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2016年3月23日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-17)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回、解読する【29】パラグラフは、解読本文でも明らかにしているように、マルクスが「II」と草稿で番号を記した部分(現行版の第29章該当部分)の、ある意味では「まとめ」と考えられる。しかし、MEGA編集部においても、それを翻訳紹介している大谷氏も、その点について何の言及もしていない。しかし第29章該当個所(マルクスが「II」と番号を打った部分)の本文は、基本的にこのパラグラフで終わっていると考えられる。)



【29】

 〈利子生み資本および信用制度〔Creditwesen〕の発展につれて,同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが,さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える。この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである。たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,彼らによって貸し出されたのちにも彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである。|〉

 さてこのパラグラフは草稿の338頁上段の最後に位置する(「|」がそれを示している)。そして次の【30】パラグラフから草稿の339頁が始まるのであるが、この339頁には上下の区別が記載されていない。この点について大谷氏は何の注記もしていないが、これまでの大谷氏の説明によれば、こうした場合は、マルクスは339頁を上下の折り跡を無視して上から下までびっしり書いていることを意味している()。そしてその場合は、それは本文でも注でもなくて(注の場合は頁の下段に書かれる)、今対象にしている問題に関連する資料を収集して一定の考察を加えたノートと考えてよいであろう(しかし以前にも指摘したが、エンゲルスはこうしたマルクスのノートの取り方を理解せずに編集原稿を作成したために、こうしたものもすべて本文に加えてしまっているわけである。ただ、エンゲルスの場合は、途中から秘書を雇って口述筆記で編集原稿を作成せざるを得なかったこともあり、やむを得ない面もある。ところがどうしたことか、MEGA第II部第4巻第2分冊の場合も何の区別もなしに【30】パラグラフ以下も本文として取り扱っているのである(MEGA同巻526頁)。しかも、この点について大谷氏も、他のところではMEGAの編集の誤りについてはその都度指摘しているのに、今回の場合には何の疑問も提起していない。つまり大谷氏もあるいは【30】パラグラフ以下が本文ではないということを見落としているのかも知れないのである)。

 いずれにせよ、マルクスのノートの取り方を考慮すれば、この【29】パラグラフは、「II」(エンゲルスが「銀行資本の構成部分」と表題をつけた部分)の本文としては最後のものであると理解しなければならない。つまりマルクスは「II」の本文をこのパラグラフでもって締めくくっているのである。
 しかしもちろん、マルクスは引き続いて、このパラグラフに関連すると思われる抜き書きやそれに対する一定のコメントを書きつけており、だからその限りでは、さらに本文を書き続ける予定ではなかったとは断言はできないわけである。しかし、いずれにせよ、草稿としては、マルクス自身が本文と意図して書いたものは、ここまでであることをわれわれは確認しておこう。

 (*)この339頁が上下無区別に上から下までびっしり書かれているということは、例えば、337頁上段や338頁上段の行数(但し大谷氏の翻訳文の行数であるが)を数えると、それぞれ337頁上段=77行、338頁上段=75行であるのに対して、339頁=123行となっていることを見ても明らかと思える。

 さて、本文の解読に取りかかろう。
 マルクスは〈利子生み資本および信用制度の発展つれて〉と述べている。以前にも(【13】パラグラフ)、〈利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって、例えば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と述べていたが、架空な貨幣資本が何倍にも膨れ上がって見えるというのも、やはり利子生み資本と信用制度の発展がもたらす〈狂った形態〉の一つであろう。2008年の世界的な金融恐慌でも暴露されたが、今日の金融資産とその取り引き額は、現実資本の取り引き額(貿易額等)の何倍にも膨れ上がっているが、こうした金融バブルの現象を理論的に説明するためにも、われわれは利子生み資本の概念をしっかり理解し、その運動諸形態についてのマルクスの理論から真剣に学ぶ必要があるわけである。(*)

 (*)知人が送ってくれたサププライムローン問題のレジュメの一部を紹介させて頂くと、次のような事実が紹介されている。
 〈債券市場を支える、貸付可能な貨幣資本はどんな規模なのか推定するほか無いが、世界の株式時価総額・債券発行残高・預金を合計した推計07年10月に約187兆ドルのピークだったようで、同じころの世界のGDP合計の3.45倍だ。'90年からのGDP増加率約2.4倍と比較すると、貨幣資本の増加は4.6倍。〉

 マルクスは〈同一の資本が,または同一の債権にすぎないものでさえもが〉と述べているが、ここで〈同一の資本〉というのは、「同一の貨幣資本」という意味であろう。そして〈同一の債権〉というのは、例えば国債や株式など利子生み証券の類と考えてよいであろう。つまり貨幣資本(moneyed Capital)がそうした債権に投下されたものと考えることが出来る。そうしたものが〈さまざまな手のなかで,さまざまな仕方でさまざまな形態をとって現われることによって,すべての資本2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉というわけである。ここで注意が必要なのは、マルクスは〈見え〉とか〈見える〉と言っているのであって、決して「すべての資本が「2倍になる」とか「3倍になる」と言っているわけではないということである。つまりそれらはすべて「見えている」だけであって、だから外観に過ぎないのだというのがマルクスの理解ではないかと思う。まだここではどうしてそれらが〈2倍になるように見え,またところによっては3倍になるように見える〉かについては何も述べていない。【30】パラグラフ以下では少しそうした問題も論じられているように思えるが、しかしマルクスとしては「III」と番号を記したところで本格的に論じるつもりだったからではないかと思える。つまり貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積との関連を論じる予定だったところでである(しかし実際はマルクスは「III」の中では架空な貨幣資本については捨象して、「貸付可能な貨幣資本」に問題を限定して論じているのではあるが)。

 次に〈この「貨幣資本」の大部分は純粋に架空なものである〉とあるが、ここで貨幣資本が鍵括弧に入っており、しかもこれまでの貨幣資本には必ず(moneyed Capital)という英文が添えられていたのに、それが無い。ということは、この原文は「Geldcapital」ということである(そして実際MEGAを見ると「“Geldcapital”」となっている)。ではこの場合のGeldcapitalは、『資本論』第2部で出てくる生産資本や商品資本と区別される資本の循環過程における一形態である貨幣資本(Geldcapital)を意味するのか、というとそうではないのである(*)。この点については、大谷氏の詳細な検討があるので、少しその概要を紹介しておこう。

 大谷氏は《「貨幣資本と現実資本」(『資本論』第3部第30-32章)の草稿について》(『経済志林』第64巻第4号)の最初の考察部分のなかで、「若干の基本的なタームについて」論じているが、そのなかで「(3)貨幣資本(moneyed Capital)と貨幣資本(Geldcapital」と題して、この問題を論じている(同74頁以下参照)。その詳細については、各自直接同論文を検討されることをお願いするが、その概要は次のようなものである。
 大谷氏が〈マルクスの草稿では,信用制度下の利子生み資本としての貨幣資本には圧倒的にmonied capitalという英語表現のタームが使われ,それにたいして資本の循環形態としての貨幣資本にはほとんどGeldcapitalというドイツ語のタームが使われている〉と説明していることについて、川浪洋一氏は異論を唱え、〈彼(マルクス--引用者)は,利子生み資本あるいは貸付可能な貨幣資本の意味では,概ねmoneyed capitalという用語を使っている。それに対し,貨幣的財産の意味ではGeldkapitalという用語を使っている〉(『貨幣資本と現実資本』,有斐閣,1995年,91-92ページ)と主張したのである。それに対して、大谷氏は次のような見解を対置している。

 〈一般に,貨幣形態にあるために,あるいは貨幣として見られるために「貨幣資本」と呼ばれるものには,概念的にはっきりと区別されなければならないさまぎまのものがあり,しばしばそれらが混同され,同一視される。マルクスはそれらのなかから,まず『資本論』第2部で,資本がその循環のなかでとる形態である「貨幣資本〔Geldcapital〕」を概念的に把握した。さらに,第3部第4章で,貨幣形態で「貨幣取扱資本」のもとに滞留し,遊休している,産業資本や商業資本の準備ファンド, したがってそれらにとっての遊休貨幣資本を概念的に把握した。そして,第5章の「1)」-「4)」で利子生み資本という独自の資本形態を概念的に把握し, 「5)」では,まず信用制度下の利子生み資本の独自の姿態を「貨幣資本〔monied capital〕」と呼んだ。そのなかの「II)」では,利子生み資本の成立を前提として資本化された「蓄積された,労働にたいする所有の請求権」である「架空の貨幣資本」が概念的に把握された。そして最後に,「III)」では,この「架空の貨幣資本」とはとりあえず区別される「貸付可能な貨幣資本」が分析の中心的な対象に据えられているのである。これらのものすべてが,最広義では「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのであり,マルクスはこの言葉で, あるときは「生産的資本」および「商品資本」から区別される,循環中の貨幣形態にある資本を指し,あるときは貨幣資本〔moniedcapital〕を指し、あるときは「貨幣財産としての貨幣資本」を指しているのである〉(同79頁)

 だから要するに「貨幣資本〔Geldcapital〕」という場合には、第2部で問題になる資本の循環形態としての貨幣資本だけではなくて、さまざまな意味合いがあるということである。ここで問題になっている鍵括弧付きの「貨幣資本」はどういう意味合いを持っていると理解すればよいのであろうか。大谷氏の説明によれば、それはmoneyed Capitalを含んだ貨幣財産と理解するのがとりあえず妥当なところではないかと思える。その〈大部分は純粋に架空なもの〉だというわけである。ここでマルクスが「大部分は」と述べているのは、大谷氏も指摘しているように、中には架空でないものも含まれるという含意であろう。実際に産業資本に貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)そのものは必ずしも架空ではない場合もありうるであろうからである。

 (*)実はこうした貨幣資本(Geldcapital)は、これ以外にも、これまでわれわれが検討してきたところでも見られたのであったが、われわれはそれを見過ごしてきたわけなのである。川浪氏が例として上げているものであるが、例えば【19】パラグラフの次の一文-- 

 〈この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉 

 ここに出てくる〈この名目的な貨幣資本〉の原文は〈dieses nominellen Geldcapitals〉である。
 さらには【22】パラグラフの次の一文--
 

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉 

 ここに出てくる〈貨幣資本蓄積〉も原文は〈Accumulation des Geldcapitals〉である。
 さらに【27】パラグラフの次の一文--
 

 〈この場合次のことを忘れてはならない。すなわち,銀行業者の金庫のなかにあるこれらの証券が表わしている資本の貨幣価値は,その証券が確実な収益にたいする支払指図(公的有価証券の場合のように)であるか,または現実の資本にたいする所有権原(株式の場合のように)であるかぎりでさえも,まったく架空なものであって,それはこれらの証券が表わしている現実の資本の価値からは離れて調整されるということ,あるいは,これらの証券がたんなる収益請求権である(そして資本ではない)場合には,同一の収益にたいする請求権が,たえず変動する架空な貨幣資本で表現されるのだ,ということである。〉 

 ここに最後に出てくる〈架空な貨幣資本〉も原文は〈fiktivem Geldcapital〉である。
 そしてもう一つは、今、われわれが問題にしているパラグラフの「貨幣資本」(“Geldcapital”)なのである。これらは一応、とりあえず大谷説にもとづくなら、すべて最広義の意味での、つまり何らかの貨幣形態をとった資本という意味での貨幣資本と理解するのが妥当なのであろう。

 次にマルクスは、その例えとして預金を上げている。その部分を考察するために、もう一度、その後半部分を書き出しておこう。

 〈たとえば,預金のすべてが(準備ファンドを除いて),銀行業者への貸し勘定にほかならないが,保管物のかたちではけっして存在しない。預金は,それが銀行業者たちにとって振替取引に役立つかぎり,彼らによって貸し出されたのちにも彼らにとって資本として機能する。彼らは,これらの貸し勘定の差引計算によって,存在しない預金にたいする相互の支払指図を支払い合うのである

 これは利子生み資本がさまさまな資本家や銀行などを通して、同じ貨幣資本が2倍にも3倍にも見えるようになるが、それらのほとんどは架空な貨幣資本だと述べたあと、それを受けて〈たとえば〉となっているので、〈預金のすべてが(準備ファンドを除いて)〉が、そうした架空な貨幣資本なのだということてある。というのは預金は準備ファンドを除けばすべて直ぐに銀行から貸し出されて、銀行には保管物という形では存在しないからである。にも関わらず、それらは依然として、銀行にとっては資本として機能するのであり、だから貨幣資本として存在しているように見えるわけだから、預金は、架空なものとしてただ帳簿上だけで存在するものと、銀行から貸し出されて再生産資本家たちの手にあるものと両方存在するかのように見えるわけだから、少なくもこの段階で2倍に見えるわけである。銀行のただ帳簿上存在するに過ぎない預金も銀行にとっては立派に資本として機能するのは、彼らはこれらの帳簿上の預金の振り替えによって、互いに自行に対する支払指図を交換することによって、支払ったことにする(相殺する)わけだからである。だからただ帳簿上にしかない預金でも、しかし預金者は自分の預金に対して小切手を切って、自らの支払を決済したのだから、それは彼にとってはそれは依然として銀行に保管物として存在しているかのように現象するわけである。
 なぜ、こうした支払がただ帳簿上の記録にすぎないものの機能によって決済可能なのであろうか。それは支払手段としての貨幣の機能の一つに相殺があるからである。さまざまな債務の連鎖が最終的に差し引きゼロになれば、それは債務証書の交換だけで最終的に決済が済んでしまう。そして債務の連鎖は、銀行がそこに介在することによって集中されることになり、より容易に相殺が可能になるからである。さまざまな債務が銀行の債務に変換され、銀行間の債務の相殺によって、すべての債務が決済されてしまうことになる。現在では、銀行間の債権・債務も中央銀行の当座預金の振り替えによって最終決済されるようになっており、債権・債務の決済にはほとんど現金が不要になっている。現在の決済システムがどうなっているのか、『日本銀行の機能と業務(2011年版)』から紹介しておこう(67頁から)。

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 (以下、続く)

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