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2016年1月

2016年1月28日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-10)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回から架空資本の運動が論じられている。また〈資本還元〉という用語が、初めて出てくる。この点に関連して、無理解を曝け出している林氏の批判もついでに行っておく。)

【16】

 〈/336/架空資本の形成は資本還元と呼ばれる。すべての《規則的な》収入が,平均利子率に従って,資本がこの利子率で貸し出されたならばもたらすであろう収益として計算される。たとえば《年間》収入がイコール100ポンド・スターリングで利子率がイコール5% ならば,この100ポンド・スターリングは2000ポンド・スターリングの年利子であり,そこでこんどは,この想像された||337上|2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる。この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5%の利払いを表わすのだからである。こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである。〉

 先に見た【11】パラグラフで、マルクスは〈国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである〉と述べていたが、ここからはその〈すぐに見る〉と言われていた〈それ自身の運動〉が考察の対象になっている。
 マルクスはまず〈架空資本の形成は資本還元と呼ばれる〉と述べている。〈資本還元〉という用語はここで初めてマルクス自身によって使われているのであるが、しかしよく見てみると、〈架空資本の形成は……と呼ばれる〉となっている。つまり今まで説明してきた〈架空資本の形成は〉一般には〈資本還元と呼ばれ〉ていると述べているだけである。われわれは直前の【15】パラグラフの原注b)の〈V.レーデン『比較文化統計』〉からの引用文の中に〈労働者は資本価値をもっており,それは,彼の1年間の稼ぎの貨幣価値を利子収益とみなすことによって算出される。……平均的な日賃銀率を4%で資本還元すれば〉云々、という一文があったことを知っている。つまり「資本還元」というのはブルジョア経済学者によって実際に使われていた用語なのである。
 だから資本還元という言葉そのものは、ここで初めてマルクス自身によって使われているのであるが、しかし実際には資本還元の内容そのものは最初から、つまり【9】パラグラフから、論じてきたものなのである。なぜなら、そこから架空資本の形成を論じてきたのだからである。確定した規則的な貨幣利得が、利子生み資本の形態に伴って(=範疇としての利子生み資本の確立によって)、本来的な利子であろうがなかろうが、それらはすべて「利子」と見なされ、だからその貨幣利得をもたらす源泉が何であろうと、その「利子」をもたらすとされた源泉は本来的な利子を生む「資本」(=利子生み資本)と見なされるのである。だからその確定した規則的な貨幣利得がそのときの平均利子率で還元されて、その「資本」(架空の利子生み資本)の価値が求められる、すなわち幻想的な架空資本の価値が形成されるのだとマルクスは論じてきたのだからである。
 だからこれまでの国債の例を使った架空資本の形成の議論のなかで、「資本還元」という用語を使っていないからといって、林氏のように〈マルクスは、……国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない〉とか〈ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではない〉などと主張するのは、まったく途方もないことなのである。

 とにかく〈資本還元〉によって、どのようにして架空資本が形成されるのか、マルクスの説明を検討してみよう。
 〈すべての《規則的な》収入が,平均利子率に従って,資本がこの利子率で貸し出されたならばもたらすであろう収益として計算される〉。まず範疇としての利子生み資本が確立された現実がある。だから一定の貨幣額は常に利子生み資本(元金)と見做され、利子をもたらすものと見做される現実がある。すなわち「資本--利子」の定式化の確立である。だから、今度は、それが逆転して(「利子--資本」の定式化が生まれ)、〈すべての《規則的な》収入が〉、「利子」と見做される現実が生じてくる。だからその場合は、例え「利子」でなくても、本来ある一定額の貨幣額が利子生み資本として貸し出されたなら、もたらすであろう「利子」と見做されるので、その一定の規則的な貨幣収入を平均利子率で割ることで、その「ある」と考えられている資本、すなわち実際には幻想的なものでしかない、「架空」の「資本価値」が〈計算されて〉求められることになる、とマルクスは述べているのである。これが資本還元の内容である。
 しかしこれは【10】パラグラフでマルクスが次のように言っていたことと同じことである。すなわち〈事柄は簡単である。平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉。ここに出てくる最初の〈500ポンド・スターリングの資本〉と最後の〈500ポンド・スターリングの一資本〉とは決して同じものではない。最初のものは実際に利子生み資本として投下される貨幣額である(すなわち「資本--利子」の関係である)。しかし最後のものはそうしたものとみなされるもの(「利子--資本」の関係から生まれるもの)、すなわち実際にはただ幻想的なものでしかなく、架空資本として計算された(形成された)ものなのである。そしてこの計算の過程こそ、資本還元と呼ばれているものなのである。だからマルクスはそもそも最初から架空資本の形成を論じるなかで、〈資本還元〉について説明していたのである。
 だからこのパラグラフでも、マルクスは次に【10】パラグラフと同じような具体例を上げて(但し数値は異なるが)説明している。〈たとえば《年間》収入がイコール100ポンド・スターリングで利子率がイコール5% ならば,この100ポンド・スターリングは2000ポンド・スターリングの年利子であり,そこでこんどは,この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる〉。規則的な収入が100ポンド・スターリングであれば、それをもたらす理由(源泉)が何であれ、それは「利子」とみなされ、だから平均利子率が5パーセントなら、100÷0.05=2000ポンド・スターリングの資本となる計算になる。この場合の2000ポンド・スターリングはただ想像されただけのものであり、よってただ幻想的なものでしかないのであるが、しかしそれらは年額100ポンド・スターリングを定期的にもたらす〈権原(所有権原)の資本価値とみなされる〉。というのは〈この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5%の利払いを表わすのだからである〉。今回は計算された2000ポンド・スターリングが〈想像された〉もの、すなわち架空資本であること、架空資本の資本価値であることが明確に語られている。
 ここで〈権原(所有権原)の資本価値〉と述べられているのは、一般の商品の売買と区別された利子生み資本に固有の運動にもとづいている。利子生み資本の運動も、「貨幣商品」の「売買」という外観をとる。しかし一般的な商品の売買の場合は、売り手は決して彼の商品の価値を手放すわけではなく、ただその使用価値を譲渡するだけである。なぜなら、彼は彼の持つ一定の価値額の商品形態をただ貨幣形態に転換するだけだからである。売る前も売った後でも彼は一定の価値額を持っていることに変わりはない(彼は自分の生産した使用価値が、自身の物質代謝に適さないので、代謝を行うに適する使用価値に交換するだけである)。ところが「貨幣商品」の場合には、そうした物質代謝とは直接には無関係であり(つまり彼は自身の物質代謝のためにそれをするのではない)、よって売り手(貸し手)は、彼の持つ価値そのものを買い手(借り手)に譲渡する。しかし売り手(貸し手)は彼の価値を譲渡するものの、その所有権原は保持するのである。だからそれは定期的な利子支払いをもたらし、さらに一定期間後には彼のもとに還流してくる(返済される)のである。だからここでは想像された2000ポンド・スターリングという資本価値が譲渡された(貸し付けられた)ものとみなされ、だからその所有権原を保持していると見做されているわけである。つまり実際にはありもしない架空な資本価値の所有権原があるとみなされるわけである。ここでは実際上、現実に(リアルに)あるのは、100ポンド・スターリングという貨幣額だけである。これは確かに現実にも存在している。しかしそれをもたらしていると想像されている2000ポンド・スターリングというのは、まったく幻想的なものである。だからまた当然それの所有権原もまったく幻想的なものでしかないわけである(だから状況が変化すれば、それらは直ちに紙屑に転化し、「架空」に帰するのである。それらが「架空」資本と言われる所以である)。
 例えば「資本--利子」の観念が定式化されると、一定の貨幣額は必ず利子をもたらすという観念が確立する。平均利子率が5パーセントなら当然、100万円は年5万円の利子をもたらすものだと観念されるわけである。だからその100万円が実際には、ただ浪費するためだけに貸し出されて、まったく利潤を生み出さない場合でも、やはり5万円の利息が要求されるわけである。しかしこの場合、最初の100万円は実在的な貨幣額であり、決して幻想的でもなんでもない。
 ところがこの「資本--利子」の関係が逆転し、「利子--資本」の観念が生まれてくる。すると今度は、年々5万円の規則的な貨幣利得がすべて「利子」とみなされるようになる。それは実際には利子でもなんでもなくてもやはり利子とみなされ、だからそれは平均利子率が5パーセントなら、100万円の利子生み資本の利子とみなされるわけである。つまり年々5万円の貨幣利得を得る権利は、100万円の利子生み資本の所有権原とみなされることになる。彼は100万円を利子生み資本として貸し出したから、年々5万円を利子として取得していると想像されるわけである。しかしこの場合の100万円はまったくただ想像されているだけであり、だから純粋に幻想的なものである。だからマルクスはこれを架空資本と規定したのである。この場合、年々の5万円の貨幣利得だけは確かに現実的なものである。しかしその年々の規則的な貨幣利得をもたらす理由とみなされる所有権原があるとされる100万円という資本価値そのものは、まったくただ想像さたものであり、よって純粋に幻想的なものでしかないわけである。にも関わらず、それは独自の運動を持っているのだとマルクスは述べているのである。
 先の「資本--利子」の関係では、100万円の貨幣額も現実的であるし、そこからもたらされる年々5万円も現実である。ただ100万円が実際に利子生み資本として前貸され、剰余価値を生み出したかどうか、だからまた年々もたらされる5万円の利子が近代的な範疇としての利子なのかどうかは何も問われずに、そうしたものとみなされるわけである。だからここで幻想的なものは、100万円が利子生み資本と観念されるその観念であり、5万円がその利子生み資本が生み出した利子だと観念される、その観念がただ幻想的であるにすぎないわけである。
 ところが「利子--資本」の転倒によってもたらされる現象では、現実的なのは5万円という貨幣価値だけである。それが「利子」とみなされる観念はもちろん幻想であり、そればかりかその5万円の果実を生み出すとされる100万円の資本価値そのものとその所有権原もまったく幻想的なものでしかないわけである。それはただ想像されただけのものでしかない。にも関わらずそれはそうした資本価値を持つものとして独自の運動をするのである。われわれはこうした架空資本の概念、その本質を明確に捉える必要があるのである。そうすれば大谷氏をはじめ少なくないマルクス経済学者たちが「架空資本」と「擬制資本」とを区別してそれらを使い分ける必要があると考えているような主張が誤っていることが容易に理解されるであろう。

 しかしとにかくマルクスの述べていることをしっかり読んで行こう。
 〈この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5%の利払いを表わすのだからである〉。
 これは〈この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる〉理由としてマルクスが述べていることである。つまりこういうことだ。
 ここに別の資本家(貨幣資本家)が登場する。彼は2000ポンド・スターリングというしっかりしたリアルな貨幣を持っているとしよう。彼はそれを機能資本家に貸し付けて毎年100ポンド・スターリングの利子を得ようと考えている。ところが彼はそれをやる代わりに、まったく幻想的なものでしかない2000ポンド・スターリングの架空資本(有価証券)を購入する。そうしても彼にとっては、毎年100ポンド・スターリングの利子をもたらすという点では何も変わらないのだから、彼にとっては同じに見えるわけである。そればかりか、彼が2000ポンド・スターリングを機能資本家に貸した場合、それが還流してくる(返済される)のは、現実の資本の循環を待たねばならない。ところが彼が2000ポンド・スターリングの架空資本を購入した場合には、必要なときにいつでも彼はそれを第三者に転売して、2000ポンド・スターリングの返済を受けることができるのである。これは彼にとっては有利に思える。そればかりか2000ポンド・スターリングはうまく行けば、3000ポンド・スターリングにも4000ポンド・スターリングにもなるかも知れないわけである。しかし、そうはどっこい、世の中はそんなにうまくはない。というのは彼の買った架空資本(有価証券)はいつのまにか2000ポンド・スターリングではなく、1500ポンド・スターリングに価値が減ってしまっていたり、悪くするとただの紙屑になってしまう場合もあるからである。その場合には、彼はしっかりしたリアルな2000ポンド・スターリングをただの紙屑にしてしまったことになるわけである。架空資本が架空なるが所以である。しかしとにかく彼は2000ポンド・スターリングの有価証券を購入すると、2000ポンド・スターリングを貸し付けて、その債務証書をしっかり持っている(所有権原を持っている)のと、同じだと考えるわけである。だからこの有価証券は2000ポンド・スターリングという想像された資本価値を持ち、毎年100ポンド・スターリングの利払いを受ける権原とみなされるわけである。

 〈こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである〉。
 こうしてすでに「資本--利子」の観念のなかに、資本の物神性は極限に至っていたのであるが、「利子--資本」の観念においては、それがさらに狂った観念として現れてくる。有価証券という単なる紙切れ、単なる債務証書にすぎないものが、資本価値をもち、しかも自己増殖する価値として想念されるわけで、その場合の年々の貨幣利得の源泉が果たしてどこに由来するのかはもはや皆目分からないものになっている。だから資本はとにかく自分自身を価値増殖する自動体として観念されるようになるのだ、とマルクスは述べている。

 ところで、マルクスの〈架空資本の形成は資本還元と呼ばれる〉という一文を読んで、われわれはここでハタと林氏の立論の矛盾に気づく。林氏は次のように主張していた。

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉 (『海つばめ』No.1111)

 関西セミナーのときには、林氏は国債が架空資本であることさえ認めなかったのであるが、それは今は問わないことにしよう。つまり林氏は国債が架空資本(林氏が引用している岩波の翻訳では「空資本」)であることは認めるわけである。しかし林氏は、それは〈収入の資本還元の理論〉によってそうなのではないと主張している。国債が架空資本であるのは〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまって、現実にはどんな痕跡も残って〉いないから「空資本」と言えるのだというのである。しかし林氏の説明では、国債が「空資本」であることの説明にはなっていない。なぜなら、林氏の説明では国債が「」であることは説明されていても、それが「資本」であることは何も説明されていないからである。マルクスは【11】パラグラフでは国債が架空資本である理由を次のように述べていた。

 〈しかしすべてこれらの場合に,国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである〉。

 つまりマルクスは、林氏が主張する理由=〈もはやまったく存在しない〉〈ということばかりではない〉と述べていた。つまり林氏が主張する理由は、架空資本が「架空」(「空」)である理由にはなり得ても、それが「資本」とみなされる理由にはならないから、だからマルクスは〈ということばかりではない〉と述べていたのである。そのあとマルクスが述べているものこそ、なぜ国債が「資本」と見做されるのかの説明だったのである。つまり国家に貸し付けられた貨幣はまったく資本として投下されるものでは無いのに、しかし自己を維持し増殖するものと見做される、つまり「資本」と見做されるとマルクスは言っているわけである。それはどうしてか? それは国家から支払われる規則的な貨幣支払いが「利子」と見做されるからだ。だから、その貨幣利得をもたらす源泉=国債が「資本」と見做されるのだというのがマルクスの説明である。つまり規則的な貨幣支払いが利子と見做され、だからその規則的な貨幣利得の源泉である国債も資本と見做されるからである、すなわちその源泉が資本に還元されるからである。つまり「資本還元」によってである。
 だから林氏の主張は明らかに矛盾している。林氏は国債が架空資本であることは認めるが、それが資本還元によるものであることを否定するのである。しかし国債が架空資本であることを認めるなら、それが資本還元によって説明できることも認めなければならない。一方を認めて、他方を否定することは不可能なのである。林氏はこうした自己矛盾に陥ってしまっているのに、そのことに気づいてもいないのである。

 林氏は国債は〈いわば“純粋の”空資本〉だということを認める。しかしそれは資本還元されるからそうなのではなく、国債として貸し出された貨幣がすでに使い果たされて存在しないからだという。マルクスもそういう意味で国債を「空資本」と呼んでいるのだと主張するわけである。しかしそうであるなら、林氏はどうして使い果たされて現実には存在しない貨幣が一定の資本価値として、つまり「空資本」として存在するようになるのか、どうしてそれがそのように現象するのかを説明しなければならないのであるが、それはできないことは明らかである。もしそれを資本還元という方法以外で説明できるなら、是非、やって貰いたいものである。
 結局、林氏が頼らざるを得ないのは、額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当たり前だという、転倒した観念を一つの“常識”として主張することでしかない。林氏が主張するのは、額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当たり前であり、だからわざわざ年々の利子5万円を平均利子率で割って(すなわち資本還元して)100万円という資本価値を計算する必要はない,そんなことは単なる同義反復であり、矛盾であるということである。しかし今問題なのはどうして額面として「100万円」と印刷されただけの、ただの紙切れである国債が100万円の価値を持つのかということを説明することなのである。これは決して当たり前のことではなく、単なる紙切れに過ぎないものが100万円の価値あるものとして通用し、実際、それを買うには100万円が必要だという現実をどのように説明するのかということである。つまり林氏が当たり前だと考えていることを説明することが求められているのである。しかも額面100万円の国債が、市場では必ずしも100万円の価値あるものとして評価されず、90万円とか80万円しか価値がないものと評価されるのはどうしてか、ということも説明しなければならない。
 結局、それは年々そこからもたらされる5万円が利子とみなされるからであり、だからそれを利子率5%で資本還元すると、それは100万円の「利子生み資本」の「利子」とみなされる計算になり、だから額面100万円の国債は100万円の「資本価値」を持つものとみなされることになるのだと説明するしかないのである。あるいは利子率が上昇して、5.5%とか6%になったために、年々の国債からもたらされる確定利息の5万円が、市場の利子率で資本還元されるために、例え額面100万円の国債であっても、市場では90万円とか80万円の資本価値しかないものとして評価され、その価値額で売買されるのだと説明するしかないのである。つまり資本還元の概念なしに、架空資本の運動を説明することは出来ないのである。もしそれ以外の方法があるなら、是非とも林氏はそれをやって見せるべきであろう。

 (以下、続く)

林理論批判(33)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.11)

 前回の続き、『海つばめ』1163号の林論文を批判したものの後半部分である。この記事が出た時に、検討資料として支部に提出したもの(レポートの日付は2012.1.9となっている)。(以下、『資本論』からの引用で頁数のみを記しているものは、すべて全集版23aの頁数)。

§§§ 『海つばめ』1163号(2011.12.25)林論文、《「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために》の批判的検討(下)§§§

 〔われわれはこの論文の批判的検討では、これまでやってきたように、逐一その誤りを指摘し、批判するという方法は採用しない。というのはそうした方法は、今回の場合、あまりにも煩雑になるからである(つまりそれだけ問題にすべきところが多すぎるわけだ)。だから、今回は、主要且つ重要な問題点と思える課題に絞って、その誤りを指摘し、正しいマルクスの理解を対置して批判することにしよう。そして林氏の混乱の根本は、マルクスが再生産表式として表し、考察している内容を皆目理解していないことにあると考える。だから、マルクスは再生産表式で何を表し考察しているのか、それを別途解説してみようと思う。そうすれば誰もが、林氏の主張していることが、『資本論』に対する無理解にもとづくものであることを、自分自身で確認し、判断することが出来るであろう。〕(前回掲載した「はじめに」の部分から再録)

§§林氏が〈マルクスが直接に――あるいは明瞭で、具体的な形では――述べていないこと〉として、何か林氏が新しく“発見”した、“画期的”なものであるかに持ち出していることについて

 林氏は自説を説明して次のように述べている。

 〈私が提起する、この問題はマルクスが直接に――あるいは明瞭で、具体的な形では――述べていないことである(どこかで似たようなことを言っているかもしれないが、一つのテーマとして論じていないように思われる、というのは、社会主義を「価値規定」と関連させて、いくらかでも具体的な形で述べることはマルクスの主要な問題意識、あるいは関心事項ではなかったからである)、だからこそ、「マルクスはそんなことを言っていない」とか、「マルクスは違ったように言っている」とか言って揚げ足を取っているだけではなく――そんなことは全く不生産的で、不毛なことだ、全く前進的でも、創造的でもない――、私とは別の回答を示すべきであろう。〉

 しかし、林氏が〈同志会にとって決定的に重要であり、我々の歴史的な“存在理由”をきわめて鮮明に明らかにしたもの〉という割りには、林氏の主張していることは分かりやすいものではない。もう一度、林氏が〈このことの認識こそ決定的〉だと述べていることについて検討してみよう。それは次のような一文であった。

 〈一見して、自動車生産のためには、機械や鉄鋼に支出された労働日が前提とされ、その労働日は「過去の」労働日として、つまり「移転されてきた」労働日として現象するのであって、何か前年度の労働の結果であるかに見える、しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。このことの認識こそ決定的であり、「有用的労働による価値移転論」等々の空虚なことを明らかにしているのである。この労働日について、価値移転論者のように“二重計算”することは――つまり一方で「過去の労働」として、他方で新しい生産的労働として――ナンセンスであり、社会主義における生産と分配の観念をどこかに追いやってしまうのである。〉

 われわれは、マルクスによって確立された再生産表式を前提して常に考えるクセがあるので、ここで林氏が述べていることは、一見すると、奇妙なことのように思えるかもしれない。しかし林氏が指摘していることは、この資本主義的生産のありふれた現実であり、現象なのである。
 つまりわれわれが目にする資本主義の社会的生産を観察してみると、ある工場で生産された生産物が、すぐに別の工場に運ばれて、その工場で生産手段として役立ち、さらにその工場の生産物は、別の工場に運ばれると、そこでまたその工場の生産過程で、生産手段として役立つというように、社会的生産は互いに物的に関連し合っており、しかも1年間の生産という限られた期間の枠内でも、それらは相互に関連し合って生産物を移動させていることが分かる(もちろん、年度を越えて関連し合っている場合も当然ありうるだろう)。例えばある紡績工場で綿花を綿糸にすると、その綿糸は、別に年度を越えずとも、その年のうちに、すぐに別の紡織工場に運ばれて、そこで綿布に変えられ、さらにそれはやはりその年のうちに捺染工場に運ばれてプリント生地になり、さらには同じ年度内に縫製工場に運ばれて、洋服が生産され、そうしてそれはその年のうちにわれわれ消費者の手に届くという具合にである。これらはある年度をとれば、その年度内で行われていることであろう。だから林氏が〈“同時並行的”〉だというのは、同じ年度内に行われていることだ、という意味なのである。
 林氏が〈このことの認識こそ決定的〉だと主張していることは、こうした資本主義的生産のありふれた現象をそのまま指摘しているだけの話なのである。そしてこのように考えるなら、「過去の労働」(つまり考察の対象にしている年度以前に支出され、対象化された労働)など考える必要はないし、今年度内の生産において、今年度以前に支出された「過去の労働」が「移転」されるなどということも考える必要はない、だから年度の総生産物価値は「生きた労働」と「死んだ労働」との合計だなどと考える必要もないのだ(そんなことをすると二重に計算することになる)等々と林氏は強調するわけである。林氏がながながとくどくどと述べている(項目の3と4はほぼこの問題が論じられている)すべての理屈は押し詰めれば、こうしたことに過ぎない。

 林氏がマルクスも明示的には述べていない、画期的なものであるかに述べていることは、しかし、それはマルクスが資本主義社会の総再生産過程を、さまざまな試行錯誤を通じて、最終的に、簡潔に、再生産表式として表示して考察するまでに、長い過程を通して到達する以前に、スミスらの主張を批判的に考察しながら、資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換として、社会の総生産物の補填関係を論じるなかで問題にしていたものでもあるのである。確かに『資本論』では、そうした林氏が指摘するようなことは、社会的総資本の再生産の過程を論じるなかでは、マルクスは問題にはしていないが、だから、それ以前の考察、例えば『1861-3年草稿』(『剰余価値学説史』)のなかでは、マルクスも林氏と同じような問題をいろいろと論じているのである。一つだけ引用してみよう。

 〈なによりもまず必要なことは、不変資本の再生産を明らかにしておくことである。ここではわれわれは年々の再生産を考察しよう。すなわち、一年を再生産過程の時間尺度として考察しよう。
 不変資本の大きな一部分--固定資本--は、年々の価値増殖過程にはいることなしに年々の労働過程にはいる。それは消費されない。したがって再生産される必要はない。それは、一般に生産過程のなかにはいって、生きている労働と接触し続けることによって、維持されるのである--その使用価値とともにその交換価値も--。生産過程がただ同じ規模で更新され、続行され、流動状態に保たれるだけだと前提すれば、ある国において今年度に資本のこの部分が大きければ大きいほど、それに比例して翌年度にはそれの単なる形態的な再生産(維持)はそれだけ大きい。固定資本を維持するために必要な修理費その他は、固定資本の最初の労働費用として計算される。これは、前に述べた意味での維持とはまったく別のものである。
 不変資本の第二の部分は商品を生産するにあたって年々消費され、したがってまた再生産されなければならない。これに属するものは、不変資本中の固定資本のうち価値増殖過程に年々はいって行く部分の全体、および不変資本のうちの流動資本すなわち原料や補助材料から成っている部分の全体である。
 ところで不変資本のこの第二の部分について言えば、次のような区別をしなければならない。
 ある生産部面で不変資本として--労働手段および労働材料として--現われるものの大部分は、それと並行する生産部面で同時に生産される生産物である。たとえば綿糸は織物業者の不変資本に属するが、それは、おそらくその前日にはまだ製造中だった紡績業者の生産物である。ここでわれわれが同時にと言う場合、それは、同じ年のあいだに生産される、ということである。同じ商品が、段階を異にするにつれて、同じ年のあいだに違った生産部面を通過するのである。それは、一方の生産部面から生産物として出てきて、他方の生産部面へは不変資本を形成する商品としてはいって行く。そして、固定資本の場合のようにその価値だけが商品のなかにはいって行くにせよ、流動資本の場合のようにその使用価値もまた商品のなかにはいって行くにせよ、どちらにしても、すべてが不変資本として一年間のうちに消費される。一方の生産部面で生産された商品が今度は不変資本として消費されるために他方の生産部面にはいって行くのと同時に--すなわち同じ商品がはいって行く諸生産部面のこのような連続とならんで、この商品のいろいろな要素またはこの商品のいろいろな段階製品が同時にそれと並行して生産される。それは、同じ年のあいだに絶えず一方の部面で不変資本として消費され、他方のこれと並行する部面で商品として生産される。その年のあいだに不変資本としてこのように消費される同じ商品が、また絶えず同じ年のあいだに同じようにして生産されるのである。A部面では機械が損耗する。その機械が同時にB部面では生産される。生活手段を生産する生産部面でその年のあいだに消費される不変資本は、同時に他の生産部面で生産され、したがって、それは、その年のあいだにかまたはその年の終わりに現物で新たに補填される。生活手段も不変資本のこの部分もともに、この一年のあいだ活動する新たな労働の生産物なのである。
 私が以前に示したように(本巻、第 I 分冊、96-109および206-214〔原〕頁を見よ)、生活手段を生産する生産部面の生産物の価値部分で、この生産部面の不変資本を補填する価値部分は、この不変資本の生産者たちにとっての収入を形成するのである。
 ところが、さらに不変資本のうちには、生活手段(消費用商品) を生産する生産部面のなかに成分としてはいって行くことなしに、年々消費される部分が存在する。したがって、この部分は、これらの部面の生産物で補填されることもありえない。われわれが考えているのは、不変資本--労働用具、原料、補助材料--のうち、不変資本すなわち機械や原料や補助材料の形成や生産においてそれ自身産業的に消費される部分のことである。すでに見たように(本巻、第 I 分冊、109-121、158-168および214-222〔原〕頁を見よ)、この部分は、直接にこの生産部面自体の生産物(たとえば、種子、家畜、一部の石炭の場合)によってか、または不変資本を形成するいろいろな生産部面の生産物の一部との交換によってか、どちらかによって現物で補填される。この場合には資本と資本との交換が行なわれる。
 この不変資本部分の存在と消費によって、生産物の量だけでなく年々の生産物の価値もまた増大する。消費されたこの不変資本部分の価値に等しい年々の生産物の価値部分は、不変資本のうち消費された不変資本を現物で補填しなければならない部分を、年々の生産物のなかから現物で買いもどし、または回収するのである。たとえば、種子として用いられる穀物の価値部分は、収穫のうち不変資本として土地に、生産に、返されなければならない価値部分(したがってまた穀物量)を規定する。その年のあいだに新たにつけ加えられた労働がなければ、この部分は再生産されないであろうが、しかし実際にはこの部分は前年のかまたは過去の労働によって生産されているのであって、--労働の生産性が変わらないかぎり--この部分が年々の生産物につけ加える価値は、今年の労働の所産ではなく前年の労働の所産なのである。ある国における充用不変資本の割合が大きければ大きいほど、不変資本のこの部分、すなわち不変資本の生産に消費され生産物量の増大となって現われるだけでなくこの生産物量の価値をも高めるような部分もまた、それだけ大きくなる。だから、この価値は、現在の年間労働の所産であるだけではなく、同様に前年の、過去の、労働の所産でもある。といっても、それは、年々の直接的労働がなければ、それがはいって行く生産物と同様に、再び現われることはないであろうが。もしこの部分が増加するとすれば、たとえ年々の労働は同じままであっても、年々の生産物量だけでなく、その価値もまた増加するであろう。この増加は資本の蓄積の一形態であって、これを理解することは非常に重要である。そして、リカードの次のような文章ほどこの理解から遠いものはありえないのである。
 「製造工業における一〇〇万人の人間の労働は、つねに同じ価値を生産するであろうが、しかし必ずしも同じ富を生産するとはかぎらないであろう。」(同前、三二〇ぺージ。〔小泉訳、下、七ページ。〕)
 この一〇〇万人の人間が--労働日を与えられたものと前提して--生産する商品量は、労働の生産性に応じて非常に違っているだけでなく、この商品量の価値も、それを生産するのに用いられる不変資本が多いか少ないかに従って、すなわちそれにつけ加えられるところの、前年の過去の、労働に由来する価値が多いか少ないかに従って、非常に違っているであろう
。〉 (『学説史』II-638-641頁)

 しかしマルクスは、こうした考察を経て(その考察過程を辿ることは非常に難渋するほど極めてややこしいものになっている)、ようやく再生産表式に到達したのであり(その過程では、ケネーの経済表に似せた、マルクス独自の経済表を作成したりしている)、だからこそ、今では、われわれはマルクスの確立した再生産表式を使って、簡潔・簡単に社会の総資本の再生産を考察することが出来ているのである。林氏の根本的な問題は、そのマルクスが確立した再生産表式を正しく理解していないことである。だから項を変えて、マルクスの再生産表式は何を表し、それでマルクスは何を考察しているのかを明らかにすることにしよう。

§§マルクスは再生産表式で何を表し、考察しているのか

 マルクスは第20章「単純再生産」第1節「問題の提起」で次のように述べている。

 〈われわれが分析しなければならないのは、明らかに、流通図形W’--{G--W・・・・P・・・・W;g--w であって、しかもここでは必ず消費が一役を演ずるのである。……
 しかも、われわれの当面の目的のためには、再生産過程は、W’の個々の成分の価値補填と素材補填との両方の立場から考察されなければならない。……
 すぐ目の前にあるのは次のような問題である。すなわち、生産中に消費される資本はどのようにしてその価値を年間生産物によって補填されるか、また、この補填の運動は資本家による剰余価値の消費および労働者による労賃の消費とどのように絡み合っているか、である。……
 社会的総資本とその生産物価値との考察では……生産物価値の一部分が資本に再転化し、他の一部分が資本家階級と労働者階級との個人的消費に入るということは、総資本が結実した生産物価値そのものの中での運動を形成する。そして、この運動は、価値補填であるだけではなく素材補填でもあり、したがって、社会的生産物の色々な価値成分の相互の割合によって制約されているとともに、それらの使用価値、それらの素材的な姿によっても制約されているのである。
 不変な規模での単純再生産は、一つの抽象として現れる。……前提は、商品の形態は再生産過程で変わることがあるにしても、与えられた価値の社会的資本は、今年も去年と同じに再び同じ量の商品価値を供給し同じ量の必要を満たす、ということである。……〉
(全集24巻482-486頁)

 このようにマルクスは、社会の総資本の再生産過程を、商品資本の循環として考察すると述べている。しかし、そのことは、再生産表式によって考察することとどのように関連しているのであろうか。それが問題なのである。われわれは、もう一度、商品資本の循環の図式と単純再生産の表式を提示して、考えてみることにしょう。

(1)商品資本の循環の図式

 W’s-G’-W…P…W’g(最初のW’と最後のW’は同じだが、とりあえず、それを区別するためにW’s、W’gとした)

(2)単純再生産の表式

部門 I  4000c+1000v+1000m=6000
部門II  2000c+ 500v+ 500m=3000

さて、マルクスが社会的な総資本の「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」(第2稿の表題)として、再生産表式を使って、何をどのように考察しているのであろうか。
すでに述べたように、再生産表式というのは、W’-G’-W…P…W’の商品資本の循環として社会の総資本の運動を考察することである。しかし社会的総資本の流通を商品資本の循環として考察する場合、一定の想定が必要である。まず社会のすべての資本は年一回転すると仮定される。しかもすべての資本が周期を同じくして年一回転すると仮定されているのである。そして単純再生産の場合、出発表式(上記の(2)の表式)として示されている総商品資本は、その前年の再生産過程で生産された社会のすべての商品資本をその価値と素材とによって区別されて配列されたものなのである。そしてこの社会のすべての商品資本がまず最初に同時にW'-G'-Wの流通過程を辿り(但し流通期間は通常ゼロと仮定されている)、それぞれ社会の必要な諸部門にその流通過程を通じて配分され、そしてそれぞれの生産過程で生産的に消費され、あるいは労働者や資本家個人にも配分されて、やはりそれぞれの諸個人においても個人的に消費され、そうして社会の総再生産が行なわれる、よってまた同時にその過程で労働者や資本家個人も再生産される、だからまた資本-賃労働の社会的な関係も再生産される。すなわちW…P…W'の生産過程を経て、再び出発点の表式である総商品資本のW'に戻ってくると考えられている。つまり社会の総資本を構成するすべての個々の資本がその回転期間がすべて同じ1年で、しかもまったく同じ周期によって回転するといった、ある意味では極端な仮定がされているのである。もちろん、こうした仮定は資本主義的生産の現実とはかけ離れたものである。しかしこうした極端な仮定は、社会的総資本がその社会の再生産において、互いにどのように補填し合うかを、それらの素材と価値において、純粋に考察するためには、必要な仮定なのである。
 もちろん、現実の社会の総再生産を考えるなら、別に林氏が画期的なこととして持ち上げるほどでもないほど、ありふれた現実として、社会の総資本を構成する個々の資本はその回転期間も循環の周期も多種多様であるだろうし、だからある生産部門の生産物は、その年度の間に、別の生産部門に移行してそこで生産手段として役立つということは当然のことであろう。しかし、そうした複雑な過程をそのまま前提して、分析しても、それらの内的関連をさぐることは極めて困難であるし、事実上不可能であろう。だからこそ社会の総生産物(総商品資本)の価値と素材にもとづく補填関係を考察し、その内的関連を純粋に探り出すためには、こうした極端な仮定は必要なのである。マルクス自身は、さまざまな試行錯誤を通じてそこに到達し、よってまた簡潔な再生産表式として問題を考察することに成功したのである。

 まずこの単純再生産表式が何を表わしているのかを確認していこう。

 ① まずこれは一国の年間の総生産物を総商品資本の総価値額としてあらわしている(商品資本の循環の図式でいうと前年度の循環のW’gにあたる)。しかしそれは同時に、われわれが一国の総資本の再生産過程を考察しようとしている今年度の循環の最初の総商品資本でもある(だから今年度の循環としては(1)のW’sにあたる)。つまりわれわれが、社会の総資本の再生産過程を考察するということは、前年度に生産された総商品資本を前提にして、それを出発点において考察するということになるのである。この場合、その総商品資本は9000の価値額を示しているわけである。

 ② またその9000の価値ある年間の総商品資本は第Ⅰ部門、つまり生産手段生産部門の商品資本としては6000の価値額であり、消費手段の生産部門の商品資本としては3000の価値額である。つまり前年度の末に6000の価値ある生産手段が生産され、3000の価値ある消費手段が生産されたわけである。

 ③ ではⅠ部門の4000c+1000v+1000mとは何を表わしているのであろうか? これは6000の価値ある生産手段のうち4000の価値部分が、その商品資本の生産する過程で生産的に消費された生産諸手段(不変資本)の価値額を、故に再び再生産を開始するには、それらが補填されなければならない価値額を示しており、1000vの価値部分は資本家が、その生産手段を生産するために労働力に投じた資本額、すなわち可変資本の価値額を表している。さらに1000mの価値部分は、その労働力が自分の価値以上につけ加えた労働部分であり、資本家が自分の個人的消費に当てる部分、すなわち剰余価値部分を表わしている。
 つまりここで表わされているのは6000の価値ある生産手段という物質的定在をもつ商品資本なのだが、しかしそれらはすべて販売されてとにかく6000の貨幣資本に転換されなければならないのだが、しかし6000の貨幣資本のうち4000の貨幣資本は再び不変資本として投資される分であり、1000の貨幣資本は可変資本として、つまり労働力の購入のために投じられ、そして残りの1000の貨幣は剰余価値として資本家の個人的消費のために支出されるというわけである。つまりこの表式は、6000の価値額とそれが生産手段として生産された商品であることを示しているのだが、同時にそれが再び資本の再生産のためにはどのような形で投資され補填される必要があるかも示しているわけである。

 ④ 同じようにⅡ部門の2000c+500v+500mも、まず3000の価値ある消費手段という商品資本の価値量と物的存在を示しているわけである。また2000c、500v、500mのそれぞれは上記と同じように3000の価値ある商品資本としての生活手段を生産するために投じられた資本価値部分とその結果得られた剰余価値部分を表している。だからそれらがまず3000の価値ある貨幣資本に転換されて、そのうちの2000の貨幣資本は再び不変資本として投資され、500の貨幣資本は可変資本として投資され、残りの500の貨幣は資本家の利潤として彼らの個人的消費に支出されることになるわけである。
 ただ再生産表式の出発式そのものはまだ総商品資本の価値構成とその物質的定在を示すだけで、それが如何にして貨幣資本に転換し、またそれが不変資本や可変資本そして資本家の消費として支出されるかを示すわけではない。だからこの出発式が、商品資本の循環図式であるW’-G’-Wの循環を辿った時点で、その表式がどのように変化するか、つまり諸資本の生産資本の価値構成がどのように示されるか、さらにはそうした生産資本の価値構成のもとで、100%の剰余価値率で生産が行われれば、それはどういう価値構成の商品資本として結果するか、すなわちW…P…W’の過程を経て、再び最初のW’として表示されるか、ということをマルクスは考察しているわけである。

 ⑤ところで単純再生産の条件は、Ⅰ(1000v+1000m)=Ⅱ2000cであるが、これは何を表わしているのであろうか? これはいろいろなことを表わしている。
 ⅰ)Ⅰ部門の6000の価値量を示す商品資本のうち2000はⅡ部門の生産手段を物的に示すものでなければならないということである。もちろん生産手段の中にはⅠ部門であろうが、Ⅱ部門であろうが、その使用価値の形態によっては、両方の生産手段になりうるものもあるが、しかしⅡに固有の生産手段というものもあるであろう(例えば肥料や農機具など)。少なくともⅡの不変資本として必要なものを2000の価値あるものとして生産されていなければならないことを示しているのである。
 ⅱ)また同じことはⅡ部門の個人的消費手段についても、3000の価値量を示す消費手段のうち、1500の消費手段は労働者の消費する必要生活手段でなければならず、あとの1500の価値ある消費手段は資本家やその利潤のおこぼれに預かる階級の消費手段でなければならないということを示しているのである。

 ⑥ところで第Ⅰ部門でも第Ⅱ部門でも、それぞれの商品資本がまず貨幣資本に転換される必要があることを先に指摘した。ではその貨幣資本への転換は如何にしてなされるのであろうか?
 まず第Ⅰ部門では6000の生産手段で表わされている商品資本が販売されるのだが、そのうち2000は第Ⅱ部門の資本家に販売され、残りの4000は第Ⅰ部門の資本家同士で互いに販売し合うことになる。
 まず4000の商品資本については、第Ⅰ部門の資本家たちが互いに貨幣を出してあって、販売しまた購入し合うのだから、そして彼らが支出した貨幣は彼が購入すると同時に販売もするので、その限りでは貨幣はもとに還流し、それを再び繰り返すだけで、何も問題ではない。問題は第Ⅱ部門に売る2000の生産手段である。第Ⅰ部門の資本家はまず1000の生産手段を部門Ⅱの資本家に販売する。その貨幣は部門Ⅱの資本家が支出するわけである。第Ⅰ部門の資本家は2000の商品資本のうち半分の1000の商品資本の貨幣資本への転化を成し遂げ、彼らはその貨幣資本を可変資本として投資して労働者に支払う。彼らの可変資本はいまや労働力商品という商品資本に転化し、さらに生産資本として生産過程に入る。労働者はその可変資本として支出された貨幣を自分の労働力の対価として、労賃として受け取り、自分たちの収入として支出して、第Ⅱ部門の資本家から生活手段を購入する。つまり第Ⅱ部門の3000の消費手段のうち1000の消費手段は第Ⅰ部門の労働者によって購入され、だから彼らが生産手段を購入するために支出した貨幣1000は彼らの手に還流する。
 彼らはその1000を使って、再び残りの1000の生産手段をⅠから購入する。こうしてⅠの資本家たちは彼らのⅡ部門用の2000の商品資本をすべて貨幣に転化して、資本家たちは1000の利潤を得るわけである。資本家たちはその1000をⅡから個人的消費手段を購入するために支出する。するとⅡ部門の残り2000の消費手段のうち1000が貨幣に転化し、やはり彼らが生産手段を購入するためにⅠに支出した貨幣は彼らの手に還流する。
 しかしまだⅡの1000の商品は貨幣に転化されずに残っている。まずⅡの資本家は彼らの労働者に可変資本として500の貨幣を前貸しする。それは労働者の労賃となり、彼らはそれを彼らの収入として、やはり資本家Ⅱから必要生活手段を購入する。だから資本家Ⅱは彼らが前貸した可変資本を再び貨幣形態で回収することになる。だから彼らはまたその500の貨幣を新たな可変資本として投資することが可能となる。
 Ⅱの残りの500は資本家たちの個人的消費手段である。それは彼らが互いの個人的収入のために貨幣を支出しあって、その貨幣への転化を行うだけである。
 こうして両部門の9000の商品資本はすべて貨幣資本に転化され、またそれらは再び不変資本および可変資本として投資されるとともに、また利潤として回収され資本家によって個人的に消費されるのである。

 こうして社会の物質代謝は次のように行われている。単純再生産を想定すると、まずこの社会は1500の可変資本によって必要なものを生産している。1500の可変資本というのは、現物形態としては1500の価値ある労働力である。それが最終的には3000の価値ある消費手段を生産して、それを労働者と資本家がそれぞれ半分ずつを個人的に消費して社会の物質代謝を形成しているのである。しかしこの社会はこの3000の価値ある消費手段を生産するために6000の生産手段を必要としており、よってこの社会は6000の生産手段を使い、1500の労働力によって、3000の生活手段を生産して、その社会の物質代謝を支えているわけである。1500の労働力のうち1000の労働力は6000の生産手段をただ再生産するためだけに使われ、生活手段を直接生産しているのは500の労働力である。そしてこの社会が生み出している3000の価値ある消費手段というのは、1500の労働力が一年間に新たに生み出した価値そのものなのである。つまりこの社会はその一年間に新たに生み出した価値をその次の一年間にはすべて個人的に消費してしまうことによって、その物質代謝を行なっている社会なのである。だから社会の総生産物の価値9000のうち、6000は前年度以前に生産されたものであり、それが今年度の生産過程で生産物の価値として「移転」されたものである。
                                                                                                                (未完)

(以下、時間切れで未完、あるいは書き直しも必要と考えているので、また時間があれば考えてみたい。なお、次の項目として、再生産表式が社会主義社会の再生産過程を考察する上でも意義があることを論じる予定であったが、それはすでに以前、一定の考えを提示したことがあり、今回はやめておくことにした。以前、提示したものは、やや不十分なところもあり、その後、かなり訂正したところもあるが、出来たら、それをもう一度、再提示してもよいと考えている。)

                                     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (支部に提出したものは、ご覧のとおり、途中までで未完となっている。以上で〈林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する〉というシリーズも終えたいと思う。ただノート類のなかから関連するものがまた見つかった場合は、別途、紹介することにして、ひとまずこのシリーズは終えたいと思う。
 次回以降はまだ考えていないが、いずにれせよ、「林理論批判」として提供してきたものは、最初にもお断りしたように、改めて何か林批判を展開しようというようなものではなく、あくまでもこれまで私が同志会に所属していた時に書いたものを、そのまま埋もれさせるのではなく、ブログという便利なものを利用して公表しようとするものなので、煩雑なノートのなかから探し出す必要があり、どこかにまぎれてしまったものも少なくない。あるいはノートの状態によっては、途中半端なものも中にはあることもご了解いただくしかない。中途半端なものなら少なくとも体裁だけでも、一応、仕上げて公表すべきだ、と思われるかも知れないが、しかしそこまで力を入れて、林理論批判をやるべきだとは私自身には思えないのである。だからまた、ノートのなかから公表する価値のあるものが見つからなければ、その時点で、この連載そのものは打ち切ることになる。)

2016年1月20日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-9)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回からは、いわゆる金融の世界が、われわれの知るように、摩訶不思議な現象に満ち満ちているのはどうしてか、を解きあかしてくれるものになっている。)

【13】

 〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるa)ように,国債という資本ではマイナスが資本として[522]現われるのであるが,労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる。この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,《1年間の》労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである。資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達する。というのは,資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである。17世紀《の後半》には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった〕が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。b)ただ,ここでは,この《無思想な》考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている。そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補填しなければならない。〉

 ここからは、先に(【10】で)マルクスが〈例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう〉と述べていた、〈労賃〉の考察が行われている。ただマルクスはその書き出しを〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるように,国債という資本ではマイナスが資本として現われる〉と述べている。つまり労働能力が資本として考えられるのは、そうした狂った観念のもっとも極端な例だとマルクスは言いたいわけである。と同時に、国債や株式など、さまざま金融商品があたかもそれ自体が価値を持っているかに売買されることも、それ自体が狂った形態なのだとも言いたいわけである。しかし注意が必要なのは、この労賃の例そのものは、架空資本の例として論じられているわけではないということである。それは【10】で述べていたように、あくまでも〈純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉ものの一つの例として述べていると理解すべきなのである。
 ところで、この〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉という部分に大谷氏は注3)を付けて、次のように説明している。

 〈「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長上に理解されるべきであろう。「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」は,まさにここにきわまることになる。〉

 こうした大谷氏の評価にはそれほど違和感も異論もないのであるが、ただマルクスが〈債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と言っているのは、ここに原注a)が付けられていることを見ても(これについては次の【14】で問題にするが)、やはり預金や銀行券なども銀行から見れば債務であるが、それは銀行にとっては再生産的資本家に売り出される(貸し出される)「商品」だということと考える方が妥当のように思える。もちろん、銀行が証券会社を兼ねているなら、彼らはいわゆる「金融商品」も扱うのであり、国債や社債、あるいはサブプライムローンなどもすべてそれらは直接には債務証書であり、それを証券化して販売するわけである。つまり債務を商品として売り出すわけだ。
 また、ここで大谷氏は〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である〉と述べているが、果たしてそうした観念は一般的であろうか。預金者が彼の貨幣を銀行に預金するとき、彼は貨幣を「商品」として銀行に「売る」という観念を持つだろうか。確かに彼も利子率の高い銀行を選んで預金し、銀行も預金の獲得にしのぎを削るのであり、その限りでは、そこにも貨幣市場があると言えないこともない。しかし一般には、預金者が預金する場合には、そこにそうした貨幣市場を意識するかというとそれは希薄ではないだろうか。少なくともそれは一方に貨幣資本(moneyed Capital)の需要者があり、他方にその供給者があって、その需給によって利子率が決定されるというような意味での貨幣市場とは言い難いであろう。それはそうしたものを前提にした派生的なものと考えるべきではないだろうか。確かに銀行への預金者も利子をあてに預金するが、しかし彼はそれを資本として意識してそうするのではない。これはあまり本質的な疑問ではないが、指摘しておきたい。
 ところでマルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる〉と述べている。なぜ、「国債」なのかというと、それはコンソル公債をマルクスは前提して述べているからであろう。つまりそれは年金のように永久に貨幣利得をもたらすものなのである。だから労働能力もそうしたものと同じだというわけである。そして〈この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される(「利子-資本」の転倒だ--引用者)たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,《1年間の》労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである〉と。
 そのあと、マルクスが述べていることも、あくまでも観念や《思想》の問題としてである。それが〈狂気の沙汰〉であるのは、〈資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである〉。しかしマルクスは労働能力が利子生み資本だというのはただ観念の問題に止まり、実際にはそれは架空資本としては現れない理由を次のように述べている。〈第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないという〉事情である。特に第2の理由は、架空資本にならない根拠として決定的であることは、これまでのマルクスの説明から見ても明らかであろう。そして現実の関係は、次のようなことだと指摘している。
 すなわち〈むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである〉と。
 そしてマルクスはついでに奴隷諸関係についても言及し、次のように述べている。〈奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている〉。もちろん、この場合〈購買価格を持っている〉というのは、奴隷自身に値札が付けられているということであって、奴隷が自分自身を商品として売り出すために、奴隷としての自分自身の所有者であるわけではない。奴隷所有者が別にいて、彼が奴隷を売るために、奴隷に値札を付けるのである。その結果、奴隷は〈購買価格を持っている〉だけである。〈そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない〉。もちろん、買い手(借り手)が補填するのは奴隷自身に対してではなく、奴隷を貸し出した奴隷所有者に対してである。
 ところでこの部分にも大谷氏は注24)、25)と二つの注をつけて、次のように述べている。

 〈24) 「買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補填しなければならない」→「賃借り人は,第1にこの購買価格の利子を支払わなければならず,なおそのうえにこの資本の年間損耗分を補填しなければならない」
  25) 前注に記した,マルクスの原文とエンゲルスが手を入れた文章との違いに注目されたい。エンゲルス版では,まず「第1に」利子を支払い.「そのうえになお」資本の年間損耗分を補填しなければならない,というのであるから,この取引はまずもって資本の貸付ととらえられているわけである。しかし,草稿では,まず「この資本の年間損耗分ないし摩滅分」があり,それに利子が「プラス」されなければならない,となっている。この文は,いわゆる「賃貸借〔Vermietung〕」がまずもって売買であることを示唆している。エンゲルスの手入れは微妙に原文の意味を変えているのである。〉

 この問題に言及すると、大幅に横道に逸れることになる。だから簡単に論じておく。友人のT氏(彼は大谷氏が主宰する研究会に参加している)によれば、大谷氏にはこの問題について一定の拘りがあるそうである。そして大谷氏によると、マルクスがエンゲルス版第21章該当個所で商品の貸し付け(つまり賃貸借である)まで利子生み資本の範疇に入れているのは、マルクスの勘違いであろうと考えているのだそうである。だからここでも大谷氏はエンゲルスのわずかの手直しにも拘っているわけである。ただ恐らく大谷氏の認識に欠けているのは、マルクス自身はここでも第21章該当個所でも「賃貸借一般」を問題にしているわけではないということである。マルクスは『経済学批判』のなかで貨幣の支払手段としての機能を論じたところで、賃貸住宅を例に上げて論じているが、あの場合は確かに大谷氏のいうように家屋の使用という使用価値を持つ商品の売買であることは明らかなのである。そして家屋の場合には、その使用価値の譲渡の仕方が特殊であり、例えば一カ月かけてその使用価値は借り主に譲渡されるのであり、だからその使用価値が譲渡され尽くした一カ月後に、その商品の価格は支払われるわけである(だからこの場合、貨幣は支払手段として機能する)。この場合、家主は店子に家屋を一カ月使用するという商品の価値を貸し付けるわけである。そしてその使用価値の譲渡が済み次第、その価値の支払いを受けるわけである。だからこの場合にも債権・債務関係が生じていることは確かである。しかし店子はその住宅を彼自身の生活のために、つまり個人の収入として消費するわけである。だからこの場合は、物質代謝の一環なのである。だからこそ、この場合の賃貸借は明らかに売買なのである。それは再生産資本家たちが相互に与え合う信用(商業信用)も、基本的には商品の売買であり、その流通の一環であることと同じである。しかしマルクスが第21章該当個所で利子生み資本の範疇として述べている商品の貸し付けはそうしたものではない。それはあくまでも物質代謝の外部からの価値の貸し付けなのである。そういう意味で、マルクスはそれを利子生み資本範疇に入れているわけである。だから、奴隷の賃貸業者が奴隷を貸し付ける相手も、その奴隷を使って商業的作物を作り儲けようとしている資本家であることを、マルクスはここでは前提して、このように述べていると考えることができる。だからこの場合、マルクスが「買い手」と述べているのは、利子生み資本が「商品」として「買われる」のと同じ様な意味で、すなわち一つの外観として(だから文字通りの商品の売買としてではなく、本質的には利子生み資本の貸し付けとして)述べていることは明らかなのである。

【14】

 〈【原注】|336下|a)〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ。〉

 これは先のパラグラフの〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉というところに付けられた原注a)であるが、 ただこのように〈〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ〉とあるだけである。『為替の理論』の頁数も何も書かれていない。これではどうしようもない。だからエンゲルスはこの注を削除したのであろう。しかしヘンリ・ロイの『為替の理論』(実際は『為替相場の理論』であるが)からの引用は、ちょうど、第28章該当個所でマルクスは行っていたのである(第28章該当部分の草稿の【47】パラグラフ)。恐らくそれをマルクス自身も考えていると思えるので、それをここでは紹介しておこう。

〈「あるおりに,ある握り屋の老銀行家がその私室で,自分が向かっていた机のふたをあけて,1人の友人に幾束かの銀行券を示しながら,非常にうれしそうに言った。ここに60万ポンド・スターリングがあるが,これは金融を逼迫させるためにしまっておいたもので,今日の3時以後にはみな出してしまうのだ,と。この話は,…… 1839年の最低位のCirculation(流通高?--引用者)の月に実際にあったことなのである。」((へンリー・ロイ『為替相場の理論』,ロンドン,1864年,81ページ。)〉 (269-70頁)

 この28章での引用には、大谷氏の次のような注がついている。

 〈1) へンリー・ロイ『為替相場の理論』からのこの引用は,最後の文を除いて,第1部第3章第3節「支払手段」のなかで,「このような瞬間が「商業の友(amis du commerce)」 によって,どのように利用されるか」,という例として引用されている(MEW,Bd.23,152-153ページ,注10)。〉

 だから、マルクスが〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉ということで、恐らく銀行券のことを考えて、このように述べているのではないかと思うわけである。すでに述べたように、銀行券や預金は銀行からすれば債務だからである。

【15】

 〈【原注】 b) たとえば,V.レーデン『比較文化統計』,ベルリン,1848年,を見よ。「労働者は資本価値をもっており,それは,彼の1年間の稼ぎの貨幣価値を利子収益とみなすことによって算出される。……平均的な日賃銀率を4%で資本還元すれば,1人の男子農業労働者の平均価値は,オーストリア(ドイツ領)では1500ターレル,プロイセンでは1500 ターレル,イングランドでは3750ターレル,フランスでは2000ターレル,ロシア奥地では750ターレル,等々となる。」(434ページ。)〉

  この原注は【13】パラグラフの〈17世紀《の後半》には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった)が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである〉に付けられたものである。 【13】パラグラフの解読のところでは省略したが、ここでペティとあることについては、MEGAの注解があり、次のような説明がある。

 〈① 〔注解)「ぺティの場合」--マルクスがここで引きあいに出しているのは,ペティの労作『アイルランドの政治的解剖』に付された書『賢者には一言をもって足る』の8ページに見られる次の箇所であろう。--「わずか15百万〔ポンド・スターリング〕の収入しか生みださない王国の資材(Stock) が,250百万〔ポンド・スターリング〕の値があるところからすれば. 25(百万ポンド・スターリング〕を生みだす人民は. 416 2/3百万〔ポンド・スターリング〕の値がある。」 (大内兵衛・松川七郎訳『租税貢納論』.岩波文庫,1952年,175-176ページ。〕〉

 要するに、どちらも賃金(収入)を利子と考えて資本還元して労働力の資本価値を求めている例として引用されていることが分かる。この部分はこれ以上の説明は不要であろう。

 (以下、次回に続く)

林理論批判(32)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.10)

 今回から、前回の最後にお知らせしたように、『海つばめ』1163号の林論文を批判したものを紹介する。これは上下二回に分けて紹介する。これもこの記事が出た時に、検討資料として支部に提出したものである(レポートの日付は2012.1.9となっている)。(以下、『資本論』からの引用で頁数のみを記しているものは、すべて全集版23aの頁数)。

§§§ 『海つばめ』1163号(2011.12.25)林論文、《「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために》の批判的検討(上)§§§

§§はじめに

 通信No.8(第9期)(2011.12.22)は、この論文について、次のように書いている。

 〈林の見解を展開した論文を1162号に掲載しました。社会主義社会における生産と分配について論じた重要なものと考えます。林がこの間抱いて来た問題意識に、一応の回答をえたものです。各支部とも検討し、労働者セミナーとの関係も含めて意見を出してください。もし正当な理論だとするなら、同志会にとって決定的に重要であり、我々の歴史的な“存在理由”をきわめて鮮明に明らかにしたものといえます。正当でないということになると大変です。〉

 この一文は、この論文に対する過大な位置づけをする一方、自信の無さもほのめかしており、やや首を傾げるものになっている。果たしてこの論文は、ここでいうようなもの、つまり〈同志会にとって決定的に重要であり、我々の歴史的な“存在理由”をきわめて鮮明に明らかにしたものといえ〉るようなものなのであろうか。
 残念ながら、私にはどんなに贔屓目に見ても、そのようには思えなかった。そればかりか、林氏がどれほどマルクスの『資本論』をいい加減に扱い、それを真剣に研究することを怠ってきたか、そしてその結果、当然のことながら、混乱の極致に至ってしまったかを暴露していると考えている。

 われわれはこの論文の批判的検討では、これまでやってきたように、逐一その誤りを指摘し、批判するという方法は採用しない。というのはそうした方法は、今回の場合、あまりにも煩雑になるからである(つまりそれだけ問題にすべきところが多すぎるわけだ)。だから、今回は、主要且つ重要な問題点と思える課題に絞って、その誤りを指摘し、正しいマルクスの理解を対置して批判することにしよう。そして林氏の混乱の根本は、マルクスが再生産表式として表し、考察している内容を皆目理解していないことにあると考える。だから、マルクスは再生産表式で何を表し考察しているのか、それを別途解説してみようと思う。そうすれば誰もが、林氏の主張していることが、『資本論』に対する無理解にもとづくものであることを、自分自身で確認し、判断することが出来るであろう。

§§〈社会主義における「分配方式」〉を〈社会主義の概念の根底をなすべき〉ものと考えるのは正しいか?

  林氏は〈社会主義の“概念”〉と題した二つ目の項目の冒頭、次のように書いている。

  〈提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである。それはすべての真理――大宇宙や自然界やあれこれの“物質”や、人類の社会や歴史さえもの、存在や運動を規定する概念や法則などがそうであるように――が、簡単な定式によって簡潔に表現され得るのと同様である(例えばE=mc2)。
 社会主義における「分配方式」――というのは、これこそが社会主義の概念の根底をなすべきなのだが――は、ただ次のような法則もしくは原則に従って行われる。〉

 宇宙の法則になぞらえるとは何とも壮大ではあるが、ここでは、林氏は、どうやら「分配方式」が社会主義の概念の根底をなすべきだと考えているようである。しかし果たしてそうした考えは正しいであろうか。マルクスは『経済学批判要綱』序説で、分配は生産の所産だと述べている。これは決して資本主義社会に固有の問題ではなく、あらゆる社会に共通の契機としてマルクスは論じているのである。だからそれは社会主義社会においても同じであろう。社会主義の「分配方式」は、社会主義の「生産方式」(生産様式)に規定されているのである。生産があるからこそ、分配があるのであって、決して逆ではない。確かにマルクスも生産のためには、まず生産諸手段の分配が前提されると述べている。つまり生産手段が資本家の手にあり、労働者がそうした諸手段から切り離され、自らの労働力しか持っていない結果、資本主義的所有諸関係(搾取・被搾取の関係)が生じてくる。しかし、マルクスは、生産手段の分配というのは、それは生産そのものの問題なのだとも述べているのである。とするなら、〈概念の根底〉はむしろ〈分配方式〉(つまり個人的消費手段の分配方式)ではなく、「生産方式」(生産様式)においてこそ明らかにされるべきではないのか。確かに社会主義では資本主義でのように、「生産のための生産」が問題にはならない。抽象的な富である価値(利潤)ではなく、使用価値が生産の直接の目的になる。しかしそのことは社会主義では個人的消費手段の分配がすべてを規定するということではない。分配は生産の所産だというのは社会主義社会でも同じなのである。われわれはマルクスから引用して、そうした真理を確認しよう。
  (こうしたマルクスからの引用を林氏は極度に嫌うのであるが、しかし、われわれはマルクス主義者であり、マルクスの考察から学ぶことを決して厭わないのである。そこから引用することは、それを絶対化することと同義ではない。マルクスの説明をよく読み、自分で考えれば、それでよいのである。マルクスから引用すると、「マルクス絶対主義だ」などと批判する林氏は、それだけ同志会会員を見くびり、自分は別だが他の会員はマルクスの文章を理解する能力に欠け、ただそれを丸飲みするだけだと思っているわけである。しかし、われわれ一般会員も、それぞれが自主的・自覚的に同志会に参加しているのであって、各人がマルクスから学び、研究し、考える能力を持っているのである。マルクスからの引用は、われわれが何をどのようにマルクスから学んだかを明らかにするものであり、決してマルクスの一言一句を絶対化するためにするわけではないことは明らかである。一般会員がマルクスから引用することを嫌い、自説に対して,マルクスの言葉を引用・対置されて批判されることを恐れる林氏は、それだけ自分自身のマルクス理解への自身の無さを示しているのである。実際、われわれがこれまで見てきたように、林氏の『資本論』理解はまったくいい加減なものであった。)
 ところで珍しいことに、引用を極度に嫌う林氏は、この論文では最初の項目で『資本論』と『ゴータ綱領批判』と『反デューリング論』から長く引用している。つまり自分が引用する分については、それを絶対化するものではなく、何の問題もないのだと自惚れているわけである。
 (しかしこれもついでに指摘しておくと、林氏には、引用されたものはすべて〈同様なこと〉が〈強調されている〉ように思えたようであるが、しかし、それらの内容は異なっている。というのは林氏が引用している『資本論』のロビンソンのところでマルクスが論じているのは、決して分配の問題ではないからであり、『ゴータ綱領批判』がらの引用文では確かに分配をもっぱら問題にしているが、『反デューリング論』から引用している部分は、確かに「第3編4、分配」からのものではあるが、しかし引用されている部分の内容そのものは、必ずしも分配を論じているものではないからである。そこでは将来の社会では、生産物に支出された労働量を、直接、労働時間で表現するということを述べているだけである)。

 とりあえず、われわれは、生産と分配との関係について、マルクスは何を言っているのかを知るために、引用しよう。

 〈最も浅薄な見解では、分配は生産物の分配として現われ、したがって生産から遠く離れたもの、生産にたいしてまるで独立しているようなものとして現われる。しかし、分配は、それが生産物の分配であるまえに、(1)生産用具の分配であり、(2)同じ関係のいっそう進んだ規定ではあるが、いろいろな種類の生産への社会成員の分配である。(一定の生産関係のもとへの個人の包摂。)生産物の分配は、明らかに、ただ、このような、生産過程そのもののなかにふくまれていて生産の編制を規定している分配の結果でしかない。このような生産にふくまれている分配を無視して生産を考察することは明らかに空虚な抽象であるが、他方、逆に、生産物の分配は、このような最初から生産の一契機をなしている分配とともにおのずからあたえられているのである。……(中略)……
 このような、生産そのものを規定する分配が生産にたいしてどんな関係をもつかは、明らかに、生産そのもののなかにある問題である。すくなくとも生産が生産用具のある一定の分配から出発しなければならないかぎりでは、この意味での分配は生産に先行し生産の前提をなしていると言うならば、これにたいしては、たしかに生産にはその条件と前提とがあるが、これらの条件や前提は生産そのものの契機をなしているのだと答えなければならない。〉
(全集13巻623頁)

 そもそも社会主義社会で諸個人が社会に与えた労働時間にもとづいて、それと同じ労働時間が費やされた消費手段を、社会の保管庫から引き出し、それによって、自分が支出した労働と等量の別の形態の労働とを交換できるのは、あるいはこのようにそれぞれの生産物に支出された労働量が労働時間によって絶対的に表し秤量できるのは、社会主義における生産が、直接社会化された諸個人によって担われ、社会的な物質代謝が意識的・合理的に統制・管理されて行われているからである。社会主義の生産がまさにそうしたものだからこそ、社会主義における個人的な消費手段の分配も、直接、各人の支出した労働時間によって計り、行うことが可能となるのである。だから社会主義の概念の根底を問うなら、やはりわれわれは消費手段の分配ではなく、生産が直接社会化された諸個人によって、自由な人々が自覚的に、且つ、意識的に行うものであるということにこそ見いだすべきであろう。社会主義の概念の根底を消費手段の分配に求める林氏の社会主義論は一つの俗論でしかないのである。

 もう一つ『資本論』からも引用しておこう。

 〈たしかに、資本は(また資本が自分の対立物として含んでいる土地所有は)それ自身すでにある分配を前堤している、と言うことはできる。すなわち、労働者からの労働条件の収奪、少数の個人の手のなかでのこれらの条件の集積、他の諸個人のための土地の排他的所有、要するに本源的蓄積に関する章(第一部第二四章)で展開された諸関係のすべてを前提していると言うことができる。しかし、このような分配は、人々が生産関係に対立させて分配関係に一つの歴史的な性格を与えようとする場合に考えている分配関係とはまったく違うものである。あとのほうの分配関係は、生産物のうちの個人的消費にはいる部分にたいするいろいろな権利を意味している。これに反して、前のほうの分配関係は、生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎である。この分配関係は、生産条件そのものにもその代表者たちにも特殊な社会的性質を与える。それは生産の全性格と全運動とを規定するのである。〉(全集25b1123-4頁)
 〈だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表わしているだけである。〉
(同1128頁)

 あるいは林氏はゴータ綱領批判では、マルクスがもっぱら分配を問題にしているから、分配方式が社会主義の概念の根底になるべきだと考えたのかも知れない。しかし、ゴータ綱領批判で、マルクスが分配をもっぱら問題にしているのは、それがゴータ綱領の次の一文に対する批判として論じているからなのである。

 〈三、「労働を解放するためには、労働手段を社会の共有財産に高めること、また労働収益を公正に分配しつつ総労働を協同組合的に規制することが必要である。」〉 (全集19巻18頁)

 つまり〈「公正な分配」とはなにか?〉という問いから始まって、マルクスは林氏が引用している部分も展開しているのである。だからマルクスは、林氏が引用した部分よりもっとあとで次の様につけ加えることを忘れていない。

 〈私が、一方では「労働の全収益」に、他方では「平等な権利」と「公正な分配」とにやや詳しく立ちいったのは、一方では、ある時期には多少の意味をもっていたがいまではもう時代おくれの駄弁になっている観念を、わが党にふたたび教条として押しつけようとすることが、また他方では、非常な努力でわが党にうえつけられ、いまでは党内に根をおろしている現実主義的見解を、民主主義者やフランス社会主義者のお得意の、権利やなにやらにかんする観念的なおしゃべりでふたたび歪曲することが、どんなにひどい罪悪をおかすことであるかを示すためである。
 以上に述べたことは別としても、いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。
 いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの一特徴である。たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から(そして民主主義者の一部がついで俗流社会主義から)、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。真実の関係がとっくの昔に明らかにされているのに、なぜ逆もどりするのか?〉
(同21-22頁)

 ここでマルクスが述べているように〈いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであ〉るのである。林氏は、社会主義の概念の根底を明らかにすると称して、〈社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方〉に熱中しているが、それはまさにここでマルクスが批判している俗流社会主義に林氏が陥っていることを示している。林氏はゴータ綱領批判を最後まで読むべきだったであろう。あるいは少なくとも彼が引用した部分の前後をもう少し拡大して読むべきだったのである。そうすればこうした馬鹿げた間違いに陥らなかったのである。しかし、マルクスを相対化しようとする林氏にとっては、この場合もマルクスが何を言っているか、などということはどうでもよい事かもしれない。これは『資本論』の研究を「学者のお遊び」などと蔑み、真剣な研究を軽んずれば、結局は、自分自身が俗流主義に陥るという典型例として銘記すべきことである。

§§林氏が「社会主義の概念」として述べている内容

 さて林氏は〈提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである〉と述べているのであるが、その論述は、それほど簡単でも、分かりやすいものでもない。要するに、林氏が述べていることは、煎じ詰めれば、次のようなことであろうか。自動車を生産する労働者は、50労働日を支出して1台の自動車を生産するのだが、しかし彼はその50労働日を根拠に、自動車1台を手にすることは出来ない。というのは、自動車を生産するに必要な鉄鋼や機械に、すでに100労働日が支出されているのであり、だから自動車1台の生産に必要な労働日は150労働日だからである。だから自動車を生産した労働者は、〈三年の「年賦」等々で自動車を手にすることができるにすぎない〉、これが〈マルクスが『ゴータ綱領』で言った、労働者は「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という言葉〉で〈理解されなくてはならない〉内容なのだそうである。自動車を生産した労働者が、自分の生産した自動車を入手するという例が、マルクスが〈労働者は「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という言葉〉で〈理解されなくてはならない〉内容だというのは不可解であるが(なぜなら、それでは〈別の形〉になっていないから)、しかしそれはまあ、よいとしょう。とにかくこれが〈社会主義の概念の根底〉なのだそうである。
 もちろん、林氏はそれ以外にも色々なことを述べているが、林氏は、〈分配方式〉を〈社会主義の概念の根底〉としているのだから、こうした内容がその主要なものと理解すべきであろう。
 (なお、これもついでに指摘しておくことだが、林氏は、将来の社会主義でも〈三年の「年賦」〉なるものがあると想定している。年賦というのは、なんであろうか。辞書を引いてみると、「負債額または納税額などを毎年一定額ずつ分割して支払っていくこと。また、その弁済方法」とある〔日本国語大辞典〕。つまりこれは自動車ローンと同じである。将来の社会主義社会の労働者は、自動車を信用で購入し〔これはわざと間違った表現を使ったのである。本来なら「入手し」とすべき〕、それを3年払いの分割方式で支払っていくと林氏は想定しているのである。しかしそのためには信用制度が社会主義でもあると想定しなければならない。こんなバカな話はない。正しい理解は次のようでなければならない。労働者は彼が年間社会に与えた200労働日のうち日常の生活手段に必要なものを150労働日と交換して、50労働日を権利として保有(留保)できるだけである。そしてそれが3年間分溜まった結果、つまり彼が保有する権利が150労働日に達したので、そこで初めて彼は自動車を手にすることかできるのである。社会主義ではこのように考えるべきであろう。)

 もちろん、林氏はここでは、分配だけではなく、社会主義の「生産」についても語っている。

 〈社会主義社会においても、分配(消費)だけでなく、生産もまた「価値規定」によって制約され、規定されることも明らかである、というのは例えば、社会が年々、鉄一億トンを、自動車五百万台を、あるいはコメ一千万トンを必要とするなら、その生産がその生産に必要な――社会的に必要な――労働日(労働時間)によって決定されるだろうからである。資本主義社会との違いは、鉄や自動車やコメの生産に社会的に必要な労働(時間)が、生産物との直接の関係において明示され、価値の形態を取らないこと(その必要がないこと)、したがってまた資本の再生産としては現われないこと、であるにすぎない。〉

 しかし林氏が、社会主義における「生産」を、「分配」を規定するものとして論じているのではないことは明らかである。その意味では、林氏は、あくまでも〈社会主義の概念の根底〉は〈分配方式〉にあると考えているわけである。

 ところで、林氏は〈このことの認識こそ決定的〉だと、次のように述べている。

 〈一見して、自動車生産のためには、機械や鉄鋼に支出された労働日が前提とされ、その労働日は「過去の」労働日として、つまり「移転されてきた」労働日として現象するのであって、何か前年度の労働の結果であるかに見える、しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。このことの認識こそ決定的であり、「有用的労働による価値移転論」等々の空虚なことを明らかにしているのである。この労働日について、価値移転論者のように“二重計算”することは――つまり一方で「過去の労働」として、他方で新しい生産的労働として――ナンセンスであり、社会主義における生産と分配の観念をどこかに追いやってしまうのである。〉

 確かにそのあとの林氏の論述を見ると、こうした認識は、林氏にとっては、なるほど〈決定的〉なように思える。しかし、それはだからこそ、項を改めて論じることにしよう。

 われわれは、林氏が述べる〈決定的〉な〈認識〉について論じる前に、マルクス自身は、将来の社会主義について、どのように述べているのかを見てみることにしよう。林氏の嫌う引用が多くなるが、他意はない、ご容赦あれ。

 まず林氏は引用するのを何故か避けているのであるが、マルクスはロビンソン物語と関連させて、将来の社会主義社会の内容について次のように明確に述べている。

 〈最後に、気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。……この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。この生産物の一部分はふたたび生産手段として役立つ。それは相変わらず社会的である。しかし,もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって,それは彼らのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は,社会的生産有機体そのものの特殊的な種類と,これに対応する,生産者たちの歴史的発展程度につれて、変化するであろう。〉 (105頁)

 以下、マルクスが将来の社会主義について述べていることについて、大谷禎之介氏の近著『マルクスのアソシエーション論』に紹介されているものから幾つか紹介しておこう(ただし挿入されている原文は省く)。

 〈階級と階級対立とを伴った旧来のブルジョア社会に代わって,各人の自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件であるようなアソシエーションが現われる。〉 (『共産党宣言』。MEW4,S.482.)

 〈自由な労働が士台でありうるのは,ただ,自由な労働が自分の生産諸条件の所有者である場合だけである。自由な労働は,資本主義的生産の内部では,社会的労働として発展する。だから,自由な労働が生産諸条件の所有者である,ということが意味するのは,生産諸条件が社会的になった労働者たちの物であって,この社会的になった労働者たちが自分自身で生産を行ない,自分自身の生産を,社会的になったものとしての自分たちのもとに包摂するということである。〉 (『1861-63年草稿』。MEGAII/3.4,S1523-1524頁)

 〈共同の生産手段で労働し,自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人間のアソシエーショシ。〉 (『資本論』第1部(1867年〉。MEW23,S.92.)

 〈社会的生活過程の,すなわち物質的生産過程の姿態は,それが自由に社会的になった人間たちの所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき,はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てる。〉 (『資本論』第1部。MEW23,S.94・)

 〈各個人の十全で自由な発展を根本原理とするより高い社会形態〉 (『資本論』第1部。MEW23,S,618,)

 〈……ここ〔資本主義的生産諸部門の内部〕では,生産の関連は盲目的な法則として生産当事者たちに作用するのであって,生産当事者たちがアソーシエイトした知性として生産の関連を自分たちの共同的な制御のもとに従わせたのではない……。〉 (『資本論』第3部第1稿。MEW25,S.267.)

 〈資本主義的生産が最高に発展してもたらしたこの結果こそは,資本が生産者たちの所有に,といっても,もはや個々別々の生産者たちの私有としての所有ではなく,アソーシエイトした生産者としての彼らによる所有としての所有に,直接的な社会所有としての所有に,再転化するための必然的な通過点である。それは他面では,資本所有と結びついた再生産過程上のいっさいの機能の,アソーシエイトした生産者たちのたんなる諸機能への転化,社会的諸機能への転化である。〉 (『資本論』第3部第1稿。MEW25,S.453.)

 〈収奪はここでは直接生産者から小中の資本家そのものにまで及ぶ。この収奪は資本主義的生産様式の出発点であり,この収奪の実行はこの生産様式の目標であって,最後にはまさに,すべての個々人からの生産手段の収奪である。生産手段は,社会的生産の発展とともに,私的生産手段であることをも私的産業の生産物であることをもやめ,いまではもはや,アソーシエイトした生産者たち手のなかにある生産手段でしかなく,したがって,それが彼らの社会的生産物であるのと同様に,彼らの社会的所有物でしかない。だがこの収奪は,資本主義体制そのものの内部では,対立的に,少数者による社会的所有の横奪として現われるのであり,また信用は,これらの少数者にますます純粋な山師の性格を与えるのである。〉 (『資本論』第3部第1稿。MEW25,S.456.)

 〈自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち,社会的になった人間,アソーシエイトした生産者たち,盲目的な力によって制御されるように自分たちと自然とのこの物質代謝によって制御されることをやめて,この物質代謝を合理的に規制し,自分たちの共同的制御のもとに置くということ,つまり,力の最小の消費によって,自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし,これはやはりまだ必然性の領域である。この領域のかなたで,自己目的として認められる人間の力の発展が,真の自由の領域が始まるのであるが,しかし,それはただ,かの必然性の領域をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮が土台である。〉 (『資本論』第3部第1稿。MEW25,S.828.)

 〈私は反対に次のように言う,未来は,土地は全国民的にしか所有されえない,という結論をくだすであろう,と。かりにアソーシエイトした農業労働者の手に土地を渡すとすれば,それは,生産者のうちのただ一つの階級だけに社会を引き渡すことになるであろう。/土地の国有化は,労働と資本との関係に完全な変化を引き起こし,そして結局は,工業であろうと農業であろうと,資本主義的な生産形態を廃止するであろう。そうなれば,もろもろの階級的区別と諸特権とは,それらを生みだした経済的土台とともに消滅し,社会は自由な生産者たちの一つのアソシエーションに変えられるであろう。……他人の労働で暮らしていくようなことは,過去の事柄となるであろう。もはや,社会そのものと区別された政府も国家も存在しないであろう。農業,鉱業,製造業,要するにすべての生産部門が,しだいに最も適切な仕方で組織されていくであろう。生産手段の国民的集中は,共同的で合理的な計画にもとついて社会的な務めを果たす,自由で平等な生産者たちの諸アソシエーションからなる一社会の国民的土台となるであろう。これが,19世紀の偉大な経済的運動がめざしている目標である。〉 (「土地の国有化について」(1872年)。MEW18,S,62.)

 〈もし協同組合的生産が偽物や罠にとどまるべきでないとすれば,もしそれが資本主義的システムにとって代わるべきものとすれば,もしアソーシエイトした協同組合的諸組織が一つの計画にもとついて全国の生産を調整し,こうしてそれを自己の制御のもとにおき,資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣とを終わらせるべきものとすれば,--諸君,それこそ共産主義「ありうる」共産主義でなくてなんであろうか。〉 (『フランスにおける内乱』MEW17,S.343.)

 林氏が、もし〈社会主義の本質的概念〉を知りたいのであれば、このようにマルクスはいろいろなところでそれについて述べているのである。林氏が問題にする消費手段の分配について述べているのは、ごくわずかである。しかもその場合でも、マルクスは、常に分配は生産の結果に過ぎないことを強調することを忘れていない。林氏がマルクスが批判する“俗流社会主義者”に成り下がったことはもはや疑うべくもない。

(以下、続く)

2016年1月13日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-8)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (前回(29-7)紹介した【10】パラグラフでは、「架空資本」の具体例として国債が取り上げられたが、続く【11】もその続きであり、国債が架空資本であることが指摘されている。よって、今回も国債は架空資本ではないとする林氏の主張を批判的に取り上げざるをえなかった。)

【11】 

 〈しかしすべてこれらの場合に,国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである。最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。〉 (大谷訳20-21頁)

 ここで初めてマルクスは「架空資本」という言葉を使っている。まずマルクスが〈すべてこれらの場合に〉と述べているのは、これまでの叙述から、当然、「国債」について述べていることは明らかである。そしてマルクスは、〈国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本〉と述べている。これはどういうことであろうか。つまり国家によって支払われる年々の「利子」は、本来は資本の生み出した利潤が分割されて企業者利得と区別されたものとしての利子ではないが、しかしそれは「利子」と見なされ、それを生み出した国債は「資本」と見なされるということであろう。つまり国債は、「利子--資本」の転倒によって「資本」と見なされたものだということである。だからそれらをマルクスは、〈幻想的なものである,すなわち架空資本である〉と述べているわけだ。

ところが林氏は、次のように述べている。

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉(『海つばめ』No.1111)

 一体、林氏は何を読んでいるのであろうか! 確かに上記の説明には「資本還元」という言葉は出て来ない(これは【16】パラグラフで、つまり架空資本の運動を論じるところで初めて出てくる)。しかしマルクスが資本還元について述べていることは明らかではないだろうか。そもそもマルクスは最初から(【9】から)資本還元そのものについて述べてきたのである。本来は「利子」でないものでも「利子」と見なされるからこそ、利子率で資本還元されるのである。林氏は国債の購入者に毎年支払われるものが通常「利子」と言われているから、それは近代的な範疇としての「利子」だと思い込んでいるのである。林氏にはそれが転倒した観念であるという自覚すらないわけだ。しかしマルクスがここで言っているのは、国債の「利子」は本来の利子ではないが、しかしそうした利子とみなされるから、国債そのものはそれを生み出した「資本」と見なされ、「資本としての価値」を持つのだということなのである。だからそれは幻想的なものであり、架空資本だと述べているのである。これが資本還元でないというなら一体、何が資本還元なのであろうか。

 それに林氏は、〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎない〉などとも言い張っている。しかし果たしてそうか。われわれはマルクスの文章をよく吟味して、検証してみよう。

 マルクスは国債が「架空資本」である理由を、林氏のように一つではなく、二つ上げている。(1)〈それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない〉から、つまり林氏のいう理由である。しかしマルクスは〈ということばかりではない〉と続けている。すなわち(2)〈それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなの〉だからである。つまり国債が年々「利子」をもたらすということは、国債の購入に投じられた貨幣が自己を維持するだけでなく、年々増殖するもの(G-G')として、つまり「資本」(=利子生み資本)として存在しているものと見なされることになる。しかし、実際には国債として国家によって借り出された貨幣は、現実の資本として前貸され、利潤(つまり増殖された価値だ!)を生み出し、その一分肢として利子をもたらすわけでは決してない。そういう意味で国債の所持者に支払われる「利子」は、本来の意味での利子ではない。だからそういう資本でないものがここでは資本として見なされているのだ、だから、その資本は幻想的であり、架空資本なのだ、とマルクスは言っているのである。つまり「利子-資本」の転倒現象であることをマルクスはその理由として述べているのである。そしてマルクスのこれまでの叙述を知っているわれわれは、マルクスが、国債が架空資本である理由として述べている主要な論拠は前者(つまり林氏のいう理由)ではなく、むしろ後者に力点があることは明らかなのである。ところが、林氏はマルクスが一番力を入れて述べていることをあえて無視するのである。これがマルクスの文章に対する、悪しき意図によるねじ曲げた読み方でなくて何であろうか! こんな読み方をしていたのでは、林氏に不破を批判する資格があるはずが無い。

 次にマルクスが言っていることも同じことである。というより、むしろその前のこと、つまり(2)の理由をさらにマルクスは説明しているわけである(これを見てもマルクスが(2)の理由こそ本当に言いたいことであることが分かる)。まず〈最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは〉というのは、それは本来は「資本の利子」ではないのに、彼にとっては彼が国債に投じた貨幣が自己を維持し増殖するわけだから、彼にとってはそれは資本を表し、それがもたらす年々の貨幣利得が利子を表すことになるわけである。それは〈ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである〉。つまり高利貸しが貸し付ける貨幣も資本として前貸されて価値を生み出すわけではなく、ただ個人的消費(浪費)のために貸し出されるだけであるのに、しかし高利貸は、彼の貸し出す貨幣が、増殖して帰ってくることを期待して貸し出すのであり、だから彼にとってはそれは資本であるのと同じだと述べているのである。この場合も、高利貸しが手にする「利子」も本来の近代的範疇としての利子ではない、とマルクスは述べているのである。だからマルクスは〈どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが〉と述べているのである。にも関わらず、それは「資本」と見なされる、というのは、それによって年々もたらされる貨幣利得が「利子」に見なされるからである、ということなのである。つまり(2)の理由をさらに説明しているわけである。

 さらにマルクスが説明していることも、やはり(2)の理由を掘り下げているのである。〈国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている〉。つまり国債が転売できるということは、それを転売するAにとっては、自分が国債の購入に投じた貨幣を利子生み資本と見なすことであり、その転売は、だから利子生み資本の返済なのだ、ということである。そしてAから国債を購入する〈Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている〉。つまりBは最初から彼の貨幣を利子生み資本として投下しているのだというわけである。なぜ、マルクスはここでAとBを区別して論じているのであろうか。それはAの場合は、年々もたらす貨幣利得は、国債が売り出される条件によって確定している利息だからである。だからそれはその時々の平均利子率とは関係なく、例えば確定利息が5パーセントなら、100万円の国債の場合は、5万円の貨幣利得をもたらすわけである。しかしBの場合はそうではない。Bの場合は、もしその時の平均利子率が1パーセントの場合、彼は国債を500万円で購入するのである。そして彼はその500万円の利子生み資本に対して、その利子として年々5万円の貨幣利得を得ることになるのである。だからBの場合は、明らかに彼の手にする利子は、平均利子率にもとづいた利子であるが、Aの場合は確定した利息なのである。

 しかしBの場合も客観的には、彼の投じた貨幣が、実際に利子生み資本として充用され利潤を生むわけではない。それが利子生み資本であるのは、はあくまでもBの〈私的な立場から見れば〉の話である。〈実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである〉。つまり彼の投じた貨幣は、ただAに代わって国家から年々の貨幣利得を得る権利を買っただけであって、何も客観的な状況は変わっていないわけである。そして〈このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう〉。つまり国債は架空資本であり続けるわけである。ところがこうした架空資本は、単に観念的に資本として見なされるだけではなく、それ自身の運動を持っているのだとマルクスは述べている。そしてその実際の運動を考察するのは、【16】パラグラフからである。

【12】 

 〈(利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金principalとして現われるのである。)〉 (大谷訳21-22頁)

 このパラグラフは、全体が丸カッコに括られており、マルクス自身も、これをどこか適当なところに挿入するつもりであった可能性が高い。だからエンゲルスはこのパラグラフを最初の【9】とくっつけて一つのパラグラフにしたのであろう。エンゲルスのこうした措置は、その限りでは内容に則したものと言える。ここで言われていることは、【9】で言われていることとそれほど違ったものではない。範疇としての利子生み資本が確立すると、どの価値額も、収入として個人的消費のために支出される(生活手段の購入に充てられる)以外には、資本として現れてくる、つまり自己維持し増殖する貨幣(G-G')として現れるというのである。そしてもともとの価値額はそれが生んだとされる利子に対する元金と見なされるわけである。これは、すでに見たように国債の購入に充てられた場合がそうであるし、例え産業資本家が彼自身の貨幣を生産的に投資したとしても、彼は彼自身の最初に投じた価値額を元金として計算し、機能資本家としての彼の企業利得(産業利潤)の取得とともに、彼自身の元金に対する利子をも要求する、つまり両者を区別して計算するわけである。

 (以下、次回に続く)

林理論批判(31)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.9)

 今回から、四つ目の項目〈◆4、「価値移転論」と社会主義〉以降を取り上げる。(以下、『資本論』からの引用で頁数のみを記しているものは、すべて全集版23aの頁数)。

〈『海つばめ』「1138号(2011.1.9)【二~三面】“有用労働による価値移転論”批判――「スターリン主義経済学」一掃のために――それぞれの理論のそれぞれの課題を考えよ」〉の検討(7)

◆4、「価値移転論」と社会主義(記事の表題をそのまま紹介、以下同)

(1) 〈「有用的労働による価値移転」論が一つの“ブルジョア的”理論であるのは、次のことからも明らかであろう。再生産表式にある、九〇〇〇の商品資本が、また九〇〇〇の商品資本として“再生産”されるという、あのマルクスの表式において、単に六〇〇〇の生産手段だけでなく、三〇〇〇の消費手段もまた“再生産”されている、つまり、単に生産手段だけでなく、消費手段もまた「価値移転」されていると言って少しもおかしくはないのである。〉

 これはとんでもない主張のように思える。林氏は「再生産」はなぜ「再生産」と言われるのか、そのなかになぜ「生産」という文字が入っているのかを考えたことがあるであろうか。「再生産」は決して「価値移転」とは同じ概念ではない。マルクスの表式はいうまでもなく、社会の「再生産」を考察するものである。それはW'-W'の商品資本の循環として考察されているが、それは決して年度の最初に想定されているW'の総商品資本(総生産物)の価値が、そのままその年度の終りに社会が獲得する総商品資本(総生産物)W'の価値として「移転」されること意味しているのではない。こんなことは商品資本の循環を考えれば明らかではないか。W'-G'-W…P…W'という商品資本の循環のなかにあるPは生産過程を表している。それは新たに生産されるからこそ「再生産」の表式と言われるのである。こんな当たり前のことをいわなければならないとは何とも馬鹿げた話ではある。
 何度もいうが、年度の最後に社会が獲得する9000の商品資本は「再生産」されたものである。すなわち使用価値としてはすべてが再生産されたものであり、価値としてはその一部3000だけが新たに生産されたものである。残りの6000は旧価値が移転されたものだ。だから「価値移転」について言いうるのは、この6000のみなのである。毎年毎年新たに社会が生産する価値は3000だけである。だからこれは生産手段として存在する商品資本にも(その価値の一部2000がそれである)、消費手段として存在する商品資本にも(その価値の一部1000がそれである)言いうることである。だから最初の総商品資本の価値9000がそのまま年度の終わりの総商品資本の価値9000として移転するわけでは決してない。そもそも「有用労働の価値移転」論としてそんなことを主張している人が一体どこにいるのか。少なくとも年度の初めに消費手段として存在する総商品資本(3000)は、それらが個人的に消費されて、その使用価値がなくなるとともに、価値も失われる。それとも林氏は消費手段は消費されても、使用価値はなくならないとでもいうのであろうか。もちろん、6000の生産手段の場合も、それらが生産的に消費されることによって、それらの使用価値も失われるのであるが(この場合、固定資本は捨象する)、しかしその生産的消費の過程で新たな生産物を形成するから、それらの価値は新たな生産物の中に移転され保持されるのである。こうしたことが林氏にはまったく分かっていないのである。なんという“マルクス”主義者であろうか。

(2) 〈消費手段は違う、それは労働者(労働力)によって改めて“再生産”されたのだ、というのか。しかし実際には、最初の商品資本の価値(三〇〇〇)は労働力(の価値)に転化し(移転されられ)、またその労働力の価値が、結果としての商品資本の、同じ三〇〇〇の価値に転化したのだから――つまり「素材」(生活手段というモノ)としても、同じ形で再現されているのだから――、生産手段と全く同じであって、最初と同じ(「価値」としても、「素材」としても)、商品資本としての再現であるにすぎない。資本にとっては、それ以外では全くない。〉

 確かに使用価値としては、すべての生産物が(生産手段も消費手段も)労働者によって「改めて」生産されるのである。それはその年に支出された有用労働の産物である。3000の価値のある商品資本(消費手段)は、その一部(2000の価値部分)は生産手段(部門 I のV+Mの価値部分を構成する生産手段)と交換され、今期の生産を開始するための生産手段として部門IIの資本家の所有になる。残りの1000の価値部分のうち500は、労働力の購入に当てられ、労働者の消費に入る。そして最後の500の価値部分は、資本家が個人的に消費する。部門IIの資本家は部門 I の資本家から購入した生産手段と、500の消費手段と引き換えに購入した500の価値ある労働力で再び今期の生産を行い、3000の価値ある商品資本(消費手段)を得る。それは彼が最初に持っていた商品資本3000の価値がそのまま〈転化し(移転されられ)〉たものではない。それは「再生産」されたものである(2000は旧価値が移転したものであり、1000は労働者によって新たに追加されたものである)。林氏は、W'-G'-W…P…W'という商品資本の循環において、最初のW'が最後のW'と〈「価値」としても、「素材」としても〉同じだということにしがみついて、その中間の過程-G'-W…P…をまったく見ないだけの話である。しかしどんなに粗雑なブルジョア経済学者でも、だからまたブルジョア自身も、最初のW'と最後のW'との間に生産過程があることぐらいは知っているのである。林氏は〈資本にとっては、それ以外では全くない〉というが、先に第2部第2草稿からの一文を紹介したが、資本家たちは彼らの利潤(剰余価値)の源泉が生産過程にあることは明瞭に理解しているのであって、だからこそ彼らは生産過程における労働者の労働に常に厳しく目を光らせ、過酷な労働を強いて、剰余労働を激しく要求するのである。

(3)〈そして厳密にいうなら、資本にとって“新しく”生産されたものは、ただ剰余価値(「素材」として言うなら、生活手段の一部、ブルジョアたちが消費する部分)だけであって、可変資本(生活手段の一部、労働者の生活手段となる部分)もまた不変資本と同様に、まさに「価値移転」されて、そのまま復活する、つまり「再生産」される。〉

 しかしそれは先の林氏の主張と矛盾していないか。なぜなら、林氏が最初に想定した商品資本3000には剰余価値部分も含まれているからである。そしてそれがそのまま3000の商品資本の価値に〈転化し(移転されられ)〉たと林氏は説明していなかったか。これは最初の剰余価値部分が、年度の終りには商品資本の剰余価値部分に転化したということではないのか。なぜ、その部分だけが〈“新しく”生産されたもの〉なのか。われわれは社会の総資本の再生産を考察するのは、決してブルジョア的な意識にそれがどのように反映するかということを考察するためではない。林氏はそれこそそこでマルクスが何を問題にしているのかを理解していないのではないか。社会的総資本の再生産も〈マルクスがいかなる問題を理論的に解決(説明)しようとしているかとの関連で理解されないなら、空虚な(そして有害でさえあり得る)ドグマに転化する〉という林氏の言葉はそのままお返ししなければならない。

(4) 〈出発点としての九〇〇〇の商品価値は、結果としての商品価値と同じであり、生産手段が六〇〇〇であり、生活手段は三〇〇〇である。ここには全くの形式的同一性しか存在しない、つまりこうした表式は全く無内容なものとして現れるだけである。そして大谷とか、それに同調する諸君は、こんな無内容な表式が(もちろん、ここに資本主義的な関係、階級関係を入れても全く同様であるが)、その根底に、“超”歴史的な社会関係を有している、などとおっしゃるのである(この問題については、ここでは論じることはできないが)。〉

 これはマルクスが提示している再生産表式を、それによってマルクスが説明している内容から切り離して、戯画化していることでしかない。上記の一文では、林氏は事実上次のように主張している。マルクスが提示している再生産表式には、〈全くの形式的同一性しか存在しない〉〈無内容な表式〉である、と。こんなことを言って林氏はよくも自分はマルクス主義者であるなどといえたものである。ただただ驚くしかない。こんなものは批判にも値しないものである。ただ侮蔑に値するだけだ。

(5) 〈我々は真実の“超”歴史的な関係について言及しようとするなら、こうした“ブルジョア的”な立場を決定的に捨てなくてはならない。〉

 これは何も言及しないと何か意味のあることが述べられていると思われても困るので、一応、引用したが、ただ「?」マークをつけることしかできない意味不明の言葉である。林氏は一体これで何を言いたいのであろうか。俗人には分からない言葉であることだけは確かである。少なくとも次のような同義反復の愚だけは指摘できる。“超”歴史的という意味は、特定の歴史的形態を“超”えているということであろう。だから当然、ブルジョア的な立場も〈捨てなくては(捨象しなければ)ならない〉。当たり前ではないか! 馬鹿馬鹿しい。

(6) 〈循環の最後の(したがってまた、新しい循環の出発点の)九〇〇〇の商品資本は、主体的に見るなら、つまり労働者の立場から見るなら、循環の最初の九〇〇〇の商品資本として「再現」するのではない、それらは新しく年々の労働者の生産的労働の結果として現れるのである。生産過程において、出発点の商品資本は使用価値としても価値としても消費され、喪失し、まさに年々の総労働の成果として現れるのである。つまり年々の総労働の三分の二が生産手段の生産に、そして三分の一が出発点の生産に配置され、分割されるのである。〉

 9000の商品資本は使用価値としては、別に〈主体的に見るなら(?--引用者)、つまり労働者の立場から見〉なくても、資本主義的生産として見ても、〈それらは新しく年々の労働者の生産的労働の結果として現れる〉。林氏は生産的労働というのは有用労働を労働過程の産物である生産物の立場から見たものであることを知っているのであろうか。つまり生産的労働の結果として見るということは、その生産物を価値としてではなく、使用価値として見ていることなのである。そして使用価値としては、9000の価値ある総商品資本は、すべて年間の有用労働の産物なのである。しかしそのことは総商品資本の9000価値は〈年々の労働者の……労働の結果〉であるわけでは決してない。〈生産過程において、出発点の商品資本は使用価値としても価値としても消費され、喪失し、まさに年々の総労働の成果として現れるのである〉だって?! 林氏よ、出発点の9000の商品資本の現物形態は、生産手段と消費手段である。そのすべてがどうして生産過程に入るのか。少なくとも9000のうち3000は消費手段として存在しているのではないのか。その3000の消費手段はどのようにして生産過程に入りうるのか。確かに生産過程において生産手段も生活手段も生産されるというのは真実である。しかしそのことは消費手段も生産過程に入るなどということを決して意味しない。生産過程に入る労働者は消費するではないかというのか、確かにそうである。しかし労働者の個人的消費は、生産過程においてではなくその外で行われるのである。生産過程に入るのは労働者の消費する消費手段ではなく、それによって再生産された労働力である。そしてもし生産過程に入る生産手段だけに注目したとしても、〈生産過程において、出発点の商品資本は使用価値としても価値としても消費され、喪失し、まさに年々の総労働の成果として現れる〉とはいえない。確かに生産手段も生産過程で使用価値として生産的に消費され、その限りでは価値を失うが、しかしそれはあらたな生産物を生産するがためであり、よって価値としては新た生産物に移転されるのであって、〈価値としても……年々の総労働の成果として現れる〉わけでは決してない。なぜなら、社会全体からみれば、6000の生産手段(そのうち4000は生産手段の生産手段であり、2000は消費手段の生産手段である)は旧価値として生産物(生産手段と消費手段)に移転するものでしかないからである。
 「有用労働による価値移転」を理解しない林氏には、再生産そのものが理解できないことが、これによっても暴露されている。確かに〈年々の総労働(われわれの想定では3000時間である--引用者)の三分の二(2000時間--同)が生産手段の生産に、そして三分の一(1000時間--同)が出発点(「消費手段」の間違いでは?--同)の生産に配置され、分割される〉としよう。そうすると、その社会が手にする生産手段と生活手段に支出された労働時間は3000になるが、それで果たして林氏はよろしいのか? というのは社会が年度の終りに手にする商品資本の価値は、林氏によれば、9000(9000の労働時間)ではなかったのか。では残りの6000の価値(6000の労働時間)は一体何処から来たのか、また同じ問題に林氏はぶつかるのである。〈ここがロドスだ、ここで跳べ!〉。

(7) 〈スターリン主義者たちは――そして田口会員(以下、田口。なお、論争においては、私のことも「林」で議論して下さい)らも?――、生産過程において「価値」は無くならない、ただ「移転する」にすぎないと強弁するが、どうしてそんなことを言えるのか。生産的消費もまた消費であって、使用価値を失い、また価値も失うのではないのか、それとも田口は生産過程によって、使用価値だけが失われるが、価値だけは「移転する」と主張するのか。生産過程によって、紡錘機と綿花が生産的労働によって綿糸に転化するということは、新しい使用価値が生産されるということであって、紡錘機と綿花が混合した何かが生み出されるといったこととは全く違っているのである。紡錘機や綿花の使用価値は失われ、まさに機械や原材料と全く違う使用価値が生産されるからこそ、人間の生産的労働は生産的労働である。
 そして生産的消費においては価値もまた失われると同時に、生産的労働によって、使用価値とともに生産的労働もまた対象化される、つまり「価値」も新しく創造されるのである。〉

 林氏もお疲れなのか、論文の最後が近くなればなるほどますます混乱が激しくなる(これは1135号の論文でもみられた傾向ではあるが)。何度もいうが、まず林氏は「生産的労働」というのは、有用労働を生産物の立場からみたものであることを理解しないといけない。そうでないと〈生産的労働もまた対象化される、つまり「価値」も新しく創造される〉と言ってしまうと、林氏が以前主張していたこと、すなわち〈そもそも、労働力の“使用価値”(具体的有用労働)が「価値」の概念の根底に入り込み、適用されるなどと考えること自体、途方もないことに思われるのだが、“スターリン主義”学者たちは、そんな無概念も理論的混乱も一向にお構いなしである〉というお言葉をそのままお返ししなければならなくなる。つまり林氏こそ〈“スターリン主義”学者〉であるという“正体”がバレてしまう。
 われわれは、こうした林氏の疑問については、最初にマルクスが第6章で考察している過程を丁寧に追うことによって、すでにその答えを知っている。それは次のようなものであった。すでに引用したが、もう一度引用しておこう。

 〈使用価値がなくなれば、価値もまたなくなる。生産諸手段は、それの使用価値と同時にその価値を失いはしない。なぜなら、生産諸手段が労働過程を通してその使用価値の最初の姿態を失うのは、実のところ、生産物において別なある使用価値の姿態を獲得するためでしかないからである。しかし、価値にとっては何らかの使用価値のうちに存在するということがいかに重要であるとしても、商品の変態が示すように、どのような使用価値のうちに存在するかということはどうでもよいことである。以上のことから結論されるのは、労働過程において、価値が生産手段から生産物に移行するのは、生産手段がその独立の使用価値と共に、その交換価値をも失う限りだということである。生産手段は、それが生産手段として失う価値だけを生産物に引き渡す。しかし、労働過程の対象的諸要因は、この点について、それぞれ異なった事情にある。〉(265頁)
 〈一般に生産諸手段において消耗されるのはそれらの使用価値であり、この使用価値の消費によって労働は生産物を形成する。生産諸手段の価値は、実際には、消費されず、したがってまた再生産されえない。それらの価値は維持されるのであるが、しかし、労働過程において価値そのものにある操作が加えられるから維持されるのではなく、もともと自己のうちに価値を存在させている使用価値が、たしかに消滅するからこそ、とはいっても消滅して他の使用価値になるにすぎないからこそ、維持されるのである。それゆえ、生産諸手段の価値は生産物の価値の中に再現するのであるが、しかし厳密に言えば、それは再生産されるのではない。生産されるのは、新たな使用価値であり、その中で旧交換価値が再現するのである。〉(271頁)

 もともと、生産手段の価値が移転するという現象は、生産物を生産するために必要な労働時間というものは、それを生産するのに必要だった生産諸手段を生産するために支出された労働時間も含まれるという当たり前の事実、すなわち“自然法則”の、商品社会に固有の現われなのである。商品社会では、生産手段を生産する労働と、それを使って新たな生産物を生産する労働とは、直接社会的な関係にあるわけではない。だからそれらの社会的関連は、それらの労働の生産物が、商品として交換されて事後的に現われてくるのである。だからこそ、それらの社会的関係は価値として、その移転として現象しているのである。こうした価値の移転という現実を、マルクスは労働の二重性から説明しているわけである。しがしそのことはマルクスもいうように、そして林氏が誤解し、“躓きの石”になっているものでもあるが、〈労働過程において価値そのものにある操作が加えられるから維持されるのではな〉いのである。本来ある“自然法則”が、商品社会に固有の現れ方をとって、現象しているだけなのである。

(8) 〈例えば、労働者は消費手段を消費するが、しかしその消費によって、使用価値が失われるとともに、価値もまた無くなることは自明ではないのか。それとも、田口は、「いや、失われたのではない、労働力の価値として『移転』されたのだ」とでも主張するのであろうか。ブルジョアにはそう見えるかもしれないが、しかし労働力の価値と、労働者が生産において商品に対象化する労働とは全く別のものであって、後者は労働者の人間的活動として、新しくなされ、生まれるものであろう。〉

 しかし誰も、田口氏はもちろんこと、労働力の価値が移転するなど主張していないのである。ここでも林氏は誰も言ってもしないことを相手の主張としてでっち上げて、攻撃するという、林氏が常に使う攻撃手段を使っているに過ぎない。こんな相手に、まともな建設的な議論を期待する方が無駄というものかもしれない。

(9) 〈価値移転論は、社会主義の組織という観点からすると、全くの混乱としてしか現れない。年々の労働は、ただ消費手段を生産する労働としてのみ存在し、生産手段を生産する労働は“日陰の存在”として、ただ「価値移転」のためにのみ存在するのである。彼らは価値を「作り出す」のでもなく、ひょっとすると使用価値も作らないのであり、それもまた「移転」するというのであろうか、というのは、消費手段を生産する労働とは違って、生産手段をもって生産手段を生産するにすぎないのだからである。〉

 これは1135号で見られたお馴染みの「混乱」である。すなわちこれは林氏自身の混乱した頭のなかにしか存在しないものなのである。誰もそんなことは主張していないし、主張するはずもない。すでにわれわれはこうした混乱に対して、正しい回答をこれまでにも十二分に説明してきたと考える。だからこうしたタワゴトは相手にしないことにしよう。

(10) 〈しかし「移転論者」はそんなことはない、消費手段を生産する生産手段を生産する労働者(いわゆる第一部門の労働者の一部)は、事実上、生活手段を生産するのである、というのは、自分の生産した生産手段は、第二部門の労働者の生産した生活手段(消費財)と相互補填で置き変わるからであり、事実上、生活手段を生産したと同様である、と。しかしそう言って見たところで困難は解消しない、というのは、生産手段を生産する生産手段(機械や原材料を生産するための機械や原材料)を生産する、膨大な労働者が残るからである。これらの労働者の労働(の結果)は決して第一部門の労働者の労働(の結果)と相互に補填されることはないし、あり得ない。〉

 これも〈「移転論者」〉が〈そんなこと〉を言っている事実は何もなく、林氏の「一人芝居」なのであるが、とりあえず、この問題をわれわれも検討しておこう。林氏はいう〈生産手段を生産する生産手段(機械や原材料を生産するための機械や原材料)を生産する、膨大な労働者……労働(の結果)は決して第一部門(第II部門の間違い?--引用者)の労働者の労働(の結果)と相互に補填されることはないし、あり得ない〉と。確かにそうである。林氏はなかなか興味深い問題に突き当たったが、それに対する回答はどうやら準備していないようである。林氏はそれに対してどのような回答をもっているのか。私は以前、支部の『資本論』第2部の学習のなかで、この同じ問題を提起したことを思い出す。その考察を少し紹介してみよう。

【7/12の支部の学習会で部門 I の内部補填、特に4000 I cが不可解であるという私の問題提起に、KさんやSさんは、「何が不可解なのかよく分からない」と、むしろ問題は簡単であると主張された。しかしいまだに私にはそれがよく理解できていないのである。どうしてなのかを少し考えてみよう。
 KさんやSさんは、生産手段の生産手段である商品資本もc+v+mに分かれるのだから、と指摘された。確かにそうである。しかしそのv+m部分は部門IIとは直接には補填関係にないのである。彼らは彼らの生産物をすべて同じ部門 I の資本家に売るしかない。つまり彼らは部門IIには何も売らないのに、部門IIから商品を買うのである。その補填関係は一体どうなっているのか、それが不可解だと私は言っているわけである。部門IIが部門 I から購入するのは、消費手段の生産手段だけである。だから消費手段の生産手段の生産部門がそれを媒介することは分かる。それが如何に媒介されて、全体の補填が行なわれるのか、それが問題だと私は考えているわけである。
 表式を使って少し考えてみよう。生産手段の生産のための生産手段を生産する部門を部門 I '、消費手段の生産のための生産手段を生産する部門を部門 I ”としよう。すると部門 I 'の総生産物の価値は4000、部門 I ”の総生産物の価値は2000である。それぞれがc+v+mに分割すると次のようになる。

I ' 2666[2/3]c+666[2/3]v+666[2/3]m=4000
I ”1333[1/3]c+333[1/3]v+333[1/3]m=2000

II       2000c+500v       +500m    =3000

 だから I '(v+m)は I ”cと補填関係にあることが分かる。つまり部門 I 'のv+mは部門 I ”の不変資本を現物補填するわけである。しかしでは I ”cが部門 I 'に販売されるかというとそうではないのである。 I 'のv+mはIIcの一部から補填されるのである。 I ”の全生産物はIIcを補填するのだからである。だから次のような関係にある。

I '(666[2/3]v+666[2/3]m)+ I ”(333[1/3]v+333[1/3]m)= I ”の全生産物(2000)=2000IIc

 だからここから極めて重要なことが分かってくる。つまり I 'のv+m部分は、(1)今年度は I ”の不変資本を補填し、それは消費手段の生産手段を生産する過程で生産的に消費されて、その価値を消費手段の生産手段に移転させる。そして(2)それは来年度には、部門IIの不変資本を現物補填して、部門IIにおいて消費手段の生産過程で生産的に消費され、その生産物、すなわち消費手段に価値を移転する。そしてその消費手段は、(3)再来年度には I 、II両部門のv+mを現物補填して、最終的には価値としても消滅するのである。だから部門 I 'の生産物(生産手段の生産手段)の価値も少なくともその一部は最終的には消費手段の価値に移転されて、消費手段の消費(実現)とともにその価値は消滅することが分かるのである。それは複雑な媒介過程(3年にわたる、といっても年一回転という前提だからだが)を経てではあるが、しかし最終的には社会的に消滅しているわけである。
 しかしこれは考えてみれば、明らかなようにも思える。というのは部門 I 'も部門 I ”も、究極には部門IIにおける消費手段の生産のためにあるわけだからである。もしそれらがそうでないなら、そもそも部門 I 'や部門 I ”で働く労働者は(そして資本家も)食べていくことはできないであろう(「食べる」という表現は厳密ではないが、個人的消費を代表させた)。それらが最終的には消費手段の生産のためにあるからこそ、それらの生産に従事している労働者や彼らから剰余価値を搾り取っている資本家たちも食べて行けるわけである。だからこうした原理から考えるなら、やはり部門 I 'の生産物(生産手段の生産手段)の価値も最終的には消費手段へと移転させられて、消費手段の消費(実現)とともにそれらの価値は消滅していることが分かるのである。

 その後、マルクスは第2稿では、生産手段生産部門も消費手段生産部門もそれぞれ二つの部門に分けて考察していることを知った。もちろん、第2稿では、生産手段生産部門と消費手段生産部門は第8稿(現行版)と逆になっているが、われわれは第2稿のマルクスの考察を部門の順序だけを入れ換えて、再現してみよう。それは次のようなものである。

   生産手段a(消費手段の生産のための生産手段の生産部門)
      a) 200c+50v+50m  (必需品の生産のための生産手段生産部門)
  aa)  200c+50v+50m  (奢侈品の生産のための生産手段生産部門)
I )
     生産手段b(生産手段の生産のための生産手段の生産部門)
      b)   200c+50v+50m   (必需品の生産手段の生産のための生産手段生産部門)
  bb)   200c+50v+50m   (奢侈品の生産手段の生産のための生産手段生産部門)

   消費手段
    a)   200c+50v+50m   (必需品の生産部門)
II)
   b)   200c+50v+50m   (奢侈品の生産部門)

 この場合はわれわれの先の考察より複雑であるが、問題はマルクス自身も生産手段生産部門を消費手段の生産手段の生産部門と生産手段の生産手段の生産部門との二つに分けて考察していることである。だからマルクス自身にもそうした問題意識があったということである。ここでは可変資本部分をvで表したが、マルクス自身はそれを「50£G」と貨幣形態で示している。】

(11) 〈田口は、九〇〇〇の価値はそのすべてが、年々の労働者の生産的労働の結果であって、三〇〇〇の価値だけがそうなのではない、とおっしゃる。それでは「計算」が全く一致しないのではないのか。田口の計算によれば、生産手段の六〇〇〇の価値は二重に計算され、一二〇〇〇でなくてはならない、というのは、一方でそれは「移転」された価値として現れ、他方では生産的労働の結果として現れるからである。あるいは、可変資本の価値も一方で「移転」され、他方で「新しく」対象化されるとするなら、総生産の価値は九〇〇〇ではなく、一五〇〇〇の価値として現れるだろう。田口はこの辻褄を、帳尻をいかにして合わせてくれるのだろうか。〉

 ここで林氏は田口氏の主張なるものを紹介して批判しているのであるが、これは代表委員会の中での田口氏の発言なのであろうか。というのは1136号の田口氏の論文を見ても、そんなことは書かれていないからである。やはり相手を批判するときは、相手の主張を正確にその論文から引用紹介してからやるべきではないだろうか。こんな批判はほとんど誹謗中傷の類である。ただためにする批判でしかなく、何の建設的な意義もないものである。こんな批判ばかりしているから、誰も『海つばめ』紙上でおよそ理論問題で林氏と議論などしよう思わなくなるということが林氏にはわからないであろうか。
 以下、この項目の最後に残された二つのパラグラフで書かれていることは、まった架空の林氏がでっち上げた「主張」なるものに対するものでしかなく、検討に値しないと考える。林氏が社会主義における労働について述べている部分も、すでにその間違いは指摘したので、ここでは触れないことにする。

◆5、田口の立場について

  この最後の項目はほとんど検討に値しないが、一つだけ指摘しておこう。

 〈しかし「労働が元来同時に二重の作用」を有すると言うのは、商品を生産する社会的労働が、抽象的人間労働として対象化されて価値の実体となると同時に、具体的労働(具体的有用労働)として使用価値を作り出すことを言うのであって、「有用的労働として価値を移転する」からではない。そんな風に言うことは、商品に対象化される労働について、全く間違った、おかしな観念を提供することであり、マルクス主義を根底からゆがめることであろう。〉

 われわれはこうした林氏の主張に対しては、すでに何度も紹介し批判してきたが、やはりもう一度、第6章の次のようなマルクス自身の一文を対置しなければならない。

〈労働者は、もとの価値を維持することなしには新たな労働をつけ加えることはできず、したがって新たな価値を創造することはできない。というのは、彼はつねに一定の有用的形態で労働をつけ加えなければならないのであり、しかも諸生産物を新たな一生産物の生産諸手段にし、そうすることによってそれらの生産物の価値を新たなその生産物に移転することなくしては、有用的形態で労働をつけ加えることはできないからである。したがって、価値をつけ加えることによって価値を維持するということは、自己を発現している労働力すなわち生きた労働の天性というべきものである。〉(270頁)

 〈マルクスが言っているから正しいのだ、……といったことは論証でも何でもない〉と林氏がおっしゃるのなら、このマルクスの一文を批判して見るがよい。宇野派的な迷妄に迷い込まずしてそれができるのか、とくと拝見しようではないか。

                                                                                                                 (完)

  (次回は、まだ十分検討しておらず、とりあえず未定だが、引き続き「有用労働の価値移転」問題を論じている〈『海つばめ』1163号(2011.12.25)【二~三面】「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために〉を取り上げようと考えている。)

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