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2016年4月13日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-19)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回は、前回解読したマルクスの草稿の339頁の後半部分である。【32】パラグラフは、前回の続きであり、スミスの『諸国民の富』からの引用文に対するマルクスの考察の最後の部分である。【33】【34】パラグラフは、『通貨理論論評……』からの抜粋とそれに対するマルクス自身の考察になっている。これで339頁は終わるのであるが、今回は一回の掲載分量の関係で、【33】の引用文の考察までとする。)

【32】

 〈A.スミスが貸付一般について言っているのと同じことは,預金についても言えるのであって,預金とは, じっさいただ,公衆が銀行業者に行なう貸付の特殊的な名称でしかない。同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となることができるのである。〉

 スミスの例では、同じ貨幣片が何倍もの貸し付けに役立つことが紹介されていたが、同じことは預金についても言いうるというのである。つまり〈同一の諸貨幣片が任意の数の預金のための用具となる〉わけである。

 それでは、われわれは、実際、スミスの例で考えてみよう。スミスの例を整理したものは、次のようであった。

①A(1000£)-(貸付)→W(1000£) AがWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う
③B(1000£)-(貸付)→X(1000£)  BがXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£)  XがCから財貨を買う
⑤C(1000£)-(貸付)→Y(1000£)  CがYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£)  YがDから財貨を買う

 今これを銀行への預金に書き替えると次のようになる。

①A(1000£)-(貸付)→銀行(1000£)   Aが銀行に預金
①’銀行(1000£)-(貸付)→W(1000£)  銀行が預金された1000£をWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£)     WがBから財貨を買う
③B(1000£)-(貸付)→銀行(1000£)   Bが銀行に預金
③’銀行(1000£)-(貸付)-X(1000£)   銀行が預金された1000£をXに貸付
④X(1000£)-(購買)→C(1000£)      XがCから財貨を買う
⑤C(1000£)-(貸付)→銀行(1000£)   Cが銀行に預金
⑤’銀行(1000£)-(貸付)-Y(1000£)   銀行が預金された1000£をYに貸付
⑥Y(1000£)-(購買)→D(1000£)       YがDから財貨を買う

  スミスの例と同じように、A、B、C、Dがそれぞれ持っている1000£は、彼らが何らかの形で社会的に生み出した商品価値の実現形態であり、社会的には新たに生み出された価値である。それを今回は彼らはすべて銀行に預金するとしている(但しDの場合はそれは想定されていないのだが)。スミスの場合は、それらはWXYにそれぞれ貸し付けられたのであるが、今回はその貸付に銀行が介在して行われたということであり、スミスの場合、ABCは何らかの貨幣請求権(手形や小切手等)を持っていたのが、今度はそれは銀行に対する預金の形で持っていることになっている。
   銀行は社会的に有休している貨幣(資本)を集中し、それを必要な資本に貸し付けるのであるが、この場合、銀行は貸し手(ABC)に対しては、借り手を集中して代表し、借り手(WXY)に対しては、貸し手を集中して代表している。社会的には4000£の価値が存在していた(うち1000£は貨幣形態)。新たに形成された価値は3000£であった。以前にも指摘したように、それらの商品価値の実現形態としての貨幣は、それと同等の価値をもつ使用価値に対する請求権を表している。しかしABCはその権利を直ちに行使せず、とりあえずは銀行に預金して保留したわけである。預金はそれを表している。しかし銀行はその預金をすぐに利子生み資本としてWXYに貸し出し運用する。つまりABCは、自分たちの権利を銀行を介してWXYに委ねたわけである(現実には銀行は預金のすべてを貸付資本として運用するのではなく、一定の準備金を残した上で行うのであるが、これは今は無視する)。もちろんABCは、スミスの例の場合は、明らかにWXYに貸し付けたのだから、それを意識している。しかし銀行を介した場合、彼らは自分自身の権利はまだ銀行の預金という形で持っているとおもっている。しかしWXYはABCに代わって、直ちにそれらの権利を行使してしまう。つまりその限りでは、社会的には、ABCが生み出した価値、よって将来の生産や使用価値に対する請求権はその時点で消滅したのである。よって銀行にあるABCの預金は、まったく実体のない架空なものでしかないことになる。あるのは、ただ法的にかれら権利は保留されただけであることが保証されているだけである。つまりそれらの権利を代行したWXYがABCとは別に(時間的にも空間的にもまったく違った形で)形成する価値(権利)が、今度はABCに委ねられる必要がある、その義務がWXYにはあるということでしかない。WXYがその義務を果たさなければ、銀行は破綻し、ABCの預金も消滅せざるを得ない(社会的にはそれらすでに消滅していたものがただ現実になるだけなのだが)。銀行にはWXYに対する貸し付けによって合計3000£の債権が発生しているが、これは銀行にとってはABCの合計3000£の預金が債務であることに対応している。

【33】

〈「今日Aに預金された1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく真実である。{このことは,ただ2つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,1つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただし《この1000ポンド・スターリングの》預金者によってではなく)振出された小切手の支払等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび、他のある銀行業者に預金することがありうる{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払によって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである}。}それは次の日にはBからまた払い出されてCへの預金となることができ,こうしてどこまでも続くことができる。それゆえ,貨幣での同一の1000ポンド・スターリングが,次々に譲渡されていくことによって,まったく確定できない何倍もの預金額となることができるのである。それだからこそ,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任がある銀行業者の帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しないというようなことも,ありうるのである。……たとえばスコットランドではそうであって,そこでは流通額〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングとなっている。銀行にたいする預金の一般的な取り付けが起こらないとすれば,同ーの100ポンド・スターリングが,それの行程を逆戻りすれば,同じように確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。今日ある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられた同ーの100ポンド・スターリングが,明日は彼の卸売商人にたいする債務を決済し,明後日はこの卸売商人の銀行にたいする債務を決済することができ,そして無限にこれが続くのだから,同一の100ポンド・スターリングが,手から手へと,銀行から銀行へと渡って行って,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである。」(『通貨理論論評……』,62,6 3ページ。)〉

 この一文は先のパラグラフでマルクスがスミスの例は預金にも妥当すると述べたものを受けたものと思われる。つまり今度は預金が同じ貨幣片で何倍も形成される例として、 この引用文が紹介されているわけである。
 こでは『通貨理論論評……』からの引用文にマルクスのものと考えられる比較的長い一文が{ }という括弧に括られて書かれている。われわれは最初からマルクスの一文も含めて、その順次どおり、考察していくことにする。

 まず引用文の最初の部分。

「今日Aに預金された1000ポンド・スターリングが,明日はまた払い出されてBへの預金となるということは,争う余地なく真実である

これは確かに争う余地のない事実である。これについてマルクスは{ }をつけて二つの場合のみが可能だとして次のように述べている。

 〈このことは,ただ2つの場合にのみ可能である。一方では,預金者が1000ポンド・スターリングをAから引き出してBに預金する。この場合には,1つの預金が1000ポンド・スターリングによって表わされているにすぎないのであって,それがいまではAではなくてBのもとにあるのである。他方では,Aが1000ポンド・スターリングを,たとえば手形の割引で,あるいはまた彼あてに(ただし《この1000ポンド・スターリングの》預金者によってではなく)振出された小切手の支払等々で払い出し,次に受取人がこの1000ポンド・スターリングをふたたび、他のある銀行業者に預金することがありうる{割引の場合には,このことは購買によって,または第三者への支払によって,媒介されているはずである。というのも,受け取る貨幣を預金する目的で割引かせるような者はいないからである}。

 われわれは、その二つのケースに分けて考えてみよう。

【第Ⅰのケース】
   預金者が1000£をA銀行から引き出して、B銀行に預金する場合。この場合は、ただ預金がAからBに移っただけで、何も問題はない。問題は次のケースである。

【第Ⅱのケース】
   A銀行が預金された1000£で手形を割り引いたり、あるいは彼の預金者(しかし今回の1000£を預金した以外の預金者)の降り出した小切手の支払に応じた場合で、A銀行で手形を割り引いてもらった人や小切手の支払を受けた人が、それぞれB銀行に預金した場合である。ただマルクスは手形割引の場合は、恐らくそれは現金の先取りだから、当然、それは第三者に支払われるか、何らかの必要なものの購買に当てられ、その支払を受けた第三者がB銀行に預金するという過程を経るであろうとも指摘している。というのは手形をわざわざ割り引いて手にした現金を、また預金するようなものはいないからというのである。それなら別に利子を割り引かせてまで現金を先取りする必要はそもそもないからである。ただ次ようなことは考えられるのであろう。つまり手形を割り引いて得た銀行券をそのまま預金するということはありうるのではないかと考えるわけである。これは実際上は帳簿預金と同じであるが、何らかの担保の代わりに手形を割り引いて、銀行から貸付を受け、それを預金としたものである。ただこの場合は、当然、新たに預金を設定した人にとってはとくにかく現金を先取りしたいのだから、すぐにその預金に引き当てて小切手等で支払を行い、その預金は忽ち無くなることは十分にありうることである。

 いずにれよ、マルクスが考察している二つのケースを考えてみると、【第Ⅰのケース】の場合、社会的には預金額の増減はまったくないが、【第Ⅱのケース】の場合は、預金額は倍増していることがわかる。

 さらに引用文の続き見てみよう。

それは次の日にはBからまた払い出されてCへの預金となることができ,こうしてどこまでも続くことができる。それゆえ,貨幣での同一の1000ポンド・スターリングが,次々に譲渡されていくことによって,まったく確定できない何倍もの預金額となることができるのである。

しかしこうしたことが言いうるのは、マルクスが指摘したケース II の場合のみである。第Ⅰのケースでは同じ預金がただ持ち手を変えているだけで社会的にはまったく預金額そのものの増加はない。そしてケースIIの場合というのは、【32】パラグラフで考察したように何らかの商品の購買が介在している場合である。預金はが確かに何倍にもなるが、しかし、それは実際に社会的にはそれだけ新たに生み出された商品価値が存在していることを前提しているのであり、その実現形態としての貨幣が新たな預金を生み出しているということである。これはマルクスが預金を現金でなされるものに限定していることと同義であると考えられる。ただ預金の場合は、それが直ちに銀行から貸し出されるこによって、次々とそれらは単なる帳簿上の記録になってしまい、架空化するということである。だから銀行の帳簿上の記録として存在している預金額そのものは膨大なものになりうるわけである。しかしそれがどんなに膨大になったとしても、社会的にはそれに見合った価値が存在しているわけでは決してない。
   今、商品価値を実現した貨幣所持者Aが1000£を銀行に預金したとすると、すぐに銀行はその預金1000£を別の人に貸し出す。だからAの預金はその時点で架空化し、単なる帳簿上の記録でしかない。そしてその貸付を受けた人がそれで小切手に支払ったり、あるいは別の商品の購買に当てたりして、それを支払ったとすると、その支払を受けた人Bが、やはりそれを銀行に預金するわけである。するとこの場合、預金は2000£と二倍になっている。ここで注意が必要なのは、第一に、その2000£は明らかにAとBのそれぞれの商品価値の実現形態が、だから現金が銀行に預金されて生じていることである。しかし第二に、Aの預金そのものはすでに銀行にはなく架空化しており、しかしAにとっては彼の商品価値の実現形態は依然として銀行にあると考えているわけである。同じような過程を辿れば、同じ1000£が確かに何倍もの預金になることは明らかであるが、しかしそれは同じ貨幣片が次々と商品を実現して、総額として何倍もの商品価値を実現できるのとまったく同じことである。ただ預金の場合は、最後に行われてまだ銀行に残っている預金1000£の場合だけはともかく、そのすべては架空なものでしかなく、銀行の帳簿上に記載されているだけの存在でしかないということである。

  引用文の続き(以下、〈 〉はすべて同じ)。

 〈それだからこそ,連合王国にある預金の総額の10分の9までが,それらの預金のそれぞれに責任がある銀行業者の帳簿に記載されているそれらの記緑以外には全然存在しないというようなことも,ありうるのである。

 この〈総額の10分の9〉を引いた十分の一は要するに準備金であろう。

〈……たとえばスコットランドではそうであって,そこでは流通額〔currency〕は300万ポンド・スターリングを超えたことがないのに,預金額は2700万ポンド・スターリングとなっている。

   ここで流通額というのは実際に流通している現金(すなわち金貨と銀行券)の総額を意味している。これはまあ流通必要金量を代理していると言えるだろう。そして預金額2700万£は帳簿上の記録に過ぎないが、しかし、その預金に対して小切手が切られ、膨大な取り引きが決済されているわけである。混乱した現代のマルクス経済学者たちはこの2700万£をも「預金通貨」なる用語で呼んで、通貨の一部に加えるわけである。しかしこの引用文の著者は賢明にもそうした間違いに陥っていない。預金は、単なる帳簿上の記録でしかないということを明確に理解している。

 〈銀行にたいする預金の一般的な取り付けが起こらないとすれば,同ーの100ポンド・スターリングが,それの行程を逆戻りすれば,同じように確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう。今日ある小売商人にたいする債務を決済するのに用いられた同ーの100ポンド・スターリングが,明日は彼の卸売商人にたいする債務を決済し,明後日はこの卸売商人の銀行にたいする債務を決済することができ,そして無限にこれが続くのだから,同一の100ポンド・スターリングが,手から手へと,銀行から銀行へと渡って行って,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである。

 この一文は必ずしも明瞭ではない。まず〈同ーの100ポンド・スターリング〉というのが何なのかがハッキリしないことである。それは預金なのか、それとも別の現金なのかがハッキリしないのである。次に〈それの行程を逆戻りすれば,同じように確定できない金額を同じように容易に決済することができるであろう〉というのもハッキリしない。〈それの行程〉というのはどの行程なのか、〈逆戻りす〉るというのはどういうことなのか、ということである。しかし細かいことを色々と考えていてもしようがない。ただ最後の部分〈そして無限にこれが続くのだから,同一の100ポンド・スターリングが,手から手へと,銀行から銀行へと渡って行って,考えられうるどんな預金額でも決済することができるのである〉と述べていることである。これを見るかぎり〈同一の100ポンド・スターリング〉というのは〈同一の100£紙幣片〉と考えてもよいように思う。そして〈手から手へと〉というのは、それが支払手段か購買手段として機能して、人の手を渡っていくことを表し、〈銀行から銀行へと渡って行って〉というのは、それらが色々な銀行に預金となり、且つそれらが決済されていくことを述べているように思う。〈考えられうるどんな預金額でも決済することができる〉というのは、そうして決済された預金額というのは、同じ100£の銀行券片が形成したものだが、しかしそれは一定の期間をとれば大きな額に達するのだということであろう。
 ただここで述べられていることは、同じ100£の銀行券片が介在して形成された銀行預金が、帳簿上の記録としてさまざまな債務を決済するのに利用され得るということそのものは直接には問題になっていないような気がする。帳簿上の記録はまったく架空なものに過ぎないのに、銀行にとっては一つの貨幣資本であり、彼らはそれらの決済手続きに対して手数料と利子を稼ぐのである。

(以下、続く)

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