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2016年4月 3日 (日)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-18)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (前回も指摘したように、今回から解読する【30】【34】パラグラフ(今回はその前半部分だが)は、草稿では339頁に上下の折り跡を無視する形で、全頁びっしりとノートが取られており、こうした場合、大谷氏の考察によれば、マルクスが本文として書いたものでも(各頁を真ん中に折り跡を付けて、上下二段に区別し、上段に本文を書いた)、原注でもなくて(本文にアルファベットで注をつけて、それを下段に書いた)、関連する文献からの抜粋やそれに対するコメント等でなっており、後に何らかの形で利用することを考えて作成した資料集と考えることができる。)

【30】

 〈|339|アダム・スミスは,貨幣が資本貸付で演じる役割に関連して次のように述べている。--
 「とはいえ,金融界〔monied interest〕にあってさえも,貨幣は,所有者が自分で使用したいと思わない諸資本を一方の手から他方の手に運ぶ,いわば譲渡証書でしかない。それらの資本は,その運搬の用具として役立つ貨幣の額よりも,ほとんど比較にならないほど大きなものであろう。すなわち,同ーの諸貨幣片が次々に,多数の別々の購買にも,多数の別々の貸付にも役立つのである。たとえば,AがWに1000ポンド・スターリングを貸付け,WがこれですぐにBから1000ポンド・スターリングに値する財貨を買う。B自身はこの貨幣を必要としないので,彼は同一の諸貨幣片をⅩに貸付け,ⅩはこれですぐにCから1000ポンド・スターリングに値する別の財貨を買う。同じやり方で,また同じ理由からCはその貨幣をYに貸付け,YはまたそれでDから財貨を買う。このようにして,鋳貨であれ紙幣であれ,同一の諸貨幣片がわずかな日数のあいだに,別々の三つの貸付と別々の三つの購買との用具として役立つことがあるのであって,これらの貸付と購買のそれぞれは,価値から見ればこれらの諸貨幣片の総額に等しいのである。A,B,Cという3人の金持ち〔monied men〕がW,Ⅹ,Yという3人の借り手に譲渡したものは,これらの購買を行なう力である。この力こそ,貸付の価値でもあれば効用でもある。この《3人》の金持ちが貸付ける資本〔stock〕は,それで買うことができる財貨の価値に等しく,これらの購買に用いられる貨幣の価値の3倍の大きさである。それにもかかわらず,これらの貸付はすべてまったく完全に保証されているであろう。というのも,それぞれの借り手が買う財貨は,やがて,等しい価値の鋳貨または紙幣を,利潤とともに取り戻すように充用されるのだからである。こういうわけで同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができるように,それはまた同じく次々に返済の用具としても役立つことができるのである。」 (『諸国民の富』,第2篇第4章。)〉

 この引用文を分析する前に、資料集作成の場合のマルクスのノートのとり方の特徴を指摘しておこう。このパラグラフでも明らかなように、マルクスは文献から注目すべき部分を抜粋する場合、まずその内容を簡潔に紹介する一文を書いたあと、それに続けて抜粋を行っている。抜粋そのものはマルクス自身が内容を要約して書き出している場合もある。また時にはその抜粋文の中に丸カッコをつけて自身のコメントを挿入する場合もあるし、引用の後に続けて自身の考察を書き加えたりしている。今回の場合も、まずその抜粋で、マルクスが何を問題にしているかが分かるように一文を書き、そのあと引用文を紹介し(以上、【30】パラグラフ)、それに対する自身のコメントを書いている(【31】【32】パラグラフ)。

 それでは、このパラグラフについて考えてみよう。
 まずマルクスは〈アダム・スミスは,貨幣が資本貸付で演じる役割に関連して次のように述べている〉と書いている。つまりこれはその前のパラグラフ(【29)で、〈利子生み資本および信用制度〔Creditwesen〕の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉と述べていたことに関連して、具体的に同じ問題を論じているスミスを紹介していると考えることができる。

 抜粋文のスミスの例は、そのまま読みくだしても、なかなか分かりにくいので、まずそれを整理してみよう。その内容を図示すると次のようになる。

①A (1000£)-(貸付)→W(1000£) AがWに貸付
②W(1000£)-(購買)→B(1000£) WがBから財貨を買う
③B (1000£)-(貸付)→X(1000£) BがXに貸付
④X (1000£)-(購買)→C(1000£) XがCから財貨を買う
⑤C (1000£)-(貸付)→Y(1000£) CがYに貸付
⑥Y (1000£)-(購買)→D(1000£) YがDから財貨を買う

 同じ貨幣片が別々の三つの貸付(①③⑤)と購買(②④⑥)に役立った。そしてスミスはここから〈これらの貸付と購買のそれぞれは,価値から見ればこれらの諸貨幣片の総額に等しい〉という。しかし、考えてみよう。社会的には価値としては最初のAが所持していた1000£の貨幣(これは最初はAが自身の商品を売って所持していたことになる。そして最終的にDが自身の商品を売って所持することになる)とB、C、Dが持っていた(つまり彼らが何らかの形で社会的に生み出したであろう)財貨の価値、すなわち3000£である。つまり社会的には価値としては4000£存在したことになる。AはWの支払約束証書を持っているとする。同じように、BもXの、CもYの、それぞれ1000£の支払約束(債務証書)を持っている。彼らはそれを自分自身の財産と考えるであろう。つまりここには社会的に見て、3000£の債権が存在している。つまり社会的には1000£の貨幣、3000£の商品価値、3000£の債権が存在していることになる。ただ購買された商品は直ちに消費されてしまったとすれば、一連の過程の終わりには、3000£の商品価値はすでに無く、残っているのは、1000ポンドの貨幣と3000ポンドの債権(あるいは債務)だけである。ただしそれぞれの商品が生産手段として購入されたのであれば、社会的にはそれらの価値は消滅せず、新たな生産物の価値の一部として移転され保持されているであろう。ここでA、B、C、Dは何らかの形でにせよ、社会的にみて4000ポンドの価値を所持していた人たちである。それに対してW、X、Yは社会的には何の価値も持たず、ただ一方的に消費するだけの人として現れている。勿論、彼らには最終的には3000ポンドの債務が残ったのであるが。貨幣1000ポンドは、結局、最終的にはAからDに移ったことになる。つまりDは1000ポンドの商品の代わりに1000ポンドの貨幣を持つことになった。それに対してA、B、Cはそれぞれ1000ポンドの貨幣あるいは商品の代わりにそれぞれ1000£、合計3000£の債権を持つことになっている。
 ただここで財貨を買うW、X、Yはそれらを不変資本として購入するとスミスは仮定している。というのは〈それぞれの借り手が買う財貨は,やがて,等しい価値の鋳貨または紙幣を,利潤とともに取り戻すように充用される〉としているからである。そしてスミスの結論は次のようになっている。

 〈こういうわけで同一の諸貨幣片がその価値の3倍もの,あるいは同じ理由でその30倍もの,異なった貸付の用具として役立つことができるように,それはまた同じく次々に返済の用具としても役立つことができるのである。

 このようにスミスは貸付の用具として役立つと述べてはいるものの、しかし、そこに必ず購買を入れていることに注意が必要である。つまりただ1000£の貨幣がAからBへ、貸し付けられ、そのBからさらにCに、CからさらにDへと貸し付けられるというような貸付を想定していないということである。これでは同じ貨幣額がただ貸し付けられただけで、これは結局は、Aの貨幣がDに貸し付けられたことを意味するだけだからである。両者以外のB、Cは一方の債務を他方の債権で相殺されて、結局、何もないことになっている。スミスは同じ貨幣片が何倍もの貸し付けや、返済に利用されるとしているが、しかし、それはそれらの貸し付けや返済が、それぞれ別々の価値の貸し付けであり、返済であることを正当にも想定しているわけである。

【31】

 〈同ーの貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができるのだから,まさにそのことによって,同ーの貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる。というのは,購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのであるが,貸付は,購買によって媒介されることのないような,一方の手から他方の手への移転にほかならないのだからである。売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしている。だからまた,どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わすのであるが,このことは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の命題の別の表現でしかないのである。貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである。貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではない。貨幣が貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにある。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのである。かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は3つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけであろう。貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである。〉

 このパラグラフは、先のスミスからの引用にもとづいて、マルクス自身が書いたものと思われる。しかし詳しく見ていくとなかなか理解が容易なものではないことが分かる。何がよく分からないのか、詳しく箇条書き的に書き出してみよう。

(1)まず〈同ーの貨幣片がそれの流通の速度に応じていくつもの購買を行なうことができる〉というのは、誰でも分かることである。しかし〈まさにそのことによって,同ーの貨幣片がいくつもの貸付を行なうことができる〉というのであるが、どうして最初のことを根拠に後者のことが言いうるのかいま一つよく分からないのである。確かに上記のスミスからの引用文では、貸し付けと購買が交互に行われることが述べられているが、それは何を意味するのかということである。
 これは次のようなことを意味しているのではないだろうか。同一の貨幣片がいくつもの購買を行うということは、同一の貨幣片がさまざまな商品の価値の実現形態になるということである。つまり同一の貨幣片ではあるが、それが実現した商品の価値はすべて異なる商品であり、その限りでは新たな価値の貨幣形態なのである。だからある商品の価値を実現した貨幣、つまり商品Aを販売して入手された貨幣は、商品Aの価値の実現形態であり、その貨幣をXに貸し付けるということは、商品Aの価値の実現形態を貸し付けるということである。商品Aの所持者にとってAの価値の実現形態である貨幣は、彼が社会に与えた一定の商品価値に相当する別の商品を社会から引き出す権限を有していることを表している。もし彼がそれをXに貸し付けるとするなら、それはその権限をXに貸し出すことを意味するのである。XはAに代わって、その権限を行使することになる(だからまたXは一定の決められた期限後に、その権限をAに返済する義務も生じている。Aは自分の権限をすぐには行使せずに、一時的にXに委ねるのであるが、そのことはAはその権限を放棄したことを意味するのではなく、それを保留しているだけで、その権限は返済された段階で、Aによって行使することは可能になるが、Aに返済された権限は、Xに限らず別の誰かの権限を、Xが借りて、Aに返済したものかも知れないのだが、いずれにせよAはその権限を元に戻すことになる)。つまりこのように貨幣の貸し付けというのは、本来はその貨幣の所持者が持っている権限(社会の富や労働に対する請求権)を第三者に貸し付けることなのである。これは社会的総再生産過程を考えれば、その重要性が分かる。つまり同じ貨幣片が次々といくつもの貸し付けを行うことが出来るのは、その貨幣片がさまざまな商品の対価としてさまざまな権限を表しているからであり、そうでなければならないということなのである。だからこそ、マルクスは〈まさにそのことによって〉と述べているわけである。そしてここから次のような疑問を解くカギも見いだされるような気もする。

(2)すなわち次にマルクスは〈というのは,購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのであるが,貸付は,購買によって媒介されることのないような,一方の手から他方の手への移転にほかならないのだからである〉というのであるが、〈というのは〉ということは、先の一文のようにいえるのは、とその根拠を示そうとしているように思える。ただ、果たして上記に言われていることが、先のことの根拠として言いうるのかがいま一つよく分からないのである。
 少し考えてみよう。ここで言われていることは、明らかに購買と対比しての貸付の特徴を述べていることである。すなわち購買は貨幣片を一方の手から他方の手に移すのだが、しかしその貨幣片は別々の商品価値の実現形態だということである。購買では貨幣は次々と商品の購入者の手に渡っていくが、しかしその価値が表す商品価値の実現形態としては商品の数だけ異なっている。もちろん貨幣価値としてはまったく同質で無区別であるが、しかし貸付は、それも確かに一方の手から他方の手への移転であるが、しかしそれは別々の商品価値の実現形態ではなく、同一の商品価値の実現形態に過ぎないということである。つまり購買では次々と人の手を移っていく貨幣の価値は、それぞれ社会的に見れば、商品価値として新たに形成された価値であり、だから貨幣が人の手に移っただけ、社会的にはその数だけの価値の形成を表しているのであるが、しかし貸付の場合は、そうではなくそれがどんなに多くの人の手を経たとしても社会的にはまったく同じ価値のただの移転に過ぎず、社会的に新たな価値の形成を意味しないわけである。

(3)だから以下の文章もこれまでの考察で容易に理解できることになる。

 〈売り手のそれぞれにとっては,貨幣は自分の商品の転化した形態を現わしている。だからまた,どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わすのであるが,このことは,貨幣はいくつもの商品価値を次々に実現して行くことができるという,以前の命題の別の表現でしかないのである。貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである。

 これ自体は貨幣は単純な規定であり、資本(貨幣資本)は、それが資本関係のなかに受け取る、より具体的な形態規定性であることを考えれば、何の問題もない。そもそも単純流通の単なる貨幣や商品は、資本の流通の過程における商品資本や貨幣資本を、それらの資本関係というより具体的な形態規定性を捨象して得られたものである。もちろん単純流通そのものがブルジョア社会の表面に直接に現象しているという特異性があり、われわれが直接目にする表象そのものがそうしたより具体的な形態規定性である資本関係を背後に隠した、その意味では抽象的な形態規定性そのものとしての流通なのであるが。だから商品を売って入手した貨幣が彼にとって、資本価値を表すなら、彼が売った商品もまた商品資本であったということになる。だからここで重要なのは〈どの価値でも資本価値として表現される今日では,貨幣はいくつもの資本を表わす〉というように、今日では貨幣はそのまま資本を表すものと考えられるのだが、しかしそれは貨幣が次々と購買によって人の手に移っていくことの別の表現であり、それはそれぞれが自分が持っている商品資本の貨幣形態、つまり貨幣資本を持っているということに過ぎない、というわけである。
 ただその次に述べていることがいま一つよく分からない。〈貨幣は流通手段として役立つと同時に,現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶのである〉というのだが、流通手段として役立つだけなら、それは現実の資本を一方の手から他方の手に運ぶという表現は正確ではないからである。流通手段は特定の商品価値を貨幣に転化し、その貨幣を別の商品の購入に支出する、つまりW-G-Wを媒介するということてある。しかしこれは決して、現実の商品を一方の手から他方の手に運ぶわけではない。確かにある特定の商品はその価値を実現して、貨幣になる代わりに、その現実の商品の使用価値を購買者の手に渡す、このかぎりでは貨幣は一方の手から他方の手に商品を運んだと言えなくもない。しかし価値としては販売者は商品として持っていた価値を、ただ貨幣価値に転化したに過ぎず、彼は決して商品価値そのものを手放すわけではなく、だからそれを人の手から他方の手に運ぶことはしないのである。だから「現実の資本」と訳されている言葉で、マルクスは何を考えているのかということであろう。「現実の資本」の原文は「dei wirklichen Capitalien」であるが、これは恐らく使用価値に関連したものと理解すべきであろう。つまり「実物の資本」というような意味と考えるべきではないだろうか。

(4)次は貸付である。

 〈貸付では,貨幣は,流通手段として一方の手から他方の手に移るのではない。貨幣が貸し手の手のなかにあるあいだは,それは流通手段としてではなくて,彼の資本の価値定在として彼の手のなかにある。そして彼はこの形態で,それを貸付のかたちで第三者の手に移すのである。かりにAがBに,BがCに,等々,購買という媒介なしに貨幣を貸付けたのだったとすれば,この同一の貨幣は3つの資本を表わすのではなくて,ただ一つの資本を,ただ一つの資本価値を表わすだけであろう。貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである。

 この一文はこれまでの考察にもとづけば基本的にはすでに解明しているといえる。貸付では、同じ価値をただ持ち手を変えているだけで、社会的にみても価値の増加や形成は何もないということである。それに対して一つの貨幣片が次々と商品を実現していくならば、その回数だけ、社会的には新た価値の実現形態なのであり、社会的にはそれだけ新しい価値が生み出されたことを意味しているわけである。貸付の場合は、その貸し付けられる貨幣が次々と人の手に渡っていったとしても、それは同じ資本を表すだけである。だからこの最後で言われているように、〈貨幣が現実にいくつの資本を表わすのかは,貨幣が別々の商品資本の価値形態として何回機能するのかにかかっているのである〉。その点、スミスの引用文は購買と貸付を交互に行う例を上げている点で、正しい理解に立っていると言えるであろう。

 (以下、続く)

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