そして恐慌を引き起こす結果に終始した」と主張したことについても、「ローザ主義ではないか」という批判が出された。
 イギリスにおいて産業資本主義が勃興したのは、単に綿花を取得することが他国よりも容易だったとか、産業革命が行われ、生産力が発展したということではない、あるいはむしろ産業革命にせよ、急速な生産力の発展にせよ、それはまた他面ではイギリスにおいて急速な資本主義的発展が開始されたから、その結果でもあるのであって、実際には、資本の蓄積の進行や資本の原始的蓄積の問題、あるいは一五世紀から延々一九世紀の始めまでも続いた――断続的ではあれ――囲い込み運動(エンクロジャー)など、封建的な生産関係の解体が進んだという歴史的な過程こそむしろ重要な歴史的契機であったが、こうした社会関係の問題はほとんど論じられていないのであるが、それは恐慌を一貫して社会関係の進化と発展の問題として論じ、取り扱おうとする視点が弱いことと関連しているように見える。
 また、報告者の見解では、資本主義は植民地や“外延的な”市場が存在する限りで発展することができ、それが行き詰まった時点で瓦解するかに取れる叙述があり、それが恐慌論と結び付けられているかだが、それはローザらの帝国主義の理論とどれだけ違うのか、という疑問も提起された。
◆宇野学派的“タイプ論”に純化
 独占資本主義への過渡期、もしくは独占資本の時代の恐慌を報告した田口報告に対してもいくつかの疑問もしくは批判が出された。
 田口は、東京でのセミナーの批判を受けて、「追加」のレジュメを提出し、独占資本と恐慌との関係について、独占資本主義は一方では生産力をかつてないほどに急速に発展させるとしながら、他方では、新しい特徴が現われるとして次のように論じた。
「だが同時に、生産力の発展を阻害する要因も現れる。独占の地位にある企業は、たえず生産力を発展させて特別利潤を追求するという動機を弱める。独占資本は、独占価格の維持と独占利潤の安定的確保を目指し、飛躍的な生産力発展による生産物の急激な増加と生産物の価値の低下、そして投下固定資本の価値の社会的磨滅などが起これば、これらは独占企業にとって、利潤を低下させる限り利潤増加という目的と反することになる。
 独占資本は、企業は、相互の激しい競争によって生み出される過剰生産能力を、さらに激しい販売競争によって相互に切り捨て合うよりも、生産協定(シンジケート)によって過剰設備を遊休化し、また新技術のそれ以上の利用を阻止し、価格協定(カルテル)によって、独占価格による安定的利潤を得ようとする。
 こうして独占の下では、かつての生産力の飛躍的発展から一転して、投資の一斉抑制、蓄積された利潤の貸付資本形態での温存〔これはどういう意味か、なぜ「貸付資本形態での温存」か。何を説明しようというのか――林〕、新技術の非利用、新たな資本の独占的部門への参入阻止などが、特定の時期の独占の政策として行われる。過剰生産の重圧のものでの停滞の持続への傾向――これらは独占資本主義のもとでの蓄積の諸特徴である」
 しかしこうした独占資本主義に固有な諸特徴は、この時代の特徴として位置付けられ、深められるのではなく、独占資本のもとでも生産力は急速に発展するという見解と同列のものとして並列され、さらに宇野学派的な「独占資本段階はタイプ論」という観念と結合されて、停滞的な特徴を示すのは英仏、発展的特徴を示すのは米独であり、しかも独占資本の段階として特徴的な資本主義は米独であると言われたので、全体として何を言いたいのか分からない、矛盾し、混乱したものとなっている、という批判をこうむることになった。
 報告者の理屈によると、米独こそが独占資本主義段階を代表する資本主義国家であり、そこでは大資本間の競争がより貫徹し、高度な独占が成立し、そして生産力も発展し、資本主義として繁栄し、また鋭い恐慌に見舞われるというのだが、それでは、資本主義一般の生命力を語っていることにはなっても、資本主義の独占段階の特徴を積極的に展開しているとは到底いえないのではないか。
 他方、英仏は停滞し、頽廃した資本主義の特徴を表わすが、それは独占資本主義を代表するものではないというのだから、何を言っているのか、論理的な整合性はどこにあのか、という疑問が提起されるのもやむを得なかった。
 そしてまた、恐慌と固定資本の関係も再度議論された。問題とされたのは、首都圏でも槍玉にあげられた、次の文章である(一部は『海つばめ』前号でも引用したが、全文は以下のようなものであった)。
 「資本主義の発展が鉄鋼業を中心とするようになったことは、不況を長期化する大きな要因となった。
 鉄鋼業は投資額でも経営規模でも、以前の工業の主体であった綿工業を凌駕して大工業部門となった。この発展は大型高炉やベッセマーなどの新技術の導入によって実現したが、そのために固定資本が巨大化したことは資本の自由な移動を制限し、景気変動の形態に変化を与えることになった。
 すなわち綿工業など軽工業の場合は、好況時の需要増大に応じて生産は漸次的に拡大され、したがって不況期における需要減退による資本破壊も好況期に稼働してきた固定資本にたいして生じる。
 しかし巨大な固定資本を要する鉄鋼業など重工業ではこれとは異なった傾向をもつ。溶鉱炉などの建設には二、三年の期間を要し、そのため好況期の需要増大に対して対応は遅れる。好況期の需要増大に基づいて生産設備が拡大したころには、景気が不況に転じるなら新設備によって一挙に増大した生産は、不況期に減退した需要に対して供給を著しく過剰にし、不況期による固定資本更新は弱められ、景気回復はおくらされる。
 資本の移動の困難は価格低落を持続化させ、不況を長期化する傾向をもつことになる」
 こうした理論に対しては、不況の問題が生産力主義的に、技術的に(卑俗に)論じられていること、そしてそれと関連して固定資本は「自由に移動」できないと主張されていることなど俗流的な議論であると批判された。
 そして、報告者はこうした理屈は宇野学派が唱えているものだと紹介したが、会場から、宇野学派以前に、ヒルファーディングの「金融資本論」の中に同じような見解があるという指摘がなされた。宇野学派の俗論の多くがヒルファーディングに依拠していることからして、これもその口の一つということだろう。宇野学派だから、ヒルファーディングだからと悪いとはいわないが、彼らの理論が固有のドグマや卑俗さ、俗流さに深く侵されているということは、我々がこれまで散々に語ってきたことである。“ヒルファーディング的な”(つまり宇野学派的な)、あるいは“スターリン主義的な”、いわゆる“学界”ではびこっている(はびこってきた)観念に対して、批判的に接近しないで安易に追随することは問題であろう。
 そこにこそ、独占資本の段階と恐慌という重要なテーマに、報告者がなかなか接近できなかった根本問題があるのではないか。
 まとめのような形で、最後に司会者から、独占段階の資本主義を特徴づけるなら、米独というより、むしろ英仏の方をこそ重視すべきではないか(報告者は独占は英仏には現われていないかに言うが、そんなことはない)、そしてその場合には海外への資本輸出(投下)なども注視されるべきだが、それも正しくは提起されていないという発言があった。
◆現代資本主義と恐慌の問題は未解決?
 三番目のテーマにあっては、二九年の世界大恐慌と、その後の資本主義――第二次世界大戦後から現代までも含めた――をいかに評価するか、という極めて重大な点で議論が行われたが、なかなか“結論”といったものに議論が収斂して行かなかったが、それはまた現代が混乱と矛盾を含んだものとして展開中であって、歴史が、簡単に、割り切った解答を提供していないということもあったであろう。
 二九年の大恐慌については、それがいかにして勃発したかという点については、東京のセミナーと同様に、報告は極めて不十分で、明確ではないという批判が多かった。例えば、レジュメの次のような説明が問われることになった。
「27年の後退のあとは、国内の寡占競争の激化、さらにはヨーロッパ工業の復興による世界市場での競争の激化を背景に、鉱工業企業はコスト切り下げのため設備投資を拡大した。そしてこの時期の景気拡大は、20年代末の株式ブームに引っ張られて進められた面も強かった。20年代には一般に大企業は償却資金と留保利潤を合わせた自己金融によって、設備投資だけでなく運転資金の多くをまかなうことができた。こうした自己金融の進展の中で、銀行の事業貸出は停滞し、好況下での資金形成の増加は金融の緩慢を促し、証券市場の活況を招いた。……28年以降は、株式投資信託が急速に普及したこともあり、一部の企業では投資資金の調達のために株式を発行するようになり、株式ブームは実体経済を離れて独走するに至った。……しかし社会的再生産過程から遊離した株式ブームは、早晩崩壊せざるを得なかった」
 二九年の大恐慌のこうした説明もしくは特徴づけは現象的であるばかりではない、経過や内容としても正確ではないのであって、例えば、「自己金融」が一般的になったから、「証券市場の活況を招いた」という説明自体、因果関係や意味が不明であり、一体誰がこんなことを主張しているのかが問われることになったが、報告者によれば宇野学派の学者の理屈であるということであった。
 ここでは、20年代にアメリカで生産力の発展があったから(株式ブームもあった)とかいうだけでは大恐慌の説明として余りに一面的だ、第一次世界大戦においても生産力の大きな発展があったのではないか、それは無関係なのか、また戦後の世界の体制とか諸関係や、世界市場という側面からも検討する必要はないのか、等々の疑問も出された。
 大きな議論になったのは、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という報告者の命題については、東京のセミナーにつづいて大阪でも疑問や批判が相次いで、必要なことはニューディールが歴史や現実の中でいかなる役割を果たしたのか、どんな歴史的な意義をもったかであるということが確認された。
 また報告者はこの命題は事実であるとがんばるが、しかしこの命題は事実しても正しいのか、ということが問われた。ニューディールをやっている間に、生産が大恐慌の前の水準まで回復しなかったということだけが言えるだけであって、五まで落ちこんだのが七や八まで回復した時期もあったし、そもそもニューディールは第二次大戦の中に消え去ったというのだから、回復しなかったか、し得なかったかが言えるわけがないではないか。大戦が起こらなかったら、ずっと恐慌が続いた、つまり慢性恐慌こそが現実的だったということか、という疑問も出されたし、ニューディールをどう理解するかにもよるが(革命後のロシアのネップさえも、新経済政策つまりニューディールある云々)、ヒトラーが三三年に権力を握った後採用した政策はニューディールと言えるのか言えないのか、ヒトラーのやり方は(それも仮に「ニューディール」と言えるとするなら)恐慌も失業問題も表面的には「克服した」と言えるのだから、ニューディールは「恐慌を克服しなかった」という命題は成り立たなくなるではないか、等々の批判的意見も出された。
 管理通貨制度が一般化し、またドルさえも金とのつながりを絶って、国家独占資本主義的政策(ケインズ主義的政策)が採用された戦後の資本主義についても、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という命題と関係して議論が及び、戦後もまた過剰生産は「整理」されることなく延々と持ち越され、自由主義段階の資本主義のように自然に破壊されることもなく、また独占資本主義の時代のように(?)戦争によっても廃棄されないで来ている、そしてバブルは信用バブルというような形でしか発生しない、とするなら、今後はまた戦争しかないのではないかという“超悲観論”を持ち出す人も出たりして、戦後の資本主義と恐慌一般という問題が議論された。
 戦後の何度かの不況を産業恐慌と言えるかどうかはさておくとして、現在進行中の不況についても、それは産業恐慌であるという論者もいれば、そこまでは言えないと反論する者もいるといった具合で、産業恐慌が現在も存在するのか(勃発するのか)、それともそれは国家独占資本主義の体制の中では“消えて”しまったのか(「景気循環」は存在するにしても)、という点では、セミナーの中では全体としての確認(合意)は生まれなかったと言えようか。今後の資本主義の運動と経過を見るしかないということであろうが、中国経済の今後が焦点となるという点では、多くの論者も一致しているように見えた。
◆サブプライムの信用メカニズム
 最後の金融恐慌のテーマについては、関西では、サブプライムの「証券化」のメカニズムについて突然に論争が始まったが、それはもちろん、この新しい信用形態の根本的な理解にかかわっていた。
 問題を提起した論者は、マルクスが『資本論』で、資本主義ではすべての収入が利子率によって還元(“資本還元”)され、擬制的価値を持つと言っている、サブプライムの「証券化(商品化)」にもこの理論を適用すべきである、証券化された商品の「価格」もまたローンからの収入(返済金)によって決定されると理解すべきだ、という理屈を持ち出したのであった。
 しかしマルクスのこの理論は、株価とか地価などを“法則的に”、つまり概念的に規定するために述べられているものであって、どんな「収入」にも適用されるのものではない(マルクスは、すべての収入は利子率で資本還元されて擬制的価値を持ち得ると言っているだけで、すべての擬制資本はある収入を利子率で資本還元されたものだと主張しているわけではない)、とりわけサブプライムの証券化の場合には適用できるはずもない、論者はマルクスの言葉は知っているが、しかしその正しい意味を理解しているとは言えない、という報告者の立場との間に鋭い対立が生じた。
 そもそも、《あれこれの収入が利子率で資本還元されて「価値」を持つ》というのは、こういうことである。
 例えば、ある土地を貸し付けることから五万円の収入(地代)があると前提して、その土地の価格が問題となるとき、それがそのときの利子率(一%と想定する)で資本還元されて(五万円÷〇・〇一)五〇〇万円の「価値」(土地価格)を持つと想定されることを言う。こうした場合に、一定の収入は発達した資本主義的生産様式のもとでは、擬制的な価値を獲得し、売買されるのである。これは、五〇〇万円を貨幣資本(利子生み資本)として投資した場合、五万円の利子所得(収入)が得られるが故に、五万円の収入をもたらすもの(社会的関係)は五〇〇万円の「価値」をもつものとして社会的に通用することができるということである。
 株の価格もまた同様であって、株価は額面価格の何倍かの「価値(価格)」で売買されるのだが、それは例えば、額面五〇万円の株の配当が五円だったとすると、この五円の配当が一%の利子率で資本還元されて五〇〇万円の「時価」を持つようになるということである。五〇万円の額面価格は、当初の払い込み金として、現実資本の「案分比例的な」権利として実際的な意味をもつのだが、五〇〇万円の“価格”(実際の“株価”)は純粋に擬制的なものにすぎない。
 もっとも株券にしろ、債券にせよ、それは実質資本とは別の証券にすぎないという意味では、すべて擬制資本であって、銀行などがそれをどんなに大量に保持していたとしても、それは実質的な資本を保有しているということとは全く別である。
 もちろん、配当が五万円の五〇万円の株券は、利子率一%のときに、正確に計算され、予想される五〇〇万円(五÷〇・〇一=五〇〇)の株価になるのではなく、他のあれこれの要因によっていくらでも騰貴して行き得るだろう、しかしバブルははじけるのであり、暴騰した株価は“法則的な”レベルに引き戻されるのである(一九八九年末には、ほとんど四万円もあった平均株価は暴落し、二〇年もたった今においても、一万円以下の低い水準で低迷している、等々)。
 しかし利子率による「収入の資本還元」のこうした理論を「すべての収入」という言葉だけに幻惑されて、その本当の意味を理解しないで、債券とか、労働者と資本の関係とか、ありとあらゆる関係に適用できると考えるのは全くナンセンスであろう。
 例えば、債券に適用しようとすると、一〇〇万円債券の利子一万円を、一%の利子率で資本還元して、債券の価格が一〇〇万円である、といった理屈になるが、空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう。
 債券の利子率を一%にするから同義反復になるのだ、五%等々にしてみよと言っても、債券の利子率は平均的な利子率によって基本的に規定されているのだから、恣意的に五%にすることはできないし、またそうしても何の意味もないだろう。
 それに、債券の利子率を仮に五%として、それを一%の利子率で資本還元すれば一〇〇万円でなくて五〇〇万円になると主張してみても、実際の債券は五〇〇万円にまで騰貴するはずもなく、依然として一〇〇万円なのだから、こんな「資本還元」の理論など、債券の場合には何の意味もないことは自明であろう(もちろん、債券価格も騰貴や下落を繰り返すのであり、あるいは投機的に暴騰する――したがってまた暴落する――ときもあるが、しかしそれはまた別の問題である)。
 労働者の賃金もまた一定の「収入」だが、それを(仮に、三百万円として)一%の利子率で資本還元して、労働者の「価値」は三億円だとか言うことにどんな実際的な意味があるのか(ブルジョア理論家たちなら、何かももっともらしい理屈をでっちあげるかもしれないが)。これは果たして、労働力の価値ではないとしても、労働者自身の価値ということになるのか(すなわち労働者自身が奴隷がそうだったように売買されるとして)。しかし労働者自身は資本主義のもとでは売買されないのだから、こんな関係について語ることもつまらないおしやべりにしかなり得ないであろう。
 債券について言えば、その「価値」は債権、債務の関係を表示しているのであって、その限り実際的な経済的関係の反映であって、額面と離れて何倍、何十倍もの「価値」(株価)を持つ株券とは区別されるのであって、同列に論じられるはずもないのである。
 報告者は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーターによる債券の発行であって(つまりオリジネーターは債務を負うのであって、それは返済、つまり債券の償却がなされなくてはならないのである)、それは国家が国債を発行するのと同じであり、ただ国債が税金によって償却される(国家の債務が返済される)ことを前提とされていると同様に、オリジネーターの発行する債券は、オリジネーターが手にするサブプライムローンからの返済金によって償却されることが前提されているのだと説明したが(もちろん、国家が税金を担保に債券を発行する場合と、オリジネーターがローンの返済金を担保に債券を発行する場合の、技術的、実際的な違い等々を考慮すべきではあるが)、しかし必ずしもその意味が理解されなかったようである。
 論者は、「マルクスの理論に基づいて」、住宅ローン金融会社(あるいは一般的に言われる、オリジネーター)が行うサブプライムの「証券化」とは、オリジネーターの「収入」を資本還元するという形で行われ、したがってまたその「価格」は、オリジネーターの収入(住宅ローンからの「収入」つまり返済金)を利子率で資本還元したものである、と事実上主張したのだが、しかし実際に、証券化商品の価格がそうしたものとして設定されているということを示すことはできなかった。論者が主張したのは、マルクスの「すべての収入は資本還元される」というマルクスの片言隻語から、ここでもそのように理解すべきである、ということだけであった。
 実際にはオリジネーター(ノンバンクの金融機関など)がやったのは住宅ローンという債権(同じ発音だが、債券ではない。報告者はレジュメでは、前者をdebt、後者をbondと読んで区別したりもした。全くやっかいで、人をまどわす関係や用語ではあるが)を“流動化”することであり、そのために住宅ローンをいわば「担保」にして(返済=債券償却の原資にして)、新しく債券を発行すること(つまり平たく言えば、オリジネーターが借金すること)であり、そのことがサブプライムの証券化ということの内容であった。
 論者は、この関係を、現実からではなく、マルクスの言葉(間違って、ドグマとして理解されたマルクスの言葉)から出発することによって、わけのわからないものにしてしまったのである。
 論者の理論によれば、住宅ローンの返済金(貸し付け金プラス利子)を利子率で資本還元したものが「証券化された商品」の価格ということになるが、そうだとすると、この価格は(利子率を一%とすれば)住宅ローンの返済金の数十倍にも百倍にもなり得るだろうが、そんなばかげたことがあり得るはずもないのである。
 報告者はオリジネーターが証券化して「売り出す」商品は債券であるとレジュメでも特に強調し、その「価格」は借入金を現しているとことさら説明したのたが、こうしたサブプライムの“証券化”のメカニズムが全く理解されておらず、代わりにマルクスの言葉がドグマとして持ち出され、それによって現実が裁断され、理解されなくてはならないとされたのである。
 ここでは、証券化とは(株式化等々ではなくて)債券化であり、その「価格」は(簡単のために利子を考慮しないとすれば)、借入金の大きさを表現するのであって、その大きさが「いかに決定されたか」などという問題意識そのものがナンセンスである、というのは、どれくらいの金額を(どれくらいの利子率で)貸借するかということは、当事者同士の必要(借りる方)と余裕(貸す方)の相互関係にかかわるだけだからである。
 証券化商品の「価格」(債務の大きさ)は、住宅ローンの返済金に依存しているのである、つまりオリジネーターの債務は、住宅ローンの返済金によって清算され、債券が償却されることが前提されているのであって、それは国債の償却(国による返済)が、国家の収入、つまり税金によってなされることが前提されているのと同様である。
 だから、証券化商品(債券)の「価格」と住宅ローンの返済金の大きさは基本的に対応することが想定されているのであって――もちろん、現実に大きな違いが生じることはあり得る、例えば、日本国家の借金(国債発行高)は国家の税収と全く対応しておらず、極端にアンバランスになっている等々。しかしその理由や意味などについて詳しく論じるのは、ここでの課題ではない――、論者が言うように、最初から一対百などというものになるはずもないのである。そんなばかげた(超リスキーな――というより、投資自身が全く回収され得ないような)有価証券を一体誰が(どんな投資家や銀行や機関投資家らが)買う(“投資”する)であろうか。
(林)

2016年7月 9日 (土)

林理論批判(43)

§§§『海つばめ』1110号の関西セミナーの議論の紹介に関連して§§§

 (二回に分けて紹介した『海つばめ』1111号の林氏の記事を批判する一文の最初のところでは、次のように書いていました。

 〈その前の1110号に対しても、亀仙人は何の反応も示さなかったのを、あるいはいぶかしく思っている方もあろうかと思う。実は、私は直ちに反論を書きはじめたのであるが、この際だからと第29章の草稿部分の詳細な解説を行なおうと思い、やりはじめたのはよいが、それにえらく時間がかかり、まだ終わっていないのである。だからやむを得ず沈黙を余儀なくされている次第なのである。〉

 これを見ると1111号の前の1110号に対する批判も少なくとも書き出したものがあることが分かります。そこでアチコチ捜してみたら、やはりあることはありました。それは未発表だから、当然、不十分な内容ですし、その途中で第29章該当部分の草稿の段落ごとの解読に取りかかる切っ掛けになったものですから、恐らくこれまで発表したものといろいろと重複するところがあるかも知れないのですが、しかしこの際だから、これも公表することにしました。それが以下のものです。なお、今回も1110号の林氏の記事を資料として添付するために、長くなるので二回に分けて紹介することにします。)

●無理解なのはどっちなのか?

 今から振り返って考えてみるに、そもそも最初に若干の誤解があったような気がする。林氏はサブプライムローンの証券化を国債を例に上げて説明した。それに対して、私はそうした過程をマルクスがいうところの資本還元として理論的にはとらえることができるのではないかと発言したのである。

 私自身としては、林氏の国債を例に上げた説明そのものは首肯しながら、そうした過程を理論的には資本還元としてとらえることができると主張したつもりだったのである。ところが林氏はどうやら私の主張は自説を批判するものと捉えたような気がするのである。そしてムキになって反論してきたような気がする。だからここに若干の誤解があったわけである。

 そうした誤解が生じた原因は、もちろん、その一部は、私自身の説明の不十分さにもあったと思うが、その後の議論のなかですぐにその主要な理由は明らかとなった。つまり林氏自身の資本還元の理解があいまいで一面的であったからである。私は国債のケースがそうであるようにそれらは資本還元として捉えることができると主張したつもりだったが、どうやら林氏自身は資本還元というのは、地代と土地の価格の関係のようなものには妥当するが、国債のような国の借金の場合には妥当しないと考えていたようなのである。だから私の主張は国債を例に上げた自分の説明に対する対案、あるいは批判と受けとめたのではないかと思えるのである。

 だから結局、議論は最初から横道に逸れてしまい、そもそも資本還元をどのように理解するかなどというようなところに行ってしまったわけである。私自身は資本還元をどう理解するかなどいうことで議論になるとは思っても見なかったわけである(そもそもマルクス自身が国債を例に上げて資本還元を説明しているのだから。国債が架空資本として独自の運動をしていることなど、当然、共通の理解にあるものと思っていた)。だから、そんなことは当然了解済みだと思って自説を主張したつもりだったのだが、その肝心の資本還元の理解そのものがあいまいで一致しないのだから、そこから議論が始まったのは、ある意味ではやむをえなかったのかも知れない。私は議論のなかで国債も株式も証券として売買されるということは、資本還元されて架空資本として自立した運動をすることなのだと説明したつもりなのだが、そこらあたりが林氏にはどうも理解できなかったようなのである。

 だから東三河のS氏がわざわざエンゲルス版の第3部第5篇第29章に該当する草稿部分の大谷氏の翻訳を読んで、マルクス自身も国債を例に上げながら、資本還元について説明していることを紹介して、私の主張の正しさを論拠づけてくれたが、林氏は頑に自説に固執し、「マルクスが全体として何を論じているのか、論旨を掴まないと、そんなことは俄には受け入れられない」というような主旨の発言をして、自分の資本還元の理解のあいまいさや誤りを反省するのではなく、反対に問題を誤魔化し、居直ったのである。

 だから私はそれ以上議論をやってもしょうがないと思い、「『資本論』をもう一度きっちり読んで欲しい」というような発言をして議論を打ち切ったのである。だから私が『資本論』をしっかり読みおなせと言ったのは、人が親切に『資本論』を読み聞かせてその誤りを指摘しているのに、自説の誤りを反省もせずに、居直った林氏に対してであって、セミナーの参加者全員に対してでは決してない。セミナー参加者全員に対して、マルクスを読んでいないと議論に参加すべきではないなどと一体誰が言ったというのであろうか(こんなことはその場に居た人なら誰でも分かっていることである。しかしその場にいない会員にはそこらあたりは分からないから、「通信」であのように書かれると、亀仙人というのはとんでもないことをいうやつだということになるわけである。そしてそうした効果を林氏は狙ってあのように書いているわけだ。何という不誠実でねじ曲がった根性であろうか。何という卑劣でいやらしい人物であろうか!)。「通信」では、あたかも私がセミナー参加者全員に対して、エラそうに「『資本論』をもっと読め」とか「マルクス主義を全部読まなければ会員になれない、議論にも参加できない」などと述べたかに書かれているが、これは林氏が相手を攻撃する時の常套手段なのだ。常に相手の主張をねじ曲げ、問題をすり替えてでなければ、相手を攻撃できない状態になってしまっているのである。何とも情け無いことではあるが、これが同志会の(林氏の)現実である。

 だからこの問題については、議論そのものが最初から本題から横道に外れてしまい、結局、肝心のサブプライム・ローンの証券化を如何に理論的に理解すべきかという議論はまったくできていないのである。私の説明もまったく舌足らずに終わってしまっている。だからもう一度、私自身の主張も含めて問題を論じてみるのも意義があるかも知れない。今回、『海つばめ』にセミナーの報告として、林氏は自説をもう一度論じているので、それを取り上げて、私の主張をそれに対置してみよう。そうすれば誰が自身のあいまいな理解のもとに誤解して、誤った自説に固執したかが分かるであろう。

                                                                 ◇

 われわれは順序として、まずマルクスが資本還元として述べている問題を正確に理解するところから始めるべきであろう。これは「『資本論』を読み直せ」と発言した手前からも、是非とも必要な作業でもある。われわれはもう一度、第3部第29章を初めから勉強し直すつもりで、マルクスから謙虚に学ぶことにしよう(以下、マルクスからの引用は、すべて大谷訳の草稿からで頁数は『経済志林』の頁数である)。

 マルクスは第29章に該当する部分の草稿(IIの番号を打った部分)で、最初に《こんどは, 銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である》(9頁)と書いたあと、すぐにその考察には入らず、最初は第28章で論じた問題を再び取り上げて論じたあと、本題に移っている。

 そこでは銀行資本を二つの視点から論じている。一つは《実物的な構成部分》とか《現実の構成部分》と述べているものであり、もう一つは《銀行業者自身の投下資本》と銀行業者の《銀行業資本または借入資本》という視点である。後者はいわゆる貸借対照表で表される自己資本(左側)と借入資本(右側)に対応している。そして前者の視点による構成部分の区別は、後者の区別には関わりのないものだというのがマルクスが述べていることである。

 まず前者の《実物的な構成部分》なるものを見ると、それは二つに大別されて、(1)現金と(2)有価証券に分けられている。そして有価証券は、さらに二つに分けられ、一つは「手形」であり、もう一つは「その他の有価証券」であるが、ここには《公的有価証券、例えばコンソル、国庫証券、等々、およびその他の有価証券、例えばあらゆる種類の株式》と書かれ、《場合によっては不動産抵当証券》と書かれている。そして《要するに利子生み証券であって、手形とは本質的に区別されるもの》と述べている(15頁)

 つまり国債や株式などをひとまとめに、マルクスは《利子生み証券》としていることにわれわれは注目する必要がある(「コンソル」というのはイギリスの代表的な国債のことである。「旧コンソルは3%利付きであったが,1882年に1840年代発行の2種の公債と統合され,2.75%(1903年からは2.5%)利付きの新コンソル(別称ゴッシェン公債 Goschens)となった」『平凡社大百科事典』より)。というのは、「国債」や「株式」などをひっくるめて《要するに利子生み証券であって》と述べていることは、銀行はそれらを利子生み資本(moneyed Capitalとしての貨幣資本)の投資対象として(つまり利子を得る目的で)保持しているということを意味するからである。だから、これらをすでに一つの架空資本として取り扱っていることなのである。だからこうした銀行資本を構成する内容を確認することは決してどうでもよいことではないのである。
 そしてマルクスは、《銀行資本は、それがこれらの実物的な構成部分から成るのに加えて, さらに,銀行業者自身の投下資本〔d..invested Capital des Bankersselbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capita1〕または借入資本)とに分かれる》(16頁)と述べている。そして発券銀行の場合には、借入の側にさらに銀行券が加わるが、さしあたりは預金や銀行券はあとでじっくり論じるために、さしあたりは考慮の外におくと述べている。そして次のように述べている。《とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d,banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらないということである》(16頁)。つまり銀行資本の実物的な構成部分の区別は、それらが貸借対照表の右側にあるか、左側にあるか、つまり自己資本なのか、それとも預金なのかという区別によっては、なにも変わらないということである。
 そしてマルクスは、すぐにいわゆる「資本還元」の問題の説明に移っている。ということは、マルクスがそれまでに明らかにした銀行業者の資本の現実の構成部分である貨幣、手形、有価証券の順序とは逆に、有価証券、手形、貨幣の順に、その説明を開始するのである。すなわち、次のように始めている。

 《利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである。》(18頁)
 《(利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金Principalとして現われるのである。)》(21-22頁)

 (ここで二つ目の引用は、実は頁数をみて頂ければ分かるが、草稿のもう少し後でマルクスが書いている一文であるが、マルクスは全体を丸カッコで括っており、エンゲルスは、最初の引用文とくっつけて一つのパラグラフにしているものである。マルクスがどうしてこの一文を丸カッコで括ったのかはよく分からないが、エンゲルスはそれは別のところに持っていくべきと考えて、マルクスは括ったと考えて、この最初の引用文のあとにくっつけたと考えることができる。われわれはこのエンゲルスの措置は適切であると考えるので、この二つの引用文をとりあえず、並べて紹介しておくことにしたい。)

 さて、ここではマルクスは、利子生み資本が範疇として確定すると、一つの転倒した現象が生じることを指摘している。それは単にわれわれの頭のなかで生じている観念的な転倒というだけではなく、現実の経済的な過程のなかで生じている転倒でもあることに注意が必要である(なぜなら、幻想的な資本価値を「市場価値」とする価格によってそれらの架空資本は現実に売買されているのであるから)。マルクスは《確定していて規則的な貨幣収入》であれば、《それが資本から生じるものであろうとなかろうと、どれでも、ある資本の「利子」として現われるようになる》《どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金Principalとして現われるのである。)》と述べている。だからわれわれが第21章以降で学んだように、利子生み資本が産業資本家や商業資本家(機能資本家)に貸し出され、その資本の生み出した利潤(剰余価値)が機能資本家の取得する「企業利得」と、利子生み資本を貸し出した貨幣資本家の取得する「利子」とに分割されたのであるが、そうした意味での「利子」ではない場合でも、あたかもそうした「資本」の生み出す「利子」であるかに現象するというのである。だから例えば「消費者ローン」や「国債」のような、その貸付金が個人や政府の消費によって使い果たされて、剰余価値を生み出すために投資されるわけではない場合でも、それらはあたかも剰余価値を産み、その一部を「利子」としてもたらす「資本」であるかに現象するのだということなのである。だからまずすべての《確定していて規則的な貨幣収入》が「利子」とみなされ、それに伴ってその「利子」をもたらす「資本」が見出されるのだ、というわけである。「資本」があって、その「資本」の生み出したものとしての「利子」があるのではなく、「利子」があって「資本」があるという一つの転倒現象が生じているわけである。

 そしてマルクスは、《事柄は簡単である》と具体例を示して説明している。

 《平均利子率を〈年〉5% としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば、毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる。しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が〈直接に〉譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける。》(18-19頁、下線はマルクス、赤字は引用者)。

 (まずこのマルクスの一文のうち、赤字にした部分は、大谷氏の注記によると、エンゲルスは「という場合を除けば」と訂正したのだが、大谷氏は〈この部分は、「という前提のもとでも」とであるべきところではないかとも思われる〉〔20頁〕と述べている。しかしマルクスの文章を素直に読めば、《この源泉が〈直接に〉譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている、という前提のもとで以外では、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》というものである。つまり直接に譲渡可能でないか、譲渡可能な形態を与えられていない場合には、《純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》と読めるわけである。このあとマルクスは《労働能力が国債というこの資本に対比して考察される》場合を例として上げており、この場合は《労働者はこの自分の労働能力の資本価値を「譲渡」によって換金することができない》と指摘している。つまり譲渡可能《という前提のもとで以外》のケースと考えられるわけである。そしてこの場合は労働能力を資本と観念することは、《純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》と述べていると解釈できるわけである。だからこの場合は、《純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》ということが重要なのではないかと思うわけである。つまりそれは純粋に観念の問題でしかなく、そうしたものに留まるのだ(だからそうしたものは自立した運動を持たない)とマルクスは言いたいのではないかと思うのである。そしてそのように解釈するなら、エンゲルスの訂正は必ずしも間違っているとはいえないことになる。)

 そしてマルクスは続けて《例として、一方では国債、他方では労賃をとってみよう》(19頁)と「国債」と「労賃」を例に上げて説明を続けている。そして国債の場合は譲渡可能なものであり、それに対して労働能力はそうではないケースであることもまた明らかであろう。だから国債が資本還元された架空資本ではないかにいう林氏の主張は、少なくとも『資本論』のこの部分を読んでいないか、読んだが記憶があいまいであったことを示しているわけである。だから「『資本論』をもう一度読み直せ」という私の発言は、その場の状況にそぐわない何か不当なものなどではまったくなく、当然なものといえるわけである。

 では「国債」の場合について、マルクスはどのように説明しているのか、それを見ることにしよう。

 《国家は自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。{この場合,債権者は,自分の債務者に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけである。}この資本は,国家によって食い尽くされ,支出されている。それはもはや存在しない。国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100 ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5% の請求権を与える。第3に,彼はこの100 ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる。利子率が5% であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},A はこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100 ポンド・スターリングで〈Bに〉売ることができる。というのは,買い手〈のB〉にとっては,100 ポンド・スターリングを〈年〉5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。》(19頁、下線はマルクス)

 マルクスは国債について、(1)それは国家あての債務証書(100ポンド・スターリング)である、(2)この債務証書は、その所有者である債権者に、租税から年々一定額の貨幣(例えば100ポンド・スターリングの5%、5ポンド・スターリング)の請求権を与える、(3)債権者はこの債務証書を他人に譲渡できる、という条件について述べている。そして特に最後の譲渡可能ということについて、それは買い手にとっては、100ポンド・スターリングを年5%で貸し出しすのと同じだからだ、と述べている。マルクスは国債の場合、年々租税から支払われるものを、「利子」とは言わずに、《年貢を確保する》という言い方をしている。というのはそれは産業資本や商業資本が生み出した利潤が分割されて、「企業利得」と区別されたものとしての「利子」ではないとの考えがマルクスにあるからであろう。

 だからマルクスは続けて、《しかし,すべてこれらの場合に,国家の支払を子〈(利子)〉として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である》(20頁)と述べているわけである。ここで《幻想的なもの》というのは、それは本来は「資本」として貸し付けられたものではないのに、「資本」として観念されるからであり、また「資本」の生み出した「利子」として観念されるからである。それが《架空資本》と言われる理由を、マルクスは《それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しないということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである》(20-21頁)と述べている。だからそれが《架空資本》と言われるのは、単にその貸し付けられた金額が政府によって費消されてしまって無くなってしまっているというだけでなく、あくまでも資本として投下されたものではないのに、資本として投下されたものと看做されるところに「架空資本」の「架空」性があることが分かるのである。この点で、林氏はマルクスが「架空資本」として述べている意味を十分に理解しているとは言い難いであろう。

 《最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。 》(21頁)

 今度は、国債を最初に買ったAにとっても年々の租税から彼のものになる部分は「利子」を表すとしてしている(その前は「年貢」と書いていた)。しかしその利子は高利貸の貸し付けが利子を取り立てるのと同じだと指摘している。というのは、その貸し付けはただ消費のために使われるだけで資本として投資するためのものではないからである。ところがAが国債をBに売る場合、Bは彼の私的な立場から見ると、それは利子生み資本の投下と意識するわけである。しかし、実際の内容は、一つも変わっていない。だから国債が次々と売買されても、そうした現実の関係そのものは変わらないのである。しかしにもかかわらず、こうした架空資本は《それ自身の運動をもっている》のだというわけである。その運動とはどういうものか、それを次に見ることになるのであるが、しかし、マルクスはそれにすぐに行く前に、もう一つの資本還元の例として労賃の場合を検討している。

 《ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるように,国債という資本ではマイナスが資本として現われるのであるが,労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる。この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,〈1年間の〉労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである。資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達する。というのは,資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである。17世紀〈の後半〉には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった〕が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。ただ,ここでは,この〈無思想な〉考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer)」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に〈自分の労働によって〉補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている。そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない。》(22-23頁)

 このパラグラフはマルクスが先に、《例として,一方で国債、他方では労賃をとって見よう》と述べていた、もう一つの《労賃》が問題になっている。同時に、先に《国債という資本は純粋に架空な資本であ》るが、しかし《この架空資本はそれ自身の運動をもっている》と書いていたのに対して、この《労賃》の場合は、「資本」とみなされる労働能力は譲渡できないことから、決して国債のような《それ自身の運動もっている》とはいえないケースであり、だから《それ自身の運動》を考察する前に、まずそうした《それ自身の運動をもって》いないものを、まず検討しておく、という役割も持っているようにも思える。

 ここでは《利子生み資本一般がすべての狂った形態の母》であることが指摘され、《債務が銀行業者の観念では商品として現われるように、国債という資本ではマイナスが資本として現われる》と述べている。ここで《債務が銀行業者の観念では商品として現われる》という部分に、大谷氏は次のような解説をつけている。

 〈「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長上に理解されるべきであろう。「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」は,まさにここにきわまることになる。〉(23頁)

 ここで書いていることはそのとおりであるが、ただ〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である〉というのは、果たしてどうであろうか。一般にはそうした観念はないのではないだろうか。というのは、預金にはそうした意味での貨幣市場は存在しないからである。また当座預金のような場合はそもそも利子がつかないのが一般的であり、だから価格のない貨幣商品ということになりかねず、だから預金者が預金する場合、自分が所有する貨幣を銀行に商品として販売するとは必ずしも観念しないのではないかと思っている。ただマルクスが《債務が銀行業者の観念では商品として現われる》と述べているのは、大谷氏がいうように〈この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われる〉ということであろう。こういう国債に対比して、《労働能力が……考察されることがありうる》とマルクスは述べている。ここでは労働能力が考察されることがありうると述べているだけであることに注意が必要である。それは単に考えられるというだけに過ぎないわけである。しかもこのケースでは、国債とは異なり、(1)労働者はこの「利子」を手に入れるために働かなければならず、(2)その労働能力という資本価値を譲渡して換金できない、そればかりか労働力の価値を上回る剰余価値をその買い手に補填してやる必要があることを指摘して、だから労働能力の場合には、国債とは自ずから異なることを指摘しているのである。

 以上、架空資本について二つの例を考察して、その概念を明らかにしたあと、マルクスは、今度は、架空資本の独自の運動を考察しようとしているように思える。

 《架空資本の形成は資本還元と呼ばれる。すべての《規則的な》収入が,平均利子率に従って,資本がこの利子率で貸し出されたならばもたらすであろう収益として計算される。たとえば《年間》収入がイコール100ポンド・スターリングで利子率がイコール5% ならば,この100ポンド・スターリングは2000ポンド・スターリングの年利子であり,そこでこんどは,この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる。この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5% の利払いを表わすのだからである。こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである。》(25頁)

 ここでは架空資本の独自の運動として、まず架空資本の形成が資本還元と呼ばれること、すべての規則的な収入が、平均利子率によって、資本がその利子率で貸し出されればもたらすであろう利子(収益)として計算されることが確認されている。そしてその具体例として、年間収入が100ポンド・スターリングで利子率が5%なら、想像された資本価値は2000ポンド・スターリングになるとされ、《この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる》と述べている。つまり2000ポンド・スターリングというのは、年々100ポンド・スターリングの収益を取得する権原と考えられ、そうした資本価値だとみなされるということである。つまり2000ポンド・スターリングというのは自己増殖する資本価値として年々100ポンド・スターリングという果実をもたらすものという幻想的な観念にもとづいて生じているものだというわけである。だからこの場合、年々100ポンド・スターリングの規則的な収入が、何によってもたらされるのかは問われていないことに注意が必要である。林氏は「債券」とそれ以外の例えば「株式」等とでは問題が異なるかに述べている(後者については資本還元は言いうるが、前者については言えないと主張しているかである)、が、明らかにマルクスが論じていることをはき違えているとしか思えないのである。次の一文を見れば、すぐにそれは分かるであろう。

 《債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。さきほど見たように,信用制度〔Creditwesen〕は結合資本を生み出す。この資本にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている。すなわち,これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。(もちろん,それらの株式がただのいかさまを表わしているということもありうる。)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。》(26-27頁)

 このように、マルクスは株式のように国債とは違って、純粋に幻想的な資本を表していない場合でも、その資本還元された資本価値は純粋に幻想的であると述べている。つまりこの限りでは株式も国債も同じだと述べているわけである。

 ところで林氏は「債券」なるものを何か特別なもののように論じている。しかしマルクスは「債券」なる用語は使っていない(マルエン全集の事項索引でも引っ掛からないし、『資本論辞典』にも項目としてない)。これはブルジョア経済学の用語ではないか(『平凡社大百科事典』には次のような説明がある。「公衆に対する起債によって生じた,多数の部分に分割された債務(債権)を表章する有価証券。投機証券である株券に対し,債券は確定利付の利殖証券である。狭義では,株式会社が社債について発行する社債券をいうが,広義では,発行主体のいかんを問わず用いられ,国債,地方債,金庫債,公社債,公団債などを含む。発行主体による分類のほか,担保の有無により,担保付社債と無担保社債,債券上の権利者の表示の有無により,記名債券と無記名債券(日本では,実際上すべて無記名債券である),募集地域の内外により,内債と外債(外貨表示の外債を外貨債という。」)。『平凡社大百科辞典』の説明を読むと、「債券」というのは、要するに社債のようなものであり、国債も入るようである。しかし、マルクスが「有価証券」を二つにわけて、一つは「手形」、もう一つは「その他の有価証券」に分けているうちの、後者を意味すると考えることができる。とするなら、それは要するに「利子生み証券」であり、マルクスの場合は、そこには国債や株式、そしてときには荷札証券も入るとされているものである。

 ところが林氏は、マルクスに反対して、国債と株式を一緒くたに論じるのはおかしいと反論するわけである。マルクスが「その他の有価証券」としてひとまとめにしている国債と株式を、林氏は区別して、前者は「債券」であり、後者はそうではない、というわけである。そして架空資本は後者にのみ言いうるのであって、前者には言えないとのたまうわけである。しかしマルクス自身は、国債も架空資本になるとわざわざ国債を例にあげて説明しているのだから、林氏が少なくとも『資本論』とは違った見解を展開していることだけは明らかであろう。そもそも「債券」なる用語を持ち出して、何か特別なものであるかに論じている林氏は、果たしてブルジョア経済学にどっぷり浸かって、それに取り込まれてしまっているのでなければ幸いである。

 それはとにかく、われわれはマルクスの説明をもっと詳しく検討しなければならない。

債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。

 まずマルクスは国債は債務証書と同じであり、債務証書、すなわち有価証券と述べている。もちろん、借用書もそのかぎりでは債務証書であり、すべての債務証書が、有価証券というわけではない。借用書がそのまま譲渡されて、有価証券として売買されるわけではないからである。しかし有価証券の多くは債権・債務関係を証する証書であることは明らかなのである。またマルクスはこれを見る限りでは、株式も《債務証書--有価証券》と考えていると捉えることができる。株式の場合は国債の場合とは違って、純粋に幻想的な資本を表しているわけではないのだが、しかしその証券の資本価値を問う限りでは、純粋に幻想的であるとしているのである。つまり国債も株式も証券の資本価値としては同じように純粋に幻想的であること、だから両者は架空資本としては同じことだと述べているのである。

 ところが我らが林御大将は、国債と株式とは違うと、頑にこの両者の相違に拘っているのである。確かに両者には違いがある。マルクスは国債の方が有価証券としては、「純粋に幻想的な資本を表している」と考えているのに対して、株式の場合はそうではないと考えている(しかし資本価値としては両者ともに同じように純粋に幻想的であると考えている)。ところが林氏は「債券」(林氏は国債もその一種だと考えている)の場合は、むしろ反対に「実際的な経済的関係の反映であって」、その点で「株式とは区別されるのであって、同列に論じられるはずもない」と考えているわけである。つまり林氏に言わせると、国債の方が「実際的な経済的関係の反映」であって、株式はそれに対して幻想的であり、両者はだから同列には論じられないと主張しているわけである。これはマルクスの主張とはある意味では正反対の主張である。果たして林氏が正しいのか、それともマルクスが正しいのか、それが問題である。少なくともハッキリしているのは、林氏はマルクスの主張を理解していないし、マルクスの主張に反することを、ブルジョア経済学に染まった自身の見解として、勝手気ままに論じているということである。

 林氏はいつのまにか「マルクス主義者」ではなく、「林主義者」になり、自身の主張(ブルジョア経済学に影響されたそれ)こそが絶対であって、「マルクスがどう言っているか」などというようなことを言い出すやつは教条主義者だとのたまうようになってしまった。林氏も、マルクスが死んだ歳よりも、はるかに年齢を重ねたから、すでに自分はマルクスを超えたと錯覚しているのであろうか。そしてマルクスから謙虚に学ぶ姿勢を捨てて、マルクスより自分の方がエライと考えているようなのである。こうした人物がマルクスから真剣に学ぶ姿勢を無くすのはある意味では当然であろう。林氏がブルジョア経済学的な世迷いごとに耽るなら、それは彼の勝手である。しかしそれは「マルクス主義の旗」を降ろしてからやるべきではないだろうか。

 (以上、途中ですが、一旦、切ります。以下は次回に。)

2016年7月 3日 (日)

林理論批判(42)

§§§重要なことは『資本論』の正しい理解--現実の誤った解釈にマルクスの主張をねじ曲げて当てはめるのは避けよ--現実を分析し、考察するのは大切だが§§§--(続き)

 (今回は前回(41)が林紘義氏の記事の途中で切れていたものの続きになります。今回は林氏の『海つばめ』1111号の記事をそのまま資料として添付します)

 さらに林氏は次のように続けている。

 〈債務証書一般から、マルクスの「収入の資本還元」の論証をすることはできないであろう。例えば、社債を取り上げてみても、このことは明らかである(もちろん、社債でなくても、例えば、10年ものの国債でも同じだが)。〉

 一体、誰が「債務証書一般」を問題にしているのか、借用書も債務証書であるが、誰も借用書を商品として売買はしないのである。また約束手形もその意味では債務証書一般に入るかも知れないが、手形は有価証券ではあるが、その他の有価証券とは本質的に異なるものとして、マルクス自身は、架空資本の範疇には入れていないことはすでに見た(この両者がなぜ本質的に異なるのかといえば、前者は再生産過程内の信用--商業信用--にもとづいたものであるが、後者は再生産過程外の信用--貨幣信用--にもとづいているからである。もっとも同じ手形でも銀行によってすでに割り引かれて銀行の手元にあるものは、すでにその他の有価証券の部類に入り、架空なものである)。
 林氏は、社債を例に説明しているが、社債も当然「その他の有価証券」に分類され、だから架空資本として売買されていることは明らかなのである。林氏の説明はすべて間違っている。例えば次のように述べている。

 〈100万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。〉

 しかし社債の利子は確定利子率によるものである(例えば普通社債の場合、ウィキペディアでは「発行額、運用期間(償還日)、利率は発行時に定められている。これらは途中で変更されることはない 」と説明されている)。だからその時々の市場利子率でそれらは資本還元されれば、社債の額面とは異なる市場価値が形成されるのである。実際の社債はその市場価値を中心に社債のその時々の需給に応じた価格で売買されるが、しかしそれらの市場価格は市場価値によって規制され、それを中心に動くのである。だから社債も“立派な”架空資本である。確かに社債の場合は株式と同じように、その借り入れられた貨幣は、実際の事業に投資され利潤を生むと考えられる(だからこの点では林氏の理解とは異なり、社債は国債とは違って株式に近いわけである*)。しかし実際の貨幣そのものは、事業に投資されて無くなってしまっているのに、あたかも債務証書である社債そのものは、一つの資本価値を持つものとして一人歩きして売買されるのであり、そうした意味での資本価値を、マルクスは純粋に幻想的なものであり、架空資本だと述べているのである。林氏が何も理解していないことは、これらの説明をみても明らかであろう。

 公正を期するために、*の部分について次のように林氏も言っていることは紹介しておこう。

 〈というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。〉

 ここで林氏が〈債権者によって〉と言っているのは、恐らく〈債務者によって〉の間違いであろう。つまりこの場合は事業者(産業資本)は債務者だからである。しかしこんなことを言っても、架空資本について何も述べたことにならないことを林氏は何も理解していないのである。だから次のような馬鹿げた主張も出てくる。

 〈この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。〉

 しかしマルクス自身は、株式について次のように述べている(だから社債を株式のケースと類似させたり、国債や社債と株式とを区別して論じている林氏にとってもこのマルクスの述べていることは重要である)。

 債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。》 (26頁)

 ここでマルクスが、《債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合》として述べているのは、そのあとすぐに株式について説明しているように株式を前提して述べているのである。しかしご覧のようにマルクスは株式についても《これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である》と述べており、その点では国債と区別していないのである。なぜなら、国債として借り出された貨幣が国家によって消尽されてしまって無くなっているのと同じように、株式に投資された貨幣も現実資本に転換されて消尽されてしまっているからである。だからそういう意味でも国債がそうであるのと同じように、株式もあたかもそれ自身が一つの資本価値を持っているかの現象は、純粋に幻想的なのだとマルクスは述べているのである(もちろん、それが架空資本であるのは一つの転倒が生じていることが根本なのである。つまり株式が資本価値として一定の市場価値をもつ場合、その市場価値は、実際に利潤を生むために現実資本として前貸された貨幣額を表しているのではないからである。その資本価値は、ただ配当を利子率で資本還元されたものに過ぎず、だからそれは純粋に幻想的なものだからなのである)。だからこの点でも、架空資本という点では国債と株式とには何の区別もないのである。しかし他方で、マルクスは確かに《債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも》と述べているように、国債はただマイナスがプラスと見えているだけであるのに対して、株式は現実資本の所有権原を表しており、その限りでは両者には区別がある。しかし架空資本としては、つまりそれらが資本価値として、あたかも何らかの「資本」=「利子生み資本」として一定の価値(市場価値)を持っているかに現象する場合には、どちらも《純粋に幻想的である》という点では同じなのである。だから、株式を「擬制資本」として「架空資本」とは何か別ものであるかに範疇分けしている人たちは、こうしたマルクスの架空資本の理論を十分理解しているとは言えないのである。そして林氏もそうした俗説に影響されているわけである。

 だから林氏が次のように主張しているのも間違っているのである。

 〈マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(222頁)〉

 しかし林氏はこうした現実資本を表示する株式も《資本価値としては純粋に幻想である》とマルクスが述べている理由をしっかり考えていないのである。だからこんな間違った理解が生じることになる。マルクスは林氏が引用しているあとで、次のように述べている。

 《しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。》 (26-7頁)

 だから額面100万円の株式を持っていても、彼は決して100万円の貨幣額を持っているのではない。その貨幣は実際には現実に投下されてしまっているのである。だから株式はその資本によって実現される剰余価値に対する所有権原を表すだけだとマルクスは述べている。これは国債が租税の一部を取得する権原を表しているのとその限りでは同じである。そしてマルクスは次のように説明を続けている。

 《国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。》 (27-8頁)云々。

 だからマルクスは架空資本の自立的な運動を説明する場合は、国債も株式も同じものとして説明しているのである。例えば、この引用文の続きでも、次のように述べている。

 《しかし,現実の資本の価値増殖不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。〈というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。〉貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である。》 (28-29頁)

 ご覧のとおり、ここでもマルクスは株式と国債を一緒に《これらの有価証券》として論じて、それが国債であろうが株式であろうが《そのようなことにかかわりなく起こる》と、それらの有価証券の価格の運動を説明しているのである。林氏は、架空資本の自立的な運動を、マルクスは国債と株式とを同じものとして説明しているのは、どうしてなのかを十分に考えてみるべきであったろう。

§3

 ここでは林氏は「労働力」の例を持ち出して、次のように述べている。

 〈労働力を取り上げたのは、現実的な空資本の形成や、その説明とは少し違った文脈で――そんな風に論じているばか者もいる、といった文脈で――読むべきであって、地価とか株価といったものと同列に論じるべきではないのであり、したがってまた、基本的に、この労賃とその「資本化」から、空資本(擬制資本)の概念を理解すべきではないだろう。
 つまり労賃もまた一つの「収入」であり、マルクスはそれも「資本化」されると主張しているのだから、まさに、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」と主張しているのだといった見解は決して正当なものではない。労賃という収入の形態は、むしろ、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべきであろう。〉

 しかし最初にも言ったように、私は労働力を例に上げて、架空資本を説明したことも資本還元を説明したこともないのである。それは林氏のでっち上げであり、問題のすり替えである。労働力の例が本来の架空資本の話とは別であることは、そもそもマルクスが銀行資本の現実の構成部分について説明しているという全体の流れを知っているなら、当然のことなのである。労働力が、利子生み資本の投下対象として銀行資本を構成するハズがないからである。
 林氏は労働力の例は、〈「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべき〉と述べることによって、だから国債や社債の場合も労働力と同じなのだと言いたいかである。だから国債や社債の場合は、〈地価とか株価といったものと同列に論じるべきではない〉というわけである。しかし労働力と国債や社債とには決定的な違いがある。それについてはマルクスは次のように述べている。

 《ただ,ここでは,この《無思想な》考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。》 (大谷訳22-23頁)

 つまり架空資本というのは、規則的な貨幣利得を利子率で資本還元して得られる資本価値によってそれを手放し、彼はその利子生み資本の返済を受けることができるが、しかし、労働力の場合、例え彼の賃金を資本還元して、一定の資本価値を計算できたとしても、その資本価値にもとづいてそれを販売して、それを利子生み資本の返済として受けとることはできないとマルクスは指摘しているのである。むしろ彼の労働力の年価値は彼の年間平均労賃だが、彼はそれ以上の価値を、つまり剰余価値を彼の労働力の買い手(つまり資本家)に与えることを強制されるわけである。つまり労働力の例は利子生み資本が生み出すさまざまな馬鹿げた転倒した観念のうち、そのもっとも極端なものとしてマルクスは説明しているだけであって、それによって架空資本を説明しているわけではないのである。
 そして何度も言うが、マルクス自身は、銀行資本の現実の構成部分の一つである有価証券について、その架空資本としての性格や資本還元という独特な運動を説明しているのである。だからこそ、マルクスは国債も株式も《その他の有価証券》として一緒に論じているのであって、それらを労働力の例と同じに考えることはとんでもないことなのである。そしてこうした文脈のなかでのマルクスの説明が分かっているなら、資本還元について、林氏のような〈むしろこの説明には、地代と地価などの例こそが簡単明瞭であろう〉などという主張も出てくるはずがないのである。何で銀行資本の現実の構成部分として、地代や地価が出てくるのか、それが場違いなことは明らかではないか。林氏はマルクスが論じているものをきちんと理解していないことは、これをみても明らかなのである。こんな粗雑な『資本論』の読み方をしていたのでは、何も理解できないのも当然と言わねばならない。

§4

 林氏が次のようにいうのは、まったくの誹謗中傷の類である。

 〈そして同様に、サブプライムもまた一つの「収入」であり、したがって、それは「資本化され」なくてはならず、その「資本化される」ということがサブプライムの証券化ということであり、そのメカニズムこそがマルクスのこの理論においてなされなくてはならない、といった観念は奇妙な、転倒したものである。マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならないと言うのだ。
 しかし現実の関係はマルクスの言葉がどうあろうと、現実の関係として、客観的なものとして存在しているのであって、その現実の関係はただ現実の関係に即して、その関係を研究し、分析し、検討することによってのみ明らかにされ、説明されるべきであって、既存の理論はただその分析や理解を助けるだけであって、分析や研究に取って代わるわけではない。〉

 しかし一体、誰が〈マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならない〉と言ったのであろうか。マルクスの理論は現実を分析し考察する武器ではないのか。何の理論もなしに現実に立ち向かっても、林氏のようにただ現象を現象のまま撫で回すしかないのである。理論的武器もなしにどうして現実を科学的に考察するというのであろうか。もちろん、その理論も、林氏のような一知半解な理解ではどうしようもないことは事実ではあるが。林氏は私がサブプライムローンの問題について、何の具体的な事実も知らずに、現実を一つも調べもせずに論じていると思っている。現実を分析しているのは自分だけだと思い上がっているのである。しかし少なくとも私もそれなりに関連文献を手当たり次第に調べて、事実資料を収集し、それらを分析し、考察した上で論じているつもりなのである。サブプライム・ローンの証券化の具体的な過程について、林氏が論じているよりももっと詳しい事実経過や歴史過程も知識としては知ってはいたが、そんなことをくどくどと論じてもしょうがないから何も言わなかっただけのことである。自分だけが現実を分析しているなどと思うのは自惚れも甚だしいのである。

 〈私は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーター(住宅ローン会社、ノンバンクの金融資本など)にとっては、住宅ローンという債権の「流動化」であり、債券化であると主張し、本質的に、例えば、国家が税金を「担保」にして国債を発行するのと同じである――実際的な点では多くの異なった契機があるのだが。例えば、オリジネーターが担保とするのは、もちろん税金ではなくて、住宅ローンの返済金である等々――と説明したが、そうした説明は、何も説明していないに等しいとみなされたのであろうか。〉

 何度もいうが、こうした林氏の証券化の説明を私は批判したのではないのである。それが、そもそも「証券化」と言われるように、単なる債務証書が、国債の場合と同じように有価証券として売買されることなのである。だからこそ私は、それはマルクスが論じている架空資本であり、資本還元されて独自の運動をしているものと理解すべきと主張したのである。それが林氏にはまったく分かっていないのである。

 〈そもそも住宅ローンの返済金を、単純に「収入」――もちろん、オリジネーターにとっての――と理解すること自体、問題をすでに一面的に、“色眼鏡”で捕らえている。確かにオリジネーターにとっては、それは「収入」として現象するかもしれないが、しかしそれは本来、住宅ローンの返済金である、つまり住宅ローン会社が貸し付けた元金とその利子(もちろん、分割された)であって、単なる「収入」ではない。マルクスの「収入の資本還元」の理論を、ここで適用できないことは、すでにこの一つの事からも明らかであろう。〉

 こうした理解もおかしなものである。オリジネーターが住宅ローン債権を証券化して販売するということは、ローン債権を担保に証券を発行して売り出すことである。だからそれが資本還元されて、架空資本になるなら、その有価証券を購入した人は、その有価証券の定期的な確定利息を市場利子率で資本還元して架空資本の市場価値を求めることになるのである。だからこの場合の「規則的な収入」は、資産担保証券の確定利息であり、それを架空資本として売買するのは、それらを利子生み資本の投資対象として購入する機関投資家やヘッジファンドなのである。彼らはそれらを投機的な対象として売買してキャピタルゲインを得ようとしたのである。

 〈そもそも、我々の議論は、マルクスの概念を知っているのかいないのか、あるいはマルクスの『資本論』を読んでいるのか、いないのかといった形で展開されてはならないしされるべきではないだろう。我々がマルクス主義を重視するのは、スターリン主義とか、毛沢東主義とか、様々な新左翼理論などがはびこっている現在、我々の理論的、思想的な出発点であり、根底でもあるマルクスの理論や思想を確認していこうということであって(だからこそ、我々はマルクス主義とその理論や思想の研究と獲得を重視する)、マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立てるのが正しくないのは自明のことであるように思われる。〉

 一体、どこの誰が〈マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立て〉たのか、馬鹿げた議論である。そうした虚偽の“事実”をでっち上げて、相手を攻撃する手法こそ、スターリニズムそのものではないのか。私は、林氏の資本還元の理解が間違っているから、もう一度『資本論』を読み直したらどうですか、言っただけの話であって、セミナー参加者全体に対して「『資本論』を読め」などと言うハズもないのである。こんなスターリニスト的なヤクザな議論の仕方は胸くそが悪くてまじめに相手にするのも嫌である。

§「架空資本」の概念なしに現代の金融現象は科学的には解明できない

 しかしいずれせよ、今日のサブプライム・ローンに始まる金融危機の諸現象は、マルクスの架空資本の理論なしには科学的に解明することは不可能だと私は考えている。
 現行の『資本論』の第3部第25章の表題「信用と架空資本」は、草稿のこの部分に「5.信用。架空資本」とマルクスが自身がつけたものを、エンゲルスが少し手を入れて第25章の表題にしたものである。しかし実際の現行の25章では架空資本について本格的には何も論じていない。実はこの草稿にある表題は、大谷禎之介氏の研究によれば、マルクス自身が「5」と番号を打った部分全体の表題であり、それは現行の第25~35章全体をカバーするというのである。つまりマルクスは現行の25~35章全体のテーマとして「信用。架空資本」を考えていたのである。そこでは21~24章でその概念が解明された「利子生み資本」が、信用制度のもとで運動する諸形態を考察することが課題とされている。そしてマルクスが利子生み資本の運動諸形態でもっとも重要と考えたのは、だから「架空資本」としてのそれなのである。それは現実資本の蓄積から相対的に一人歩きして現実資本の何倍何十倍もの規模で膨れ上がる金融諸現象を解明するためのキーワードなのである。それが実際に理論的に追究されているのは、現行版の30~32章「貨幣資本と現実資本 I ~III」である。そこでは、マルクス自身が「比類なく困難な問題」として、貨幣資本の蓄積が現実資本の蓄積とどのように関連しあっているのか、また一国に存在している貨幣の量とそれは如何なる関係にあるのかというテーマが追究されている。マルクス自身はこの課題を十分に果たさずに終わっている(それはある程度はやむを得なかったのである。というのはこの問題は第2部第3章(篇)における社会的総資本における拡大再生産の現実的諸条件を貨幣流通による媒介の下に解明して、始めてその考察の基礎が与えられるようなテーマだからである。しかしマルクスが第3部の草稿を書いていたときには、当然、まだ拡大再生産は手つかずの状態だったのである。だから『資本論』の最終草稿である第2部の第8稿では、マルクスは同じ問題を追究し、その解決の基礎を与えているのである)。マルクスはそこで何を明らかにしようとしたのかと言えば、まさに現代のバブル現象そのものの理論的解明なのである(そして35章はその破綻の不可避なことを論証するのに充てられている)。デリバティブとか、さまざまな金融派生商品が氾濫し、膨大な貨幣資本が世界の金融市場を荒し回り世界経済を金融的危機に陥れている、今日のような現実資本を何倍も何十倍も上回り自立的に運動している架空な貨幣資本の運動を如何に科学的に解明するかという問題(少なくともその解明のための理論的基礎)こそ、マルクスが追究しているものなのである。29章はまさにそうした課題を担う30~32章の前提として「架空資本」の概念が解明されているところなのである。その意味では29章は現代の金融諸現象を解明する上でもっとも基礎的な理論をわれわれが身につけることができるところと言うことができるであろう。
 だから現代のさまざまな金融現象を科学的に解明するためには、マルクスが明らかにしている「架空資本」の概念抜きにはできないと私は考えているのである。その意味では、架空資本そのものを理論的にシャットアウトした林氏は、今日の金融諸現象を科学的に解明する手段を自ら閉ざしたとしか言いようがないのである。そうなると、あとはただ現象を現象のままに敍述することしか林氏には残されていない。しかしそれはマルクスがいうところの俗流経済学の道でしかないのである。  (了)

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【資料】

●『海つばめ』1111号(2009.12.27) 【三面トップ】

 

重要なことは現実の正しい理解
マルクスの“当てはめ”避けよ
『資本論』を読み、学ぶことは大切だが

 関西の労働者セミナーにおいて、私の報告の一部分(サブプライム・ローンの“証券化”の概念)について、一つの論争が突発した。すなわち私の報告は、サブプライム証券化について、そのメカニズムについて、明確に述べていないということであった。その批判はいいとして――というのは、私の報告がサブプライム証券化問題の細部にいたるまで明確かつ的確に述べておらず、不十分な面があったと言うなら、それは否定すべくもないから――、しかし問題は、批判する論者が、私がマルクスの次のような概念を適用していないから、それに基づいて、サブプライム証券化を明らかにしていないから、といった立場から発言したことであった。私はマルクスのあれこれの言葉によって、あるいはあれこれの概念の“適用”(しかも間違った理解による)によって、現実を裁断したり、解釈したりするやり方に賛成することは決してできなかった。この問題はセミナーのときにおいては、突然に提出された問題であり、それに伴って発生した議論だったということもあって、参加者の多くにも何が問題になっているのか、どう理解したらいいのか必ずしも明確にならなかった面も残ったので、ここで簡単に論じさせていただくことにする。もちろん、これはサブプライム問題の一番基礎的な信用関係を、そのメカニズムを正しく理解する、という重要な課題と密接に関係を持っているのではあるが。
◆ 1
 批判者が持ち出したのは、マルクスの次の一文であり、これは参加者の一人によって、わざわざセミナーの中で読み上げられもしたのであった。
「空資本の形成は資本化と呼ばれる。すべて規則的に反復される収入は、平均利子率で貸出される。たとえば、年収入は一〇〇ポンド、利子率は五%とすれば、一〇〇ポンドは、二〇〇〇ポンドの年利子となるであろう。そこでこの二〇〇〇ポンドが、年額一〇〇ポンドにたいする法律上の所有名義の資本価値とみなされる。そこで、この所有名義を買う者にとっては、この一〇〇ポンドの年収入は、実際に彼の投下資本の五%の利子を表わす。かくして、資本の現実の価値増殖過程との一切の関連は、最後の痕跡に至るまで消え失せて、自己自身によって自己を価値増殖する自動体としての資本の観念が確立される」(『資本論』三巻二九章、「銀行資本の構成部分」、岩波文庫七分冊二二二頁)
 サブプライムの証券化のメカニズムについて述べた私の報告が、マルクスのこうした概念を知らないで、したがってまた、この概念を適用しないで、論理を展開しているのではないか(それは正しくない)という批判であったが、しかし私はこの概念を知らないで展開したのではなく、むしろ反対に、十分に知っていてレジュメを作成しているのであって、ただこの概念を適用する必要を認めなかったということにすぎない。
 批判者は、マルクスがこの概念を説明したときに、国債や労働賃金などにも言及していることをもって、サブプライムの証券化も、マルクスのこの概念から説明できる、いや、説明しなくてはならないと考えたのであろうが、しかし途方もない誤解である、としか思われない。
◆ 2
 しかしまず、我々はマルクスが言及している国債は、どんな国債であるか、当時の実際に即して検討して見る必要があるのではないだろうか。必ずしも、現在日本で発行され、取り引きされているような国債とは同じ性格のものではないように思われる。
 マルクスは当該個所で、「国債」について、次のように述べている。
「国家は借入資本にたいする一定量の利子を、年々その債権者に支払わねばならない。このばあいには債権者は、その債務者に解約通告をなすことができず、ただ債券を、その所有名義を、売ることができるだけである。資本そのものは、国家によって支出され、食いつくされている」(同二一九頁)
 マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。というのは、普通、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定されるのは、永久国債だからである。もちろん、普通の国債も、償還期限(満期)が五年とか一〇年とか定められていて、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では、永久国債と同じだが、とりわけ永久国債についてこの概念が言われるのは、永久国債といっても、政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか。
 しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が五ポンドという「収入」が利子率(五%?)で資本還元されて一〇〇ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。一〇〇ポンドという国家証券として、国家収入の中から、一〇〇ポンドにつき五%(五ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。
 この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。
 債務証書一般から、マルクスの「収入の資本還元」の論証をすることはできないであろう。例えば、社債を取り上げてみても、このことは明らかである(もちろん、社債でなくても、例えば、一〇年ものの国債でも同じだが)。
 一〇〇万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)、などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。「収入の利子率による資本還元」という場合は、当然のこととして、利子率はすでに前提されているのであって、それはマルクスが次のように言っていることからも明らかである。
「利子付資本という形態は、いかなる確定的常則的貨幣収入も、それが資本から生ずると否とを問わず、一資本の利子として現われる、ということを伴う。まず貨幣所得が利子に転化され、次に利子とともに、この所得の源泉である資本も見出される。同様に、利子付資本とともに、すべての価値額が、収入として支出されないかぎり、資本として現われる。すなわち、それが産み出しうる可能的または現実的利子に対する元本(Principal)として現われる」(同二一八頁)
 マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えないのである。まして、事業会社(産業資本)が発行するような社債の場合はなおさらである。
 というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。
 この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。
 マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(二二二頁)
◆ 3
 またマルクスは「労働力」についても書いているが、しかしそれは、一七世紀のペティの偏見として、あるいはマルクスの時代の一つの妄想として、批判的に取り上げているだけであって、労働力という「収入」を利子率で資本還元した「価値」もしくは資本一般の理論の説明としてではない。むしろこの説明には、地代と地価などの例こそが簡単明瞭であろう。マルクスが引用する、労賃の「資本還元」とは、フォン・レーデンの次のような文章である。
「労働者は資本価値をもち、それは、彼の一年間の稼ぎ高の貨幣価値を、利子収益とみなすことによって見出すことができる。……平均日賃金率を四%をもって資本化すれば、農業男子労働者一人の平均価値は、ドイツ=オーストリア一五〇〇ターレル、プロイセン一五〇〇、イングランド三七五〇、フランス二〇〇〇、奥地ロシア七五〇ターレルとなる」(同二二一頁)
 そしてマルクス自身が、こうした観念は、奴隷制においては、奴隷が売買される場合には、一つの実質的な意味を持ちえるとしても、資本主義的生産様式においては全く無意味な、ばかげた観念に過ぎないと断じているのだから(二二一頁参照)、この例を持ち出して、資本主義のもとでは「すべての収入は利子率で資本還元されて価値もしくは資本」を持つ(したがって、サブプライム問題にもこの理論を適用して分析せよ)、といった主張が的外れであるのは余りに明らかではあるように思われる。
 労働力を取り上げたのは、現実的な空資本の形成や、その説明とは少し違った文脈で――そんな風に論じているばか者もいる、といった文脈で――読むべきであって、地価とか株価といったものと同列に論じるべきではないのであり、したがってまた、基本的に、この労賃とその「資本化」から、空資本(擬制資本)の概念を理解すべきではないだろう。
 つまり労賃もまた一つの「収入」であり、マルクスはそれも「資本化」されると主張しているのだから、まさに、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」と主張しているのだといった見解は決して正当なものではない。労賃という収入の形態は、むしろ、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべきであろう。
◆ 4
 そして同様に、サブプライムもまた一つの「収入」であり、したがって、それは「資本化され」なくてはならず、その「資本化される」ということがサブプライムの証券化ということであり、そのメカニズムこそがマルクスのこの理論においてなされなくてはならない、といった観念は奇妙な、転倒したものである。マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならないと言うのだ。
 しかし現実の関係はマルクスの言葉がどうあろうと、現実の関係として、客観的なものとして存在しているのであって、その現実の関係はただ現実の関係に即して、その関係を研究し、分析し、検討することによってのみ明らかにされ、説明されるべきであって、既存の理論はただその分析や理解を助けるだけであって、分析や研究に取って代わるわけではない。
 私は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーター(住宅ローン会社、ノンバンクの金融資本など)にとっては、住宅ローンという債権の「流動化」であり、債券化であると主張し、本質的に、例えば、国家が税金を「担保」にして国債を発行するのと同じである――実際的な点では多くの異なった契機があるのだが。例えば、オリジネーターが担保とするのは、もちろん税金ではなくて、住宅ローンの返済金である等々――と説明したが、そうした説明は、何も説明していないに等しいとみなされたのであろうか。
 そもそも住宅ローンの返済金を、単純に「収入」――もちろん、オリジネーターにとっての――と理解すること自体、問題をすでに一面的に、“色眼鏡”で捕らえている。確かにオリジネーターにとっては、それは「収入」として現象するかもしれないが、しかしそれは本来、住宅ローンの返済金である、つまり住宅ローン会社が貸し付けた元金とその利子(もちろん、分割された)であって、単なる「収入」ではない。マルクスの「収入の資本還元」の理論を、ここで適用できないことは、すでにこの一つの事からも明らかであろう。
 そもそも、我々の議論は、マルクスの概念を知っているのかいないのか、あるいはマルクスの『資本論』を読んでいるのか、いないのかといった形で展開されてはならないし、されるべきではないだろう。我々がマルクス主義を重視するのは、スターリン主義とか、毛沢東主義とか、様々な新左翼理論などがはびこっている現在、我々の理論的、思想的な出発点であり、根底でもあるマルクスの理論や思想を確認していこうということであって(だからこそ、我々はマルクス主義とその理論や思想の研究と獲得を重視する)、マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立てるのが正しくないのは自明のことであるように思われる。我々はセクトではないし、セクトを目指すものでもないことを確認しなくてはならない。
(林)

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