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2015年12月22日 (火)

林理論批判(29)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.7)

 今回は、記事の二つ目の項目「◆2、「有用的労働による価値移転」はいかなる意味で言われ得るか」の批判的検討の後半部分である。(なお以下、『資本論』からの引用で頁数のみを記しているものは、すべて全集版23aの頁数である。)

〈『海つばめ』「1138号(2011.1.9)【二~三面】“有用労働による価値移転論”批判――「スターリン主義経済学」一掃のために――それぞれの理論のそれぞれの課題を考えよ」〉の検討(5)

(9) 〈貨幣資本は商品資本に、そして生産資本に転換し、また商品資本に、そして貨幣資本へと循環するが、生産過程では、不変資本(生産手段)とともに、可変資本もまた再生産される、つまり剰余価値を伴った価値として再現する。
 そしてとりわけ、この可変資本について、いかにして「有用的労働による価値移転」といったことが言えるのであろうか、また何とか理屈をつけて言えるかもしれないが、そんなことを言うことに、どんな意義があるというのであろうか。何もないことは明らかであろう。〉

 こんな主張に接してわれわれは呆れざるを得ない。一体、林氏は第6章をどのように読んだのであろうか。マルクスは第6章で次のように書いている。

 〈労働過程の主体的要因、自己を発現している労働力の場合は、事情が違う。労働は、その合目的的な形態【つまり「具体的有用労働」のことだ--引用者】によって生産諸手段の価値を生産物に移転し維持するあいだに、その運動の各瞬間に、付加的価値すなわち新価値を形成する【つまり、「抽象的人間労働」の属性によって価値を形成する--引用者】。労働者が彼自身の労働力の価値との等価物を生産した点、たとえば六時間の労働によって三シリングの価値をつけ加えた点で、生産過程が中断すると仮定しよう。この価値は、生産物価値のうち、生産諸手段の価値に帰せられる構成部分を超える超過分を形成する。この価値は、この過程の内部で生じた唯一の本来の価値であり、生産物価値のうちこの過程そのものによって生産されている唯一の部分である【だからこの価値部分は決して「移転」したものではない--引用者】。たしかにこの価値は、資本家によって労働力の購買に際して前貸しされ、労働者自身によって生活諸手段に支出された貨幣を補填するものでしかない。支出された三シリングとの関係で見ると、三シリングの新価値は再生産としてのみ現われる。しかし、この価値は、現実的に再生産されているのであって、生産諸手段の価値のように単に外見的にのみ再生産されているのではない。ある価値の他の価値による補填は、この場合には新たな価値創造によって媒介されている【つまり生産手段の価値は「移転」されるのであって、決して「再生産」されるのではない。それは「外見的にのみ」再生産されているように見えているだけである。それに対して、可変資本部分は、決して「移転」されるのではなく、文字通り「再生産」されている。つまり新たな価値として創造されているのである。林氏にはこの区別が出来ていない。--引用者】。
 けれども、すでにのべたように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価物が再生産され、労働対象につけ加えられる点を超えて続行される。この等価物のために十分である六時間ではなく、この過程はたとえば一二時間続けられる。したがって、労働力の発現により、それ自身の価値が再生産されるだけでなく、ある超過価値が生産される。この剰余価値は、生産物価値のうち、消耗された生産物形成者--すなわち生産諸手段および労働力--の価値を超える超過分をなす。〉 (272-3頁)

 一体、誰が可変資本の価値の移転などを問題にしているというのか。労働力は、労働者によって資本家に販売され、その価値を労働者は労賃として受け取り、彼らによって個人的な消費物資に支出されて、それらが消費されることによって、無くなってしまう。資本家が持っている現物形態に転換した可変資本(生産資本の一契機としての労働力)は、価値を創造し、増殖するその独特の使用価値を持っているのであって、決してそれがその以前に自身が持っていた価値を生産過程で移転するわけではない。労働力の価値はすでに労賃に変態し、労働者自身の所有にあるのであって、資本家が生産資本として持っているのは、彼がその前に貨幣形態で持っていた資本(可変資本)が現物形態に転換したものでしかない。彼はその現物形態を他の生産手段と結合して新たな価値生産物を生み出すのであるが、それは労働力が本来持っていた価値とは何の関係もない(もちろん、その労働力が複雑労働である場合は価値を創造する力が異なるということによって関連はするが)。価値を創造する力、よってまた剰余価値を生み出す力そのものは、労働力の使用価値であって、労働力の価値によるのではないのである。

(10) 〈しかし資本のもとでは、可変資本についてもまた「価値移転」が言えないこともない、というのは、可変資本(消費手段)もまた不変資本と同様に、労働力の価値に「転化」し、さらにそれは同量の価値の商品として再現するからである。〉

 これはようするに価値としては、それがどういう物的存在として存在するかということはどうでもよいという真実を語っているに過ぎない。マルクスも次のように述べていた。

 〈この場合には、同じ労働時間が、一方では糸という使用価値に、他方では綿花と紡錘という使用価値に現われている。つまり、糸と紡錘と綿花とのどれに現われるかは、価値にとってはどうでもよいのである。〉(246頁)

 これはわれわれが単純流通における商品の変態で知っている事実である。それは商品形態から貨幣形態、そしてまた商品形態へと次々とその形態を変えたのである。同じことは、確かに資本の価値、可変資本の価値にも不変資本の価値にもいえるというのは、確かにその通りである。資本家の所持する価値は、資本の循環過程において、さまざまな物的存在として現われる。林氏が言っているのこうした事実でしかない。すなわち可変資本部分も、最初は資本家の手のなかでは貨幣形態で存在し、彼がそれをその本来の目的のために投資すると、生産資本の一契機として労働力という現物形態を得る、そしてその使用価値(労働)が合目的的に消費されることによって生産物として結実し、商品資本の価値部分として再現する等々。

(11) 〈いずれにせよ、「有用的労働による価値移転」説が破綻していることは明らかではないのか。少なくとも、その“適用範囲”が限定されること、「価値移転」を有用的労働の「元来の作用」などと一般化することが「行き過ぎ」以外の、一面化以外の何ものではないことは自明に思われる。〉

 一体、〈「有用的労働による価値移転」説〉の何処が〈破綻していること〉が〈明らか〉なのであろうか。何一つ林氏はその破綻を論証していない。価値としてはさまざまな物的なものに現われるが、それがどういう物的存在にあるかということは、価値そのものにはどうでもよいことである、ということがどうして〈「有用的労働による価値移転」説〉の〈破綻〉になるのか皆目分からないのである。そしてまたここでは〈「価値移転」を有用的労働の「元来の作用」などと一般化する〉などといわれているが、何度も聞くが、それは一体、誰によって何処で主張されているのであろうか。

(12) 〈商品資本の循環においてもみられるように、最初の商品資本(最初のW’)の価値は、貨幣資本への転換においても、そしてまた生産資本の形態においても、さらに生産過程の結果としての商品資本(最後のW’)においても維持され、「移転」されているのであって、それは「具体的有用労働による価値移転」といったこととは、基本的に別の問題であって、むしろ「有用的労働」とは無関係な問題――概念的には別の問題――として理解されなくてはならないのである。
 むしろ生産過程で決定的に重要なこと、理論的に解決されなくてはならない課題は、なぜ資本――生産手段――の価値量が変化しないのに、生産過程の結果としての商品は、資本として生産過程に入った価値量を凌駕するのか、できるのか、つまりなぜに価値増殖が可能になるのか、という問題である。生産過程を論じながら、この本質問題を避けて通りながら、有用的労働の「価値移転」について語るのは恐ろしくピントはずれに思われる。そもそも労働力(労働力商品)の“使用価値”は労働であり、その抽象的人間労働の本性によって、労働力商品の価値以上の価値(超過労働、剰余労働)の源泉となり得るのである。そのことを論ずるべきときに、なぜ、「抽象的労働」について語らないで「有用的労働」について語るのか、搾取の本質を、そのメカニズムをあいまいにし、混乱させるためでないとするなら、どんな積極的な意義があるというのか。〉

 林氏はこの引用文の上のパラグラフでは〈商品資本の循環〉を問題にしている。だからそれは資本の流通過程の問題である。資本の流通過程では、単純な商品の流通でもそうであるが、価値はさまざまな形態を次々ととって行くのはありふれた事実である。
 ところで次のパラグラフでは〈生産過程で決定的に重要なこと〉が語られている。つまり今度は、資本の流通過程ではなく、資本の生産過程に問題が移っている。そして確かに資本の生産過程では、剰余価値の生産とその取得が重要であることは間違いがない。しかしこれらは考察の対象が異なるのではないか。林氏はあまりにも、第1巻と第2巻で対象にしているものが何であるのかということに無賃着である。〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているか〉に頓着せずに論じているのは一体どこの誰であろうか。

 〈生産過程を論じながら、この本質問題を避けて通りながら、有用的労働の「価値移転」について語るのは恐ろしくピントはずれに思われる〉などというが、それまで林氏は資本の循環を問題にしていたのではないのか。それにそもそも「有用労働による価値移転」が論じられている第6章は「資本の生産過程」の問題である。しがしそれは第5章第2節における剰余価値の源泉とその搾取のメカニズムが解明されたあとに問題にされているのであって、決して〈この本質問題を避けて通〉っているわけではない。一体、こうした非難を、林氏は誰に対して向けているのであろうか。資本の生産過程の中で有用労働の価値移転を論じているマルクス自身に対してであろうか。もしそうではなく、スターリン主義経済学者だというなら、その具体的な紹介をすべきであろう。例えば大谷氏が彼の著書のなかで資本の搾取のカラクリを暴露せずに、あるは資本の根本的な概念を与えずに、ただ有用労働による価値移転論だけを論じているのであろうか。そんなことは単なる誹謗中傷の類ではないのだろうか。

 〈そもそも労働力(労働力商品)の“使用価値”は労働であり、その抽象的人間労働の本性によって、労働力商品の価値以上の価値(超過労働、剰余労働)の源泉となり得るのである。そのことを論ずるべきときに、なぜ、「抽象的労働」について語らないで「有用的労働」について語るのか〉というが、これは一体、誰に向けて言われているのであろうか。マルクス自身に対してであろうか。
 まず〈労働力(労働力商品)の“使用価値”は労働であり、その抽象的人間労働の本性によって、労働力商品の価値以上の価値(超過労働、剰余労働)の源泉となり得る〉というのは正しいであろうか。つまり労働力がその価値以上の価値を生産手段に付け加えうるというのは、〈その抽象的人間労働の本性〉から言いうることなのであろうか。マルクス自身はそれは労働力の独特の使用価値なのだと説明している。確かに労働力の価値以上の価値を労働力の「使用」から引き出そうとするのは、「資本(家)の本性」とは言いうるが、それが〈その抽象的人間労働の本性〉から言いうるというのは聞いたことがない。これは如何なる意味でそう言いうるのであろうか。具体的有用労働では労働者は疲労を覚えてある段階で限界を感じるが、抽象的人間労働の契機ではそうした限界を覚えずに、ついつい自身の労働力の価値以上の価値をその〈本性によって〉生み出してしまうとでもいうのであろうか。しかし労働者は決して、単に抽象的人間労働としてのみ労働するのではない。それは具体的有用労働の抽象的な契機として支出されるのである。だから抽象的人間労働の本性から、労働者は常にその労働力の価値以上の価値を生産手段に付け加えるために労働するなどということはいえないであろう。
 しかしまあそれは置いておこう。マルクスが〈労働力商品はその価値以上の価値……の源泉〉となりうると述べているのは、何度もいうが第5章の第2節である。そして有用労働の価値移転について述べているのは、第6章なのである。だから、〈そのことを論ずるべき〉第5章第2節では、マルクスはこうした問題(つまり「有用労働による価値移転」)を論じているわけではないのである。だから、やはりわれわれは林氏に聞かねばならない。それは一体、誰が言っているのか、と。そして〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているか〉に頓着せずに論じているのは一体どこの誰なのか、と。

(13) 〈資本の生産過程で重要なことは、「価値が移転される」ことではなく、むしろ「価値増殖が可能になる」、実際に「価値増殖」という奇妙な(価値の本性にもとるような)ことがいかにして生じるのか、ということである、ところがスターリン主義者たちは(もちろん、カウツキーも?)、ここで等量の価値が「移転される」といったことを見出し、大騒ぎを演じるのである、それが労働者の有用的労働の成果だなどとつまらない“事実”に夢中になるのである。我々は、「一体何のためか、何故なのか」と厳しく問わなくてはならないだろう。〉

 しかし失礼ながら、〈資本の生産過程〉で〈「価値が移転される」こと〉を論じているのは、〈大騒ぎを演じ〉ているかどうかはともかく、〈スターリン主義者たち〉や〈カウツキー〉などよりも、まずわれわれが確認しなければならないのは、それはマルクス自身だということである。マルクスは剰余価値が如何にして生産されるのかを価値増殖過程において明らかにしたあと、同時に、不変資本と可変資本の概念規定を与えているのであるが、そのために生産手段の価値の移転について述べているのである。どうやら林氏にはそれは〈つまらない“事実”に夢中にな〉っているようにみえるらしいが、しかし不変資本と可変資本の概念が、『資本論』全体にとって、だからそれまで林氏が論じてきた資本の循環や総資本の再生産においても、つまり第2部においても極めて重要な意義を持っていることは明らかなのであり、〈我々は、「一体何のためか、何故なのか」と厳しく問わなくてはならないだろう〉と疑問に思うのなら、もう一度、『資本論』全3巻を読み直すことをお勧めする。そうすればその重要な意義が分かるであろう。

(14) 〈確かに抽象的に論じるなら、再生産の開始のときのW’と循環の最後に現れるW’は価値のみならず、使用価値においても全く同様なものとして想定され得るかもしれない、しかしそれにもかかわらず、それらは最初に前提されたものとは本質的に別の使用価値である、というのは、総資本の循環過程において、古い生産手段はすべて生産的に消費されたのであって、新しい生産手段は労働者の生産的労働によって新しい使用価値として生産されたものであり、年々の労働の結果にすぎないからである。
 それと同様に、消費手段も年々消費されるのであって、年度の末に現れるW’の一部としての消費手段は、最初のW’とは全く別のものであるにすぎない。年々の生産手段と消費手段の全体は、年々の労働者の総労働の――つまり第一部門と第二部門の労働の、あるいは社会のすべての生産的労働の――結果としての生産手段と消費手段であって、それ以外ではあり得ないのである。そしてこの総労働こそが、年々、人々が生きていくために必要な労働の合計であって、単に消費手段を生産する労働者が直接に消費手段を生産するが故に、社会的消費手段をすべて生産している、といったことでは全くないのである。社会は社会が必要とする消費手段を獲得するために、年々生産手段を生産する労働をも必要とするのであって、生産手段は“自動的に”別の生産手段として生まれ変わり、「再生産」されるわけでは決してない。そんな風に考えるのは、有用的労働と抽象的労働をごちゃ混ぜにすることであり、それらの概念を危うくすることであるだけでない、「社会的総資本の再生産と流通」(マルクスの言葉でいうなら、総資本の「流通過程と再生産過程の実在的諸条件」)の理解さえ断念するに等しいだろう。
 かくして、社会的総生産を論じる場合においても(したがってまた、商品を議論する場合でも)、価値を生産する(価値という社会的実体として対象化される)抽象的人間労働と、使用価値を生産する有用的労働を区別することの決定的な重要性が確認されるのである、というより、もし社会的総資本の再生産において、この区別をあいまいにするなら、むしろその理解さえ怪しくなるとさえ言えるであろう。〉

  まず林氏は社会の総資本の再生産を、総商品資本の使用価値(素材)の側面からみている。確かに使用価値としては、その総生産物は、その年間に支出された有用労働によってすべて新しく生産されたものである。これは生産手段・消費手段を問わず、年間の総生産物について言いうることである。これはこのかぎりでは正しい。
 しかし林氏はそれを〈総労働〉と述べている。しかし生産物の使用価値を生産するのは、総労働のうちの有用労働なのである。つまり有用労働として捉えてそれは正しいのである。そして林氏はただ総生産物の使用価値だけを問題にするのである。つまり林氏は社会の総再生産をただ使用価値の観点からのみ問題にしているに過ぎないのである。そしてそうであれば、つまり価値を問題にしないなら、当然、その移転が問題にならないことは当り前のことである。しかし社会の総労働としての有用労働は、たた単に使用価値を生産するだけではなく、生産手段の価値を生産物に移転するのである。もし、林氏が社会的な再生産過程を価値の補填の観点からも問題にするなら、そうしたことが問題になるし、ならざるを得ないであろう。林氏は一方ではただ使用価値(素材)だけを問題に、その補填関係だけを問題にしているのであり、その意味では〈総資本の「流通過程と再生産過程の実在的諸条件」)の理解〉としては一面的であり、正しいものではないことを知らないのか、あるいは、知らないふりをしている。われわれはマルクスの単純再生産の表式を使って、社会の総商品資本の使用価値だけはなく、価値による補填関係も確認しておこう。

  第 I 部門(生産手段) 4000+1000+1000=6000
                                                     総計9000
  第II部門(消費手段)  2000+ 500+ 500=3000

 さて、社会の総生産物は前年度全体を通じて支出された有用労働の産物である。その価値は9000である。しかし前年度の有用労働を通じて支出された抽象的人間労働は、決して9000ではない。つまり前年度全体を通じて新しく創造された価値は3000に過ぎないからである(1500の価値をもつ労働力は、1500の労働力の価値を再生産しただけではなく、1500の剰余価値も付け加えたのである)。これが年間の価値生産物なのである。だから社会の総不変資本部分の価値6000は既存の価値であり、前年の生産において、1500の価値ある労働力の有用的属性によって生産物の価値として移転されたものに過ぎないのである。社会の総商品資本を価値と素材とにおける補填関係として考えるなら、こうした価値の側面における考察も不可欠であり、だから移転される旧価値(6000)と新しく付け加えられた新価値(3000)との区別は極めて重要なのである。林氏にはこうした〈総資本の「流通過程と再生産過程の実在的諸条件」の理解〉がないことだけは明らかである。
 そもそも〈生産手段は“自動的に”別の生産手段として生まれ変わり、「再生産」される〉などと一体誰が主張しているのであろうか。ここでも林氏は自分が勝手に作り上げた相手と闘っているわけである。
 林氏が〈かくして、社会的総生産を論じる場合においても(したがってまた、商品を議論する場合でも)、価値を生産する(価値という社会的実体として対象化される)抽象的人間労働と、使用価値を生産する有用的労働を区別することの決定的な重要性が確認されるのである、というより、もし社会的総資本の再生産において、この区別をあいまいにするなら、むしろその理解さえ怪しくなるとさえ言えるであろう〉という場合、先にわれわれが考察した社会的な総資本の価値と素材における補填関係としてそれが重要であるとい意味ではないことは明瞭である。社会的総資本の再生産において、抽象的人間労働と具体的有用労働との区別ができずに、それらの再生産における役割について理解せず、スミスと同じ誤りに陥っているのは林氏本人だからである。

(15) 〈資本の循環もしくは再生産においても、決定的に重要な問題は有用的労働と抽象的労働の概念的区別であって、抽象的人間労働は「価値として対象化」され、他方有用的労働は生産手段の「価値を移転する」、これが「元来の労働の二重の作用である」(カウツキー)といった形で、両者ともドグマ的に「価値」に関係させられるなら(カウツキーのように、スターリン主義者のように)、それは結局は何らかの有害な結論に到達するし、せざるをえないであろう。〉

 〈資本の循環もしくは再生産において〉〈有用的労働と抽象的労働の概念的区別〉の〈決定的に重要な問題〉をまったく理解していないのは、先に見たように、ほかでもない林氏本人なのである。すでに確認したように、〈資本の循環もしくは再生産においても〉〈抽象的人間労働は「価値として対象化」され、他方有用的労働は生産手段の「価値を移転する」〉ということは〈決定的に重要〉なのである。何度もいうが、それはカウツキーなどが言っている以前に、マルクスによって言われていることだからである。もう一度、念のためにマルクス自身の言葉をわれわれは確認しておこう。

 〈ところで、アダム・スミスの第一の誤りは、彼が年間生産物価値を年間価値生産物と同一視している点にある。価値生産物の方は、ただその年の労働の生産物だけである。生産物価値の方は、そのほかに、年間生産物の生産に消費されたとはいえそれ以前の年および一部分はもっと以前の諸年に生産された【これは固定資本を考慮した場合である--引用者】全ての価値要素を含んでいる。すなわち、その価値がただ再現するだけの生産手段----その価値から見ればその年に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたのでもない生産手段----の価値を含んでいる。この混同によって、スミスは年間生産物の不変資本部分を追い出してしまうのである。この混同そのものは、彼の基本的見解の中にあるもう一つの誤りに基づいている。すなわち、彼は、労働そのものの二重の性格、すなわち、労働力の支出として価値をつくる限りでの労働と、具体的な有用労働として使用対象(使用価値)をつくる限りでの労働という二重の性格を、区別していないのである。一年間に生産される商品の総額、つまり、年間総生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物である。ただ、社会的に充用される労働が色々な有用労働の多くの枝に分かれた体系の中で支出されたということによってのみ、全てこれらの商品は存在するのであり、ただこのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらの商品の生産に消費された生産手段の価値が新たな現物形態で再現して保存されているのである。だから、年間生産物の総体は、その一年間に支出された有用労働の結果である。しかし、年間の生産物価値の方は、ただその一部分だけがその一年間に作り出されたものである。この部分こそは、その一年間だけに流動させられた労働の総量を表わす年間価値生産物なのである。〉(463-4頁)

  だから林氏が〈資本の循環もしくは再生産において〉〈有用的労働と抽象的労働の概念的区別〉が〈決定的に重要〉だというのは、まったくの眉唾物である。その〈決定的に重要〉な意義がもし分かっているなら、〈「有用労働による価値移転」問題〉が、単に資本による労働の搾取の問題に限定された「理屈」などではなく、〈資本の循環もしくは再生産において〉も〈決定的に重要〉な意義を持っていることを理解している筈だからである。

(16) 〈有用的労働は「価値」とは別の契機の概念であって――というのは、それは商品の使用価値に関係する概念だから――、それを、商品価値の「実体」として対象化される抽象的労働と関係させたり、混同することこそ一切の俗流主義的、ブルジョア的“経済学”の根底であり、出発点である、ということほどにマルクスが強調したことはないのである。〉

 しかしわれわれは本当は有用労働を〈商品価値の「実体」として対象化される抽象的労働と関係させたり、混同〉したのは林氏自身であり、だから彼はマルクスの有用労働の価値移転論を批判する必要があると考えたことを知っている。ただ林氏はマルクスを正面切って批判することは憚られたから、それをスターリン主義経済学者やカウツキーが主張しているものだと自分の誤解をなすり付けて、それを批判するわけである。しかし、そのことによって、本当は林氏はマルクスの「有用労働の価値移転」論への無理解を暴露しているのであり、マルクス自身に自分の無理解の罪をなすりつけて批判していることになっているのである。

(以上で二つ目の項目の検討は終わる。次回から三つ目の項目〈◆3、価値移転論と「再生産表式」〉に移る。)

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