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2016年1月28日 (木)

林理論批判(33)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.11)

 前回の続き、『海つばめ』1163号の林論文を批判したものの後半部分である。この記事が出た時に、検討資料として支部に提出したもの(レポートの日付は2012.1.9となっている)。(以下、『資本論』からの引用で頁数のみを記しているものは、すべて全集版23aの頁数)。

§§§ 『海つばめ』1163号(2011.12.25)林論文、《「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために》の批判的検討(下)§§§

 〔われわれはこの論文の批判的検討では、これまでやってきたように、逐一その誤りを指摘し、批判するという方法は採用しない。というのはそうした方法は、今回の場合、あまりにも煩雑になるからである(つまりそれだけ問題にすべきところが多すぎるわけだ)。だから、今回は、主要且つ重要な問題点と思える課題に絞って、その誤りを指摘し、正しいマルクスの理解を対置して批判することにしよう。そして林氏の混乱の根本は、マルクスが再生産表式として表し、考察している内容を皆目理解していないことにあると考える。だから、マルクスは再生産表式で何を表し考察しているのか、それを別途解説してみようと思う。そうすれば誰もが、林氏の主張していることが、『資本論』に対する無理解にもとづくものであることを、自分自身で確認し、判断することが出来るであろう。〕(前回掲載した「はじめに」の部分から再録)

§§林氏が〈マルクスが直接に――あるいは明瞭で、具体的な形では――述べていないこと〉として、何か林氏が新しく“発見”した、“画期的”なものであるかに持ち出していることについて

 林氏は自説を説明して次のように述べている。

 〈私が提起する、この問題はマルクスが直接に――あるいは明瞭で、具体的な形では――述べていないことである(どこかで似たようなことを言っているかもしれないが、一つのテーマとして論じていないように思われる、というのは、社会主義を「価値規定」と関連させて、いくらかでも具体的な形で述べることはマルクスの主要な問題意識、あるいは関心事項ではなかったからである)、だからこそ、「マルクスはそんなことを言っていない」とか、「マルクスは違ったように言っている」とか言って揚げ足を取っているだけではなく――そんなことは全く不生産的で、不毛なことだ、全く前進的でも、創造的でもない――、私とは別の回答を示すべきであろう。〉

 しかし、林氏が〈同志会にとって決定的に重要であり、我々の歴史的な“存在理由”をきわめて鮮明に明らかにしたもの〉という割りには、林氏の主張していることは分かりやすいものではない。もう一度、林氏が〈このことの認識こそ決定的〉だと述べていることについて検討してみよう。それは次のような一文であった。

 〈一見して、自動車生産のためには、機械や鉄鋼に支出された労働日が前提とされ、その労働日は「過去の」労働日として、つまり「移転されてきた」労働日として現象するのであって、何か前年度の労働の結果であるかに見える、しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。このことの認識こそ決定的であり、「有用的労働による価値移転論」等々の空虚なことを明らかにしているのである。この労働日について、価値移転論者のように“二重計算”することは――つまり一方で「過去の労働」として、他方で新しい生産的労働として――ナンセンスであり、社会主義における生産と分配の観念をどこかに追いやってしまうのである。〉

 われわれは、マルクスによって確立された再生産表式を前提して常に考えるクセがあるので、ここで林氏が述べていることは、一見すると、奇妙なことのように思えるかもしれない。しかし林氏が指摘していることは、この資本主義的生産のありふれた現実であり、現象なのである。
 つまりわれわれが目にする資本主義の社会的生産を観察してみると、ある工場で生産された生産物が、すぐに別の工場に運ばれて、その工場で生産手段として役立ち、さらにその工場の生産物は、別の工場に運ばれると、そこでまたその工場の生産過程で、生産手段として役立つというように、社会的生産は互いに物的に関連し合っており、しかも1年間の生産という限られた期間の枠内でも、それらは相互に関連し合って生産物を移動させていることが分かる(もちろん、年度を越えて関連し合っている場合も当然ありうるだろう)。例えばある紡績工場で綿花を綿糸にすると、その綿糸は、別に年度を越えずとも、その年のうちに、すぐに別の紡織工場に運ばれて、そこで綿布に変えられ、さらにそれはやはりその年のうちに捺染工場に運ばれてプリント生地になり、さらには同じ年度内に縫製工場に運ばれて、洋服が生産され、そうしてそれはその年のうちにわれわれ消費者の手に届くという具合にである。これらはある年度をとれば、その年度内で行われていることであろう。だから林氏が〈“同時並行的”〉だというのは、同じ年度内に行われていることだ、という意味なのである。
 林氏が〈このことの認識こそ決定的〉だと主張していることは、こうした資本主義的生産のありふれた現象をそのまま指摘しているだけの話なのである。そしてこのように考えるなら、「過去の労働」(つまり考察の対象にしている年度以前に支出され、対象化された労働)など考える必要はないし、今年度内の生産において、今年度以前に支出された「過去の労働」が「移転」されるなどということも考える必要はない、だから年度の総生産物価値は「生きた労働」と「死んだ労働」との合計だなどと考える必要もないのだ(そんなことをすると二重に計算することになる)等々と林氏は強調するわけである。林氏がながながとくどくどと述べている(項目の3と4はほぼこの問題が論じられている)すべての理屈は押し詰めれば、こうしたことに過ぎない。

 林氏がマルクスも明示的には述べていない、画期的なものであるかに述べていることは、しかし、それはマルクスが資本主義社会の総再生産過程を、さまざまな試行錯誤を通じて、最終的に、簡潔に、再生産表式として表示して考察するまでに、長い過程を通して到達する以前に、スミスらの主張を批判的に考察しながら、資本と資本との交換、資本と収入との交換、収入と収入との交換として、社会の総生産物の補填関係を論じるなかで問題にしていたものでもあるのである。確かに『資本論』では、そうした林氏が指摘するようなことは、社会的総資本の再生産の過程を論じるなかでは、マルクスは問題にはしていないが、だから、それ以前の考察、例えば『1861-3年草稿』(『剰余価値学説史』)のなかでは、マルクスも林氏と同じような問題をいろいろと論じているのである。一つだけ引用してみよう。

 〈なによりもまず必要なことは、不変資本の再生産を明らかにしておくことである。ここではわれわれは年々の再生産を考察しよう。すなわち、一年を再生産過程の時間尺度として考察しよう。
 不変資本の大きな一部分--固定資本--は、年々の価値増殖過程にはいることなしに年々の労働過程にはいる。それは消費されない。したがって再生産される必要はない。それは、一般に生産過程のなかにはいって、生きている労働と接触し続けることによって、維持されるのである--その使用価値とともにその交換価値も--。生産過程がただ同じ規模で更新され、続行され、流動状態に保たれるだけだと前提すれば、ある国において今年度に資本のこの部分が大きければ大きいほど、それに比例して翌年度にはそれの単なる形態的な再生産(維持)はそれだけ大きい。固定資本を維持するために必要な修理費その他は、固定資本の最初の労働費用として計算される。これは、前に述べた意味での維持とはまったく別のものである。
 不変資本の第二の部分は商品を生産するにあたって年々消費され、したがってまた再生産されなければならない。これに属するものは、不変資本中の固定資本のうち価値増殖過程に年々はいって行く部分の全体、および不変資本のうちの流動資本すなわち原料や補助材料から成っている部分の全体である。
 ところで不変資本のこの第二の部分について言えば、次のような区別をしなければならない。
 ある生産部面で不変資本として--労働手段および労働材料として--現われるものの大部分は、それと並行する生産部面で同時に生産される生産物である。たとえば綿糸は織物業者の不変資本に属するが、それは、おそらくその前日にはまだ製造中だった紡績業者の生産物である。ここでわれわれが同時にと言う場合、それは、同じ年のあいだに生産される、ということである。同じ商品が、段階を異にするにつれて、同じ年のあいだに違った生産部面を通過するのである。それは、一方の生産部面から生産物として出てきて、他方の生産部面へは不変資本を形成する商品としてはいって行く。そして、固定資本の場合のようにその価値だけが商品のなかにはいって行くにせよ、流動資本の場合のようにその使用価値もまた商品のなかにはいって行くにせよ、どちらにしても、すべてが不変資本として一年間のうちに消費される。一方の生産部面で生産された商品が今度は不変資本として消費されるために他方の生産部面にはいって行くのと同時に--すなわち同じ商品がはいって行く諸生産部面のこのような連続とならんで、この商品のいろいろな要素またはこの商品のいろいろな段階製品が同時にそれと並行して生産される。それは、同じ年のあいだに絶えず一方の部面で不変資本として消費され、他方のこれと並行する部面で商品として生産される。その年のあいだに不変資本としてこのように消費される同じ商品が、また絶えず同じ年のあいだに同じようにして生産されるのである。A部面では機械が損耗する。その機械が同時にB部面では生産される。生活手段を生産する生産部面でその年のあいだに消費される不変資本は、同時に他の生産部面で生産され、したがって、それは、その年のあいだにかまたはその年の終わりに現物で新たに補填される。生活手段も不変資本のこの部分もともに、この一年のあいだ活動する新たな労働の生産物なのである。
 私が以前に示したように(本巻、第 I 分冊、96-109および206-214〔原〕頁を見よ)、生活手段を生産する生産部面の生産物の価値部分で、この生産部面の不変資本を補填する価値部分は、この不変資本の生産者たちにとっての収入を形成するのである。
 ところが、さらに不変資本のうちには、生活手段(消費用商品) を生産する生産部面のなかに成分としてはいって行くことなしに、年々消費される部分が存在する。したがって、この部分は、これらの部面の生産物で補填されることもありえない。われわれが考えているのは、不変資本--労働用具、原料、補助材料--のうち、不変資本すなわち機械や原料や補助材料の形成や生産においてそれ自身産業的に消費される部分のことである。すでに見たように(本巻、第 I 分冊、109-121、158-168および214-222〔原〕頁を見よ)、この部分は、直接にこの生産部面自体の生産物(たとえば、種子、家畜、一部の石炭の場合)によってか、または不変資本を形成するいろいろな生産部面の生産物の一部との交換によってか、どちらかによって現物で補填される。この場合には資本と資本との交換が行なわれる。
 この不変資本部分の存在と消費によって、生産物の量だけでなく年々の生産物の価値もまた増大する。消費されたこの不変資本部分の価値に等しい年々の生産物の価値部分は、不変資本のうち消費された不変資本を現物で補填しなければならない部分を、年々の生産物のなかから現物で買いもどし、または回収するのである。たとえば、種子として用いられる穀物の価値部分は、収穫のうち不変資本として土地に、生産に、返されなければならない価値部分(したがってまた穀物量)を規定する。その年のあいだに新たにつけ加えられた労働がなければ、この部分は再生産されないであろうが、しかし実際にはこの部分は前年のかまたは過去の労働によって生産されているのであって、--労働の生産性が変わらないかぎり--この部分が年々の生産物につけ加える価値は、今年の労働の所産ではなく前年の労働の所産なのである。ある国における充用不変資本の割合が大きければ大きいほど、不変資本のこの部分、すなわち不変資本の生産に消費され生産物量の増大となって現われるだけでなくこの生産物量の価値をも高めるような部分もまた、それだけ大きくなる。だから、この価値は、現在の年間労働の所産であるだけではなく、同様に前年の、過去の、労働の所産でもある。といっても、それは、年々の直接的労働がなければ、それがはいって行く生産物と同様に、再び現われることはないであろうが。もしこの部分が増加するとすれば、たとえ年々の労働は同じままであっても、年々の生産物量だけでなく、その価値もまた増加するであろう。この増加は資本の蓄積の一形態であって、これを理解することは非常に重要である。そして、リカードの次のような文章ほどこの理解から遠いものはありえないのである。
 「製造工業における一〇〇万人の人間の労働は、つねに同じ価値を生産するであろうが、しかし必ずしも同じ富を生産するとはかぎらないであろう。」(同前、三二〇ぺージ。〔小泉訳、下、七ページ。〕)
 この一〇〇万人の人間が--労働日を与えられたものと前提して--生産する商品量は、労働の生産性に応じて非常に違っているだけでなく、この商品量の価値も、それを生産するのに用いられる不変資本が多いか少ないかに従って、すなわちそれにつけ加えられるところの、前年の過去の、労働に由来する価値が多いか少ないかに従って、非常に違っているであろう
。〉 (『学説史』II-638-641頁)

 しかしマルクスは、こうした考察を経て(その考察過程を辿ることは非常に難渋するほど極めてややこしいものになっている)、ようやく再生産表式に到達したのであり(その過程では、ケネーの経済表に似せた、マルクス独自の経済表を作成したりしている)、だからこそ、今では、われわれはマルクスの確立した再生産表式を使って、簡潔・簡単に社会の総資本の再生産を考察することが出来ているのである。林氏の根本的な問題は、そのマルクスが確立した再生産表式を正しく理解していないことである。だから項を変えて、マルクスの再生産表式は何を表し、それでマルクスは何を考察しているのかを明らかにすることにしよう。

§§マルクスは再生産表式で何を表し、考察しているのか

 マルクスは第20章「単純再生産」第1節「問題の提起」で次のように述べている。

 〈われわれが分析しなければならないのは、明らかに、流通図形W’--{G--W・・・・P・・・・W;g--w であって、しかもここでは必ず消費が一役を演ずるのである。……
 しかも、われわれの当面の目的のためには、再生産過程は、W’の個々の成分の価値補填と素材補填との両方の立場から考察されなければならない。……
 すぐ目の前にあるのは次のような問題である。すなわち、生産中に消費される資本はどのようにしてその価値を年間生産物によって補填されるか、また、この補填の運動は資本家による剰余価値の消費および労働者による労賃の消費とどのように絡み合っているか、である。……
 社会的総資本とその生産物価値との考察では……生産物価値の一部分が資本に再転化し、他の一部分が資本家階級と労働者階級との個人的消費に入るということは、総資本が結実した生産物価値そのものの中での運動を形成する。そして、この運動は、価値補填であるだけではなく素材補填でもあり、したがって、社会的生産物の色々な価値成分の相互の割合によって制約されているとともに、それらの使用価値、それらの素材的な姿によっても制約されているのである。
 不変な規模での単純再生産は、一つの抽象として現れる。……前提は、商品の形態は再生産過程で変わることがあるにしても、与えられた価値の社会的資本は、今年も去年と同じに再び同じ量の商品価値を供給し同じ量の必要を満たす、ということである。……〉
(全集24巻482-486頁)

 このようにマルクスは、社会の総資本の再生産過程を、商品資本の循環として考察すると述べている。しかし、そのことは、再生産表式によって考察することとどのように関連しているのであろうか。それが問題なのである。われわれは、もう一度、商品資本の循環の図式と単純再生産の表式を提示して、考えてみることにしょう。

(1)商品資本の循環の図式

 W’s-G’-W…P…W’g(最初のW’と最後のW’は同じだが、とりあえず、それを区別するためにW’s、W’gとした)

(2)単純再生産の表式

部門 I  4000c+1000v+1000m=6000
部門II  2000c+ 500v+ 500m=3000

さて、マルクスが社会的な総資本の「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」(第2稿の表題)として、再生産表式を使って、何をどのように考察しているのであろうか。
すでに述べたように、再生産表式というのは、W’-G’-W…P…W’の商品資本の循環として社会の総資本の運動を考察することである。しかし社会的総資本の流通を商品資本の循環として考察する場合、一定の想定が必要である。まず社会のすべての資本は年一回転すると仮定される。しかもすべての資本が周期を同じくして年一回転すると仮定されているのである。そして単純再生産の場合、出発表式(上記の(2)の表式)として示されている総商品資本は、その前年の再生産過程で生産された社会のすべての商品資本をその価値と素材とによって区別されて配列されたものなのである。そしてこの社会のすべての商品資本がまず最初に同時にW'-G'-Wの流通過程を辿り(但し流通期間は通常ゼロと仮定されている)、それぞれ社会の必要な諸部門にその流通過程を通じて配分され、そしてそれぞれの生産過程で生産的に消費され、あるいは労働者や資本家個人にも配分されて、やはりそれぞれの諸個人においても個人的に消費され、そうして社会の総再生産が行なわれる、よってまた同時にその過程で労働者や資本家個人も再生産される、だからまた資本-賃労働の社会的な関係も再生産される。すなわちW…P…W'の生産過程を経て、再び出発点の表式である総商品資本のW'に戻ってくると考えられている。つまり社会の総資本を構成するすべての個々の資本がその回転期間がすべて同じ1年で、しかもまったく同じ周期によって回転するといった、ある意味では極端な仮定がされているのである。もちろん、こうした仮定は資本主義的生産の現実とはかけ離れたものである。しかしこうした極端な仮定は、社会的総資本がその社会の再生産において、互いにどのように補填し合うかを、それらの素材と価値において、純粋に考察するためには、必要な仮定なのである。
 もちろん、現実の社会の総再生産を考えるなら、別に林氏が画期的なこととして持ち上げるほどでもないほど、ありふれた現実として、社会の総資本を構成する個々の資本はその回転期間も循環の周期も多種多様であるだろうし、だからある生産部門の生産物は、その年度の間に、別の生産部門に移行してそこで生産手段として役立つということは当然のことであろう。しかし、そうした複雑な過程をそのまま前提して、分析しても、それらの内的関連をさぐることは極めて困難であるし、事実上不可能であろう。だからこそ社会の総生産物(総商品資本)の価値と素材にもとづく補填関係を考察し、その内的関連を純粋に探り出すためには、こうした極端な仮定は必要なのである。マルクス自身は、さまざまな試行錯誤を通じてそこに到達し、よってまた簡潔な再生産表式として問題を考察することに成功したのである。

 まずこの単純再生産表式が何を表わしているのかを確認していこう。

 ① まずこれは一国の年間の総生産物を総商品資本の総価値額としてあらわしている(商品資本の循環の図式でいうと前年度の循環のW’gにあたる)。しかしそれは同時に、われわれが一国の総資本の再生産過程を考察しようとしている今年度の循環の最初の総商品資本でもある(だから今年度の循環としては(1)のW’sにあたる)。つまりわれわれが、社会の総資本の再生産過程を考察するということは、前年度に生産された総商品資本を前提にして、それを出発点において考察するということになるのである。この場合、その総商品資本は9000の価値額を示しているわけである。

 ② またその9000の価値ある年間の総商品資本は第Ⅰ部門、つまり生産手段生産部門の商品資本としては6000の価値額であり、消費手段の生産部門の商品資本としては3000の価値額である。つまり前年度の末に6000の価値ある生産手段が生産され、3000の価値ある消費手段が生産されたわけである。

 ③ ではⅠ部門の4000c+1000v+1000mとは何を表わしているのであろうか? これは6000の価値ある生産手段のうち4000の価値部分が、その商品資本の生産する過程で生産的に消費された生産諸手段(不変資本)の価値額を、故に再び再生産を開始するには、それらが補填されなければならない価値額を示しており、1000vの価値部分は資本家が、その生産手段を生産するために労働力に投じた資本額、すなわち可変資本の価値額を表している。さらに1000mの価値部分は、その労働力が自分の価値以上につけ加えた労働部分であり、資本家が自分の個人的消費に当てる部分、すなわち剰余価値部分を表わしている。
 つまりここで表わされているのは6000の価値ある生産手段という物質的定在をもつ商品資本なのだが、しかしそれらはすべて販売されてとにかく6000の貨幣資本に転換されなければならないのだが、しかし6000の貨幣資本のうち4000の貨幣資本は再び不変資本として投資される分であり、1000の貨幣資本は可変資本として、つまり労働力の購入のために投じられ、そして残りの1000の貨幣は剰余価値として資本家の個人的消費のために支出されるというわけである。つまりこの表式は、6000の価値額とそれが生産手段として生産された商品であることを示しているのだが、同時にそれが再び資本の再生産のためにはどのような形で投資され補填される必要があるかも示しているわけである。

 ④ 同じようにⅡ部門の2000c+500v+500mも、まず3000の価値ある消費手段という商品資本の価値量と物的存在を示しているわけである。また2000c、500v、500mのそれぞれは上記と同じように3000の価値ある商品資本としての生活手段を生産するために投じられた資本価値部分とその結果得られた剰余価値部分を表している。だからそれらがまず3000の価値ある貨幣資本に転換されて、そのうちの2000の貨幣資本は再び不変資本として投資され、500の貨幣資本は可変資本として投資され、残りの500の貨幣は資本家の利潤として彼らの個人的消費に支出されることになるわけである。
 ただ再生産表式の出発式そのものはまだ総商品資本の価値構成とその物質的定在を示すだけで、それが如何にして貨幣資本に転換し、またそれが不変資本や可変資本そして資本家の消費として支出されるかを示すわけではない。だからこの出発式が、商品資本の循環図式であるW’-G’-Wの循環を辿った時点で、その表式がどのように変化するか、つまり諸資本の生産資本の価値構成がどのように示されるか、さらにはそうした生産資本の価値構成のもとで、100%の剰余価値率で生産が行われれば、それはどういう価値構成の商品資本として結果するか、すなわちW…P…W’の過程を経て、再び最初のW’として表示されるか、ということをマルクスは考察しているわけである。

 ⑤ところで単純再生産の条件は、Ⅰ(1000v+1000m)=Ⅱ2000cであるが、これは何を表わしているのであろうか? これはいろいろなことを表わしている。
 ⅰ)Ⅰ部門の6000の価値量を示す商品資本のうち2000はⅡ部門の生産手段を物的に示すものでなければならないということである。もちろん生産手段の中にはⅠ部門であろうが、Ⅱ部門であろうが、その使用価値の形態によっては、両方の生産手段になりうるものもあるが、しかしⅡに固有の生産手段というものもあるであろう(例えば肥料や農機具など)。少なくともⅡの不変資本として必要なものを2000の価値あるものとして生産されていなければならないことを示しているのである。
 ⅱ)また同じことはⅡ部門の個人的消費手段についても、3000の価値量を示す消費手段のうち、1500の消費手段は労働者の消費する必要生活手段でなければならず、あとの1500の価値ある消費手段は資本家やその利潤のおこぼれに預かる階級の消費手段でなければならないということを示しているのである。

 ⑥ところで第Ⅰ部門でも第Ⅱ部門でも、それぞれの商品資本がまず貨幣資本に転換される必要があることを先に指摘した。ではその貨幣資本への転換は如何にしてなされるのであろうか?
 まず第Ⅰ部門では6000の生産手段で表わされている商品資本が販売されるのだが、そのうち2000は第Ⅱ部門の資本家に販売され、残りの4000は第Ⅰ部門の資本家同士で互いに販売し合うことになる。
 まず4000の商品資本については、第Ⅰ部門の資本家たちが互いに貨幣を出してあって、販売しまた購入し合うのだから、そして彼らが支出した貨幣は彼が購入すると同時に販売もするので、その限りでは貨幣はもとに還流し、それを再び繰り返すだけで、何も問題ではない。問題は第Ⅱ部門に売る2000の生産手段である。第Ⅰ部門の資本家はまず1000の生産手段を部門Ⅱの資本家に販売する。その貨幣は部門Ⅱの資本家が支出するわけである。第Ⅰ部門の資本家は2000の商品資本のうち半分の1000の商品資本の貨幣資本への転化を成し遂げ、彼らはその貨幣資本を可変資本として投資して労働者に支払う。彼らの可変資本はいまや労働力商品という商品資本に転化し、さらに生産資本として生産過程に入る。労働者はその可変資本として支出された貨幣を自分の労働力の対価として、労賃として受け取り、自分たちの収入として支出して、第Ⅱ部門の資本家から生活手段を購入する。つまり第Ⅱ部門の3000の消費手段のうち1000の消費手段は第Ⅰ部門の労働者によって購入され、だから彼らが生産手段を購入するために支出した貨幣1000は彼らの手に還流する。
 彼らはその1000を使って、再び残りの1000の生産手段をⅠから購入する。こうしてⅠの資本家たちは彼らのⅡ部門用の2000の商品資本をすべて貨幣に転化して、資本家たちは1000の利潤を得るわけである。資本家たちはその1000をⅡから個人的消費手段を購入するために支出する。するとⅡ部門の残り2000の消費手段のうち1000が貨幣に転化し、やはり彼らが生産手段を購入するためにⅠに支出した貨幣は彼らの手に還流する。
 しかしまだⅡの1000の商品は貨幣に転化されずに残っている。まずⅡの資本家は彼らの労働者に可変資本として500の貨幣を前貸しする。それは労働者の労賃となり、彼らはそれを彼らの収入として、やはり資本家Ⅱから必要生活手段を購入する。だから資本家Ⅱは彼らが前貸した可変資本を再び貨幣形態で回収することになる。だから彼らはまたその500の貨幣を新たな可変資本として投資することが可能となる。
 Ⅱの残りの500は資本家たちの個人的消費手段である。それは彼らが互いの個人的収入のために貨幣を支出しあって、その貨幣への転化を行うだけである。
 こうして両部門の9000の商品資本はすべて貨幣資本に転化され、またそれらは再び不変資本および可変資本として投資されるとともに、また利潤として回収され資本家によって個人的に消費されるのである。

 こうして社会の物質代謝は次のように行われている。単純再生産を想定すると、まずこの社会は1500の可変資本によって必要なものを生産している。1500の可変資本というのは、現物形態としては1500の価値ある労働力である。それが最終的には3000の価値ある消費手段を生産して、それを労働者と資本家がそれぞれ半分ずつを個人的に消費して社会の物質代謝を形成しているのである。しかしこの社会はこの3000の価値ある消費手段を生産するために6000の生産手段を必要としており、よってこの社会は6000の生産手段を使い、1500の労働力によって、3000の生活手段を生産して、その社会の物質代謝を支えているわけである。1500の労働力のうち1000の労働力は6000の生産手段をただ再生産するためだけに使われ、生活手段を直接生産しているのは500の労働力である。そしてこの社会が生み出している3000の価値ある消費手段というのは、1500の労働力が一年間に新たに生み出した価値そのものなのである。つまりこの社会はその一年間に新たに生み出した価値をその次の一年間にはすべて個人的に消費してしまうことによって、その物質代謝を行なっている社会なのである。だから社会の総生産物の価値9000のうち、6000は前年度以前に生産されたものであり、それが今年度の生産過程で生産物の価値として「移転」されたものである。
                                                                                                                (未完)

(以下、時間切れで未完、あるいは書き直しも必要と考えているので、また時間があれば考えてみたい。なお、次の項目として、再生産表式が社会主義社会の再生産過程を考察する上でも意義があることを論じる予定であったが、それはすでに以前、一定の考えを提示したことがあり、今回はやめておくことにした。以前、提示したものは、やや不十分なところもあり、その後、かなり訂正したところもあるが、出来たら、それをもう一度、再提示してもよいと考えている。)

                                     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (支部に提出したものは、ご覧のとおり、途中までで未完となっている。以上で〈林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する〉というシリーズも終えたいと思う。ただノート類のなかから関連するものがまた見つかった場合は、別途、紹介することにして、ひとまずこのシリーズは終えたいと思う。
 次回以降はまだ考えていないが、いずにれせよ、「林理論批判」として提供してきたものは、最初にもお断りしたように、改めて何か林批判を展開しようというようなものではなく、あくまでもこれまで私が同志会に所属していた時に書いたものを、そのまま埋もれさせるのではなく、ブログという便利なものを利用して公表しようとするものなので、煩雑なノートのなかから探し出す必要があり、どこかにまぎれてしまったものも少なくない。あるいはノートの状態によっては、途中半端なものも中にはあることもご了解いただくしかない。中途半端なものなら少なくとも体裁だけでも、一応、仕上げて公表すべきだ、と思われるかも知れないが、しかしそこまで力を入れて、林理論批判をやるべきだとは私自身には思えないのである。だからまた、ノートのなかから公表する価値のあるものが見つからなければ、その時点で、この連載そのものは打ち切ることになる。)

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