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2016年2月17日 (水)

林理論批判(36)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.13)

 以下は、林理論批判の32と33(シリーズ№10・11)で二回に分けて紹介したものの別バージョンである。これは林氏の『海つばめ』の記事に直接批判を書き入れるという形で作られており、それはそれで意義があると判断した。今回は第2回目で、前回の続きである。林氏の論文はそのまま紹介し、適当なところに私の批判的コメントを挿入。批判は一目で分かるように、太字で【 】に入れてある。

1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために (批判的コメントを太字で入れる)--(2)

◆2、社会主義の“概念”

 提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである。それはすべての真理――大宇宙や自然界やあれこれの“物質”や、人類の社会や歴史さえもの、存在や運動を規定する概念や法則などがそうであるように――が、簡単な定式によって簡潔に表現され得るのと同様である(例えばE=mc2)。

  【林氏はここで矛盾したことを述べている。「社会主義の具体的な観念」は、「ごく簡単なもの」で、それは「例えばE=mc2」のようなものだというのである。しかし物質とエネルギーとの転換の法則であるE=mc2というのは確かに「ごく簡単なもの」だが、しかし決して「具体的な観念」というようなものではない。それだけでわれわれは物質とエネルギーとの転換についての具体的な観念を持つことはできないのである。

 〈具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがって多様なものの統一だからである。それゆえ、具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直感や表象の出発点であるにもかかわらず、思考では総括の過程として、結果として現われ、出発点としては現われないのである。〉(マルクスの「経済学の方法」、全集13巻627-8頁)

 だから林氏も社会主義の具体的な観念や概念について語るなら、それを理論的に展開しようとするなら、そうしたものとして展開する必要があるわけである。林氏の言う「社会主義の具体的な観念」なるものは、その限りでは決して具体的ではなく、確かに単純なものなのかも知れないが、それだけに内容のない抽象的なものでしかないであろう。林氏は、何か一つの具体的な例を挙げれば、具体的に説明したつもりなのかもしれないが、しかし、そこで語られる内容は抽象的なものなのである。例えばロビンソンの孤島での生活の場合とそれは同じである。確かにそれはロビンソンという一人の人間の孤島での生活だから具体的なものであるが、しかしそのなかで語られている内容は、現実の社会的な生産から考えるなら、極めて抽象的なものでしかないのである。】

 社会主義における「分配方式」――というのは、これこそが社会主義の概念の根底をなすべきなのだが――は、ただ次のような法則もしくは原則に従って行われる。

 【林氏は、ここで「分配方式」が社会主義の概念の根底をなすべきだと述べている。しかし果たしてそうか。マルクスは『経済学批判要綱』序説で、分配は生産の所産だと述べている。これは決して資本主義社会に固有の問題ではなく、あらゆる社会に共通の契機としてマルクスは論じているのである。だからそれは社会主義社会においても同じであろう。社会主義の分配方式は、社会主義の生産方式に規定されているのである。生産があるからこそ、分配があるのであって、決して逆ではない。とするなら、「概念の根底」はむしろ「生産方式」においてこそ明らかにされるべきではないのか。確かに社会主義では資本主義でのように、「生産のための生産」が問題にはならない。抽象的な富である価値(利潤)ではなく、使用価値が生産の直接の目的になる。しかしそのことは社会主義では分配がすべてを規定するということではない。分配は生産の所産だというのは社会主義社会でも同じなのである。この問題は、この間の林氏の一連の論文の誤り--それこそスターリニストたちと共有している誤り--を根底的に規定する問題なので、詳しく論じてみよう。まずマルクスは、先の序説で次の様に述べている。

 〈最も浅薄な見解では、分配は生産物の分配として現われ、したがって生産から遠く離れたもの、生産にたいしてまるで独立しているようなものとして現われる。しかし、分配は、それが生産物の分配であるまえに、(1)生産用具の分配であり、(2)同じ関係のいっそう進んだ規定ではあるが、いろいろな種類の生産への社会成員の分配である。(一定の生産関係のもとへの個人の包摂。)生産物の分配は、明らかに、ただ、このような、生産過程そのもののなかにふくまれていて生産の編制を規定している分配の結果でしかない。このような生産にふくまれている分配を無視して生産を考察することは明らかに空虚な抽象であるが、他方、逆に、生産物の分配は、このような最初から生産の一契機をなしている分配とともにおのずからあたえられているのである。……(中略)……
 このような、生産そのものを規定する分配が生産にたいしてどんな関係をもつかは、明らかに、生産そのもののなかにある問題である。すくなくとも生産が生産用具のある一定の分配から出発しなければならないかぎりでは、この意味での分配は生産に先行し生産の前提をなしていると言うならば、これにたいしては、たしかに生産にはその条件と前提とがあるが、これらの条件や前提は生産そのものの契機をなしているのだと答えなければならない。この条件や前提は最初は天然のものとして現われるかもしれない。生産過程そのものによってそれらは天然のものから歴史的なものに転化される。そして、ある時代にとってはそれらが生産の自然的前提として現われるとすれば、別のある時代にとってはそれらは生産の歴史的結果だったのである。生産そのもののなかでそれらは絶えず変化させられる。たとえば機械の応用は諸生産用具の分配も生産物の分配も変化させた。近代的大土地所有は、それ自身、近代商業と近代工業との結果でもあれば、農業への近代工業の応用の結果でもある。
 これまでに提出された問題は、すべて結局は次のような問題に帰着する。すなわち、一般的歴史的諸関係は生産のなかにはいってどのような作用を及ぼすか、また、歴史的運動一般にたいする生産の関係はどうか、という問題である。問題は、明らかに、生産そのものの論究と説明とに属する。
 しかし、これらの問題は、これまで出してきたような平凡なかたちでならば、同様に簡単にかたづけることができる。およそ征服では三つの場合が可能である。征服民族が被征服民族を征服民族自身の生産様式に従わせるか(たとえば今世紀のアイルランドにおけるイギリス人、部分的にはインドにおけるイギリス人)、また征服民族が旧来の生産様式をそのまま存続させて貢納だけで満足するか(たとえばトルコ人やローマ人)、または相互作用がおこなわれて、それによって一つの新しいもの、一つの総合が生ずるか(部分的にはゲルマン人による征服の場合)である。これらのすべての場合に生産様式は、征服民族のものであろうと、被征服民族のものであろうと、両者の融合から生ずるものであろうと、そこに現われる新たな分配にとって規定的である。この分配は、新たな生産時代にとっては前提として現われるとはいえ、このようにそれ自身がまた生産の所産なのであり、ただたんに歴史的生産一般のではなく特定の歴史的生産の所産なのである。
 たとえば、モンゴル人がロシアを荒らしたとき、彼らは彼らの生産に適応して、すなわち広大な無住の地帯を主要条件とする放牧に適応して、行動した。未開のゲルマン人にとっては農奴による農耕が伝来の生産であり、農村での孤立した生活が伝来の生活だったのであるが、彼らがローマの諸州をこのような条件に従わせることは、ローマの諸州におこなわれていた土地所有の集中が古い農業関係をすでにまったくくつがえしていたために、いっそう容易にできたのである。
 ある時代にはただ略奪だけで生活したものだというのが、在来の一つの考え方である。しかし、略奪ができるためには、略奪されるなにかが、したがって生産が、そこになけれぽならない。そして、略奪の仕方はそれ自身また生産の仕方によって規定されている。たとえば、株式投機をやる国民〔stockjobbing nation〕を牛飼いに従事する国民と同じように略奪することはできないのである。
 奴隷の場合には生産用具が直接に略奪される。しかし、その場合には、略奪された奴隷を使う国の生産が、奴隷労働をゆるすように編制されていなければならないか、または(南アメリカなどでのように)奴隷に適合した生産様式がつくりだされなけれぽならないのである。
 法律は、ある生産用具、たとえば土地を、ある家族の所有として永久化することができる。このような法律が経済的意義をもつのは、ただ、たとえばイギリスでのように大土地所有が社会的生産と調和している場合だけである。フランスでは、大土地所有があったにもかかわらず、小規模農業が営まれていた。したがってまた大土地所有が革命によって細分されたわけでもある。しかし、たとえば法律によって土地細分が永久化される場合は、どうであろうか?このような法律があっても、所有はふたたび集中される。法律が分配関係の維持に及ぼす影響、またそれによって生産にあたえる作用は、特別に規定されなけれぽならない。〉(全集13巻623-5頁)

 そもそも社会主義で諸個人が社会に与えた労働時間にもとづいて、それと同じ労働時間が費やされた消費手段を、社会の保管庫から引き出し、それによって、自分が支出した労働と等量の別の形態の労働とを交換できるのは、あるいはこのようにそれぞれの生産物に支出された労働量が労働時間によって絶対的に表し秤量できるのは、社会主義における生産が、直接社会化された諸個人によって担われ、社会の物質代謝が意識的・合理的に統制・管理されて行われているからである。社会主義の生産がまさにそうしたものだからこそ、社会主義の分配は、直接、各人の支出した労働時間によって計り、行うことが可能となるのである。だから社会主義の概念の根底を問うなら、やはりわれわれは分配ではなく、生産が直接社会化された諸個人によって、自由な人々が自覚的に、且つ、意識的に行うものであるということにこそ見いだすべきであろう。社会主義の概念の根底を分配に求める林氏の社会主義論は一つの俗論でしかないであろう。
 もう一つ『資本論』からも引用しておこう。

 〈たしかに、資本は(また資本が自分の対立物として含んでいる土地所有は)それ自身すでにある分配を前堤している、と言うことはできる。すなわち、労働者からの労働条件の収奪、少数の個人の手のなかでのこれらの条件の集積、他の諸個人のための土地の排他的所有、要するに本源的蓄積に関する章(第一部第二四章)で展開された諸関係のすべてを前提していると言うことができる。しかし、このような分配は、人々が生産関係に対立させて分配関係に一つの歴史的な性格を与えようとする場合に考えている分配関係とはまったく違うものである。あとのほうの分配関係は、生産物のうちの個人的消費にはいる部分にたいするいろいろな権利を意味している。これに反して、前のほうの分配関係は、生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎である。この分配関係は、生産条件そのものにもその代表者たちにも特殊な社会的性質を与える。それは生産の全性格と全運動とを規定するのである。〉(全集25b1123-4頁)
 〈だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表わしているだけである。〉(同1128頁)

 あるいは林氏はゴータ綱領批判では、マルクスがもっぱら分配を問題にしているから、分配方式が社会主義の概念の根底になるべきだと考えたのかも知れない。しかし、ゴータ綱領批判で、マルクスが分配をもっぱら問題にしているのは、それがゴータ綱領の次の一文に対する批判として論じているからなのである。

 〈三、「労働を解放するためには、労働手段を社会の共有財産に高めること、また労働収益を公正に分配しつつ総労働を協同組合的に規制することが必要である。」〉(全集19巻18頁)

 つまり〈「公正な分配」とはなにか?〉という問いから始まって、マルクスは林氏が引用している部分も展開しているのである。だからマルクスは、林氏が引用した部分よりもっとあとで次の様につけ加えることを忘れていない。

 〈私が、一方では「労働の全収益」に、他方では「平等な権利」と「公正な分配」とにやや詳しく立ちいったのは、一方では、ある時期には多少の意味をもっていたがいまではもう時代おくれの駄弁になっている観念を、わが党にふたたび教条として押しつけようとすることが、また他方では、非常な努力でわが党にうえつけられ、いまでは党内に根をおろしている現実主義的見解を、民主主義者やフランス社会主義者のお得意の、権利やなにやらにかんする観念的なおしゃべりでふたたび歪曲することが、どんなにひどい罪悪をおかすことであるかを示すためである。
 以上に述べたことは別としても、いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。
 いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの一特徴である。たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から(そして民主主義者の一部がついで俗流社会主義から)、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。真実の関係がとっくの昔に明らかにされているのに、なぜ逆もどりするのか?〉(同21-22頁)

 ここでマルクスが述べているように〈いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであ〉るのである。林氏は、社会主義の概念の根底を明らかにすると称して、〈社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方〉に熱中しているが、それはまさにここでマルクスが批判している俗流社会主義に林氏が陥っていることを示している。林氏はゴータ綱領批判を最後まで読むべきだったであろう。あるいは少なくとも彼が引用した部分の前後をもう少し拡大して読むべきだったのである。そうすればこうした馬鹿げた間違いに陥らなかったのである。しかし、マルクスを相対化しようとする林氏にとっては、この場合もマルクスが何を言っているか、などということはどうでもよい事かもしれない。これは『資本論』の研究を「学者のお遊び」などと蔑み、真剣な研究を軽んずれば、結局は、自分自身が俗流主義に陥るという典型例として銘記すべきことである。

 林氏が「○○の概念」という言葉を多用する場合には、われわれは眉に唾をつけて注意して読まなければならない。というのは、林氏が「○○の概念」という場合、往々にして、その「○○の概念」なるものが何なのか、それによって林氏は何を考えているのか、さっぱり分からない場合が多いからである。ただ「○○の概念」という言葉だけが一人歩きして、それが一体何なのかということについては林氏自身による説明がほとんどないのが常だからである。例えば、これはかなり以前の話になるが、林氏が富塚の拡大再生産論を批判した時もそうであった。林氏は、富塚の主張に対して、「拡大再生産の概念」が欠けているとか、「拡大再生産の概念」を理解することが重要なのだ等々と批判を展開したのであるが、しかし、いくら読んでも、では、林氏自身はその「拡大再生産の概念」をどのように捉えているのかということが一向に明らかにならないのである。ただ「拡大再生産の概念」が重要であり、それを明確に捉えることが肝心だ、富塚にはそれがない、等々ということが強調されているだけで、林氏自身が「拡大再生産の概念」なるものとして何を考えているのかが、いくら読んでも分からないという、おかしな論文であったのである。こうしたことは、林氏の論文の一つの特徴になっており、決して、林氏自身は、「○○の概念」というのは、こういうことだ、それを彼らは理解していないのだ、と明確には語らないのである。
 そして今回の場合「社会主義の概念」なるものが、論じられている。しかし、林氏が語る「社会主義の概念」なるものは、一体、どういうものなのかが一つも明確ではないのである。それは「具体的で」「簡単で」「単純な」ものだという説明はあるが、しかし、そうしたものとして読んでいるものには何一つ明確には理解されないというおかしな論文なのである。それが具体的で、簡単で、単純なものなら、当然、林氏の論文を読んでいるものは、すぐに林氏が「社会主義の概念」として語っている内容が分かりそうなものであるが、しかし、いくら読んでも、林氏が「社会主義の概念」として語っているものは何なのかがいま一つ明確に捉えられないわけである。しかし、林氏はそれは「具体的で」「単純で」「簡単だ」なとと主張しているものだから、そんな簡単なものも分からないのか、と言われそうで、なかなか正面切って質問もできない雰囲気をつくりだしているわけである。これが果たして意図的なものかどうかはともかく。少なくとも林氏本人にそれが明確であるなら、それを読む人も明確にそれを理解することが可能であろう。それがいくら読んでも、読んだ人には分からないということは、要するに書いている本人も分からずに、ただ「社会主義の概念」なる言葉を強調しているだけに過ぎないということでしかないのである。
 例えば林氏は将来の社会の分配方式を問題にしているが、しかし、ではそれが「社会主義の概念」なのかというと、そうではなく、「社会主義の概念の根底」なのだそうである。
「社会主義の概念」とその「根底」とはどう違うのかもいま一つハッキリしないが、そもそも林氏は次のように問いかけていなかったであろうか。

 〈マルクスは共同体の関係を、ロビンソン個人に置き換えて説明したが、もちろん単純商品社会においても、ロビンソンの話は当てはまるだろう、しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである。だがまさにこの決定的に重要なことがなされてこなかったのであるが、それは労働者の自己解放運動にとって大きな思想的、理論的な“欠落”部分をなして来なかっただろうか。〉

 つまり林氏は〈資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示す〉と主張していたのである。しかし、林氏がやっていることは、ただ一人の労働者が自動車を生産するというケースでしかない。確かに自動車の生産は、ロビンソンの孤島では出来ないことであり、資本の社会を想定しているといえば、そうかも知れないが、しかし自動車の生産そのものは物質的な生産であって、決して資本関係の下でそれをやるかどうかということとは別問題である。林氏が〈資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであ〉ると言う場合、それは単に物質的的生産として高度に発達した資本主義的生産の生産物を例として取り上げるということだけではなく、資本・賃労働の関係を前提し、だから商品生産も前提するということなのである。ところが林氏がやっていることは、ただ自動車生産という具体例を上げてはいるものの、その生産に必要な労働を直接労働時間で表示して論じているわけである。しかし、もし資本主義的生産を前提するなら、労働時間によって、その生産物に支出された労働を直接計測することは出来ない筈なのである。林氏が自動車生産の例を持ち出し、その生産に必要な労働を、直接労働時間で表示して考察しているということ自体、すでに林氏は〈資本の社会を前提に〉論じていないということなのである。こうして自分が言っていることと、やっていることが矛盾しているということすら林氏には分かっていないのであろう。「○○につける薬はない」というしかない。】

 我々は我々が消費する「消費手段」(消費資料、生活資料など名前は何でもいいが)――これは言うまでもなく、「生産手段」に対する概念である――を、乗用車を例に論じて見よう。主要な穀物、例えば、米や麦を取り上げても同じだが、このブルジョア社会においては、典型的な工業生産物の場合の方がより問題をはっきりさせてくれるだろう。

 【このように、林氏は〈しかし問題は、資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会においてはどうか、ということであり、したがってまた資本の社会を前提に、マルクスが「単純であり、簡単である」といった関係を明瞭に、そして具体的に示すことである〉と述べていた内容というのは、ただ穀物ではなく、乗用車を例に論じるということなのである。しかし乗用車を例にとれば、資本関係を前提にしたことはならないのである。それはただ物質的生産として一つの例をとり上げたに過ぎない。問題は資本関係を前提にして、果たして社会主義の概念なるものが明らかになるのか、という形で提起されているのだ。】

 自動車を生産する労働者は100万人、50日働いて、100万台の自動車を生産するとする(この場合、総労働日は5000万である)。一人の労働者なら一台である。しかしこの労働者は自らの50労働日と交換に、一台の自動車を手にすることができるであろうか。

 【林氏は、ここで自動車生産だけを取り上げて、いわばそれを社会全体の生産を象徴させているようであるが、しかしそれだけで果たして社会全体の生産を象徴させることは可能であろうか。林氏は労働者を100万人と想定するが、しかし、単に自動車生産だけを具体例として取り上げるなら、別に100万人ではなく、1人で十分ではないか。なぜなら、その次に問題にしているのは、一人の労働者がどれだけの労働日と自動車とを交換できるかを問題にしているのだからである。なぜ、わざわざ100万人と想定する必要があったのか。】

 しかし実際には、自動車が完成されるためには、自動車を直接に生産するために支出された労働日の他に、自動車を生産するために用いられた生産手段――機械などの労働手段や鉄鋼などの原材料(労働対象)――の生産のための労働が必要である。それぞれ労働手段と労働対象を機械と鉄鋼で代表させよう。

 【ということは、林氏は自動車生産だけではなく、機械の生産や鉄鋼の生産も本来は問題にしなければならないのではないのか。しかもそれらもまた生産手段を必要とするのであって、だから、それらの生産手段の生産も想定しなければならない、等々。つまり林氏は、際限も無くさまざまな生産分野を想定しなければならなくなる。それをやっていないのは、ただ林氏が問題をごまかしているからである。それに林氏は、それぞれの生産手段に支出された労働を直接労働時間で計算しているが、しかし〈資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会〉を想定しながら、どうして生産手段に支出された労働を労働時間で計測できるのか。それらは資本の支配する社会を想定すれば、ただ自動車生産資本は商品として購入することが出来るだけであり、だからそれらは価値(価格)の大きさによって、それぞれに支出された社会的な労働量を把握できるのみである。だから林氏は、すでに資本の支配する社会を想定していないということである。つまり、この時点で、林氏は自ら提起した問題からすでに逸脱しているのである。林氏は、ただそれを自覚していないだけである。】

 機械(千台でも何でもいいが)の生産ためには、100万人で50日を要したとし、また鉄鋼(100万トンでも何でもいいが)の生産のためにも同じく100万人の労働者の50労働日が必要だったとしよう。両方で1億労働日である。これに前記の5000万労働日を加えれば、この社会が自動車100万台を生産するに必要な総労働は1億5千万労働日となる。

 【いうまでもなく、〈資本の支配する社会、生産手段が「資本」(自己運動し、また自己増殖する「価値」)という形態を取って、労働者に敵対する社会……を前提〉するなら、こんなことは不可能である。もし資本の支配する社会を前提するなら、林氏はまず機械や鉄鋼の価値を問題にしなければならないからである。どうして、それらの価値を問わないのか。そうすれば、自動車の価値は、機械や鉄鋼の価値と自動車の生産のために直接支出された労働によって追加された価値の合計であり、だから機械や鉄鋼の価値は、自動車を生産する労働の具体的有用労働によって自動車の価値として保存され移転されたとしなければならないであろう。林氏は〈資本の社会を前提〉するといいながら、直接労働時間を労働量の尺度にして計算している。だからまた機械の生産に支出された労働と鉄鋼の生産に支出された労働とも自動車生産の労働が直接に社会的に結びついていることを想定しているわけである。そうでなければ、機械や鉄鋼の生産に支出された労働と自動車の生産のために直接支出された労働とを合計することなど出来ない話なのである。それらは直接社会的結びつけられていることが前提されることがまず必要なのであり、そうした想定なしに、そうした労働時間の合計など出来ない話なのである。ところが林氏自身は、そうしたことにはまったく無頓着である。それぞれの労働がどうして、直接、労働時間として合計できるのかという問題意識すらないのである。これではそもそも社会主義の概念など語る資格すらないと言わざるを得ないではないか。】

 かくして自動車100万台の生産のためには、合計300万人で50日が必要であったのであって、単に100万人だけではなかった。かくして、一人の労働者が一台を生産するには50労働日ではなく、150労働日が必要であった(150労働日は1億5千万労働日を300万人で割った結果である)。

 【ここで林氏は〈一人の労働者が一台を生産するには50労働日ではなく、150労働日が必要であった〉と述べているが、これはおかしい。問題は自動車1台の生産のために支出された労働は150労働日だと言えば、それでよいのである。一人の労働者が1台の自動車を生産するのではないからである。問題は自動車1台の生産にどれだけの労働が支出されたかであって、それが分かれば、個々人は、自分が社会に与えた労働時間が150労働日に達すれば、自動車1台を手にすることができるのである。それにそもそも林氏は〈150労働日は1億5千万労働日を300万人で割った結果である〉などと間違ったことを書いているが、15000万労働日÷300万人=50労働日/1人であって、150労働日ではない。50労働日/1人というのは、直接、間接に自動車の生産に関与した労働者300万人が、それぞれ一人当たり50労働日を支出したことを意味するに過ぎない。林氏が150労働日として計算したのは、15000万労働日÷100万台=150労働日/1台のことであり、つまり1台あたりどれだけの労働日を必要としたかを求めているのである。】

 (論文の二つ目の項目〈◆2、社会主義の“概念”〉の途中であるが、この部分のコメントは長すぎるので、ここで中断する。残りは次回。)

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