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2015年11月19日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(29-2)

『資本論』第3部第1草稿・第5章(現行版・第29章「銀行資本の構成部分」)の解読

 〔大谷禎之介《「銀行資本の構成部分」(『資本論』第3部第29章)の草稿について--第3部第1稿の第5章から--》(『経済志林』63巻1号収載)の訳文を利用〕

《大谷氏の「前書き」について》

 大谷氏の草稿の翻訳文(『経済志林』)には、大谷氏自身による前書きが書かれている。この前書きについても、一言論じておくことにしたい。
 まず大谷氏は〈「架空資本」の意味ないし内容について〉は、以前にも論じたと書いている。これは《 「信用と架空資本」(『資本論』第3部第25章)の草稿について(上) 》(『経済志林』第51巻第2号)に掲載されたものであり、これから「架空資本」について研究するわれわれにとっては、やはり興味深いものと言える。しかしその内容は、ほとんどわれわれがこれから検討する第29章該当部分の草稿に対する大谷氏自身による考察である。よって、これについては、本文を段落ごとに検討するなかで、大谷氏自身の解釈として、順次、検討・吟味していくことにしよう。
 次に大谷氏は、この以前論じたものの要点を、6点にわたってまとめている。このうち(1)、(2)、(3)、(4)については、すでに最初のレジュメでも紹介したので検討は省きたい。ただ(4)に関連して、少しだけ書いておきたい。
 (4)で架空資本という語が出てくるのは〈これ以降でもただ数箇所でてくるだけである。だから,この語がどのような意味で使われ,どのような重要性をもっているのかは,これらの部分(つまりIIの部分、29章該当部分--引用者)に示されていると考えるべきであろう〉と述べている。また(6)でも〈 「III」 (「II」とあるのは「III」の誤植--引用者)以降の数箇所に出てくる「架空資本」が,「II」ですでに論じられたそれの範囲内のものであることは明らかであるから,結局,表題「5)信用。架空資本」における「架空資本」の「架空」とは,基本的にこの「II」で明らかにされている架空性と考えられなければならない〉とも述べている。こうしたことから大谷氏は「5) 」の表題の「架空資本」はIIで論じられていると考えたのであろう。しかしすでに述べたように、やはりこうした理解は一定の根拠があるとはいうものの、やはり不十分といわざるをえない。確かに「III」以降でマルクスは「架空資本」についてあまり論じていない(大谷氏が引用しているのは3カ所だけである)。せっかく「III」(すなわち現行版の第30-32章該当部分)における考察の前提として「II」で架空資本について論じながら、肝心の現実資本を何倍も上回って蓄積される貨幣資本の蓄積(蓄蔵)の運動の実際を論じるときに、架空資本の存在についてほむしろ省いて言及しなかった(できなかった?)というのは(もちろん、とりあえずは問題を限定するためにこうした措置をマルクスはやっているわけであるが)、やはりこの「III」の部分での考察がいまだ十分では無かった故であると私は思っている。この「III」については、引き続いて研究する予定なので、これ以上のことは言わないが、それが不十分に終わった大きな理由は、第2部「資本の流通過程」の第3章(現行版では「篇」)「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」(現行版の表題は「社会的総資本の再生産と流通」)における拡大再生産論が、第3部の第5章(現行版では篇)を考察し叙述している時には、いまだ手つかずだったところにあると私は考えている。特に現実資本の蓄積に必要な潜勢的貨幣資本の蓄蔵が社会的総資本の再生産の観点からどのように関連しているのかということがいまだ未解明だったが故に、それを何倍も上回る架空な貨幣資本の蓄積についても十分論じることができなかったのではなかったかと思うのである(そして「拡大再生産と蓄積」を論じた、第3部第8稿では、まさに現実資本の蓄積と潜勢的貨幣資本の蓄蔵との関連が解明されており、だからそこではこの第3部第5章(篇)でとりかかりながら未解明に終わった問題の幾つかの基本的な解決が与えられているのである。そしてそれはすでに公表している「第2部第8稿の解読」のなかで指摘しているので興味のある方は参考にして頂きたい)。そもそも「架空資本」の「架空性」というものも、再生産論を踏まえて始めて明らかになるような性格のものではないかと私は考えている。
 (5)の部分では、この「II」でマルクスが論じている問題の要点をまとめるような内容になっている。だからここで書かれている問題は、これからわれわれがIIの本文を解読していくなかで明らかになる問題である。だから本文を解読する以前に論じるのはあまり適当とは言えない。ただこの部分を頭に入れて本文を読めば、理解に役立つ面がある。だからいくつかの点について今この時点で浮かぶ疑問点を上げておき、それを実際の本文の検討のなかで、検証していくことにしたいと思う。

 (1) 大谷氏は〈 ①いわゆる「利子生み証券」の所有者にとってそれが資本であるのは,つまりいわゆる擬制資本は,収入の資本還元による純粋に幻想的な観念にすぎない〉と述べている。ここで大谷氏は「いわゆる」を着けながらも「擬制資本」という用語を使っている。しかしマルクス自身は少なくとも大谷氏の翻訳文のなかでは「擬制資本」という用語は使っていない。どうして「利子生み証券」を「擬制資本」と大谷氏はいうのであろうか、それは「架空資本」とどう違うのか、それを使い分ける意味はどこにあるのか,こうした疑問を、とりあえずは提起しておきたい。

 (2) で大谷氏は〈手形や他行銀行券をも含めて,自己価値ではない,金にたいするたんなる支払指図であって,純粋に架空なものである〉と述べている。この大谷氏が問題にしている本文の箇所(われわれが付けた段落の番号では【27】になる)も色々と解釈上の問題がありそうであるが、まず大谷氏は〈他行銀行券〉について言及しているが、マルクス自身は何も述べていないこと、また確かにマルクス自身も、〈銀行業者の資本の最大の部分は,純粋に架空なものである〉と述べて、そのなかに〈すなわち債権(手形と公的有価証券)および株式(将来の収益にたいする所有権原,支払指図) 〉と書いており、これを読む限りでは手形も〈純粋に架空なもの〉ということになっている(35頁)。しかし他方でマルクスは「手形」を「その他の有価証券」と区別して、両者は〈本質的に区別されるもの〉とも述べている(15頁)。割り引かれた手形は確かに銀行にとっては利子生み証券なのであるが、手形自体(もちろん、それが融通手形のようなものではないかぎりでの話ではあるが)は、〈純粋に架空なものである〉とは言えない(これは大谷氏も同じ意見である)。ではどうしてここでマルクスは〈純粋に架空なもの〉と言っているのか。大谷氏は〈これは,さきの「いわゆる利子付き証券」についていわれていた「架空資本」とは異なる視点からの架空性である〉と述べているのだが(上記に紹介されている第25章該当部分の解説の67頁)、果たしてそうした理解は正しいのかどうかである。これも本文解読のなかで検証しなければならない。

 大谷氏は6項目にわたる要点を説明したあと、次のように述べている。

 〈以上のように見ることができるとすれば,表題「5) 信用。架空資本」における「架空資本」とは,「信用とは,架空なものと見つけたり」,といったような意味合いで言われているものではまったくなく,またしたがって蓄積された「貨幣資本」の大部分が,たんに信用から成っているという意味だけから架空だと言われているのでもない。そうではなくて,それは,銀行のもとに形成され運用されているmonied capita1について,それを構成するものが利子生み資本の成立を前提にし,それによって生み出される架空な貨幣資本の諸形態であることを明らかにするところにあったのだと言わなければならない。〉(4-5頁)

 もしこれが「5)」の表題にある「架空資本」の含意されている内容だというならやはり不十分としか言いようがない。しかしその理由については何度も述べてきたので、ここでは論じない。
 ここで大谷氏が言っているように「信用」ならすべて「架空」かというとそうではない。「商業信用」は再生産過程内の信用であり、決して「架空」ではない(だからそこで流通している限りでの手形も「架空」ではない。ただ銀行によって割り引かれ、銀行が保持する手形については若干違っており--マルクスが「純粋に架空である」と述べているのはこれであるが--、注意深い検討が必要である)。また「貨幣信用」(これは大谷氏によれば、一般には「銀行信用」と言われているものであるが、マルクス自身は「銀行信用」という言葉で別の意味を持たせているという)についても、それが再生産過程外の信用であり、銀行による貸し付けだからすべて「架空」かというと必ずしもそうとは言えない。銀行はさまざまな産業資本や商業資本において遊休している貨幣を集中して、それを必要とする資本に貸し付ける機能を持っているが、こうした遊休貨幣資本が現実の商品価値の実現形態であるなら、そしてそれを銀行がただ媒介して貸し付けるだけなら、その貨幣は決して架空ではないからである。なぜなら、それを借りて蓄積する資本家は、それを本来所有している資本家に代わって蓄積を行なうに過ぎず、そこにはどんな架空性もないからである(もっとも銀行の貸し付けは通常はそうしたものに止まらないのであるが)。だから何が架空であるかは、再生産の観点から捉えて始めて明らかになるのである。
 またそのあと「信用。架空資本」の「信用」が一定の制限された内容であり、それは利子生み資本の運動諸形態を考察するに必要なかぎりで考察される「信用制度、銀行制度」を意味している等々と述べられている内容は、その限りではまったく異論のないところである。それでは、いよいよ本文の解読に移ろう。

《本文の段落ごとの解読》

【1】

 〈[519]|335上| II.こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察することが必要である。〉

 ここから「II」が始まっているが、しかし、マルクスはこのように、〈こんどは,銀行業者の資本〔d.banker's Capital〕がなにから成っているかをもっと詳しく考察する〉と言いながら、すぐにそれに取りかかるのではなく、次の【2】パラグラフ以降において、「 I 」の、つまりエンゲルス版では第28章に該当する部分のまとめというか、結論を書いている(だから、ここで述べている銀行業者の資本が何からなっているかの考察は、実際には、われわれのパラグラフ番号で言うと、【8】から始まっているのである)。

 ところでどうして、マルクスは、ここから銀行業者の資本が何からなっているかをもっと詳しく考察する必要があると考えたのであろうか。少しこれまでの展開を振り返って考えてみよう。
 「利子生み資本」というのは、その概念は 1)4) (それぞれの詳しい内容は、前回〔29-1〕の最初に紹介した大谷氏の考える「第5章の構成」を参照。これはエンゲルス版では第21~24章に該当する)で明らかにされているのであるが、主要には銀行があちこちから集めた貨幣を産業資本や商業資本に貸し出すものである。だから、 1)4) (第21~24章)で「利子生み資本」の概念を展開したあと、 5)から(この 5)には「信用。架空資本」なる表題が書かれている)実際の「利子生み資本」の運動の考察に取りかかるわけだが、しかしそのためには、利子生み資本が運動する場である信用制度(銀行制度)をまず必要な限りで論じておく必要があった。利子生み資本に「固有の運動」というのは、以前、第28章該当部分の学習会のレジュメの冒頭部分でも紹介したが、「貸借」、つまり「貸し出し」と「返済」である。だからその運動を論じるためには、その実際の貸借を行う銀行などの信用制度も論じなければならないわけである。ただ信用制度そのものの本格的な考察は、マルクスのプランでは『資本論』の枠を超えた、もっと後の部分(これは競争などともに、資本の「特殊」な考察として位置づけられていた)で展開されるべきものなので(だから『資本論』は資本の「一般的」な考察に限定されている)、  5)の最初のエンゲルス版の第25~27章に該当する部分では、利子生み資本の運動を論じるために必要最小限に限って信用制度について論じるとマルクスは断っている(だから第25~27章と言っても、エンゲルスが勝手に付け加えたものを除外すると、本文としてマルクスが論じている部分は、第25章の前半と第27章だけであり、分量としてはわずかであり、内容も簡単なスケッチ程度のものでしかない(もちろんスケッチ程度だからどうでもよいというのではなく、項目的に簡潔に書いているが、それだからこそ極めて重要な示唆が含まれたものである)。こうした草稿の状態も前記の大谷氏の「第5章の構成」を参照して頂ければよく理解できるであろう。
 マルクスは「 I 」と番号を打ったところから、銀行学派の批判を行うのであるが、これはどういう意義があるのであろうか。
 いわゆる通貨学派と銀行学派との論争というのは、簡単にいうと銀行券の発行を制限すべきか、その必要はないかという点を巡っての論争であった。通貨学派はリカードの貨幣数量説にもとづいて、銀行券の発行を金貨幣が持っている貨幣数量の調節作用に合うように制限する必要があると主張したのに対して、銀行学派はその必要はない、というのは銀行券(兌換)は流通の必要以上には流通に出回らないからだと主張したのである。
 信用制度が発展すると、流通に必要な貨幣(通貨)は、基本的には銀行が供給するようになる。銀行が供給するのだから、その限りでは、それは「利子生み資本」の運動なのである。しかしこのことを理解している人は、今日でもほとんどいないと言っても過言ではないほどなのだ。第28章のレジュメでも指摘しておいたが、「通貨をじゃぶじゃぶ供給せよ」とか「貨幣を潤沢に」とか「過剰流動性」だとか、いろいろと今日でも言われているが、それらはすべて直接的にはまず「利子生み資本」の問題なのである。ところが、多くの人は直接に政府によって1万円札(あるいはドル札でも同じだが)がどんどん流通に押し出されていくものであるかに錯覚している(情けないことに、同志会の代表委員である林紘義氏や田口騏一郎氏も同類であり、米国政府が印刷機を回してどんどんドルを世界中にばらまいているなどと考えている)。マルクスは銀行学派が商品市場と貨幣市場との区別が出来ずに混乱していることを現行(エンゲルス版)の第33章でも論じているが、こうした混乱はいまだに自称マルクス経済学者においても見られるのである。
 おっとっと! ついつい脱線してしまったが、本論に返ろう。
 銀行学派が銀行券は過剰発行されることはないと主張する論拠は、例え銀行券が過剰に発行されても、すでに「通貨」が流通が必要とするに十分であるなら、それらはすぐに銀行に返ってきて「資本」の貸し付けに転化するからだ、というものである。つまり彼らは、もっともらしく「通貨」と「資本」との区別をその理由にしたのである。だからマルクスとしては、銀行学派が主張する「資本」の貸し出しというのは、果たして「利子生み資本」という意味での「資本」なのか、彼らはそれを正確に概念として理解した上で、そのように主張しているのかを問題にする必要がある、あるいは「利子生み資本」の運動を科学的に論じる前に、一見すると同じようにmoneyed Capitalとしての「資本」の運動を問題にしているかに見える銀行学派のそうした主張を批判的に論じておく必要があると考えたわけである。そして批判的な検討の結果、銀行学派の言う「資本」というのはただ彼らの銀行業者的な利害に立ったものでしかない(帳簿上彼らの自己資本の持ち出しになるケースを「資本の貸し出し」と称しているだけである)ことを暴露した。だから第28章該当部分(「 I 」の部分)では、マルクスは冒頭のパラグラフで「利子生み資本」という用語を使いながら、この「II」と番号が打たれた冒頭部分、つまり【2】以降の数パラグラフで、銀行学派批判の「結論」を論じるなかで再び「利子生み資本」という用語を使っている以外には(つまり最初と最後でしか使っていない!)、第28章該当部分、つまり「 I 」の本論では、まったく「利子生み資本」という用語は使わずに、ただ銀行学派の主張する「通貨」や「資本」という用語をそのまま使って、実際は、彼らはそれらをどのような意味で使っているのかを明らかにして、彼らの主張の混乱や矛盾をつくという形で批判を展開しているわけである。
 だからこの「II」から、マルクス自身の科学的な概念を使って、問題を本格的に論じることになるわけである。通貨学派や銀行学派は、イングランド銀行や地方銀行が発行する銀行券が手形割引や担保貸し付け等々のさまざまな形で産業資本や商業資本の要請に応じて、貸し出されることを問題にしている。銀行学派はそうした銀行による貸し出しが、好況期と逼迫期とで、流通の二つの分野(「収入と流通」と「資本の流通」)で、どのように変化するかといった問題を論じ、そうしたことも「通貨」と「資本」との区別の問題として論じたわけである。そうした銀行が貸し出す銀行券を論じるためには、一般に銀行業者の資本というのはそもそもどういうものから成っているのかを明らかにしておく必要があるとマルクスは考えている。大谷氏も指摘するように、〈銀行のもとに形成され運用されているmonied capita1について,それを構成するものが利子生み資本の成立を前提にし,それによって生み出される架空な貨幣資本の諸形態であることを明らかにする〉(前記、前書き)必要があったわけである。そして実際に、銀行から貸し出される貨幣資本(moneyed Capital)が産業循環の局面によってどのように変化するかというような問題はエンゲルス版第30~32章該当部分において(「III」と番号が打たれたところで)問題にされるわけである。そういうわけで、銀行学派批判が終わったあとで、そうした銀行から貸し出される利子生み資本の運動を論じる前に、まずは銀行業者の資本そのものを問題にしなければならないというわけである。

 ところで今述べたように、 【2】以下の数パラグラフは、実際には、第28章該当部分(「 I 」と番号が打たれた部分)と関連したものなのである。ではそれらはどのように関連しているのか、それを少し論じておこう。
 まずこの【2】【7】は大きくは二つに分かれる。 【2】【4】の部分とそれ以降の部分( 【5】【7】 )である。 【2】【4】の部分は、銀行学派批判の結論である。それに対して、 【5】【7】の部分は、銀行学派批判への補足である。マルクスは【5】の最初に〈 I )については,さらに次のような疑問も起こるであろう〉と書き出している。これを見ても、それ以前の部分(つまり【2】【4】の部分)が「 I 」について論じているとの意識がマルクス自身にもあったことが分かる。つまり本来は【4】で、マルクスとしては銀行学派批判(つまり「 I 」の課題)は終わったわけである。しかし「 I 」について、まだ言うべきことがあるとして、付け加えているのが、この【5】【7】の部分なのである。しかも、大谷氏によれば、「この3パラグラフの左側には、インクで上下をやや右に折り曲げた縦線が引かれて、この3パラグラフがひとまとまりのものであることを明示している」(第28章、『経済志林』61巻3号272頁)らしい(しかしなぜかMEGA第II部第4巻第2分冊ではこの縦線が表記されていないのだが)。つまりマルクスとしては、この三つのパラグラフは「 I 」の適当なところに挟み込む予定で書かれたと思われるのである。この点については、以前、書いた第28章該当部分の学習会のレジュメのなかで、それが第28章該当部分の【44】パラグラフの後に挿入されるのが適当であることも述べておいた(ところがエンゲルスも大谷氏も第28章該当部分の最後に、だから【51】パラグラフの後にそれらをくっつけている)。

 このように、これから検討する【2】【7】の各パラグラフについては、すでに第28章の学習会のレジュメのなかで一応の検討は加えてあるわけである。そしてそれらの実際の内容は、第28章で論じているものと直接結びついたものであるから、それらを検討するためには、どうしても第28章の内容に戻る必要が出てくることになる。出来たら第28章のレジュメにもう一度目を通して頂くのがもっともよいのであるが、それも面倒だろうから、出来るだけ第28章の内容を思い出しながら解説していくことにしよう。(続く)

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