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2016年7月 3日 (日)

林理論批判(42)

§§§重要なことは『資本論』の正しい理解--現実の誤った解釈にマルクスの主張をねじ曲げて当てはめるのは避けよ--現実を分析し、考察するのは大切だが§§§--(続き)

 (今回は前回(41)が林紘義氏の記事の途中で切れていたものの続きになります。今回は林氏の『海つばめ』1111号の記事をそのまま資料として添付します)

 さらに林氏は次のように続けている。

 〈債務証書一般から、マルクスの「収入の資本還元」の論証をすることはできないであろう。例えば、社債を取り上げてみても、このことは明らかである(もちろん、社債でなくても、例えば、10年ものの国債でも同じだが)。〉

 一体、誰が「債務証書一般」を問題にしているのか、借用書も債務証書であるが、誰も借用書を商品として売買はしないのである。また約束手形もその意味では債務証書一般に入るかも知れないが、手形は有価証券ではあるが、その他の有価証券とは本質的に異なるものとして、マルクス自身は、架空資本の範疇には入れていないことはすでに見た(この両者がなぜ本質的に異なるのかといえば、前者は再生産過程内の信用--商業信用--にもとづいたものであるが、後者は再生産過程外の信用--貨幣信用--にもとづいているからである。もっとも同じ手形でも銀行によってすでに割り引かれて銀行の手元にあるものは、すでにその他の有価証券の部類に入り、架空なものである)。
 林氏は、社債を例に説明しているが、社債も当然「その他の有価証券」に分類され、だから架空資本として売買されていることは明らかなのである。林氏の説明はすべて間違っている。例えば次のように述べている。

 〈100万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。〉

 しかし社債の利子は確定利子率によるものである(例えば普通社債の場合、ウィキペディアでは「発行額、運用期間(償還日)、利率は発行時に定められている。これらは途中で変更されることはない 」と説明されている)。だからその時々の市場利子率でそれらは資本還元されれば、社債の額面とは異なる市場価値が形成されるのである。実際の社債はその市場価値を中心に社債のその時々の需給に応じた価格で売買されるが、しかしそれらの市場価格は市場価値によって規制され、それを中心に動くのである。だから社債も“立派な”架空資本である。確かに社債の場合は株式と同じように、その借り入れられた貨幣は、実際の事業に投資され利潤を生むと考えられる(だからこの点では林氏の理解とは異なり、社債は国債とは違って株式に近いわけである*)。しかし実際の貨幣そのものは、事業に投資されて無くなってしまっているのに、あたかも債務証書である社債そのものは、一つの資本価値を持つものとして一人歩きして売買されるのであり、そうした意味での資本価値を、マルクスは純粋に幻想的なものであり、架空資本だと述べているのである。林氏が何も理解していないことは、これらの説明をみても明らかであろう。

 公正を期するために、*の部分について次のように林氏も言っていることは紹介しておこう。

 〈というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。〉

 ここで林氏が〈債権者によって〉と言っているのは、恐らく〈債務者によって〉の間違いであろう。つまりこの場合は事業者(産業資本)は債務者だからである。しかしこんなことを言っても、架空資本について何も述べたことにならないことを林氏は何も理解していないのである。だから次のような馬鹿げた主張も出てくる。

 〈この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。〉

 しかしマルクス自身は、株式について次のように述べている(だから社債を株式のケースと類似させたり、国債や社債と株式とを区別して論じている林氏にとってもこのマルクスの述べていることは重要である)。

 債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。》 (26頁)

 ここでマルクスが、《債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合》として述べているのは、そのあとすぐに株式について説明しているように株式を前提して述べているのである。しかしご覧のようにマルクスは株式についても《これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である》と述べており、その点では国債と区別していないのである。なぜなら、国債として借り出された貨幣が国家によって消尽されてしまって無くなっているのと同じように、株式に投資された貨幣も現実資本に転換されて消尽されてしまっているからである。だからそういう意味でも国債がそうであるのと同じように、株式もあたかもそれ自身が一つの資本価値を持っているかの現象は、純粋に幻想的なのだとマルクスは述べているのである(もちろん、それが架空資本であるのは一つの転倒が生じていることが根本なのである。つまり株式が資本価値として一定の市場価値をもつ場合、その市場価値は、実際に利潤を生むために現実資本として前貸された貨幣額を表しているのではないからである。その資本価値は、ただ配当を利子率で資本還元されたものに過ぎず、だからそれは純粋に幻想的なものだからなのである)。だからこの点でも、架空資本という点では国債と株式とには何の区別もないのである。しかし他方で、マルクスは確かに《債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも》と述べているように、国債はただマイナスがプラスと見えているだけであるのに対して、株式は現実資本の所有権原を表しており、その限りでは両者には区別がある。しかし架空資本としては、つまりそれらが資本価値として、あたかも何らかの「資本」=「利子生み資本」として一定の価値(市場価値)を持っているかに現象する場合には、どちらも《純粋に幻想的である》という点では同じなのである。だから、株式を「擬制資本」として「架空資本」とは何か別ものであるかに範疇分けしている人たちは、こうしたマルクスの架空資本の理論を十分理解しているとは言えないのである。そして林氏もそうした俗説に影響されているわけである。

 だから林氏が次のように主張しているのも間違っているのである。

 〈マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(222頁)〉

 しかし林氏はこうした現実資本を表示する株式も《資本価値としては純粋に幻想である》とマルクスが述べている理由をしっかり考えていないのである。だからこんな間違った理解が生じることになる。マルクスは林氏が引用しているあとで、次のように述べている。

 《しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。》 (26-7頁)

 だから額面100万円の株式を持っていても、彼は決して100万円の貨幣額を持っているのではない。その貨幣は実際には現実に投下されてしまっているのである。だから株式はその資本によって実現される剰余価値に対する所有権原を表すだけだとマルクスは述べている。これは国債が租税の一部を取得する権原を表しているのとその限りでは同じである。そしてマルクスは次のように説明を続けている。

 《国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。》 (27-8頁)云々。

 だからマルクスは架空資本の自立的な運動を説明する場合は、国債も株式も同じものとして説明しているのである。例えば、この引用文の続きでも、次のように述べている。

 《しかし,現実の資本の価値増殖不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。〈というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。〉貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である。》 (28-29頁)

 ご覧のとおり、ここでもマルクスは株式と国債を一緒に《これらの有価証券》として論じて、それが国債であろうが株式であろうが《そのようなことにかかわりなく起こる》と、それらの有価証券の価格の運動を説明しているのである。林氏は、架空資本の自立的な運動を、マルクスは国債と株式とを同じものとして説明しているのは、どうしてなのかを十分に考えてみるべきであったろう。

§3

 ここでは林氏は「労働力」の例を持ち出して、次のように述べている。

 〈労働力を取り上げたのは、現実的な空資本の形成や、その説明とは少し違った文脈で――そんな風に論じているばか者もいる、といった文脈で――読むべきであって、地価とか株価といったものと同列に論じるべきではないのであり、したがってまた、基本的に、この労賃とその「資本化」から、空資本(擬制資本)の概念を理解すべきではないだろう。
 つまり労賃もまた一つの「収入」であり、マルクスはそれも「資本化」されると主張しているのだから、まさに、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」と主張しているのだといった見解は決して正当なものではない。労賃という収入の形態は、むしろ、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべきであろう。〉

 しかし最初にも言ったように、私は労働力を例に上げて、架空資本を説明したことも資本還元を説明したこともないのである。それは林氏のでっち上げであり、問題のすり替えである。労働力の例が本来の架空資本の話とは別であることは、そもそもマルクスが銀行資本の現実の構成部分について説明しているという全体の流れを知っているなら、当然のことなのである。労働力が、利子生み資本の投下対象として銀行資本を構成するハズがないからである。
 林氏は労働力の例は、〈「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべき〉と述べることによって、だから国債や社債の場合も労働力と同じなのだと言いたいかである。だから国債や社債の場合は、〈地価とか株価といったものと同列に論じるべきではない〉というわけである。しかし労働力と国債や社債とには決定的な違いがある。それについてはマルクスは次のように述べている。

 《ただ,ここでは,この《無思想な》考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。》 (大谷訳22-23頁)

 つまり架空資本というのは、規則的な貨幣利得を利子率で資本還元して得られる資本価値によってそれを手放し、彼はその利子生み資本の返済を受けることができるが、しかし、労働力の場合、例え彼の賃金を資本還元して、一定の資本価値を計算できたとしても、その資本価値にもとづいてそれを販売して、それを利子生み資本の返済として受けとることはできないとマルクスは指摘しているのである。むしろ彼の労働力の年価値は彼の年間平均労賃だが、彼はそれ以上の価値を、つまり剰余価値を彼の労働力の買い手(つまり資本家)に与えることを強制されるわけである。つまり労働力の例は利子生み資本が生み出すさまざまな馬鹿げた転倒した観念のうち、そのもっとも極端なものとしてマルクスは説明しているだけであって、それによって架空資本を説明しているわけではないのである。
 そして何度も言うが、マルクス自身は、銀行資本の現実の構成部分の一つである有価証券について、その架空資本としての性格や資本還元という独特な運動を説明しているのである。だからこそ、マルクスは国債も株式も《その他の有価証券》として一緒に論じているのであって、それらを労働力の例と同じに考えることはとんでもないことなのである。そしてこうした文脈のなかでのマルクスの説明が分かっているなら、資本還元について、林氏のような〈むしろこの説明には、地代と地価などの例こそが簡単明瞭であろう〉などという主張も出てくるはずがないのである。何で銀行資本の現実の構成部分として、地代や地価が出てくるのか、それが場違いなことは明らかではないか。林氏はマルクスが論じているものをきちんと理解していないことは、これをみても明らかなのである。こんな粗雑な『資本論』の読み方をしていたのでは、何も理解できないのも当然と言わねばならない。

§4

 林氏が次のようにいうのは、まったくの誹謗中傷の類である。

 〈そして同様に、サブプライムもまた一つの「収入」であり、したがって、それは「資本化され」なくてはならず、その「資本化される」ということがサブプライムの証券化ということであり、そのメカニズムこそがマルクスのこの理論においてなされなくてはならない、といった観念は奇妙な、転倒したものである。マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならないと言うのだ。
 しかし現実の関係はマルクスの言葉がどうあろうと、現実の関係として、客観的なものとして存在しているのであって、その現実の関係はただ現実の関係に即して、その関係を研究し、分析し、検討することによってのみ明らかにされ、説明されるべきであって、既存の理論はただその分析や理解を助けるだけであって、分析や研究に取って代わるわけではない。〉

 しかし一体、誰が〈マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならない〉と言ったのであろうか。マルクスの理論は現実を分析し考察する武器ではないのか。何の理論もなしに現実に立ち向かっても、林氏のようにただ現象を現象のまま撫で回すしかないのである。理論的武器もなしにどうして現実を科学的に考察するというのであろうか。もちろん、その理論も、林氏のような一知半解な理解ではどうしようもないことは事実ではあるが。林氏は私がサブプライムローンの問題について、何の具体的な事実も知らずに、現実を一つも調べもせずに論じていると思っている。現実を分析しているのは自分だけだと思い上がっているのである。しかし少なくとも私もそれなりに関連文献を手当たり次第に調べて、事実資料を収集し、それらを分析し、考察した上で論じているつもりなのである。サブプライム・ローンの証券化の具体的な過程について、林氏が論じているよりももっと詳しい事実経過や歴史過程も知識としては知ってはいたが、そんなことをくどくどと論じてもしょうがないから何も言わなかっただけのことである。自分だけが現実を分析しているなどと思うのは自惚れも甚だしいのである。

 〈私は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーター(住宅ローン会社、ノンバンクの金融資本など)にとっては、住宅ローンという債権の「流動化」であり、債券化であると主張し、本質的に、例えば、国家が税金を「担保」にして国債を発行するのと同じである――実際的な点では多くの異なった契機があるのだが。例えば、オリジネーターが担保とするのは、もちろん税金ではなくて、住宅ローンの返済金である等々――と説明したが、そうした説明は、何も説明していないに等しいとみなされたのであろうか。〉

 何度もいうが、こうした林氏の証券化の説明を私は批判したのではないのである。それが、そもそも「証券化」と言われるように、単なる債務証書が、国債の場合と同じように有価証券として売買されることなのである。だからこそ私は、それはマルクスが論じている架空資本であり、資本還元されて独自の運動をしているものと理解すべきと主張したのである。それが林氏にはまったく分かっていないのである。

 〈そもそも住宅ローンの返済金を、単純に「収入」――もちろん、オリジネーターにとっての――と理解すること自体、問題をすでに一面的に、“色眼鏡”で捕らえている。確かにオリジネーターにとっては、それは「収入」として現象するかもしれないが、しかしそれは本来、住宅ローンの返済金である、つまり住宅ローン会社が貸し付けた元金とその利子(もちろん、分割された)であって、単なる「収入」ではない。マルクスの「収入の資本還元」の理論を、ここで適用できないことは、すでにこの一つの事からも明らかであろう。〉

 こうした理解もおかしなものである。オリジネーターが住宅ローン債権を証券化して販売するということは、ローン債権を担保に証券を発行して売り出すことである。だからそれが資本還元されて、架空資本になるなら、その有価証券を購入した人は、その有価証券の定期的な確定利息を市場利子率で資本還元して架空資本の市場価値を求めることになるのである。だからこの場合の「規則的な収入」は、資産担保証券の確定利息であり、それを架空資本として売買するのは、それらを利子生み資本の投資対象として購入する機関投資家やヘッジファンドなのである。彼らはそれらを投機的な対象として売買してキャピタルゲインを得ようとしたのである。

 〈そもそも、我々の議論は、マルクスの概念を知っているのかいないのか、あるいはマルクスの『資本論』を読んでいるのか、いないのかといった形で展開されてはならないしされるべきではないだろう。我々がマルクス主義を重視するのは、スターリン主義とか、毛沢東主義とか、様々な新左翼理論などがはびこっている現在、我々の理論的、思想的な出発点であり、根底でもあるマルクスの理論や思想を確認していこうということであって(だからこそ、我々はマルクス主義とその理論や思想の研究と獲得を重視する)、マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立てるのが正しくないのは自明のことであるように思われる。〉

 一体、どこの誰が〈マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立て〉たのか、馬鹿げた議論である。そうした虚偽の“事実”をでっち上げて、相手を攻撃する手法こそ、スターリニズムそのものではないのか。私は、林氏の資本還元の理解が間違っているから、もう一度『資本論』を読み直したらどうですか、言っただけの話であって、セミナー参加者全体に対して「『資本論』を読め」などと言うハズもないのである。こんなスターリニスト的なヤクザな議論の仕方は胸くそが悪くてまじめに相手にするのも嫌である。

§「架空資本」の概念なしに現代の金融現象は科学的には解明できない

 しかしいずれせよ、今日のサブプライム・ローンに始まる金融危機の諸現象は、マルクスの架空資本の理論なしには科学的に解明することは不可能だと私は考えている。
 現行の『資本論』の第3部第25章の表題「信用と架空資本」は、草稿のこの部分に「5.信用。架空資本」とマルクスが自身がつけたものを、エンゲルスが少し手を入れて第25章の表題にしたものである。しかし実際の現行の25章では架空資本について本格的には何も論じていない。実はこの草稿にある表題は、大谷禎之介氏の研究によれば、マルクス自身が「5」と番号を打った部分全体の表題であり、それは現行の第25~35章全体をカバーするというのである。つまりマルクスは現行の25~35章全体のテーマとして「信用。架空資本」を考えていたのである。そこでは21~24章でその概念が解明された「利子生み資本」が、信用制度のもとで運動する諸形態を考察することが課題とされている。そしてマルクスが利子生み資本の運動諸形態でもっとも重要と考えたのは、だから「架空資本」としてのそれなのである。それは現実資本の蓄積から相対的に一人歩きして現実資本の何倍何十倍もの規模で膨れ上がる金融諸現象を解明するためのキーワードなのである。それが実際に理論的に追究されているのは、現行版の30~32章「貨幣資本と現実資本 I ~III」である。そこでは、マルクス自身が「比類なく困難な問題」として、貨幣資本の蓄積が現実資本の蓄積とどのように関連しあっているのか、また一国に存在している貨幣の量とそれは如何なる関係にあるのかというテーマが追究されている。マルクス自身はこの課題を十分に果たさずに終わっている(それはある程度はやむを得なかったのである。というのはこの問題は第2部第3章(篇)における社会的総資本における拡大再生産の現実的諸条件を貨幣流通による媒介の下に解明して、始めてその考察の基礎が与えられるようなテーマだからである。しかしマルクスが第3部の草稿を書いていたときには、当然、まだ拡大再生産は手つかずの状態だったのである。だから『資本論』の最終草稿である第2部の第8稿では、マルクスは同じ問題を追究し、その解決の基礎を与えているのである)。マルクスはそこで何を明らかにしようとしたのかと言えば、まさに現代のバブル現象そのものの理論的解明なのである(そして35章はその破綻の不可避なことを論証するのに充てられている)。デリバティブとか、さまざまな金融派生商品が氾濫し、膨大な貨幣資本が世界の金融市場を荒し回り世界経済を金融的危機に陥れている、今日のような現実資本を何倍も何十倍も上回り自立的に運動している架空な貨幣資本の運動を如何に科学的に解明するかという問題(少なくともその解明のための理論的基礎)こそ、マルクスが追究しているものなのである。29章はまさにそうした課題を担う30~32章の前提として「架空資本」の概念が解明されているところなのである。その意味では29章は現代の金融諸現象を解明する上でもっとも基礎的な理論をわれわれが身につけることができるところと言うことができるであろう。
 だから現代のさまざまな金融現象を科学的に解明するためには、マルクスが明らかにしている「架空資本」の概念抜きにはできないと私は考えているのである。その意味では、架空資本そのものを理論的にシャットアウトした林氏は、今日の金融諸現象を科学的に解明する手段を自ら閉ざしたとしか言いようがないのである。そうなると、あとはただ現象を現象のままに敍述することしか林氏には残されていない。しかしそれはマルクスがいうところの俗流経済学の道でしかないのである。  (了)

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【資料】

●『海つばめ』1111号(2009.12.27) 【三面トップ】

 

重要なことは現実の正しい理解
マルクスの“当てはめ”避けよ
『資本論』を読み、学ぶことは大切だが

 関西の労働者セミナーにおいて、私の報告の一部分(サブプライム・ローンの“証券化”の概念)について、一つの論争が突発した。すなわち私の報告は、サブプライム証券化について、そのメカニズムについて、明確に述べていないということであった。その批判はいいとして――というのは、私の報告がサブプライム証券化問題の細部にいたるまで明確かつ的確に述べておらず、不十分な面があったと言うなら、それは否定すべくもないから――、しかし問題は、批判する論者が、私がマルクスの次のような概念を適用していないから、それに基づいて、サブプライム証券化を明らかにしていないから、といった立場から発言したことであった。私はマルクスのあれこれの言葉によって、あるいはあれこれの概念の“適用”(しかも間違った理解による)によって、現実を裁断したり、解釈したりするやり方に賛成することは決してできなかった。この問題はセミナーのときにおいては、突然に提出された問題であり、それに伴って発生した議論だったということもあって、参加者の多くにも何が問題になっているのか、どう理解したらいいのか必ずしも明確にならなかった面も残ったので、ここで簡単に論じさせていただくことにする。もちろん、これはサブプライム問題の一番基礎的な信用関係を、そのメカニズムを正しく理解する、という重要な課題と密接に関係を持っているのではあるが。
◆ 1
 批判者が持ち出したのは、マルクスの次の一文であり、これは参加者の一人によって、わざわざセミナーの中で読み上げられもしたのであった。
「空資本の形成は資本化と呼ばれる。すべて規則的に反復される収入は、平均利子率で貸出される。たとえば、年収入は一〇〇ポンド、利子率は五%とすれば、一〇〇ポンドは、二〇〇〇ポンドの年利子となるであろう。そこでこの二〇〇〇ポンドが、年額一〇〇ポンドにたいする法律上の所有名義の資本価値とみなされる。そこで、この所有名義を買う者にとっては、この一〇〇ポンドの年収入は、実際に彼の投下資本の五%の利子を表わす。かくして、資本の現実の価値増殖過程との一切の関連は、最後の痕跡に至るまで消え失せて、自己自身によって自己を価値増殖する自動体としての資本の観念が確立される」(『資本論』三巻二九章、「銀行資本の構成部分」、岩波文庫七分冊二二二頁)
 サブプライムの証券化のメカニズムについて述べた私の報告が、マルクスのこうした概念を知らないで、したがってまた、この概念を適用しないで、論理を展開しているのではないか(それは正しくない)という批判であったが、しかし私はこの概念を知らないで展開したのではなく、むしろ反対に、十分に知っていてレジュメを作成しているのであって、ただこの概念を適用する必要を認めなかったということにすぎない。
 批判者は、マルクスがこの概念を説明したときに、国債や労働賃金などにも言及していることをもって、サブプライムの証券化も、マルクスのこの概念から説明できる、いや、説明しなくてはならないと考えたのであろうが、しかし途方もない誤解である、としか思われない。
◆ 2
 しかしまず、我々はマルクスが言及している国債は、どんな国債であるか、当時の実際に即して検討して見る必要があるのではないだろうか。必ずしも、現在日本で発行され、取り引きされているような国債とは同じ性格のものではないように思われる。
 マルクスは当該個所で、「国債」について、次のように述べている。
「国家は借入資本にたいする一定量の利子を、年々その債権者に支払わねばならない。このばあいには債権者は、その債務者に解約通告をなすことができず、ただ債券を、その所有名義を、売ることができるだけである。資本そのものは、国家によって支出され、食いつくされている」(同二一九頁)
 マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。というのは、普通、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定されるのは、永久国債だからである。もちろん、普通の国債も、償還期限(満期)が五年とか一〇年とか定められていて、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では、永久国債と同じだが、とりわけ永久国債についてこの概念が言われるのは、永久国債といっても、政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか。
 しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が五ポンドという「収入」が利子率(五%?)で資本還元されて一〇〇ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。一〇〇ポンドという国家証券として、国家収入の中から、一〇〇ポンドにつき五%(五ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。
 この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。
 債務証書一般から、マルクスの「収入の資本還元」の論証をすることはできないであろう。例えば、社債を取り上げてみても、このことは明らかである(もちろん、社債でなくても、例えば、一〇年ものの国債でも同じだが)。
 一〇〇万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)、などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。「収入の利子率による資本還元」という場合は、当然のこととして、利子率はすでに前提されているのであって、それはマルクスが次のように言っていることからも明らかである。
「利子付資本という形態は、いかなる確定的常則的貨幣収入も、それが資本から生ずると否とを問わず、一資本の利子として現われる、ということを伴う。まず貨幣所得が利子に転化され、次に利子とともに、この所得の源泉である資本も見出される。同様に、利子付資本とともに、すべての価値額が、収入として支出されないかぎり、資本として現われる。すなわち、それが産み出しうる可能的または現実的利子に対する元本(Principal)として現われる」(同二一八頁)
 マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えないのである。まして、事業会社(産業資本)が発行するような社債の場合はなおさらである。
 というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。
 この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。
 マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(二二二頁)
◆ 3
 またマルクスは「労働力」についても書いているが、しかしそれは、一七世紀のペティの偏見として、あるいはマルクスの時代の一つの妄想として、批判的に取り上げているだけであって、労働力という「収入」を利子率で資本還元した「価値」もしくは資本一般の理論の説明としてではない。むしろこの説明には、地代と地価などの例こそが簡単明瞭であろう。マルクスが引用する、労賃の「資本還元」とは、フォン・レーデンの次のような文章である。
「労働者は資本価値をもち、それは、彼の一年間の稼ぎ高の貨幣価値を、利子収益とみなすことによって見出すことができる。……平均日賃金率を四%をもって資本化すれば、農業男子労働者一人の平均価値は、ドイツ=オーストリア一五〇〇ターレル、プロイセン一五〇〇、イングランド三七五〇、フランス二〇〇〇、奥地ロシア七五〇ターレルとなる」(同二二一頁)
 そしてマルクス自身が、こうした観念は、奴隷制においては、奴隷が売買される場合には、一つの実質的な意味を持ちえるとしても、資本主義的生産様式においては全く無意味な、ばかげた観念に過ぎないと断じているのだから(二二一頁参照)、この例を持ち出して、資本主義のもとでは「すべての収入は利子率で資本還元されて価値もしくは資本」を持つ(したがって、サブプライム問題にもこの理論を適用して分析せよ)、といった主張が的外れであるのは余りに明らかではあるように思われる。
 労働力を取り上げたのは、現実的な空資本の形成や、その説明とは少し違った文脈で――そんな風に論じているばか者もいる、といった文脈で――読むべきであって、地価とか株価といったものと同列に論じるべきではないのであり、したがってまた、基本的に、この労賃とその「資本化」から、空資本(擬制資本)の概念を理解すべきではないだろう。
 つまり労賃もまた一つの「収入」であり、マルクスはそれも「資本化」されると主張しているのだから、まさに、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」と主張しているのだといった見解は決して正当なものではない。労賃という収入の形態は、むしろ、「すべての規則的に反復される収入は、資本化される」という命題が、無条件的、絶対的なものではない、ということを教えている一つの例として考えられるべきであろう。
◆ 4
 そして同様に、サブプライムもまた一つの「収入」であり、したがって、それは「資本化され」なくてはならず、その「資本化される」ということがサブプライムの証券化ということであり、そのメカニズムこそがマルクスのこの理論においてなされなくてはならない、といった観念は奇妙な、転倒したものである。マルクスの理論が先にあって、現実の関係があり、そのメカニズムが理論によって明らかにされなくてはならないと言うのだ。
 しかし現実の関係はマルクスの言葉がどうあろうと、現実の関係として、客観的なものとして存在しているのであって、その現実の関係はただ現実の関係に即して、その関係を研究し、分析し、検討することによってのみ明らかにされ、説明されるべきであって、既存の理論はただその分析や理解を助けるだけであって、分析や研究に取って代わるわけではない。
 私は、サブプライムローンの「証券化」とは、オリジネーター(住宅ローン会社、ノンバンクの金融資本など)にとっては、住宅ローンという債権の「流動化」であり、債券化であると主張し、本質的に、例えば、国家が税金を「担保」にして国債を発行するのと同じである――実際的な点では多くの異なった契機があるのだが。例えば、オリジネーターが担保とするのは、もちろん税金ではなくて、住宅ローンの返済金である等々――と説明したが、そうした説明は、何も説明していないに等しいとみなされたのであろうか。
 そもそも住宅ローンの返済金を、単純に「収入」――もちろん、オリジネーターにとっての――と理解すること自体、問題をすでに一面的に、“色眼鏡”で捕らえている。確かにオリジネーターにとっては、それは「収入」として現象するかもしれないが、しかしそれは本来、住宅ローンの返済金である、つまり住宅ローン会社が貸し付けた元金とその利子(もちろん、分割された)であって、単なる「収入」ではない。マルクスの「収入の資本還元」の理論を、ここで適用できないことは、すでにこの一つの事からも明らかであろう。
 そもそも、我々の議論は、マルクスの概念を知っているのかいないのか、あるいはマルクスの『資本論』を読んでいるのか、いないのかといった形で展開されてはならないし、されるべきではないだろう。我々がマルクス主義を重視するのは、スターリン主義とか、毛沢東主義とか、様々な新左翼理論などがはびこっている現在、我々の理論的、思想的な出発点であり、根底でもあるマルクスの理論や思想を確認していこうということであって(だからこそ、我々はマルクス主義とその理論や思想の研究と獲得を重視する)、マルクスを読んでいなければ、セミナーの議論に参加できないし、我々の活動に加わることもできないといった形で問題を立てるのが正しくないのは自明のことであるように思われる。我々はセクトではないし、セクトを目指すものでもないことを確認しなくてはならない。
(林)

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