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2016年6月

2016年6月25日 (土)

林理論批判(41)

【お断り】

 実は、亀仙人のパソコンがこの6月初めに突然壊れてしまいました。外付けのハードディスクへのパックアップをさぼっていたために、残っているデータで一番最近のものは2015年の8月6日以前のものです。つまりそれ以降に新しく作成したデータはすべて失われたようです。それ以降、書きためたものも今となってはあきらめるしかありません。データというものは失われてしまうと、そもそも何と何が失われたかも分からないものなのです(恐らく後で何かのきっかけにあのデータもないのかと気づくのかも知れませんが)。少なくとも去年の8月以降作成した資料集(さまざまな文献からの抜き書きや図書館で借りた本をスキャンしてPDF化したものや、幾つかの大学のサイトにある紀要などからダウンロードした論文のPDF等々)はすべて駄目になりました。それがどれくらいあったのかも今となってはわかりません(私は、毎日数分から十数分だけ使って、宇野弘蔵著作集を第1巻から何年もかけて読んでおり、今は第6巻の3分の2あたりを読んでいますが、これらも第1巻からすべて読む前にスキャンしてPDF化して、読みながら本の空欄に書き込んだメモを参考に、後で批判を書くときに簡単に引用できるようにしてあったのですが、これらも第1巻以外はすべてなくなりました。しかしこの場合は、幸いなことに、以前、すでにPDF化したものを友人が欲しいというので、宅ファイル便で送ったことがあり、恐らくそれを友人から送り返してもらえると思うので、何とか復活はできると期待しています。しかし宇野理論批判をこのブログで連載できるかどうかのハッキリした見通しは今は立ちません)。もちろん、このブログにこれまでアップした元データ類も去年の8月以降のものはすべて失われ、新たにアップするために書いていた下書き類もすべて失くしました。ブログのために考えていたプラン等々を書いたメモ類も同様です。友人と交わしたメールやアドレスのデータ類もすべて失くしました。しかしこれも幸いと言うべきなのですが、このブログのアップを知らせるメールを送るアドレス類は、以前、すぐにBCC欄にコピー&ペーストできるように、毎日書いている日誌の一番最初に一覧として書いていたので、それが去年の日誌にあることが分かり(去年の8月6日までの日誌は残っていた!)、それを使って「アップ情報」を配信できることもわかりました。
 とにかく、失われたもののあまりの大きさに茫然自失し、いまさら後悔してもどうしようもないのに、しかしなかなかそう簡単には割り切ることもできず、鬱状態にさえなりましたが、しかし、ようやくこんな状態を何時までも続けていてもしょうがないと思えようになりました。新しいパソコンを購入し古いオアシスのソフトを無理やりWindows10にインストールし、親指シフトのキーボードも繋げるように工夫して、何とかものを書く環境を整えつつあります。
 幸い外付けのハードディスクにバックアップしてあった古いデータ類は残っていますので、それを使って、とりあえず、この「林理論批判」のシリーズに使えそうなものを捜し出して、見つけたものからアップしていこうと思えるようになりました。これをきっかけになんとか立ち直りたいと考えています。
 だからこれからこのシリーズでアップするものは、すべてかなり古いものになりますし、とにかく見つけ次第なので、まとまりのないものになるかも知れません。その点は、ご容赦ねがいます。またアップするに値すると思えるものがなくなれば、このシリーズは終えることにします。

 今回紹介するのは、『海つばめ』1111号(2009.12.27)の林紘義氏の記事《【三面トップ】重要なことは現実の正しい理解――マルクスの“当てはめ”避けよ――『資本論』を読み、学ぶことは大切だが》の批判です。この記事が書かれた事情については、以前、『資本論』第3部第29章の草稿の検討を紹介するシリーズの第一回目(『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-1))に書いたのでそれを参照して下さい。そこでも〈その後、林氏は自説を擁護して『海つばめ』No.1110とNo.1111で自らの主張を展開したのであるが、亀仙人は林氏の『資本論』の理解は間違っていると主張したのである(この『海つばめ』の記事に対する批判は、別途連載している「林理論批判」のなかで紹介することにしよう)〉と書いています。今回は、その批判になります。なお、林氏の当該論文も参考のために資料として付けておきます。ただ資料も加えますと、あまりにも長くなりすぎますので、二回に分けて掲載します。

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§§§重要なことは『資本論』の正しい理解--現実の誤った解釈にマルクスの主張をねじ曲げて当てはめるのは避けよ--現実を分析し、考察するのは大切だが§§§

 『海つばめ』1111号(2009.12.27)で林氏は関西セミナーでの議論を再び蒸し返している(その表題は「重要なことは現実の正しい理解――マルクスの“当てはめ”避けよ――『資本論』を読み、学ぶことは大切だが」というものである)。止せばよいのに深追いしていよいよ墓穴を掘っている。その前の1110号に対しても、亀仙人は何の反応も示さなかったのを、あるいはいぶかしく思っている方もあろうかと思う。実は、私は直ちに反論を書きはじめたのであるが、この際だからと第29章の草稿部分の詳細な解説を行なおうと思い、やりはじめたのはよいが、それにえらく時間がかかり、まだ終わっていないのである。だからやむを得ず沈黙を余儀なくされている次第なのである(この現在取り組んでいる第29章該当部分の草稿の段落ごとの解読は、まだかなり時間を要するが、それはそれとして取り組んで、最終的には林氏の主張の批判とは切り離して、別の機会に披露できるかも知れないとは思っている*)。

 注*これについては、このブログで連載している『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究のなかで公開している。

 しかし、今回、どうやら林氏は私の“助言”にもとづいて(?)、『資本論』を読んで記事を書いているようである。しかし『資本論』を読んだのはよいのだが、『資本論』を読んでも、それを正しく理解していないとどうしようもないことが今回明らかになった。ただ『資本論』を自分の俗説に沿ってねじ曲げて理解しようとするなら、こんな『資本論』の読み方は読まない方がましというものである(こうした『資本論』の読み方は不破哲三の得意とするところであり、だから林氏にこの点では不破を批判する資格はない)。

 よって、ここでは急遽、林氏の今回の記事での『資本論』の読み方が、マルクスの理論を正しく理解したものなのかどうかを検討しておこうと思っている。29章該当部分の草稿の詳しい解読は、だから当面はお預けである。

 ここでは、事実と異なる点や、林氏が『資本論』を引用して解説している部分について、実際に、マルクスの草稿に当たってマルクス自身が述べていることを確認して、林氏の説明が果たして正しいのかどうかを検証するというやり方で論じていくことにする。(なお読みやすくするために、林氏の記事からの引用は太字で、『資本論』の草稿からの引用は青太字で紹介する。また林氏とセミナーで論争の相手になった亀仙人は実名で書かれていたが、すべて亀仙人に書き換えた。)

§1

 まず林氏は、「批判者が持ち出した」云々と書いている。ここにまず誤解があるのである。亀仙人が主張したことは、林氏の国債を例にした証券化の説明を「批判する」ためのものではなく、むしろそれを肯定して、それを理論的に解明するためにはマルクスの述べている資本還元による架空資本の運動の理論が必要であると言いたかったのである。
 林氏が誤解したのは、もちろん、私の説明が不十分な面もあったからでもあるが、その本当の理由は、議論のなかで明らかになった。すなわち、肝心の林氏自身の資本還元の理解がまったく不十分だった(というより間違っていた)からなのである。私は国債も商品として売買されることによって、資本還元されて架空資本として自立的な運動を行なうとの理解のもとに林氏の説明を擁護して自説を述べたつもりなのである。ところが、林氏は資本還元というのは地代と土地の価格の関係には言えても、国債には妥当しないという誤った理解にあったから、私の主張をあたかも自説--国債を例に上げた証券化の説明--に対する批判と受けとめたのであった。そもそもの行き違いの出発点はここにあったのである。
 だからセミナーでは、そもそもマルクスが述べている資本還元をどう理解するかというような議論になってしまい、肝心の証券化を理論的に如何に捉えるべきかという問題そのものはまったく議論せずに終わっているのである。私自身は資本還元をどう理解するかなどということが問題になるなどとは思ってもみなかったのである。しかし議論のなかで林氏の『資本論』の理解そのものが間違っていることが分かったから、だから私は「『資本論』をもう一度良く読んで下さい」と言って議論を打ち切るしか無かったのである。肝心の資本還元や架空資本の理解そのものが間違っていたのでは、話にならないからである。だからサブプライ問題や、その証券化を理論的に如何に捉えるかというような問題は、ほとんど議論はなされていないと私自身は思っている。

 それに林氏は「批判者が持ち出し」「参加者の一人によって、わざわざセミナーの中で読み上げられもした」として引用している部分は、事実とは異なるのではないかと思う。実際、セミナー当日、読み上げたのは、東三河支部(当時)のS氏であるから、ハッキリしたことは同氏に聞くしかないが、S氏が読んだのは、確かマルクスが国債を例に資本還元を説明している部分ではなかったかと思うのである。つまりS氏は亀仙人が国債も資本還元されて架空資本として自立的な運動を行なうと主張していることを擁護して、『資本論』(確か大谷氏が訳した草稿ではなかったかと思うが)を読み上げてくれたのであるから、林氏があげている部分とは若干違うと思うのである。しかしそれはまあとりあえずはよいとしよう。

 さらに林氏は次のように書いている。

 〈サブプライムの証券化のメカニズムについて述べた私の報告が、マルクスのこうした概念を知らないで、したがってまた、この概念を適用しないで、論理を展開しているのではないか(それは正しくない)という批判であったが、しかし私はこの概念を知らないで展開したのではなく、むしろ反対に、十分に知っていてレジュメを作成しているのであって、ただこの概念を適用する必要を認めなかったということにすぎない。〉

 しかしこれはウソであることは、すぐに以下の論述で分かる。〈十分に知っている〉どころか、その理解がまったく間違っているから、〈この概念を適用する必要を認めなかったということにすぎない〉ことがすぐに分かるのである。

 また次のような主張は事実をねじ曲げている。

 〈批判者は、マルクスがこの概念を説明したときに、国債や労働賃金などにも言及していることをもって、サブプライムの証券化も、マルクスのこの概念から説明できる、いや説明しなくてはならないと考えたのであろうが、しかし途方もない誤解である、としか思われない。〉

 亀仙人は確かに〈マルクスがこの概念を説明したときに、国債……に言及していることをもって、サブプライムの証券化も、マルクスのこの概念から説明できる〉と主張したのであるが、決して〈労働賃金〉にも言及しているから、とその理由を上げたことはないのである。これは相手の言ってもしないことを言っているとして批判する、林氏が、相手を攻撃するときの常套手段の一つである。

§2

 林氏はもっともらしく次のように書いている。

 〈しかしまず、我々はマルクスが言及している国債は、どんな国債であるか、当時の実際に即して検討して見る必要があるのではないだろうか。必ずしも、現在日本で発行され取り引きされているような国債とは同じ性格のものではないように思われる。〉

 確かに国債はその発行する国や時代によってそれぞれ条件が異なることは当然であろう。もし具体的にはどんな国債があるのかを知りたいなら、日銀のホームページでも見れば、どんな国債があるか丁寧に教えている。しかしそんなことが何か問題なのであろうか。実際、林氏はいろいろ言っているものの、永久国債であろうが、償還期限のある国債であろうが同じであること(償還期限があっても、その期限が来る前に債権者は債務者に解約を通告することができないという点では同じであること)を認めざるをえないのであり、結局、同じであることを認めているのである。ではどうして、もっともらしく何かマルクスが言っている国債と現在の日本で発行されている国債とは違うものであるかに言っているのかというと、あたかもマルクスが国債を例に資本還元を説明しているのは、マルクスの時代に固有のものであって、現在日本で発行されている国債には妥当しないかに言いたいのである。しかし、林氏はそうした説明に成功しているかというとそうではない。しかしそういうことをほのめかして、自身の〝国債は資本還元できない〝という誤った主張をなんとか誤魔化そうとしているのである。しかしそんなことは成功するハズもない。なぜなら、国債は国債であって、その種類は日銀がいうように「その発行目的、根拠法、償還年限、発行方式、利払方式などによりさまざまに分類され」るが、しかし国家の債務という基本的な内容は同じだからである。

 次に林氏は次のように続けている。

 〈マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。〉

 林氏はエンゲルス版しか読んでないから、分からないのである。もし草稿を読んでいたなら(林氏は大谷氏から抜き刷りを送られているハズである)、マルクスが実際には次のように書いていることを知るであろう(『経済志林』に掲載された大谷訳からの引用)。

 《銀行資本〔Bankcapital〕は, 1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。有価証券は,さらに二つの部分に分けることができる。〔一つは〕商業的有価証券(手形)であって,これは流動的なもの〔floating〕で,本来の業務はこれの割引のかたちでなされる。〔もう一つは〕その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式( 〕),要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの《(場合によってはまた不動産抵当証券〔morgages〕も)》である。》 (『経済志林』63巻1号15頁)

 これを見れば分かるように、マルクスは《公的有価証券、例えばコンソル》と述べている。だからマルクスが国債という場合はコンソル公債を指していることは明らかなのである。林氏が草稿を読んでいたら、あのようには書かなかったであろう。
 ところで、草稿のこの部分の詳しい解説は今回はやらないが、ここでマルクスが「その他の有価証券」の中にコンソル(国債)や株式と同時に《場合によってはまた不動産抵当証券》をあげていることは注目されてよい。これはいわゆるモーゲージと言われるものであり、サブプライムローンの証券化で問題になった資産担保証券(ABS)の一種と言ってもよいようなものなのである(もちろん時代背景は異なるが)。
 またマルクスは銀行資本の《実物的な構成部分》として「現金」、「手形」と「その他の有価証券」とに分け、「その他の有価証券」を「公的有価証券」と「その他の有価証券,例えばあらゆる種類の株式」を上げ、そして手形と区別されるその他の有価証券全体をひっくるめて「要するに利子生み証券」と述べている。つまり「利子生み証券」としては国債も株式も同じものとして論じているのである。別のところでマルクスは《銀行業者の資本の現実の構成部分--貨幣、手形、有価証券》(16頁)とも述べており、そしてそのあと、マルクスはそれぞれをこれとは逆の順序で説明しているのである。つまり最初は有価証券の説明から入り、そしてそこで架空資本と資本還元の説明を行なっているのである。だからマルクスは国債や株式を例にあげてそれらを説明しているのである(そのあと簡単ではあるが、手形の説明に移り、さらに貨幣については預金と関連させて説明している)。そのなかでは確かに賃労働も例にあげて説明しているのであるが、しかしそれは本来の「その他の有価証券」、すなわち「利子生み証券」の説明とは異なることは、こうしたマルクスの一連の敍述の流れを見てもすぐに分かるのである。
 ついでに言えば、林氏はコンソル公債が「永久国債」であることを何か特別に問題であるかに述べているが、『平凡社大百科辞典』によると、コンソル公債も「1923年以降議会の承認で償還可能とされていたが,政府にとっては市価が安いため額面償還の利点はなく,低利率のため借換えの必要もなかったから,事実上典型的な永久公債となって存続した」と説明されており、「永久国債」というのは「事実上」の問題なのである。
 それに永久国債であろうが、償還期限のある国債であろうが、それらを購入した貨幣資本家は、いつでも必要なときに、それらを転売して、彼が前貸した貨幣資本(利子生み資本)を回収する(返済を受ける)ことができるのであり、だから架空資本としては、それが永久国債であるかそうでないかということによっては何の区別も生じないのである。こんなことに何か本質的な問題があるかに考えていることこそ、林氏が架空資本の何たるかが何も分かっていないことを自ら暴露しているのである。
 さらについでに言えば、株式も永久国債と同じように、本源的にそれに投資したものにとっては、一定期限がくれば返済されるというような性格のものではない。にも関わらず彼はその株式を他に転売することによって、彼が前貸した貨幣資本(利子生み資本)を回収する(返済を受ける)ことが出来るのであり、だから最初から他人から株式を購入する人は、彼の貨幣を利子生み資本として前貸しするのである。だから株式も架空資本としては利子生み資本の投資対象なのであり、その点では国債や社債などとまったく同じなのである。

 さて林氏は、次のように説明を続けている。

 〈しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が五ポンドという「収入」が利子率(五%?)で資本還元されて一〇〇ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。一〇〇ポンドという国家証券として、国家収入の中から、一〇〇ポンドにつき五%(五ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。〉

 実際、マルクスはどのように説明しているのかをわれわれは見ることにしよう。
まずマルクスは《利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである》(18頁)と述べ、さらに《事柄は簡単である》と具体例を示して説明して次のように述べている。《平均利子率を〈年〉5% としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば、毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる。しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が〈直接に〉譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける》(18-19頁、下線は引用者)。そして《例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう》として、国債について次のように続けて説明しているのである。

 《国家は自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。{この場合,債権者は,自分の債務者に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけである。}この資本は,国家によって食い尽くされ,支出されている。それはもはや存在しない。国家の債権者がもっているものは,第1に,たとえば100 ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5% の請求権を与える。第3に,彼はこの100 ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる。利子率が5% であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},A はこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100 ポンド・スターリングで〈Bに〉売ることができる。というのは,買い手〈のB〉にとっては,100 ポンド・スターリングを〈年〉5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。》 (19頁、下線はマルクス)

 だからこのマルクスの一連の説明を読めば、どうして林氏のような解釈が出てくるのか不可解至極なのである。ただ自説の間違った理解に強引にマルクスの一文を解釈しようとしているとしか思えない。
 マルクスは、利子生み資本という形態に伴って、一つの転倒した現象が生じることを指摘している。それは単にわれわれの頭のなかで生じている観念的な転倒というだけではなく、現実の経済的な過程のなかで生じている転倒でもあることに注意が必要である(なぜなら、幻想的な資本価値を「市場価値」としてそれらは「市場価格」によって、現実に商品として売買されて自立的な運動をするからである)。マルクスは《確定していて規則的な貨幣収入》であれば、《それが資本から生じるものであろうとなかろうと、どれでも、ある資本の「利子」として現われるようになる》と述べている。だからわれわれが第21章以降で学んだように、利子生み資本が産業資本(機能資本家)に貸し出され、その資本の生み出した「利潤」が機能資本家の取得する「企業利得」と、利子生み資本を貸し出した貨幣資本家の取得する「利子」とに分割されたような意味での「利子」ではない場合でも、あたかもそうした「資本」の生み出す「利子」であるかに現象するというのである。だから例えば「消費者ローン」や「国債」のような、その貸付金が個人や政府の消費によって使い果たされて、利潤を生み出すために前貸しされるわけではない場合でも、それらはあたかも利潤を生み、その一部を「利子」としてもたらす「資本」であるかに現象するのだということなのである。だからまずすべての《確定していて規則的な貨幣収入》が「利子」とみなされ、それに伴ってその「利子」をもたらす「資本」が見出されるのだ、というわけである。「資本」があって、その「資本」の生み出したものとしての「利子」があるのではなく、「利子」があって「資本」があるという一つの転倒現象が生じているわけである。「架空資本」や「資本還元」を理解する上で、それらをこうした転倒現象として理解することは極めて重要なのである。林氏にはそれがまったく欠けているのである。だから林氏には「架空資本」や「資本還元」の何たるかがまったく分かっていないのである。

 マルクスは国債について、(1)それは国家あての債務証書(100ポンド・スターリング)である、(2)この債務証書は、その所有者である債権者に、租税から年々一定額の貨幣(例えば100ポンド・スターリングの5%、5ポンド・スターリング)の請求権を与える、(3)債権者はこの債務証書を他人に譲渡できる、という条件について述べている。そして特に最後の譲渡可能ということについて、それは買い手にとっては、100ポンド・スターリングを年5%で貸し出すのと同じだからだ、と述べている。マルクスは国債の場合、年々租税から支払われるものを、「利子」とは言わずに、《年貢を確保する》という言い方をしている。というのはそれは産業資本が生み出した利潤が分割されて、「企業利得」と区別されたものとしての「利子」ではないとの考えがマルクスにはあるからである。
 だからマルクスは、上記の文章に続けて、《しかし,すべてこれらの場合に,国家の支払を子〈(利子)〉として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である》(20頁)と述べているわけである。

 ところで林氏はさらに次のようにも述べている。

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉

 こうした説明もまったく『資本論』をそのまま素直に読むのではなく、ねじ曲げた読み方でしかないことは明らかであろう。林氏は明らかに意図的に『資本論』におけるマルクスの説明を歪めて理解ようとしている。こんな誤った『資本論』の解説を『海つばめ』の読者にやって恥ずかしくないのであろうか。すでに一部紹介したように、マルクス自身は次のように述べているのである。

 《しかし,すべてこれらの場合に,国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない ということばかりではない。それはそもそもけっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである。最初の債権者A にとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。》 (20-21頁)

 これをどう読めば、〈収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではない〉と読めるのであろうか。悪しき意図なしには、そのようには読めないハズである。
 しかもマルクスは、わざわざ国債が架空資本である理由を、《それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しないということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのでありしかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである》と書いているのに、どうして林氏のように〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎない〉などと読めるのであろうか。これほどの悪どいねじ曲げた読み方は、さすがの不破もやらないであろう。マルクスが国債が架空資本である理由として述べているのは、明らかに後者の理由が主要なものであることは、それまでの一連の敍述からみても明らかである。にも関わらず、林氏はそれを意図的に無視して前者の理由だけを上げているのである。
 マルクスが言っているのは次のようなことである。国債が架空資本であるのは、本来それは「資本」として貸し付けられたものではないのに、「資本」として観念されるからであり、またその「利子」が「資本」の生み出した「利子」として観念されるからである,と。だからそれが《架空資本》と言われるのは、単にその貸し付けられた金額が政府によって費消されてしまって無くなってしまっているというだけではなく、あくまでも資本として投下されたものではないのに、資本として投下されたものと看做されるという転倒現象が生じているからであり、そこにこそ「架空資本」の「架空」性の本質があるということなのである。林氏がマルクスがいうところの「架空資本」をまったく理解していないことだけは明らかであろう。

 また林氏は国債を〈 “純粋の”空資本〉などと言って、〈“純粋”ではない架空資本〉もあるかにほのめかしている。つまり株式の場合はそういう場合だと暗に匂わせているのである(そしてマルクスが資本還元について述べているのは株式〔と地価〕の場合だけだと林氏は言いたいらしい)。しかしそんな理解は間違っていることはこのあとすぐに論証されるであろう。少し先走って、結論を言っておけば、マルクスは「資本価値」としては国債も株式も同じように《純粋に幻想的である》と述べているが、しかしにも拘らず、それらは自立的な運動を持っているのだと述べているのである。だからこの点では国債も株式もまったく同じものとしてマルクス自身は論じているのである。それはすぐに分かるであろう。

(以下、林氏の論文の途中であるが、批判の続きは次回に)

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