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2015年12月29日 (火)

林理論批判(30)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.8)

 今回は、三つ目の項目〈◆3、価値移転論と「再生産表式」〉の批判的検討である(以下、『資本論』からの引用で頁数のみを記しているものは、すべて全集版23aの頁数)。

〈『海つばめ』「1138号(2011.1.9)【二~三面】“有用労働による価値移転論”批判――「スターリン主義経済学」一掃のために――それぞれの理論のそれぞれの課題を考えよ」〉の検討(6)

◆3、価値移転論と「再生産表式」 (記事の表題をそのまま紹介)

 林氏は『資本論』の周知の単純再生産の出発表式を例示して、次のように述べている。

(1) 〈この表式でマルクスが主張し、明らかにしようとすることは、基本的に、社会的な総資本が新しく循環運動を開始するためには、第一部門の可変資本(一〇〇〇)及び剰余価値(一〇〇〇)と、第二部門の不変資本(二〇〇〇)は相互に補填し合い、置換されなくてはならない(社会的総生産が実際に行われるなら、こうした関係が存在している)、ということである。〉

 しかしこれは〈この表式でマルクスが主張し、明らかにしようとすること〉としては、問題の一面化以外の何物でもない。社会的な総資本の再生産は決して部門 I と部門IIの相互補填に集約されないし、そのように考えることは再生産の正しい理解とはいえない。部門 I の不変資本の相互補填や部門IIのV+Mの間の補填関係も決してどうでもよい問題ではないからである。
 そればかりか部門 I の不変資本の問題は、マルクスが第2部第8稿(『資本論』の最後の草稿)においても、結局は最後まで解明できなかったと思えるほどの難題を抱えていると思える問題なのである。これについて詳しく説明するとあまりにも横道にそれてしまうが、例えば現行の第2部第20章「単純再生産」の第10節「資本と収入 可変資本と労賃」は、草稿では本来は単純再生産の考察に該当する部分の一番最後に書かれており、しかもそのパラグラフの冒頭は次のような書き出しで始まっているのである(これをエンゲルスは編集段階で削除した)。

 〈 3) I          1000v+1000m
                           および単純再生産の全構図
      II  2000c+500v+500m

に後に立ち戻ることの保留をつけて、今やわれわれはさしあたり I )4000cに目をむけることにしよう。〉

 だからこの部分でマルクスが本来意図したのは「 I )4000c」、つまり部門 I の不変資本部分の考察だったのである。しかしマルクスはその考察を最後まで行うことなく、途中で切り上げて、第21章「蓄積と拡大再生産」に該当する部分の考察に移ってしまっているのである。だからエンゲルスは、そのいまだ端緒的な考察だけの未完成な部分を何とか生かすために、その内容を考えて上記のような表題(「資本と収入 可変資本と労賃」)を付けて、第9節「アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジへの回顧」という項目の後に持ってきたのが、現行の第10節なのである。つまりマルクスは第8稿の段階でも、結局は、第Ⅰ部門の不変資本部分の考察については最後まで追求することなく、未完成に終わっているともいえるのである。だからこそ単純再生産の表式でマルクスが問題にしているものを、ただ部門 I と部門IIとの補填関係だけに還元するのはあまりにも一面的に過ぎるといわざるをえないのである。

(2) 〈個別資本の再生産では、不変資本は、再生産過程で消費された分だけ、生産物に転移するものとして現象する。流動資本はそのまますべての価値が、固定資本は耐久期間によって規定された価値が移転する。例えば、期間が区切られた期間(例えば、一年)の十倍なら、その期間(一年)には十分の一だけの価値が「移転」する、等々。これらはすべて、社会的生産が資本の再生産として行われるためにとる、一つの仮象であるにすぎない。〉

 ここでは林氏は〈不変資本は、再生産過程で消費された分だけ、生産物に転移するものとして現象する〉のは〈個別資本の再生産〉の場合だけであるかに述べているが、これは決して正しくない。すでにわれわれが見てきたように、社会的総資本の再生産においてもそれは同じだからである。またそれが〈社会的生産が資本の再生産として行われるためにとる、一つの仮象であるにすぎない〉というのも正しくない。それは決して単なる〈仮象〉と言ったものではないからである。「デジタル大辞泉」によれば、【仮象】 《(ドイツ)Schein》というのは、「実在的対象を反映しているように見えながら、対応すべき客観的実在性のない、単なる主観的な形象。仮の形。偽りの姿」との説明がある。つまり仮象というのは、単なる主観的な形象、偽りの姿ということであるが、不変資本の価値が生産物に移転するということは決してそういうものではないからである。そもそも商品の価値というのは、社会的な物質代謝を維持するために、その商品の使用価値を生産するために、与えられた生産力のもとで、社会の総労働のどれだけが配分されるべきかを示すものである。それが商品生産社会では、商品の価値として、その交換関係のなかで客観的に法則的に決まってくるものである。そして社会の総労働がそれぞれの使用価値の生産部門における生産力にもとづいて、どれだけを配分すべきかということは、社会形態が如何なる形態をとろうと必要なことであり、決して資本主義的生産だけの仮象の問題ではない。マルクスはクーゲルマンへの手紙で次のように述べている。

 〈どんな国民でも、一年はおろか、二、三週間でも労働を停止しようものなら、くたばってしまうことは、どんな子供でも知っています。どんな子供でも知っていると言えば、次のことにしてもそうです、すなわち、それぞれの欲望の量に応じる生産物の量には、社会的総労働のそれぞれ一定の量が必要だ、ということです。社会的労働をこのように一定の割合に配分することの必要性は、社会的生産の確定された形態によってなくなるものではなく、ただその現われ方を変えるだけのことというのも、自明のところです。自然の諸法則というのはなくすことができないものです。歴史的にさまざまな状態のなかで変わり得るものは、それらの法則が貫徹されていく形態だけなのです。そして社会的労働の連関が個々人の労働生産物の私的交換をその特微としているような社会状態で、この労働,の一定の割合での配分が貫徹される形態こそが、これらの生産物の交換価値にほかならないのです。
 価値法則がどのように貫徹されていくかを、逐一明らかにすることこそ、科学なのです。〉(全集第32巻454-5頁、下線はマルクス)

 だから生産手段の生産に支出された社会的労働の一部が新しい生産物に引き継がれ、その生産物を生産するに必要な労働時間の一部になるということは、決して商品生産や資本主義的生産に固有のものではない。それは将来の社会においても、社会は総労働を直接社会的に結びけて配分するためにはあらかじめ計算しなければならない問題なのである(もちろん、すべての労働が直接社会化されている将来の社会では、個々の生産物に対象化された労働が価値として移転するといった現象は生じない。しかし生産手段を生産する労働も含めてあらゆる労働が直接社会的に結びつけられて合目的的・意識的に支出されるということでは本質的には同じである。商品生産社会では、それが直接的・意識的なものではなく、対象化された労働、すなわち価値の移転として事後的・偶然的に客観的に貫くものとして現象しているのである)。それとも林氏は資本主義的生産以外では、生産物は生産手段なしに生産できるとでも思っているのであろうか。あるいは将来の社会では、生産物の生産に必要な労働時間というのは、その生産物を生産するために最後に直接支出された労働時間だけを計算すればよいと考えているのであろうか。
 労働過程の諸契機--労働、労働対象、労働手段--は如何なる社会形態にかかわりなく存在するものとして『資本論』では考察されている。そして労働過程の結果である生産物の立場から見た場合、労働が生産的労働として現われ、労働対象と労働手段とが生産手段として現われるのも、あらゆる社会に共通のことである。だから生産手段の生産に必要な労働時間が、その生産手段によって生産された生産物を生産するに必要な労働時間の一部分をなすということは、決して、商品生産や資本主義的生産に固有のものではない。それは将来の社会においても同じである。そして生産手段がその物質的特性によって、生産される生産物に物的に形態変化して生産物の中に移行するのか、それとも生産過程で物的形態を維持しながら、徐々に磨滅するだけなのかということも、やはり社会的関係には無関係の物質的な問題である。だから生産手段の生産のために支出された労働時間が、生産物の生産に必要な労働時間の一部分としてどれだけ計算に入れるべきかということは、その生産手段の生産過程における物質的な振る舞いによって規定されているということも、やはり社会形態に関わりなく問題になることなのである。生産手段の価値が生産物に移転するというのは、ただそうした生産物を生産するに必要な労働時間を社会が総労働のなかから意識的に配分するのではなく、そうした「自然の諸法則」を商品の価値として、それらの交換を通じて貫徹する法則として存在している商品生産に固有のものではあるが、しかしそれはそうした客観的な「自然の諸法則」の歴史的な貫徹形態としてそうであるに過ぎないのであって、決して、単なる仮象といったものではないのである。

(3) 〈マルクスの再生産表式は、抽象した形でみれば、ただ社会の総労働の三分の二が生産手段の生産のために配分され、支出され、他方、三分の一が生活手段の生産のために支出されたということを語っている。
 ここでは、社会が年々消費する生活手段のための労働の総量は、生産手段に支出されたものと、生活手段に支出されたものの合計として現われる。ここで、まず生産手段を生産するための生産手段が生産され、次いで生活手段を生産するための生産手段が生産され、最後に生活手段を生産することになる、といった“時系列の”順序はどうでもいいことである、というのは、社会がその期間(例えば、一年間等々)に必要な総労働と、その配分だけが問題だからである。それらは“同時並行的に”行われるのであり、また実際にも行われているのである。〉

 ここで林氏は〈総労働〉を問題にしているが、これをどれだけのものとして考えているのであろうか。すなわち、それは労働時間としては、3000の価値として対象化されているものでしかないということが果たして林氏には分かっているのであろうか。この〈総労働〉は具体的有用労働としては、9000の価値ある生産物を一年間で生み出したのであるが、しかし抽象的人間労働としては、同じ一年間にただ3000の価値を追加しただけであることが分かってこのように言っているのか、それが問題である。その答えは、後にわれわれは知ることになる。
 〈ここでは、社会が年々消費する生活手段のための労働の総量は、生産手段に支出されたものと、生活手段に支出されたものの合計として現われる〉と林氏はいう。果たしてその本当の内容を理解して言っているのか、それが問題である。われわれは具体的数値を入れて、検討してみよう。単純再生産の出発表式に表されている〈社会が年々消費する生活手段〉は3000の価値ある商品資本として存在している。それを前年度一年間で直接生産したのは、部門IIの労働者である。彼らは2000の価値を持つ生産手段(この生産手段は前々年度に部門 I の労働者によって生産されたものである)に、一年間に500という自身の労働力の価値に相当する価値を追加するだけではなく、さらに500の剰余価値を資本家のために追加してやり、こうして3000の価値ある消費手段を生み出したのである。だから部門IIの労働者が新しく追加した価値は1000である。消費手段の総価値3000のうち、残りの2000は生産手段から移転されたものである。出発表式の「第II部門(消費手段)2000c+500v+500m=3000」が示しているのはこうしたことである(いうまでもなく、cは不変資本、vは可変資本、mは剰余価値である)。
 ではもう一つの「第 I 部門(生産手段)4000c+1000v+1000m=6000」は何を表しているのか。これは前年度一年間で生産された生産手段は6000の価値ある商品資本として存在し、これから流通するために流通過程に押し出されていることを示している。そしてその価値構成を見ると、6000の生産手段の価値のうち4000は生産手段を生産するための生産手段(これは前々年度に部門 I の労働者が生産したものである)から移転されたものであり、1000vは部門 I で働いた労働者が自身の労働力の価値1000に相当するものを新たな価値として生産手段に追加し、さらに1000mの剰余価値をも追加したことを表している。だから林氏が〈社会が年々消費する生活手段のための労働の総量は、生産手段に支出されたものと、生活手段に支出されたものの合計として現われる〉と述べている本当の意味は、「社会が年々消費する生活手段のための労働の総量は、部門 I の労働者が前々年度に支出したものと、部門IIの労働者が前年度に支出したものの合計として存在している」ということである。もちろん、部門 I の労働者は彼らの消費分と部門 I の資本家の消費分と同じ価値をもつ生産手段を前年度に生み出しているが、しかしそれは直接には生産手段という物的形態を持っており、消費手段として存在しているのではない。彼らはその生産手段を今年度において部門IIで前年度に生産された消費手段と交換して、消費するわけである。再生産表式が示しているのはこのことである。

 〈ここで、まず生産手段を生産するための生産手段が生産され、次いで生活手段を生産するための生産手段が生産され、最後に生活手段を生産することになる、といった“時系列の”順序はどうでもいいことである、というのは、社会がその期間(例えば、一年間等々)に必要な総労働と、その配分だけが問題だからである。それらは“同時並行的に”行われるのであり、また実際にも行われているのである〉と述べているが、〈社会がその期間(例えば、一年間等々)に必要な総労働〉はどれだけかを林氏はご存じなのだろうか。この場合、社会の総労働は3000しかないのである(3000の価値として対象化される労働時間しかない)。林氏は〈その配分だけが問題だ〉というが決してそうではない。なぜなら、それらの総労働が支出されるためには、どれだけの生産手段を必要とするか、ということが問題にされなければならないからである。確かに〈それらは“同時並行的に”行われるのであり、また実際にも行われているのである〉が、それぞれが必要とする生産手段は決して同じではないし、どうでもよいことではないのである。それとも林氏は生産手段なしにそれらの労働は支出されるのだとでも考えているのであろうか。

(4) 〈しかし現実には、生産手段は(生活手段さえも)、その期間(一年)の始めに前提されている、というのは、そのことなくしては総再生産は始まることができないからである。だが、これは概念のどんな変更も要請するものではない、というのは、前年の総生産の最後に存在する生産手段等々は、今年の総生産と同じものだからである。
 そしてこの事情が、ブルジョア的生産様式のもとでは、生産手段を「資本」として、つまり「過去の労働」として登場させるのであり、労働者に敵対し、労働者を搾取する社会的存在に転化するのである。生産手段に“対象化”される労働は、「生きた労働」、つまり現実の労働者に敵対する「過去の労働」として現象する。〉

 〈しかし現実には〉と林氏は話を転じているが、ということはその前の話は「現実の話ではない」というのであろうか。再生産表式は商品資本の循環として社会の総資本の再生産を考察するためにマルクスによって提示されたものである。それは確かに一つの抽象ではあるが、しかし現実の社会的総資本の再生産の本質的な内容を表している。そして〈生産手段は(生活手段さえも)、その期間(一年)の始めに前提されている〉というのは、現実だけではなく、表式においてもそうなのである。というのは表式はこれから循環を開始する総商品資本を示しているが、そこには生産手段も消費手段もそれぞれそうした使用価値を持った商品資本として前提されているからである。これは決して〈現実〉の問題だけではなく、「表式」そのものにおいて前提されていることである。
 〈そしてこの事情が〉というのは、恐らく、その前のことを指しているのであろうが、しかし林氏が示している〈事情〉そのものは、何もそうしたことを説明していない。なぜなら、林氏はそれらがすべて商品「資本」として存在していることを指摘していないからである。それらが、つまり社会がその再生産を開始するための生産手段も消費手段も、すべてまさに商品「資本」として存在し、前提されている〈事情〉こそが、それらがすべて労働者にとって敵対的なものとして現われる理由なのである。だから再生産の出発点に、生産手段や消費手段が必要だ、前提されるという〈事情〉自体は--林氏がその前のパラグラフで言っているのはこうしたこと以上ではない--、決して、それらが〈資本〉としてなければならないことを意味しない。それは将来の社会における再生産を抽象的に考える場合も同じであろう。また生産手段を含むすべての生産物が「過去の労働」の産物であるということは、〈ブルジョア的生産様式〉とは何の関係もないことである。どんな社会形態にも関わりなく、生産物はすべて「過去の労働」の産物以外の何物でもない。そして「過去の労働」だから労働者に敵対するというのも馬鹿げた話である。ロビンソンクルーソが毎日食する食物は、彼の「過去の労働」の産物だが、決して彼に「敵対」するものではない。それらが〈労働者に敵対し、労働者を搾取する社会的存在に転化する〉のは、それらが資本として、商品資本として存在し、資本主義的生産様式の再生産でそれらを出発点として開始するしかないという〈事情〉が〈敵対〉関係をもたらすのである。

(5) 〈マルクスの再生産表式における総価値の九〇〇〇は、その期間(一年)に生産された総価値であって、一年間の抽象的人間労働を表わしているのであって、消費手段の生産に支出された三〇〇〇だけがそうであるのではない。
 もし、不変資本の価値が「移転された」価値であり、文字通り「過去の労働」であると理解するなら――資本には、仮にそのような形で現象するとしても――、三〇〇〇だけが社会的労働の結果である、つまりその期間(一年)に支出された総労働は三〇〇〇だけということになる。生産手段の生産のために支出された労働は、ただ具体的有用労働としてのみ評価され、抽象的人間労働としては存在しないのである、というのは、両方の契機で評価されるなら、生産手段を生産した労働は、具体的有用労働として「(過去の労働の成果である)価値を移転」し、同時に、抽象的人間労働として新しく価値を生産する、ということになるだろうからである。総生産の価値は九〇〇〇ではなく、一五〇〇〇(六〇〇〇×二+三〇〇〇)に膨れ上がることになる。
 もちろん、そんな不合理はないのだが、こんな不合理が結果するのは、ブルジョア的再生産の現象に幻惑されて、具体的有用労働に「価値を移転し、保持する」役割が、つまりそんな「使用価値」があるとドグマを作り上げた結果であるにすぎない。マルクスは「総資本の再生産」について語っているところでは、「有用的労働による価値移転」などといったことは一言も語っていないのだが、これは決して偶然のことではない。
 生産手段を生産する労働も、抽象的人間労働としてはただ抽象的人間労働として「価値」を生産する(「価値」として対象化される)だけであって、それが具体的有用労働として、ただ使用価値(様々な種類の生産手段)を生産するにすぎないのと同様である。〉

 林氏は1135号に発表した論文を〈理論的に混乱している〉として撤回したのであるが、しかし、その混乱は克服されていないことが分かる。というのはここでは1135号の混乱が繰り返されているからである。最初から見て行こう。
 〈マルクスの再生産表式における総価値の九〇〇〇は、その期間(一年)に生産された総価値であって、一年間の抽象的人間労働を表わしているのであって、消費手段の生産に支出された三〇〇〇だけがそうであるのではない〉というのは、マルクスのどういう主張にもとづいて林氏は言っているのであろうか。是非、そのマルクスの文言を紹介していただきたい。
 単純再生産の表式で表されている総商品資本9000のうちの可変資本部分1500は、その商品資本を生産するために資本家は労働力の購入に1500の資本を前貸したことを表している。つまりそれは1500の価値ある労働力の購入に支出されたのである。だから資本家が一年間に自由にできるのは、1500の価値ある労働力でしかない。では林氏にお聞きするが、1500の価値ある労働力は、一年間にどれだけの労働を流動化しうるのか。彼らは果たして9000の抽象的人間労働を対象化できるであろうか。決して否である。マルクスの想定では剰余価値率は100%である。だから彼らは1500の自分たちの労働力の価値に相当する労働を対象化するとともに、さらに1500の剰余価値に相当する労働を対象化するだけである。合わせて3000しかない。それが一年間に支出された抽象的人間労働のすべてである。
 〈もし、不変資本の価値が「移転された」価値であり、文字通り「過去の労働」であると理解するなら――資本には、仮にそのような形で現象するとしても――、三〇〇〇だけが社会的労働の結果である、つまりその期間(一年)に支出された総労働は三〇〇〇だけということになる〉。この限りでは珍しく林氏は正しいことを言っている。ただし少し厳密性に欠けるので、厳密に言いなおすと、次のようになる。「もし、総商品資本の9000の価値のうち、不変資本の価値部分6000が「移転された」価値であり、文字通り「過去の労働」、つまり前々年度の労働が対象化されたものであると理解するなら--それは単に資本にだけに現象するというようなものではない--、3000の可変資本部分だけが、新たに追加されたものである。つまりその期間(一年間)に支出された総労働は3000の価値として対象化されたことになる」。まったく、その通りである。しかしそれに続く一文は、まさに1135号の「混乱」そのものである。
 〈生産手段の生産のために支出された労働は、ただ具体的有用労働としてのみ評価され、抽象的人間労働としては存在しないのである、というのは、両方の契機で評価されるなら、生産手段を生産した労働は、具体的有用労働として「(過去の労働の成果である)価値を移転」し、同時に、抽象的人間労働として新しく価値を生産する、ということになるだろうからである。総生産の価値は九〇〇〇ではなく、一五〇〇〇(六〇〇〇×二+三〇〇〇)に膨れ上がることになる〉。われわれはやはり林氏の頭の中を疑わざるを得ない。林氏にお聞きするが、一年間に〈生産手段の生産のために支出された労働〉は、どれだけでしょうか? 1000の価値をもつ労働力である。確かにその労働力は、具体的有用労働しては、6000の価値ある生産手段を生産した。しかし抽象的人間労働しては、2000の価値を追加したに過ぎない(可変資本部分と剰余価値部分)。その労働力は2000の価値として対象化する抽象的人間労働の具体的契機(具体的有用労働)で、4000の生産手段(生産手段の生産手段)の価値を生産物(生産手段)に移転したのである。だからこそ生産された生産手段は6000の価値を持っているのである。労働は両方の契機で評価されているが、生産手段の価値にはどんな膨張もない。それはただ混乱した林氏の頭の“膨張”の産物以外のなにものでもない。
 〈こんな不合理が結果するのは、ブルジョア的再生産の現象に幻惑されて、具体的有用労働に「価値を移転し、保持する」役割が、つまりそんな「使用価値」があるとドグマを作り上げた結果であるにすぎない〉。失礼ながら、そんな〈不合理〉は混乱した林氏の頭の中にしかないのである。それをわれわれはすでに上記で論証した。〈マルクスは「総資本の再生産」について語っているところでは、「有用的労働による価値移転」などといったことは一言も語っていない〉どころか、スミスの批判で言っているし、そんなことはすでに不変資本と可変資本の概念を与えたところで論じたので、あえて再び論じる必要がないからである。マルクスは「有用的労働による価値移転」を前提して、年間生産物価値と年間価値生産物とを区別して論じていることは、明らかである。これは以前、1135号の林氏の論文を批判したときに紹介したものだが、もう一度、紹介しておこう。これを読んでもまだ同じようなことを林氏が主張されるなら、もうつける薬はないといわざるを得ない。

 〈労働過程の立場から見れば、生産物IIは、新たに機能している生きている労働と、この労働が実現されるための対象的諸条件としてこの労働に与えられ前提された生産手段との結果であるが、それと全く同様に、価値増殖過程の立場から見れば、生産物価値II=3000は、社会的労働日のうち新たにつけ加えられた三分の一によって生産された新価値(500v+500m=1000)と、ここで考察されている生産過程IIの前にすんでしまった過去の社会的労働日の三分の二が対象化されている不変価値とから成っている。生産物IIのこの価値部分は、この生産物そのものの一部分で表わされる。それは、社会的労働日の三分の二に相当する2000という価値をもつ消費手段量のうちに存在する。この消費手段こそは、この価値部分が再現する新たな使用形態なのである。だから、消費手段の一部分=2000IIcと生産手段 I = I (1000v+1000m)との交換は、事実上、この年の労働の一部分ではなくこの年以前にすんでいる総労働日の三分の二と、この年に新たにつけ加えられたこの年の労働日の三分の二との交換である。この年の社会的労働日の三分の二は、もし、それが、一年間に消費される消費手段の価値のうちこの年にではなくこの年以前に支出されて実現された労働日の三分の二を含んでいる部分と交換されることができないとすれば、不変資本の生産に使用されながら同時にそれ自身の生産者にとって可変資本価値・プラス・剰余価値を形成することはできないであろう。それは、この年の三分の二労働日とこの年以前に支出された三分の二労働日との交換であり、この年の労働時間と前の年の労働時間との交換である。だから、このことは次のような謎をわれわれに解いてくれるのである。すなわち、社会的労働日全体の三分の二は、可変資本または剰余価値がそれに実現されることのできる諸対象の生産には支出されないで、その一年間に消費された資本を補填するための生産手段の生産に支出されているにもかかわらず、なぜ、社会的労働日全体の価値生産物は可変資本価値・プラス・剰余価値に分解することができるのか、という謎がそれである。この謎は、 I の資本家と労働者が自分たちの生産した可変資本価値・プラス・剰余価値をそれに実現する生産物価値IIの三分の二(そしてそれは年間総生産物価値の九分の二をなしている)が、価値から見れば、この年以前にすんだ社会的労働日の三分の二の生産物だということから、簡単に説けるのである。
 社会的生産物 I とIIとの合計、つまり生産手段と消費手段との合計は、その使用価値から、具体的に、その現物形態によって見れば、この年の労働の生産物ではあるが、しかし、そうであるのは、ただこの労働そのものが有用的具体的労働と見られる限りでのことであって、この労働が労働力の支出、価値形成労働と見られる限りではそうではないのである。また、そうであるというのも、ただ、生産手段はそれにつけ加えられそれを取り扱う生きている労働によってのみ新たな生産物すなわちこの年の生産物に転化したのだ、という意味でのことに過ぎない。しかしまた、逆に、この年の労働も、それには依存しない生産手段なしには、労働手段や生産材料なしには、生産物に転化することはできなかったであろう。〉(第2巻第20章、全集24巻526-7頁、下線は引用者)

 この下線部分を注意して読んでいただきたい。マルクスがこのように述べているのは、「有用的具体的労働」によって生産手段の価値が移転されるということを述べているのである。だからこそ社会の総生産物は、有用労働の産物といえるのだが、価値形成労働としてはいえないのである(価値形成労働としては、社会の総生産物価値の3分の1の価値を形成するだけである)。

 〈生産手段を生産する労働も、抽象的人間労働としてはただ抽象的人間労働として「価値」を生産する(「価値」として対象化される)だけであって、それが具体的有用労働として、ただ使用価値(様々な種類の生産手段)を生産するにすぎないのと同様である〉。これはこの限りではまったく正しい。しかし林氏にお聞きするが、生産手段を生産する労働も、労働対象や労働手段なしには、生産できないことをご存じであろうか。もし生産手段を生産する労働(つまりわれわれの想定では1000の価値ある労働力である)が、その〈抽象的人間労働として「価値」を生産する(「価値」として対象化される)だけであ〉るとしよう。とするなら、それは労働力の価値相当分(1000)と剰余価値相当分(1000)の合計2000の価値として生産物に対象化されたわけである。しかし、われわれが部門 I の労働者の労働の成果として6000の価値ある生産物が生産されたことを知っている。では、残りの4000の生産物の価値はどこから来たのであろうか。林氏はこの問題に答えなければならない。これは林氏にとっては“永遠の謎”である。

(6) 〈しかし社会主義においては、第一部門(生産手段生産部門)、第二部門(消費手段生産部門)という区別は全くどうでもいい区別として現われるにすぎない。ここで問題になるのは、生産手段の種類であり、また生産されるべき消費手段の種類であり、その生産にどれだけの労働が必要か、ということであるにすぎない。〉

 林氏も社会主義でも生産手段と消費手段の区別があることだけはどうやら認めるらしい。しかし生産部門が二つの部門に区別されることはどうでもいいことらしい。果たしてそうか。
 社会主義では、直接に使用価値を目的に生産が行われる。しかし、どの使用価値の生産にはどれだけの労働が必要かは前もって計算されていないといけない。社会主義社会の生産は、その構成員の欲望に応じた消費手段を生産することを最終目的にしている(われわれは将来のための拡大再生産はとりあえずは考えないことにする)。しかし消費手段を生産するためには、そのための生産手段が必要であり、それも生産される必要があり、また生産手段の生産のためにもやはりまた生産手段が必要であり、それもやはり生産される必要がある。だから社会が自由にできる総労働を単に消費手段の生産分野だでけではなく、生産手段の生産分野にも配分しなければならない。これらのことは、別に社会主義や資本主義に関わりのない、あらゆる社会に共通の「自然の諸法則」(マルクス「クーゲルマンへの手紙」)である。林氏は〈ここで問題になるのは、生産手段の種類であり、また生産されるべき消費手段の種類であり、その生産にどれだけの労働が必要か、ということであるにすぎない〉というが、しかし、これも別に社会主義だけの問題ではなく、資本主義的生産でも(あるいはあらゆる社会に共通して)それは問題になっていることなのである。ただそれが資本主義的生産においては、意識的に行われずに、商品の価値の法則として事後的・結果的に貫徹するものとして行われているだけである。だからこそ、それらは総商品資本の価値とその構成部分として表示され、それらの補填関係として考察されているのである。だから再生産表式で考察されている内容は、その資本主義的形態を脱ぎ捨てれば、まさにこうしたあらゆる社会の物質的生産がもっている内的構成でもあるのである。

(7) 〈生産手段の生産と消費手段の生産の区別がどうでもいいものとして現われるのは、ブルジョア社会とは違って、生産が個別資本による商品の生産として、しかも剰余価値の取得を目的とした生産ではなく、労働者(社会の成員)の消費を、つまり生活の充足を目的とする生産として行われ、しかも直接に社会的な形態で行われるからであって、こうした社会では、第一部門の(V+M)〔可変資本つまり賃金+剰余価値〕やC(不変資本)とか、両者の社会的相互補填とかいったことは全く無意味なこととして現われるからである。
 これは例えば、第一部門の(V+M)が、(V+M)に分割しないで、つまり階級関係を捨象して、一つのものとして現われるとしても同じことである。そもそも個別資本の再生産と、社会的な総資本の再生産との「矛盾」といったことがすでに止揚されているのだから、社会的総生産の二分割といったこと自体が意味を失っているのである。問題は社会の必要な消費手段の生産に、どんな種類の労働がどれだけ分割されるかという単純な形で現われるのであって、ただそれだけである。〉


 この最初のパラグラフで林氏が言っていることは、社会主義は資本主義ではないという、まったく当り前のことを言っているに過ぎない。
 次のパラグラフで言っていることはいま一つ意味不明である。〈個別資本の再生産と、社会的な総資本の再生産との「矛盾」といったこと〉が言われているが、われわれは、これまでの林氏の論述を振り返っても、こうしたことが言われたことを知らないのである。全体としてこのパラグラフは意味不明としか言いようがないし、われわれの理解を超えている(なお次のこの項目の最後のパラグラフについては何もいうことはない)。

 (以上で、三つ目の項目〈◆3、価値移転論と「再生産表式」〉の批判的検討は終わる。次回は四つ目の項目〈◆4、「価値移転論」と社会主義〉以降を取り上げる。)

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