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2015年12月

2015年12月29日 (火)

林理論批判(30)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.8)

 今回は、三つ目の項目〈◆3、価値移転論と「再生産表式」〉の批判的検討である(以下、『資本論』からの引用で頁数のみを記しているものは、すべて全集版23aの頁数)。

〈『海つばめ』「1138号(2011.1.9)【二~三面】“有用労働による価値移転論”批判――「スターリン主義経済学」一掃のために――それぞれの理論のそれぞれの課題を考えよ」〉の検討(6)

◆3、価値移転論と「再生産表式」 (記事の表題をそのまま紹介)

 林氏は『資本論』の周知の単純再生産の出発表式を例示して、次のように述べている。

(1) 〈この表式でマルクスが主張し、明らかにしようとすることは、基本的に、社会的な総資本が新しく循環運動を開始するためには、第一部門の可変資本(一〇〇〇)及び剰余価値(一〇〇〇)と、第二部門の不変資本(二〇〇〇)は相互に補填し合い、置換されなくてはならない(社会的総生産が実際に行われるなら、こうした関係が存在している)、ということである。〉

 しかしこれは〈この表式でマルクスが主張し、明らかにしようとすること〉としては、問題の一面化以外の何物でもない。社会的な総資本の再生産は決して部門 I と部門IIの相互補填に集約されないし、そのように考えることは再生産の正しい理解とはいえない。部門 I の不変資本の相互補填や部門IIのV+Mの間の補填関係も決してどうでもよい問題ではないからである。
 そればかりか部門 I の不変資本の問題は、マルクスが第2部第8稿(『資本論』の最後の草稿)においても、結局は最後まで解明できなかったと思えるほどの難題を抱えていると思える問題なのである。これについて詳しく説明するとあまりにも横道にそれてしまうが、例えば現行の第2部第20章「単純再生産」の第10節「資本と収入 可変資本と労賃」は、草稿では本来は単純再生産の考察に該当する部分の一番最後に書かれており、しかもそのパラグラフの冒頭は次のような書き出しで始まっているのである(これをエンゲルスは編集段階で削除した)。

 〈 3) I          1000v+1000m
                           および単純再生産の全構図
      II  2000c+500v+500m

に後に立ち戻ることの保留をつけて、今やわれわれはさしあたり I )4000cに目をむけることにしよう。〉

 だからこの部分でマルクスが本来意図したのは「 I )4000c」、つまり部門 I の不変資本部分の考察だったのである。しかしマルクスはその考察を最後まで行うことなく、途中で切り上げて、第21章「蓄積と拡大再生産」に該当する部分の考察に移ってしまっているのである。だからエンゲルスは、そのいまだ端緒的な考察だけの未完成な部分を何とか生かすために、その内容を考えて上記のような表題(「資本と収入 可変資本と労賃」)を付けて、第9節「アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジへの回顧」という項目の後に持ってきたのが、現行の第10節なのである。つまりマルクスは第8稿の段階でも、結局は、第Ⅰ部門の不変資本部分の考察については最後まで追求することなく、未完成に終わっているともいえるのである。だからこそ単純再生産の表式でマルクスが問題にしているものを、ただ部門 I と部門IIとの補填関係だけに還元するのはあまりにも一面的に過ぎるといわざるをえないのである。

(2) 〈個別資本の再生産では、不変資本は、再生産過程で消費された分だけ、生産物に転移するものとして現象する。流動資本はそのまますべての価値が、固定資本は耐久期間によって規定された価値が移転する。例えば、期間が区切られた期間(例えば、一年)の十倍なら、その期間(一年)には十分の一だけの価値が「移転」する、等々。これらはすべて、社会的生産が資本の再生産として行われるためにとる、一つの仮象であるにすぎない。〉

 ここでは林氏は〈不変資本は、再生産過程で消費された分だけ、生産物に転移するものとして現象する〉のは〈個別資本の再生産〉の場合だけであるかに述べているが、これは決して正しくない。すでにわれわれが見てきたように、社会的総資本の再生産においてもそれは同じだからである。またそれが〈社会的生産が資本の再生産として行われるためにとる、一つの仮象であるにすぎない〉というのも正しくない。それは決して単なる〈仮象〉と言ったものではないからである。「デジタル大辞泉」によれば、【仮象】 《(ドイツ)Schein》というのは、「実在的対象を反映しているように見えながら、対応すべき客観的実在性のない、単なる主観的な形象。仮の形。偽りの姿」との説明がある。つまり仮象というのは、単なる主観的な形象、偽りの姿ということであるが、不変資本の価値が生産物に移転するということは決してそういうものではないからである。そもそも商品の価値というのは、社会的な物質代謝を維持するために、その商品の使用価値を生産するために、与えられた生産力のもとで、社会の総労働のどれだけが配分されるべきかを示すものである。それが商品生産社会では、商品の価値として、その交換関係のなかで客観的に法則的に決まってくるものである。そして社会の総労働がそれぞれの使用価値の生産部門における生産力にもとづいて、どれだけを配分すべきかということは、社会形態が如何なる形態をとろうと必要なことであり、決して資本主義的生産だけの仮象の問題ではない。マルクスはクーゲルマンへの手紙で次のように述べている。

 〈どんな国民でも、一年はおろか、二、三週間でも労働を停止しようものなら、くたばってしまうことは、どんな子供でも知っています。どんな子供でも知っていると言えば、次のことにしてもそうです、すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ、ということです。社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則というのはなくすことができないものです。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特微としているような社会状態で、この労働,の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。
 価値法則がどのように貫徹されていくかを、逐一明らかにすることこそ、科学なのです。〉(全集第32巻454-5頁、下線はマルクス)

 だから生産手段の生産に支出された社会的労働の一部が新しい生産物に引き継がれ、その生産物を生産するに必要な労働時間の一部になるということは、決して商品生産や資本主義的生産に固有のものではない。それは将来の社会においても、社会は総労働を直接社会的に結びけて配分するためにはあらかじめ計算しなければならない問題なのである(もちろん、すべての労働が直接社会化されている将来の社会では、個々の生産物に対象化された労働が価値として移転するといった現象は生じない。しかし生産手段を生産する労働も含めてあらゆる労働が直接社会的に結びつけられて合目的的・意識的に支出されるということでは本質的には同じである。商品生産社会では、それが直接的・意識的なものではなく、対象化された労働、すなわち価値の移転として事後的・偶然的に客観的に貫くものとして現象しているのである)。それとも林氏は資本主義的生産以外では、生産物は生産手段なしに生産できるとでも思っているのであろうか。あるいは将来の社会では、生産物の生産に必要な労働時間というのは、その生産物を生産するために最後に直接支出された労働時間だけを計算すればよいと考えているのであろうか。
 労働過程の諸契機--労働、労働対象、労働手段--は如何なる社会形態にかかわりなく存在するものとして『資本論』では考察されている。そして労働過程の結果である生産物の立場から見た場合、労働が生産的労働として現われ、労働対象と労働手段とが生産手段として現われるのも、あらゆる社会に共通のことである。だから生産手段の生産に必要な労働時間が、その生産手段によって生産された生産物を生産するに必要な労働時間の一部分をなすということは、決して、商品生産や資本主義的生産に固有のものではない。それは将来の社会においても同じである。そして生産手段がその物質的特性によって、生産される生産物に物的に形態変化して生産物の中に移行するのか、それとも生産過程で物的形態を維持しながら、徐々に磨滅するだけなのかということも、やはり社会的関係には無関係の物質的な問題である。だから生産手段の生産のために支出された労働時間が、生産物の生産に必要な労働時間の一部分としてどれだけ計算に入れるべきかということは、その生産手段の生産過程における物質的な振る舞いによって規定されているということも、やはり社会形態に関わりなく問題になることなのである。生産手段の価値が生産物に移転するというのは、ただそうした生産物を生産するに必要な労働時間を社会が総労働のなかから意識的に配分するのではなく、そうした「自然の諸法則」を商品の価値として、それらの交換を通じて貫徹する法則として存在している商品生産に固有のものではあるが、しかしそれはそうした客観的な「自然の諸法則」の歴史的な貫徹形態としてそうであるに過ぎないのであって、決して、単なる仮象といったものではないのである。

(3) 〈マルクスの再生産表式は、抽象した形でみれば、ただ社会の総労働の三分の二が生産手段の生産のために配分され、支出され、他方、三分の一が生活手段の生産のために支出されたということを語っている。
 ここでは、社会が年々消費する生活手段のための労働の総量は、生産手段に支出されたものと、生活手段に支出されたものの合計として現われる。ここで、まず生産手段を生産するための生産手段が生産され、次いで生活手段を生産するための生産手段が生産され、最後に生活手段を生産することになる、といった“時系列の”順序はどうでもいいことである、というのは、社会がその期間(例えば、一年間等々)に必要な総労働と、その配分だけが問題だからである。それらは“同時並行的に”行われるのであり、また実際にも行われているのである。〉

 ここで林氏は〈総労働〉を問題にしているが、これをどれだけのものとして考えているのであろうか。すなわち、それは労働時間としては、3000の価値として対象化されているものでしかないということが果たして林氏には分かっているのであろうか。この〈総労働〉は具体的有用労働としては、9000の価値ある生産物を一年間で生み出したのであるが、しかし抽象的人間労働としては、同じ一年間にただ3000の価値を追加しただけであることが分かってこのように言っているのか、それが問題である。その答えは、後にわれわれは知ることになる。
 〈ここでは、社会が年々消費する生活手段のための労働の総量は、生産手段に支出されたものと、生活手段に支出されたものの合計として現われる〉と林氏はいう。果たしてその本当の内容を理解して言っているのか、それが問題である。われわれは具体的数値を入れて、検討してみよう。単純再生産の出発表式に表されている〈社会が年々消費する生活手段〉は3000の価値ある商品資本として存在している。それを前年度一年間で直接生産したのは、部門IIの労働者である。彼らは2000の価値を持つ生産手段(この生産手段は前々年度に部門 I の労働者によって生産されたものである)に、一年間に500という自身の労働力の価値に相当する価値を追加するだけではなく、さらに500の剰余価値を資本家のために追加してやり、こうして3000の価値ある消費手段を生み出したのである。だから部門IIの労働者が新しく追加した価値は1000である。消費手段の総価値3000のうち、残りの2000は生産手段から移転されたものである。出発表式の「第II部門(消費手段)2000c+500v+500m=3000」が示しているのはこうしたことである(いうまでもなく、cは不変資本、vは可変資本、mは剰余価値である)。
 ではもう一つの「第 I 部門(生産手段)4000c+1000v+1000m=6000」は何を表しているのか。これは前年度一年間で生産された生産手段は6000の価値ある商品資本として存在し、これから流通するために流通過程に押し出されていることを示している。そしてその価値構成を見ると、6000の生産手段の価値のうち4000は生産手段を生産するための生産手段(これは前々年度に部門 I の労働者が生産したものである)から移転されたものであり、1000vは部門 I で働いた労働者が自身の労働力の価値1000に相当するものを新たな価値として生産手段に追加し、さらに1000mの剰余価値をも追加したことを表している。だから林氏が〈社会が年々消費する生活手段のための労働の総量は、生産手段に支出されたものと、生活手段に支出されたものの合計として現われる〉と述べている本当の意味は、「社会が年々消費する生活手段のための労働の総量は、部門 I の労働者が前々年度に支出したものと、部門IIの労働者が前年度に支出したものの合計として存在している」ということである。もちろん、部門 I の労働者は彼らの消費分と部門 I の資本家の消費分と同じ価値をもつ生産手段を前年度に生み出しているが、しかしそれは直接には生産手段という物的形態を持っており、消費手段として存在しているのではない。彼らはその生産手段を今年度において部門IIで前年度に生産された消費手段と交換して、消費するわけである。再生産表式が示しているのはこのことである。

 〈ここで、まず生産手段を生産するための生産手段が生産され、次いで生活手段を生産するための生産手段が生産され、最後に生活手段を生産することになる、といった“時系列の”順序はどうでもいいことである、というのは、社会がその期間(例えば、一年間等々)に必要な総労働と、その配分だけが問題だからである。それらは“同時並行的に”行われるのであり、また実際にも行われているのである〉と述べているが、〈社会がその期間(例えば、一年間等々)に必要な総労働〉はどれだけかを林氏はご存じなのだろうか。この場合、社会の総労働は3000しかないのである(3000の価値として対象化される労働時間しかない)。林氏は〈その配分だけが問題だ〉というが決してそうではない。なぜなら、それらの総労働が支出されるためには、どれだけの生産手段を必要とするか、ということが問題にされなければならないからである。確かに〈それらは“同時並行的に”行われるのであり、また実際にも行われているのである〉が、それぞれが必要とする生産手段は決して同じではないし、どうでもよいことではないのである。それとも林氏は生産手段なしにそれらの労働は支出されるのだとでも考えているのであろうか。

(4) 〈しかし現実には、生産手段は(生活手段さえも)、その期間(一年)の始めに前提されている、というのは、そのことなくしては総再生産は始まることができないからである。だが、これは概念のどんな変更も要請するものではない、というのは、前年の総生産の最後に存在する生産手段等々は、今年の総生産と同じものだからである。
 そしてこの事情が、ブルジョア的生産様式のもとでは、生産手段を「資本」として、つまり「過去の労働」として登場させるのであり、労働者に敵対し、労働者を搾取する社会的存在に転化するのである。生産手段に“対象化”される労働は、「生きた労働」、つまり現実の労働者に敵対する「過去の労働」として現象する。〉

 〈しかし現実には〉と林氏は話を転じているが、ということはその前の話は「現実の話ではない」というのであろうか。再生産表式は商品資本の循環として社会の総資本の再生産を考察するためにマルクスによって提示されたものである。それは確かに一つの抽象ではあるが、しかし現実の社会的総資本の再生産の本質的な内容を表している。そして〈生産手段は(生活手段さえも)、その期間(一年)の始めに前提されている〉というのは、現実だけではなく、表式においてもそうなのである。というのは表式はこれから循環を開始する総商品資本を示しているが、そこには生産手段も消費手段もそれぞれそうした使用価値を持った商品資本として前提されているからである。これは決して〈現実〉の問題だけではなく、「表式」そのものにおいて前提されていることである。
 〈そしてこの事情が〉というのは、恐らく、その前のことを指しているのであろうが、しかし林氏が示している〈事情〉そのものは、何もそうしたことを説明していない。なぜなら、林氏はそれらがすべて商品「資本」として存在していることを指摘していないからである。それらが、つまり社会がその再生産を開始するための生産手段も消費手段も、すべてまさに商品「資本」として存在し、前提されている〈事情〉こそが、それらがすべて労働者にとって敵対的なものとして現われる理由なのである。だから再生産の出発点に、生産手段や消費手段が必要だ、前提されるという〈事情〉自体は--林氏がその前のパラグラフで言っているのはこうしたこと以上ではない--、決して、それらが〈資本〉としてなければならないことを意味しない。それは将来の社会における再生産を抽象的に考える場合も同じであろう。また生産手段を含むすべての生産物が「過去の労働」の産物であるということは、〈ブルジョア的生産様式〉とは何の関係もないことである。どんな社会形態にも関わりなく、生産物はすべて「過去の労働」の産物以外の何物でもない。そして「過去の労働」だから労働者に敵対するというのも馬鹿げた話である。ロビンソンクルーソが毎日食する食物は、彼の「過去の労働」の産物だが、決して彼に「敵対」するものではない。それらが〈労働者に敵対し、労働者を搾取する社会的存在に転化する〉のは、それらが資本として、商品資本として存在し、資本主義的生産様式の再生産でそれらを出発点として開始するしかないという〈事情〉が〈敵対〉関係をもたらすのである。

(5) 〈マルクスの再生産表式における総価値の九〇〇〇は、その期間(一年)に生産された総価値であって、一年間の抽象的人間労働を表わしているのであって、消費手段の生産に支出された三〇〇〇だけがそうであるのではない。
 もし、不変資本の価値が「移転された」価値であり、文字通り「過去の労働」であると理解するなら――資本には、仮にそのような形で現象するとしても――、三〇〇〇だけが社会的労働の結果である、つまりその期間(一年)に支出された総労働は三〇〇〇だけということになる。生産手段の生産のために支出された労働は、ただ具体的有用労働としてのみ評価され、抽象的人間労働としては存在しないのである、というのは、両方の契機で評価されるなら、生産手段を生産した労働は、具体的有用労働として「(過去の労働の成果である)価値を移転」し、同時に、抽象的人間労働として新しく価値を生産する、ということになるだろうからである。総生産の価値は九〇〇〇ではなく、一五〇〇〇(六〇〇〇×二+三〇〇〇)に膨れ上がることになる。
 もちろん、そんな不合理はないのだが、こんな不合理が結果するのは、ブルジョア的再生産の現象に幻惑されて、具体的有用労働に「価値を移転し、保持する」役割が、つまりそんな「使用価値」があるとドグマを作り上げた結果であるにすぎない。マルクスは「総資本の再生産」について語っているところでは、「有用的労働による価値移転」などといったことは一言も語っていないのだが、これは決して偶然のことではない。
 生産手段を生産する労働も、抽象的人間労働としてはただ抽象的人間労働として「価値」を生産する(「価値」として対象化される)だけであって、それが具体的有用労働として、ただ使用価値(様々な種類の生産手段)を生産するにすぎないのと同様である。〉

 林氏は1135号に発表した論文を〈理論的に混乱している〉として撤回したのであるが、しかし、その混乱は克服されていないことが分かる。というのはここでは1135号の混乱が繰り返されているからである。最初から見て行こう。
 〈マルクスの再生産表式における総価値の九〇〇〇は、その期間(一年)に生産された総価値であって、一年間の抽象的人間労働を表わしているのであって、消費手段の生産に支出された三〇〇〇だけがそうであるのではない〉というのは、マルクスのどういう主張にもとづいて林氏は言っているのであろうか。是非、そのマルクスの文言を紹介していただきたい。
 単純再生産の表式で表されている総商品資本9000のうちの可変資本部分1500は、その商品資本を生産するために資本家は労働力の購入に1500の資本を前貸したことを表している。つまりそれは1500の価値ある労働力の購入に支出されたのである。だから資本家が一年間に自由にできるのは、1500の価値ある労働力でしかない。では林氏にお聞きするが、1500の価値ある労働力は、一年間にどれだけの労働を流動化しうるのか。彼らは果たして9000の抽象的人間労働を対象化できるであろうか。決して否である。マルクスの想定では剰余価値率は100%である。だから彼らは1500の自分たちの労働力の価値に相当する労働を対象化するとともに、さらに1500の剰余価値に相当する労働を対象化するだけである。合わせて3000しかない。それが一年間に支出された抽象的人間労働のすべてである。
 〈もし、不変資本の価値が「移転された」価値であり、文字通り「過去の労働」であると理解するなら――資本には、仮にそのような形で現象するとしても――、三〇〇〇だけが社会的労働の結果である、つまりその期間(一年)に支出された総労働は三〇〇〇だけということになる〉。この限りでは珍しく林氏は正しいことを言っている。ただし少し厳密性に欠けるので、厳密に言いなおすと、次のようになる。「もし、総商品資本の9000の価値のうち、不変資本の価値部分6000が「移転された」価値であり、文字通り「過去の労働」、つまり前々年度の労働が対象化されたものであると理解するなら--それは単に資本にだけに現象するというようなものではない--、3000の可変資本部分だけが、新たに追加されたものである。つまりその期間(一年間)に支出された総労働は3000の価値として対象化されたことになる」。まったく、その通りである。しかしそれに続く一文は、まさに1135号の「混乱」そのものである。
 〈生産手段の生産のために支出された労働は、ただ具体的有用労働としてのみ評価され、抽象的人間労働としては存在しないのである、というのは、両方の契機で評価されるなら、生産手段を生産した労働は、具体的有用労働として「(過去の労働の成果である)価値を移転」し、同時に、抽象的人間労働として新しく価値を生産する、ということになるだろうからである。総生産の価値は九〇〇〇ではなく、一五〇〇〇(六〇〇〇×二+三〇〇〇)に膨れ上がることになる〉。われわれはやはり林氏の頭の中を疑わざるを得ない。林氏にお聞きするが、一年間に〈生産手段の生産のために支出された労働〉は、どれだけでしょうか? 1000の価値をもつ労働力である。確かにその労働力は、具体的有用労働しては、6000の価値ある生産手段を生産した。しかし抽象的人間労働しては、2000の価値を追加したに過ぎない(可変資本部分と剰余価値部分)。その労働力は2000の価値として対象化する抽象的人間労働の具体的契機(具体的有用労働)で、4000の生産手段(生産手段の生産手段)の価値を生産物(生産手段)に移転したのである。だからこそ生産された生産手段は6000の価値を持っているのである。労働は両方の契機で評価されているが、生産手段の価値にはどんな膨張もない。それはただ混乱した林氏の頭の“膨張”の産物以外のなにものでもない。
 〈こんな不合理が結果するのは、ブルジョア的再生産の現象に幻惑されて、具体的有用労働に「価値を移転し、保持する」役割が、つまりそんな「使用価値」があるとドグマを作り上げた結果であるにすぎない〉。失礼ながら、そんな〈不合理〉は混乱した林氏の頭の中にしかないのである。それをわれわれはすでに上記で論証した。〈マルクスは「総資本の再生産」について語っているところでは、「有用的労働による価値移転」などといったことは一言も語っていない〉どころか、スミスの批判で言っているし、そんなことはすでに不変資本と可変資本の概念を与えたところで論じたので、あえて再び論じる必要がないからである。マルクスは「有用的労働による価値移転」を前提して、年間生産物価値と年間価値生産物とを区別して論じていることは、明らかである。これは以前、1135号の林氏の論文を批判したときに紹介したものだが、もう一度、紹介しておこう。これを読んでもまだ同じようなことを林氏が主張されるなら、もうつける薬はないといわざるを得ない。

 〈労働過程の立場から見れば、生産物IIは、新たに機能している生きている労働と、この労働が実現されるための対象的諸条件としてこの労働に与えられ前提された生産手段との結果であるが、それと全く同様に、価値増殖過程の立場から見れば、生産物価値II=3000は、社会的労働日のうち新たにつけ加えられた三分の一によって生産された新価値(500v+500m=1000)と、ここで考察されている生産過程IIの前にすんでしまった過去の社会的労働日の三分の二が対象化されている不変価値とから成っている。生産物IIのこの価値部分は、この生産物そのものの一部分で表わされる。それは、社会的労働日の三分の二に相当する2000という価値をもつ消費手段量のうちに存在する。この消費手段こそは、この価値部分が再現する新たな使用形態なのである。だから、消費手段の一部分=2000IIcと生産手段 I = I (1000v+1000m)との交換は、事実上、この年の労働の一部分ではなくこの年以前にすんでいる総労働日の三分の二と、この年に新たにつけ加えられたこの年の労働日の三分の二との交換である。この年の社会的労働日の三分の二は、もし、それが、一年間に消費される消費手段の価値のうちこの年にではなくこの年以前に支出されて実現された労働日の三分の二を含んでいる部分と交換されることができないとすれば、不変資本の生産に使用されながら同時にそれ自身の生産者にとって可変資本価値・プラス・剰余価値を形成することはできないであろう。それは、この年の三分の二労働日とこの年以前に支出された三分の二労働日との交換であり、この年の労働時間と前の年の労働時間との交換である。だから、このことは次のような謎をわれわれに解いてくれるのである。すなわち、社会的労働日全体の三分の二は、可変資本または剰余価値がそれに実現されることのできる諸対象の生産には支出されないで、その一年間に消費された資本を補填するための生産手段の生産に支出されているにもかかわらず、なぜ、社会的労働日全体の価値生産物は可変資本価値・プラス・剰余価値に分解することができるのか、という謎がそれである。この謎は、 I の資本家と労働者が自分たちの生産した可変資本価値・プラス・剰余価値をそれに実現する生産物価値IIの三分の二(そしてそれは年間総生産物価値の九分の二をなしている)が、価値から見れば、この年以前にすんだ社会的労働日の三分の二の生産物だということから、簡単に説けるのである。
 社会的生産物 I とIIとの合計、つまり生産手段と消費手段との合計は、その使用価値から、具体的に、その現物形態によって見れば、この年の労働の生産物ではあるが、しかし、そうであるのは、ただこの労働そのものが有用的具体的労働と見られる限りでのことであって、この労働が労働力の支出、価値形成労働と見られる限りではそうではないのである。また、そうであるというのも、ただ、生産手段はそれにつけ加えられそれを取り扱う生きている労働によってのみ新たな生産物すなわちこの年の生産物に転化したのだ、という意味でのことに過ぎない。しかしまた、逆に、この年の労働も、それには依存しない生産手段なしには、労働手段や生産材料なしには、生産物に転化することはできなかったであろう。〉(第2巻第20章、全集24巻526-7頁、下線は引用者)

 この下線部分を注意して読んでいただきたい。マルクスがこのように述べているのは、「有用的具体的労働」によって生産手段の価値が移転されるということを述べているのである。だからこそ社会の総生産物は、有用労働の産物といえるのだが、価値形成労働としてはいえないのである(価値形成労働としては、社会の総生産物価値の3分の1の価値を形成するだけである)。

 〈生産手段を生産する労働も、抽象的人間労働としてはただ抽象的人間労働として「価値」を生産する(「価値」として対象化される)だけであって、それが具体的有用労働として、ただ使用価値(様々な種類の生産手段)を生産するにすぎないのと同様である〉。これはこの限りではまったく正しい。しかし林氏にお聞きするが、生産手段を生産する労働も、労働対象や労働手段なしには、生産できないことをご存じであろうか。もし生産手段を生産する労働(つまりわれわれの想定では1000の価値ある労働力である)が、その〈抽象的人間労働として「価値」を生産する(「価値」として対象化される)だけであ〉るとしよう。とするなら、それは労働力の価値相当分(1000)と剰余価値相当分(1000)の合計2000の価値として生産物に対象化されたわけである。しかし、われわれが部門 I の労働者の労働の成果として6000の価値ある生産物が生産されたことを知っている。では、残りの4000の生産物の価値はどこから来たのであろうか。林氏はこの問題に答えなければならない。これは林氏にとっては“永遠の謎”である。

(6) 〈しかし社会主義においては、第一部門(生産手段生産部門)、第二部門(消費手段生産部門)という区別は全くどうでもいい区別として現われるにすぎない。ここで問題になるのは、生産手段の種類であり、また生産されるべき消費手段の種類であり、その生産にどれだけの労働が必要か、ということであるにすぎない。〉

 林氏も社会主義でも生産手段と消費手段の区別があることだけはどうやら認めるらしい。しかし生産部門が二つの部門に区別されることはどうでもいいことらしい。果たしてそうか。
 社会主義では、直接に使用価値を目的に生産が行われる。しかし、どの使用価値の生産にはどれだけの労働が必要かは前もって計算されていないといけない。社会主義社会の生産は、その構成員の欲望に応じた消費手段を生産することを最終目的にしている(われわれは将来のための拡大再生産はとりあえずは考えないことにする)。しかし消費手段を生産するためには、そのための生産手段が必要であり、それも生産される必要があり、また生産手段の生産のためにもやはりまた生産手段が必要であり、それもやはり生産される必要がある。だから社会が自由にできる総労働を単に消費手段の生産分野だでけではなく、生産手段の生産分野にも配分しなければならない。これらのことは、別に社会主義や資本主義に関わりのない、あらゆる社会に共通の「自然の諸法則」(マルクス「クーゲルマンへの手紙」)である。林氏は〈ここで問題になるのは、生産手段の種類であり、また生産されるべき消費手段の種類であり、その生産にどれだけの労働が必要か、ということであるにすぎない〉というが、しかし、これも別に社会主義だけの問題ではなく、資本主義的生産でも(あるいはあらゆる社会に共通して)それは問題になっていることなのである。ただそれが資本主義的生産においては、意識的に行われずに、商品の価値の法則として事後的・結果的に貫徹するものとして行われているだけである。だからこそ、それらは総商品資本の価値とその構成部分として表示され、それらの補填関係として考察されているのである。だから再生産表式で考察されている内容は、その資本主義的形態を脱ぎ捨てれば、まさにこうしたあらゆる社会の物質的生産がもっている内的構成でもあるのである。

(7) 〈生産手段の生産と消費手段の生産の区別がどうでもいいものとして現われるのは、ブルジョア社会とは違って、生産が個別資本による商品の生産として、しかも剰余価値の取得を目的とした生産ではなく、労働者(社会の成員)の消費を、つまり生活の充足を目的とする生産として行われ、しかも直接に社会的な形態で行われるからであって、こうした社会では、第一部門の(V+M)〔可変資本つまり賃金+剰余価値〕やC(不変資本)とか、両者の社会的相互補填とかいったことは全く無意味なこととして現われるからである。
 これは例えば、第一部門の(V+M)が、(V+M)に分割しないで、つまり階級関係を捨象して、一つのものとして現われるとしても同じことである。そもそも個別資本の再生産と、社会的な総資本の再生産との「矛盾」といったことがすでに止揚されているのだから、社会的総生産の二分割といったこと自体が意味を失っているのである。問題は社会の必要な消費手段の生産に、どんな種類の労働がどれだけ分割されるかという単純な形で現われるのであって、ただそれだけである。〉


 この最初のパラグラフで林氏が言っていることは、社会主義は資本主義ではないという、まったく当り前のことを言っているに過ぎない。
 次のパラグラフで言っていることはいま一つ意味不明である。〈個別資本の再生産と、社会的な総資本の再生産との「矛盾」といったこと〉が言われているが、われわれは、これまでの林氏の論述を振り返っても、こうしたことが言われたことを知らないのである。全体としてこのパラグラフは意味不明としか言いようがないし、われわれの理解を超えている(なお次のこの項目の最後のパラグラフについては何もいうことはない)。

 (以上で、三つ目の項目〈◆3、価値移転論と「再生産表式」〉の批判的検討は終わる。次回は四つ目の項目〈◆4、「価値移転論」と社会主義〉以降を取り上げる。)

2015年12月26日 (土)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-7)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (前回(29-6)から「架空資本」の具体的な例を使った説明が始まり、第【10】パラグラフからは国債が例に上げられている。この国債を例にした説明は次の第【11】パラグラフまで続く。 【12】パラグラフからは「架空資本」の転倒した不可解な現象が取り上げられる。)

【11】

 〈しかしすべてこれらの場合に,国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本は,幻想的なものである,すなわち架空資本である。それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない,ということばかりではない。それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなのである。最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは,ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである。どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが。国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている。Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている。実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである。このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう。それにもかかわらず,すぐに見るように,この架空資本はそれ自身の運動をもっているのである。〉

 ここで初めてマルクスは「架空資本」という言葉を使っている。まずマルクスが〈すべてこれらの場合に〉と述べているのは、これまでの叙述から、当然、「国債」について述べていることは明らかである。そしてマルクスは、〈国家の支払を子《(利子)》として生んだものとみなされる資本〉と述べている。これはどういうことであろうか。つまり国家によって支払われる年々の「利子」は、本来は資本の生み出した利潤が分割されて企業利得と区別されたものとしての利子ではないが、しかしそれは「利子」と見なされ、それを生み出した「資本」と見なされるということであろう。つまり国債は、「利子--資本」の転倒によって「資本」と見なされたものだということである。だからそれらをマルクスは、〈幻想的なものである,すなわち架空資本である〉と述べているわけだ。ところが林氏は、次のように述べている。

 〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎないのであって、ここでは直接に、収入の資本還元の理論を論証しようとしているわけではないのである。〉(『海つばめ』No.1111)

 一体、林氏は何を読んでいるのであろうか! 確かに上記の説明には「資本還元」という言葉は出て来ない(これは【16】パラグラフで、つまり架空資本の運動を論じるところで初めて出てくる)。しかしマルクスが資本還元について述べていることは明らかではないだろうか。そもそもマルクスは最初から(【9】から)資本還元そのものについて述べてきたのである。本来は「利子」でないものでも「利子」と見なされるからこそ、利子率で資本還元されるのである。林氏は国債の購入者に毎年支払われるものが通常「利子」と言われているから、それは近代的な範疇としての「利子」だと思い込んでいるのである。林氏にはそれが転倒した観念であるという自覚すらないわけだ。しかしマルクスがここで言っているのは、国債の「利子」は本来の利子ではないが、しかしそうした利子とみなされるから、国債そのものもそれを生み出した「資本」と見なされ、「資本としての価値」を持つのだということなのである。だからそれは幻想的なものであり、架空資本だと述べているのである。これが資本還元でないというなら一体、何が資本還元なのであろうか。

 それに林氏は、〈この国家証券が代表する“資産”はすでに戦争などで消尽されてしまっていて、現実にはどんな痕跡も残っておらず、そういう意味で、いわば“純粋の”空資本であることが語られているにすぎない〉などとも言い張っている。しかし果たしてそうか。われわれはマルクスの文章を吟味して、検証してみよう。

 マルクスは国債が「架空資本」である理由を、林氏のように一つではなく、二つ上げている。(1)〈それは,国家に貸し付けられた金額がもはやまったく存在しない〉から、つまり林氏のいう理由である。しかしマルクスは〈ということばかりではない〉と続けている。すなわち(2)〈それはそもそも,けっして資本として支出される(投下される)べく予定されていたものではなかったのであり,しかもそれは,ただ資本として支出されることによってのみ,自己を維持する価値に転化されえたはずのものなの〉だからである。つまり国債が年々「利子」をもたらすということは、国債の購入に投じられた貨幣が自己を維持するだけでなく、年々増殖するもの(G-G')として、つまり「資本」(=利子生み資本)として存在しているものと見なされることになる。しかし、実際には国債として国家によって借り出された貨幣は、現実の資本として前貸され、利潤(つまり増殖された価値だ!)を生み出し、その一分肢として利子をもたらすわけでは決してない。そういう意味で国債の所持者に支払われる「利子」は、本来の意味での利子ではない。だからそういう資本でないものがここでは資本として見なされているのだ、だから、その資本は幻想的であり、架空資本なのだ、とマルクスは言っているのである。つまり「利子-資本」の転倒現象であることをマルクスはその理由として述べているのである。そしてマルクスのこれまでの叙述を知っているわれわれは、マルクスが、国債が架空資本である理由として述べている主要な論拠は前者(つまり林氏のいう理由)ではなく、むしろ後者に力点があることは明らかなのである。ところが、林氏はマルクスが一番力を入れて述べていることをあえて無視するのである。これがマルクスの文章に対する、悪しき意図によるねじ曲げた読み方でなくて何であろうか! こんな読み方をしていたのでは、林氏に不破を批判する資格があるはずが無い。

 次にマルクスが言っていることも同じことである。というより、むしろその前のこと、つまり(2)の理由をさらにマルクスは説明しているわけである(これを見てもマルクスが(2)の理由こそ本当に言いたいことであることが分かる)。まず〈最初の債権者Aにとって,年々の租税のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているのは〉というのは、それは本来は「資本の利子」ではないのに、彼にとっては彼が国債に投じた貨幣が自己を維持し増殖するわけだから、彼にとってはそれは資本を表し、それがもたらす年々の貨幣利得が利子を表すことになるわけである。それは〈ちょうど,高利貸にとって,浪費者の財産のなかから彼のものとなる部分が彼の資本の利子を表わしているようなものである〉。つまり高利貸しが貸し付ける貨幣も資本として前貸されて価値を生み出すわけではなく、ただ個人的消費(浪費)のために貸し出されるだけであるのに、しかし高利貸は、彼の貸し出す貨幣が、増殖して帰ってくることを期待して貸し出すのであり、だから彼にとってはそれは資本であるのと同じだと述べているのである。この場合も、高利貸しが手にする「利子」も本来の近代的範疇としての利子ではない、とマルクスは述べているのである。だからマルクスは〈どちらの場合にも,貸された貨幣額は資本として支出されたのではないのであるが〉と述べているのである。にも関わらず、それは「資本」と見なされる、というのは、それによって年々もたらされる貨幣利得が「利子」に見なされるからである、ということなのである。つまり(2)の理由をさらに説明しているわけである。

 さらにマルクスが説明していることも、やはり(2)の理由を掘り下げているのである。〈国家あての債務証書を売ることの可能性は,Aにとっては元金の還流または返済が可能であることを表わしている〉。つまり国債が転売できるということは、それを転売するAにとっては、自分が国債の購入に投じた貨幣を利子生み資本と見なすことであり、その転売は、だから利子生み資本の返済なのだ、ということである。そしてAから国債を購入する〈Bについて言えば,彼の私的な立場から見れば,彼の資本は利子生み資本として投下されている〉。つまりBは最初から彼の貨幣を利子生み資本として投下しているのだというわけである。なぜ、マルクスはここでAとBを区別して論じているのであろうか。それはAの場合は、年々もたらす貨幣利得は、国債が売り出される条件によって確定している利息だからである。だからそれはその時々の平均利子率とは関係なく、例えば確定利息が5パーセントなら、100万円の国債の場合は、5万円の貨幣利得をもたらすわけである。しかしBの場合はそうではない。Bの場合は、もしその時の平均利子率が1パーセントの場合、彼は国債を500万円で購入するのである。そして彼はその500万円の利子生み資本に対して、その利子として年々5万円の貨幣利得を得ることになるのである。だからBの場合は、明らかに彼の手にする利子は、平均利子率にもとづいた利子であるが、Aの場合は確定した利息なのである。

 しかしBの場合も客観的には、彼の投じた貨幣が、実際に利子生み資本として充用され利潤を生むわけではない。それが利子生み資本であるのは、はあくまでもBの〈私的な立場から見れば〉の話である。〈実際には,彼はただAにとって代わっただけであり,国家にたいするAの債権を買ったのである〉。つまり彼の投じた貨幣は、ただAに代わって国家から年々の貨幣利得を得る権利を買っただけであって、何も客観的な状況は変わっていないわけである。そして〈このような取引がそのさき何度繰り返されようとも,国債という資本は純粋に架空な資本なのであって,もしもこの債務証書が売れないものになれば,その瞬間からこの資本という外観はなくなってしまうであろう〉。つまり国債は架空資本であり続けるわけである。ところがこうした架空資本は、単に観念的に資本として見なされるだけではなく、それ自身の運動を持っているのだとマルクスは述べている。そしてその実際の運動を考察するのは、【16】パラグラフからである。

【12】

 〈(利子生み資本とともに,どの価値額も,収入として支出されないときには,資本として現われる,すなわち,その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して,元金principalとして現われるのである。)〉

 このパラグラフは、全体が丸カッコに括られており、マルクス自身も、これをどこか適当なところに挿入するつもりであった可能性が高い。だからエンゲルスはこのパラグラフを最初の【9】とくっつけて一つのパラグラフにしたのであろう。エンゲルスのこうした措置は、その限りでは内容に則したものと言える。ここで言われていることは、【9】で言われていることとそれほど違ったものではない。範疇としての利子生み資本が確立すると、どの価値額も、収入として個人的消費のために支出される(生活手段の購入に充てられる)以外には、資本として現れてくる、つまり自己維持し増殖する貨幣(G-G')として現れるというのである。そしてもともとの価値額はそれが生んだとされる利子に対する元金と見なされるわけである。これは、すでに見たように国債の購入に充てられた場合がそうであるし、例え産業資本家が彼自身の貨幣を生産的に投資したとしても、彼は彼自身の最初に投じた価値額を元金として計算し、機能資本家としての彼の企業利得(産業利潤)の取得とともに、彼の元金に対する利子をも要求する、つまり両者を区別して計算するわけである。

【13】

 〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるa)ように,国債という資本ではマイナスが資本として[522]現われるのであるが,労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる。この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される。たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,《1年間の》労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである。資本主義的な考え方の狂気の沙汰は,ここでその頂点に達する。というのは,資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである。17世紀《の後半》には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった〕が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである。b)ただ,ここでは,この《無思想な》考え方を不愉快に妨げる二つの事情が現われてくる。すなわち第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないということである。むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである。奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている。そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない。〉

 ここからは、先に(【10】で)マルクスが〈例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう〉と述べていた、〈労賃〉の考察が行われている。ただマルクスはその書き出しを〈ところで,利子生み資本一般がすべての狂った形態の母であって,たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われるように,国債という資本ではマイナスが資本として現われる〉と述べている。つまり労働能力が資本として考えられるのは、そうした狂った観念のもっとも極端な例だとマルクスは言いたいわけである。と同時に、国債や株式など、さまざま金融商品があたかもそれ自体が価値を持っているかに売買されることも、それ自体が狂った形態なのだとも言いたいわけである。しかし注意が必要なのは、この労賃の例そのものは、架空資本の例として論じられているわけではないということである。それは【10】で述べていたように、あくまでも〈純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉ものの一つの例として述べていると理解すべきなのである。
 ところで、この〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉という部分に大谷氏は注3)を付けて、次のように説明している。

 〈「たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる」というこの表現は,マルクスが現代のいわゆる「金融商品」の観念について言及したきわめて貴重な記述であるように思われる。貸付資本では,貸し手が借り手に,資本としての規定性をもつ貨幣を「商品」として売るのであって,その「価格」が利子であり,その取引の場が「貨幣市場」である。預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である。ところが,この同じ預金が,銀行にとっての「商品」として現われるのである。いま,ありとあらゆる「儲け口」,「利殖の機会」が商品として観念され,そのようなものとして売買されている。これが「金融商品」である。いわゆる「デリバティブ」の商品性も,理論的にはこの延長上に理解されるべきであろう。「資本主義的な考え方の狂気の沙汰」は,まさにここにきわまることになる。〉

 こうした大谷氏の評価にはそれほど違和感も異論もないのであるが、ただマルクスが〈債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉と言っているのは、ここに原注a)が付けられていることを見ても(これについては次の【14】で問題にするが)、やはり預金や銀行券なども銀行から見れば債務であるが、それは銀行にとっては再生産的資本家に売り出される(貸し出される)「商品」だということと考える方が妥当のように思える。もちろん、銀行が証券会社を兼ねているなら、彼らはいわゆる「金融商品」も扱うのであり、国債や社債、あるいはサブプライムローンなどもすべてそれらは直接には債務証書であり、それを証券化して販売するわけである。つまり債務を商品として売り出すわけだ。
 また、ここで大谷氏は〈預金について言えば,預金者がこの商品の売り手であり,銀行がそれの買い手である〉と述べているが、果たしてそうした観念は一般的であろうか。預金者が彼の貨幣を銀行に預金するとき、彼は貨幣を「商品」として銀行に「売る」という観念を持つだろうか。確かに彼も利子率の高い銀行を選んで預金し、銀行も預金の獲得にしのぎを削るのであり、その限りでは、そこにも貨幣市場あると言えないこともない。しかし一般には、預金者が預金する場合には、そこにそうした貨幣市場を意識するかというとそれは希薄ではないだろうか。これはあまり本質的な疑問ではないが、指摘しておきたい。
 ところでマルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察されることがありうる〉と述べている。なぜ、「国債」なのかというと、それはコンソル公債をマルクスは前提して述べているからであろう。つまりそれは年金のように永久に貨幣利得をもたらすものなのである。だから労働能力もそうしたものと同じだというわけである。そして〈この場合には,労賃は利子だと解され,だからまた,労働能力はこの利子を生む資本だと解される(「利子-資本」の転倒だ--引用者)たとえば,労賃イコール50ポンド・スターリングで,利子率イコール5%であるときには,《1年間の》労働能力イコール1000ポンド・スターリングの資本にイコールである〉と。
 そのあと、マルクスが述べていることも、あくまでも観念や《思想》の問題としてである。それが〈狂気の沙汰〉であるのは、〈資本の価値増殖を労働能力の搾取から説明するのではなく,逆に労働能力の生産性を,労働能力自身がこの神秘的な物,つまり利子生み資本なのだ,ということから説明するのだからである〉。しかしマルクスは労働能力が利子生み資本だというのはただ観念の問題に止まり、実際にはそれは架空資本としては現れない理由を次のように述べている。〈第1に,労働者はこの「利子」を手に入れるためには労働しなければならないということであり,第2に,労働者は自分の労働能力の資本価値を「譲渡〔Transfer〕」によって換金することができないという〉事情である。特に第2の理由は、架空資本にならない根拠として決定的であることは、これまでのマルクスの説明から見ても明らかであろう。そして現実の関係は、次のようなことだと指摘している。
すなわち〈むしろ,彼の労働能力の年価値はイコール彼の年間平均労賃なのであり,また,彼が労働能力の買い手に《自分の労働によって》補填してやらなければならないものは,イコール,この価値そのものプラスそれの増殖分である剰余価値,なのである〉と。
 そしてマルクスはついでに奴隷諸関係についても言及し、次のように述べている。〈奴隷諸関係では,労働者はある資本価値を,すなわち彼の購買価格をもっている〉。もちろん、この場合〈購買価格を持っている〉というのは、奴隷自身に値札が付けられているということであって、奴隷が自分自身を商品として売り出すために、奴隷としての自分自身の所有者であるわけではない。奴隷所有者が別にいて、彼が奴隷を売るために、奴隷に値札を付けるのである。その結果、奴隷は〈購買価格を持っている〉だけである。〈そして,彼が賃貸される場合には,買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補墳しなければならない〉。もちろん、買い手(借り手)が補填するのは奴隷自身に対してではなく、奴隷を貸し出した奴隷所有者に対してである。
 ところでこの部分にも大谷氏は注24)、25)と二つの注をつけて、次のように述べている。

 〈24) 「買い手は,この資本の年間損耗分ないし摩滅分プラス利子を補填しなければならない」→「賃借り人は,第1にこの購買価格の利子を支払わなければならず,なおそのうえにこの資本の年間損耗分を補填しなければならない」
 25) 前注に記した,マルクスの原文とエンゲルスが手を入れた文章との違いに注目されたい。エンゲルス版では,まず「第1に」利子を支払い.「そのうえになお」資本の年間損耗分を補填しなければならない,というのであるから,この取引はまずもって資本の貸付ととらえられているわけである。しかし,草稿では,まず「この資本の年間損耗分ないし摩滅分」があり,それに利子が「プラス」されなければならない,となっている。この文は,いわゆる「賃貸借〔Vermietung〕」がまずもって売買であることを示唆している。エンゲルスの手入れは微妙に原文の意味を変えているのである。〉

 この問題に言及すると、大幅に横道に逸れることになる。だから簡単に論じておく。友人のT氏(彼は大谷氏が主宰する研究会に参加している)によれば、大谷氏にはこの問題について一定の拘りがあるそうである。そして大谷氏によると、マルクスが第21章で商品の貸し付け(つまり賃貸借である)まで利子生み資本の範疇に入れているのは、マルクスの勘違いであろうと考えているのだそうである。だからここでも大谷氏はエンゲルスのわずかの手直しにも拘っているわけである。ただ恐らく大谷氏の認識に欠けているのは、マルクス自身は「賃貸借一般」を問題にしているわけではないということである。マルクスは『経済学批判』のなかで貨幣の支払い手段としての機能を論じたところで、賃貸住宅を例に上げて論じているが、あの場合は確かに大谷氏のいうように家屋の使用という使用価値を持つ商品の売買であることは明らかなのである。そして家屋の場合には、その使用価値の譲渡の仕方が特殊であり、例えば一カ月かけてその使用価値は借り主に譲渡されるのであり、だからその使用価値が譲渡され尽くした一カ月後に、その商品の価格は支払われるわけである(だからこの場合、貨幣は支払い手段として機能する)。この場合、家主は店子に家屋を一カ月使用するという商品の価値を貸し付けるわけである。そしてその使用価値の譲渡が済み次第、その価値の支払いを受けるわけである。だからこの場合にも債権・債務関係が生じていることは確かである。しかし店子はその住宅を彼自身の生活のために、つまり個人的収入として消費するわけである。だからこの場合は、物質代謝の一環なのである。だからこそ、この場合の賃貸借は明らかに売買なのである。それは再生産資本家たちが相互に与え合う信用(商業信用)も、基本的には商品の売買であり、その流通の一環であることと同じである。しかしマルクスが第21章で利子生み資本の範疇として述べている商品の貸し付けはそうしたものではない。それはあくまでも物質代謝の外部からの価値の貸し付けなのである。そういう意味で、マルクスはそれを利子生み資本範疇に入れているわけである。だから、奴隷の賃貸業者が奴隷を貸し付ける相手も、その奴隷を使って商業的作物を作り儲けようとしている資本家であることを、マルクスはここでは前提して、このように述べていると考えることができる。だからこの場合、マルクスが「買い手」と述べているのは、利子生み資本が「商品」として「買われる」のと同じ様な意味で、すなわち一つの外観として(だから文字通りの商品の売買としてではなく)述べていることは明らかなのである。

【14】

 〈【原注】|336下|a)〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ。〉

 これは先のパラグラフの〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉というところに付けられた原注a)であるが、 ただこのように〈〔ヘンリ・ロイ〕「為替の理論」を見よ〉とあるだけである。『為替の理論』の頁数も何も書かれていない。これではどうしようもない。だからエンゲルスはこの注を削除したのであろう。しかしヘンリ・ロイの『為替の理論』(実際は『為替相場の理論』であるが)からの引用は、ちょうど、第28章でマルクスは行っていたのである(第28章該当部分の草稿の【47】パラグラフ)。恐らくそれをマルクス自身も考えていると思えるので、それをここでは紹介しておこう。

 〈「あるおりに,ある握り屋の老銀行家がその私室で,自分が向かっていた机のふたをあけて,1人の友人に幾束かの銀行券を示しながら,非常にうれしそうに言った。ここに60万ポンド・スターリングがあるが,これは金融を逼迫させるためにしまっておいたもので,今日の3時以後にはみな出してしまうのだ,と。この話は,…… 1839年の最低位のCirculation(流通高?--引用者)の月に実際にあったことなのである。」((へンリー・ロイ『為替相場の理論』,ロンドン,1864年,81ページ。)〉(269-70頁)

 この28章での引用には、大谷氏の次のような注がついている。

 〈1) へンリー・ロイ『為替相場の理論』からのこの引用は,最後の文を除いて,第1部第3章第3節「支払手段」のなかで,「このような瞬間が「商業の友(amis du commerce)」 によって,どのように利用されるか」,という例として引用されている(MEW,Bd.23,152-153ページ,注10)。〉

 だから、マルクスが〈たとえば債務が銀行業者の観念では商品として現われる〉ということで、恐らく銀行券のことを考えて、このように述べているのではないかと思うわけである。すでに述べたように、銀行券や預金は銀行からすれば債務だからである。

【15】

 〈【原注】 b) たとえば,V.レーデン『比較文化統計』,ベルリン,1848年,を見よ。「労働者は資本価値をもっており,それは,彼の1年間の稼ぎの貨幣価値を利子収益とみなすことによって算出される。……平均的な日賃銀率を4%で資本還元すれば1人の男子農業労働者の平均価値は,オーストリア(ドイツ領)では1500ターレル,プロイセンでは1500 ターレル,イングランドでは3750ターレル,フランスでは2000ターレル,ロシア奥地では750ターレル,等々となる。」(434ページ。)〉

 この原注は【13】パラグラフの〈17世紀《の後半》には(たとえばペティの場合には)これがお気に入りの考え方〔だった)が,それが今日,一部は俗流経済学者たちによって,しかしとりわけドイツの統計学者たちによって,大まじめに用いられているのである〉に付けられたものである。【13】パラグラフの解読のところでは省略したが、ここでペティとあることについては、MEGAの注解があり、次のような説明がある。

 〈① 〔注解)「ぺティの場合」--マルクスがここで引きあいに出しているのは,ペティの労作『アイァランドの政治的解剖』に付された書『賢者には一言をもって足る』の8ページに見られる次の箇所であろう。--「わずか15百万〔ポンド・スターリング〕の収入しか生みださない王国の資材(Stock) が,250百万〔ポンド・スターリング〕の値があるところからすれば. 25(百万ポンド・スターリング〕を生みだす人民は. 416 2/3百万〔ポンド・スターリング〕の値がある。」 (大内兵衛・松川七郎訳『租税貢納論』.岩波文庫,1952年,175-176ページ。〕〉

 要するに、どちらも賃金(収入)を利子と考えて資本還元して労働力の資本価値を求めている例として引用されていることが分かる。この部分はこれ以上の説明は不要であろう。

 (以下、次回に続く)

2015年12月22日 (火)

林理論批判(29)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.7)

 今回は、記事の二つ目の項目「◆2、「有用的労働による価値移転」はいかなる意味で言われ得るか」の批判的検討の後半部分である。(なお以下、『資本論』からの引用で頁数のみを記しているものは、すべて全集版23aの頁数である。)

〈『海つばめ』「1138号(2011.1.9)【二~三面】“有用労働による価値移転論”批判――「スターリン主義経済学」一掃のために――それぞれの理論のそれぞれの課題を考えよ」〉の検討(5)

(9) 〈貨幣資本は商品資本に、そして生産資本に転換し、また商品資本に、そして貨幣資本へと循環するが、生産過程では、不変資本(生産手段)とともに、可変資本もまた再生産される、つまり剰余価値を伴った価値として再現する。
 そしてとりわけ、この可変資本について、いかにして「有用的労働による価値移転」といったことが言えるのであろうか、また何とか理屈をつけて言えるかもしれないが、そんなことを言うことに、どんな意義があるというのであろうか。何もないことは明らかであろう。〉

 こんな主張に接してわれわれは呆れざるを得ない。一体、林氏は第6章をどのように読んだのであろうか。マルクスは第6章で次のように書いている。

 〈労働過程の主体的要因、自己を発現している労働力の場合は、事情が違う。労働は、その合目的的な形態【つまり「具体的有用労働」のことだ--引用者】によって生産諸手段の価値を生産物に移転し維持するあいだに、その運動の各瞬間に、付加的価値すなわち新価値を形成する【つまり、「抽象的人間労働」の属性によって価値を形成する--引用者】。労働者が彼自身の労働力の価値との等価物を生産した点、たとえば六時間の労働によって三シリングの価値をつけ加えた点で、生産過程が中断すると仮定しよう。この価値は、生産物価値のうち、生産諸手段の価値に帰せられる構成部分を超える超過分を形成する。この価値は、この過程の内部で生じた唯一の本来の価値であり、生産物価値のうちこの過程そのものによって生産されている唯一の部分である【だからこの価値部分は決して「移転」したものではない--引用者】。たしかにこの価値は、資本家によって労働力の購買に際して前貸しされ、労働者自身によって生活諸手段に支出された貨幣を補填するものでしかない。支出された三シリングとの関係で見ると、三シリングの新価値は再生産としてのみ現われる。しかし、この価値は、現実的に再生産されているのであって、生産諸手段の価値のように単に外見的にのみ再生産されているのではない。ある価値の他の価値による補填は、この場合には新たな価値創造によって媒介されている【つまり生産手段の価値は「移転」されるのであって、決して「再生産」されるのではない。それは「外見的にのみ」再生産されているように見えているだけである。それに対して、可変資本部分は、決して「移転」されるのではなく、文字通り「再生産」されている。つまり新たな価値として創造されているのである。林氏にはこの区別が出来ていない。--引用者】。
 けれども、すでにのべたように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価物が再生産され、労働対象につけ加えられる点を超えて続行される。この等価物のために十分である六時間ではなく、この過程はたとえば一二時間続けられる。したがって、労働力の発現により、それ自身の価値が再生産されるだけでなく、ある超過価値が生産される。この剰余価値は、生産物価値のうち、消耗された生産物形成者--すなわち生産諸手段および労働力--の価値を超える超過分をなす。〉 (272-3頁)

 一体、誰が可変資本の価値の移転などを問題にしているというのか。労働力は、労働者によって資本家に販売され、その価値を労働者は労賃として受け取り、彼らによって個人的な消費物資に支出されて、それらが消費されることによって、無くなってしまう。資本家が持っている現物形態に転換した可変資本(生産資本の一契機としての労働力)は、価値を創造し、増殖するその独特の使用価値を持っているのであって、決してそれがその以前に自身が持っていた価値を生産過程で移転するわけではない。労働力の価値はすでに労賃に変態し、労働者自身の所有にあるのであって、資本家が生産資本として持っているのは、彼がその前に貨幣形態で持っていた資本(可変資本)が現物形態に転換したものでしかない。彼はその現物形態を他の生産手段と結合して新たな価値生産物を生み出すのであるが、それは労働力が本来持っていた価値とは何の関係もない(もちろん、その労働力が複雑労働である場合は価値を創造する力が異なるということによって関連はするが)。価値を創造する力、よってまた剰余価値を生み出す力そのものは、労働力の使用価値であって、労働力の価値によるのではないのである。

(10) 〈しかし資本のもとでは、可変資本についてもまた「価値移転」が言えないこともない、というのは、可変資本(消費手段)もまた不変資本と同様に、労働力の価値に「転化」し、さらにそれは同量の価値の商品として再現するからである。〉

 これはようするに価値としては、それがどういう物的存在として存在するかということはどうでもよいという真実を語っているに過ぎない。マルクスも次のように述べていた。

 〈この場合には、同じ労働時間が、一方では糸という使用価値に、他方では綿花と紡錘という使用価値に現われている。つまり、糸と紡錘と綿花とのどれに現われるかは、価値にとってはどうでもよいのである。〉(246頁)

 これはわれわれが単純流通における商品の変態で知っている事実である。それは商品形態から貨幣形態、そしてまた商品形態へと次々とその形態を変えたのである。同じことは、確かに資本の価値、可変資本の価値にも不変資本の価値にもいえるというのは、確かにその通りである。資本家の所持する価値は、資本の循環過程において、さまざまな物的存在として現われる。林氏が言っているのこうした事実でしかない。すなわち可変資本部分も、最初は資本家の手のなかでは貨幣形態で存在し、彼がそれをその本来の目的のために投資すると、生産資本の一契機として労働力という現物形態を得る、そしてその使用価値(労働)が合目的的に消費されることによって生産物として結実し、商品資本の価値部分として再現する等々。

(11) 〈いずれにせよ、「有用的労働による価値移転」説が破綻していることは明らかではないのか。少なくとも、その“適用範囲”が限定されること、「価値移転」を有用的労働の「元来の作用」などと一般化することが「行き過ぎ」以外の、一面化以外の何ものではないことは自明に思われる。〉

 一体、〈「有用的労働による価値移転」説〉の何処が〈破綻していること〉が〈明らか〉なのであろうか。何一つ林氏はその破綻を論証していない。価値としてはさまざまな物的なものに現われるが、それがどういう物的存在にあるかということは、価値そのものにはどうでもよいことである、ということがどうして〈「有用的労働による価値移転」説〉の〈破綻〉になるのか皆目分からないのである。そしてまたここでは〈「価値移転」を有用的労働の「元来の作用」などと一般化する〉などといわれているが、何度も聞くが、それは一体、誰によって何処で主張されているのであろうか。

(12) 〈商品資本の循環においてもみられるように、最初の商品資本(最初のW’)の価値は、貨幣資本への転換においても、そしてまた生産資本の形態においても、さらに生産過程の結果としての商品資本(最後のW’)においても維持され、「移転」されているのであって、それは「具体的有用労働による価値移転」といったこととは、基本的に別の問題であって、むしろ「有用的労働」とは無関係な問題――概念的には別の問題――として理解されなくてはならないのである。
 むしろ生産過程で決定的に重要なこと、理論的に解決されなくてはならない課題は、なぜ資本――生産手段――の価値量が変化しないのに、生産過程の結果としての商品は、資本として生産過程に入った価値量を凌駕するのか、できるのか、つまりなぜに価値増殖が可能になるのか、という問題である。生産過程を論じながら、この本質問題を避けて通りながら、有用的労働の「価値移転」について語るのは恐ろしくピントはずれに思われる。そもそも労働力(労働力商品)の“使用価値”は労働であり、その抽象的人間労働の本性によって、労働力商品の価値以上の価値(超過労働、剰余労働)の源泉となり得るのである。そのことを論ずるべきときに、なぜ、「抽象的労働」について語らないで「有用的労働」について語るのか、搾取の本質を、そのメカニズムをあいまいにし、混乱させるためでないとするなら、どんな積極的な意義があるというのか。〉

 林氏はこの引用文の上のパラグラフでは〈商品資本の循環〉を問題にしている。だからそれは資本の流通過程の問題である。資本の流通過程では、単純な商品の流通でもそうであるが、価値はさまざまな形態を次々ととって行くのはありふれた事実である。
 ところで次のパラグラフでは〈生産過程で決定的に重要なこと〉が語られている。つまり今度は、資本の流通過程ではなく、資本の生産過程に問題が移っている。そして確かに資本の生産過程では、剰余価値の生産とその取得が重要であることは間違いがない。しかしこれらは考察の対象が異なるのではないか。林氏はあまりにも、第1巻と第2巻で対象にしているものが何であるのかということに無賃着である。〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているか〉に頓着せずに論じているのは一体どこの誰であろうか。

 〈生産過程を論じながら、この本質問題を避けて通りながら、有用的労働の「価値移転」について語るのは恐ろしくピントはずれに思われる〉などというが、それまで林氏は資本の循環を問題にしていたのではないのか。それにそもそも「有用労働による価値移転」が論じられている第6章は「資本の生産過程」の問題である。しがしそれは第5章第2節における剰余価値の源泉とその搾取のメカニズムが解明されたあとに問題にされているのであって、決して〈この本質問題を避けて通〉っているわけではない。一体、こうした非難を、林氏は誰に対して向けているのであろうか。資本の生産過程の中で有用労働の価値移転を論じているマルクス自身に対してであろうか。もしそうではなく、スターリン主義経済学者だというなら、その具体的な紹介をすべきであろう。例えば大谷氏が彼の著書のなかで資本の搾取のカラクリを暴露せずに、あるは資本の根本的な概念を与えずに、ただ有用労働による価値移転論だけを論じているのであろうか。そんなことは単なる誹謗中傷の類ではないのだろうか。

 〈そもそも労働力(労働力商品)の“使用価値”は労働であり、その抽象的人間労働の本性によって、労働力商品の価値以上の価値(超過労働、剰余労働)の源泉となり得るのである。そのことを論ずるべきときに、なぜ、「抽象的労働」について語らないで「有用的労働」について語るのか〉というが、これは一体、誰に向けて言われているのであろうか。マルクス自身に対してであろうか。
 まず〈労働力(労働力商品)の“使用価値”は労働であり、その抽象的人間労働の本性によって、労働力商品の価値以上の価値(超過労働、剰余労働)の源泉となり得る〉というのは正しいであろうか。つまり労働力がその価値以上の価値を生産手段に付け加えうるというのは、〈その抽象的人間労働の本性〉から言いうることなのであろうか。マルクス自身はそれは労働力の独特の使用価値なのだと説明している。確かに労働力の価値以上の価値を労働力の「使用」から引き出そうとするのは、「資本(家)の本性」とは言いうるが、それが〈その抽象的人間労働の本性〉から言いうるというのは聞いたことがない。これは如何なる意味でそう言いうるのであろうか。具体的有用労働では労働者は疲労を覚えてある段階で限界を感じるが、抽象的人間労働の契機ではそうした限界を覚えずに、ついつい自身の労働力の価値以上の価値をその〈本性によって〉生み出してしまうとでもいうのであろうか。しかし労働者は決して、単に抽象的人間労働としてのみ労働するのではない。それは具体的有用労働の抽象的な契機として支出されるのである。だから抽象的人間労働の本性から、労働者は常にその労働力の価値以上の価値を生産手段に付け加えるために労働するなどということはいえないであろう。
 しかしまあそれは置いておこう。マルクスが〈労働力商品はその価値以上の価値……の源泉〉となりうると述べているのは、何度もいうが第5章の第2節である。そして有用労働の価値移転について述べているのは、第6章なのである。だから、〈そのことを論ずるべき〉第5章第2節では、マルクスはこうした問題(つまり「有用労働による価値移転」)を論じているわけではないのである。だから、やはりわれわれは林氏に聞かねばならない。それは一体、誰が言っているのか、と。そして〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているか〉に頓着せずに論じているのは一体どこの誰なのか、と。

(13) 〈資本の生産過程で重要なことは、「価値が移転される」ことではなく、むしろ「価値増殖が可能になる」、実際に「価値増殖」という奇妙な(価値の本性にもとるような)ことがいかにして生じるのか、ということである、ところがスターリン主義者たちは(もちろん、カウツキーも?)、ここで等量の価値が「移転される」といったことを見出し、大騒ぎを演じるのである、それが労働者の有用的労働の成果だなどとつまらない“事実”に夢中になるのである。我々は、「一体何のためか、何故なのか」と厳しく問わなくてはならないだろう。〉

 しかし失礼ながら、〈資本の生産過程〉で〈「価値が移転される」こと〉を論じているのは、〈大騒ぎを演じ〉ているかどうかはともかく、〈スターリン主義者たち〉や〈カウツキー〉などよりも、まずわれわれが確認しなければならないのは、それはマルクス自身だということである。マルクスは剰余価値が如何にして生産されるのかを価値増殖過程において明らかにしたあと、同時に、不変資本と可変資本の概念規定を与えているのであるが、そのために生産手段の価値の移転について述べているのである。どうやら林氏にはそれは〈つまらない“事実”に夢中にな〉っているようにみえるらしいが、しかし不変資本と可変資本の概念が、『資本論』全体にとって、だからそれまで林氏が論じてきた資本の循環や総資本の再生産においても、つまり第2部においても極めて重要な意義を持っていることは明らかなのであり、〈我々は、「一体何のためか、何故なのか」と厳しく問わなくてはならないだろう〉と疑問に思うのなら、もう一度、『資本論』全3巻を読み直すことをお勧めする。そうすればその重要な意義が分かるであろう。

(14) 〈確かに抽象的に論じるなら、再生産の開始のときのW’と循環の最後に現れるW’は価値のみならず、使用価値においても全く同様なものとして想定され得るかもしれない、しかしそれにもかかわらず、それらは最初に前提されたものとは本質的に別の使用価値である、というのは、総資本の循環過程において、古い生産手段はすべて生産的に消費されたのであって、新しい生産手段は労働者の生産的労働によって新しい使用価値として生産されたものであり、年々の労働の結果にすぎないからである。
 それと同様に、消費手段も年々消費されるのであって、年度の末に現れるW’の一部としての消費手段は、最初のW’とは全く別のものであるにすぎない。年々の生産手段と消費手段の全体は、年々の労働者の総労働の――つまり第一部門と第二部門の労働の、あるいは社会のすべての生産的労働の――結果としての生産手段と消費手段であって、それ以外ではあり得ないのである。そしてこの総労働こそが、年々、人々が生きていくために必要な労働の合計であって、単に消費手段を生産する労働者が直接に消費手段を生産するが故に、社会的消費手段をすべて生産している、といったことでは全くないのである。社会は社会が必要とする消費手段を獲得するために、年々生産手段を生産する労働をも必要とするのであって、生産手段は“自動的に”別の生産手段として生まれ変わり、「再生産」されるわけでは決してない。そんな風に考えるのは、有用的労働と抽象的労働をごちゃ混ぜにすることであり、それらの概念を危うくすることであるだけでない、「社会的総資本の再生産と流通」(マルクスの言葉でいうなら、総資本の「流通過程と再生産過程の実在的諸条件」)の理解さえ断念するに等しいだろう。
 かくして、社会的総生産を論じる場合においても(したがってまた、商品を議論する場合でも)、価値を生産する(価値という社会的実体として対象化される)抽象的人間労働と、使用価値を生産する有用的労働を区別することの決定的な重要性が確認されるのである、というより、もし社会的総資本の再生産において、この区別をあいまいにするなら、むしろその理解さえ怪しくなるとさえ言えるであろう。〉

  まず林氏は社会の総資本の再生産を、総商品資本の使用価値(素材)の側面からみている。確かに使用価値としては、その総生産物は、その年間に支出された有用労働によってすべて新しく生産されたものである。これは生産手段・消費手段を問わず、年間の総生産物について言いうることである。これはこのかぎりでは正しい。
 しかし林氏はそれを〈総労働〉と述べている。しかし生産物の使用価値を生産するのは、総労働のうちの有用労働なのである。つまり有用労働として捉えてそれは正しいのである。そして林氏はただ総生産物の使用価値だけを問題にするのである。つまり林氏は社会の総再生産をただ使用価値の観点からのみ問題にしているに過ぎないのである。そしてそうであれば、つまり価値を問題にしないなら、当然、その移転が問題にならないことは当り前のことである。しかし社会の総労働としての有用労働は、たた単に使用価値を生産するだけではなく、生産手段の価値を生産物に移転するのである。もし、林氏が社会的な再生産過程を価値の補填の観点からも問題にするなら、そうしたことが問題になるし、ならざるを得ないであろう。林氏は一方ではただ使用価値(素材)だけを問題に、その補填関係だけを問題にしているのであり、その意味では〈総資本の「流通過程と再生産過程の実在的諸条件」)の理解〉としては一面的であり、正しいものではないことを知らないのか、あるいは、知らないふりをしている。われわれはマルクスの単純再生産の表式を使って、社会の総商品資本の使用価値だけはなく、価値による補填関係も確認しておこう。

  第 I 部門(生産手段) 4000+1000+1000=6000
                                                     総計9000
  第II部門(消費手段)  2000+ 500+ 500=3000

 さて、社会の総生産物は前年度全体を通じて支出された有用労働の産物である。その価値は9000である。しかし前年度の有用労働を通じて支出された抽象的人間労働は、決して9000ではない。つまり前年度全体を通じて新しく創造された価値は3000に過ぎないからである(1500の価値をもつ労働力は、1500の労働力の価値を再生産しただけではなく、1500の剰余価値も付け加えたのである)。これが年間の価値生産物なのである。だから社会の総不変資本部分の価値6000は既存の価値であり、前年の生産において、1500の価値ある労働力の有用的属性によって生産物の価値として移転されたものに過ぎないのである。社会の総商品資本を価値と素材とにおける補填関係として考えるなら、こうした価値の側面における考察も不可欠であり、だから移転される旧価値(6000)と新しく付け加えられた新価値(3000)との区別は極めて重要なのである。林氏にはこうした〈総資本の「流通過程と再生産過程の実在的諸条件」の理解〉がないことだけは明らかである。
 そもそも〈生産手段は“自動的に”別の生産手段として生まれ変わり、「再生産」される〉などと一体誰が主張しているのであろうか。ここでも林氏は自分が勝手に作り上げた相手と闘っているわけである。
 林氏が〈かくして、社会的総生産を論じる場合においても(したがってまた、商品を議論する場合でも)、価値を生産する(価値という社会的実体として対象化される)抽象的人間労働と、使用価値を生産する有用的労働を区別することの決定的な重要性が確認されるのである、というより、もし社会的総資本の再生産において、この区別をあいまいにするなら、むしろその理解さえ怪しくなるとさえ言えるであろう〉という場合、先にわれわれが考察した社会的な総資本の価値と素材における補填関係としてそれが重要であるとい意味ではないことは明瞭である。社会的総資本の再生産において、抽象的人間労働と具体的有用労働との区別ができずに、それらの再生産における役割について理解せず、スミスと同じ誤りに陥っているのは林氏本人だからである。

(15) 〈資本の循環もしくは再生産においても、決定的に重要な問題は有用的労働と抽象的労働の概念的区別であって、抽象的人間労働は「価値として対象化」され、他方有用的労働は生産手段の「価値を移転する」、これが「元来の労働の二重の作用である」(カウツキー)といった形で、両者ともドグマ的に「価値」に関係させられるなら(カウツキーのように、スターリン主義者のように)、それは結局は何らかの有害な結論に到達するし、せざるをえないであろう。〉

 〈資本の循環もしくは再生産において〉〈有用的労働と抽象的労働の概念的区別〉の〈決定的に重要な問題〉をまったく理解していないのは、先に見たように、ほかでもない林氏本人なのである。すでに確認したように、〈資本の循環もしくは再生産においても〉〈抽象的人間労働は「価値として対象化」され、他方有用的労働は生産手段の「価値を移転する」〉ということは〈決定的に重要〉なのである。何度もいうが、それはカウツキーなどが言っている以前に、マルクスによって言われていることだからである。もう一度、念のためにマルクス自身の言葉をわれわれは確認しておこう。

 〈ところで、アダム・スミスの第一の誤りは、彼が年間生産物価値を年間価値生産物と同一視している点にある。価値生産物の方は、ただその年の労働の生産物だけである。生産物価値の方は、そのほかに、年間生産物の生産に消費されたとはいえそれ以前の年および一部分はもっと以前の諸年に生産された【これは固定資本を考慮した場合である--引用者】全ての価値要素を含んでいる。すなわち、その価値がただ再現するだけの生産手段----その価値から見ればその年に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたのでもない生産手段----の価値を含んでいる。この混同によって、スミスは年間生産物の不変資本部分を追い出してしまうのである。この混同そのものは、彼の基本的見解の中にあるもう一つの誤りに基づいている。すなわち、彼は、労働そのものの二重の性格、すなわち、労働力の支出として価値をつくる限りでの労働と、具体的な有用労働として使用対象(使用価値)をつくる限りでの労働という二重の性格を、区別していないのである。一年間に生産される商品の総額、つまり、年間総生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物である。ただ、社会的に充用される労働が色々な有用労働の多くの枝に分かれた体系の中で支出されたということによってのみ、全てこれらの商品は存在するのであり、ただこのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらの商品の生産に消費された生産手段の価値が新たな現物形態で再現して保存されているのである。だから、年間生産物の総体は、その一年間に支出された有用労働の結果である。しかし、年間の生産物価値の方は、ただその一部分だけがその一年間に作り出されたものである。この部分こそは、その一年間だけに流動させられた労働の総量を表わす年間価値生産物なのである。〉(463-4頁)

  だから林氏が〈資本の循環もしくは再生産において〉〈有用的労働と抽象的労働の概念的区別〉が〈決定的に重要〉だというのは、まったくの眉唾物である。その〈決定的に重要〉な意義がもし分かっているなら、〈「有用労働による価値移転」問題〉が、単に資本による労働の搾取の問題に限定された「理屈」などではなく、〈資本の循環もしくは再生産において〉も〈決定的に重要〉な意義を持っていることを理解している筈だからである。

(16) 〈有用的労働は「価値」とは別の契機の概念であって――というのは、それは商品の使用価値に関係する概念だから――、それを、商品価値の「実体」として対象化される抽象的労働と関係させたり、混同することこそ一切の俗流主義的、ブルジョア的“経済学”の根底であり、出発点である、ということほどにマルクスが強調したことはないのである。〉

 しかしわれわれは本当は有用労働を〈商品価値の「実体」として対象化される抽象的労働と関係させたり、混同〉したのは林氏自身であり、だから彼はマルクスの有用労働の価値移転論を批判する必要があると考えたことを知っている。ただ林氏はマルクスを正面切って批判することは憚られたから、それをスターリン主義経済学者やカウツキーが主張しているものだと自分の誤解をなすり付けて、それを批判するわけである。しかし、そのことによって、本当は林氏はマルクスの「有用労働の価値移転」論への無理解を暴露しているのであり、マルクス自身に自分の無理解の罪をなすりつけて批判していることになっているのである。

(以上で二つ目の項目の検討は終わる。次回から三つ目の項目〈◆3、価値移転論と「再生産表式」〉に移る。)

2015年12月17日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-6)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (前回(29-5)紹介した【9】パラグラフから、マルクスは「架空資本」の説明に移っていることを指摘したが、マルクスはさらに「架空資本」を、具体的な例を上げて説明していく。次の【10】パラグラフからは国債が例に上げられている。国債を架空資本と見るか否かは、セミナーにおいて林氏と私とが対立した点でもあり、よって当然、関連して林氏の主張を批判的に取り上げることとなった。)

【10】

 〈事柄は簡単である。平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる。しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原または[521]債権であろうと,あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと,この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける。例として,一方では国債,他方では労賃をとって見よう。国家は||336上|自分の債権者たちに,彼らから借りた資本にたいする年額の「利子」を支払わなければならない。{この場合,債権者は,自分の債務者に解約を通告することはできず,ただ自分の債務者にたいする債権を,自分の権原を,売ることができるだけである。} この資本は国家によって食い尽くされ,支出されている。それはもはや存在しない。国家の債権者がもっているものは第1に,たとえば100ポンド・スターリングの,国家あての債務証書である。第2に,この債務証書は債権者に国家の歳入すなわち租税の年額にたいする定額の,たとえば5%の請求権を与える。第3に,彼はこの100ポンド・スターリングの債務証書を,任意に他の人々に売ることができる。利子率が5%であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで《Bに》売ることができる。というのは,買い手《のB》にとっては,100ポンド・スターリングを《年》5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。〉

 マルクスが最初に述べている部分、すなわち〈平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる〉という部分は、通常の「資本-利子」の観念、つまり利子生み資本の範疇が確立した現実を述べている。そしてその後に述べていること、すなわち〈そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉は、そこから生じる転倒した観念(「利子-資本」)を説明しているわけである。だから〈しかしながらこのようなことは,25ポンド・スターリングの源泉がたんなる所有権原(株式など--引用者)または債権であろうと(つまり価値は貸し出されて第三者に譲渡されるが、その所有権は保持しているような場合であり、すべてのローンに妥当する--同)あるいはたとえば土地のような現実の生産要素であろうと(これは25ポンドが地代の場合である--引用者)この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている,という前提のもとで以外では,純粋に幻想的な観念であり,またそういうものであり続ける〉という説明になっているわけである。ここで〈この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている〉というのは、例えば国債や株式などはそのまま〈《直接に》譲渡可能である〉が、土地のようなものは持っていくわけにはいかないから、「権利書」という形で〈「譲渡可能」であるような形態を与えられている〉わけである。

 ところで、大谷氏は注9)で次のように述べている。

 〈「という前提のもとで以外では(ausserunter der Voraussetzung,daβ)」→「という場合を除けば(auβerin dem Fall,daβ)」この部分は,「という前提のもとでも(auchunter der Voraussetuzung,daβ)」とで(も?)あるべきところではないかとも思われる。〉

 しかしこの部分はなかなかそう簡単には、大谷氏のようには言えないのではないかと私は思っている。マルクスが書いている文章と、大谷氏の修正とでは意味が180度違ってくる。マルクスの文章を素直に読めば、〈この源泉が《直接に》譲渡可能である,あるいは「譲渡可能」であるような形態を与えられている、という前提のもとで以外では、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉というものである。つまり直接に譲渡可能でないか、譲渡可能な形態を与えられていない場合には、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉と読めるわけである。ところが、大谷氏の修正だと、直接的に譲渡可能であるか、譲渡可能な形態を与えられている場合でも、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉ということになる。
 どうして、直ちに大谷説に賛成できないかというと、このあとマルクスは〈労働能力が国債というこの資本に対比して考察される〉場合を例として上げており、この場合は〈労働者はこの自分の労働能力の資本価値を「譲渡」によって換金することができない〉と指摘しているからである。つまり譲渡可能〈という前提のもとで以外〉のケースが考察されているわけである。そしてこの場合は労働能力を資本と観念することは、確かに〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉と解釈できるわけである。つまり労働能力を資本と見なす観念は、ただ観念だけに止まり、実際にはそれは架空資本として運動するわけではないということである。だから上記の文章では、〈純粋に幻想的な観念であり、またそういうものであり続ける〉ということが重要なのではないかと思うわけである。つまりそれは純粋に観念の問題でしかなく、そうしたものに留まるのだ(だからそうしたものは自立した運動を持たないのだ)とマルクスは言いたいのではないかと思うのである。そしてそのように解釈するなら、エンゲルスの訂正は必ずしも間違っているとはいえないことになるわけである。ただこの部分の解釈の結論は私自身まだ出しているわけではないので保留しておく。

 そしてマルクスは続けて〈例として、一方では国債、他方では労賃をとってみよう〉と「国債」と「労賃」を例に上げて説明すると述べている(国債の説明はこのパラグラフから【12】パラグラフまで、「労賃」の説明は【13】【15】まで)。国債の場合は譲渡可能なものであり、それに対して労働能力はそうではないケースである。
 
 まずマルクスは、国債というものの直接的な表象をそのまま書いている。国債は国の借金(債務証書)であり、だから国家はその債権者たち(国債=債務証書の所有者たち)に借りた資本に対する年額の「利子」を支払わなければならない。しかしこの資本は国家によって食い尽くされ、支出されてもはや存在しない。にも関わらず、国債はそれ自体として価値があるかに現象し、その資本価値に応じた利子をもたらす、等々。
 われわれは例えば額面100万円の国債は100万円の価値があるのは当然だと思っている。しかし国債というのは、ただその紙切れに100万円と書いているだけで、それ自体が価値を持っているわけではないのは明らかである。ではそれは他に存在している100万円を代理し表すものなのかというと、やはりそれとも違うのである。というのは、国家に貸し出された100万円は、すでに国家によって支出されて存在していないからである。にも関わらず、額面に100万円と書かれた単なる債務証書にすぎない国債は、それ自体として100万円の価値があるかに現象しており、それをわれわれは当然のことと思っているわけである。だから林氏は、次のように書いている。

 〈例えば、(資本還元を--引用者)債券に適用しようとすると、100万円債券の利子1万円を、1%の利子率で資本還元して、債券の価格が100万円である、といった理屈になるが、空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう。〉(『海つばめ』No.1110)
 〈100万円の社債を支配的な利子率で資本還元する(それが、社債の「価値」だ?)、などと言って見ても無意味であり、矛盾である、というのは、社債の利子率もまた利子率であって、利子率を利子率で資本還元するなどといっても、何の意味もないからである。〉(同No.1111)

 ここで林氏は「債券」と「社債」を例に上げているのであるが、当然、「国債」も同じと林氏は考えているのである(むしろ「国債」の例を否定するために、「債券」や「社債」を例に上げて論じているわけだ)。そして確かにこれらは同じ類のものである。ただマルクス自身は「債券」というような用語は使っていないので、例によって『平凡社大百科事典』の「債券」の項目を見よう。

 〈公衆に対する起債によって生じた,多数の部分に分割された債務(債権)を表章する有価証券。投機証券である株券に対し,債券は確定利付の利殖証券である。狭義では,株式会社が社債について発行する社債券をいうが,広義では,発行主体の如何を問わず用いられ,国債,地方債,金庫債,公社債,公団債などを含む。〉(説明はまだ続くがこれぐらいでよいであろう)。

 このようにこの辞典の説明でも「債券」「社債」「国債」は同じようなものとして分類されている。だから、ここではとりあえず、「社債」を代表させて説明しよう。
 社債というのは、その実際の内容から見れば、企業の借金の借用証文である。つまり、この場合、公衆の持つ貨幣が利子生み資本として企業に貸し出されたわけである。だから当然、利潤が分割されて一定の利子が支払われる。ここまでは「資本--利子」の関係である。ところが次にそれが転倒して、「利子--資本」の関係になる。つまり社債は単なる借用証文ではない。というのは、それが証券として売り出されるのだからである(すでにこの時点で転倒が生じている。だから社債が「売り出される」場合の「売り」は外観であって、実際の内容は「借り」であり、社債の「購入」は「貸し」である)。つまり単なる定期的な利子支払いが、資本化されて、単なる借用証文が証券化されて、100万円の価値(資本価値)を持つものであるかに現象するのである。なぜなら、社債を持っている人は、それを100万円で第三者に譲渡する(売る)ことが出来るからである(この場合、社債を「売った」人は、彼の「貸し出した」利子生み資本の「返済」を受けることになる)。100万円で売れるということは、100万円の価値があるということであろう(だから社債を最初に企業から購入した人が、それを売らずに満期までただ持ち続けるだけなら、それは単なる借用証文に止まるわけだ)。
 これが林氏には〈空虚な同義反復でしかない〉ように見えるということは、林氏自身は、額面100万円の社債は100万円の価値があることが当たり前だと思っているからであろう。つまり利子生み資本という形態が生み出す幻想的な観念に取り込まれてしまって、転倒しているのに自分が転倒しているということすら分からなくなっているのである。
 しかしそもそも、ただ単に紙切れに100万円と書かれているだけなのに、それがどうして100万円の価値があるものとして通用し、販売されるのか、それは本当に奇妙なことではないのだろうか。もしそんなことがいつでもどんな場合でも通用するなら、誰でも紙切れに100万円と書いて、100万円の貨幣に変えるであろう。しかし、現実にはそんなことは不可能である。だから額面100万円の社債を持っている人が、それを100万円で売り(実際に販売される価格はその時点での証券市場の状況によって変化するのであるが、われわれはそれを今は無視しよう)、社債を手放す代わりに100万円の貨幣を入手できることは、決して当たり前のことではなく、〈空虚な同義反復でしかないことは一目瞭然であろう〉などとは言っておれない事態なのである。それは一体全体、どうしてそうなっているのか、なぜ、単なる紙切れが100万円の価値あるものとして売買されるのか、それを説明するのが、この第29章該当部分でマルクスがやっていることであり、それをマルクスは「架空資本」と名付けているのである。

 いずれにせよ、マルクスの説明を読んで行こう。マルクスは、国債は、それを持っている人にとっては、(1)それは国家あての債務証書(100ポンド・スターリング)である。つまり国家が100ポンド・スターリングを借りたことを証するものである。(2)この債務証書は、その所有者である債権者に、租税から年々一定額の貨幣(例えば100ポンド・スターリングの5%、5ポンド・スターリング)の請求権を与える。だからこの場合は「資本--利子」の関係自体が、一つの外観に転化している。国債の購入者は、国家に対して彼の貨幣を利子生み資本として貸し出したのであるが、しかしその貨幣商品は、その商品に固有の平均利潤を得るという使用価値として消費される(利用される)わけではない。ただ浪費されるだけで、だから利潤を生み出さない。にも関わらずやはり「利子」を生むような外観を得るわけで、その実際の内容は、租税から年々の支払いを受ける権利を表すだけなのである。(3)債権者はこの債務証書を他人に譲渡できる、つまり証券化である。ここで「利子--資本」の転倒が生じる。という条件について述べている。
 そして特に最後の譲渡可能ということについて、つまり「利子-資本」の転倒現象について、次のように述べている。

 〈利子率が5%であれば{そしてこれについて国家の保証が前提されていれば},Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで《Bに》売ることができる。というのは,買い手《のB》にとっては,100ポンド・スターリングを《年》5%で貸し出すのも,100ポンド・スターリングを支払うことによって国家から5ポンド・スターリングという額の年貢を確保するのも,同じことだからである。

 つまり明らかにマルクスは国債についても、その利子率で資本還元してその価値(資本価値)を求めていることは明らかであろう。つまりこの場合の100ポンド・スターリングという価値は、利子率で資本還元された価値なのである。ところが林氏は、次のように主張するわけである。

 〈しかしマルクスは、永久国債について仮に発言しているとしても、その場合でさえ、この国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開しているわけではない。100ポンドという国家証券として、国家収入の中から、100ポンドにつき5%(5ポンド)の請求権を与えるというにすぎない。〉(上掲、No.1111)

 一体、上記のマルクスの一文をどのように読めば、こうした解釈が出てくのか何とも不可解であるが、よく考えてみると、そのカラクリが分かる。すなわち、林氏が言っているのは、上記のマルクスの説明の(2)までである。つまり林氏は、意図的にマルクスが述べている(3)の説明を見ないふりをして無視しているのである。マルクスは(3)の説明として、わざわざ〈Aはこの債務証書を,その他の事情が変わらないとすれば,100ポンド・スターリングで《Bに》売ることができる〉と述べている。ということは、この債務証書=国債は、100ポンド・スターリングという資本価値を持つとマルクスは言っているのではないのか。どうしてそうなるのかをもマルクスは説明している。というのは、それを買うBにとって、国債を100ポンド・スターリングで買って、年々5ポンドの支払いを受けるのも、その代わりに同じ100ポンド・スターリングを企業に利子生み資本として貸し出して、年々5ポンドの支払いを受けるのも同じだからだ、というのである。つまり企業に利子生み資本を貸し出して利子を得る(つまり「資本--利子」)という関係(利子生み資本という形態)が生み出している転倒現象だとマルクスは言いわけである。
 おまけにマルクスはその前のところで〈事柄は簡単である。平均利子率を《年》5%としよう。すると,500ポンド・スターリングの資本は(貸し付けられれば,すなわち利子を生む資本に転化されれば)毎年25ポンド・スターリングをもたらすことになる。そこから,25ポンド・スターリングの年収入は,どれでも,500ポンド・スターリングの一資本の利子とみなされる〉と述べたことの具体的な例として国債を例に説明しているわけである。だからマルクスが国債の場合についても、当然、〈国債が5ポンドという「収入」が利子率(5%?)で資本還元されて100ポンドという「資本価値」を持つ、といった議論を展開している〉(林氏前掲記事)ことは当然ではないだろうか。林氏の主張は、同氏が何らかの悪しき意図にもとづいてマルクスの書いているものをねじ曲げて解釈しようとしているか、それとも善意に解釈すれば、ただ林氏自身が、利子生み資本が持つ形態に惑わされているだけとしか言いようがないものである。
 ところでマルクスは、国債の場合、年々租税から支払われるものを、「利子」とは言わずに、《年貢を確保する》という言い方をしているが、この場合は、それは産業資本が生み出した利潤が分割されて、「企業利得」と区別されたものとしての「利子」ではないとの考えがマルクスにあるからであろう。

 (以下、次回に続く。)

2015年12月15日 (火)

林理論批判(28)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.6)

 前回までは、記事の最初の項目「 ◆1、問題の前提」の検討を行ってきたのであるが、今回からは、二つ目の項目「◆2、「有用的労働による価値移転」はいかなる意味で言われ得るか」の検討に入ることになる。この項目の批判は二回に分けて紹介する。

〈『海つばめ』「1138号(2011.1.9)【二~三面】“有用労働による価値移転論”批判――「スターリン主義経済学」一掃のために――それぞれの理論のそれぞれの課題を考えよ」〉の検討(4)

◆2、「有用的労働による価値移転」はいかなる意味で言われ得るか(記事の項目の表題をそのまま紹介)

 この表題を見ると、林氏は〈「有用的労働による価値移転」〉はマルクスによって〈言われ〉ていることそのものは認めているかである。しかし何度も言うが、この論文全体の表題はズバリ〈“有用労働による価値移転論”批判〉なのである。このタイトルを見ると、林氏は〈「有用的労働による価値移転」〉そのものを批判しているように思えるのであるが、そこらあたりが何ともややこしくハッキリしないが、こうした主張の曖昧さ不徹底は、従来からの林氏の論文の一つの特徴になっており、今回もその例に漏れないのである。とりあえず、われわれは林氏のいうことをこれまでと同じように吟味して行こう。

(1) 〈マルクスがここで(『資本論』一巻五章、そして六章)問題にするのは、価値増殖がいかにしてなされるか、ということである。マルクスは資本家に雇用された(労働力を売った)賃金労働者が、労働対象として綿花を、労働手段として織機を用いて綿糸を生産する過程を取り上げて、労働の搾取の実際の過程を、そのメカニズムを説明するのだが、その中で、綿花と織機の価値は、この過程では変化することがなく(「保持」され、あるいは「移転される」から)、むしろ価値の変化は労働力の方から来るのである、ということである。〉

 まず第5章と第6章の課題について、〈価値増殖がいかにしてなされるか、ということである〉というのはいかにも大雑把である。確かに第3篇の表題は「絶対的剰余価値の生産」であり、第5章も第6章もその中にあるのだから、剰余価値の生産が問題になっているといえばいえるのであるが、しかし、われわれがすでに見たように、第5章の課題と第6章の課題は、必ずしも同じテーマとはいえないのである。そして林氏が〈マルクスは資本家に雇用された(労働力を売った)賃金労働者が、労働対象として綿花を、労働手段として織機を用いて綿糸を生産する過程を取り上げて、労働の搾取の実際の過程を、そのメカニズムを説明する〉というのは第5章の第2篇で明らかにされていることである(ついでに林氏は労働手段として〈織機〉を上げているが、マルクスが例に上げているのは「紡錘」である。この間違いはそのあとも若干続いている)。そして〈その中で、綿花と織機の価値は、この過程では変化することがなく(「保持」され、あるいは「移転される」から)、むしろ価値の変化は労働力の方から来るのである、ということである〉と述べているが、こうしたことはある意味では当然のことであり、前提されているのである。ただ〈労働過程のさまざまな諸要因〉が〈生産物価値の形成に〉どのように〈関与〉するのかを解明したなかで、マルクスは不変資本と可変資本を規定しているのであって、そのこと自体は、〈労働の搾取の実際の過程を、そのメカニズムを説明する〉ということとは直接には関連させてマルクスは述べているわけではないのである。

(2) 〈つまり綿花と織機の価値は、生産過程においても変わらないという、客観的な過程がまず問題なのであり、その上で、マルクスは価値の移行は古い生産手段(これはつまり、労働対象である綿花と、労働手段である織機の双方を一緒にした観念である)が新しい生産物に変化するのは使用価値の変化であり、したがってまた有用的労働にかかわることであって、抽象的人間労働とは無関係だということを強調しているのである。「有用的労働による価値移転」が問題なのではなく、反対に、貨幣が資本に転化するのは(価値増殖が可能になるのは)、有用的労働とは一切関係のないこと、むしろ抽象的労働の問題だということを言うのである。具体的有用労働はそれ自体、価値増殖に何の関係も持たないことを強調せんがためである。〉

 しかし実際のマルクスの第6章の論述を追ってわれわれが確認したのは、決して、ここで林氏が言っているようなものでは無かったのである。〈綿花と織機の価値は、生産過程においても変わらない〉などということは、むしろ全体の考察の最後の部分で言及されていることであり、それはまた第5章第2節の価値増殖過程のなかですでに十分前提されて論じられていたことなのである。例えば、次のようなマルクスの一文を紹介してみよう。

 〈綿花が形を変えており消費された紡錘量はまったくなくなっているという事情に惑わされてはならない。40ポンドの糸の価値=40ポンドの綿花の価値+まる1個の紡錘の価値 とすれば、すなわちこの等式の両辺を生産するために等しい労働時間が必要だとすれば、一般的価値法則にしたがって、たとえば一〇ポンドの糸は一〇ポンドの綿花と1/4個の紡錘との等価物である。この場合には、同じ労働時間が、一方では糸という使用価値に、他方では綿花と紡錘という使用価値に現われている。つまり、糸と紡錘と綿花とのどれに現われるかは、価値にとってはどうでもよいのである。紡錘と綿花とが静かに並んでいないで、紡績過程で結合され、この結合によってそれらの使用形態が変えられ、それらが糸に転化されるということは、それらの価値には少しも影響しないのであって、それは、これらの物が単純な交換によって糸という等価物と取り換えられたのと同じことである。
 綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸のうちに含まれている。それだけの摩滅または消費なしには綿花を紡ぐことができないという紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。
 こういうわけで、糸の価値、糸の生産に必要な労働時間が考察されるかぎりでは、綿花そのものや消費される紡錘量を生産するために、最後には綿花や紡錘で糸をつくるために、通らなければならないいろいろな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている、いくつもの労働過程が、同じ一つの労働過程の次々に現われる別々の段階とみなされることができるのである。〉(246頁--第5章第2節「価値増殖過程」から)

 ここでマルクスは〈40ポンドの糸の価値=40ポンドの綿花の価値+まる1個の紡錘の価値〉という等式を例にしているが、この等式の意味しているのは、綿花の価値や紡錘の価値はそのまま糸の価値に(その一部分に)なっているということなのである。だから林氏が言っているようなことは、すでに価値増殖過程において周知のこととして前提されていることが分かるであろう。第6章では、それが如何にしていえるのか、つまり生産手段の価値がどのようにして生産物の価値の形成の要因になっているのかを解明しているのであり、そうした上で生産手段の価値は具体的な有用労働によって不変のままに生産物に移転させられることを確認しているだけなのである。

 〈その上で、マルクスは価値の移行は古い生産手段(これはつまり、労働対象である綿花と、労働手段である織機の双方を一緒にした観念である)が新しい生産物に変化するのは使用価値の変化であり、したがってまた有用的労働にかかわることであって、抽象的人間労働とは無関係だということを強調しているのである〉といわれるが、もちろん、このこと自体は別に間違っていないが、しかし生産手段が労働過程で消費されて、新しい生産物になるのは〈有用的労働にかかわること〉なのは当然であるが、しかしマルクス自身はだからそれは〈抽象的人間労働とは無関係だということを強調している〉かというと必ずしもそうとはいえない。そもそも労働過程で問題になるのは具体的有用労働であることは最初から前提されているからである(第5章第1節「労働過程」で考察の対象になっているのはまさにそのような労働である)。しかしそれが、つまり林氏の言っていることを肯定したとしても、そのことがどうして〈「有用的労働による価値移転」が問題なのではなく〉となるのであろうか。少なくとも第6章ではそれが問題になっているからである。そして林氏が〈反対に、貨幣が資本に転化するのは(価値増殖が可能になるのは)、有用的労働とは一切関係のないこと、むしろ抽象的労働の問題だということを言うのである〉というようなことはむしろ第5章の第2節で論じられていることなのである。まさに林氏こそ〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解〉していないのではないのだろうか。
 〈具体的有用労働はそれ自体、価値増殖に何の関係も持たないことを強調せんがためである〉といわれるが、しかしマルクス自身は次のように述べている。

 〈生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。それは、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移る。しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行なわれる。労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働をつけ加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない。なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態でつけ加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからである。だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。〉(270頁)

 ここではマルクスは〈労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働をつけ加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない〉と述べている。だから新たな価値の創造は、具体的有用労働による生産手段の価値の移転と一体なのであり、一方だけを切り離して強調すればよいというようなものではないのである。

 以下は、特に問題を感じないところは、飛ばして、引っかかったところだけを引用して吟味していくことにしよう。

(3) 〈資本の価値増殖の秘密を解くカギが流通過程にないとするなら、それは生産過程(生産資本)にあるしかない、価値が商品の形態転化によって変わらないとするなら、価値の変化は生産過程で生じるしかない、というのがマルクスの説かんとするところである。
  しかし貨幣資本が商品資本に、したがってまた生産資本に転化したからといって、それ自体で、労働手段(紡錘)や労働対象(綿花)の価値が変わるわけではない。〉

 しかし林氏がこの項目の最初に〈マルクスがここで(『資本論』一巻五章、そして六章)問題にするのは、価値増殖がいかにしてなされるか、ということである〉と述べていたが、もしこの〈『資本論』一巻五章、そして六章〉の話として、こうしたことを述べているのであれば、林氏は、何度も言うが、〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解〉していないと言わざるを得ない(下線よる強調は引用者)。というのは〈貨幣資本〉や〈商品資本〉〈生産資本〉という〈言葉〉は、これらの章では何ら問題になっていないし、問題にすべきところではないからである。

(4) 〈したがって価値の移転は、有用的労働の働きという以前に――もちろん、そう言えるにしても――、資本の運動の問題であり、商品価値の本性――それは形態転化によっては価値量を変えない――の問題である。〉

 林氏が〈価値の移転〉を〈商品価値の本性……の問題〉だというのは正しい。マルクスも価値増殖過程におけるそうした移転を前提に、その移転がどのような過程を通して行われるのかを問題にしているのだからである。しかしそのことは、だからといってそれが〈有用的労働の働きという以前に〉〈資本の運動の問題〉だということにはならない。やはりそれは有用労働によって移転させられるのだからである。

(5) 〈ただ綿花と織機を利用するのは、そしてその合体によって新しい使用価値の綿糸を作るのは有用的労働でしかないからこそ、有用的労働による「価値移転」ということが言えるのである。これは有用的労働が「元来価値を移転する」本性をもっているから、有用的労働にそんな概念規定があるから、といったことでは全くないのであり、そんな風に解釈したり、主張したりすれば、すでにそれだけでも決定的な間違いに転化していくであろう〉

 しかし一体、誰が〈有用的労働が「元来価値を移転する」本性をもっている〉などと言っているのであろうか。具体的有用労働そのものはそれ自体としては直接には商品生産とは関係しない。マルクスも労働の二重性を論じているところで、次のように述べている。

 〈だから、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、あらゆる社会形態から独立した、人間の一存立条件であり、人間と自然との物質代謝を、したがって人間の生活を、媒介する永遠の自然必然性である。〉(58頁)

 だから価値も存在しないところに、例え有用労働といえども、その移転など問題にもならないのは当然ではないだろうか。生産手段の価値を生産物に移転するという有用労働の働きは、あくまでも、商品生産に固有の問題なのである。だからそれが〈有用労働〉の〈本性〉として存在しているとか、〈「元来価値を移転する」本性をもっている〉などと、一体、誰が主張しているというのであろうか。それはただ林氏が勝手に捏造して作り上げた空想的なスターリン主義経済学者でしかないのではないだろうか。もしそうではないというなら具体的な名前を上げて、その経済学者の書いたものから、それに該当する引用文を示すべきではないだろうか。

(6) 〈そしてまさに、生産手段の価値は商品資本、生産資本においても変わらないからこそ「不変資本」として現象するのであり(マルクスは、そう命名したのであり)、ただ労働力に支出された資本のみが価値量の変化に関係するのである、つまり「可変資本」として現れるのである(マルクスは、そう命名したのである)。〉

 この場合も先の場合と同じことがいえる。不変資本、可変資本の概念を与えている第6章では、「商品資本」や「生産資本」は問題にもなっていないのである。林氏はマルクスが「不変資本」について説明しているところ--〈マルクスは、そう命名した〉ところ--をもっとしっかり読み直すべきではないか。そこでマルクスは果たして〈生産手段の価値は商品資本、生産資本においても変わらないから〉などという説明をしているのか。すでにわれわれは詳細にマルクスの論述を辿って確認してきたのであるが、もう一度、その部分を紹介しておこう。マルクスはどのように説明しているのかしっかり検討してもらいたい。

 〈われわれは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。【ここでマルクスは「労働過程のいろいろな要因が演ずる役割」を見たと述べていることに注意。そしてそれが「資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけた」と述べている。つまりここでも「労働過程」と「価値増殖過程」とが明確に区別されて、分析されたことが指摘されている。--引用者】生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。
 要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。〉(273頁)

 ついでだから「可変資本」についても、〈マルクスは、そう命名した〉ところも紹介しておこう。

 〈これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化して行く。それゆえ、私はこれを可変資本部分またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本成分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである。〉(同上)

 ごらんのように、ここには〈商品資本〉や〈生産資本〉についての言及はまったくない(当たり前だ! これらは第2部「資本の流通過程」で問題になる〈言葉〉なのだから)。林氏はもっと自ら述べたご高説に忠実であるべきではないだろうか。

(7) 〈だから「有用的労働による価値移転論」は、それがあり得るとしても、『資本論』のこの個所(搾取――剰余価値の生産――のメカニズムを説明する)においてのみ意義を持つのであって、何か人間の生産的労働の一般的な理論であるかに、商品を生産する社会的労働の普遍性であるかに言いはやすのはナンセンスでしかないのである。〉

 しかし有用労働による価値の移転の問題は、資本の回転のところで考察される固定資本と流動資本との区別や、あるいは社会的総資本の再生産のところで問題になる、社会の総商品資本の価値と素材における補填関係を考察する場合にも重要な意味を持つのであって、決して、この第5章や第6章だけの問題ではないし、ましてやただ〈搾取――剰余価値の生産――のメカニズムを説明する〉だけの問題ではないのである。そればかりか、われわれが確認したように、マルクス自身は、〈搾取――剰余価値の生産――のメカニズムを説明〉しているのは、価値増殖過程の問題としてであり、そこでは有用労働による価値の移転そのものは問題になっていないのである。そして、ここでもその前にも指摘したことを再びいう必要がある。すなわち〈「有用的労働による価値移転論」〉を〈何か人間の生産的労働の一般的な理論であるかに〉に主張しているのは一体、誰であり、それは具体的にはどいう論文や著書によるのか、ということである。
 〈商品を生産する社会的労働の普遍性であるかに言いはやすのはナンセンスでしかないのである〉と林氏はおっしゃる。商品を生産する場合でも、それ自体が商品として生産された生産手段を一切必要としない商品の生産があると林氏は言いたいのであろうか。確かにマルクスはスミスを批判するなかで、瑪瑙の採集という特殊な労働を例として上げたりしている。しかし海岸に落ちている瑪瑙を採集する労働も、やはりその採集した瑪瑙を入れておく、袋や籠などの労働手段が必要なのであり、もしそれらに労働が支出されていれば、そしてその瑪瑙が商品として販売することを目的として採集されたのなら、袋や籠などの生産に支出された労働(価値)は採集された瑪瑙の価値の一部として移転され保持されるであろう。いずれにしても、〈商品を生産する社会的労働〉においては、その生産に必要な生産手段に支出された労働は、生産物の一部になるのであって、それは〈商品を生産する社会的労働の普遍性〉であり、商品生産に一般的なものなのである。例え生産された如何なる労働手段も一切必要ではなく、まさにただ自然にあるものだけを労働対象や労働手段とする商品生産が例えあったとしても(何なら林氏はその具体例をあげてみてはどうか)、それは商品生産としては極めて特殊な、特異なものでしかないであろう。特にわれわれは商品生産の資本主義的形態を問題にしているのであって、だからこそ、その場合には、有用労働による生産手段の価値の移転は、〈商品を生産する社会的労働の普遍性〉としてあるのであって、決して〈ナンセンス〉といったものではない。

(8) 〈例えば、資本の再生産(循環)においては(さしあたり、我々は「単純再生産」を前提として議論する)、その概念が問題になるかぎりでは、こうした理屈は意味を持たないであろう。〉

 しかしこれはとんでもない主張である。単純再生産においては、生産手段の価値が移転するからこそ、マルクスも指摘するように、年間の生産物価値と年間の価値生産物とは違ってくるのだからである。社会の総商品資本(総生産物)は確かにその一年間の有用労働の産物である。しかし社会の総商品資本の価値(総生産物の価値)は、決してその一年間に支出された抽象的人間労働の対象化したものだけではないのである。なぜなら、総商品資本の価値は、前年度に(われわれはさしあたり固定資本を無視する)生産された生産手段の価値が今年度の有用労働によって移転した価値も含まれるからである。マルクスが想定している単純再生産の表式の具体的数値をもとに考えてみよう。社会の総商品資本の価値は9000である。しかしここには6000の前年度に支出された価値が含まれており、今年度に創造された価値は3000に過ぎないのである。だから〈資本の再生産(循環)においては(「単純再生産」を前提として議論する)、その概念が問題になるかぎりでは、こうした理屈は意味を持たない〉などというのは、単純再生産のなんたるかが分かっていないとしか言いようがない。例えば生産手段の生産部門の1000の価値をもつ労働力は、その具体的有用労働においては、6000の価値ある商品生産物を生産したのである。しかしそれは抽象的人間労働としては2000の価値しか生み出していないのである。では残りの4000はどうしたのか? 林氏は答えることができるのであろうか。それは前年度に生産された生産手段(生産手段の生産のための生産手段)が、今年度の生産手段を生産する具体的有用労働によって移転された価値なのである。そして同じことは消費手段の生産部門についても言いうる。部門IIの500の価値をもつ労働力は、その具体的有用労働によって3000の価値ある消費手段を生産したのである。しかしその抽象的人間労働においては、1000の新たな価値を追加したに過ぎない。残りの2000は前年に部門 I で生産された生産手段の価値がその500の価値をもつ労働力の具体的・有用的属性によって生産物(消費手段)に移転されたものなのである。林氏の〈“有用労働による価値移転論”批判〉が再生産論についてのとんでもない間違い(スミスとまったく同じ間違い!)につながっていることをわれわれは確認することができる。これはとりもなおさず、〈「有用的労働による価値移転論」は、それがあり得るとしても、『資本論』のこの個所(搾取――剰余価値の生産――のメカニズムを説明する)においてのみ意義を持つ〉などと考えることが正しくないこと、そのように考えるからこそ、林氏は、社会的総資本の再生産についても正しい理解ができないのだということを示しているのである。【追加:そして、それは後に、いわゆる「社会主義における分配」問題における混乱に繋がっていったことはすでに我々の知るところである。林氏があれほど「社会主義における分配」問題に拘ったのは、林氏が『資本論』第2部第3篇をその間違った〈“有用労働による価値移転論”批判〉からほとんど理解できなかったか、あるいはまったく混乱した理解しかできなかったところから来ているように思える。信じがたいことかもしれないが、林氏は『資本論』第2部第3篇の社会的総資本の再生産やその表式について、まったく理解できていないのである!! 大した“マルクス主義者”もあったものである。】
 
 (以下、次回に続く)

2015年12月10日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-5)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕


 今回から【8】パラグラフの解読であるが、すでに指摘したように、この【8】パラグラフは、第29章該当部分(マルクス自身が「II.」と番号を打った部分)の冒頭のパラグラフ(【1】パラグラフ)に直接繋がっており、ここから本来の第29章の課題(エンゲルスのつけた表題では「銀行資本の構成部分」)が本格的に論じられていくのである。そうした文章の繋がりが分かるように、もう一度、冒頭のパラグラフを次に紹介しておこう。

【1】 〈[519]|335上| II.こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である。〉

 これを読んで、すぐに次の【8】パラグラフを読めば、その繋がり具合がよく分かるであろう(そしてそれは【2】【7】パラグラフは、本来は第28章該当部分--マルクスが「 I )」と番号を打った部分--に属するものだとの私の指摘の正しさが了解できるであろう)。

【8】

 〈銀行資本〔Bankcapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている。有価証券は,さらに二つの部分に分けることができる。〔一つは〕商業的有価証券(手形)であって,これは流動的なもの〔floating〕で,本来の業務はこれの割引のかたちでなされる。〔もう一つは〕その他の有価証券(公的有価証券,たとえばコンソル,国庫証券,等々,およびその他の有価証券,たとえばあらゆる種類の株式〔)〕,要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの《(場合によってはまた不動産抵当証券〔mortgages〕も)》である。銀行資本は〔es〕,それがこれらの実物的な構成部分から成るのに加えて,さらに,銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕と預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本)とに分かれる。発券銀行の場合にはさらに銀行券が加わるが,銀行券はさしあたりまったく考慮の外に置くことにしよう。預金については(銀行券についてもそうであるように)すぐあとでもっと詳しく論じるつもりなので,さしあたりは考慮の外にある。とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は,貨幣,手形,有価証券というこれらのものが表わすのが銀行業者の自己資本であるのか,それとも彼の借入資本すなわち預金であるのか,ということによっては少しも変わらないということである。銀行業者が自己資本だけで営業するのであろうと,あるいは彼のもとに預託された資本だけで営業するのであろうと,この区分に変わりはないであろう。〉

 ここから「II.」の冒頭パラグラフで、〈こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉と述べていた考察が始まっている。
 ところで、この冒頭のパラグラフの〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉と今回のパラグラフの〈銀行資本〔Bankcapital〕〉とは微妙に違っている。だから大谷氏もわざわざ原文を示して、訳しわけているのであろう。似たようなものとしては、上記の本文のなかにも〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕〉や〈銀行業資本〔banking capital〕〉というものもある。これらはどのように違うのであろうか。同じようなよく似たものを他に気づいたものを並べてみると次のようになる(あとに書いているのはそれが出てくるパラグラフ番号である)。

銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉--【1】【8】
銀行資本〔Bankcapital〕〉--【8】に2回
銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕〉-【8】
銀行業資本〔banking capital〕〉--【8】
銀行業者資本〔Banquiercapital〕〉--【23】に2回
銀行業者の「資本」(d. "Capital“d. bankers〕〉--【34】
この架空な銀行業者資本〔dieβ fiktive Banker's Capital〕〉--【35】
銀行業資本〔d.banking Capital〕〉--【34】

 また第28章該当個所には銀行業者資本【31】)、銀行業資本〔Banking capital[s]〕【39】に2回)、銀行業資本〔banking capital〕 (【41】【42】)、銀行業資本〔banking Capital〕 (【42】)など同じようなよく似た表現が出てくる。そしてマルクス自身は第28章該当個所の【42】パラグラフで〈銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本〉という説明を与えている。この場合の銀行業資本は原文を見ると〔banking Capital〕である。

 このようなマルクスによる使い分けには何か意味があるのかないのか、それらは同じものなのか、違うものなのかは、それぞれの用語が使われている前後の文脈のなかで考えていくしかないのであろう(大谷氏は、何処かでこれらについてマルクスはどういう意味を込めて使い分けているのかを説明していたような記憶があるのであるが、それを今回探してみたが、果たして記憶違いなのか、探し出すことができなかった)。ただ大谷氏は、『図解・社会経済学』で、次のように説明している。恐らく、大谷氏のこうした説明は、上記のマルクスの使い分けを踏まえたものではないかと思われる(太字やt傍点は大谷氏による)。

 〈[銀行の自己資本=本来の銀行資本]銀行の資本は二つの部分からなる。第1に自己資本である。これは、銀行業者が自ら所有する資本(株式銀行であれば株主が払い込んだ資本)であって、本来の銀行資本(bank capital)である。これに対する銀行の利潤の比率が銀行の利潤率である。自己資本は、銀行業者が運用する総資本のうちのきわめてわずかな部分にすぎない。自己資本は、なによりもまず、銀行業務を行うのに必要な固定資本(土地、建物、耐久的什器)に投下されなければならないが、この部分は、それ自体としてはけっして利子を生まない。
 [銀行の他人資本=銀行業資本]銀行業者の資本の第2の部分は他人資本である。これは、銀行業者がその顧客から受けている信用を表している部分、すなわち信用資本であって、彼らが貸し付けることによって利子を稼ぎだす資本、つまり本来の銀行業を営む資本の中心はこの資本部分である。そこでこの部分は銀行業資本(banking capital)とも呼ばれる。〉(362-3頁)

 しかし、もし大谷氏の説明が、マルクスの上記の使い分けを踏まえたものとするならば、マルクスが今回のパラグラフ(【8】)の冒頭〈銀行資本〔Bankcapital〕〉と述べているのは、銀行の資本のうち〈自己資本〉を意味し、その〈実物的な構成部分〉について論じていることになるが、果たしてそうした理解は正しいのであろうか。とにかく、われわれは【8】パラグラフを詳細に検討して行くことにしよう。

 上記の【8】パラグラフの文章を検討すると、まず指摘できるのは、最初に〈銀行資本〔Bankcapital〕は,1)現金(金または銀行券),2)有価証券,から成っている〉と書かれたあと、〈銀行資本は〔es〕,それがこれらの実物的な構成部分から成るのに加えて〉と続き、さらに途中で〈とにかく明らかなのは,銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券--は〉云々とも書かれていることである。この文脈から考えるなら、最初の〈銀行資本〔Bankcapital〕〉の各部分は〈実物的な構成部分〉によって区別されたものであり、またそれらは後で言われている〈現実の構成部分〉と同じものと考えられる。だからこれを読む限りでは、この【8】パラグラフで言われている〈銀行資本〔Bankcapital〕〉と〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕〉とはほぼ同義と考えてよいであろう。だから「II.」の冒頭のパラグラフ(【1】)に出てくる〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉は、【8】パラグラフの冒頭に出てくる〈銀行資本〔Bankcapital〕〉と同じであること、ただマルクスは【1】パラグラフで述べていることを、【8】パラグラフで言葉は変えているが同じ意味で言い返したにすぎないことが分かるのである。
 それに対して、そうしたもの(=〈銀行資本〔Bankcapital〕〉の〈実物的な構成部分〉と〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分〉)とは違った観点からの区別として論じている〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕〉と〈預金(彼の銀行業資本〔banking capital〕または借入資本)〉とに出てくる〈銀行業資本〔banking capital〕〉は、〈銀行資本〔Bankcapital〕〉や〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕〉とは明らかに違ったものといえる。後者の区別こそ、大谷氏が〈銀行の資本は二つの部分からなる〉として〈銀行の自己資本=本来の銀行資本(bank capital)〉と〈銀行の他人資本=銀行業資本(banking capital)〉とに区別しているものと同じと考えるべきであろう。
 だからマルクスが最初に〈銀行資本〔Bankcapital〕〉と述べているものは、大谷氏が述べている〈銀行資本(bank capital)=銀行の自己資本〉とは明らかに違った概念なのである。大谷氏のいう〈銀行資本(bank capital)〉は、マルクスが〈銀行業者自身の投下資本〔d.invested Capital des Bankers selbst〕〉と述べているものと同義と考えるべきなのである。ややこしいが、しかしわれわれはこの区別をしっかり理解しておく必要がある。

 とするなら、マルクスが〈実物的な構成部分〉または〈現実の構成部分〉と述べているものは、大谷氏が〈銀行の資本は二つの部分からなる〉として区別しているものとは異なる観点からのものであることが分かる。大谷氏が述べているような区分は、マルクスが述べている〈実物的な構成部分〉には何の影響も与えないともマルクスは述べている。つまりこうした〈実物的な構成部分〉として分類されたものが、銀行業者の自己資本であるのか、それとも他人資本、つまり借入資本であるのか、ということによっては少しも変わらないと述べている。その理由として、マルクスは〈銀行業者が自己資本だけで営業するのであろうと,あるいは彼のもとに預託された資本だけで営業するのであろうと,この区分に変わりはないであろう〉と述べている。ということは、マルクスが最初に述べている〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉というのは“銀行業者がその営業をするための資本”というような意味と考えられるのかも知れない。つまり銀行業者が営業をするために保持している資本全般を意味するものが〈銀行資本〔Bankcapital〕〉あるいは〈銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕〉ということができるであろうか。だからこれは大谷氏が〈銀行の資本は二つの部分からなる〉という場合の〈銀行の資本〉とほぼ同じ意味なのである。

 いずれにせよ、マルクスが〈実物的な構成部分〉としているものを図としてまとめてみよう。

01_3

 もう一つのマルクスが述べている区別も図にすると、次のようになる。

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 ここでマルクスは、有価証券を、商業的有価証券(手形)とその他の有価証券に分けて、後者の説明として〈要するに利子生み証券であって,手形とは本質的に区別されるもの……である〉と述べている。これを読む限りでは、手形は「利子生み証券」に入らないように思えるのであるが、後に見るように、割り引かれた手形については、銀行から見れば、それは利子生み証券だとマルクスは述べている(【23】参照)。この点、やや疑問が残るが、それはそれが問題になるパラグラフ(【23】)で検討することにして、ここではとりあえずは、手形は利子生み証券には含まれないものとして理解しておくことにしよう。
 またここで注目すべきなのは、マルクスは利子生み証券のなかに〈不動産抵当証券〉を入れていることである。これは〈証券〉であるから、譲渡可能な形態にあるものと考えられる。つまり単に不動産を担保に融資した結果、銀行が不動産の抵当証書を保持しているということではなくて、不動産の抵当権が証券として流動化されたもの(いわゆる証券化されたもの)であり、そうした有価証券を利子生み資本の投資対象として銀行が保持しているか、あるいは融資の担保として預かっていると考えるべきであろう。たがら、この〈不動産抵当証券〉は、サブプライム問題における金融証券化の一つであるモーゲージ担保証券(MBS)と同じ類のものと考えることができるのである。

 {補注:『金融用語辞典』による「抵当証券」の説明--不動産を担保とした貸付債権を証券化して、小口販売する金融商品。
 抵当証券とは、主に中小企業者や個人事業主向けの不動産を担保(抵当)とした貸付債権を証券化して、一般投資家に小口販売する金融商品です。1931年の抵当証券法に基づいて発行されています。
 抵当証券の販売は、抵当証券会社が行います。抵当証券会社は、内閣総理大臣の登録を受けた法人です。預入期間や金利、解約手数料などについては、抵当証券会社によって条件が異なるので、購入の際に確認する必要があります。
 抵当証券は、債務者(中小企業者や個人事業主)の同意を得て登記申請を行い、法務局(登記所)から交付されます。抵当証券会社は、交付された抵当証券の原券を抵当証券保管機構に預けることが義務づけられています。抵当証券保管機構は、原券を預かると保管証を発行します。
 抵当証券会社は、抵当証券を小口化して、一般投資家に販売します。購入者は、抵当証券保管機構が発行する保管証と、抵当証券会社が発行する取引証(モーゲージ証書)を受取ります。
 抵当証券会社は、債務者が定期的に支払う返済金の中から、購入者に元利金を支払います。}

 さてマルクスはこうした区別について前者の〈現実の構成部分〉は、後者の区別のどこに分類されようが、前者の区別には変わりはないであろう、と述べている。これはどういうことか少し考えておこう。例えば、現金の場合は、銀行自身が投下した資本として保持しているケースはないとはいえないし、また預金として受け入れたものであるかも知れない。また有価証券なども、自己資本である利子生み資本が、とりあえずは融通先がないので、準備として保持するために、換金が容易な有価証券として保持しているケースもあるであろうし、預金や担保として受け入れたものであるのかも知れないわけである。つまりいずれも両方においてもそうしたものが銀行の資本を構成しているケースが考えられるということであろう。

 それ以外にいくつか注意すべきことを指摘しておく。

 (1) 「現金」に含まれる「銀行券」は法貨である「イングランド銀行券」のことであり、その後で「預金」と並んで、発券銀行の場合には付け加わる「銀行券」というものとは異なることである。後者は主に「地方銀行券」のことである。だから同じ「銀行券」でも両者には違いがある。「現金」として認められるものは、あくまでも「法貨」としての「イングランド銀行券」のみである。

 (2) また「手形」について、マルクスは「商業的有価証券」と書いているが、これは一般の産業資本や商業資本が振り出す手形であり、商業信用にもとづいて再生産的資本家たちが互いに与え合う信用にもとづいて流通しているものである。同じ「手形」でも、「銀行業者手形」はこうしたものとは区別される。これは銀行が与える信用の一形態であって、銀行が振り出す手形(為替手形)である。これは前者のものとは本質的に異なるものである。

 (3) 公的有価証券の中にある「コンソル」というのは、「コンソル公債」のことである。
 林氏はマルクスが述べている「国債」は当時のイギリスの状況を考えるなら「コンソル公債」と考えられる。だから、今日の国債とは違うと主張し、マルクスが国債を例に架空資本を説明しているのは、当時のイギリスの特殊事情によるのであって、今日の国債にはそうした説明は妥当しないかに述べている(『海つばめ』1111号3面トップ記事)が、こうした理解は果たして正しいのであろうか。確かにコンソルは確定利付きで償還期限がない永久国債であり、今日の日本ではこうした国債は発行されていない。その限りでは確かに異なるものである。しかし今日の国債でも償還期限が来ない前にその償還を要求することはできないのであり、譲渡できるだけであるという点では、両者は全く同じである。またそれらの市場価値が確定利息を平均利子率で資本還元して決められるという点でも、コンソルと今日の日本の国債とに違いは何もないのである。だからマルクスが国債を例に架空資本を説明している例は、今日の国債に関してもまったく妥当するし、国債はそれが証券として売買されていることを見ても、明らかに架空資本なのである(この点は、これからも何度も問題になるであろうが、とりあえず、その点を指摘しておきたい)。

 {補注:コンソル公債  コンソルこうさい (平凡社大百科辞典)
 イギリスの代表的な国債で,1751年に既存9公債を統合し借り換えて成立したconsolidated annuities(略称 Consols)が起源である。この旧コンソルは3%利付きであったが,1882年に1840年代発行の2種の公債と統合され,2.75%(1903年からは2.5%)利付きの新コンソル(別称ゴッシェン公債 Goschens)となった。それは1923年以降議会の承認で償還可能とされていたが,政府にとっては市価が安いため額面償還の利点はなく,低利率のため借換えの必要もなかったから,事実上典型的な永久公債となって存続した。26‐32年には4%利付きコンソルも発行されている。コンソル公債の価格はバンク・レートにつれて変動し,イギリスの国家信用や経済状態の指標とされてきた。第1次大戦前までそれはイギリス公債の大きな部分を構成したが,両大戦期における各種公債の大増発でその比率は減退し,61年には国債総額の3%となった。(関口 尚志)}

 (4) またもう一つの公的有価証券の例として上げられている「国庫証券」は、政府が短期の借入を行うときに発行するものであり、有期限のものである。

 {補注:国庫証券 こっこしょうけん financial bills
 国の一般会計の一時的な資金不足を補うために、財務省が発行する財務省証券などの政府短期証券(FB)のことを国庫証券と呼ぶことがあります。}

 とりあえず、そうしたことを指摘して、次のパラグラフの検討に移ろう。

【9】

 〈a) 利子生み資本という形態に伴って,確定していて規則的な貨幣収入は,それが資本から生じるものであろうとなかろうと,どれでも,ある資本の「利子」として現われるようになる。まず貨幣収入が「利子」に転化され,次にこの利子とともに,これの源泉である「資本」もまた見いだされるのである。〉

 ここからマルクスは「架空資本」の説明に移っている。先のパラグラフでマルクスは〈銀行業者の資本〔d.banker's capital〕の現実の構成部分--貨幣,手形,有価証券〉と述べていたが、これからこの三つの構成部分について、それぞれを説明していくわけであるが、その順序は、ここに並べられたものとは逆に「有価証券」から始めており(その説明が【22】まで続く)、その中で「架空資本」の説明も行っているわけである(「手形」は【23】【24】で、「貨幣」については預金と関連させて【25】【28】で検討されている)。

 ここでマルクスは〈利子生み資本という形態〉と述べているが、これについて、大谷氏は〈範疇としての利子生み資本の確立に伴って、ということであろう〉(エンゲルス版第21章該当個所の翻訳の14頁)と述べている。利子生み資本が範疇として確立すると、すべての資本が利子をもたらす(G-G')という観念が生まれ(「資本-利子」という、いわゆる「三位一体的定式」の一項)、それがさらに逆転して、今度は一定の定期的な貨幣収入が、すべて「利子」と観念され、それとともに、その利子をもたらす「資本」が見いだされるようになるとマルクスは述べている(ここには「利子-資本」という先程の観念とは転倒した観念が生じている)。これがすなわち「架空資本」なのである。

 本来、利子生み資本というのは、一定の貨幣額が剰余価値(平均利潤)を生むという独特な使用価値を持つ「商品」として、銀行から、産業資本や商業資本に「販売」され(貸し出され)、その結果、それによって生み出された利潤が企業利得(産業利潤と商業利潤)と利子に分割されて、その貨幣額(利子生み資本)が利子を伴って還流してくる(返済される)ことになる。だから本来利子は利潤から分割されたものである。しかしこうした逆転現象が生じると、定期的な貨幣利得の源泉が何であるかには関わりなく(だから利潤から分割されたものでなくても)、「利子」として観念されることになり、だから定期的な貨幣利得をもたらす源泉は、その原因や理由は何であれ--つまり「資本」でないものも--、「資本」として観念され、一定の「資本価値」を持つことになるというわけである。

 (以下、続く)

2015年12月 8日 (火)

林理論批判(27)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.5)

 前回までは、林氏が論文のリード(前文)で〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解することなくしては、その意味を本当に理解することはできないのであって、ただあれこれの理念や言葉だけをそのまま受けとればいいというものではない〉と、もっともらしいことを述べていることを受けて、やや横道に逸れることを恐れずに、では実際に、マルクス自身は『資本論』の当該個所で何を問題にしているのかを、その叙述に沿って確認してきたのであった。そしてその結果、われわれは林氏は、自分自身こそ、その高邁なご高説に決して忠実ではないこと、むしろ林氏こそが〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解〉していないこと、そればかりか自分に都合のよいように巧妙な誤魔化しさえやっていることを確認したのであった。だから今回からは、もう一度、林氏の論文に戻って、その内容を批判的に検討していくことにする。

〈『海つばめ』「1138号(2011.1.9)【二~三面】“有用労働による価値移転論”批判――「スターリン主義経済学」一掃のために――それぞれの理論のそれぞれの課題を考えよ」〉の検討(3)

それではもう一度、林氏の論文にもどることにする。

(3)林氏は、次のように書いている。

 〈もちろん、ここでは資本はまず貨幣資本として登場し、結果として、剰余価値を獲得して価値増殖し、資本に転化する。〉

 このように林氏はいうのであるが、ここに出てくる〈ここでは〉というのは何処を指しているのであろうか。文脈から考えるなら、〈『資本論』の第一巻第三篇第五章と六章、とりわけ六章〉と考えるしかないが、しかしもしそうなら、林氏はウソを言っていることになる。というのは、林氏がいうところには「貨幣資本」なる用語はまったく出て来ないからである。第4章や第5章、第6章のテキスト部分全体を「貨幣資本」という用語で検索してみても、まったくカウントしないのである。ME全集の事項索引をみても、「貨幣資本」は第2巻からしか出て来ない。つまりこれは第2部「資本の流通過程」で始めて出てくる用語なのである。だから林氏こそ〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解〉(下線による強調は引用者)していないことになるではないか。ここでも林氏は自分のご高説に忠実ではないことを暴露している。

(4) 〈ブルジョア社会において、最も普通の――したがってブルジョアたちの目に映るかぎりでの――形態は、貨幣資本から始まる運動である、というのは、それらは個別資本にとっての実際の運動であり、「自己運動し、増殖する価値」としての資本の本性に合致したものだからである。すなわち、貨幣資本の形式は、 G―W…P…W’―G’である。ここでGは貨幣(貨幣資本)、Wは商品(商品資本)、Pは生産資本(生産過程)を表し、’(ダッシュ)は価値増殖したことを意味している(生産資本の形式は省略)。GはG’に転化した(一億円の資本は一億一千万円になった)、つまり自己増殖したのである。もちろん、こうした資本の観念は形式的であり、無概念的なものであるにすぎない、というのは、なぜ、いかにして一定額の貨幣(貨幣資本)が自己増殖したのか、し得たのかが全く明らかにされていないからである。
 我々は、こうした形式の資本の運動の、マルクスの理論における――したがってまた、資本主義の全体の関係における――位置を確認しておかなくてはならない。〉

 どうやら林氏は〈問題の前提〉として『資本論』の第2部の内容を考えているようである。しかしそうであるなら、ここで林氏が言っていることは正しいとは言えない。というのは、『資本論』の第2部「資本の流通過程」は、決して〈ブルジョア社会において、最も普通の――したがってブルジョアたちの目に映るかぎりでの――形態〉を明らかにするものではないからである。というのは第2部「資本の流通過程」は当然のことながら、その第1部「資本の生産過程」を前提した上で論じられているのだからである。つまり第1部で絶対的および相対的な剰余価値の生産が解明され、資本の蓄積も個別資本にもとづいて考察されたあとで、資本の流通過程が、それに固有の諸法則として解明されているのだからである。それは決してブルジョア的な意識に表れるようなものをそのまま明らかにすることを課題にしているのではない。そうではなく資本の流通過程に固有の諸法則を解明していくことがその課題なのである。
 だから林氏が持ち出している貨幣資本の循環の形式 〈G―W…P…W’―G’〉も、Pの過程で剰余価値が生産されることを前提しているのである。それがここで直接問題にならないのは、すでにそれをわれわれは第1部「資本の生産過程」で解明したからであり、それを前提しているからである。あるいは、今問題にしている資本の流通過程をそのものとして考察する場合には、それ以外のものはとりあえずは考察の対象から外しているに過ぎないのである。それは決してブルジョア的な意識がそうした搾取のカラクリを捉えられない状態をそのまま前提して論じているのでは決してないのである。
 例えば、マルクスは貨幣資本の循環の「第二段階」、すなわち「生産資本の機能」において、次のように述べている。

 〈生産の社会的形態がどうであろうと、労働者と生産手段とは常に生産の要因である。しかし、一方も他方も、互いに分離された状態では、ただ可能性から見て生産の要因であるにすぎない。およそ生産が行なわれるためには、それらが結合しなければならない。この結合が成し遂げられる特殊な仕方によって、社会構造の様々な経済的諸時代が区別される。いま問題の場合には、自由な労働者が彼の生産諸手段から分離されていることが、与えられた出発点なのであり、どのようにして、どのような条件のもとで両者が資本家の手中で----すなわち彼の資本の生産的定在様式として----結合されるかは、われわれがすでに見たところである。こうして一つに結合された人的および物的な商品形成体が一緒に入り込む現実の過程、すなわち生産過程は、それ故、それ自身、資本の一機能----資本主義的生産過程となるのであり、この資本主義的生産過程の本性は本書の第一部で詳しく説明された。〉(全集24巻49頁)

 だからマルクスが、貨幣資本の循環も、こうした生産過程の考察を前提して論じていることはあきらかなのである。だから林氏は第2部を〈ブルジョアたちの目に映るかぎりでの〉〈こうした形式の資本の運動〉を論じていると理解しているようなのであるが、その意味では、まさに林氏こそ第2部「資本の流通過程」の第1章「貨幣資本の循環」の〈マルクスの理論における――したがってまた、資本主義の全体の関係における――位置を〉正しく理解していないと言わなければならないのである。われわれここでもやはりご自身のご高説に忠実ではない林氏を見いだすのである。立派なことは、誰でも言うが、“言うは易く、行うは難し”である。

(5)さて林氏は〈ここではテーマと関連する、三つの異なった理論的な契機が――したがってまた、資本主義的生産関係の現実の三つの契機が――検討されなくてはならない〉と述べて、三つの項目を提示している。どうして「有用労働による価値移転」論とこの三つが関連しているのかよく分からないが、しかし、とりあえず、われわれもそれぞれを詳しく見ていくことにしよう。まずは(1)である。

 〈(1)資本の運動の前提としての、商品の運動は単純な商品の運動であって、ただW1→G→W2という転換の形態をとるだけである。つまりある商品は貨幣に形態転化し、ついで別の商品に転化し、消費される。
 単純な商品の生産と交換において、商品は価値と使用価値を有する社会的生産物であり、それに対応して、商品を生産する労働も抽象的人間労働と具体的有用労働の二つの側面、二つの契機を持つことが明らかにされている。商品を生産する労働としての二つの契機は全く別ものであって、この二つを混同することは一切の俗流主義への第一歩であり、ブルジョア理論家に普通に見られるのである。〉

 資本の運動は単純な商品の運動を前提していると指摘されている。まあ、これは特に問題にするほどのことではないが、しかし、厳密に言えば、『資本論』で分析されている〈単純な商品の運動〉は、〈資本の運動〉の表面的・抽象的契機であり、〈資本の運動〉から資本関係を捨象してえられたものである。もちろん、『資本論』の叙述の展開としては、当然、林氏がいうように〈単純な商品の運動〉とそこで解明された諸法則は、〈資本の運動〉の前提をなし、そこにも貫いていることはいうまでもない。しかし林氏が〈抽象的人間労働と具体的有用労働〉について、〈商品を生産する労働としての二つの契機は全く別ものであって、この二つを混同することは一切の俗流主義への第一歩であり、ブルジョア理論家に普通に見られるのである〉と述べていることについては、少し問題にする必要がある。というのは、すでに紹介したように、マルクスは第1章第2節の冒頭次のように述べているからである。

 〈最初に、商品は、二面的なものとして、すなわち使用価値および交換価値として、われわれの前に現れた。後には、労働もまた、それが価値に表現される限りでは、使用価値の生みの母としての労働に属するのと同じ特徴を、もはやもっていないということが示された。商品に含まれる労働のこの二面的性質は、私によってはじめて批判的に指摘されたものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ちいって説明しておこう。〉(56頁)

 つまり労働の二面的性質は、マルクスによって始めて批判的に指摘されたとマルクス自身は述べている。だからこの両者を区別できないブルジョア理論家がそれを混同するということは果たしてありうるのであろうか。むしろブルジョア理論家たちはそうした区別の必要そのものを理解しなかったと理解すべきではないだろうか。
 例えば、マルクスは第2節の最後に掲げている注16でスミスを批判して次のように述べている。

 〈(16) 第2版への注。「労働だけが、すべての商品の価値がそれによって、あらゆる時代を通して、評価され、比較されうる究極の、真の尺度であること」を証明するために、A・スミスは、次のように言う。「等しい量の労働は、あらゆる時代、あらゆる場所において、労働者自身にとって等しい価値をもっていなければならない。労働者は、彼の健康、体力、および活動の正常状態のもとで、また彼の熟練と技能が通常の程度であれば、自分の安楽、自分の自由、および自分の幸福の同一部分をつねに犠牲にしなければならない」(『諸国民の富』、第一篇、第五章〔一〇四~一〇五ページ。大内・松川訳、岩波文庫、(一)、一五五~一五六ページ〕)。一方A・スミスは、この場合(どこでもと言うわけではないが)、商品の生産に支出される労働の量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同しており、したがって、等量の労働はつねに等しい価値をもつということを証明しようとしている。他面では、彼は、商品価値に表される限りでの労働が、ただ、労働力の支出としてのみ通用するということにうすうす感づいているが、この支出を、ふたたび単に安楽、自由、および幸福の犠牲としてのみとらえ、正常な生命活動とはとらえていない。いずれにせよ、彼は近代的賃金労働者を眼前においているのである。--注9に引用したA・スミスの匿名の先行者は、はるかに適切にのべている。「ある人は、この使用対象の生産に一週間を費やした。……そして、それと交換に彼にある他の対象を与える人は、自分が何にちょうど等しい労働と時間とを費やすかを計算するよりほかには、何が実際に等価であるかを正しく評価する方法をもちえない。このことが事実上意味しているのは、ある人が一定の時間にある対象に費やした労働と、別の人が同じ時間に別の対象に費やした労働との交換である」(『貨幣の利子一般、および特に公債の利子に関する若干の考察』、三九ページ)。〉(63頁)

 この注は、スミスが労働の〈この二つを混同〉しているとして論じているのではない。スミスは(1)〈商品の生産に支出される労働の量による価値の規定を、労働の価値による商品価値の規定と混同して〉いること、(2)〈彼は、商品価値に表される限りでの労働が、ただ、労働力の支出としてのみ通用するということにうすうす感づいているが、この支出を、ふたたび単に安楽、自由、および幸福の犠牲としてのみとらえ、正常な生命活動とはとらえていない〉ということでしかない。つまりスミスもうすうすは抽象的人間労働の存在に気付いており、〈A・スミスの匿名の先行者〉は、〈はるかに適切にのべて〉、その存在を示唆しているということである。だから林氏がいうような〈商品を生産する労働としての二つの契機は全く別ものであって、この二つを混同することは一切の俗流主義への第一歩であり、ブルジョア理論家に普通に見られるのである〉というようなことは書かれていないのである。

(6)次は二つの目の項目である。

 〈(2)他方、資本の運動は三つの循環形態を持っている、つまり貨幣資本から始まる運動と、商品資本から始まる運動、そして生産資本から始まる運動である。最初のものは事実上すでに述べた。生産資本から始まる循環は、それが商品資本にただ直接に形態転化するだけであって、事実上商品資本の運動と同様であろう。したがって我々は貨幣資本の循環と区別されるものとして、商品資本の循環を検討しなくてはならない。商品資本の循環は以下のような循環を経過して自己運動する。
 W’{W、w}--G’{G、g}--{W<A Pm・・P・・W’、g--w}
 ここで、Pmは生産手段、Aは労働力、w―g―wは労働力(労働力商品)の循環を意味する。
 もちろん、貨幣資本や生産資本は個別資本の循環の形式であって、それ自体、限界を持つものである。それらの算術的な合計が、単純に総資本の循環を示すのではないし、また示すことはできない。
 これに反して、商品資本の循環は、「最初に前貸される資本価値はただ運動を開始する一つの極の一部分をなしているだけであり、したがって運動ははじめから産業資本の全体運動として示されているのであるが、このような循環はただW…W’だけである。……G…G’は、ただ、価値の面を、前過程の目的としての前貸資本価値の増殖を、指し示しているだけである。P…P(P’)は、生産資本の不変の大きさでの再生産過程かまたは増大した大きさでの生産過程(蓄積)としての資本の生産過程をさし示している。W…W’は、すでにその発端の極で資本主義的商品生産の姿として現われていて、はじめから生産的消費と個人的消費とを包括している。生産的消費とそれに含まれる価値増殖とは、ただこの循環の運動の分枝として現われるだけである。
 ……すべてこのような特性によって、この循環は、一つの単に個別的な資本の個別的な循環としてのそれ自身を越えて、それ以上のものをさし示しているのである」(『資本論』二巻一篇三章、全集二四巻一二一~二頁)。
 かくして、「社会的総資本の再生産と流通」は、商品資本の循環の形式で与えられなくてはならないが、しかし単にその形式を示すだけで十分だというわけではない。それはただ、この問題に対する回答の形式を与えるだけであって、その解決のためには、社会的な生産部門の違い、使用価値的、“素材的”側面も含めた、つまり価値と使用価値の両面からする総資本の再生産が、その諸契機の絡み合いが明らかにされなくてはならないのである。〉

 ここでは林氏は〈生産資本から始まる循環は、それが商品資本にただ直接に形態転化するだけであって、事実上商品資本の運動と同様であろう〉と述べている。これは特徴的であって、というのは林氏は〈ブルジョアたちの目に映るかぎりでの――形態〉を問題にしているからこのように述べているのである。しかし本当はブルジョア達も〈実践上は,剰余価値の,すなわち資本の価値増殖の秘密を知っている〉(第2部第2草稿、草柳訳7-8頁)である。〈このことは,生産過程における彼の全行動によって, 剰余労働の激しい追求によって,証明される〉(同前)のである。生産資本の循環を商品資本の循環と実際上は同じと見るのは、商品資本の循環の独自の意義を否定するに等しいであろう。

 ではマルクス自身は生産資本の循環についてどのように述べているのであろうか。

 〈生産資本の循環は、P・・W’--G’--W・・Pという一般的定式をもつ。この循環の意味するところは、生産資本の周期的に更新される機能、すなわち再生産、言い換えれば価値増殖に関連する再生産過程としての生産資本の生産過程である。すなわち、単に剰余価値の生産ではなく、その周期的な再生産であり、生産的形態にある産業資本の機能--一度だけの機能としてではなく、周期的に反復される機能(そのため再開始は出発点そのものによって与えられている)としての--である。〉(全集24巻79頁)

 マルクス自身は生産資本の循環は〈事実上商品資本の運動と同様〉などとは述べてはいないのである。

 次に林氏は商品資本の循環を問題にしているが、〈w―g―wは労働力(労働力商品)の循環を意味する〉と述べているが、これは正しくは総商品資本のうちの剰余価値部分の「変態」を表しているのである。まあこれは単なる勘違いかもしれないが。さらに指摘すれば、これ自体は決して「循環」を表していない。というのはこの部分の後半は単純な商品流通に属し、最後のwは個人的に消費されて、そこで終わることを表しているからである。これも単なる不注意かも知れない。しかし『資本論』を読むときは、こうしたちょっとした間違いも疎かにはできないのである。

 商品資本の循環の独自の意義について、『資本論』から引用している部分については、もちろん、何の異論もないが、引用が不正確である。引用の中にある〈W…W’〉は、「W'…W'」の誤植であろう。つまり商品資本の循環は剰余価値部分を含んだ商品資本から出発し、剰余価値部分を含んだ商品資本として終わる循環なのである。

(7)次に3項目である。

 〈(3)そしてマルクスは一つの「再生産表式」によって、この問題に理論的な解決をもたらしたのである。
 ここで問題となるのは、いわゆるマルクスの再生産表式(エンゲルスが「社会的総資本の再生産と流通」と名付けた)と、「有用的労働による価値移転」との関係である。もちろん、マルクスはここでは、そんなことは全く述べていないのだが、事実上、もし「社会的総資本の再生産」が問題になるなら、この問題が重要な意味を持ってくるのである。〉

 林氏は〈エンゲルスが「社会的総資本の再生産と流通」と名付けた〉部分では、〈「有用的労働による価値移転」との関係〉を問い、〈マルクスはここでは、そんなことは全く述べていない〉という。しかしこれは事実とは異なる。というのは、以前にも紹介したが、〈エンゲルスが「社会的総資本の再生産と流通」と名付けた〉部分にある「第19章 対象についての従来の諸論述」のなかで、スミスを批判して、次のように述べているからである。

 〈ところで、アダム・スミスの第一の誤りは、彼が年間生産物価値を年間価値生産物と同一視している点にある。価値生産物の方は、ただその年の労働の生産物だけである。生産物価値の方は、そのほかに、年間生産物の生産に消費されたとはいえそれ以前の年および一部分はもっと以前の諸年に生産された全ての価値要素を含んでいる。すなわち、その価値がただ再現するだけの生産手段----その価値から見ればその年に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたのでもない生産手段----の価値を含んでいる。この混同によって、スミスは年間生産物の不変資本部分を追い出してしまうのである。この混同そのものは、彼の基本的見解の中にあるもう一つの誤りに基づいている。すなわち、彼は、労働そのものの二重の性格、すなわち、労働力の支出として価値をつくる限りでの労働と、具体的な有用労働として使用対象(使用価値)をつくる限りでの労働という二重の性格を、区別していないのである。一年間に生産される商品の総額、つまり、年間総生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物である。ただ、社会的に充用される労働が色々な有用労働の多くの枝に分かれた体系の中で支出されたということによってのみ、全てこれらの商品は存在するのであり、ただこのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらの商品の生産に消費された生産手段の価値が新たな現物形態で再現して保存されているのである。だから、年間生産物の総体は、その一年間に支出された有用労働の結果である。しかし、年間の生産物価値の方は、ただその一部分だけがその一年間に作り出されたものである。この部分こそは、その一年間だけに流動させられた労働の総量を表わす年間価値生産物なのである。〉(24巻463頁)

 このようにマルクスはスミスが〈労働そのものの二重の性格、すなわち、労働力の支出として価値をつくる限りでの労働と、具体的な有用労働として使用対象(使用価値)をつくる限りでの労働という二重の性格を、区別していない〉こと、だからスミスは有用労働による価値の移転が分からずに〈年間生産物価値を年間価値生産物と同一視〉する誤りに陥っていることを指摘しているのである。
 もちろん、林氏も〈事実上、もし「社会的総資本の再生産」が問題になるなら、この問題が重要な意味を持ってくる〉と述べているのだから、その意義を理解しているものとわれわれとしてはとりあえずは想定しておこう(しかし後の考察では本当は理解していないことが分かるのであるが……)。

 (以上で、最初の項目「 ◆1、問題の前提」の検討は終わる。次回以降は、二つ目の項目「◆2、「有用的労働による価値移転」はいかなる意味で言われ得るか」の検討に移る。)

2015年12月 3日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-4)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回、解読する【5】【7】パラグラフは、本来は、マルクスが「I)」と番号を打った部分(エンゲルス版第28章該当部分)に移されるべきものであり、よって第28章該当部分の解読の最後のあたりで一定の考察を加えたものである。しかし第29章該当部分の解読をするにあたり、もう一度、補足的にとりあげることにする。)

【5】

 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう。いったいこのような《逼迫の》時期に足りないものはなにか,「資本」なのか,それとも「支払手段」としての規定性にある「貨幣」なのか? そして周知のように,これは1つの論争である。〉

 このパラグラフからは、すでに述べたように、第28章の【44】パラグラフの後に挿入されるべきではないかと私は考えたのであるが、なぜそう考えたのを理解して貰うために、その【44】パラグラフを紹介しておこう。

 〈購買手段としてのCirculation(「通貨」--引用者)が減少するよりも高い程度で支払手段としてのCirculation(「通貨」--同)が増加するとすれば,たとえ購買手段としての機能における貨幣が量から見てかなり減少したとしても,総Circulation(「流通量」--同)は増大するであろう。そしてこのことは,恐慌中のある諸時点で現実に起こるのである。フラ一トン等々は,支払手段としての銀行券のCirculation(「流通」--同)がこのような圧迫の時期の特徴だということを示さないので,この現象を偶然的なものとして取り扱うのである。「銀行券を手に入れようとする激しい競争はパニックの時期を特徴づけるものであり,また,ときには,1825年の終りのように,地金の流出がまだ続いている時にさえも,一時的でしかないとはいえ突然の発券増加をひき起こすこともあるのであるが,ふたたびこのような競争の実例について言えば,私の考えるところでは,このような実例は低い為替相場の自然的な,あるいは必然的な付きものとみなすべきではない。このような場合の需要は,Circulation〔」〕 (購買手段としてのCirculation(「通貨」--同)と言うべきであろう) 〔「〕のための需要ではなく,蓄蔵のための需要であり,流出が長く続いたあとに恐慌の終幕で一般的に生じる狼狽した銀行家や資本家の側からの需要であり,また,金の流出がやむことの前兆である。」〉(大谷訳267-8頁)

 つまり逼迫期(恐慌時)には購買手段としての通貨は一般に減少するが、支払い手段としての通貨に対する需要が極めて強くなるので、流通する通貨総量としては一時的とはいえ増大する場合があることをマルクスは指摘しているのである。これは第28章のレジュメでは1825年の恐慌時のイングランド銀行券の発券高の推移を示すグラフを紹介してあるので、それを見ていただきたい。

 さて、このパラグラフについては第28章のレジュメのなかで解読したので、その部分をここに転載するだけにしておく。

 【マルクスはこれは当時の〈1つの論争〉であり、それは〈周知〉のことであると述べている。これは恐らく26章に該当する部分で、マルクスが通貨学派のオウヴァストンの議会証言を引用しながら批判して取り上げている問題と同じなのであろう。そこではオウヴァストンは、議会で「資本」や「貨幣」という言葉であなたは何を実際に考えているのか、用語を混同しているのではないかと追求されているが(マルクスはオウヴァストンが「私は用語を混同していません」と答えたのに対して、「つまり貨幣と資本とを混同していないというのであるが、それは、彼がこの二つを決して区別していないという理由からである」とも批判している)、その詳しい紹介は当該箇所を検討するなかで見ていくことにしよう。】

 と、ここでは、第26章の当該箇所を示さずに終わっているが、その部分をここでは紹介しておこう。

 第3758号。では,閣下は,逼迫〔pressure〕の状態のもとでは割引率が高いためにこの国の商人がおちいる困難は,資本を手に入れることにあるのであって,貨幣を手に入れることにあるのではない,と言われていると解してよろしいのでしょうか?--あなたは二つのものをいっしょにしていますが,私はそれをそういうかたちでいっしょにしているのではありません。彼らの困難は資本を手に入れることにありますが,彼らの困難はまた貨幣を手に入れることにもあるのです。……貨幣を手に入れることの困難と,資本を手に入れることの困難とは,同じ困難その進行の二つの続いて生じる段階で見たものです。」ここで魚はまたもや動きがとれない。第1の困難は,手形を割引させること(または有価証券担保の前貸を受けること)である。それは,資本を,または資本の商業的代理物的を,貨幣に転換する〔convert〕 ことの困難である。そして,この困難は,ほかの困難を度外視すれば,高い利子率に表現される。しかし,貨幣を受け取ってしまえば,第2の困難はどこにあるのか? 支払だけが問題ならば,貨幣を支払うことにどんな困難があるだろうか? また,買うことが問題ならば,そのような逼迫の時期に買うことになにか困難があったなどということを聞いた人があるだろうか? それに,かりにこれが穀物,綿花,等々が騰貴している特別な場合のことだと仮定すれば,この困難は,「貨幣の価値」に,すなわち利子に現れるのではなく、ただ商品の価格に現われることができるだけのはずである。しかしこのような困難ならば,彼が今では商品を買うための貨幣をもっているということによって,克服されているではないか。〉(179頁)
 〈第3819号。「私は用語をけっして混同してはいません。」(つまり貨幣と資本とを混同していないというのであるが,それは,彼がこの二つをけっして区別していないという理由からである。) {だから,商品が資本の形態であるかぎりでは,そして商品が売買ではたんに商品であるかぎりでは,資本と商品とについて逃げ口上を言うことができるであろう。}〉
(188頁)

 このように逼迫期に必要なのは貨幣なのか資本なのかが論争になっていたわけである。

【6】

 〈まず第1に,逼迫が「地金の流出」に現われるかぎりでは,要求されるものが国際的支払手段だということは明らかである。ところが,国際的支払手段としての規定性にある貨幣は,金属的現実性にある金,それ自身価値のある実体《(価値のかたまり)》としての金である。それは同時に「資本」であるが,しかし商品資本としてのではなく,貨幣資本としての資本であり,商品の形態にあるのではなく貨幣{しかもこの言葉のすぐれた意味での貨幣〔Geld im eminenten Sinn des Wortes〕であって,この意味では貨幣は一般的な世界市場商品のかたちで存在する}の形態にある資本である。ここでは,貨幣(支払手段としての)にたいする需要と資本にたいする需要とのあいだには対立は存在しない。対立は,貨幣という形態にある資本と商品という[520]形態にある資本とのあいだにある。そして,資本がここで取ることを求められている,そしてそれが機能するために取らなければならない形態は,資本の貨幣形態なのである。〉

 この部分についても、それほど難しいことは何も言っていないので、以前のレジュメから紹介しておく。

 【このようにここではマルクスは銀行学派の言葉てはなく、マルクス自身の概念を使って論じている。ここで「貨幣資本」と言われているのは、Geldcapitalであることは明らかである。つまり『資本論』第2巻で出てくる生産資本や商品資本と区別された資本の循環過程で貨幣形態をとる資本のことである。つまり地金は貨幣資本として流出するのだが、しかしその資本としての性格が問われているのではなく、国際的支払手段としての、つまり世界貨幣としての機能が問われているのだ、というのがマルクスの述べていることである。だからここで「貨幣」と言われているものも「本来の貨幣」のことであり、「貨幣としての貨幣」であることは明らかである。これもマルクスがこの28章の冒頭のパラグラフで呈示していた科学的な概念の一つである。】

【7】

 〈こうした地金の需要を度外視すれば,そのような逼迫期にはなんらかの仕方で「資本」が不足している,と言うことはできない。{穀物騰貴,綿花飢饅, 等々のような異常な事情のもとではそういうこどもありうる。しかしそれは,けっしてこういう逼迫期の必然的な,または通例の付随現象ではない。それゆえまた,貨幣融通〔monetary accomodation〕にたいする圧迫が存在することからこのような資本欠乏の存在を結論するこどは,一見しただけでもできないのである。} 反対である。市場は供給過剰になっている。「商品資本」は市場にあふれている。だから,逼迫の原因は,とにかく「商品資本の欠乏」ではないのである。この問題には他の諸点を片付けたのちに立ちかえる。〉

 この部分も以前のレジュメによって代用。

 【ここでは、マルクスは〈こうした地金の需要を度外視すれば〉と述べ、その前のパラグラフで検討した〈地金の需要〉の場合は、その限りではそれは貨幣「資本」に対する需要でもあるとしている点に注意が必要である。だからそうした国際的支払手段に対する需要(だからそれは貨幣「資本」に対する需要である)を「度外視すれば」と述べている。つまり国際的支払手段に対する需要を度外視すれば、逼迫期に「資本」が不足しているといったことはないというのである。つまり支払手段としての貨幣「資本」以外には商品資本も生産資本も過剰になっているということである。ただ穀物や綿花の不作で、穀物騰貴や綿花飢饉が生じるような異常な事情のもとでは、確かに穀物や綿花というその限りでは商品「資本」の不足が生じることになるのだが、そうした農作物の不作と逼迫期が重なるというのは偶然であって、決して逼迫期の必然的な付随現象ではないとも指摘している。だから支払手段に対する貨幣融通に対する圧迫から、一般的に逼迫期ににおいて「資本の欠乏」をいうのは間違いである。むしろ「資本」(商品資本)は市場に溢れているのだというのが、マルクスの言いたいことである。

 マルクスは『経済学批判』では次のように述べている。

 《つまり、国際的交換手段としての金の役割は、資本としてのその形態規定性から生じるのではなく、貨幣としての金の特有な機能から生じるのである。同様に金が、またはそのかわりの銀行券が、国内商業で支払手段として機能するときにも、それらは同時に資本でもある。しかし、商品の形態での資本は、たとえば恐慌が明白に示すように、金または銀行券のかわりをすることはできないであろう。だから、金が支払手段になるのは、やはり貨幣としての金と商品との区別によるのであって、資本としてのそれの定在によるのではない。》 (草稿集第3巻428頁)

 このようにマルクスは国際商業と同様に、国内商業でも支払手段として機能する貨幣は、同時に資本でもあると指摘している。しかし、商品の形態での資本は、逼迫期に明確になるように、金または銀行券の代わりをすることは出来ないのであり、だから貨幣が支払手段になるのは、その資本としての定在によるのではなく、商品と区別された貨幣としての定在においてなのである。このような意味で、それは支払手段なのであり、だからそれは「資本の問題」ではなく「貨幣の問題」だと言い得るのである。】

【補足】

 前回(29-3)、【4】パラグラフ(つまり「 I) 」の結論部分)の解説のところで貨幣資本(Geldcapital)と貨幣資本(moneyed Capital)という二つの貨幣資本の区別の重要性について、第28章のレジュメの冒頭部分でも強調していることを指摘したが、同じような問題を、大谷氏は「貴金属と為替相場」の草稿の考察の最後の当たりで論じていることに気づいたので、その部分を紹介しておきたい。これは2008年のサブプライム金融恐慌などの金融諸現象を理解する上でも重要なところであり、十分吟味して読む必要がある。それにこの一文は、大谷氏自身も--明確に述べているわけではないが--架空資本の架空性とは何かについて、再生産論を踏まえて初めて明らかになると考えているようにも思える部分でもある(なお下線は引用者である。大谷氏が「商品」と括弧付きで書いているものは、利子生み資本の投資対象としての金融商品や土地等であり、一般の商品とは異なるものであることに注意が必要である。だからこの場合の「商品」やその「売買」は外観であって、実際の内容は利子生み資本に固有の運動の「貸借」であることも注意して読んで頂きたい)。

 〈「マネーが世界を駆けめぐる」現代の資本主義世界では,実物資本ないし再生産から自立化したmonied capitalの諸形態,架空資本の諸形態としてのいわゆる「金融商品」--株式,証券,オプション,デリパティブ,土地,その他の利殖機会--や「商品」としての土地の流通に必要とされる貨幣の量が巨大なものに膨れあがっている。このような貨幣も中央銀行が発行する銀行券ないしそれへの請求権の一部であって,社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量と揮然一体となって,銀行の預金の一部をなしている。そこで,一見したところ,このような「商品」の流通に必要な貨幣の量も「流通に必要な貨幣量」の一部であるように見える。しかし,このような「商品」の流通に必要な貨幣量は社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣量とは本質的に異なるものであって,これとははっきりと区別されなければならない。それは,ありとあらゆる投資(利殖または投機)の機会ないし可能性がとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣であると同時に,その購買に支出されるのは,生産資本ではなくて増殖先を求めるmonied capitalであり,買われたのちにもこの「商品」はけっして再生産過程にはいらず,架空のmonied capitalの諸形態の一つにとどまる。さらに,流通貨幣の具体的な実存形態としての鋳貨準備(流通手段および支払手段の準備ファンド)とは区別される蓄蔵貨幣の形成は,現代ではそのきわめて大きな部分が,そのような増殖先を求めるmonied capitalの形成にほかならず,巨大なものに膨れあがったmonied capitalは,「商品」として買うべき増殖機会を見いだせないときにはmonied capitalとして銀行のもとに滞留するほかはない。そこで,架空なmonied capitalの流通のための「必要貨幣量」は,銀行制度を中心とする信用システムのなかで, したがってまたmonied capitalの運動と実物資本の運動との絡み合い--マルクスがまさに「5)信用。架空資本」の本論で解明しようとしたもの--のなかで,本来の社会的再生産のための「流通貨幣量」とどのように区別され, どのような仕方で絡み合っているのか, ということが問われることになる。現代の資本主義諸社会とその総体としての現代資本主義世界のなかで生じているこのような問題を具体的に分析するためには, 「資本の一般的分析」のなかで,架空資本としてのmonied capitalがとる形態としての「商品」の流通に必要な貨幣--これは結局のところmonied capitalそのものに帰着する--と実物的な社会的再生産を媒介する流通に必要な貨幣との関連が,しかも産業循環としての社会的再生産の運動の諸局面との関連において,理論的に解明されていなければならない。言うまでもなく,そのさいなによりもまず,兌換制のもとでの動きが明らかにされなければならない。マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる。〉 (93-4頁)

 ここでは大谷氏は〈マルクスが提起しながら,まだ答え終えていないと感じていた難問の一つはこの問題であって,このような意味でのmonied capitalと貨幣量との関連という問題の解明は,現代の具体的な諸問題の解明に連繋するものではないかと考えられる〉と述べている。確かにマルクスが「5)信用。架空資本」の本論とした「III) 」(現行版では第30-32章に該当)のなかではこの問題は十分展開されているとはいえないのであるが(その理由についてはすでに指摘したが、ただマルクスはこれもすでに指摘したように現行版の第33章では銀行学派が商品市場と貨幣市場との区別ができないことを批判しており、その意味では原則的な回答そのものは明らかだったのかも知れないのである)、しかし第2部第8稿においては、この問題を原則的に解決し、この両者は、現実には、確かに渾然一体となっているが、しかし概念的には明確に区別され、両者にはまったく関連がないことを指摘している。つまり社会的な再生産を媒介するに必要な貨幣量とmoneyed Capitalという形態をとっている貨幣量とは無関係なのである。これは商品市場と貨幣市場との区別にも通じるのであるが、貨幣市場において流通する貨幣(といってもそれはmoneyed Capitalとしての貨幣資本であるが)は、商品市場において流通する貨幣(これこそ言葉の真の意味での「通貨」であるが、今日では「預金通貨」や「国際通貨」などとも言われるように、「通貨」の概念そのものも混乱している)とはおよそ関係がないのである。マルクスは第2部草稿の第8稿で拡大再生産のために必要な貨幣量を論じたところで、こうした問題を基本的に解決したのである。再生産を媒介する貨幣は基本的には(金原産地とそれが資本家によって最初に流通に投じられる場合を除いて)W-G-Wであって、つまり何らかの商品の価値の実現形態であって、その必要量は商品の価格総額(と流通速度、および信用の状態)によって決まっており、これは『資本論』の第1巻第1篇で貨幣の抽象的諸機能とその流通法則として明らかにされているものである。こうした第1篇で解明されている諸規定(諸機能)と諸法則は、貨幣がそれ以上の具体的な形態規定性(機能諸規定)を帯びようともまったく変わらないものなのである。より具体的な諸規定は抽象的な諸規定(諸機能)の根拠をより具体的に内容豊かに明らかにするだけであって、抽象的な諸規定において明らかにされた諸法則そのものが変わるわけではないからである。それに対して、moneyed Capitalはこうしたものとは本質的に区別されるものなのである。というのは、これらは再生産、つまり社会の物質代謝には直接には関連しないものだからである。それらはすべて再生産の外部における信用(貨幣信用)に基づくものであり、だから物質代謝を媒介する貨幣量とは本質的に区別されるものなのである。物質代謝を媒介する貨幣の質的内容(規定性)や量的諸法則は、あくまでも物質代謝そのもの(価格総額)とその状態(流通の速度や信用状態)に規定されている。しかしmoneyed Capitalの運動は、それに究極的には制限されながらも、相対的に自立したものとして存在し、また運動するのだからである。
 大谷氏もレキシコンの「貨幣」篇の栞No.14で〈 「『貨幣』篇への補足」について〉で貨幣の三つの規定について述べているが、最初の二つの規定は社会的物質代謝に関連するが、第三の規定はそれらとは本質的に異なるものなのである(但し大谷氏は社会的物質代謝との関連で論じているわけではないが)。この第三の規定は〈発展した生産関係のもとで貨幣そのものがまったく新たな形態規定を受け取る〉ものと述べられている。また利子生み資本の概念を論じている草稿の第21章該当部分の前書きにおいても、〈 「貨幣資本論」と「貨幣市場としての資本」 〉と題して、この両規定における貨幣の違いについて、次のように述べている。

 〈これは(貨幣市場で対象となる貨幣、すなわちmoneyed Capitalは--引用者),「全生産過程の最も表面的な,そして最も抽象的な形態としての貨幣流通」の分析によって明らかにされる貨幣の最も抽象的な形態諸規定が,資本の展開のなかでより具体的に規定され,より具体的な内容規定をもつようになるということ(これはこれとして重要なことではあるが)とは異なる,貨幣そのものの展開,貨幣そのものが資本関係の発展によって新たなより高次の規定性をもつものに転化していく過程である。〉 (7頁)

 こうしたことからも「Geldcapitalとしての貨幣資本」と「moneyed Capitalとしての貨幣資本」との区別が如何に重要であるかが分かるであろう。マルクスが銀行学派の混乱も根本的にはこの両者の混同にあると見ている所以でもあるだろう。そしてこうしたことは銀行学派に限らず、現代の自称マルクス経済学者たちにさえも(同志会の林紘義他の諸氏にも)分かっていないのである。
 また上記の一文は、少し先走って指摘すれば、後に( 【27】パラグラフで)問題になるのであるが、マルクスが銀行にある蓄蔵貨幣の一部が証券(紙)からなっており、だから「純粋に幻想的なもの」だと述べていることとも関連している。つまりここでマルクスが述べている蓄蔵貨幣というのは、あくまでもmoneyed Capitalの準備金なのである。だからそれらは蓄蔵貨幣とはいうものの、「貨幣としての貨幣」としてのそれとは異なり、単なる紙でできていたり、単なる帳簿上の記録(預金)でしかなく(もっとも現代なら大型コンピューター上のデジタル信号でしかないのであるが)、だから「純粋に幻想的なもの」なのである。

(続く)

2015年12月 1日 (火)

林理論批判(26)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.4)

 前回の最後のパラグラフは次のようなものであった。

 《以上が、ほぼ第5章の第2節の内容なのである。つまり林氏がいうところの〈資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所〉としてもっとも相応しいのは、第5章第2節であるとわれわれは言うことができるであろう。》

 つまりわれわれは、『資本論』第1巻「第3篇 絶対的剰余価値の生産」の「第5章 労働過程と価値増殖過程」の特にその「第2節 価値増殖過程」の叙述を追って、その内容を確認してきたのであるが、今回からは、前回に引き続き、さらに「第6章 不変資本と可変資本」の叙述を追って、その内容を確認していく。
 なお前回もお断りしたように、文中、『資本論』からの引用はすべて全集版からであり、頁数のみ記してあるものは『資本論』第1巻の上(全集第23巻a)からのものである(しかし訳文は必ずしも全集版と同じではない場合もある)。

〈『海つばめ』「1138号(2011.1.9)【二~三面】“有用労働による価値移転論”批判――「スターリン主義経済学」一掃のために――それぞれの理論のそれぞれの課題を考えよ」〉の検討(2)

 (以下は、前回の文章に直接続いている)

 それでは続く第6章「不変資本と可変資本」では何が論じられているのか、またその目的は何なのか、それを次に見て行くことにしよう。

 この第6章の課題は、その冒頭の一文に明瞭に表れている。

 〈労働過程のさまざまな諸要因は、生産物価値の形成にさまざまな関与を行なう。〉(261頁)

 つまり〈労働過程のさまざまな諸要因〉とは、〈労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である〉(235頁)。すなわち(1)まず「労働」そのもの、(2)「労働対象」(原料)、(3)「労働手段」の三つである。あとの二つは全過程をその結果である生産物の立場からみれば、「生産手段」として現われ、労働は「生産的労働」として現われるとマルクスは述べていた。
 つまりマルクスはこの第6章では、労働、労働対象、労働手段の諸要因が生産物価値の形成にどのように関与するのかを明らかにし、その上で、投下された資本の特徴づけを不変資本と可変資本という新たな形態規定性として確定しようとしているわけである。だからマルクスはまず次のように述べている。

 〈労働者は、彼の労働の一定の内容、目的、および技術的性格がどのようなものであれ、一定量の労働をつけ加えることによって、労働対象に新たな価値をつけ加える。他方では、われわれは、消耗された生産諸手段の価値を、生産物価値の構成諸部分として、たとえば綿花と紡錘との価値を糸価値の中に、ふたたび見いだす。したがって、生産諸手段の価値は、それが生産物に移転することによって維持される。この移転は、生産諸手段の生産物への転化のあいだに、労働過程中に、行なわれる。それは労働によって媒介されている。では、どのように行なわれるのか?〉(同)

 これを見ると、生産手段の価値は、それが生産物に移転することによって維持される、ということは、少なくとも価値増殖過程の分析によって明らかであったことが指摘されている。そもそもそれは現象を現象のままに見たとしても明瞭なことであり、古典派経済学でも周知のことであったのである。そしてこれはわれわれがすでに見たように、第1章第1節の価値の規定のなかにもすでに含意されていたことでもあるのである。
 だから問題は生産手段の価値が生産物に移転されて維持されるのかどうかではない。そんなことはすでに前提ずみのことなのである。ここで問題なのはその移転は労働によって媒介されているが、それは〈では、どのように行なわれるのか?〉ということがここで解明されるべきことなのである。つまり生産手段の価値は生産物に移転されて生産物の価値の構成部分になるということは、われわれはすでに価値の「本性」(林氏のお好みの言葉を使えば)からも了解ずみのである。しかしそれが、では、実際にはどのように行われるのか、ということはこれから解明すべきことなのである。それがまずこの第6章の課題であることが分かる。そしてマルクスは次のように続けている。

 〈労働者は同じ時間内に二重に労働するのではない。すなわち、一つには彼の労働によって綿花にある価値をつけ加えるために、もう一つには綿花の旧価値を維持するために--あるいは同じことであるが、彼が加工する綿花の価値と彼が労働するのに用いる紡錘の価値とを、生産物すなわち糸に移転するために--労働するのではない。むしろ、単に新価値をつけ加えることによって、労働者は旧価値を維持するのである。しかし、労働対象に対する新価値のつけ加えと生産物における旧価値の維持とは、労働者が同じ時間内に一度しか労働しないのにその同じ時間内に生みだす二つのまったく相異なる諸結果なのであるから、結果のこの二面性は、明らかに彼の労働そのものの二面性からのみ説明できる。同じ時点において、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を維持または移転しなければならない。
 それぞれの労働者は、どのようにして労働時間を、したがって価値を、つけ加えるのか? それはつねに彼特有の生産的労働様式の形態でのみ行なわれる。紡績工は紡ぐことによってのみ、織物工は織ることによってのみ、鍛冶工は鍛造することによってのみ労働時間をつけ加える。しかし、彼らが労働一般、したがって新価値をつけ加える際の目的に即した形態によって、すなわち紡ぐこと、織ること、鍛造することによって、生産諸手段である綿花と紡錘、糸と織機、鉄と鉄敷(カナシキ)は、一生産物の、新たな一使用価値の、形成諸要素となる。生産諸手段の使用価値のもとの形態は消えうせるが、しかし使用価値の新たな一形態で出現するためにのみ消えうせる。ところが、価値形成過程の考察の際に明らかになったように、一使用価値が新たな一使用価値の生産のため、その目的に即して消耗される限りでは、消耗された使用価値の生産のために必要な労働時間は、新たな使用価値の生産のために必要な労働時間の一部分をなすのであり、したがってそれは、消耗された生産手段から新生産物に移転される労働時間なのである。したがって労働者が消耗された生産諸手段の価値を維持するのは、すなわちそれらの価値を価値構成部分として生産物に移転するのは、労働一般をつけ加えることによってではなく、この付加的労働の特殊な有用的性格によって、それの特有な生産的形態によってである。このような目的に即した生産活動としては、すなわち紡ぐこと、織ること、鍛造することとしては、労働は、ただ接触するだけで生産諸手段を死からよみがえらせ、それらに精気を吹きこんで労働過程の諸要因にし、それらと結合して生産物となるのである。
 労働者の特有な生産的労働がもし紡ぐことでないなら、彼は綿花を糸には転化しないであろうし、したがって綿花と紡錘との価値を糸に移転しもしないであろう。これに反して、同じ労働者が職業を変えて指物工になるとしても、彼はあい変わらず一労働日によって彼の材料に価値をつけ加えるであろう。したがって労働者が彼の労働によって価値をつけ加えるのは、彼の労働が紡績労働または指物労働である限りにおいてではなく、それが抽象的社会的な労働一般である限りにおいてであり、また彼が一定の大きさの価値をつけ加えるのは、彼の労働がある特殊な有用的内容を持つからではなく、それが一定の時間続けられるからである。したがって紡績工の労働は、その抽象的一般的属性においては、すなわち人間労働力の支出としては、綿花と紡錘との価値に新価値をつけ加え、紡績過程としてのその具体的な、特殊な、有用な属性においては、これらの生産手段の価値を生産物に移転し、こうしてそれらの価値を生産物において維持する。そこから、同じ時点における労働の結果の二面性が生じる。
 労働の単なる量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産諸手段の旧価値が生産物において維持される。労働の二面的性格の結果として生じる同じ労働のこの二面的作用は、さまざまな現象において手に取るように示される。〉(261-3頁)

 このようにマルクスは〈紡績工の労働は、その抽象的一般的属性においては、すなわち人間労働力の支出としては、綿花と紡錘との価値に新価値をつけ加え、紡績過程としてのその具体的な、特殊な、有用な属性においては、これらの生産手段の価値を生産物に移転し、こうしてそれらの価値を生産物において維持する〉と明確に述べている。しかし〈具体的な、特殊な、有用な属性においては、これらの生産手段の価値を生産物に移転し、こうしてそれらの価値を生産物において維持する〉とは言っても、何か具体的有用労働が、生産手段の価値に何らかの作用を及ぼして、その価値を新たな生産物の価値に移転して維持するなどとは述べていない。〈価値形成過程の考察の際に明らかになったように、一使用価値が新たな一使用価値の生産のため、その目的に即して消耗される限りでは、消耗された使用価値の生産のために必要な労働時間は、新たな使用価値の生産のために必要な労働時間の一部分をなすのであり、したがってそれは、消耗された生産手段から新生産物に移転される労働時間なのである〉と述べているように、こうしたことは、価値形成過程における考察を前提にして述べていることが分かる。問題は生産手段を生産的に消費し、新たな生産物として生み出すのは、具体的な有用労働によってであるのだから、だからそうした価値の移転と維持も、具体的有用労働によってなされるのだと説明しているだけである。だから〈労働力の“使用価値”(具体的有用労働)が「価値」の概念の根底に入り込み、適用される〉(1135号林論文)などという林氏の理解は、まったく誤解も甚だしいと言わ無ければならないのである。林氏は、ただ自身の勘違い(間違い)をマルクスに押しつけているに過ぎないのである。

 さて、マルクスは次のようにも論じている。これは林氏も別のところで問題にしているから、われわれは先取りして、それを検討しておこう。

 〈価値は、価値章標における単なる象徴的な表現を別にすれば、一つの使用価値、一つの物の中にのみ存在する。(人間そのものも、労働力の単なる定在として考察すれば一つの自然対象であり、たとえ生きた自己意識を持った物であるとしても、一つの物なのであって、労働そのものはこの労働力の物的発揮である。)それゆえ、使用価値がなくなれば、価値もまたなくなる。生産諸手段は、それの使用価値と同時にその価値を失いはしない。なぜなら、生産諸手段が労働過程を通してその使用価値の最初の姿態を失うのは、実のところ、生産物において別なある使用価値の姿態を獲得するためでしかないからである。しかし、価値にとっては何らかの使用価値のうちに存在するということがいかに重要であるとしても、商品の変態が示すように、どのような使用価値のうちに存在するかということはどうでもよいことである。以上のことから結論されるのは、労働過程において、価値が生産手段から生産物に移行するのは、生産手段がその独立の使用価値と共に、その交換価値をも失う限りだということである。生産手段は、それが生産手段として失う価値だけを生産物に引き渡す。しかし、労働過程の対象的諸要因は、この点について、それぞれ異なった事情にある。〉(265頁)

 価値は一つの使用価値、一つの物の中にのみ存在する。そしてこれは労働力商品の価値についても言いうるとマルクスは述べている。だから使用価値がなくなれば、価値もまたなくなる、と。しかし生産諸手段の場合は、その使用価値と同時にその価値を失わない。なぜなら、生産諸手段は労働過程を通してその使用価値の最初の姿態を失うのは、生産物において別なある使用価値の姿態を獲得するためでしかないからだ、というのである。そして〈価値にとっては何らかの使用価値のうちに存在するということがいかに重要であるとしても、商品の変態が示すように、どのような使用価値のうちに存在するかということはどうでもよいことである〉と指摘する。つまり価値というのは確かに物的存在の中にあるのであるが、それ自体は、まぼろしのような社会的な実体なのであり、その限りではさまざまな使用価値に移転することも可能なのだというわけである。そしてこうしたことから、マルクスは〈労働過程において、価値が生産手段から生産物に移行するのは、生産手段がその独立の使用価値と共に、その交換価値をも失う限りだということである。生産手段は、それが生産手段として失う価値だけを生産物に引き渡す。しかし、労働過程の対象的諸要因は、この点について、それぞれ異なった事情にある〉と。ということは生産手段は使用価値を失うと共に、交換価値をも失うが、しかし失った価値だけを生産物に引き渡すのであり、あるいは引き渡すから、その引き渡した分だけ失うのだとも言えるわけである。ここらあたりは労働過程の対象的諸要因によって、その引き渡し方はさまざまであることを前提して、このようにマルクスが述べていることが分かる。つまり労働対象(原料)などは生産的に消費されるだけ価値も引き渡されるが、労働手段などはその磨滅分だけ引き渡すというわけである。

 マルクスは労働対象や労働手段の価値の引き渡される条件を考察したあと、次のように指摘する。

 〈このようにして、生産手段は、それが労働過程においてそれ自身の使用価値の破壊によって失う価値以上の価値を生産物に引き渡すことは決してないということが、はっきりわかる。もし生産手段が失うべき価値を持っていないならば、すなわちそれ自身が人間労働の生産物でないならば、それは何の価値も生産物に引き渡さないであろう。それは、交換価値の形成者として役立つことがなく、使用価値の形成者として役立つであろう。したがって、人間の関与なしに天然に現存するすべての生産諸手段の場合、大地、風、水、鉱脈内の鉄、原生林の木材等の場合がこれである。〉(266-7)

 ここでは生産手段は失う価値以上の価値を生産物に引き渡さないということが指摘されている。つまり価値としては「不変」であるということがである。しかし、この段階ではまだこれが主要な問題ではないことは、続く一文からも明らかである。

 その次にマルクスが述べている〈もう一つの興味ある現象〉(267)というのは、〈労働過程の一要因である生産手段は、労働過程へは全体として入りこむが、価値増殖過程へは部分的に入りこむだけだということ〉(同)、あるいは〈労働過程と価値増殖過程との区別は、同じ生産手段が同じ生産過程において、労働過程の要素としては全体として計算に入り、価値形成の要素としては一部分ずつ計算に入るにすぎないということによって、それらの過程の対象的諸要因に反映する〉(同)という事実である。労働過程としてはすべての生産過程の諸要因は問題になり数えられるが、価値形成の要因としては一部ずつしか問題にならないというわけである。また〈ある生産手段は、部分的に労働過程に入りこむだけであるにもかかわらず、価値増殖過程には全体として入りこむことがありえる〉(268)とも指摘されている。つまり綿花などは綿くずとして落ちるものは、労働過程には入らないのに、価値形成過程としては入るというわけである。
 そしてマルクスは生産手段は、その持っている価値以上の価値を引き渡さないということをもう一度、次のように指摘している。

 〈生産諸手段は、それらが役立つ労働過程とはかかわりなく持っている価値よりも多くの価値を生産物につけ加えることは決してできない。ある労働材料、ある機械、ある生産手段がどんなに有用であろうと、それに一五〇ポンド・スターリングたとえば五〇〇労働日を費やすならば、それが、役だって形成される総生産物に対して、一五〇ポンド・スターリング以上のものをつけ加えることは決してない。〉(269頁)

 そしてもう一度、マルクスは次のように指摘している。

 〈労働者は、もとの価値を維持することなしには新たな労働をつけ加えることはできず、したがって新たな価値を創造することはできない。というのは、彼はつねに一定の有用的形態で労働をつけ加えなければならないのであり、しかも諸生産物を新たな一生産物の生産諸手段にし、そうすることによってそれらの生産物の価値を新たなその生産物に移転することなくしては、有用的形態で労働をつけ加えることはできないからである。したがって、価値をつけ加えることによって価値を維持するということは、自己を発現している労働力すなわち生きた労働の天性というべきものである。〉(270頁)

 これはまさに労働が一方で具体的有用労働であるとともに抽象的人間労働であるということから来る。その抽象的人間労働として価値を形成するためには、具体的有用労働して、使用価値を生産しなければならないように、その使用価値の生産において、生産手段の価値を新たな生産物に移転するわけである。次の一文も以前も引用したが、もう一度、引用しておこう。

 〈一般に生産諸手段において消耗されるのはそれらの使用価値であり、この使用価値の消費によって労働は生産物を形成する。生産諸手段の価値は、実際には、消費されず、したがってまた再生産されえない。それらの価値は維持されるのであるが、しかし、労働過程において価値そのものにある操作が加えられるから維持されるのではなく、もともと自己のうちに価値を存在させている使用価値が、たしかに消滅するからこそ、とはいっても消滅して他の使用価値になるにすぎないからこそ、維持されるのである。それゆえ、生産諸手段の価値は生産物の価値の中に再現するのであるが、しかし厳密に言えば、それは再生産されるのではない。生産されるのは、新たな使用価値であり、その中で旧交換価値が再現するのである。〉(271)

 生産手段の価値が保存されるのは、生産手段の価値に労働過程で何らかの操作が加えられてそうされるのではない。〈もともと自己のうちに価値を存在させている使用価値が、たしかに消滅するからこそ、とはいっても消滅して他の使用価値になるにすぎないからこそ、維持されるのである〉。

 次に、マルクスは考察の対象を変換して、〈労働過程の主体的要因、自己を発現している労働力の場合〉について論じている。つまりここから(272頁)、可変資本の考察に移っている。しかし可変資本の考察はわずかである。というのはすでにそれについてはわれわれは価値増殖過程において十二分に考察したからである。例えば、マルクスは次のように述べている。

 〈労働過程の主体的要因、自己を発現している労働力の場合は、事情が違う。労働は、その合目的的な形態によって生産諸手段の価値を生産物に移転し維持するあいだに、その運動の各瞬間に、付加的価値すなわち新価値を形成する。労働者が彼自身の労働力の価値との等価物を生産した点、たとえば六時間の労働によって三シリングの価値をつけ加えた点で、生産過程が中断すると仮定しよう。この価値は、生産物価値のうち、生産諸手段の価値に帰せられる構成部分を超える超過分を形成する。この価値は、この過程の内部で生じた唯一の本来の価値であり、生産物価値のうちこの過程そのものによって生産されている唯一の部分である。たしかにこの価値は、資本家によって労働力の購買に際して前貸しされ、労働者自身によって生活諸手段に支出された貨幣を補填するものでしかない。支出された三シリングとの関係で見ると、三シリングの新価値は再生産としてのみ現われる。しかし、この価値は、現実的に再生産されているのであって、生産諸手段の価値のように単に外見的にのみ再生産されているのではない。ある価値の他の価値による補填は、この場合には新たな価値創造によって媒介されている。
 けれども、すでにのべたように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価物が再生産され、労働対象につけ加えられる点を超えて続行される。この等価物のために十分である六時間ではなく、この過程はたとえば一二時間続けられる。したがって、労働力の発現により、それ自身の価値が再生産されるだけでなく、ある超過価値が生産される。この剰余価値は、生産物価値のうち、消耗された生産物形成者--すなわち生産諸手段および労働力--の価値を超える超過分をなす。〉(272-3)

 しかしこうしたことはすでにわれわれは価値増殖過程において考察ずみのなのことである。

 だからマルクスは、この第6章の結論として「不変資本」と「可変資本」という規定を与えている。すなわち次のように。

 〈われわれは、労働過程のさまざまな諸要因が生産物価値の形成において演じるさまざまな役割を叙述することによって、実際には、資本それ自身の価値増殖過程における、資本のさまざまな構成諸部分の機能を特徴づけた。生産物の総価値のうち、それの形成諸要素の価値総額を超える超過分は、価値増殖した資本が最初に前貸しされた資本価値を超える超過分である。一方における生産諸手段と他方における労働力とは、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて、労働過程の諸要因に転化する際にとったさまざまな存在諸形態にすぎない。
 したがって、資本のうち、生産諸手段すなわち原料、補助材料、および労働手段に転換される部分は、生産過程でその価値の大きさを変えない。したがって私は、これを不変資本部分、または単純に不変資本と名づける。
 これに反して、資本のうち、労働力に転化される部分は、生産過程でその価値を変じる。この部分は、それ自身の等価物と、これを超えるある超過分である剰余価値とを再生産するのであり、この剰余価値はそれ自身変動しえるのであって、より大きいこともより小さいこともありえる。資本のこの部分は、一つの不変量からたえず一つの可変量に転化する。したがって私は、これを可変資本部分、または単純に可変資本と名づける。労働過程の立場からは客体的要因および主体的要因として、生産諸手段および労働力として、区別される同じ資本構成諸部分が、価値増殖過程の立場からは不変資本および可変資本として区別される。〉(273頁)

 こうして、われわれは労働過程の立場からみた生産手段と労働力が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本という新たな形態規定性を獲得し、区別されることを知ったのである。その意味では、確かに不変資本・可変資本という概念を明確にするこの第6章は価値増殖過程と関連していることは明らかである。しかし林氏が〈資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所〉というようなところは、やはり第6章ではなく、第5章の第2節の価値増殖過程であるというべきであろう。というのは、この第6章では、決して〈資本の根本的概念〉が与えられたのではなく、「不変資本」「可変資本」という価値増殖過程で、生産手段や労働力がとる新たな形態規定性が明らかにされたのだからである。

 以上、われわれはながながと横道にそれたのであるが、しかし林氏の〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解することなくしては、その意味を本当に理解することはできない〉というもっともらしいご高説にもとづいて、実際に、『資本論』の叙述を追って、そこでマルクスは何を明らかにしようとしているのかをみてみたわけである。すなわち〈「有用的労働による価値移転」という“理論”も、マルクスがいかなる問題を理論的に解決(明)しようとしているかとの関連で理解〉しようとしてきたわけなのである。
 しかしその結果、分かったのは、林氏はここで自分が述べているご高説に忠実ではないということである。というのは林氏がいうところの〈資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所〉というのは、第5章第2節の価値増殖過程の分析においてであって、決して〈「有用的労働による価値移転」という“理論”〉が説明されている第6章ではないからである。そして第6章そのものは、生産過程における、生産手段と労働力が価値増殖過程の立場からみれば、不変資本と可変資本という形態規定性を受け取ることが説明されているだけで、そこは決して〈資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所〉とは言えないからである。だからその意味では、〈「有用的労働による価値移転」という“理論”〉というのは、あくまでもマルクスが第6章の冒頭で〈労働過程のさまざまな諸要因は、生産物価値の形成にさまざまな関与を行なう〉という問題を論じる過程の一環として述べられていることであり、生産手段の価値が生産物に移転されたとしても、そのもともと持っている価値以上のものを移転されるわけではない、などということはいわば結論的に述べられていることでしかないし、そのことによって資本の搾取のカラクリを明らかにしようという意図がマルクスにあるわけではないことも分かったのである(資本の搾取のカラクリそのものはすでに第5章第2節で与えられているから、当然である)。林氏は自身の立派なご高説に決して忠実ではないことをわれわれはもう一度確認しておこう。そしてもう一度、林氏の一文を引用して、そこにある巧妙な誤魔化しを暴露しておこう。林氏は「1、問題の前提」の冒頭次のよう書いていた。

 〈マルクスが「有用的労働による価値移転」を語っているのは、『資本論』の第一巻第三篇第五章と六章、とりわけ六章である。そこではマルクスは、「自己増殖する価値」としての資本の外面的な形式を提示した上で、資本の概念を与えている個所、つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている個所である。〉

 まず林氏は〈マルクスが「有用的労働による価値移転」を語っているのは、『資本論』の第一巻第三篇第五章と六章、とりわけ六章である〉と第5章と第6章をいっしょくたにして論じている。ここにすでに巧妙な誤魔化しがある。というのは、すでにみてきたように、〈 有用労働による価値移転」を語っているのは〉、第6章だからである。確かにマルクスが「有用労働による価値移転」を論じるときには、第5章の第2節「価値増殖過程」の分析が前提になっている。しかし前提になっているというなら、第2節は第1節「労働過程」の考察が前提になっており、第3篇「絶対的剰余価値の生産」は第2篇「貨幣の資本への転化」が前提になり、第2篇は第1篇「商品と貨幣」が前提になっているのである。だからそういうことからそれらを一緒くたにして論じるなら、それこそ〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解する〉ことができなくなるであろう。
 林氏が第5章と第6章を一緒くたに論じるのは、〈「有用労働による価値移転」論〉を〈資本の概念を与えている個所、つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている個所〉と結びつけたいからである。というのは〈資本の概念を与えている個所、つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている個所〉というのは、すでにわれわれがみてきたように、第5章の第2節だからである。しかし本当は〈「有用労働による価値移転」論〉というのは〈資本の概念を与えている個所、つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている個所〉とは直接には関連していないし、そこでの課題もそうしたものではないことをわれわれは確認してきたのである。林氏もそれを知っているのだが、しかし〈「有用労働による価値移転」論〉を何か狭い限定された問題のための「理屈」であると理解したい林氏としてはそうした誤魔化しが必要だったというわけである。
 また林氏は〈そこではマルクスは、「自己増殖する価値」としての資本の外面的な形式を提示した上で〉とも書いている。その前の文章からの続きを考えるなら、この〈そこでは〉は、〈『資本論』の第一巻第三篇第五章と六章、とりわけ六章〉を指すと考えられるが、しかしわれわれは第5章にも第6章にもそうしたものを見いだすことはできなかったわけである。というのは、それは第2篇第4章「貨幣の資本への転化」で明らかにされていることだからである。そしてわれわれはこの第2篇第4章で提起された課題--“ここがロドスだ、ここで跳べ!”--が、第5章第2節で見事に解決されていることを確認したのである。つまり林氏がいうような〈「自己増殖する価値」としての資本の外面的な形式〉の背後に隠されている〈搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにし〉〈資本の概念を与えている個所〉というのは、第5章第2節であるということである。こうした真実を林氏は誤魔化しているのである。林氏が〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解することなくしては、その意味を本当に理解することはできないのであって、ただあれこれの理念や言葉だけをそのまま受けとればいいというものではない〉という自身のもっともらしいご高説に決して忠実ではないことが分かるであろう。

それではもう一度、林氏の論文にもどることにする。

 (以下、続く)

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