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2016年7月 9日 (土)

林理論批判(43)

§§§『海つばめ』1110号の関西セミナーの議論の紹介に関連して§§§

 (二回に分けて紹介した『海つばめ』1111号の林氏の記事を批判する一文の最初のところでは、次のように書いていました。

 〈その前の1110号に対しても、亀仙人は何の反応も示さなかったのを、あるいはいぶかしく思っている方もあろうかと思う。実は、私は直ちに反論を書きはじめたのであるが、この際だからと第29章の草稿部分の詳細な解説を行なおうと思い、やりはじめたのはよいが、それにえらく時間がかかり、まだ終わっていないのである。だからやむを得ず沈黙を余儀なくされている次第なのである。〉

 これを見ると1111号の前の1110号に対する批判も少なくとも書き出したものがあることが分かります。そこでアチコチ捜してみたら、やはりあることはありました。それは未発表だから、当然、不十分な内容ですし、その途中で第29章該当部分の草稿の段落ごとの解読に取りかかる切っ掛けになったものですから、恐らくこれまで発表したものといろいろと重複するところがあるかも知れないのですが、しかしこの際だから、これも公表することにしました。それが以下のものです。なお、今回も1110号の林氏の記事を資料として添付するために、長くなるので二回に分けて紹介することにします。)

●無理解なのはどっちなのか?

 今から振り返って考えてみるに、そもそも最初に若干の誤解があったような気がする。林氏はサブプライムローンの証券化を国債を例に上げて説明した。それに対して、私はそうした過程をマルクスがいうところの資本還元として理論的にはとらえることができるのではないかと発言したのである。

 私自身としては、林氏の国債を例に上げた説明そのものは首肯しながら、そうした過程を理論的には資本還元としてとらえることができると主張したつもりだったのである。ところが林氏はどうやら私の主張は自説を批判するものと捉えたような気がするのである。そしてムキになって反論してきたような気がする。だからここに若干の誤解があったわけである。

 そうした誤解が生じた原因は、もちろん、その一部は、私自身の説明の不十分さにもあったと思うが、その後の議論のなかですぐにその主要な理由は明らかとなった。つまり林氏自身の資本還元の理解があいまいで一面的であったからである。私は国債のケースがそうであるようにそれらは資本還元として捉えることができると主張したつもりだったが、どうやら林氏自身は資本還元というのは、地代と土地の価格の関係のようなものには妥当するが、国債のような国の借金の場合には妥当しないと考えていたようなのである。だから私の主張は国債を例に上げた自分の説明に対する対案、あるいは批判と受けとめたのではないかと思えるのである。

 だから結局、議論は最初から横道に逸れてしまい、そもそも資本還元をどのように理解するかなどというようなところに行ってしまったわけである。私自身は資本還元をどう理解するかなどいうことで議論になるとは思っても見なかったわけである(そもそもマルクス自身が国債を例に上げて資本還元を説明しているのだから。国債が架空資本として独自の運動をしていることなど、当然、共通の理解にあるものと思っていた)。だから、そんなことは当然了解済みだと思って自説を主張したつもりだったのだが、その肝心の資本還元の理解そのものがあいまいで一致しないのだから、そこから議論が始まったのは、ある意味ではやむをえなかったのかも知れない。私は議論のなかで国債も株式も証券として売買されるということは、資本還元されて架空資本として自立した運動をすることなのだと説明したつもりなのだが、そこらあたりが林氏にはどうも理解できなかったようなのである。

 だから東三河のS氏がわざわざエンゲルス版の第3部第5篇第29章に該当する草稿部分の大谷氏の翻訳を読んで、マルクス自身も国債を例に上げながら、資本還元について説明していることを紹介して、私の主張の正しさを論拠づけてくれたが、林氏は頑に自説に固執し、「マルクスが全体として何を論じているのか、論旨を掴まないと、そんなことは俄には受け入れられない」というような主旨の発言をして、自分の資本還元の理解のあいまいさや誤りを反省するのではなく、反対に問題を誤魔化し、居直ったのである。

 だから私はそれ以上議論をやってもしょうがないと思い、「『資本論』をもう一度きっちり読んで欲しい」というような発言をして議論を打ち切ったのである。だから私が『資本論』をしっかり読みおなせと言ったのは、人が親切に『資本論』を読み聞かせてその誤りを指摘しているのに、自説の誤りを反省もせずに、居直った林氏に対してであって、セミナーの参加者全員に対してでは決してない。セミナー参加者全員に対して、マルクスを読んでいないと議論に参加すべきではないなどと一体誰が言ったというのであろうか(こんなことはその場に居た人なら誰でも分かっていることである。しかしその場にいない会員にはそこらあたりは分からないから、「通信」であのように書かれると、亀仙人というのはとんでもないことをいうやつだということになるわけである。そしてそうした効果を林氏は狙ってあのように書いているわけだ。何という不誠実でねじ曲がった根性であろうか。何という卑劣でいやらしい人物であろうか!)。「通信」では、あたかも私がセミナー参加者全員に対して、エラそうに「『資本論』をもっと読め」とか「マルクス主義を全部読まなければ会員になれない、議論にも参加できない」などと述べたかに書かれているが、これは林氏が相手を攻撃する時の常套手段なのだ。常に相手の主張をねじ曲げ、問題をすり替えてでなければ、相手を攻撃できない状態になってしまっているのである。何とも情け無いことではあるが、これが同志会の(林氏の)現実である。

 だからこの問題については、議論そのものが最初から本題から横道に外れてしまい、結局、肝心のサブプライム・ローンの証券化を如何に理論的に理解すべきかという議論はまったくできていないのである。私の説明もまったく舌足らずに終わってしまっている。だからもう一度、私自身の主張も含めて問題を論じてみるのも意義があるかも知れない。今回、『海つばめ』にセミナーの報告として、林氏は自説をもう一度論じているので、それを取り上げて、私の主張をそれに対置してみよう。そうすれば誰が自身のあいまいな理解のもとに誤解して、誤った自説に固執したかが分かるであろう。

                                                                 ◇

 われわれは順序として、まずマルクスが資本還元として述べている問題を正確に理解するところから始めるべきであろう。これは「『資本論』を読み直せ」と発言した手前からも、是非とも必要な作業でもある。われわれはもう一度、第3部第29章を初めから勉強し直すつもりで、マルクスから謙虚に学ぶことにしよう(以下、マルクスからの引用は、すべて大谷訳の草稿からで頁数は『経済志林』の頁数である)。

 マルクスは第29章に該当する部分の草稿(IIの番号を打った部分)で、最初に《こんどは, 銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である》(9頁)と書いたあと、すぐにその考察には入らず、最初は第28章で論じた問題を再び取り上げて論じたあと、本題に移っている。

 そこでは銀行資本を二つの視点から論じている。一つは《実物的な構成部分》とか《現実の構成部分》と述べているものであり、もう一つは《銀行業者自身の投下資本》と銀行業者の《銀行業資本または借入資本》という視点である。後者はいわゆる貸借対照表で表される自己資本(左側)と借入資本(右側)に対応している。そして前者の視点による構成部分の区別は、後者の区別には関わりのないものだというのがマルクスが述べていることである。

 まず前者の《実物的な構成部分》なるものを見ると、それは二つに大別されて、(1)現金と(2)有価証券に分けられている。そして有価証券は、さらに二つに分けられ、一つは「手形」であり、もう一つは「その他の有価証券」であるが、ここには《公的有価証券、例えばコンソル、国庫証券、等々、およびその他の有価証券、例えばあらゆる種類の株式》と書かれ、《場合によっては不動産抵当証券》と書かれている。そして《要するに利子生み証券であって、手形とは本質的に区別されるもの》と述べている(15頁)

 つまり国債や株式などをひとまとめに、マルクスは《利子生み証券》としていることにわれわれは注目する必要がある(「コンソル」というのはイギリスの代表的な国債のことである。「旧コンソルは3%利付きであったが,1882年に1840年代発行の2種の公債と統合され,2.75%(1903年からは2.5%)利付きの新コンソル(別称ゴッシェン公債 Goschens)となった」『平凡社大百科事典』より)。というのは、「国債」や「株式」などをひっくるめて《要するに利子生み証券であって》と述べていることは、銀行はそれらを利子生み資本(moneyed Capitalとしての貨幣資本)の投資対象として(つまり利子を得る目的で)保持しているということを意味するからである。だから、これらをすでに一つの架空資本として取り扱っていることなのである。だからこうした銀行資本を構成する内容を確認することは決してどうでもよいことではないのである。
 そしてマルクスは、《銀行資本は、それがこれらの実物的な構成部分から成るのに加えて, さらに,銀行業者自身の投下資本〔d..invested Capital des Bankersselbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capita1〕または借入資本)とに分かれる》(16頁)と述べている。そして発券銀行の場合には、借入の側にさらに銀行券が加わるが、さしあたりは預金や銀行券はあとでじっくり論じるために、さしあたりは考慮の外におくと述べている。そして次のように述べている。《とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d,banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらないということである》(16頁)。つまり銀行資本の実物的な構成部分の区別は、それらが貸借対照表の右側にあるか、左側にあるか、つまり自己資本なのか、それとも預金なのかという区別によっては、なにも変わらないということである。
 そしてマルクスは、すぐにいわゆる「資本還元」の問題の説明に移っている。ということは、マルクスがそれまでに明らかにした銀行業者の資本の現実の構成部分である貨幣、手形、有価証券の順序とは逆に、有価証券、手形、貨幣の順に、その説明を開始するのである。すなわち、次のように始めている。

 《利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである。》(18頁)
 《(利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金Principalとして現われるのである。)》(21-22頁)

 (ここで二つ目の引用は、実は頁数をみて頂ければ分かるが、草稿のもう少し後でマルクスが書いている一文であるが、マルクスは全体を丸カッコで括っており、エンゲルスは、最初の引用文とくっつけて一つのパラグラフにしているものである。マルクスがどうしてこの一文を丸カッコで括ったのかはよく分からないが、エンゲルスはそれは別のところに持っていくべきと考えて、マルクスは括ったと考えて、この最初の引用文のあとにくっつけたと考えることができる。われわれはこのエンゲルスの措置は適切であると考えるので、この二つの引用文をとりあえず、並べて紹介しておくことにしたい。)

 さて、ここではマルクスは、利子生み資本が範疇として確定すると、一つの転倒した現象が生じることを指摘している。それは単にわれわれの頭のなかで生じている観念的な転倒というだけではなく、現実の経済的な過程のなかで生じている転倒でもあることに注意が必要である(なぜなら、幻想的な資本価値を「市場価値」とする価格によってそれらの架空資本は現実に売買されているのであるから)。マルクスは《確定していて規則的な貨幣収入》であれば、《それが資本から生じるものであろうとなかろうと、どれでも、ある資本の「利子」として現われるようになる》《どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金Principalとして現われるのである。)》と述べている。だからわれわれが第21章以降で学んだように、利子生み資本が産業資本家や商業資本家(機能資本家)に貸し出され、その資本の生み出した利潤(剰余価値)が機能資本家の取得する「企業利得」と、利子生み資本を貸し出した貨幣資本家の取得する「利子」とに分割されたのであるが、そうした意味での「利子」ではない場合でも、あたかもそうした「資本」の生み出す「利子」であるかに現象するというのである。だから例えば「消費者ローン」や「国債」のような、その貸付金が個人や政府の消費によって使い果たされて、剰余価値を生み出すために投資されるわけではない場合でも、それらはあたかも剰余価値を産み、その一部を「利子」としてもたらす「資本」であるかに現象するのだということなのである。だからまずすべての《確定していて規則的な貨幣収入》が「利子」とみなされ、それに伴ってその「利子」をもたらす「資本」が見出されるのだ、というわけである。「資本」があって、その「資本」の生み出したものとしての「利子」があるのではなく、「利子」があって「資本」があるという一つの転倒現象が生じているわけである。

 そしてマルクスは、《事柄は簡単である》と具体例を示して説明している。

 《平均利子率を〈年〉5% としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば、毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる。しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が〈直接に〉譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける。》(18-19頁、下線はマルクス、赤字は引用者)。

 (まずこのマルクスの一文のうち、赤字にした部分は、大谷氏の注記によると、エンゲルスは「という場合を除けば」と訂正したのだが、大谷氏は〈この部分は、「という前提のもとでも」とであるべきところではないかとも思われる〉〔20頁〕と述べている。しかしマルクスの文章を素直に読めば、《この源泉が〈直接に〉譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている、という前提のもとで以外では、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》というものである。つまり直接に譲渡可能でないか、譲渡可能な形態を与えられていない場合には、《純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》と読めるわけである。このあとマルクスは《労働能力が国債というこの資本に対比して考察される》場合を例として上げており、この場合は《労働者はこの自分の労働能力の資本価値を「譲渡」によって換金することができない》と指摘している。つまり譲渡可能《という前提のもとで以外》のケースと考えられるわけである。そしてこの場合は労働能力を資本と観念することは、《純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》と述べていると解釈できるわけである。だからこの場合は、《純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける》ということが重要なのではないかと思うわけである。つまりそれは純粋に観念の問題でしかなく、そうしたものに留まるのだ(だからそうしたものは自立した運動を持たない)とマルクスは言いたいのではないかと思うのである。そしてそのように解釈するなら、エンゲルスの訂正は必ずしも間違っているとはいえないことになる。)

 そしてマルクスは続けて《例として、一方では国債、他方では労賃をとってみよう》(19頁)と「国債」と「労賃」を例に上げて説明を続けている。そして国債の場合は譲渡可能なものであり、それに対して労働能力はそうではないケースであることもまた明らかであろう。だから国債が資本還元された架空資本ではないかにいう林氏の主張は、少なくとも『資本論』のこの部分を読んでいないか、読んだが記憶があいまいであったことを示しているわけである。だから「『資本論』をもう一度読み直せ」という私の発言は、その場の状況にそぐわない何か不当なものなどではまったくなく、当然なものといえるわけである。

 では「国債」の場合について、マルクスはどのように説明しているのか、それを見ることにしよう。

 《国家は自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。{この場合,債権者は,自分の債務者に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけである。}この資本は,国家によって食い尽くされ,支出されている。それはもはや存在しない。国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100 ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5% の請求権を与える。第3に,彼はこの100 ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる。利子率が5% であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},A はこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100 ポンド・スターリングで〈Bに〉売ることができる。というのは,買い手〈のB〉にとっては,100 ポンド・スターリングを〈年〉5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。》(19頁、下線はマルクス)

 マルクスは国債について、(1)それは国家あての債務証書(100ポンド・スターリング)である、(2)この債務証書は、その所有者である債権者に、租税から年々一定額の貨幣(例えば100ポンド・スターリングの5%、5ポンド・スターリング)の請求権を与える、(3)債権者はこの債務証書を他人に譲渡できる、という条件について述べている。そして特に最後の譲渡可能ということについて、それは買い手にとっては、100ポンド・スターリングを年5%で貸し出しすのと同じだからだ、と述べている。マルクスは国債の場合、年々租税から支払われるものを、「利子」とは言わずに、《年貢を確保する》という言い方をしている。というのはそれは産業資本や商業資本が生み出した利潤が分割されて、「企業利得」と区別されたものとしての「利子」ではないとの考えがマルクスにあるからであろう。

 だからマルクスは続けて、《しかし,すべてこれらの場合に,国家の支払を子〈(利子)〉として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である》(20頁)と述べているわけである。ここで《幻想的なもの》というのは、それは本来は「資本」として貸し付けられたものではないのに、「資本」として観念されるからであり、また「資本」の生み出した「利子」として観念されるからである。それが《架空資本》と言われる理由を、マルクスは《それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しないということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである》(20-21頁)と述べている。だからそれが《架空資本》と言われるのは、単にその貸し付けられた金額が政府によって費消されてしまって無くなってしまっているというだけでなく、あくまでも資本として投下されたものではないのに、資本として投下されたものと看做されるところに「架空資本」の「架空」性があることが分かるのである。この点で、林氏はマルクスが「架空資本」として述べている意味を十分に理解しているとは言い難いであろう。

 《最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。 》(21頁)

 今度は、国債を最初に買ったAにとっても年々の租税から彼のものになる部分は「利子」を表すとしてしている(その前は「年貢」と書いていた)。しかしその利子は高利貸の貸し付けが利子を取り立てるのと同じだと指摘している。というのは、その貸し付けはただ消費のために使われるだけで資本として投資するためのものではないからである。ところがAが国債をBに売る場合、Bは彼の私的な立場から見ると、それは利子生み資本の投下と意識するわけである。しかし、実際の内容は、一つも変わっていない。だから国債が次々と売買されても、そうした現実の関係そのものは変わらないのである。しかしにもかかわらず、こうした架空資本は《それ自身の運動をもっている》のだというわけである。その運動とはどういうものか、それを次に見ることになるのであるが、しかし、マルクスはそれにすぐに行く前に、もう一つの資本還元の例として労賃の場合を検討している。

 《ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるように,国債という資本ではマイナスが資本として現われるのであるが,労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる。この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,〈1年間の〉労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである。資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達する。というのは,資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである。17世紀〈の後半〉には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった〕が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。ただ,ここでは,この〈無思想な〉考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer)」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に〈自分の労働によって〉補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている。そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない。》(22-23頁)

 このパラグラフはマルクスが先に、《例として,一方で国債、他方では労賃をとって見よう》と述べていた、もう一つの《労賃》が問題になっている。同時に、先に《国債という資本は純粋に架空な資本であ》るが、しかし《この架空資本はそれ自身の運動をもっている》と書いていたのに対して、この《労賃》の場合は、「資本」とみなされる労働能力は譲渡できないことから、決して国債のような《それ自身の運動もっている》とはいえないケースであり、だから《それ自身の運動》を考察する前に、まずそうした《それ自身の運動をもって》いないものを、まず検討しておく、という役割も持っているようにも思える。

 ここでは《利子生み資本一般がすべての狂った形態の母》であることが指摘され、《債務が銀行業者の観念では商品として現われるように、国債という資本ではマイナスが資本として現われる》と述べている。ここで《債務が銀行業者の観念では商品として現われる》という部分に、大谷氏は次のような解説をつけている。

 〈「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長上に理解されるべきであろう。「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」は,まさにここにきわまることになる。〉(23頁)

 ここで書いていることはそのとおりであるが、ただ〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である〉というのは、果たしてどうであろうか。一般にはそうした観念はないのではないだろうか。というのは、預金にはそうした意味での貨幣市場は存在しないからである。また当座預金のような場合はそもそも利子がつかないのが一般的であり、だから価格のない貨幣商品ということになりかねず、だから預金者が預金する場合、自分が所有する貨幣を銀行に商品として販売するとは必ずしも観念しないのではないかと思っている。ただマルクスが《債務が銀行業者の観念では商品として現われる》と述べているのは、大谷氏がいうように〈この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われる〉ということであろう。こういう国債に対比して、《労働能力が……考察されることがありうる》とマルクスは述べている。ここでは労働能力が考察されることがありうると述べているだけであることに注意が必要である。それは単に考えられるというだけに過ぎないわけである。しかもこのケースでは、国債とは異なり、(1)労働者はこの「利子」を手に入れるために働かなければならず、(2)その労働能力という資本価値を譲渡して換金できない、そればかりか労働力の価値を上回る剰余価値をその買い手に補填してやる必要があることを指摘して、だから労働能力の場合には、国債とは自ずから異なることを指摘しているのである。

 以上、架空資本について二つの例を考察して、その概念を明らかにしたあと、マルクスは、今度は、架空資本の独自の運動を考察しようとしているように思える。

 《架空資本の形成は資本還元と呼ばれる。すべての《規則的な》収入が,平均利子率に従って,資本がこの利子率で貸し出されたならばもたらすであろう収益として計算される。たとえば《年間》収入がイコール100ポンド・スターリングで利子率がイコール5% ならば,この100ポンド・スターリングは2000ポンド・スターリングの年利子であり,そこでこんどは,この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる。この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5% の利払いを表わすのだからである。こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである。》(25頁)

 ここでは架空資本の独自の運動として、まず架空資本の形成が資本還元と呼ばれること、すべての規則的な収入が、平均利子率によって、資本がその利子率で貸し出されればもたらすであろう利子(収益)として計算されることが確認されている。そしてその具体例として、年間収入が100ポンド・スターリングで利子率が5%なら、想像された資本価値は2000ポンド・スターリングになるとされ、《この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる》と述べている。つまり2000ポンド・スターリングというのは、年々100ポンド・スターリングの収益を取得する権原と考えられ、そうした資本価値だとみなされるということである。つまり2000ポンド・スターリングというのは自己増殖する資本価値として年々100ポンド・スターリングという果実をもたらすものという幻想的な観念にもとづいて生じているものだというわけである。だからこの場合、年々100ポンド・スターリングの規則的な収入が、何によってもたらされるのかは問われていないことに注意が必要である。林氏は「債券」とそれ以外の例えば「株式」等とでは問題が異なるかに述べている(後者については資本還元は言いうるが、前者については言えないと主張しているかである)、が、明らかにマルクスが論じていることをはき違えているとしか思えないのである。次の一文を見れば、すぐにそれは分かるであろう。

 《債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。さきほど見たように,信用制度〔Creditwesen〕は結合資本を生み出す。この資本にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている。すなわち,これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。(もちろん,それらの株式がただのいかさまを表わしているということもありうる。)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。》(26-27頁)

 このように、マルクスは株式のように国債とは違って、純粋に幻想的な資本を表していない場合でも、その資本還元された資本価値は純粋に幻想的であると述べている。つまりこの限りでは株式も国債も同じだと述べているわけである。

 ところで林氏は「債券」なるものを何か特別なもののように論じている。しかしマルクスは「債券」なる用語は使っていない(マルエン全集の事項索引でも引っ掛からないし、『資本論辞典』にも項目としてない)。これはブルジョア経済学の用語ではないか(『平凡社大百科事典』には次のような説明がある。「公衆に対する起債によって生じた,多数の部分に分割された債務(債権)を表章する有価証券。投機証券である株券に対し,債券は確定利付の利殖証券である。狭義では,株式会社が社債について発行する社債券をいうが,広義では,発行主体のいかんを問わず用いられ,国債,地方債,金庫債,公社債,公団債などを含む。発行主体による分類のほか,担保の有無により,担保付社債と無担保社債,債券上の権利者の表示の有無により,記名債券と無記名債券(日本では,実際上すべて無記名債券である),募集地域の内外により,内債と外債(外貨表示の外債を外貨債という。」)。『平凡社大百科辞典』の説明を読むと、「債券」というのは、要するに社債のようなものであり、国債も入るようである。しかし、マルクスが「有価証券」を二つにわけて、一つは「手形」、もう一つは「その他の有価証券」に分けているうちの、後者を意味すると考えることができる。とするなら、それは要するに「利子生み証券」であり、マルクスの場合は、そこには国債や株式、そしてときには荷札証券も入るとされているものである。

 ところが林氏は、マルクスに反対して、国債と株式を一緒くたに論じるのはおかしいと反論するわけである。マルクスが「その他の有価証券」としてひとまとめにしている国債と株式を、林氏は区別して、前者は「債券」であり、後者はそうではない、というわけである。そして架空資本は後者にのみ言いうるのであって、前者には言えないとのたまうわけである。しかしマルクス自身は、国債も架空資本になるとわざわざ国債を例にあげて説明しているのだから、林氏が少なくとも『資本論』とは違った見解を展開していることだけは明らかであろう。そもそも「債券」なる用語を持ち出して、何か特別なものであるかに論じている林氏は、果たしてブルジョア経済学にどっぷり浸かって、それに取り込まれてしまっているのでなければ幸いである。

 それはとにかく、われわれはマルクスの説明をもっと詳しく検討しなければならない。

債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。

 まずマルクスは国債は債務証書と同じであり、債務証書、すなわち有価証券と述べている。もちろん、借用書もそのかぎりでは債務証書であり、すべての債務証書が、有価証券というわけではない。借用書がそのまま譲渡されて、有価証券として売買されるわけではないからである。しかし有価証券の多くは債権・債務関係を証する証書であることは明らかなのである。またマルクスはこれを見る限りでは、株式も《債務証書--有価証券》と考えていると捉えることができる。株式の場合は国債の場合とは違って、純粋に幻想的な資本を表しているわけではないのだが、しかしその証券の資本価値を問う限りでは、純粋に幻想的であるとしているのである。つまり国債も株式も証券の資本価値としては同じように純粋に幻想的であること、だから両者は架空資本としては同じことだと述べているのである。

 ところが我らが林御大将は、国債と株式とは違うと、頑にこの両者の相違に拘っているのである。確かに両者には違いがある。マルクスは国債の方が有価証券としては、「純粋に幻想的な資本を表している」と考えているのに対して、株式の場合はそうではないと考えている(しかし資本価値としては両者ともに同じように純粋に幻想的であると考えている)。ところが林氏は「債券」(林氏は国債もその一種だと考えている)の場合は、むしろ反対に「実際的な経済的関係の反映であって」、その点で「株式とは区別されるのであって、同列に論じられるはずもない」と考えているわけである。つまり林氏に言わせると、国債の方が「実際的な経済的関係の反映」であって、株式はそれに対して幻想的であり、両者はだから同列には論じられないと主張しているわけである。これはマルクスの主張とはある意味では正反対の主張である。果たして林氏が正しいのか、それともマルクスが正しいのか、それが問題である。少なくともハッキリしているのは、林氏はマルクスの主張を理解していないし、マルクスの主張に反することを、ブルジョア経済学に染まった自身の見解として、勝手気ままに論じているということである。

 林氏はいつのまにか「マルクス主義者」ではなく、「林主義者」になり、自身の主張(ブルジョア経済学に影響されたそれ)こそが絶対であって、「マルクスがどう言っているか」などというようなことを言い出すやつは教条主義者だとのたまうようになってしまった。林氏も、マルクスが死んだ歳よりも、はるかに年齢を重ねたから、すでに自分はマルクスを超えたと錯覚しているのであろうか。そしてマルクスから謙虚に学ぶ姿勢を捨てて、マルクスより自分の方がエライと考えているようなのである。こうした人物がマルクスから真剣に学ぶ姿勢を無くすのはある意味では当然であろう。林氏がブルジョア経済学的な世迷いごとに耽るなら、それは彼の勝手である。しかしそれは「マルクス主義の旗」を降ろしてからやるべきではないだろうか。

 (以上、途中ですが、一旦、切ります。以下は次回に。)

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