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2016年2月17日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-13)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回は【19】【22】パラグラフである。この部分は、これまでの考察されてきた架空資本である有価証券はそもそも何を表していのかということを論じており、それまでの考察の一つの中間総括的な位置をしめているように思える。)

【19】

 〈これらの有価証券の下落(減価)または上昇(増価)が,これらの証券が表わしている現実の資本の運動にかかわりのないものであるかぎり,一国民の富の大きさは,減価および増価の前もあともまったく同じである。「1847年10月23日には,公債や運河・鉄道株はすでに114,752,2254ポンド・スターリング減価していました。」a)この減価が,生産や鉄道・運河交通の現実の休止とか,現実の企業の見放しとか,なにも生み出すことがなかったような企業への資本の固定とかを表わすものでなかったかぎり,この国民は,この名目的な貨幣資本の破裂によっては,一文も貧しくなってはいなかったのである。〉

 これらの有価証券、とくに株式の高騰や下落が現実資本の価値増殖と無関係のものであるなら、すなわち、単に投機的な思惑による高騰であるとか、あるいは単に貨幣逼迫による利子率の高騰による下落によるだけなら、これらの有価証券の当落によっては、一国民の富の大きさそのものは、その減価や増価の前後において何の変化もないわけである。
 ここで〈名目的な貨幣資本の破裂〉とあるが、これは先に出てきた(【18】の(2))〈名目価値〉とは同じではない。後者は国債や株式の額面価値(価格)のことであり、前者は利子率の変動やさまざまな投機的思惑によって膨れ上がった架空資本の市場価値(価格)の破裂を意味していると考えるべきであろうからである。

【20】

  〈【原注】|337下|a)モリス(イングランド銀行総裁),〔(〕『商業の不況』,1847-48年。[第3800号。]|〉

 この部分は【19】の本文につけられている原注であるが、本文で引用されているものの典拠を示すものになっている。このイングランド銀行総裁の議会証言は『資本論』現行版の第26章でも、エンゲルスの編集によるものだが、紹介されている(全集25a528頁)。
 しかしこの部分は、大谷氏によると、マルクス自身が本文として書いたものではなく、大谷氏は「雑録」として分類しているが、〈のちに使用する材料として抜粋を行なっている部分〉に過ぎないものなのである。それをエンゲルスは他の諸章と同じような本文として取り扱っているわけである。そもそもこの現行版の第26章の表題「貨幣資本の蓄積 それが利子率に及ぼす影響」というのは、この章の冒頭で紹介されている『通貨理論論評』からの抜粋の前に、その内容を要約してマルクスが書いたコメントに過ぎないものであって、それをエンゲルスが勘違いして全体の章の表題にしてしまったものなのである。だから表題とそれ以降の第26章に採用されている抜粋の全体の内容とはまったく合っていない代物なのである。いずれよせに、大谷氏が「雑録」として、草稿を翻訳・紹介している関連部分を大谷氏の論文から紹介しておこう(下線はマルクスによる強調。太字部分は今回引用されている部分。「第2675号」等とあるのは議会報告『商業的窮境』に記載されている証言番号である)。

 〈〔第2675号。〕「1847年には,輸入された食糧の代価として,少なくとも900万ポンドの金が(750万はイングランド銀行から. 150万はその他の源泉から)輸出されました。」(〔議会報告書『商業的窮境』,1847-48年。245ページ。) 〔第3800号。〕「1847年10月23日には,公債および運河・鉄道株はすでに114.752.225ポンド減価していました。」 (同前. 312ページ。モリス,イングランド銀行総裁。)第3846号。(同じモリスがロード・ベンティンクに尋ねられる。)「あなたは,債券やあらゆる種類の生産物やに投下されていたすべての資産が同じように減価したということ,原綿も生糸も未加工羊毛も同じ低落価格で大陸に送られたということ,そして,砂糖やコーヒーや茶が強制売却で投げ売りされたということを,ご存知ではないのてすか?--食糧の大量輸入の結果生じた地金流出に対抗するためには,国民がかなりの犠牲を払うこともやむをえませんでした。」第3848号。「そのような犠牲を払って金を取り戻そうとするよりも,イングランド銀行の金庫に眠っていた800万ポシドに手をつけるほうがよかった, とは考えられませんか?--いや,そうは考えません。」このヒロイズムへの注釈。ディズレイリW.コッ トン(イングランド銀行理事,前総裁)に尋ねる。第4356号。「1844年に銀行株主に支払われた〔配当〕率はどれだけでしたか?--その年には7%でした。」第4357号。「では. 1847年の配当は?--9%です。」第4358号。「銀行は今年は株主に代わって所得税を支  払うのですか?--そうです。」第4359号。「1844年にはそうしましたか?--そうしませんでした。」第4360号。「それならば,この条例は株主に非常に有利に作用したわけです〔ね?〕第4361号。「結果は,この条例が通過してから株主への配当は7%から9%に上がり,条例以前は株主が支払っていた所得税もいまでは銀行が支払うということですね?--まったくそのとおりです。」/〉 (《「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(中)--第3部第1稿第5章から--》『経済志林』51巻3号1993年-45頁)

【21】

  〈|338上|すべてこれらの証券が表わしているのは,実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎないのであって,この請求権の貨幣価値または資本価値は,国債の場合のように資本をまったく表わしていないか,または,それが表わしている現実の資本の価値とは無関係に規制される。〉

 ここでも〈すべてこれらの証券〉と言われているのは、これまでの展開から考えても、国債や株式のことである。マルクスは国債や株式も、それらが表しているのは、〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉と述べている。これまで国債と株式が何を表しているのかについて、マルクスがどのように説明してきたのかをもう一度、振り返ってみよう。
 国債の場合は、国家が借りた資本は食いつくされてもはや存在せず、国債は〈純粋に幻想的な資本を表している〉だけである。だから〈国家の債権者がもっているものは第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる〉(【10】)というものであった。
 株式は、結合資本にたいする所有権を表し、現実の資本を表している。すなわち、これらの企業で機能している(投下されている)資本、または資本として支出されために社団構成員によって前貸されている貨幣額を表している。しかし例えば額面の100万円株式は100万円の資本価値を持っているわけではない。資本価値としては、現実に投下されたものしか存在しないわけである。だから株式は、そうした現実に投下された資本によって実現されるべき剰余価値に対する所有権原でしかない、というのがマルクスの説明であった(【17】)。ここで「実現されるべき」というのは、単に商品資本の剰余価値部分として形成されたというだけでなく、それがさらに貨幣資本の剰余価値部分としても実現されたもの考えるべきであろう。
 しかしこうした国債や株式が表すものが、ここでは〈実際には、生産に対する蓄積された請求権に過ぎない〉のだと説明されているわけである。しかし注意が必要なのは、ここでは国債や株式そのものがそうしたものとして説明されているのであって、架空資本としての国債や株式のことではないことである。言い換えれば、国債や株式の額面価格(価値)が表しているものが、〈実際には、「生産に対する蓄積された請求権」にすぎない〉と言われているわけである。そして注目されるのは、〈「生産にたいする蓄積された請求権」〉が鍵括弧に入っていることである。それは一体何を意味するのであろうか。
 そもそも〈「生産に対する蓄積された請求権」〉とは何であろうか?
 支払手段としての貨幣の機能から生まれる債権・債務関係によって流通する信用諸用具を代表する「手形」は、「貨幣の支払を求める権利」あるいは「貨幣請求権」を表している(それは逆にいえば貨幣の支払約束証書でもある)。しかしここで言われているのは、「貨幣」に対する請求権ではなく、〈生産に対する……請求権〉なのである。国債の利子支払や株式の配当も、いずれも貨幣によって支払われる、だからそれらも貨幣による支払を求める権利、貨幣請求権を表しているといえないこともない。しかし、マルクスはそうした規定を与えるのではなく、〈生産に対する蓄積された請求権〉だと述べているわけである。
 国債は租税の年額に対して一定額の支払を請求する権利を表し、株式は現実資本が実現するであろう剰余価値に対する所有権原、つまり実現された剰余価値(利潤)からの支払を請求する権利を表している。租税もその源泉を剰余価値に求めることができるわけだから、マルクスがここで〈生産に対する……請求権〉と述べているのは、「生産され実現された剰余価値に対する請求権」とも考えることができるかも知れない。しかしそれならそのようにどうしてマルクスは書かないのであろうか。
 そもそも〈生産に対する請求権〉というのは、極めてあいまいなものである。なぜなら、生産に対して何を請求するのかも書かれていないからである。生産に対する請求権と言っても、生産の結果に対する請求権なのか、それとも生産の過程に対する請求権かさえも分からない。そもそも〈請求権にすぎない〉という書き方は、それはただ請求する権利を表しているだけで、それが実際に行使されるかどうかは状況次第によるとも解釈可能である。権利というのは法的な問題であり、例えば「基本権人権」などいうものは憲法に謳われている限りでは、言論の自由や思想信条の自由を表しているが、ブルジョア社会の現実は、それが実際には有名無実であり、一つの欺瞞であることを暴露している。同じように〈生産に対する請求権〉というものも、極めて漠然としたものであり、ただ漠然と生産に対して一定の蓄積された何らかの請求権を表しているだけで、それが具体的に生産に対して何を請求するのかもあいまいであり、しかもそうした権利が現実に行使されるのかどうかも状況次第という極めて漠然としたものなのかも知れない。つまりマルクスが有価証券が表しているものは、〈実際には,「生産にたいする蓄積された請求権」にすぎない〉という場合、そうした生産に対する極めて漠然とした請求権を意味している過ぎないのだという含意かも知れないのである。しかしいずれにせよ、今の時点で即断するのはやめておこうと思う。だからこの問題については最終的な確定は保留しておくことにする。

【22】

  〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している。そして,貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである。〉

 〈すべて資本主義的生産の国には,膨大な量の《いわゆる》利子生み資本またはmoneyed Capitalがこうした形態で存在している〉という場合の、〈こうした形態〉というのは、先に述べられている有価証券ということであろう。だからこの一文で述べていることは、資本主義の国においては、膨大な量の利子生み資本の投資対象として、こうした有価証券が存在しているということであろう。そして〈貨幣資本蓄積という言葉で考えられているのは,たいてい,この「生産にたいする請求権」の蓄積,および,これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積のことでしかないのである〉。
 後にマルクスはIII)において(現行の第30~32章において)、〈この信用の件(Creditgeschichte)全体のなかでも比類なく困難な問題〉(『経済志林』64巻4号146頁)として〈第一に本来の貨幣資本の蓄積。これはどの程度まで,現実の資本蓄積の,すなわち拡大された規模での再生産の指標なのか,またどの程度までそうでないのか?〉(同)という問題を上げているのであるが、〈貨幣資本の蓄積〉という言葉で考えられているものは、たいていは、〈生産に対する請求権〉の蓄積、あるいは請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積だというのである(ただIII)で実際に中心的に問題になっているのは、そうした「架空な貨幣資本」を除いた、「貸し付け可能な貨幣資本」に限定されたものなのではあるが)。
 この後者で言われているものの蓄積、すなわち〈これらの請求権の市場価格(幻想的な資本価値)の蓄積〉というのは、それまでに述べられていたものが、有価証券そのもの、つまり有価証券の額面が表すものであったのに対して、今度は、「架空資本としての有価証券」、つまり証券市場で実際に売買されている市場価格(資本価値)の蓄積のことを指していると考えることができる。

 (以下、続く)

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