無料ブログはココログ

« 林理論批判(37) | トップページ | 林理論批判(38) »

2016年2月24日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-14)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回は第【8】パラグラフで、〈銀行資本〔Bankcapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。有価証券は,さらに二つの部分に分けることができる。〔一つは〕商業的有価証券(手形)であって,これは流動的なもの〔floating〕で,本来の業務はこれの割引のかたちでなされる。〔もう一つは〕その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式〔)〕,要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの《(場合によってはまた不動産抵当証券〔mortgages〕も)》である〉と分類されていたうちの、〈商業的有価証券(手形)〉の考察が始まる。因みに、マルクスはここで分類された銀行資本の構成部分を、考察順序としては上記に揚げた順序とは逆に行っているのである。)

【23】

 〈さて,銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分はこのいわゆる利子生み証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である。〔銀行業者資本の〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家または商人の支払約束から成っている。貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに[525]満期までの残存期間の利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まるのである。a)/〉

 ここで〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉というのは、われわれが以前(29-5)、第【8】パラグラフに関連して考察したもの(ここを参照)の分類からするとどれに該当するのであろうか。ここではこの〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕の一部分〉が、これまで考察してきた〈いわゆる利子生み証券〉に投下され、さらにその〈最大の部分〉は、手形からなっているということだから、それは図示すると、次のようになる。

Photo
  これに現金(金または銀行券)を加えるなら、それは【8】パラグラフでわれわれが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉について、次のような説明を加えていたものと同じと考えるべきであろう(【8】パラグラフの考察で紹介している図を参照)。

 「“銀行業者がその営業をするための資本”というような意味と考えられる。つまり銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するものが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉ということができる」

 だから〈銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉も同じような意味として捉えるべきであろう。

 だからこのパラグラフは次のように解釈できる。

 銀行業者が営業をするための資本の一部分はこれまで考察してきた国債や株式などの〈いわゆる利子生み証券に投下されている〉。〈この証券そのものは,現実の銀行業者業務では機能していない準備資本の一部分である〉。

 銀行業者の〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本に利子生み資本を貸し付けて、利子を得ることであるが、しかしとりあえずそうした貸し付け先のない貨幣資本〔moneyed Capital〕は、差し当たりは利子生み証券に投下されているわけである。これらが準備資本をなすのは、必要とあれば、すぐに売却して貸し付け可能な貨幣資本に転換可能だからである。本来の業務である産業資本や商業資本への貸し付けは、それらの資本の循環を待って初めて返済を受けることができるのであるが、有価証券への投資は、その点、必要とあらばいつでもそれを売却すれば、いつでも返済可能な形態にあり、だからそれらに投下されているものは準備資本と考えることができるわけである。

 ところで大谷氏は〈〔銀行業者資本の〕最大の部分〉に注3)を付けて、次のように説明している。

 〈3)「銀行業者資本の最大の部分」--d.bedeutendste Theilというこの語は,先行する「銀行業者資本の一部分」と区別される,「銀行業者資本」の「最大の部分」と読まれなければならない。長谷部訳でも岡崎訳でも,この語は「その最大〔の〕部分」と訳されているが,その場合には,直前の「この証券そのもの〔es… dies〕」の「最大の部分」ないし「現実の銀行業者業務では機能していない準備資本」の「最大の部分」と読まれざるをえない。不適訳であろう。したがってまた,同じ読み方をしていた筆者の旧稿での記述(「信用と架空資本」の草稿について(上)」,『経済志林』第51巻第2号,1983年,65ページ)も訂正されなければならない。

 つまり長谷部訳や岡崎訳では、このいわゆる利子生み証券に投下された銀行業者資本の最大の部分となり、これでは文章としては成り立たない。というのは「このいわゆる利子生み証券」というのは、それまで考察してきた国債や株式を指すのであり、その最大の部分が手形から成っているというのでは意味が通じないからである。因みにこの「不敵訳」は新日本新書版でも同上製版でも改まっていない。ところで大谷氏がここで訂正している「信用と架空資本」の草稿について(上)」では、わざわざ次のように訳している。

 〈 「さて,銀行業者資本の一部分はこのいわゆる利子付証券に投下されている。この証券そのものは,現実の銀行業務では機能していない準備資本の一部分である。〔この準備資本の--引用者〕最大の部分は,手形,すなわち生産的資本家や商人の支払約束から成っている。」(Ms.I,S. 338; MEW,Bd . 23,S. 487.) 〉(ここで「引用者」とあるのは引用している大谷氏自身のことである)。

 まだ長谷部訳などの場合は、その前後の文脈を正確に読み取るなら、「その最大の部分」の「その」が何を指しているのかを正しく理解することも可能なのであるが、大谷氏のように、わざわざ訳者自身が間違った挿入文を入れてしまうと、どうしようもないといわざるを得ない。この場合は明らかに「不適訳」であることは間違いない。

 だからこの部分は、次のように解釈できる。

 銀行業者が営業をするための資本の最大の部分は、手形、すなわち生産的資本家または商人の支払約束からなっている、と。

 つまり〈現実の銀行業者業務〉というのは、産業資本や商業資本への利子生み資本の貸し付けであると先に述べたが、その貸し付けの形態はさまざまなのであるが(エンゲルスはそれを1)無担保貸し付け、2)担保貸し付け、3)手形割引に分けている)、その最大の部分は手形割引で貸し付けられるということであろう。第28章では、エンゲルスは彼の挿入文のなかで、手形割引を、「まったく普通の売買である」と説明して、それが利子生み資本の貸し付けの一形態であることを見誤っていたが、手形割引は確かに直接的には銀行が業者が持参した手形を「買う」という外観をとるのであるが、しかし、あくまでもそれは利子生み資本の貸し付けの一形態なのである。

 ところで、この部分にも大谷氏は注5)を付けて、次のように説明している。

 〈5) 〔手稿異文〕ここに,次のように書いたのち,消している。--「手形は,それらの名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点で,上で考察した有価証券とは区別される。手形は,満期になると今度は,振り出されたときの貨幣額よりも大きい貨幣額に転化する。」〉

 この一文をマルクスは最終的には消したのであるが、その内容をみると、興味深いことが分かる。というのは、ここではマルクスは、手形は、〈上で考察した有価証券〉、すなわち国債や株式のような〈いわゆる利子生み証券〉とは区別されるとしているからである。そしてその区別の根拠を〈名目価値とそれらの市場価値との区別がないという点〉だとしている。ところが本文をみると、〈貨幣の貸し手〔moneylender〕 にとっては,この手形は利子生み証券である〉とまったく逆の規定を与えているかに思えるからである。
 実は、この問題については、すでにわれわれは、【8】パラグラフの考察のなかで、次のように指摘しておいた。

 【ここでマルクスは、有価証券を、商業的有価証券(手形)とその他の有価証券に分けて、後者の説明として〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの……である〉と述べている。これを読む限りでは、手形は「利子生み証券」に入らないように思えるのであるが、後に見るように、割り引かれた手形については、銀行から見れば、それは利子生み証券だとマルクスは述べている(【23】参照)。この点、やや疑問が残るが、それはそれが問題になるパラグラフ(【23】)で検討することにして、ここではとりあえずは、手形は利子生み証券には含まれないものとして理解しておくことにしよう。】

 だからわれわれはこの問題を考えなければならない。ししかしこの問題については、すでに以前、国債や株式について考察したところで回答は出ているのである。【17】パラグラフで、株式について、〈株式は,この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする所有権原でしかないのである。Aはこの権原をBに売り,またBはCに売るかもしれない,等々。このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない。この場合,AまたはBは自分の権原を資本に転化させたのであるが,Cは自分の資本を,株式資本から期待されうる剰余価値にたいする,たんなる所有権原に転化させたのである〉と述べていた。ここで〈AまたはBは自分の権原を資本に転化させた〉のであるが、しかし〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉と述べられていた。この一文について、レジュメでは次のように説明した。

 【株式を最初に所有していたAからBに株式が販売され、さらにBはCに販売した場合、〈このような取引は事柄の性質を少しも変えるものではない〉とある。つまり株式が結合資本の所有権を表す証書であるとか、現実の資本を表すものであるとか、あるいは将来の剰余価値に対する所有権原であるという事柄そのものは何も変わらないと述べているのである。株式から得られる配当が株式が転売されたからといって配当でなくなるわけではないのである。ただそれを購入した、例えばCの私的な立場からすれば、それは彼の投下した利子生み資本に対する「利子」であると観念される。にも関わらず、客観的には配当であるという事柄は何も変わらないと言いたいのである。〈AまたはBは自分の権原(これは剰余価値に対する所有権原である)を資本に転化させた〉とあるが、もちろん、ここで「資本」というのは貨幣資本〔moneyed Capital〕、すなわち利子生み資本に転化させたということであろう。というのは、株式を購入することは、現実の資本の所有権あるいはそこから生み出される剰余価値に対する所有権原を入手することであり、そのこと自体は、決して彼の貨幣を利子生み資本として貸し付けたことを意味しない。なぜなら、利子生み資本の場合は、貸し付けた貨幣価値に対する所有権原は保持し続け、一定期間後には返済されることを前提しているのであるが、しかし株式に前貸された貨幣はそうした返済を前提にしたものではないからである。ところがAもBも彼らが保持した権原である株式を転売した時点で、彼らが前貸した貨幣額を回収するのであり、その限りでは、彼らの私的な立場からすれば、彼らが最初に投じた貨幣価値を利子生み資本に転化させて、その返済を受けたことになるのである。だからマルクスはここでAまたはBは自分の権原を資本(利子生み資本)に転化させたと述べているのである。】

 だからこの場合も、手形そのものは、マルクスが【8】パラグラフで述べていたように、他の利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかしその手形を銀行業者が割り引いて、銀行業者が保持しているならば、それは銀行業者資本の投下対象となったのであり、だからそれは銀行業者の立場からみれば、すなわち銀行業者の私的な立場からみれば、それは彼の利子生み資本を投下したものだから、その限りでは利子生み証券なのだとマルクスは述べているわけなのである(だからそれは利子生み資本の循環としては、一定期間後には利子を伴って還流してくることが期待されているのであるが、ただ手形割引の場合は、その利子分を先取りしているわけである)。だからこの場合も手形が手形であるということには何の変りもないのである。すなわち,それはそれを振り出した業者が一定期間後には額面の貨幣額を支払うという約束証書であるという〈事柄の性質を少しも変えるものではない〉わけである。そしてこの手形の客観的な性質においては、手形は株式や国債などの利子生み証券とは〈本質的に区別される〉ものなのである。しかし銀行業者の私的な立場からみれば、銀行業者に利子をもたらすものであり(銀行はそれを先取りするのだが)、よってそれは利子生み証券なのだということなのである。
 だから銀行業者はそれを買う(割引く)ときに、満期までの残存期間の利子を差し引くわけである(これが手形「割引」と言われる所以である)。だから手形の表している金額(すなわち額面金額)からどれだけ差し引かれるかは、そのときどきの利子率と満期までの残存期間によって定まるわけである。

【24】 

 〈【原注】|338下| a)手形は,「割引かれる財貨,すなわち随時に貨幣に転換される機会をもった財貨」になるのであって,「このような,為替手形〔bill〕または約束手形〔note〕 の額面からの割引あるいは控除は,手形の経過すべき期間についての額面にたいする利子に等しいものであって,〔貨幣への〕転換の価格として支払われるのである。」(ソーントン(H.)『大ブリテンの紙幣信用の性質と効果とについての研究』,ロンドン, 1802年,26ページ。)/〉

 これは〈手形は利子生み証券である。すなわち彼は,それを買うときに満期までの残存期間の利子を差し引く。だから,手形が表わしている金額からどれだけが差し引かれるかは,そのときどきの利子率によって定まる〉という部分につけられた原注a)である。ここで引用されているソーントンの著書は邦訳されている。マルクスが引用している部分を邦訳から前後を含めて紹介しておこう(ただし旧仮名遣いを改めてある。下線部分はマルクスが引用していると思われる部分)。

 〈これまでのところでは、為替手形や約束手形はもともとその振り出しを必要としたと思われる単純な目的のためにのみ作成されると考えてきた、また、そのことは常に手形の振り出される形式によっても表明されているのである。ところで、今度は、両種の手形ともさらにもう一つの特質、すなわち、割り引かれる物(アーチクル)、もしくは随時に貨幣に転換される便宜を備えた物(アーチクル)としての性質を持っていることを述べねばならない。この場合、為替または約束手形の額面からの割り引きあるいは控除は、手形の経過すべき期間についての額面に対する利子に等しいものであって、貨幣への転換の代価として支払われるのである。ニューヨークからロンドン宛に振り出され且つ債務の移転に役立つものであるというように、前のところで述べた為替手形も、その支払われる期日如何にかかわらず、同じように上述の目的に適うであろう。〉(邦訳52頁、『ソーントン・紙券信用論』渡辺佐平・杉本俊明 訳、実業之日本社 s.23.2.20発行)

 (以下、続く)

« 林理論批判(37) | トップページ | 林理論批判(38) »

『資本論』第3部第5篇の研究」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1480743/64117647

この記事へのトラックバック一覧です: 『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-14):

« 林理論批判(37) | トップページ | 林理論批判(38) »