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2016年7月24日 (日)

現代貨幣論研究(8)

     §§2011年のセミナーのレジュメを読んで§§

 (以下のものは、たまたまこのブログで連載している「林理論批判」にアップするのに適当なものがないか、昔のノート類を捜している時に見つけたものです。内容を読むと、必ずしも林氏のセミナーのレジュメに沿ってその内容を批判するというより、「現代の貨幣(通貨)」をいかに理解すべきかという問題に対する自分自身のその時の考えを、レジュメを読んだ感想として綴ったものでした。だからむしろテーマとしては「林理論批判」より、「現代貨幣論研究」の方が良いだろうと考えて、このシリーズとして公開することにしました。

 因みに、文書のなかで言及している2011年のセミナーのレジュメの表題は、林紘義氏のものは「中国の資本主義的発展と“元” 問題」、田口騏一郎氏のものは「衰退するアメリカ資本主義--揺らぐアメリカの覇権」というものでした。

 なお、「林理論批判」として昔書いたものを発表してきましたが、このあと発表できるものとしては、かなり手を入れなければならないようなものばかりのようなので、それほど手間をかけるだけの意欲も意義も見いだせないので、当面は、休止することにします。)

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 林紘義氏や田口騏一郎氏のセミナーのレジュメを読むと、相変わらずの間違った理論を前提にしたものであることがわかる。しかし私はそれを批判するだけの理論的な構築を今の段階では出来ていないから、明確な批判は出来ないのである。要するに戦後の不換制下の資本主義の体制を如何にとらえるかということと関連している。金は実際の商品流通の過程から姿を消すわけだが、金は果たして貨幣として依然として通用しているのか、あるいはそうではなくなったのかという問題である。林氏は、結局、金は貨幣として通用していないという現実から出発し、通貨は政府によって管理されていると理解することになる。
 しかしこれはそもそも商品の価値とは何かという問題と密接に関連しているように思えるのである。つまり金を貨幣ではないとする理解は、結局は、労働価値説を否定することに帰着すると私は考えている。しかしそれを明確に論証するだけのものが今の私自身に構築されているわけではないので、その批判がなかなか難しいわけである。

 商品の価値とは、社会の物質代謝を維持するために、社会が自由にできる総労働をそれぞれの与えられた生産力にもとづいて必要な諸分野に配分するべき指標と言うことができる。それは実際には諸商品の交換関係を通じて客観的な法則として自己を貫徹しているような性格のものなのである。だから商品の価値そのものは直接には目に見えるわけではない。それは法則であり、その法則にもとづく一つの社会的実体なのである。自然の諸法則も見えないという点では同じである。それはさまざまな物体を介して自己を現わすのである。例えば重力の法則は、石ころを放り投げると、それが放物線を描くという形で自己を現わしてくる。諸商品の価値もこうした社会の生産関係のなかに貫く法則なのであり、それは諸商品の交換関係を通じて自己を現わすものなのである。そしてそれを人間の目に見えるように現わしているのが貨幣なのである。だから例え金が実際の流通から姿を消したからといって、この法則がなくなるということはありえない。諸商品に価格が付けられており、商品に値札がついていないと、われわれがそれを商品としてとらえることができないという現実は何一つ変わっていない。マルクスは商品に値札が付いているのはどうしてなのかを、その冒頭の商品論で解明したのであるが、ここで解明されている商品の単純な価値形態から展開されて、最終的に到達した貨幣形態、すなわち価格形態というものは、その限りでは金が実際の商品流通の過程から姿を消したからといってなくなるような性格のものではなく、それは商品が商品である限り、そしてそれに値札が貼っている限り、それらの諸商品が売買されて、交換されている現実の中に貫いている法則なのであり、そういう意味での物象的な過程であり、社会的実体なのである。だからこうした意味での貨幣がなくなるなどということはありえないのである。だからわれわれは不換制下のもとでも商品には値札が付いており、そこには「○○円」という値段が記されていることを知っている。これはまさにその商品の価値が尺度されて価格として現わされている現実を物語っているのである。とするなら、マルクスが冒頭の商品論や貨幣論で解明した諸法則がそこに貫いていることを、それは教えているのである。

 実際に、流通過程に金が貨幣として通用している現実が例えあったとしても、金が鋳貨形態をとると、すでに価値を尺度するものとしての金は直接的なものではなく、ある内在的な社会的実体であることをわれわれにも見える形で現わしてくる。例えば実際に流通している金鋳貨に含まれる金量は、流通における摩滅等で、それが流通手段として機能する前提である価値を尺度する金量とは違ってくるからである。だからこの段階で商品の価値を尺度する金量というのは、ある内在的な社会的実体でしかないのである。それは現実に流通している金量そのものではない。しかし金がもっている価値、つまりそれを生産するに必要な社会的な労働そのものが、この場合、商品の価値を尺度する社会的実体としての内在的な金量を規定していることは明らかであり、だからこの限りでは実在する商品金の内在的な価値そのものが問われていることは依然として同じなのである。金そのものは鋳貨として流通している一方で、実際に地金形態でも、商品として売買されており、金の市場価格というものは常に存在したのである。そして金の市場価格は、明らかに現物としての金そのものが商品として売買されていることから生じている。もちろん、その売買の実体の多くは、決して商品としての金の売買ではないこともわれわれは確認しておく必要がある。つまり金が何らかの工業用の生産材料として売買される場合は、確かにそれは商品としての金の売買であるが、しかしそれが例えば海外への支払の決済のために地金を輸出する必要から購買されたなら、それはただ鋳貨形態を地金形態に転換したに過ぎないだけだからである。あるいは蓄蔵するために、金を購入するなら、それは流通形態を蓄蔵形態に転換したに過ぎない場合も同じである。それらの場合は金の商品としての売買は一つの仮象でしかない。しかし、いずれにせよ実際の金の現物が取り引きされるわけである。こうした金の現物が売買される市場が、兌換制の下であろうが、不換制の下においてであろうが、常に存在したことをわれわれは確認しておく必要がある。つまり金の現物が売買されるというのは、そのときの鋳貨なり、あるいはその代理物(例えば紙幣や銀行券)などが、実際の金との関係をその限りでは常に持つし、持たねばならないということであり、鋳貨やその代理物が、実際に代表している金量がその場合には問われているのであり、金の売買という仮象において現われているのだということである。だから金鋳貨であっても、それが実際の金地金との交換において、それが名目的に代表する金量とは違った評価をされることになる。というのは、ここでは流通手段としての金鋳貨が問題なのではなく(それが流通手段として機能している限りは完全量目との貨幣として機能するが)、それが含有する金量そのものが問われており、地金としてしか評価されないからである。だから如何なる社会においても(といっても当然、原始共同体や社会主義社会は除いてであるが)実際の金の現物が取り引きされる金の市場価格こそが、その時々の通貨が--それが金鋳貨であろうが、紙幣であろうが、銀行券であろうが--、どれだけの金量を代理しているのかを常に表しているものなのである。だから例え金鋳貨が流通している場合においても、金の市場価格があまりにも上がりすぎ、その高価格が維持されるならば、法的な度量標準そのものが、それに合うように変更されるような事態が歴史的には生じてきたわけである。

 こうした社会的実体としての貨幣金の存在を前提すれば(つまり法則的に前提される貨幣だ)、そしてそれの何らかの代理物がどれだけの金量を代理しているかは、実際の、金の市場価格がそれを現わしていると捉えるなら、その代理物が制度として金との兌換を保障されているか否かということは、それ自体は実際の通貨(厳密な意味での)の流通にとっては何ら本質的なものではないということが分かってくる。いずれにしても、諸商品の価値は、社会的な実体である貨幣金で尺度されるのである。ただその尺度される過程そのものは、直接的ではないことから、それはなかなか分からないのであるが、しかし、実際には、金鋳貨が流通している場合でも、本当は諸商品が金によって尺度される過程そのものは目には見えていないのである。それは商品交換当事者の背後でなされている客観的な法則的な過程だからである。われわれには直接的には、諸商品には価格が付けられ(値札が貼り付けられ)、そして貨幣金を代理するもの(銀行券等)で、それらが実際に流通させられている現実を知るだけである。もし金鋳貨がそれらの媒介を行っている場合ですら金鋳貨はただ流通に必要な金量を一つの象徴として代理しているに過ぎないのである。そうした実体を知れば、その代理物が兌換銀行券か不換銀行券かということは本質的なものではないことがわかるであろう。

 さて、このようにそれぞれの国内において諸商品の価値を尺度する貨幣金が社会的実体として存在すること、そしてそれがどれだけの価値を内在しており、また実際に流通している貨幣代理物が、実際には流通に必要な金量をどれだけ代理しているのかは、それぞれの国内における金の市場価格がそれを表していることを認めるなら、戦後のいわゆる「管理通貨制度」というものの認識もわれわれは根本的に改める必要があるということがわかってくる。例えば戦後の一時期、制度としてとられてきた1ドル=360円という固定相場制というものの認識もわれわれは変える必要があるのである。

 ただそれを論じる前に、確認しておくべきことがもう一つある。つまり「通貨」の厳密な意味である。「通貨」はさまざまな形で混乱して理解されてきている。「通貨」とは、物質代謝を媒介する貨幣であり、不換制下のもとにおける今日では、日本銀行券(一万円、千円等のお札)と硬貨(100円、500円、10円等)に限定して理解しないといけない。例えば「預金通貨」という言葉があるが、しかし預金は決して通貨ではない。また手形や小切手等の有価証券の類も決して「通貨」ではないのである。だから当然、為替と通貨も同じではないことに注意が必要である。
 国際的な取り引きにおいて、為替はほとんど通貨と同義として論じられている場合が多い。だから国際的な取り引きにおける為替と通貨との区別と関連を理解することは殊更重要なのである。
 通貨は貨幣の流通手段と支払手段とを併せた機能を果たすものであり(広い意味での流通手段)、そうしたものに限定する必要がある。預金もその振替によって支払を決済するから支払手段と捉えられる場合があるが、しかしこれは実際には、預金が通貨として、つまり支払手段として、流通するのではなく、反対に通貨が節約される相殺の過程であると理解する必要があるのである。だから預金通貨というのは概念としては成立しないのである。また小切手や手形、為替等々も諸支払の相殺を行うための信用諸用具であり、むしろ通貨の節約手段として理解すべきである。もちろん、最終的に相殺が成立しないなら、現金、つまり通貨が流通するケースがないとはいえないが、しかし、今日の信用制度が発達した社会では、実際にはほとんどのケースは預金の振替によって相殺されているのである。だから為替は(内国為替も外国為替も)、信用用具の一つであり、通貨を代理してそれを節約するものではあっても、決して通貨と同じではないことに特に注意が必要である。

 そして通貨がそうしたものであるなら、当然、それはそれぞれの国内では国民服をまとっている(例えばドル札や円札がそれである)。だからそれらが国境を越える場合には国民服を脱ぎ捨てて地金形態にもどる必要がある。しかし今日のように信用制度が世界的にも発達した社会においては、地金が国際的にもやりとりされるわけではない。ではどうするのか。地金形態にもどる代わりに、今日では、それらの国民的通貨は、それぞれの国内における金の市場価格に還元されることになる。金の市場価格に還元されるということは、それぞれの国民通貨が実際にその時々に代表している金量に還元されるということである。そしてその上で、今日では、それらの国際的な諸支払は、すべて国際的な預金の振替決済によって、決済されているのである。

 しかしそれを論じる前に、話をもとに戻そう。それぞれの国の通貨はだからそれぞれの国の国内の商品市場の現実において、その「価値」、つまりそれがどれだけの社会的実体としての貨幣金を代理しているのかが決まってくるということがまず押さえられていなければならない。{もちろん、ここでわれわれは「社会的実体としての貨幣金」と述べたが、しかしそれはそれぞれの金市場で売買されている金と何か別のものなのではないこと、それはあくまでも諸商品の価値を尺度する機能を持つものとしては社会的な実体でしかないと述べているだけであることにも注意が必要である。マルクスも商品の価値を尺度するためには観念的な金で十分であると述べているが、同時に、その金は現物の金として流通過程で実際にうろついている必要があるとも述べている。われわれが社会的な実体としての貨幣金と述べているのは、そうした観念的な金のことを、つまり法則的に貫いているものとしての貨幣金のことを指して言っているのであるが、しかし、まただからこそ、それは実際にその国内の金市場で売買されている金の現物の存在を前提しているのであり、それなくてはまた諸商品の価値を尺度する観念的な金の存在もありえないのである。}それは例えば固定相場制をとっていようとも、何か海外の、例えばアメリカのドルによって円が規制され、規定されているわけではないのである。これは例えば、独自の通貨をもたずに、アメリカのドル札そのものを通貨として使っている国、例えばエクアドル(?)であっても、やはり同じなのである。その国内で実際に流通しているドル札がどれだけの金量を代理するかは、決してアメリカによってではなく、そのエクアドル国内の商品流通の現実によって規定されているのである。

 厳密な意味での通貨の「価値」(それが代理する金量)は、その国内の商品市場の現実によって、つまりその国の物質代謝の現実によって規定されているということを踏まえることが肝心なのである。まず商品流通という現実、物質代謝の現実があって、それによって受動的な貨幣があるという原則をここでもわれわれは思い出す必要がある。

 そしてわれわれは、例えば1ドル=360円の固定相場制を例にあげて、考えてみよう。しかし例として考える場合、360円は半端なので、簡単化のために1ドル=400円の固定相場であると仮定しよう。
 まず、不換銀行券である日本銀行券がどれだけの「価値」(もちろん、この場合は内在的なものではなく、それが代理する金量という意味である)を持つかということは、決して、ドルとの固定相場によって規定されているのではない。それは日本国内の商品市場の現実によって決まってくるのであり、規定されているのである。そしてそれを実際にわれわれが知りうるのは、つまり一万円札がどれだけの金量を代理しているのかを知りうるのは、日本国内における金の市場価格以外にはないのである。つまり円がドルとどういう固定相場にあり、そのドルが金とどのように法的に度量基準が決められているかということは何の関係もないということをわれわれは知る必要があるのである。例えば、そのときの金の市場価格が1グラム=400円としよう。そうすると、この場合1万円札は、25グラムの金量を代理しているわけである。
 もし1ドル=400円の相場が、両国の通貨の代理している金量の比率に合致しているなら、アメリカにおいても金の市場価格は、1グラム=1ドルである。しかしこの場合も忘れてならないのは、1ドルが1グラムの金量を代理しているというのは、あくまでもアメリカの国内の商品市場の現実によって規定されているのであり、アメリカ国内における金の市場価格が金1グラム=1ドルになっているというだけのことなのである。それぞれの通貨がどれだけの金量を代理しているのかは、それぞれの国内の事情によって決まるのであって、両国が固定相場制をとっていようが変動相場制をとっていようが、そんなこととは無関係に決まってくるということがまず第一に押さえておかなければならないことなのである。

 その次に確認しなければならないのは、為替相場というのは、決してそのまま両国の通貨の平価(両国の通貨の「価値」(代表する金量)の比率)と同じではないということである。為替というのは、すでに述べたように、有価証券の一種であり、それ自体は、遠隔地間の諸支払を銀行など金融機関を媒介させることによって、現金を輸送せずに決済するための信用用具であり、だからそれらは最終的には預金の振替によって決済され、だから基本的には諸支払の相殺を行うための諸用具である手形や小切手等と同じものなのである。一昔前までは、国際的な諸支払の相殺が最終的に交換尻が会わない場合、金の現送が行われたのであるが、しかし、今日のように信用制度が国際的にも発達している社会においては、実際に、金が現送されるケースはほとんどなく、国際的にも預金の振替による決済が日常的に行われている。
 またそれらが有価証券であるということがわかれば、その売買は、利子生み資本の運動であり、再生産過程の外部の信用にもとづいている貨幣の運動であることもわかる(つまり直接には物質代謝を媒介しているわけではない)。それらは銀行が介在していることからも分かるように、貨幣信用にもとづくものであり、それらが商品の売買を媒介しているからといって、決して直接的な商業信用、つまり再生産過程内の信用ではないのである(商業信用と貨幣信用が絡んでいるとはいえるであろう)。またそれらが利子生み資本の運動であることを理解するなら、為替の需給によってその価格は上下するということ、そしてその上下には原則として限度がないということもわれわれは知らなければならない。
 ただ兌換制度のもとでは、金の現送点を越えて、為替の相場は上下しないが、しかしそれは実際の為替の売買とその価格が為替の需給だけによって規定されていることを否定するものではないのである。金が現送されるか否かは、為替の価格によって規定されており、そして金が現送されることによって、為替の需給に変化が生じ、その結果、それが為替の価格に反作用を及ぼすに過ぎないのである。だからそれは為替の売買とは直接には関係のないところの話に過ぎないのである。それは金の輸出を禁止すれば、たちまち為替相場はそうした現送点を越えて上下することを見れば明らかである。
 だから為替相場そのものは、あくまでも為替の需給によって決まってくるのであって、通貨の価値(代表する金量)とは直接には関係がないのである。ただ通貨の価値は為替の需給を左右する一つの要因であるにすぎない。しかし為替の需給を左右する要因は他にも色々とあるのであり(貿易の収支もその一つである)、だから通貨の価値はその一つであるにすぎないのである。そして重要なことは、通貨の価値が為替の需給を左右する要因であるということは、決してその逆が真であることを意味しない。つまり為替相場自体は決して通貨の価値を規定することはないということである。この原則さえ踏まえていれば、例えば固定相場制をとっているからといって、日本の円の価値(代表する金量)がドルによって規定されるなどということは決してありえないのである。ドルが金にリンクされているから、円もその固定相場によって、間接的に金にリンクしている、などという主張が一時期いわれたが、こうした主張の誤りは明らかであろう。確かに制度的にはそういうことがいえたとしても、別に円は固定相場を介せずとも、国内の商品市場の現実において常に金とリンクしている(つまり金量を代理している)ということが分かっていないために、こうした馬鹿げた主張が言われたのである。つまり国内的には制度的には円は金との度量基準が決められていないから、だから円は金との関係がないと即断してしまったわけである。しかし法的に基準がないからといって、円が如何なる場合も何らかの金量を代理していないこということは決してありえないということが分かっていないのである。もし円が金量を代理しなければ、そもそも通貨として通用しないからである。

 だから固定相場制について言うと、それは次のような事態を意味している。要するに、日本の政府は1ドル=400円という為替相場を上下何%かのラインを維持するように、為替の需給を調整する義務を負うということである。これ以外の何の意味もない。これは政策的にはどんな意味があるかを少し検討してみよう。今、簡単化のために、商品の輸出入はすべてドル建てで行うこととする。つまりドル為替で売買されるわけである。

 具体例に考察する前に、やはりドル建てという場合の意味を考えておく必要がある。これはドルが度量標準になることである。例えば日本の輸出業者が自動車をアメリカに輸出する場合、当然、その自動車の価値を表さなければならない。つまり尺度する必要がある。それをやるのは当然、金による。しかしその金は直接的なものとして現われて来ないし、実際、輸出業者は金を意識することなくそれをやるのである。しかし彼はそれをどうやるかというと、自動車の価値をドルで表すわけだが、そのドルというのは、アメリカの通貨であり、その「価値」、つまり代表する金量はアメリカ国内の商品市場の現実によって規定されているわけである。つまり日本の輸出業者が自分が輸出する自動車をドル建てでその価値を表そうとするなら、彼はアメリカ国内の商品市場の現実によって規定されているドルの代表する金量にもとづいて、自動車の価値を尺度し、その金量をドルで表示することになる。もちろん、アメリカの国内のドルを代表する金量といっても、その金も観念的なものであり、金としては日本の国内の金と同じである。だから問題はようするに商品の価値を尺度する観念的な金を度量する基準が、アメリカ国内の商品市場の現実によって決まってくるものによって、日本の商品の価値を表示するということにすぎない。つまり自動車の価値をドルで表示する。1万ドルだとしよう。輸出業者は自動車を輸出するために船積みを行い、その船荷証券と一緒にアメリカの輸入元にドル為替を切って、それへの署名を要求する。こうして輸出業者はドル為替を入手するわけだが、それを取り引き銀行に持ち寄って預金するのだが、その預金はもちろん円預金だから、そのときの為替相場によって換算されて円預金になる。日本の銀行はそのドル為替を東京の為替市場に交換に出す。アメリカからの小麦の輸入業者は輸入代金を支払うためにドル為替を必要としていたら、それを購入するであろう。ここに為替の売買が成立する。これ自体はあくまでもドル為替という有価証券の売買であって、決して通貨の交換ではない。しかしドル為替を輸出業者は円で購入するのである。だから当然、そこではドルと円とがどれだけの金量を代表しているかが、問われることになる。しかし為替の売買そのものは、こうしたドルと円が代表する金量が基準にはなってはいるが、しがし当事者はそれを意識することなく、ただ直接には為替の需給によってその価格が決まってくるのであり、当事者もそれを直接意識して売買するだけである。だからもちろんいうまでもないが、ここでは決して通貨そのものが交換されているのではない。確かにドル為替を円で購入するためには、ドルと円がそれぞれどれだけの金量を代表しているのかが、問われるし、それを基準に売買当事者は考える場合がないとはいえないが、しかしそのことはドル札と円札を交換する両替とは本質的に違ったことである。もし人がドル札と円札の交換比率を正しく知りたいなら、アメリカ国内における金の市場価格と日本国内における金の市場価格を比較し、その割合に応じて円とドルとの交換比率を決める必要がある(しかしいうまでもないが、実際の金の市場価格そのものもやはりその時々の金の需給の変動によっても変動するのではあるが)。為替の売買においてもこの金の市場価格比が基準になっていることはなっているが、しかし為替の価格そのものは、直接にはその時々の為替の需給によって上下するのである。そして銀行などが行っている両替はその時々の為替相場にもとづいて行っている。だからそれらは実際の両国の通貨の交換比率にもとづいたものとはいえない場合もあるであろう。

 ところで日本の小麦の輸入業者は円で購入したドル為替を輸入代金としてアメリカに輸送する。アメリカの小麦の輸出業者はそのドル為替を自分の取り引き銀行に預金する。この場合はドル為替にもとづくのだから、当然、ドル預金である。その取り引き銀行はアメリカ国内の手形交換所にそのドル為替を持ち込む。そのドル為替には当然、そのドルの支払を行う銀行が記されている(つまり最初に日本から自動車を輸入した業者の取り引き銀行名である)。だからそのドル為替を買い取る義務が、自動車の輸入業者の取り引き銀行にはあるわけである。しかしその取り引き銀行がアメリカの小麦の輸出業者の取り引き銀行が買い取る義務のある為替をもしもっていれば、そしてそれの支払期日や金額が一致すれば、それらは交換所で交換されるだけで相殺されるであろう(その場合はこの両取り引き銀行内における預金の振替で決済されて終わる)。しかし、もし交換所での交換尻が合わなければ、それぞれの取り引き銀行がもっている連邦準備銀行(FRB)の当座預金間での振替によって決済されるのである。つまりドル為替はいずれにしても、そのドル為替 に最終的な支払義務を負う、アメリカの銀行がバックにあるということを前提しており、だからそれらは最終的にはアメリカの手形交換所に持ち込まれて、交換され、そしてその交換所での交換によって相殺されてしまう分については、それぞれの銀行内における預金の振替によって、相殺され、そして交換所での交換で交換尻の合わない分については、最終的にはアメリカの各銀行がFRBにもっている当座預金間の振替によって最終的な決済が行われているのである。

 そしてこれこそがドルが「基軸通貨」であるとか、「国際通貨体制」などといわれていることの実際の内容なのである。「基軸通貨」とか「管理通貨体制」とか「国際通貨体制」などと、「通貨」という用語が使われていることから、あたかもドル札というアメリカ国内で流通している通貨そのものが国際間でも流通しているかの錯覚があるのであるが、これらはすべて間違いである。映画の007の世界でもない限り、アタッシュケースに入れられたドル札が、麻薬の密売や武器の密売で購買手段として機能するようなことは、実際の貿易においては絶対にないのである。だからここには大きな錯覚というか、間違いがある。輪転機をフル回転してアメリカは世界中から商品を買いまくっている、などと田口氏も書いているが、こんなことが現実にあるわけではない。あるいは田口氏も林氏もドルが国際通貨として、国際的な流通手段や支払手段、蓄蔵貨幣として機能するなどとも書いているが、これらはすべて大きな錯覚であり、間違いなのである。すでに書いたように、ドルが基軸通貨であるというのは、国際的な商品の売買で、商品の価値を尺度するときにドルが計算貨幣として機能しているというだけの話である。計算貨幣のためには、実際の貨幣が必要なのではない。例えば国の予算を組む場合に、90兆円の予算を机上で組んだからといって、90兆円の現ナマを机に積み上げるアホがどこにもいないように、計算貨幣というのは、そうしたものなのである。ドルが世界中で商品の売買の基軸になっているということの意味は、それらの商品が「なんぼや」という問いに、「○○ドルや」と答えているというだけの話しである。そしてドル札ではなく、ドル為替が切られるのである。ドル為替において、実際にドルの支払約束をするのは、あるいはできるのは、直接にはアメリカ国内の市中銀行である。だからドル為替を切るためには、アメリカの市中銀行と何らかの取り引きのある業者が介在していない限り、そもそもドル為替そのものが国際的な商品取り引きで流通しないのである。先に上げた例で説明すると、この場合、日本の自動車の輸出業者がドル為替を切ったのであるが、しかしそのドル為替の支払約束をするのは、アメリカの自動車を輸入する業者の取り引き銀行(アメリカの市中銀行)なのである。だからそのドル為替は、最終的にはアメリカに送られて、アメリカ国内の手形交換所で交換されることになるのである。もちろん、日本の自動車の輸出業者が、直接、為替を送るのではない。彼はそれを自分の取り引き銀行(日本の)に預金するだけである。それはそのときの為替相場にもとづいて、円預金として記帳されるであろう。その日本の取り引き銀行は東京の為替市場に、そのドル為替を売りに出す(もちろん、以前、実際に為替の売買をやる銀行や業者は決められていたが、電子化された今日では相対取り引きも実際には行われているらしい)。するとわれわれの例では、アメリカから小麦を輸入する業者がその輸入代金の支払のために、ドル為替を必要としているなら、それを買うわけである。もちろん、この場合も輸入業者が直接買うわけではない。その日本の取り引き銀行が輸入代金の支払を代行するために、買うわけである。そしてそのドル為替がアメリカに郵送されるわけである。そうするとアメリカの自動車の輸入業者の口座から、小麦の輸出業者の口座に預金が振替られて、日本とアメリカの支払が相殺され、決済されることになるわけである。これは実際に行われている国際的な取り引きの実態であり、ドルが「基軸通貨」として機能しているということの実際の内容なのである。だからドルが「基軸通貨」であるとか、「国際通貨体制」などといわれるが、それは直接には「通貨」や「通貨の体制」というより、世界的な決済システムの問題、世界的な信用システムの問題なのである。国際的な決済がアメリカのメガバンクが中心になって行われており、最終的にはアメリカの中央銀行=FRBにあるメガバンクの当座預金間の振替によってなされているということなのである。そしてこのことの意味は、このFRBが世界の信用システムの軸点になっているということでもある。「国際通貨体制」というのは、こうしたアメリカの中央銀行を中心とした世界的な信用システムの体制のことである。だからこれらはドル札という「通貨」とは直接にはまったく関係がないし、ドル札などは国際的にはまったく流通していないのである。最終的にはFRBの当座預金間の振替が行われてすべての支払は決済され、相殺されているわけである。現金が出てくる余地はまったくない。だからその間、ドルはただ計算貨幣として機能しているだけなのである。流通手段としても支払手段としても機能していないし、もちろん、蓄蔵貨幣としても機能していない。そもそもドルが蓄蔵貨幣として機能するというのは、ドル札をタンス預金という形で(あるいは引き出しにしまい込むという形で)蓄蔵することを意味するのである。ドル札を銀行に持ち込んで預金した場合、確かに預金者にとって、それは蓄蔵貨幣として機能しているように見えるかも知れないが、しかしその預金された現金は、決して銀行に留まっていないのである。だからそれは蓄蔵貨幣ではない。ましてや国際的にはそもそもドル札が流通していないし、だれもそれを貯め込むこともできないのである。もちろん、国際的な麻薬密売組織や武器の密売組織などの場合は別ではあろうが。

 林レジュメでは、元の国際化ということが言われているが、もしそれが現実になるとするなら、同じような国際的な決済システムが、中国人民銀行を信用の軸点として、形成されるということでなければならないのである。しかし林レジュメでは、そんなことがまったく分からずに、論じられている。それが証拠に、ユーロ圏とドル圏が同じようなものとして論じられていたりするし、戦前のブロック化と同じような意味合いで論じられたりしている。しかしこれらはすべて無概念の産物であり、くだらないおしゃべり以上ではない。むしろ混乱や間違った観念を振りまいているものでしかないのである。

 こんな馬鹿げたことがセミナーのレジュメに堂々と書かれて、その間違いが、誰によっても指摘されないでまかり通っている同志会の現実というのは、果たしてどう評価したらよいのであろうか。そしてその間違いを指摘する人がいると、彼は林教祖様から、罵られ、罵倒され、攻撃されるわけである。だから誰一人として、「王様は裸だ」という人がなくなってしまっているのが、同志会の今の現実ではないのか。これが一つの頽廃でなくて、何であろうか。

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