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2016年2月

2016年2月24日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-14)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回は第【8】パラグラフで、〈銀行資本〔Bankcapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。有価証券は,さらに二つの部分に分けることができる。〔一つは〕商業的有価証券(手形)であって,これは流動的なもの〔floating〕で,本来の業務はこれの割引のかたちでなされる。〔もう一つは〕その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式〔)〕,要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの《(場合によってはまた不動産抵当証券〔mortgages〕も)》である〉と分類されていたうちの、〈商業的有価証券(手形)〉の考察が始まる。因みに、マルクスはここで分類された銀行資本の構成部分を、考察順序としては上記に揚げた順序とは逆に行っているのである。)

【23】

 〈さて,銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である。〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている。貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに[525]満期までの残存期間の利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのである。a)/〉

 ここで〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉というのは、われわれが以前(29-5)、第【8】パラグラフに関連して考察したもの(ここを参照)の分類からするとどれに該当するのであろうか。ここではこの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分〉が、これまで考察してきた〈いわゆる利子生み証券〉に投下され、さらにその〈最大の部分〉は、手形からなっているということだから、それは図示すると、次のようになる。

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  これに現金(金または銀行券)を加えるなら、それは【8】パラグラフでわれわれが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉について、次のような説明を加えていたものと同じと考えるべきであろう(【8】パラグラフの考察で紹介している図を参照)。

 「“銀行業者がその営業をするための資本”というような意味と考えられる。つまり銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するものが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉ということができる」

 だから〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉も同じような意味として捉えるべきであろう。

 だからこのパラグラフは次のように解釈できる。

 銀行業者が営業をするための資本の一部分はこれまで考察してきた国債や株式などの〈いわゆる利子生み証券に投下されている〉。〈この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉。

 銀行業者の〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本に利子生み資本を貸し付けて、利子を得ることであるが、しかしとりあえずそうした貸し付け先のない貨幣資本〔moneyed Capital〕は、差し当たりは利子生み証券に投下されているわけである。これらが準備資本をなすのは、必要とあれば、すぐに売却して貸し付け可能な貨幣資本に転換可能だからである。本来の業務である産業資本や商業資本への貸し付けは、それらの資本の循環を待って初めて返済を受けることができるのであるが、有価証券への投資は、その点、必要とあらばいつでもそれを売却すれば、いつでも返済可能な形態にあり、だからそれらに投下されているものは準備資本と考えることができるわけである。

 ところで大谷氏は〈〔銀行業者資本の〕最大の部分〉に注3)を付けて、次のように説明している。

 〈3)「銀行業者資本の最大の部分」--d.bedeutendste Theilというこの語は,先行する「銀行業者資本の一部分」と区別される,「銀行業者資本」の「最大の部分」と読まれなければならない。長谷部訳でも岡崎訳でも,この語は「その最大〔の〕部分」と訳されているが,その場合には,直前の「この証券そのもの〔es… dies〕」の「最大の部分」ないし「現実の銀行業者業務では機能していない準備資本」の「最大の部分」と読まれざるをえない。不適訳であろう。したがってまた,同じ読み方をしていた筆者の旧稿での記述(「信用と架空資本」の草稿について(上)」,『経済志林』第51巻第2号,1983年,65ページ)も訂正されなければならない。

 つまり長谷部訳や岡崎訳では、このいわゆる利子生み証券に投下された銀行業者資本の最大の部分となり、これでは文章としては成り立たない。というのは「このいわゆる利子生み証券」というのは、それまで考察してきた国債や株式を指すのであり、その最大の部分が手形から成っているというのでは意味が通じないからである。因みにこの「不敵訳」は新日本新書版でも同上製版でも改まっていない。ところで大谷氏がここで訂正している「信用と架空資本」の草稿について(上)」では、わざわざ次のように訳している。

 〈 「さて,銀行業者資本の一部分はこのいわゆる利子付証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業務では機能していない準備資本の一部分である。〔この準備資本の--引用者〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家や商人の支払約束から成っている。」(Ms.I,S. 338; MEW,Bd . 23,S. 487.) 〉(ここで「引用者」とあるのは引用している大谷氏自身のことである)。

 まだ長谷部訳などの場合は、その前後の文脈を正確に読み取るなら、「その最大の部分」の「その」が何を指しているのかを正しく理解することも可能なのであるが、大谷氏のように、わざわざ訳者自身が間違った挿入文を入れてしまうと、どうしようもないといわざるを得ない。この場合は明らかに「不適訳」であることは間違いない。

 だからこの部分は、次のように解釈できる。

 銀行業者が営業をするための資本の最大の部分は、手形、すなわち生産的資本家または商人の支払約束からなっている、と。

 つまり〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本への利子生み資本の貸し付けであると先に述べたが、その貸し付けの形態はさまざまなのであるが(エンゲルスはそれを1)無担保貸し付け、2)担保貸し付け、3)手形割引に分けている)、その最大の部分は手形割引で貸し付けられるということであろう。第28章では、エンゲルスは彼の挿入文のなかで、手形割引を、「まったく普通の売買である」と説明して、それが利子生み資本の貸し付けの一形態であることを見誤っていたが、手形割引は確かに直接的には銀行が業者が持参した手形を「買う」という外観をとるのであるが、しかし、あくまでもそれは利子生み資本の貸し付けの一形態なのである。

 ところで、この部分にも大谷氏は注5)を付けて、次のように説明している。

 〈5) 〔手稿異文〕ここに,次のように書いたのち,消している。--「手形は,それらの名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点で,上で考察した有価証券とは区別される。手形は,満期になると今度は,振り出されたときの貨幣額よりも大きい貨幣額に転化する。」〉

 この一文をマルクスは最終的には消したのであるが、その内容をみると、興味深いことが分かる。というのは、ここではマルクスは、手形は、〈上で考察した有価証券〉、すなわち国債や株式のような〈いわゆる利子生み証券〉とは区別されるとしているからである。そしてその区別の根拠を〈名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点〉だとしている。ところが本文をみると、〈貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である〉とまったく逆の規定を与えているかに思えるからである。
 実は、この問題については、すでにわれわれは、【8】パラグラフの考察のなかで、次のように指摘しておいた。

 【ここでマルクスは、有価証券を、商業的有価証券(手形)とその他の有価証券に分けて、後者の説明として〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの……である〉と述べている。これを読む限りでは、手形は「利子生み証券」に入らないように思えるのであるが、後に見るように、割り引かれた手形については、銀行から見れば、それは利子生み証券だとマルクスは述べている(【23】参照)。この点、やや疑問が残るが、それはそれが問題になるパラグラフ(【23】)で検討することにして、ここではとりあえずは、手形は利子生み証券には含まれないものとして理解しておくことにしよう。】

 だからわれわれはこの問題を考えなければならない。ししかしこの問題については、すでに以前、国債や株式について考察したところで回答は出ているのである。【17】パラグラフで、株式について、〈株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と述べていた。ここで〈AまたはBは自分の権原を資本に転化させた〉のであるが、しかし〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉と述べられていた。この一文について、レジュメでは次のように説明した。

 【株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式が結合資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念される。にも関わらず、客観的には配当であるという事柄は何も変わらないと言いたいのである。〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本〔moneyed Capital〕、すなわち利子生み資本に転化させたということであろう。というのは、株式を購入することは、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかし株式に前貸された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持した権原である株式を転売した時点で、彼らが前貸した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。】

 だからこの場合も、手形そのものは、マルクスが【8】パラグラフで述べていたように、他の利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかしその手形を銀行業者が割り引いて、銀行業者が保持しているならば、それは銀行業者資本の投下対象となったのであり、だからそれは銀行業者の立場からみれば、すなわち銀行業者の私的な立場からみれば、それは彼の利子生み資本を投下したものだから、その限りでは利子生み証券なのだとマルクスは述べているわけなのである(だからそれは利子生み資本の循環としては、一定期間後には利子を伴って還流してくることが期待されているのであるが、ただ手形割引の場合は、その利子分を先取りしているわけである)。だからこの場合も手形が手形であるということには何の変りもないのである。すなわち,それはそれを振り出した業者が一定期間後には額面の貨幣額を支払うという約束証書であるという〈事柄の性質を少しも変えるものではない〉わけである。そしてこの手形の客観的な性質においては、手形は株式や国債などの利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかし銀行業者の私的な立場からみれば、銀行業者に利子をもたらすものであり(銀行はそれを先取りするのだが)、よってそれは利子生み証券なのだということなのである。
 だから銀行業者はそれを買う(割引く)ときに、満期までの残存期間の利子を差し引くわけである(これが手形「割引」と言われる所以である)。だから手形の表している金額(すなわち額面金額)からどれだけ差し引かれるかは、そのときどきの利子率と満期までの残存期間によって定まるわけである。

【24】 

 〈【原注】|338下| a)手形は,「割引かれる財貨,すなわち随時に貨幣に転換される機会をもった財貨」になるのであって,「このような,為替手形〔bill〕または約束手形〔note〕 の額面からの割引あるいは控除は,手形の経過すべき期間についての額面にたいする利子に等しいものであって,〔貨幣への〕転換の価格として支払われるのである。」(ソーントン(H.)『大ブリテンの紙幣信用の性質と効果とについての研究』,ロンドン, 1802年,26ページ。)/〉

 これは〈手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに満期までの残存期間の利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まる〉という部分につけられた原注a)である。ここで引用されているソーントンの著書は邦訳されている。マルクスが引用している部分を邦訳から前後を含めて紹介しておこう(ただし旧仮名遣いを改めてある。下線部分はマルクスが引用していると思われる部分)。

 〈これまでのところでは、為替手形や約束手形はもともとその振り出しを必要としたと思われる単純な目的のためにのみ作成されると考えてきた、また、そのことは常に手形の振り出される形式によっても表明されているのである。ところで、今度は、両種の手形ともさらにもう一つの特質、すなわち、割り引かれる物(アーチクル)、もしくは随時に貨幣に転換される便宜を備えた物(アーチクル)としての性質を持っていることを述べねばならない。この場合、為替または約束手形の額面からの割り引きあるいは控除は、手形の経過すべき期間についての額面に対する利子に等しいものであって、貨幣への転換の代価として支払われるのである。ニューヨークからロンドン宛に振り出され且つ債務の移転に役立つものであるというように、前のところで述べた為替手形も、その支払われる期日如何にかかわらず、同じように上述の目的に適うであろう。〉(邦訳52頁、『ソーントン・紙券信用論』渡辺佐平・杉本俊明 訳、実業之日本社 s.23.2.20発行)

 (以下、続く)

林理論批判(37)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.14)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(3)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第3回目、前回中断した項目〈◆2、社会主義の“概念”〉の途中から始まる。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

(◆2、社会主義の“概念”)の途中から

 自動車生産の労働者の年間労働日を200労働日とすると、年間労働日の枠内で形式的には自動車を手にすることができるが、実質的には無理である、というのは、この労働者は年間に150労働日で、他の生活手段――「衣食住」に代表されるような、あるいはその他諸々の生活に便宜や楽しみを与えるような生活手段――も必要とするからであり、それ結果、自動車のために割くことができる労働日は50日しかないからである。かくして彼は三年の「年賦」等々で自動車を手にすることができるにすぎない。

 【ここで林氏は将来の社会主義でも〈三年の「年賦」〉なるものがあると想定している(もっとも断っておくが、林氏は一つも社会主義社会を想定するとは述べていないのであり、ただ〈社会主義の「分配方式」……は、ただ次のような法則もしくは原則に従って行われる〉として論を展開しているだけである)。そもそも年賦というのは、なんであろうか。辞書を引いてみよう。

 〈1.ねん‐ぷ【年賦】-日本国語大辞典
〔名〕負債額または納税額などを毎年一定額ずつ分割して支払っていくこと。また、その弁済方法。年払い。年歩。年分(ねんぶん)。年割。*浮世草子・西鶴織留〔1694〕二・一「一万八千貫目の借銀、十年切りの年 ...〉

 つまりこれは自動車ローンと同じである。将来の社会主義の労働者は、自動車を信用で購入し(これはわざと間違った表現を使ったのである。本来なら「入手し」とすべき)、それを3年払いの分割方式で支払っていくと林氏は想定しているのである。しかしそのためには信用制度が社会主義でもあると想定しなければならない。こんなバカな話はない。
 社会主義を想定するなら、正しい理解は次のようでなければならない。労働者は彼が年間社会に与えた200労働日のうち日常の生活手段に必要なものを150労働日と交換して、50労働日を権利として保有(留保)できるだけである。そしてそれが3年間分溜まった結果、つまり彼が保有する権利が150労働日に達したので、そこで初めて彼は自動車を手にすることかできるのである。社会主義ではこのように考えるべきである。彼は社会に必要な労働を与える以前に、事前にまず消費手段を得た上で、年割りで徐々に必要な労働を返済していくというような信用取り引きは、社会主義はでは想定できないし、すべきではない。】

 200労働日以外の百数十日は――一年は365日だから――、各人の自由な日であって、休息でも芸術活動でも科学的研究でも、あるいはスポーツでも、ボランティア活動でも、何をしても自由であろう。

 【ここで林氏はまた奇妙なことを書いている。〈200労働日以外の百数十日は――一年は365日だから――〉? どうして〈百数十日〉なのであろう? 〈一年は365日〉だったら、〈200労働日以外〉は165日しかないのは明らかではないか。どうしてここで〈百数十日〉と書く必要があるのであろう。あるいは林氏は閏年の場合も想定したのであろうか。それとも200労働日の残りの165日すべては自由な日ではなく、そのうちの幾日かは強制的に社会活動に支出されるべきとでも考えているのであろうか。確かに自由な日は〈何をしても自由〉であろうが、しかし、林氏は重要なことを忘れている。将来の社会主義社会やあるいはより高度な共産主義の社会では、全面的に発達した個人の育成と形成こそが社会の最大の目標になるということをである。各人はその労働においてと同じように自由な時間をも使って各人の個性を全面的に発展させることに費やすであろう。そしてその全面的に発達した個人が、生産過程に入って行ければ、それはまたより高度な生産力として発現して、ますます自由な時間を拡大するであろう、ということぐらいは言ってもよいのではないだろうか。

 しかしそれにしても、林氏はそもそも次のように言ってなかったであろうか。

 〈マルクスは共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明したが、もちろん単純商品社会においても、ロビンソンの話は当てはまるだろう、しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである。だがまさにこの決定的に重要なことがなされてこなかったのであるが、それは労働者の自己解放運動にとって大きな思想的、理論的な“欠落”部分をなして来なかっただろうか。
 したがってこの部分を埋め、明らかにすることは決定的に重要であり、労働者が勝ち取ろうとしている――勝ち取らなくてはならない――社会の、具体的で明瞭な観念を持つことは、つまり自らの闘いの目的であり、理想でもある社会の根底の性格や内容やその意味を正確かつ明瞭に理解することは、労働者の階級的闘いを弱めないで強めるであろう。〉

 そして〈提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである〉として、これまでの展開がなされているのである。そこで林氏にお聞きするが、〈資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すこと〉は、一体、どうなってしまったのか。さらにそれと〈提出される社会主義の具体的な観念〉とはどういう関係にあるのか。さっぱりこれでは分からないではないか。】

 また一日の(一労働日の)労働時間について言えば、それは八時間かもしれないし、我々がかつて選挙で謳ったように四時間でもいいし――我々が、そのイメージを選挙で押し出したのは、現在の労働生産力を前提にした場合でさえ、そしてすでに余計なものになった資本の階級や膨大な寄生的な人口や非生産的労働が一掃されるなら、つまり搾取労働が廃絶されるなら、四時間労働で十分であり、現在の平均的な物質的生活水準を維持するのは容易だと判断したからであった、つまり現在の資本による過酷な搾取体制を暴露するためであったが――、あるいは二時間労働でさえ夢ではないだろう。

 【四時間とか二時間とか勝手な数値を並べているが、何の科学的な根拠も示さずに、ただ直感だけで論じるのは無責任ではないだろうか。八時間ではなく、四時間で十分だというなら、それなりの根拠を示すべきではないだろうか。それに〈現在の平均的な物質的生活水準〉などを持ち出しているが、しかし日本の物質的生活のかなりの部分は、後進諸国の労働者の犠牲の上に成り立っているという反省も必要ではないのだろうか。】

 もちろん、平均的な労働時間が四時間であっても、ある労働者がもう少し物質的な豊かさのある生活を望むなら、四時間でなく六時間働くことも可能であって、それを妨げる理由や難しいことは何もない。例えば、彼が一年で自動車を持ちたいと、一日四時間の代わりに十二時間働いたとしても、誰もそれを妨げる権利を持たないだろう。

 【しかし、そうであろうか。林氏は社会主義ではすべての労働は直接に社会的に結びつけられており、それぞれの個人の恣意に任されているわけではないことを知らない。もちろん、各人が自覚的且つ意識的に自らの労働を支出するのであるから、最初から、一労働日を人よりも多い目に支出することを申し出ても、他の人々がそれを認めるなら、可能であろう。しかしその場合も、他の人々との社会的な関係が問われるのであり、決して個人の恣意のままに可能なわけではない。すべての労働が直接社会的に結びついているということは、単に質だけではなく、量的においてもそうである。だから個々人がまったく恣意的に働きたいだけ働けばよいというようなことでは決してないのである。それらは社会を構成する個々人が互いの労働を意識的且つ合理的に統制するなかで互いに承認し合うことによって初めて可能となるであろう。林氏が想定しているのは、労働力の売買は、少なくとも表面上は個々人の「自由」であるという、ブルジョア社会そのものではないのか。】

 生産力が発展し、労働時間が短縮することは重大である。そもそも科学や文化や芸術が、「学者」(いわゆる“専門家ばか”、“学者ばか”)や“文化人”や“知識人”などの“専門家”――大体において、資本によって買収され、養われている連中、事実上、資本の陣営に属する、不道徳で、品のない連中――に独占され、「任されている」、この階級社会の現実が――きわめてゆがんだ、ますます荒廃し、空疎化していく現実が――粉砕され、一掃されなくてはならないのだが、労働時間の短縮はすべての人がこうした活動に参加しうる条件を提供するだろうからである。そして、生産と分配の自然な――「価値関係」のヴェールを剥いだ――法則が貫徹されるようになるなら、容易に、そして自然に、それは一掃されるだろう。

 【ここで言われいることも、当たり前のことのように思えるが、詳細に検討していくと、色々と問題が出てくる。まず林氏は〈生産力が発展し、労働時間が短縮することは重大である〉と述べている。そして現在の社会においては、科学や文化や芸術が専門家に独占されていることを批判している。とするなら、林氏は現在の社会では科学や文化や芸術が、特定の専門家と称する人たちに独占されているのは、生産力が未発展で、労働時間が短縮されていないからだと考えているのであろうか。そんなバカな話はないのである。どんなに生産力が発展し、必要労働時間が短縮されたとしても、資本主義的生産を前提するなら、それは剰余労働時間が増えるだけであり、労働者の労働時間が短縮されることにはならない。こんなことは当たり前ではないか。ところが林氏はこうした資本・賃労働の関係、搾取と被搾取の関係を問題にせずに、ただ生産力の発展が、直接労働時間の短縮と関連しているかに理解しているのである。科学や文化や芸術が専門家に独占されているのは、労働者が賃労働者だからではないのか。こうした敵対的な生産関係を廃絶することこそがまず必要であり、そうすれば、生産力の発展は、直接、労働時間の短縮として現れるであろう。こうした関係を林氏は述べていない。
 それに〈生産と分配の自然な――「価値関係」のヴェールを剥いだ――法則が貫徹されるようになるなら、容易に、そして自然に、それは一掃されるだろう〉などとも述べている。しかし、〈生産と分配の自然な……法則〉とは何か? ロビンソンの社会にも貫徹しているような法則なのか。それなら、それは一般的な条件としてはブルジョア社会にも貫徹しているのである。問題はそれが貫徹されるかどうかではなく、それが貫徹される歴史的形態を克服することこそが必要なのである。】

 社会主義社会においても、分配(消費)だけでなく、生産もまた「価値規定」によって制約され、規定されることも明らかである、というのは例えば、社会が年々、鉄一億トンを、自動車五百万台を、あるいはコメ一千万トンを必要とするなら、その生産がその生産に必要な――社会的に必要な――労働日(労働時間)によって決定されるだろうからである。資本主義社会との違いは、鉄や自動車やコメの生産に社会的に必要な労働(時間)が、生産物との直接の関係において明示され、価値の形態を取らないこと(その必要がないこと)、したがってまた資本の再生産としては現われないこと、であるにすぎない。

 【ここで林氏は社会主義社会の「生産」について述べているが、それが規定的なものとして論じているのではないことに注意が必要である。彼はあくまでも社会主義の概念の根底は分配方式にあると考えているからである。】

 生産する人々を結び付ける契機は、直接に人々の社会関係として明示され、確認されており、「価値の関係」として、したがってまた「市場経済」の形態として現われないのである。

 【〈直接に人々の社会関係として明示され、確認されており〉というが、人々が生産の客観的・物質的な条件にもとづいて、自覚的・意識的に取り結ぶのである。だから人々が自覚的に結びつく彼らの社会的な関係それ自体が、すなわち生産関係なのであって、そうした社会的な結びつき(社会そのもの)とは別に、彼らから独立して彼らを規制するような生産的諸関係といったもの--つまりマルクスが「経済的土台」と述べているようなもの--はすでにないという理解こそが必要である。】

 こうした計算は実際的に、つまり現実として全く容易になされ得るのであり、まさにマルクスが述べたように、余りに「簡単にして明瞭なこと」であって、誰でも簡単に確認できることである(ありがたい、「市場経済」による、あるいは「市場」に群れ集い、商品の価格について交渉したり、商品を取捨選択したりする何千万、何億という人々の自然発生的な行動、不破哲三らの愚物がブルジョアたちと一緒になって、その“効能”や“効率”や“大きな役割”をわめき立てている、人々の無自覚的な行動や活動、市場の“自由競争”など一切なくても、である)。
 かくして、こうした社会関係が実現されるなら、それは、労働の搾取はもちろん、労働の疎外も、つまり人間労働が“対象化”され、「価値」として、“モノ”(商品、貨幣、資本等々)として現象することは無くなるということ、つまり「労働の解放」であり、その出発点である。かくして「搾取の廃絶」と「労働の解放」が、“社会主義”の課題が、その真実の内容が、究極的かつ根底的に実現され、勝ち取られ得るのである。

 【ここで林氏は〈人間労働が“対象化”され〉と対象化に“ ”を付けている。労働の対象化というのは、価値形成労働に固有の問題なのであろうか。生産物に労働が支出され、生産物の生産に支出された労働が堆積しているというのは、どんな社会でも同じではないだろうか。それは確かにその生産物の生産にどれだけの労働が必要かということで問題はハッキリしているが、しかし、生産物そのものにそうした支出された労働の痕跡があることもあるのである。マルクスは『資本論』第二版のための「補足と改訂」で次のように述べている。

 〈どの商品体でも労働の痕跡を示しているというわけではないが,その労働は無差別な人間的労働ではなくて,織布や紡績などであって,これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく,むしろいろいろな自然素材と結びついている〉(『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』No.5-65頁)

 つまり生産物の物的存在は、その自然素材とそれにどのような人間の手が加わって生産物になっているかの痕跡を示しているとマルクスは述べているのである。この限りでは、労働は生産物に対象化され、そこに堆積された形で存在していると言っても必ずしも間違いとは言えないかも知れない。】

 もちろん、このことは資本の支配を打倒し、一掃した後に出現するのであって、先ではない。こうした関係は、つまり人類の「地上の楽園」は、ただ資本の支配を廃絶する結果であって、その前提ではない。

 【〈「地上の楽園」〉などという言葉は、北朝鮮の帰国運動の時に言われたもので、今では忌まわしいイメージしかない。われわれは地上の楽園を目指して活動しているのか、バカバカしい。】

 社会主義社会においては、マルクスが『ゴータ綱領』で言った、労働者は「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という言葉は、上記のような意味で理解されなくてはならない。つまり分業によって自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる、という意味で理解されてはならない(「価値移転論者」はそのように理解するし、せざるをえず、かくして論理的行止りもしくは迷路に迷い込むのだが)。このことがロビンソンや、あるいは単純商品の場合(商品生産に従事する生産者が、純粋の自己生産者であると想定して――この場合は、商品生産者は自動車に50労働日を費やしたなら、その労働日に相当する生産物を、別の商品生産者と交換することができる、つまり「等量労働交換」がこうした直接的な形で現象するだろうが)と、資本主義的生産の場合との区別として現われる、しかしもちろん「価値の規定」が貫徹されるということにおいては全く同様である。

 【林氏は、マルクスが『ゴータ綱領批判』で言っている、労働者が「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という意味を説明して、〈上記のような意味で理解されなくてはならない。つまり分業によって自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる、という意味で理解されてはならない〉というのだが、これは果たして適切な例といえるだろうか。少なくとも自動車生産者が、自らその生産に従事した自動車を手にするのなら、マルクスがいうような〈同じ労働量を別の形で返してもらう〉ことにはなっていないではないか。自動車を生産するために費やした労働をただその同じ労働が対象化されたものとして生産物を受け取っただけに過ぎないわけだから。いずれにせよ、マルクスの指摘していることを自動車を例に説明することはあまり適切とはいえないのではないだろうか。
 しかもその後に丸括弧をつけて、〈「価値移転論者」はそのように理解するし、せざるをえず、かくして論理的行止りもしくは迷路に迷い込むのだが〉とも書いている。とすると、先に述べたこと、つまり〈自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる〉と〈「価値移転論者」〉は考えるというのであろうか。なぜ、〈「価値移転論者」〉だとそう考えるのかの説明はなく、皆目分からない。生産手段の価値は移転すると考える人たちのことをもし仮に、林氏がいう〈「価値移転論者」〉だとすると、彼らは自動車の生産のためには、機械や鋼材などの生産手段に費やされた労働も考慮に入れるべきだと主張するのではないのか。だから自動車生産に直接支出された労働だけが、自動車の生産に必要な労働だけではなく、その生産の過程で「移転・保存」された価値(労働)も自動車生産に必要な労働として考えるべきだというのが、林氏のいう〈「価値移転論者」〉の主張ではないのか。それならどうして彼らが〈自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる〉と主張することが論理的に導き出されるのであろうか。まったくわからない主張である。
 また林氏は〈このことがロビンソンや、あるいは単純商品の場合……と、資本主義的生産の場合との区別として現われる〉とも述べている。ここで〈このこと〉というのがいま一つ分かりにくいが、どうやら林氏は、〈ロビンソンや、あるいは単純商品の場合……と、資本主義的生産の場合との区別〉としで、前者には分業がなく、後者には分業があると考えているようである。しがしロビンソンの場合でも、彼は自身の労働をさまざまな形態で支出しなければならないのであって、例え一つの財産(テーブル)を形成する場合でも、彼の労働は、例えば木の伐採労働として、あるいは材木を作る製材労働として、あるいはテーブルを作る木工労働として支出されなければならず、ましても彼の一年間の生活をささえ維持するためには、彼は彼の年間労働を合理的にさまざな分野に支出しなければならない。だからこそロビンソンの労働には「価値規定の内容」と同じものがあるとマルクスは述べているのではないのか。林氏は〈しかしもちろん「価値の規定」が貫徹されるということにおいては全く同様である〉とも述べている。「価値の規定」というのは何なのか。マルクスは「価値の本質的規定」と述べている。あるいは「価値規定の内容」とも述べているが、「価値の規定」というのなら、抽象的人間労働が商品に対象化され凝固しているということであって、これは商品生産に固有のものである。だからこんなものがロビンソンの労働にある筈がない。ロビンソンの労働生産物は商品ではないからである。

 一見して、自動車生産のためには、機械や鉄鋼に支出された労働日が前提とされ、その労働日は「過去の」労働日として、つまり「移転されてきた」労働日として現象するのであって、何か前年度の労働の結果であるかに見える、しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。このことの認識こそ決定的であり、「有用的労働による価値移転論」等々の空虚なことを明らかにしているのである。この労働日について、価値移転論者のように“二重計算”することは――つまり一方で「過去の労働」として、他方で新しい生産的労働として――ナンセンスであり、社会主義における生産と分配の観念をどこかに追いやってしまうのである。

 【確かにここには林氏の〈認識〉の〈決定的〉な誤り、というより「混乱」が暴露されている。林氏はどうやら、生産され終わって最終的に生産物になっているものと、いまだ完成生産物とはならずに、生産過程に留まっているものとの区別が分からないらしい。一方は、すでに使用価値をもち、それを生産的に消費可能であるが、他方は、いまだ使用価値は持たず、だから生産的に消費することはできない。子供でも分かるこの当たり前のことが、錯乱状態にある林氏にはどうやら見分けが付かないようになっているらしいのである。というのは、林氏は自動車を生産するための諸手段、例えば鉄鋼や機械に支出された労働日が過去の労働であることは〈一見して、……見える〉ような仮象であるかに述べているからである。しかし、鉄鋼や機械に支出された労働が過去の労働であることは、何もただそのように見えるだけの仮象などではなく、それは客観的な物理的な事実である。生産諸手段は、それを使って生産しようとしている生きた労働に対して、過去の労働の産物として対峙することは物理的にも自明な客観的事実である。これは何か錯覚というような問題ではない。それは、ロビンソンであろうが、単純商品であろうが、資本主義的生産であろうが、生産諸形態には関わりのない物質的な生産過程の問題である(あるいはそれらのすべてに共通する物質的生産の一般的条件である)。
 林氏は、すでに完成された生産物である鉄鋼や機械に支出された労働と同じ(量的に同じ)労働が、自動車生産の労働過程と〈“同時並行的”〉に行われていることを指摘する。確かにそのように想定するなら、そうであろう。しかし、それはそのことをそのように想定しているからそうなのであって、それは必ずしも同じで無ければならないわけではない。機械が常にまったく物理的にも同じものとして再生産されなければならない理由はないのであって、より生産性の高いものとして、あるいはより少ない労働力によって再生産される可能性はあり得るのである。それは生産の拡大部分だけではなく、再生産部分においても可能であろう。すでに述べたように、そもそも自動車生産の過程で、生産手段として役立つ鉄鋼や機械とそれと同時並行して生産される鉄鋼や機械が、物理的に同じでないことは子供でも分かる事実である。
 例えば再生産のある年度の生産を考えてみよう。{もちろん、われわれはその再生産を資本主義的な再生産として想定する必要はない。将来の社会主義でも同じであり、だからそれはロビンソンの生活においても同じなのである。物を作るということは、物質的な過程であり、だからそれは社会形態から独立した過程だからである。マルクスも次のように述べている。

 〈労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。〉(全集25b1129頁)

 そして林氏が考察している内容は、まさに労働過程をこうした過程として考察しているだけである。だからこうしたことは〈ロビンソンや、あるいは単純商品の場合〉と〈資本主義的生産の場合〉とには何の違いもないのである。それは物質的な生産過程の問題だからである。}林氏は次の事実を忘れている。自動車を生産するための鉄鋼や機械は、その自動車生産の過程と例え同時並行して鉄鋼や機械が生産されていたとしても、そのいまだ生産過程にある鉄鋼や機械を使って、自動車を生産することは出来ないということをである。こんなことは子供でも分かることである。自動車の生産と、鉄鋼や機械の生産が同時並行して行われるためには、自動車を生産する諸手段である鉄鋼や機械は、その前にすでに生産されていなければならないことは子供でも分かることである。製作中の鉄鋼や機械を使うことは出来ないのは観念や空想の世界で遊ぶしか能のない人でないなら誰でも分かる。とするなら、自動車を生産しようとする人は、鉄鋼や機械が生産されてから、それらを使って生産する、あるいはすでに以前に過去の労働によって生産されたそれらの諸手段を使って生産するしかないのである。これはロビンソンが家具を作るために、まず木を伐り(伐採労働)、それを材木にした(製材労働)あとで、初めて、その材木を使って、家具を作る(木工労働)ことが出来るのであって、これを彼は決して同時並行して出来ないのと同じである。あるいはロビンソンの伐採労働は、伐採された木を、材木に加工する生きた労働である製材労働から見れば、過去の労働であるこは明らかである。そしてその材木を使って家具を作るロビンソンの生きた木工労働からみれば、材木の生産に支出された伐採労働や製材労働は、やはり過去の労働なのである。こんなことは仰々しく確認するまでもないほど明らかなことである。もしロビンソンが一人だけでなく、兄弟三人が孤島で生活しているとしても、そして一人が木を伐り、もう一人が材木を作り、そして最後の一人が家具を作る労働にそれぞれが従事して、同時平行して労働をしたとしても、最後の一人が家具を作るためには、材木が作られてからであり、彼が使う材木は、少なくとも彼が家具を作る過程と同時並行して作られる材木ではなく、その前に作られた材木であることは物理的な真理である。作っている材木を使って家具はできないのである。切っている木を使って、材木を作れないのとそれは同じである。それらは一連の分業の過程であって、だからこそそれらの労働は関連し合っているのである。こんな単純な事実も林氏の混乱した頭では、どうやら分からなくなってしまっているらしいのである。何とも不可解な混乱した頭脳ではある。
 次に林氏は、さらに混乱して次のようにいう。

 〈しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。〉

 林氏は、もちろん、単純再生産を想定している。だからわれわれもマルクスの単純再生産の表式を例に考えよう。

部門 I  4000c+1000v+1000m=6000
部門II  2000c+ 500v+ 500m=3000

 ここでは当然、4000や1000という数値は価値を表している。しかし、われわれはこれを直接労働時間を表すと考えてみよう。つまり年間の総生産物には9000労働日が支出されている。生産手段には6000労働日、消費手段には3000労働日である。年間に支出される総労働日は3000である。鉄鋼や機械は部門 I で生産され、自動車は部門IIで生産される、と仮定しよう。今、社会の総生産をこの鉄鋼や機械の生産と自動車生産で代表させよう。しかし鉄鋼や機械を生産するためには、そのための生産諸手段がやはり必要であり、だからそうした部門も部門 I に想定されなければならない(そうでないと、機械や鉄鋼は再生産されない)。つまり鉄鋼や機械を生産するためには、そのための生産手段(鉄鉱石やその他部品類)が必要だが、それらはその年度の初めには4000労働日の生産物の一部として部門 I に配分されている。部門 I では、それらを使って、一方では鉄鋼や機械を生産し、他方ではやはり鉄鋼や機械を生産するための生産諸手段(鉄鋼石や部品類等)を再生産するわけである。その結果、年度の末には、2000労働日が支出された鉄鋼や機械と4000労働日が支出された鉄鋼や機械を生産するに必要な諸手段が生産物として生産されている。他方、部門IIの自動車生産部門では、年度のはじめに、自動車生産に必要な生産手段として2000労働日の生産物である鉄鋼や機械の配分を受け、それに1000労働日を追加して、年度の末には3000労働日の自動車を生産物として完成するのである。
 このようにここでは林氏がいうように、自動車を生産する労働も、機械や鉄鋼を生産する労働も、鉄鉱石その他を生産する労働も、一年間の労働としては“同時並行的”に行われており、生産手段(機械、鉄鋼、鉄鉱石その他)を生産する労働も〈総労働日(3000)の三分の二(2000)を占め〉〈年々の総労働日の一部であり、一環である〉が、しかしそれはマルクスが想定しているように前年に生産された生産手段の価値(対象化された労働)6000が、今年度の生産過程において移転・保存されるという理解なくして説明できないことなのである。いずれにせよ、林氏はマルクスの再生産表式をまったく理解していないか、その理解において混乱の淵に落ち込んでしまっているとしか言いようがないのである。

 もちろん、我々が社会主義社会においても、「価値の規定」を社会的生産と分配の根底に置くということは、不破が言うように、生産と分配を「価値の関係」(商品の交換価値の関係)のままに、その支配のもとに放置しておくといったこと――これは事実上、資本主義的生産関係を受け継ぎ、継続するということに帰着するのだが――とは全く別であって、単に社会的な生産と分配が、労働時間によって規定されるということにすぎない。個人的な労働が直接に社会的な労働として現われるなら、どうしてそれが「価値の関係」として現われ、媒介されなくてはならないのか。資本の支配を一掃した労働者階級は、そんな“愚行”もしくは“余計なこと”をやらないだろうし、またそんな必要性を全く認めないだろう。

 (これで項目〈◆2、社会主義の“概念”〉は終り、次回は項目〈◆3、なぜ「移転論」では、社会主義の分配の概念規定ができないのか、できなかったのか〉を紹介の予定。)

2016年2月17日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-13)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回は【19】【22】パラグラフである。この部分は、これまでの考察されてきた架空資本である有価証券はそもそも何を表していのかということを論じており、それまでの考察の一つの中間総括的な位置をしめているように思える。)

【19】

 〈これらの有価証券の下落(減価)または上昇(増価)が,これらの証券が表わしている現実の資本の運動にかかわりのないものであるかぎり,一国民の富の大きさは,減価および増価の前もあともまったく同じである。「1847年10月23日には,公債や運河・鉄道株はすでに114,752,2254ポンド・スターリング減価していました。」a)この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉

 これらの有価証券、とくに株式の高騰や下落が現実資本の価値増殖と無関係のものであるなら、すなわち、単に投機的な思惑による高騰であるとか、あるいは単に貨幣逼迫による利子率の高騰による下落によるだけなら、これらの有価証券の当落によっては、一国民の富の大きさそのものは、その減価や増価の前後において何の変化もないわけである。
 ここで〈名目的な貨幣資本の破裂〉とあるが、これは先に出てきた(【18】の(2))〈名目価値〉とは同じではない。後者は国債や株式の額面価値(価格)のことであり、前者は利子率の変動やさまざまな投機的思惑によって膨れ上がった架空資本の市場価値(価格)の破裂を意味していると考えるべきであろうからである。

【20】

  〈【原注】|337下|a)モリス(イングランド銀行総裁),〔(〕『商業の不況』,1847-48年。[第3800号。]|〉

 この部分は【19】の本文につけられている原注であるが、本文で引用されているものの典拠を示すものになっている。このイングランド銀行総裁の議会証言は『資本論』現行版の第26章でも、エンゲルスの編集によるものだが、紹介されている(全集25a528頁)。
 しかしこの部分は、大谷氏によると、マルクス自身が本文として書いたものではなく、大谷氏は「雑録」として分類しているが、〈のちに使用する材料として抜粋を行なっている部分〉に過ぎないものなのである。それをエンゲルスは他の諸章と同じような本文として取り扱っているわけである。そもそもこの現行版の第26章の表題「貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響」というのは、この章の冒頭で紹介されている『通貨理論論評』からの抜粋の前に、その内容を要約してマルクスが書いたコメントに過ぎないものであって、それをエンゲルスが勘違いして全体の章の表題にしてしまったものなのである。だから表題とそれ以降の第26章に採用されている抜粋の全体の内容とはまったく合っていない代物なのである。いずれよせに、大谷氏が「雑録」として、草稿を翻訳・紹介している関連部分を大谷氏の論文から紹介しておこう(下線はマルクスによる強調。太字部分は今回引用されている部分。「第2675号」等とあるのは議会報告『商業的窮境』に記載されている証言番号である)。

 〈〔第2675号。〕「1847年には,輸入された食糧の代価として,少なくとも900万ポンドの金が(750万はイングランド銀行から. 150万はその他の源泉から)輸出されました。」(〔議会報告書『商業的窮境』,1847-48年。245ページ。) 〔第3800号。〕「1847年10月23日には,公債および運河・鉄道株はすでに114.752.225ポンド減価していました。」 (同前. 312ページ。モリス,イングランド銀行総裁。)第3846号。(同じモリスがロード・ベンティンクに尋ねられる。)「あなたは,債券やあらゆる種類の生産物やに投下されていたすべての資産が同じように減価したということ,原綿も生糸も未加工羊毛も同じ低落価格で大陸に送られたということ,そして,砂糖やコーヒーや茶が強制売却で投げ売りされたということを,ご存知ではないのてすか?--食糧の大量輸入の結果生じた地金流出に対抗するためには,国民がかなりの犠牲を払うこともやむをえませんでした。」第3848号。「そのような犠牲を払って金を取り戻そうとするよりも,イングランド銀行の金庫に眠っていた800万ポシドに手をつけるほうがよかった, とは考えられませんか?--いや,そうは考えません。」このヒロイズムへの注釈。ディズレイリW.コッ トン(イングランド銀行理事,前総裁)に尋ねる。第4356号。「1844年に銀行株主に支払われた〔配当〕率はどれだけでしたか?--その年には7%でした。」第4357号。「では. 1847年の配当は?--9%です。」第4358号。「銀行は今年は株主に代わって所得税を支  払うのですか?--そうです。」第4359号。「1844年にはそうしましたか?--そうしませんでした。」第4360号。「それならば,この条例は株主に非常に有利に作用したわけです〔ね?〕第4361号。「結果は,この条例が通過してから株主への配当は7%から9%に上がり,条例以前は株主が支払っていた所得税もいまでは銀行が支払うということですね?--まったくそのとおりです。」/〉 (《「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(中)--第3部第1稿第5章から--》『経済志林』51巻3号1993年-45頁)

【21】

  〈|338上|すべてこれらの証券が表わしているのは,実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎないのであって,この請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制される。〉

 ここでも〈すべてこれらの証券〉と言われているのは、これまでの展開から考えても、国債や株式のことである。マルクスは国債や株式も、それらが表しているのは、〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉と述べている。これまで国債と株式が何を表しているのかについて、マルクスがどのように説明してきたのかをもう一度、振り返ってみよう。
 国債の場合は、国家が借りた資本は食いつくされてもはや存在せず、国債は〈純粋に幻想的な資本を表している〉だけである。だから〈国家の債権者がもっているものは第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉(【10】)というものであった。
 株式は、結合資本にたいする所有権を表し、現実の資本を表している。すなわち、これらの企業で機能している(投下されている)資本、または資本として支出されために社団構成員によって前貸されている貨幣額を表している。しかし例えば額面の100万円株式は100万円の資本価値を持っているわけではない。資本価値としては、現実に投下されたものしか存在しないわけである。だから株式は、そうした現実に投下された資本によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、というのがマルクスの説明であった(【17】)。ここで「実現されるべき」というのは、単に商品資本の剰余価値部分として形成されたというだけでなく、それがさらに貨幣資本の剰余価値部分としても実現されたもの考えるべきであろう。
 しかしこうした国債や株式が表すものが、ここでは〈実際には、生産に対する蓄積された請求権に過ぎない〉のだと説明されているわけである。しかし注意が必要なのは、ここでは国債や株式そのものがそうしたものとして説明されているのであって、架空資本としての国債や株式のことではないことである。言い換えれば、国債や株式の額面価格(価値)が表しているものが、〈実際には、「生産に対する蓄積された請求権」にすぎない〉と言われているわけである。そして注目されるのは、〈「生産にたいする蓄積された請求権」〉が鍵括弧に入っていることである。それは一体何を意味するのであろうか。
 そもそも〈「生産に対する蓄積された請求権」〉とは何であろうか?
 支払手段としての貨幣の機能から生まれる債権・債務関係によって流通する信用諸用具を代表する「手形」は、「貨幣の支払を求める権利」あるいは「貨幣請求権」を表している(それは逆にいえば貨幣の支払約束証書でもある)。しかしここで言われているのは、「貨幣」に対する請求権ではなく、〈生産に対する……請求権〉なのである。国債の利子支払や株式の配当も、いずれも貨幣によって支払われる、だからそれらも貨幣による支払を求める権利、貨幣請求権を表しているといえないこともない。しかし、マルクスはそうした規定を与えるのではなく、〈生産に対する蓄積された請求権〉だと述べているわけである。
 国債は租税の年額に対して一定額の支払を請求する権利を表し、株式は現実資本が実現するであろう剰余価値に対する所有権原、つまり実現された剰余価値(利潤)からの支払を請求する権利を表している。租税もその源泉を剰余価値に求めることができるわけだから、マルクスがここで〈生産に対する……請求権〉と述べているのは、「生産され実現された剰余価値に対する請求権」とも考えることができるかも知れない。しかしそれならそのようにどうしてマルクスは書かないのであろうか。
 そもそも〈生産に対する請求権〉というのは、極めてあいまいなものである。なぜなら、生産に対して何を請求するのかも書かれていないからである。生産に対する請求権と言っても、生産の結果に対する請求権なのか、それとも生産の過程に対する請求権かさえも分からない。そもそも〈請求権にすぎない〉という書き方は、それはただ請求する権利を表しているだけで、それが実際に行使されるかどうかは状況次第によるとも解釈可能である。権利というのは法的な問題であり、例えば「基本権人権」などいうものは憲法に謳われている限りでは、言論の自由や思想信条の自由を表しているが、ブルジョア社会の現実は、それが実際には有名無実であり、一つの欺瞞であることを暴露している。同じように〈生産に対する請求権〉というものも、極めて漠然としたものであり、ただ漠然と生産に対して一定の蓄積された何らかの請求権を表しているだけで、それが具体的に生産に対して何を請求するのかもあいまいであり、しかもそうした権利が現実に行使されるのかどうかも状況次第という極めて漠然としたものなのかも知れない。つまりマルクスが有価証券が表しているものは、〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉という場合、そうした生産に対する極めて漠然とした請求権を意味している過ぎないのだという含意かも知れないのである。しかしいずれにせよ、今の時点で即断するのはやめておこうと思う。だからこの問題については最終的な確定は保留しておくことにする。

【22】

  〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している〉という場合の、〈こうした形態〉というのは、先に述べられている有価証券ということであろう。だからこの一文で述べていることは、資本主義の国においては、膨大な量の利子生み資本の投資対象として、こうした有価証券が存在しているということであろう。そして〈貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである〉。
 後にマルクスはIII)において(現行の第30~32章において)、〈この信用の件(Creditgeschichte)全体のなかでも比類なく困難な問題〉(『経済志林』64巻4号146頁)として〈第一に本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで,現実の資本蓄積の,すなわち拡大された規模での再生産の指標なのか,またどの程度までそうでないのか?〉(同)という問題を上げているのであるが、〈貨幣資本の蓄積〉という言葉で考えられているものは、たいていは、〈生産に対する請求権〉の蓄積、あるいは請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積だというのである(ただIII)で実際に中心的に問題になっているのは、そうした「架空な貨幣資本」を除いた、「貸し付け可能な貨幣資本」に限定されたものなのではあるが)。
 この後者で言われているものの蓄積、すなわち〈これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積〉というのは、それまでに述べられていたものが、有価証券そのもの、つまり有価証券の額面が表すものであったのに対して、今度は、「架空資本としての有価証券」、つまり証券市場で実際に売買されている市場価格(資本価値)の蓄積のことを指していると考えることができる。

 (以下、続く)

林理論批判(36)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.13)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。これは林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第2回目で、前回の続きである。林氏の論文はそのまま紹介し、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(2)

◆2、社会主義の“概念”

 提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである。それはすべての真理――大宇宙や自然界やあれこれの“物質”や、人類の社会や歴史さえもの、存在や運動を規定する概念や法則などがそうであるように――が、簡単な定式によって簡潔に表現され得るのと同様である(例えばE=mc2)。

  【林氏はここで矛盾したことを述べている。「社会主義の具体的な観念」は、「ごく簡単なもの」で、それは「例えばE=mc2」のようなものだというのである。しかし物質とエネルギーとの転換の法則であるE=mc2というのは確かに「ごく簡単なもの」だが、しかし決して「具体的な観念」というようなものではない。それだけでわれわれは物質とエネルギーとの転換についての具体的な観念を持つことはできないのである。

 〈具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。それゆえ、具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直感や表象の出発点であるにもかかわらず、思考では総括の過程として、結果として現われ、出発点としては現われないのである。〉(マルクスの「経済学の方法」、全集13巻627-8頁)

 だから林氏も社会主義の具体的な観念や概念について語るなら、それを理論的に展開しようとするなら、そうしたものとして展開する必要があるわけである。林氏の言う「社会主義の具体的な観念」なるものは、その限りでは決して具体的ではなく、確かに単純なものなのかも知れないが、それだけに内容のない抽象的なものでしかないであろう。林氏は、何か一つの具体的な例を挙げれば、具体的に説明したつもりなのかもしれないが、しかし、そこで語られる内容は抽象的なものなのである。例えばロビンソンの孤島での生活の場合とそれは同じである。確かにそれはロビンソンという一人の人間の孤島での生活だから具体的なものであるが、しかしそのなかで語られている内容は、現実の社会的な生産から考えるなら、極めて抽象的なものでしかないのである。】

 社会主義における「分配方式」――というのは、これこそが社会主義の概念の根底をなすべきなのだが――は、ただ次のような法則もしくは原則に従って行われる。

 【林氏は、ここで「分配方式」が社会主義の概念の根底をなすべきだと述べている。しかし果たしてそうか。マルクスは『経済学批判要綱』序説で、分配は生産の所産だと述べている。これは決して資本主義社会に固有の問題ではなく、あらゆる社会に共通の契機としてマルクスは論じているのである。だからそれは社会主義社会においても同じであろう。社会主義の分配方式は、社会主義の生産方式に規定されているのである。生産があるからこそ、分配があるのであって、決して逆ではない。とするなら、「概念の根底」はむしろ「生産方式」においてこそ明らかにされるべきではないのか。確かに社会主義では資本主義でのように、「生産のための生産」が問題にはならない。抽象的な富である価値(利潤)ではなく、使用価値が生産の直接の目的になる。しかしそのことは社会主義では分配がすべてを規定するということではない。分配は生産の所産だというのは社会主義社会でも同じなのである。この問題は、この間の林氏の一連の論文の誤り--それこそスターリニストたちと共有している誤り--を根底的に規定する問題なので、詳しく論じてみよう。まずマルクスは、先の序説で次の様に述べている。

 〈最も浅薄な見解では、分配は生産物の分配として現われ、したがって生産から遠く離れたもの、生産にたいしてまるで独立しているようなものとして現われる。しかし、分配は、それが生産物の分配であるまえに、(1)生産用具の分配であり、(2)同じ関係のいっそう進んだ規定ではあるが、いろいろな種類の生産への社会成員の分配である。(一定の生産関係のもとへの個人の包摂。)生産物の分配は、明らかに、ただ、このような、生産過程そのもののなかにふくまれていて生産の編制を規定している分配の結果でしかない。このような生産にふくまれている分配を無視して生産を考察することは明らかに空虚な抽象であるが、他方、逆に、生産物の分配は、このような最初から生産の一契機をなしている分配とともにおのずからあたえられているのである。……(中略)……
 このような、生産そのものを規定する分配が生産にたいしてどんな関係をもつかは、明らかに、生産そのもののなかにある問題である。すくなくとも生産が生産用具のある一定の分配から出発しなければならないかぎりでは、この意味での分配は生産に先行し生産の前提をなしていると言うならば、これにたいしては、たしかに生産にはその条件と前提とがあるが、これらの条件や前提は生産そのものの契機をなしているのだと答えなければならない。この条件や前提は最初は天然のものとして現われるかもしれない。生産過程そのものによってそれらは天然のものから歴史的なものに転化される。そして、ある時代にとってはそれらが生産の自然的前提として現われるとすれば、別のある時代にとってはそれらは生産の歴史的結果だったのである。生産そのもののなかでそれらは絶えず変化させられる。たとえば機械の応用は諸生産用具の分配も生産物の分配も変化させた。近代的大土地所有は、それ自身、近代商業と近代工業との結果でもあれば、農業への近代工業の応用の結果でもある。
 これまでに提出された問題は、すべて結局は次のような問題に帰着する。すなわち、一般的歴史的諸関係は生産のなかにはいってどのような作用を及ぼすか、また、歴史的運動一般にたいする生産の関係はどうか、という問題である。問題は、明らかに、生産そのものの論究と説明とに属する。
 しかし、これらの問題は、これまで出してきたような平凡なかたちでならば、同様に簡単にかたづけることができる。およそ征服では三つの場合が可能である。征服民族が被征服民族を征服民族自身の生産様式に従わせるか(たとえば今世紀のアイルランドにおけるイギリス人、部分的にはインドにおけるイギリス人)、また征服民族が旧来の生産様式をそのまま存続させて貢納だけで満足するか(たとえばトルコ人やローマ人)、または相互作用がおこなわれて、それによって一つの新しいもの、一つの総合が生ずるか(部分的にはゲルマン人による征服の場合)である。これらのすべての場合に生産様式は、征服民族のものであろうと、被征服民族のものであろうと、両者の融合から生ずるものであろうと、そこに現われる新たな分配にとって規定的である。この分配は、新たな生産時代にとっては前提として現われるとはいえ、このようにそれ自身がまた生産の所産なのであり、ただたんに歴史的生産一般のではなく特定の歴史的生産の所産なのである。
 たとえば、モンゴル人がロシアを荒らしたとき、彼らは彼らの生産に適応して、すなわち広大な無住の地帯を主要条件とする放牧に適応して、行動した。未開のゲルマン人にとっては農奴による農耕が伝来の生産であり、農村での孤立した生活が伝来の生活だったのであるが、彼らがローマの諸州をこのような条件に従わせることは、ローマの諸州におこなわれていた土地所有の集中が古い農業関係をすでにまったくくつがえしていたために、いっそう容易にできたのである。
 ある時代にはただ略奪だけで生活したものだというのが、在来の一つの考え方である。しかし、略奪ができるためには、略奪されるなにかが、したがって生産が、そこになけれぽならない。そして、略奪の仕方はそれ自身また生産の仕方によって規定されている。たとえば、株式投機をやる国民〔stockjobbing nation〕を牛飼いに従事する国民と同じように略奪することはできないのである。
 奴隷の場合には生産用具が直接に略奪される。しかし、その場合には、略奪された奴隷を使う国の生産が、奴隷労働をゆるすように編制されていなければならないか、または(南アメリカなどでのように)奴隷に適合した生産様式がつくりだされなけれぽならないのである。
 法律は、ある生産用具、たとえば土地を、ある家族の所有として永久化することができる。このような法律が経済的意義をもつのは、ただ、たとえばイギリスでのように大土地所有が社会的生産と調和している場合だけである。フランスでは、大土地所有があったにもかかわらず、小規模農業が営まれていた。したがってまた大土地所有が革命によって細分されたわけでもある。しかし、たとえば法律によって土地細分が永久化される場合は、どうであろうか?このような法律があっても、所有はふたたび集中される。法律が分配関係の維持に及ぼす影響、またそれによって生産にあたえる作用は、特別に規定されなけれぽならない。〉(全集13巻623-5頁)

 そもそも社会主義で諸個人が社会に与えた労働時間にもとづいて、それと同じ労働時間が費やされた消費手段を、社会の保管庫から引き出し、それによって、自分が支出した労働と等量の別の形態の労働とを交換できるのは、あるいはこのようにそれぞれの生産物に支出された労働量が労働時間によって絶対的に表し秤量できるのは、社会主義における生産が、直接社会化された諸個人によって担われ、社会の物質代謝が意識的・合理的に統制・管理されて行われているからである。社会主義の生産がまさにそうしたものだからこそ、社会主義の分配は、直接、各人の支出した労働時間によって計り、行うことが可能となるのである。だから社会主義の概念の根底を問うなら、やはりわれわれは分配ではなく、生産が直接社会化された諸個人によって、自由な人々が自覚的に、且つ、意識的に行うものであるということにこそ見いだすべきであろう。社会主義の概念の根底を分配に求める林氏の社会主義論は一つの俗論でしかないであろう。
 もう一つ『資本論』からも引用しておこう。

 〈たしかに、資本は(また資本が自分の対立物として含んでいる土地所有は)それ自身すでにある分配を前堤している、と言うことはできる。すなわち、労働者からの労働条件の収奪、少数の個人の手のなかでのこれらの条件の集積、他の諸個人のための土地の排他的所有、要するに本源的蓄積に関する章(第一部第二四章)で展開された諸関係のすべてを前提していると言うことができる。しかし、このような分配は、人々が生産関係に対立させて分配関係に一つの歴史的な性格を与えようとする場合に考えている分配関係とはまったく違うものである。あとのほうの分配関係は、生産物のうちの個人的消費にはいる部分にたいするいろいろな権利を意味している。これに反して、前のほうの分配関係は、生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎である。この分配関係は、生産条件そのものにもその代表者たちにも特殊な社会的性質を与える。それは生産の全性格と全運動とを規定するのである。〉(全集25b1123-4頁)
 〈だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表わしているだけである。〉(同1128頁)

 あるいは林氏はゴータ綱領批判では、マルクスがもっぱら分配を問題にしているから、分配方式が社会主義の概念の根底になるべきだと考えたのかも知れない。しかし、ゴータ綱領批判で、マルクスが分配をもっぱら問題にしているのは、それがゴータ綱領の次の一文に対する批判として論じているからなのである。

 〈三、「労働を解放するためには、労働手段を社会の共有財産に高めること、また労働収益を公正に分配しつつ総労働を協同組合的に規制することが必要である。」〉(全集19巻18頁)

 つまり〈「公正な分配」とはなにか?〉という問いから始まって、マルクスは林氏が引用している部分も展開しているのである。だからマルクスは、林氏が引用した部分よりもっとあとで次の様につけ加えることを忘れていない。

 〈私が、一方では「労働の全収益」に、他方では「平等な権利」と「公正な分配」とにやや詳しく立ちいったのは、一方では、ある時期には多少の意味をもっていたがいまではもう時代おくれの駄弁になっている観念を、わが党にふたたび教条として押しつけようとすることが、また他方では、非常な努力でわが党にうえつけられ、いまでは党内に根をおろしている現実主義的見解を、民主主義者やフランス社会主義者のお得意の、権利やなにやらにかんする観念的なおしゃべりでふたたび歪曲することが、どんなにひどい罪悪をおかすことであるかを示すためである。
 以上に述べたことは別としても、いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。
 いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの一特徴である。たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から(そして民主主義者の一部がついで俗流社会主義から)、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。真実の関係がとっくの昔に明らかにされているのに、なぜ逆もどりするのか?〉(同21-22頁)

 ここでマルクスが述べているように〈いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであ〉るのである。林氏は、社会主義の概念の根底を明らかにすると称して、〈社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方〉に熱中しているが、それはまさにここでマルクスが批判している俗流社会主義に林氏が陥っていることを示している。林氏はゴータ綱領批判を最後まで読むべきだったであろう。あるいは少なくとも彼が引用した部分の前後をもう少し拡大して読むべきだったのである。そうすればこうした馬鹿げた間違いに陥らなかったのである。しかし、マルクスを相対化しようとする林氏にとっては、この場合もマルクスが何を言っているか、などということはどうでもよい事かもしれない。これは『資本論』の研究を「学者のお遊び」などと蔑み、真剣な研究を軽んずれば、結局は、自分自身が俗流主義に陥るという典型例として銘記すべきことである。

 林氏が「○○の概念」という言葉を多用する場合には、われわれは眉に唾をつけて注意して読まなければならない。というのは、林氏が「○○の概念」という場合、往々にして、その「○○の概念」なるものが何なのか、それによって林氏は何を考えているのか、さっぱり分からない場合が多いからである。ただ「○○の概念」という言葉だけが一人歩きして、それが一体何なのかということについては林氏自身による説明がほとんどないのが常だからである。例えば、これはかなり以前の話になるが、林氏が富塚の拡大再生産論を批判した時もそうであった。林氏は、富塚の主張に対して、「拡大再生産の概念」が欠けているとか、「拡大再生産の概念」を理解することが重要なのだ等々と批判を展開したのであるが、しかし、いくら読んでも、では、林氏自身はその「拡大再生産の概念」をどのように捉えているのかということが一向に明らかにならないのである。ただ「拡大再生産の概念」が重要であり、それを明確に捉えることが肝心だ、富塚にはそれがない、等々ということが強調されているだけで、林氏自身が「拡大再生産の概念」なるものとして何を考えているのかが、いくら読んでも分からないという、おかしな論文であったのである。こうしたことは、林氏の論文の一つの特徴になっており、決して、林氏自身は、「○○の概念」というのは、こういうことだ、それを彼らは理解していないのだ、と明確には語らないのである。
 そして今回の場合「社会主義の概念」なるものが、論じられている。しかし、林氏が語る「社会主義の概念」なるものは、一体、どういうものなのかが一つも明確ではないのである。それは「具体的で」「簡単で」「単純な」ものだという説明はあるが、しかし、そうしたものとして読んでいるものには何一つ明確には理解されないというおかしな論文なのである。それが具体的で、簡単で、単純なものなら、当然、林氏の論文を読んでいるものは、すぐに林氏が「社会主義の概念」として語っている内容が分かりそうなものであるが、しかし、いくら読んでも、林氏が「社会主義の概念」として語っているものは何なのかがいま一つ明確に捉えられないわけである。しかし、林氏はそれは「具体的で」「単純で」「簡単だ」なとと主張しているものだから、そんな簡単なものも分からないのか、と言われそうで、なかなか正面切って質問もできない雰囲気をつくりだしているわけである。これが果たして意図的なものかどうかはともかく。少なくとも林氏本人にそれが明確であるなら、それを読む人も明確にそれを理解することが可能であろう。それがいくら読んでも、読んだ人には分からないということは、要するに書いている本人も分からずに、ただ「社会主義の概念」なる言葉を強調しているだけに過ぎないということでしかないのである。
 例えば林氏は将来の社会の分配方式を問題にしているが、しかし、ではそれが「社会主義の概念」なのかというと、そうではなく、「社会主義の概念の根底」なのだそうである。
「社会主義の概念」とその「根底」とはどう違うのかもいま一つハッキリしないが、そもそも林氏は次のように問いかけていなかったであろうか。

 〈マルクスは共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明したが、もちろん単純商品社会においても、ロビンソンの話は当てはまるだろう、しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである。だがまさにこの決定的に重要なことがなされてこなかったのであるが、それは労働者の自己解放運動にとって大きな思想的、理論的な“欠落”部分をなして来なかっただろうか。〉

 つまり林氏は〈資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示す〉と主張していたのである。しかし、林氏がやっていることは、ただ一人の労働者が自動車を生産するというケースでしかない。確かに自動車の生産は、ロビンソンの孤島では出来ないことであり、資本の社会を想定しているといえば、そうかも知れないが、しかし自動車の生産そのものは物質的な生産であって、決して資本関係の下でそれをやるかどうかということとは別問題である。林氏が〈資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであ〉ると言う場合、それは単に物質的的生産として高度に発達した資本主義的生産の生産物を例として取り上げるということだけではなく、資本・賃労働の関係を前提し、だから商品生産も前提するということなのである。ところが林氏がやっていることは、ただ自動車生産という具体例を上げてはいるものの、その生産に必要な労働を直接労働時間で表示して論じているわけである。しかし、もし資本主義的生産を前提するなら、労働時間によって、その生産物に支出された労働を直接計測することは出来ない筈なのである。林氏が自動車生産の例を持ち出し、その生産に必要な労働を、直接労働時間で表示して考察しているということ自体、すでに林氏は〈資本の社会を前提に〉論じていないということなのである。こうして自分が言っていることと、やっていることが矛盾しているということすら林氏には分かっていないのであろう。「○○につける薬はない」というしかない。】

 我々は我々が消費する「消費手段」(消費資料、生活資料など名前は何でもいいが)――これは言うまでもなく、「生産手段」に対する概念である――を、乗用車を例に論じて見よう。主要な穀物、例えば、米や麦を取り上げても同じだが、このブルジョア社会においては、典型的な工業生産物の場合の方がより問題をはっきりさせてくれるだろう。

 【このように、林氏は〈しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである〉と述べていた内容というのは、ただ穀物ではなく、乗用車を例に論じるということなのである。しかし乗用車を例にとれば、資本関係を前提にしたことはならないのである。それはただ物質的生産として一つの例をとり上げたに過ぎない。問題は資本関係を前提にして、果たして社会主義の概念なるものが明らかになるのか、という形で提起されているのだ。】

 自動車を生産する労働者は100万人、50日働いて、100万台の自動車を生産するとする(この場合、総労働日は5000万である)。一人の労働者なら一台である。しかしこの労働者は自らの50労働日と交換に、一台の自動車を手にすることができるであろうか。

 【林氏は、ここで自動車生産だけを取り上げて、いわばそれを社会全体の生産を象徴させているようであるが、しかしそれだけで果たして社会全体の生産を象徴させることは可能であろうか。林氏は労働者を100万人と想定するが、しかし、単に自動車生産だけを具体例として取り上げるなら、別に100万人ではなく、1人で十分ではないか。なぜなら、その次に問題にしているのは、一人の労働者がどれだけの労働日と自動車とを交換できるかを問題にしているのだからである。なぜ、わざわざ100万人と想定する必要があったのか。】

 しかし実際には、自動車が完成されるためには、自動車を直接に生産するために支出された労働日の他に、自動車を生産するために用いられた生産手段――機械などの労働手段や鉄鋼などの原材料(労働対象)――の生産のための労働が必要である。それぞれ労働手段と労働対象を機械と鉄鋼で代表させよう。

 【ということは、林氏は自動車生産だけではなく、機械の生産や鉄鋼の生産も本来は問題にしなければならないのではないのか。しかもそれらもまた生産手段を必要とするのであって、だから、それらの生産手段の生産も想定しなければならない、等々。つまり林氏は、際限も無くさまざまな生産分野を想定しなければならなくなる。それをやっていないのは、ただ林氏が問題をごまかしているからである。それに林氏は、それぞれの生産手段に支出された労働を直接労働時間で計算しているが、しかし〈資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会〉を想定しながら、どうして生産手段に支出された労働を労働時間で計測できるのか。それらは資本の支配する社会を想定すれば、ただ自動車生産資本は商品として購入することが出来るだけであり、だからそれらは価値(価格)の大きさによって、それぞれに支出された社会的な労働量を把握できるのみである。だから林氏は、すでに資本の支配する社会を想定していないということである。つまり、この時点で、林氏は自ら提起した問題からすでに逸脱しているのである。林氏は、ただそれを自覚していないだけである。】

 機械(千台でも何でもいいが)の生産ためには、100万人で50日を要したとし、また鉄鋼(100万トンでも何でもいいが)の生産のためにも同じく100万人の労働者の50労働日が必要だったとしよう。両方で1億労働日である。これに前記の5000万労働日を加えれば、この社会が自動車100万台を生産するに必要な総労働は1億5千万労働日となる。

 【いうまでもなく、〈資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会……を前提〉するなら、こんなことは不可能である。もし資本の支配する社会を前提するなら、林氏はまず機械や鉄鋼の価値を問題にしなければならないからである。どうして、それらの価値を問わないのか。そうすれば、自動車の価値は、機械や鉄鋼の価値と自動車の生産のために直接支出された労働によって追加された価値の合計であり、だから機械や鉄鋼の価値は、自動車を生産する労働の具体的有用労働によって自動車の価値として保存され移転されたとしなければならないであろう。林氏は〈資本の社会を前提〉するといいながら、直接労働時間を労働量の尺度にして計算している。だからまた機械の生産に支出された労働と鉄鋼の生産に支出された労働とも自動車生産の労働が直接に社会的に結びついていることを想定しているわけである。そうでなければ、機械や鉄鋼の生産に支出された労働と自動車の生産のために直接支出された労働とを合計することなど出来ない話なのである。それらは直接社会的結びつけられていることが前提されることがまず必要なのであり、そうした想定なしに、そうした労働時間の合計など出来ない話なのである。ところが林氏自身は、そうしたことにはまったく無頓着である。それぞれの労働がどうして、直接、労働時間として合計できるのかという問題意識すらないのである。これではそもそも社会主義の概念など語る資格すらないと言わざるを得ないではないか。】

 かくして自動車100万台の生産のためには、合計300万人で50日が必要であったのであって、単に100万人だけではなかった。かくして、一人の労働者が一台を生産するには50労働日ではなく、150労働日が必要であった(150労働日は1億5千万労働日を300万人で割った結果である)。

 【ここで林氏は〈一人の労働者が一台を生産するには50労働日ではなく、150労働日が必要であった〉と述べているが、これはおかしい。問題は自動車1台の生産のために支出された労働は150労働日だと言えば、それでよいのである。一人の労働者が1台の自動車を生産するのではないからである。問題は自動車1台の生産にどれだけの労働が支出されたかであって、それが分かれば、個々人は、自分が社会に与えた労働時間が150労働日に達すれば、自動車1台を手にすることができるのである。それにそもそも林氏は〈150労働日は1億5千万労働日を300万人で割った結果である〉などと間違ったことを書いているが、15000万労働日÷300万人=50労働日/1人であって、150労働日ではない。50労働日/1人というのは、直接、間接に自動車の生産に関与した労働者300万人が、それぞれ一人当たり50労働日を支出したことを意味するに過ぎない。林氏が150労働日として計算したのは、15000万労働日÷100万台=150労働日/1台のことであり、つまり1台あたりどれだけの労働日を必要としたかを求めているのである。】

 (論文の二つ目の項目〈◆2、社会主義の“概念”〉の途中であるが、この部分のコメントは長すぎるので、ここで中断する。残りは次回。)

2016年2月10日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-12)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回は【18】パラグラフであるが、前回同様、架空資本の独自の運動が取り上げられている。現代的な問題とも関連させて解読していくことにする。)

【18】

 

 〈 (1)国債証券であろうと株式であろうと,これらの所有権原価値自立的な運動は,これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。/(2)それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。/(3)一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる《払込》金額が100ポンド・スターリングであり,その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5% で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。/(4)しかし,現実の資本の価値増殖不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕[524]から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。《というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。》/(5)貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である。〉

 ここから架空資本の独自の運動が考察されるのであるが、このパラグラフは長いので、われわれは便宜的にそれを五つの部分に分けて考えるために、「/」を挿入して、それぞれの部分に番号を記した。その番号ごとに解読を進めていくことにする。

 まず(1)の部分である。

 (1)〈国債証券であろうと株式であろうと, これらの所有権原価値自立的な運動は, これらの所有権原が,それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する。つまりこれらの所有権原は商品になるのであって,それらの価格は独特な運動および決まり方をするのである。

 すでに述べたように、マルクスは架空資本の自立的な運動を考察しようとしているのであるが、まずその書き出しを〈国債証券であろうと株式であろうと〉と書いている。つまりこれから論じる架空資本の自立的な運動としては、国債も株式も同じことが言えるとの認識がマルクスにあることはこれを見ても明らかであろう。次にマルクスが問題にするのは、国債や株式そのものではなく、それらの〈所有権原の価値〉であるということである。国債も株式も年々一定額の貨幣利得をもたらす。一方は国債の「利子」と観念され、他方は配当、つまり実現された剰余価値である。つまり国債も株式も、一方は「租税」にたいする、他方は「剰余価値」にたいする、所有権原なのである。しかし今問題なのは、単なる〈所有権原〉ではなく、〈所有権原の価値〉である。これは何かというと、国債や株式がもたらす規則的な貨幣利得は「利子」とみなされることから、その「利子」を生み出す資本=利子生み資本が想像され、そうした一定の資本価値の所有権を保持しているから利子がもたらされると想像されているわけだ。だから〈所有権原の価値〉とは、その所有しているとされる想像された利子生み資本の価値のことである。だからここでマルクスが〈所有権原の価値〉を問題にしているということは、すでに「利子--資本」の転倒にもとづく架空資本としての資本価値を問題しているということなのである。
 そうした〈所有権原の価値〉すなわち架空資本としての資本価値は、〈自立的な運動〉を行なうと考えている。そしてその自立的な運動が〈それらを権原たらしめている資本または請求権のほかに,現実の資本を形成しているかのような外観を確認する〉というのは、〈それらを権原たらしめている〉というのは、株式も国債もともにそれぞれ名目的な額面貨幣額が記されており、その額面額が株式の場合はその配当率にもとづいて規則的な一定の貨幣額を請求する権原をその所有者に与えており、国債の場合も確定利率にもとづいて、その額面に応じた年間貨幣額を租税から請求する権原をその所有者に与えているということである。つまり株式も国債もそれぞれの額面の名目的な額に応じて、一方は配当率によって、他方は確定利率によって、一定額の規則的な貨幣利得をその所有者が得る権原があるということである。しかし株式も国債も、そうした貨幣請求権とは別に、その架空資本としての資本価値の自立的な運動によって、あたかも〈現実の資本を形成しているかのような外観を確認する〉のだというのである。そしてそうした外観にもとづいて、それらは商品になり、すなわち売買され、またそうした商品として〈それらの価格は独特な運動および決まり方をする〉のだという。ここで〈現実の資本を形成しているかのような外観〉というわけだから、それらは決して〈現実の資本を形成して〉いないのに、〈形成しているかのような外観〉、つまり見かけ上そのように見えるということである。だからそれらは商品として売買されるわけである。しかし実際はそれらは商品でもないし、その売買は普通の商品の売買という意味での売買ではないのである。それらはすべて見かけ上のものである。これはエンゲルス版の第21章以降において利子生み資本の概念が説明された所でも、貨幣そのものが商品となり利子がその価格となって、売買される外観をとったのと同じことが言えるのである。株式も国債も一見すると商品として売買されているように見えるが、実際は、そうではなく、それは利子生み資本の運動なのであり、だからそれらは貨幣の貸し付けと返済の運動を行なっているに過ぎないわけである。例えば株式を証券市場で購入する貨幣資本家は彼の私的な立場からは、彼の所有する貨幣を利子生み資本として投下するわけであり、その意味では彼がそこから得る配当は彼の貨幣資本(moneyed Capital)の果実(利子)である。そして彼がその株式を売り飛ばしたなら、彼はその彼自身が貸し付けた貨幣資本の返済を受けたことになるのである。だから架空資本としての株式の売買も基本的には利子生み資本としての貨幣の運動と同じであり、貨幣の貸し借りが商品としての貨幣の売買という外観を得たのと同じなのである。国債の場合も同じであり、国債の購入も購入者は彼の私的な立場からは利子生み資本を投下したのであり、彼が国債を販売するときは、彼の貸し付けた資本(利子生み資本)の返済を受けたことになるのである(株式や国債の場合、「購買」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「販売」が利子生み資本の「返済(回収)」である。貨幣商品の場合は「販売」が利子生み資本の「貸し付け」であり、「購買」が利子生み資本の「借り入れ」であった)。

 (2)〈それらの市場価値は,現実の資本の価値が変化しなくても(といっても価値増殖は変化するかもしれないが),それらの名目価値とは違った規定を与えられる。

 ここには〈市場価値〉と〈名目価値〉という用語が使われている。ここで〈市場価値〉をあまり厳密に考える必要はないように思える。マルクスは第10章で「市場価値」について次のように述べていた。

 〈これらの商品のあるものの個別的価値は市場価値よりも低い(すなわちそれらの生産に必要な労働時間は市場価値が表わしている労働時間よりも少ない)であろうし、他のものの個別的価値は市場価値よりも高いであろう。市場価値は、一面では一つの部面で生産される諸商品の平均価値と見られるべきであろうし、他面ではその部面の平均的諸条件のもとで生産されてその部面の生産物の大量をなしている諸商品の個別的価値と見られるべきであろう。 〉(全集25a225頁)

 つまり市場価値というのは、同じ商品種類において個別の商品の価値の平均価値という意味である。しかしマルクスは同時に〈最悪の条件や最良の条件のもとで生産される商品が市場価値を規制するということは、ただ異常な組み合わせのもとでのみ見られることであって〉(同)とも述べており、だから異常な組み合わせの場合には、こうした意味での市場価値とは異なるケースもありうることを意味している。よって、ここではわれわれにとって重要なのは、〈市場価値はそれ自身市場価格の変動の中心なのである〉(同)というマルクスの説明であろう。すなわちここで、マルクスが述べている〈市場価値〉は〈市場価格〉の中心をなすものという意味での〈市場価値〉と考えることができる。つまり国債や株式が実際に売買される価格(=市場価格)というのは、直接にはそれらの需給によって日常的に上下するのであるが、〈市場価値〉というのは、そうした日々変動する〈市場価格〉を規制し、その変動の中心をなすものなのである。これらの「架空資本」の「資本価値」はまったく純粋に幻想的なものだとマルクスは説明してきた。「市場価値」はこれまでマルクスが述べてきた「資本価値」と基本的には同じものと考えられる。だからそれらの〈市場価値〉も同じように幻想的と考えるべきものである。しかし、現実にはそうした市場価値を中心にした市場価格でそれらは証券市場において売買されており、そうした自立的な運動を行なっているわけである。
 だからここでマルクスが〈市場価値〉と述べているのは、マルクスがこれまで述べてきた資本価値、すなわち架空資本のことであり、〈名目価値〉と述べているのは、国債や株式の額面が表す(代表する)価値のことである。

 (3)〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。たとえば,ある株式の名目価値,すなわち当初この株式によって表わされる《払込》金額が100ポンド・スターリングであり,その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば,この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる,つまり2倍になる。というのは,5% で資本還元すれば,それは今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしているからである。この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る。企業の収益が減少するときには逆になる。この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである。

 ここでは最初は〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉というように、〈それらの〉とか〈これらの〉というように、国債と株式をともに想定して論じているが、〈たとえば〉以下は株式を例に上げて論じている。だからマルクスとしては、株式の例は国債にも基本的には妥当すると考えていることが分かる。しかしとにかく今は架空資本としての株式について、マルクスが述べていることが問題である。ここで〈株式の名目価値〉というのは、株式の額面が表す貨幣額である。それは〈当初この株式によって表わされる《払込》金額〉のことであり、それが今は〈100ポンド・スターリング〉である。そして〈その企業が5% ではなく10% をもたらすとすれば〉というのは、配当率が5%ではなく10%だということである。そうすると、〈この株式の市場価値は,200ポンド・スターリングに上がる〉というのは、市場利子率(平均利子率)が5%と仮定されており、だから100ポンドの10%=10ポンドを5%で資本還元すれば、10÷0.05=200ポンドになるというわけである。だから〈今では200ポンド・スターリングの架空資本を表わしている〉ことになるわけである。
 だから〈この株式を200ポンド・スターリングで買う人は,このように投下された彼の資本から5%を受け取る〉。つまり彼は彼の私的な立場からは彼の貨幣200ポンド・スターリングを利子生み資本として貸し付けて、その価格(利子)として、その5%、つまり10ポンド・スターリングを受け取るわけである。それは彼がそれを機能資本家に貸し付けて5%の利子を得るのと基本的には同じなのである。彼の200ポンド・スターリングは彼の私的な立場からは利子生み資本であるが、しかし客観的にはそうではない。
 しかし証券市場で購入した株式の場合は、〈企業の収益が減少するときには逆になる〉。つまり配当率が10%ではなく、5%になる場合、彼は前貸した200ポンド・スターリングに対して、たった5ポンド・スターリング、すなわち平均利子率の半分(2.5%)しか得られないことになる。そして同じことであるが、彼の手にした株式の市場価値は、いまでは半分の100ポンド・スターリングになってしまうであろう。そして彼が手にする5ポンド・スターリングはこの100ポンド・スターリングの5%になるわけである。
 だから〈この市場価値は,ある部分は投機的である。というのは,この市場価値は,ただ現実の収入によってだけではなく,予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されているのだからである〉。つまり今は配当率10%で200ポンド・スターリングの市場価値を示しているが、しかし将来的には配当率が15%になると〈前もって計算されうる〉なら、その市場価値は200ポンド・スターリングではなく、15÷0.05=300ポンド・スターリングになるわけというわけである。
 ところでマルクスは、最初に〈一方では,それらの市場価値は,これらの権原によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する〉と述べていたが、この株式の例は、〈取得される収益の高さ……につれて変動する〉ことは分かったが、〈確実性〉というのは、いま一つはっきりしなかった。確かに株式の場合も〈予期された(前もって計算されうる)収入によって規定されている〉というのは、その〈収益の……確実性〉によって規定されていると考えることもできる。しかし収益の確実性ということでわれわれがすぐに思い浮かべるのは、いわゆる「リスク」ということである。株式の場合もその株式会社がどの程度の安定した収益をあげるかどうかは、一つのリスクと考えてもよいが、リスクとしてわれが思い浮かべるのは、サブプライムローンの証券化である。サブプライムローンの証券化の過程は、いろいろに説明されているが、次のような図がある。

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 この図でシニア、メザニン、エクイティというのは、サブプライムローンを証券化したものをそれぞれのリスクによって階層化して区別したものである。「AAA格」というのはもっと安全なものと格付会社によって格付けされたものであり、だからリスクの低い証券であることを示している。だからリスクの低い証券の場合は当然、その確定利息は低いのである。それに対してエクイティはもっともリスクの高いものであり、だから確定利率も最も高いというわけである。だから一般にサブプライム・ローンというのは、低所得階層など信用度の低い階層を相手にしたローンであるから、リスクの高いローンであり、だから高い利回りで貸し付けられる。ところがそれが証券化される過程で、そのローン債券がプールされて全体のリスクを沈殿させ、そのリスクの高低によって階層分けされ(それをトランシェという)全体としては高いリスクで分散しているものを、そのリスクのほとんどをエクイティやあるいはその一部をメザニンに集め(沈殿させ)、その代わりにシニアの部分(上澄み部分)を、安全な証券(リスクの低い証券)として販売しよう(だから低い利回りで利子生み資本をかき集めよう)とするものなのである。これがいわゆる「金融工学」などと言われる詐欺的理論のカラクリなのである。
 もう少し具体的な数値を入れて考えてみよう。まずサブプライムローンの利息を10%として、そのプールされた貸し付け総額が100億円だとしよう。そうすると年々の利子所得が10億円入ることになる。この10億円のキャッシュフローをもとに証券化されると考えるわけである。いま平均利子率が2%とすると、これらの市場価値の総額は500億円である。だからもしそれをSPV(特別目的媒体、あるいは特別目的事業体とも訳される)が細分して証券化し,しかしその証券の総額を500億円なる価格で販売したなら、SPVは何と400億円という貸し付け金額の4倍もの利益を得ることになる。しかしもちろん、こんなことはできない。というのは、サブプライムローンが10%と高利率なのは、それはリスクが高いからであり、それが証券化されたからといってリスクが低くなるわけではないからである。だから平均利子率で販売できないわけである。しかしここに金融工学が登場するわけである。つまりプールされた債権全体に分散している高いリスクを、沈殿槽で沈殿させる汚泥のように、リスクをそのプールのなかで沈殿させると、その上澄部分がリスクをほとんど含まない安全な証券として販売できるというわけである。つまり低い利率で販売できる(低い利率で利子生み資本を借り受けることができる)。例えば、5%の確定利息で販売するなら、トリプルAでしかも5%の利率なら、日本の年金機構などは喜んでそれを買うわけである。日本の国債を買うよりも利息が高いから運用利回りが高く、しかも安全であるからである。こうした結果、SVPは、低い利息で借りた貨幣資本を、高い利息で貸し付けてその利ざやを荒稼ぎしたことになるわけである。これがサブプライムローンの証券化の最大の目的なのである。
 林氏は証券化は債権の流動化そのものに意義があるかに主張するのであるが、もちろん、そうした流動化の意義を否定する必要はないが、しかしそれだけなら、格付けによって階層化する必要もまたないわけである。        
 ところでこうしたリスクによる利回りの高低は、国債についても言いうるのである。もちろん、例えば日本の国債の場合には国内ですべて販売されているから、こうしたことは必ずしも当てはまらないが、世界を見渡すとさまざまな外債が販売されている。一般に新興国の国債ほど高い利回りで販売されているが、それはそれだけリスクが高いからである(リスクが高いから高い利回りでないと売れない)。日本の国債もアメリカの大手格付け会社ムーディーズが、2002年5月に「日本の債務状況を向こう数年間予想した」結果として、ボツワナ以下に引き下げていることは周知のことである。主要国の長期国債の格付けは下図のようになっているらしい。
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 (4)〈しかし,現実の資本の価値増殖不変と前提すれば,または,国債の場合のようになんの資本も存在しない場合には,年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする。たとえば利子率が5% から10%に上がれば,5%の収益を保証する有価証券は,もはや50〔ポンド・スターリング〕の資本しか表わしていない。利子率が5% から2[1/2]%に下がれば,5%の収益をもたらす有価証券は100 〔ポンド・スターリング〕[524]から200〔ポンド・スターリング〕に値上がりする。《というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから。》

 次は価値増殖が不変と前提した場合である。あるいは国債の場合には、そもそもそれが代表する資本そのものがないわけだから、その増殖もなく、ただ確定利息として年々租税からの支払額が前もって決まっているだけであるが、そうした場合、つまり〈年々の収益が法律によって確定されているものと前提すれば,これらの有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする〉。ここで〈有価証券価格〉と言われているのは、その前に〈所有権原価値〉とか〈株式の市場価値〉と言われていたものと同じと考えるべきであって、市場価格のことではないと思われる。
 だから市場の利子率が5%から10%に上がると、配当率が5%の株式の場合、あるいは確定利息が5%の国債の場合も、額面が100ポンド・スターリングであっても、その市場価値(所有権原の価値)は50ポンド・スターリングになるわけである。なぜなら、年々の貨幣利得は5ポンド・スターリングであるが、平均利子率が10%のために、それで資本還元すると、5÷0.1=50[ポンド・スターリング]だからである。つまり年々5ポンド・スターリングの貨幣利得は、この場合50ポンド・スターリングの想像された利子生み資本の生み出した利子とみなされ、50ポンド・スターリングの利子生み資本の所有権原を持っていると想像されるわけである。
 だからまた市場利子率が5%から2.5%に下がると、100ポンド・スターリングの額面で確定利息や配当率が5%であるなら、それらの有価証券(国債と株式)は、200ポンド・スターリングに値上がりする。というのは、同じように年々5ポンド・スターリングの貨幣利得が2.5%で資本還元されるから、5÷0.025=200だからである。
 だから利子率が上がれば価格は下がり、下がれば上がる。すなわち〈有価証券価格利子率に(利子率の変動に)反比例して上がり下がりする〉わけである。
 〈 《というのは,それらの価値は,収益が資本還元されたもの,すなわち収益が幻想的な資本にたいする利子としてそのときの利子率で計算されたものにイコールなのだから》 〉とマルクスはその理由について述べている。つまり年々5ポンド・スターリングの収益は、200ポンド・スターリングの想像された利子生み資本が、その時の利子率にもとづいて利子としてもたらしたものと考えられるからだというのである。

 (5)〈貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期にはこれらの有価証券の価格は二重に下がるであろう。すなわち第1には,利子率が上がるからであり,第2には,こうした有価証券を貨幣に実現するためにそれらが大量に市場に投げ込まれるからである。この下落は,これらの証券によってそれの保有者に保証される収益が国債証券の場合のように不変であろうと,それによって表わされる現実の資本の価値増殖が鉄道,鉱山等々の場合のように再生産過程の撹乱によって影響されるおそれがあろうと,そのようなことにはかかわりなく起こるのである。嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる。恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である。

 〈貨幣市場〔moneymarket〕の逼迫の時期〉、つまり資本の循環が停滞する時期(再生産過程が攪乱する時期)には、資本家たちが、自分たちが振り出した手形の満期が近づきそれを決済する現金が必要なのに、受け取った手形が支払われないために、現金が不足し、そのためにとりあえず銀行に一時的な貨幣融通を要請したり、手持ちの有価証券を売って現金に変えようとする人たちが多くなる。そうした時期には、有価証券の価格は二重に下落する。第一に、誰もが現金を必要とするから銀行に対する融通の要求が強く、貨幣資本に対する需要が高いために、利子率は上がるからであり、第二に、誰もが有価証券を販売しようとするから、有価証券の供給が多いのに、だれもそれを買おうとせず、需要が少ないからである。
 〈この下落〉、つまり逼迫期の有価証券の下落は、この証券が国債のように年々の貨幣利得が確定していて不変であっても、あるいは株式のように現実資本の価値増殖が、再生産過程の攪乱によって影響される恐れがあろうとも、そうしたことに関わりなく起こるとマルクスは指摘している。つまりこうした点でも,つまり逼迫期の価格の下落という点でも、国債と株式とには、架空資本の運動としては、同じだとマルクスは述べているわけである。こうした叙述を見ても、マルクスが架空資本としては国債も株式も同じものであり、両者に相違はないものとして見ていることが分かるであろう。

 だから架空資本(有価証券)の市場価格は、次のような要因によって決まってくる。

 (1)まずそれらの権原によって取得される収益の高さと確実性によって。株式の場合は、まず配当率の高さによって、債務証書の場合はリスクの高さによって確定利息の高低が決まり、その確定利息によって有価証券の価格も規定される。

 (2)次に配当率や確定利息が決まっていて、変動しないとすれば、有価証券の価格は、市場利子率(平均利子率)の変化に反比例して変動する。

 (3)さらに有価証券の価格は、証券市場におけるそれらの証券の需給に応じても、直接に変動する。

 以上の要因によって実際に証券市場で売買されている有価証券の市場価格は決まってくるわけである。

 そして〈嵐が去ってしまえば,これらの証券は,失敗した企業やいかさま企業を表わすものでないかぎり,ふたたび以前の高さに上がる〉。だからこの場合は株式について妥当することであろう(もっとも国債も国家が破産すれば同じであるが)。株式の場合も、企業が倒産する場合だけでなく、投機がもっとも盛んになる狂乱期には1847年恐慌時の鉄道投機のように、まったくイカサマの鉄道敷設計画をでっち上げる等のことが行われたのであり、だから倒産したり、そうした投機にもとづくものでないかぎりは、嵐がされば、こうした有価証券の価格は本来の高さにもどるわけである。1847年のいかさまの鉄道投機について、少し紹介しておこう。

 〈この投機の最盛期は1845年の夏と秋であった。これらの株式の価格はたえず上がり、投機の利益は国民のほとんどすべての階層を渦中に投げ込んだ。公爵も伯爵も、種々の鉄道線の重役会に席を占めるという収入のある栄誉をえようとして、商人や工揚主たちと張り合った。……1ペニーでも貯えのある者、いささかでも信用を利用しうる者は、鉄道株の投機をした。……イギリスおよび大陸の鉄道組織の現実の拡張と、それと結びついた投機との基礎のうえに、この期間にしだいに、ローや南海会社の時代を想起させる思惑の上部構造がつくり出されていった。幾百という線が成功の見込みがすこしもないのに企画された。そこでは、企画者自身が実際に実行することなどはぜんぜん考えていなく、一般に、重役たちで供託金を食いつぶすこと、株式を売って詐欺的利潤をうることが狙いであった。〉 (三宅義夫編『マルクス・エンゲルス恐慌史論』上20頁)

 〈恐慌のときに生じるこれらの証券の減価は, 貨幣財産の集積の一手段である〉。恐慌時に低落した株式は、それを利用して特定の貨幣資本家に集中されるわけである。株式市場では、常に小さな個人株主が大株主の犠牲になり、それらに飲み込まれる。大株主は、さまざまな情報網によって、上昇した株を下落前に売り抜けて、濡れ手に粟のぼろ儲けをしたあと、低落した株式を今度は再び買い集めて、またその上昇を待って一儲けするわけである。こうした過程を通して貨幣財産は特定の貨幣資本家にますます集中する。

(以下、続く)

林理論批判(35)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.12)

 このシリーズはこれで終えると何回も言いながら、相変わらず続けるのは心苦しいが、とにかくノート類はきちっと整理されているわけではなく、いろいろと捜していると関連するものが出てくるのだから、申し訳ないが続けさせていただく。
 今回から紹介するものは、すでに林理論批判としては32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。これは林氏の論文そのものに直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。先に紹介した批判文では、最初に次のような断りを入れていた。

 〈われわれはこの論文の批判的検討では、これまでやってきたように、逐一その誤りを指摘し、批判するという方法は採用しない。というのはそうした方法は、今回の場合、あまりにも煩雑になるからである(つまりそれだけ問題にすべきところが多すぎるわけだ)。だから、今回は、主要且つ重要な問題点と思える課題に絞って、その誤りを指摘し、正しいマルクスの理解を対置して批判することにしよう。〉

 つまり先の批判文では〈主要且つ重要な問題点と思える課題に絞っ〉たのであるが、今回紹介するものは、記事に直接批判を書き入れるという形式をとっているわけである。ただ前もってお断りしておかねばならないのは、これは先に紹介した批判文を書くための準備資料であり、素材そのものであるから、当然、前回の批判文と重複する内容が出てくることはご容赦願わねばならない。また林氏の論文をそのまま紹介しながら、そこに私の批判を書き入れるという形式をとっているために(それが一目で分かるように私の批判文は太字にした)、全体としては大変長いものになってしまうが、しかし林氏の論文を読んでいない人(あるいは忘れてしまっている人)には、それはそれで面白いのではないかと思った次第である。何回かに分けて紹介する。今回はその第一回目である。

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)---(1)

 この小論の核心は、「有用的労働による“価値”移転論」――長い間、私が“スターリン主義”として、つまりブルジョア的理論の一種として問題にしてきた俗論――を批判し、止揚するためのものでもある、というのは、このことなくしては、来たるべき社会主義社会の真実の、そして具体的で、生き生きとした概念が不可能であると思うからである。社会主義の真の理論は、労働者にとって基本的であり、決定的に重要なものである、仮に社会主義の獲得が、根底的には、理論や「意識」やその獲得に属する問題ではなく、労働者階級の歴史的、社会的な実践の問題、具体的な行動の問題であるにしても、である。この小論の趣旨は、私が当初中途半端で、誤解を招くような形で提出したこともあって、田口や森らの会員からさえ“きつい”批判、「止めるべきだ」といった忠告を受けて来たものと、根底では同じである。

◆1、問題の所在

 マルクスはすでに『資本論』の冒頭のところで、商品価値を分析した後、孤島におけるロビンソンの生活を引いて、共同体社会においても「価値の規定」――商品の交換価値の関係ではなくて――がまだ重要な意義を持つことを次のように述べている。
「本来彼は控え目な男ではあったが、それでとにかく彼は、各種の欲望を充足せしめなければならない。道具を作り、家具を製造し、駱駝を馴らし、漁〔すなど〕りをし、猟をしなければならない」、「ロビンソンと彼の自分で作り出した富をなしている物との間の一切の関係は、ここでは極めて単純であり、明白であって、……特別に精神を緊張させることなく理解できるようである。そしてそれにもかかわらず、この中には価値の一切の本質的な規定が含まれている」(『資本論』岩波文庫第一分冊146~7頁)。

 【ここで林氏は〈ロビンソンの生活を引いて、共同体社会においても「価値の規定」―……がまだ重要な意義を持つことを次のように述べている〉というが、しかし、ロビンソンの生活をそのように捉えるのは果たしてどうであろうか。ロビンソンの生活そのものは、必ずしも「共同体社会」を直接想定したものではない。むしろあらゆる社会形態から独立した、故にあらゆる社会に共通な物質代謝の一般的な条件として、マルクスは考察しているのである。私は『資本論』のこの部分について次のような指摘を行ったことがある(第39回「『資本論』を読む会」の報告(その1))。

 〈古典派経済学の取り上げるロビンソン物語とマルクスの論じているロビンソン物語とには、歴然たる相違があります。古典派経済学の場合は、歴史の出発点として孤立した個人の狩猟や漁労を取り上げながら、その中に直接、交換価値や資本、利潤等を持ち込んで論じています。マルクスがリカードのロビンソン物語について、〈そのさい彼は、原始的な漁師と猟師とが、彼らの労働用具の計算のために、一八一七年にロンドン取引所で用いられている年賦償還表を参照するという時代錯誤におちいっている〉と批判しているようにです。しかし、マルクスの場合、すでに見たように、ロビンソンの孤島での生活をあらゆる社会的な関係とは無縁の一つの抽象物として論じています。ロビンソンは孤島でひとりぼっちなので、ここでは彼と自然との関係のみがあるだけです。これはマルクスが「第5章 労働過程と価値増殖過程」の「第1節 労働過程」において、労働過程をとりあえずはあらゆる社会形態から独立してそのものとして考察したのと同じような関係が、ここにはそのまま、つまり何の抽象も必要なく、具体的なものとして存在しているわけです。

 マルクスは労働過程がそうした抽象的なものとして論じる理由を次のように述べています。

 〈使用価値または財貨の生産は、資本家のために資本家の管理のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えはしない。したがって、労働過程は、さしあたり、どのような特定の社会的形態からも独立に考察されなければならない。〉(全集版233頁)

 そしてそうした考察の最後に、その意義を次のように述べています。

 〈われわれがその単純で抽象的な諸要素において叙述してきたような労働過程は、諸使用価値を生産するための合目的的活動であり、人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、したがってこの生活のどんな形態からも独立しており、むしろ人間生活のすべての社会形態に等しく共通なものである。それゆえ、われわれは、労働者を他の労働者たちとの関係において叙述する必要がなかった。一方の側に人間とその労働、他方の側に自然とその素材があれば、それで十分であった。小麦を味わってみてもだれがそれを栽培したのかわからないのと同様、この過程を見ても、どのような条件のもとでそれが行なわれるのか、奴隷監督の残忍なムチのもとでか、資本家の心配げなまなざしのもとでなのか、それともキンキナトゥスが数ユゲルム〔1ユルゲム=約25アール〕の耕作において行なうのか、石で野獣を倒す未開人が行なうのか、はわからない。〉(241-2頁)

 ここでマルクスが述べているように、マルクスのロビンソンの孤島での生活の考察は、それが〈人間の欲求を満たす自然的なものの取得であり、人間と自然とのあいだにおける物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永遠の自然的条件であり、・・・・人間生活のすべての社会形態に等しく共通なもの〉としてではないかと思います。それがロビンソンの孤島での生活では、一つの空想的な物語とはいえ、具体的に何の抽象も必要のない形で存在しており、その具体性において、一般的条件が考察できるからではないかと思うわけです。〉

 つまりロビンソンの生活は、そうした抽象的な物質代謝の一般的な条件としては、「共同体社会」にも妥当するといえるのである。だから「価値の一切の本質的な規定」、すなわち「価値規定の内容」というのは、そもそもそうしたものなのである。ここでマルクスは「価値の一切の本質的な規定」と、「一切の」と述べているのは、すでにその前に「価値規定の内容」として三つの契機を上げていたからである。因みに、初版では、このロビンソンの生活の考察(現行版第12パラグラフ)と将来の連合体社会の考察(同第15パラグラフ)は、使用価値と価値規定の内容には、神秘的なものは何もない、具体的な例証として、そのパラグラフに直接続く形で論じられていたものなのである。】

 
 そして同様なことは、『ゴータ綱領批判』の中でも明確に述べられているし、『反デューリング論』でも強調されている。
「ここで問題にしているのは、それ自身の土台のうえに発展した共産主義社会ではなく、反対に今ようやく資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会である。したがって、この共産主義社会は、あらゆる点で、経済的にも道徳的にも精神的にも、それが生まれでてきた母胎たる旧社会の母斑をまだ帯びている。したがって、個々の生産者は、彼が社会に与えたものと正確に同じものを――控除をおこなったうえで――返してもらう。彼が社会にあたえたものは、彼の個人的労働量である。例えば、社会的労働日は労働時間の総和からなり、個々の生産者の個人的労働時間は、社会的労働日のうちの彼の給付部分、すなわち社会的労働日のうちの彼の持分である。彼はこれこれの労働(共同の元本のための彼の労働分を控除したうえで)を供付したという証明書を社会からうけとり、この証明書をもって消費資料の社会的貯蔵から等しい部分の労働を要するものをひきだす。彼は自分が一つの形で社会に与えたものと同じ労働量を別の形で返してもらうのである。
 ここでは明らかに、商品交換が等価と等価の交換であるかぎりで、この交換を規制する同じ原則が支配している。内容と形式はかわっている。なぜなら、変化した事情のもとでは、だれも自分の労働のほかは何ものも与えることができないから、また他方では、個人的消費資料のほかには何ものも個人の所有に移りえないから、である。しかし、個人的消費資料が個々の生産者のあいだに分配されるときには、商品等価物の交換のときと同じ原則が支配し、一つの形の労働が、他の形の等しい労働と交換されるのである」(『ゴータ綱領批判』、国民文庫43~4頁)

 【林氏は〈そして同様なことは、『ゴータ綱領批判』の中でも明確に述べられている〉というが、しかし、ゴータ綱領批判の林氏が引用している部分で主に問題になっているのは、分配の問題である。だからその限りでは決して、「同様なこと」とは言えないのである。】

「社会が自ら生産手段を掌握し、生産のために直接に社会的に結合して、その生産手段を使用するようになったそのときから、各人の労働は、その特殊な有用性がどんなにさまざまであっても、はじめから直接に社会的労働となる。そうなれば、ある生産物に含まれる社会的労働の量を、まず回り道をして確かめるには及ばない。平均的にどれだけの社会的労働が必要かということは、日々の経験が直接に示してくれる。蒸気機関一台、最近の収穫期の小麦一ヘクトリットル、一定の品質の布一〇〇平方メートルに、どれだけの労働時間が含まれているかを、簡単に計算することができる。だから、そのときになれば生産物に投入された労働量が社会には直接にまた絶対的に分かっているのに、その後もあいかわらず、以前に便法としてやむをえなかった、たんなる相対的な、動揺的な、不十分な尺度で、すなわちある第三の生産物(価格、つまり価値=労働時間の貨幣による表現―林〕でそれを表現し、それの自然的な、十全な、絶対的尺度である時間で表現しないなどということは、社会にとって思いもよらないことである」(『反デューリング』、国民文庫2、543~4頁、第三篇4、分配)

 【この『反デュー』からの引用文は確かに「第3編4、分配」からの引用であるが、しかし内容そのものは、必ずしも分配を論じていない。将来の社会では、生産物に支出された労働量を、直接、労働時間で表現するということを述べているだけである。】

 だが実際には、マルクス主義と結び付いた社会主義運動が世界中に広がり、広汎な大衆的な基盤を持ちえた時代さえ存在したというのに、ロシアなどではマルクス主義的な労働者の党派が政権を掌握した経験さえあったというのに、マルクスが「単純であり、明白だ」と喝破した社会主義の観念は決して、これまでずっと――つまり百年、あるいは第二インターの時代も含めれば百二十年余もの間――、そのようなものとして提示され、説かれたことはないのであり、現在も説かれていないのである。もちろん、こうした事情には、社会主義運動における日和見主義や修正主義や“スターリン主義”の支配と影響力のためであって、現在でも不破哲三といったブルジョア的俗物は、社会主義においても「市場経済」による、その支配と規制による、生産と分配の必要性と必然性を説き、「市場経済」における、人々の自然発生的な商品の交換や「価格」運動による規制や効力なくしては、社会的な生産や分配は、つまり社会主義は不可能であるとわめいている。
 つまり不破は、「市場経済」を、つまりこのブルジョア社会を途方もなく美化し、肯定し、持ち上げるのであり、社会的な生産や消費に調和をもたらす、その重大にして、すばらしい「市場経済」(すなわち資本主義社会)の機能や効能を賛嘆し、持ち上げて、それをなくしたら社会の経済とその関係はめちゃめちゃになってしまう、といった妄言を――スターリンに学んだのか、ハイエクに教えてもらったのかは知らないが、ブルジョアたちが言いはやしているのと全く同様の、資本の支配とその社会への賛歌と帰依の信条を――得意げに並べ立てている(拙著、『不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』、105頁以下、とりわけ115~6頁を参照されたい)。まさに“スターリン主義者”としての不潔な本性暴露というところであろう。
 マルクスは共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明したが、もちろん単純商品社会においても、ロビンソンの話は当てはまるだろう、しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである。だがまさにこの決定的に重要なことがなされてこなかったのであるが、それは労働者の自己解放運動にとって大きな思想的、理論的な“欠落”部分をなして来なかっただろうか。

 【すでに指摘したように、マルクスは決して〈共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明〉したわけではない。確かに第15パラグラフでは、ロビンソン個人の関係が、共同体の関係として再現するとは述べているが、だからと言って、共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えたのではないのである。すでに述べた様に、ロビンソンの関係は、あらゆる社会に共通の関係であるから、共同体においてもそれは個人と自然との関係ではないが、社会と自然との関係として再現すると述べているのである。ロビンソン個人の関係が、そうした一般的なものであるからこそ、それはその限りでは〈単純商品社会〉(そんな社会があるとしての話だが、林氏は大塚史学を批判していたが、いつのまにか同じ立場に立っているのであろうか)であろうが、資本主義社会であろうが、封建社会であろうが、貫いているのである。ただ封建社会や資本主義社会では、そうした一般的なものが歴史的な形態をとっているわけである。この関係は、マルクスがクーゲルマンに宛てた手紙のなかで、次の様に述べているのと合致する。

  《この男にできる最大限の譲歩とは、およそ価値なるものを想定するならば、私の結論を認めざるを得ない、と認めることなのです。かわいそうにこの男には、もし私の本に「価値」にかんする章が一章もないとしても、私がやってみせた現実の諸関係の分析が、現実の価値諸関係の証明と実証を含むことになるという点がわからないのです。価値概念を証明する必要がある、などというおしゃべりができるのは、問題とされている事柄についても、また科学の方法についても、これ以上はないほど完全に無知だからにほかなりません。どんな国民でも、一年はおろか、二、三週間でも労働を停止しようものなら、くたぼってしまうことは、どんな子供でも知っています。どんな子供でも知っていると言えば、次のことにしてもそうです、すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ、ということです。社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則というのはなくすことができないものです。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特微としているような社会状態で、この労働,の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。
 価値法則がどのように貫徹されていくかを、逐一明らかにすることこそ、科学なのです。だから最初から、この法則に矛盾するように見える諸現象を「説明」しようとすれぽ、科学以前の科学を持ち出さなければならないことになるでしょう。リカードの誤りはまさに、彼が価値について論じている第一章で、まず逐一明らかにしなければならない、ありとあらゆる範疇を、与えられたものとして前提し、これらの範疇が価値法則に適合していることを証明しようとしたことにあるのです。
 それはそうなのですが、他方、あなたが想定されたとおりなのでして、学説史が証明しているところでは、価値関係の理解は、あるいはかなりはっきりしていたり、あまりはっきりしていなかったり、またあるいは妄想で飾りたてられ気味だったり、科学的にかなり明確であったりはしていても、けっきょくはいつも同じでした。思考過程そのものが諸関係のなかから生まれ出て来る、つまりそれ自体ひとつの自然過程なのですから、物事をじっさいに把握する思考はいつも同じであるほかないわけで、その違いは発展の成熟、だからまた思考を行なう器官の発達の成熟の度合に応じて段階的なものでしかないのです。それ以外はいっさいばか話です。》(全集32巻454-5頁、下線はマルクスによる強調)

 林氏は、〈しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである〉と述べている。つまり資本の社会を前提に、ロビンソンの孤島での生活と同じような「単純であり、簡単である」ような関係を、明瞭に、具体的に示すのだというのだが、それは果たして可能であろうか。資本関係を捨象せずして、それをそのまま前提した上でなら、そうしたことは恐らく不可能であろう。資本関係を前提するなら、マルクスがやったように、資本主義的生産様式そのものを科学的に解明する以外にないのであって、それを「単純であり、簡単である」ような関係に還元しようとするなら、すでにそれは資本関係を捨象しているから、それが出来るのだ、ということを林氏は果たして理解してこのように述べているのであろうか。】

 したがってこの部分を埋め、明らかにすることは決定的に重要であり、労働者が勝ち取ろうとしている――勝ち取らなくてはならない――社会の、具体的で明瞭な観念を持つことは、つまり自らの闘いの目的であり、理想でもある社会の根底の性格や内容やその意味を正確かつ明瞭に理解することは、労働者の階級的闘いを弱めないで強めるであろう。労働者は天国や彼岸の世界に理想郷を妄想するのではなく――そんなことは、無知で愚昧な坊主や宗教家、低俗な“哲学者”たちに任せておけばいい――、現実の資本主義の中に、自らの解放の条件を見出すのであり、資本の支配を一掃することで、それを実現するのである。

 【ここで林氏が述べていることは、もっともらしく聞こえるが、必ずしも正しいとは言えない。というのは、その前に林氏が述べていたことは、ただあらゆる社会に共通な一般的な契機でしかないからである。つまり極めて抽象的な内容なのだ。しかしわれわれが資本主義的生産様式のなかに見いだす、形成されつつある将来の社会の萌芽というものは、そうした抽象的な内容ではないし、あってはならないであろう。それこそもっと具体的なものとして、資本主義的生産様式は歴史的に将来の社会の萌芽、つまりその潜在的な内容を産み出しているのである。それはマルクスが『資本論』のアチコチで指摘していることでもある。例えば、株式会社の発展によって生み出されている諸関係を、マルクスは将来の社会への過渡だと述べていることを思い出してみればよい。だから資本主義的の生産の中に将来の社会の契機を見いだそうとするなら、もっと資本主義的生産様式そのものの内的諸関係に分け入って考察する必要があるのであり、林氏が上記のように述べているような一般的な内容に還元するだけでは、そうしたことはいまだ語ることはできないのである。】

 (以下、続く)

2016年2月 3日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-11)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回も架空資本の運動が問題になっているが、それを説明するために、今度は、株式が例に挙げられている。だからこれに関連して、混乱した主張を展開している林紘義氏や大谷氏についても、その所説を批判せざるを得なかった。)

【17】

 〈[523]債務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である。さきほど見たように,信用制度〔Creditwesen〕は結合資本を生み出す。この資本にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている。すなわち,これらの企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。(もちろん,それらの株式がただのいかさまを表わしているということもありうる。)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである。〉

 ここからマルクスは、架空資本の独自の運動を説明するために、同じ架空資本である株式の説明をまず行おうとしている。マルクスの意図としては、架空資本の形成を国債を例に説明したあと、国債と株式を例に架空資本の運動を説明しようということである。だからマルクスの考えとしては、国債も株式も架空資本の運動としては同じだ、ということである。しかしマルクスは同じ有価証券(債務証書)でも、国債が表すものは〈純粋に幻想的な資本〉であるが、株式の場合はそうでない、という両者の相違からまず説明を始めているわけである。しかしいうまでもなく、この一文でマルクスが強調しているのは、有価証券が代表するものは国債と株式とでは異なるが、しかしそれらが架空な資本価値として現れる限りでは、どちらも純粋に幻想的なものだという点では同じなのだということなのである。だから国債と株式とが代表するものが違うということから、それらが架空資本としてもまた違ったものであるかに理解するのは、実際は間違いなのである。しかしこうした間違った理解に立っている人の何と多いことよ(林氏も残念ながらその中には含まれている)。しかしこの点については、すぐにまたふり返るとして、まずマルクスが続いて述べていることを検討しておこう。

 マルクスは〈さきほど見たように,信用制度〔Creditwesen〕は結合資本を生み出す〉と述べている。ここで〈さきほど見たように〉というのは、エンゲルス版では、第27章に該当する部分で論じたことを指している。そこでは〈信用制度についてこれまで《われわれが》一般的に述べる機会をもったのは,次のことであった〉と書き出して、箇条書き的に三つのことを上げているが、その第三番目として次のように述べている。

 〈III)株式会社の形成。これによって第1に,生産規模のすぎまじい拡張〔が生じ〕,そして私的諸資本には不可能な諸企業〔が生まれる〕。同時に,従来は政府企業 〔だった〕ような諸企業が会社企業〔社会的企業〕になる。第2に,即自的には社会的生産様式を基礎とし,生産手段および労働力の社会的集中を前提している資本が,ここでは直接に,私的資本に対立する社会資本〔会社資本〕(直接に結合した諸個人の資本)の形態を与えられており,資本の諸企業が,私企業に対立する社会企業〔会社企業〕として〔現われる〕。それは,資本主義的生産様式そのものの限界の内部での,私的所有としての資本の止揚である。第3に,現実に機能している資本家が(他人の資本の)単なるマネージャーに転化し,資本所有は単なる所有者,単なる貨幣資本家に転化すること。〉 (大谷訳33-34頁)

 また次のような叙述も見られる。

 〈信用は,個々の資本家または資本家とみなされている人に,他人の資本他人の所有の(それによってまた他人の労働の)--相対的に言って--絶対的な処分権を与える。……成功も失敗も,ここでは同時に集中に帰し,したがってまた法外きわまりない規模での収奪に帰する。収奪はここでは直接生産者から小中の資本家そのものにまで及ぶ。この収奪は資本主義的生産様式の出発点であり,この収奪の実行はこの生産様式の目標であるが,しかし最後にはすべての個々人からの生産手段の収奪〔に終わる〕。生産手段は,社会的生産の発展につれて,私的生産手段であることを《も私的産業の生産物であることをも》やめ,それはもはや,《それが結合生産者たちの社会的生産物であるのと同様,》結合生産者たちの手にある生産手段,したがって彼らの社会的所有物にほかならない。ところがこの収奪は,資本主義体制そのものの内部では,対立的に、少数者による社会的所有の横奪として現われるのであり,また信用は,これらの少数者にますます純粋な山師の性格を与えるのである。《所有はここでは株式の形で存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑みこまれ,羊は狼男に呑みこまれてしまう。》株式制度のうちには,すでに,この形態に対する対立物があるが,しかし株式制度それ自身は,資本主義的な制限の内部で,社会的な富と私的な富という富の性格のあいだの対立を新たにつくり上げるのである。〉 (同38-39頁)

 このようにこの部分では、「株式制度」についての歴史的な位置づけが与えられているが、しかし「株式」そのものについての考察はそれほどなされていない。株式については、ただ〈所有はここでは株式の形で存在するのだから,その運動そのもの,つまりその移転は取引所投機のまったくの結果となるのであって,そこでは小魚は鮫に呑みこまれ,羊は狼男に呑みこまれてしまう〉という説明が見いだされる程度である。

 だからこの第29章該当部分においては、マルクスは〈この資本(=結合資本--引用者)にたいする所有権を表わす証券である株式,たとえば鉄道会社,鉱山会社,水運会社,銀行会社等々の会社の株式は,現実の資本を表わしている〉と「株式」そのものの説明が行われているわけである。以下、このパラグラフでマルクスが株式について説明している内容を少し分析的に考察してみよう。

 マルクスは「株式」について、いくつかの説明を行なっている。

 (1)結合資本に対する所有権を表す証券である。

 (2)現実の資本を表している。例えば、鉄道会社や鉱山会社、水運会社、銀行会社等々の企業で機能している(投下されている)資本,またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸しされている貨幣額を表わしている。
 ここで株式が表している「現実の資本」として、マルクスは現実に機能している(投下されている)資本、つまり「生産資本」と、そのような生産資本として投下された(前貸された)「貨幣資本(Geldcapital)」(額)を表していると述べている。

 (3)しかしこの資本は二重に存在するのではない。すなわち,一度は所有権原の,株式の資本価値として存在し,もう一度はこれらの企業で現実に投下されているかまたは投下されるべき資本として存在するのではない。それはただ後者の形態で存在するだけであって,株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。
 ここで〈この資本〉と述べているのは、(2)で述べている「現実の資本」、すなわち「生産資本」または「貨幣資本(Geldcapital)」のことである。だから〈株式の資本価値〉と述べているのは、例えば株式の額面が100万円だとすると、所有権原を表す株式そのものが100万円の資本価値として存在するのではなく、100万円はすでに投下されて現実の資本(生産資本)になっているか、あるいは投下されるために社団構成員によって前貸された貨幣額(貨幣資本Geldcapital)として存在するだけであって、株式そのものが100万円の資本価値として存在しているのではないと述べているわけである。だから額面100万円の株式を持っており、だから現実の資本に対して按分比的に100万円に相当する所有権原をそれは表しているのだと言ってみても、額面100万円の株式そのものが100万円の価値として存在しているわけではないのだから、彼らはただ株式という紙切れを持っているだけなのだから、それが表している現実の資本を勝手に処分したりする権原そのものは実際上はないわけである(もちろん、彼が構成員になっている社団がそうした判断をする場合は話は別である)。だから株式そのものは、結局は、将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ、というのがマルクスの説明なのである。

 これらの説明を読むと、(1)と(2)は株式が「表す」ものが、(1)は結合資本に対する「所有権」であり、だからこれは現実の株式会社の所有権を表すと考えることができる。(2)は「現実資本」すなわち、これらの企業で機能している資本、またはそのような企業で資本として支出されるために社団構成員によって前貸されている「貨幣額」を「表している」となっている。だからこの(2)は(1)の内容をより具体的に見ていると考えることができる。すなわち「現実資本」というのは、「実物資本」、すなわち実際に機能している資本(生産資本)という意味であり、株式はそれを「表している」わけである。または、そうした企業で資本として支出されるために前貸された貨幣額を「表している」とされている。だからこの後者の場合は、株式の額面が「表している」ものと考えることができる。そしてこの貨幣額を前貸している主体を「社団構成員」と述べている。つまり「株主」は「社団」を構成し、個人株主はその構成員であるとの認識がここで示されていると考えることができる。この「社団」は今でいう「株主総会」のことであろう。だから(1)と(2)を総合して考えるなら、現実の株式会社を所有しているのは、個人株主で構成されている社団であると言えるであろう。個人株主は、その社団の構成員として、その持ち株の按分比に応じて、株式会社を所有している、すなわち所有権原を持っているといえるわけである。
 (3)は株式は、この資本(つまり現実の資本、あるいは前貸されている貨幣額)によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、とされている(この場合は「所有権原を表している」という表現ではなく、「所有権原でしかない」と述べていることに注意)。
 この(3)の書き方には注意が必要である。まず「実現されるべき剰余価値」というのは、これから実現されるであろう剰余価値ということであり、将来生み出されるであろう剰余価値に対する所有権原である。しかも「所有権原でしかない」という書き方は、それはその前の(1)(2)では、結合資本に対する所有権を「表したり」、現実の資本、または前貸された貨幣額を「表したり」しているのだが(つまり「表している」だけだとも読めるのだが)、しかし、実際には将来実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないのだ(だからその「表している」ものの実際の内容はそういうものだ)、という含意として読み取ることができるであろう。

 そしてその後に書いていることは、「剰余価値に対する所有権原でしかない」ということをさらに、株式を転売するA、B、Cの人物を使って具体例で説明していると考えることができる。株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式が結合資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が、その株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念されるのであるが、そうであっても、しかし客観的にはそれが配当であるという事柄そのものは何も変わらないのだと言いたいのである。〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本(moneyed Capital)、すなわち「利子生み資本」に転化させたということであろう。というのは、例えば増資等で新たな株式を直接購入するということは(Aの場合)、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかしAの場合、株式に前貸された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持している権原を表す株式を転売した時点で、彼らが前貸した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。そしてCの場合は彼の資本(利子生み資本)を〈株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と説明されている。つまりCにおいては、彼が投じる貨幣が資本(利子生み資本)であるのは、彼の私的な立場からいえることに過ぎず、客観的には彼が手に入れた株式は単に実現されるであろう剰余価値に対する所有権原でしかないわけである。ただ彼もそれをDに販売した時点で、やはり彼の私的な立場において前貸した貨幣を利子生み資本に転化することになるわけである。株式に投下された貨幣価値が利子生み資本となるのは、あくまでもその当事者の私的な立場からに過ぎず、株式そのものが客観的に意味しているもの(結合資本に対する所有権を表し、あるいは実現されであろう剰余価値に対する所有権原であるということ)は、だからそうした転売が繰り返されても何も変わらないのだ、とマルクスは述べているわけである。

 しかし注意が必要なのは、これらの一連の説明は、「株式」とはそもそも何かを説明しているのであって、「架空資本としての株式」の説明ではないということである。もっと分かりやすくいえば、これらの説明は株式の額面に書かれている貨幣額、例えば100万円の額面が何を表しているのかを説明しているのであって、その額面100万円の株式が実際に証券市場で売買される場合のその株式の市場価値、例えば200万円とか300万円の値がつく、そうした資本価値を説明しているのではないということである。そして「架空資本としての株式」というのは、この証券市場で実際に売買されている200万円や300万円の株式の資本価値のことなのである。だからこれらの一連のマルクスの「株式」の説明を、「架空資本としての株式」の説明だと誤解すると混乱することになるのである(株式を「擬制資本」として、国債などの「架空資本」と区別して論じるべきだと考えている人たちが間違っているのもこの点なのである)。先にも指摘したように、架空資本としての国債も株式も純粋に幻想的なものであり、その限りでは同じものだとマルクスは考えているのである。これはとにかく重要なことなので強調しておきたい。
 だからもう一度、分かりやすく説明すると、国債と株式との違いはその額面が表しているものの違いである。つまり額面100万円の国債に書かれている100万円は〈純粋に幻想な資本〉を表しているだけであるが、額面100万円の株式の100万円は現実資本に対する按分比的な所有権を表している(つまり現実資本の総額が1億円なら、額面100万円の株式は、現実資本の100分の1の所有権を表しているわけである)。確かにこの点では両者には相違がある。しかしそれらが売買される価格(あるいはその基準となる市場価値=資本価値)、すなわち架空な資本価値(架空資本)としては、例えば額面100万円の国債が80万円で売買されているとしても、あるいは額面100万円の株式が300万円で売買されているとしても、確かに両者の資本価値には違いがあるが、しかしそれらが同じように幻想的なものだという点では、まったく同じなのである。一方は確定利息を平均利子率で資本還元し、他方は配当をやはり平均利子率で資本還元したものであり、その限りでは純粋に幻想的なものだからである。

 さて、このパラグラフの冒頭、マルクスは〈務証書--有価証券--が, 国債の場合とは異なり,純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも,これらの証券の資本価値は純粋に幻想的である〉と述べている。一見すると同じ架空資本でも、マルクスは国債と株式とでは違いがあるかに述べているように見える。実際、そのように捉えている人が多いということはすでに指摘した。そして何を隠そう、わが御大将(林紘義氏)もその一人であらせられることもすでに指摘した。すなわち次のように主張されておられる。

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉 (『海つばめ』No.1111)
 〈マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えないのである。まして、事業会社(産業資本)が発行するような社債の場合はなおさらである。
 というのは、債券はそれ自体としては紙切れであり、債務証書であって、生産手段でも何でもないが、それは債権者(「債務者」の間違い?---引用者)によって、その貨幣資本が現実的資本に転化され、機能すること――現実的に機能していること――を少しも否定しないのである。それは産業会社の株券がそうであるのと同様である。
 この点では、例えば社債は、一般的には「擬制資本」であり得ても、マルクスが「空資本」(純粋の擬制資本)と述べた、当時のイギリスの国債とは区別されるし、されなくてはならない。
(このように林氏も「擬制資本」と「架空資本」とを使い分け、両者の区別の必要を主張している。--引用者)
 マルクスは、銀行などが株や債券などの証券を有するばあい、それらを現実資本とは区別して「空資本」(擬制資本)と呼んだが、しかしその場合でも、空資本一般から「純粋に幻想的な資本」(例えば、地代を利子率で「資本還元」された「価値」もしくは幻想的な「資本」である「土地価格=地価」など)を、さらに区別している。この点についても、マルクスの言葉を参考までに引用しておこう。
 「鉄道、鉱山、交運等々の会社の株式〔事業会社の社債なども含めて――林〕は、現実の資本を、すなわちこれらの企業に投下されて機能しつつある資本を、またはかかる企業における資本として支出されるために株主によって前貸されている貨幣額を、表示する」(二二二頁)〉
(同上)

 最初の引用文では、林氏は国債について〈“純粋の”空資本である〉と「純粋」にわざわざ“ ”を入れて強調しているが、二番目の引用文では、どうやらその理由らしきものが分かる。林氏はマルクスが国債は架空資本だと述べていることを持ち出してもサブプライム問題や有価証券一般やさらには社債などの場合にはなおさら何の説明にもならないのだと述べている。その理由はどうやら、債券というのは確かに債務証書だが、それによって貸し付けられた貨幣資本が現実資本に転化され、機能することを少しも否定しないからだというのである。それは産業会社の株式がそうであるのと同じだ、と。つまり国債の場合は、ただ浪費されるだけだが、債券として表される債務証書の場合は、場合によっては現実資本に転化される可能性はあると言い張るわけである。確かに社債や株式はそうであろう。しかしサブプライムローンはどうであろうか、それは住宅ローンであり、その限りでは決して現実資本に転化されるのではなく、ただの消費者ローンと同じではないのか。だからこそ、林氏はサブプライムローンの証券化を国債を例に上げて説明したのではないのか、それなのに、マルクスが国債を架空資本と言っているからといって、サブプライムローンの説明にそれは適用するのは間違いだというのである。しかも奇妙なことに、その理由として持ち出すのが、社債や株式のような現実資本に投下される可能性のあるものもあるからだというのである。これでは林氏の論理は自分の身を捩じったようなわけの分からないものになっている。この混ぐらがってわけの分からない林氏の論理を丁寧に解きほぐしてみよう。

 最初の引用文については、すでに何度も批判してきた。だから二つ目の引用文を詳細に検討してみよう。まず林氏は〈マルクスが、国債について――とりわけ当時のイギリスの国債について――、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張している。国債について、〈とりわけ当時のイギリスの国債について〉とわざわざ断っているのは、マルクスが国債を例に架空資本の形成を論じているのは、当時のイギリスの特殊事情によるのだと言いたいわけであるが、しかしこれも無意味な難癖に過ぎないことはすでに指摘した。実際、林氏自身も永久国債であろうが、償還期限のある国債であろうが同じであることを次のように認めざるを得ないのである。

 〈マルクスがどんな国債を頭において書いたか分からないが、当時イギリスの国債で重要な地位を占めていた“永久国債”(有名なコンソル債)であった可能性が高いであろう。というのは、普通、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定されるのは、永久国債だからである。もちろん、普通の国債も、償還期限(満期)が五年とか一〇年とか定められていて、「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では、永久国債と同じだが、とりわけ永久国債についてこの概念が言われるのは、永久国債といっても、政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか。〉 (No.1111)

 林氏はマルクスが対象としているのはコンソルという永久国債だから〈「その債務者に解約通告をなすことができ」ないと概念規定〉したと言いたいのであるが、しかし他方で普通の国債でも償還期限が来る前に「その債務者に解約通告をなすことができ」ないという点では同じであることも認めざるを得ない。しかし永久国債について、そうした「概念規定」(これが国債の「概念規定」だと林氏は考えるわけであるが、果たして林氏は「概念」とはそもそも何であるのかを知っているのだろうか?)が問われるのは、〈政府の方から、その都合によって、その意思によって随時償還がなされ得るということがあったからであろうか〉などとも述べている。とするなら、ますます永久国債と償還期限がある国債とは同じであることを示しているのではないのか。あらかじめ償還期限が決まっているか、それとも政府の都合で随時償還期限を決めるのかの違いでしかないわけだから(そればかりかあらかじめ償還期限が決まっている国債でもその償還期限が来ても、借り換えによって、さらにその償還期限が無制約的に延長され得るのだから)、ますます両者の違いは無くなるのである(もっとも『平凡社大百科辞典』によると、議会の承認で償還可能とされたのは1923年以降だから、マルクスが生きていた当時はそうしたことは無かったのではあるが)。そして国債を架空資本であると、それこそ「概念規定」する上で、国債に償還期限がついているかいないかということはどうでも良いことであるのは、これまでの架空資本の形成、すなわちその「概念」についてしっかり学んできたものにとっては自明のことなのである(なぜなら、償還期限があろうが無かろうが、それらが証券として転売されるかどうかということこそが架空資本にとって本質的なことなのだからである)。償還期限の有無が何か国債が架空資本であるかそうでないかを左右するかに(マルクスの当時の国債は永久国債だから架空資本だが、現代の国債は償還期限があるからそうでない等々と)考えているところに、林氏が架空資本のなんたるかをまったく理解していないことをむしろ暴露しているのである。

 ところで問題なのは、林氏が〈マルクスが、国債について、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていることを、その言葉だけ取り上げて論じても、サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張していることであった。

 林氏は〈その言葉だけ取り上げて論じても〉というが、〈言葉だけ取り上げて論じ〉るというのはどういうことなのか。誰がそんなことをしたのであろうか。確かにマルクスが論じているものを理解もせずに、ただその言葉だけをアレコレ引用して論じても、無意味なことは確かである。しかしマルクスの文章を理解していないというのなら、それは林氏にこそ当てはまるのではないだろうか。これまで論じてきたことを見ても、林氏こそマルクスが論じている内容を慎重且つ厳密に吟味してその内容を正確に理解しようとしていないことは明らかである。それとも林氏は〈マルクスが、国債について、「国債なる資本にあっては、一つのマイナスが資本として現われる」とか、「資本は、幻想的なもの、空資本であるにとどまる」などと言っていること〉は、〈サブプライム問題の理解には何の意味も持たないばかりか、有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と主張するのであろうか。確かに林氏はマルクスの架空資本の理論は〈サブプライム問題の理解には何の意味も持たない〉と主張するわけである。しかし〈有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉というのはどういうことであろうか。マルクスは銀行資本の現実の構成部分である「その他の有価証券」、すなわち「いわゆる利子生み証券」を説明するために、国債を例にそれらが架空資本であることを説明しているのである。とするなら、この林氏の主張はマルクスの主張を真っ向から否定することになるし、ならざるを得ないであろう。マルクスが国債を例にして架空資本の形成について論じているが、そんなものは〈有価証券一般についても、正しい観念とは言えない〉と林氏は主張するわけだからである(もっとも厳密を期すなら、林氏は「有価証券一般」を問題にしているが、マルクスが問題にしているのは「有価証券一般」ではなく、「商業的有価証券(手形)」を除いた「その他の有価証券(=利子生み証券)」を架空資本として問題にしているのである。こうしたマルクスが厳密に区別しているものについても林氏はまったく無頓着であり、その理解の粗雑さは否めない。一体〈その言葉だけ取り上げて論じて〉いるのは誰なのか?)。

 とにかくもう一度話を元に戻そう(どうしても林氏の主張を検討すると脱線してしまうのだが)。ここで私が論じたいのは、架空資本と擬制資本とを区別し、それらを使い分ける必要を主張する俗説についである。そしてその俗説に染まっている林氏の御説の批判的検討である。
 要するに林氏の言いたいことは、債券は紙切れであり、債務証書だが、しかしそれによって貸し出された貨幣が貨幣資本(この場合はGeldcapitalである)として、現実資本に転化する場合もある(株式や社債の場合はまさにそれだ)、だから何も表していない国債と一緒には論じることは出来ない。前者(つまり社債や株式)は「擬制資本」でありえても、マルクスが「架空資本」(純粋な擬制資本?)と述べたものとは区別されなければならない、というものである。
 このように国債と株式とを区別して、前者は架空資本だが後者は擬制資本というべきだという主張は何も林氏の発明ではない。それは結構ひろく言われている俗説であり、林氏はただそれに追随しているだけなのである。
 実際、われわれはこの第29章の草稿の大谷氏の前書きを検討したときに、次のように問題点を指摘しておいた(29-2を参照)。

 [(1)大谷氏は〈①いわゆる「利子生み証券」の所有者にとってそれが資本であるのは,つまりいわゆる擬制資本は,収入の資本還元による純粋に幻想的な観念にすぎない〉と述べている。ここで大谷氏は「いわゆる」を着けながらも「擬制資本」という用語を使っている。しかしマルクス自身は少なくとも大谷氏の翻訳文のなかでは「擬制資本」という用語は使っていない。どうして「利子生み証券」を「擬制資本」と大谷氏はいうのであろうか、それは「架空資本」とどう違うのか、それを使い分ける意味はどこにあるのか,こうした疑問を、とりあえずは提起しておきたい。〕

 実際、大谷氏は『図解・社会経済学』でも次のように述べている。

 〈[株式]すでに見たように、銀行制度は株式資本という結合資本を生み出す。この資本への所有権を表す証券である株式は、それ自体としては、それぞれの企業で投下されている資本の一部を表している。しかし、株式はじつは、この資本がもたらす剰余価値の一部にたいする権利名義でしかない。株式も典型的な架空資本なのである(株式の場合には、架空資本ではなくて「擬制資本」という訳語が当てられることが多い)。〉(371頁、太字と下線(同書では傍点)は大谷氏による)

 このように大谷氏は〈株式も典型的な架空資本なのである〉と株式それ自体が架空資本であるかに理解している。そして株式の場合を擬制資本という訳語が当てられる場合が多いと述べているのである。このように大谷氏においていも理解が曖昧であることを暴露しているのである。さらに大谷氏は次のようにも主張している。

 〈以上が,第5章 5)で出てくる「架空資本」の最初のものであるが,見られるように,これはいわゆる擬制資本たる利子付証券のことである。マルクスは,それらの価値は総じて「純粋に幻想的」であるが,とくに国債では「資本」そのものが「純粋に幻想的」であり,さらに譲渡できない収入源泉までも「資本」とみなされる場合--その極は労働力--を「純粋に幻想的な観念Jだとし……ている。〉(第25章該当部分の草稿の「上」64-5頁)

 マルクスが架空資本としての「資本価値」という場合、規則的な貨幣利得が、それをもたらす理由は何であれ、すべて利子生み資本のもたらす利子とみなされ、だからその利子もたらすと想像された利子生み資本の価値のことである。だからそうした貨幣利得は、その時の平均利子率で還元されて、それをもたらす資本価値が計算されたわけである。だからこそまたそれらは純粋に幻想的な、ただ想像されたものに過ぎないのであり、だから「架空資本」とマルクスは規定したのである。ところが大谷氏によると、この「資本価値」は「資本」と「価値」とに二つにわけられて、国債は「価値」だけでなく、「資本」そのものが「純粋に幻想的であり」、それに対してそれ以外の利子付資本は「価値」のみが「純粋に幻想的」だというのである。しかしこれはマルクスの架空資本の概念から考えるなら、決して正しい理解とは言い難いであろう。こうしたことから大谷氏も国債とその他の有価証券とは同じ架空資本であっても区別される必要があるというわけである。
 しかしこうした主張はすべて間違いであることはすでに指摘した。彼らは国債と株式の額面が表すものの違いを、それらが架空資本として運動し、存在しているものとの区別が出来ていないのである。大谷氏の主張にも、株式そのものを架空資本と捉える誤った理解が一方であることは明らかである。しかし国債や株式もそれ自体としては決して架空資本ではないということが、こうした俗説を唱える人たちには理解されていないのである。そうではなく、国債も株式も、それらが架空資本であると言いうるのは、そられが証券として市場で売買されるところに成立する概念なのである。国債も株式も、それらが転売されないなら、一方は単なる借用証書に過ぎないし、他方もただ現実資本や剰余価値に対する権利証書に過ぎないのである。しかしそれらが証券として売買されることによって、それらは架空な資本価値を持ち、架空資本として運動することになるのである。そうしてそうしたものとして架空資本を理解するなら、国債も株式も架空資本としてはまったく同じであり、その資本価値は純粋に幻想的なものでしかなく、同じような独自の運動を行うのである。

(以下、続く)

林理論批判(34)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.11)

 前回でこのシリーズを終える予定であったが、その後、ノート類を調べていたら、まだこのシリーズに関連するものが見つかったので、ついでに紹介しておきます。それは《通信No.14(第9期)(2012.2.2)の林紘義氏の田口騏一郎氏批判について》と題するものです。これは組織内文書である『通信』の内容を批判したものであるが、しかし取り上げている問題は理論問題なので、公表することは差し支えないだろうと判断した。

§§§通信No.14(第9期)(2012.2.2)の林紘義氏の田口騏一郎氏批判について§§§

 まずその「通信」の一文を引用しておこう。

 〈組織内での議論も進んでいますが、議論を本質的な問題を理解しない、勝手なおしゃべりにしては時間の浪費です。例えば、田口らは、「生産手段部門の生きている労働20 00と、過去の労働の4000が一緒になって、6000の生産手段をつくる」といった主張をしますが空虚なナンセンスで、どんなまともな意味も持っていません。6000の生産手段が2000の生きた労働によって生産されたとでもいうのでしょうか、それとも生きた労働は2000の生産手段だけを生産したというのでしょうか、それとも2000の生産手段は生きた労働によって生産され、残りの4000は死んだ労働によって生産されたと言うのでしょうか、そんなばかげたことがいかにして可能なのでしょうか。6000の生産手段は、ただ抽象的労働と具体的労働の結果としてのみ、新しく生産された生産手段、つまり商品ではないでしょうか。具体的労働と抽象的労働という二つの契機の総合としてのみ、労働は生きた生産的労働ではないでしょうか。こんな形で抽象的労働と具体的な労働の関係を理解する「マルクス主義」といったものはとんちんかんです。消費手段を生産する生きた労働が3000で、生きた労働者が3000の労働を支出したのだから、彼らがその結果を消費するなら辻褄が合う、と思っているようですが、近代の資本主義社会では、あるいは産業社会、工業生産社会では、生産手段を生産することなしにはどんなまともな消費手段の生産もないし、あり得ません。田口らは現実の社会に生きているのではなく、夢と観念論の中に生きているのでしょうか。原始時代、あるいは少なくとも封建社会に逆戻りするしかありません。
 林はいわゆる「再生産表式」というものはない、そう言われているものは日和見主義者やスターリン主義者たちが言いはやしてきたものに過ぎない、そもそも第二巻は「資本の流通過程を分析しているのであって、「生産過程」なるものは第一巻の課題である、いわゆる「再生産表式」といわれているものは、むしろ「生産過程」のいわば前提として、その準備の過程としての商品(商品資本)の流通の問題である(流通過程の枠内の問題だ)、それを「再生産表式」だと理解して、不合理で、無理な理屈を持ち出すなら、それは途方もない愚劣さとナンセンスに行き着くしかない、と田口に繰り返して言うのですが、田口は決して他人のいうことに耳を傾けず、それは「再生産表式」だと言い張ってやみまません。問題の出発点からずれていて、まともなことを言えるはずもありません。一巻の資本の生産過程の理論と、二巻の資本の流通過程の理論が自ずから別の契機や内容を持ち、また個別資本の論理と総資本の論理が違ったものになってくるのも当然です。重要なことは、マルクスがそれぞれの個所で論じていることは、そこで設定されている(論理的に解決されるべき)テーマとの関連で理解されるべきであって、それから切り離されて、無媒介的に持ち出されてはならないのです。それぞれの課題と切り離して個々の言葉だけを論じるなら、まるでマルクス主義とは違ったものになります。〉

 さて、この無茶苦茶な主張を批判するわけであるが、それにしても、こんな無茶苦茶な主張が、例え組織内の文書だとはいえ、公然と同志会を代表する人物から発せられていることを知って、あるいは多くの人は驚くかもしれない。しかし、これほど林氏という人物は、どうしたことか混乱してしまっているのである。こんな混乱した人物を代表として奉っている同志会なる組織が、どんな意味でもマルクス主義的な組織などといえたものではない。誰でも、少しでもまじめに『資本論』を研究した人なら了解するであろう。だからこんな無茶苦茶な主張を批判するのは、ある意味では極めて容易なのである。しかし組織内からはそれを批判する声は少なくとも公然とは上がってこなかったのである。私もその一人であることを恥じるが、しかし、林氏の無茶苦茶な論理=喧嘩の論理を相手に“闘う”ほどエネルギーを消耗することはないのである。一度でもそれを経験すると誰でも黙ってしまう。だから私もただ自分が所属する組織内で、それを批判する一文を対置するしかなかったわけだ。この一文もそうしたものの一つである。(この部分は発表するに当たって書き加えた)。

 こここには、解決しなければならない問題が主要には二つほどある。
 一つはその前半部分で述べている問題である。そしてもう一つは後半部分の「資本の流通過程」が対象になっている第2巻で、どうして資本の「再生産過程」が問題になるのか、という問題である。最初の問題は、簡単なので、われわれは第二の問題から取りかかることにしよう。

 林氏は、第2巻では「資本の流通過程」が問題になっており、第1巻では「資本の生産過程」が問題になっていることを知っている(当たり前だ、これは『資本論』のそれぞれの巻の表題を見れば誰でも分かる)。しかし、「資本の流通過程」で問題になっているのは、単に「生産過程」ではなく、「再生産過程」であることを知らない。そして「資本の流通過程」がどうして「資本の再生産過程」として現れるのか、ということを知らない林氏は、そのことによって、実は、そもそも「資本の流通過程」なるものがどういうものかも知らないことを暴露しているのである。
 というのは「資本の流通過程」が「単純な商品流通」と違うのは、それが循環として(それが何度も繰り返されるのが回転なのだが)現れるところにあるからである。マルクスは次のように「単純な商品流通」と「資本の流通」との相違について述べている。

 〈ある商品の売りが貨幣を持ってきて、それを他の商品の買いが再び持ち去れば、それで循環W―G―Wは完全に終わっている。……これに反して、G―W―Gでは貨幣の還流はその支出の仕方そのものによって制約されている。この還流がなければ、操作が失敗したか、または過程が中断されてまだ完了していないかである。……
 循環W―G―Wは、ある一つの商品の極から出発して別の一商品の極で終結し、この商品は流通から出て消費されてしまう。それゆえ、消費、欲望充足、一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、循環G―W―Gは、貨幣の極から出発して、最後に同じ極に帰ってくる。それゆえ、この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。〉
(全集第23巻a195頁)

 つまり「単純な商品流通」は一回限りの循環であり、その目的は使用価値であるのに対して、「資本の流通」というのは、その循環が繰り返されるところに特徴があり、しかもその目的は交換価値、しかも増殖した価値でなければならないということである。G-W-G’こそ「資本の流通」を特徴づけるものである。だからこそ、ここには不可避に「資本の生産過程」がその契機として含まれている。なぜなら、第2巻では、第1巻の分析を前提としており、価値の増殖は生産過程においてのみなされることを知っているからである。だからこそ「資本の流通」であるG-W-G’は、価値の増殖を可能にする生産過程を不可避に含んでいるのである。そしてそれが繰り返されるなら、総過程は「資本の再生産過程」として現れ、資本は循環を繰り返すごとに剰余価値を産み落とし、その飽くなき貨幣渇望を満たそうとするのである。
 だから「資本の流通過程」が、「資本の再生産過程」として現れざるを得ないのは、「資本の流通過程」そのものの特徴から説明されるのである。だからこそわれわれは「資本の流通過程」では、その流通過程にある「貨幣資本」や「商品資本」だけではなく、生産過程にある資本である「生産資本」も考察の対象にしなければならないし、してきたのである。
 マルクスは古典派経済学、特に重農主義が〈流通過程を資本主義的再生産過程と同一のものとして把握したことはその偉大な功績である〉(『資本の流通過程--『資本論』第2部第1稿』中峯・大谷訳39頁--以下、「第2部初稿」と略す)と述べている。とするなら、「資本の流通過程」に、ただ流通過程のみを見て、「資本の生産過程」と切り離す林氏は重農主義にも及ばない、ただの反動か、あるいはただの俗物でしかないということである。
 われわれは、マルクス自身の説明を見てみることにしよう。マルクスは上記に紹介した第2部初稿において、「資本の流通過程」がどうして「資本の再生産過程」として現れるのかを次のように説明している。少し長いが引用する(しかし訳文に〔 〕で付けられている原文は煩雑になるので省略した。また下線は訳文ではマルクスによる強調として傍点になっている)。

 〈いま、全体を、資本の流通過程の総体を、すなわち変態列を考察すれば、次のことが明らかになる。
第一に流通部面生産部面とは切り離されており、それに対応して、同じ資本でも、資本が流動資本であって、商品資本および貨幣資本という両形態で流通する前者の部面にある資本にたいして、後者の段階にある資本は生産資本として規定されている。しかし、第二に、総過程を考察すれば、両段階は、資本が通過する同一の過程の諸段階として、ただ、相異なる、相互に移行しあい、相互に条件づけあっている諸段階としてのみ現われる。形態(1)では、本来的な流通過程が進行する両段階、G-WとW-Gとが、一方は、その中間にあってそれらを中断しかつ媒介する生産過程の先行者として、他方はその後続者として現われる。形態(2)および(4)では、逆のことが生じているのであって、生産過程を媒介し中断すると同時に、生産過程を準備しかつ継続させるものとして現われるのが、本来的な流通部面でなし遂げられる総変態、W-G-Wなのである。最後に、形態(3)では、たがいに補いあう両段階からなる本来的な流通過程が、生産過程の連続性のたんなる中断および媒介として現われる。形態(1)では、ただ価値のみが、しかもその貨幣形態が--もっとも、貨幣自体は、それがある特定の商品として存在し、それ自体が商品=Wであるかぎりでは、他の三つの形態の契機でなければならないのであるが--再生産されて現われる(ただたんに自己増殖する価値として、しかも貨幣形態というこの価値の自立的な形態で、再生産されて〔現われる〕)。他のすべての形態では、流通過程の全体は、商品が生産過程において通過する変態をも含む諸変態の列として現われるのであり、そして、その〔変態〕列は、資本をそのいろいろな形態規定性--商品、貨幣、生産過程--において再生産する過程として、剰余価値と資本をそのいろいろな契機において生み出す過程、資本の物質的実体および資本のいろいろな形態を再生産する過程として〔現われる〕。しかし、同時に、この再生産過程は、たんに諸変態の、連続する諸段階の--資本は一方の段階を捨てると同時に他方の段階に進み、またその逆を行なうという--円環運動としての流通過程であるだけではなく、資本のいろいろな諸契機がそれの持ち手を変える一列にならんだ交換行為としての流通過程でもある。それ自体を考察すれば、資本は、これらの交換行為にともなわれて、諸段階を次々と通過してゆきふたたびその出発点にもどってくるという運動を行なう。そのかぎりでは、総再生産過程流通過程であり、資本自体は、本来的な流通部面と生産部面との両方の部面を通って流通する流動資本である。他方では、流通過程は再生産過程である。なぜなら、本来的な流通部面にかかえこまれている運動をも含むこの総運動のなかでのみ、資本は資本として自らを再生産しうるのだからであり、その本来的な流通行為自体が資本の再生産の諸契機ですら、またいろいろな形態での資本の再生産行為ですらあるのだからである。しかし、第三には、資本がこのように本質的に流通しつつあるものであるとすれば、資本の流通過程の全体・イコール・いろいろな段階を通っての資本の再生産の運動であるかぎり、資本は、それぞれの契機のうちに固定されているのである。資本は、それが商品資本として固定されているかぎりでは、貨幣資本ではない。資本は、それが生産資本として生産部面に固定されているかぎりでは、商品資本でもなければ、貨幣資本でもない。資本の再生産過程を条件づけているのは、この区別とこうした区別の解消、その流動なのであり、そして、資本がこれらの諸部面の一つにあまりにも長く姿を見せているか、あるいは見せないでいるか、あるいはそこから出てくるにしても無理を重ねて出てくるということになれば、資本の再生産過程は、多かれ少なかれ撹乱されるかあるいはまったく阻止されるかするのである。〉 
(上掲53-4頁)

 だから「資本の流通過程」が、「資本の再生産過程」として現れるのは、何も第3編の「社会的総資本の流通」が問題になっているところ、あるいはそれが「再生産の表式」として考察されているところだけの話ではなくて、第1編の「資本の循環」や第2編の「資本の回転」が問題になっているところでも、常に「資本の流通過程」は、「資本の再生産過程」として問題になっているのである。ある意味では、こんな初歩的なことさえ、林氏にとってはどうも分からないことであるらしいのである。マルクスに依拠せず、自分の頭で考え始めた林氏は、およそチンプンカンプンなことしか考えられない存在にどうやらなってしまったようである。こんな“指導者”に引き回される組織こそほんに哀れではないか。

 もう一つの問題に移ろう。それは前半部分で述べていたことである。林氏は、まず「田口ら」の主張として、次のように書いている。

 〈「生産手段部門の生きている労働2000と、過去の労働の4000が一緒になって、6000の生産手段をつくる」といった主張をしますが空虚なナンセンスで、どんなまともな意味も持っていません。〉

 この鍵括弧でくくられている主張は、そのまま田口氏らの主張といえるのかどうかハッキリしない。それはただ林氏が受けとめただけのものともいえるからである。生産手段生産部門の総商品資本6000の価値は、その生産のために使われた生産手段の価値4000と、その生産手段を使って新たな生産手段をつくった生きた労働が形成した(つけ加えた)価値2000とを合わせたものだというのは、その限りでは何ら間違っていない。「生きている労働2000」と「過去の労働4000」というとらえ方は間違っている。なぜなら、4000や2000は直接労働を表すのではなく、価値の大きさを表すのだからである。だからそれらが「一緒になって」などという言い方も間違っているわけである。再生産表式について、粗雑な理解しかしていない(というよりほとんど何も分かっていない)林氏だから、こんな粗雑な理解をもって、相手の主張だとしているのかも知れないが、あるいは敢えて意図的に相手の主張をこうした間違ったものとして紹介しているのかも知れない(そうすれば容易にそれを批判することもまた可能だからである)。

 要するに、ここで問題になっているのは、第Ⅰ部門の次のような再生産の表式を如何に理解するかということであろう。それさえ正しく理解していれば、林氏の馬鹿げた批判など、立ち所にその底が見えてしまうわけである。だからわれわれは、マルクスが示している再生産の表式をとりあえず書いて、その意味をついて解説してみよう。

Ⅰ 4000c+1000v+1000m=6000  ……1式

 さて、これは何を表しているのであろうか。これが「再生産の表式」と言われているように、社会の総再生産を表すものであり、そのうちの第Ⅰ部門(生産手段生産部門)の表式なわけである。マルクスは、社会の総再生産の考察においては、資本の循環の定式のうち、商品資本の循環こそがそれに相応しいと述べている。その理由については、ここで詳しく述べると横道にそれてしまうので、それは各人が第1編第3章、第4章を研究して頂きたい。要するに社会の総再生産を商品資本の循環として考察するのは、それは社会のその考察する年度の生産を開始するには、まず生産手段が必要であり、同時に、その生産手段を使って生産する労働者がその生産期間に消費する消費財の存在が前提になるが(もちろん資本家の消費も前提されている)、それは前年度の総生産物がそれに当たるからである。だから商品資本の循環、すなわちW'-G'-W…P…W'がまさに社会の総生産物である総商品資本から出発した循環になっているからである。
 だから1式は、いま考察の対象になっているある年度の生産を開始する前提である総生産物である総商品資本W'を表しているわけである。それが部門Ⅰでは6000の価値ある商品資本であることを示している。商品資本とは、いうまでもなく、生産過程を通って、流通過程に押し出された資本のことを言うのである。つまり商品資本がどういうものかを分析すれば、それを生産した前年度の生産がどういうものであったかが分かるわけである。だから商品資本の価値構成(機能配置)を見れば、前年度の生産が単純再生産かそれとも拡大再生産かが分かるのである。
 われわれは6000の価値ある商品資本を分析して、それが4000cと1000mと1000mとで構成されていることが分かった。すなわち6000の価値ある商品資本を生産するために、4000の価値ある生産手段が生産過程で消費され、その価値が生産物に移転したこと、また前年度に雇用された労働力の価値は1000であり、それを雇用するために、資本は可変資本として1000の価値を投下したこと、そしてその労働力を使って、4000の価値ある生産手段を加工して、6000の価値ある生産手段を生産したのであるが、それによって、資本家は1000の価値を自らの利益として回収すること、総生産物の一部にはそうした部分もあることを示している。つまり1000の価値をもつ労働力は、1000の価値だけではなく、さらに追加して1000の価値を生み出したのであり、それに必要な労働を対象化したことになる、等々。これらのことが分かるわけである。
 だから単純再生産であるならば、まさに今年度も同じような生産が行われることをわれわれは想定することになるわけである。そうした今年度の生産の前提としての出発式を1式は表しているわけである。だからそれらはまずはW'-G'-Wの流通過程を経ていくことが想定されている。(実は、林氏はこの部分だけを見て、だから「再生産」表式などというものはない、それは生産過程の前提としての、流通過程の問題だ〔流通表式だ〕、などと主張するのである。しかし、いうまでもなく、それが資本の流通を表す限りでは、その循環は生産資本で終わるわけではなく、生産過程を経て、剰余価値を含んだ商品資本として再び流通の場に出てくる必要があるわけである。そうしてこそ、それは資本の流通としての商品資本の循環を形成するわけだからである。)
 だから前年度の労働者は2000の価値を形成したのだが、それは彼らが前年度の生きた労働のうち抽象的人間労働としては2000を対象化したこと、またその労働の具体的な契機では4000の生産手段の価値を新たな生産物に移転し、保持したことを意味している。これがこの表式の正しい理解である。林氏がこうした再生産表式の正しい理解をまったく持っていないことだけは明らかである。

 そこで林氏が主張している無理解を一つ一つ解きほぐして行こう。まず、次のように述べている。

 〈6000の生産手段が2000の生きた労働によって生産されたとでもいうのでしょうか、それとも生きた労働は2000の生産手段だけを生産したというのでしょうか、それとも2000の生産手段は生きた労働によって生産され、残りの4000は死んだ労働によって生産されたと言うのでしょうか、そんなばかげたことがいかにして可能なのでしょうか。〉

 林氏は無造作に〈6000の生産手段〉などと述べているが、この〈6000〉が何を表しているのか厳密に考えていない。これは商品資本の価値を表しているのである。だから直接労働時間を表しているわけではないのである。ただ価値を形成した労働時間としてみるなら、それは6000の抽象的な人間労働が対象化されていると考えられるだけである。だから〈6000の生産手段〉を「6000の価値ある生産手段」と理解しよう。そうすれば、〈6000の生産手段が2000の生きた労働によって生産され〉るのである。もちろん、ここで〈2000の生きた労働〉というのは、抽象的な人間労働としては2000の労働が対象化されるだけである。林氏はそのことだけは理解している。だから林氏は2000の抽象的な人間労働が対象化されて、どうして6000の抽象的な人間労働の対象化されている生産手段が生産されるといえるのか。それでは数字的には辻褄が合わないではないか、と考えて、〈そんなばかげたことがいかにして可能なのでしょうか〉というのである。しかし、2000の生きた労働が、6000の価値ある生産手段を生産したと言いうるのは、その具体的な有用労働の契機として言いうることである。2000の抽象的な労働を対象化した労働は、その具体的な契機で、6000の価値をもつ生産手段の使用価値を生産したのである。こうした意味でなら、〈6000の生産手段が2000の生きた労働によって生産された〉と言っても何も間違いではない。確かに生きた労働としては2000の労働は、2000の価値しか生み出さない。しかし生産は生きた労働だけではなく、その生産に必要な生産手段と結合されなければ、そもそも生産は行われない。つまり4000の価値を持った生産手段と〈2000の生きた労働〉とが結びついて、〈6000の生産手段〉が生産されるのである。だから、2000の生きた労働は、その抽象的契機によって、2000の価値を形成し(つけ加え)、その具体的契機によって、4000の生産手段の価値をあらたな生産物である生産手段に移転するのである。だから生産された生産手段は移転された価値4000と生きた労働によって新たに付け加えられた価値2000との合計6000の価値を持つわけだ。〈ばかげたこと〉は何もない。こんな初歩的な理解さえ、林氏にはないということは驚きではないか。一体、この歳になるまで『資本論』の何を勉強してきたのであろうか。こんな体たらくでは、「マルクス主義」の看板をさっさっと降ろすべきではないか。

 林氏は続けて次のように述べている。

 〈6000の生産手段は、ただ抽象的労働と具体的労働の結果としてのみ、新しく生産された生産手段、つまり商品ではないでしょうか。具体的労働と抽象的労働という二つの契機の総合としてのみ、労働は生きた生産的労働ではないでしょうか。こんな形で抽象的労働と具体的な労働の関係を理解する「マルクス主義」といったものはとんちんかんです。〉

 〈6000の生産手段は、ただ抽象的労働と具体的労働の結果としてのみ、新しく生産された生産手段、つまり商品ではないでしょうか〉だって? まったくその通りである。抽象的労働としては2000の価値を追加し、具体的労働としては4000の生産手段の価値を移転したのである。だから〈新しく生産された生産手段、つまり商品〉は6000の価値を持つのである。何の不思議もない。〈具体的労働と抽象的労働という二つの契機の総合としてのみ、労働は生きた生産的労働ではないでしょうか〉だって? とんでもない! こんなことを書いているから、一体、この人は『資本論』を読んだことがあるのか、と思わざるを得ないのである。以前にも書いたが、「生産的労働」というのは具体的な労働について言いうるものである。『資本論』から紹介しておこう。

 〈使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んではいないのである。そこで商品体の使用価値を問題にしないことにすれば、商品体に残るものは、ただ労働生産物という属性だけである。しかし、この労働生産物も、われわれの気がつかないうちにすでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになる。それは、もはや机や家や糸やその他の有用物ではない。労働生産物の感覚的性状はすぺて消し去られている。それはまた、もはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表わされている労働の有用性は消去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に還元されているのである。〉 (全集第23巻a51-2頁、下線は引用者)

 このようにマルクスは書いている。マルクスは〈指物労働や建築労働や紡績労働やその他の一定の生産的労働の生産物〉と述べているように、生産的労働を使用価値を生産する労働として述べている。だからそれは具体的な有用労働なのである。生産的労働の結果としての労働生産物の有用性を捨象すると残るのは抽象的人間労働だけだと述べているのである。また次のようにも述べている。

 〈要するに、労働過程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化をひき起こすのである。この過程は生産物では消えている。その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。労働はその対象と結びつけられた。労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物の側に現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたものである。
 この全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。〉 
(同237-8頁、下線は引用者)

 このようにここでも使用価値を生産する労働について語り(この一文は『資本論』現行版の第3篇第5章「労働過程と価値増殖過程」の第1節「労働過程」から取ってきているが、これらの表題はフランス語版では、第3篇第7章「使用価値の生産と剰余価値の生産」、第1節「使用価値の生産」となっている)、その労働の結果である生産物の立場からみれば、その労働は生産的労働として現れると説明している。だからそれは使用価値を生産する労働について、述べているのだから、それは具体的な有用労働について述べているわけである。だから〈具体的労働と抽象的労働という二つの契機の総合としてのみ、労働は生きた生産的労働ではないでしょうか〉などとはいえないのである。まさに〈こんな形で抽象的労働と具体的な労働の関係を理解する「マルクス主義」といったものはとんちんかんです〉というのは林氏に対してこそ言えることなのである。

 さらに林氏は今度は別の問題を持ち出している。それも検討しておこう。

 〈消費手段を生産する生きた労働が3000で、生きた労働者が3000の労働を支出したのだから、彼らがその結果を消費するなら辻褄が合う、と思っているようですが、近代の資本主義社会では、あるいは産業社会、工業生産社会では、生産手段を生産することなしにはどんなまともな消費手段の生産もないし、あり得ません。田口らは現実の社会に生きているのではなく、夢と観念論の中に生きているのでしょうか。原始時代、あるいは少なくとも封建社会に逆戻りするしかありません。〉

 しかしこれもまったくの誹謗中傷の類であろう。田口氏らが〈消費手段を生産する生きた労働が3000で、生きた労働者が3000の労働を支出したのだから、彼らがその結果を消費するなら辻褄が合う、と思っている〉などとどこで論じているというのであろうか。マルクスの提示している再生産の表式を理解している人なら、〈消費手段を生産する生きた労働〉は1000であることを知っている。500の価値ある労働力が、想定されている100%の剰余価値率のもとに、1000の労働を対象化するのである。そしてこの場合も消費手段の生産のためには2000の価値ある生産手段が必要であり、それが生産過程で移転・保持されるために、生産された消費手段の価値は3000(追加価値1000+移転・保存された価値2000)なのである。だれも消費手段の生産に生産手段が必要ないなどと考えているはずがないではないか。
 林氏は消費手段の生産には生産手段が必要なことは知っているが、しかし果たしてそれを正しく説明できるのであろうか。なぜなら、林氏の主張にもとづけば、3000の消費手段を生産したのは3000の生きた労働だとしか理解できないからである。なぜなら林氏は〈具体的労働と抽象的労働という二つの契機の総合としてのみ、労働は生きた生産的労働〉だというのであり、だから3000の消費手段が生産されたというなら、それを生産した労働は抽象的人間労働としても3000でなければならないのだからである。つまり生産手段の価値2000が移転・保存されるなどと考えるなら、その部分だけが二重に計算されることになり、消費手段の価値は3000ではなく、5000になってしまうではないか、というのが本来の林氏の主張なのだからである。
 林氏は生産手段なしに、消費手段を生産するという想定をするなら、〈夢と観念論の中〉か、〈原始時代、あるいは少なくとも封建社会に逆戻りするしか〉ないというのであるが、例え原始時代であろうが、封建社会ならなおさらのこと、生産手段のない生産を想定することはありえないことである。マルクスは次のように述べている。

 〈未開人が弓や矢や石槌や斧や籠などをつくるとき、彼は、これに費やされた時間は消費手段の生産に用いられたのではないということ、したがって自分は生産手段にたいする自分の必要をみたしたのであってただそれだけのことだということを、まったく正確に知っている。〉 (全集24巻539頁)

 だから林氏は、封建社会もちろん、例え原始時代に遡ったとしても、生産手段なしに消費手段が得られるなどといえば、ただ嗤われるだけであろう。

                                                     (完)

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