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2016年7月17日 (日)

林理論批判(44)

§§§『海つばめ』1110号の関西セミナーの議論の紹介に関連して§§§--続き

 (今回は、前回、林氏の記事の検討の途中で切れていたものの、続きである。)

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 どうも、ついつい、横道に逸れがちになるが、われわれは、マルクスから謙虚に学ぶことを続けよう。

 マルクスは「株式」について、いくつかの説明を行なっている。

 (1)結合資本に対する所有権を表す証券

 (2)現実の資本を表している。すなわち、これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。

 (3)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。

 これらの説明を読むと、(1)と(2)は株式が「表す」ものが(1)は結合資本に対する「所有権」であり、だからこれは現実の株式会社の所有権を表すと考えることができる。(2)は「現実資本」すなわち、これらの企業で機能している資本、またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸されている「貨幣額」となっている。だからこの(2)は(1)の内容をより具体的に見ていると考えることができる。すなわち「現実資本」というのは、「実物資本」、すなわち実際に機能している資本(生産資本)という意味であり、株式はそれを表しているわけである。または、そうした企業で資本として支出されるために前貸された貨幣額を表しているとされている。だからこの後者の場合は、株式の額面が表しているものと考えることができる。そしてこの貨幣額を前貸している主体を「社団構成員」と述べている。つまり「株主」は「社団」を構成し、個人株主はその構成員であるとの認識がここで示されていると考えることができる。この「社団」は今でいう「株主総会」のことであろうか。だから(1)と(2)を総合して考えるなら、現実の株式会社を所有しているのは、個人株主で構成されている社団であると言えるのかも知れない。個人株主は、その社団の構成員として、その持ち株の按分比に応じて、現実資本に対する所有権を持っていると考えることができるのかもしれない。(3)は株式は、この資本(つまり現実の資本、あるいは前貸されている貨幣額)によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、とされている。

 この(3)の書き方には注意が必要である。まず「実現されるべき剰余価値」というのは、これから実現されるであろう剰余価値ということであり、将来生み出されるであろう剰余価値に対する所有権原である。しかも「所有権原でしかない」という書き方は、それはその前の(1)(2)では、結合資本に対する所有権を表したり、現実の資本、または前貸された貨幣額を表したりしているのだが、しかし、実際には将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ、という含意なのである。

 そしてその次に書いていることは、「剰余価値に対する所有権原でしかない」ということを具体例で説明していると考えることができる。株式を最初に所有していたAからBに販売され、さらにBはCに販売した場合、A、Bは権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させたと書かれているが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本(moneyed Capital)に転化させたということであろう。そしてCは彼の貨幣資本(利子生み資本)を《株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである》とされている。つまりCにおいては、株式はたんなる剰余価値に対する所有権原でしかないとマルクスは考えているわけである。

 《(1)国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。/(2)それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。/(3)一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる《払込》金額が100ポンド・スターリングであり,その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5% で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。/(4)しかし,現実の資本の価値増殖を不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券の価格は利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。《というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。》/(5)貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である》(大谷訳27-29頁)

 このパラグラフは長いので、われわれは便宜的にそれを五つの部分に分けて考えるために、「/」を挿入して、それぞれの部分に番号を記した。それにもとづいて考えていくことにしよう。

 まず(1)の部分である。マルクスは架空資本の自立的な運動を、考察しようとしているのであるが、その書き出しを《国債証券であろうと株式であろうと》と書いている。つまりこれから論じる架空資本の自立的な運動としては、国債も株式も同じことが言えるとの認識がマルクスにあることはこれを見ても明らかなのである。ところが、林氏は国債(彼はそれを「債券」などと一般化して論じるのであるが)と株式とでは違うのだということをことさら強調している。そればかりか林氏は国債の場合は架空資本ではないとさえ主張するわけである。こうした主張を聞けば、誰しも、林氏が本当に『資本論』を読んでいるのかどうかを疑うであろう。セミナー当日、私は林氏に対して、「『資本論』をキッチリ読んで下さい」と言ったのであるが、林氏は、そうした私の発言そのものを不穏当なものとして糾弾しているぐらいだから(恐れ多くも林陛下に何ということを言うのか! というわけである)、恐らくそのあとも『資本論』を一つもまじめに検討などせずに、あの『海つばめ』の関西セミナーの報告を書いているのであろう(もし彼が私のいうとおりに『資本論』を読み直し、そして誠実さのカケラでもあるならあのような記事を平気で書けないハズである。『資本論』を一番しっかり勉強していないのは、実は、林氏本人なのである!)。だからこそ「債券」などというブルジョア経済学的な用語を平気で使い、国債(債券)と株式は違うなどと馬鹿げた主張を展開することになっているわけである。国債と株式とが異なることは誰でも分かっていることである。しかし今問題になっているのは、自立的な運動をする架空資本として両者は同じものと考えることができるかどうかなのである。とにかく林氏に言及すると、ついつい横道に逸れてしまうので、これぐらいにして、マルクスの一文の検討を続けよう。

 (1)《国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。

 これを読むと、マルクスは国債も株式も《所有権原》を表しており、その《価値》が《自立的な運動》を行なうと考えている。もちろん、ここで「価値」というのは、それまでマルクスが述べてきた「架空資本」としての「資本価値」のことである。その自立的な運動が《それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する》というのは、《それらを権原たらしめている》というのは、株式も国債もともにそれぞれ名目的な額面価格があり、その額面が株式の場合はその配当率にもとづいて規則的な一定の貨幣額を請求する権原をその所有者に与えており、国債の場合も確定利率にもとづいて、その額面に応じた年間利息を請求する権原をその所有者に与えているということである。つまり株式も国債もそれぞれの額面の名目的な額に応じて、一方は配当率によって、他方は確定利率によって、一定額の規則的な貨幣利得をその所有者が得る権原があるということである。しかし株式も国債も、そうした貨幣請求権とは別に、その架空資本としての資本価値の自立的な運動によって、あたかも《現実の資本を形成しているかのような外観を確認する》のだというのである。そしてそうした外観にもとづいて、それらは商品になり、すなわち売買され、またそうした商品として《それらの価格は独特な運動および決まり方をする》のだという。ここで《現実の資本を形成しているかのような外観》というわけだから、それらは決して《現実の資本を形成して》いないのに、《形成しているかのような外観》、つまり見かけ上そのように見えるということである。だからそれらは商品として売買されるわけである。しかし実際はそれらは商品でもないし、その売買は本当の意味での売買ではないのである。それらはすべて見かけ上のものである。これは利子生み資本の概念が説明された所でも、貨幣そのものが商品となり利子がその価格となって、売買される外観をとったのと同じことが言えるのである。株式も国債も一見すると商品として売買されているように見えるが、実際は、そうではなく、それは利子生み資本の運動なのであり、だからそれらは貨幣の貸し付けと返済の運動を行なっているに過ぎないわけである。例えば株式を購入する貨幣資本家は彼は彼の所有する貨幣を利子生み資本として投下するわけであり、その意味では彼がそこから得る配当は彼の貨幣資本(moneyed Capital)の果実(利子)である。そして彼がその株式を売り飛ばしたなら、彼はその彼自身が貸し付けた貨幣資本の返済を受けたことになるのである。だから株式の売買も基本的には利子生み資本としての貨幣の運動と同じであり、貨幣の貸し借りが商品としての貨幣の売買という外観を得るのと同じなのである。国債の場合も同じであり、国債の購入も購入者は彼の利子生み資本を投下したのであり、彼が国債を販売するときは、彼の貸し付けた資本(利子生み資本)の返済を受けたことになるのである(株式や国債の場合、「購買」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「販売」が利子生み資本の「返済(回収)」である。貨幣商品の場合は「販売」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「購買」が利子生み資本の「借り入れ」であった)。

 (2)《それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。

 ここには《市場価値》と《名目価値》という用語が使われている。ここで《市場価値》をあまり厳密に考える必要はないように思える。マルクスは第10章で《市場価値》について次のように述べていた。

 《これらの商品のあるものの個別的価値は市場価値よりも低い(すなわちそれらの生産に必要な労働時間は市場価値が表わしている労働時間よりも少ない)であろうし、他のものの個別的価値は市場価値よりも高いであろう。市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値と見られるべきであろう。

 つまり市場価値というのは、同じ商品種類において個別の商品の価値の平均価値という意味である。しかしマルクスは同時に《最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって》とも述べており、だから異常な組み合わせの場合には、こうした意味での市場価値とは異なるケースもありうることを意味している。よって、ここではわれわれにとって重要なのは、《市場価値はそれ自身市場価格の変動の中心なのである》というマルクスの説明であろう。すなわちここで、マルクスが述べている《市場価値》は《市場価格》の中心をなすものという意味での《市場価値》という意味と考えることができる。つまり国債や株式が実際に売買される価格(市場価格)というのは、直接にはそれらの需給によって日常的に上下するのであるが、《市場価値》というのは、そうした日々変動する《市場価格》を規制し、その変動の中心をなすものなのである。これらの「架空資本」の「資本価値」はまったく純粋に幻想的なものだとマルクスは説明してきた。だからそれらの《市場価値》も同じように幻想的と考えるべきものである。しかし、現実にはそうした市場価値を中心にした市場価格でそれらは売買されており、そうした自立的な運動を行なっているわけである。

 さて、以上のようにわれわれはマルクスが『資本論』(の草稿)で述べている内容を詳しく見てきたのであるが、次にわれわれが確認しなければならないのは、こうしたマルクスが『資本論』で述べていることを林氏は果たして正しく理解しているのか、ということである。もし林氏がそうした内容を正しく理解しているのなら、そうした林氏に対して、「『資本論』をしっかり読み直せ」と言った私の発言は、確かに「よくない」(「通信」No.38に紹介されている京都支部の意見)ものであり、ただ「暴言」としか言いようがないものであったであろう。

 もし私の「『資本論』をもう一度良く読み直して下さい」という発言が「よくない」(京都支部の意見)というのなら、それは次のような場合であろう。つまり私の発言は、われわれはマルクスの『資本論』から謙虚に学ぶことを共通の前提にしているのであるが、一部の人たちは、マルクスがどう言っているかといったことはどうでも良いことだと考えているということである。つまりここには両者に共通の前提がそもそもないということである。確かにこうした前提のもとでなら、私の発言は「よくない」というか、無意味なものとなるであろう。京都支部は恐らくそういう前提に立っているのであろう。彼らは自分自身で『資本論』をもう一度確かめた上で、なおかつ私の発言が「よくない」と思っているのであろうか。もしそうなら、そうしたこととしか考えることはできないわけである。
 
 林氏があんな無茶苦茶なことを『海つばめ』で書いているのに、全国の会員からは誰一人として、それは『資本論』でマルクスが論じていることと違うではないか、という会員の声は現われない。一体、彼らは『資本論』を何のために読んでいるのか。一体、支部の学習会として『資本論』を3巻の終わり近くまで勉強しているところもあるのに、彼らは何を勉強したのであろうか。『資本論』を真剣に学んだのなら、林氏の言っていることが間違っていることぐらいはすぐに分かるはずである。にも関わらず誰も一言も何も言わない。言えないのであろうか。こうした同志会の現状はまったく不健康であり、正常とは言い難い。林天皇のお言葉は絶対であり、それに逆らうことは「よくない」(京都支部)とでも考えているのであろうか。馬鹿げた話である。

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 (以上で、この記事を批判する文章は終わっている。恐らくここまで書いて、こんな調子で『資本論』の草稿を読みながら、その内容を確認して行くぐらいなら、そもそも最初から第29章該当部分の草稿の詳しい解読をまずやってからにした方がよいのではないか、と考えて、記事の批判は後回しにして、草稿の解読の方に軸足を移したのであろうと思う。)

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【資料】

●『海つばめ』1110号(2009.12.13) 【三面トップ】
恐慌とその歴史について
関西労働者セミナーの議論

 十一月二十八、二十九日、首都圏についで関西でも、「恐慌とその歴史を探る」という同じテーマで労働者セミナーが開催された。もちろん、首都圏と同じ傾向の議論もあったが、またそれとは別の問題や、首都圏では全く論じられなかった問題も討論の中で突き出された。ここでは、主として首都圏とは違った議論を紹介しよう。
◆社会関係から説く視点弱く
 最初の平岡報告――産業資本が勃興してきた時代、資本主義の自由競争の時代の恐慌――については、首都圏セミナーと同様に、産業資本が社会の主要な(あるいは支配的な)契機もしくは内容として展開してきたという視点がなく、“生産力主義的”な偏向があり、恐慌の説明として説得的でなかったということが基本的な批判点として出された。
 資本主義的恐慌は資本の本性と密接に関係しているのであって、単に生産力の発展とか一般的競争の激化ということだけの問題ではない。例えば、資本は「自己増殖する価値」であり、蓄積のための蓄積、生産のための生産を――つまり労働を搾取し、剰余価値を、より大きな剰余価値を獲得するための、たえず増大する資本の蓄積を――本性とするのであって、その本性は「貿易や投機」とか、「市場を開拓する歴史」ということとはいささか違った次元に属するだろう。
 またレジュメの始めで、イギリスにおいて最初に資本主義が発展したことの説明として、それが綿工業と結び付いており、イギリスが海外から綿花を手に入れやすい条件を幸運にも持っており、その点で他国よりも有利な地位にあったからである、と主張し、またこれは首都圏でも疑問としてだされたが、「つまり恐慌を克服するために市場を開拓する歴史を繰り広げてきたが、それはより大きな過剰生産、そして恐慌を引き起こす結果に終始した」と主張したことについても、「ローザ主義ではないか」という批判が出された。
 イギリスにおいて産業資本主義が勃興したのは、単に綿花を取得することが他国よりも容易だったとか、産業革命が行われ、生産力が発展したということではない、あるいはむしろ産業革命にせよ、急速な生産力の発展にせよ、それはまた他面ではイギリスにおいて急速な資本主義的発展が開始されたから、その結果でもあるのであって、実際には、資本の蓄積の進行や資本の原始的蓄積の問題、あるいは一五世紀から延々一九世紀の始めまでも続いた――断続的ではあれ――囲い込み運動(エンクロジャー)など、封建的な生産関係の解体が進んだという歴史的な過程こそむしろ重要な歴史的契機であったが、こうした社会関係の問題はほとんど論じられていないのであるが、それは恐慌を一貫して社会関係の進化と発展の問題として論じ、取り扱おうとする視点が弱いことと関連しているように見える。
 また、報告者の見解では、資本主義は植民地や“外延的な”市場が存在する限りで発展することができ、それが行き詰まった時点で瓦解するかに取れる叙述があり、それが恐慌論と結び付けられているかだが、それはローザらの帝国主義の理論とどれだけ違うのか、という疑問も提起された。
◆宇野学派的“タイプ論”に純化
 独占資本主義への過渡期、もしくは独占資本の時代の恐慌を報告した田口報告に対してもいくつかの疑問もしくは批判が出された。
 田口は、東京でのセミナーの批判を受けて、「追加」のレジュメを提出し、独占資本と恐慌との関係について、独占資本主義は一方では生産力をかつてないほどに急速に発展させるとしながら、他方では、新しい特徴が現われるとして次のように論じた。
「だが同時に、生産力の発展を阻害する要因も現れる。独占の地位にある企業は、たえず生産力を発展させて特別利潤を追求するという動機を弱める。独占資本は、独占価格の維持と独占利潤の安定的確保を目指し、飛躍的な生産力発展による生産物の急激な増加と生産物の価値の低下、そして投下固定資本の価値の社会的磨滅などが起これば、これらは独占企業にとって、利潤を低下させる限り利潤増加という目的と反することになる。
 独占資本は、企業は、相互の激しい競争によって生み出される過剰生産能力を、さらに激しい販売競争によって相互に切り捨て合うよりも、生産協定(シンジケート)によって過剰設備を遊休化し、また新技術のそれ以上の利用を阻止し、価格協定(カルテル)によって、独占価格による安定的利潤を得ようとする。
 こうして独占の下では、かつての生産力の飛躍的発展から一転して、投資の一斉抑制、蓄積された利潤の貸付資本形態での温存〔これはどういう意味か、なぜ「貸付資本形態での温存」か。何を説明しようというのか――林〕、新技術の非利用、新たな資本の独占的部門への参入阻止などが、特定の時期の独占の政策として行われる。過剰生産の重圧のものでの停滞の持続への傾向――これらは独占資本主義のもとでの蓄積の諸特徴である」
 しかしこうした独占資本主義に固有な諸特徴は、この時代の特徴として位置付けられ、深められるのではなく、独占資本のもとでも生産力は急速に発展するという見解と同列のものとして並列され、さらに宇野学派的な「独占資本段階はタイプ論」という観念と結合されて、停滞的な特徴を示すのは英仏、発展的特徴を示すのは米独であり、しかも独占資本の段階として特徴的な資本主義は米独であると言われたので、全体として何を言いたいのか分からない、矛盾し、混乱したものとなっている、という批判をこうむることになった。
 報告者の理屈によると、米独こそが独占資本主義段階を代表する資本主義国家であり、そこでは大資本間の競争がより貫徹し、高度な独占が成立し、そして生産力も発展し、資本主義として繁栄し、また鋭い恐慌に見舞われるというのだが、それでは、資本主義一般の生命力を語っていることにはなっても、資本主義の独占段階の特徴を積極的に展開しているとは到底いえないのではないか。
 他方、英仏は停滞し、頽廃した資本主義の特徴を表わすが、それは独占資本主義を代表するものではないというのだから、何を言っているのか、論理的な整合性はどこにあのか、という疑問が提起されるのもやむを得なかった。
 そしてまた、恐慌と固定資本の関係も再度議論された。問題とされたのは、首都圏でも槍玉にあげられた、次の文章である(一部は『海つばめ』前号でも引用したが、全文は以下のようなものであった)。
 「資本主義の発展が鉄鋼業を中心とするようになったことは、不況を長期化する大きな要因となった。
 鉄鋼業は投資額でも経営規模でも、以前の工業の主体であった綿工業を凌駕して大工業部門となった。この発展は大型高炉やベッセマーなどの新技術の導入によって実現したが、そのために固定資本が巨大化したことは資本の自由な移動を制限し、景気変動の形態に変化を与えることになった。
 すなわち綿工業など軽工業の場合は、好況時の需要増大に応じて生産は漸次的に拡大され、したがって不況期における需要減退による資本破壊も好況期に稼働してきた固定資本にたいして生じる。
 しかし巨大な固定資本を要する鉄鋼業など重工業ではこれとは異なった傾向をもつ。溶鉱炉などの建設には二、三年の期間を要し、そのため好況期の需要増大に対して対応は遅れる。好況期の需要増大に基づいて生産設備が拡大したころには、景気が不況に転じるなら新設備によって一挙に増大した生産は、不況期に減退した需要に対して供給を著しく過剰にし、不況期による固定資本更新は弱められ、景気回復はおくらされる。
 資本の移動の困難は価格低落を持続化させ、不況を長期化する傾向をもつことになる」
 こうした理論に対しては、不況の問題が生産力主義的に、技術的に(卑俗に)論じられていること、そしてそれと関連して固定資本は「自由に移動」できないと主張されていることなど俗流的な議論であると批判された。
 そして、報告者はこうした理屈は宇野学派が唱えているものだと紹介したが、会場から、宇野学派以前に、ヒルファーディングの「金融資本論」の中に同じような見解があるという指摘がなされた。宇野学派の俗論の多くがヒルファーディングに依拠していることからして、これもその口の一つということだろう。宇野学派だから、ヒルファーディングだからと悪いとはいわないが、彼らの理論が固有のドグマや卑俗さ、俗流さに深く侵されているということは、我々がこれまで散々に語ってきたことである。“ヒルファーディング的な”(つまり宇野学派的な)、あるいは“スターリン主義的な”、いわゆる“学界”ではびこっている(はびこってきた)観念に対して、批判的に接近しないで安易に追随することは問題であろう。
 そこにこそ、独占資本の段階と恐慌という重要なテーマに、報告者がなかなか接近できなかった根本問題があるのではないか。
 まとめのような形で、最後に司会者から、独占段階の資本主義を特徴づけるなら、米独というより、むしろ英仏の方をこそ重視すべきではないか(報告者は独占は英仏には現われていないかに言うが、そんなことはない)、そしてその場合には海外への資本輸出(投下)なども注視されるべきだが、それも正しくは提起されていないという発言があった。
◆現代資本主義と恐慌の問題は未解決?
 三番目のテーマにあっては、二九年の世界大恐慌と、その後の資本主義――第二次世界大戦後から現代までも含めた――をいかに評価するか、という極めて重大な点で議論が行われたが、なかなか“結論”といったものに議論が収斂して行かなかったが、それはまた現代が混乱と矛盾を含んだものとして展開中であって、歴史が、簡単に、割り切った解答を提供していないということもあったであろう。
 二九年の大恐慌については、それがいかにして勃発したかという点については、東京のセミナーと同様に、報告は極めて不十分で、明確ではないという批判が多かった。例えば、レジュメの次のような説明が問われることになった。
「27年の後退のあとは、国内の寡占競争の激化、さらにはヨーロッパ工業の復興による世界市場での競争の激化を背景に、鉱工業企業はコスト切り下げのため設備投資を拡大した。そしてこの時期の景気拡大は、20年代末の株式ブームに引っ張られて進められた面も強かった。20年代には一般に大企業は償却資金と留保利潤を合わせた自己金融によって、設備投資だけでなく運転資金の多くをまかなうことができた。こうした自己金融の進展の中で、銀行の事業貸出は停滞し、好況下での資金形成の増加は金融の緩慢を促し、証券市場の活況を招いた。……28年以降は、株式投資信託が急速に普及したこともあり、一部の企業では投資資金の調達のために株式を発行するようになり、株式ブームは実体経済を離れて独走するに至った。……しかし社会的再生産過程から遊離した株式ブームは、早晩崩壊せざるを得なかった」
 二九年の大恐慌のこうした説明もしくは特徴づけは現象的であるばかりではない、経過や内容としても正確ではないのであって、例えば、「自己金融」が一般的になったから、「証券市場の活況を招いた」という説明自体、因果関係や意味が不明であり、一体誰がこんなことを主張しているのかが問われることになったが、報告者によれば宇野学派の学者の理屈であるということであった。
 ここでは、20年代にアメリカで生産力の発展があったから(株式ブームもあった)とかいうだけでは大恐慌の説明として余りに一面的だ、第一次世界大戦においても生産力の大きな発展があったのではないか、それは無関係なのか、また戦後の世界の体制とか諸関係や、世界市場という側面からも検討する必要はないのか、等々の疑問も出された。
 大きな議論になったのは、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という報告者の命題については、東京のセミナーにつづいて大阪でも疑問や批判が相次いで、必要なことはニューディールが歴史や現実の中でいかなる役割を果たしたのか、どんな歴史的な意義をもったかであるということが確認された。
 また報告者はこの命題は事実であるとがんばるが、しかしこの命題は事実しても正しいのか、ということが問われた。ニューディールをやっている間に、生産が大恐慌の前の水準まで回復しなかったということだけが言えるだけであって、五まで落ちこんだのが七や八まで回復した時期もあったし、そもそもニューディールは第二次大戦の中に消え去ったというのだから、回復しなかったか、し得なかったかが言えるわけがないではないか。大戦が起こらなかったら、ずっと恐慌が続いた、つまり慢性恐慌こそが現実的だったということか、という疑問も出されたし、ニューディールをどう理解するかにもよるが(革命後のロシアのネップさえも、新経済政策つまりニューディールある云々)、ヒトラーが三三年に権力を握った後採用した政策はニューディールと言えるのか言えないのか、ヒトラーのやり方は(それも仮に「ニューディール」と言えるとするなら)恐慌も失業問題も表面的には「克服した」と言えるのだから、ニューディールは「恐慌を克服しなかった」という命題は成り立たなくなるではないか、等々の批判的意見も出された。
 管理通貨制度が一般化し、またドルさえも金とのつながりを絶って、国家独占資本主義的政策(ケインズ主義的政策)が採用された戦後の資本主義についても、「ニューディールは大恐慌を克服できなかった」という命題と関係して議論が及び、戦後もまた過剰生産は「整理」されることなく延々と持ち越され、自由主義段階の資本主義のように自然に破壊されることもなく、また独占資本主義の時代のように(?)戦争によっても廃棄されないで来ている、そしてバブルは信用バブルというような形でしか発生しない、とするなら、今後はまた戦争しかないのではないかという“超悲観論”を持ち出す人も出たりして、戦後の資本主義と恐慌一般という問題が議論された。
 戦後の何度かの不況を産業恐慌と言えるかどうかはさておくとして、現在進行中の不況についても、それは産業恐慌であるという論者もいれば、そこまでは言えないと反論する者もいるといった具合で、産業恐慌が現在も存在するのか(勃発するのか)、それともそれは国家独占資本主義の体制の中では“消えて”しまったのか(「景気循環」は存在するにしても)、という点では、セミナーの中では全体としての確認(合意)は生まれなかったと言えようか。今後の資本主義の運動と経過を見るしかないということであろうが、中国経済の今後が焦点となるという点では、多くの論者も一致しているように見えた。
◆サブプライムの信用メカニズム
 最後の金融恐慌のテーマについては、関西では、サブプライムの「証券化」のメカニズムについて突然に論争が始まったが、それはもちろん、この新しい信用形態の根本的な理解にかかわっていた。
 問題を提起した論者は、マルクスが『資本論』で、資本主義ではすべての収入が利子率によって還元(“資本還元”)され、擬制的価値を持つと言っている、サブプライムの「証券化(商品化)」にもこの理論を適用すべきである、証券化された商品の「価格」もまたローンからの収入(返済金)によって決定されると理解すべきだ、という理屈を持ち出したのであった。
 しかしマルクスのこの理論は、株価とか地価などを“法則的に”、つまり概念的に規定するために述べられているものであって、どんな「収入」にも適用されるのものではない(マルクスは、すべての収入は利子率で資本還元されて擬制的価値を持ち得ると言っているだけで、すべての擬制資本はある収入を利子率で資本還元されたものだと主張しているわけではない)、とりわけサブプライムの証券化の場合には適用できるはずもない、論者はマルクスの言葉は知っているが、しかしその正しい意味を理解しているとは言えない、という報告者の立場との間に鋭い対立が生じた。
 そもそも、《あれこれの収入が利子率で資本還元されて「価値」を持つ》というのは、こういうことである。
 例えば、ある土地を貸し付けることから五万円の収入(地代)があると前提して、その土地の価格が問題となるとき、それがそのときの利子率(一%と想定する)で資本還元されて(五万円÷〇・〇一)五〇〇万円の「価値」(土地価格)を持つと想定されることを言う。こうした場合に、一定の収入は発達した資本主義的生産様式のもとでは、擬制的な価値を獲得し、売買されるのである。これは、五〇〇万円を貨幣資本(利子生み資本)として投資した場合、五万円の利子所得(収入)が得られるが故に、五万円の収入をもたらすもの(社会的関係)は五〇〇万円の「価値」をもつものとして社会的に通用することができるということである。
 株の価格もまた同様であって、株価は額面価格の何倍かの「価値(価格)」で売買されるのだが、それは例えば、額面五〇万円の株の配当が五円だったとすると、この五円の配当が一%の利子率で資本還元されて五〇〇万円の「時価」を持つようになるということである。五〇万円の額面価格は、当初の払い込み金として、現実資本の「案分比例的な」権利として実際的な意味をもつのだが、五〇〇万円の“価格”(実際の“株価”)は純粋に擬制的なものにすぎない。
 もっとも株券にしろ、債券にせよ、それは実質資本とは別の証券にすぎないという意味では、すべて擬制資本であって、銀行などがそれをどんなに大量に保持していたとしても、それは実質的な資本を保有しているということとは全く別である。
 もちろん、配当が五万円の五〇万円の株券は、利子率一%のときに、正確に計算され、予想される五〇〇万円(五÷〇・〇一=五〇〇)の株価になるのではなく、他のあれこれの要因によっていくらでも騰貴して行き得るだろう、しかしバブルははじけるのであり、暴騰した株価は“法則的な”レベルに引き戻されるのである(一九八九年末には、ほとんど四万円もあった平均株価は暴落し、二〇年もたった今においても、一万円以下の低い水準で低迷している、等々)。
 しかし利子率による「収入の資本還元」のこうした理論を「すべての収入」という言葉だけに幻惑されて、その本当の意味を理解しないで、債券とか、労働者と資本の関係とか、ありとあらゆる関係に適用できると考えるのは全くナンセンスであろう。
 例えば、債券に適用しようとすると、一〇〇万円債券の利子一万円を、一%の利子率で資本還元して、債券の価格が一〇〇万円である、といった理屈になるが、空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう。
 債券の利子率を一%にするから同義反復になるのだ、五%等々にしてみよと言っても、債券の利子率は平均的な利子率によって基本的に規定されているのだから、恣意的に五%にすることはできないし、またそうしても何の意味もないだろう。
 それに、債券の利子率を仮に五%として、それを一%の利子率で資本還元すれば一〇〇万円でなくて五〇〇万円になると主張してみても、実際の債券は五〇〇万円にまで騰貴するはずもなく、依然として一〇〇万円なのだから、こんな「資本還元」の理論など、債券の場合には何の意味もないことは自明であろう(もちろん、債券価格も騰貴や下落を繰り返すのであり、あるいは投機的に暴騰する――したがってまた暴落する――ときもあるが、しかしそれはまた別の問題である)。
 労働者の賃金もまた一定の「収入」だが、それを(仮に、三百万円として)一%の利子率で資本還元して、労働者の「価値」は三億円だとか言うことにどんな実際的な意味があるのか(ブルジョア理論家たちなら、何かももっともらしい理屈をでっちあげるかもしれないが)。これは果たして、労働力の価値ではないとしても、労働者自身の価値ということになるのか(すなわち労働者自身が奴隷がそうだったように売買されるとして)。しかし労働者自身は資本主義のもとでは売買されないのだから、こんな関係について語ることもつまらないおしやべりにしかなり得ないであろう。
 債券について言えば、その「価値」は債権、債務の関係を表示しているのであって、その限り実際的な経済的関係の反映であって、額面と離れて何倍、何十倍もの「価値」(株価)を持つ株券とは区別されるのであって、同列に論じられるはずもないのである。
 報告者は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーターによる債券の発行であって(つまりオリジネーターは債務を負うのであって、それは返済、つまり債券の償却がなされなくてはならないのである)、それは国家が国債を発行するのと同じであり、ただ国債が税金によって償却される(国家の債務が返済される)ことを前提とされていると同様に、オリジネーターの発行する債券は、オリジネーターが手にするサブプライムローンからの返済金によって償却されることが前提されているのだと説明したが(もちろん、国家が税金を担保に債券を発行する場合と、オリジネーターがローンの返済金を担保に債券を発行する場合の、技術的、実際的な違い等々を考慮すべきではあるが)、しかし必ずしもその意味が理解されなかったようである。
 論者は、「マルクスの理論に基づいて」、住宅ローン金融会社(あるいは一般的に言われる、オリジネーター)が行うサブプライムの「証券化」とは、オリジネーターの「収入」を資本還元するという形で行われ、したがってまたその「価格」は、オリジネーターの収入(住宅ローンからの「収入」つまり返済金)を利子率で資本還元したものである、と事実上主張したのだが、しかし実際に、証券化商品の価格がそうしたものとして設定されているということを示すことはできなかった。論者が主張したのは、マルクスの「すべての収入は資本還元される」というマルクスの片言隻語から、ここでもそのように理解すべきである、ということだけであった。
 実際にはオリジネーター(ノンバンクの金融機関など)がやったのは住宅ローンという債権(同じ発音だが、債券ではない。報告者はレジュメでは、前者をdebt、後者をbondと読んで区別したりもした。全くやっかいで、人をまどわす関係や用語ではあるが)を“流動化”することであり、そのために住宅ローンをいわば「担保」にして(返済=債券償却の原資にして)、新しく債券を発行すること(つまり平たく言えば、オリジネーターが借金すること)であり、そのことがサブプライムの証券化ということの内容であった。
 論者は、この関係を、現実からではなく、マルクスの言葉(間違って、ドグマとして理解されたマルクスの言葉)から出発することによって、わけのわからないものにしてしまったのである。
 論者の理論によれば、住宅ローンの返済金(貸し付け金プラス利子)を利子率で資本還元したものが「証券化された商品」の価格ということになるが、そうだとすると、この価格は(利子率を一%とすれば)住宅ローンの返済金の数十倍にも百倍にもなり得るだろうが、そんなばかげたことがあり得るはずもないのである。
 報告者はオリジネーターが証券化して「売り出す」商品は債券であるとレジュメでも特に強調し、その「価格」は借入金を現しているとことさら説明したのたが、こうしたサブプライムの“証券化”のメカニズムが全く理解されておらず、代わりにマルクスの言葉がドグマとして持ち出され、それによって現実が裁断され、理解されなくてはならないとされたのである。
 ここでは、証券化とは(株式化等々ではなくて)債券化であり、その「価格」は(簡単のために利子を考慮しないとすれば)、借入金の大きさを表現するのであって、その大きさが「いかに決定されたか」などという問題意識そのものがナンセンスである、というのは、どれくらいの金額を(どれくらいの利子率で)貸借するかということは、当事者同士の必要(借りる方)と余裕(貸す方)の相互関係にかかわるだけだからである。
 証券化商品の「価格」(債務の大きさ)は、住宅ローンの返済金に依存しているのである、つまりオリジネーターの債務は、住宅ローンの返済金によって清算され、債券が償却されることが前提されているのであって、それは国債の償却(国による返済)が、国家の収入、つまり税金によってなされることが前提されているのと同様である。
 だから、証券化商品(債券)の「価格」と住宅ローンの返済金の大きさは基本的に対応することが想定されているのであって――もちろん、現実に大きな違いが生じることはあり得る、例えば、日本国家の借金(国債発行高)は国家の税収と全く対応しておらず、極端にアンバランスになっている等々。しかしその理由や意味などについて詳しく論じるのは、ここでの課題ではない――、論者が言うように、最初から一対百などというものになるはずもないのである。そんなばかげた(超リスキーな――というより、投資自身が全く回収され得ないような)有価証券を一体誰が(どんな投資家や銀行や機関投資家らが)買う(“投資”する)であろうか。
(林)

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