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2016年1月20日 (水)

林理論批判(32)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.10)

 今回から、前回の最後にお知らせしたように、『海つばめ』1163号の林論文を批判したものを紹介する。これは上下二回に分けて紹介する。これもこの記事が出た時に、検討資料として支部に提出したものである(レポートの日付は2012.1.9となっている)。(以下、『資本論』からの引用で頁数のみを記しているものは、すべて全集版23aの頁数)。

§§§ 『海つばめ』1163号(2011.12.25)林論文、《「有用労働による価値移転」及び「再生産表式」神話の一掃を--社会主義の本質的概念--「搾取の廃絶」と「労働の解放」のために》の批判的検討(上)§§§

§§はじめに

 通信No.8(第9期)(2011.12.22)は、この論文について、次のように書いている。

 〈林の見解を展開した論文を1162号に掲載しました。社会主義社会における生産と分配について論じた重要なものと考えます。林がこの間抱いて来た問題意識に、一応の回答をえたものです。各支部とも検討し、労働者セミナーとの関係も含めて意見を出してください。もし正当な理論だとするなら、同志会にとって決定的に重要であり、我々の歴史的な“存在理由”をきわめて鮮明に明らかにしたものといえます。正当でないということになると大変です。〉

 この一文は、この論文に対する過大な位置づけをする一方、自信の無さもほのめかしており、やや首を傾げるものになっている。果たしてこの論文は、ここでいうようなもの、つまり〈同志会にとって決定的に重要であり、我々の歴史的な“存在理由”をきわめて鮮明に明らかにしたものといえ〉るようなものなのであろうか。
 残念ながら、私にはどんなに贔屓目に見ても、そのようには思えなかった。そればかりか、林氏がどれほどマルクスの『資本論』をいい加減に扱い、それを真剣に研究することを怠ってきたか、そしてその結果、当然のことながら、混乱の極致に至ってしまったかを暴露していると考えている。

 われわれはこの論文の批判的検討では、これまでやってきたように、逐一その誤りを指摘し、批判するという方法は採用しない。というのはそうした方法は、今回の場合、あまりにも煩雑になるからである(つまりそれだけ問題にすべきところが多すぎるわけだ)。だから、今回は、主要且つ重要な問題点と思える課題に絞って、その誤りを指摘し、正しいマルクスの理解を対置して批判することにしよう。そして林氏の混乱の根本は、マルクスが再生産表式として表し、考察している内容を皆目理解していないことにあると考える。だから、マルクスは再生産表式で何を表し考察しているのか、それを別途解説してみようと思う。そうすれば誰もが、林氏の主張していることが、『資本論』に対する無理解にもとづくものであることを、自分自身で確認し、判断することが出来るであろう。

§§〈社会主義における「分配方式」〉を〈社会主義の概念の根底をなすべき〉ものと考えるのは正しいか?

  林氏は〈社会主義の“概念”〉と題した二つ目の項目の冒頭、次のように書いている。

  〈提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである。それはすべての真理――大宇宙や自然界やあれこれの“物質”や、人類の社会や歴史さえもの、存在や運動を規定する概念や法則などがそうであるように――が、簡単な定式によって簡潔に表現され得るのと同様である(例えばE=mc2)。
 社会主義における「分配方式」――というのは、これこそが社会主義の概念の根底をなすべきなのだが――は、ただ次のような法則もしくは原則に従って行われる。〉

 宇宙の法則になぞらえるとは何とも壮大ではあるが、ここでは、林氏は、どうやら「分配方式」が社会主義の概念の根底をなすべきだと考えているようである。しかし果たしてそうした考えは正しいであろうか。マルクスは『経済学批判要綱』序説で、分配は生産の所産だと述べている。これは決して資本主義社会に固有の問題ではなく、あらゆる社会に共通の契機としてマルクスは論じているのである。だからそれは社会主義社会においても同じであろう。社会主義の「分配方式」は、社会主義の「生産方式」(生産様式)に規定されているのである。生産があるからこそ、分配があるのであって、決して逆ではない。確かにマルクスも生産のためには、まず生産諸手段の分配が前提されると述べている。つまり生産手段が資本家の手にあり、労働者がそうした諸手段から切り離され、自らの労働力しか持っていない結果、資本主義的所有諸関係(搾取・被搾取の関係)が生じてくる。しかし、マルクスは、生産手段の分配というのは、それは生産そのものの問題なのだとも述べているのである。とするなら、〈概念の根底〉はむしろ〈分配方式〉(つまり個人的消費手段の分配方式)ではなく、「生産方式」(生産様式)においてこそ明らかにされるべきではないのか。確かに社会主義では資本主義でのように、「生産のための生産」が問題にはならない。抽象的な富である価値(利潤)ではなく、使用価値が生産の直接の目的になる。しかしそのことは社会主義では個人的消費手段の分配がすべてを規定するということではない。分配は生産の所産だというのは社会主義社会でも同じなのである。われわれはマルクスから引用して、そうした真理を確認しよう。
  (こうしたマルクスからの引用を林氏は極度に嫌うのであるが、しかし、われわれはマルクス主義者であり、マルクスの考察から学ぶことを決して厭わないのである。そこから引用することは、それを絶対化することと同義ではない。マルクスの説明をよく読み、自分で考えれば、それでよいのである。マルクスから引用すると、「マルクス絶対主義だ」などと批判する林氏は、それだけ同志会会員を見くびり、自分は別だが他の会員はマルクスの文章を理解する能力に欠け、ただそれを丸飲みするだけだと思っているわけである。しかし、われわれ一般会員も、それぞれが自主的・自覚的に同志会に参加しているのであって、各人がマルクスから学び、研究し、考える能力を持っているのである。マルクスからの引用は、われわれが何をどのようにマルクスから学んだかを明らかにするものであり、決してマルクスの一言一句を絶対化するためにするわけではないことは明らかである。一般会員がマルクスから引用することを嫌い、自説に対して,マルクスの言葉を引用・対置されて批判されることを恐れる林氏は、それだけ自分自身のマルクス理解への自身の無さを示しているのである。実際、われわれがこれまで見てきたように、林氏の『資本論』理解はまったくいい加減なものであった。)
 ところで珍しいことに、引用を極度に嫌う林氏は、この論文では最初の項目で『資本論』と『ゴータ綱領批判』と『反デューリング論』から長く引用している。つまり自分が引用する分については、それを絶対化するものではなく、何の問題もないのだと自惚れているわけである。
 (しかしこれもついでに指摘しておくと、林氏には、引用されたものはすべて〈同様なこと〉が〈強調されている〉ように思えたようであるが、しかし、それらの内容は異なっている。というのは林氏が引用している『資本論』のロビンソンのところでマルクスが論じているのは、決して分配の問題ではないからであり、『ゴータ綱領批判』がらの引用文では確かに分配をもっぱら問題にしているが、『反デューリング論』から引用している部分は、確かに「第3編4、分配」からのものではあるが、しかし引用されている部分の内容そのものは、必ずしも分配を論じているものではないからである。そこでは将来の社会では、生産物に支出された労働量を、直接、労働時間で表現するということを述べているだけである)。

 とりあえず、われわれは、生産と分配との関係について、マルクスは何を言っているのかを知るために、引用しよう。

 〈最も浅薄な見解では、分配は生産物の分配として現われ、したがって生産から遠く離れたもの、生産にたいしてまるで独立しているようなものとして現われる。しかし、分配は、それが生産物の分配であるまえに、(1)生産用具の分配であり、(2)同じ関係のいっそう進んだ規定ではあるが、いろいろな種類の生産への社会成員の分配である。(一定の生産関係のもとへの個人の包摂。)生産物の分配は、明らかに、ただ、このような、生産過程そのもののなかにふくまれていて生産の編制を規定している分配の結果でしかない。このような生産にふくまれている分配を無視して生産を考察することは明らかに空虚な抽象であるが、他方、逆に、生産物の分配は、このような最初から生産の一契機をなしている分配とともにおのずからあたえられているのである。……(中略)……
 このような、生産そのものを規定する分配が生産にたいしてどんな関係をもつかは、明らかに、生産そのもののなかにある問題である。すくなくとも生産が生産用具のある一定の分配から出発しなければならないかぎりでは、この意味での分配は生産に先行し生産の前提をなしていると言うならば、これにたいしては、たしかに生産にはその条件と前提とがあるが、これらの条件や前提は生産そのものの契機をなしているのだと答えなければならない。〉
(全集13巻623頁)

 そもそも社会主義社会で諸個人が社会に与えた労働時間にもとづいて、それと同じ労働時間が費やされた消費手段を、社会の保管庫から引き出し、それによって、自分が支出した労働と等量の別の形態の労働とを交換できるのは、あるいはこのようにそれぞれの生産物に支出された労働量が労働時間によって絶対的に表し秤量できるのは、社会主義における生産が、直接社会化された諸個人によって担われ、社会的な物質代謝が意識的・合理的に統制・管理されて行われているからである。社会主義の生産がまさにそうしたものだからこそ、社会主義における個人的な消費手段の分配も、直接、各人の支出した労働時間によって計り、行うことが可能となるのである。だから社会主義の概念の根底を問うなら、やはりわれわれは消費手段の分配ではなく、生産が直接社会化された諸個人によって、自由な人々が自覚的に、且つ、意識的に行うものであるということにこそ見いだすべきであろう。社会主義の概念の根底を消費手段の分配に求める林氏の社会主義論は一つの俗論でしかないのである。

 もう一つ『資本論』からも引用しておこう。

 〈たしかに、資本は(また資本が自分の対立物として含んでいる土地所有は)それ自身すでにある分配を前堤している、と言うことはできる。すなわち、労働者からの労働条件の収奪、少数の個人の手のなかでのこれらの条件の集積、他の諸個人のための土地の排他的所有、要するに本源的蓄積に関する章(第一部第二四章)で展開された諸関係のすべてを前提していると言うことができる。しかし、このような分配は、人々が生産関係に対立させて分配関係に一つの歴史的な性格を与えようとする場合に考えている分配関係とはまったく違うものである。あとのほうの分配関係は、生産物のうちの個人的消費にはいる部分にたいするいろいろな権利を意味している。これに反して、前のほうの分配関係は、生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎である。この分配関係は、生産条件そのものにもその代表者たちにも特殊な社会的性質を与える。それは生産の全性格と全運動とを規定するのである。〉(全集25b1123-4頁)
 〈だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表わしているだけである。〉
(同1128頁)

 あるいは林氏はゴータ綱領批判では、マルクスがもっぱら分配を問題にしているから、分配方式が社会主義の概念の根底になるべきだと考えたのかも知れない。しかし、ゴータ綱領批判で、マルクスが分配をもっぱら問題にしているのは、それがゴータ綱領の次の一文に対する批判として論じているからなのである。

 〈三、「労働を解放するためには、労働手段を社会の共有財産に高めること、また労働収益を公正に分配しつつ総労働を協同組合的に規制することが必要である。」〉 (全集19巻18頁)

 つまり〈「公正な分配」とはなにか?〉という問いから始まって、マルクスは林氏が引用している部分も展開しているのである。だからマルクスは、林氏が引用した部分よりもっとあとで次の様につけ加えることを忘れていない。

 〈私が、一方では「労働の全収益」に、他方では「平等な権利」と「公正な分配」とにやや詳しく立ちいったのは、一方では、ある時期には多少の意味をもっていたがいまではもう時代おくれの駄弁になっている観念を、わが党にふたたび教条として押しつけようとすることが、また他方では、非常な努力でわが党にうえつけられ、いまでは党内に根をおろしている現実主義的見解を、民主主義者やフランス社会主義者のお得意の、権利やなにやらにかんする観念的なおしゃべりでふたたび歪曲することが、どんなにひどい罪悪をおかすことであるかを示すためである。
 以上に述べたことは別としても、いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。
 いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの一特徴である。たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から(そして民主主義者の一部がついで俗流社会主義から)、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。真実の関係がとっくの昔に明らかにされているのに、なぜ逆もどりするのか?〉
(同21-22頁)

 ここでマルクスが述べているように〈いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであ〉るのである。林氏は、社会主義の概念の根底を明らかにすると称して、〈社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方〉に熱中しているが、それはまさにここでマルクスが批判している俗流社会主義に林氏が陥っていることを示している。林氏はゴータ綱領批判を最後まで読むべきだったであろう。あるいは少なくとも彼が引用した部分の前後をもう少し拡大して読むべきだったのである。そうすればこうした馬鹿げた間違いに陥らなかったのである。しかし、マルクスを相対化しようとする林氏にとっては、この場合もマルクスが何を言っているか、などということはどうでもよい事かもしれない。これは『資本論』の研究を「学者のお遊び」などと蔑み、真剣な研究を軽んずれば、結局は、自分自身が俗流主義に陥るという典型例として銘記すべきことである。

§§林氏が「社会主義の概念」として述べている内容

 さて林氏は〈提出される社会主義の具体的な観念は、ごく簡単なものである〉と述べているのであるが、その論述は、それほど簡単でも、分かりやすいものでもない。要するに、林氏が述べていることは、煎じ詰めれば、次のようなことであろうか。自動車を生産する労働者は、50労働日を支出して1台の自動車を生産するのだが、しかし彼はその50労働日を根拠に、自動車1台を手にすることは出来ない。というのは、自動車を生産するに必要な鉄鋼や機械に、すでに100労働日が支出されているのであり、だから自動車1台の生産に必要な労働日は150労働日だからである。だから自動車を生産した労働者は、〈三年の「年賦」等々で自動車を手にすることができるにすぎない〉、これが〈マルクスが『ゴータ綱領』で言った、労働者は「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という言葉〉で〈理解されなくてはならない〉内容なのだそうである。自動車を生産した労働者が、自分の生産した自動車を入手するという例が、マルクスが〈労働者は「自分が一つの形で社会に与えた同じ労働量を別の形で返してもらう」という言葉〉で〈理解されなくてはならない〉内容だというのは不可解であるが(なぜなら、それでは〈別の形〉になっていないから)、しかしそれはまあ、よいとしょう。とにかくこれが〈社会主義の概念の根底〉なのだそうである。
 もちろん、林氏はそれ以外にも色々なことを述べているが、林氏は、〈分配方式〉を〈社会主義の概念の根底〉としているのだから、こうした内容がその主要なものと理解すべきであろう。
 (なお、これもついでに指摘しておくことだが、林氏は、将来の社会主義でも〈三年の「年賦」〉なるものがあると想定している。年賦というのは、なんであろうか。辞書を引いてみると、「負債額または納税額などを毎年一定額ずつ分割して支払っていくこと。また、その弁済方法」とある〔日本国語大辞典〕。つまりこれは自動車ローンと同じである。将来の社会主義社会の労働者は、自動車を信用で購入し〔これはわざと間違った表現を使ったのである。本来なら「入手し」とすべき〕、それを3年払いの分割方式で支払っていくと林氏は想定しているのである。しかしそのためには信用制度が社会主義でもあると想定しなければならない。こんなバカな話はない。正しい理解は次のようでなければならない。労働者は彼が年間社会に与えた200労働日のうち日常の生活手段に必要なものを150労働日と交換して、50労働日を権利として保有(留保)できるだけである。そしてそれが3年間分溜まった結果、つまり彼が保有する権利が150労働日に達したので、そこで初めて彼は自動車を手にすることかできるのである。社会主義ではこのように考えるべきであろう。)

 もちろん、林氏はここでは、分配だけではなく、社会主義の「生産」についても語っている。

 〈社会主義社会においても、分配(消費)だけでなく、生産もまた「価値規定」によって制約され、規定されることも明らかである、というのは例えば、社会が年々、鉄一億トンを、自動車五百万台を、あるいはコメ一千万トンを必要とするなら、その生産がその生産に必要な――社会的に必要な――労働日(労働時間)によって決定されるだろうからである。資本主義社会との違いは、鉄や自動車やコメの生産に社会的に必要な労働(時間)が、生産物との直接の関係において明示され、価値の形態を取らないこと(その必要がないこと)、したがってまた資本の再生産としては現われないこと、であるにすぎない。〉

 しかし林氏が、社会主義における「生産」を、「分配」を規定するものとして論じているのではないことは明らかである。その意味では、林氏は、あくまでも〈社会主義の概念の根底〉は〈分配方式〉にあると考えているわけである。

 ところで、林氏は〈このことの認識こそ決定的〉だと、次のように述べている。

 〈一見して、自動車生産のためには、機械や鉄鋼に支出された労働日が前提とされ、その労働日は「過去の」労働日として、つまり「移転されてきた」労働日として現象するのであって、何か前年度の労働の結果であるかに見える、しかし実際には、この労働日は生産手段を生産する労働として、現実的であり、“同時並行的”である、つまり総労働日の三分の二を占める生産手段を生産する労働日の中に含まれている、つまり年々の総労働日の一部であり、一環であるにすぎない。このことの認識こそ決定的であり、「有用的労働による価値移転論」等々の空虚なことを明らかにしているのである。この労働日について、価値移転論者のように“二重計算”することは――つまり一方で「過去の労働」として、他方で新しい生産的労働として――ナンセンスであり、社会主義における生産と分配の観念をどこかに追いやってしまうのである。〉

 確かにそのあとの林氏の論述を見ると、こうした認識は、林氏にとっては、なるほど〈決定的〉なように思える。しかし、それはだからこそ、項を改めて論じることにしよう。

 われわれは、林氏が述べる〈決定的〉な〈認識〉について論じる前に、マルクス自身は、将来の社会主義について、どのように述べているのかを見てみることにしよう。林氏の嫌う引用が多くなるが、他意はない、ご容赦あれ。

 まず林氏は引用するのを何故か避けているのであるが、マルクスはロビンソン物語と関連させて、将来の社会主義社会の内容について次のように明確に述べている。

 〈最後に、気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。……この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。この生産物の一部分はふたたび生産手段として役立つ。それは相変わらず社会的である。しかし,もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって,それは彼らのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は,社会的生産有機体そのものの特殊的な種類と,これに対応する,生産者たちの歴史的発展程度につれて、変化するであろう。〉 (105頁)

 以下、マルクスが将来の社会主義について述べていることについて、大谷禎之介氏の近著『マルクスのアソシエーション論』に紹介されているものから幾つか紹介しておこう(ただし挿入されている原文は省く)。

 〈階級と階級対立とを伴った旧来のブルジョア社会に代わって,各人の自由な発展が万人の自由な発展にとっての条件であるようなアソシエーションが現われる。〉 (『共産党宣言』。MEW4,S.482.)

 〈自由な労働が士台でありうるのは,ただ,自由な労働が自分の生産諸条件の所有者である場合だけである。自由な労働は,資本主義的生産の内部では,社会的労働として発展する。だから,自由な労働が生産諸条件の所有者である,ということが意味するのは,生産諸条件が社会的になった労働者たちの物であって,この社会的になった労働者たちが自分自身で生産を行ない,自分自身の生産を,社会的になったものとしての自分たちのもとに包摂するということである。〉 (『1861-63年草稿』。MEGAII/3.4,S1523-1524頁)

 〈共同の生産手段で労働し,自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人間のアソシエーショシ。〉 (『資本論』第1部(1867年〉。MEW23,S.92.)

 〈社会的生活過程の,すなわち物質的生産過程の姿態は,それが自由に社会的になった人間たちの所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき,はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てる。〉 (『資本論』第1部。MEW23,S.94・)

 〈各個人の十全で自由な発展を根本原理とするより高い社会形態〉 (『資本論』第1部。MEW23,S,618,)

 〈……ここ〔資本主義的生産諸部門の内部〕では,生産の関連は盲目的な法則として生産当事者たちに作用するのであって,生産当事者たちがアソーシエイトした知性として生産の関連を自分たちの共同的な制御のもとに従わせたのではない……。〉 (『資本論』第3部第1稿。MEW25,S.267.)

 〈資本主義的生産が最高に発展してもたらしたこの結果こそは,資本が生産者たちの所有に,といっても,もはや個々別々の生産者たちの私有としての所有ではなく,アソーシエイトした生産者としての彼らによる所有としての所有に,直接的な社会所有としての所有に,再転化するための必然的な通過点である。それは他面では,資本所有と結びついた再生産過程上のいっさいの機能の,アソーシエイトした生産者たちのたんなる諸機能への転化,社会的諸機能への転化である。〉 (『資本論』第3部第1稿。MEW25,S.453.)

 〈収奪はここでは直接生産者から小中の資本家そのものにまで及ぶ。この収奪は資本主義的生産様式の出発点であり,この収奪の実行はこの生産様式の目標であって,最後にはまさに,すべての個々人からの生産手段の収奪である。生産手段は,社会的生産の発展とともに,私的生産手段であることをも私的産業の生産物であることをもやめ,いまではもはや,アソーシエイトした生産者たち手のなかにある生産手段でしかなく,したがって,それが彼らの社会的生産物であるのと同様に,彼らの社会的所有物でしかない。だがこの収奪は,資本主義体制そのものの内部では,対立的に,少数者による社会的所有の横奪として現われるのであり,また信用は,これらの少数者にますます純粋な山師の性格を与えるのである。〉 (『資本論』第3部第1稿。MEW25,S.456.)

 〈自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち,社会的になった人間,アソーシエイトした生産者たち,盲目的な力によって制御されるように自分たちと自然とのこの物質代謝によって制御されることをやめて,この物質代謝を合理的に規制し,自分たちの共同的制御のもとに置くということ,つまり,力の最小の消費によって,自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし,これはやはりまだ必然性の領域である。この領域のかなたで,自己目的として認められる人間の力の発展が,真の自由の領域が始まるのであるが,しかし,それはただ,かの必然性の領域をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮が土台である。〉 (『資本論』第3部第1稿。MEW25,S.828.)

 〈私は反対に次のように言う,未来は,土地は全国民的にしか所有されえない,という結論をくだすであろう,と。かりにアソーシエイトした農業労働者の手に土地を渡すとすれば,それは,生産者のうちのただ一つの階級だけに社会を引き渡すことになるであろう。/土地の国有化は,労働と資本との関係に完全な変化を引き起こし,そして結局は,工業であろうと農業であろうと,資本主義的な生産形態を廃止するであろう。そうなれば,もろもろの階級的区別と諸特権とは,それらを生みだした経済的土台とともに消滅し,社会は自由な生産者たちの一つのアソシエーションに変えられるであろう。……他人の労働で暮らしていくようなことは,過去の事柄となるであろう。もはや,社会そのものと区別された政府も国家も存在しないであろう。農業,鉱業,製造業,要するにすべての生産部門が,しだいに最も適切な仕方で組織されていくであろう。生産手段の国民的集中は,共同的で合理的な計画にもとついて社会的な務めを果たす,自由で平等な生産者たちの諸アソシエーションからなる一社会の国民的土台となるであろう。これが,19世紀の偉大な経済的運動がめざしている目標である。〉 (「土地の国有化について」(1872年)。MEW18,S,62.)

 〈もし協同組合的生産が偽物や罠にとどまるべきでないとすれば,もしそれが資本主義的システムにとって代わるべきものとすれば,もしアソーシエイトした協同組合的諸組織が一つの計画にもとついて全国の生産を調整し,こうしてそれを自己の制御のもとにおき,資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的痙攣とを終わらせるべきものとすれば,--諸君,それこそ共産主義「ありうる」共産主義でなくてなんであろうか。〉 (『フランスにおける内乱』MEW17,S.343.)

 林氏が、もし〈社会主義の本質的概念〉を知りたいのであれば、このようにマルクスはいろいろなところでそれについて述べているのである。林氏が問題にする消費手段の分配について述べているのは、ごくわずかである。しかもその場合でも、マルクスは、常に分配は生産の結果に過ぎないことを強調することを忘れていない。林氏がマルクスが批判する“俗流社会主義者”に成り下がったことはもはや疑うべくもない。

(以下、続く)

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