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2016年3月

2016年3月23日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-17)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回、解読する【29】パラグラフは、解読本文でも明らかにしているように、マルクスが「II」と草稿で番号を記した部分(現行版の第29章該当部分)の、ある意味では「まとめ」と考えられる。しかし、MEGA編集部においても、それを翻訳紹介している大谷氏も、その点について何の言及もしていない。しかし第29章該当個所(マルクスが「II」と番号を打った部分)の本文は、基本的にこのパラグラフで終わっていると考えられる。)



【29】

 〈利子生み資本および信用制度〔Creditwesen〕の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである。たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,彼らによって貸し出されたのちにも彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである。|〉

 さてこのパラグラフは草稿の338頁上段の最後に位置する(「|」がそれを示している)。そして次の【30】パラグラフから草稿の339頁が始まるのであるが、この339頁には上下の区別が記載されていない。この点について大谷氏は何の注記もしていないが、これまでの大谷氏の説明によれば、こうした場合は、マルクスは339頁を上下の折り跡を無視して上から下までびっしり書いていることを意味している()。そしてその場合は、それは本文でも注でもなくて(注の場合は頁の下段に書かれる)、今対象にしている問題に関連する資料を収集して一定の考察を加えたノートと考えてよいであろう(しかし以前にも指摘したが、エンゲルスはこうしたマルクスのノートの取り方を理解せずに編集原稿を作成したために、こうしたものもすべて本文に加えてしまっているわけである。ただ、エンゲルスの場合は、途中から秘書を雇って口述筆記で編集原稿を作成せざるを得なかったこともあり、やむを得ない面もある。ところがどうしたことか、MEGA第II部第4巻第2分冊の場合も何の区別もなしに【30】パラグラフ以下も本文として取り扱っているのである(MEGA同巻526頁)。しかも、この点について大谷氏も、他のところではMEGAの編集の誤りについてはその都度指摘しているのに、今回の場合には何の疑問も提起していない。つまり大谷氏もあるいは【30】パラグラフ以下が本文ではないということを見落としているのかも知れないのである)。

 いずれにせよ、マルクスのノートの取り方を考慮すれば、この【29】パラグラフは、「II」(エンゲルスが「銀行資本の構成部分」と表題をつけた部分)の本文としては最後のものであると理解しなければならない。つまりマルクスは「II」の本文をこのパラグラフでもって締めくくっているのである。
 しかしもちろん、マルクスは引き続いて、このパラグラフに関連すると思われる抜き書きやそれに対する一定のコメントを書きつけており、だからその限りでは、さらに本文を書き続ける予定ではなかったとは断言はできないわけである。しかし、いずれにせよ、草稿としては、マルクス自身が本文と意図して書いたものは、ここまでであることをわれわれは確認しておこう。

 (*)この339頁が上下無区別に上から下までびっしり書かれているということは、例えば、337頁上段や338頁上段の行数(但し大谷氏の翻訳文の行数であるが)を数えると、それぞれ337頁上段=77行、338頁上段=75行であるのに対して、339頁=123行となっていることを見ても明らかと思える。

 さて、本文の解読に取りかかろう。
 マルクスは〈利子生み資本および信用制度の発展つれて〉と述べている。以前にも(【13】パラグラフ)、〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって、例えば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と述べていたが、架空な貨幣資本が何倍にも膨れ上がって見えるというのも、やはり利子生み資本と信用制度の発展がもたらす〈狂った形態〉の一つであろう。2008年の世界的な金融恐慌でも暴露されたが、今日の金融資産とその取り引き額は、現実資本の取り引き額(貿易額等)の何倍にも膨れ上がっているが、こうした金融バブルの現象を理論的に説明するためにも、われわれは利子生み資本の概念をしっかり理解し、その運動諸形態についてのマルクスの理論から真剣に学ぶ必要があるわけである。(*)

 (*)知人が送ってくれたサププライムローン問題のレジュメの一部を紹介させて頂くと、次のような事実が紹介されている。
 〈債券市場を支える、貸付可能な貨幣資本はどんな規模なのか推定するほか無いが、世界の株式時価総額・債券発行残高・預金を合計した推計07年10月に約187兆ドルのピークだったようで、同じころの世界のGDP合計の3.45倍だ。'90年からのGDP増加率約2.4倍と比較すると、貨幣資本の増加は4.6倍。〉

 マルクスは〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが〉と述べているが、ここで〈同一の資本〉というのは、「同一の貨幣資本」という意味であろう。そして〈同一の債権〉というのは、例えば国債や株式など利子生み証券の類と考えてよいであろう。つまり貨幣資本(moneyed Capital)がそうした債権に投下されたものと考えることが出来る。そうしたものが〈さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉というわけである。ここで注意が必要なのは、マルクスは〈見え〉とか〈見える〉と言っているのであって、決して「すべての資本が「2倍になる」とか「3倍になる」と言っているわけではないということである。つまりそれらはすべて「見えている」だけであって、だから外観に過ぎないのだというのがマルクスの理解ではないかと思う。まだここではどうしてそれらが〈2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉かについては何も述べていない。【30】パラグラフ以下では少しそうした問題も論じられているように思えるが、しかしマルクスとしては「III」と番号を記したところで本格的に論じるつもりだったからではないかと思える。つまり貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積との関連を論じる予定だったところでである(しかし実際はマルクスは「III」の中では架空な貨幣資本については捨象して、「貸付可能な貨幣資本」に問題を限定して論じているのではあるが)。

 次に〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉とあるが、ここで貨幣資本が鍵括弧に入っており、しかもこれまでの貨幣資本には必ず(moneyed Capital)という英文が添えられていたのに、それが無い。ということは、この原文は「Geldcapital」ということである(そして実際MEGAを見ると「“Geldcapital”」となっている)。ではこの場合のGeldcapitalは、『資本論』第2部で出てくる生産資本や商品資本と区別される資本の循環過程における一形態である貨幣資本(Geldcapital)を意味するのか、というとそうではないのである(*)。この点については、大谷氏の詳細な検討があるので、少しその概要を紹介しておこう。

 大谷氏は《「貨幣資本と現実資本」(『資本論』第3部第30-32章)の草稿について》(『経済志林』第64巻第4号)の最初の考察部分のなかで、「若干の基本的なタームについて」論じているが、そのなかで「(3)貨幣資本(moneyed Capital)と貨幣資本(Geldcapital」と題して、この問題を論じている(同74頁以下参照)。その詳細については、各自直接同論文を検討されることをお願いするが、その概要は次のようなものである。
 大谷氏が〈マルクスの草稿では,信用制度下の利子生み資本としての貨幣資本には圧倒的にmonied capitalという英語表現のタームが使われ,それにたいして資本の循環形態としての貨幣資本にはほとんどGeldcapitalというドイツ語のタームが使われている〉と説明していることについて、川浪洋一氏は異論を唱え、〈彼(マルクス--引用者)は,利子生み資本あるいは貸付可能な貨幣資本の意味では,概ねmoneyed capitalという用語を使っている。それに対し,貨幣的財産の意味ではGeldkapitalという用語を使っている〉(『貨幣資本と現実資本』,有斐閣,1995年,91-92ページ)と主張したのである。それに対して、大谷氏は次のような見解を対置している。

 〈一般に,貨幣形態にあるために,あるいは貨幣として見られるために「貨幣資本」と呼ばれるものには,概念的にはっきりと区別されなければならないさまぎまのものがあり,しばしばそれらが混同され,同一視される。マルクスはそれらのなかから,まず『資本論』第2部で,資本がその循環のなかでとる形態である「貨幣資本〔Geldcapital〕」を概念的に把握した。さらに,第3部第4章で,貨幣形態で「貨幣取扱資本」のもとに滞留し,遊休している,産業資本や商業資本の準備ファンド, したがってそれらにとっての遊休貨幣資本を概念的に把握した。そして,第5章の「1)」-「4)」で利子生み資本という独自の資本形態を概念的に把握し, 「5)」では,まず信用制度下の利子生み資本の独自の姿態を「貨幣資本〔monied capital〕」と呼んだ。そのなかの「II)」では,利子生み資本の成立を前提として資本化された「蓄積された,労働にたいする所有の請求権」である「架空の貨幣資本」が概念的に把握された。そして最後に,「III)」では,この「架空の貨幣資本」とはとりあえず区別される「貸付可能な貨幣資本」が分析の中心的な対象に据えられているのである。これらのものすべてが,最広義では「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのであり,マルクスはこの言葉で, あるときは「生産的資本」および「商品資本」から区別される,循環中の貨幣形態にある資本を指し,あるときは貨幣資本〔moniedcapital〕を指し、あるときは「貨幣財産としての貨幣資本」を指しているのである〉(同79頁)

 だから要するに「貨幣資本〔Geldcapital〕」という場合には、第2部で問題になる資本の循環形態としての貨幣資本だけではなくて、さまざまな意味合いがあるということである。ここで問題になっている鍵括弧付きの「貨幣資本」はどういう意味合いを持っていると理解すればよいのであろうか。大谷氏の説明によれば、それはmoneyed Capitalを含んだ貨幣財産と理解するのがとりあえず妥当なところではないかと思える。その〈大部分は純粋に架空なもの〉だというわけである。ここでマルクスが「大部分は」と述べているのは、大谷氏も指摘しているように、中には架空でないものも含まれるという含意であろう。実際に産業資本に貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)そのものは必ずしも架空ではない場合もありうるであろうからである。

 (*)実はこうした貨幣資本(Geldcapital)は、これ以外にも、これまでわれわれが検討してきたところでも見られたのであったが、われわれはそれを見過ごしてきたわけなのである。川浪氏が例として上げているものであるが、例えば【19】パラグラフの次の一文-- 

 〈この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉 

 ここに出てくる〈この名目的な貨幣資本〉の原文は〈dieses nominellen Geldcapitals〉である。
 さらには【22】パラグラフの次の一文--
 

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉 

 ここに出てくる〈貨幣資本蓄積〉も原文は〈Accumulation des Geldcapitals〉である。
 さらに【27】パラグラフの次の一文--
 

 〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉 

 ここに最後に出てくる〈架空な貨幣資本〉も原文は〈fiktivem Geldcapital〉である。
 そしてもう一つは、今、われわれが問題にしているパラグラフの「貨幣資本」(“Geldcapital”)なのである。これらは一応、とりあえず大谷説にもとづくなら、すべて最広義の意味での、つまり何らかの貨幣形態をとった資本という意味での貨幣資本と理解するのが妥当なのであろう。

 次にマルクスは、その例えとして預金を上げている。その部分を考察するために、もう一度、その後半部分を書き出しておこう。

 〈たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,彼らによって貸し出されたのちにも彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである

 これは利子生み資本がさまさまな資本家や銀行などを通して、同じ貨幣資本が2倍にも3倍にも見えるようになるが、それらのほとんどは架空な貨幣資本だと述べたあと、それを受けて〈たとえば〉となっているので、〈預金のすべてが(準備ファンドを除いて)〉が、そうした架空な貨幣資本なのだということてある。というのは預金は準備ファンドを除けばすべて直ぐに銀行から貸し出されて、銀行には保管物という形では存在しないからである。にも関わらず、それらは依然として、銀行にとっては資本として機能するのであり、だから貨幣資本として存在しているように見えるわけだから、預金は、架空なものとしてただ帳簿上だけで存在するものと、銀行から貸し出されて再生産資本家たちの手にあるものと両方存在するかのように見えるわけだから、少なくもこの段階で2倍に見えるわけである。銀行のただ帳簿上存在するに過ぎない預金も銀行にとっては立派に資本として機能するのは、彼らはこれらの帳簿上の預金の振り替えによって、互いに自行に対する支払指図を交換することによって、支払ったことにする(相殺する)わけだからである。だからただ帳簿上にしかない預金でも、しかし預金者は自分の預金に対して小切手を切って、自らの支払を決済したのだから、それは彼にとってはそれは依然として銀行に保管物として存在しているかのように現象するわけである。
 なぜ、こうした支払がただ帳簿上の記録にすぎないものの機能によって決済可能なのであろうか。それは支払手段としての貨幣の機能の一つに相殺があるからである。さまざまな債務の連鎖が最終的に差し引きゼロになれば、それは債務証書の交換だけで最終的に決済が済んでしまう。そして債務の連鎖は、銀行がそこに介在することによって集中されることになり、より容易に相殺が可能になるからである。さまざまな債務が銀行の債務に変換され、銀行間の債務の相殺によって、すべての債務が決済されてしまうことになる。現在では、銀行間の債権・債務も中央銀行の当座預金の振り替えによって最終決済されるようになっており、債権・債務の決済にはほとんど現金が不要になっている。現在の決済システムがどうなっているのか、『日本銀行の機能と業務(2011年版)』から紹介しておこう(67頁から)。

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 (以下、続く)

林理論批判(40)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.17)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(6)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は最終回、最後の項目〈◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”〉の批判的検討の後半である。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

(◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”)の続き

 田口は「過去の労働」は大事であって、それによってのみ社会主義建設が可能だと叫ぶのだが――これが田口の根底的な、そして自らの見解に固執する理論的、“心理的”動機であるが――、しかし労働者にとって重要なものは、現在の労働の意味であって――それが搾取労働かどうか、解放された労働がどうか(「価値として対象化される」労働がどうか)であって――、その点では「過去の労働」は全くどうでもいいものとして現われ、また存在するのである。生産手段は確かに「過去の労働」の結果であり、その成果であるが、しかし新しい富はただ生産的労働の結果としてのみあるし、あり得るのであって、「過去の労働」の成果が、そこに「入り込む」などというのは、何か道徳的な意味でしか意義を持たないのである、つまりただ「心の問題」にすぎない。田口は「過去の労働」を、つまり「資本」(田口は「資本」ではなく、生産手段――というより労働手段つまり機械――だと言うのだろうが)をたたえ、持ち上げるのではなく、現実の労働にこそ注意と関心を払い、それをこそ評価すべきであろう、というのは我々は「過去の労働」によって支配されるのではなく、現実の労働によってのみ、社会的、個人的な生活の全体を保障し、維持していくのだからである。機械はあくまで「機械」つまり道具の発展した形態にすぎない、つまり我々の労働を助け、その生産力を高めるものにすぎない。

 【ここで林氏は〈しかし労働者にとって重要なものは、現在の労働の意味であって――それが搾取労働かどうか、解放された労働がどうか(「価値として対象化される」労働がどうか)であって〉と述べているが、林氏にとってはどうやら〈解放された労働〉とは、〈「価値として対象化される」労働〉であるらしい。つまり相変わらず、それは商品の価値として対象化されるような労働なのである。何とも混乱した書き方であろうか。
 林氏は将来の社会では、生産手段が労働者を支配し、規制するのではなく、労働者が生産手段をただ道具として利用するだけだ、という関係を強調する。それはよい。しかし、生産手段、つまり過去の労働が、現在の労働、生きている労働を支配するのは、生産手段が資本として存在しているからであるということを忘れている。将来の社会でも生産手段は過去の労働の産物だが、しかしそれらは決して資本として労働者に対峙しているわけではない。生産手段は確かに将来の社会においても、共同社会の個々の構成員にとって、依然として自分たちの生活を維持し、再生産するに必要な客観的・物質的条件であり、対象である。それらは多くは--つまりまったく自然から直接採集する以外のものは--過去の労働の産物である。しかしそれらは社会の構成員の共同労働の産物であり、故に彼らによって共有されているものなのである。つまりそれらは彼らが共同して生産し、自分のものとして彼らの意識と統制の下にあるものなのである。だからそれらが彼らの過去の労働の産物だからといっても、それらが彼らを支配し、統制するものとして立ち現れてくるわけではない。林氏は、資本主義社会では、過去の労働の産物である生産諸手段が資本として、生きた労働に対峙する現実から、だから過去の労働は、あらゆる社会でも生きている労働を支配するものであるに思い込んでしまっているのである。しかしロビンソンの生活を考えてみれば明らかなように、ロビンソンの過去の労働の産物が、ロビンソンを支配するわけではない。要するに、林氏は、資本主義的生産の現実を永遠のものとして考えているから、そのように思ってしまっているのである。だからだれが資本の物神崇拝に陥っているかは明らかではないか。歴史的に限定した特定の社会形態に固有の関係から生じているものと、その基底にあって、あらゆる社会形態から独立し、それらに共通な一般的条件とを区別することが、林氏には、出来ていないのである。資本主義的生産に固有の問題を永遠のものとして見なしているからこそ、林氏の頭の中には、過去の労働=資本、という方程式が成り立っており、だから資本の否定はイコール過去の労働の否定となり、何とかして過去の労働を葬り去りたい、だから過去の労働は、どうでもよいものとして思い込もう、これが林氏の考えの根底にあるものであろう。】

 ある一つの共同体はかつて年々一トンのコメを生産できたにすぎないが、機械や肥料などを利用することによって三トンを生産することができるようになったとしよう。直接に農業生産に従事する期間(時間)は四ヵ月、つまり従来の三分の一に減り、残りの八ヵ月は機械の製造や肥料の生産に従事したとする。コメを直接に生産する労働は減少したが、コメを生産するための総労働は同じであり、ただその労働の生産性は三倍になったにすぎない。まさにこれこそ機械や肥料を利用することの意義であるが、しかし両方とも、同じ総労働が総量のコメに対象化されているという点ではどんな違いもない。同じ総労働が後にはより多量のコメに対象化されている――したがって単位量のコメの価値(価格)は三分の一に低落した――ということは、機械や肥料の働きによるものであるにしても、コメの「価値」には機械や肥料の「価値」は何の関係もないのである。田口は、後の場合のコメの価値は、最初の三分の一の農業労働と、「移転されてきた」機械や肥料の「価値」――それは、この場合、コメ全体の価値の三分の二を占めるのだが――をプラスしたものである、つまり三分の二の今期の労働は実在しないと事実上主張するのである。

 【ここでは林氏は共同体の話に移っているが、しかし、依然として「価値(価格)」が問題になるらしい。しかし、どうして価値や価格によって対象化された労働を表示する必要があるのか、それらは商品になるわけではないのだから、直接、労働時間で表示しても何の差し障りもないはずではないか。もっとも、とりあえず、われわれも、こうした馬鹿げた林氏の想定の上に立って、考察してみるのではあるが。
 林氏の上げている例は、このようにあまり感心なものではないが、とにかくわれわれもその例に沿って考えてみよう。林氏は機械と肥料を使った農業生産では、3トンの米に年々の総労働が対象化されているとする。つまりそれは米を直接生産する労働である4カ月と機械や肥料を生産した8カ月分の合わせて、12カ月分の労働ということであろう。ということは、この場合の米の「価値」というのは、米を直接生産した4カ月労働の追加労働分と、その米を生産するために、利用した過去の労働の産物である機械や肥料に対象化された8カ月分の労働を合わせたものであることは明らかである。林氏は、米を生産する労働をまず最初4カ月として、残った8カ月を機械や肥料を生産するのに使うなどというが、そもそも機械や肥料を米を作ったあとで生産するということは、その生産した機械や肥料は、その前の米の生産には利用できない事実を忘れている。もちろん、米生産に従事するのは4カ月だが、しかしそれは飛び飛びで従事するわけだから、その開いた時間を使って機械や肥料を生産すればよいではないかというかも知れないが、しかしいずれにしても、機械や肥料は、米生産労働のための生産諸手段である。だから生産諸手段は米生産労働の前に存在しないと、生産諸手段にはならないのである。労働対象や労働手段は、それらを使ったり、対象にして労働する生きた労働にとっては、前提されたものである。つまりその前に存在していなければならないのである。こんなことは子供でも分かる道理である。つまり4カ月で米3トン生産するためには、その前にすでに生産されている機械や肥料を前提しなければならないという子供でも分かる事実を、林氏は、忘れているのである。だからもし単純明快に考えようとするなら、それらは去年の生産物として考えるべきなのである。つまり過去の労働の産物なのだ。それがあるからこそ、共同体の構成員は、最初から米を機械や肥料を使って生産し、4カ月の労働で3トンもの米を生産できたのである。そして残りの8カ月で生産した機械や肥料は、来年度の米生産に利用すると想定すればよいのである。このように想定したからといって、米生産する共同体の構成員は、生産手段である機械や肥料に支配されたり、それらによって統制さるわけではない。それらは林氏の想定に立っても--林氏は3トンの米には12カ月分の労働が対象化されていると想定しているのだから--、その米の「価値」には機械や肥料の生産に支出された8カ月分の労働も計算に入っているのであり、だから機械や肥料に対象化された労働時間--つまり林氏の想定によれば、その「価値」--が関係することは明らかである。
 林氏は〈同じ総労働が後にはより多量のコメに対象化されている――したがって単位量のコメの価値(価格)は三分の一に低落した――ということは、機械や肥料の働きによるものであるにしても、コメの「価値」には機械や肥料の「価値」は何の関係もない〉というのであるが、これは生産力には生産手段の価値は無関係だということであって、当たり前のことなのである。しかしそのことは、それに続いて田口氏の主張として論じていることを正当化するわけでは決してない。
 つまり〈田口は、後の場合のコメの価値は、最初の三分の一の農業労働と、「移転されてきた」機械や肥料の「価値」――それは、この場合、コメ全体の価値の三分の二を占めるのだが――をプラスしたものである、つまり三分の二の今期の労働は実在しないと事実上主張するのである〉などと述べている。しかしそれでは林氏にお伺いするが、林氏のいう〈三分の二の今期の労働〉というのは、一体何に支出されたのであろうか。もしそれも米の生産に支出されたのだとするなら、生産される米は3トンではなく、9トンになるのではないのか。それにそれが機械や肥料の生産に支出されたのでないとするなら、一体、機械や肥料はどのようにして生産されうるのか、それともそれらは「生産手段が自動的に生産手段を生み出す」という林氏お得意の主張にもとづくものだとでもいうのであろうか。つまり林氏は最初は機械や肥料に支出された労働(8カ月)も含めて、米に対象化された総労働を12カ月としたのである。つまりこの時点で、林氏は機械や肥料に支出された労働も米に対象化されている総労働の一部だということを認めているのである。だから直接的な農業労働(4カ月)の過程で、生産物である米にそれらの生産諸手段に対象化されている労働も移転・保存されるのだと林氏自身も考えているのである。そうでない限り、米に対象化された総労働を12月とすることはできない筈なのである。そうした想定を林氏はすっかり忘れて、田口氏の主張とする〈コメの価値は、最初の三分の一の農業労働と、「移転されてきた」機械や肥料の「価値」――それは、この場合、コメ全体の価値の三分の二を占めるのだが――をプラスしたもの〉というものに対して、〈三分の二の今期の労働は実在しないと事実上主張する〉ことになると批判しているわけである。自分が言っていることが自分自身の想定と矛盾していることが分かっていないのである。何とも馬鹿げた話である。こんな無茶苦茶な理屈を相手に論争することの不毛さと徒労に、誰もが匙を投げるのは止むを得ない。】

 田口は、機械や肥料に「対象化」されている労働は「過去の労働」(これを、昨年の労働、と理解して)であるにしても、それは今年の機械や肥料を作る労働と“質量ともに”――実際にそう言えるかはさておくとして――同じだから、従って結果としては、林が言うのと同様になる、と言うこともできるかもしれない。
 しかしそれなら、今年の機械や肥料を生産する生産的労働は、来年の「価値」として「移転され」、順繰りに一年ずつ後送りしていくということであるが、何のために、そんなわけのわからないことを言わなくてはならないのか。去年と今年の労働の生産性はすでに違っているだろうということからも、田口の言うことは途方もない不合理にしか思われない。それに労働(時間)について議論しているときに、それを「後送りする」などということは、労働(時間)を「価値」として、つまり「資本」として扱っているからであると言うしかないではないか。田口ははたして「労働」を年々後送りすることができるかどうかを反省すべきであろう、というのは労働(時間)そのものは「価値」でも「資本」でもなく“社会的な”実体であって、“モノ”としての資本と違って「後送り」できるはずもないからである。

 【混乱した林氏の頭では、自分はまともなことを言っているつもりなのであろうが、ただ混乱しかない。まず〈今年の機械や肥料を生産する生産的労働は、来年の「価値」として「移転され」、順繰りに一年ずつ後送りしていく〉というが、〈生産的労働〉というのは具体的有用労働を意味することを忘れている。だからそれが〈「価値」として「移転され」〉るなどというのは混乱の極みである。そしてマルクスの再生産表式を前提するなら、今年度の生産で生産的に消費される生産手段だけではなく、今年度の労働者や資本家によって消費される生活手段も、すべて前年度の生産(つまり過去の労働)の成果であり、一方は、今年度の部門 I と部門IIの生産手段として充用され、他方は労働者と資本家によって今年度一年間で消費されるのである。前年度の生産物である生産手段や消費手段が今年度において消費された(一方は生産的消費、他方は個人的消費)からと言って、労働が先送りされたなどと誰も言わないのである。ここで問題になっているのはあくまでも生産物に対象化された労働についてである。そんなことは当たり前のことであろう。】

 そもそも、田口は「過去の労働」について大騒ぎして語るが、その「過去の労働」とはいかなるものなのか。今年の「生きた労働」に対するのは、「昨年の労働」なのか、それとも「昨年までの総労働」なのか。

【再生産過程の考察で通常の想定されるのは、「過去の労働」というのは前年以前の労働のことである。固定資本をも想定するなら移転・保存されるのは前年の労働に限らないからである。もし不変資本として固定資本を捨象して流動不変資本だけを想定するなら、「過去の労働」というのは前年の労働を意味するし、「生きた労働」というのは「今年度の労働」のことである。】

 「昨年の労働」に限るなら、それは単なる「昨年の労働」であって、「過去の労働」ではないし、それが「今年の労働」であっても同じことである、だから田口は、「過去の労働」を「昨年の労働」と言い変えることはできない(言い替えたところで何の意味もない)、他方、「過去の総労働」だなどというなら、それを規定することはできない、「過去の総労働」が凝縮したものだ、などという規定がナンセンスなのは一目瞭然である、とするなら、田口は「過去の労働」とは永遠の昔から一定量の労働が延々と受け継がれ、「移転」させられてきた、とでも説くしかないが、しかしそんなものを想定すること自体に、どんな意味があるというのか(資本価値だというなら、それなりの意義はあり得るだろう。しかしその場合、田口は社会的な実体を、本物の物質的実体とみなしていないのか、つまり物神崇拝意識に骨まで汚染されていないのか)。

【混乱した頭脳には、自分の混乱を自覚できないのも無理はないが、すでに指摘したように、問題は社会的な総再生産過程を前提して論じていることがまず言われなければならない。そうした想定を取り外すなら、今まさに流動状態にあるものこそ「生きた労働」であり(それは生産物に対象化されるごとに過去の労働となる)、それを使って生産するすべての生産手段は、すべて「過去の労働」の産物である。しかし社会的総再生産過程を想定して問題を論じるなら、われわれは年一回転する生産を想定することになる。そこでは前年以前に支出された労働が「過去の労働」であり、今年度に支出される労働が「生きた労働」である。また固定資本を想定するのか、それともそれは捨象して考えるのかということもあらかじめ考えなければならない(しかしこれについてはすでに述べた)。すべてこうしたことを抜きに林氏は論じており、混乱した頭脳ではそれで十分なのかもしれないが、科学的に厳密に論じるなら、そうした想定がまず言われる必要があるのである。】

 機械等々の労働手段は現実であって、それが生産の前提であることは自明のことであるが、しかし労働手段自体が労働手段を自動的に作り出すわけではない、ただ労働手段は、現実の生産的労働、社会的に支出される生産的労働にとって、その生産力を規定するのであって、生産的労働自体に取って代わらないし、代わることはできないのである。田口は何を血迷ってか――あるいは私の前記の見解を“逆手に取った”つもりか――、社会の生産する「価値」は、だから「過去の労働」の生産力と、「生きた労働」の合計である、などとまたまた“口をすべらす”のだが(しかしこの発言は、急いで撤回せざるを得なかった)、しかし「生産力」と「生産的労働」を足して一つのもの(一つの大きさの「価値」、つまり一つの生産的労働)にできるはずもないことを“忘れる”のである。

 【こうした馬鹿げた議論も、こまかく詮索する意味はほとんどないのであるが、まあ、しょうがないからコメントを入れておこう。何度もいうが〈労働手段自体が労働手段を自動的に作り出す〉という主張は、生産手段をすべて「過去の労働」の産物と考える林氏のドクマから不可避に出てくるものであって、決して田口氏が主張していることではない。それに労働の生産力を規定しているのは、決して労働手段だけではない。〈労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模および作用能力によって、さらにまた自然事情によって、規定されている〉(23a54頁)のである。〈「生産力」と「生産的労働」を足して一つのもの〉云々も、田口氏の主張などと言っているが、そんなものは眉唾であり、誹謗中傷の類でしかないであろう。】

 実際、「過去の労働」とは、単に不変資本だけでなく、可変資本でもあり、また商品資本の循環においてみれば、それは資本そのもの、資本の全体である。商品資本は生産手段の価値表現であるとともに、それに加えて、生活手段の価値表現である、そして後者もまた、ある期間の再生産の後には、全く同じ物質的存在として、また価値存在として再生されているのであり、その意味では、資本にとっては、単に不変資本部分だけでなく、可変資本部分も(つまり労働者が消費する生活手段も)、ブルジョアが消費する生活手段も、すべてみな立派に「価値移転」されている、とさえ言えるのではないのか。

 【まず林氏は「不変資本」、「可変資本」などと述べているが、そもそもこれらはマルクスによって簡略化された用語である。つまりそれらは正確には「不変資本部分」、「可変資本部分」と言われるべきものなのである。つまりそれは資本の生産過程では、生産の客観的条件をなすものを資本の不変資本部分とし、主体的な条件を資本の可変資本部分というのである。だからもし資本が貨幣形態を取っているなら、不変資本部分とは、その貨幣資本のうち生産手段の購入に投じられることを予定しているものに対していうのであり、可変資本部分というのは労働力の購入に充てられる部分をいうのである。そして商品資本としては、その価値構成として、不変資本部分、可変資本部分ということになる。だから資本であるということと、それが「過去の労働」の産物であるか、「現在の労働」の産物であるかというととは直接に関連しているわけではない。すなわち「過去の労働」だから、それは〈単に不変資本だけでなく、可変資本でもあり、また商品資本の循環においてみれば、それは資本そのもの、資本の全体である〉などというのは間違っている。なぜなら、商品資本としては、確かにそれらはすべて対象化された労働の産物であり、その限りでは「過去の労働」の産物だが、生産資本としては、今まさに流動化しつつある労働力(だから現在の「生きた労働」)そのものも、資本の生産過程の一契機であり、資本の運動だからである。また〈商品資本の循環においてみ〉るということは、資本の循環をW’-G’-W…P…W’として見るということである。ここで「…P…」は生産過程を意味し、だから上記のように、その過程は生きた労働の過程でもあるのである。だから商品資本の循環としてみたら、価値の移転だけがなさたものとなる、というのは全く間違っている。価値としても、生産過程において、生きた労働によって再生産されるからである(そうでなければそもそも剰余価値は生まれない)。さらには生活手段がイコール可変資本部分なのではない。これはそもそも「可変資本」の概念を知らない者のいうことである。資本家にはそもそも不変資本や可変資本の概念そのものがないのであるが、だから彼らには、ただ生産手段や労働力の購入に投じた費用(コスト)がそのまま利潤を伴って彼の商品資本の価値として再現するように見えるのであるが、しかしそれを根拠にすべての商品の価値は「価値移転」されたものだと主張するなら、それはただ自分自身をブルジョア的な立場に置き、彼らの意識を根拠に、自説を立てるに過ぎないであろう。もっとも俗流主義者には相応しい主張ではあるだろうが。】

 資本にとっては、不変資本部分だけでなく、一切の再生産が労働者の生産的労働の結果ではなく、単なる資本価値の「移転」として現象するのだが、そんな現象に目を奪われてしまう情けない人がいくらでもいるというわけである(そんな人々が労働者でないことだけは確かであろう、もっともこの真実を理解するのは別に労働者に限ったことでないにしても)。

 【しがし一体、誰が〈一切の再生産が労働者の生産的労働の結果ではなく、単なる資本価値の「移転」〉だと主張したのであろうか。それは不変資本や可変資本の概念も分からず、だからまたその区別も分からない林氏自身ではないのか。不変資本や可変資本という概念は、生産過程に投じられた資本の価値として見ると、一方の価値(生産手段の購入に投じられた価値)が「不変」であるのに対して、他方の価値(労働力の購入に投じられた価値)が「可変」(増殖するもの)であることから規定されたものである。資本家にはこの区別が分かろう筈はないのである。それに資本家が彼の投じた資本はただ「移転」されるだけだと考えるのなら、そもそも利潤はどこから生まれるのか。どうして彼は彼の雇った労働者の労働を厳しく環視し、長時間や過酷な労働を強いる必要があるのか。ただ労働力を買った資本が「移転」するだけだと考えるなら、労働者の労働には無関心でもよいのではないか。】

 田口は不変資本部分(“再生産表式”で言えば、第一部門つまり生産手段部門)の「価値」は移転されてきたものだ、という。しかし、そんなことを言ったら、社会主義における「価値規定」がいかに可能なのか。我々は機械や原材料の労働時間もまた、その年に生産される生産物に必要な労働時間としてたちどころに見て取ることができるが、資本価値として存在し、「移転されてきた」価値の労働時間をいかにして確認し、知ることができるのか。

 【何度もいうが、部門 I の生産物(生産手段)の価値が、すべて〈移転されきたものだ〉などと田口氏が主張するはずもない。それは林氏自身のドクマであり、その間違った主張をただ相手になすり付けているだけである。】

 私が提起する、この問題はマルクスが直接に――あるいは明瞭で、具体的な形では――述べていないことである(どこかで似たようなことを言っているかもしれないが、一つのテーマとして論じていないように思われる、というのは、社会主義を「価値規定」と関連させて、いくらかでも具体的な形で述べることはマルクスの主要な問題意識、あるいは関心事項ではなかったからである)、だからこそ、「マルクスはそんなことを言っていない」とか、「マルクスは違ったように言っている」とか言って揚げ足を取っているだけではなく――そんなことは全く不生産的で、不毛なことだ、全く前進的でも、創造的でもない――、私とは別の回答を示すべきであろう。

 【〈社会主義を「価値規定」と関連させて〉論じるという意味を、資本主義の経済的な諸法則を、社会的な生産を規制する一般的な諸法則の歴史的に独特な形態として捉えるという意味として考えるなら、マルクスは『資本論』のさまざまなところでそれを論じているのである。われわれが今日において問題にできる「社会主義」というのは、われわれが今現実に対象にできる資本主義的生産様式そのもののなかに、その一般的契機として、あるいはそれが将来の社会の萌芽を示す限りにおいて問題にできるにだけである。だから『資本論』ではそのようにしか論じられていないのである。そうしたわれわれが置かれている歴史的な客観的な条件を無視して、社会主義について〈具体的な形で述べること〉ができると妄想している林氏こそ、およそマルクス主義者として失格であることだけは確かなのである。われわれは、まさにそうした林氏の妄想そのものが〈全く不生産的で、不毛なことだ、全く前進的でも、創造的でもない〉と主張するのである。われわれが林氏がいうところの〈社会主義の“概念”〉なるものが、〈簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し〉たと自称されるだけで、その内容たるや、まったく空疎なわけの分からないものでしかないことをすでに確認してきたところである。こんなしょうもないことをゴチャゴチャいうことに一体どんな意味があるのかと誰しも思っていることではないだろうか。ただ林氏本人だけが、何か自分は立派なことを、画期的な理論を開陳しているのだと思い込んでいるだけなのである。こんな馬鹿話に付き合わされる会員こそ哀れである。】

 そんな諸君が、回答も出さず、「過去の労働」もまた現実の社会的再生産の「価値」の中に入り込み(有用的労働によって「移転」され)、そしてまた生産手段を生産する労働も「価値を生む」というだけなら、そしてそれに加えて、しかし「それでは二重計算になるのは確かだ、その矛盾は分からない」、その矛盾を回避するには、生産手段を生産する労働は存在しないものとするしかない(あるいは存在しても、「価値」としては対象化されない)、などとぼやくだけなら、それは、自らの論理的破綻を自ら白状することではないのか。

 【これはもうまともな文章にさえなっていない。ただ林氏が自身の妄想のなかで朦朧と彷徨っているだけの文章である。】

 実際、生産的労働が一方では具体的有用労働としては存在するが、抽象的な労働としては存在しないし、規定され得ない、などと言っていいのか、そんなことで一体どんな「労働価値説」か、またどんな社会主義社会が想定され得るのか。スターリン主義者たちが、社会主義を具体的にイメージできなかったこと、したがってまた社会主義的生産関係を作り出すことができなかったことは――そのほんのわずかな試みさえもしなかったことは――決して偶然ではないだろう、もっとも我々は、彼らがソ連や中国で社会主義を建設できなかったことを、こうした意識や論理の問題に還元しないし、するものでないことは、我々の「国家資本主義」の論理(ソ連論、中国論)を検討し、理解していられる人々にはよく分かっていることであり、自明の前提であるだろうが。

 【これもまともな検討に値しない文章である。林氏が「生産的労働」とは何かも知らないことだけは確かである。〈社会主義を具体的にイメージでき〉ると考えることそのものが非科学的であるということを、マルクス主義者なら分からないければならないのである。】

 社会主義の“理想”は回復されなくてはならず、その内容が――「搾取の廃絶」と「労働の解放」という課題が――明らかにされなくてはならないのである。

 【この限りでは異論はないが、しかし林氏がやっていることは、そうしたものに答えることになっていない。むしろその課題を貶めることでしかない。】

 「搾取労働の廃絶」ということは分かりやすいが、「労働の解放」の意味は若干説明がいる。このことの意味するものは、人間労働が「価値」という形態を取らない、そうした“物象的な”形態――これは“物化”した形態、モノに“対象化”された形態ということと、同じ意味でここでは用いているのだが――、すなわち商品や貨幣や資本等々の形態では現われない、現われる必要はない、ということである(生産物や金や機械等々は、それ自体決して「価値」でも「貨幣」でも「資本」でもない)。商品や貨幣や資本は結局は「価値」――その「実体」、つまり内容は「人間労働」である――であり、その諸形態である、そして労働が「価値」の諸形態をとるということが――そしてその大きさが「価値」の大きさとして、商品や貨幣や資本の「価値」の大きさとして現象し、貨幣や資本に転化し、人間を逆に支配することが――、労働者の疎外の――人類全体の疎外の――根底にあるのである、つまり「労働の解放」とは、《労働が「価値」の形態を取り、労働の継続が、その大きさが、「価値」の大きさとして(価格表現として)、商品や貨幣や資本の大きさとして現われる》ことの廃棄であり、人間の労働(時間)が人間の労働(時間)として、そのままの形で存在し、位置付けられ、確認されることである。

 【確かにこの部分は〈若干説明がいる〉。ここでは林氏は「労働の解放」というのは、労働が疎外された形態を克服することだと述べているが、肝心のことが語られていない。つまり労働が疎外されているのは、労働が私的なものとして存在していることの一結果だということ、だからその克服は労働が直接社会的な関係を取り戻すことだということが語られていないのである。だからこそ社会主義とは労働の私的性格を止揚して直接社会的なものとして位置づけることにあるのである。これこそが林氏がいうところの〈社会主義の真実〉なのである。その肝心のことが分かっていないし、語られていないのである。】

 「搾取の廃絶」や「労働の解放」という労働者の理想は、宗教家が描く天国や楽園の華やかで、きらめくようなイメージとは違って、いくらか地味で、散文的であるかもしれないが、人類のこの地上において実現可能な、また実現すべき現実的な世界(社会)であって――仮に、そこに「永遠の生命」とか、「蜜とミルクが自然に流れ出て来る」とかいった空想の余地は少ないとしても――、人類の本当の、そして永遠の解放であり、その出発点である。
 我々がこの小論で述べてきたことが、この百年余り――あるいは、それ以前も――、何も語られて来なかった、むしろその反対ことこそ強調されてきたからといって、我々の言葉が真実ではない、ということには決してならない。ソ連や中国の「国家資本主義」の人格化としての、その体制の代弁者、弁護者としての“スターリン主義者”たちが、そして、なさけない“ブルジョア”に転落したも同然の共産党が、社会主義の真実を語るはずもないのである、語ることができるはずもないのである。

 【だから林氏の語る〈社会主義の真実〉なるものも、殘念ながら、われわれは眉に唾をつけてお伺いしなければならない。そもそもマルクスを軽んずるものに、〈社会主義の真実〉やマルクス主義を語る資格はないのである。】

(林 紘義)

【●最後に

 林氏は、その内容からは明らかにマルクスの理論に対する批判を展開しながら、公然とは「マルクス批判」を掲げず、表面上は、依然としてマルクス主義者であるかに振る舞おうとしている。しかし、その化けの皮は隱しようがないほど明らかになりつつある。「有用労働による価値移転」についても、〈言葉としてはマルクスが「価値移転論」を語っていることは林も認めているのですから、それを繰り返しても意味がありません〉(通信No.15)などと述べて、会員がマルクスに依拠して林氏に反論しようすることを事前に封じようとするわけである。しかし、林氏はマルクスが「言葉として……語っている」ことを認めているというが、しかし、その「言葉」を林氏は如何に理解しているかであって、会員は林氏の理解は間違っていると批判しているのである。そしてマルクスが言っていることはこういうことであり、林氏の理解はおよそマルクスの述べていることとは違ったものであると批判しているのではないのか。単にマルクスから引用して事足れり、としているような批判は少なくとも会員の批判のなかに見ることはできない。林氏こそ、マルクス批判を繰り返しながら、公然と「マルクスは間違っている」と批判することができず、姑息な方法で逃げ隠れしながら、マルクス批判を展開しているだけではないのか。
 〈林はいわゆる「再生産表式」というものはない、そう言われているものは日和見主義者やスターリン主義者たちが言いはやしてきたものに過ぎない〉などとも主張しているが、要するに、林氏は「再生産表式」という言葉そのものは、『資本論』のどこを捜してもないと言いたいのである。確かに言葉としては「再生産表式」という用語そのものはないかも知れないが、しかし、「単純再生産の表式」という言葉そのものはマルクスも使っており、社会的な総再生産過程を表式を使って考察していることは明らかなのである。それを「再生産表式」と言ったからといって、何も問題は無いし、間違いとは言えないであろう。問題は、マルクスが社会的な総再生産過程を表式を使って考察していることについて、林氏はどのように評価しているのかということではないのか。言葉として「再生産表式」という用語をマルクスが使っているかどうか、というような問題ではないのである。言葉としては、マルクス自身は『資本論』のなかで「再生産表式」という用語を使っていないということを、まるで鬼の首でも取ったかのように、だから〈いわゆる「再生産表式」というものはない、そう言われているものは日和見主義者やスターリン主義者たちが言いはやしてきたものに過ぎない〉などというのは、それこそマルクスの一言一句を金科玉条のように持ち出すことの裏返しではないのか。マルクスが使っていないから、だからそれは無い、などと結論するのは実に馬鹿げたことではないか。一体、林氏はいつから“マルクス絶対主義者”になったのか。
 いずれにせよ、林氏は公然とマルクス批判派に転換したのである。もはや林氏や彼を支持する人たちは、マルクス主義の旗をさっさと降ろすべきではないか。少なくないかつてのマル系学者たちが、晩年になってマルクス批判派に転ずる風景はよく見られることである。最近も山本二三丸がマルクスの理論は間違っていた、それを正しいと自分は教えてきたが、申し訳ないことをした、等々と懺悔を行っていることを知ったが、それ以外にも多くのマル系学者が似たりよったりの立場に移行しあつつある。林氏もその意味では、同じ穴の狢であろう。“晩節を汚す”という言葉があるが、まさに林氏にも当てはまる。】

(完)

 (次回以降は未定である。この連載を継続するかどうかも含めて少し考えたい。)

2016年3月16日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-16)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (前回の【27】パラグラフの解読の中で、次のように指摘した。

 〈このパラグラフ(つまり【27】パラグラフ)と次の【28】パラグラフとは、まず【25】パラグラフで銀行業者の「資本」の最後の部分をなす「現金」について、「預金」とその「貨幣準備」との関連で考察したのに対応させて、最初にこの【27】パラグラフでは、銀行の「準備ファンド」の性格を考察し、次に【28】パラグラフでは、「預金」のより深い考察がなされていると考えることができる。〉

 つまり今回の【28】パラグラフは、〈「預金」のより深い考察がなされている〉のであるが、この問題に関連して、いわゆる現代の問題である「預金通貨」についてもかなり詳しく論じることとなった。)

【28】

 〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる。準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式仲買人)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)。預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである。他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)。〉

 このパラグラフは、先の【27】パラグラフの解読の冒頭でも述べたように、【25】パラグラフで銀行業者の「資本」の最後の部分をなす「現金」について、「預金」とその「貨幣準備」との関連で考察したのに対応させて、【27】パラグラフで「準備金」が考察されたのに対応させて、「預金」が考察の対象になっている。そしてこの部分は現代的な問題でもある、いわゆる「預金通貨」の概念とも深く関連してくるのである。しかしその検討は後に行うとして、とりあえずは、われわれはこのパラグラフそのものの詳しい解読から始めることにしよう。

 ここではまず〈預金はつねに貨幣(金または銀行券)でなされる〉と述べられている。これはいわゆる一般的には「本源的預金」と言われるものと考えて良いであろう(マルクス自身がこうした用語を使っているのかは知らないが)。というのは、マルクスは第28章該当部分において、次のように述べていたからである。

 〈銀行は,紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。つまりこの場合には,同行の債務者が同行の仮想の預金者になるのである〉(「流通手段と資本」(『資本論』第3部第28章)の草稿について、262頁)

 つまり銀行は産業資本家や商業資本家が持参した手形を割り引いて、銀行券を手渡す(貸し出す)代わりに、帳簿信用を与えることもできるわけである。つまり預金設定を行い、割り引いた手形の代金を帳簿上に書き加えて手形持参人名義の預金として設定するわけである。だからこの場合、預金は事実上手形によってなされたことになる。しかしマルクス自身は、この場合は銀行から貸し出しを受けた業者が〈仮想の預金者になる〉とも述べており、預金者が銀行に貨幣(金または銀行券)を持参して行う「本源的な預金」と区別しているように思える。
 ところでエンゲルスは編集において〈貨幣(金または銀行券)で〉の部分を〈貨幣で、すなわち金または銀行券か、これらのものにたいする支払指図で〉と修正したのであるが、しかしこの修正はマルクスの意図をむしろねじ曲げるものといえるように思える。エンゲルスにしてみれば、商業実務に通じているが故に、手形や小切手等、支払指図での預金が日常的に行われている経験にもとづいてこうした修正を施したのであろうが、しかし、マルクスの意図としては、そうした支払指図による預金は、すでに銀行による貸し出しの一形態であり、貨幣を持ち込んでの預金とは明確に区別されるべきものなのである。
 とにかく、われわれは、マルクスの言明にもとづいて、ここでは預金は常に貨幣(金または銀行券)でなされるものと考えることにしよう。

 次の〈準備ファンド(これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する)を除いて,この預金はつねに,一方では生産的資本家や商人(彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたりする)の手中に,または有価証券の取引業者(株式仲買人)の手中に,または自分の有価証券を売った私人の手中に,または政府の手中にある(国庫手形や新規国債の場合であって,銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)〉という部分に出てくる〈この預金は〉というのは、正確には「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味である。つまり預金された貨幣(金または銀行券)は、銀行に留まっているわけではなく、すぐに一定額の準備ファンド(これは預金者の引き出しに応じるために銀行に準備しておくべきものである)を除いて、直ちに貸し出されたり、運用される、ということである。そしてその貸し出し先や運用先が、その次に書かれている内容である。

 (1)〈一方では生産的資本家や商人〉に貸し出されるが、それは手形割引や貸し付け(担保貸し付けか、無担保貸し付けか)によってなされるわけである。

 (2)〈または有価証券の取引業者(株式仲買人)〉に貸し付けられる。

 (3)〈または自分の有価証券を売った私人の手中に〉。つまりこれは銀行が預金された貨幣(金または銀行券)で私人から有価証券を購入した場合のことである。

 (4)〈または政府の手中にある〉。つまり政府に貸し出されるわけである。そしてその場合には銀行業者は国庫手形や新規国債を担保として保有することになるわけである。これはあるいは新規国債を銀行が引き受ける場合も入るかも知れない。

 その次からは預金の機能が考察されており、極めて重要である。

 〈預金そのものは二重の役割を演じる。一方ではそれは,いま述べたような仕方で利子生み資本として貸し出されており,したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて,ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定〔Guthaben〕として彼らの帳簿の[526]なかに見られるだけである

 ここでマルクスは〈預金そのものは〉と書いているが、これはその前の〈この預金は〉という場合とは若干異なる。その前の場合は、「この預金された貨幣(金または銀行券)は」という意味であった。しかし今回の〈預金そのものは〉は、それだけではなく、預金として銀行の帳簿に記録されたものも含まれているわけである。そしてその上でそれは〈二重の役割を演じる〉とされている。
 一つは「預金された貨幣(金または銀行券)」は、すでに見たように、利子生み資本として貸し出される(有価証券の購入も利子生み資本の運動であり、よってその貸し出しである)。だから銀行業者の金庫の中にはそれらはなくて、ただ銀行業者にたいする預金者の貸し勘定として銀行の帳簿のなかにあるだけである。預金そのものは銀行にとっては債務であり、預金者は銀行に債権を持っていることになる。以前紹介した銀行の貸借対照表をもう一度紹介してみよう。
03

04

 このように預金は銀行にとって負債の部に入るわけである。
 そしてこの銀行の帳簿上にある預金の記録が独特の機能を果たすわけである。すなわち--

 〈他方では,商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する(その場合,それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか,それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換し合って互いに差額を支払うのかは,まったくどちらでもかまわない)〉。

 この預金の機能こそ、世間では「預金通貨」と言われているものなのである。具体的な例で紹介しよう。

 今、銀行Nに商人aと商人bがそれぞれ預金口座を持っていたとしよう(この場合、マルクスも述べているように、a、bが別々の銀行に口座を持っていても基本的には同じであり、ただ若干複雑になるだけである)。今、商人aは商人bから商品を購入した代金100万円をN宛の小切手で支払うとしよう。すると商人bはその小切手をNに持ち込み、預金する。するとNはaの口座から100万円を消し、bの口座に100万を書き加える。そうするとaとbとの取引は完了したことになる。この場合、aの預金はbに支払われたのだから、預金が「通貨」として機能したのだ、というのが預金通貨論者の主張なのである。しかしマルクス自身は、こうしたものを「預金通貨」とは述べていない。ただ〈たんなる記録として機能する〉と述べているだけである。実際、預金は決して「通貨」のようにaの口座からbの口座に「流通」したわけではない。ただ帳簿上の記録が書き換えられただけなのである。だからここでは貨幣はただ計算貨幣として機能しているだけなのである。

 ただここに問題が発生する。マルクスは〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは〉と述べているが、しかし今見た具体例では何も相殺もされていないではないか、というのである。ただaの口座がbの口座に振り替えられただけであって、aがbに100万円の貸しがあり、同じようにbもaに100万円の貸しがあり、それらが互いに相殺されたというようなことではない、だから先の具体例は、マルクスがここで預金がただ記録として機能する場合とは異なるのであり、先の具体例には「相殺」の事実は無く、あくまでも預金そのものが支払手段として、よって「通貨」として機能したと捉えるべき事例なのだ、というのである。果たしてそうした主張は正しいのかどうか、それが問題である。実は、この問題については、私とT氏との間で長い論争があり、まだ決着がついたとはいえないのであるが、その紹介は後に譲って、もう一人の預金通貨論者である大谷禎之介氏に登場してもらうことにしよう。

 「預金通貨」の概念を肯定する大谷氏は「信用と架空資本」の(下)で次のように述べている。少し長くなるが紹介しておこう。

 〈草稿317ページの下半部には,さらに,上の「a)」と「b)」との両方への注記として書かれた「注aおよびbに」という注がある。この注にある引用はボウズンキットからのものであるが,そのうちのはじめの2つ(82ページ, 82-83ページ〉は,エンゲルス版には取り入れられていない。この省かれた2つの引用の存在は注目に値する。第1のものは次のとおりである。
 「預金が貨幣であるのは,ただ,貨幣の介入なしに財産(property)を入手から人手に移転することができるかぎりでのことである。」
 ボウズンキットの原文ではここは次のようになっている。
 「預金が流通媒介物の一部をなすことについてのいっさいの問題は,私には次のことであるように思われる,--預金は,貨幣の介入なしに,財産を人手から入手に移転することができるのか,できないのか? 貨幣の全目的が預金によって,貨幣なしに達成されるかぎりでは,預金は独立の信用通貨をなすものである。預金が貨幣によって支払をなし遂げ,財産を移転するかぎりでは,預金は通貨ではない。というのは,後者の場合には,支払をなすのは銀行券または鋳貨であって,預金ではないからである。」(J.W.Bosanquet,Metallic,Paper,and Credit Currency,London 1842,p. 82.)
 ボウズンキットは,「金属通貨」と銀行券たる「紙券通貨」とから為替手形と預金とを「信用通貨」として区別するが,この後者の2つは,それらが「貨幣なしに財産を人手から入手に移転する」かぎりで「通貨」たりうるのだとしている。マルクスがここを要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」(
?どうして「貨幣」ではなくて「通貨」なのか--引用者)として機能しているのだ,という観点によるものであろう。
 上に続く要約・引用の部分では,貸付のために設定された預金はそれだけの通貨の増加であるとされている。
 「預金は,銀行券または鋳貨がなくても創造されることができる。たとえば,銀行家が不動産所有証書等々を担保として6万ポンドの現金勘定を開設する。彼は自分の預金に6万ポンドを記帳する。通貨のうち,金属と紙との部分の量は変わらないままだが,購買力は明らかに6万ポンドの大きさまで増加されるのである。」
 以上の2つの引用が注目に値するのは,さきの本文パラグラフに関連してマルクスが手形のみならず預金をも考慮に入れていたことが,これによってはじめて明らかとなるからである。信用による貨幣の代位,貨幣機能の遂行は,信用制度のもとでは,銀行券流通と預金の振替という新たな形態をもつようになるが,その基礎が手形とその流通とにあるのだということ,このことをマルクスがここで考えていたことは疑いない
。〉(「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(下)10-11頁)

 大谷氏はマルクスがボウズンキットから要約・引用したのは,預金の振替が,手形の流通と同じく信用による貨幣の代位であり,最終的に貨幣なしに取引を完了させるかぎりではそれは「通貨」として機能しているのだ,という観点によるものであろうと考えている。つまりマルクスも預金は通貨として機能するという観点に立っていたのだが、しかしエンゲルスは、意図的にそうした預金の通貨としての機能について述べている部分をカットしているのだ、と言いたいのである。

 しかし、今回の【28】パラグラフを見ても分かるが、マルクス自身は預金の振替について、〈商人たち相互間の(総じて預金の所有者たちの)互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出しによって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは,預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる記録として機能する〉と述べているだけであって、決して〈「通貨」として機能する〉とは述べていないのである。これを「通貨」というのは、「通貨」概念の混乱でしかないのである。

 では、先に紹介した問題はどのように考えたら良いのであろうか。先の具体的な例は、果たしてここでマルクスが述べているような「相殺」の事例といえないのかどうかである。この点については、これまで私とT氏との間で一定の長い込み入った議論があるが、その一部を紹介することにしよう。次に紹介するのは私のT氏に宛てたメールである。

 【Tさんは大要次のように主張します。a、b間の預金の振替の場合は「相殺」ではない(aの預金が減って、bの預金が増えただけだから)。マルクスが29章で預金が「単なる記録として機能する」として述べているのは、「相殺」されるケースだけであり、だからこの場合はマルクスが述べているケースには当てはまらない。この場合は、「相殺」ではないのに、現金が介在しないケースとして捉えるべきであり、だからこの場合は、マルクスが論じている預金の「二番目の役割」とは異なり、いわば「三番目の役割」ともいうべきものである。この場合、aの預金は「支払手段として流通した」と捉えることができる(実際、aの債務は決済されており、aの預金はaの口座から、bの口座に「移動」したのだから、これを「流通した」と言って何か不都合があるだろうか)。だからこの決済に利用された預金は「広い意味での流通手段」ということができ、だから「預金通貨」と言っても何ら問題ではない、と。
 さて、ここでTさんが預金が決済に使われながら「相殺」にならないケースとして述べているのは、もう一度具体例を上げて言うと次のようなものです。aはbから100万円の商品を購入するが、その支払をaの取引銀行であるN銀行に宛てた100万円の小切手で支払い、それを受け取ったbはやはり自身の取引銀行であるN銀行にそれを持ち込んで預金する、するとaの預金口座からは100万円が減り、bの預金口座には100万円が追加される、つまりここでaの預金100万円はbの口座に「流通」し、aのbに対する債務を決済したのだから、aの預金100万円は支払手段として機能したのである。だから預金はこの場合は「広い意味での流通手段」であり、「通貨」として機能したといえる。だから「預金通貨」という概念は有効である、とまあ、こういう話なわけです。
 問題なのは、a、b間の預金の振替というのは、何も「相殺」にはなっていない。ただaのbに対する債務がaの預金によって(すなわち預金がaの口座からbの口座に「移動」することによって)決済されただけではないか、というTさんの主張です。果たしてこうした主張は正しいのかどうかが十分吟味されなくてはなりません。
 ここで問題なのは、Tさんはaとbとのあいだの債権・債務関係だけを見ていることです。確かにaが同じように信用でbから商品を購入し、その支払を後に現金で行うなら、その場合はその商品流通に直接係わっているのは、その限りではaとbとの二者だけであり、a、bの関係だけを見て論じればよいわけです。しかしTさんの述べているケースは、このケースと同じではなく、a、bは互いに預金口座をN銀行に持っており、その振替で決済を行ったのです。つまりこの商品流通には、N銀行という第三者が最初から係わっているのです。だからわれわれはこの一連の取引を、最初からa・b・Nという三者の関係として捉える必要があるわけです。Tさんは、a、b間の問題に銀行という別の問題を持ち込むと言いましたが、そうではなく、それは「別の問題」ではなく、最初から銀行はa、b間の関係の中に仲介者として存在していたのです。それをTさんは都合よく捨象し、それでいて預金という銀行が介在しないとありえない問題を論じていたというわけなのです。
 だからわれわれは最初からa、b、N銀行という三者の債権・債務関係として先の一連の取引を考えなければならないわけです。それを考えてみましょう。

 (1) まずaが100万円をN銀行に預金します。つまりNはaに100万円の債務を負い、aはNに対して100万円の債権をもちます。

 (2) 次に、aはbから100万円の商品を信用で買う契約をし、商品の譲渡を受けて、それと引換えにNに対する支払指図書(N宛の小切手)をbに手渡します。aは譲渡された商品を消費します(生産的にか、個人的にか)。この場合、aがbに手渡した小切手は、Nにとっては自行の支払約束(手形)ということができます。なぜなら、小切手はaが振り出したものですが、その支払いを実際にするのはN銀行だからです。

 (3) bは受け取った100万円の小切手をNに持ち込み、預金します。すると、Nは自身の支払約束が自分自身に帰って来たので、もはや100万円を支払う必要がなくなります。Nはただaの口座から100万円の記録を抹消し、bの口座に100万円の記録を追記すれば済むわけです。

 このように、この一連の取引は、明らかにNにとっては、自身の振り出した支払約束(手形)が自分自身に帰って来たケース(商人Aが振り出した手形が、商人A→商人B→商人C→商人Aという形でAに帰って来たケース。つまり商人Aが信用で商人Bから商品を購入して約束手形を発行した場合、それを受け取った商人Bが、商人Cから信用で商品を購入して、その代金の代わりにAが発行した手形に裏書きして手渡し、次に商人Cがやはり商人Aから信用で商品を購入してA発行の手形をAに手渡した場合、この一連の商品取引による信用の連鎖は相殺されて、貨幣の介在なしに決済されたことになる場合)と類似していると考えられ、だからそれは相殺されたと考えることができます。だからまたNは現金を支払う必要はなかったのだと言うことができます。だからNはただ帳簿上の記録の操作を行うだけで、一連の取引を終えることができたわけです。だからここでは預金は、明らかに「たんなる記録として機能した」と言うことができるでしょう。マルクスもまた次のように述べています。

 《諸支払が相殺される限り、貨幣はただ観念的に、計算貨幣または価値尺度として機能するだけである》(『資本論』第1部全集版180頁)。

 この場合、もしbがN銀行と取引がなく、aから受け取った小切手をN銀行に提示して現金の支払いを求めるなら、相殺は成立せず、現金が出動する必要があるわけです。これはCがAとの取引がないため、Bから受け取ったA発行の手形を満期がきたので、Aに提示してその支払いを求めるのと同じであり、やはり一連の債権・債務の取引に相殺が成立しなかったことになるでしょう。

 確かにa-b間では、相殺はないかに見えます。aは自身の債務を決済したに過ぎないからです。しかし同じことは、A→B→C→A間の一連の信用取引を見ても、B-C間だけを全体の信用取引から切り離して見れば相殺はないように見えます。BはCに対する自身の債務をただAに対する自分の債権、すなわちAが発行した支払約束で決済しただけだからです。しかし、A→B→C→Aの一連の債権・債務関係の全体を見るなら、Aの発行した手形がA自身に帰ることによってこの一連の信用取引の連鎖は相殺されており、だからこの一連の取引は現金の介在なしに終わっているわけです。同じことは、N→a→b→Nの一連の債権・債務関係のつながりについても言いうるのではないでしょうか。つまりNの支払約束がN自身に帰ることによって、この信用取引全体が相殺されたので、現金の出動がなかったのだといえるのだと思うわけです。だから信用取引が3者以上にわたり、その取引全体が相殺されている場合、その一連の信用取引の特定の部分だけを全体から切り離して取り出し、その二者のあいだでは相殺はないではないか、と主張する(すでにお分かりだと思いますが、これがTさんの主張です)こと自体が不合理ではないかと思います。

 もちろん、われわれが類似させて検討してきたこの二つの信用取引はまったく同じではありません。A→B→C→Aは商業信用の問題なのに、N→a→b→Nは商業信用に貨幣信用(銀行信用)が絡んでいるからです。だからこれをまったく同一視して論じると恐らく間違いに陥るだろうということもついでにつけ加えておきます。今回はあくまでも債権・債務がつながった一連の信用取引として類似したものとして、そこから推測したに過ぎません。】

 実は、このメールそのものはもっと長いのであるが、後半部分はカットしたのである。その部分で論じている問題はなかなか難しく私自身にもよく分からないところがあるからである。

 もう一つT氏に対するメールを紹介しておこう。

 【これも以前、「預金通貨」と関連して、また前畑雪彦氏の論文にも関連して色々と議論になりました。それに関連する興味深い、マルクスの一文を見つけたので、紹介しておきます。

 〈{通貨currencyの速度の調節者としての信用。「通貨〔Circulation〕の速度の大きな調節者は信用であって,このことから,なぜ貨幣市場での激しい逼迫が,通例,潤沢な流通高〔a full circulation〕と同時に生じるのかということが説明される。」(『通貨理論論評』)(65ページ。)このことは,二様に解されなければならない。一方では,通貨〔Circulation〕を節約するすべての方法が信用にもとづいている。しかし第2に,たとえば1枚の500ポンド銀行券をとってみよう。Aは今日,手形の支払でこれをBに支払い,Bはそれを同じ日に取引銀行業者に預金し,この銀行業者は今日この500ポンド銀行券でCの手形を割引きしてやり,Cはそれを取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれをビル・ブローカーに請求払いで〔on call〕前貸する,等々。この場合に銀行券が流通する速度,すなわちもろもろの購買または支払に役立つ速度は,ここでは,それがたえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰り,また貸付の形態でふたたび別のだれかのところに行く速度によって媒介されている。たんなる節約が最高の形態で現われるのは,手形交換所において,すなわち手形のたんなる交換において,言い換えれば支払手段としての貨幣の機能の優勢においてである。しかし,これらの手形の存在は,生産者や商人等々が互いのあいだで与え合う信用にもとづいている。この信用が減少すれば,手形(ことに長期手形)の数が減少し,したがって振替というこの方法の効果もまた減少する。そして,この節約はもろもろの取引で貨幣を取り除くこと〔suppression〕にもとついており,完全に支払手段としての貨幣の機能にもとついており,この機能はこれまた信用にもとづいている{これらの支払の集中等々における技術の高低度は別として}のであるが,この節約にはただ2つの種類だけがありうる。すなわち,手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけであるか,または,銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれるかである。一人のビル・ブローカー,たとえば〔オーヴァレンド・〕ガーニ商会の手に800万-1000万〔ポンド・スターリング〕の手形が集中するということは,ある地方でこの相殺の規模を拡大する主要な手段の一つである。この節約によってたんなる差額決済のために必要な通貨〔currency)の量が少なくなるかぎりで,それの効果が高められるのである。〉(「貨幣資本と現実資本」〔『資本論』第3部第30-32章〕の草稿について、165-6頁)

 このマルクスの一文で興味深いのは、マルクスは「銀行券」については「通貨」と述べていますが、しかしそれらが「たえず繰り返し預金の形態でだれかのところに帰」るとは言っていますが、その預金を「通貨」などとは考えていないことです。むしろ預金を使った振替決済を「通貨の節約」と述べていることです。
 さらに重要なのは、手形や小切手にもとづく銀行での預金の振替決済を「相殺」と述べていることです。例えば〈手形または小切手によって代表される相互的債権が同じ銀行業者のもとで相殺されて,この銀行業者がただ一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替えるだけである〉とマルクスが述べている場合、ここで〈一方の人の勘定から他方の人の勘定に債権を書き替える〉というのは、当然、一方の人の預金の口座から、他方の人の預金の口座に債権を書き替えることを意味していることは明らかでしょう。それをマルクスは〈同じ銀行業者のもとで相殺されて〉いると述べているのです。また銀行が違っている場合もやはりマルクスは〈銀行業者どうしのあいだで相殺が行なわれる〉と述べています。そしてそうしたケースをすべて「通貨」の節約をもたらすものとして紹介しており、通貨としては相殺の〈差額決済のために必要な通貨〉だけを問題にしていることです。だから「預金通貨」論者は、マルクスが「通貨」の節約と述べている同じ過程を、「通貨」そのものであるかに述べていることになります。これを見ても「預金通貨」論がマルクスの主張とは相いれないことは明らかではないでしょうか。】

 いずれにせよ、預金による振替決済は、この【28】パラグラフでマルクスが述べているような相殺が行われているケースなのであり、だからこそ貨幣の介在なしに取引が完了したといえるのである(貨幣は、ただ観念的な計算貨幣あるいは価値尺度として機能したに過ぎない)。そしてこの場合は、マルクスもいうように、預金はただ記録として機能しているだけで、それを「通貨」というのは間違いだということである。

(以下、続く)

林理論批判(39)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.16)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(5)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第5回目、最後の項目〈◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”〉の批判的検討である。この項目は若干長くなってしまったので、二回に分けて紹介することにする。今回はその前半部分である。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”(記事の中見出しをそのまま紹介

 いわゆるマルクスの「再生産表式」は、それが歴史的な価値形態、資本形態を剥ぎ取った、単純な「再生産表式」として位置付けられる限り、年間の総労働は九〇〇〇(もちろん、この単位は労働時間であろうと、労働日であろうと、万労働日であろうと構わない。日本の現状にいくらかで近いものを想定するなら、万労働日が一番イメージを得るにはいいかもしれない)、その内六〇〇〇は生産手段(機械や原材料)の生産のために支出された労働、三〇〇〇は生活手段(食料など生活していくために必要な消費資料、つまり「衣食住」)の確保のために支出された労働を意味するだけのように思われる、だが、それを、第一部門は「過去の労働」つまり前期から移転されてきた価値であり、第二部門のみが今年度の労働(新しく付加された労働)などと理解するなら理論的迷路に迷い込むだけであろうし、そんなドグマを前提に社会主義的生産の条件をも示しているなどと言えないことは余りに明らかであろう。

 【ここではまず「いわゆる」という文言が先に来る。これはまあ「……と言われている」というぐらいの意味であろうか。しかも「マルクスの」と問題が限定されている。そして〈「再生産表式」は〉と来る(再生産表式が鍵括弧に入っていることに注意)。何しろ林氏によれば、「再生産表式」などといったものはないのであって、それはスターリニスト達のたわごとでしかないのだから、こういった表現になっているわけである。
 ところがその科学的な概念も意義も認めない林氏が、マルクスの単純再生産表式を前提して論じようとしているわけである。しかも〈歴史的な価値形態、資本形態を剥ぎ取った〉ものとして論じようとしている。しかし歴史的な形態を捨象して尚且つ論じるだけの意義があるなら、それは科学的な概念として意味のあることを認めることではないのか。これまでの林氏の自身の主張とそこらあたりはどのように整合するのであろうか。それとも林氏が自身も自分が批判するスターリニストの仲間に入ったということであろうか。まずそこらあたりをハッキリさてから、「マルクスの単純再生産」について論じるべきではないのか。
 しかしまあ、そこらあたりの疑念は横において、林氏のいうことを聞いてみよう。
 林氏はいう。
 〈年間の総労働は九〇〇〇……、その内六〇〇〇は生産手段……の生産のために支出された労働、三〇〇〇は生活手段……の確保のために支出された労働を意味するだけのように思われる〉。
 しかしすでにここに間違いがある。まず表式から歴史的形態を捨象した場合、表式は年間の総生産物とそれに対象化されている労働時間を表すものと考えるべきである。総生産物に対象化されている総労働時間は9000だが、しかしそれは〈年間の総労働〉では決してない。生産手段に対象化されている労働時間6000も、決してその〈生産のために支出された労働〉を表すものでも、生活手段に対象化されている3000も、やはりその〈確保のために支出された労働を意味する〉わけではないのである。ここにすでに林氏の混乱の元がある。〈年間の総労働〉を問うなら、それはやはり3000でしかなく、それが部門 I (生産手段の生産)で2000、部門II(生活手段の生産)で1000が支出されたのである。
 だから〈第一部門は「過去の労働」つまり前期から移転されてきた価値であり(何で、こんなところに「価値」が出てくるのか、「価値形態」は剥ぎ取ったのではないのか?--引用者)、第二部門のみが今年度の労働(新しく付加された労働)などと理解するなら〉というような文言もまったく混乱したものでしかない。こんな混乱したことを主張している人はいないし、それは林氏だけが自身の混乱を自覚せずにそれこそ言い散らしている妄言でしかない。一体、誰が、第Ⅰ部門の生産物に対象化されている労働はすべて「過去の労働」だなどと言っているのであろうか。それは生産手段=資本=「過去の労働」というブルジョア的な観念に取りつかれている林氏だけが言ってきたことなのである。それはまさに林氏自身の〈ドグマ〉でしかなく、誰もそんな〈ドグマを前提に社会主義的生産の条件をも示して〉などいないのである。】

 「再生産表式」は、それを合理的に見るなら、ただ年々の総労働の三分の二が生産手段のために、三分の一が消費手段のために支出されるということを示すにすぎないのだが――もちろんこうしたことが、この「再生産表式」の課題であり、意義であるかどうかということとは別である――、しかしこうした見解を認めること自体が大変であって、重大な、そして牢固として根を張った異論が、異議が持ち出されるのであり、持ち出されてきた――なお悪いことに、とりわけ労働者の闘いの中に――持ち込まれ、押し付けられてきたのである。
 その異議とは、六〇〇〇の生産手段は今年度の労働によって生産され、生み出されたものではなく、「過去の労働」によって、つまり前年までの労働によって生み出されたものであって、「有用的労働」なるものによって「移転されてきた」のだ、といったものである。

 【まず林氏が〈年々の総労働〉という場合、先にみたように、それは9000を意味すると考えているのだが、それはすでに間違っていることは指摘した。それは正しくは3000であり、そうすれば確かにこの場合も、〈三分の二(つまり2000であるが、林氏はそれを6000と考えている)が生産手段のために、三分の一(1000であるが、それを林氏は3000と間違って考えている)が消費手段のために支出される〉というのは正しい。
 しかし何度もいうが、林氏が〈異議〉として紹介しているような主張は、それこそ林氏が勝手に作り上げた〈ドクマ〉でしかないのである。正しくは6000の生産手段の使用価値は確かに〈今年度の労働によって生産され、生み出されたもの〉であるが、しかしそれに対象化されている労働6000は、すべて今年度に支出されて対象化されたものではなく、そのうち4000は今年度の生産過程で生産的に消費された生産手段(生産手段のための生産手段)に、過去に支出されて対象化されていたものでしかなく、今年度に新たに対象化された労働は2000に過ぎないのである。もちろん、この場合も、〈歴史的な価値形態、資本形態を剥ぎ取った〉ものとして論じるなら、対象化された労働時間の移転や保存といったことは問題にはならないであろう。すべての労働が直接社会的に関連づけられているなら、一連の労働はすべて最終生産物の生産に必要な労働として、ただそれらが加算されるだけでよいからである。それはあらゆる生産の社会的形態にも関係のない、だからすべての社会的形態の中に貫いている自然法則だからである。】

 田口は、「過去の労働」なくしては、つまり生産手段なくしては、現在の生産はない、と強調した。しかしそのことと、「価値移転」とはまた自ずから別個のことではないのか。生産手段とは不変資本のことであって、田口は実際には、資本なくして、このブルジョア社会は存在しえないと叫んでいるのと同様なところに帰着しないのか。

 【この文章は(「も」というべきか)無茶苦茶である。まずここでも〈「過去の労働」=生産手段という自身のドクマを前提に論じている混乱が指摘できる。ただもしこの一文を〈「過去の労働」なくしては、……現在の生産はない〉というものとして捉えるなら、それを誰も否定できないであろう。われわれの現代の文明は過去の多くの人たちの労働の成果を引き継いできた結果でもあることは誰も否定できないからである。その意味では〈現在の生産〉も、過去の労働によって支えられていることは間違いない。しかしもちろん、〈そのことと、「価値移転」とはまた自ずから別個のこと〉である。「価値移転」は何度もいうが労働生産物が価値という社会的属性を纏わなければならない社会、商品生産の社会(資本主義社会)に固有のものだからである。しかしということは「価値移転」という経済法則が、社会的な物質代謝を規制している自然法則の、歴史的な形態であることをも意味するわけである。つまり価値移転論を否定する林氏の誤りをも示しているわけだ。生産手段、消費手段というのは、生産物の使用価値にかかわるカテゴリーである。だからそれは如何なる社会形態にも関わりのないものである。確かに資本主義的生産では生産手段は不変資本という形態規定性を受け取るが、だからといってどんな社会でも生産手段が不変資本であるわけではない。田口氏が〈資本なくして、このブルジョア社会は存在しえないと叫ん〉だとするなら(そんな当たり前のことをことさら田口氏が叫んだとは思えないが)、しかしそれはしごく当然のことではないのか。そこにはどんな間違いもない。】

 生産手段――とりわけ固定資本として存在する、大規模な機械等々――なくして現在の社会はあり得ないとしても、現在の社会に富を、生活手段をもたらすのは、現実の労働であって、「過去の労働」でないのは自明のことで、生産手段そのものが自動的に生産手段や生活手段をもたらしたり、生み出したりするのではない。生産手段は生活手段を生み出すためにのみ存在し、発展した人類社会においては不可欠の契機であるとしても、人類はそれ自体を消費するわけではない、というのは、人類は機械を“噛って”生命を維持し、生活するわけではないし、そんなことができないのは誰でも知っていることだからである。

 【ここにも生産手段=過去の労働、生活手段=生きた労働という林氏のいつものドクマがあるが、実はこうしたドクマから、〈生産手段そのものが自動的に生産手段や生活手段をもたらしたり、生み出したりする〉という主張も出てくるのである。なぜなら、生産手段に対象化されている労働はすべて「過去の労働」ということになれば、生産手段を生産する生きた労働(現在の労働)といったものはなく、ただ生産手段はすべて過去の労働がそのまま移転されたものだということになり、だから生産手段はそのまま新しい生産手段を生み出すのだということにならざるをえないからである。林氏は〈現在の社会〉の〈富〉は〈生活手段〉だけだと考えているようだが、しかし生産手段も社会の富であることは明らかである。それらをわれわれは過去の労働の成果として引き継ぎながら、現在の労働にもとづいて再生産しながら、それらを享受しているわけである。林氏は〈消費〉と言えば個人的消費だけしか知らないようだが、われわれは生産手段も立派に生産的に〈消費〉するのである。〈人類は機械を“噛って”生命を維持し、生活するわけではない〉などという下らない“真理”をもっともらしく言っても何の意味もない。】

 そしてまた、生産手段も、つまり生活手段を生産するための機械や原材料も、また年々生産的労働によって再生産されなくてはならないこと、もし再生産されないなら、機械も原材料もたちまち使い古され、耐用期限が切れて腐食し、あるいは破損し、機能不全になってしまうことほどに明瞭なことがあるであろうか。

 【これも一体、誰の批判として主張しているつもりなのか知らないが、当たり前のことをことさらいうことに何の意味があるのか。】

 田口は「過去の労働」なくして、現在の我々の生活も生存もないと強調するが、実際には、現在の労働なくして、現在の我々の生活の再生産も我々の生命の存続もないのであって、「過去の労働」なるものが、生産手段等々が自動的に、それをもたらしてくれるわけではない。

 【これも馬鹿げた話しであるが、林氏は「過去の労働」が、過去には「現在の労働(生きた労働」だったということを知らないのであろうか。過去の労働が、そのときには生きた労働だったからこそ、その労働が生産手段も生活手段をも生み出したのである。こんな当たり前のことも分からないか。それに生産的労働の結果としての生産物からみれば、それを生み出した労働はすべて過去の労働である。】

 そしてこのブルジョア社会では、「過去の労働」が資本として、不変資本として存在する限り、田口は資本なくして、労働者の、人類の生存も生活もないと叫んでいるのと同じではないのか。これはまさに資本に対する「物神崇拝」であり、資本を神として祭り上げることではないのか、資本への崇拝と、したがってまた永遠の屈従を説くことと同じではないのか。現実の生産的労働者とその労働を軽視し、他方では「死んだ労働」つまり資本を持ち上げるとは、何と破廉恥なことであろうか。

 【なんという馬鹿げた世迷いごとであろうか。林氏は、このブルジョア社会では「過去の労働」が資本として、不変資本として存在するから、過去の労働の必要を主張する田口氏は資本に対する「物神崇拝」者だという。しかし、それをいうなら、「現在の労働」もやはり資本として、すなわち可変資本として存在しているのだから、「現在の労働」を強調する林氏も、やはり資本に対する「物神崇拝者」でなくてなんであろうか。そもそも「過去の労働」であるか、「現在の労働」(生きた労働)であるか、ということはその社会的な生産諸形態とはまったく関係のない問題である。すでに述べたように、それは物質的な生産過程に共通する一般的な条件であり、性格である。例えばすでに述べたように、ロビンソンの労働の場合も、木を切る伐採労働は、その木を加工して材木を作る製材労働にとっては「過去の労働」であり、それに対して製材労働は「生きた労働」なのである。こんな子供でも分かることが林氏にはどうやら分かっていないのである。何ともアホらしい幼稚なマルクス主義者があったものである。例えばマルクスは次のように述べている。

 〈第一の割合は、技術的な基礎にもとづくものであって、生産力の一定の発展段階の上では与えられたものとみなしてよいのである。一定量の生産物をたとえば一日に生産するためには、したがって――そのなかに含まれていることではあるが――一定量の生産手段すなわち機械や原料などを動かして生産的に消費するためには、一定数の労働者で表わされる一定量の労働力が必要である。一定量の生産手段には一定数の労働者が対応し、したがって、すでに生産手段に対象化されている一定量の労働には一定量の生きている労働が対応する。この割合は、生産部面が違えば、またときには同じ産業のなかでも部門が違えば、非常に違っている。といっても、偶然的には、非常に遠く離れた産業部門のあいだでも全然同じだったりほとんど同じだったりすることもありうるのであるが。
 この割合は、資本の技術的構成をなしていて、資本の有機的構成の本来の基礎である。〉(『資本論』全集25b185頁)

 つまりここではマルクスは、資本の有機的構成の物質的基礎である技術的構成について述べている。有機的構成は不変資本と可変資本の価値の割合であり、それは資本主義的な形態規定の問題である。しかし、技術的構成は、価値ではなく、生産手段に対象化された過去の労働に対する生きている労働の割合なのである。こうした物質的な条件は、その生産の社会的形態の基礎にあるものだとマルクスは語っている。だからそれはその限りでは社会形態によって変化するものではあるが、それ自体は独立した契機なのである。
 対象化された過去の労働と生きている現在の労働との区別が出来ない林氏は、だから資本の有機的構成の説明も出来ないことになるわけである。だからまた林氏は、〈利潤率の進行的低下の法則、すなわち、生きている労働によって動かされる対象化された労働の量に比べて取得される剰余労働が相対的に減少して行くという法則〉(25b272頁)をも否定することになっているわけである。
 少々長くなるかも知れないが、これに関連するものをマルクスから引用しておこう。林氏にとってはマルクスがどのように論じているかはどうでもよいことだが、しかし、少なくとも同志会の会員なら、マルクスのいうことに耳を傾け、そして自分でそのマルクスの主張をもう一度確認するぐらいの努力は払うだろうからである。

 〈商品の価値は、その商品にはいって行く過去の労働時間も生きている労働の時間も含めての総労働時間によって規定されている。労働の生産性が高くなるということは、生きている労働の割合が減って過去の労働の割合がふえるということ、といってもその結果は商品に含まれている労働の総量が減ることになるということ、つまり過去の労働がふえる以上に生きている労働が減るということにほかならない。商品の価値に具体化されている過去の労働――不変資本部分――は、一部分は固定資本の損耗分から、一部分は全体としてその商品のなかにはいった流動不変資本――原料と補助材料――から成っている。原料や補助材料から生ずる価値部分は、労働の生産性〔の増大〕につれて減少せざるをえない。なぜならば、この生産性は、このような素材に関しては、まさにそれらの価値が下がっているということに現われるのだからである。これに反して、不変資本の固定部分に非常に大きな増加が生じ、したがってまたその価値のうち損耗によって商品に移される部分もまた非常に増大するということこそは、まさに労働の生産力の増大の特徴なのである。ところで、ある新しい生産方法が現実に生産性を高くするものだという実を示すためには、その生産方法が固定資本の損耗分として個々の商品に移す追加価値部分が、生きている労働の減少によって節約される控除価値部分よりも小さくなければならない。一言でいえば、この生産方法は商品の価値を減らさなければならない。たとえ、個々の場合に見られるように、固定資本の追加損耗部分のほかに、より多量またはより高価な原料や補助材料のための追加価値部分が商品の価値形成にはいるとしても、もちろんこの生産方法は商品の価値を減らさなければならない。生きている労働の減少から生ずる価値減少がすべての価値追加を埋め合わせる以上のものでなければならない。
 だから、商品にはいる総労働量がこのように減少するということは、どんな社会的諸条件のもとで生産が行なわれるかにかかわりなく、労働の生産力の増大の本質的な標識であるように見える。生産者たちが自分たちの生産を予定の計画にしたがって規定する社会では、それどころか単純な商品生産にあってさえも、労働の生産性はやはり無条件的にこの尺度で計られるであろう。〉(25b326-7頁)

 ここでマルクスは商品に入っていく過去の労働時間と生きている労働時間を合わせた総労働時間が減少するということは、どんな社会的条件のもとで生産が行われるかに関わりなく、だから生産者たちが自分たちの生産を予定の計画にしたがって規定する社会--すなわち将来の社会主義社会--でも、労働の生産性はやはり無条件にこの尺度で計られるだろうと述べていることに注意が必要である。つまりマルクスは過去の労働時間と生きている労働時間という区別は将来の社会主義社会でも、労働の生産性を計る尺度として重要であることを指摘しているのである。「過去の労働」といったものが社会主義では無意味になるかに論じている林氏(というより資本主義でも無意味と主張しているのだが)が、社会主義の概念など語る資格もないことは明らかであろう。

 〈過去の労働の生産物、過去の労働そのものが、ここではそれ自体として現在または未来の生きている剰余労働の一片をはらんでいるのである。ところが、だれでも知っているように、じつは過去の労働の生産物の価値の維持は、そしてそのかぎりではまたこの価値の再生産も、ただ、それらの生産物と生きている労働との接触の結果でしかないのであり、また第二に、過去の労働の生産物が生きている剰余労働に命令するということが続くのは、まさにただ、資本関係、すなわち、過去の労働が生きている労働にたいして独立に優勢に相対しているという一定の社会的関係が存続するあいだだけのことなのである。〉(25b501頁)

 〈ある炭坑が、ある製鉄所に石炭を供給して、この製鉄所から、生産手段として炭坑経営にはいる鉄を受け取るとすれば、石炭はこの鉄の価値額だけ資本と交換され、そして相互的に鉄がそれ自身の価値額だけ資本として石炭と交換されるのである。どちらも、(使用価値から見れば)新しい労働の生産物である、といってもこの労働が現存の労働手段をもって生産したものではあるが。だが、年々の労働の生産物の価値は、年々の〔新たにつけ加えられる〕労働の生産物ではない。それは、むしろ、生産手段に対象化されていた過去の労働の価値を補填するのである。したがって、総生産物のうち、この価値に等しい部分は、年々の労働の生産物の一部分ではなくて、過去の労働の再生産なのである。〉(『学説史』26 I 210頁)

 〈年々の総生産物の交換価値には、生きている労働すなわち今年中に充用された生きている労働がはいってくるだけではなく、過去の労働すなわち過ぎ去った年の労働の生産物もまたはいってくる。生きている形態での労働だけでなく、対象化された形態での労働も。〉(同上300頁)

 〈経済学者たちは過去の労働を資本と同一視するので--過去の労働というのはここでは生産物に実現されている具体的な労働の意味でのそれであるとともに社会的労働、物質化された労働時間の意味でのそれでもある--、資本をたたえる詩人としての彼らにあっては、生産の対象的な要素の重要性を主張し、主体的な要素、すなわち生きている直接的な労働に比べて対象的な要素の意義を過大評価するということは、自明なのである。労働は、彼らにとっては、それが資本になり、自分自身に相対し、労働の受動形がその能動形に相対するとき、はじめて十分な労働になる。したがって、生産物は生産者に対して規定的であり、対象は主体にたいして、実現された労働は実現されつつある労働にたいして、規定的である。すべてのこれらの把握では、過去の労働は、それに包摂される生きている労働の単に対象的な契機としては現われず、むしろ逆である。それは、生きている労働の力の要素としては現われず、この労働を支配する力として現われる。労働と労働条件との関係が転倒されていて、労働者が諸条件を充用するのではなく、諸条件が労働者を充用するという、この独自な社会約形態、すなわち資本主義的形態を、技術的にも正当化するために、経済学者たちは労働の対象的な契機に労働そのものに比して不当な重要性を与えている。そして、それだからこそ、ホジスキンは、逆に、この対象的な契機--つまりいっさいの実現された富--は生きている生産過程に比べればまったく重要性のない、じっさいただ生産過程の契機として価値があるだけで、それだけとしては価値のないものである、ということを主張するのである。そこで、彼の場合には、労働の過去形がその現在形にたいしてもっている価値をいくらか過小評価していることになる--といっても、これは経済学的な呪物崇拝にたいしては当然なのであるが。もし資本主義的生産において--したがってまたその理論的表現としての経済学において--過去の労働がただ労働そのものによってつくりだされた土台などとしてのみ現われるとすれば、このような論争問題は存在しえないであろう。このような問題が存在するのは、ただ、資本主義的生産の現実においてもその理論においても、実現された労働が自分自身すなわち生きている労働にたいする対立物として現われるからにほかならない。それは、宗教的にとらわれた思考過程において思考の産物が思考そのものにたいする支配権を単に要求するだけでなく、それを行使するのと、まったく同様である。〉(『学説史』26III360-1頁)

 〈資本の諸成分の変動について重要なことは、相対的により多くの労働者が直接的生活手段の生産よりも原料や機械の生産のほうに従事しているということではない。これはただ分業でしかない。そうではなくて、重要なのは、生産物が過去の労働を補填しなければならない(すなわち不変資本を補填しなければならない)割合と、それが生きている労働に支払わなければならない割合とである。資本主義的生産の規模が大きくなればなるほど--つまり蓄積される資本が大きくなればなるほど--、生産物の価値のますます大きな分けまえを機械や原料が占め、機械や原料の生産に充用される資本はこの分けまえに帰する。だから、生産物のますます大きな部分が、現物のままでか、または不変資本の生産者たちが互いにその諸部分を交換することによって、再び生産に供されなければならない。生産物のうち生産に属する部分の割合はますます大きくなり、生きている新たにつけ加えられる労働を代表する部分は相対的にますます小さくなる。もちろん、諸商品、諸使用価値で表わされれば、この部分は増大する。なぜなら、前述の事実は労働の生産性の増大と同義だからである。だが、この部分のうち労働者のものになる部分はなお相対的にますます減少する。そして、この同じ過程は労働人口の不断の相対的過剰を生み出すのである。〉(『学説史』26III-473-4頁)

 「過去の労働」と「生きている労働」との区別がマルクスにとってどれほど重要な意味を持っているかが、これまでの引用をつぶさに検討すれば、分かるであろう。マルクスから謙虚に学ぶ姿勢を打ち捨て、傲慢な独りよがりに陥っている林氏には、いつまで経っても分からないであろうが、少なくともマルクス主義を標榜する同志会の会員であるなら、マルクスから謙虚に且つ真摯に学ぶ姿勢までも失いたくないものである。】

 (以下、続く。次回は後半部分を紹介)

2016年3月 9日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-15)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回からは、【8】パラグラフで分析していた銀行資本の構成部分の最初に出てくる〈1)現金(金または銀行券〉が対象になる。つまり構成部分として一番最初に上げられているものが、最後に分析されるわけである。)

【25】

 〈/338上/最後に,銀行業者の「資本」〔d. "Capital“d. bankers〕の最後の部分をなすものは,彼の貨幣準備(金または銀行券)である。預金は{長期について約定されているのでなければ}預金者がいつでも自由にできるものである。それは絶えず増減している。b) しかし,ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない」のである。/〉

 ここに出てくる〈銀行業者の「資本」〔d. "Capital“d. bankers〉も、先のパラグラフの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〉と同じであり、【8】に出てくる〈銀行資本〔Bankcapital〉や〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〉と同じもの、すなわち「銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するもの」と考えるべきであろう。そしてその最後のものが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)である〉。先に【8】パラグラフの解読の時に掲載した図をもう一度紹介しておこう。

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 これまでこの図示されている銀行資本の構成部分に沿って、それぞれについて分析してきたわけである。【9】【21】パラグラフでは、このうちの「②その他の有価証券(利子生み証券)」が取り上げられ、架空資本の概念が明らかにされ、その独自の運動が解明された。【22】【23】パラグラフでは「①商業的有価証券(手形)」が取り上げられた。だから最後に残っているのは「1)現金(金または銀行券)」というわけである。だから考察の順序としては、上図の番号で示すと、2)の②→①→1)ということになる。
 ところが、マルクスは「現金」について説明するのではなく、すぐに「預金」の説明に移っている。これはどうしてであろうか。それは銀行資本の現実の構成部分である「現金」を、マルクスが〈彼の貨幣準備(金または銀行券)〉と説明していることを考えれば分かる。つまり銀行資本の構成部分をなす「現金(金または銀行券)」というのは、「預金」の支払準備だということである。つまり預金者が預金を引き出しに来た場合に、いつでも応じられるように準備しているのが銀行資本の構成部分である「現金」だということなのである。
 だからマルクスは、続けて、〈長期について約定されている〉もの、つまり「定期預金」のようなものではない限りは、預金は、〈預金者がいつでも自由にできるもの〉だから、〈それは絶えず増減している〉が、〈ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので,「一般的な平均額はあまり変動しない〉と述べているのである。だからある銀行の預金総額が例えば100億円だとしても、毎日引き出しに来る人の合計額は5000万円ぐらいであり、しかもある人がその日に現金100万円を引き出したと思ったら、別の人が同じ日に現金100万円を預金に来るという具合で、だから銀行が預金の引き出しのために常に準備しておかなければならない現金はだいたい1000万円ぐらいでよいというようなことになるわけである。

【26】

 〈【原注】/338下/b)「銀行の手中であろうと銀行業者の手中であろうと,商人たちが持っている貨幣は,いつでもきわめて大量ではあるが,絶えざる変動のなかにある。」(J.ステューアト,第4巻, 228ページ。)|〉

 この原注は、ただ銀行の手中にある現金は常に変動していることを指摘したものとしてて、紹介しているだけのようである。だからエンゲルスは編集の過程では削除したのであろう。先の原注aを削除したエンゲルスの編集には疑問符がつくが、今回はどうであろうか。



【27】

 〈/338上/銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている。それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである(すなわち債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〔)〕。この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同ーの収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。そのうえに,この架空な銀行業者資本〔die βfiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。〉

 このパラグラフと次の【28】パラグラフとは、【25】パラグラフで銀行業者の「資本」の最後の部分をなす「現金」について、「預金」とその「貨幣準備」との関連で考察したのに対応させて、まずこの【27】パラグラフでは、銀行の「準備ファンド」の性格を考察し、次の【28】パラグラフでは、「預金」のより深い考察がなされていると考えることができる。
 
 ところで、このパラグラフの解読に着手する前に、やっておくべきことがある。このパラグラフでは〈蓄蔵貨幣〉という用語が出てくる。しかも〈この蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉という文言も出てくる。しかしわれわれの理解では、蓄蔵貨幣というのは、『資本論』第1部第3章「貨幣または商品流通」第3節「貨幣」の中に出てくるものである。つまり定冠詞のつかない「貨幣」、第三の規定における「貨幣」、あるいは「本来の貨幣」と言われるものであり、金無垢でできているものでなければならないような性格のものでは無かったのか。ところがここではマルクスは蓄蔵貨幣の一部は「証券」(Papier--これはドイツ語では「紙」のことである)から、自己価値ではない単なる支払指図からなっているなどと述べている。果たしてこの蓄蔵貨幣というのは、われわれが『資本論』の冒頭で学んだ蓄蔵貨幣とはどう違うのか、それが問題である。われわれはそもそも「蓄蔵貨幣」とは何なのか、という根本的なことを、まずもって再検討しておかなければならないのである。実は「蓄蔵貨幣」は『資本論』全3巻にわたって出てくるカテゴリーであり、それらをつぶさに検討して行くと、なかなか一筋縄では行かないものであることが分かってくるのである。
 大谷氏は「貨幣の機能II」(『経済志林』62巻3・4号)のなかで、「蓄蔵貨幣」についてかなり詳細な検討を加えている。われわれはそれをも参考にしながら、この概念について検討することにする。ただしこの問題にはあまり多くを割けないので、結論だけを述べることにする(だから興味のある方は、大谷氏の論文を参照して頂きたい)。大谷氏は①『経済学批判』の原初稿、②『経済学批判』、③『1861-3年草稿』、④『資本論』第3部第1稿(第19章該当箇所)、⑤『資本論』第3部第1稿(第28章該当箇所)、⑥『資本論』第1部、という六つの文献からの引用文を紹介して、それらの引用文のなかに出てくる蓄蔵貨幣のマルクスの使用例を考察しながら、検討を加えている。
 それらを踏まえて「蓄蔵貨幣」を大まかに分類して図示すると次のようになると思われる。
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 最初の「蓄蔵貨幣」と「(1)本来の蓄蔵貨幣」が二重線で結ばれているのは、本来の蓄蔵貨幣こそが、蓄蔵貨幣の本源的な概念をなすものだからである。またマルクスが「それ自体としての蓄蔵貨幣」と述べているものは、(1)と(2)を含んだものであることを示している。
 さて、ここでは蓄蔵貨幣を大きく5つに分類したが、ここで(1)と(5)のみが、金貨幣か金地金で無ければならないが(しかし世界的な信用システムが発展している今日では(5)は必ずしも地金形態に限定されない)、それ以外の(2)~(4)はマルクス自身は必ずしもそうしたものに限定していないということである。
 例えば大谷氏は「価値章標は蓄蔵貨幣となりうるか」と題して、次のようなマルクスの一文を紹介している。

 〈「鋳貨は,それ自体として,すなわちたんなる価値章標として孤立させてみれば,ただ流通によってしか,また流通のなかでしか存在しない。たんなる価値章標は,それを貯める場合でさえも,ただ鋳貨として貯めることができるだけである。というのも,価値章標の力〔Macht〕は国境のところで終わるのだからである。この場合には貨幣蓄蔵は,流通の過程そのものから生じる,もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形熊,すなわち,流通に予定された,鋳貨の蓄え〔Vorrath von Münze〕としての貨幣蓄蔵の形態,または国内鋳貨そのもので行なわれうる緒支払のための準備としての貨幣蓄蔵の形態以外まったく問題になりえない。つまり,本来の貨幣蓄蔵は問題になりえない。というのは、価値章標としての鋳貨には,貨幣蓄蔵の本質的要素が,すなわち,それが果たす社会的機能を別としても,ただ象徴的なだけの価値ではなくて,価値そのものの直接的定在でもあるがゆえに,特定の社会的関連から独立した富である,ということが,欠けているからである。したがって,価値章標にとってそれがそのような章標であるための条件となっている諸法則は,金属貨幣にとっては条件とはならない。というのも,金属貨幣は鋳貨の機能に縛りつけられてはいないからである。」 (MEGA,II/2,S,30-31.)〉

 このようにマルクスは鋳貨準備だけではなく、支払手段の準備も、価値章標によって可能であるとの理解に立っていることが分かるのである。大谷氏も〈要するに、価値章標は鋳貨の準備ファンドとも支払手段のための準備ファンドともなりうるのであって、この両者が「流通過程そのものから生じる、もともと流通の休止点にすぎない貨幣蓄蔵の諸形態」と見なされうるかぎり、価値章標は蓄蔵貨幣となりうる、と言いうるのである〉と結論している。
 そしてこうした主旨からすれば、(2)も同じように必ずしも金貨幣や地金形態でなければならない理由とはならないであろう。それはただ非自発的に流通が中断されて、商品の変態が第一変態で止まっているような状態、あるいは何らかの理由で支払差額が残っている状態を意味するのだからである。だからこれらもただ鋳貨がそのまま流通を停止しているとも考えることが可能だからである。
 また(4)の資本の流通過程から生じるものについては、大谷氏は紹介していないが、次のようなマルクスの言明がある。

 〈事態を現実に起きるとおりに見るならば、あとで使用するために積み立てられる潜在的な貨幣資本は次のものから成っている。
 (1)銀行預金。だが、銀行が現実に動かすことができるのは、比較的わずかな貨幣額である。ここではただ名目的に貨幣資本が積み立てられているだけである。現実に積み立てられているものは貨幣請求権であって、それが貨幣化されうる(いつか貨幣化されるかぎりで)ものであるのは、ただ、引き出される貨幣と預け入れられる貨幣とのあいだに均衡が成立するからでしかないのである。貨幣として銀行の手のなかにあるものは、ただ相対的にわずかな金額だけである。
 (2)政府証券。これはけっして資本ではなく、国民の年間生産物にたいする単なる請求権である。
 (3)株式。思惑的なものでないかぎり、それは、一つの会社に属する現実の資本にたいする所有証書であり、またこの資本から年々流れ出る剰余価値にたいする指図証券である。
 すべてこれらの場合には貨幣の積み立てが行なわれるのではなく、一方で貨幣資本の積み立てとして現われるものは、他方では貨幣の不断の現実の支出として現われるのである。貨幣がその所有者によって支出されるか、それとも彼の債務者である別人によって支出されるかということは、少しも事柄を変えないのである。
 資本主義的生産の基礎の上では貨幣蓄蔵そのものはけっして目的ではなく、むしろ流通の停滞の結果であるか--というのは通常よりも大きい貨幣量が蓄蔵貨幣形態をとるのだから--、または回転のために必要になる積み立ての結果であるかであり、あるいはまた、最後に、蓄蔵貨幣は、ただ、一時的に潜在的な形態にあってやがて生産資本として機能するべき貨幣資本の形成でしかないのである。〉
(第2部全集526-7頁)

 だから資本の流通過程それ自体から生じる蓄蔵貨幣(潜勢的な貨幣資本)には、さまざまな形態がありうるということである。またこうした準備ファンドで注意が必要なのは、〈準備金として機能している貨幣資本がその所有者のためには準備金の機能を果たしながら社会のためには現実に流通しており(銀行預金が絶えず貸し出されるように)、したがって二重の機能を果たしている〉(第2部全集422頁)場合があるということである。つまり準備ファンドとして蓄蔵貨幣の形態をとっているといっても、それは特定の当事者の私的な立場からのみそういえる場合があるのであって、そうした場合には、社会的には、あるいは客観的には必ずしもそうしたものではない場合もあるということに注意する必要があるわけである(この点、先の大谷氏の考察は貨幣取扱資本との関連においてやや不十分なところがある)。

 さて、やや前置きが長くなったが、こうした蓄蔵貨幣についての一般的な考察を踏まえて、われわれは今問題になっている【27】パラグラフの解読に取りかかることにしよう。このパラグラフは途中でさまざまな挿入文が括弧で括って入っており、ごちゃごちゃしていてややこしいので、適当な部分で区切って、一つ一つ考察していくことにしよう。

 〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現しており,そしてこの蓄蔵貨幣の一部分は,それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている。〉

 ここで〈銀行の準備ファンド〉として述べている内容は、【25】パラグラフで述べていた〈貨幣準備(金または銀行券)〉だけではなく、【23】パラグラフで言及していた〈準備資本〉をも含めたものである。つまり銀行業者の資本が、〈現実の銀行業者業務〉として投下先を見いだせない(機能できない)ので、とりあえず準備資本として有価証券に投資されているような場合も含むのである。だからその一部が〈それ自身また証券から,つまり,けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図から成っている〉というのはわれわれにとっては頷けることである。というのは、【23】パラグラフでは〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉と述べられていたからである。
 だから問題は〈銀行の準備ファンドは,資本主義的生産が発達している諸国では,平均的には,蓄蔵貨幣として現存する貨幣の量を表現して〉いるということについてである。どうしてこのようなことが言えるのかは、貨幣取扱資本の機能について知る必要がある。マルクスは第25章該当箇所で、信用制度(銀行制度)の本来の基礎が商業信用にある一方で、他方の側面は貨幣取扱業の発展に結びついていると指摘していた。つまり銀行は貨幣取扱業としての側面も持っているわけである。少しその部分から紹介しておこう。

 〈すでに前章(これは現行の第19章「貨幣取扱資本」部分をさす--引用者)で見たように,商人等々の準備金の保管,貨幣の払い出しや受け取りの技術的諸操作,国際的支払(したがってまた地金取引)は,貨幣取扱業者の手に集中される。貨幣取扱業というこの土台のうえで信用制度の他方の側面が発展し,〔それに〕結びついている,--すなわち,貨幣取扱業者の特殊的機能としての,利子生み資本あるいは貨幣資本(マニド・キャピタル)の管理である。貨幣の貸借が彼らの特殊的業務になる。彼らは貨幣資本(マニド・キャピタル)の現実の貸し手と借り手とのあいだに《媒介者として》はいってくる。一般的に表現すれば,銀行業者の業務は,一方では,貸付可能な貨幣資本(ゲルト・キャピタル)を自分の手中に大規模に集中することにあり,したがって個々の貸し手に代わって銀行業者がすべての貨幣の貸し手の代表者として再生産的資本家に相対するようになる。彼らは貨幣資本(マニド・キャピタル)の一般的な管理者としてそれを自分の手中に集中する。他方では,彼らは,商業世界全体のために借りるということによって,すべての貸し手に対して借り手を集中する。(彼らの利潤は,一般的に言えば,彼らが貸すときの利子よりも低い利子で借りるということにある。)銀行は,一面では貨幣資本(マニド・キャピタル)の,貸し手の集中を表わし,他面では借り手の集中を表わしているのである。〉 (「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(中)、13頁)

 また大谷氏は先に紹介した論文のなかで、第19章該当の草稿からかなり長い引用を行っているが、その部分も重要なので、紹介しておこう。

 〈資本のうちの一定部分はたえず蓄蔵貨幣として存在していなければならず(購買手段の準備,支払手段の準備,遊休していて貨幣形態のままで、充用を待っている資本),また資本のうちの一部分はたえずこの形態で還流してくる。このことは,支払や収納や簿記のほかに,蓄蔵貨幣の保管を必要にするのであり,これはまたこれで一つの特殊な操作である。つまりそれは,実際には,蓄蔵貨幣をたえず流通手段や支払手段に分解することであり,また,販売で受け取った貨幣や満期になった支払から蓄蔵貨幣を再形成することである。……
 貨幣の払い出し,貨幣の収納,差額の決済,貨幣の保管,等々は,これらの技術的操作を必要とさせる諸行為から分離して,これらの機能に携わる資本を貨幣取扱資本にするのである。……
 資本主義的生産過程から(生産がまだ資本主義的に営まれていないところでさえも商業一般から生じるように)次のことが生じてくる。第1に,蓄蔵貨幣としての貨幣の形成,すなわち,今では資本のうち支払手段および購買手段準備金として《つねに》貨幣形態で存在しなければならない部分の形成。これは蓄蔵貨幣の第1の形態であって,それが資本主義的生産様式のもとで再現する(また総じて商業資本が発展するさいに少なくともこの資本のために形成される)のである。どちらも国内流通ならびに国際的流通のため〔のものである〕。この蓄蔵貨幣はたえず流動しており,たえず流通に注ぎ,またたえず流通から帰ってくる。
 第2の形態は,遊休していて目下のところ運用されていない(貨幣形態にある)資本,あるいは,蓄積されたがまだ投下されていない資本〔である〕。この蓄蔵貨幣形成それ自体によって必要となる機能は蓄蔵貨幣の保管,簿記,等々である。しかし,これらのことには,
 第2に,買うときの貨幣の支払,売るときの収納,支払金の支払と受領,諸支払の決済,等々が結びついている。これらすべてのことを,貨幣取扱業者はなによりもまず,商人や産業資本家の単なる出納代理人として行なうのである。……
 貨幣取扱業は,蓄蔵貨幣を形成するのではなく,この蓄蔵貨幣形成が自発的であるかぎり(したがって遊休資本の表現または再生産過程の撹乱の表現でないかぎり),それをその経済的最小限に縮小するための技術的手段を提供するのである。というのは,購買手段および支払手段のための準備金は,資本家階級全体のために管理される場合には,各個別資本家によって管理される場合ほど大きい必要はないからである。〉
(「貨幣取扱資本」(『資本論』第3部第19章)の草稿について、286-301頁)

 だから産業資本や商業資本が彼らの蓄蔵貨幣(それは鋳貨準備であったり、支払準備であったり、世界貨幣の準備であったり、とりあえずは投資する前の貨幣であったり、固定資本の償却費用であったり、等々であるが)のほとんどを銀行は預金として引き受けるわけである。先の蓄蔵貨幣の分類のうちで(1)を除く、ほとんどが銀行に預金として集中してくるわけである。しかもそれらは〈経済的最小限に縮小〉されて存在しているわけだから、それらは資本主義的生産が発展している諸国では、社会的には蓄蔵貨幣として現存する量をほぼ表現しているといえるわけである。というのは、産業資本家や商業資本家は彼らの蓄蔵貨幣を実際の流通や投資に必要な限りで、銀行から引き出すのであるが、銀行の準備ファンドというのは、そうした産業資本家や商業資本家の引き出しに応じることのできる必要最小限を充すものでなければならないからである。その量は経験的に決まってくる。ただ産業資本家や商業資本家たちが彼らの蓄蔵貨幣を銀行に預金している場合、これらの再生産的資本家たちにとっては蓄蔵貨幣であっても、しかし彼らの預金は、すでに銀行にはなく、ただ記録だけがあるだけに過ぎない場合もあるわけであって、だから銀行の準備ファンドは、再生産的資本家たちにとっての蓄蔵貨幣の総額よりかなり少ないものであることは確かであろう。
 そして問題なのは、こうした銀行の準備ファンドの一部分(【25】で問題になった貨幣準備のうち金は除く)は、証券から、つまり自己価値ではない、金にたいする支払指図からなっているわけである(金に対する支払指図という点では貨幣準備の一部を構成する銀行券にも妥当するであろう)。

 〈それゆえ,銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである(すなわち債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〔)〕〉

 ここで〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前の〈銀行の準備ファンド〉と同じではない。というのは、われわれは【23】パラグラフで〈〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている〉という一文を知っているからである。だからここで言われている〈銀行業者の資本の最大の部分〉というのは、その前に言われていた〈銀行の準備ファンド〉プラス〈手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束〉と考えるべきであろう。そうすれば、括弧のなかでマルクスが述べていることも自ずと理解できるようになる。つまり、マルクスは括弧のなかで、〈債権 (手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〉を上げているが、だからここに手形が入っているのも頷けるのである。そして手形も含めてマルクスが〈純粋に架空なもの〉と述べているのは(それ以外のものが純粋に架空なものであるのは何も問題にはならないのであるが)、【23】パラグラフではこのような割り引きされた〈手形は利子生み証券である〉とも述べていたことを思い出せば、納得行くであろう。手形そものはそれが「真正」であるなら(つまり「空」手形や詐欺のための手形や手形貸付による手形等ではないなら)、架空とはいえないが、しかし割引されて銀行が保有する手形は、銀行にとっては「利子生み証券」であり、その限りでは「架空なもの」なのである。また手形も有価証券であるかぎり、マルクスがここで述べている〈けっして自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図〉であることもまた間違いない事実であろう。
 以前にも指摘したことがあるが、銀行が割り引いて保有する手形が、架空なものであるということは、再生産の観点から考えると明瞭に理解できる。ここに資本家Aがおり、彼が生産した商品を信用で資本家Bに販売し、Bが発行した約束手形を持っているとしよう。この場合の手形は決して架空なものではない。というのはこの手形は資本家Aが生産した商品の価値の有価証券の形態における実現形態だからである(それは期日が来れば確実に金貨幣に転換されうる)。しかし彼がその手形を銀行に割り引いて貰い、その代わりに銀行券を入手したとすると、その結果、銀行が保有することとなった手形は、すでに架空なものでしかないのである。というのは、銀行はただ銀行の信用だけで発行した銀行券の代わりに手形を持っているわけだからである。また資本家Aは自らの商品の価値の実現形態をすでに銀行券という形で先取りしたわけだからである。だからもはや銀行が保有する手形は、すでにそうした現実の商品価値の実現形態ではなくなっているのである。だからこうした割引手形は〈純粋に架空なもの〉ということができるのである。

 〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同ーの収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉

 まずこの文章で注意深く読まなければならないのは、〈これらの証券が表わしている資本の貨幣価値〉と〈これらの証券が表わしている現実の資本の価値〉とは異なるものであるということである。前者は証券が表す額面ではなく、それが資本価値として売買される場合の市場価値を意味しているのである。それに対して後者は額面を意味している。そしてマルクスはこれらの〈資本の貨幣価値〉が〈まったく架空なものであ〉ると述べているわけである。
 この文章を注意深く分析すると、次のような構成が見えてくる。まず〈銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値〉が主語になって、それらは〈まったく架空なものであ〉ると結論づけられている。そして〈これらの証券〉として、具体的には、一つは〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉と、もう一つは〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉が例として上げられていて、そうしたものの場合にも、やはり〈まったく架空なものであ〉ると言明されているわけである。
 そしてそれに続く一連の文章は、それらが〈まったく架空なものであ〉ることのさらなる説明であると考えられる。ただその説明の順序が今度は逆になっているのである。つまり最初の〈それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ〉というのは、もう一つの例として示された〈現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)〉について述べているのである。つまり株式の市場価値は、株式が表している現実の資本の価値から離れて調整されるという事実を指摘しているわけである。それに対してその次に述べていること、〈あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ〉というのは、実は〈銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券〉の具体例として最初に述べられていた〈確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)〉が〈まったく架空なものであ〉ることの説明なのである。つまり国債のような〈収益請求権(そして資本ではない〉のようなものは、同一の収益(例えば額面100万円に確定利息として5%がついているなら、毎年5万円の収益が約束されている)に対して、その時々の市場利子率の変動に応じて、その5万円の収益が〈たえず変動する架空な貨幣資本で表現される〉わけである。例えば市場利子率が1%なら、5万円は500万円の想像された利子生み資本の1%の利子とみなされ(資本還元され)、よって額面100万円の国債は500万円の資本価値(資本の貨幣価値)をもつことになるというわけである。

 〈そのうえに,この架空な銀行業者資本〔die βfiktive Banker's Capital〕の大部分は,彼の資本を表わしているのではなく,利子がつくかどうかにかかわらず,その銀行業者のもとに預託している公衆の資本を表わしている,ということが加わる。〉

 さらに銀行業者資本の大部分は、公衆が銀行業者のもとに預託しているものだということがつけ加わるわけである。つまりそれだけ銀行業者の資本というのは、架空なものであるばかりでなく、他人のもので営業しているような性格のものであるということなのだ。

 (以下、続く)

2016年3月 7日 (月)

林理論批判(38)

林 紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.15)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(4)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第4回目、三つ目の項目〈◆3、なぜ「移転論」では、社会主義の分配の概念規定ができないのか、できなかったのか〉の批判的検討である。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字【 】に入れてある。

◆3、なぜ「移転論」では、社会主義の分配の概念規定ができないのか、できなかったのか(これは論文の表題をそのまま紹介

 では、なぜ私が示したような簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し、理解することができなかったのだろうか(なぜ、革命後のソ連社会も中国社会もして来なかったのだろうか――もちろん、こういう問題提起をするのは、その社会的、階級的条件や背景を説こうということではなく、理論的な契機としてのみ議論しようということだが、一般的な形では、ロシア革命の直後には、社会主義における「分配」は労働によるものである、ということは理論的に完璧に承認されていたし、また実践的にも「戦時共産主義」の時代には形式的に実行に移されもしたのである。もちろん、「戦時共産主義」の“実験”は、小商品生産が支配的だったという歴史的条件の中で挫折し、ネップの時代に移って行ったし、行かざるを得なかった。

 【ここで林氏は〈簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し〉たというのだが、私の理解力の不足によるのか、まったくそれがよく分からないのである。林氏は〈すべての真理――大宇宙や自然界やあれこれの“物質”や、人類の社会や歴史さえもの、存在や運動を規定する概念や法則などがそうであるように――が、簡単な定式によって簡潔に表現され得るのと同様である(例えばE=mc2)〉などとも述べていたのだが、何一つ簡潔にも、われわれが簡単に理解できるようにも、説明はこれまでなされて来なかったのである。本人は簡単に示した積もりなのかも知れないが、これまでこの論文を読んできた私自身としてはまったく理解不能である。林氏が〈簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し〉たというものを、念のためにもう一度おさらいしておくと、次のようなものであった。
 まず消費手段として自動車が例に上げられ、それを生産する労働者は100万人、50日働日で100万台の自動車を生産。総労働日5000万、これだと一人の労働者が一台の自動車を手にすることになるが、しかし労働者は50労働日で自動車一台を手にできない。というのは自動車の生産のためには機械や鉄鋼などの生産手段が必要だから。機械(千台)には100万人で50労働日、鉄鋼(100万トン)も100万人50労働日が必要、合計1億労働日、だから社会が自動車生産に必要とするのは合計300万人が50労働日で1億5000万労働日。ここで林氏は次のように書いている。
 〈
かくして自動車100万台の生産のためには、合計300万人で50日が必要であったのであって、単に100万人だけではなかった。かくして、一人の労働者が一台を生産するには50労働日ではなく、150労働日が必要であった(150労働日は1億5千万労働日を300万人で割った結果である)。
 この部分を検討した時にも指摘したが、林氏はここで計算間違いをしているが、まあそれはお愛嬌としておこう。しかしわれわれが首をかしげざるを得ないのは、ここまでで、林氏が〈
簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し〉たということで述べていることは、要するに自動車の生産のためには、それを直接生産する労働だけではなく、その生産の過程で必要とする生産手段の生産も必要であり、それらの生産に費やされた労働時間も自動車の生産に必要な労働時間として考えなければならないということだけである。だから自動車を直接生産する労働者が例え50労働日で1台の自動車を生産したからといって、彼はその50労働日と引き替えに自動車1台を手にすることはできないということでしかない。しかしこれがどうして社会主義の概念なのか皆目分からないのである。こんなことがこれまで誰も指摘して来なかったなどということはありえないのである。ここでロシア革命時の「戦時共産主義」を持ち出すのもおかしな話である。
 そもそも林氏は自動車の生産のためには、それを直接生産する労働だけではなく、自動車の生産に必要な生産手段の生産に費やされた労働も考慮する必要があり、それも含めて自動車を生産するに必要な労働時間である、と主張するのであるが、しかし林氏はそのためには重要な前提があることを知っているのであろうか。つまりこういうことを言うためには、鉄鋼や機械などを生産する労働と、自動車を直接生産する労働の社会的な関係が明確でなければならないということである。確かに社会主義を前提するなら、それらの労働は直接社会的に結びついたものとして最初から支出されるから、自動車の生産に必要な労働はそれらの合計として簡単に計算できる。しかし資本主義的生産においては、それは決して直接的な社会的関係としては現われないのである。それらの労働の社会的な関係はただ価値関係として現われるしかない。鉄鋼や機械は商品として自動車資本に購入されて初めて、それらは自動車生産に従事する労働力と結びついて自動車を生産することができるのである。そしてその場合には、鉄鋼や機械に費やされた労働は自動車の生産に必要な労働しては、ただそれらの価値が自動車を生産する労働過程で移転・保存されるという形で、生産物である自動車の価値として結実して初めて、その自動車の価値は、その生産に社会的に必要な労働を表すものだとわれわれは捉えることができるのである。そしてその生産過程における生産手段の価値を移転する労働は、まさに鉄鋼を機械を使って加工して自動車という使用価値を生み出す具体的な有用労働以外の何ものでもない(なぜなら、その自動車生産の労働の抽象的人間労働の契機はただ新たな価値を生み出すだけだから)。つまり「有用労働による価値移転論」を排斥する林氏にはとうてい説明のつかない話なのである。つまり上記のような林氏の説明は、まさに有用労働による価値移転論を批判する自身の主張と真っ向から矛盾しているのである。それに気付いていないのは、林氏が混乱したただの俗物に成り下がってしまっているからに他ならない。】


 問題の根底は、自動車に「対象化」される労働をいかに計算するかで、「価値移転」論にとらわれているかぎりでは決して合理的な回答を見出すことができなかった、ということである。機械やエネルギーや鉄に「対象化」されている労働を合理的に確定できず、そんなことをやれば全くの循環論の迷路に迷い込むように見えたし、事実迷い込んだからである。

 【先にみた混乱した林氏の頭では、自分が矛盾したことを、ここでも主張していることが何も分かっていないのであろう。先の林氏の社会主義の〈簡潔で明瞭な〉説明では、鉄鋼や機械の生産に必要な労働を〈両方で1億労働日である〉とそれこそ簡単に仮定していたが、ここではそれらの〈労働を合理的に確定で〉きないと主張している。もし林氏がそのように考えるのなら、そもそも先の〈社会主義の“概念”〉の説明の時にもそんなに簡単に仮定するのはおかしいのではないのか。確かに資本主義社会では〈機械やエネルギーや鉄に「対象化」されている労働を合理的に確定でき〉ないが、それはそれらの労働が直接にはただ私的に支出されたものであって、直接には社会的に必要なものかどうか分からないからである。だからそれらに対象化された労働はそれらが商品の価値として交換されることによって、その社会的な関係を実現しなければならず、価値の移転というのはまさにそうした社会的関係を表すものなのである。つまり〈「価移転」論に〉立脚しないかぎり、〈自動車に「対象化」される労働〉についても〈決して合理的な回答を見出すことができな〉いのである。林氏は少なくとも価値移転論が問題になるのは商品生産社会(資本主義社会)においてのみであること、だから社会主義を前提するなら、そもそも価値移転論などもまったく問題にならないということも知らねばならない。それらが林氏においては全く混乱してしまっているのである。】

 例えば、鉄を取り上げて見よう。生活手段を生産するための鉄の価値は、「価値移転論」では一義的に規定できるようには思われなかった。というのは、それは鉄を生産するために支出される直接の労働、「生きた」労働と、鉄を生産するための生産手段の生産のために消費された「過去の労働」の合計だが、この「過去の労働」がいくらの労働であるかは、また順々に遡っていく以外に規定することができなかったのである。

 【これは別に「価値移転論」に固有の問題ではないだろ。生産手段に支出された労働が、それを使って生産物を生産したなら、その生産に必要な労働の一部になるということは、生産の社会形態に関係のない自然法則である。価値移転が問題になるのは、それらの諸労働が生産物の価値として現われてくる商品生産に固有の問題であるが、それはそうした自然法則が商品生産の社会に現われてくる独特の形態だからに他ならない。】

 いわゆる「再生産表式」の理解には、基本的に、二つのものがある。
 一つは、生産手段部門(第一部門)の価値は「生きた」労働――つまりその期間中の生産的労働――によるものではなく、それ以前の期間の――例えば、前年の――労働、「死んだ労働」が「移転」されてきたもの――「有用的労働」によって――であって、新しく形成された「価値」ではない、といったものである。この場合には、生産手段を生産するために支出された労働は、存在しないとするか、価値として「対象化」されないという結論になる、つまり使用価値は生産するが、価値は生産しない労働ということになる。この論理を擁護した田口は、ジレンマを克服しようとしてできず、結局二重の価値計算をするか――一方で移転した来た価値、他方では生産的労働の対象化された価値として、二倍に計算する――、それを回避するために、生産手段を生産する労働は使用価値を生産するが、価値を生産しないとするか、どちらかしかなかった。

 【〈「再生産表式」の理解〉の一つとして、ここでは〈生産手段部門(第一部門)の価値は「生きた」労働――つまりその期間中の生産的労働――によるものではなく、それ以前の期間の――例えば、前年の――労働、「死んだ労働」が「移転」されてきたもの――「有用的労働」によって――であって、新しく形成された「価値」ではない、といったもの〉というとんでもない〈理解〉が示されている。これは田口氏の主張として林氏は理解しているらしいが、しかしわれわれは田口氏の主張のどこにもそんな理解は見ることはできないのである。それは林氏自身が間違った再生産表式の理解にもとづいて、勝手にでっち上げたものではないのか。
 例えばマルクスの単純再生産の表式を想定してみよう。そうすると林氏のいう一つの〈
理解〉なるものは、第一部門の総商品資本の価値6000が、すべて〈それ以前の期間の――例えば、前年の――労働、「死んだ労働」が「移転」されてきたもの――「有用的労働」によって――であって、新しく形成された「価値」ではない〉ということになる。しかしそんなことを田口氏が主張したことはわれわれは知らないのである。われわれの理解するところでは、それは第I部門の生産に必要な生産手段の価値(前年以前の部門 I の労働によって形成された)と今年度の労働(だから生きた労働)によって新たに追加された価値2000との合計なのである。4000の生産手段の価値は、生きた労働の具体的契機によって、生産物に移転・保存されたのである。田口氏の理解もまさにこれ以外ではない。林氏がマルクスの再生産表式について何も理解していないか、まったく混乱した理解しか持っていないことだけは明らかである。その混乱を、ただ論争相手の主張だとして押しつけているだけである。】

 あるいは田口は私との論争の中で「口をすべらした」のだが、自らの論理的ジレンマを回避しようとして、年々労働者は生産手段までも実際には生産(再生産)しないのだ(そのまま移転される?)、といったことまで主張したのであった。

 【これはただ林氏と田口氏との〈論争の中で「口をすべらした」〉ものとして紹介されているのみでわれわれとしては確かめようがないが、少なくともこれまで田口氏の主張にもとづいて考えれば、こんなことを田口氏が主張するはずがないことだけは確かである。】

 しかし年々生産的に消費される生産手段が、再生産されない、そのために生産的労働が支出されないなどということは、実際としてあり得ないこと、世迷言に過ぎないのを理解するのに、ほとんど“経済学”も、マルクス主義(とりわけ労働価値説)も、『資本論』も知る必要さえないだろう(生産手段を生産する労働者なら、大憤慨すること請け合いである。そんな“理論”を持ち出した途端、労働者から即座に見捨てられること請け合いである)。“価値移転論者”がこんなことを「口ばしる」ようになったということほどに、彼らの実際的、理論的破綻を暴露しているものはないように思われる。

 【馬鹿げた主張をでっち上げ、論争相手の主張として押しつけるなら、それを批判するのも確かに容易であろう。しかしそんな論争なるものには何の価値もないのである。】

 機械が生産に用いられるなら、それは固定資本して、一定の期間(例えば、一年)といった期間は、使用価値としては、その現在の形態を保ち続けるのは言うまでもないが、それは機械(固定資本)が「再生産されない」などと言うことはあり得るはずもないこと、それらは「更新期間」を持つのであって、例えば、十年使用されるなら、その使用価値も(もちろん、価値も)失うのであって、新しい機械に取って代わられなくてはならないことほどに自明のことがあろうか。田口は年々、機械そのものは更新されない――再生産されない――ということから、機械の永遠性を説くのだろうか、だがそんな理論は機械による機械の生産を説くと同様であって、まさに極限のブルジョア意識――価値移転論に加えて、資本移転論(生産手段とは、資本の社会では不変資本であるのだから)――ではないのか(確かに、現代ではロボットによる、つまり機械による機械の生産が現実的であるかに見える、そしてこの現象から、機械の機械による“自動生産”を、つまり人間の生産的労働によるものではない機械や食料などの生産を説くこともでき、かくして労働生産物は労働生産物ではないと言い張ることも可能かもしれないが、しかし田口は本気でそんな主張をするのであろか、できるのであろうか、そんなものは人間社会はロボット社会に、ロボットの支配する社会に転化するといったような、SF小説や漫画の世界の話ではないのか)。

 【林氏は固定資本として機械を例に上げ、〈一定の期間(例えば、一年)といった期間は、使用価値としては、その現在の形態を保ち続けるのは言うまでもない〉という。しかし他方で林氏は固定資本の〈「更新期間」〉を〈十年〉としているのだから、補修や修繕等の費用を無視するなら、〈使用価値としては、その現在の形態を保ち続けるのは〉は一年ではなく、十年ではないのか。だからある特定の固定資本(機械)だけを取り出すなら、それは10年後に再生産されて現物で補填されればよいのである。しかし今問題になっているのは、社会的総再生産の話である。だから社会的総再生産を問題にするなら、機械も年々その寿命が尽きて更新が必要なものが必ず一定数あるから、だからその更新期間が来たものを年々補填するためには、やはり機械も年々その補填に必要なものが再生産される必要があるのである。機械などの固定資本が再生産される必要がないなどと田口氏が主張する筈もない。これも林氏のまったくのでっち上げであろう。田口氏の主張を〈SF小説や漫画の世界の話〉のようにいうのは侮辱以外の何ものでもない。相手の主張を勝手にねじ曲げて、それを小馬鹿にして、“批判”したつもりになっている、こんなデタラメな人間を誰が信用できるだろうか。】

 森は、労働者は生産手段を生産しないではない、やはりすると言うのだが、生産手段の価値は移転されたものだとするなら、その生産されるという生産手段は、ただ生活手段部門の労働と交換される限りでのもの、生産手段全体のごく一部のものに当てはまるにすぎない。それは価値としては、少しも新しく生まれたものではなく、また素材的にも、つまり生産手段としても一部分のものにすぎない。

 【この森氏の主張として林氏が説明しているものも、何とも分けの分からないものである。林氏の混乱は〈生産手段の価値は移転されたものだ〉と決めつけることにある。しかし同じ生産手段と言っても、部門 I で今年度に生産された生産手段と、部門 I で今年度の生産で使用された生産手段との二つがあることが理解されなけれはならない。今年度に生産された生産手段の価値(6000)は、移転された価値(4000)と今年度に新たに追加された価値(2000)との合計なのある。確かに今年度の生産で使用された生産手段の価値(4000)は過去の(前年の)労働の産物であり、前年の総生産物価値の構成からみるなら、それは前年の部門Ⅰの労働の具体的契機で〈移転されたもの〉である。それが今年度で再び部門Ⅰの生産手段として補填されるわけだ。だから〈生産手段の価値は移転されたものだとするなら〉と前提する場合、それが今年度の生産過程で消費される生産手段について述べているのか(それなら正しい)、それとも今年度の生産の結果としての生産手段について述べているのか(それなら間違っている)をハッキリさせていうべきなのである。それを林氏はわざとがどうかはわからないが常にあいまいにしているのである。林氏は〈生産手段の価値は移転されたものだとするなら、その生産されるという生産手段は、ただ生活手段部門の労働と交換される限りでのもの、生産手段全体のごく一部のものに当てはまるにすぎない〉などとも述べている。もし今年度に生産された生産手段の価値(6000)のうち、移転された部分(4000)をいうのなら、それは部門 I の生産手段として補填される部分であって、その限りでは確かに今年度に生産された〈生産手段全体の一部のものに当てはまる〉というのはその通りだが、それは再び部門 I の生産手段として役立つ部分であって、部門IIの、つまり〈生活手段部門の労働と交換される限りでのもの〉ではないのである。確かに〈それは価値としては、少しも新しく生まれたものではなく、また素材的にも、つまり生産手段としても一部分のものにすぎない〉というなら、それはその通りである。しかしそれは部門Ⅰの生産手段としてそうだということである。とにかく林氏の再生産表式の理解は混乱しており、チンプンカンプンである。】

 田口にしろ、森にしろ、「価値移転論」に立って、どんな社会主義を建設し、可能にするというのか、生産手段を生産する労働を除外して、いかにして総労働を組織することができるのか、そんなドグマを振りまいて社会主義の概念をどうしようというのか、そしてこんな理論は、生産的労働者の多くの部分を“侮辱”し、ないがしろにすることでなくて何であろうか。

 【何度もいうが、「価値移転」が問題になるのは、少なくとも労働生産物が、価値という社会的属性をまとわなければならない社会、つまり労働が直接には私的なものでありながら、社会的な関係をとり結ばなければならない社会、すなわち商品生産社会(資本主義社会)に固有のものである。もし社会主義を前提するなら、そもそも価値といったものは存在する筈もないし、またすでに何度も指摘してきたが、生産物に対象化された労働の「移転」といったことさえまったく問題にもならないのである。すべての労働が直接社会的に関連づけられて支出されるということはそういうことなのである。】

 「有用的労働による価値移転論」は何か“科学的な”理論として主張されるなら間違いであって、それはむしろ資本による資本の生産を、あるいは「自己運動(さらに自己増殖)する価値」としての資本の概念であり、資本の運動の外面にとらわれた卑俗な観念であって、マルクスがある場所で、そんな風に資本の概念規定をしているからといって――もちろん、あいまいな形で、現象をとりあえず説明する観念として――、それをドグマに仕立てあげていいということにならない。例えば、「資本とは自己増殖する価値である」等々が本当の意味での資本概念であると取り違え(マルクスも言い、そのように規定さえしている云々)、強調することは途方もないことであろう(かつて宇野学派のつわものども――大学時代、私と同じクラスだった服部信司など――が、この資本概念をとりわけ愛好し、強調したのは果たして偶然であろうか)。

 【ここでは聞き捨てならないことが言われている。林氏はマルクスが「有用的労働による価値移転」について述べているところを何処だと思っているのであろうか。それは『資本論』第1部第6章である。その表題は「不変資本と可変資本」である。つまり不変資本と可変資本という用語を説明し、概念規定を与えているところでそれはなされているのである。そしてこの不変資本と可変資本というカテゴリーは、マルクス自身が古典派経済学の混乱を批判して、新たな科学的なカテゴリーとして導き出したものなのである。林氏はそうした『資本論』の説明を〈資本の運動の外面にとらわれた卑俗な観念〉だというのである。これはマルクス主義に対する冒涜であり、およそマルクス経済学を語る資格すらないといわざるを得ない。
 ついでに例えとして上げられている〈
「資本とは自己増殖する価値である」等々が本当の意味での資本概念〉でないといった主張もまったく混乱しており、では、林氏はそうした資本の規定に対して、どんな科学的な正しい規定を与えるのかと問えば、まったく何も与えることができないのである。しかしこの問題は別のところでも、マルクスから引用して論じたので、ここではこれ以上は不要であろう。】

 田口は機械など生産手段は実際には機能している間は再生産されず、前期から引き続いて働いているから、生産手段の価値はその期間に支出された労働とは関係なく、前期から「移転」してきたものだとでも判断したのだろうか。しかし機械がその期間に償却(廃棄)されないで機能し続けていたとしても、機械は消耗された部分だけ、再生産されているのである(理論的にそうであり、また結局は現実としてもそうである)。

 【ここで林氏は〈機械は消耗された部分だけ、再生産されているのである(理論的にそうであり、また結局は現実としてもそうである)〉などと述べているが、必ずしも正しいとは言えない。というのは林氏のように言いうるのは社会の総再生産を前提するなら言えることであって、個別の機械だけを取り上げるなら、消耗した部分(つまり価値としては生産物に移転された部分)は、ただ商品の価値が実現されたあと、その部分だけが将来の償却のための資金として貨幣形態で蓄蔵されるだけである。】

 ただ資本にとっては、生産手段を再生産する過程は、資本価値の再生産であり、それ以外ではないのであって、ブルジョアにとっては「価値移転」として現象するのである。資本にとっては不変資本は「過去の労働」である、つまりあくまで資本であって、また資本として維持されなくてはならないのである、まさに資本とは、「価値体」として、「自己を維持し、さらに増殖する」社会的実体としてのみ資本だからである。

 【林氏は〈資本にとって〉というが、どうして資本にとって生産手段を再生産する過程が、ただの「価値移転」として現象するのであろうか。それなら部門 I の資本家は利潤(剰余価値)を目標に生産しないかである。彼らは生産手段の再生産の過程でも、利潤を得るのであって、その彼らが、ただ生産手段の価値が移転するだけで満足するはずがない。一体、林氏は何を問題にしているのか。また〈資本にとっては不変資本は「過去の労働」である〉というが、そもそも資本家には不変資本の概念がないのである(それはマルクスによって初めて与えられた科学的な概念なのだ!)。彼らには彼らが機械や原料等を購入するために投じる資本からも利潤が生まれると考えるのであって(なぜなら、彼らの手にする利潤は彼らが費やしたコスト全体に平均利潤率をかけたものなのだから、彼らには費用価格全体から利潤が生みだされるように見える)、だから彼らの意識にとってはそれらは決して「不変」な資本ではない。〈資本とは、「価値体」として、「自己を維持し、さらに増殖する」社会的実体としてのみ資本だ〉というような認識は決してブルジョアのものではない。】

 一社会が生産する「総価値」は、ただその期間に支出された総労働の「対象化」してのみ「総価値」であって、「死んだ労働」と「生きた労働」の合計として「総価値」ではない。そんな風に理解するのは根底から「労働価値説」に矛盾し、背くこと、自ら矛盾や迷路に入り込むことであろう。というのは、そんな風に主張することは、年々の総労働の総計について語りながら、年々の「生きた労働」と、今年度以前の「死んだ労働」の合計として描くこと、理解することになるからである。そんなたわ言を並べていて、どんな社会主義を説くことができるというのであろうか。スターリン主義者(共産党の無学な連中)が決して合理的なものとして(すなわち“労働価値説”に基づいて、そしてまた資本の体制の根底的な批判と否定の上に)、社会主義を、その単純明確な概念を労働者に提示し、説明できなかったことは決して偶然ではないのである。

 【ここには微妙な誤魔化しがある。〈一社会が生産する「総価値」〉として林氏は何を考えているのであろうか。マルクスの単純再生産の表式を想定するなら、〈一社会が生産する「総価値」〉とは3000である。そしてもしそのように考えるのであれば、確かにそれは〈ただその期間に支出された総労働の「対象化」してのみ「総価値」であって、「死んだ労働」と「生きた労働」の合計として「総価値」ではない〉というのは正しい。但し、〈一社会が生産する「総価値」〉を「一社会が生産する総生産物の価値」(つまり9000)とするなら、それは〈「死んだ労働」と「生きた労働」の合計として「総価値」で〉ある。もしそれを否定するなら、林氏こそ〈根底から「労働価値説」に矛盾し、背くこと、自ら矛盾や迷路に入り込むことで〉しかないであろう。つまり林氏はわざとかどうか知らないが、どっちにでもとれるような表現をして問題を誤魔化しているのである。スターリン主義者云々はどうでも良い話である。】

 結果から見れば、生産手段部分の価値は新しく生み出されたのでなく、資本価値が、つまり「過去の労働」が“移転”したものと考えても同じことであり、社会の年間の生産物価値は①資本価値と、②「生きた労働」つまり生活手段のために支出された労働の合計であり、そして生活手段に支出された労働は資本家的な意味での(あるいは、個別資本の運動に表れる)「生きた労働」である(その総計はおおよそ、“ブルジョア経済学”もしくはケインズ経済学などの言うところの「国民所得」である)。

 【われわれはマルクスの表式にもとづいて厳密に考えることにしよう。〈社会の年間の生産物価値〉とは社会の総商品資本(総生産物)の価値、すなわち9000を意味する。そのうちの〈生産手段部分の価値〉というのは、部門 I では総商品資本の価値6000のうちの4000であり、部門IIでは総商品資本の価値3000のうちの2000である。これらは別に〈結果から見〉る見ないに関わらず、〈「過去の労働」が“移転”したもの〉であり、〈と考えても同じこと〉などという必要はない。だから〈社会の年間の生産物価値〉9000は、生産手段の価値が移転した部分(6000)と〈「生きた労働」〉によって新たに追加された価値(3000)の合計である。しかしそのことは決して〈「生きた労働」〉イコール〈生活手段のために支出された労働〉なのではない。なぜなら、生産手段の生産のためにも生きた労働が支出されているからである。そうでなければそもそも生産手段は生産されないであろう。林氏こそ、ここでは先に田口氏の主張だとでっち上げていた主張そのものを自身の主張として繰り返していることになる。すなわち〈生産手段部門(第一部門)の価値は「生きた」労働――つまりその期間中の生産的労働――によるものではなく、それ以前の期間の――例えば、前年の――労働、「死んだ労働」が「移転」されてきたもの――「有用的労働」によって――であって、新しく形成された「価値」ではない、といったものである。この場合には、生産手段を生産するために支出された労働は、存在しないとするか、価値として「対象化」されないという結論になる、つまり使用価値は生産するが、価値は生産しない労働ということになる〉という主張である。あるいは田口氏が〈「口をすべらした」〉とかいう〈年々労働者は生産手段までも実際には生産(再生産)しないのだ〉といった主張である。なぜなら、林氏は年間の〈生きた労働〉はすべて〈生活手段のために支出された労働〉だと考えているのだからである。だから生産手段の生産のためには生きた労働は支出されず、だから生産手段の生産では、価値は生産しないということになるからである。つまり先に田口氏の主張だとしてでっち上げていたものは、本当は林氏自身の混乱した主張だったというわけである。思わぬところでボロが出たわけである。】

 しかし一面では、生産手段もまた再生産され、したがってまたその価値も再生産されているのである、つまり資本価値もまたこの意味では再生産されているのであって、その価値は空中から生まれたものではないし、使用価値(生産手段)だけが再生産されて、その価値は再生産されず、「過去の労働」が“移転”してきたものだ、などと考えるのはばかげており、不合理そのものであろう。

 【おやおや、どうやら林氏も先の主張では少しはマズイと思ったようである。だから〈しかし一面では〉と、先の間違いを慌てて補修しようというわけである。しかしどうして〈一面〉では、そうなるのか、何一つ説明されていない。しかも厳密に吟味すれば、この一文の破綻もたちまち暴露される。まず林氏は〈生産手段もまた再生産され、したがってまたその価値も再生産されている〉などというが、生産手段が〈再生産され〉るというのは、生産手段の使用価値について言いうることである。しかし使用価値が再生産されるからといって、その価値のすべてが「再生産され」るとは限らないのである。部門 I の生産手段について考えてみよう。6000の価値ある生産手段の使用価値が一年間の労働によって再生産され、それは翌年度の部門 I と部門IIの生産手段として現物補填される。しかし6000の生産手段の価値は決してすべてが再生産されたものではない。確かに部門 I の4000の価値ある生産手段も、その使用価値が生産的に消費されるとともに、価値も無くすのであるが、しかしその使用価値は新しい生産物を生産するために消費されるのであって(いうまでもなく、生産手段を生産的に消費するのは部門 I の労働の具体的有用的契機による)、だからその失われた価値は、新たな生産物の価値へと移転・保存されるわけである。だからこの部分の価値4000は決して「再生産」されたものではないのである。部門 I で再生産されるのは、ただ労働者の生きた労働が対象化された2000の価値のみである。林氏は慌てて先の主張を補修して、辻褄をあわせたつもりかも知れないが、少なくとも先の主張と、今回の主張とはまったく対立したものでしかなく、ただその二つを並べただけである。しかもどちらも細かく詮議すれば、たちまちその間違いが露呈するという代物でしかないわけである。とにかくこんな混乱に付き合わされる会員こそ不幸ではある。】

 (次回は第四項目〈◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”〉を取り上げる。)

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