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2015年11月

2015年11月26日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-3)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 (今回は、第【2】パラグラフからの解読であるが、前回も紹介したように、この【2】【7】までのパラグラフは、本来、「 I ) 」で、つまりエンゲルス版では第28章に属するものであり、しかも【2】【4】は、「 I ) 」(第28章)のいわば結論というべき位置にあるのである。だから第28章該当部分の解読を思い出しながら、以下、解説していくことにしよう。なお【5】【7】の解読は次回に回す。)

【2】

 〈いま見たように,フラートンその他は,「流通手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との{地金の流出が関わるかぎりでは,また「世界貨幣」としての貨幣との)区別を,「Circulation」《(currency)》と「資本」との区別に転化させる。〉

 ここで〈いま見たように〉というのは、第28章全体を指しているとも捉えることも出来るが、第28章の最後のパラグラフを直接引き継いでいると考えるのが正しいように思える。
その最後のパラグラフ( 【51】 )というのは、次のようなものである。

 〈フラ一トン等々が,「購買手段」としての貨幣と「支払手段」としての貨幣との区別を,「 通貨〔currency〕」と「資本」とのまちがった区別に転化させていることはまったく明白である。その根底にはまたしても「Circulation」についての銀行業者の偏狭な観念があるのである。〉

 この最後で〈その根底にはまたしても「Circulation」についての銀行業者の偏狭な観念がある〉とマルクスが述べているが、〈 「Circulation」 〉が翻訳されずに、そのままになっている(その前の【2】でも〈 Circulation」《(currency)》と〉と翻訳されないままであるが、この場合は〈 currency 〉とあるから、「通貨」であることは明らかである)。このように翻訳しない理由について、大谷氏は第28章の冒頭のパラグラフにつけた注3)のなかで次のように述べている。

 〈3) circulation, Zirkulationは,言うまでもなく「流通」の意味にも,「通貨」の意味にも,さらに銀行用語ではイングランド銀行券の「流通高」の意味に用いられる。そしてこの第28章部分では,この語がこの3つの意味で自在に使われている。エンゲルス版でもZirkulationが,同様にこれらの意味で使われているが,エンゲルスはまたしばしば,これらをドイツ語で(Zirkulationsmittel,Umlaufsmittel,Summe der Zirkulationなどのように)訳し分けてもいる。邦訳ではそれらのそれぞれに,エンゲルスの独訳によったりして,1つの訳を与えている。もちろんそのような訳し分けが不可能であるわけではないが,どちらとも断定できない微妙なケースがあるほか,マルクスが意識的にこの語の両意性を生かしていると考えられるところもあるので,本稿では,草稿でのcirculationまたはCirculationを,この語のまま掲げることにする。〉 (前掲215頁)

 ただまあ、われわれとしてはそう言われても、困ってしまうわけであるが、この場合は、恐らく「流通」と訳するのが適当であろうと思える。つまり銀行学派はスミスに倣って、流通を「収入の流通」と「資本の流通」とに分けるのだが、しかしマルクスが批判しているように、こうした分け方はやはり間違っているのである。というのは労働者が彼らの収入を支出して生活手段を購入する場合を「収入の流通」だと言っても、しかしそれは労働者に生活手段を販売する小売業者(彼らも資本である)にとっては、その同じ過程は彼らの商品資本を貨幣資本に転換する過程であり、まさに「資本の流通」でもあるからである。だから流通をこのように分けて考えるのは、スミスに影響された偏狭な観念だとマルクスは言っているわけである(ただマルクスも「商業流通」と「一般流通」に分けて考えているが、これはまた違った概念である)。
 銀行学派たちは、粗雑な観察によって、流通のこの二つの面での貨幣の直接的な違いに注目する。つまり「収入の流通」の場面では、もっぱら鋳貨や少額の銀行券が使われており、それらは主に「購買手段」として機能する。他方、「資本の流通」の場面では、そのほとんどが信用によって取引が行われて、手形や小切手等々が流通し、貨幣はただそれらの相殺の帳尻を最終的に決済するために流通に出てくる。つまり「支払い手段」としてである。だから彼らは「通貨」と「資本」との区別を、流通のこうした偏狭な観念にもとづいて、一方の「購買手段」としての貨幣を「通貨」とし、他方の「支払い手段」としての貨幣を「資本」としたわけなのである。マルクスが言っているのはこのことである。
 またマルクスは〈地金の流出が関わるかぎりでは,また「世界貨幣」としての貨幣との)区別を〉とも述べているが、これも第28章で言及されていたが、地金の流出の場合も、融通された銀行券は地金との交換のためにすぐに銀行に還流してくるのであるが、それを銀行学派はそれは「資本」の貸し付けだからそうなるのだというわけである。それに対して、マルクスは確かに地金を輸出する場合は、それは「資本」として出てゆくのであるが、しかし逼迫期の地金の輸出は、資本を海外に投下するために輸出されるのではなく、むしろ輸出した商品が海外の市場で売れずに在庫として積まれ、そのために国内の輸出産業が資金繰りに困り、銀行からの融通を受けて、それを地金に換えて、支払いを迫られている海外の原材料の輸出業者に支払うために輸出するのであり、そういう場合は、その地金は国際的な決済手段として出てゆくのであり、その限りではそれは「資本」の問題ではなく、やはり「貨幣」の問題なのだ、と批判していた問題のことである。そうした問題をここで結論的に述べているわけである。

【3】

 〈「資本」がここで演じる役割が奇妙なものであるために,この銀行業者経済学は,かって①啓蒙経済学が,「貨幣」は資本ではないのだ,と念入りに教え込もうとしたのと同じ入念さで,じつは貨幣は②「とりわけすぐれた意味での」資本〔das Capita1“κατ'εξoχην”〕なのだ,と教え込むことになっている。
 ① 〔注解) 「啓蒙経済学Caufgekla吋eOkonomie)」Jという語でマルクスが考えていたのは,金銀の姿態での貨幣を,重金主義者とは違ってもはや唯一の富かつ絶対的商品とは見なさず,せいぜい「資本の最も無関心で最も無用な形態」(〔MEGA,II/4.2,〕S.625.31-626.1)と見なしていたブルジョア経済学者たちのことである。マルクスが啓蒙経済学者としてとくに強調したのはアダム・スミスである。スミスは金銀貨幣を社会の純生産物を減少させるような高価な流通車輪と見なし,この流通車輸はより廉価な流通手段によって置き換えられることができるし,置き換えられなければならないとした。--MEGA,IV/2,S.345,および,「地金。完成した貨幣制度」,MEGA,IV/8,S.7,を見よ。--重金主義者たちと区別しての啓蒙経済学者たちについては,マルクスは『経済学批判。第 1分冊』でも自分の見解を述べた (MEGA,II/2,S.208を見よ。)。そこでマルクスがはっきりと強調したのは,計算貨幣および価値章標としての貨幣が,それとともにまた,さらに進んで信用によって金属貨幣が排除されることが,資本主義的システムの展開とともに金銀は社会的富の絶対的代表者であることをやめる,という幻想に役立つ,ということである。
 ② 〔注解〕 κατ'εξoχην--とりわけすぐれて〔vorzugsweise〕。もしかするとマルクスが考えていたのは,アリストテレスの次の一命題であったかもしれない。--Aristoteles I,9 1256 b 40-1257 a 1 = I,3 ,10 8tahr.
 「ところが,生計術には第2の種類があって,それはとくに(vorzugsweise),また当然,貨殖術と呼ばれ,これによれば富や財産の限界は存在しないように見える。」--『資本論』,第1巻をも見よ。(MEGA,II/5,S.107.30-45 und 108.22-32.〔MEW,Bd.23,S.167.12-40.〕)
 〔MEGAでは,まずアリストテレスからの引用のギリシア語原文が掲げられているが,そこにはκατ'εξoχηνという語は出てこない。そのあとにつけられたドイツ語の訳文にvorzugsweiseという語が出てくるだけである。
 マルクスはこの語を,『資本論』の諸草稿のなかでしばしば使っており,MEGAでは,そのたびに注解でそれのドイツ語訳を挙げている。けれども,注解のなかにこのような奇妙な蛇足が付けられているのはここだけである。おそらく,ここではこの語に引用符がつけられているので,編集担当者はこの「引用」の出所について説明しなければならない,と考えたのであろう。〕

 このパラグラフについては、MEGAの二つの「注解」と大谷氏の(大谷氏らしいというか)長い注がある。注解については上記に紹介したが、大谷氏の注はありまにも長いために全体の紹介は割愛せざるを得なかった。その注は、「とりわけすぐれた」というギリシャ語による用語の使用例を網羅したものであり、それ自体としては、当面の問題とはあまり関係せず、あまりわれわれの関心を引くものではない。ただその引用例の一番最後のものは、大谷氏も指摘するように、〈内容上,いま見ている当該のパラグラフでの,啓蒙経済学についての記述に完全に対応するものである〉から参照する必要があると思えるので、その部分だけ紹介しておこう。

 〈「啓蒙経済学は, 「資本」を職掌上で(exprofesso)取り扱っているあいだは,金銀を,事実上最もどうでもよくて最も無用な資本形態として,最大の軽蔑をもって見くだしている。この経済学が銀行制度を取り扱う段になると様相が一変して(the aspect of things turns) ,金銀は,資本と労働との他のどんな形態を犠牲にしても維持されなければならない,とりわけすぐれた意味での資本(das Capital par excellence) となる。」(MEGA,II/4.2,S.625-626.)〉

 さらに、ここでは大谷氏が『貴金属と為替相場』(第35章)のところで論じているものが、このパラグラフを理解する上で参考になると思うので、少し長くなるが紹介しておこう。大谷氏は〈5. 理論上の二元論と「信用主義から重金主義への転回」 〉と題して、次のように述べている。

 〈資本主義的生産が未発展の段階に対応する重金主義の思想では,一般商品から区別される金銀だけが貨幣であり絶対的商品であったのにたいして,発展してきた資本主義的生産に対応する「啓蒙経済学」では,流通手段としての金銀を高価な無駄なものとみなして,これを信用で置き換えることを主張するようになる。こうして,「啓蒙経済学は「貨幣」は資本ではないのだと念入りに教え込もうとし」(MEGA,II /4.2,S. 519;拙稿「銀行資本の構成部分」の草稿について」,9ページ),「発達したブルジョア的生産では,商品の持ち手はずっとまえから資本家になっており,彼のアダム・スミスを知っており,金銀だけが貨幣であるとかそもそも貨幣は他の商品とは違って絶対的商品であるとかいう迷信を見くだして嘲笑している」(MEGA,II /2,20 8;『資本論草稿集」③,372ページ)。
  ところが,「この経済学が銀行制度を取り扱うことになると様相は一変し,金銀は,資本と労働との他のどんな形態を犠牲にしても維持されなければならない,とりわけすぐれた意味での資本(Capitalpar excellence)となる」(MEGA,II /4.2,S.626;本稿,118ページ)のである。〉
(『経済志林』40頁)

 要するに金銀は、資本主義が未発達の段階では、それだけが貨幣であり、富であり、絶対的商品だと思われているのであるが、資本主義が発展してくると、金銀は、高価な浪費とされ、それを代用する価値章標に置き換えられ、金銀は無駄なものとされる。ところが、信用制度が発展してくると、金銀は、信用制度の軸点になり、それが少なくなると信用制度全体が揺らぐことなり、何を犠牲にしてでも、その流出を抑える必要が出てくるわけである。そうした意味で、再び金銀は何物にも換えがたい、とりわけすぐれた意味での資本として扱われるというわけである。

 また大谷氏は同じところで〈 「資本」がここで演じる役割が奇妙なものであるために〉とマルクスが述べていることを説明して、次のように解説している。

 〈「「資本」がここで演じる役割」と言われているのは,moneyed Capitaという資本が果たす独自の「奇妙な」役割であり,これこそがこのあとの考察の中心課題であることを示唆しているものである。〉

 つまりこの第29章(「II.」と番号を打ったところで)の中心課題は「moneyed Capital」としての貨幣資本だというわけである。

 またマルクスが〈じつは貨幣は「とりわけすぐれた意味での」資本〔das Capital “κατ'εξoχην”〕なのだ〉と述べていることについても、次のように解説している。

 〈ここでマルクスが「とりわけすぐれた意味での資本」と言っているのは,トゥックでたとえば次のような表現をとっているものである。

 「第3107号。(トゥック)利子率の上昇はイングランドの有価証券(海外からの)への投資を生じさせます。外国の有価証券はわが国から,海外で実現されるべく,送られます。同じ原因が,わが国の商人によって海外の商人に与えられた商人信用の縮小を引き起こします。それはまた,そうでなかったら輸出されなかった諸商品の譲渡を引き起こします。すなわち,それらの商品は,そのような場合には,価格にさえおかまいなしに,債務の決済の手段として送られます。そしてそれが輸入を妨げます。要するに……それは,それのより簡明ですぐに使える形態での,すなわち金での資本を,出て行くのにまかせるのではなく,わが国にはいるように強いるのです。」(MEGA,II/4.2,S.614-615;拙稿「信用制度下の流通手段」および「通貨原理と銀行立法」の草稿について」,175ページ。)〉 (同上41頁)

 利子率の上昇は海外からの有価証券への投資を呼び起こして、金地金の国内への流入を強制するとトゥックは主張しているようだが、その場合の金を〈より簡明ですぐに使える形態での、……資本〉と述べているわけである。つまりこの意味ではこの金はGeldcapitalとしての貨幣資本なのであるが、それとトゥックはmoneyed Capitalとしての貨幣資本とを混同して、「資本」と述べているように思える。

【4】

 〈ところが,もっとあとの研究で明らかにするように,そのようにして「貨幣資本〔Geldcapital〕」が「利子生み資本」の意味での「moneyed Capital」と混同されるのであって,前者の意味では資本はつねに,それ自身がとる「商品資本」および「生産資本」という形態とは区別されたものとしての「貨幣資本〔Geldcapital〕」なのである。〉

 ここでマルクスが述べていることは、先のトゥックの議会証言の例がもっともよく示しているといえる。第28章で展開されているところでは必ずしも、この点での銀行学派の「混同」はもう一つよく分からなかったのだが、上記の引用文ではそうした混同が明瞭に見られる。
 この二つの貨幣資本の区別の重要性については、第28章該当部分のレジュメの冒頭部分でも強調しておいたが、一方は再生産過程内で物質代謝を媒介する貨幣資本であり、他方は再生産過程外での--だから剰余価値の分け前を巡る争いに関わる--貨幣資本であるという本質的な区別がある。
 以上で、「 I ) 」と番号を打った部分--銀行学派の主張の批判検討--は終わったわけである。だからマルクスは銀行学派の主張の根本的な間違いは、通貨とmoneyed Capitalとしての貨幣資本との混同だけではなく--この混同は、現在のブルジョア経済学者はもちろん、ほとんどのマルクス経済学者にも見られ、だから林紘義氏他同志会の面々にも見られるものである--、やはりGeldcapitalとしての貨幣資本とmoneyed Capitalとしての貨幣資本との「混同」にもあると考えていたことが分かるのである。

(続く)

2015年11月24日 (火)

林理論批判(25)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.3)

 前回批判した記事を混乱したものとして撤回した林氏であるが、懲りずに同じような混乱した文章を『海つばめ』に発表し続けることになる。今回から批判するのは、その一つである。相変わらず、有用労働による価値移転論をスターリン主義経済学のものであるかに主張し、それがマルクス自身のものであるということを何とか否定しようとアレコレ屁理屈を並べるのであるが、それがますます混乱に陥ることになってしまうのである。
 今回の批判文も私が以前所属していた支部の学習会のレジュメとして提出したものである。なお、前回紹介した批判文と今回紹介する批判文は、そのまま『海つばめ』に投稿したのであるが、編集委員会(林氏)によってボツにされたことも付け加えておこう。
 今回は長くなるので、(1)~の番号を付して紹介していく。なお文中、『資本論』からの引用はすべて全集版からであり、頁数のみ記してあるものは『資本論』第1巻の上(全集第23巻a)からのものである(ただし、訳文は必ずしも全集版と同じではない場合もある)。

〈『海つばめ』「1138号(2011.1.9)【二~三面】“有用労働による価値移転論”批判――「スターリン主義経済学」一掃のために――それぞれの理論のそれぞれの課題を考えよ」〉の検討(1)

【はじめに】

 この林氏の論文の批判的検討のレジュメも、1135号の検討のレジュメと同じように、長いものになってしまった。レジュメが長くなったのは、この林氏の論文が〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解することなくしては、その意味を本当に理解することはできないのであって、ただあれこれの理念や言葉だけをそのまま受けとればいいというものではない〉という書き出しから始まっていることと無関係ではない。というのはわれわれはこの林氏のご高説に忠実たらんとすると、やはり『資本論』の当該部分に当たって、丁寧に、マルクスはそこで何を論じているのかを詳細に吟味する必要があったからである。しかし、とにかく今回も、林氏の論文を逐一吟味していくことから始めよう。

◆《前文の検討》

 われわれはまずこの論文につけられたリード(前文)から検討して行く(以下、幾つかの中見出しは、すべて林氏の論文の見出しをそのまま掲載して行く)。

(1) まず疑問に思うのは、林氏はどうやら「有用労働による価値移転」論そのものは、否定することをやめたのであろうか、ということである。もしそうなら、それはスターリン主義経済学であり、ドグマだと言ってきたこととどのように整合するのであろうか。というのは、今回の論文では、それが〈いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解〉した上でなら、正しいものとして認めるようにも読めないこともないからである。しかし他方で、今回の論文の表題は相変わらず〈“有用労働による価値移転論”批判〉となっている。一体、どっちなのか、ハッキリしない。
 依然として、林氏は〈「有用的労働による価値移転」という“理論”〉と「理論」にあえて“ ”をつけており、それは理論とは言い難いものだとのニュアンスを醸しだしている。そのあとでは〈マルクスがこの理屈を持ち出しているのは〉とも書いており、つまりそれは「理論」というより単なる「理屈」であり、「理論」とも言えないような代物なのだとでも言いたいかのように見えるからである。
 林氏は、もともとマルクス自身が「具体的な有用労働によって、生産手段の価値は生産物に移転・保持される」と述べていることそのものは十分承知の上で、これまでそれに異論を唱えてきたのである。つまりマルクス自身間違っているのではないか、と考えていたのである。しかし林氏は正面切ってマルクスや『資本論』を批判することは避けてきた(もしそんなことをすると、これまで口を極めて批判してきた宇野学派と同じ立場に自分自身が移行してしてしまう!)。だから今度も、マルクス自身がそれを述べていることは認めるが、しかしそれは「理論」というようなものではなく、ただ資本の根本的な概念を与えるための一つの「理屈」にすぎない、そうした限定したものだと言いたいかである。
 つまり「有用的労働による価値移転」そのものは認めるが、今度は、それは限定された一つの「理屈」にすぎないという形で、それをこっそりと葬り去ろうというわけである。
 しかし林氏は1135号では次のように言っていなかったであろうか。

 〈そもそも、労働力の“使用価値”(具体的有用労働)が「価値」の概念の根底に入り込み、適用されるなどと考えること自体、途方もないことに思われる〉

 これこそ林氏の本音である。林氏は「有用労働による価値移転」論というのは、具体的有用労働が価値の概念の根底に入り込むものと誤解したのである。そもそもの出発点はここにある。だからこうした誤解のもとに、マルクスの主張そのものに疑問を持ったのは実は林氏本人なのである。しかし林氏はマルクスの「理屈」そのものに異を唱えることは立場上マズいと考えたから(なにしろ「マルクス」主義同志会の代表なのだから)、まずはそのマルクスの主張をそのまま紹介している大谷氏などを攻撃の対象にし、それはドグマであり、スターリン主義経済学だと批判し、攻撃しているわけである。林氏の本音は、その批判の矛先は、マルクス自身に向けられており、それは「理論」ともいえないような代物であり、単なる「理屈」にすぎないと本当は思っているわけである。しかし林氏は、その意図を隠し、今度は、マルクスのその理屈は、限定されたものだという、それこそ変な「理屈」をくっつけてマルクス自身の主張を批判し、葬り去ろうとしているわけである。

(2)  さて、林氏は〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解することなくしては、その意味を本当に理解することはできない〉という。一見もっともらしい物言いであるが、そこに何が隠されているかが問題であろう。〈「有用的労働による価値移転」という“理論”も、マルクスがいかなる問題を理論的に解決(説明)しようとしているかとの関連で理解されないなら、空虚な(そして有害でさえあり得る)ドグマに転化する〉というのであるが、それをいうなら、まず林氏が「スターリン主義経済学」と断じる経済学者、例えば大谷禎之介氏がそれをそうした無理解のもとに論じていることを示し論証する必要があるのではないか。そうした上でなら、こうした林氏の物言いも一定の正当性を得るだろう。

(3)  〈マルクスがこの理屈を持ち出しているのは、資本が流通過程では、「自己増殖する価値」(G→G’、G→G+g〔貨幣価値→貨幣価値と増加した貨幣価値〕、つまり一〇〇万円→一一〇万円等々)といった無内容な(矛盾した)形態で現象するが、その現象形態を超えた、資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所であり(『資本論』一巻五、六章)、その概念を明らかにするための、そうした理論的な課題に沿った、その課題に制約された理論としてであるにすぎない。有用的労働の概念規定と同一のレベルで論じられるべきものでは決してないのである。〉

 ここで林氏は〈有用的労働の概念規定と同一のレベルで論じられるべきものでは決してない〉と言う。〈有用的労働の概念規定と同一のレベル〉ということで何を言いたいのか不明であるが、われわれは〈有用的労働の概念規定〉が与えられているのは、第1章第1節と第2節であることを知っている。とするなら、どうやら林氏は、第1章の第1節や第2節で論じている有用労働の概念規定と同一のレベルで論じられるようなものではない、と言いたいらしい。確かに「同一レベル」かどうかと問えば、そうでないのは当たり前である。第1章は「商品」の分析であり、第6章は資本の生産過程の問題であり、より具体的な問題が考察の対象になっているからである。しかし林氏が「同一のレベル」と述べているのはこうした意味では、どうやらないようである。林氏の意図はハッキリしないが、われわれは第1章第2節の「商品に表される労働の二重性」の冒頭、マルクスは次のように述べていることを確認しておこう。

 〈最初に、商品は、二面的なものとして、すなわち使用価値および交換価値として、われわれの前に現れた。後には、労働もまた、それが価値に表現される限りでは、使用価値の生みの母としての労働に属するのと同じ特徴を、もはやもっていないということが示された。商品に含まれる労働のこの二面的性質は、私によってはじめて批判的に指摘されたものである。この点は、経済学の理解にとって決定的な点であるから、ここで立ちいって説明しておこう。〉(56頁)

 マルクスはこのように労働の二重性の理解は〈経済学の理解にとって決定的な点である〉と述べている。だからこれは、単に第1章の商品論だけではなく、『資本論』全3巻全体の理解にとっても〈決定的な点である〉とマルクス自身は考えていることは明らかであろう。そしてこれは当然なのである。というのは資本主義的生産様式というのは人間の社会的物質代謝というもっとも基礎的な物質的生産を資本主義という歴史的な形態で行うものだからである。だから、そこには物的基底としての使用価値の生産という契機、よって具体的有用労働の側面があるとともに、他方では資本主義的な商品生産に固有の経済的な形態規定性という側面、すなわち価値的側面が常にあり、こうした二重の側面をもったものとして存在しているからである。だから労働の二重性は、資本主義的生産様式を特殊歴史的形態として、すなわち歴史的に限界のあるものとして、捉えられるか否かという重大な観点とも関わっているのである。よってそれは、商品生産の資本主義的形態についても、労働過程と価値増殖過程という二つの契機で捉えられていることにも現われているし、さらには第6章の「不変資本と可変資本」においては、具体的有用労働の属性では生産手段の価値を生産物に移転し保持するとともに、抽象的人間労働の属性によって新たな価値を付加するという形ででも現われているのである。また労働の二重性については、第2巻のスミスのV+Mのドグマを批判するところでも言及されている。ようするに、『資本論』のあらゆる理論は使用価値と価値という二つの側面、物質的・技術的側面と経済的形態規定性的側面という二重の観点から常に考察されていることをわれわれは見るのである。今、われわれが問題にしているところもそうした『資本論』全体に貫いている観点の一つの具体例なのである。

◆1、問題の前提

(1) まず奇妙に思うのは、林氏は前文の最後で〈我々はまず、マルクスがそれを述べているところと、そこでの理論的な課題を明らかにしなくてはならない〉と述べた、だから当然、〈そこでの理論的な課題〉が次に明らかにされるのだろうと思ったら、どうやらそうではないのである。ここで述べている〈問題の前提〉とは、どういう意味を持っているのであろうか、今一つハッキリしない。
 林氏は同じ前文で〈マルクスがこの理屈を持ち出しているのは、資本が流通過程では、「自己増殖する価値」(G→G’、G→G+g〔貨幣価値→貨幣価値と増加した貨幣価値〕、つまり一〇〇万円→一一〇万円等々)といった無内容な(矛盾した)形態で現象するが、その現象形態を超えた、資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所であり(『資本論』一巻五、六章)、その概念を明らかにするための、そうした理論的な課題に沿った、その課題に制約された理論としてであるにすぎない〉と述べていた。つまりここでいう〈問題の前提〉は、〈資本が流通過程では、「自己増殖する価値」(G→G’、G→G+g〔貨幣価値→貨幣価値と増加した貨幣価値〕、つまり一〇〇万円→一一〇万円等々)といった無内容な(矛盾した)形態で現象する〉その〈現象形態〉をまず確認しておく必要があるということであろうか。

(2) 〈マルクスが「有用的労働による価値移転」を語っているのは、『資本論』の第一巻第三篇第五章と六章、とりわけ六章である。そこではマルクスは、「自己増殖する価値」としての資本の外面的な形式を提示した上で、資本の概念を与えている個所、つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている個所である。〉

 有用労働による価値移転論をマルクスが論じているのは、明らかに第6章である。そしてそこでは必ずしも〈「自己増殖する価値」としての資本の外面的な形式を提示〉されているわけではない。それは第2篇(第4章)「貨幣の資本への転化」の課題だからである。
 また〈資本の概念を与えている個所、つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている箇所〉は第6章「不変資本と可変資本」というより第5章「労働過程と価値増殖過程」であろう。
 われわれは、まずマルクスはどのようにして〈資本の概念を与えている〉か、〈つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている〉かをもう一度考えてみないといけない。なぜなら、林氏のご高説によれば〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解することなくしては、その意味を本当に理解することはできない〉のだからである。
 マルクスが、〈資本の概念〉あるいは〈搾取のメカニズム〉を与えているのは、第3篇「絶対的剰余価値の生産」の第5章「労働過程と価値増殖過程」の第2節「価値増殖過程」においてである。
 しかしその直前の第1節「労働過程」の最後で、マルクスは〈われわれの将来の資本家のところに帰ることにしよう。われわれが彼と別れたのは、彼が商品市場で労働過程のために必要なすべての要因を、すなわち対象的要因または生産手段と人的要因または労働力とを、買ってからのことだった〉と述べ、〈ところで、労働過程は、資本家による労働力の消費過程として行なわれるものとしては、二つの特有な現象を示している〉と述べて、それを次のように明らかにしている。

 〈労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働ばこの資本家に属している。資本家は、労働が整然と行なわれて生産手段が合目的的に使用されるように、つまり原料がむだにされず労働用具がたいせつにされるように、言い換えれば作業中の使用によってやむをえないかぎりでしか損されないように、見守っている。
 また、第二に、生産物は資本家の所有物であって、直接生産者である労働者のものではない。資本家は、労働力のたとえば一日分の価値を支払う。そこで、労働力の使用は、他のどの商品の使用とも同じに、たとえば彼が一日だけ賃借りした馬の使用と同じに、その一日は彼のものである。商品の買い手には商品の使用が属する。そして、労働力の所持者は、自分の労働を与えることによって、じっさいただ自分が売った使用価値を与えるだけである。彼が資本家の作業場にはいった瞬間から、彼の労働力の使用価値、つまりその使用、労働は、資本家のものになったのでる。資本家は、労働力を買うことによって、労働そのものを、生きている酵母として、やはり自分のものである死んでいる生産物形成要素に合体したのである。彼の立場からは、労働過程は、ただ自分が買った労働力という商品の消費でしかないのであるが、しかし、彼は、ただそれに生産手段をつけ加えることによってのみ、それを消費することができるのである。労働過程は、資本家が買った物と物とのあいだの、彼に属する物と物とのあいだの、一過程である。それゆえ、この過程の生産物が彼のものであるのは、ちょうど、彼のぶどう酒ぐらのなかの発酵過程の生産物が彼のものであるようなものである。〉(243頁)

 つまり次の価値増殖過程は、こうした前提のもとに論じられていることが確認されなければならないのである。それでは価値増殖過程では、マルクスはどのようにして〈資本の概念を与えている〉のか、〈つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている〉のであろうか。それを見て行こう。

 まずマルクスは〈資本家にとっては二つのことが肝要である〉という。すなわち--

 〈第一に、彼は交換価値をもっている使用価値を、売ることを予定されている物品を、すなわち商品を生産しようとする。そして第二に、彼は、自分の生産する商品の価値が、その生産のために必要な諸商品の価値総額よりも、すなわち商品市場で彼のだいじな貨幣を前貸しして手に入れた生産手段と労働力との価値総額よりも、高いことを欲する。彼はただ使用価値を生産しようとするだけではなく、商品を、ただ使用価値だけではなく価値を、そしてただ価値だけではなく剰余価値をも生産しようとするのである。〉(244-5頁)

 つまり資本家にとっては剰余価値の生産こそ目的であることが確認されている。また〈ここでは商品生産が問題なのだから、……商品そのものが使用価値と価値との統一であるように、商品の生産過程も労働過程と価値形成過程との統一でなければならない〉(245)とも述べられている。そして〈今度は生産過程を価値形成過程としても考察してみる〉(同)と述べている。つまりすぐに「価値増殖過程」としてではなく、まずは「価値形成過程」として生産過程をみるわけである。
 まずマルクスは〈われわれが知っているように、どの商品の価値も、その使用価値に物質化されている労働の量によって、その生産に社会的に必要な労働時間によって、規定されている〉(同)と述べ、だから〈労働過程の結果としてわれわれの資本家の手にはいった生産物〉(同)に〈対象化されている労働が計算されなければならない〉(同)とし、その計算にとりかかる。マルクスは具体的な生産物の例として糸をとりあげている。そして原料(労働対象)として綿花とすべての充用される労働手段を代表するものとして紡錘を前提している。綿花の価値は、資本家がそれを市場で買ったのだから明らかだとしている。そしてこれは当然、紡錘についても言いうるであろう。そして次のように述べる。

 〈綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸のうちに含まれている。それだけの摩滅または消費なしには綿花を紡ぐことができないという紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。(11)〉(246頁)

 つまり商品の生産に必要な労働時間というのは、その商品の生産のために充用される生産手段も含めたものだということである。これは商品の価値の規定そのものから出てくるものである。マルクスは、第1章第1節の商品の価値を規定するところで次のように述べていた。

 〈そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。〉(52頁)

 ここでマルクスは、〈これらの物が表わしているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである〉と述べている。〈積み上げられている〉という表現は、それらの商品が生産されるためには幾多の労働が積み重なって対象化され凝結していることを前提して述べているのである。そしてその多くの積み重なっている労働というのは、まさにその商品を直接生産する労働だけではなくて、その商品を生産するための生産手段の生産に支出された多くの諸労働もその商品の価値として積み重なっていることを前提してこう述べているわけである。
 そしてこのように言えるのは、商品の価値として商品に対象化されている労働というのは、その具体的な姿態を問わない抽象的な人間労働だからであり、そして具体的姿態を問われないなら、それがどういう時間と空間との隔たりを経て支出されたかというようなことも一切問われないし、ただそれらは一連の連続して支出された労働時間として計算されるからである。だからこそ、こうしたことは古典派経済学においても捉えることができたわけである。マルクスは先の引用文の注11でリカードの一文を紹介している。

 〈(11) 「諸商品に直接に充用された労働だけではなく、この労働を助ける器具や道具や建物に費やされた労働もまた諸商品の価値に影響する。」(リカード『経済学原理』、一六ページ。〔岩波文庫版、小泉訳『経済学及び課税の原理』、上巻、二五ページ。〕)〉

 つまりこうしたことはスミスやリカードにおいても理解されていたことなのである。そしてマルクスは次のように書いている。

 〈こういうわけで、糸の価値、糸の生産に必要な労働時間が考察されるかぎりでは、綿花そのものや消費される紡錘量を生産するために、最後には綿花や筋錘で糸をつくるために、通らなければならないいろいろな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている、いくつもの労働過程が、同じ一つの労働過程の次々に現われる別々の段階とみなされることができるのである。糸に含まれている労働はすべて過去の労働である。糸を形成する諸要素の生産に必要な労働時間は、すでに過ぎ去っており、過去完了形にあるが、これにたいして、最終過程の紡績に直接に用いられた労働はもっと現在に近く、現在完了形にあるということは、まったくどうでもよい事情である。一定量の労働、たとえば三〇労働日の労働が、一軒の家の建築に必要だとすれば、三〇日めの労働日が最初の労働日よりも二九日おそく生産にはいったということは、その家に合体された労働時間の総計を少しも変えるものではない。このように、労働材料や労働手段に含まれている労働時間は、まったく、紡績過程のうちの最後に紡績の形でつけ加えられた労働よりも前の一段階で支出されたにすぎないものであるかのように、みなされうるのである。〉(246-7頁)

 そして次に、マルクスは綿花や紡錘の価値が糸の価値の一成分をなすことは分かったとして、紡績労働が綿花に付け加える価値部分の考察に移る。

 〈紡績工の労働が価値形成的であるかぎり、すなわち価値の源泉であるかぎりでは〉(248)〈糸の生産手段に実現されている綿花栽培者や紡錘製造工の労働と少しも違ってはいない。ただこの同一性によってのみ、綿花栽培も紡錘製造も紡績も同じ総価値の、すなわち糸の価値の、ただ量的に違うだけの諸部分を形成することができるのである。〉(同)

 次にマルクスは〈労働力の売りのところでは、労働力の日価値は三シリングに等しいと想定され、またこの三シリングには六労働時間が具体化されており、したがって労働者の日々の生活手段の平均額を生産するためにはこの労働量が必要だということが想定された〉(249)とする。つまり労働力の価値は半労働日に等しいのである。その前提のもとに、マルクスは労働者がその自分の労働力の価値だけの労働を働いた場合を考える。そして糸の価値をみると、それは労働力の価値+綿花の価値+紡錘の価値となり、資本家ははっとすると書いている。生産物の価値は前貸された価値に等しいが、それを超えるもの、つまり剰余価値がないことに気付くというわけである。すなわち、次のように書いている。

 〈われわれの資本家ははっとする。生産物の価値は前貸しされた資本の価値に等しい。前貸しされた価値は増殖されておらず、剰余価値を生んでおらず、したがって、貨幣は資本に転化してはいない。〉(250)

 そしてこの不可思議な現実に対する資本家どもの嘆きや言い訳を批判してから、次のように続けている。

 〈もっと詳しく見よう。労働力の日価値は三シリングだったが、それは、労働力そのものに半労働日が対象化されているからである。すなわち、労働力の生産のために毎日必要な生活手段に半労働日がかかるからである。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。労働者を二四時間生かしておくために半労働日が必要だということは、けっして彼がまる一日労働するということを妨げはしない。だから、労働力の価値と、労働過程での労働力の価値増殖とは、二つの違う量なのである。この価値差は、資本家が労働力を買ったときにすでに彼の眼中にあったのである。糸や長靴をつくるという労働力の有用な性質は、一つの不可欠な条件ではあったが、それは、ただ、価値を形成するためには労働は有用な形態で支出されなければならないからである。ところが、決定的なのは、この商品の独自な使用価値、すなわち価格の源泉でありしかもそれ自身がもっているよりも大きな価値の源泉だという独自な使用価値だった。これこそ、資本家がこの商品に期待する独自な役だちなのである。そして、その場合彼は商品交換の永久な法則に従って行動する。じっさい、労働力の売り手は、他のどの商品の売り手とも同じに、労働力の交換価値を実現してその使用価値を引き渡すのである。彼は、他方を手放さなければ一方を受け振ることはできない。労働力の使用価値、つまり労働そのものはその売り手のものではないということは、売られた油の使用価値が油商人のものではないようなものである。貨幣所持者は労働力の日価値を支払った。だから、一日の労働力の使用、一日じゅうの労働は、彼のものである。労働力はまる一日活動し労働することができるにもかかわらず、労働力の一日の維持には半働日しかかからないという事情、したがって、労働力の使用が一日につくりだす価価が労働力自身の日価値の二倍だという事情は、買い手にとっての特別な幸運ではあるが、けっして売り手にたいする不法ではないのである。
 われわれの資本家には、彼をうれしがらせるこのような事情〔58〕は前からわかっていたのである。それだから、労働者は六時間だけではなく一二時間の労働過程に必要な生産手段を作業場に見いだすのである。一〇ポンドの綿花が六労働時間を吸収して一〇ポンドの糸になったとすれば、二〇ポンドの綿花は一二労働時間を吸収して二〇ポンドの糸になるであろう。この延長された労働過程の生産物を考察してみよう。二〇ポンドの糸には今では五労働日が対象化されている。四労働日は消費された綿花量と紡錘量とに対象化されていたものであり、一労働日は紡績過程のあいだに綿花によって吸収されたものである。ところが、五労働日の金表現は三〇シリング、すなわち一ポンド一〇シリングである。だから、これが二〇ポンドの糸の価格である。一ポンドの糸は相変わらず一シリング六ペンスである。しかし、この過程に投入された商品の価値総額は二七シリングだった。糸の価値は三〇シリングである。生産物の価価は、その生産のために前貸しされた価値よりも九分の一だけ大きくなった。こうして、二七シリングは三〇シリングになった。それは三シリングの剰余価値を生んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。〉(254-5頁)

 われわれはここですでに林氏がいうところの〈資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得〉を見ることができる。剰余価値の源泉が何なのか、資本の搾取のカラクリとは何なのかがすでに暴露されていることを見る。しかし言うまでもないが、これまでにはまだ「有用労働の価値移転」の「理屈」そのものはまだ言及れていない。

 そしてマルクスは〈この全経過、彼の貨幣の資本への転化は、流通部面のなかで行なわれ、そしてまた、そこでは行なわれない。流通の媒介によって、というのは、商品市場で労働力を買うことを条件とするからである。流通では行なわれない、というのは、流通は生産部面で行なわれる価値増殖過程をただ準備するだけだからである〉(255)と述べている。つまりこれは第4章第2節の最後にマルクスが次のよう述べていたことである。

 〈貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則に基づいて展開されるべきであり、したがって等価物同士の交換が出発点をなす。今の所まだ資本家の幼虫として現存するにすぎないわれわれの貨幣所得者は、商品をその価値どおりに買い、その価値どおりに売り、しかもなお過程の終りには、彼が投げいれたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面の中で行なわれなければならず、しかも流通部面の中で行なわれてはならない。これが問題の条件である。“ここがロドスだ、ここで跳べ!”〉(217-8頁)

 つまりこの第4章で提起された問題、すなわち〈貨幣の資本への転化〉がここにおいて実現されている。すなわち剰余価値の源泉が明らかにされ、資本の搾取のカラクリが暴露されているということである。つまり林氏が〈資本が流通過程では、「自己増殖する価値」(G→G’、G→G+g〔貨幣価値→貨幣価値と増加した貨幣価値〕、つまり一〇〇万円→一一〇万円等々)といった無内容な(矛盾した)形態で現象する(これを指摘しているのが第4章「貨幣の資本への転化」であった。--引用者)が、その現象形態を超えた、資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所〉こそが、この部分、つまり第5章第2節の「価値増殖過程」であることをわれわれは確認できるのである。

 さらにマルクスは次のように述べている。

 〈さらに価値形成過程を労働過程と比べてみれば、後者は、使用価値を生産する有用労働によって成り立っている。運動はここでは質的に、その特殊な仕方において、目的と内容とによって、考察される。同じ労働過程が価値形成過程ではただその量的な面だけによって現われる。もはや問題になるのは、労働がその作業に必要とする時間、すなわち労働力が有用的に支出される継続時間だけである。ここでは、労働過程にはいって行く諸商品も、もはや、合目的的に作用する労働力の機館的に規定された素材的な諸要因としては認められない。それらは、ただ対象化された労働の一定量として教えられるだけである。生産手段に含まれているにせよ労働力によってつけ加えられるにせよ、労働はもはやその時間尺度によって教えられるだけである。それは何時間とか何日間とかいうようになる。〉(256頁)
 〈要するに、前には商品の分析から得られた、使用価値をつくるかぎりでの労働と価値をつくるかぎりでの同じ労働との相違が、今では生産過程の違った面の区別として示されているのである。
 労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である。〉(258頁)
 
 つまりわれわれはここにも労働の二重性が、一方は価値形成過程として、他方は労働過程として表れていることを知る。そして価値形成過程としては、生産物の生産に支出された労働はすべて一定の労働量として認められる数えられるだけだと述べられている。

 以上が、ほぼ第5章の第2節の内容なのである。つまり林氏がいうところの〈資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所〉としてもっとも相応しいのは、第5章第2節であるとわれわれは言うことができるであろう。(続く)

 (途中ではあるが、長くなるので、以下は次回に回すことにする。)

2015年11月19日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-2)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

《大谷氏の「前書き」について》

 大谷氏の草稿の翻訳文(『経済志林』)には、大谷氏自身による前書きが書かれている。この前書きについても、一言論じておくことにしたい。
 まず大谷氏は〈「架空資本」の意味ないし内容について〉は、以前にも論じたと書いている。これは《 「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(上) 》(『経済志林』第51巻第2号)に掲載されたものであり、これから「架空資本」について研究するわれわれにとっては、やはり興味深いものと言える。しかしその内容は、ほとんどわれわれがこれから検討する第29章該当部分の草稿に対する大谷氏自身による考察である。よって、これについては、本文を段落ごとに検討するなかで、大谷氏自身の解釈として、順次、検討・吟味していくことにしよう。
 次に大谷氏は、この以前論じたものの要点を、6点にわたってまとめている。このうち(1)、(2)、(3)、(4)については、すでに最初のレジュメでも紹介したので検討は省きたい。ただ(4)に関連して、少しだけ書いておきたい。
 (4)で架空資本という語が出てくるのは〈これ以降でもただ数箇所でてくるだけである。だから,この語がどのような意味で使われ,どのような重要性をもっているのかは,これらの部分(つまりIIの部分、29章該当部分--引用者)に示されていると考えるべきであろう〉と述べている。また(6)でも〈 「III」 (「II」とあるのは「III」の誤植--引用者)以降の数箇所に出てくる「架空資本」が,「II」ですでに論じられたそれの範囲内のものであることは明らかであるから,結局,表題「5)信用。架空資本」における「架空資本」の「架空」とは,基本的にこの「II」で明らかにされている架空性と考えられなければならない〉とも述べている。こうしたことから大谷氏は「5) 」の表題の「架空資本」はIIで論じられていると考えたのであろう。しかしすでに述べたように、やはりこうした理解は一定の根拠があるとはいうものの、やはり不十分といわざるをえない。確かに「III」以降でマルクスは「架空資本」についてあまり論じていない(大谷氏が引用しているのは3カ所だけである)。せっかく「III」(すなわち現行版の第30-32章該当部分)における考察の前提として「II」で架空資本について論じながら、肝心の現実資本を何倍も上回って蓄積される貨幣資本の蓄積(蓄蔵)の運動の実際を論じるときに、架空資本の存在についてほむしろ省いて言及しなかった(できなかった?)というのは(もちろん、とりあえずは問題を限定するためにこうした措置をマルクスはやっているわけであるが)、やはりこの「III」の部分での考察がいまだ十分では無かった故であると私は思っている。この「III」については、引き続いて研究する予定なので、これ以上のことは言わないが、それが不十分に終わった大きな理由は、第2部「資本の流通過程」の第3章(現行版では「篇」)「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」(現行版の表題は「社会的総資本の再生産と流通」)における拡大再生産論が、第3部の第5章(現行版では篇)を考察し叙述している時には、いまだ手つかずだったところにあると私は考えている。特に現実資本の蓄積に必要な潜勢的貨幣資本の蓄蔵が社会的総資本の再生産の観点からどのように関連しているのかということがいまだ未解明だったが故に、それを何倍も上回る架空な貨幣資本の蓄積についても十分論じることができなかったのではなかったかと思うのである(そして「拡大再生産と蓄積」を論じた、第3部第8稿では、まさに現実資本の蓄積と潜勢的貨幣資本の蓄蔵との関連が解明されており、だからそこではこの第3部第5章(篇)でとりかかりながら未解明に終わった問題の幾つかの基本的な解決が与えられているのである。そしてそれはすでに公表している「第2部第8稿の解読」のなかで指摘しているので興味のある方は参考にして頂きたい)。そもそも「架空資本」の「架空性」というものも、再生産論を踏まえて始めて明らかになるような性格のものではないかと私は考えている。
 (5)の部分では、この「II」でマルクスが論じている問題の要点をまとめるような内容になっている。だからここで書かれている問題は、これからわれわれがIIの本文を解読していくなかで明らかになる問題である。だから本文を解読する以前に論じるのはあまり適当とは言えない。ただこの部分を頭に入れて本文を読めば、理解に役立つ面がある。だからいくつかの点について今この時点で浮かぶ疑問点を上げておき、それを実際の本文の検討のなかで、検証していくことにしたいと思う。

 (1) 大谷氏は〈 ①いわゆる「利子生み証券」の所有者にとってそれが資本であるのは,つまりいわゆる擬制資本は,収入の資本還元による純粋に幻想的な観念にすぎない〉と述べている。ここで大谷氏は「いわゆる」を着けながらも「擬制資本」という用語を使っている。しかしマルクス自身は少なくとも大谷氏の翻訳文のなかでは「擬制資本」という用語は使っていない。どうして「利子生み証券」を「擬制資本」と大谷氏はいうのであろうか、それは「架空資本」とどう違うのか、それを使い分ける意味はどこにあるのか,こうした疑問を、とりあえずは提起しておきたい。

 (2) で大谷氏は〈手形や他行銀行券をも含めて,自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図であって,純粋に架空なものである〉と述べている。この大谷氏が問題にしている本文の箇所(われわれが付けた段落の番号では【27】になる)も色々と解釈上の問題がありそうであるが、まず大谷氏は〈他行銀行券〉について言及しているが、マルクス自身は何も述べていないこと、また確かにマルクス自身も、〈銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉と述べて、そのなかに〈すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〉と書いており、これを読む限りでは手形も〈純粋に架空なもの〉ということになっている(35頁)。しかし他方でマルクスは「手形」を「その他の有価証券」と区別して、両者は〈本質的に区別されるもの〉とも述べている(15頁)。割り引かれた手形は確かに銀行にとっては利子生み証券なのであるが、手形自体(もちろん、それが融通手形のようなものではないかぎりでの話ではあるが)は、〈純粋に架空なものである〉とは言えない(これは大谷氏も同じ意見である)。ではどうしてここでマルクスは〈純粋に架空なもの〉と言っているのか。大谷氏は〈これは,さきの「いわゆる利子付き証券」についていわれていた「架空資本」とは異なる視点からの架空性である〉と述べているのだが(上記に紹介されている第25章該当部分の解説の67頁)、果たしてそうした理解は正しいのかどうかである。これも本文解読のなかで検証しなければならない。

 大谷氏は6項目にわたる要点を説明したあと、次のように述べている。

 〈以上のように見ることができるとすれば,表題「5) 信用。架空資本」における「架空資本」とは,「信用とは,架空なものと見つけたり」,といったような意味合いで言われているものではまったくなく,またしたがって蓄積された「貨幣資本」の大部分が,たんに信用から成っているという意味だけから架空だと言われているのでもない。そうではなくて,それは,銀行のもとに形成され運用されているmonied capita1について,それを構成するものが利子生み資本の成立を前提にし,それによって生み出される架空な貨幣資本の諸形態であることを明らかにするところにあったのだと言わなければならない。〉(4-5頁)

 もしこれが「5)」の表題にある「架空資本」の含意されている内容だというならやはり不十分としか言いようがない。しかしその理由については何度も述べてきたので、ここでは論じない。
 ここで大谷氏が言っているように「信用」ならすべて「架空」かというとそうではない。「商業信用」は再生産過程内の信用であり、決して「架空」ではない(だからそこで流通している限りでの手形も「架空」ではない。ただ銀行によって割り引かれ、銀行が保持する手形については若干違っており--マルクスが「純粋に架空である」と述べているのはこれであるが--、注意深い検討が必要である)。また「貨幣信用」(これは大谷氏によれば、一般には「銀行信用」と言われているものであるが、マルクス自身は「銀行信用」という言葉で別の意味を持たせているという)についても、それが再生産過程外の信用であり、銀行による貸し付けだからすべて「架空」かというと必ずしもそうとは言えない。銀行はさまざまな産業資本や商業資本において遊休している貨幣を集中して、それを必要とする資本に貸し付ける機能を持っているが、こうした遊休貨幣資本が現実の商品価値の実現形態であるなら、そしてそれを銀行がただ媒介して貸し付けるだけなら、その貨幣は決して架空ではないからである。なぜなら、それを借りて蓄積する資本家は、それを本来所有している資本家に代わって蓄積を行なうに過ぎず、そこにはどんな架空性もないからである(もっとも銀行の貸し付けは通常はそうしたものに止まらないのであるが)。だから何が架空であるかは、再生産の観点から捉えて始めて明らかになるのである。
 またそのあと「信用。架空資本」の「信用」が一定の制限された内容であり、それは利子生み資本の運動諸形態を考察するに必要なかぎりで考察される「信用制度、銀行制度」を意味している等々と述べられている内容は、その限りではまったく異論のないところである。それでは、いよいよ本文の解読に移ろう。

《本文の段落ごとの解読》

【1】

 〈[519]|335上| II.こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である。〉

 ここから「II」が始まっているが、しかし、マルクスはこのように、〈こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉と言いながら、すぐにそれに取りかかるのではなく、次の【2】パラグラフ以降において、「 I 」の、つまりエンゲルス版では第28章に該当する部分のまとめというか、結論を書いている(だから、ここで述べている銀行業者の資本が何からなっているかの考察は、実際には、われわれのパラグラフ番号で言うと、【8】から始まっているのである)。

 ところでどうして、マルクスは、ここから銀行業者の資本が何からなっているかをもっと詳しく考察する必要があると考えたのであろうか。少しこれまでの展開を振り返って考えてみよう。
 「利子生み資本」というのは、その概念は 1)4) (それぞれの詳しい内容は、前回〔29-1〕の最初に紹介した大谷氏の考える「第5章の構成」を参照。これはエンゲルス版では第21~24章に該当する)で明らかにされているのであるが、主要には銀行があちこちから集めた貨幣を産業資本や商業資本に貸し出すものである。だから、 1)4) (第21~24章)で「利子生み資本」の概念を展開したあと、 5)から(この 5)には「信用。架空資本」なる表題が書かれている)実際の「利子生み資本」の運動の考察に取りかかるわけだが、しかしそのためには、利子生み資本が運動する場である信用制度(銀行制度)をまず必要な限りで論じておく必要があった。利子生み資本に「固有の運動」というのは、以前、第28章該当部分の学習会のレジュメの冒頭部分でも紹介したが、「貸借」、つまり「貸し出し」と「返済」である。だからその運動を論じるためには、その実際の貸借を行う銀行などの信用制度も論じなければならないわけである。ただ信用制度そのものの本格的な考察は、マルクスのプランでは『資本論』の枠を超えた、もっと後の部分(これは競争などともに、資本の「特殊」な考察として位置づけられていた)で展開されるべきものなので(だから『資本論』は資本の「一般的」な考察に限定されている)、  5)の最初のエンゲルス版の第25~27章に該当する部分では、利子生み資本の運動を論じるために必要最小限に限って信用制度について論じるとマルクスは断っている(だから第25~27章と言っても、エンゲルスが勝手に付け加えたものを除外すると、本文としてマルクスが論じている部分は、第25章の前半と第27章だけであり、分量としてはわずかであり、内容も簡単なスケッチ程度のものでしかない(もちろんスケッチ程度だからどうでもよいというのではなく、項目的に簡潔に書いているが、それだからこそ極めて重要な示唆が含まれたものである)。こうした草稿の状態も前記の大谷氏の「第5章の構成」を参照して頂ければよく理解できるであろう。
 マルクスは「 I 」と番号を打ったところから、銀行学派の批判を行うのであるが、これはどういう意義があるのであろうか。
 いわゆる通貨学派と銀行学派との論争というのは、簡単にいうと銀行券の発行を制限すべきか、その必要はないかという点を巡っての論争であった。通貨学派はリカードの貨幣数量説にもとづいて、銀行券の発行を金貨幣が持っている貨幣数量の調節作用に合うように制限する必要があると主張したのに対して、銀行学派はその必要はない、というのは銀行券(兌換)は流通の必要以上には流通に出回らないからだと主張したのである。
 信用制度が発展すると、流通に必要な貨幣(通貨)は、基本的には銀行が供給するようになる。銀行が供給するのだから、その限りでは、それは「利子生み資本」の運動なのである。しかしこのことを理解している人は、今日でもほとんどいないと言っても過言ではないほどなのだ。第28章のレジュメでも指摘しておいたが、「通貨をじゃぶじゃぶ供給せよ」とか「貨幣を潤沢に」とか「過剰流動性」だとか、いろいろと今日でも言われているが、それらはすべて直接的にはまず「利子生み資本」の問題なのである。ところが、多くの人は直接に政府によって1万円札(あるいはドル札でも同じだが)がどんどん流通に押し出されていくものであるかに錯覚している(情けないことに、同志会の代表委員である林紘義氏や田口騏一郎氏も同類であり、米国政府が印刷機を回してどんどんドルを世界中にばらまいているなどと考えている)。マルクスは銀行学派が商品市場と貨幣市場との区別が出来ずに混乱していることを現行(エンゲルス版)の第33章でも論じているが、こうした混乱はいまだに自称マルクス経済学者においても見られるのである。
 おっとっと! ついつい脱線してしまったが、本論に返ろう。
 銀行学派が銀行券は過剰発行されることはないと主張する論拠は、例え銀行券が過剰に発行されても、すでに「通貨」が流通が必要とするに十分であるなら、それらはすぐに銀行に返ってきて「資本」の貸し付けに転化するからだ、というものである。つまり彼らは、もっともらしく「通貨」と「資本」との区別をその理由にしたのである。だからマルクスとしては、銀行学派が主張する「資本」の貸し出しというのは、果たして「利子生み資本」という意味での「資本」なのか、彼らはそれを正確に概念として理解した上で、そのように主張しているのかを問題にする必要がある、あるいは「利子生み資本」の運動を科学的に論じる前に、一見すると同じようにmoneyed Capitalとしての「資本」の運動を問題にしているかに見える銀行学派のそうした主張を批判的に論じておく必要があると考えたわけである。そして批判的な検討の結果、銀行学派の言う「資本」というのはただ彼らの銀行業者的な利害に立ったものでしかない(帳簿上彼らの自己資本の持ち出しになるケースを「資本の貸し出し」と称しているだけである)ことを暴露した。だから第28章該当部分(「 I 」の部分)では、マルクスは冒頭のパラグラフで「利子生み資本」という用語を使いながら、この「II」と番号が打たれた冒頭部分、つまり【2】以降の数パラグラフで、銀行学派批判の「結論」を論じるなかで再び「利子生み資本」という用語を使っている以外には(つまり最初と最後でしか使っていない!)、第28章該当部分、つまり「 I 」の本論では、まったく「利子生み資本」という用語は使わずに、ただ銀行学派の主張する「通貨」や「資本」という用語をそのまま使って、実際は、彼らはそれらをどのような意味で使っているのかを明らかにして、彼らの主張の混乱や矛盾をつくという形で批判を展開しているわけである。
 だからこの「II」から、マルクス自身の科学的な概念を使って、問題を本格的に論じることになるわけである。通貨学派や銀行学派は、イングランド銀行や地方銀行が発行する銀行券が手形割引や担保貸し付け等々のさまざまな形で産業資本や商業資本の要請に応じて、貸し出されることを問題にしている。銀行学派はそうした銀行による貸し出しが、好況期と逼迫期とで、流通の二つの分野(「収入と流通」と「資本の流通」)で、どのように変化するかといった問題を論じ、そうしたことも「通貨」と「資本」との区別の問題として論じたわけである。そうした銀行が貸し出す銀行券を論じるためには、一般に銀行業者の資本というのはそもそもどういうものから成っているのかを明らかにしておく必要があるとマルクスは考えている。大谷氏も指摘するように、〈銀行のもとに形成され運用されているmonied capita1について,それを構成するものが利子生み資本の成立を前提にし,それによって生み出される架空な貨幣資本の諸形態であることを明らかにする〉(前記、前書き)必要があったわけである。そして実際に、銀行から貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)が産業循環の局面によってどのように変化するかというような問題はエンゲルス版第30~32章該当部分において(「III」と番号が打たれたところで)問題にされるわけである。そういうわけで、銀行学派批判が終わったあとで、そうした銀行から貸し出される利子生み資本の運動を論じる前に、まずは銀行業者の資本そのものを問題にしなければならないというわけである。

 ところで今述べたように、 【2】以下の数パラグラフは、実際には、第28章該当部分(「 I 」と番号が打たれた部分)と関連したものなのである。ではそれらはどのように関連しているのか、それを少し論じておこう。
 まずこの【2】【7】は大きくは二つに分かれる。 【2】【4】の部分とそれ以降の部分( 【5】【7】 )である。 【2】【4】の部分は、銀行学派批判の結論である。それに対して、 【5】【7】の部分は、銀行学派批判への補足である。マルクスは【5】の最初に〈 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう〉と書き出している。これを見ても、それ以前の部分(つまり【2】【4】の部分)が「 I 」について論じているとの意識がマルクス自身にもあったことが分かる。つまり本来は【4】で、マルクスとしては銀行学派批判(つまり「 I 」の課題)は終わったわけである。しかし「 I 」について、まだ言うべきことがあるとして、付け加えているのが、この【5】【7】の部分なのである。しかも、大谷氏によれば、「この3パラグラフの左側には、インクで上下をやや右に折り曲げた縦線が引かれて、この3パラグラフがひとまとまりのものであることを明示している」(第28章、『経済志林』61巻3号272頁)らしい(しかしなぜかMEGA第II部第4巻第2分冊ではこの縦線が表記されていないのだが)。つまりマルクスとしては、この三つのパラグラフは「 I 」の適当なところに挟み込む予定で書かれたと思われるのである。この点については、以前、書いた第28章該当部分の学習会のレジュメのなかで、それが第28章該当部分の【44】パラグラフの後に挿入されるのが適当であることも述べておいた(ところがエンゲルスも大谷氏も第28章該当部分の最後に、だから【51】パラグラフの後にそれらをくっつけている)。

 このように、これから検討する【2】【7】の各パラグラフについては、すでに第28章の学習会のレジュメのなかで一応の検討は加えてあるわけである。そしてそれらの実際の内容は、第28章で論じているものと直接結びついたものであるから、それらを検討するためには、どうしても第28章の内容に戻る必要が出てくることになる。出来たら第28章のレジュメにもう一度目を通して頂くのがもっともよいのであるが、それも面倒だろうから、出来るだけ第28章の内容を思い出しながら解説していくことにしよう。(続く)

2015年11月17日 (火)

林理論批判(24)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.2)

 今回は、前回批判した記事の後半部分の批判である。今回も項目は記事の項目をそのまま採用している。

《『海つばめ』1135号(2010.11.28)【三面トップ】大谷の「有用的労働による“価値移転論”」--典型的な“スターリン主義経済学”--「労働価値説」も「社会主義論」も滅茶苦茶に》の批判的検討(下)

◆大谷“経済学”の“スターリン主義的”本性(記事の項目をそのまま紹介)

(1)〈大谷はまず、「労働は一方で、抽象的労働として対象化して新価値になる」と主張するが、しかし資本主義のもとで、人間労働は抽象的人間労働として「価値になる」のであって、「新価値になる」のではないし、また同様に、具体的有用労働は、人間にとっての使用価値を作り出すのであって、「労働対象を生産物に形態変化させるとともに、生産手段の価値を生産物に移転し維持する」わけでもない。

 われわれは、林氏が大谷批判やスターリン経済学批判という形をとりながら、『資本論』そのものを批判し、否定しようとしていることを示すために、こうした林氏の主張に対して、『資本論』そのものの一文を対置しなければならない。

  〈労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する。
 労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える。他方では、われわれは消費された生産手段の価値を再び生産物価値の諸成分として、たとえば綿花や紡錘の価値を糸の価値のうちに、見いだす。つまり、生産手段の価値は、生産物に移転されることによって、保存されるのである。この移転は、生産手段が生産物に変わるあいだに、つまり労働過程のなかで、行なわれる。それは労働によって媒介されている。だが、どのようにしてか?
 労働者は同じ時間に二重に労働するのではない。一方では自分の労働によって綿花に価値をつけ加えるために労働し、他方では綿花の元の価値を保存するために、または、同じことであるが、自分が加工する綿花や自分の労働手段である紡錘の価値を生産物である糸に移すために労働するわけではない。そうではなく、彼は、ただ新たな価値をつけ加えるだけのことによって、元の価値を保存するのである。しかし、労働対象に新たな価値をつけ加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生みだす二つのまったく違う結果なのだから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明のできるものである。同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならないのである。
〉(全集版23b261頁)

 さて、マルクスはいう。
 
  〈労働者は、彼の労働の特定の内容や目的や技術的性格を別とすれば、一定量の労働をつけ加えることによって労働対象に新たな価値をつけ加える

 それに対して林氏は反論する。

 〈人間労働は抽象的人間労働として「価値になる」のであって、「新価値になる」のではない〉。

 マルクスが〈新たな価値〉という場合、それが〈新価値〉とは違うとまさか林氏でもいうまい(確かに言葉としては違うが内容は同じだ)。

 さらにマルクスはいう。

 〈(労働者--引用者)の労働は、一方の属性(抽象的人間労働--同)では価値を創造し、他方の属性(具体的有用労働--同)では価値を保存または移転しなければならないのである。

 それに対して林氏は批判する。

 〈また同様に、具体的有用労働は、人間にとっての使用価値を作り出すのであって、「労働対象を生産物に形態変化させるとともに、生産手段の価値を生産物に移転し維持する」わけでもない。
 
 このように、明らかに林氏は大谷批判の形をとりながら、『資本論』そのものを批判し、否定しているのである!! これが“当てはめ主義”などという馬鹿げたことを言って、『資本論』を相対化し、『資本論』から謙虚に学ぶ姿勢を失ったものの行き着く先なのである。

(2)〈大谷の奇妙な理屈によれば、抽象的労働は「新価値」にのみ関係し、それのみを作り出すということであるが、ここでいわれている「新価値」とは一体何のことか。もしそれが、言われるところの「生きた労働」部分――つまり可変資本部分と剰余価値部分――とするなら、それは基本的に間違っているのであって、抽象的労働は現実に生産物の価値全体を――したがってまた商品価値の全体を――規定するのである。大谷がこんなたわ言をつらねるのは、“悪しき”スターリン主義経済学の呪縛にいまだにしばられているからというしかない。商品価値について語るなら、「新価値」とか「旧価値」などという観念は存在しないし、するはずもないのである。商品の価値概念について語りながら、「新価値」と「旧価値」といった概念を持ち出す人を、我々は果たして“マルクス主義者”と呼ぶことができるであろうか。こんなとんちんかんな観念によって、いかにして“労働価値説”が概念規定でき、擁護され得るというのであろうか。余りにばかげている。

 林氏はいう、〈商品価値について語るなら、「新価値」とか「旧価値」などという観念は存在しないし、するはずもないのである。商品の価値概念について語りながら、「新価値」と「旧価値」といった概念を持ち出す人を、我々は果たして“マルクス主義者”と呼ぶことができるであろうか〉。しかしマルクスは次のように語っている。

 〈労働過程の立場から見れば、生産物IIは、新たに機能している生きている労働と、この労働が実現されるための対象的諸条件としてこの労働に与えられ前提された生産手段との結果であるが、それと全く同様に、価値増殖過程の立場から見れば、生産物価値II=3000は、社会的労働日のうち新たにつけ加えられた三分の一によって生産された新価値(500v+500m=1000)と、ここで考察されている生産過程IIの前にすんでしまった過去の社会的労働日の三分の二が対象化されている不変価値とから成っている。生産物IIのこの価値部分は、この生産物そのものの一部分で表わされる。それは、社会的労働日の三分の二に相当する2000という価値をもつ消費手段量のうちに存在する。この消費手段こそは、この価値部分が再現する新たな使用形態なのである。だから、消費手段の一部分=2000IIcと生産手段 I = I (1000v+1000m)との交換は、事実上、この年の労働の一部分ではなくこの年以前にすんでいる総労働日の三分の二と、この年に新たにつけ加えられたこの年の労働日の三分の二との交換である。この年の社会的労働日の三分の二は、もし、それが、一年間に消費される消費手段の価値のうちこの年にではなくこの年以前に支出されて実現された労働日の三分の二を含んでいる部分と交換されることができないとすれば、不変資本の生産に使用されながら同時にそれ自身の生産者にとって可変資本価値・プラス・剰余価値を形成することはできないであろう。それは、この年の三分の二労働日とこの年以前に支出された三分の二労働日との交換であり、この年の労働時間と前の年の労働時間との交換である。だから、このことは次のような謎をわれわれに解いてくれるのである。すなわち、社会的労働日全体の三分の二は、可変資本または剰余価値がそれに実現されることのできる諸対象の生産には支出されないで、その一年間に消費された資本を補填するための生産手段の生産に支出されているにもかかわらず、なぜ、社会的労働日全体の価値生産物は可変資本価値・プラス・剰余価値に分解することができるのか、という謎がそれである。この謎は、 I の資本家と労働者が自分たちの生産した可変資本価値・プラス・剰余価値をそれに実現する生産物価値IIの三分の二(そしてそれは年間総生産物価値の九分の二をなしている)が、価値から見れば、この年以前にすんだ社会的労働日の三分の二の生産物だということから、簡単に説けるのである。
 社会的生産物 I とIIとの合計、つまり生産手段と消費手段との合計は、その使用価値から、具体的に、その現物形態によって見れば、この年の労働の生産物ではあるが、しかし、そうであるのは、ただこの労働そのものが有用的具体的労働と見られる限りでのことであって、この労働が労働力の支出、価値形成労働と見られる限りではそうではないのである。また、そうであるというのも、ただ、生産手段はそれにつけ加えられそれを取り扱う生きている労働によってのみ新たな生産物すなわちこの年の生産物に転化したのだ、という意味でのことに過ぎない。しかしまた、逆に、この年の労働も、それには依存しない生産手段なしには、労働手段や生産材料なしには、生産物に転化することはできなかったであろう。
〉(『資本論』第2巻第20章、全集版24巻526-7頁)

 ここにはマルクス自身の言葉として「新価値」という言葉があり、〈消費手段の価値のうちこの年にではなくこの年以前に支出されて実現された労働日の三分の二を含んでいる部分と交換される〉という文言もある。つまり「旧価値」である。また〈新たに機能している生きている労働〉という文言もある。こうしたことを論じているマルクスを〈我々は果たして“マルクス主義者”と呼ぶことができるであろうか〉と林氏は疑問を投げかけるのである。
 しかし社会の再生産を考察するときには、今期に新たに支出された労働にもとづく新価値であるのか、それとも前期以前に支出された古い価値で、今期の生きた労働によって移転させられたものなのかということは極めて重要なことなのである。それはスミスなど古典学派経済学にはなかなかわからなかったことなのである。だからこそスミスは、〈年間生産物価値を年間価値生産物と同一視〉する誤りに陥ったのである(全集第24巻463頁参照)。年間価値生産物は新価値だけを意味し、年間生産物価値は新価値と移転された旧価値の両方を含んだものなのである。新価値と旧価値の区別が如何に重要かが分かるであろう。なぜなら〈この混同によって、スミスは年間生産物の不変資本部分を追い出してしま〉(同)ったからである。そして〈この混同そのものは、彼の基本的見解の中にあるもう一つの誤りに基づいている。すなわち、彼は、労働そのものの二重の性格、すなわち、労働力の支出として価値をつくる限りでの労働と、具体的な有用労働として使用対象(使用価値)をつくる限りでの労働という二重の性格を、区別していないのである。一年間に生産される商品の総額、つまり、年間総生産物は、その一年間に働く有用労働の生産物である。ただ、社会的に充用される労働が色々な有用労働の多くの枝に分かれた体系の中で支出されたということによってのみ、全てこれらの商品は存在するのであり、ただこのことによってのみ、それらの商品の総価値のうちに、それらの商品の生産に消費された生産手段の価値が新たな現物形態で再現して保存されているのである。だから、年間生産物の総体は、その一年間に支出された有用労働の結果である。しかし、年間の生産物価値の方は、ただその一部分だけがその一年間に作り出されたものである。この部分こそは、その一年間だけに流動させられた労働の総量を表わす年間価値生産物なのである〉(同463-4頁)。だからこの区別を知らない、林氏もスミスと同じ誤りに陥っているわけである。

(3)〈マルクスも「過去の労働」といった観念を語っているではないか、というのか。しかしそれはブルジョアの観点からしての、ブルジョアの立場からしての、つまり“古典派経済学”的視点からしての観念であって、それ自体、一面では現実性(現実的な根拠)を有するとしても、科学的、批判的に検討され、評価されなくてはならないのであって、大谷のように無反省的であっていいはずもないのである。

 マルクスがブルジョアの立場から「過去の労働」について語っているというのは、どういうことなのか、どこでそれをマルクスは語っているのか。それを示すことができるなら示すべきであろう。そればかりか、われわれはすでに見たように、古典派経済学(スミス)こそがただ移転させられただけの過去の労働と新しく付け加えられた労働との区別がわからなかったことをマルクスが指摘していることを確認したのである。もう一度、確認のために『資本論』から引用しておこう。

 〈ところで、アダム・スミスの第一の誤りは、彼が年間生産物価値を年間価値生産物と同一視している点にある。価値生産物のほうは、ただその年の労働の生産物だけである。生産物価値のほうは、そのほかに、年間生産物の生産に消費されたとはいえそれ以前の年および一部分はもっと以前の諸年に生産されたすべての価値要素を含んでいる。すなわち、その価値がただ再現するだけの生産手段--その価値から見ればその年に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたのでもない生産手段--の価値を含んでいる。この混同によって、スミスは年聞生産物の不変価値部分を追い出してしまうのである。 〉(全集第24巻463頁、下線はマルクス自身による強調)

 マルクスが論じている「過去の労働」の概念を〈ブルジョアの観点からしての、ブルジョアの立場からしての、つまり“古典派経済学”的視点からしての観念〉だなどと主張する林氏のデタラメは明らかである。

(4)〈ブルジョアの観点からするなら、不変資本は(可変資本さえも〔?〕)、「過去の労働」(むしろ過去の“費用”)として表れる、しかしそれは無反省のブルジョア的視野からの観念であって、商品の価値は、それの生産に必要な、つまりそれに対象化される社会的労働(の総量)によって規定されているのである。この「労働」とは、「過去の労働」ではなく、その商品の生産に必要とされる社会的労働であり、その全体である。

 こうした主張のデタラメはすでに確認した。こうした林氏の観念こそ、スミスの観念なのである。スミスは商品の交換価値を労働に還元することは知っていたが、しかし新価値と旧価値との区別ができなかったので、不変資本(C)の存在を見失ってしまったわけである。スミスも不変資本(生産手段)の価値も遡れば結局は生きた労働、つまりv+mに還元されるとしたのである。だからすべては支出された労働としては同じではないか、と。そして支出された労働というのは、生きた労働であり、それはすなわち必要労働(v)と剰余労働(m)とからなっている、と。まさに林氏と同じように主張したのである。

(5)〈そしてブルジョアにとっては、真実に「新しい」労働とは、「生きた労働」の全体ではなく、ただその中の剰余労働だけである。この部分はブルジョアたちにとって、まさに「新しい」労働である、というのは、ブルジョアたちがどんな対価もなく手にするもの、つまりブルジョアたちにとって「新しく」生じた価値部分(利潤)であり、また同時に使用価値部分(彼らの消費対象)だからである。

 しかしそうでなく、ブルジョア、つまりスミスにとっては、商品に対象化されている労働は、すべてが生きた労働、すなわちv+mと意識されたのである。そもそもブルジョア達が〈剰余労働〉という観念を持ちうる筈がない。彼らは可変資本と不変資本との区別もできないし、そうした観念をそもそも持ち得ないのである。利潤は彼らが投じた資本全体から、だから生産手段や労働力の購入に投じた資本全体から、さらには自分自身の“労働”、つまりその才覚や手腕からも生み出されるものと考えるのである。だからブルジョア達が、彼らが手にする利潤を〈どんな対価もなく手にするもの〉と意識する筈もないのである。それはブルジョア自身の努力の賜物であって、労働者を扱き使い、搾り取るのも彼らの才覚の一つなのである。

(6)〈そしてまた、具体的労働が「生産手段の価値を生産物に移転する」とか「維持する」とかいったことも幻想――というか、見当違い――でしかない。人間労働は、一方で商品の「価値」を生産するとともに、他方で使用価値を生産するのであって、価値の「移転」とかいったことには基本的に無関係だからである。

 しかし〈人間労働は、一方で商品の「価値」を生産するとともに、他方で使用価値を生産する〉からこそ、すなわちその具体的有用労働によって使用価値を生産するからこそ、まさにその使用価値の生産の過程(労働過程)で生産手段を消費し、その使用価値を消滅させ、その結果として新しい生産物、新しい使用価値を生み出したからこそ、それによって生産手段の価値は新しい生産物(使用価値)の価値(の一部)として移転され再現されるのである。林氏こそ、果てしない〈幻想――というか、見当違い〉に陥っていることは明らかである。

(7)〈もちろん、社会がいくらかでも発展するなら(最初の分業が現われるなら、あるいは個々人が自分の労働を明確に自覚して、分割して支出するようになるなら)、生産手段を生産する労働と消費手段を生産する労働が同時的に存在するのだが(もちろん、個々人の場合には、同時に両方の形態の労働に従事する――こんなことは物理的に不可能だろうから――のではなく、一日のうちの時間を分ける、という形態を取るだろうが)、それは基本的に労働の分割の問題であって、一方の労働は価値の「移転」とか「維持」に関係し、他方の労働は「新しい価値」の創出に関係するといったことではない。こうした観念は“使用価値”にとらわれたブルジョア的な幻想の一つであって、結局のところ、具体的有用労働と抽象的人間労働を、つまり使用価値と交換価値を混同しているのである。

 ここで新たな混乱が持ち込まれる。新しい混乱とは、生産手段を生産する労働は〈価値の「移転」とか「維持」に関係〉する労働であり、消費手段を生産する労働は〈「新しい価値」の創出に関係する〉労働というドグマである。何ともバカバカしくてつきあいきれないが、しかし我慢をしてもらいたい。社会が発展すると労働が分割される、一方は生産手段を生産し、他方は消費手段を生産する。一方、つまり生産手段を生産する労働は、価値の移転と保持に関係するだって? そんなことを誰が言っているのか、それはただ混乱した林氏の頭のなかにしないものである。生産手段を生産する労働も生産手段として新しい価値を形成する。生産手段に価値があるからこそ、その価値の移転や保持が問題になるのである。生産手段として形成された価値がないなら、そもそもその移転や保持も問題にはならないであろう。生産手段の価値を移転し、保持するのは、それを使って生産する労働であって、決して生産手段を生産する労働ではない。こんな当たり前のことが林氏には分かっていないのである。これは何とも驚くべき“マルクス主義者”であり、“労働価値説の擁護者”であろうか。生産手段の価値を移転し、保持する労働は、あえていえば、生産手段を使って消費手段を生産する労働である(もちろん、生産手段が消費手段を生産するための手段であるならばの話しであるが)。消費手段を生産する労働が生産手段にある「旧価値」を消費手段という生産物に移転するからこそ、消費手段を生産する労働によって同じ消費手段に新たに追加された価値を「新価値」として区別する必要が生じるのである。一体、誰がブルジョア的な観念や幻想に陥っているのか。ただ林氏の頭の中が混乱しているだけではないか。

(8) 〈生産手段を生産する労働と、消費手段を生産する労働を問わず、その合計が商品の価値を規定するのであって、何か次々と生産手段を生産する労働が「移転」して行って(その役割を具体的有用労働が果たす)、最後に、新しい「抽象的労働」(新価値)が加わって、商品の価値を規定する、などという“スターリン主義経済学”の観念は珍奇で愚劣なもの、ブルジョア的意識に捕らわれた(価値とは「生産費」もしくは「費用価格」である等々)、偏狭で不合理の観念であろう。

 〈生産手段を生産する労働と、消費手段を生産する労働を問わず、その合計が商品の価値を規定する〉というようなことはアダム・スミスだっていうのである。つまり古典派経済学のレベルである。しかし彼らは決して不変資本の価値が移転させられるという真実を知ることはできなかったのである。なぜか、それは彼らが商品に対象化される労働の二重性について知らなかったからである。林氏は何故〈生産手段を生産する労働と、消費手段を生産する労働を問わず、その合計が商品の価値を規定するの〉かが分かっていない。どうしてそのようにアプリオリにいえるのか。生産手段も一つの独立した商品であって、決して、それはそれを使って生産された商品とは同じではない。ある生産手段は(例えば糸)は確かに新しい生産物(布)の中に入っていく。しかし生産手段のすべてが新生産物とそうした物的関係にあるのではない。物的には直接には入っていかないものもある。それなのに、どうして生産手段を生産する労働と、それを使って新たな商品を作るために支出された労働との合計が、最後の商品の価値になるのか、林氏は何も説明していないのである。ただ林氏は価値を形成する労働は抽象的人間労働であり、だから生産手段に支出された労働も、最後の生産物に支出された労働と、同じであり、ただ量的に異なるにすぎないから、それらを合計できると言っているにすぎない。しかし同質だから合計できるというのは数学的な真理にすぎない。実際には、それは移転されたから合計できるということを語らないといけないのである。

(9) 〈そもそも生産手段を生産する労働を「過去の労働」と思うこと自体、概念的に考えれば不合理であり、正しくないのである。生産手段を生産する労働も、消費手段を生産する労働も、ともに人間の消費対象の生産に関係しているのであって、その意味で、生産手段を生産する労働は決して「過去の労働」ではなく、現実的な労働であって、単に具体的有用労働ではなく、また抽象的労働であるが、それは消費手段を生産する労働が具体的労働であるとともに抽象的労働であるのと同じなのである。

 〈そもそも生産手段を生産する労働〉は、ただ〈生産手段を生産する労働〉だから、〈「過去の労働」〉であるわけではない。そんなことは林氏の混乱した頭の中にしかない。すべての商品に対象化された労働は、対象化されてしまったということによって、すでに「過去の労働」である。生産手段の生産する労働が「過去の労働」として現われるのは、その生産手段を使って生産する労働と比べた時に、それはすでに生産手段に対象化されたものとして、「過去の労働」として現われるのである。現に、今、生産手段を生産している労働は、その限りでは、当然〈現実的な労働〉、つまり「生きた労働」であることは明らかである。しかしその生産手段を生産するために使用される生産手段に対象化されている労働は「過去の労働」である。こんなことは当たり前のことである。概念的に混乱しているのは、マルクスではなく、林氏本人である。

 林氏はただ次のようなマルクスの一文を繰り返しているだけである。

 〈綿花の生産に必要な労働時間は、綿花を原料とする糸の生産に必要な労働時間の一部分であり、したがってそれは糸のうちに含まれている。それだけの摩滅または消費なしには綿花を紡ぐことができないという紡錘量の生産に必要な労働時間についても同じことである。
 こういうわけで、糸の価値、糸の生産に必要な労働時間が考察されるかぎりでは、綿花そのものや消費される紡錘量を生産するために、最後には綿花や紡錘で糸をつくるために、通らなければならないいろいろな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている、いくつもの労働過程が、同じ一つの労働過程の次々に現われる別々の段階とみなされることができるのである。糸に含まれている労働はすべて過去の労働である。糸を形成する諸要素の生産に必要な労働時間は、すでに過ぎ去っており、過去完了形にあるが、これにたいして、最終過程の紡績に直接に用いられた労働はもっと現在に近く、現在完了形にあるということは、まったくどうでもよい事情である。一定量の労働、たとえば三〇労働日の労働が、一軒の家の建築に必要だとすれば、三〇日めの労働日が最初の労働日よりも二九日おそく生産にはいったということは、その家に合体された労働時間の総計を少しも変えるものではない。このように、労働材料や労働手段に含まれている労働時間は、まったく、紡績過程のうちの最後に紡績の形でつけ加えられた労働よりも前の一段階で支出されたにすぎないものであるかのように、みなされうるのである。
〉(全集23a246-7頁)

 じかしこれは価値形成過程としてすべての過程を抽象的に見たから、こういえるということが林氏には分かっていないのである。すべての生産過程は価値形成過程と同時に労働過程でもあるのである。しかし価値形成過程として見るなら、それらは労働過程としてはどうであるか(どうであったか)、ということは視野に入って来ない。林氏が強調しているのはこのことでしかない。

(10) 〈社会主義はもちろん、直接に生産手段の生産に従事する労働をも、また直接に消費手段の生産に従事する労働をも、労働者の消費対象を作り出す労働として、抽象的人間労働として、全く無差別で、平等、対等なものとして評価し、またそうした評価のもとにのみ組織することができるのだが、珍奇な“スターリン主義経済学”では、両者は基本的に区別されるのである。つまり、「新しい」価値を作り出す労働と、「過去の」価値を移転する労働といった奇妙な形で。

 しかし例え社会主義の社会でも、労働は単に抽象的な人間労働として評価されるだけでことが済むわけではない。なぜなら、それらは具体的な労働して、生産手段の生産にどれだけの労働が支出されるべきか、また消費手段の生産にどれだけの労働が支出されるべきかを計算しなければないからである。つまり労働の直接的な社会的な結合が意識的に実現されなければならないからである。そして労働の社会的関係は、その具体的で有用な労働によって明らかになるのであって、決して抽象的人間労働から分かるわけではない。社会主義社会では、生産物が商品として現われず、だから価値としても現象しないから、その移転や保持も問題にならないというのはその通りである。しかし社会主義でも労働は社会的に結びつけられる必要があることは林氏も認めるであろう。それがブルジョア社会では価値として現われるのである。労働が価値として現われ、その交換を通じて労働の社会的結びつきが、事後的に実現しているのである。価値の移転という現実は、直接的には私的で独立した労働が、商品の交換を通じて社会的な結びつきを獲得し実現しなければならないという、商品社会に固有のものである。

(11) 〈まるで直接に消費手段を生産する労働者のみが価値を生み出し、直接に生産手段の生産に従事する労働者は価値を生み出すことなく、ただそれを「移転」するにすぎないと言うかであるが――実際にも、そう強調している――、こんなことを言うような人間はマルクス主義者として途方もない存在であって、マルクスの「労働価値説」の概念を、その根底をほんのわずかでも理解しているとは到底思われない。

 しかしこれは林氏の混乱した頭のなかにのみあるドグマであることはすでに見た。一体、誰が〈直接に消費手段を生産する労働者のみが価値を生み出し、直接に生産手段の生産に従事する労働者は価値を生み出すことなく、ただそれを「移転」するにすぎないと言〉っているのであろうか。そんなことは誰も言っていない。ただ林氏が混乱した頭のなかででっち上げたものでしかない。だからそんな馬鹿話をまじめにやる林氏こそ〈マルクス主義者として途方もない存在であって、マルクスの「労働価値説」の概念を、その根底をほんのわずかでも理解しているとは到底思われない〉のである。

(12) 〈我々は、固定資本と流動資本の区別だからこそ、「使用価値が問題になる」のであって、それは固定資本、流動資本の観念が本質的にブルジョアの意識に関係するものであるからであるにすぎない、という反省が必要である。

 何度もいうが、「固定資本」と「流動資本」との区別は、〈本質的にブルジョアの意識に関係するもの〉ではない。確かにブルジョア的意識はそれをさまざまな混乱した形で把握したが、しかしマルクスはそれらの混乱を批判して、それらを厳密な経済的形態規定性として確定したのである。固定資本の概念なくして、その回転の固有の運動を把握することは困難である。

(13) 〈そして我々はここでも、マルクスの言葉によって、マルクスを理解し、また大谷を批判するというような、中途半端な立場が完全に破綻することを確認できるだろう。というのは、マルクスはブルジョア的な立場からの観念についても、それを内在的に批判するために、その形式的な妥当性もまた述べるからであり、マルクスの言葉によってマルクスを理解するというだけなら、そうした観念もまたマルクスのものであり、正当であり、労働者はそれもまた正しいと言わなくてはならない、ということにされるからである。

 しかしマルクスがブルジョア的な立場から述べているものか、そうでないかの区別ができていないのは林氏である。これはすでにこれまで見てきたことから明らかであろう。

(14) 〈例えば、マルクスは「資本とは自己増殖する価値」であるという観念をいくらでも述べているが、だからといって、これが科学的な概念である、あるいはマルクスの根本的な資本概念である、などと主張するなら、そのばからしさは明らかである。だが、大谷等がやっていることは、事実上、このことである。もちろん、資本が「自己増殖する価値」であるという観念は現実的であって、現実の資本主義社会においては、資本は直接的にこの形態(つまり貨幣資本の形態)でいくらでも現れ、現象している(したがってまた、普通のブルジョア意識として、つまりブルジョア経済学の観念として現れ、反映されている)。

 しかしブルジョア的な意識による資本とは、素材的なものに捕らわれており、「自己増殖する価値」としては捉えられるわけではない。それにそもそも自己増殖する価値、すなわち「利子生み資本」範疇は、単なるブルジョア的な観念の中にあるのではなく、ブルジョア的な経済的関係として現実的である。それは単にブルジョアの観念のなかにあるだけではないのだ。架空資本などもそういう意味では転倒した観念を伴っているが、しかし単なる観念的な存在ではなく、経済的現実である。

以下、もはや論じる必要もないことが書かれている。

                                                                                                                   (完)

 【(14)への補足】 (これはブログにアップするに際して書き加えた。)

 こうした主張は、つい最近も繰り返されていたことを思い出す。最近(2015.10.18東京と11.1大阪)、開催された同志会の「第7回 働く者のセミナー」の林氏の「報告要旨」には次のような一文がある。

 〈例えば、我々はしばしば持ちだした例ですが、マルクスは『資本論』の中でも、「資本とは自己増殖する価値(貨幣)」であるという規定について語っていますが、しかしそれは賃労働と資本の階級関係としての資本の本質的な概念ではなく、このブルジョア社会における、資本の物神性にとらわれた意識、限界のある概念しかしブルジョアにとっては、必然的な意識7として言及しているのは余りに明白です。実際に、このブルジョア社会では、それは現実的な関係として現象しているのであり、しかもそれは"物質的な"現実として、客観的に実存しているのであって、単なる「仮象」ではないのです。マルクスがこの観念を持ちだしたのは、それが資本の真実の概念だと考えたからではなく、ブルジョア社会では、資本はそうした"物質的な"形態で存在しているのであり、マルクスはまさにそうした現実から出発して、資本の本当の内容とは何か、その真実の概念は何かを追求しているのです。だから、マルクスは資本概念;として、「資本は自己増殖する価値」と語ったことを鬼の首でも取ったかに感激し、持って回るような人間はかつての急進派の雄、水沢某(服部信司)のように、ただ自らの浅薄さを暴露するにすぎません(私の記憶している、もう一つの観念は、彼が、「価値論で重要な所は、価値形態論なんだよな」とっぶやいた、そんな観念でした。もちろん、私は反発しましたが)。〉(報告要旨10-11頁)

 これに対して、私は次のように批判した(この批判文そのものは公表していないが)。

 《次に〈「資本とは自己増殖する価値(貨幣)」であるという規定〉について、それは〈しかしそれは賃労働と資本の階級関係としての資本の本質的な概念ではなく、このブルジョア社会における、資本の物神性にとらわれた意識、限界のある概念〉だなどとも述べているが、では林氏が考える〈資本の本質的な概念〉とは何かということについては何も論じていないのである。ごれが林氏のいつものやり方なのだ。
 〈「資本とは自己増殖する価値(貨幣)」であるという規定〉が、単なる〈ブルジョア社会における、資本の物神性にとらわれた意識、限界のある概念〉だなどということはできない。そのことは、最初に紹介した『資本論』の一文を見れば明らかである。もう一度、それを紹介しておこう。

 〈まず第一に資本主義的生産過程の推進的な動機であり規定的な目的であるのは、資本のできるだけ大きな自己増殖、すなわちできるだけ大きい剰余価値生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である。〉(全集23a434頁)

 ここではマルクスは資本の本質をその自己増殖、つまりできるだけ大きな剰余価値の生産、したがって労働力のできるだけ大きな搾取であると述べている。これこそ〈賃労働と資本の階級関係としての資本の本質的な概念〉と言っても決して間違いではないのではないだろうか。自分の考える〈資本の本質的な概念〉なるものは何も示せないくせに、マルクスの規定にはいちゃもんだけはつけられると考えている。姑息且つ傲慢な人物ではある。》〉

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【参考資料】

 今回、批判の対象にした『海つばめ』の記事(林氏は後に撤回)を紹介しておく。

●1135号(2010.11.28)【三面トップ】大谷の「有用的労働による“価値移転論”」
典型的な“スターリン主義経済学”「労働価値説」も「社会主義論」も滅茶苦茶に

 我々にとっての一つの決定的に重要な理論的な課題は、“スターリン主義経済学”の徹底的な克服である、というのは、この“経済学”は(そして“歴史学”も、“哲学”も、さらには当然のことだが、“政治学”も)マルクス主義の名を冠したドグマとして、すでに一世紀近くの長い期間に渡って、共産党系の理論を支配して来たからであり、今もって支配しているからである。我々はすでにこれまでも、“スターリン主義”のいくつかの決定的な理論について、その虚偽性を明らかにしてきたが――政治理論における、「二段階革命論」(民主主義革命から、社会主義革命への「成長転化」論)とか「統一戦線」論とか、その他、この分野では数限りないものがある――ソ連や中国が「社会主義」であるという幻想を一掃して、「国家資本主義」の理論を明らかにしてきたが、その理論の妥当性は、この数十年のソ連、中国の歴史によって、事実でもって証明されたし、さらに歴史理論においては「アジア的生産様式」=古代的生産様式の理論の意義の確認とか、唯物史観の深化など、“スターリン主義”の一掃のために多くのことを成し遂げてきた。そして、“経済学”においても、拡大再生産の理論におけるドグマ――第一部門の「優先的発展」、つまり資本主義的拡大再生産では「均衡」は問題にならない云々――を粉砕して、拡大再生産表式の意義を確定したし、また再生産表式は「貨幣」を抜きにしては論じられない、同時的に――むしろ、「貨幣」優位で――展開されなくてはならない、云々のばか話も一掃したし、エンゲルスの『資本論』編集の限界や、エンゲルスの多くの観念の“間違い”も明らかにしてきた。そして今回論じようとするのは、スターリン経済学のドグマ的公式として通用している、「具体的労働は生産手段の価値を生産物に移転し維持する」という決まり文句を検討し、その不合理とばからしさを明らかにすることである。この問題は重要である、というのは、このドグマがマルクス主義の根底である“労働価値説”や、社会主義社会の展望までもどこかにおしやってしまう、荒唐無稽な――それ故に、最も有害で、反動的でさえある――理論として登場しているからである。批判的検討とともに、こうしたスターリン主義的“経済学”の根底に、どんなに卑俗なブルジョア意識が横たわっているかも明らかになるだろう。

◆問題の出発点

 問題は、以下の引用の中に提起されている。これは大谷禎之介の文章であるが、彼は最近、理論的のみならず実践的にも、とみに共産党に接近し、その理論的代弁者の一人として振る舞いつつあるのであって、彼を“スターリン主義経済学”の一方の旗頭として扱うのは全く適切であり、妥当であろう。彼は、『資本論』第二巻に関するマルクスの八つの草稿――これを“材料”にエンゲルスが、第二巻を「編集」した、というより、勝手に、無概念的に継ぎはぎしたのだが――について語った論文の中で――これについては、我々はすでに、昨年の春、原則的な批判を敢行し、その“スターリン主義的”本性を暴露しておいたが(『海つばめ』一〇九五号参照)――、次のように語っている。
「第二稿及び第四稿の第二章でマルクスは、固定資本と流動資本との区別を最終的に明確にした。その前提の一つは、第一部の執筆のなかで達成された、労働は一方で、抽象的労働として対象化して新価値になるが、他方では具体的労働として、労働対象を生産物に形態変化させるとともに、生産手段の価値を生産物に移転し維持する、という価値増殖過程における労働の二重性の作用の明確化である。これによって、不変資本の価値の全面的移転と部分的漸次的移転との区別にもとづいて、不変資本のうちの固定資本の運動の独自性が最終的に確定され、それにたいして、同じ価値還流形態をもつ流動不変資本と可変資本とが流動資本として区別されることになった」(『経済』2009年3月号、一五二頁、連載〔上〕)。
 この理論は、徹底的に“スターリン主義的”である、というのは、こうした理屈はただスターリン主義時代の“官許経済学”の中に現れ、それ以来、すでに一世紀近くにわたって流布されてきたもの、それに特徴的なものであって、共産党やその御用学者の中で自明の真理として受けとられてきたもの、今も受け取られているものだからである。共産党は口先では、ようやくスターリン主義批判をするようにはなったが、しかしその“体質”は全くスターリン主義そのままであり、あるいは“自由主義化した”スターリン主義であって、それ故に、ますます醜悪で、労働者の闘いに有害なものとして現れているのである。

◆単純な人間社会の“再生産”について

 我々は、「具体的労働として、労働対象を生産物に形態変化させるとともに、生産手段の価値を生産物に移転し維持する」という、“スターリン主義経済学”の典型的なこの理論を検討する前に、その前提として、人間社会一般の“再生産”について、その概念を明らかにしておかなくてはならない。
 そのために、我々は一つの共同体社会と、その“再生産”について考察する。
 この社会は原始的共同体の社会であっても、また将来の社会主義社会であっても一向に構わない、というのは、将来の社会主義社会においても、再生産の“構造”は原始的共同体のそれと基本的に同じであり、ただ一層複雑多岐で、大きな規模で現れるという点で異なるにすぎないからである。
 十人の成人によって構成される社会の、十日間の再生産を想定しよう。もちろん、これらの数字は任意なものであって、構成人員の単位を千人にしても一万人にしてもいっこうに構わないし、十日間を一ヵ月にしても一年にしても同じことである。構成員を労働する成人だけに限ったのは、ただ問題を簡単に論じようとしたためにすぎない。他方、“再生産”の期間を十日にしたのは、最も耐用期間の長い生産手段の期間を十日と想定したからである。
 この共同体では、ナイフ一本を四日(総労働日四十日)で生産し、また弓二張を二日(総労働日二十日)、十本の矢を一日(総労働日十日)で作り、最後に狩猟に三日(総労働日三十日)を費やし、かくして獣十匹を得たとしよう。
 あるいは実際には、生産手段の作成や狩猟は、日々同時的に、つまり「分業」(労働分割)によって並行的に行われても同じことである。つまり毎日、ナイフは四人、弓は二人、矢は一人がそれぞれ製作にたずさわり、狩猟には三人が出かける等々といった具合に、“生産的労働”を分割することもあり得るだろう。しかし仮に実際にこうした形を取るにしても、それは問題の原理的な提起と矛盾するものでは少しもなく、ただ便宜において異なるにすぎない。
 その結果、共同体の十名の構成員は一日に一匹の獣で生命と生活をつなぎ、継続して行くことになり、またそれが可能である(ここでは、より簡単に考察するという前提により、社会が世代と世代をつないでいくという問題は、考察から除外されている)。
 十人の成人が一日ずつの労働だから、結局は十労働日をかけて、一匹の獣を得たのだから、この獣一匹の「価値」は十労働日であり、その内訳は、ナイフに四労働日、弓に二労働日、矢に一労働日、狩猟に三労働日である(もし十日全体なら、すべての数字を十倍すれば、前の例と同じ結果になる)。
 つまり、この獣を得るための労働を一とすると、その十分の四がナイフの製作に、十分の二が弓を、十分の一が矢を作るのに、そして十分の三が狩猟のために支出された労働である。そして十人の銘々は、この獣を十分の一匹ずつ食する――消費する――ことになる。
 十人の成員の各人は、一日の労働の結果、獣十分の一匹を手にすることができる、というのは十人の労働の結果は、獣一匹であり、各人の労働は「抽象的人間労働」として「質的に同一であって」、従って獣一匹に対して同等の権利を有するからである。
 ここでは、共同体内の人々の関係、つまり労働と消費の関係も全く簡明である。日々、一匹の獣は、十人の構成員に等しく分配されるのであって、それは各人が等しく、その獲得のために労働したからであるにすぎない。
 さらにこの例では、生産手段について、ナイフは十日間たつと使用に耐えなくなり廃棄され、また弓は五日間でだめになり、また矢は一日で失われると前提されている。
 十頭の獣は、十人の構成員の十日間の総労働の結果であり、したがって、その「価値」は一匹あたり、十労働日に当たるということができるが、しかし共同体社会にあっては、それは自明のこととして現れる。
 こうしたことはすべて、「生産」においても「消費」においても、厳密に“価値概念”に、そして“労働価値説”にも適応し、照応している。
 ナイフの製造に四日間を費やし、その他の生産手段に三日を費やすというなら、その期間は、人々は生きて行くことはできないのだから、ナイフ等々は、再生産の開始の時にはすでに存在しているものと仮定されるのであり、その再生産の期間(十日、もしくは五日、一日等々)の最後の時には、また同じ形で(同じ使用価値として)再生産されて存在することになる。しかしこのことは、それらの再生産を先行させたというだけのことにすぎず、前記の説明と矛盾するものではない。

◆大谷の無概念

 しかし個々のブルジョアの目には、社会的な総生産は必ずしもこうした形では現れない。
 もちろん彼らの目に映るのも、こうした日々の再生産の形式である、しかし彼らの目には、再生産は資本の再生産として、そしてまた資本のあれこれの成分は、「固定資本」、「流動資本」といった、無概念的な形で現れるのである。
 ブルジョアは前提によれば、日々、八の資本(十の資本ではなく)を投下するが、それは固定資本(ナイフと弓)に六を、流動資本に二(矢に一、労働力には三でなく、一)という内容になるだろう。そして一日の終わりには一匹の獣を自分のものとする。彼は八日間の労働の成果を資本として投下して、十日の労働の成果を得たのだが、それは三人の労働者を雇用しながら一人分を労働者に支払ったにすぎなかったからであり、かくして労働者から三分の二日の労働を搾取したからである。その限りで、彼は自分の資本を増殖し得たのであり、またすることができたのである。
 この場合、剰余価値率は二〇〇%(2÷1×100=200)であり、利潤率は二五%(2÷8×100)ということになる。ブルジョアは八の資本価値を十に増やしたのである。
 とはいえ、彼らは出発点においては、ナイフに四十の価値を、弓に十の価値を、矢に一の価値を、そして労働力に一の価値を支払うのであって、八の価値を支払うのではない。そしてその後の四日間は、ただ矢(一)と労働力(一)の価値の計二だけを支払うであろう。五日が経過した時点では、ナイフの価値は半分だけ還流し、また弓の価値はすべて還流する。もちろん、矢と労働力のために支払われた分は、一日ごとに還流する。
 そして第六日には、弓のために十の価値と、矢のための一の価値と、労働力のための一の価値が支出されなくてはならず、七日目から十日目までは、二日から五日までと同様に、二だけが支払われる。
 かくして十日目の終わりには、ブルジョアの手元には、再び最初の日の出発のときと同様に、一本のナイフと一張の弓と一本の矢(と、一匹の獣)が存在する。
 十日間の合計で見れば、ナイフに支払われたのは、最初の四十の価値だけであり、それは十日後に一度に還流する。ブルジョアはその四十で新しいナイフを購入する、というのは、ナイフは十日で使用に耐えなくなるからである。
 また弓は五日たった時点で使用に耐えなくなるが、しかし弓の価値十は還流しているから、それでもって新しい弓が購入されえる。
 矢と労働力は日々消費され、また日々新規に購入される。
 そこで、問題は何か、ということである。
 問題は資本主義的生産関係のもとでは、ナイフや弓や矢が(獣さえも)、ブルジョアの所有する「資本」として現われ、社会的生産の出発点として現われる、ということである。ブルジョアはそれを「投資」し、再生産過程の結果として、資本を利潤をともなって“回収”するのであり、かくして社会の再生産過程は、資本の再生産過程として現象する。
 生産手段――ナイフや弓等々――は、資本として現われるが故に、資本として再生産されなくてはならないが、このことが、生産手段の価値は「移転される」のだという観念を生み出すのである。
 つまり、ナイフや弓などは再生産されるのではなく、そのまま無媒介的に再登場するのである。“固定資本”の価値は(その使用価値さえも)再生産されるのではなく、そのまま「移行する」のである(そのように、目に映るのである)。
 ナイフや弓が、確かに偉大な生産力であり――この水準の発展段階の人間社会にとって――、次期のナイフや弓を作り出す上で不可欠であるとしても、それはナイフや弓を作り出す労働に取って代わるものではなく、また代わることができないということが見逃され、忘れられるのである。
 我々の想定した共同体社会について言えば、十頭の獣を獲得した労働は、決して直接に狩猟に従事した三十日の労働だけではなく、ナイフや弓や矢の製造にも従事した七十日の労働でもある、という自明のことが見えなくされているのである。
 共同体社会においても、その時期の当初に、ナイフや弓矢が実際的な前提として登場するとして、それはその時期に、それらが再生産されるからであり、そのいわば“先取り”として登場するにすぎないということ、したがってまた、その時期の間に、それらは七十日の労働によって作り出されるもの(同じもの、同じこと)であることが確認されるのである。
 だからこそ、十頭の獣は百労働日の成果として現われるのだが、資本には、これが七十労働日の「過去の労働」(資本)と、三十労働日の「生きた労働」の費用(“労働費用”、労賃として現象する)と利潤の合計として、つまり「費用価格」として現われるのである。そして「価値移転論」は、こうしたブルジョアの直接的な意識をただ反映しているだけのことである。
 そもそも、労働力の“使用価値”(具体的有用労働)が「価値」の概念の根底に入り込み、適用されるなどと考えること自体、途方もないことに思われるのだが、“スターリン主義”学者たちは、そんな無概念も理論的混乱も一向にお構いなしである。
 労働価値説によれば、十頭の獣は三人の成員だけに分配されるのではなく、十人の成員に当然分配されるだろうし、されなくてはならないという、単純な真実がどこかに行ってしまうのである。「価値移転」に貢献しただけの七人(七十労働日)は、一切分配を受けない、という不合理になりかねないし、理論的にはそうなる以外ない、というのは、彼らは単に「価値移転」をしただけであって、獣の獲得のために、直接にどんな労働も支出していない(つまり、どんな新しい「価値」も作り出さなかった)からである。自らの労働に対して、分配を受ける資格も根拠も欠いているのである。

 “スターリン主義”経済学によれば(あるいは、現実に資本の再生産を担うブルジョアたちには)、資本は固定資本と流動資本という区別として、つまり固定資本はその「価値」が年々(つまり、一定の期間を区切れば)一部だけが生産物に「移行」し、流動資本のみは、その「価値」のすべてが生産物に「移行」するものとして現象するのである。ブルジョアにとっては、資本の区別は、ただそうした区別としてのみ重要であり、意義をもつのであるが、スターリン主義経済学が追随するのは、こうしたブルジョア意識にすぎないのである。
 社会の前提は、確かに前時代から受け継がれ、発展させられてきた生産力であるが、それは生産的労働に取って代わられるものではない。生産力の発展はたとえば、ナイフの生産のための労働をいくらでも短縮するだろうが、しかしナイフを生産する労働そのものを無くすことも、それに取って代わることもできないのは自明のことであろう。
 問題は、「価値移転論」は自己矛盾してしまうことである。
 この理屈では、「価値を移転する」労働は、一方で具体的有用労働として「価値を移転する」が、他方では抽象的人間労働としても存在するはずだから、また新しい価値も生み出しているはずだが、それはどこかに解消されてしまって、現実にはどこにも存在することがないのである。そしてここまでくると、“スターリン主義経済学”の破綻が完璧に暴露される、というのは、もし「価値を移転する」労働(機械などの生産手段の生産に従事する労働)が抽象的人間労働として存在せず、価値とした対象化されないというなら、直接に労働価値説に矛盾することになるだろうし、もし具体的有用労働によって「価値を移転」し、他方抽象的人間労働によって価値を生むというなら、スターリン主義経済学はその価値を全く説明しないし、することができないからである。「古い」価値を保存し(具体的有用労働として)、また新しい価値も作り出す(抽象的人間労働として)というなら、ここでは、「価値」なるものは、二重に存在するばかりではない、またいくらでも膨れ上がり、膨張していくことになり、“単純再生産”といった概念さえ怪しくなるのだが、スターリン主義経済学はこのことについて何も語らないし、語ることができないのである。

◆大谷“経済学”の“スターリン主義的”本性

 大谷の(スターリン主義経済学者たちの)こうした理論を美化する人が、スターリン主義者の外にさえいないでもないので、大谷理論を総括する必要が生まれて来ている。
 大谷はまず、「労働は一方で、抽象的労働として対象化して新価値になる」と主張するが、しかし資本主義のもとで、人間労働は抽象的人間労働として「価値になる」のであって、「新価値になる」のではないし、また同様に、具体的有用労働は、人間にとっての使用価値を作り出すのであって、「労働対象を生産物に形態変化させるとともに、生産手段の価値を生産物に移転し維持する」わけでもない。
 大谷の奇妙な理屈によれば、抽象的労働は「新価値」にのみ関係し、それのみを作り出すということであるが、ここでいわれている「新価値」とは一体何のことか。もしそれが、言われるところの「生きた労働」部分――つまり可変資本部分と剰余価値部分――とするなら、それは基本的に間違っているのであって、抽象的労働は現実に生産物の価値全体を――したがってまた商品価値の全体を――規定するのである。大谷がこんなたわ言をつらねるのは、“悪しき”スターリン主義経済学の呪縛にいまだにしばられているからというしかない。商品価値について語るなら、「新価値」とか「旧価値」などという観念は存在しないし、するはずもないのである。商品の価値概念について語りながら、「新価値」と「旧価値」といった概念を持ち出す人を、我々は果たして“マルクス主義者”と呼ぶことができるであろうか。こんなとんちんかんな観念によって、いかにして“労働価値説”が概念規定でき、擁護され得るというのであろうか。余りにばかげている。
 マルクスも「過去の労働」といった観念を語っているではないか、というのか。しかしそれはブルジョアの観点からしての、ブルジョアの立場からしての、つまり“古典派経済学”的視点からしての観念であって、それ自体、一面では現実性(現実的な根拠)を有するとしても、科学的、批判的に検討され、評価されなくてはならないのであって、大谷のように無反省的であっていいはずもないのである。
 ブルジョアの観点からするなら、不変資本は(可変資本さえも〔?〕)、「過去の労働」(むしろ過去の“費用”)として表れる、しかしそれは無反省のブルジョア的視野からの観念であって、商品の価値は、それの生産に必要な、つまりそれに対象化される社会的労働(の総量)によって規定されているのである。この「労働」とは、「過去の労働」ではなく、その商品の生産に必要とされる社会的労働であり、その全体である。
 そしてブルジョアにとっては、真実に「新しい」労働とは、「生きた労働」の全体ではなく、ただその中の剰余労働だけである。この部分はブルジョアたちにとって、まさに「新しい」労働である、というのは、ブルジョアたちがどんな対価もなく手にするもの、つまりブルジョアたちにとって「新しく」生じた価値部分(利潤)であり、また同時に使用価値部分(彼らの消費対象)だからである。
 そしてまた、具体的労働が「生産手段の価値を生産物に移転する」とか「維持する」とかいったことも幻想――というか、見当違い――でしかない。人間労働は、一方で商品の「価値」を生産するとともに、他方で使用価値を生産するのであって、価値の「移転」とかいったことには基本的に無関係だからである。
 もちろん、社会がいくらかでも発展するなら(最初の分業が現われるなら、あるいは個々人が自分の労働を明確に自覚して、分割して支出するようになるなら)、生産手段を生産する労働と消費手段を生産する労働が同時的に存在するのだが(もちろん、個々人の場合には、同時に両方の形態の労働に従事する――こんなことは物理的に不可能だろうから――のではなく、一日のうちの時間を分ける、という形態を取るだろうが)、それは基本的に労働の分割の問題であって、一方の労働は価値の「移転」とか「維持」に関係し、他方の労働は「新しい価値」の創出に関係するといったことではない。こうした観念は“使用価値”にとらわれたブルジョア的な幻想の一つであって、結局のところ、具体的有用労働と抽象的人間労働を、つまり使用価値と交換価値を混同しているのである。
 そしてこうした混同は、ブルジョア経済学が常に、一般的に陥る“間違い”であって、むしろある意味で、ブルジョア経済学の根底にさえなっているのだから(“効用学派”を見よ)、大谷らの(“スターリン主義者”たちの)この“間違い”は根本的であり、彼らの階級的立場を暴露しているとさえ言えるのである。
 生産手段を生産する労働と、消費手段を生産する労働を問わず、その合計が商品の価値を規定するのであって、何か次々と生産手段を生産する労働が「移転」して行って(その役割を具体的有用労働が果たす)、最後に、新しい「抽象的労働」(新価値)が加わって、商品の価値を規定する、などという“スターリン主義経済学”の観念は珍奇で愚劣なもの、ブルジョア的意識に捕らわれた(価値とは「生産費」もしくは「費用価格」である等々)、偏狭で不合理の観念であろう。
 そもそも生産手段を生産する労働を「過去の労働」と思うこと自体、概念的に考えれば不合理であり、正しくないのである。生産手段を生産する労働も、消費手段を生産する労働も、ともに人間の消費対象の生産に関係しているのであって、その意味で、生産手段を生産する労働は決して「過去の労働」ではなく、現実的な労働であって、単に具体的有用労働ではなく、また抽象的労働であるが、それは消費手段を生産する労働が具体的労働であるとともに抽象的労働であるのと同じなのである。
 大谷は、スターリン主義的ドグマを、固定資本と流動資本の観念について述べているマルクスのあれこれの言葉から作り上げている。しかし概念を、ブルジョア的現象に現れるがままの範疇(固定資本とか、流動資本とかいった)によって作り出すことは全くのナンセンスであって、ブルジョア意識に拝跪し、追随していくことでしかない。
 何よりも問題なのは、“スターリン主義経済学”の観念が、資本主義的生産様式の内在的な関係の理解を混乱させ、不可能にするだけではない、さらに労働者の社会主義に対する観念をも支離滅裂で、わけのわからないものにしてしまうことである。
 社会主義はもちろん、直接に生産手段の生産に従事する労働をも、また直接に消費手段の生産に従事する労働をも、労働者の消費対象を作り出す労働として、抽象的人間労働として、全く無差別で、平等、対等なものとして評価し、またそうした評価のもとにのみ組織することができるのだが、珍奇な“スターリン主義経済学”では、両者は基本的に区別されるのである。つまり、「新しい」価値を作り出す労働と、「過去の」価値を移転する労働といった奇妙な形で。
 まるで直接に消費手段を生産する労働者のみが価値を生み出し、直接に生産手段の生産に従事する労働者は価値を生み出すことなく、ただそれを「移転」するにすぎないと言うかであるが――実際にも、そう強調している――、こんなことを言うような人間はマルクス主義者として途方もない存在であって、マルクスの「労働価値説」の概念を、その根底をほんのわずかでも理解しているとは到底思われない。
 こうした観念が、実際にどんな形で社会主義に適用され、行われるかは知ったかぎりではないが、全くのナンセンスとして、実践的には何の意味のない空語として現れることだけは確かであろう(せいぜい、レオンチィエフらの「産業連関表」といったたぐいの、無概念のご都合主義理論がもてはやされる程度である。これもまた、典型的な“スターリン主義経済学”の一つの観念ではあったが)。
 だからこそ、我々は大谷らのスターリン主義経済学やその学者に対して“厳格”であるべきであって、“寛大”であったり、なれ合ったり、彼らの珍奇な理屈を繰り返したり、学者的なお世辞など振りまくべきではないのである。
 我々は、固定資本と流動資本の区別だからこそ、「使用価値が問題になる」のであって、それは固定資本、流動資本の観念が本質的にブルジョアの意識に関係するものであるからであるにすぎない、という反省が必要である。
 そして我々はここでも、マルクスの言葉によって、マルクスを理解し、また大谷を批判するというような、中途半端な立場が完全に破綻することを確認できるだろう。というのは、マルクスはブルジョア的な立場からの観念についても、それを内在的に批判するために、その形式的な妥当性もまた述べるからであり、マルクスの言葉によってマルクスを理解するというだけなら、そうした観念もまたマルクスのものであり、正当であり、労働者はそれもまた正しいと言わなくてはならない、ということにされるからである。
 例えば、マルクスは「資本とは自己増殖する価値」であるという観念をいくらでも述べているが、だからといって、これが科学的な概念である、あるいはマルクスの根本的な資本概念である、などと主張するなら、そのばからしさは明らかである。だが、大谷等がやっていることは、事実上、このことである。もちろん、資本が「自己増殖する価値」であるという観念は現実的であって、現実の資本主義社会においては、資本は直接的にこの形態(つまり貨幣資本の形態)でいくらでも現れ、現象している(したがってまた、普通のブルジョア意識として、つまりブルジョア経済学の観念として現れ、反映されている)。しかし大谷のように、こうしたブルジョア観念を、マルクス主義の名で売り込もうというのは、そしてまた、『資本論』第二巻草稿における、二稿を書いたマルクスと八稿を書いたマルクスという、別々の、対立する、「二人のマルクスがいる」などと言って批判し、攻撃するのは、許しがたいことではないのか。
 まるでかつての宇野学派のやり口そっくりである。宇野学派は「二人のマルクスがいる」という批判に始まって、最後は実際の“正しい”マルクスを否定して、つまりマルクス主義を捨て去って――それ以外ありようがなかった、というのは、「二人のマルクス」云々は、自分のブルジョア意識に適応しないマルクスがいる、ということでしかなかったのだから――、ブルジョア経済学にたちまち“転向”し、屈服して行ったが、大谷学派や、それに追随する人々が、宇野学派のたどった道を追わないという保証はどこにもない。
(林 紘義)

2015年11月12日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-1)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

   〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

 第28章該当部分の草稿の解読は、電子書籍として一まとめにしたことでもあり(このブログの「リンク」からダウンロードできる)、今回から引き続き第29章該当部分の草稿の解読を開始する。これから紹介するものも、以前、私が所属していた同志会の支部における学習会のレジュメとして提出したものである。ただし学習会そのものは、何時ものことながら、第28章と同様に、最後まで行かないうちに頓挫してしまった。なお、発表するものは、支部に提出したレジュメそのものではなく、必要な手入れをしてあることはいうまでもない。

《はじめに》

 2009年11月に開催された関西労働者セミナーのテーマは、「恐慌の歴史を学ぶ」であったが、林氏の報告「08年金融恐慌と現代資本主義」をめぐって一定の論争があった。それはサブプライム・ローンの証券化をめぐる問題であった。林氏はそれを国債を例に上げて、説明したのに対して、亀仙人は、それはマルクスがいうところの架空資本として捉えるべきだと主張したのであるが、林氏は国債は架空資本ではない、国債を資本還元しても無意味だと主張し、ここに一つの論争問題が発生したのであった。
 これは『資本論』の第29章でマルクスが論じている架空資本の理論を如何に理解するかということと直接関連しており、その後、林氏は自説を擁護して『海つばめ』No.1110とNo.1111で自らの主張を展開したのであるが、亀仙人は林氏の『資本論』の理解は間違っていると主張したのである(この『海つばめ』の記事に対する批判は、別途連載している「林理論批判」のなかで紹介することにしよう)。そこで、OM支部としては、自分達で『資本論』をしっかり研究して、果たして何が正しいのかを学ぶことが何よりも重要であることを確認し、支部として第29章を理論活動として取り組むことにした。そして、以前にもマルクスの草稿の第28章該当部分を詳しく支部として学習会を行なって研究した経緯もあり(そのときも同志会内でこの部分の解釈をめぐって一定の論争があった)、今度も、やる限りは、エンゲルス版ではなく、マルクスの草稿そのものを学習しようということになった。以下は、そのためのレジュメである。このレジュメは第28章該当部分のそれと同様に、極力、『資本論』のそれ以前に出てくる問題についても、関連する限りで、分かりやすく解説しながら、説明することにしたいと考えている。また第28章該当部分の学習のレジュメと同じように、各パラグラフごとに解説していくことにする。

《第29章の位置》

 われわれは、まず草稿の第29章該当部分は、『資本論』の第3部草稿(「主要草稿」とも「第1草稿」とも呼ばれている)の第5章(篇)「利子と企業利得(産業利潤または商業利潤)とへの利潤の分裂。利子生み資本」(エンゲルス版の表題「利子と企業者利得とへの利潤の分裂。利子生み資本」)のなかでどういう位置を占めているのかを確認することから始めることにしたい。
 大谷禎之介氏は、その最終講義(経済志林 72(4), 19-20頁)のなかで、以下のような第5章の全体の構成を明らかにしている。

第5章の構成

A.  利子生み資本の理論的展開

  I .利子生み資本の概念的把握

  (1) (草稿:「l) 〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第21章 利子生み資本」)
  (2) (草稿:「2)利潤の分割。利子率。利子の自然率」)(エンゲルス版:「第22章 利潤の分割。利子率の「自然」率」)
  (3) (草稿:「4) 〔表題なし,4は3の誤記〕」) (エンゲルス版:「第23章 利子と企業者利得」)
  (4) (草稿:「5)利子生み資本の形態における剰余価値および資本関係一般の外面化〔5は4の誤記〕」) (エンゲルス版:「第24章 利子生み資本の形態での資本関係の外面化」)

 II. 信用制度下の利子生み資本の考察(草稿:「5)信用。架空資本」)

  (1) 信用制度概説
   (a) 信用制度の二側面とその基本的な仕組み(エンゲルス版:「第24章 信用と架空資本」の初めの約4分の1)
   (b) 資本主義的生産における信用制度の役割(エンゲルス版:「第27章 資本主義的生産における信用の役割」)
  (2) 信用制度下の利子生み資本(moniedcapitaI)の分析
   (a) monied capitalをめぐる概念上の諸混乱(草稿:「I) 〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第28章 流通手段と資本。トゥックとフラ一トンとの見解」)
   (b) monied capitalの諸形態。架空資本としてのmoniedcapital(草稿:「II) 〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第29章 銀行資本の構成部分」)
   (c) 実物資本との関連におけるmoniedcapitalの分析(草稿:「III)〔表題なし〕」) (エンゲルス版:「第30章 貨幣資本と現実資本 I 」.「第31章 貨幣資本と現実資本II」.「第32章 貨幣資本と現実資本III」)
  (3) 地金の流出入。信用システムの貨幣システムによる被制約性(草稿:ノート「混乱」のあと,本文として書かれた部分) (エンゲルス版:「第35章 貴金属と為替相場」)

B. 利子生み資本にかんする歴史的考察(草稿:「6)先ブルジョア的なもの」) (エンゲルス版:「第36章 先資本主義的なもの」) 

 つまり大谷氏によれば、第5章は大きく分けて、〈A. 利子生み資本の理論的展開〉と〈B.利子生み資本にかんする歴史的考察〉に分かれ、さらに前者は〈I .利子生み資本の概念的把握〉と〈II. 信用制度下の利子生み資本の考察〉とに分かれる。そして後者は、さらに三つの部分〈 (1) 信用制度概説〉〈 (2) 信用制度下の利子生み資本(moniedcapitaI)の分析〉〈 (3) 地金の流出入。信用システムの貨幣システムによる被制約性〉に分かれるのであるが、このうち(2)の部分は、マルクス自身による I 、II、IIIの表題なしのローマ数字による番号が打たれ部分に分けられているのであるが、第29章該当部分は、このうちIIに当たるわけである。その内容を大谷氏は〈monied capitalの諸形態。架空資本としてのmoniedcapital〉としている。
 こうした第5章(篇)全体の構成の捉え方は、その内容に即して考えるに極めて妥当なものと言うことができる。ここで注意が必要なのは、の〈 I .利子生み資本の概念的把握〉については、マルクス自身によって、 (1)(4)の節番号が打たれ(但し、上記に説明されているようにマルクス自身は番号を打ち間違っているのであるが)、 (2)(4)にはマルクス自身による表題も書かれており、全体としてこの部分はかなりの程度まで完成されており、エンゲルスはそれを第21章~第24章として編集したのである。それに対して、の〈 II. 信用制度下の利子生み資本の考察〉の部分は、マルクス自身によって〈 5)信用。架空資本〉と表題が書かれていて、 IIIIの部分に分けられているものの、マルクスが資料集めのために書きつけたものも色々と間に挟まっており、エンゲルスが第3部の編集でもっとも手こずったところなのである。エンゲルスが編集に手こずった主要な理由は、その部分のマルクスの草稿の完成度が低かったからでもあるが、それ以上に、エンゲルスがアイゼンガルテンによる聞き書き稿をもとに編集したからであると大谷氏は指摘している。つまりマルクスの草稿ではテキスト(本原稿)の部分と資料集めのための部分とが区別できるようになっていたのに、それを無視して編集用の聞き書き稿を作ってしまったからだというのである。だからエンゲルスは本来は資料のために書いている部分も第25章の後半や第26章第33章第34章の全部、第35章の一部に採用して、一つの章を作り上げるというような操作をしてしまって、マルクスの草稿の展開を見えにくくしてしまっているわけである。
 だからマルクスが〈 5)信用。架空資本〉と番号を打って表題を書いた部分は、エンゲルス版の第25章~第35章全体を含むものだったわけである。ところがエンゲルスは、この表題を第25章の表題として採用して〈第25章 信用と架空資本〉としたのであったが、しかし草稿ではこの部分では架空資本についてはほとんど論じていなかったのである。だからエンゲルスはマルクスが資料として書きつけた部分から架空資本について言及したものや、エンゲルスが独自に集めたものを加えて、この第25章を作り上げているわけである。
 しかしマルクスの本来の意図は、エンゲルスが第25章~第35章に分けた部分全体の表題として〈信用。架空資本〉を考えていたのである。この部分でマルクスが課題としたのは、大谷氏が指摘するように〈信用制度下の利子生み資本の考察〉であった。この課題については、現行版の第27章の最後のあたりでマルクス自身によって次のようにいわれている(但しこの部分もエンゲルスによって手が入れられて、現行版では、マルクスの本来の意図が正しく伝えていないので、われわれは草稿を見ることにする)。

 〈これまでわれわれは主として信用制度の発展{そしてそれに含まれている資本所有の潜在的な止揚を,主として生産的資本に関連して,考察した。いまわれわれは,利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移るが,そのさい総じて,なお若干のとくに経済学的な論評を行なわなければならない〉(『経済志林』52巻3・4号(43)-(44))

 マルクスがここで〈これまで〉と述べているのは、現行版で第27章に該当する部分であり、先の大谷氏の第5章(篇)全体の構成で見ると、〈 (1)信用制度概説〉の〈 (b) 資本主義的生産における信用制度の役割〉の部分なのである。そして〈そのさい総じて,なお若干のとくに経済学的な論評を行なわなければならない〉とマルクスが述べているのは、マルクス自身が I と番号を打った部分、大谷氏によると〈(a) monied capitalをめぐる概念上の諸混乱〉にあたり、現行版では〈第28章 流通手段と資本。トゥックとフラ一トンとの見解〉に該当するわけである。
 だからわれわれがこれから検討する第29章該当部分(つまりマルクス自身がIIと番号を打った部分)は、ここでマルクスが〈いまわれわれは,利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態}の考察に移る〉と言っている問題が、最初に本格的に取り組まれている部分なのである。
 大谷氏は、この第29章該当部分の解説のなかで、〈第5節の表題は「信用。架空資本Jでしたが,マルクスがここに「架空資本」 と書いていたのは,エンゲルス版第25章の部分ではなくて,ここのところで銀行資本の架空性を明らかにすることを念頭に置いていたものと考えられるのです〉(前掲最終講義31頁)と述べているが、確かにそう考えられなくもないが、しかしマルクス自身は「5) 」全体の表題として〈信用。架空資本〉を考えていたのであるから、この表題にある〈架空資本〉が第29章該当部分だけに妥当すると考えるのは必ずしも正しくないだろうと思う。やはりマルクス自身は、〈利子生み資本そのもの{信用制度による利子生み資本への影響,ならびに利子生み資本がとる形態〉として〈架空資本〉こそがもっとも重要なものだと考え、それこそが考察の対象であり、解明されなければならない問題であると考えていたと捉えるべきではないかと思うわけである。この点、大谷氏の位置づけは若干物足りない面が残るのである。同じことはマルクスが〈III〉と番号を打った部分の課題についても言える。大谷氏はこの部分の課題を〈実物資本との関連におけるmoniedcapitalの分析〉として、次のように述べている。

 〈ここでマルクスがなにをやっているかと言えば,要するに,monied capitalがどのようにreal capitalから自立して運動するか,real capitalにどのように反作用するか,それにもかかわらずreal capitalによってどのように制約され,規定されざるをえないか,ということを資本の運動の時間的経過のなかで観察し,解明するということなのですね〉(同32頁)

 確かに大谷氏の説明は、その通りであり、なにも間違っているわけではないのであるが、しかし、この部分でマルクスが追究しているものの説明としてはやはり物足りなさは否めないのである。マルクスが解明しようとしているのは、現代資本主義でも大きな問題になっている金融バブルの理論的解明なのである。マルクスは〈 5) 〉と番号を打った部分全体の表題を〈信用。架空資本〉と書いたということは、まさにこの部分全体で解明しようとしたのはこの課題(金融バブルの解明)だったと言えるであろう。それは信用制度のもとで利子生み資本の形態が生み出した“幻想的な怪物”であることを明らかにし、それが不可避に破裂、崩壊せざるをえないことを論証することだったと言えるのである(だから同じように、バブルの崩壊を論証している第35章該当部分の大谷氏の説明にも一定の物足りなさを感じざるをえないのである)。その意味では、“サブプライム金融恐慌”に代表される現代資本主義を理論的に解明することを課題とするわれわれが徹底的に研究し、そこから学ぶ必要のあるところもまさにこの部分なのである。
 だから現代資本主義に特徴的な金融バブルを解明するキーワードは「架空資本」であり、その概念が解明されているのが、すなわちこれからわれわれが学習する第29章該当部分なのである。そうした重要な位置づけを確認して、次からその内容に踏み込んで研究し、学んで行くことにしよう。(続く)

2015年11月10日 (火)

林理論批判(23)

林紘義氏の「有用的労働による価値移転」問題における混乱を批判する(No.1)

 今回から、有用労働による価値移転の問題を取り上げる。これはすでに5年ほど前に問題になったものであるが、しかし最近、開かれた同志会のセミナーの林氏の「報告要旨」を見ても、またその首都圏でのセミナーの報告(『海つばめ』1263号)を見ても、混乱は依然として続いていることが分かり、この問題を取り上げる意義は決して失われていないことが分かる(なお、この林氏のセミナーの「報告要旨」については、友人からメールに添付されて送られてきたのだが、興味も無くそのまま放置していたものの、その友人の勧めもあり、一応、批判文を書いてみた。しかしそれをこのブログにアップする気にもならずに放置してある。というのはその「報告要旨」なるものはほとんど理論的検討に値するものとは思えなかったからである)。
 さて、先の「社会主義における分配問題」では、直近のものから昔に遡って紹介したが、今回は一番最初に問題になった『海つばめ』の記事に対する批判から開始し、以後、その後で何度か『海つばめ』に掲載された関連した記事を取り上げるという順序でやっていく。
 今回紹介する『海つばめ』の記事は後に林氏は混乱したものとして撤回した代物なのだが、しかし同じような間違いが絶えず繰り返されており、紹介する意味はあると考える。これは二回に分けて紹介する。
 これらもすべて以前私が所属していた支部会議に、『海つばめ』の記事が出された時点で検討資料として提出したものである。(なお一番最後に、参考資料として、この撤回された『海つばめ』記事を、いまではあまり見る機会もないだろうと思うので、そのまま紹介しておくことにする。)

《『海つばめ』1135号(2010.11.28)【三面トップ】大谷の「有用的労働による“価値移転論”」--典型的な“スターリン主義経済学”--「労働価値説」も「社会主義論」も滅茶苦茶に》の批判的検討(上)

【はじめに】

 この林氏の記事は、Kさんによると林氏本人によって撤回されたということであるが、Kさんの意向もあり、支部で学習・検討することになった。この記事は当の本人が撤回するということだから、あまり詳しく論じてもしょうがない面もある。しかし撤回されるのは当然だと思う。それほどこの記事は混乱に満ちているのである。その混乱は記事全体に渡っており、だから私のこのレジュメも、結局、この記事を幾つかの部分に分けて、その混乱を一つ一つ指摘するというようなものにならざるを得なかった。しかしこの混乱した記事を批判的に検討することによって、われわれは『資本論』の正しい主張をより深く掘り下げて認識することができるであろう。そうなれば、この学習会も意義のあるものになるであろう。
 というわけで、われわれは、この記事を三つの項目ごとに(記事にある項目をそのまま紹介)、批判的に検討する部分に適宜番号を打って、分割して引用し、その上で、その部分の混乱を指摘し批判するという手順で進めることにする。

◆単純な人間社会の“再生産”について(これは記事の項目をそのまま紹介、以下同)

 林氏は問題を論じるのに、「単純な人間社会の“再生産”」から始めている。だからわれわれもその内容を検討することから開始する。それは次のような想定なのだが、しかしその中にはすでに混乱があり、よってわれわれは厳密にマルクスの概念をそれに対置しながら検討していくことにする。

 (1) 〈十人の成人によって構成される社会〉

 これは、まあ、そのままである。

 (2) 〈十日間の再生産〉

 これは社会の再生産が10日間を一循環期間としているということである。つまり生産期間(あるいは労働期間)が10日ということ(もちろんこの場合は流通期間はない)。だから生産物(この場合は獣)も10日目の最後にようやく社会の富としてその社会にもたらされると考えなければならない(しかしこの点は林氏にはあいまいである)。だからこうした想定によると、社会はその再生産の出発点では、まずその前の(前期の)生産期間で生産された成果(獣10匹)を持って、その出発点に立っているのである(再生産の出発表式としてのW)。そして社会の構成員10人は、今期の生産期間である10日間を前期の生産期間の成果であるその10匹の獣を消費しながら、今期の10日の生活を維持して、今期の生産を続けることになる。これが本来の林氏が想定している〈十日間の再生産〉ということの厳密な内容なのである。しかしこうした社会の総再生産の概念がまず林氏にはないことを指摘しなければならない。

 (3) 〈この共同体では、ナイフ一本を四日(総労働日四十日)で生産し、また弓二張を二日(総労働日二十日)、十本の矢を一日(総労働日十日)で作り、最後に狩猟に三日(総労働日三十日)を費やし、かくして獣十匹を得たとしよう〉

 10人が10日間働くのだから、一循環期間における総労働は100労働日である。社会はその100労働日のうち40日をナイフの生産に、20日を弓2張の生産に、10日を矢10本の生産に費やす。そして残りの30日を獣を得る狩猟労働に費やす(面倒だから獣も生産物と考えて「獣の生産」に費やすと考えよう)。

 (4) 〈あるいは実際には、生産手段の作成や狩猟は、日々同時的に、つまり「分業」(労働分割)によって並行的に行われても同じことである。つまり毎日、ナイフは四人、弓は二人、矢は一人がそれぞれ製作にたずさわり、狩猟には三人が出かける等々といった具合に、“生産的労働”を分割することもあり得るだろう。しかし仮に実際にこうした形を取るにしても、それは問題の原理的な提起と矛盾するものでは少しもなく、ただ便宜において異なるにすぎない。〉

 しかしこうしたことはそう簡単にはいえないことをわれわれは知らなければならない。というのは、社会が一循環期間に狩猟労働に費やすのは、30労働日であるから、3人が専門的に10日間、ただ狩猟労働だけを続けると考えても、確かに社会は狩猟労働に30日を費やしたことになるが、しかしそれは不可能な事だからである。というのは彼らは期の初めから狩猟をやろうにも、そのための手段がないからである。期の初めに社会が持っているのは、(2)で指摘されているように、前期の生産の成果(結果)である10匹の獣だけなのである。そこには、ナイフも弓も矢もない。だからもし狩猟労働の過程で、ナイフ、弓、矢の諸手段がすべて必要とするなら、それはできない分業なのである。分業というのは生産過程の物質的・技術的な条件に規定されており、決して恣意的に行えるものではない。そうした再生産過程の基本的なことが林氏には分かっていないように思われる。
 だからわれわれは、もっとも簡単な想定としては、やはり十人全員でまず最初に1本のナイフを4日間で生産し、そのあとやはり10人全員で2張りの弓を2日間で生産し、さらにそのあと十人全員で10本の矢を1日で生産し、残りの3日間を十人全員で狩猟労働に従事して、再生産期間の最後に10頭の獣を得ると考えるのが、一番、簡明で分かりやすい想定なのである。
 もちろん、分業体制を敢えてとるならば、これ以外のやり方はありうるが、それはなかなか複雑だからである。例えば狩猟を何人で何時から開始するかということは決して恣意的に決めることはできないのである。狩猟を開始するためには、それに必要な諸手段があらかじめ生産されていないといけない。その期間がまず先行しなければならない。そして少なくともナイフ1本と弓1張り、矢1本以上(これは何本になるかは狩猟期間の長さと一日で消費する矢の数によって決まってくる)が狩猟開始まで生産されてされていなければならない。しかも残りの1張の弓と残りの矢の生産に従事し続ける労働者を残して、それ以外のものが狩猟を開始するわけだが、それらの人員の配分もそう簡単な話ではないからである。だからわれわれは、とりあえず、上記の一番簡明なやり方で生産が行われると考えることにしなければならない。

 (5) 〈十人の成人が一日ずつの労働だから、結局は十労働日をかけて、一匹の獣を得たのだから、この獣一匹の「価値」は十労働日であり、その内訳は、ナイフに四労働日、弓に二労働日、矢に一労働日、狩猟に三労働日である〉

 ここで林氏は〈この獣一匹の「価値」は十労働日であり〉と価値を鍵括弧で括っているが、林氏もこれを「価値」というのが憚られたからであろう。林氏の想定している共同体社会では10人の構成員の労働は直接社会的に結びつけられている。だからそれらは私的に独立して支出される労働ではない。だからそれぞれの労働が支出された生産物(例えばナイフや弓や矢)は決してそれ自体が商品として現われないし、だからまたそこに支出された抽象的な人間労働も価値として現われないのである。だからこうした社会を想定するなら、当然、価値は存在しない以上、その移転や保存も問題にならないのは当然のことなのである。
 それは例えば、自動車の組み立てに必要なすべての部品を一つの工場で作っている自動車工場を想定するのと同じである。工場内のすべての労働は意識的に分割され、ある労働はエンジンを製造し、他の労働はライトを、別の労働はシャーシ等々を製造する。そしてそれらは最後に組み立てラインに運ばれて、自動車が組み立てられる。この場合、エンジンに支出された労働もライトを製造した労働も、シャーシを製造した労働も、それぞれの生産物が商品として現われないのだから、当然、それらの労働も価値としても現われない。だからそれらの労働は、すべて最後の自動車の生産に必要な労働として合計されるだけであろう。林氏が言っているのはこうしたことにすぎない。

 もしそうではなくて、ナイフや弓矢に支出された労働が独立した私的な労働であって、ナイフや弓や矢が商品として現われ、それらの交換によって、始めてそれらに支出された労働の社会的な関連が実証されるような性格のものだと想定するならば、林氏がここで言っていることは、スミスがすべての商品の交換価値をv+mに還元したことについて、それは商品の交換価値をその商品の生産のために支出された労働に還元するという限りでは正しいとマルクスが述べた程度には正しいといえるだけである。しかしそれはナイフや弓や矢の生産に支出された労働も、狩猟の労働も同じ抽象的な人間労働であり、そうした抽象的人間労働として社会的に関連していることが実証され(それらが価値どにりに交換され)、その上でそのすべてが獣という生産物に対象化されていると前提することができるからそういえるのである。すべてのこれらの物を造る労働も、狩猟をするという労働も、抽象的な労働に還元されるなら、その具体的姿態は問われず、よってまたそれがいつ如何なる時間と空間を隔てて支出されたかというようなことも問われない。それらはただ質的に同じでただ量的に異なる一連の連続して支出された労働として合計されうるだけなのある(しかしそれらが社会的に関連し合っているということが、すでにそれらの商品交換を通じて実証されたからそういえるのだということが忘れられてはならない)。こうした意味では林氏の主張は正しいのである。
 しかし林氏が忘れているのは、そうしたことが言いうるのは、ナイフや弓や矢に支出された抽象的な諸労働が、商品交換を通じて狩猟労働と社会的に結びつけられ、狩猟労働の過程で、その狩猟労働そのものによって獣という生産物に移転させられることを前提して始めて言いうるということである。なぜなら、ナイフや弓や矢に支出された労働はナイフや弓や矢という独立した生産物(使用価値)に対象化されて、それらの価値として存在しているのであって、決して直接には獣という生産物に対象化されたわけではないからである。そこには実際には、時間的・空間的な断絶がある。しがもそれらが価値として存在するということは、それらの社会的な結びつきも直接にはあきらかではない。だからナイフや弓や矢に対象化された労働が、獣に対象化されるためには、ナイフや弓や矢は、商品交換を通じて狩猟労働と結びつけられる必要があるのである。そしてその上で、ナイフや弓や矢が狩猟労働の過程で、狩猟労働という具体的な有用労働によって生産的に消費され、獣の価値に移転・保存されるのである。しかもその移転・保存も決して恣意的・個別的なものではなくて、あくまでも社会的な平均的な条件のもとで平均的な形でだけ移転させられるのである。このように考えてこそ、獣の価値の内訳は、生産手段(ナイフ、弓、矢)の価値移転分の70労働日と、狩猟労働の過程で支出された抽象的な人間労働の30労働日とが合計された100労働日になるといえるのである。

 (6) 〈十人の成員の各人は、一日の労働の結果、獣十分の一匹を手にすることができる、というのは十人の労働の結果は、獣一匹であり、各人の労働は「抽象的人間労働」として「質的に同一であって」、従って獣一匹に対して同等の権利を有するからである。〉

 しかしこれも諸労働が直接社会的に結びついている原始共同体社会だからいえるのである。またこうした考察そのものは再生産過程の考察ではないのである。なぜなら、一労働日の成果として一匹の獣という生産物が生み出されるのではないからである。10日を一循環期間とする再生産過程として考察するのであれば、生産物(獣)は、あくまでも循環期間の最後に社会の富として手にすることができると考えなければならないからである。確かに彼らは〈一日の労働の結果、獣十分の一匹を手にすることができる〉が、しかしその彼らが手にする獣は前期の最後に得た獣の一部なのである。再生産としてはこのように考えなければならない。

 (7) 〈ここでは、共同体内の人々の関係、つまり労働と消費の関係も全く簡明である。日々、一匹の獣は、十人の構成員に等しく分配されるのであって、それは各人が等しく、その獲得のために労働したからであるにすぎない。〉

 この場合も同じことがいえる。それは諸労働が直接社会的に結びつけられているから、そういえるのである、と。そしてまた再生産過程として問題を考察するのであれば、日々彼らが消費する獣は前期の狩猟の結果得たものだということである。それは今期の労働の成果ではないという理解が必要である。

 (8) 〈さらにこの例では、生産手段について、ナイフは十日間たつと使用に耐えなくなり廃棄され、また弓は五日間でだめになり、また矢は一日で失われると前提されている。〉

 しかしこうした想定はおかしいし、矛盾したものである。なぜなら、1個のナイフも2張りの弓も10本の矢も、すべて一循環期間(10日)の間に使い切り、すべてその生産過程の結果である10匹の獣の価値になると想定されているからである。労働手段という点では、これらはすべて同じである。それらは自身の価値を生産期間の間に生産物の価値の一部としてすべて移転すると想定されているのであるから、これらは再生産過程における価値部分の回転として考察するなら、流動不変資本ではあっても、決して固定的不変資本ではない。
 林氏はここで耐用期間などというものを想定しているが、しかしこれらが流動不変資本であることが分かるなら、こうした想定そのものは不要であることが分かるであろう。

 (9) 〈十頭の獣は、十人の構成員の十日間の総労働の結果であり、したがって、その「価値」は一匹あたり、十労働日に当たるということができるが、しかし共同体社会にあっては、それは自明のこととして現れる。/こうしたことはすべて、「生産」においても「消費」においても、厳密に“価値概念”に、そして“労働価値説”にも適応し、照応している。〉

 だからこれも再生産過程の考察ではない限りで、また直接労働が社会的に結びつけられている共同体社会を想定する限りで正しいのである。だからそれは「価値規定の内容」(=あらゆる社会に共通する社会的物質代謝の原則、あるいは“自然法則”)には合致しているが、価値そのものとして現象しているわけではないのである。

 (10) 〈ナイフの製造に四日間を費やし、その他の生産手段に三日を費やすというなら、その期間は、人々は生きて行くことはできないのだから、ナイフ等々は、再生産の開始の時にはすでに存在しているものと仮定されるのであり、その再生産の期間(十日、もしくは五日、一日等々)の最後の時には、また同じ形で(同じ使用価値として)再生産されて存在することになる。しかしこのことは、それらの再生産を先行させたというだけのことにすぎず、前記の説明と矛盾するものではない。〉

 すでに述べたように、別にナイフなどの生産期間だけではなく、3日間の狩猟期間も、彼らはまだ食べるべき獣を今期においては生産(獲得)していないのである。なぜなら、社会の再生産期間(だから生産期間)は10日間と想定しているのだから。だから彼らは今期の10日間のすべてを通じて、前期の生産の成果である10匹の獣を消費すると想定するのがもっとも簡単な想定なのである。もちろん、ナイフ等の生産手段が前期の一部の期間を通じて生産され、今期の初めに生産物として存在しているという想定自体は不可能ではない。しかしその場合は、想定の取り方によっては、先に述べた分業の場合と同じような複雑さがつきまとうであろう。少しそうした場合も考えてみよう。簡単化のために図示してみよう。

 《もっとも簡単な再生産の想定》

W(獣10匹)→ナイフの生産(4日間)…弓2張の生産(2日間)…矢10本の生産(1日)…狩猟期間(3日間)→W(獣10匹)→・・・・

 《生産諸手段が期の初めに生産物としてある場合の想定》

W(獣3匹+ナイフ1個+弓2張り+矢10本)…狩猟期間(3日間)→獣(10匹)…ナイフの生産(4日)…弓2張の生産(2日)…矢10本の生産(1日)→W(獣3匹+ナイフ1個+弓2張り+矢10本)→・・・・

 この想定は、期の初めに一循環期間に必要なすべての生産手段がそろっているという想定である。もちろん、生産手段の一部だけが揃っていると想定することも可能であろう(例えば弓は1張りだけ、矢は1本以上、10本以下)。しかしその場合は、先の分業の時に考察したのと同じような複雑な考察が必要となり、そんなに簡単には行かないことが分かるであろう。
 上図下の想定では期の初めには、前期の狩猟で取れた獣の一部(7匹)は、すでに前期のうちに(前期のナイフや弓や矢の生産をする労働期間の生活のために)消費されて残った3匹しかないことになる。この3匹を消費しながら、今期の最初の3日間の狩猟を行うわけである。その結果、10匹の獣が手に入り、その一部を消費しながら、次期につかう生産手段を今期の残りの期間を使って生産するわけである。

 だからいずれにしても、〈ナイフの製造に四日間を費やし、その他の生産手段に三日を費やすというなら、その期間は、人々は生きて行くことはできないのだから〉というような問題意識は再生産過程についての理解があいまいであることを自ずから暴露していることは明らかであろう。問題を考える上では、上図のようなもっとも簡単な想定で十分なのである。林氏がこうした簡明な想定を固守せずに、いずれの想定も可能であり、大した問題ではないかに考えるから、余計に混乱している面もなきにしもあらずである。

 また〈ナイフ等々は、再生産の開始の時にはすでに存在しているものと仮定されるのであり、その再生産の期間(十日、もしくは五日、一日等々)の最後の時には、また同じ形で(同じ使用価値として)再生産されて存在することになる〉という想定もまったく間違っている。これは問題を社会の総再生産過程としてではなく、個別生産物の回転として考えているのである。

◆大谷の無概念

 さて、林氏は上記の想定の社会(原始共同体)からいきなり「資本の再生産」へと飛躍する。しかしここでも林氏の考察にはより一層の混乱が目立つ。われわれは同じような手順で、そうした混乱した林氏の主張に対してマルクスの概念を対置して批判的に検討していくことにしよう。

 (1) 〈しかし個々のブルジョアの目には、社会的な総生産は必ずしもこうした形では現れない。
 もちろん彼らの目に映るのも、こうした日々の再生産の形式である、しかし彼らの目には、再生産は資本の再生産として、そしてまた資本のあれこれの成分は、「固定資本」、「流動資本」といった、無概念的な形で現れるのである。〉

 しかしすでに指摘してきたように、林氏の考察は、必ずしも〈社会的な総生産〉や〈再生産〉について考察したものでは無かった。ここでは「固定資本」や「流動資本」を〈ブルジョアの目に〉写る〈無概念的な形〉だと説明されている。確かに「固定資本」や「流動資本」という用語が古典派経済学者たちによって、さまざまな混乱した間違った使われ方をしてきたことはマルクスも指摘している。しかし、マルクスがそうした古典派経済学者たちの混乱を批判して、それらを経済的な形態規定として捉え直しているのである。つまり科学的な概念を与えている。林氏は一見すると、そうしたブルジョア的な曖昧な用語について述べているかであるが、しかし実際には、マルクス自身が確定した厳密な意味での「固定資本」や「流動資本」の概念も〈無概念的な形〉として廃棄しようとしているように思える。マルクスは確かに固定資本や流動資本ではなく、不変資本、可変資本という概念をより根本的な概念として対置している。しかし他方で、単純再生産の考察では、不変資本が流動的不変資本と固定的不変資本とに分かれること、そして固定的不変資本の補填は如何になされるかを独立して考察していることを考えても、固定資本の概念をすべてブルジョア的な〈無概念的な形〉と捉えるのは間違っているのである。もしそれがそうしたものなら、そもそも固定資本の補填という固有の課題を考察する意味もないであろう(その無概念を暴露すれば足りるはずである)。林氏はナイフや弓を固定資本などと考えているが、しかしそれらは一循環期間にすべて生産物に価値を移転させると想定されており、その意味では固定資本に固有の回転をそれらは取らない想定になっているということすら気づいていないかである。

 (2) 〈ブルジョアは前提によれば、日々、八の資本(十の資本ではなく)を投下するが、それは固定資本(ナイフと弓)に六を、流動資本に二(矢に一、労働力には三でなく、一)という内容になるだろう。そして一日の終わりには一匹の獣を自分のものとする。彼は八日間の労働の成果を資本として投下して、十日の労働の成果を得たのだが、それは三人の労働者を雇用しながら一人分を労働者に支払ったにすぎなかったからであり、かくして労働者から三分の二日の労働を搾取したからである。その限りで、彼は自分の資本を増殖し得たのであり、またすることができたのである。〉

 このように林氏は前提するのである。しかし林氏は少なくともその前の〈単純な人間社会の“再生産”〉の考察では、社会の〈再生産〉を考察しようと考えていた。しかし今回はいつのまにか個別資本の問題にスリ変わってしまっている。これは再生産でもなんでもないのである。しかも資本は「日々」投資するとされている。以前は、10人の成人が10日間働くと想定されていた(つまり10日の循環期間が想定されていた)。ところが今度は、労働者は3人しかおらず、資本家は3人の労働者を雇いながら、一人分の労働者にしか支払わないなどともいうのである。もし3人も雇いながら1人分しか支払わないなら、あとの2人は一体どうして自分の労働力を再生産するのであろうか。しかもどうやら一日の終りには獣一匹を得るのだそうである。どうして資本家は一日の終りには獣一匹を得られるのか、その生産過程はどうなっているのかについては、林氏はまったくお構いなしである。とにかくわれわれはこううした混乱した想定にはこれ以上つきあうことはできない。

(3) 〈とはいえ、彼らは出発点においては、ナイフに四十の価値を、弓に十の価値を、矢に一の価値を、そして労働力に一の価値を支払うのであって、八の価値を支払うのではない。そしてその後の四日間は、ただ矢(一)と労働力(一)の価値の計二だけを支払うであろう。五日が経過した時点では、ナイフの価値は半分だけ還流し、また弓の価値はすべて還流する。もちろん、矢と労働力のために支払われた分は、一日ごとに還流する。
 そして第六日には、弓のために十の価値と、矢のための一の価値と、労働力のための一の価値が支出されなくてはならず、七日目から十日目までは、二日から五日までと同様に、二だけが支払われる。
 かくして十日目の終わりには、ブルジョアの手元には、再び最初の日の出発のときと同様に、一本のナイフと一張の弓と一本の矢(と、一匹の獣)が存在する。〉

 社会の総再生産というものが分かっていない林氏はいよいよ問題を複雑にして、こんがらがってしまっている。しかし再生産過程の考察は本旨ではないだろうから、われわもあまり拘らないことにしよう。

(3) 〈生産手段――ナイフや弓等々――は、資本として現われるが故に、資本として再生産されなくてはならないが、このことが、生産手段の価値は「移転される」のだという観念を生み出すのである。〉

 確かにナイフや弓や矢も商品として生産され、価値物として現象することを想定するからこそ、それらの価値の移転が問題になるというなら、その通りである。しかし林氏のこれまでの主張を振り返っても、そうしたことが指摘されたわけではない。つまりこのことは何ら論証されていないのである。これまでの説明を振り返っても、どうして資本として現われるから生産手段の価値が「移転される」という観念が生み出されるのかが説明されていない。

(4)〈つまり、ナイフや弓などは再生産されるのではなく、そのまま無媒介的に再登場するのである。“固定資本”の価値は(その使用価値さえも)再生産されるのではなく、そのまま「移行する」のである(そのように、目に映るのである)。

 しかしこれはおかしい。確かに林氏の想定では、資本制社会になると、7人の労働者は何時の間にかどこかに行ってしまって存在しない。だからナイフや弓や矢も生産されないと林氏は想定するわけである。しかし資本家が、彼の資本を投下して、ナイフや弓や矢を入手すると想定するなら、それらが資本家とは別のところで生産されたことを想定することではないのか。資本家が彼の資本を投下して入手するなら、その入手するナイフや弓や矢が資本家とは直接には社会的に結びついていないところで、それぞれが商品として生産されるからそうしたことが出来ることは、例えブルジョア的な粗雑な目にも明らかではないか。トヨタが自分の自動車の生産手段である薄板を新日鉄から購入するということから、その薄板が新日鉄で再生産されなければならないという観念を持たないなどということがありえるだあろうか。生産手段の「価値が移転する」ということと、使用価値としての生産手段が再生産されるということとはまったく別の事柄である。価値の移転は、ブルジョアにとっては、生産手段の購入に投じた資本(価値)の還流(回収)にかかわる問題である。しかし還流するのはあくまでも価値であって、使用価値ではない。そんなことはブルジョアでさえ明らかであろう。価値が還流するからこそ、その価値で資本家は引き続いて使用価値としての生産手段を補填(購入)出来るのである。こんなことはブルジョアの目にもまったく明らかであって、だからブルジョアの目には生産手段がまったく無媒介に再登場するなどということはありえない。使用価値の再生産と価値の移転を混同しているのは、ブルジョアではなくて、林氏本人ではないのか。

(5) 〈ナイフや弓が、確かに偉大な生産力であり――この水準の発展段階の人間社会にとって――、次期のナイフや弓を作り出す上で不可欠であるとしても、それはナイフや弓を作り出す労働に取って代わるものではなく、また代わることができないということが見逃され、忘れられるのである。〉

 これを見ると、林氏はどうやらナイフは次期のナイフをつくり、弓は次期の弓を作ると考えているようである。確かに生産手段のなかには次の生産のための手段になるものがある。例えば生産物としての石炭は、石炭の生産のために再び生産手段として、燃料として役立つ、収穫された穀物は生産物であるが、それを次期の播種に使うなら、それは生産手段である等々。しかしナイフが次のナイフの生産のために不可欠であり、弓が次の弓の生産のため不可欠となるというのは聞いたことがない。しかしこの一文では、それこそナイフは“無媒介的に”に次のナイフを作り出す上で不可欠なのだそうである。こんな途方もない観念は例えブルジョアでも持たないであろう。もっとも林氏は、いや無媒介的にではない、労働が媒介するのだともおっしゃる。そしてそれがブルジョア的意識には見逃される、と。しかし何度もいうが、そんなことを例えブルジョアであっても見逃すはずはない。ナイフや弓もそれを作るために一定の労働が支出されなければならないことぐらいはブルジョアだって分かるであろう。ナイフが次期のナイフを作り出すなとという突飛な観念こそ、驚きいったものではないか。林氏はナイフや弓などの生産手段も、母牛が子牛を生むように、自己増殖するとでも考えているのであろうか。例えブルジョアだって、“母ナイ”が“子ナイフ”を“生む”などという観念を持つはずがない。

(6) 〈我々の想定した共同体社会について言えば、十頭の獣を獲得した労働は、決して直接に狩猟に従事した三十日の労働だけではなく、ナイフや弓や矢の製造にも従事した七十日の労働でもある、という自明のことが見えなくされているのである。〉

 しかし共同体社会ではすべての労働が直接社会的に結びつけられているのに対して、資本制社会では、そうでないから〈自明のことが見えなくされている〉という認識が果たして林氏にはあるのであろうか。林氏はそれをただブルジョア的な意識から説明しようとしているのではないだろうか。
 共同体社会では、すべての労働が直接社会的に結びつけられているから、ナイフを作る労働や弓や矢を作る労働も、最終的には社会が社会全体で獣を狩るための労働であるということは自明のことなのである。しかしそのことはナイフや弓や矢に支出された労働は、ナイフや弓矢に支出されたのであって、決して直接には獣の狩猟のために支出されたのではないこともまた自明である。それらはあくまでも別々の労働である。例え共同体社会でも、それぞれの労働はやはりそれぞれの労働なのである。だからこそまた、それらの労働の社会的な結びつきが問題になるのである。それぞれがそれぞれで異なる労働であり、だからまたそれらがどのように直接社会的に結びつけられなければならないかが問題になるのは、例えばナイフを作る労働が一個のナイフを作るのにどれだけの労働が必要かというのは、ナイフの生産という独立した物質的な生産分野の条件に規定されて存在しており、同じことは弓や矢の生産においても同じなのである。そした個々別々の労働分野とその物質的な生産条件(生産力)に規定されて、それは独立した労働として存在しているのである。だからこそそれらの直接的な社会的結びつきが検討され、そして実際的にも共同体社会ではそれらは相互に直接結びつけられるわけである。これは工場内の分業でも同じである。人々は、それぞれの分野の生産性を考えて、この分野にはこれこれの人数を、そして狩猟労働にはこれこれの人々をと計算して、それらの社会的な結びつきを現実化せしめなければならないのである。それらは独立した労働分野であり、独立した物質的条件と物質的な生産力に規定されている。それらは決して、獣を獲得する労働に単純に集約されているような性格のものではない。そしてナイフに支出された労働や弓や矢に支出された労働が、全体として獣を狩猟する労働との社会的な結びつきのもとに計算された結果、全体として何匹の獣の収穫のためには、社会は全体としてどれだけの労働をどの分野(ナイフや弓や矢の製造、狩猟労働)に支出する必要があるのかを計算できるのである。
 商品生産社会では、そうした労働の直接的な社会的な結びつきは存在しない。それは商品の交換を通じて結果として現実化するものでしかない。だからこそ、生産物に支出された人間労働は価値として現象するのである。そして、だらこそ、また生産手段の価値が労働の二重性にもとづいて、生産物の価値の一部として移転し再現するという形で、ざまざまな生産手段に対象化された人間労働の社会的結びつきが現われてくるのである。だから例えブルジョアの目にも、例えば自動車の生産のために支出された労働は、トヨタにおける自動車組立工の労働だけからなっているなどという観念が生まれるわけではない。なぜなら、それらは自動車の生産の必要に応じて、商品として購入した生産諸手段(部品等々)の価値もそこに移転していることを彼らは知っているからである。そしてそれらの生産手段が価値を持っているのは、それらがそれぞれにおいて商品として生産されて、労働が支出されているからだということも彼らは知っている。もちろん、それはあくまでもブルジョアの目には一定のコストとして意識されるだけで、どういう条件のもとでどういう労働が支出されたかということは彼らの関心事ではないし、彼らの与り知らないことではあるだろう。それは商品生産社会であるから当然のことなのである。

(7) 〈共同体社会においても、その時期の当初に、ナイフや弓矢が実際的な前提として登場するとして、それはその時期に、それらが再生産されるからであり、そのいわば“先取り”として登場するにすぎないということ、したがってまた、その時期の間に、それらは七十日の労働によって作り出されるもの(同じもの、同じこと)であることが確認されるのである。
 だからこそ、十頭の獣は百労働日の成果として現われるのだが、資本には、これが七十労働日の「過去の労働」(資本)と、三十労働日の「生きた労働」の費用(“労働費用”、労賃として現象する)と利潤の合計として、つまり「費用価格」として現われるのである。そして「価値移転論」は、こうしたブルジョアの直接的な意識をただ反映しているだけのことである。〉

 共同体社会の例は間違った再生産の例にもとづいていたが、それは今は問わないでおこう。別に共同体社会だからナイフや弓矢に支出された労働が同じと意識されるわけではない。それは共同体社会に固有のものではなく、商品生産社会でも、それらはそれぞれの価値として、すなわちそれらに対象化された抽象的な人間的労働として「同じもの、同じこと」として確認されるのである。そしてまた商品生産社会でもやはり獣は百労働日の成果として現われるのである。そしてそれは別に資本にとってだけではなくて、ナイフや弓矢に支出された労働は、やはり共同体社会においても、狩猟労働に支出された労働とは時間的にも空間的に離れた労働として意識されるのである。だから価値移転論は確かに、支出された労働が「価値」として現われるという点では商品社会に固有ではあるが、しかし支出された労働が総計されるという点では共同体社会と資本制社会とにはどんな違いもない。価値移転論というのは、それ自体は、決してブルジョア的な意識ではない。なぜなら、古典派経済学は決してどうして生産手段の価値が生産物に移転されるのかはわからなかったからである。それはマルクスによって商品に対象化された労働の二重性にもとづいて始めて説明されたのである。それがわからなかったからこそ、スミスはv+mのドグマに陥ったのである。

(8) 〈そもそも、労働力の“使用価値”(具体的有用労働)が「価値」の概念の根底に入り込み、適用されるなどと考えること自体、途方もないことに思われるのだが、“スターリン主義”学者たちは、そんな無概念も理論的混乱も一向にお構いなしである。〉

 労働力の使用価値は労働そのものであって、必ずしも具体的有用労働に限定されるわけではない。なぜなら、マルクスは次のようにも述べているからである。

 〈ところが、決定的なのは、この商品(労働力商品--引用者)の独自な使用価値、すなわち価格の源泉でありしかもそれ自身がもっているよりも大きな価値の源泉だという独自な使用価値だった。これこそ、資本家がこの商品に期待する独自な役だちなのである。〉(第1部第5章全集23a254頁)

 このように労働力商品の使用価値としてマルクスが強調しているのは(しかしマルクスは「独自の」と断っているのであるが)、それが価値の源泉であるという点なのである。しかしまあ、これは大した問題ではない。

 ここで林氏が問題にしているものこそ、林氏が一番この問題に拘りを持っている最大の理由なのであろう。すなわち具体的有用労働が〈 「価値」の概念の根底に入り込み、適用されるなどと考えること自体、途方もないこと〉だというものである。しかし林氏は勘違いしている。具体的有用労働が生産手段の価値に何らかの作用を及ぼして、その価値を生産物に移転するのではないからである。具体的有用労働は、あくまでも生産手段の使用価値に作用するのであり、それを生産的に消費して新たな生産物を作り出すからこそ、その価値を移転するのだからである。こうした林氏の疑問に答えるかのように、マルクスは次のように述べている。

 〈およそ生産手段として消費されるものは、その使用価値であって、これの消費によって労働は生産物を形成するのである。生産手段の価値は実際は消費されるのではなく(24)、したがってまた再生産されることもできないのである。それは保存されるが、しかし、労働過程で価値そのものに操作が加えられるので保存されるのではなく、価値が最初そのうちに存在していた使用価値が消失はするがしかしただ別の使用価値となってのみ消失するので保存されるのである。 それゆえ、生産手段の価値は、生産物の価値のうちに再現はするが、しかし、正確に言えば、再生産されるのではない。生産されるものは、元の交換価値がそのうちに再現する新たな使用価値である。〉(全集23a271頁)

 この一文はまさに林氏の疑問に答えている。林氏は具体的有用労働が生産手段の価値そのものに操作を加える(〈 「価値」の概念の根底に入り込み、適用される 〉)と考えるから、具体的有用労働が価値に関わるのはおかしいと考えたわけである。マルクスはこうした林氏の疑問に答えて、具体的有用労働によって労働過程で生産手段の価値そのものに操作が加えられることによって保存されるのではないのだと述べている。価値がそこに存在していた使用価値が生産的に消費されて消失し、その代わりに新しい使用価値が生み出されるから(それはすべて労働過程の問題、だから具体的有用労働にかかわる問題である)、生産手段の価値は新しい使用価値に移転し保存されるのだ、と述べている。だから生産手段の価値は「再現」はされるが、厳密には「再生産」されるわけではない、と。つまり具体的有用労働が生産手段の価値に何らかの作用を及ぼし、また新しい生産物に移転されるべき価値を形成(再生産)するわけではないのである。だから林氏が危惧するような〈 (具体的有用労働)が「価値」の概念の根底に入り込み、適用されるなどと考えること自体〉は林氏が勝手に思い込んでいる間違った観念なのである。

(9) 〈労働価値説によれば、十頭の獣は三人の成員だけに分配されるのではなく、十人の成員に当然分配されるだろうし、されなくてはならないという、単純な真実がどこかに行ってしまうのである。「価値移転」に貢献しただけの七人(七十労働日)は、一切分配を受けない、という不合理になりかねないし、理論的にはそうなる以外ない、というのは、彼らは単に「価値移転」をしただけであって、獣の獲得のために、直接にどんな労働も支出していない(つまり、どんな新しい「価値」も作り出さなかった)からである。自らの労働に対して、分配を受ける資格も根拠も欠いているのである。〉

 林氏の勘違いは留まるところを知らない。ナイフや弓矢を生産した七人は、決して「価値移転」に貢献したのではない。彼らはナイフや弓矢の価値を形成するのに貢献したのである(しかしあくまでもそれらが商品として生産されるということを前提しての話ではあるが)。それらの、つまりナイフや弓矢の価値移転に貢献したのは、狩猟労働に従事した3人の労働者なのである。彼らはその抽象的な人間労働によって30日分の価値を獣に対象化し、同時に、その具体的有用労働の契機で、ナイフや弓矢にある七十日分の価値を獣に移転するのに貢献したのである。だから〈七人(七十労働日)は、一切分配を受けない、という不合理に〉はならない。なぜなら、彼らは70労働をナイフや弓矢に対象化し、それらの価値の形成に貢献したからである。だからこそそれらは狩猟労働の過程で獣の価値に移転させることができたのである。〈彼らは単に「価値移転」をしただけであって、獣の獲得のために、直接にどんな労働も支出していない(つまり、どんな新しい「価値」も作り出さなかった)からである〉という観念も途方もないものである。どうしてこんな観念が出てくるのか正直信じられない。まず七人は価値移転をしたのではない。これが林氏には分かっていない。価値移転したのは狩猟労働に従事した労働者である。彼らがそれができたのは、ナイフや弓矢にもともと価値があったからにほかならない。では、ナイフや弓矢にどうして価値があったのか、それは七人が彼らの労働を支出しそれをそれらに対象化したからである。だから当然、彼らも〈自らの労働に対して、分配を受ける資格も根拠も〉十分持っていることは明らかであろう。混乱もここまで来れば、開いた口が塞がらない。

(10) 〈“スターリン主義”経済学によれば(あるいは、現実に資本の再生産を担うブルジョアたちには)、資本は固定資本と流動資本という区別として、つまり固定資本はその「価値」が年々(つまり、一定の期間を区切れば)一部だけが生産物に「移行」し、流動資本のみは、その「価値」のすべてが生産物に「移行」するものとして現象するのである。ブルジョアにとっては、資本の区別は、ただそうした区別としてのみ重要であり、意義をもつのであるが、スターリン主義経済学が追随するのは、こうしたブルジョア意識にすぎないのである。〉

 まず古典派経済学者たちにとっても、固定資本と流動資本との区別を価値の移転の相違として明確に捉えられていたわけではない。彼らはある場合にはそうした観点にも立ちながら、他方では素材的なものに捕らわれて、流通資本と流動資本とを混同し、可変資本と不変資本との区別を流動資本と固定資本との区別と混同したのである。だからブルジョアの目に両者の区別が価値の移転の相違として現象するなどいうのは正しくないのである。それはマルクスによって経済的形態規定性として正しく位置づけられることによって、始めて明確に区別されたのである。だからそれをブルジョア意識にだけもとづく観念と捉えることは間違っている。
 こうした固定資本の独特な価値の移転によるその独特な回転の仕方は、当然、資本の再生産過程の考察では、それ独特の解明すべき課題として問題にされる必要が出てくるのである。それは決してブルジョア意識に現われた単なる外観上の問題ではない。それは社会的な生産に物質的根拠をもつ現象なのであり、だから社会が将来の社会主義になっても、大規模な固定的な生産手段の建設に--それらはその建設ためだけにも多くの労働力とさまざまな生産手段と生活手段を社会から一方的に吸収し、しかもその長い建設期間の間は、何の使用価値も社会にはもたらさない---、社会はどれだけの労働を支出できるかをあらかじめ計算によって求める必要があるのである。こうした回転期間の長いものについて、マルクスは次のように述べている。

 〈資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然なくなり、したがって貨幣資本によって入ってくる取引の仮装もなくなる。事柄は簡単に次のことに帰着する。すなわち、社会は、たとえば鉄道建設のように一年またはそれ以上の長期間にわたって生産手段も生活手段もそのほかどんな有用効果も供給しないのに年間総生産から労働や生産手段や生活手段を引きあげる事業部門に、どれだけの労働や生産手段や生活手段を何の障害もなしに振り向けることができるかを、前もって計算しなければならないということである。〉(全集24巻385頁)

 だから固定資本のなかで回転期間が長期に及ぶようなものは将来の共産主義社会でも、そうしたことが考慮された上で、社会は前もって計算して労働を配分する必要があるということは、そうしたものがある特定の生産手段の物質的な特性そのものに規定されたものであるからなのである。だからそれは決して資本主義的生産に固有の問題ではないのである。だから固定資本、流動資本という形態規定性も決してブルジョア的な意識にだけ現われるようなどうでもよいようなものではなく、マルクスによって厳密にそれらは規定され、区別されているのである。

(11) 〈社会の前提は、確かに前時代から受け継がれ、発展させられてきた生産力であるが、それは生産的労働に取って代わられるものではない。生産力の発展はたとえば、ナイフの生産のための労働をいくらでも短縮するだろうが、しかしナイフを生産する労働そのものを無くすことも、それに取って代わることもできないのは自明のことであろう。〉

 こんなことは当たり前のことである。ナイフそのものが子ナイフを生み出す(野生の小麦が新たな小麦を生むように)という馬鹿げた観念を持っている人にとってだけ、それは言われなければならない事実である。それにそもそも有用労働による価値移転という観念が、どうして生産力が発展すれば、労働は不要になる、それにとって代わるというような観念になるのであろうか。それはただ林氏の間違った観念の中にしかないものである。

(12) 〈この理屈では、「価値を移転する」労働は、一方で具体的有用労働として「価値を移転する」が、他方では抽象的人間労働としても存在するはずだから、また新しい価値も生み出しているはずだが、それはどこかに解消されてしまって、現実にはどこにも存在することがないのである。そしてここまでくると、“スターリン主義経済学”の破綻が完璧に暴露される、というのは、もし「価値を移転する」労働(機械などの生産手段の生産に従事する労働)が抽象的人間労働として存在せず、価値として対象化されないというなら、直接に労働価値説に矛盾することになるだろうし、もし具体的有用労働によって「価値を移転」し、他方抽象的人間労働によって価値を生むというなら、スターリン主義経済学はその価値を全く説明しないし、することができないからである。「古い」価値を保存し(具体的有用労働として)、また新しい価値も作り出す(抽象的人間労働として)というなら、ここでは、「価値」なるものは、二重に存在するばかりではない、またいくらでも膨れ上がり、膨張していくことになり、“単純再生産”といった概念さえ怪しくなるのだが、スターリン主義経済学はこのことについて何も語らないし、語ることができないのである。〉

 混乱はここで極まっている。林氏はナイフや弓矢を生産する労働を価値移転労働と錯覚している。だからこうしたタワケタことがいえるのである。しかしナイフや弓矢の価値そのものは、決して移転させられたものではない。それらはそれらの労働に従事する労働者の価値形成労働の成果である。すなわちその抽象的人間労働がそれらの生産物に凝結したからそれらは価値を持っているのである。この場合ナイフや弓矢を作る具体的有用労働は価値形成という点では何も作用していない。確かに価値形成労働も具体的有用労働を通じて支出されるという点では関連している。しかしそれは使用価値が価値の担い手であるのと同じである。だからナイフや弓矢を作る労働が、〈他方では抽象的人間労働としても存在するはずだから、また新しい価値も生み出しているはずだが、それはどこかに解消されてしまって、現実にはどこにも存在することがないのである〉などいう途方もない発想が生まれるはずもない。「価値を移転する」労働はナイフや弓矢を生産する労働ではなくて、それらを使って獣を狩る狩猟労働であるというもっとも根本的なことを林氏は見失ってしまっており、だからこんな馬鹿げた混乱したことを言うことになってしまっている。〈そしてここまでくると、“林主義経済学”の破綻(と混乱)が完璧に暴露される〉。
 何度も言おう。〈機械などの生産手段の生産に従事する労働〉が〈 「価値を移転する」労働〉ではないのである。機械などの生産手段を使って新たな生産物を生産する労働が、その労働の抽象的契機によって新たな価値を生産物に加えるとともに、その具体的契機によって生産手段の価値を生産物に移転するのである。だから〈 「価値を移転する」労働〉〈が抽象的人間労働として存在せず、価値として対象化されないという〉ようなことはありえないのである。確かに〈 「価値を移転する」労働〉そのものは具体的有用労働であるから、それが〈抽象的人間労働として存在せず、価値として対象化されない〉というのは当然である。しかしそれは同時に抽象的契機を他方では持っているのであり、その契機においては新しい価値を追加するのである。だから何も〈労働価値説に矛盾する〉ようなことはないのである。ナイフが子ナイフを生むなどという観念こそ、〈労働価値説に矛盾する〉ものであろう。
 だから〈 「古い」価値を保存し(具体的有用労働として)、また新しい価値も作り出す(抽象的人間労働として)というなら、ここでは、「価値」なるものは、二重に存在するばかりではない、またいくらでも膨れ上がり、膨張していくことになり、“単純再生産”といった概念さえ怪しくなる〉などというのはただたわごとというしかない。混乱もここまで来れば、もうどうしようもない。もし狩猟労働が獣にその価値を付け加えると同時に、ナイフや弓矢の価値を移転しないなら、獣はただ30日労働日の価値をもつ生産物になってしまうであろう。それらが移転されるからこそ、それは100日労働日の価値をもつのである。獣の価値は、社会全体で支出された労働にきっちり一致している。何も膨張していないし、単純再生産の概念とも矛盾していない。ただ混乱しているのは林氏の頭の中だけである。こんなたわごとなら、確かに〈スターリン主義経済学〉でさえ、〈このことについて何も語らないし、語ることができない〉であろう。(続く)

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