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2016年3月23日 (水)

林理論批判(40)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.17)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(6)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は最終回、最後の項目〈◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”〉の批判的検討の後半である。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

(◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”)の続き

 田口は「過去の労働」は大事であって、それによってのみ社会主義建設が可能だと叫ぶのだが――これが田口の根底的な、そして自らの見解に固執する理論的、“心理的”動機であるが――、しかし労働者にとって重要なものは、現在の労働の意味であって――それが搾取労働かどうか、解放された労働がどうか(「価値として対象化される」労働がどうか)であって――、その点では「過去の労働」は全くどうでもいいものとして現われ、また存在するのである。生産手段は確かに「過去の労働」の結果であり、その成果であるが、しかし新しい富はただ生産的労働の結果としてのみあるし、あり得るのであって、「過去の労働」の成果が、そこに「入り込む」などというのは、何か道徳的な意味でしか意義を持たないのである、つまりただ「心の問題」にすぎない。田口は「過去の労働」を、つまり「資本」(田口は「資本」ではなく、生産手段――というより労働手段つまり機械――だと言うのだろうが)をたたえ、持ち上げるのではなく、現実の労働にこそ注意と関心を払い、それをこそ評価すべきであろう、というのは我々は「過去の労働」によって支配されるのではなく、現実の労働によってのみ、社会的、個人的な生活の全体を保障し、維持していくのだからである。機械はあくまで「機械」つまり道具の発展した形態にすぎない、つまり我々の労働を助け、その生産力を高めるものにすぎない。

 【ここで林氏は〈しかし労働者にとって重要なものは、現在の労働の意味であって――それが搾取労働かどうか、解放された労働がどうか(「価値として対象化される」労働がどうか)であって〉と述べているが、林氏にとってはどうやら〈解放された労働〉とは、〈「価値として対象化される」労働〉であるらしい。つまり相変わらず、それは商品の価値として対象化されるような労働なのである。何とも混乱した書き方であろうか。
 林氏は将来の社会では、生産手段が労働者を支配し、規制するのではなく、労働者が生産手段をただ道具として利用するだけだ、という関係を強調する。それはよい。しかし、生産手段、つまり過去の労働が、現在の労働、生きている労働を支配するのは、生産手段が資本として存在しているからであるということを忘れている。将来の社会でも生産手段は過去の労働の産物だが、しかしそれらは決して資本として労働者に対峙しているわけではない。生産手段は確かに将来の社会においても、共同社会の個々の構成員にとって、依然として自分たちの生活を維持し、再生産するに必要な客観的・物質的条件であり、対象である。それらは多くは--つまりまったく自然から直接採集する以外のものは--過去の労働の産物である。しかしそれらは社会の構成員の共同労働の産物であり、故に彼らによって共有されているものなのである。つまりそれらは彼らが共同して生産し、自分のものとして彼らの意識と統制の下にあるものなのである。だからそれらが彼らの過去の労働の産物だからといっても、それらが彼らを支配し、統制するものとして立ち現れてくるわけではない。林氏は、資本主義社会では、過去の労働の産物である生産諸手段が資本として、生きた労働に対峙する現実から、だから過去の労働は、あらゆる社会でも生きている労働を支配するものであるに思い込んでしまっているのである。しかしロビンソンの生活を考えてみれば明らかなように、ロビンソンの過去の労働の産物が、ロビンソンを支配するわけではない。要するに、林氏は、資本主義的生産の現実を永遠のものとして考えているから、そのように思ってしまっているのである。だからだれが資本の物神崇拝に陥っているかは明らかではないか。歴史的に限定した特定の社会形態に固有の関係から生じているものと、その基底にあって、あらゆる社会形態から独立し、それらに共通な一般的条件とを区別することが、林氏には、出来ていないのである。資本主義的生産に固有の問題を永遠のものとして見なしているからこそ、林氏の頭の中には、過去の労働=資本、という方程式が成り立っており、だから資本の否定はイコール過去の労働の否定となり、何とかして過去の労働を葬り去りたい、だから過去の労働は、どうでもよいものとして思い込もう、これが林氏の考えの根底にあるものであろう。】

 ある一つの共同体はかつて年々一トンのコメを生産できたにすぎないが、機械や肥料などを利用することによって三トンを生産することができるようになったとしよう。直接に農業生産に従事する期間(時間)は四ヵ月、つまり従来の三分の一に減り、残りの八ヵ月は機械の製造や肥料の生産に従事したとする。コメを直接に生産する労働は減少したが、コメを生産するための総労働は同じであり、ただその労働の生産性は三倍になったにすぎない。まさにこれこそ機械や肥料を利用することの意義であるが、しかし両方とも、同じ総労働が総量のコメに対象化されているという点ではどんな違いもない。同じ総労働が後にはより多量のコメに対象化されている――したがって単位量のコメの価値(価格)は三分の一に低落した――ということは、機械や肥料の働きによるものであるにしても、コメの「価値」には機械や肥料の「価値」は何の関係もないのである。田口は、後の場合のコメの価値は、最初の三分の一の農業労働と、「移転されてきた」機械や肥料の「価値」――それは、この場合、コメ全体の価値の三分の二を占めるのだが――をプラスしたものである、つまり三分の二の今期の労働は実在しないと事実上主張するのである。

 【ここでは林氏は共同体の話に移っているが、しかし、依然として「価値(価格)」が問題になるらしい。しかし、どうして価値や価格によって対象化された労働を表示する必要があるのか、それらは商品になるわけではないのだから、直接、労働時間で表示しても何の差し障りもないはずではないか。もっとも、とりあえず、われわれも、こうした馬鹿げた林氏の想定の上に立って、考察してみるのではあるが。
 林氏の上げている例は、このようにあまり感心なものではないが、とにかくわれわれもその例に沿って考えてみよう。林氏は機械と肥料を使った農業生産では、3トンの米に年々の総労働が対象化されているとする。つまりそれは米を直接生産する労働である4カ月と機械や肥料を生産した8カ月分の合わせて、12カ月分の労働ということであろう。ということは、この場合の米の「価値」というのは、米を直接生産した4カ月労働の追加労働分と、その米を生産するために、利用した過去の労働の産物である機械や肥料に対象化された8カ月分の労働を合わせたものであることは明らかである。林氏は、米を生産する労働をまず最初4カ月として、残った8カ月を機械や肥料を生産するのに使うなどというが、そもそも機械や肥料を米を作ったあとで生産するということは、その生産した機械や肥料は、その前の米の生産には利用できない事実を忘れている。もちろん、米生産に従事するのは4カ月だが、しかしそれは飛び飛びで従事するわけだから、その開いた時間を使って機械や肥料を生産すればよいではないかというかも知れないが、しかしいずれにしても、機械や肥料は、米生産労働のための生産諸手段である。だから生産諸手段は米生産労働の前に存在しないと、生産諸手段にはならないのである。労働対象や労働手段は、それらを使ったり、対象にして労働する生きた労働にとっては、前提されたものである。つまりその前に存在していなければならないのである。こんなことは子供でも分かる道理である。つまり4カ月で米3トン生産するためには、その前にすでに生産されている機械や肥料を前提しなければならないという子供でも分かる事実を、林氏は、忘れているのである。だからもし単純明快に考えようとするなら、それらは去年の生産物として考えるべきなのである。つまり過去の労働の産物なのだ。それがあるからこそ、共同体の構成員は、最初から米を機械や肥料を使って生産し、4カ月の労働で3トンもの米を生産できたのである。そして残りの8カ月で生産した機械や肥料は、来年度の米生産に利用すると想定すればよいのである。このように想定したからといって、米生産する共同体の構成員は、生産手段である機械や肥料に支配されたり、それらによって統制さるわけではない。それらは林氏の想定に立っても--林氏は3トンの米には12カ月分の労働が対象化されていると想定しているのだから--、その米の「価値」には機械や肥料の生産に支出された8カ月分の労働も計算に入っているのであり、だから機械や肥料に対象化された労働時間--つまり林氏の想定によれば、その「価値」--が関係することは明らかである。
 林氏は〈同じ総労働が後にはより多量のコメに対象化されている――したがって単位量のコメの価値(価格)は三分の一に低落した――ということは、機械や肥料の働きによるものであるにしても、コメの「価値」には機械や肥料の「価値」は何の関係もない〉というのであるが、これは生産力には生産手段の価値は無関係だということであって、当たり前のことなのである。しかしそのことは、それに続いて田口氏の主張として論じていることを正当化するわけでは決してない。
 つまり〈田口は、後の場合のコメの価値は、最初の三分の一の農業労働と、「移転されてきた」機械や肥料の「価値」――それは、この場合、コメ全体の価値の三分の二を占めるのだが――をプラスしたものである、つまり三分の二の今期の労働は実在しないと事実上主張するのである〉などと述べている。しかしそれでは林氏にお伺いするが、林氏のいう〈三分の二の今期の労働〉というのは、一体何に支出されたのであろうか。もしそれも米の生産に支出されたのだとするなら、生産される米は3トンではなく、9トンになるのではないのか。それにそれが機械や肥料の生産に支出されたのでないとするなら、一体、機械や肥料はどのようにして生産されうるのか、それともそれらは「生産手段が自動的に生産手段を生み出す」という林氏お得意の主張にもとづくものだとでもいうのであろうか。つまり林氏は最初は機械や肥料に支出された労働(8カ月)も含めて、米に対象化された総労働を12カ月としたのである。つまりこの時点で、林氏は機械や肥料に支出された労働も米に対象化されている総労働の一部だということを認めているのである。だから直接的な農業労働(4カ月)の過程で、生産物である米にそれらの生産諸手段に対象化されている労働も移転・保存されるのだと林氏自身も考えているのである。そうでない限り、米に対象化された総労働を12月とすることはできない筈なのである。そうした想定を林氏はすっかり忘れて、田口氏の主張とする〈コメの価値は、最初の三分の一の農業労働と、「移転されてきた」機械や肥料の「価値」――それは、この場合、コメ全体の価値の三分の二を占めるのだが――をプラスしたもの〉というものに対して、〈三分の二の今期の労働は実在しないと事実上主張する〉ことになると批判しているわけである。自分が言っていることが自分自身の想定と矛盾していることが分かっていないのである。何とも馬鹿げた話である。こんな無茶苦茶な理屈を相手に論争することの不毛さと徒労に、誰もが匙を投げるのは止むを得ない。】

 田口は、機械や肥料に「対象化」されている労働は「過去の労働」(これを、昨年の労働、と理解して)であるにしても、それは今年の機械や肥料を作る労働と“質量ともに”――実際にそう言えるかはさておくとして――同じだから、従って結果としては、林が言うのと同様になる、と言うこともできるかもしれない。
 しかしそれなら、今年の機械や肥料を生産する生産的労働は、来年の「価値」として「移転され」、順繰りに一年ずつ後送りしていくということであるが、何のために、そんなわけのわからないことを言わなくてはならないのか。去年と今年の労働の生産性はすでに違っているだろうということからも、田口の言うことは途方もない不合理にしか思われない。それに労働(時間)について議論しているときに、それを「後送りする」などということは、労働(時間)を「価値」として、つまり「資本」として扱っているからであると言うしかないではないか。田口ははたして「労働」を年々後送りすることができるかどうかを反省すべきであろう、というのは労働(時間)そのものは「価値」でも「資本」でもなく“社会的な”実体であって、“モノ”としての資本と違って「後送り」できるはずもないからである。

 【混乱した林氏の頭では、自分はまともなことを言っているつもりなのであろうが、ただ混乱しかない。まず〈今年の機械や肥料を生産する生産的労働は、来年の「価値」として「移転され」、順繰りに一年ずつ後送りしていく〉というが、〈生産的労働〉というのは具体的有用労働を意味することを忘れている。だからそれが〈「価値」として「移転され」〉るなどというのは混乱の極みである。そしてマルクスの再生産表式を前提するなら、今年度の生産で生産的に消費される生産手段だけではなく、今年度の労働者や資本家によって消費される生活手段も、すべて前年度の生産(つまり過去の労働)の成果であり、一方は、今年度の部門 I と部門IIの生産手段として充用され、他方は労働者と資本家によって今年度一年間で消費されるのである。前年度の生産物である生産手段や消費手段が今年度において消費された(一方は生産的消費、他方は個人的消費)からと言って、労働が先送りされたなどと誰も言わないのである。ここで問題になっているのはあくまでも生産物に対象化された労働についてである。そんなことは当たり前のことであろう。】

 そもそも、田口は「過去の労働」について大騒ぎして語るが、その「過去の労働」とはいかなるものなのか。今年の「生きた労働」に対するのは、「昨年の労働」なのか、それとも「昨年までの総労働」なのか。

【再生産過程の考察で通常の想定されるのは、「過去の労働」というのは前年以前の労働のことである。固定資本をも想定するなら移転・保存されるのは前年の労働に限らないからである。もし不変資本として固定資本を捨象して流動不変資本だけを想定するなら、「過去の労働」というのは前年の労働を意味するし、「生きた労働」というのは「今年度の労働」のことである。】

 「昨年の労働」に限るなら、それは単なる「昨年の労働」であって、「過去の労働」ではないし、それが「今年の労働」であっても同じことである、だから田口は、「過去の労働」を「昨年の労働」と言い変えることはできない(言い替えたところで何の意味もない)、他方、「過去の総労働」だなどというなら、それを規定することはできない、「過去の総労働」が凝縮したものだ、などという規定がナンセンスなのは一目瞭然である、とするなら、田口は「過去の労働」とは永遠の昔から一定量の労働が延々と受け継がれ、「移転」させられてきた、とでも説くしかないが、しかしそんなものを想定すること自体に、どんな意味があるというのか(資本価値だというなら、それなりの意義はあり得るだろう。しかしその場合、田口は社会的な実体を、本物の物質的実体とみなしていないのか、つまり物神崇拝意識に骨まで汚染されていないのか)。

【混乱した頭脳には、自分の混乱を自覚できないのも無理はないが、すでに指摘したように、問題は社会的な総再生産過程を前提して論じていることがまず言われなければならない。そうした想定を取り外すなら、今まさに流動状態にあるものこそ「生きた労働」であり(それは生産物に対象化されるごとに過去の労働となる)、それを使って生産するすべての生産手段は、すべて「過去の労働」の産物である。しかし社会的総再生産過程を想定して問題を論じるなら、われわれは年一回転する生産を想定することになる。そこでは前年以前に支出された労働が「過去の労働」であり、今年度に支出される労働が「生きた労働」である。また固定資本を想定するのか、それともそれは捨象して考えるのかということもあらかじめ考えなければならない(しかしこれについてはすでに述べた)。すべてこうしたことを抜きに林氏は論じており、混乱した頭脳ではそれで十分なのかもしれないが、科学的に厳密に論じるなら、そうした想定がまず言われる必要があるのである。】

 機械等々の労働手段は現実であって、それが生産の前提であることは自明のことであるが、しかし労働手段自体が労働手段を自動的に作り出すわけではない、ただ労働手段は、現実の生産的労働、社会的に支出される生産的労働にとって、その生産力を規定するのであって、生産的労働自体に取って代わらないし、代わることはできないのである。田口は何を血迷ってか――あるいは私の前記の見解を“逆手に取った”つもりか――、社会の生産する「価値」は、だから「過去の労働」の生産力と、「生きた労働」の合計である、などとまたまた“口をすべらす”のだが(しかしこの発言は、急いで撤回せざるを得なかった)、しかし「生産力」と「生産的労働」を足して一つのもの(一つの大きさの「価値」、つまり一つの生産的労働)にできるはずもないことを“忘れる”のである。

 【こうした馬鹿げた議論も、こまかく詮索する意味はほとんどないのであるが、まあ、しょうがないからコメントを入れておこう。何度もいうが〈労働手段自体が労働手段を自動的に作り出す〉という主張は、生産手段をすべて「過去の労働」の産物と考える林氏のドクマから不可避に出てくるものであって、決して田口氏が主張していることではない。それに労働の生産力を規定しているのは、決して労働手段だけではない。〈労働の生産力は多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の技能の平均度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模および作用能力によって、さらにまた自然事情によって、規定されている〉(23a54頁)のである。〈「生産力」と「生産的労働」を足して一つのもの〉云々も、田口氏の主張などと言っているが、そんなものは眉唾であり、誹謗中傷の類でしかないであろう。】

 実際、「過去の労働」とは、単に不変資本だけでなく、可変資本でもあり、また商品資本の循環においてみれば、それは資本そのもの、資本の全体である。商品資本は生産手段の価値表現であるとともに、それに加えて、生活手段の価値表現である、そして後者もまた、ある期間の再生産の後には、全く同じ物質的存在として、また価値存在として再生されているのであり、その意味では、資本にとっては、単に不変資本部分だけでなく、可変資本部分も(つまり労働者が消費する生活手段も)、ブルジョアが消費する生活手段も、すべてみな立派に「価値移転」されている、とさえ言えるのではないのか。

 【まず林氏は「不変資本」、「可変資本」などと述べているが、そもそもこれらはマルクスによって簡略化された用語である。つまりそれらは正確には「不変資本部分」、「可変資本部分」と言われるべきものなのである。つまりそれは資本の生産過程では、生産の客観的条件をなすものを資本の不変資本部分とし、主体的な条件を資本の可変資本部分というのである。だからもし資本が貨幣形態を取っているなら、不変資本部分とは、その貨幣資本のうち生産手段の購入に投じられることを予定しているものに対していうのであり、可変資本部分というのは労働力の購入に充てられる部分をいうのである。そして商品資本としては、その価値構成として、不変資本部分、可変資本部分ということになる。だから資本であるということと、それが「過去の労働」の産物であるか、「現在の労働」の産物であるかというととは直接に関連しているわけではない。すなわち「過去の労働」だから、それは〈単に不変資本だけでなく、可変資本でもあり、また商品資本の循環においてみれば、それは資本そのもの、資本の全体である〉などというのは間違っている。なぜなら、商品資本としては、確かにそれらはすべて対象化された労働の産物であり、その限りでは「過去の労働」の産物だが、生産資本としては、今まさに流動化しつつある労働力(だから現在の「生きた労働」)そのものも、資本の生産過程の一契機であり、資本の運動だからである。また〈商品資本の循環においてみ〉るということは、資本の循環をW’-G’-W…P…W’として見るということである。ここで「…P…」は生産過程を意味し、だから上記のように、その過程は生きた労働の過程でもあるのである。だから商品資本の循環としてみたら、価値の移転だけがなさたものとなる、というのは全く間違っている。価値としても、生産過程において、生きた労働によって再生産されるからである(そうでなければそもそも剰余価値は生まれない)。さらには生活手段がイコール可変資本部分なのではない。これはそもそも「可変資本」の概念を知らない者のいうことである。資本家にはそもそも不変資本や可変資本の概念そのものがないのであるが、だから彼らには、ただ生産手段や労働力の購入に投じた費用(コスト)がそのまま利潤を伴って彼の商品資本の価値として再現するように見えるのであるが、しかしそれを根拠にすべての商品の価値は「価値移転」されたものだと主張するなら、それはただ自分自身をブルジョア的な立場に置き、彼らの意識を根拠に、自説を立てるに過ぎないであろう。もっとも俗流主義者には相応しい主張ではあるだろうが。】

 資本にとっては、不変資本部分だけでなく、一切の再生産が労働者の生産的労働の結果ではなく、単なる資本価値の「移転」として現象するのだが、そんな現象に目を奪われてしまう情けない人がいくらでもいるというわけである(そんな人々が労働者でないことだけは確かであろう、もっともこの真実を理解するのは別に労働者に限ったことでないにしても)。

 【しがし一体、誰が〈一切の再生産が労働者の生産的労働の結果ではなく、単なる資本価値の「移転」〉だと主張したのであろうか。それは不変資本や可変資本の概念も分からず、だからまたその区別も分からない林氏自身ではないのか。不変資本や可変資本という概念は、生産過程に投じられた資本の価値として見ると、一方の価値(生産手段の購入に投じられた価値)が「不変」であるのに対して、他方の価値(労働力の購入に投じられた価値)が「可変」(増殖するもの)であることから規定されたものである。資本家にはこの区別が分かろう筈はないのである。それに資本家が彼の投じた資本はただ「移転」されるだけだと考えるのなら、そもそも利潤はどこから生まれるのか。どうして彼は彼の雇った労働者の労働を厳しく環視し、長時間や過酷な労働を強いる必要があるのか。ただ労働力を買った資本が「移転」するだけだと考えるなら、労働者の労働には無関心でもよいのではないか。】

 田口は不変資本部分(“再生産表式”で言えば、第一部門つまり生産手段部門)の「価値」は移転されてきたものだ、という。しかし、そんなことを言ったら、社会主義における「価値規定」がいかに可能なのか。我々は機械や原材料の労働時間もまた、その年に生産される生産物に必要な労働時間としてたちどころに見て取ることができるが、資本価値として存在し、「移転されてきた」価値の労働時間をいかにして確認し、知ることができるのか。

 【何度もいうが、部門 I の生産物(生産手段)の価値が、すべて〈移転されきたものだ〉などと田口氏が主張するはずもない。それは林氏自身のドクマであり、その間違った主張をただ相手になすり付けているだけである。】

 私が提起する、この問題はマルクスが直接に――あるいは明瞭で、具体的な形では――述べていないことである(どこかで似たようなことを言っているかもしれないが、一つのテーマとして論じていないように思われる、というのは、社会主義を「価値規定」と関連させて、いくらかでも具体的な形で述べることはマルクスの主要な問題意識、あるいは関心事項ではなかったからである)、だからこそ、「マルクスはそんなことを言っていない」とか、「マルクスは違ったように言っている」とか言って揚げ足を取っているだけではなく――そんなことは全く不生産的で、不毛なことだ、全く前進的でも、創造的でもない――、私とは別の回答を示すべきであろう。

 【〈社会主義を「価値規定」と関連させて〉論じるという意味を、資本主義の経済的な諸法則を、社会的な生産を規制する一般的な諸法則の歴史的に独特な形態として捉えるという意味として考えるなら、マルクスは『資本論』のさまざまなところでそれを論じているのである。われわれが今日において問題にできる「社会主義」というのは、われわれが今現実に対象にできる資本主義的生産様式そのもののなかに、その一般的契機として、あるいはそれが将来の社会の萌芽を示す限りにおいて問題にできるにだけである。だから『資本論』ではそのようにしか論じられていないのである。そうしたわれわれが置かれている歴史的な客観的な条件を無視して、社会主義について〈具体的な形で述べること〉ができると妄想している林氏こそ、およそマルクス主義者として失格であることだけは確かなのである。われわれは、まさにそうした林氏の妄想そのものが〈全く不生産的で、不毛なことだ、全く前進的でも、創造的でもない〉と主張するのである。われわれが林氏がいうところの〈社会主義の“概念”〉なるものが、〈簡潔で明瞭な形で、我々が容易に理解できるような概念として、社会主義を理論的に提示し〉たと自称されるだけで、その内容たるや、まったく空疎なわけの分からないものでしかないことをすでに確認してきたところである。こんなしょうもないことをゴチャゴチャいうことに一体どんな意味があるのかと誰しも思っていることではないだろうか。ただ林氏本人だけが、何か自分は立派なことを、画期的な理論を開陳しているのだと思い込んでいるだけなのである。こんな馬鹿話に付き合わされる会員こそ哀れである。】

 そんな諸君が、回答も出さず、「過去の労働」もまた現実の社会的再生産の「価値」の中に入り込み(有用的労働によって「移転」され)、そしてまた生産手段を生産する労働も「価値を生む」というだけなら、そしてそれに加えて、しかし「それでは二重計算になるのは確かだ、その矛盾は分からない」、その矛盾を回避するには、生産手段を生産する労働は存在しないものとするしかない(あるいは存在しても、「価値」としては対象化されない)、などとぼやくだけなら、それは、自らの論理的破綻を自ら白状することではないのか。

 【これはもうまともな文章にさえなっていない。ただ林氏が自身の妄想のなかで朦朧と彷徨っているだけの文章である。】

 実際、生産的労働が一方では具体的有用労働としては存在するが、抽象的な労働としては存在しないし、規定され得ない、などと言っていいのか、そんなことで一体どんな「労働価値説」か、またどんな社会主義社会が想定され得るのか。スターリン主義者たちが、社会主義を具体的にイメージできなかったこと、したがってまた社会主義的生産関係を作り出すことができなかったことは――そのほんのわずかな試みさえもしなかったことは――決して偶然ではないだろう、もっとも我々は、彼らがソ連や中国で社会主義を建設できなかったことを、こうした意識や論理の問題に還元しないし、するものでないことは、我々の「国家資本主義」の論理(ソ連論、中国論)を検討し、理解していられる人々にはよく分かっていることであり、自明の前提であるだろうが。

 【これもまともな検討に値しない文章である。林氏が「生産的労働」とは何かも知らないことだけは確かである。〈社会主義を具体的にイメージでき〉ると考えることそのものが非科学的であるということを、マルクス主義者なら分からないければならないのである。】

 社会主義の“理想”は回復されなくてはならず、その内容が――「搾取の廃絶」と「労働の解放」という課題が――明らかにされなくてはならないのである。

 【この限りでは異論はないが、しかし林氏がやっていることは、そうしたものに答えることになっていない。むしろその課題を貶めることでしかない。】

 「搾取労働の廃絶」ということは分かりやすいが、「労働の解放」の意味は若干説明がいる。このことの意味するものは、人間労働が「価値」という形態を取らない、そうした“物象的な”形態――これは“物化”した形態、モノに“対象化”された形態ということと、同じ意味でここでは用いているのだが――、すなわち商品や貨幣や資本等々の形態では現われない、現われる必要はない、ということである(生産物や金や機械等々は、それ自体決して「価値」でも「貨幣」でも「資本」でもない)。商品や貨幣や資本は結局は「価値」――その「実体」、つまり内容は「人間労働」である――であり、その諸形態である、そして労働が「価値」の諸形態をとるということが――そしてその大きさが「価値」の大きさとして、商品や貨幣や資本の「価値」の大きさとして現象し、貨幣や資本に転化し、人間を逆に支配することが――、労働者の疎外の――人類全体の疎外の――根底にあるのである、つまり「労働の解放」とは、《労働が「価値」の形態を取り、労働の継続が、その大きさが、「価値」の大きさとして(価格表現として)、商品や貨幣や資本の大きさとして現われる》ことの廃棄であり、人間の労働(時間)が人間の労働(時間)として、そのままの形で存在し、位置付けられ、確認されることである。

 【確かにこの部分は〈若干説明がいる〉。ここでは林氏は「労働の解放」というのは、労働が疎外された形態を克服することだと述べているが、肝心のことが語られていない。つまり労働が疎外されているのは、労働が私的なものとして存在していることの一結果だということ、だからその克服は労働が直接社会的な関係を取り戻すことだということが語られていないのである。だからこそ社会主義とは労働の私的性格を止揚して直接社会的なものとして位置づけることにあるのである。これこそが林氏がいうところの〈社会主義の真実〉なのである。その肝心のことが分かっていないし、語られていないのである。】

 「搾取の廃絶」や「労働の解放」という労働者の理想は、宗教家が描く天国や楽園の華やかで、きらめくようなイメージとは違って、いくらか地味で、散文的であるかもしれないが、人類のこの地上において実現可能な、また実現すべき現実的な世界(社会)であって――仮に、そこに「永遠の生命」とか、「蜜とミルクが自然に流れ出て来る」とかいった空想の余地は少ないとしても――、人類の本当の、そして永遠の解放であり、その出発点である。
 我々がこの小論で述べてきたことが、この百年余り――あるいは、それ以前も――、何も語られて来なかった、むしろその反対ことこそ強調されてきたからといって、我々の言葉が真実ではない、ということには決してならない。ソ連や中国の「国家資本主義」の人格化としての、その体制の代弁者、弁護者としての“スターリン主義者”たちが、そして、なさけない“ブルジョア”に転落したも同然の共産党が、社会主義の真実を語るはずもないのである、語ることができるはずもないのである。

 【だから林氏の語る〈社会主義の真実〉なるものも、殘念ながら、われわれは眉に唾をつけてお伺いしなければならない。そもそもマルクスを軽んずるものに、〈社会主義の真実〉やマルクス主義を語る資格はないのである。】

(林 紘義)

【●最後に

 林氏は、その内容からは明らかにマルクスの理論に対する批判を展開しながら、公然とは「マルクス批判」を掲げず、表面上は、依然としてマルクス主義者であるかに振る舞おうとしている。しかし、その化けの皮は隱しようがないほど明らかになりつつある。「有用労働による価値移転」についても、〈言葉としてはマルクスが「価値移転論」を語っていることは林も認めているのですから、それを繰り返しても意味がありません〉(通信No.15)などと述べて、会員がマルクスに依拠して林氏に反論しようすることを事前に封じようとするわけである。しかし、林氏はマルクスが「言葉として……語っている」ことを認めているというが、しかし、その「言葉」を林氏は如何に理解しているかであって、会員は林氏の理解は間違っていると批判しているのである。そしてマルクスが言っていることはこういうことであり、林氏の理解はおよそマルクスの述べていることとは違ったものであると批判しているのではないのか。単にマルクスから引用して事足れり、としているような批判は少なくとも会員の批判のなかに見ることはできない。林氏こそ、マルクス批判を繰り返しながら、公然と「マルクスは間違っている」と批判することができず、姑息な方法で逃げ隠れしながら、マルクス批判を展開しているだけではないのか。
 〈林はいわゆる「再生産表式」というものはない、そう言われているものは日和見主義者やスターリン主義者たちが言いはやしてきたものに過ぎない〉などとも主張しているが、要するに、林氏は「再生産表式」という言葉そのものは、『資本論』のどこを捜してもないと言いたいのである。確かに言葉としては「再生産表式」という用語そのものはないかも知れないが、しかし、「単純再生産の表式」という言葉そのものはマルクスも使っており、社会的な総再生産過程を表式を使って考察していることは明らかなのである。それを「再生産表式」と言ったからといって、何も問題は無いし、間違いとは言えないであろう。問題は、マルクスが社会的な総再生産過程を表式を使って考察していることについて、林氏はどのように評価しているのかということではないのか。言葉として「再生産表式」という用語をマルクスが使っているかどうか、というような問題ではないのである。言葉としては、マルクス自身は『資本論』のなかで「再生産表式」という用語を使っていないということを、まるで鬼の首でも取ったかのように、だから〈いわゆる「再生産表式」というものはない、そう言われているものは日和見主義者やスターリン主義者たちが言いはやしてきたものに過ぎない〉などというのは、それこそマルクスの一言一句を金科玉条のように持ち出すことの裏返しではないのか。マルクスが使っていないから、だからそれは無い、などと結論するのは実に馬鹿げたことではないか。一体、林氏はいつから“マルクス絶対主義者”になったのか。
 いずれにせよ、林氏は公然とマルクス批判派に転換したのである。もはや林氏や彼を支持する人たちは、マルクス主義の旗をさっさと降ろすべきではないか。少なくないかつてのマル系学者たちが、晩年になってマルクス批判派に転ずる風景はよく見られることである。最近も山本二三丸がマルクスの理論は間違っていた、それを正しいと自分は教えてきたが、申し訳ないことをした、等々と懺悔を行っていることを知ったが、それ以外にも多くのマル系学者が似たりよったりの立場に移行しあつつある。林氏もその意味では、同じ穴の狢であろう。“晩節を汚す”という言葉があるが、まさに林氏にも当てはまる。】

(完)

 (次回以降は未定である。この連載を継続するかどうかも含めて少し考えたい。)

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