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2016年1月28日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-10)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回から架空資本の運動が論じられている。また〈資本還元〉という用語が、初めて出てくる。この点に関連して、無理解を曝け出している林氏の批判もついでに行っておく。)

【16】

 〈/336/架空資本の形成は資本還元と呼ばれる。すべての《規則的な》収入が,平均利子率に従って,資本がこの利子率で貸し出されたならばもたらすであろう収益として計算される。たとえば《年間》収入がイコール100ポンド・スターリングで利子率がイコール5% ならば,この100ポンド・スターリングは2000ポンド・スターリングの年利子であり,そこでこんどは,この想像された||337上|2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる。この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5%の利払いを表わすのだからである。こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである。〉

 先に見た【11】パラグラフで、マルクスは〈国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである〉と述べていたが、ここからはその〈すぐに見る〉と言われていた〈それ自身の運動〉が考察の対象になっている。
 マルクスはまず〈架空資本の形成は資本還元と呼ばれる〉と述べている。〈資本還元〉という用語はここで初めてマルクス自身によって使われているのであるが、しかしよく見てみると、〈架空資本の形成は……と呼ばれる〉となっている。つまり今まで説明してきた〈架空資本の形成は〉一般には〈資本還元と呼ばれ〉ていると述べているだけである。われわれは直前の【15】パラグラフの原注b)の〈V.レーデン『比較文化統計』〉からの引用文の中に〈労働者は資本価値をもっており,それは,彼の1年間の稼ぎの貨幣価値を利子収益とみなすことによって算出される。……平均的な日賃銀率を4%で資本還元すれば〉云々、という一文があったことを知っている。つまり「資本還元」というのはブルジョア経済学者によって実際に使われていた用語なのである。
 だから資本還元という言葉そのものは、ここで初めてマルクス自身によって使われているのであるが、しかし実際には資本還元の内容そのものは最初から、つまり【9】パラグラフから、論じてきたものなのである。なぜなら、そこから架空資本の形成を論じてきたのだからである。確定した規則的な貨幣利得が、利子生み資本の形態に伴って(=範疇としての利子生み資本の確立によって)、本来的な利子であろうがなかろうが、それらはすべて「利子」と見なされ、だからその貨幣利得をもたらす源泉が何であろうと、その「利子」をもたらすとされた源泉は本来的な利子を生む「資本」(=利子生み資本)と見なされるのである。だからその確定した規則的な貨幣利得がそのときの平均利子率で還元されて、その「資本」(架空の利子生み資本)の価値が求められる、すなわち幻想的な架空資本の価値が形成されるのだとマルクスは論じてきたのだからである。
 だからこれまでの国債の例を使った架空資本の形成の議論のなかで、「資本還元」という用語を使っていないからといって、林氏のように〈マルクスは、……国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない〉とか〈ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではない〉などと主張するのは、まったく途方もないことなのである。

 とにかく〈資本還元〉によって、どのようにして架空資本が形成されるのか、マルクスの説明を検討してみよう。
 〈すべての《規則的な》収入が,平均利子率に従って,資本がこの利子率で貸し出されたならばもたらすであろう収益として計算される〉。まず範疇としての利子生み資本が確立された現実がある。だから一定の貨幣額は常に利子生み資本(元金)と見做され、利子をもたらすものと見做される現実がある。すなわち「資本--利子」の定式化の確立である。だから、今度は、それが逆転して(「利子--資本」の定式化が生まれ)、〈すべての《規則的な》収入が〉、「利子」と見做される現実が生じてくる。だからその場合は、例え「利子」でなくても、本来ある一定額の貨幣額が利子生み資本として貸し出されたなら、もたらすであろう「利子」と見做されるので、その一定の規則的な貨幣収入を平均利子率で割ることで、その「ある」と考えられている資本、すなわち実際には幻想的なものでしかない、「架空」の「資本価値」が〈計算されて〉求められることになる、とマルクスは述べているのである。これが資本還元の内容である。
 しかしこれは【10】パラグラフでマルクスが次のように言っていたことと同じことである。すなわち〈事柄は簡単である。平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉。ここに出てくる最初の〈500ポンド・スターリングの資本〉と最後の〈500ポンド・スターリングの一資本〉とは決して同じものではない。最初のものは実際に利子生み資本として投下される貨幣額である(すなわち「資本--利子」の関係である)。しかし最後のものはそうしたものとみなされるもの(「利子--資本」の関係から生まれるもの)、すなわち実際にはただ幻想的なものでしかなく、架空資本として計算された(形成された)ものなのである。そしてこの計算の過程こそ、資本還元と呼ばれているものなのである。だからマルクスはそもそも最初から架空資本の形成を論じるなかで、〈資本還元〉について説明していたのである。
 だからこのパラグラフでも、マルクスは次に【10】パラグラフと同じような具体例を上げて(但し数値は異なるが)説明している。〈たとえば《年間》収入がイコール100ポンド・スターリングで利子率がイコール5% ならば,この100ポンド・スターリングは2000ポンド・スターリングの年利子であり,そこでこんどは,この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる〉。規則的な収入が100ポンド・スターリングであれば、それをもたらす理由(源泉)が何であれ、それは「利子」とみなされ、だから平均利子率が5パーセントなら、100÷0.05=2000ポンド・スターリングの資本となる計算になる。この場合の2000ポンド・スターリングはただ想像されただけのものであり、よってただ幻想的なものでしかないのであるが、しかしそれらは年額100ポンド・スターリングを定期的にもたらす〈権原(所有権原)の資本価値とみなされる〉。というのは〈この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5%の利払いを表わすのだからである〉。今回は計算された2000ポンド・スターリングが〈想像された〉もの、すなわち架空資本であること、架空資本の資本価値であることが明確に語られている。
 ここで〈権原(所有権原)の資本価値〉と述べられているのは、一般の商品の売買と区別された利子生み資本に固有の運動にもとづいている。利子生み資本の運動も、「貨幣商品」の「売買」という外観をとる。しかし一般的な商品の売買の場合は、売り手は決して彼の商品の価値を手放すわけではなく、ただその使用価値を譲渡するだけである。なぜなら、彼は彼の持つ一定の価値額の商品形態をただ貨幣形態に転換するだけだからである。売る前も売った後でも彼は一定の価値額を持っていることに変わりはない(彼は自分の生産した使用価値が、自身の物質代謝に適さないので、代謝を行うに適する使用価値に交換するだけである)。ところが「貨幣商品」の場合には、そうした物質代謝とは直接には無関係であり(つまり彼は自身の物質代謝のためにそれをするのではない)、よって売り手(貸し手)は、彼の持つ価値そのものを買い手(借り手)に譲渡する。しかし売り手(貸し手)は彼の価値を譲渡するものの、その所有権原は保持するのである。だからそれは定期的な利子支払いをもたらし、さらに一定期間後には彼のもとに還流してくる(返済される)のである。だからここでは想像された2000ポンド・スターリングという資本価値が譲渡された(貸し付けられた)ものとみなされ、だからその所有権原を保持していると見做されているわけである。つまり実際にはありもしない架空な資本価値の所有権原があるとみなされるわけである。ここでは実際上、現実に(リアルに)あるのは、100ポンド・スターリングという貨幣額だけである。これは確かに現実にも存在している。しかしそれをもたらしていると想像されている2000ポンド・スターリングというのは、まったく幻想的なものである。だからまた当然それの所有権原もまったく幻想的なものでしかないわけである(だから状況が変化すれば、それらは直ちに紙屑に転化し、「架空」に帰するのである。それらが「架空」資本と言われる所以である)。
 例えば「資本--利子」の観念が定式化されると、一定の貨幣額は必ず利子をもたらすという観念が確立する。平均利子率が5パーセントなら当然、100万円は年5万円の利子をもたらすものだと観念されるわけである。だからその100万円が実際には、ただ浪費するためだけに貸し出されて、まったく利潤を生み出さない場合でも、やはり5万円の利息が要求されるわけである。しかしこの場合、最初の100万円は実在的な貨幣額であり、決して幻想的でもなんでもない。
 ところがこの「資本--利子」の関係が逆転し、「利子--資本」の観念が生まれてくる。すると今度は、年々5万円の規則的な貨幣利得がすべて「利子」とみなされるようになる。それは実際には利子でもなんでもなくてもやはり利子とみなされ、だからそれは平均利子率が5パーセントなら、100万円の利子生み資本の利子とみなされるわけである。つまり年々5万円の貨幣利得を得る権利は、100万円の利子生み資本の所有権原とみなされることになる。彼は100万円を利子生み資本として貸し出したから、年々5万円を利子として取得していると想像されるわけである。しかしこの場合の100万円はまったくただ想像されているだけであり、だから純粋に幻想的なものである。だからマルクスはこれを架空資本と規定したのである。この場合、年々の5万円の貨幣利得だけは確かに現実的なものである。しかしその年々の規則的な貨幣利得をもたらす理由とみなされる所有権原があるとされる100万円という資本価値そのものは、まったくただ想像さたものであり、よって純粋に幻想的なものでしかないわけである。にも関わらず、それは独自の運動を持っているのだとマルクスは述べているのである。
 先の「資本--利子」の関係では、100万円の貨幣額も現実的であるし、そこからもたらされる年々5万円も現実である。ただ100万円が実際に利子生み資本として前貸され、剰余価値を生み出したかどうか、だからまた年々もたらされる5万円の利子が近代的な範疇としての利子なのかどうかは何も問われずに、そうしたものとみなされるわけである。だからここで幻想的なものは、100万円が利子生み資本と観念されるその観念であり、5万円がその利子生み資本が生み出した利子だと観念される、その観念がただ幻想的であるにすぎないわけである。
 ところが「利子--資本」の転倒によってもたらされる現象では、現実的なのは5万円という貨幣価値だけである。それが「利子」とみなされる観念はもちろん幻想であり、そればかりかその5万円の果実を生み出すとされる100万円の資本価値そのものとその所有権原もまったく幻想的なものでしかないわけである。それはただ想像されただけのものでしかない。にも関わらずそれはそうした資本価値を持つものとして独自の運動をするのである。われわれはこうした架空資本の概念、その本質を明確に捉える必要があるのである。そうすれば大谷氏をはじめ少なくないマルクス経済学者たちが「架空資本」と「擬制資本」とを区別してそれらを使い分ける必要があると考えているような主張が誤っていることが容易に理解されるであろう。

 しかしとにかくマルクスの述べていることをしっかり読んで行こう。
 〈この場合,この所有権原を買う人にとっては,この100ポンド・スターリングという年収入は,事実上,それに投下された彼の資本の5%の利払いを表わすのだからである〉。
 これは〈この想像された2000ポンド・スターリングが年額100ポンド・スターリングにたいする権原(所有権原)の資本価値とみなされる〉理由としてマルクスが述べていることである。つまりこういうことだ。
 ここに別の資本家(貨幣資本家)が登場する。彼は2000ポンド・スターリングというしっかりしたリアルな貨幣を持っているとしよう。彼はそれを機能資本家に貸し付けて毎年100ポンド・スターリングの利子を得ようと考えている。ところが彼はそれをやる代わりに、まったく幻想的なものでしかない2000ポンド・スターリングの架空資本(有価証券)を購入する。そうしても彼にとっては、毎年100ポンド・スターリングの利子をもたらすという点では何も変わらないのだから、彼にとっては同じに見えるわけである。そればかりか、彼が2000ポンド・スターリングを機能資本家に貸した場合、それが還流してくる(返済される)のは、現実の資本の循環を待たねばならない。ところが彼が2000ポンド・スターリングの架空資本を購入した場合には、必要なときにいつでも彼はそれを第三者に転売して、2000ポンド・スターリングの返済を受けることができるのである。これは彼にとっては有利に思える。そればかりか2000ポンド・スターリングはうまく行けば、3000ポンド・スターリングにも4000ポンド・スターリングにもなるかも知れないわけである。しかし、そうはどっこい、世の中はそんなにうまくはない。というのは彼の買った架空資本(有価証券)はいつのまにか2000ポンド・スターリングではなく、1500ポンド・スターリングに価値が減ってしまっていたり、悪くするとただの紙屑になってしまう場合もあるからである。その場合には、彼はしっかりしたリアルな2000ポンド・スターリングをただの紙屑にしてしまったことになるわけである。架空資本が架空なるが所以である。しかしとにかく彼は2000ポンド・スターリングの有価証券を購入すると、2000ポンド・スターリングを貸し付けて、その債務証書をしっかり持っている(所有権原を持っている)のと、同じだと考えるわけである。だからこの有価証券は2000ポンド・スターリングという想像された資本価値を持ち、毎年100ポンド・スターリングの利払いを受ける権原とみなされるわけである。

 〈こうして,資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡にいたるまで消え失せて,自分自身を価値増殖する自動体としての資本という観念が固められるのである〉。
 こうしてすでに「資本--利子」の観念のなかに、資本の物神性は極限に至っていたのであるが、「利子--資本」の観念においては、それがさらに狂った観念として現れてくる。有価証券という単なる紙切れ、単なる債務証書にすぎないものが、資本価値をもち、しかも自己増殖する価値として想念されるわけで、その場合の年々の貨幣利得の源泉が果たしてどこに由来するのかはもはや皆目分からないものになっている。だから資本はとにかく自分自身を価値増殖する自動体として観念されるようになるのだ、とマルクスは述べている。

 ところで、マルクスの〈架空資本の形成は資本還元と呼ばれる〉という一文を読んで、われわれはここでハタと林氏の立論の矛盾に気づく。林氏は次のように主張していた。

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉 (『海つばめ』No.1111)

 関西セミナーのときには、林氏は国債が架空資本であることさえ認めなかったのであるが、それは今は問わないことにしよう。つまり林氏は国債が架空資本(林氏が引用している岩波の翻訳では「空資本」)であることは認めるわけである。しかし林氏は、それは〈収入の資本還元の理論〉によってそうなのではないと主張している。国債が架空資本であるのは〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまって、現実にはどんな痕跡も残って〉いないから「空資本」と言えるのだというのである。しかし林氏の説明では、国債が「空資本」であることの説明にはなっていない。なぜなら、林氏の説明では国債が「」であることは説明されていても、それが「資本」であることは何も説明されていないからである。マルクスは【11】パラグラフでは国債が架空資本である理由を次のように述べていた。

 〈しかしすべてこれらの場合に,国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである〉。

 つまりマルクスは、林氏が主張する理由=〈もはやまったく存在しない〉〈ということばかりではない〉と述べていた。つまり林氏が主張する理由は、架空資本が「架空」(「空」)である理由にはなり得ても、それが「資本」とみなされる理由にはならないから、だからマルクスは〈ということばかりではない〉と述べていたのである。そのあとマルクスが述べているものこそ、なぜ国債が「資本」と見做されるのかの説明だったのである。つまり国家に貸し付けられた貨幣はまったく資本として投下されるものでは無いのに、しかし自己を維持し増殖するものと見做される、つまり「資本」と見做されるとマルクスは言っているわけである。それはどうしてか? それは国家から支払われる規則的な貨幣支払いが「利子」と見做されるからだ。だから、その貨幣利得をもたらす源泉=国債が「資本」と見做されるのだというのがマルクスの説明である。つまり規則的な貨幣支払いが利子と見做され、だからその規則的な貨幣利得の源泉である国債も資本と見做されるからである、すなわちその源泉が資本に還元されるからである。つまり「資本還元」によってである。
 だから林氏の主張は明らかに矛盾している。林氏は国債が架空資本であることは認めるが、それが資本還元によるものであることを否定するのである。しかし国債が架空資本であることを認めるなら、それが資本還元によって説明できることも認めなければならない。一方を認めて、他方を否定することは不可能なのである。林氏はこうした自己矛盾に陥ってしまっているのに、そのことに気づいてもいないのである。

 林氏は国債は〈いわば“純粋の”空資本〉だということを認める。しかしそれは資本還元されるからそうなのではなく、国債として貸し出された貨幣がすでに使い果たされて存在しないからだという。マルクスもそういう意味で国債を「空資本」と呼んでいるのだと主張するわけである。しかしそうであるなら、林氏はどうして使い果たされて現実には存在しない貨幣が一定の資本価値として、つまり「空資本」として存在するようになるのか、どうしてそれがそのように現象するのかを説明しなければならないのであるが、それはできないことは明らかである。もしそれを資本還元という方法以外で説明できるなら、是非、やって貰いたいものである。
 結局、林氏が頼らざるを得ないのは、額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当たり前だという、転倒した観念を一つの“常識”として主張することでしかない。林氏が主張するのは、額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当たり前であり、だからわざわざ年々の利子5万円を平均利子率で割って(すなわち資本還元して)100万円という資本価値を計算する必要はない,そんなことは単なる同義反復であり、矛盾であるということである。しかし今問題なのはどうして額面として「100万円」と印刷されただけの、ただの紙切れである国債が100万円の価値を持つのかということを説明することなのである。これは決して当たり前のことではなく、単なる紙切れに過ぎないものが100万円の価値あるものとして通用し、実際、それを買うには100万円が必要だという現実をどのように説明するのかということである。つまり林氏が当たり前だと考えていることを説明することが求められているのである。しかも額面100万円の国債が、市場では必ずしも100万円の価値あるものとして評価されず、90万円とか80万円しか価値がないものと評価されるのはどうしてか、ということも説明しなければならない。
 結局、それは年々そこからもたらされる5万円が利子とみなされるからであり、だからそれを利子率5%で資本還元すると、それは100万円の「利子生み資本」の「利子」とみなされる計算になり、だから額面100万円の国債は100万円の「資本価値」を持つものとみなされることになるのだと説明するしかないのである。あるいは利子率が上昇して、5.5%とか6%になったために、年々の国債からもたらされる確定利息の5万円が、市場の利子率で資本還元されるために、例え額面100万円の国債であっても、市場では90万円とか80万円の資本価値しかないものとして評価され、その価値額で売買されるのだと説明するしかないのである。つまり資本還元の概念なしに、架空資本の運動を説明することは出来ないのである。もしそれ以外の方法があるなら、是非とも林氏はそれをやって見せるべきであろう。

 (以下、続く)

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