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2016年3月16日 (水)

林理論批判(39)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.16)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(5)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第5回目、最後の項目〈◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”〉の批判的検討である。この項目は若干長くなってしまったので、二回に分けて紹介することにする。今回はその前半部分である。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

◆4、「再生産表式」の神話と「過去の労働」(不変資本)への“物神崇拝”(記事の中見出しをそのまま紹介

 いわゆるマルクスの「再生産表式」は、それが歴史的な価値形態、資本形態を剥ぎ取った、単純な「再生産表式」として位置付けられる限り、年間の総労働は九〇〇〇(もちろん、この単位は労働時間であろうと、労働日であろうと、万労働日であろうと構わない。日本の現状にいくらかで近いものを想定するなら、万労働日が一番イメージを得るにはいいかもしれない)、その内六〇〇〇は生産手段(機械や原材料)の生産のために支出された労働、三〇〇〇は生活手段(食料など生活していくために必要な消費資料、つまり「衣食住」)の確保のために支出された労働を意味するだけのように思われる、だが、それを、第一部門は「過去の労働」つまり前期から移転されてきた価値であり、第二部門のみが今年度の労働(新しく付加された労働)などと理解するなら理論的迷路に迷い込むだけであろうし、そんなドグマを前提に社会主義的生産の条件をも示しているなどと言えないことは余りに明らかであろう。

 【ここではまず「いわゆる」という文言が先に来る。これはまあ「……と言われている」というぐらいの意味であろうか。しかも「マルクスの」と問題が限定されている。そして〈「再生産表式」は〉と来る(再生産表式が鍵括弧に入っていることに注意)。何しろ林氏によれば、「再生産表式」などといったものはないのであって、それはスターリニスト達のたわごとでしかないのだから、こういった表現になっているわけである。
 ところがその科学的な概念も意義も認めない林氏が、マルクスの単純再生産表式を前提して論じようとしているわけである。しかも〈歴史的な価値形態、資本形態を剥ぎ取った〉ものとして論じようとしている。しかし歴史的な形態を捨象して尚且つ論じるだけの意義があるなら、それは科学的な概念として意味のあることを認めることではないのか。これまでの林氏の自身の主張とそこらあたりはどのように整合するのであろうか。それとも林氏が自身も自分が批判するスターリニストの仲間に入ったということであろうか。まずそこらあたりをハッキリさてから、「マルクスの単純再生産」について論じるべきではないのか。
 しかしまあ、そこらあたりの疑念は横において、林氏のいうことを聞いてみよう。
 林氏はいう。
 〈年間の総労働は九〇〇〇……、その内六〇〇〇は生産手段……の生産のために支出された労働、三〇〇〇は生活手段……の確保のために支出された労働を意味するだけのように思われる〉。
 しかしすでにここに間違いがある。まず表式から歴史的形態を捨象した場合、表式は年間の総生産物とそれに対象化されている労働時間を表すものと考えるべきである。総生産物に対象化されている総労働時間は9000だが、しかしそれは〈年間の総労働〉では決してない。生産手段に対象化されている労働時間6000も、決してその〈生産のために支出された労働〉を表すものでも、生活手段に対象化されている3000も、やはりその〈確保のために支出された労働を意味する〉わけではないのである。ここにすでに林氏の混乱の元がある。〈年間の総労働〉を問うなら、それはやはり3000でしかなく、それが部門 I (生産手段の生産)で2000、部門II(生活手段の生産)で1000が支出されたのである。
 だから〈第一部門は「過去の労働」つまり前期から移転されてきた価値であり(何で、こんなところに「価値」が出てくるのか、「価値形態」は剥ぎ取ったのではないのか?--引用者)、第二部門のみが今年度の労働(新しく付加された労働)などと理解するなら〉というような文言もまったく混乱したものでしかない。こんな混乱したことを主張している人はいないし、それは林氏だけが自身の混乱を自覚せずにそれこそ言い散らしている妄言でしかない。一体、誰が、第Ⅰ部門の生産物に対象化されている労働はすべて「過去の労働」だなどと言っているのであろうか。それは生産手段=資本=「過去の労働」というブルジョア的な観念に取りつかれている林氏だけが言ってきたことなのである。それはまさに林氏自身の〈ドグマ〉でしかなく、誰もそんな〈ドグマを前提に社会主義的生産の条件をも示して〉などいないのである。】

 「再生産表式」は、それを合理的に見るなら、ただ年々の総労働の三分の二が生産手段のために、三分の一が消費手段のために支出されるということを示すにすぎないのだが――もちろんこうしたことが、この「再生産表式」の課題であり、意義であるかどうかということとは別である――、しかしこうした見解を認めること自体が大変であって、重大な、そして牢固として根を張った異論が、異議が持ち出されるのであり、持ち出されてきた――なお悪いことに、とりわけ労働者の闘いの中に――持ち込まれ、押し付けられてきたのである。
 その異議とは、六〇〇〇の生産手段は今年度の労働によって生産され、生み出されたものではなく、「過去の労働」によって、つまり前年までの労働によって生み出されたものであって、「有用的労働」なるものによって「移転されてきた」のだ、といったものである。

 【まず林氏が〈年々の総労働〉という場合、先にみたように、それは9000を意味すると考えているのだが、それはすでに間違っていることは指摘した。それは正しくは3000であり、そうすれば確かにこの場合も、〈三分の二(つまり2000であるが、林氏はそれを6000と考えている)が生産手段のために、三分の一(1000であるが、それを林氏は3000と間違って考えている)が消費手段のために支出される〉というのは正しい。
 しかし何度もいうが、林氏が〈異議〉として紹介しているような主張は、それこそ林氏が勝手に作り上げた〈ドクマ〉でしかないのである。正しくは6000の生産手段の使用価値は確かに〈今年度の労働によって生産され、生み出されたもの〉であるが、しかしそれに対象化されている労働6000は、すべて今年度に支出されて対象化されたものではなく、そのうち4000は今年度の生産過程で生産的に消費された生産手段(生産手段のための生産手段)に、過去に支出されて対象化されていたものでしかなく、今年度に新たに対象化された労働は2000に過ぎないのである。もちろん、この場合も、〈歴史的な価値形態、資本形態を剥ぎ取った〉ものとして論じるなら、対象化された労働時間の移転や保存といったことは問題にはならないであろう。すべての労働が直接社会的に関連づけられているなら、一連の労働はすべて最終生産物の生産に必要な労働として、ただそれらが加算されるだけでよいからである。それはあらゆる生産の社会的形態にも関係のない、だからすべての社会的形態の中に貫いている自然法則だからである。】

 田口は、「過去の労働」なくしては、つまり生産手段なくしては、現在の生産はない、と強調した。しかしそのことと、「価値移転」とはまた自ずから別個のことではないのか。生産手段とは不変資本のことであって、田口は実際には、資本なくして、このブルジョア社会は存在しえないと叫んでいるのと同様なところに帰着しないのか。

 【この文章は(「も」というべきか)無茶苦茶である。まずここでも〈「過去の労働」=生産手段という自身のドクマを前提に論じている混乱が指摘できる。ただもしこの一文を〈「過去の労働」なくしては、……現在の生産はない〉というものとして捉えるなら、それを誰も否定できないであろう。われわれの現代の文明は過去の多くの人たちの労働の成果を引き継いできた結果でもあることは誰も否定できないからである。その意味では〈現在の生産〉も、過去の労働によって支えられていることは間違いない。しかしもちろん、〈そのことと、「価値移転」とはまた自ずから別個のこと〉である。「価値移転」は何度もいうが労働生産物が価値という社会的属性を纏わなければならない社会、商品生産の社会(資本主義社会)に固有のものだからである。しかしということは「価値移転」という経済法則が、社会的な物質代謝を規制している自然法則の、歴史的な形態であることをも意味するわけである。つまり価値移転論を否定する林氏の誤りをも示しているわけだ。生産手段、消費手段というのは、生産物の使用価値にかかわるカテゴリーである。だからそれは如何なる社会形態にも関わりのないものである。確かに資本主義的生産では生産手段は不変資本という形態規定性を受け取るが、だからといってどんな社会でも生産手段が不変資本であるわけではない。田口氏が〈資本なくして、このブルジョア社会は存在しえないと叫ん〉だとするなら(そんな当たり前のことをことさら田口氏が叫んだとは思えないが)、しかしそれはしごく当然のことではないのか。そこにはどんな間違いもない。】

 生産手段――とりわけ固定資本として存在する、大規模な機械等々――なくして現在の社会はあり得ないとしても、現在の社会に富を、生活手段をもたらすのは、現実の労働であって、「過去の労働」でないのは自明のことで、生産手段そのものが自動的に生産手段や生活手段をもたらしたり、生み出したりするのではない。生産手段は生活手段を生み出すためにのみ存在し、発展した人類社会においては不可欠の契機であるとしても、人類はそれ自体を消費するわけではない、というのは、人類は機械を“噛って”生命を維持し、生活するわけではないし、そんなことができないのは誰でも知っていることだからである。

 【ここにも生産手段=過去の労働、生活手段=生きた労働という林氏のいつものドクマがあるが、実はこうしたドクマから、〈生産手段そのものが自動的に生産手段や生活手段をもたらしたり、生み出したりする〉という主張も出てくるのである。なぜなら、生産手段に対象化されている労働はすべて「過去の労働」ということになれば、生産手段を生産する生きた労働(現在の労働)といったものはなく、ただ生産手段はすべて過去の労働がそのまま移転されたものだということになり、だから生産手段はそのまま新しい生産手段を生み出すのだということにならざるをえないからである。林氏は〈現在の社会〉の〈富〉は〈生活手段〉だけだと考えているようだが、しかし生産手段も社会の富であることは明らかである。それらをわれわれは過去の労働の成果として引き継ぎながら、現在の労働にもとづいて再生産しながら、それらを享受しているわけである。林氏は〈消費〉と言えば個人的消費だけしか知らないようだが、われわれは生産手段も立派に生産的に〈消費〉するのである。〈人類は機械を“噛って”生命を維持し、生活するわけではない〉などという下らない“真理”をもっともらしく言っても何の意味もない。】

 そしてまた、生産手段も、つまり生活手段を生産するための機械や原材料も、また年々生産的労働によって再生産されなくてはならないこと、もし再生産されないなら、機械も原材料もたちまち使い古され、耐用期限が切れて腐食し、あるいは破損し、機能不全になってしまうことほどに明瞭なことがあるであろうか。

 【これも一体、誰の批判として主張しているつもりなのか知らないが、当たり前のことをことさらいうことに何の意味があるのか。】

 田口は「過去の労働」なくして、現在の我々の生活も生存もないと強調するが、実際には、現在の労働なくして、現在の我々の生活の再生産も我々の生命の存続もないのであって、「過去の労働」なるものが、生産手段等々が自動的に、それをもたらしてくれるわけではない。

 【これも馬鹿げた話しであるが、林氏は「過去の労働」が、過去には「現在の労働(生きた労働」だったということを知らないのであろうか。過去の労働が、そのときには生きた労働だったからこそ、その労働が生産手段も生活手段をも生み出したのである。こんな当たり前のことも分からないか。それに生産的労働の結果としての生産物からみれば、それを生み出した労働はすべて過去の労働である。】

 そしてこのブルジョア社会では、「過去の労働」が資本として、不変資本として存在する限り、田口は資本なくして、労働者の、人類の生存も生活もないと叫んでいるのと同じではないのか。これはまさに資本に対する「物神崇拝」であり、資本を神として祭り上げることではないのか、資本への崇拝と、したがってまた永遠の屈従を説くことと同じではないのか。現実の生産的労働者とその労働を軽視し、他方では「死んだ労働」つまり資本を持ち上げるとは、何と破廉恥なことであろうか。

 【なんという馬鹿げた世迷いごとであろうか。林氏は、このブルジョア社会では「過去の労働」が資本として、不変資本として存在するから、過去の労働の必要を主張する田口氏は資本に対する「物神崇拝」者だという。しかし、それをいうなら、「現在の労働」もやはり資本として、すなわち可変資本として存在しているのだから、「現在の労働」を強調する林氏も、やはり資本に対する「物神崇拝者」でなくてなんであろうか。そもそも「過去の労働」であるか、「現在の労働」(生きた労働)であるか、ということはその社会的な生産諸形態とはまったく関係のない問題である。すでに述べたように、それは物質的な生産過程に共通する一般的な条件であり、性格である。例えばすでに述べたように、ロビンソンの労働の場合も、木を切る伐採労働は、その木を加工して材木を作る製材労働にとっては「過去の労働」であり、それに対して製材労働は「生きた労働」なのである。こんな子供でも分かることが林氏にはどうやら分かっていないのである。何ともアホらしい幼稚なマルクス主義者があったものである。例えばマルクスは次のように述べている。

 〈第一の割合は、技術的な基礎にもとづくものであって、生産力の一定の発展段階の上では与えられたものとみなしてよいのである。一定量の生産物をたとえば一日に生産するためには、したがって――そのなかに含まれていることではあるが――一定量の生産手段すなわち機械や原料などを動かして生産的に消費するためには、一定数の労働者で表わされる一定量の労働力が必要である。一定量の生産手段には一定数の労働者が対応し、したがって、すでに生産手段に対象化されている一定量の労働には一定量の生きている労働が対応する。この割合は、生産部面が違えば、またときには同じ産業のなかでも部門が違えば、非常に違っている。といっても、偶然的には、非常に遠く離れた産業部門のあいだでも全然同じだったりほとんど同じだったりすることもありうるのであるが。
 この割合は、資本の技術的構成をなしていて、資本の有機的構成の本来の基礎である。〉(『資本論』全集25b185頁)

 つまりここではマルクスは、資本の有機的構成の物質的基礎である技術的構成について述べている。有機的構成は不変資本と可変資本の価値の割合であり、それは資本主義的な形態規定の問題である。しかし、技術的構成は、価値ではなく、生産手段に対象化された過去の労働に対する生きている労働の割合なのである。こうした物質的な条件は、その生産の社会的形態の基礎にあるものだとマルクスは語っている。だからそれはその限りでは社会形態によって変化するものではあるが、それ自体は独立した契機なのである。
 対象化された過去の労働と生きている現在の労働との区別が出来ない林氏は、だから資本の有機的構成の説明も出来ないことになるわけである。だからまた林氏は、〈利潤率の進行的低下の法則、すなわち、生きている労働によって動かされる対象化された労働の量に比べて取得される剰余労働が相対的に減少して行くという法則〉(25b272頁)をも否定することになっているわけである。
 少々長くなるかも知れないが、これに関連するものをマルクスから引用しておこう。林氏にとってはマルクスがどのように論じているかはどうでもよいことだが、しかし、少なくとも同志会の会員なら、マルクスのいうことに耳を傾け、そして自分でそのマルクスの主張をもう一度確認するぐらいの努力は払うだろうからである。

 〈商品の価値は、その商品にはいって行く過去の労働時間も生きている労働の時間も含めての総労働時間によって規定されている。労働の生産性が高くなるということは、生きている労働の割合が減って過去の労働の割合がふえるということ、といってもその結果は商品に含まれている労働の総量が減ることになるということ、つまり過去の労働がふえる以上に生きている労働が減るということにほかならない。商品の価値に具体化されている過去の労働――不変資本部分――は、一部分は固定資本の損耗分から、一部分は全体としてその商品のなかにはいった流動不変資本――原料と補助材料――から成っている。原料や補助材料から生ずる価値部分は、労働の生産性〔の増大〕につれて減少せざるをえない。なぜならば、この生産性は、このような素材に関しては、まさにそれらの価値が下がっているということに現われるのだからである。これに反して、不変資本の固定部分に非常に大きな増加が生じ、したがってまたその価値のうち損耗によって商品に移される部分もまた非常に増大するということこそは、まさに労働の生産力の増大の特徴なのである。ところで、ある新しい生産方法が現実に生産性を高くするものだという実を示すためには、その生産方法が固定資本の損耗分として個々の商品に移す追加価値部分が、生きている労働の減少によって節約される控除価値部分よりも小さくなければならない。一言でいえば、この生産方法は商品の価値を減らさなければならない。たとえ、個々の場合に見られるように、固定資本の追加損耗部分のほかに、より多量またはより高価な原料や補助材料のための追加価値部分が商品の価値形成にはいるとしても、もちろんこの生産方法は商品の価値を減らさなければならない。生きている労働の減少から生ずる価値減少がすべての価値追加を埋め合わせる以上のものでなければならない。
 だから、商品にはいる総労働量がこのように減少するということは、どんな社会的諸条件のもとで生産が行なわれるかにかかわりなく、労働の生産力の増大の本質的な標識であるように見える。生産者たちが自分たちの生産を予定の計画にしたがって規定する社会では、それどころか単純な商品生産にあってさえも、労働の生産性はやはり無条件的にこの尺度で計られるであろう。〉(25b326-7頁)

 ここでマルクスは商品に入っていく過去の労働時間と生きている労働時間を合わせた総労働時間が減少するということは、どんな社会的条件のもとで生産が行われるかに関わりなく、だから生産者たちが自分たちの生産を予定の計画にしたがって規定する社会--すなわち将来の社会主義社会--でも、労働の生産性はやはり無条件にこの尺度で計られるだろうと述べていることに注意が必要である。つまりマルクスは過去の労働時間と生きている労働時間という区別は将来の社会主義社会でも、労働の生産性を計る尺度として重要であることを指摘しているのである。「過去の労働」といったものが社会主義では無意味になるかに論じている林氏(というより資本主義でも無意味と主張しているのだが)が、社会主義の概念など語る資格もないことは明らかであろう。

 〈過去の労働の生産物、過去の労働そのものが、ここではそれ自体として現在または未来の生きている剰余労働の一片をはらんでいるのである。ところが、だれでも知っているように、じつは過去の労働の生産物の価値の維持は、そしてそのかぎりではまたこの価値の再生産も、ただ、それらの生産物と生きている労働との接触の結果でしかないのであり、また第二に、過去の労働の生産物が生きている剰余労働に命令するということが続くのは、まさにただ、資本関係、すなわち、過去の労働が生きている労働にたいして独立に優勢に相対しているという一定の社会的関係が存続するあいだだけのことなのである。〉(25b501頁)

 〈ある炭坑が、ある製鉄所に石炭を供給して、この製鉄所から、生産手段として炭坑経営にはいる鉄を受け取るとすれば、石炭はこの鉄の価値額だけ資本と交換され、そして相互的に鉄がそれ自身の価値額だけ資本として石炭と交換されるのである。どちらも、(使用価値から見れば)新しい労働の生産物である、といってもこの労働が現存の労働手段をもって生産したものではあるが。だが、年々の労働の生産物の価値は、年々の〔新たにつけ加えられる〕労働の生産物ではない。それは、むしろ、生産手段に対象化されていた過去の労働の価値を補填するのである。したがって、総生産物のうち、この価値に等しい部分は、年々の労働の生産物の一部分ではなくて、過去の労働の再生産なのである。〉(『学説史』26 I 210頁)

 〈年々の総生産物の交換価値には、生きている労働すなわち今年中に充用された生きている労働がはいってくるだけではなく、過去の労働すなわち過ぎ去った年の労働の生産物もまたはいってくる。生きている形態での労働だけでなく、対象化された形態での労働も。〉(同上300頁)

 〈経済学者たちは過去の労働を資本と同一視するので--過去の労働というのはここでは生産物に実現されている具体的な労働の意味でのそれであるとともに社会的労働、物質化された労働時間の意味でのそれでもある--、資本をたたえる詩人としての彼らにあっては、生産の対象的な要素の重要性を主張し、主体的な要素、すなわち生きている直接的な労働に比べて対象的な要素の意義を過大評価するということは、自明なのである。労働は、彼らにとっては、それが資本になり、自分自身に相対し、労働の受動形がその能動形に相対するとき、はじめて十分な労働になる。したがって、生産物は生産者に対して規定的であり、対象は主体にたいして、実現された労働は実現されつつある労働にたいして、規定的である。すべてのこれらの把握では、過去の労働は、それに包摂される生きている労働の単に対象的な契機としては現われず、むしろ逆である。それは、生きている労働の力の要素としては現われず、この労働を支配する力として現われる。労働と労働条件との関係が転倒されていて、労働者が諸条件を充用するのではなく、諸条件が労働者を充用するという、この独自な社会約形態、すなわち資本主義的形態を、技術的にも正当化するために、経済学者たちは労働の対象的な契機に労働そのものに比して不当な重要性を与えている。そして、それだからこそ、ホジスキンは、逆に、この対象的な契機--つまりいっさいの実現された富--は生きている生産過程に比べればまったく重要性のない、じっさいただ生産過程の契機として価値があるだけで、それだけとしては価値のないものである、ということを主張するのである。そこで、彼の場合には、労働の過去形がその現在形にたいしてもっている価値をいくらか過小評価していることになる--といっても、これは経済学的な呪物崇拝にたいしては当然なのであるが。もし資本主義的生産において--したがってまたその理論的表現としての経済学において--過去の労働がただ労働そのものによってつくりだされた土台などとしてのみ現われるとすれば、このような論争問題は存在しえないであろう。このような問題が存在するのは、ただ、資本主義的生産の現実においてもその理論においても、実現された労働が自分自身すなわち生きている労働にたいする対立物として現われるからにほかならない。それは、宗教的にとらわれた思考過程において思考の産物が思考そのものにたいする支配権を単に要求するだけでなく、それを行使するのと、まったく同様である。〉(『学説史』26III360-1頁)

 〈資本の諸成分の変動について重要なことは、相対的により多くの労働者が直接的生活手段の生産よりも原料や機械の生産のほうに従事しているということではない。これはただ分業でしかない。そうではなくて、重要なのは、生産物が過去の労働を補填しなければならない(すなわち不変資本を補填しなければならない)割合と、それが生きている労働に支払わなければならない割合とである。資本主義的生産の規模が大きくなればなるほど--つまり蓄積される資本が大きくなればなるほど--、生産物の価値のますます大きな分けまえを機械や原料が占め、機械や原料の生産に充用される資本はこの分けまえに帰する。だから、生産物のますます大きな部分が、現物のままでか、または不変資本の生産者たちが互いにその諸部分を交換することによって、再び生産に供されなければならない。生産物のうち生産に属する部分の割合はますます大きくなり、生きている新たにつけ加えられる労働を代表する部分は相対的にますます小さくなる。もちろん、諸商品、諸使用価値で表わされれば、この部分は増大する。なぜなら、前述の事実は労働の生産性の増大と同義だからである。だが、この部分のうち労働者のものになる部分はなお相対的にますます減少する。そして、この同じ過程は労働人口の不断の相対的過剰を生み出すのである。〉(『学説史』26III-473-4頁)

 「過去の労働」と「生きている労働」との区別がマルクスにとってどれほど重要な意味を持っているかが、これまでの引用をつぶさに検討すれば、分かるであろう。マルクスから謙虚に学ぶ姿勢を打ち捨て、傲慢な独りよがりに陥っている林氏には、いつまで経っても分からないであろうが、少なくともマルクス主義を標榜する同志会の会員であるなら、マルクスから謙虚に且つ真摯に学ぶ姿勢までも失いたくないものである。】

 (以下、続く。次回は後半部分を紹介)

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