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2016年2月24日 (水)

林理論批判(37)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.14)

●1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(3)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第3回目、前回中断した項目〈◆2、社会主義の“概念”〉の途中から始まる。林氏の論文はそのまま紹介して行き、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判文は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

(◆2、社会主義の“概念”)の途中から

 自動車生産の労働者の年間労働日を200労働日とすると、年間労働日の枠内で形式的には自動車を手にすることができるが、実質的には無理である、というのは、この労働者は年間に150労働日で、他の生活手段――「衣食住」に代表されるような、あるいはその他諸々の生活に便宜や楽しみを与えるような生活手段――も必要とするからであり、それ結果、自動車のために割くことができる労働日は50日しかないからである。かくして彼は三年の「年賦」等々で自動車を手にすることができるにすぎない。

 【ここで林氏は将来の社会主義でも〈三年の「年賦」〉なるものがあると想定している(もっとも断っておくが、林氏は一つも社会主義社会を想定するとは述べていないのであり、ただ〈社会主義の「分配方式」……は、ただ次のような法則もしくは原則に従って行われる〉として論を展開しているだけである)。そもそも年賦というのは、なんであろうか。辞書を引いてみよう。

 〈1.ねん‐ぷ【年賦】-日本国語大辞典
〔名〕負債額または納税額などを毎年一定額ずつ分割して支払っていくこと。また、その弁済方法。年払い。年歩。年分(ねんぶん)。年割。*浮世草子・西鶴織留〔1694〕二・一「一万八千貫目の借銀、十年切りの年 ...〉

 つまりこれは自動車ローンと同じである。将来の社会主義の労働者は、自動車を信用で購入し(これはわざと間違った表現を使ったのである。本来なら「入手し」とすべき)、それを3年払いの分割方式で支払っていくと林氏は想定しているのである。しかしそのためには信用制度が社会主義でもあると想定しなければならない。こんなバカな話はない。
 社会主義を想定するなら、正しい理解は次のようでなければならない。労働者は彼が年間社会に与えた200労働日のうち日常の生活手段に必要なものを150労働日と交換して、50労働日を権利として保有(留保)できるだけである。そしてそれが3年間分溜まった結果、つまり彼が保有する権利が150労働日に達したので、そこで初めて彼は自動車を手にすることかできるのである。社会主義ではこのように考えるべきである。彼は社会に必要な労働を与える以前に、事前にまず消費手段を得た上で、年割りで徐々に必要な労働を返済していくというような信用取り引きは、社会主義はでは想定できないし、すべきではない。】

 200労働日以外の百数十日は――一年は365日だから――、各人の自由な日であって、休息でも芸術活動でも科学的研究でも、あるいはスポーツでも、ボランティア活動でも、何をしても自由であろう。

 【ここで林氏はまた奇妙なことを書いている。〈200労働日以外の百数十日は――一年は365日だから――〉? どうして〈百数十日〉なのであろう? 〈一年は365日〉だったら、〈200労働日以外〉は165日しかないのは明らかではないか。どうしてここで〈百数十日〉と書く必要があるのであろう。あるいは林氏は閏年の場合も想定したのであろうか。それとも200労働日の残りの165日すべては自由な日ではなく、そのうちの幾日かは強制的に社会活動に支出されるべきとでも考えているのであろうか。確かに自由な日は〈何をしても自由〉であろうが、しかし、林氏は重要なことを忘れている。将来の社会主義社会やあるいはより高度な共産主義の社会では、全面的に発達した個人の育成と形成こそが社会の最大の目標になるということをである。各人はその労働においてと同じように自由な時間をも使って各人の個性を全面的に発展させることに費やすであろう。そしてその全面的に発達した個人が、生産過程に入って行ければ、それはまたより高度な生産力として発現して、ますます自由な時間を拡大するであろう、ということぐらいは言ってもよいのではないだろうか。

 しかしそれにしても、林氏はそもそも次のように言ってなかったであろうか。

 〈マルクスは共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明したが、もちろん単純商品社会においても、ロビンソンの話は当てはまるだろう、しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである。だがまさにこの決定的に重要なことがなされてこなかったのであるが、それは労働者の自己解放運動にとって大きな思想的、理論的な“欠落”部分をなして来なかっただろうか。
 したがってこの部分を埋め、明らかにすることは決定的に重要であり、労働者が勝ち取ろうとしている――勝ち取らなくてはならない――社会の、具体的で明瞭な観念を持つことは、つまり自らの闘いの目的であり、理想でもある社会の根底の性格や内容やその意味を正確かつ明瞭に理解することは、労働者の階級的闘いを弱めないで強めるであろう。〉

 そして〈提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである〉として、これまでの展開がなされているのである。そこで林氏にお聞きするが、〈資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すこと〉は、一体、どうなってしまったのか。さらにそれと〈提出される社会主義の具体的な観念〉とはどういう関係にあるのか。さっぱりこれでは分からないではないか。】

 また一日の(一労働日の)労働時間について言えば、それは八時間かもしれないし、我々がかつて選挙で謳ったように四時間でもいいし――我々が、そのイメージを選挙で押し出したのは、現在の労働生産力を前提にした場合でさえ、そしてすでに余計なものになった資本の階級や膨大な寄生的な人口や非生産的労働が一掃されるなら、つまり搾取労働が廃絶されるなら、四時間労働で十分であり、現在の平均的な物質的生活水準を維持するのは容易だと判断したからであった、つまり現在の資本による過酷な搾取体制を暴露するためであったが――、あるいは二時間労働でさえ夢ではないだろう。

 【四時間とか二時間とか勝手な数値を並べているが、何の科学的な根拠も示さずに、ただ直感だけで論じるのは無責任ではないだろうか。八時間ではなく、四時間で十分だというなら、それなりの根拠を示すべきではないだろうか。それに〈現在の平均的な物質的生活水準〉などを持ち出しているが、しかし日本の物質的生活のかなりの部分は、後進諸国の労働者の犠牲の上に成り立っているという反省も必要ではないのだろうか。】

 もちろん、平均的な労働時間が四時間であっても、ある労働者がもう少し物質的な豊かさのある生活を望むなら、四時間でなく六時間働くことも可能であって、それを妨げる理由や難しいことは何もない。例えば、彼が一年で自動車を持ちたいと、一日四時間の代わりに十二時間働いたとしても、誰もそれを妨げる権利を持たないだろう。

 【しかし、そうであろうか。林氏は社会主義ではすべての労働は直接に社会的に結びつけられており、それぞれの個人の恣意に任されているわけではないことを知らない。もちろん、各人が自覚的且つ意識的に自らの労働を支出するのであるから、最初から、一労働日を人よりも多い目に支出することを申し出ても、他の人々がそれを認めるなら、可能であろう。しかしその場合も、他の人々との社会的な関係が問われるのであり、決して個人の恣意のままに可能なわけではない。すべての労働が直接社会的に結びついているということは、単に質だけではなく、量的においてもそうである。だから個々人がまったく恣意的に働きたいだけ働けばよいというようなことでは決してないのである。それらは社会を構成する個々人が互いの労働を意識的且つ合理的に統制するなかで互いに承認し合うことによって初めて可能となるであろう。林氏が想定しているのは、労働力の売買は、少なくとも表面上は個々人の「自由」であるという、ブルジョア社会そのものではないのか。】

 生産力が発展し、労働時間が短縮することは重大である。そもそも科学や文化や芸術が、「学者」(いわゆる“専門家ばか”、“学者ばか”)や“文化人”や“知識人”などの“専門家”――大体において、資本によって買収され、養われている連中、事実上、資本の陣営に属する、不道徳で、品のない連中――に独占され、「任されている」、この階級社会の現実が――きわめてゆがんだ、ますます荒廃し、空疎化していく現実が――粉砕され、一掃されなくてはならないのだが、労働時間の短縮はすべての人がこうした活動に参加しうる条件を提供するだろうからである。そして、生産と分配の自然な――「価値関係」のヴェールを剥いだ――法則が貫徹されるようになるなら、容易に、そして自然に、それは一掃されるだろう。

 【ここで言われいることも、当たり前のことのように思えるが、詳細に検討していくと、色々と問題が出てくる。まず林氏は〈生産力が発展し、労働時間が短縮することは重大である〉と述べている。そして現在の社会においては、科学や文化や芸術が専門家に独占されていることを批判している。とするなら、林氏は現在の社会では科学や文化や芸術が、特定の専門家と称する人たちに独占されているのは、生産力が未発展で、労働時間が短縮されていないからだと考えているのであろうか。そんなバカな話はないのである。どんなに生産力が発展し、必要労働時間が短縮されたとしても、資本主義的生産を前提するなら、それは剰余労働時間が増えるだけであり、労働者の労働時間が短縮されることにはならない。こんなことは当たり前ではないか。ところが林氏はこうした資本・賃労働の関係、搾取と被搾取の関係を問題にせずに、ただ生産力の発展が、直接労働時間の短縮と関連しているかに理解しているのである。科学や文化や芸術が専門家に独占されているのは、労働者が賃労働者だからではないのか。こうした敵対的な生産関係を廃絶することこそがまず必要であり、そうすれば、生産力の発展は、直接、労働時間の短縮として現れるであろう。こうした関係を林氏は述べていない。
 それに〈生産と分配の自然な――「価値関係」のヴェールを剥いだ――法則が貫徹されるようになるなら、容易に、そして自然に、それは一掃されるだろう〉などとも述べている。しかし、〈生産と分配の自然な……法則〉とは何か? ロビンソンの社会にも貫徹しているような法則なのか。それなら、それは一般的な条件としてはブルジョア社会にも貫徹しているのである。問題はそれが貫徹されるかどうかではなく、それが貫徹される歴史的形態を克服することこそが必要なのである。】

 社会主義社会においても、分配(消費)だけでなく、生産もまた「価値規定」によって制約され、規定されることも明らかである、というのは例えば、社会が年々、鉄一億トンを、自動車五百万台を、あるいはコメ一千万トンを必要とするなら、その生産がその生産に必要な――社会的に必要な――労働日(労働時間)によって決定されるだろうからである。資本主義社会との違いは、鉄や自動車やコメの生産に社会的に必要な労働(時間)が、生産物との直接の関係において明示され、価値の形態を取らないこと(その必要がないこと)、したがってまた資本の再生産としては現われないこと、であるにすぎない。

 【ここで林氏は社会主義社会の「生産」について述べているが、それが規定的なものとして論じているのではないことに注意が必要である。彼はあくまでも社会主義の概念の根底は分配方式にあると考えているからである。】

 生産する人々を結び付ける契機は、直接に人々の社会関係として明示され、確認されており、「価値の関係」として、したがってまた「市場経済」の形態として現われないのである。

 【〈直接に人々の社会関係として明示され、確認されており〉というが、人々が生産の客観的・物質的な条件にもとづいて、自覚的・意識的に取り結ぶのである。だから人々が自覚的に結びつく彼らの社会的な関係それ自体が、すなわち生産関係なのであって、そうした社会的な結びつき(社会そのもの)とは別に、彼らから独立して彼らを規制するような生産的諸関係といったもの--つまりマルクスが「経済的土台」と述べているようなもの--はすでにないという理解こそが必要である。】

 こうした計算は実際的に、つまり現実として全く容易になされ得るのであり、まさにマルクスが述べたように、余りに「簡単にして明瞭なこと」であって、誰でも簡単に確認できることである(ありがたい、「市場経済」による、あるいは「市場」に群れ集い、商品の価格について交渉したり、商品を取捨選択したりする何千万、何億という人々の自然発生的な行動、不破哲三らの愚物がブルジョアたちと一緒になって、その“効能”や“効率”や“大きな役割”をわめき立てている、人々の無自覚的な行動や活動、市場の“自由競争”など一切なくても、である)。
 かくして、こうした社会関係が実現されるなら、それは、労働の搾取はもちろん、労働の疎外も、つまり人間労働が“対象化”され、「価値」として、“モノ”(商品、貨幣、資本等々)として現象することは無くなるということ、つまり「労働の解放」であり、その出発点である。かくして「搾取の廃絶」と「労働の解放」が、“社会主義”の課題が、その真実の内容が、究極的かつ根底的に実現され、勝ち取られ得るのである。

 【ここで林氏は〈人間労働が“対象化”され〉と対象化に“ ”を付けている。労働の対象化というのは、価値形成労働に固有の問題なのであろうか。生産物に労働が支出され、生産物の生産に支出された労働が堆積しているというのは、どんな社会でも同じではないだろうか。それは確かにその生産物の生産にどれだけの労働が必要かということで問題はハッキリしているが、しかし、生産物そのものにそうした支出された労働の痕跡があることもあるのである。マルクスは『資本論』第二版のための「補足と改訂」で次のように述べている。

 〈どの商品体でも労働の痕跡を示しているというわけではないが,その労働は無差別な人間的労働ではなくて,織布や紡績などであって,これらの労働もけっして商品体の唯一の実体をなしているのではなく,むしろいろいろな自然素材と結びついている〉(『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』No.5-65頁)

 つまり生産物の物的存在は、その自然素材とそれにどのような人間の手が加わって生産物になっているかの痕跡を示しているとマルクスは述べているのである。この限りでは、労働は生産物に対象化され、そこに堆積された形で存在していると言っても必ずしも間違いとは言えないかも知れない。】

 もちろん、このことは資本の支配を打倒し、一掃した後に出現するのであって、先ではない。こうした関係は、つまり人類の「地上の楽園」は、ただ資本の支配を廃絶する結果であって、その前提ではない。

 【〈「地上の楽園」〉などという言葉は、北朝鮮の帰国運動の時に言われたもので、今では忌まわしいイメージしかない。われわれは地上の楽園を目指して活動しているのか、バカバカしい。】

 社会主義社会においては、マルクスが『ゴータ綱領』で言った、労働者は「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という言葉は、上記のような意味で理解されなくてはならない。つまり分業によって自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる、という意味で理解されてはならない(「価値移転論者」はそのように理解するし、せざるをえず、かくして論理的行止りもしくは迷路に迷い込むのだが)。このことがロビンソンや、あるいは単純商品の場合(商品生産に従事する生産者が、純粋の自己生産者であると想定して――この場合は、商品生産者は自動車に50労働日を費やしたなら、その労働日に相当する生産物を、別の商品生産者と交換することができる、つまり「等量労働交換」がこうした直接的な形で現象するだろうが)と、資本主義的生産の場合との区別として現われる、しかしもちろん「価値の規定」が貫徹されるということにおいては全く同様である。

 【林氏は、マルクスが『ゴータ綱領批判』で言っている、労働者が「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という意味を説明して、〈上記のような意味で理解されなくてはならない。つまり分業によって自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる、という意味で理解されてはならない〉というのだが、これは果たして適切な例といえるだろうか。少なくとも自動車生産者が、自らその生産に従事した自動車を手にするのなら、マルクスがいうような〈同じ労働量を別の形で返してもらう〉ことにはなっていないではないか。自動車を生産するために費やした労働をただその同じ労働が対象化されたものとして生産物を受け取っただけに過ぎないわけだから。いずれにせよ、マルクスの指摘していることを自動車を例に説明することはあまり適切とはいえないのではないだろうか。
 しかもその後に丸括弧をつけて、〈「価値移転論者」はそのように理解するし、せざるをえず、かくして論理的行止りもしくは迷路に迷い込むのだが〉とも書いている。とすると、先に述べたこと、つまり〈自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる〉と〈「価値移転論者」〉は考えるというのであろうか。なぜ、〈「価値移転論者」〉だとそう考えるのかの説明はなく、皆目分からない。生産手段の価値は移転すると考える人たちのことをもし仮に、林氏がいう〈「価値移転論者」〉だとすると、彼らは自動車の生産のためには、機械や鋼材などの生産手段に費やされた労働も考慮に入れるべきだと主張するのではないのか。だから自動車生産に直接支出された労働だけが、自動車の生産に必要な労働だけではなく、その生産の過程で「移転・保存」された価値(労働)も自動車生産に必要な労働として考えるべきだというのが、林氏のいう〈「価値移転論者」〉の主張ではないのか。それならどうして彼らが〈自動車生産に直接従事する労働者が自動車を一台生産するのに50労働日を費やしたから、この50労働日によって、一台の自動車を手にすることができる〉と主張することが論理的に導き出されるのであろうか。まったくわからない主張である。
 また林氏は〈このことがロビンソンや、あるいは単純商品の場合……と、資本主義的生産の場合との区別として現われる〉とも述べている。ここで〈このこと〉というのがいま一つ分かりにくいが、どうやら林氏は、〈ロビンソンや、あるいは単純商品の場合……と、資本主義的生産の場合との区別〉としで、前者には分業がなく、後者には分業があると考えているようである。しがしロビンソンの場合でも、彼は自身の労働をさまざまな形態で支出しなければならないのであって、例え一つの財産(テーブル)を形成する場合でも、彼の労働は、例えば木の伐採労働として、あるいは材木を作る製材労働として、あるいはテーブルを作る木工労働として支出されなければならず、ましても彼の一年間の生活をささえ維持するためには、彼は彼の年間労働を合理的にさまざな分野に支出しなければならない。だからこそロビンソンの労働には「価値規定の内容」と同じものがあるとマルクスは述べているのではないのか。林氏は〈しかしもちろん「価値の規定」が貫徹されるということにおいては全く同様である〉とも述べている。「価値の規定」というのは何なのか。マルクスは「価値の本質的規定」と述べている。あるいは「価値規定の内容」とも述べているが、「価値の規定」というのなら、抽象的人間労働が商品に対象化され凝固しているということであって、これは商品生産に固有のものである。だからこんなものがロビンソンの労働にある筈がない。ロビンソンの労働生産物は商品ではないからである。

 一見して、自動車生産のためには、機械や鉄鋼に支出された労働日が前提とされ、その労働日は「過去の」労働日として、つまり「移転されてきた」労働日として現象するのであって、何か前年度の労働の結果であるかに見える、しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。このことの認識こそ決定的であり、「有用的労働による価値移転論」等々の空虚なことを明らかにしているのである。この労働日について、価値移転論者のように“二重計算”することは――つまり一方で「過去の労働」として、他方で新しい生産的労働として――ナンセンスであり、社会主義における生産と分配の観念をどこかに追いやってしまうのである。

 【確かにここには林氏の〈認識〉の〈決定的〉な誤り、というより「混乱」が暴露されている。林氏はどうやら、生産され終わって最終的に生産物になっているものと、いまだ完成生産物とはならずに、生産過程に留まっているものとの区別が分からないらしい。一方は、すでに使用価値をもち、それを生産的に消費可能であるが、他方は、いまだ使用価値は持たず、だから生産的に消費することはできない。子供でも分かるこの当たり前のことが、錯乱状態にある林氏にはどうやら見分けが付かないようになっているらしいのである。というのは、林氏は自動車を生産するための諸手段、例えば鉄鋼や機械に支出された労働日が過去の労働であることは〈一見して、……見える〉ような仮象であるかに述べているからである。しかし、鉄鋼や機械に支出された労働が過去の労働であることは、何もただそのように見えるだけの仮象などではなく、それは客観的な物理的な事実である。生産諸手段は、それを使って生産しようとしている生きた労働に対して、過去の労働の産物として対峙することは物理的にも自明な客観的事実である。これは何か錯覚というような問題ではない。それは、ロビンソンであろうが、単純商品であろうが、資本主義的生産であろうが、生産諸形態には関わりのない物質的な生産過程の問題である(あるいはそれらのすべてに共通する物質的生産の一般的条件である)。
 林氏は、すでに完成された生産物である鉄鋼や機械に支出された労働と同じ(量的に同じ)労働が、自動車生産の労働過程と〈“同時並行的”〉に行われていることを指摘する。確かにそのように想定するなら、そうであろう。しかし、それはそのことをそのように想定しているからそうなのであって、それは必ずしも同じで無ければならないわけではない。機械が常にまったく物理的にも同じものとして再生産されなければならない理由はないのであって、より生産性の高いものとして、あるいはより少ない労働力によって再生産される可能性はあり得るのである。それは生産の拡大部分だけではなく、再生産部分においても可能であろう。すでに述べたように、そもそも自動車生産の過程で、生産手段として役立つ鉄鋼や機械とそれと同時並行して生産される鉄鋼や機械が、物理的に同じでないことは子供でも分かる事実である。
 例えば再生産のある年度の生産を考えてみよう。{もちろん、われわれはその再生産を資本主義的な再生産として想定する必要はない。将来の社会主義でも同じであり、だからそれはロビンソンの生活においても同じなのである。物を作るということは、物質的な過程であり、だからそれは社会形態から独立した過程だからである。マルクスも次のように述べている。

 〈労働過程がただ人間と自然とのあいだの単なる過程でしかないかぎりでは、労働過程の単純な諸要素は、労働過程のすべての社会的発展形態につねに共通なものである。〉(全集25b1129頁)

 そして林氏が考察している内容は、まさに労働過程をこうした過程として考察しているだけである。だからこうしたことは〈ロビンソンや、あるいは単純商品の場合〉と〈資本主義的生産の場合〉とには何の違いもないのである。それは物質的な生産過程の問題だからである。}林氏は次の事実を忘れている。自動車を生産するための鉄鋼や機械は、その自動車生産の過程と例え同時並行して鉄鋼や機械が生産されていたとしても、そのいまだ生産過程にある鉄鋼や機械を使って、自動車を生産することは出来ないということをである。こんなことは子供でも分かることである。自動車の生産と、鉄鋼や機械の生産が同時並行して行われるためには、自動車を生産する諸手段である鉄鋼や機械は、その前にすでに生産されていなければならないことは子供でも分かることである。製作中の鉄鋼や機械を使うことは出来ないのは観念や空想の世界で遊ぶしか能のない人でないなら誰でも分かる。とするなら、自動車を生産しようとする人は、鉄鋼や機械が生産されてから、それらを使って生産する、あるいはすでに以前に過去の労働によって生産されたそれらの諸手段を使って生産するしかないのである。これはロビンソンが家具を作るために、まず木を伐り(伐採労働)、それを材木にした(製材労働)あとで、初めて、その材木を使って、家具を作る(木工労働)ことが出来るのであって、これを彼は決して同時並行して出来ないのと同じである。あるいはロビンソンの伐採労働は、伐採された木を、材木に加工する生きた労働である製材労働から見れば、過去の労働であるこは明らかである。そしてその材木を使って家具を作るロビンソンの生きた木工労働からみれば、材木の生産に支出された伐採労働や製材労働は、やはり過去の労働なのである。こんなことは仰々しく確認するまでもないほど明らかなことである。もしロビンソンが一人だけでなく、兄弟三人が孤島で生活しているとしても、そして一人が木を伐り、もう一人が材木を作り、そして最後の一人が家具を作る労働にそれぞれが従事して、同時平行して労働をしたとしても、最後の一人が家具を作るためには、材木が作られてからであり、彼が使う材木は、少なくとも彼が家具を作る過程と同時並行して作られる材木ではなく、その前に作られた材木であることは物理的な真理である。作っている材木を使って家具はできないのである。切っている木を使って、材木を作れないのとそれは同じである。それらは一連の分業の過程であって、だからこそそれらの労働は関連し合っているのである。こんな単純な事実も林氏の混乱した頭では、どうやら分からなくなってしまっているらしいのである。何とも不可解な混乱した頭脳ではある。
 次に林氏は、さらに混乱して次のようにいう。

 〈しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。〉

 林氏は、もちろん、単純再生産を想定している。だからわれわれもマルクスの単純再生産の表式を例に考えよう。

部門 I  4000c+1000v+1000m=6000
部門II  2000c+ 500v+ 500m=3000

 ここでは当然、4000や1000という数値は価値を表している。しかし、われわれはこれを直接労働時間を表すと考えてみよう。つまり年間の総生産物には9000労働日が支出されている。生産手段には6000労働日、消費手段には3000労働日である。年間に支出される総労働日は3000である。鉄鋼や機械は部門 I で生産され、自動車は部門IIで生産される、と仮定しよう。今、社会の総生産をこの鉄鋼や機械の生産と自動車生産で代表させよう。しかし鉄鋼や機械を生産するためには、そのための生産諸手段がやはり必要であり、だからそうした部門も部門 I に想定されなければならない(そうでないと、機械や鉄鋼は再生産されない)。つまり鉄鋼や機械を生産するためには、そのための生産手段(鉄鉱石やその他部品類)が必要だが、それらはその年度の初めには4000労働日の生産物の一部として部門 I に配分されている。部門 I では、それらを使って、一方では鉄鋼や機械を生産し、他方ではやはり鉄鋼や機械を生産するための生産諸手段(鉄鋼石や部品類等)を再生産するわけである。その結果、年度の末には、2000労働日が支出された鉄鋼や機械と4000労働日が支出された鉄鋼や機械を生産するに必要な諸手段が生産物として生産されている。他方、部門IIの自動車生産部門では、年度のはじめに、自動車生産に必要な生産手段として2000労働日の生産物である鉄鋼や機械の配分を受け、それに1000労働日を追加して、年度の末には3000労働日の自動車を生産物として完成するのである。
 このようにここでは林氏がいうように、自動車を生産する労働も、機械や鉄鋼を生産する労働も、鉄鉱石その他を生産する労働も、一年間の労働としては“同時並行的”に行われており、生産手段(機械、鉄鋼、鉄鉱石その他)を生産する労働も〈総労働日(3000)の三分の二(2000)を占め〉〈年々の総労働日の一部であり、一環である〉が、しかしそれはマルクスが想定しているように前年に生産された生産手段の価値(対象化された労働)6000が、今年度の生産過程において移転・保存されるという理解なくして説明できないことなのである。いずれにせよ、林氏はマルクスの再生産表式をまったく理解していないか、その理解において混乱の淵に落ち込んでしまっているとしか言いようがないのである。

 もちろん、我々が社会主義社会においても、「価値の規定」を社会的生産と分配の根底に置くということは、不破が言うように、生産と分配を「価値の関係」(商品の交換価値の関係)のままに、その支配のもとに放置しておくといったこと――これは事実上、資本主義的生産関係を受け継ぎ、継続するということに帰着するのだが――とは全く別であって、単に社会的な生産と分配が、労働時間によって規定されるということにすぎない。個人的な労働が直接に社会的な労働として現われるなら、どうしてそれが「価値の関係」として現われ、媒介されなくてはならないのか。資本の支配を一掃した労働者階級は、そんな“愚行”もしくは“余計なこと”をやらないだろうし、またそんな必要性を全く認めないだろう。

 (これで項目〈◆2、社会主義の“概念”〉は終り、次回は項目〈◆3、なぜ「移転論」では、社会主義の分配の概念規定ができないのか、できなかったのか〉を紹介の予定。)

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