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2015年9月

2015年9月29日 (火)

林理論批判(20)

 〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.11〉

報告文書〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉(林紘義)の批判的検討

§§ 第4章 「価値規定による分配」とは--“社会主義”の本当の内容と意義

●〈実に「価値」として対象化される労働(抽象的労働)と、使用価値を生産する限りでの労働(有用的労働) についての概念--相互依存的であるとともに、対立的な性格--を深いところで理解しておらず〉(43頁)

 このように林氏は、抽象的人間労働と具体的有用労働が〈相互依存的であるとともに、対立的な性格〉を持つものとどうやら理解しているようである。その後でも〈有用的労働と抽象的労働が全く違ったものであり、その対立的な本性が正しく理解されなくてはならなかった〉(43頁)などとも述べている。
 しかし労働の二面的な属性についてのこうした理解は果して正しいのであろうか。太郎や花子が人間としての共通の属性を持っていることについて、太郎や花子は人間としての自身の一般性的属性と〈相互依存的であるとともに、対立的な〉関係にあるとか、太郎や花子という個別性は人間一般という属性とは〈全く違ったものであり〉、〈対立的な本性〉を持っているなどという理解は果たして正しいのであろうか。「個別的」で「具体的な」「忠犬ハチ公」が「犬」という「一般性」をもち、「秋田犬」という「特殊性」をもっているが、「個別的・具体的属性」の「ハチ公」は「犬」という「一般的属性」とは〈相互依存的であるとともに、対立的な〉関係にあるのだなどという主張は果たして正しいか。林氏は一体何を理解しているというのであろうか。労働の二重性が価値と使用価値という対立的な商品の属性として現れるのは商品社会に固有の問題である。それは労働の二重性そのものに対立的性格があるからではなく、商品社会では、個々の労働が本質的に互いに社会的に結びついていなければならないのに、直接的にはそうなっておらず私的に独立したものとしてあるから、労働の社会的な関係が、労働生産物そのものが互いに交換されることによって、生産物そのものの物象的な属性として現れてくることによるのである。対立しているのは商品の二つの属性としての使用価値と価値とであって、そうした商品にあらわされる労働の二重性そのものではない。林氏は〈マルクスが『資本論』の冒頭の商品を生産する労働の二側面について語ったことが、その概念こそが正当に理解され、社会主義における分配の法則つまり「価値規定による分配」の法則の確認にまで貫徹されなくてはならなかった〉などと述べているが、『資本論』をしっかり理解していないのは、林氏本人ではないのか。

●〈私は以前、会議のために、いわゆる「再生産表式」の問題と関連して、資本主義的生産関係と、単純商品の生産関係をテーゼ風にまとめたことがあった。〔以下のカッコ内は、討論中で「テーゼ風文書」と呼ばれている部分です〕
「第 I 部門の労働(者)は、素材的には〔『使用価値』について見るなら〕その前提からして生産手段を再生産するが、しかし『価値』について言えば〔『価値』についてみるなら〕、4000を移転し、2000を対象化する。
 第II部門の労働(者)はその前提からして、消費手段を生産するが、しかし『価値』としては2000を移転し、1000を対象化する。
 全体として見るなら、素材的には、6000の生産手段を生産する2000の労働者と、3000の消費手段を生産する1000の労働者がいるということ、そして全消費手段は前提に基づき3000の労働者に分配されるということ、そしてその分配は『価値規定に基づいて』であり、それはまた個々の労働者にとっては、『社会に与えただけのものをそっくり取り戻す』という内容においてである、ということである。
 ロビンソンの場合や、『単純な商品生産社会』〔の場合〕と根底の原則において同じである」。〉
(43頁)

 これまた何を前提して論じているのか、明確な説明がない。われわれとしては恐らくそれはマルクスの単純再生産の表式を前提して論じていると考えることにする。もし、違うなら、それは何もいわずに書いている林氏の責任である。
 ところで、もし林氏がマルクスの単純再生産の表式を前提して、このように書いているなら、少し違うところがある。
 まず〈全体として見るなら、素材的には、6000の生産手段を生産する2000の労働者と、3000の消費手段を生産する1000の労働者がいるということ、そして全消費手段は前提に基づき3000の労働者に分配されるということ〉とあるが、これはおかしいのである。林氏は最初に〈いわゆる「再生産表式」の問題と関連して、資本主義的生産関係と、単純商品の生産関係をテーゼ風にまとめた〉と書いている。〈いわゆる「再生産表式」〉とわざわざ〈いわゆる〉を付け再生産表式をカギ括弧でくくっているところをみると、恐らくそれはマルクスの表式を指しているのであろう。だからそれは〈資本主義的生産関係〉のもとにおける表式の筈である。しかし、それなら第I部門の可変資本は1000、第II部門は500の筈である。それを今、可変資本100を労働者100人(100人の労働力の価値)を表すとするなら、第I部門1000人、第II部門500人、つまり全体では1500人の労働者が彼らの可変資本部分、つまり労働ファンド部分である1500の価値を追加し、さらに1500の剰余価値を追加するのである。
 今もし林氏のような前提だと、それは決して資本主義的生産関係ではなく、労働者3000が自身の労働ファンドに必要な労働3000を追加するということになるが、これは社会主義を前提することになる。
 ところが林氏はこれを〈ロビンソンの場合や、『単純な商品生産社会』〔の場合〕と根底の原則において同じである〉と述べている。つまり剰余労働がないということを言いたいのであろうか。しかしロビンソンの生活でも単純な商品生産社会でも、保険部分や将来の拡大のための蓄積は不可欠であり、何らかの剰余労働を必要としたのではないのか。もしそれをこの際、捨象するというなら、そのようにいうべきであろう。いずれにせよ、混乱した文章である。

●〈しかし私の原文には、この後にしめくくりとして、「同じであるが、資本主義における特殊性が確認されなくてはならない」(生産性の高い、大規模な生産手段を前提とする、高度な社会的生産においては、いくらか異なった、より複雑な形態で現われる) という、重要な文章があったのだが、「この意味は、不変資本と可変資本に分かれないということか」といった質問が出され、私は「それもあるが、それが基本的なことではない、もっと根底的なことがある」と答えた。しかしとっさのことでもあって、その内容を展開することができず、「説明できないなら削除しよう」と言うことになったのである。
 しかし、価値規定による分配が資本主義社会においては"素直に"表れないで、単純商品とは違った現れ方をすることを確認することは重要である。というのは、「価値規定による分配」の概念に到達するのが困難だったのは、その「特殊性」ゆえだったからであって、この「特殊性」の意味と内容が確認されなくてはならなかったのである。
 つまり、ロビンソンについては言うまでもないが、いわゆる「単純な商品生産社会」においては、人々は自分の労働(時間)が対象化された商品を、同じ労働の対象化された商品と容易に交換するのであって、単純な同じ労働(時間) の交換として現象するのである。
 他方、資本主義的生産の結果としての商品は、一方で「生きた労働」(現在完了の労働)の対象化された価値として、他方では資本価値つまり「過去の労働」(過去完了の労働) の移転された価値として、その和として現象し、まさにそれ故に「価値規定による分配」の認識に困難な契機をもたらすのである。〉
(44頁)

 まったくなんという無茶苦茶な主張であろうか。なぜなら、資本主義的生産とロビンソンの生活や単純な商品生産の社会との違いは、生産手段を使うか使わないかというところにあるのではないからである。確かに生産手段の物的大きさやそれに費やされる労働の大きさが、資本主義的生産では桁違いに大きく、その複雑さや質的な違いは大いにあるだろう。しかし、生産手段を使うという点では、それらは何の違いもない。
 そもそもマルクスは『資本論』第1部第5章第1節「労働過程」を〈どんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなければならない〉(全集23a233頁)として考察を開始し、労働過程の契機を〈労働過程の単純な諸契機は、合目的的な活動または労働そのものとその対象とその手段である〉(同235頁)と述べている。これは如何なる社会にも共通のものとしてマルクスは考察しているのである。だからロビンソンであろうが、林氏がいうところの〈「単純な商品生産社会」〉であろうが、労働が〈その対象とその手段〉なしに行われるなどということはありえない。確かにもっとも原始的な労働の場合(例えは原始人が狩猟をする場合)、その対象が、自然そのもの(自然に生きている動物)、またその手段も、ただ自然に転がっている石ころを使うということがないことはないかも知れない。つまりそういう場合は、そうした労働対象や労働手段は、労働の産物ではないことがありうる。しかしロビンソンの場合でも、彼は難破船から色々な道具を救出したのであって、それを使って彼の生活を行ったのであり、また野生のヤギを飼育したり、役畜として利用する場合もあるのであって、すでに一定の労働が費やされた生産手段を使って生産を行わないなどということは考えられないのである。ましてや労働生産物が商品の形態をとるような社会では何をか況んやであろう。マルクスも次のように書いている。

 〈土地は彼の根源的な食料倉庫であるが、同様にまた彼の労働手段の根源的な武器庫でもある。それは、たとえば彼が投げたりこすったり圧したり切ったりするのに使う石を供給する。土地はそれ自体一つの労働手段ではあるが、それが農業で労働手段として役だつためには、さらに一連の他の労働手段とすでに比較的高度に発達した労働力とを前提する。およそ労働過程がいくらかでも発達していれば、すでにそれは加工された労働手段を必要とする。最古の人間の洞窟のなかにも石製の道具や石製の武器が見いだされる。加工された石や木や骨や貝がらのほかに、人類史の発端では、馴らされた、つまりそれ自身すでに労働によって変えられた、飼育され動物が、労働手段として主要な役割を演じている。労働手段の使用や創造は、萌芽としてはすでにある種の動物も行なうことだとはいえ、それは人間特有の労働過程を特徴づけるものであり、それだからこそ、フランクリンも人間を“a toolmaking animal”すなわち道具を作る動物だと定義しているのである。死滅した動物種属の体制の認識にとって遺骨の構造がもっているのと同じ重要さを、死滅した経済的社会構成体の判定にとっては労働手段の遣物がもっているのである。なにがつくられるかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区別するのである。労働手段は、人間の労働力の発達の測度器であるだけではなく、労働がそのなかで行なわれる社会的諸関係の表示器でもある。労働手段そのもののうちでも、全体として生産の骨格・筋肉系統と呼ぶことのできる機械的労働手段は、ただ労働対象の容器として役だつだけでその全体をまったく一般的に生産の脈管系統と呼ぶことのできるような労働手段、たとえぽ管や槽や籠や壺などに比べて、一つの社会的生産時代のはるかにより決定的な特徴を示している。容器としての労働手段は、化学工業ではじめて重要な役割を演ずるのである。〉(同235-6頁)

 確かにマルクスも〈なにがつくられるかではなく、どのようにして、どんな労働手段でつくられるかが、いろいろな経済的時代を区別する〉と述べている。しかし労働手段や労働対象があるかないかで資本主義的生産とそれ以前とを区別するなどいう途方もないことは言っていないのである。
 それに林氏は〈「生きた労働」(現在完了の労働)の対象化された価値として、他方では資本価値つまり「過去の労働」(過去完了の労働) の移転された価値として、その和として現象し〉などと述べているが、その対象化された労働が、〈生きた労働(現在完了の労働)〉か〈過去の労働(過去完了の労働)〉かということは、それが資本価値かそうでないかを区別するわけではない。資本価値というのは、増殖を目的に投下された価値だからこそ、それは「資本」価値というのである。だから貨幣資本だけではなく、それが現物形態に転化した生産資本もやはり資本価値であり、それが商品資本に転化したものもやはり資本価値である。だから生産資本の物質的形態の一つである労働力とそれが生み出す価値(可変資本価値と剰余価値)も、またやはり資本価値なのである。つまりこれは生きた労働の成果であるが、やはり資本価値である。またその成果である商品資本には、当然、生産手段から移転された過去の労働の部分とそれに追加された生きた労働の両方を含むであろうが、それらはすべて資本価値なのである。要するに、林氏は資本価値の概念を明確に掴んでいないのである。資本価値というと何か〈過去の労働(過去完了の労〉の対象化されたものという漠然とした理解があるようであるが、そもそも労働者が生産過程で労働を対象化する過程そのものが資本の生産過程なのだから、生きた労働が対象化されたものも当然「資本価値」であるのは当然なのである。
 そしてもし例えロビンソンであろうが、〈「単純な商品生産社会」〉であろうが、すでに労働の成果である何らかの労働手段や労働対象を使って生産が行われるなら、それらに費やされた労働は、それらを使って生産する生産物の生産に必要な労働時間として計算されるという点ではまったく違いはない。例えばロビンソンは小麦を作るために、まず畑を耕さねばならないが、その畑を耕す労働時間も、種を蒔く労働時間も、また草を引き抜く抜く労働時間も、すべて小麦を生産するのに必要な労働時間として計算するであろう。小麦を刈って、脱穀するだけの労働が小麦に対象化されている労働などと考えるはずもないのないである。とするなら、この場合の耕地は生産手段ではないのか。
 〈「単純な商品生産社会」〉なら尚更である。今、ここに鍛冶屋がいるとしよう。彼は都市に住んでいてもいいし、田舎の片隅でもよい。彼は、玉鋼を鍛え、斧や鉈、刀、鍬等々を作り、それを売って生計を営んでいるとしよう。彼の生産物はその限りでは単純な商品である。しかし彼はその生産のために玉鋼をタタラを生業としている業者から購入している。タタラ製鉄を行うためには良質の砂鉄がとれ、それを精錬するための大量の薪が必要であり、それに相応しい地域でなければ出来ない。だから鍛冶屋はどうしても玉鋼だけは仕入れなければならないわけである。この場合、鍛冶屋は彼の生産物である刀や斧・鉈・鍬の価格を、彼が仕入れた玉鋼の価格に彼自身の労働の成果分を上乗せして決めるのではないだろうか。林氏は、こうした場合、鍛冶屋は自分の労働の追加分だけで価格を設定し、玉鋼の代金は何処かに消えたのだとでもいうのであろうか。実に馬鹿げた主張ではないか。
 どうして林氏は、こうした荒唐無稽な主張を行っているのであろうか。資本主義以前の社会では、生産過程で費やされた生産手段は考慮に入れる必要がない、それを考慮に入れる必要があることこそ、資本主義的生産の特殊性である、それが〈もっと根底的なこと〉なのだ、などという“深遠で”粗雑な理論を、どうして林氏はでっち上げる必要があったのであろうか。それは次のような事情である。
 林氏が“資本主義特殊説”に拘っているには訳があるのである。というのは、こうした生産手段の価値が生産物に移転され保持されるという事情が資本主義に特殊なものであって、それ以前の〈「単純な商品生産社会」〉やロビンソンの生活では考えられないとするなら、将来の社会主義では、当然、こうした資本主義の特殊性は克服されるのだから、生産手段に支出された労働が新たな生産物に対象化された労働の一部分をなすなどという面倒なことを考える必要がなくなるではないか、だから社会主義における「価値規定による分配」を何とか考えなければならない林氏としては、その方が都合がよいわけである。つまり林氏は、まったく自分の都合のために、すなわち将来の社会主義では問題は簡単明瞭なのだと説明したいがために、理論を勝手にねじ曲げているわけである。自分の都合のために理論を勝手にでっち上げるとは、何という人であろうか。天動説や地動説まで持ち出すに至っては、ただ呆れるだけで何もいうべき言葉もない。

●〈第一巻の剰余価値の生産過程にせよ、第二巻の資本の流通過程にせよ、その「主語」は労働者でなくて「資本」である、つまり資本の運動であり、資本の"論理" がそこに貫かれているのである。そしてマルクスはまず、現実に現れるがままの資本の運動として剰余価値の生産やその流通を語っているのである。資本の運動というのは、「資本価値」という人間労働の疎外化された、つまり物象化された社会的実体の運動であって、すでにただそれだけでも人間社会の「再生産」とは別であり、労働者が「主語」で語られる共同体社会とは本質的に区別され、違った契機と内容を持つのである。〉(44頁)

 〈第一巻の剰余価値の生産過程にせよ、第二巻の資本の流通過程にせよ、その「主語」は労働者でなくて「資本」である、つまり資本の運動であり、資本の"論理" がそこに貫かれている〉だって! こんな当たり前のことを言って何か立派なことを言ったつもりなのであろうか。〈そしてマルクスはまず、現実に現れるがままの資本の運動として剰余価値の生産やその流通を語っている〉? 〈現実に現れるがまま〉とはどういうことか。直接的な表象として語っているということか、それならとんでもないことである。マルクスは『資本論』の序文で次のように述べている。

 〈物理学者は、自然過程を観察するにさいしては、それが最も内容の充実した形態で、しかも撹乱的な影響によって不純にされることが最も少ない状態で観察するか、または、もし可能ならば、過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで実験を行なう。この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。その典型的な場所は、今日までのところでは、イギリスである。これこそは、イギリスが私の理論的展開の主要な例解として役だつことの理由なのである。〉(全集23a8-9頁)

 だからマルクスは「主語は何か」などという主観的な問題意識から出発しているのではない。資本主義的生産様式の現実を科学的に分析して、その内在的な諸法則を解明しようとしているのである。もしマルクスの立脚点を問うなら、それは当然、「資本」などではなく、労働者階級であることはいうまでもないだろう。マルクスは当時のイギリスを典型として分析の対象にしているが、しかしそれは〈現実に現れるがまま〉に対象を叙述するためではなく、反対に〈過程の純粋な進行を保証する諸条件のもとで〉対象を観察し、分析するためである。
 〈資本の運動というのは、……人間労働の疎外化された、つまり物象化された社会的実体の運動〉だというのは、その通りだが、しかしそれが〈すでにただそれだけでも人間社会の「再生産」とは別〉とは言えない。なぜなら、それも人間社会の物質代謝が行われている歴史的な形態だからである。だからそこにも〈人間社会の「再生産」〉を貫く法則が、資本主義的な諸形態をまとって貫いているのだからてある。だからそうしたものを〈労働者が「主語」で語られる共同体社会とは本質的に区別され、違った契機と内容を持つ〉というのは、言い過ぎであろう。資本主義と社会主義とが区別されるのは当然だが、しかし人間社会の歴史的な発展の諸段階としての共通性もあるからである。

●〈もちろん、「価値の法則」もまた人間社会の法則である以上、そこには社会一般の法則を根底に有している。そしてそのことはまた、人間労働が解放された社会主義の生産も、その分配が「価値規定」によって行われるということを規定する、しかしそこでは、労働の疎外態--社会的労働が生産物の「価値」という"物的な"形態で表現されざるを得ないといった--は止揚されているのであって、だからこそ労働は価値の形態を脱却し、労働そのものとして、その労働の長さ(量) は労働時間そのものとして現われるのである。〉(44-5頁)

 この文章はある意味では矛盾した文章である。林氏はいう〈人間労働が解放された社会主義〉では〈労働の疎外態--社会的労働が生産物の「価値」という"物的な"形態で表現されざるを得ないといった--は止揚されているのであって、だからこそ労働は価値の形態を脱却し、労働そのものとして、その労働の長さ(量) は労働時間そのものとして現われる〉という。つまり労働生産物は価値という物象的な属性を持つことはないとおっしゃる。ところが、その社会でもはやり〈分配が「価値規定」によって行われる〉と主張するのである。しかし生産物が「価値」という物象的形態を取らない、つまり「価値」はすでに無いのに、どうして「価値の規定」が問題になるのか。「価値」があるからこそ、その「規定」が問題になるのではないのか。「価値」が無いのなら、そもそもその「規定」も必要ないのである。だから将来の社会では人々は彼らの労働時間に直接もとづいて生産を行い、分配も行うであろうというべきではないのか。
 それに林氏はどうして社会主義では〈労働は価値の形態を脱却し、労働そのものとして、その労働の長さ(量) は労働時間そのものとして現われる〉のか、その理由を説明していていない。だから〈人間労働が解放された社会主義の生産〉といはいうものの、その内容が空っぽである。労働が直接社会化されること、生産が直接、社会化された人間によって担われること、だからこそ労働が疎外形態を取らず、生産も直接総労働を意識的に必要に応じて諸分野に配分することが可能となり、生産が合理的・計画的に組織されるからこそ、その成果の分配も直接労働時間にもとづいて行うことが可能になるのではないのか。その肝心のことが林氏には抜けているのである。林氏が何故、社会主義における生産を避けているのかについては、その理由を以前に指摘した。林氏の本音は、高度に分業が発達した社会では、それが不可能だと思っているからに他ならない。面倒なことは避ける、これが林氏の理論的“処世術”である。

●〈資本にとっては、剰余価値の生産過程こそがその命であり、その存在と運動の根底である。そして資本はこのことを、労働者を資本つまり生産手段と結合することによって行うのであって、ここで主人なのは資本(機械等々の生産手段) であって、労働者ではない。つまり綿糸を生産する資本家は労働者を紡錐と綿花と結び付けることによって、そして資本のもとで強制労働に服させることによって、剰余労働を搾取するのである。資本は自らの価値を保持しながら、しかも労働を搾取することで「自己増殖する」のであり、することができるのである。これが資本による労働の搾取ということの概念であり、そこではいわゆる「価値移転論」と言われる"論理"が意味を有するのである。資本にとっては、生産手段はすでに自分の手元にある資本の物質的な契機として存在しており、またそれが「過去の労働」であることは自明である、そして資本家はこれを「生きた労働」と結合することによってのみ、「生きた労働」を搾取するのであり、することができるのである。つまり剰余価値の生産の論理は徹頭徹尾、資本の「論理」によって貫かれているが、それはまた現実の資本(自己増殖する価値としての資本) の運動そのものの反映である。〉(45頁)

 この一見もっともらしい説明には、しかし、古典派経済学的な誤った観念が潜んでいる。林氏はどうやら「資本」=「生産手段」=「過去の労働」という観念があるようである。しかし「資本」を「蓄積された労働」(過去の労働)として説明したのは古典派経済学者たちなのである。

 〈経済学者たちは過去の労働を資本と同一視する〉(『学説史』全集26巻III360頁)〈リカードにとっては資本はただ「蓄積された労働」として「直接的労働」と区別されるにすぎない。そして、資本は単にある物的なもの、労働過程における単なる要素にすぎない〉等々(『学説史』全集26巻II539-40頁)

 古典派経済学が資本をこうしたものとしてしか捉えられなかったのは、〈経済学者たちは資本を関係として把握しない。彼らがそうすることができないのは、同時に資本を歴史的に一時的な、相対的な、絶対的ではない生産形態として把握しないからである。〉(『学説史』26巻III358頁)。果たして林氏は古典派経済学的な迷妄に陥っていなければ幸いである。

●〈しかし社会主義においては、生産手段はすでに資本ではなく、単なる生産手段つまり機械等々であって、人間が自らのために消費手段を生産するのを助けるのであり、ただそのためにのみ存在するのである。そしてそれ自体は人々の消費に入り込むことは決してないのである。〉(45頁)

 確かにこれは真理である。しかし陳腐な真理である。生産手段が人々の個人的消費に〈入り込むことは決してない〉などということをどうしてわざわざいう必要があるのであろうか。

●『海つばめ』1163号の例について

 今回は、林氏の文章を引用すると長くなるので面倒を避けるために、引用は省略する。われわれが検討するのは45頁下第3パラグラフから46頁下後ろ第3パラグラフまでの部分で問題にされているものである。
 ここでは30人でコメ30トンを作っていた「一つの共同体」が、10人ずつで分業して生産手段(機械と肥料)を作って生産力を上げれば、同じ時間で使用価値量が増えて、一人当たりの使用価値量も3倍になるというような例が上げられている。この例で何を言いたいのかいま一つよく分からないが、とりあえず、疑問点を箇条書きして指摘しておこう。

(1) まず、〈以前には30人の人々が30トンのコメを生産していたが、今は10人が農業機械、10人が肥料の生産、残りの10人がコメ作り(農業)に励むことによって、300トンのコメを生産できるようになったとしよう〉としているが、そもそも30人の人が30トンのコメを生産していた以前の生産においても、やはり生産手段はあったのではないのか。どうしてその段階での生産手段は問わないのであろうか。

(2) そしてだからもし「一つの共同体」がコメだけを作っているとするなら、そのための機械や肥料の生産もコメの生産の一過程ではないのか。それは耕地の耕運や水路の整備、種籾の散布、雑草の除去、収穫のための稲刈り、脱穀等々と同じコメの生産過程の一過程に過ぎないであろう。何をもってコメを直接生産する労働とするのか、耕地の耕作はどちらに入るのか、それも生産手段である土地に対する労働の支出であって、それ自体は、直接にはコメ生産には関係しないと言えないか、等々。

(3) コメに支出された労働は、生産手段である機械や肥料に支出された労働と、コメを直接生産する労働との合計としているが、しかしコメの生産に生産手段の存在を前提するなら、機械や肥料の生産にも生産手段を前提しなければ一貫しないのではないか。どうして、機械や肥料は生産手段なしに生産されると仮定できるのか。30人が10人ずつに分けて、それぞれが同じだけの労働を支出したと前提するなら、機械や肥料に支出された労働も、すべて生きた労働として考えているということであり、機械や肥料の生産には生産手段はないとすることと同じである。コメの生産だけには生産手段(機械や肥料)が存在すると前提していることにならないか。

(4) 要するに、この例は、ただ単に生産力が上がれば、同じ時間に多くの使用価値量が生産されるという当たり前のことを述べているに過ぎず、そして生産力が上がるということは、有機的構成(あるいはその基礎にある技術的構成)の高度化が背景にあるということを言っているだけのことである。それをあまり適切とは言えない例を上げて論じているだけの話である(なぜなら、コメを一人当たり1トンも10トンも消費する人間はいない、そもそも共同体が自由にできる総労働を計画的に配分するなら、必要とする使用価値量を考慮した上で生産を行うのであり、だから生産力が上がれば、使用価値量が増えるというのではなく、むしろ一人が支出しなければならない労働量が減って自由時間が増大するとすべきであろう)。

●〈複数の消費手段の「分配」(したがってまたその交換)〉の例について

 これも抜粋すると長くなるのて、煩雑を避けるために引用は省略しよう。われわれが検討するのは、46頁下後ろ第2パラグラフから47頁下後ろ第2パラグラフまでである。やはり問題点を箇条書きしてみる。

(1) これは以前にも一度指摘したことがあるが、林氏は基本的な概念が曖昧である。〈自動車の技術的な有機的構成は生産手段4 (これに対象化されている労働)、消費手段2 (同) であるとしよう〉などと書いているが、そもそも「技術的構成」と「有機的構成」との違いと関連がハッキリ捉えられていない。もう一度、『資本論』から引用しておこう。

 〈資本の構成は、二重の意味に解されなければならない。価値の面から見れば、それは、資本が不変資本または生産手段の価値と、可変資本または労働力の価値すなわち労賃の総額とに分かれる割合によって、規定される。生産過程で機能する素材の面から見れば、それぞれの資本は生産手段と生きている労働力とに分かれる。この構成は、一方における充用される生産手段の量と、他方におけるその充用のために必要な労働量との割合によって、規定される。私は第一の構成を資本の価値構成と呼び、第二の構成を資本の技術的構成と呼ぶことにする。二つの構成のあいだには密接な相互関係がある。この関係を表わすために、私は資本の価値構成を、それが資本の技術的構成によって規定されその諸変化を反映するかぎりで、資本の有機的構成と呼ぶことにする。簡単に資本の構成と言う場合には、いつでも資本の有機的構成を意味するものと考えられるべきである。〉(全集23b799頁)

 もちろん、林氏が言っているのは林氏独自の概念であって、マルクスがどう言おうがそんなことは知ったことではない、というのであれば、それはそれで結構である。しかし、少なくともマルクスに依拠して問題を論じようとするなら、やはり概念をしっかり理解した上で論じるべきではないだろうか。林氏が独自に考える〈技術的な有機的構成〉というものは、〈生産手段〉と〈消費手段〉との割合のようである。しかもそれぞれに〈これに対象化されている労働〉なる説明があるらしいから、どうやらそれらの「価値」、あるいは林氏得意の「価値規定」が問題のようである。とするなら、それはマルクスのいうところの有機的構成かというとそうとも言えない。なぜなら、マルクスの場合、有機的構成とは、価値構成のことであるが、それは不変資本(生産手段の価値)と可変資本(労働力の価値すなわち労賃の総額)との割合のことである。林氏は「労働力の価値」の代わりに「消費手段」の価値を持って来ているつもりなのであろうか。しがし今問題になっているのは生産過程の問題ではないのか。消費手段は、少なくとも生産過程では問題にならないのである。いずれにせよ、林氏の〈技術的な有機的構成〉なるものは、どうやら価値構成を問うもののようだが、しかしそれならそれは有機的構成と言えるが、しかしそうすると〈技術的な〉というのは一体何を言いたいのであろうか。あるは「技術的構成に規定された」というような意味でこのように述べているのなら、そもそも有機的構成というのは技術的構成に規定された価値構成のことだということをハッキリ理解していないことを暴露している。いずれにせよ、概念が曖昧だから、その議論もチンプンカンプンでハッキリしないのである。

(2) 〈価値では、自動車1台とコメ1トンが交換され得るが、消費手段に対象化されている労働によって交換されるなら、例えば、コメ1トンに対して自動車2台ということになって大きな違いが生じることになるだろう。これは個々の消費手段を生産するために、総労働のうち、生産手段に支出される労働が--したがってまた消費手段のために支出される労働が--みな違うからであって、資本の生産過程では個々の商品の利潤率の違いとして現象したものと同様である(もちろん、両者が同一である、ということではない。相互に反映し合うということにすぎない)。

 一体、何を言いたいのか皆目分からない。今、林氏のいうものを表式で表してみよう。

自動車  4c+2v =6(1台)
コメ      2c+4v =6(1トン)

 もちろん、これは、林氏がいうところの〈消費手段〉を可変資本(労働力の価値)と仮定した場合の話である。…………(中断)…………

                               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (以上で、私の『プロメ』55・56号の批判作業は中断している。これは最初にもお断りしたように、支部のこの『プロメ』の学習会が途中で頓挫したことによる。支部の仲間には、第3章の批判までをレジュメとして提出したと思うが、実際の支部の学習会そのものは、第2章の検討にまで入ったのかどうかもハッキリしないほど記憶はあいまいである。
 なお次回は、この『プロメ』の批判のなかでも時々出てきた、「第11回大会の報告」の批判的検討を紹介することにしよう。)

2015年9月24日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-25)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

【41】 (このパラグラフも、基本的には先の【40】と同じ主旨から、銀行券の発行が伴わない場合として帳簿信用による貸付が取り上げられている。そしてこの場合も、やはり銀行学派的な意味での「資本の貸付」になることも指摘されている)

 〈これまで前提されていたことは,前貸は銀行券でなされ,したがって銀行券発行の増加を,どんなに瞬過的なものであるとしても,少なくとも一時的には,伴うということである。しかし,このことは必要ではない。銀行は,紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。つまりこの場合には,同行の債務者が同行の仮想の預金者になるのである。彼は日銀行あての小切手で支払い,小切手を受け取った人はそれで取引銀行業者に支払い,この銀行業者はそれを自分あての銀行小切手と交換する(手形交換所)。このような場合には銀行券の介入はぜんぜん〔生じ〕ないのであって,全取引は,銀行にとっては自分が応じなければならない請求権が自分自身の小切手で決済されて,銀行が受ける現実の補償はAにたいする信用請求権にあるということに限られる。この場合には,銀行はAに自分の銀行業資本--なぜなら自分自身の債権(14)なのだから--の一部分を前貸ししたのである。

 ① 〔注解〕手形交換所 (Clearing-House)については,〔MEGA,II/4.2,〕470ページ41-42行への注解を見よ。〔この注解は次のとおりである。--「ロンドンのロンバード通りにある手形交換所は1775年に設立された。これに属していたのはイングランド銀行とロンドンの最大級の銀行商会であった。これの課題は,相互的な請求権を手形,小切手その他から差引決済することであった。」
…………
 (14) 「自分自身の債権〔ihre eignen Schuldforderungen〕--「債権〔Schuldforderungen〕」は「債務〔Schulden〕」の誤記ではないかと思われる
(大谷訳261-262頁)

 ここでは帳簿信用について述べているが、やはり銀行学派批判の一環であることに注意が必要である。以下、分かりやすくするために二つの銀行と二人の取引業者を想定して、それぞれの銀行をab、取引業者をABとして、平易に書き直してみよう。

 〈これまで前提されていたことは、前貸は銀行券でなされ、したがって銀行券発行の増加を、どんなに瞬過的なものであるとしても、少なくとも一時的には伴うということである。しかし、銀行券が必ず発行されなければならないというわけではない。なぜなら、銀行は、紙券のかわりに帳簿信用を与えることも出来るからである。
 つまり銀行(今それを仮にaとしよう)は債務者(A)の当座預金の口座に貸付額の預金額を設定するのだが、この場合には、同行の債務者Aは同行の仮想の預金者になるのである(もちろん、この場合もAは銀行に自分が持参した手形を割り引いてもらったか、あるいは有価証券を担保に貸付を受けたか、それとも無担保による手形貸付を受けたかも知れないのだが、いずれにしてもAはその貸付を銀行券によってではなく、帳簿信用で受けるのである)。そしてAはその自分の預金にあてて小切手を振り出してBに支払うことになる。そして小切手を受け取ったBはそれを彼の取引銀行業者(仮にbとする)に預金するかあるいは支払いを行い、この銀行業者bはそれをAの取引銀行aが保有する自分宛の同額の銀行小切手と手形交換所で交換する場合である(これでabの二つの銀行の支払義務は相殺されることになる)。
 このような場合には銀行券の介入はぜんぜん生じないのであって、全取引は、銀行aにとっては自分が応じなければならない請求権(つまりAが振り出したa宛の小切手)が自分自身の小切手(aが保有する同額のb宛の小切手)で決済されて、銀行aが受ける現実の保証はAに対する信用請求権にあるということに限られる(銀行aのAに対する貸付だけが残っている)。
 この場合には、元帳上の立場からいうと、銀行aはAに自分自身の銀行業資本--なぜならaが、Aが自行宛に振り出した小切手を相殺するために手形交換所に持ち出したb宛の小切手は、aにとっては自分自身が保有する債権なのだから--の一部分を前貸したことになるのである。
 だからこの場合も、銀行学派がいうような意味での「資本の前貸」にはなるのである。〉


《「債権」は「債務」の誤記か?
--という問題について--以下の部分も興味のない人は飛ばして読んで貰いたい

 大谷氏はこのパラグラフの最後の部分に上記のように、注14)を付けて次のように書いている。

 〈「自分自身の債権」--「債権」は「債務」の誤記ではないかと思われる。〉

 しかしこの注釈は、大谷氏に学生時代師事し今も親交があるT氏によれば、「これについては大谷氏自身が『誤記ではないか、という判断は適切ではなかった』と現在は考えているようです」と訂正されているという(もっとも「誤記ではないか」という判断はもっと慎重にすべきであったというだけで、「誤記ではないか」という疑問そのものを捨てたわけではないともT氏は補足している)。
 ところでこの部分の大谷氏の誤り(私はあえて「誤り」と断言するのだが)を、先に一部紹介した論争のなかで指摘したのはN氏であった。とするとN氏の指摘は正しいことになるのかというと必ずしもそうではないのである。確かに大谷氏が「誤記ではないか」と注記したことは正しくないとのN氏の指摘は、その限りでは「正しい」ものである。しかしN氏が、「誤記ではない」理由として展開している主張はまったく間違ったものなのである。だから「誤記ではない」という指摘そのものは正しいが、しかしその理由が正しくないということを明らかにしておく必要があると私は考える。なぜなら、このままだと、N氏の大谷氏に対する批判が、「正しい」ものであったかに誤解されてしまう恐れがあるからである。しかしN氏の大谷批判はまったく間違ったものであり、それを正しいものと理解するととんでもないことになるのである。
 そもそもN氏の誤りは単にその大谷批判の部分だけではなく、その前提となっている帳簿信用に対する彼の理解にも誤りがある(もっとも「誤り」を言い出すと、この問題を論じている同氏の論文はそれ以外にも多くの誤りを含んでおり、これに尽きるものではない。しかしそれらをすべて指摘するのはこのレジュメの主旨を逸脱することになるであろう)。
 N氏は帳簿信用について混乱した主張を展開している。混乱はさまざまであるが、まず彼は帳簿信用でも手形貸付に拘っている。しかし帳簿信用というのは、N氏がいうようにただ貸し付ける相手の口座に貸し付ける金額を記入するだけであり、それを借り受けた業者がその預金を目当てに小切手で支払うということである。この場合の帳簿信用が手形貸付に限定される必要は全くないであろう。手形割引でも割り引いて貸し付ける現金(金またはイングランド銀行券)の代わりに預金口座にその金額を書き込むだけであり、同じことは有価証券担保貸付でも同じである。だから帳簿信用を手形貸付に限定して理解することも馬鹿げたことである。
 次に彼は帳簿信用を次のように説明している。

 〈「帳簿信用を与える」とは、銀行がAに貸し付けた貨幣額を銀行券で渡すのではなく、Aが同行に当座預金口座を持っている場合は数字をそこに記入するだけですが、持っていない場合は、貸付金で当座預金口座を半強制的に同行に開設させるということです。これによって、銀行は貸付を行い、手形=有価証券も所有し、その上、預金は二倍になるという一石三丁の方法で、元手は他人から借りた預金だけなのです〉(『海つばめ』917号)

 このようにN氏は帳簿信用には「元手」が必要だと考えており、他人から借りた預金をそれに当てると考えている。しかしこれは馬鹿げたことである。それならなぜ帳簿「信用」なのかと言いたい。それは元手を必要としないから「信用」なのである。この場合、銀行には、何ら元手はいらない。その意味ではそれは銀行券の発行と同じである。銀行券の場合はまだ紙と印刷費が必要だが、帳簿信用の場合はただ帳簿に数字を記入するだけである。だからN氏は〈預金が二倍になる〉なるといったトンチンカンなことをいうのであり、「一石三鳥」などとピント外れなことをいうことになっている。確かに銀行は無から有を生み出している。N氏の考えている通り、Aが手形貸付を受けるとしよう。そうすると銀行は借用証に過ぎない手形の代わりにAの口座に返済期日までの利子を差し引いた金額を書き込む。そのためには銀行は何も必要としない(だから無から有が生み出された)。そしてAは自らの預金口座に当てて小切手を切り、支払いを済ませる。しかし預金が二倍になどはならないのである。Aの預金口座に貸付額が書き込まれるという限りで預金が増える。しかしそれはすぐにAによって小切手によって支払われ、口座から引き落とされるのである。ただそのAが降り出した小切手が第三者によって再び銀行に預金された時に、銀行はその分だけ預金を増やしたことになるだけである。もちろん、銀行にはAが降り出した手形が残っている。それはAによって満期になった時点で支払われねばならないのだから、それは銀行の債権である。しかしその債権はAの口座に同等額の金額を書き込んだ債務と対のものでしかないのだ。
 またN氏が次のようにいうのもまったく間違っている。

 〈だから、同行の債務者たるAがこの場合は貸付がなされた時点で預金者となっているのですから、銀行券が預金として還流する場合が銀行券の流通なしで瞬時に達成されるのです〉

 しかしN氏はAの預金が、これからAによって第三者(B)に支払われるという認識がない。そもそもAが銀行から貸付を受けたのは、A自身が降り出した手形の支払が迫っていたからである。銀行券で貸し付けられた場合、彼はその銀行券で彼の満期手形の支払をやったであろう。そしてその支払いを受けたBがそれを銀行に預金した。だからAに対する貸付は銀行にとっては借入資本(Bの預金)による貸付と認識された。
 しかし今回はどうか、それを今回は銀行はAに銀行券を貸し付ける代わりに、Aの当座預金口座に同額(但し利子分を差し引いた)の金額を書き込んだのである。だからAは同じように、今度は銀行券ではなく、その当座預金に宛てて小切手を振り出し、それで満期が来た自分の手形の支払をやるのである。だからこの場合のAの預金はすぐに引き出される(少なくとも次の交換日にはAの振り出した小切手は銀行に還流してきて、Aの口座からその金額が差し引かれるのである。つまり預金は消失するわけだ)。だから決して、N氏が考えているようなものが瞬時に生じるなどということはない。ただAから小切手で支払を受けたBがそれを同じ銀行に預金した場合に、はじめて「同じこと」が、つまりBの預金(銀行にとっては借入資本)によってAに貸し付けたことになるのである(だからそれは銀行業者にとっては「資本の貸付」と認識される)。

 さて問題は肝心のN氏の大谷批判である。
 大谷氏はマルクスが「債権」といったところを「債務」の誤記と解釈したが、しかしすでに平易に書き下した先の文章でも明らかにしたように、これはやはり「債権」でよいのである。この場合、マルクスがなぜ「債権」といっているのかが問題だが、しかしN氏の解釈のような意味では決していない。N氏は次のようにそれを説明している。

 〈この「債権」とは、手形貸付の際に、Aから銀行に振り出される手形のことで、だから銀行にとってそれは「債権」なのです〉

 このようにN氏は相変わらず「手形貸付」に拘っているが、それについてはすでに批判しておいたので、この場合は取り合わないでおこう。
 さて、マルクスの文書をよく読めば、N氏のような解釈が成り立つ筈もないことが分かる。マルクスは次のようにいっているのである。

 〈全取引は、銀行にとっては自分が応じなければならない請求権が自分自身の小切手で決済されて、銀行が受ける現実の補償はAにたいする信用請求権にあるということに限られる。この場合には、銀行はAに自分の銀行資本―-なぜなら自分自身の債権なのだから――の一部分を前貸ししたのである〉

 つまりこの場合、Aの振り出した小切手は、それで支払を受けたBによって別の銀行(今bとしよう)に渡っているのであり、だからAに帳簿信用で貸し出した銀行(今aとしよう)は、その小切手を交換所で、交換する必要があるのである。しかしそのためにはaはb宛の小切手を持っていなければならない。それはaにとってはbに対する貨幣請求権であり、だからaの「債権」なのである。つまりaはAが振り出した小切手を決済するために、自分の債権であるb宛の小切手を持ち出したのであり、だから彼にとってはAに対する帳簿信用による貸し付けは自分自身の債権(b宛の小切手)で行ったのと同じになるのである。
 もしN氏のような解釈だと、銀行は手形貸付で入手した手形で貸し付けたといった馬鹿げたことになってしまう。こんな同義反復のようなことが成り立つはずはない。もしAが手形を銀行に持ち込み、その手形を銀行がAに貸し付けたのなら、Aは一体何のために手形を持ち込んだのかわけがわからなくなる。もしその手形でAが支払いをできるのなら、わざわざ銀行に持ち込む必要がないからである。こんな馬鹿げた解釈をもってまわって大谷氏を批判できるなどと考えるのは思い上がりも甚だしいと言わねばならない。


【42】
 (これまで銀行業者的な意味での「資本の貸付」になるケースを検討してきたが、このパラグラフではマルクスはこうした「銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本」が、如何に一面的なものであり、現実を正しく反映したものでないかを指摘しようとしているように思える)

 〈このような,貨幣融通を求める圧迫が資本にたいする圧迫であるというかぎりでは,それが《そのようなもの》であるのは,ただ,銀行業資本,つまり銀行業者の立場から見ての資本にとって,すなわち,金(地金の流出の場合 ),イングランド銀行券(国立銀行の銀行券)--これは私営銀行業者にとっては,ただなんらかの等価物で買われるだけのものであり,したがって彼らの資本を表わしている--にとって,最後に,金や銀行券を手に入れるために売りとばされなければならない公的[517]有価証券(国債証券やその他の利子付証券)にとってでしかない,(しかしこれらの有価証券は,それが国債証券であれば,それを買った人に||334上|とってだけ資本なのであって,この人にとっては,彼の購入価格を表わし,彼がそれに投下した資本を表わしている。それ自体としては,それは資本ではなく,ただの債権である。もしそれが土地抵当証券であれば,それは将来の地代にたいするたんなる指図書であり,またもしその他の株式であれば,将来の剰余価値の受領を権利づけるたんなる所有証書である。すべてこれらのものは,資本ではなく,生産的資本のどんな構成部分をもなしてはいないのであって,じっさいそれ自体としてはどんな価値でもない。)最後に,そのような取引によって,銀行のものである貨幣等々が預金に転化し,その結果,銀行はその貨幣の所有者から債務者になり,別の占有権限のもとにそれを保有するということもありうる。銀行自身にとってはこのことがいかに重要であるにせよ,それは国内に現存する資本の総量を,また貨幣資本の総量をさえも,いささかも変えるものではない。つまりこの場合,資本はただ貨幣資本として現われるだけであり,また,貨幣を除けば,たんなる資本権限として現われるのである。これは非常に重要なことである。というのは,銀行業資本へのそのような圧迫やそれにたいする需要と比べてのそれの相対的な欠乏が,実物資本〔real capital〕の減少と混同されるからであって,実物資本はこのような場合には,市場を供給過剰にしているのである27)。(大谷訳263-264頁)

 この部分はやや難解なところがあるので、かなり補足して、書き下しておこう。それ以上に付け加えるものはない。

 〈これまで見てきたように、このようなフラートンらが言うような貨幣融通を求める圧迫が資本にたいする圧迫であるというのは、つまりそれらが彼らの言う意味での「貸付資本にたいする需要」だと言い得るのは、それはただ、銀行業資本、つまり銀行業者の立場から見ての資本という意味においてであるに過ぎない。つまりそれらが資本であるのは、金(地金の流出の場合)やイングランド銀行券(国立銀行の銀行券)--これは私営銀行業者にとっては、ただなんらかの等価物で買われるだけのものであり、したがって彼らの資本を表している--、そして最後に、金やイングランド銀行券を手に入れるために売り飛ばされなければならない公的有価証券(国債証券やその他の利子付証券)が銀行業者にとって、費用のかかっている自分の資本だからであり、紙と印刷費以外になんの費用もかからない単なる信用(銀行券)によるものではないという意味で「資本」と言っているだけなのである。
 (しかし、これらの有価証券は、それが国債証券であれば、それを買った人にとってだけ資本なのであって、この人にとっては、それは彼の購入価格を表わし、彼がそれに投下した資本を表わしている〔彼は彼の貨幣を利子の取得を目的に国債証券に投資したのである。だからそれは彼にとっては「利子生み資本」なのである〕。しかし国債証券はそれ自体としては、資本ではなく、ただの債権、つまり貨幣請求権を表わすだけであり、その所有者は将来の税金収入から一定の利子を付けて額面の貨幣額を請求できるという権利を表わしているだけである。もしそれが土地抵当証券であれば、それは単に将来の地代からその一部を支払うよう指図する権利を示す証書であり、またもしその他の株式であれば、将来の剰余価値の一部を受領する権利を示した単なる所有証書である。すべてこれらのものは資本ではなく、生産的資本のどんな構成部分をもなしてはいないのであって〔だからそれらに投資される「利子生み資本」は再生産の外部にある関係を示すだけである〕、じっさいそれ自体としてはどんな価値でもない〔そして事実、恐慌時には、こうした膨大な額面金額にのぼる単なる貨幣請求権は真っ先にただの紙屑になるのであるが、しかしそれによっては一国の冨はまったく減ずることはないのである〕。それらはただ、それらに自らの貨幣を「利子生み資本」として投資した(証券市場で購入した)人にとってだけ「資本」なのである。)
 そして最後に、そうした取引によって、銀行のものである貨幣等々が預金に転化し〔つまり銀行が貸し付けた貨幣等々が、その借り受けた業者から、別の業者に支払われ、その別の業者が銀行に預金した場合がその考えられる一例である〕、その結果、銀行はその貨幣の所有者から債務者になり、別の占有権原のもとにそれを保有するということもありうる〔つまり銀行が貨幣を貸し付けたAがそれをBに支払い、そのBが同じ貨幣を銀行に預金した場合、その貨幣はBの占有権原のもとに銀行が保有することになるわけである〕。銀行自身にとってはこのことがいかに重要であるにせよ、それは国内に現存する資本の総量を、また貨幣資本の総量をさえも、いささかも変えるものではない。〔というのは銀行が貸し出す貨幣等々は、すべて銀行から「利子生み資本」として貸し出されるのであり、だからそれらはあくまでも再生産過程の外部の関係なのである。だからそれらは再生産過程の内部の資本である現存する資本の総量、またその一部である貨幣資本--この貨幣資本はもちろんGeltcapitalである--の総量さえも、いささかも変えるものではないのである。〕つまりこの場合、資本はただ貨幣資本として現れるだけであり〔銀行から貸し出された「利子生み資本」は、産業資本家や商業資本家にとっては、彼らがすでに観念的に投資した貨幣資本の現実形態に代わり得るものなのであり、本来は資本の循環の結果、補填されなければならない貨幣資本が補填されないために、銀行から貸し出されたものなのである。だからそれは彼らの資本の循環を締めくくる決算手段なのであり、よってその支払手段としての貨幣の機能が問われているものである〕、また、貨幣を除けば、たんなる資本権原として現れるのである。〔だからそれらは支払手段としての貨幣の機能を果たせば、流通に貨幣として留まるものを除けば、すぐに銀行に還流し、たんなる預金者の所有権原--銀行にとっては再び利子生み資本として運用できる資産--に転化するのである。〕
 これは非常に重要なことである。というのは、銀行業資本へのそのような圧迫やそれにたいする需要と比べてのそれの相対的な欠乏が、実物資本の減少と混同されるからであって、実物資本はこのような場合には、市場を供給過剰にしているのである。〔実際、実物資本、つまり商品資本が供給過剰(それは生産資本も過剰であることを示している)で売れないからこそ、つまりそれらが貨幣資本に転化しないからこそ、だから産業資本家や商業資本家は、銀行に決済手段の貸し出しを求めているのだからである。〕〉

 (続く)

2015年9月22日 (火)

林理論批判(19)

 〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.10〉

報告文書〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉(林紘義)の批判的検討

§§ 第3章 いわゆる「再生産表式」の幻想--資本の流通過程と社会主義の分配法則(続き)

●〈私は「価値規定による分配」の法則に接近するために、ここでも越村の「再生産表式」に対して、私の簡明な図表を提出する(次頁、図表4)。
 それはマルクスのいわゆる「再生産表式」を改作し、モデファイしたものだが、それはむしろ総生産過程あるいはその直接の結果の図式である。ここでも階級関係は捨象され、また価値の形態も事実上捨象されている(もちろん、価値規定は残っているが、それは価値形態を捨象することとは少しも矛盾しない、むしろ反対に、労働者たちの関係は直接に労働時間とその交換の関係として表示されている)。〉
(37-8頁)

 この一文については、すでに私はコメントを書いておいた。林氏がマルクスの表式とは違って、自分のものは〈それはむしろ総生産過程あるいはその直接の結果の図式である〉としているのは、マルクスの表式は単に「流通過程」を表示するものという自分の誤った理解にもとづいて、それに対置した形で言われていることを指摘したのであった。ただ公平を期すために、林氏の〈図表4〉も紹介しておこう。55564_2


 林氏は、この図表を〈価値規定は残っているが〉〈階級関係は捨象され、また価値の形態も事実上捨象されている〉ものと説明する。つまり社会主義における〈「価値規定による分配」の図表による説明〉というわけである。
 しかし失礼ながら、図表そのものは一つも分配を説明していない。ただ個人的消費手段として自動車を例に上げ、その価値構成を見ているだけである。それを林氏はマルクスの表式を〈改作し、モデファイした〉というのだが、しかし、それは似ても似つかぬものである。なぜなら、マルクスの場合は社会の総商品資本の再生産を表す表式になっているが、林氏の場合はそうなっていないからである。確かに林氏も全体の総生産物を四角の枠組みで示したつもりなのであろうが、しかし、実際に問題にしているのは自動車という個別の生産物に対象化されている労働時間の構成を見ているだけである。これでは再生産を示すものというより、マルクスが『資本論』第1部第5章で綿糸の価値の構成を見ていたものと基本的には同じなのである。つまり一つの個別商品の価値の構成を見ているのと同じなのである。ただそれを再生産を考察しているかに〈改作し、モデファイした〉、つまりカモフラージュしたものに過ぎないのである。

●〈越村の「再生産表式」は、第 I 部門と第II部門の相互補填は、ただ第 I 部門の2000 の生産手段が、第II部門の2000の消費手段と交換されるという形でのみ--つまり、単に「資本の流通過程」の一環という視点からのみ--示されるのであって、我々はその視点にのみとらわれると途方もない勘違いをしかねないのである。つまり、資本の総生産においては重要な意味をもって来る、価値(つまり、対象化される抽象的労働)と使用価値(これを作り出す有用的労働) の区別という、もう一つの視点を忘れてしまうのである。つまりこの点における錯誤の結果、第II部門の消費手段と、第 I 部門の生産手段との交換における、価値と使用価値の実際の、本当の内容と意味を理解できなくなるのである。
 越村の図表では、第 I 部門の2000と第II部門の2000の交換は、一見して、第 I 部門の2000の価値も使用価値も前年の2000の労働の結果として目にうつり、また容易に「錯誤」されるのであり、されて来た。
 そしてそのように「錯誤」すると、この2000 の価値は、そこに対象化されている「現在完了の労働(生きた労働)」か、それともそれに「過去完了の労働(過去の労働)」、つまり資本価値も加えたものか、混沌として来るのであつて、決して「価値規定による分配」を合理的に説明できなくなるのである。私がつまづき、「価値法則」--つまり資本主義と市場経済--を廃棄した社会における「価値規定による分配」を具体的、合理的に説明できないで苦しんだのも、まさにその点においてであった。
 いったんそうした勘違いをやり、その間違いに気付かないなら、「価値規定による分配」の秘密は決して見つけ出すことができなくなるのであり、実際、何人も合理的な形で見つけ出すことができなかったのである。それをいいことに、共産党の連中は、党の"理論家"たちも含めて、そんなことはできるはずもない、市場経済に依存する以外ない--依存すればいいことだ、つまり資本主義の枠内で生きることに満足せよ云々--と言いはやし、労働者をペテンにかけて来ることができたのである。〉
(38-9頁)

 ここでは〈「錯誤」〉に陥ったのは〈我々のすべてが自然発生的に陥っていた勘違い〉(37頁)などという誤魔化した表現ではなく、〈私がつまづき、……苦しんだ〉ものとして説明している。ここでの林氏の説明は、自分自身が陥った〈「錯誤」〉や〈苦しんだ〉点の説明という点ではその限りでは素直に吐露しているといえる。だからわれわれも林氏が提起している問題を真剣に考えてみよう。しかしその前に、林氏はここでは〈越村の「再生産表式」〉を色々と批判的に検討しているので、どうしてもやはり林氏が提示している〈越村の「再生産表式」〉を、われわれも紹介しておかねばならないだろう。それは次のようなものである。
55563


 それでは林氏が陥ったという〈「錯誤」〉について、われわれも厳密に検討して行こう。

 マルクスは第1部第6章で次のように述べていた。

 〈価値は、価値章標での単に象徴的なその表示を別とすれば、ある使用価値、ある物のうちにしか存在しない。……しかし、価値にとっては、なんらかの使用価値のうちに存在するということは重要であるが、どんな使用価値のうちに存在するかは、商品の変態が示しているように、どうでもよいのである。〉(全集23a265頁)

 先にわれわれが社会の総商品資本を個別資本の商品資本と同じように、c+v+mに分割して考えることが出来る根拠も、まさにこうした価値の特性から説明されたのであった。
 c(不変資本部分)、v(可変資本部分)、m(剰余価値部分)(なおこれらを不変資本、可変資本、剰余価値というのは簡単化された呼び方である)というのは商品資本の価値(資本価値)をその成り立ちや行く末から区別して見ているだけであって、価値としてはまったく質的には無区別であり、ただ量的に問題になるだけであること、だからそれらはそうした価値の経緯から見た量的比率以上のものは何ものも示さないということをまずわれわれは確認しておこう。
 今、部門 I の総商品資本(総生産物)を考えた場合、それらは使用価値としては生産手段であるが、しかし具体的にはさまざまなものからなっていること、しかし、その生産手段は大きく分けて二つに区別されること、すなわち一つは引き続いて部門 I で生産手段として充用されるべき物的形態を持っているものと(生産手段の生産のための生産手段、例えば鉄鉱石等)、部門IIに引き渡されて、個人的消費手段の生産のための生産手段として役立つ物的形態をもっているもの(消費手段の生産のための生産手段、例えば綿糸や綿布等)とに区別されるということである。
 そられの総商品資本の価値は、全体としてはc+v+mに分割できるわけだが、それぞれの価値部分がどのような使用価値によって担われるかということは、およそそれらが価値である限り、どうでもよいことなのである。だからこそマルクスは、c部分、つまり不変資本部分の価値を担う使用価値を、部門 I の生産手段として再び役立つもの(つまり生産手段を生産するための生産手段)で代表させ、v部分とm部分(つまり可変資本部分と剰余価値部分)を、部門IIのための生産手段(つまり、消費手段の生産のための生産手段)からなると考えたわけである。しかしこれはあくまでも総商品資本の価値の構成を考えているからこうしたことが言えるのであって、もし総商品資本のある特定の個別の商品資本を取り上げるなら(例えば鉄鉱石なら鉄鉱石だけを取り上げるならば)、それが不変資本部分だけからなっているなどということは言い得ないこと、それらもやはり個別に見るならば、それぞれがc+v+mに分割されるわけである。だから総商品資本をc+v+mに分割して考えるということは、あくまでも総商品資本の価値の構成の量的比率がどのようになっているかということを見ているだけに過ぎないわけである。そしてその量的比率に対応して、それぞれの使用価値を、つまり生産手段の生産手段や個人的消費手段の生産のための生産手段を、それらの素材的担い手と考えたというに過ぎないわけである。
 だからもし今、部門 I の総商品資本(総生産物)を、それらの使用価値の観点から、二つの部分にわけ、一つは生産手段のための生産手段という使用価値をもつ商品資本(生産物)、別の部分は個人的消費手段の生産のための生産手段という使用価値をもつ商品資本(生産物)とに、それぞれに分けて考えた場合、生産手段のための生産手段という物的形態を持っている商品資本(生産物)の価値を、ただ不変資本部分だけからなっているとか、個人的消費手段の生産のための生産手段からなっている商品資本(生産物)の価値を、ただ可変資本部分と剰余価値部分だけからなっているなどと考えることもまた出来ないわけである。やはりそれらもそれぞれにc+v+mに分割して考えなければならないということでもある。

 上記の考察を前提して、もう一度、再生産表式に戻ってその意味するところを考えてみよう。まず単純再生産の表式を提示してみる。

I  4000c+1000v+1000m =6000
II  2000c+ 500v+ 500m  =3000

 まず第I部門の表式の内容についてである。これは第I部門の総商品資本の価値構成を考えた場合、不変資本部分が全体で4000であり、可変資本部分が1000、剰余価値部分が1000であることを示している。そして総商品資本の不変資本部分が4000だということは、第I部門の総生産物のうち生産手段の生産手段という物的形態を持っている商品資本の総価値が4000でなければならないことをも示している。また可変資本部分と剰余価値部分の合計が2000ということは、第I部門の総商品資本(総生産物)のうち、その使用価値が、第II部門のための生産手段、すなわち消費手段の生産のための生産手段の物的形態をもっているものの総価値が2000でなければならないことをも表しているわけである。
 だから剰余価値部分1000mを考えた場合、マルクスは単純再生産と拡大再生産とを比較して、前者と後者との違いは、剰余労働の具体的形態の相違であり、それによって単純再生産か、拡大再生産になるのだと指摘していることを以前紹介したのだが、そして私もそれが正しいとそのように考えてきたのであるが、しかしこれはおかしいといわねばならない。なぜなら、1000mというのは、第I部門の剰余価値部分(剰余労働)の全体が1000であるということは示していても、剰余労働の具体的形態が何であるべきかということは何も示していないからである。それは第I部門のすべての生産部門、例えば鉄鉱石の生産部門や鉄鋼の生産部門、機械の生産部門等々、第I部門のあらゆる生産部門における剰余労働とそれによって形成される価値の総計が1000だというに過ぎないのであって、だからその剰余労働の具体的な形態はさまざまでありうるし、あってよいわけだからである。ただその剰余労働が形成する総価値と可変資本の総価値との合計数と同じだけの価値をもつ生産物が、第II部門用の生産手段として生産されていなければならないというに過ぎないわけである。
 だからもし1000mの半分が蓄積に回されるとするなら、ただ第I部門で生産された生産手段のうちこれまで2000が第II部門用の生産手段であったのが、1500だけになり、第I部門用の生産手段が4500にならなければならないということを示しているだけなのである。確かにこの場合も、生産手段の生産のための生産手段という物的形態をもつ生産物が多くなるということは、それだけ生産部門間の比率そのものに変化があるとういうことであり、だから拡大再生産や単純再生産というのは、生産過程の一現象だというマルクスの指摘はその限りでは正しい。それは個別資本だけを見ているなら、ただ剰余価値を個人的消費に回す代わりに、新たな投資として生産資本に投じる、だから拡大された規模での再生産を行うという形で現象するだけであるが、しかし社会的な総資本の蓄積を考えた場合、単にそうした規模の問題だけではなく、例え規模としては同じだったとしても、社会的な生産の構造そのものが変化して、例えば第I部門の生産諸部門のなかで、生産手段の生産のための生産手段の生産部門が拡大し、それに比して、規模としてはその拡大と同じ程度に、消費手段の生産のための生産手段の生産部門が縮小するというような社会的な産業構造の変化がなければならないということである。
 しかしそのことはマルクスが述べているような、剰余労働の具体的形態が問題になっているということでは決してないわけである。問題は第I部門の生産部門の比重の変化である。第I部門用の生産手段の生産部門が増えて、その増えた価値部分と同じだけの第II部門用の生産手段の生産部門の比重が減るということを示しているだけなのである。だから剰余労働の具体的形態などはまったく問われていないのである。ここらあたりがこれまで私自身も、間違って理解していた。これはマルクス自身が間違っていたからでもあるが、とにかくもう一度詳しく考え直す必要がありそうに思えるところである。
 その意味では、私がこれまで林批判として書いたものも一部書き直す必要が出てきそうである(しかし、この書き直す機会は無かったので、とりあえず、ここでその点をお断りしておく)。
 だから林氏が提起している問題は、確かにややこしいし、錯誤に陥りやすいといえば、その通りなのである。ただ林氏が問題を正しく理解しているかどうかはまだハッキリしていないのだが。しかし少なくともこうした考察を促したという点では、それはそれで意義を認める必要がありそうである。
 とにかく具体的に林氏が述べていることについて検討して行くことにしよう。まず林氏は〈「錯誤」〉の内容を次のようにいう。

 〈つまりこの点における錯誤の結果、第II部門の消費手段と、第 I 部門の生産手段との交換における、価値と使用価値の実際の、本当の内容と意味を理解できなくなるのである。
 越村の図表では、第 I 部門の2000と第II部門の2000の交換は、一見して、第 I 部門の2000の価値も使用価値も前年の2000の労働の結果として目にうつり、また容易に「錯誤」されるのであり、されて来た。

 つまり林氏の言うのは、 I (v+m)の2000は、使用価値としては、前年に支出された2000の労働の結果であるが、しかし価値としては、それ自体がc+v+mに分かれ、だから必ずしも前年の2000の労働が対象化されたものではないと言いたいのであろう。つまり確かに第I部門の総商品資本の価値の構成としては、 I (v+m)は、前年度に支出された2000の抽象的人間労働として表されているが、しかし、使用価値として見るなら、それは第II部門の生産手段であり、だから実際に交換される第II部門の生産手段そのものは、確かにそれは前年度の2000の生きた労働の有用労働によって生産されたもの(その一部)であるが、しかし、価値としてはそれ自体がc+v+mに分けて考える必要があるのだから、すべてが生きた労働(前年度に支出された抽象的人間労働)だけではない、と言いたいわけである。これは確かにその通りだし、それをv+mだから、価値としても前年度の生きた労働2000が対象化されたものだと考えやすいし、容易に錯誤に陥りやすい、と言える。

●〈越村の「再生産表式」にあるのは、形式的で、一面的な--つまり基本的に、「価値」の側面からする--流通過程の説明である。もちろん、流通過程の契機は生産関係であり、その意味では両者は「関係して」おり、生産関係も前提されている--越村の表式(図表3)で言えば、「生産的資本」(右から二つ目)と「生産物」(最右端)の間--が、しかし越村は、そのことさえ図中に書き込む必要を感じなかったのである、つまり越村はある意味で、この「再生産表式」は資本の流通過程を形式的に表現するものであり、それ以上のものではないことを自覚していたとも言える。〉(39頁)

 何度もいうが別に私は越村を擁護する必要はまったくないのであるが、ただ林氏の批判が必ずしも正当ではない限りで、その点を指摘しなければならない。先に紹介した林氏が掲げている越村の図〈図表3〉を参照していただきたい。
 林氏は越村の図でも〈生産関係も前提されている〉が、〈しかし越村は、そのことさえ図中に書き込む必要を感じなかった〉と述べている。しかし、図で「……→」で書かれているものは、越村にすれば生産過程を意味するのである。それは「貨幣資本の循環」を説明した第34図(越村前掲書5頁)で図の中に記載されており、また6頁には〈實線は流通過程を、点線は生産過程をあらわすものと規定する〉と書いているからである。つまり確かに文字としては図には書いていないが、図のながで点線で表すことによって、それが生産過程であることを越村は図示しているのである。だからこの点での林氏の批判は当たらないであろう。そしてそうであれば、〈つまり越村はある意味で、この「再生産表式」は資本の流通過程を形式的に表現するものであり、それ以上のものではないことを自覚していたとも言える〉という批判も必ずしも正確とは言い難いであろう。越村自身は、図62(林氏の掲げる図表3)に至る前提として、次のように説明しているからである。

 〈いまある社会において、第I部門に4000単位の価値(価値の単位は百万マクルでも百万円でもよい。以下簡単のため価値単位を省略する)をもつ不変資本cと、1000の価値をもつ可変資本vとが、すなわち合計5000の価値ある資本が投下され、第II部門に2000の不変資本cと500の可変資本vとが、すなわち合計2500の資本が投下されたと仮定しよう。この場合両部門の資本の有機的構成はともに四対一である。
 また両部門における剰余価値率m/vをともに100%と仮定すれば、第I部門においては1000の可変資本から1000の剰余価値が生産され、第II部門においては500の可変資本から500の剰余価値が生産される。したがって両部門の年々の生産物は、使用価値と価値との二重の見地から次のよう表式によって表される。〉(178頁)

 ごらんの通り、越村もまず生産過程を前提して、そこで生産された総商品資本W’を出発点として、それを表式として表し(これはこの限りではマルクスの表式と同じ)、且つそれを分かりやすくするために図示しているわけである。しかも越村は〈使用価値と価値との二重の見地から〉と、林氏が拘る見地もハッキリ述べており、林氏が越村の図式を〈形式的で、一面的な--つまり基本的に、「価値」の側面からする--流通過程の説明である〉と断定するのはやや行き過ぎではないかと思わざるを得ない。しかし、まあ、これはあまり重要な問題ではない。

●〈図表3 の「(B)両部門間の取引」の表式からも明らかなように、越村は単に価値交換という面からのみ第 I 部門と第II部門の交換を論じている。しかしこうした図表からは、使用価値の関係が脱落してしまうのであって、この表式から結論を引き出す人々は、第 I 部門の生産的労働は、第II部門の消費手段と交換する価値と使用価値の双方を生産すると、容易に思い込むのであり、無反省にこの表式だけで考えると、そうなるしかないのである。そして我々もまた無反省にそう思い込んで済まして来たのである。資本の流通過程ということで考えるなら、問題を「価値」の関係に限るなら、それでコトが済んだからである。〉(39頁)

 ここで林氏は越村の図が〈単に価値交換という面からのみ第 I 部門と第II部門の交換を論じている〉というのであるが、しかし越村の図は第I部門の生産手段と第II部門の消費手段の交換が労働者を媒介して行われることを論じており、必ずしも使用価値が抜け落ちているわけではない。林氏はこの越村の図だと〈第 I 部門の生産的労働は、第II部門の消費手段と交換する価値と使用価値の双方を生産すると、容易に思い込〉むというのであるが、要するに第I部門の生産手段が(v+m)だから、それは前年度に第I部門で支出された労働からなっていると錯覚するということであろう。しかし、実際には、 I (v+m)というのは、第I部門の総商品資本の価値構成から言えることであり、第II部門で用いられる生産手段という使用価値から見るなら、その価値は、決して(v+m)からなっているのではなく、それ自体は(c+v+m)からなっていなければならないと言いたいわけである。もし林氏がそのことに気づいたというならそれはその限りでは正しいであろう。その点、越村の図ではそうしたことが分からないというのは、確かにその限りではその通りなのである。まあ、この点は、林氏の指摘は正当であることを認めざるを得ない。ただ林氏が次のように言う場合、かなり大げさな感じがしないでもない。

 〈しかしそんな俗意識にとらわれていた限り、社会主義の実際的な姿--そしまた労働者が社会主義に向かって闘っていくとき、実践的にも巨大な意義をもつ概念--、つまり「価値規定(労働時間)による分配」という法則は、マルクスが言ったように、簡単で明瞭な形で示すことは決してできなかったのである。〉(39-40頁)

 要するに林氏は、次のような〈錯誤〉に陥ったというのである。これは以前にも(大会報告の批判のなかでも)指摘したが、 I (1000v+1000m)とII2000cとが交換されるということから、林氏は、だから第II部門の個人的消費手段3000は、II(2000c+500v+500m)だから、今このII2000cに、 I (1000v+1000m)を入れると、 I (1000v+1000m)+II(500v+500m)となり、これは要するに3000(v+m)になると考えたというのである。つまり個人的消費手段の価値はすべて前年度の「生きた労働」によって、すなわちv+mによって、「現在完了の労働」によって形成されたことになる。だから前年度に社会のすべての労働者は全体として3000の労働を社会に支出したのだから、彼らはその支出した労働に応じてその年度に生産された3000の個人消費手段の分配を受けるというわけである。これでメデタシメデタシと思ったというわけである。ところが、おっとどっこいそうは問屋は卸さないということになった。というのは、第I部門の生産物でその使用価値が第II部門の生産手段の物的形態をもつものは、価値の大きさとしては、確かに I (1000v+1000m)と等しいのだが、つまり2000でなければならないが、しかし、それ自体の価値構成はというと、やはりそれらも、それぞれにc+v+mに分割されるのだからである。だから第I部門の生産物のうち第II部門の生産手段の物的形態を持つ生産物の価値構成は、2000×(4/6)c+2000×(1/6)v+2000×(1/6)mになる筈である。だから第II部門の個人的消費手段の全体の価値構成を考えると、2000×(4/6)c+2000×(1/6)v+2000×(1/6)m+500v+500mとなる。すなわち1333(2/3)c+833(1/6)v+833(1/6)m=3000となるわけである。だから第II部門の個人的消費手段もやはりc+v+mに分割するのであって、すべてv+m、すなわち前年度の「生きた労働」、あるいは「現在完了の労働」だけからなっているというのは間違いであり、〈錯誤〉だったというわけである。林氏は、自分がその〈錯誤〉に陥ったことが分かったというのである。
 確かに自分が陥った過ちに気づくことは大事なことである。しかし、われわれとしては、それに気づいたことを何かご大層なことであるかに持ち上げる気が知れないのである。そして自分の提示した図は、そうした過ちに陥らない工夫がされているというわけである。それでは、その説明を聞くことにしよう。

●〈言うまでもなく、私の図表の特徴は、「生きた労働(現在完了の労働)」の結果が、使用価値と価値と分けられて表示されていることである。つまり「生きた労働」の結果としての価値は、同じ労働の結果である使用価値とは単純に重ならない、つまりその労働は使用価値の一部分に対象化されているにすぎない。そしてその部分の労働時間だけが、消費手段の生産のための生産手段として、消費手段の「価値規定」に入り込むのである。
 かくして消費手段に対象化されている労働の総量は簡明に労働時間によって表現され、規定されることが明らかにされるのである、つまり第 I 部門の生産物の内の、第II部門の生産手段に対象化されていた労働(量)が、第 I 部門において、その生産手段を生産した労働(量)に等しいということが明らかになるのである。
 したがってまた、それぞれの消費手段の"価値" (いわゆる「価値規定」)は、第 I 部門の、その消費手段を生産するための生産手段に支出された労働量(労働の長さ、労働時間)と、第II部門の消費手段を生産するための労働量(労働の長さ、労働時間) の和として、簡単かつ明瞭に提示されるし、され得るのである。〉
(40頁)

 このように林氏は自分の図を自慢していうのであるが、果たしてそれほど明瞭なものと言えるのであろうか。もし林氏の図がそういうものなら、マルクスの表式も同じように明瞭なのであ。林氏の図と同じような形式でマルクスの再生産表式を書いてみると、次のようになる。

  I  4000c+1000v …→ 80億労働日(4000万人×200労働日)+40億労働日

 II  1000c+ 500v …→ 40億労働日+20億労働日(1000万人×200労働日)

 林氏の錯誤というのは、1000v( I )と1000c(II)とが交換されるということから、1000vの価値と同じ価値量の部門 I の生産物である個人的消費手段の価値は1000v、つまり生きた労働からなっていると考えてしまったことであった。
 では、林氏の図では、そうした過ちに陥らないのかというとまったくそうではない。確かに40億労働日の生きた労働が部門 I の生産物の総価値の一部だということは示され、その生きた労働が生産した使用価値が部門全体の総生産物だということは示されている。しかし、そんなことなら、マルクスの表式でもそれは示されているのである。つまり第I部門の生産物は I (4000c+1000v)=5000であるということは自明のことだからである。なぜなら、そもそも再生産表式に示されているものは、前年度の生産の総結果としての総商品資本(総生産物)だからである。だから I (4000c+1000v)は第I部門の総生産物ということは前提されている。そのうち1000vと同じだけの価値ある生産物は、第二部門の生産手段の物的形態を持っていなければならないということが、表式では示されているだけであって、その個人的消費手段の生産のための生産手段の価値が1000v、つまり生きた労働だけからなっているなどと考えたのがそもそも間違っているのである。そして同じ過ちは林氏の図でも生じることが分かる。というのは、第I部門の格子状の模様で囲まれた部分が、第II部門の右下斜めの斜線で囲まれた部分と交換されるわけだが、とするなら、第I部門の生産物のうち第II部門と交換される部分というのは、まさに生きた労働によって生産されたことを意味するではないか。もしそれを第II部門に持ってくれば、第II部門の生産物全部が格子状で表されることになるわけである。林氏はそれをあえてやっていないだけである。
 しかし林氏の図から考えてみよう。林氏は第II部門では、自動車の生産手段を鉄鋼と機械に分けながら、第I部門の生産物としては鉄鋼だけで象徴させているが、第I部門の鉄鋼2000万トンは、すべて格子状になっている。つまり生きた労働から形成されたことになっている。それをもしそのまま第II部門の自動車の生産手段として持ってくれば、自動車100万台は、本来ならすべて格子状にならなければならないのではないのか。なぜ、林氏はそうしていないのか、それは、それが間違いだと林氏には、今では分かっているからである。しかし、林氏の図はそうした過ちに陥らない工夫がされているかというと、まったくそうではないのである。その限りでは、マルクスの表式とまったく同じなのである。ただ一方は表式で他方で図で表したというに過ぎないのである。
 そして事実、林氏は依然としてそうした〈錯誤〉の内にあることか分かる。林氏は次のように説明している。

 〈つまり第 I 部門の生産物の内の、第II部門の生産手段に対象化されていた労働(量)が、第 I 部門において、その生産手段を生産した労働(量)に等しいということが明らかになるのである。
 
 もし林氏のこの説明どおりだと、〈第 I 部門の生産物の内の、第II部門の生産手段に対象化されていた労働(量)〉というのは、図からみると、40億労働日(2000万人×200労働日)ということになる。そしてそれが〈第 I 部門において、その生産手段を生産した労働(量)に等しい〉というのであれば、つまり第I部門の生産物のうち第II部門の生産手段を生産した労働は、すべて生きた労働(2000万人×200労働日)からなっているということになるではないか。そして〈消費手段の"価値" (いわゆる「価値規定」)は、第 I 部門の、その消費手段を生産するための生産手段に支出された労働量(労働の長さ、労働時間)〉、すなわち第I部門で前年度に支出された生きた労働40億労働日(2000万人×200日)と〈第II部門の消費手段を生産するための労働量(労働の長さ、労働時間)〉、すなわち第II部門で前年に支出された生きた労働20億労働日(1000万人×200労働日)〈の和として〉、つまりすべて前年度に支出された生きた労働からなっているものとして〈簡単かつ明瞭に〉〈錯誤〉した形で〈提示されるし、され得るのである〉。つまり第II部門の総生産物である個人的消費手段はすべて前年度に支出された総労働60億労働日(3000万人×200労働日)の産物として表示されるのである。しかしこれこそ林氏が陥った〈錯誤〉そのものではないのか。

●〈すなわち要点は、資本主義的生産では、生産的労働は労働の結果である使用価値全体の価値を規定(決定)するものではないということ、そして使用価値の全体を規定するなら、第II部門との素材的な転換において不合理となること、あるいは反対に、第II部門と素材的に交換される生産手段が、第 I 部門の使用価値の総価値だとするなら、この場合もまた不合理が生じてしまうということ、そしてこの「錯誤」はただ、価値を生産する労働と、使用価値を生産する労働の本性を、したがってまた区別と、対立的性格さえも正しく理解することによってのみ解消され得る、ということである。〉(40頁)

 恐らくこれは誤植なのであろう。そうでないと意味が不明になるからである。ここで〈そして使用価値の全体を規定するなら〉とあるのは、恐らく〈そして使用価値の全体の(価値)を規定するなら〉とするべきところなのであろう。まあわれわれとしてはそうした誤植を訂正した上で、上記の一文を読むことにしよう。
 まず疑問なのは、なぜ〈資本主義的生産では〉と資本主義に限定するのか、生産物に対象化される労働時間が、その生産物を直接生産するために支出された労働時間だけではなく、その生産過程で生産的に消費される生産手段に対象化されたいた労働も含めて考える必要があるというのは、何も資本主義的生産に限った話ではないからである。そもそも、林氏は社会主義における分配を問題にしていたのではないのか、だからどうしてここで〈資本主義的生産では〉などと資本主義の問題に限定するのかわけがわからないのである。
 そしてこんな〈要点〉なら、ある意味では当たり前のことであり、わざわざご大層に確認するようなことではないのである。誰も第I部門の生きた労働、つまり前年に支出された労働(v+m)が、第I部門全体の生産物の価値になるなどと考えるのは、スミスと同じ誤りに陥っている林氏以外には考えなかったのであり、ましてや第I部門の生産物全体が第II部門の生産手段として交換されるなどという途方もないことも、林氏以外には誰も考えなかったのである。そんな途方もない〈錯誤〉に陥っていたのは、林氏一人であって、会員のだれもそんな途方もないこは考えなかったのである。確かに林氏の主張に追随した会員は少なくなかったが、しかし彼らが林氏と同じ〈錯誤〉に陥っていたなどと考えるのは早計である。なぜなら、彼らはそもそも未だに林氏が陥っていた〈錯誤〉なるものが何なのかもわからないし、ましてや以前の林氏の主張を理解した上で、それに賛同し、翼賛したわけではなかったからである。ただそれが林氏が主張していることだから、ということだけで彼らは付和雷同したに過ぎないのである。

●〈ここでも、「有用的労働による価値移転」といったことは、事実上、大した意味を持たないのであり、ドグマとして主張されるならむしろ有害であり、スターリン主義者の決まり文句を出ないのである。〉(40頁)

 果たしてそんなことが言えるのか。林氏にお聞きするが、林氏の図式で、第I部門の鉄鋼1億トンの価値(規定)は幾らであろうか。2000万トンが1億労働日だから、5億労働日(2500万人×200労働日)である。鉄鋼1億トンの使用価値を生産したのは50万人による200労働日である。つまり彼らは50万人×200労働日=1億労働日を新たに追加しながら、同時に4億労働日の鉄鉱石その他の生産手段の価値(規定)を生産物(鉄鋼1億トン)に移転・保存したのである。そうでなければ1億トンの鉄鋼の価値(規定)5億労働日の理由を説明できない。ではそれは彼らの労働のどういう属性によってなされたのか、林氏は答えるべきである。何が〈事実上、大した意味を持たない〉であろうか、それ無くして、この事態をどのように説明するのか。馬鹿も休み休みにいうべきである。

●〈そしていったんこのことが確認されるなら、個々の消費手段の「価値規定」もまた簡単になし得ることは明らかであろう。それは以上の法則を、個々の消費手段の生産に単純に適用すればいいだけである(我々の例である《自動車》を取れば、自動車一台の"価値" つまり「価値規定」は150労働日として、単純に、そして明確に示され得る等々)。〉(40頁)

 しかし個々の消費手段の「価値規定」を知りたかったら、何もこんなご大層な図式など持ち出す必要などまったくないのである。こんなものは、鉄鋼と機械にそれぞれ支出された労働が分かり、自動車1台の生産に直接必要な労働量が分かっているなら(つまりそうした仮定の数値を提示するなら)そこから計算すればすぐに出てくることである(もっとも林氏の数値例では、自動車1台に鉄鋼10トンも使うという途方もないものになっているのだが)。問題は、表式として表すということは、それらを社会全体の再生産過程として示すためだということが林氏には全く分かっていないのである。何のための表式であろうか。ただ個別の生産物の価値(規定)を知りたいだけなら、そんな表式など不要なのである。つまり『資本論』で言えば第1部第5章の枠内で十分可能なのだ(林氏の図式では、図表1の上図で十分である)。問題を社会全体の再生産過程として考察するための表式であるという認識が、そもそも林氏にはないのではないか。社会全体の再生産のシステムを考察することが再生産表式の課題である。全体の再生産のシステムが明らかになれば、自ずと社会の分配のシステムも明らかになるのである。一体、何のための馬鹿馬鹿しい大騒ぎなのであろうか。

●〈アレインジされた表式からも明らかだが、1000の労働の直接の結果としての消費手段の全体(3000)が、3000の労働主体-- 第 I 部門と第II部門で生産的労働に従事する、総体としての労働主体--によって分配されることは明らかであり、その分配の基準は「価値規定」つまり個々の消費手段の生産のために必要とされた労働(量) 以外ではあり得ない。〉(40-1頁)

 ここでいう〈アレインジされた表式〉というのは何を指すのであろうか。その前の文章からの続きだと【図表4】〉を指すとしか考えられないが、もしそうであるなら、図表4の何処に〈1000の労働の直接の結果としての消費手段の全体(3000)〉なるものが表示されているというのであろうか。図表には第II部門には〈1000万人×200労働日=20億労働日〉なる記載があるが、消費手段生産部門の総生産物が幾らかについては何も書かれていない。そもそも第I部門も第II部門も〈現在完了の労働(現存の労働者の年間労働)〉しか書かれていないのである。一体、林氏は図表の何を指して〈1000の労働の直接の結果としての消費手段の全体(3000)〉などと言っているのであろうか。そもそも林氏は1000や3000などという数字を上げているが、これは何かについて自分で自覚しているのであろうか。これは林氏の想定では、恐らく1000は現在完了の労働であり、3000は消費手段に費やされた全体の労働を意味するのであろう。だから現在完了の1000の労働が直接生み出すのは、決して3000ではなく、3000の労働が対象化されている消費手段の使用価値全体を意味するのである。こうした厳密な意味を明確に述べて論じるべきではないか。
 要するに、林氏は、恐らくマルクスの表式をもとに次のような表式を前提して述べているのではないのかと思われる。

  I  4000c+2000v  =6000
 II  2000c+1000v  =3000

しかし以前にも紹介したように、林氏の図式をマルクスの表式のように示したら、こうした表式にはならないのである。なぜなら、林氏の図式だと鉄鋼1億トンの価値構成をみると、8000万トンがcに値し、2000万トンがvに値するようになっている。つまり4:1の構成である。だから例え贔屓目に見ても、林氏の図式からは〈1000の労働の直接の結果としての消費手段の全体(3000)〉というようなことは言えないのである。だから林氏は、〈アレインジされた表式〉として上記のような表式を前提に述べているとわれわは、仮定して問題を論じなければならない。もしそうでないというなら、それはそうしたものを何も示していない林氏が悪いのであって、われわれが勝手に表式を前提したことの責任ではない。
 ではもし、上記のような表式を前提して問題を論じたら、どうなるのであろうか。しかし、もし問題がこうしたことだけなら、問題は極めて簡単ではないか。そもそものマルクスの表式(われわれが上記のようにアレンジする以前のマルクスの単純再生産の表式)でも第II部門の総生産物(個人的消費手段)の価値(規定)は3000であり、その使用価値の全体は第II部門で直接支出された1000の労働の具体的な属性によって直接生産されたこともまた明らかである。そして第I部門と第II部門で支出された労働も3000であることは明らかだからである。だから前年度に生産された個人的消費手段(3000)を、今年度に生きた労働として支出された合計3000の(v+m)、つまり労働者と資本家が個人的に消費するということは明瞭に読み取ることができるのである。

●〈個々の労働者が支出した労働量は明らかであり、生産過程で確認されている(我々の想定では、平均として200労働日)。
 しかし他方では、個々の生産物の価値(その生産に必要な労働時間)が確定されなければ、分配は不可能である。
 そして個々の消費手段の価値は、消費手段を生産するための生産手段のために支出された労働(「生きた労働」に還元される)と、第II部門の「生きた労働」の合計として与えられるだろう。個々の消費手段は、その消費手段の生産のために支出された、第 I 部門の労働と、第II部門の労働の合計である。この二つの労働は「生きた労働」として実在的であり、簡単に確定することができるのである。〉
(41頁)

 結局、林氏は〈錯誤〉から抜け出せていないことをこの一文は示している。一体、何のための〈錯誤〉の指摘であったのであろうか。林氏は次のように説明していなかったか。

 〈越村の図表では、第 I 部門の2000と第II部門の2000の交換は、一見して、第 I 部門の2000の価値も使用価値も前年の2000の労働の結果として目にうつり、また容易に「錯誤」されるのであり、されて来た。
 そしてそのように「錯誤」すると、この2000 の価値は、そこに対象化されている「現在完了の労働(生きた労働)」か、それともそれに「過去完了の労働(過去の労働)」、つまり資本価値も加えたものか、混沌として来るのであつて、決して「価値規定による分配」を合理的に説明できなくなるのである。私がつまづき、「価値法則」--つまり資本主義と市場経済--を廃棄した社会における「価値規定による分配」を具体的、合理的に説明できないで苦しんだのも、まさにその点においてであった。
〉(38-9頁)

 だからわれわれも林氏の真剣な問題提起を受けとめて、もう一度、マルクスの表式の意味を再吟味し、確かに林氏のいうような問題があること、私自身もそうした〈錯誤〉に陥っていたことを自覚したのであった。つまり I (1000v+1000m)はII2000cと交換されるわけだが、しかし価値の大きさとして I (1000v+1000m)と同じである個人的消費手段の生産のための生産手段という物的形態を持っている第I部門の生産物は、しかし、その価値構成を考えた場合、決して、そのすべてがv+mで、つまり可変資本と剰余価値からなっているのではなく、それらもやはりそれ自体としてはc+v+mに分割されて考えなければないのであり、だから第II部門が受け取る生産手段は、決してv+m、つまり前年度の生きた労働だけからなっていると考えてはいけないということだったのである。林氏も〈そしてそのように「錯誤」すると、この2000 の価値は、そこに対象化されている「現在完了の労働(生きた労働)」か、それともそれに「過去完了の労働(過去の労働)」、つまり資本価値も加えたものか、混沌として来る〉と述べていたのである。
 にも関わらず、ここでは林氏は〈消費手段を生産するための生産手段のために支出された労働〉を説明して〈(「生きた労働」に還元される)〉などと一方的に述べているのである。これでは元の木阿弥である。つまり依然として林氏は、自分が〈錯誤〉の中にあることをこれで表明しているわけである。これでは一体、何のための〈錯誤〉の指摘だったのかといわざるを得ない。果たして本当に林氏は〈錯誤〉の意味を十分理解した上で、あのように述べていたのだろうか、という疑いさえ浮かばざるを得ない。

●〈「自動車を例にして、恣意的な数字が並べられている」、「自動車を例に取ったから間違った」といった批判もあったが、我々の概念規定は、価値法則及び価値規定の前提に厳密に合致してなされており、決して単なる「恣意的な」数字遊びではない。〉(41頁)

 こうした文章を読むと、「アレ」と思わざる得ない。それともこれは本音なのであろうか。林氏は次のように言っていた筈である。

 〈そもそも、価値法則と価値規定が商品社会・資本主義社会と社会主義の双方に「当てはまる」などというのは、"ブルジョア" ならではの見解であつて、「価値法則」はまさに商品と資本の運動法則であって、そんなものは資本主義が止揚されるとともに一切止揚され、克服されるからこそ社会主義は社会主義であり、また社会主義における「価値規定」について仮にマルクスが語るにしても、それはただ、個々の労働者の分配に関することに限られているのであって、こうした概念を超歴史的なものとして論じること自体、共産党の指導部分(党官僚)たちや理論家たちがすでに立派に"ブルジョア" にまで"成長"していることを暴露するのである〉(18頁)

 このように林氏は価値法則と価値規定とを区別して、〈「価値法則」はまさに商品と資本の運動法則であって、そんなものは資本主義が止揚されるとともに一切止揚され、克服されるからこそ社会主義は社会主義〉だと述べていたのである。それに対して〈また社会主義における「価値規定」について仮にマルクスが語るにしても、それはただ、個々の労働者の分配に関することに限られている〉と述べていたのである。後者の理解について、私は異論を述べたが、少なくとも林氏は上記のように以前の文章では「価値法則」と「価値規定」とを区別していたが、今回の文章では自分の図式が〈価値法則及び価値規定の前提に厳密に合致してなされて〉いるなどと述べている。つまり〈商品と資本の運動法則であ〉る〈価値法則……に厳密に合致してなされて〉いるなどと言っているわけである。

●〈30労働日の食料と、20労働日の衣類と50労働日の住居と50労働日の電化製品を手にしても、まだ50労働日分の消費手段を享受できる余裕が残っているということである。ただ残りの50労働日だけでは自動車は入手できないが、3年間で150労働日を"溜めれば"十分可能である。自動車でなくても、余裕があるならピアノを手にする人もいれば、どっさりの本を確保する人もいるかもしれないし、食料や衣類には労働時間を配分しないで(つまりそこは節約して)、もっと「人生を楽しむ」方に利用する人もいるだろうが、そうしたことは全く自由な、各人の権利として現われるだろう。〉云々(41-2頁)

 すべて引用する必要はないので、適当に省略したが、何と俗物的な関心から社会主義を説明していることであろうか。感想としてはそれだけである。以下の文章は特に問題にする必要はないので、われわれとしては次の第4章に移ることにしよう。

 (続く)

2015年9月17日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-24)

         現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

【40】 (前のパラグラフまでで銀行券が発券銀行に還流するあらゆる場合が検討された。そして銀行学派が問題にしている銀行券の還流という現象は、彼らがいうような「資本の問題」ではなく、その限りでは「貨幣の問題」であることも指摘された。だからこのパラグラフからは、それをより一層明らかにするために、そもそも銀行券が流通しない場合でも同じ現象が生じることをマルクスは明らかにしようとしているように思える)

 〈かりにCirculationが純粋に金属によるもの〔metallisch〕だとしても同時に,1)流出が生じて金庫をからっぽにすることもありうるし,また, 2)金がおもに諸支払(過去の諸取引)の決済のためにだけ銀行から要求されるので,銀行の有価証券担保前貸が非常に増大しても,それが預金のかたちで(または満期手形の返済のかたちで)銀行に帰ってくることもありうるであろう。その結果,一方の場合には〔einerseits〕銀行の総準備高が減少し,他方の場合には〔andrerseits〕銀行は,前には所有者としてもっていたのと同じ金額を今では預金者たちにたいする債務者としてもっていることになり,結局は流通媒介物の総量が減少するであろう。〉 (大谷訳261頁)

 このパラグラフそのものも内容としてはそれほど難しいことはない。しかし、なぜ、これがここで分析されているのかを考えるとなかなか分からない面があるのである。だからとりあえず、本文の平易な書き下しを行っておき、そうした書き下しをするに至った、このパラグラフに関する私自身の分析の過程を先のパラグラフの場合と同じく、以下、紹介しておくことにする。だからその部分は、もし不必要ならば飛ばして読んで頂いても結構である。

 〈かりに通貨が銀行券を一枚も含まない純粋に金属によるものだとしても、同時に、1)地金の輸出のために貸し出された結果、流出が生じて金庫をからっぽにすることもありうるし、2)金がおもに諸支払(過去の諸取引)の決済のためだけに銀行から要求されて貸し出されたので、その結果、銀行の有価証券担保前貸が非常に増大しても、それが預金のかたちで(または満期手形の返済のかたちで)銀行に帰ってくることもありうるであろう。これらは要するにこれまで検討してきた銀行券の場合とまったく同じである。
 こうした結果、一方の場合(地金の輸出の場合)には銀行の総準備高が減少し、他方の場合(諸支払の決済のための貸出が預金の支払いとして還流する場合)には、銀行は、前には所有者としてもっていたのと同じ金額を今では預金者たちにたいする債務者としてもっていることになり、結局は流通媒介物の総量が減少するであろう。〉

 ところでマルクスは銀行の貸し出しについて、〈有価証券担保前貸が非常に増大しても〉と、この場合には〈有価証券担保前貸〉のみに言及している。これまではわれわれも確認してきたように、マルクスは具体的な貸し出しの形態を論じる時には、手形割引と担保貸付の両方を上げて論じていて、どちらか一方に限定していなかったのである。ところがここでは〈有価証券担保前貸〉のみを論じており、手形割引についてはまったく触れていない。これはどうしてであろうか?(これはまったくの憶測ではあるが、あるいは林氏はこの部分を見て、マルクスが論じているのは手形割引だとのそれまでの自分の主張を180度変えて、担保貸付に転換したのかもしれない)。
 マルクスが担保前貸だけに言及して、手形割引に言及していない理由は、このパラグラフでは〈通貨が銀行券を一枚も含まない純粋に金属によるもの〉と仮定されていることと関連しているように思える。そもそも銀行券というのは銀行が振り出す手形であることは以前にも指摘した。銀行券というのは一般の商業手形に代わって銀行が振り出す手形であり、その発行の形態としては主に手形割引によって出回ることが多かったのである。つまり商業手形に代わって銀行手形が流通するのだが、その代替が手形割引によってなされたのである。
 ところでこのパラグラフでは銀行券は一枚も含まない純粋に金属貨幣が流通すると仮定されている。だからこの場合の貸付の形態をマルクスは有価証券担保貸付だけにしたのだと考えられるのである。だからこの一文だけを根拠に、マルクスが論じているのは〈公債を担保にした貨幣融通だ〉などということが出来ないのはいうまでもない。

《補足・【40】の考察--以下の文章も私が最初にこのパラグラフを考察した時のものであり、不必要な人は飛ばして読んでいただきたい》

 ここでは〈仮に通貨が純粋に金属によるものだとしても〉と書き出しており、要するに、これまでは銀行券がどうなるかを問題にしてきたが、そもそもこれまで論じてきたことは、必ずしも銀行券に限ったことではない、という形で論じているように思える。だからこの場合も、なぜ、マルクスはこうしたケースについて言及する必要があると考えたのかが問題であろう。
 先のパラグラフでは、マルクスは銀行学派の主張のもう一つの根拠である、地方の私営発券銀行の場合を見たのである。そしてその場合も確かに彼らが言う意味での「資本の貸付」になることを指摘した。しかしそもそも銀行学派のように銀行券の還流に拘っていることそのものが彼らの粗雑なものの捉え方から来ているということをもう一つの面から指摘するという意図から、今度は、そもそも銀行券が一つも流通せず、純粋に金属通貨だけが流通する場合でも、彼らが注目している現象(つまり通貨の流出や還流という現象)は生じ得ることを指摘して、だからそれは銀行券に固有の問題ではないことを指摘するのがこのパラグラフの一つの目的ではないだろうか。

 このパラグラフも内容そのものは少しも難しいことはないのだが、なぜ、ここでこれを論じる必要があったのかということが今一つよく分からないのである。だからこの場合も、やはり一つ一つマルクスが述べていることを分析しながら、同時にそのことも考えていくことにしよう。

 まず【40】の内容を直接検討する前に……。【39】でマルクスは、銀行に銀行券が還流するケースをすべて検討し尽くしたことになるわけである。そしてそのいずれの場合が、銀行学派がいうような意味での「資本の貸付」になるのかも検討したわけだ。つまりこれまではずーっと銀行券が問題であった。そもそもなぜ銀行券をマルクスが問題にしたかというと、それは通貨学派と銀行学派の論争で紙券の過剰発行が問題になっているからである。通貨学派は銀行券が増発されれば、通貨の価値が下落し、金の流出と恐慌が勃発する原因であると主張した。それに対して銀行学派は、いやそうではない、そもそも銀行券は兌換が保証されているのだから、それは発券銀行が自由に増減できるものではない。それは社会が必要とするかぎりで流通するだけで、それ以上のものはすべて発券銀行に還流して「資本の貸付」になって、流通銀行券の増加にはならないのだと主張したのである。そして銀行学派はイングランド銀行の保有有価証券が増えているのに、その銀行券の流通高が増えない、そればかりかむしろ減っているという事実を指摘する。それはイングランド銀行もやはり流通銀行券の増減を自由に出来ないことを示しているのであり、イングランド銀行による貸付がすべて同行の銀行券によってなされているにも関わらず、貸付が増えて保有有価証券が増えているのに、流通高が増えないのは、それはその貸し付けられた銀行券が「資本の貸付」として還流するからだ、と主張したのである。だからマルクスは、果たして本当にイングランド銀行で生じていることは銀行学派の言っているとおりなのかどうかを検討したわけである。そしてその結果、イングランド銀行が有価証券に対して銀行券を貸し付けても、銀行券の流通高が増えないのは、それは銀行券がすぐに還流してくるからだ、ということ、しかし、その還流してくる理由は、決して銀行学派がいうように、それが「資本の貸付」だからそうなのではなく、それが「支払手段」の貸付だから、すぐに還流して銀行券の流通高の増加に繋がらないのだ、とマルクスは指摘するのである。つまりそれは銀行学派がいような「資本の問題」ではなく、その限りでは「貨幣の問題」だとマルクスは批判している。そして「貨幣の問題」であるという意味をさらに明らかにするために、このパラグラフでは、マルクスは銀行券ではなく、純粋に金属が通貨として流通している場合を論じているのではないだろうか?
 しかし〈純粋に金属が通貨である場合〉を想定すると何が鮮明になるのか、それが問題であろう。それが分かれば、マルクスがなぜ、ここで〈仮に通貨が純粋に金属による〉ケースを取り上げているのかが分かるだろう。
 これまでの想定では、もちろん、金属貨幣と紙券とが合わせて流通しているケースを想定していたのである。そしてその場合の通貨の下落の原因として通貨学派は紙券、つまり銀行券の過剰発行を問題にしたのであった。しかし銀行学派は銀行券は兌換が保証されている限り、それは金と同じであり、流通に必要な量しか流通しないと主張したのである。
 マルクスはもちろん、こうした銀行学派の通貨学派批判を頭に入れながら、彼らの論拠となっている現象をこれまで取り上げ分析してきたのである。だから当然、銀行券がイングランド銀行から発行されたあと、それがどうなるかが問題であった。しかしその結果、問題は決して銀行券に限った問題ではない、とマルクスは考えているのである。とするなら、それは何について銀行券に限った問題ではないとマルクスは考えているかである。そしてそれは実際、40】の内容を検討する以外に、それは分からないわけだ。だからそれを検討しよう。
 マルクスは〈純粋に金属が通貨として流通している場合〉にも、これまで述べてきたことがそのまま当てはまると言いたいようである。ただマルクスは〈同時に〉と述べている。この〈同時に〉というのは、何と〈同時に〉なのであろうか? これは〈同様に〉と訳してはマズいのであろうか? これまで述べてきたことと同じだという場合は、はやり〈同様に〉と訳すべきところであろう。【しかしドイツ語原文を見るとここはgleichzaitigとなっており、やはりこの限りでは「同時に」と訳すのが正しい訳し方である。】
 ということは、〈同時に〉と考えて、それは何と〈同時に〉とマルクスは考えているのかを考える必要がある。しかしこれはとりあえず、置いておこう。
 マルクスは〈純粋に金属が通貨として流通している場合〉も、二つのことが生じ得ることを指摘する。
 一つは〈1)流出が生じて金庫をからっぽにすることもありうる〉ということである。この場合の〈流出〉は、もちろん地金の輸出ということであろう。
 もう一つは〈2)金がおもに諸支払(過去の諸取引)の決済のためにだけ銀行から要求されるので、銀行の有価証券担保前貸が非常に増大しても、それが預金の形で(または満期手形の返済の形で)銀行に帰ってくることもありうるであろう〉と述べている。
 まずここでマルクスは〈有価証券担保前貸が非常に増大しても〉と述べており、ここでは〈担保前貸〉だけを上げている。これはどうしてであろうか? これは当時の商慣行として金を前貸しする場合には有価証券担保前貸しに限るということであろうか? それとも手形割引でも金の前貸しが可能だが、ただここでは担保前貸でそれを代表しただけなのであろうか? これは今一つ研究が必要であろう。ただ銀行券が手形割引と結びついて発行されるのは一つの歴史的事実であり、それは商業手形を銀行手形に置き換える操作とも説明されている。だからこの場合は銀行券ではなく、金属通貨を貸し付ける場合を論じているから、マルクスは有価証券担保貸付だけを上げていると考えることが出来るだろう。
 このように見てくると、マルクスは銀行券の場合について検討した、地金の輸出と結びついた貸付とそれが支払手段に対する要求にもとづく貸付という二つの場合を純粋に金属通貨が流通している場合にも、同じことが生じることを指摘しているように思える。つまり銀行券に限らないとマルクスは言いたいことは明らかである。
 次のマルクスの一文もその限りでは、そのことを証明している。

 〈その結果、一方の場合には銀行の総準備高が減少し、他方の場合には銀行は、前には所有者として持っていたのと同じ金額を今では預金者たちにたいする債務者として持っていることになり、結局は流通媒介物の総量が減少するであろう

 もちろん、ここで〈一方の場合〉とは地金流出が生じた場合であり、〈他方の場合〉は、貸出が預金あるいは支払として帰ってくる場合であろう。そしてその結果は、〈流通媒介物の総量が減少する〉というのだが、それはどうしてであろうか?
 この場合、〈流通媒介物〉というのは、金属通貨を意味するが、しかし金鋳貨の場合の流通媒介物という場合は、明らかに流通必要金量を意味するのではないだろうか? それともマルクスは流通必要金量ではないことを示すために、あえて〈流通媒介物〉といった言葉を使ったのであろうか? 銀行券の場合の流通高とは、実際に流通している銀行券を意味するのではなく、銀行の外にある銀行券の高を意味していた。しかし金属貨幣の場合は、それが蓄蔵貨幣形態にある場合は、流通手段(鋳貨としての流通手段と支払手段)の総量には入らないのであり、銀行券の場合とは違うからである。この場合、もし銀行券と同じように、銀行の準備としてある以外のすべての金貨幣を〈流通媒介物〉とマルクスは考えているのかどうかである。そこらあたりの言及は何もない。まっとうな考えでは、そのように考えることは出来ないであろう。確かに信用制度の発展は準備金を中央銀行に集中する傾向があるのだが、しかし蓄蔵貨幣形態にあるものがすべてイングランド銀行の準備金になるなどということはありえないであろう。ここではマルクスは〈流通媒介物の総量〉と言っており、イングランド銀行の外にある金貨幣をすべて〈流通媒介物〉だと考えるのには無理がある。
 だからこの場合、〈流通媒介物の総量〉といった場合の〈流通媒介物〉は、やはり広義の流通手段として流通する金貨幣の総量を意味し、その限りでは流通必要金量を意味すると考えるべきであろう。
 しかしそうすると二つのことが問題になる。一つはなぜマルクスは流通必要金量という言葉を使わずに〈流通媒介物の総量〉といような言い方をしたのかということである。もう一つは〈流通必要金量〉が減少するとどうして言えるのかということである。
 前者からいこう。なぜマルクスは〈流通必要金量〉といわずに〈流通媒介物の総量〉という言葉を使ったのか、といえばそれは銀行学派がそうした言葉を使っているからであろう。つまり「通貨と資本との区別」をその機能から説明するところで、それが収入の実現を媒介するか、それとも資本の流通を媒介するかという形で問題を提起していたが、その例をみてもわかるように、〈流通媒介物〉というのは、貨幣を銀行学派的な粗雑な捉え方でその機能に注目して見た場合の言い方ではないだろうか? だからあえてマルクスはこうした言い方をしたのではないかと考えることが出来る。
 もう一つの問題については、マルクスは【7】において、次のように述べていた(しかし、以下は私が平易に解読した一文を紹介)。

 〈貨幣が流通している限りでは、購買手段としてであろうと支払手段としてであろうと、あるいは二つの部面、すなわち商人と消費者との間であろうと、商人と商人との間であろうと、さらにはその機能が収入の支出を担うか、あるいは資本の補填、つまり商品資本を貨幣資本に転換することだが、ようするに商品を金や銀の金属貨幣に実現することであろうと、そうしたより進んだ貨幣のさまざまな諸機能や諸規定が加わろうとも、もし貨幣の流通する総量を問題にするのなら、それは以前に単純な商品流通を考察した時に展開した諸法則が当てはまるのである。
 それは次のようなものであった。流通速度(つまりそれはある一定の期間に同じ貨幣片が購買手段および支払手段として行う同じ諸機能の反復の回数のことだ)、同時に行われる売買、支払の総量、流通する商品の価格総額、そして最後に同じ時に決済されるべき支払の差額、これらのものが、単純な商品流通の場合はもちろん、資本の流通においても、どちらの場合にも、流通する貨幣の総量、つまり通貨の総量を規定しているのである。〉

 こうしたマルクスの通貨総量について法則の説明から、上記の問題での〈流通媒介物の総量〉の減少という事態を考えるとどのように捉えることができるであろうか。

 この場合、マルクスは流通媒介物の総量が減少する直接の理由として、1)地金の流出と、2)支払手段としての貸出とその即時の還流を上げている。果たしてこの二つの理由は〈流通媒介物の総量〉が減少する理由として十分なものであろうか?
 まず1)の地金の流出の場合は、それ自体が流通手段の量には関連しないであろう。確かにそれは流通媒介物を増やすわけではないが、しかしだからといってそれを減じるわけでもない。
 また2)の場合も、それ自体が流通媒介物を減じるように作用するわけではないだろう。むしろ例え一時的であれ、それが支払手段として流通することは、その限りでは流通媒介物の増大として作用するわけである。しかしマルクスはこうした事態を逼迫期の問題として論じており、つまり物価が下落し、労働者の賃金が引き下げられ、全体として収入の実現を媒介する貨幣の総量が減少する状況を想定していることである。だからマルクスは諸支払に使用される流通媒介物がすぐに銀行に還流し、それがすぐに再び貸し出されることによって同じ流通媒介物が何回も諸支払を媒介する機能を果たすことによって、諸支払の総額がどんなに増えようが、それを決済する流通媒介物の総量は増えないこと、そればかりか収入の実現を媒介する流通媒介物の総量は減少するので、全体としての流通媒介物の総量は減少するのだと述べているのであろう。

 以上で【40】の内容はほぼ解明し尽くしたと言えるであろう。つまりマルクスは金属通貨だけが流通している場合を想定して、銀行学派が決定的な論拠として押し出しているものが、銀行券に限定された現象ではないことを指摘したわけである。だからまたそれは決して「資本の問題」ではなく、その限りでは「貨幣の問題」であるということが明らかになったといえるであろう。

《補足追加》 【マルクスは1851年2月3日付けエンゲルスへの手紙で、次のように述べている。

 〈そこで、イギリスでは純粋に金属流通が行われているものと前提しよう。だからといって信用制度がなくなったと前提するわけではない。イングランド銀行はむしろ同時に預金、貸付銀行に変わることになるだろう。だが、その貸し出しはただ現金貨幣だけでなされることになるだろう。〉 (『資本論書簡』国民文庫1)85頁)

 このようにここでマルクスはもし〈純粋に金属流通が行われているものと前提〉すると、〈イングランド銀行は……預金、貸付銀行に変わることになる〉と述べている。そしてマルクスは地金が海外に流出するケースをいくつかに分けて分析しているが、しかしその場合に手形割引による貸し出しを想定しており、純粋の金属流通を前提したからといって、手形割引を想定から外すといったことはしていない。これは注意点として補足しておく。】

(以下、続く)

2015年9月15日 (火)

林理論批判(18)

 〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.9〉

報告文書〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉(林紘義)の批判的検討

§§ 第3章 いわゆる「再生産表式」の幻想--資本の流通過程と社会主義の分配法則(続き)

(の続き)

●〈越村は、第 I 部門の4000 cについて、「これは第 I 部門で費消された不変資本の価値に等しく、かつ第 I 部門で使用された生産手段の形態で存在している」と言うだけだが、新しく生産された生産手段は、必ずしも「第 I 部門で使用された生産手段の形態で存在している」とは限らないこと、使用価値として、いくらでも違ったものであり得ること、を越村は理解していない。
 ただ「価値」の観点からするなら、越村の言うことは正しいだろう、しかし越村はここで新しく生産された生産手段は、古い生産手段のコピーのようなもの--まるで、機械が自動的に機械を、ロボット(自動機械)がロボット(自動機械)を再生産するかに--として理解するのであり、有用的労働の本性を理解していないのである。「単純再生産」の枠内の理論だから、全く同じ生産手段を想定するのは当然だと簡単に言うべきではない。「単純再生産」と言う概念は、ただ「価値」の側面からのみ言われているにすぎないのである、つまりそれは資本の蓄積を前提した、「自己増殖する価値」(拡大再生産) の概念ではない、ということである。
 実際には、第 I 部門(生産手段生産部門) の使用価値の全体が、つまり生産手段の全体が--これはもちろん、価値としては6000である--、第 I 部門の「現在完了の労働("生きた労働")」の2000によって、その有用的労働の機能によってのみ、新しく生産されたのである。〉
(36頁)

 これは越村の著書から引用したあと、それに対する批判として言われている。批判の観点として便宜的に次の四つに分けて考えよう。

 (1) I 4000cは使用価値としては、部門 I の生産手段からなっていると越村はいうが、それはさまざまな使用価値からなっている。
 (2)越村は新しく生産された生産手段をコピーのように考えているが、そうではない。有用労働の本性を理解していない。
 (3)単純再生産や拡大再生産という概念は、ただ「価値」の側面から言われているものである。
 (4)部門 I の使用価値全体が(これは価値としては6000だが)、2000の現在完了の労働(生きた労働)によって、その有用労働によって新しく生産された。

 それぞれについて吟味する。

 まず(1)についてだが、先に、マルクスが総商品資本を不変資本部分、可変資本部分、剰余価値部分に分けて考える、根拠になった分析(第2部初稿)を紹介したが、それをもう一度思い出してみよう。それはつまりこういうことである。今、具体的な例をもとに考えよう。ここに石炭を生産する資本家がいるとする。彼は前年度に6000トンの石炭を生産したが、そのために機械等に4000万円投資し、労働者を雇用するために、1000万円使い、自分の儲けとして1000万円を考えているとしよう。そうすると今、彼の前には前年度の生産物である6000トンの石炭があるのだが、それを彼はすべて販売する(そして6000万円を得る)予定なのだが、そのうち4000トンの石炭の山を指さして、これを売った金で再び今年度の石炭生産に必要な機械等の購入に支出する予定だと考え、もう一つの1000トンの石炭の山を指さして、これを売った代金は、今年度に労働者を雇用して、彼らに支払う代金にしようと考え、もう一つの1000トンの山を指さして、これを売ったものこそ、自分のために使える金になると考えたとしよう。つまりここでは不変資本部分も可変資本部分も、剰余価値部分もすべて石炭という一つの使用価値としてあるが、しかし価値としてはそれを担う使用価値が何であるかは何も問われないのだから、不変資本という価値部分を指すものとして4000トンの石炭を考えても、可変資本という価値部分として1000トンの石炭の山を考えても、あるいは自分の儲けとして1000トンの石炭の山を考えても良かったわけである。
 とするなら、翻って、部門 I 全体の総生産物を考えてみよう。それらは使用価値としては、当然、生産手段からなっている。そして林氏がいうように、〈使用価値として、いくらでも違ったものであり得る〉。しかし、それらはその物的・素材的条件から、ある部分は部門 I の生産手段として使える使用価値として存在し、他の部分は部門IIの生産手段になる使用価値として存在しているといえるだろう。そしてそのように分けられる生産物は、同時にその価値の大きさかから見れば、生産手段の生産手段という物的形態を持っている生産物は、価値としては全体で4000であること、また部門IIの生産手段の物的形態を持っている生産物は、全体で2000の価値を持っていることもわれわれは知っている。こうして、部門 I の総生産物(総商品資本)は、大きく分けて二つの特徴を持った使用価値からなり、それぞれの価値の大きさの比率は生産手段の生産手段=4000、消費手段のための生産手段=2000となっていることが分かる。しかしもちろん、価値としてはそれがどういう使用価値を持っているかということは何の関係もない。だからそれらの総生産物(総商品資本)は価値としては、今度は、大きく、不変資本価値部分4000、可変資本価値部分1000、剰余価値部分1000に分けることができるわけである。それらは不変資本価値部分、可変資本価値部分、剰余価値部分という名前で呼んでいるが、もちろん、価値としてはまったく同じであって何の区別もない。ただ価値の量的割合として不変資本や可変資本として投下された価値と同じだけの価値量を持っている、あるいは剰余価値として資本家の収入に予定されている価値量と同じ大きさだ、というに過ぎない、つまりそれらは将来的にはそれらの価値は、資本の循環から見るなら、不変資本として生産手段の購入に投下され、可変資本として労働力の購入のために投下され、あるいは剰余価値として資本家の収入になることが予定されているものであり、だから不変資本、可変資本、剰余価値という価値につけられた名称は、あくまでも資本の循環という観点から、その循環の諸形態を想定して述べているわけである。だからまた、不変資本価値部分が、どういう使用価値からなっているか、ということは、それが不変資本部分だということとはまったく何の関係もないわけである。しかし何の関係もないということは、不変資本価値部分4000を、今、部門 I の生産手段だけで成り立っていると考えても、別に差し支えないということでもある。また可変資本価値部分や剰余価値部分も部門IIの生産手段からなっていると考えてもまた差し支えないことになる。そして価値の大きさとしては、まったくそれぞれはぴったり一致するのだから申し分はない。だからマルクスが、 I 4000c部分、つまり部門 I の総生産物の総価値のうち価値の大きさとして、不変資本部分とわれわれが呼んでいる価値の大きさと同じ大きさのある部分を、部門 I の生産手段だけからなっている生産物で代表させたからといって、誰も文句は言えないだろう。しかし、どうやら林氏は文句を言えると考えているらしい。林氏はあえて4000cをさまざまな違った、だから部門IIの生産手段になりうる生産物からもなっているものと考えたいらしいのである。しかし、林氏はどうしてそのような生産物に4000cの価値部分を代表させる必要があるのであろうか。その理由を述べるべきではないか。そしてその場合は、価値の大きさとしてはどのように考えているのであろうか。それも答えるべきである。
 次は(2)の問題である。越村は生産手段の生産をコピーのように考えているというのであるが、しかし、林氏はそのように批判する根拠を、越村の著書から引用して示しているわけではない。林氏が引用しているのは、次のような一文だけである。

 〈「(1)第 I 部門の生産物4000 cの運動。
 これは第 I 部門で費消された不変資本の価値に等しく、かつ第 I 部門で使用された生産手段の形態で存在している。したがってこの生産物部分は第 I 部門に属する個々の資本家間の自家充用あるいは相互交換をつうじて、第 I 部門自体の生産的資本P中の不変資本部分4000 cの補填に役立てられる。〉

 しかしこれを読むだけでは、越村が〈新しく生産された生産手段は、古い生産手段のコピーのようなもの--まるで、機械が自動的に機械を、ロボット(自動機械)がロボット(自動機械)を再生産するかに--として理解〉しているのかどうかは分からない。越村の著書の林氏が引用している以外のところで越村がそのように述べているのかというと、著書をすべて調べ尽くしたわけではないが、それに該当する部分は分からない。林氏が引用している部分は、越村が〈生産物の形態転化を媒介する貨幣を考慮の外に置き、生産物の運動方向のみを眼中において、その再生産軌道を探求する〉として述べている部分である(林氏が引用に際して、こうした越村の前提を紹介していないのだが、これはやはり引用の仕方としては適切とは言えないだろう。)
 越村は林氏が引用したあと引き続いて、〈貨幣流通を考慮に入れつつ、より立ち入って分析をしよう〉としている。そして〈「3 第I部門の生産物 I cの内部流通」〉という項目を立てて考察を行っている。そこでは次のように述べている。

 〈第 I 部門で生産された生産物4000c+1000v+1000mのうち、ます4000cの運動をより立入つて考察しよう。この価値部分は、前年度においてこの商品の生産に充用され、かつ費消されたところの不変資本の価値にひとしい。この不変資本は今年度においては、相等しい価値をもつところの生産手段によって補填されなければならない。ところでこの生産物部分は、現物形態においては生産手段から、すなわち不変資本の物質的諸要素から成りたっている。したがつてこの生産物部分は第 I 部門の内部流通をつうじて、不変資本4000cの補旗に充当されるのである。
 しかるに第 I 部門の不変資本は、製鉄所にいくら、炭鉱にいくら、各種の機械器具製作工場にいくらというように、種々様々な生産手段の生産部門に投ぜられたところの各種の不変資本の集団からなっている。それゆえ第 I 部門の生産物中の不変資本価値部分の内部流通もまた、各種の生産手段の細分化した無数の流通を包含している。これらの個々の流通は、二種の流通に総括される。
 第一は、現物による自家補填であつて、この場合には、たとえば穀物が種子として穀物生産に、石炭が燃料として石炭生産に、機械が工作機械として機械の生産に入りこむように、それらの生産物が、直接それを作出した生産部門自体でふたたび生産手段として充用されるのである。
 第二は、第 I 部門にふくまれる各種の産業部面における諸種の生産手段の交換であって、この場合には、個々の資本家たちのあいだで、たとえば鉄と石炭、機械と油というように、ある種の生産手段と他の種類の生産手段とが相互に流通しあうわけである。〉(182-3頁)

 このように引用した文章では、林氏がいうような主張が越村に見られるわけではない。さらに越村は新たな図を示して詳しくこの部分の流通を見ているが、いずれにしても、林氏がいうような〈新しく生産された生産手段は、古い生産手段のコピーのようなもの--まるで、機械が自動的に機械を、ロボット(自動機械)がロボット(自動機械)を再生産するかに--として理解〉していると思えるような一文を捜すことはできないのである。林氏はそのように批判するなら、その根拠となる越村の一文を示してから批判すべきではないか。そうでないとこれは誹謗中傷の類になりかねない。
 (3)の部分に移ろう。つまり〈「単純再生産」と言う概念は、ただ「価値」の側面からのみ言われているにすぎない〉という主張についてである。
 われわれはまず、越村自身はどのように述べているのかを見てみることにしよう。越村は「問題の提起」と題した部分で「同等不変な規模のうえで行われるところの単純再生産の過程」について説明している。この場合「同等不変」というのは、林氏が理解するように、まったく同じ生産手段が再生産されるという意味ではなく、「同等不変な規模」と書いているように規模が同じという意味だから、この限りでは林氏の批判はあたらないであろう。この「単純再生産の過程」について、越村は次のように説明している。

 〈もちろん、資本主義社会の再生産過程は、蓄積あるいは拡大された規模のうえでの再生産を基本的な運動法則とするものであり、その意味においては、剰余価値の個人的消費と資本の単純再生産とを取り上げるということは、一見奇妙に考えられないことでもない。単純再生産はこの意味において、資本の現実的運動からみれば一つの抽象として現れる。「しかし蓄積が行われる限り、単純再生産は常に蓄積の一部分をなし、したがってそれ自体として考察されうるのであり、そして蓄積の現実の一要因なのである。」それ故マルクスの分析は、まず単純再生産からはじまる。〉(175頁)

 このように越村は『資本論』の一節を紹介しながら説明しているのであるが、ここにはどんな疑問もさしはさむ必要のない説明があるように思うのであるが、どうであろうか。
 それはそうと問題は、〈「単純再生産」と言う概念は、ただ「価値」の側面からのみ言われている〉という林氏の主張である。これについては、私は先に(第3章の1の最初のパラグラフに関連して)、マルクスが拡大再生産の概念として何を問題にしているのかをマルクスの第2部第8草稿の一文を紹介して論じたことがある。その時に私はそのマルクスからの引用文をかみ砕いて説明するために、単純再生産と拡大再生産の表式を並べて、次のように説明したのである。

 【マルクスが先の引用文で指摘しているのは、次のような事実である。B( I )の資本家は、1000mの剰余価値のうち500mを個人的に消費し、500mを蓄積に回す。つまり1000mの剰余生産物のうち半分は部門IIに売り、残り半分は部門 I に売るのである。とするなら、その剰余生産物の半分は部門IIの生産手段、残りの半分は部門 I の生産手段、つまり生産手段のための生産手段でなければならない。つまり蓄積するということは、剰余生産物の内容がすでに蓄積が可能な形態でなければならないということなのである。
 同じことは、だから単純再生産でも言える。A( I )の資本家は剰余価値1000mをすべて個人的に消費すると前提されている。とするなら、その1000mの剰余生産物をすべて部門IIに販売するわけである(そしてそれと引き換えに部門IIの1000cの個人的消費手段を購入して消費する)。だから1000mの剰余生産物は部門IIの生産手段、つまり個人的消費手段の生産のための生産手段として生産されていなければならないことになるのである。
 だからわれわれが単純再生産だ拡大再生産だというが、それはそもそも社会の生産の形態、あるいは構造がそうしたものになっているということが前提されるのだ、とマルクスは指摘しているのである。単に剰余価値の一部、あるいはそれを貨幣に転換したものを、収入として消費に支出せずに、貨幣資本として蓄積に回すというだけではなく(個別資本だけを見ているなら、それだけの問題であるように見えるのだが)、社会的な総再生産の過程として考察するとそうしたことだけでは駄目であり、社会的な生産の物質的な構造、つまり生産過程の物質的条件と、その生産物の内容(特に剰余生産物の内容、だから剰余労働の具体的な形態)が問われるのだとマルクスは指摘しているのである。つまり単純再生産や拡大再生産というのは、社会の物質的な生産構造そのものがそうしたものになっていないとそれは出来ないのだ、というのがマルクスが述べていることなのである。】

 だから林氏が単純再生産の概念として述べていることは、まったく蓄積や拡大再生産をただ表面的に捉えたものに過ぎないのである。もちろん、それは間違いというのではない。しかし社会的総資本の蓄積や拡大再生産の概念としては十分ではないのである。マルクスは第8稿の現行版の第21章該当部分(拡大再生産と蓄積)の冒頭、第1部での考察を振り返り、個別資本の考察では、蓄積は、拡大された規模での再生産だったことを指摘し、個別資本で生じたことは社会的な総資本についても妥当すると述べている。つまり社会的総資本としても蓄積は拡大された規模での再生産だと述べているのである。しかし、これが冒頭で指摘されているというのがミソである。つまりそれは蓄積や拡大再生産の直接的な規定として、すなわち表象として捉えられたものとしてマルクスは述べているのだからである。そこからマルクスは、さらに単純再生産の場合と比較しながら、拡大再生産の概念を解明していくのであり、その過程で、先に紹介した(第3章の1の最初のパラグラフに関連して紹介した第8稿の一文の)ような考察もあるのである。そしてマルクスは拡大再生産のためには、最初からそうした機能配置が必要だと指摘し、最初から拡大再生産の表式になっている、いわゆる(a)表式を提示し、それについて、次のように述べているのである。

 〈〔しかしながらa)で〕表式 I (単純再生産の表式--引用者)での額よりも小さい額を選んだのは、次のことが目につくようにするためにほかならない。すなわち、拡大された規模での再生産(これはここでは、より大きな資本投下で営まれる生産のことである)は生産物の絶対的大きさとは少しも関係がないということ、この再生産は、与えられた商品量については、ただ、与えられた生産物のさまざまな要素の違った配列あるいは違った機能規定を前提するだけであり、《したがって》価値の大きさから見れば単純再生産に過ぎない、ということである。単純再生産の与えられた諸要素の量ではなくてそれらの質的規定が変化するのであって、この変化が、そのあとに続いて行われる拡大された規模での再生産の物質的前提なのである。〉(大谷訳『経済志林』下8頁、下線はマルクスによる強調)

 つまりマルクスは拡大された規模での再生産は、社会的総資本として考えた場合、問題はその量的大きさではなく、例え価値の大きさかからみれば単純再生産と同じでも、その質的規定が変化すれば、それは拡大された規模の再生産の物質的前提になるのだというのである。これはどういうことかというと剰余労働の具体的な形態が単純再生産と拡大再生産とでは質的に違うのだということである。これは個別資本だけを見ていれば、分からないことであり、社会的総資本の再生産過程として見て初めて分かることなのである。そして林氏が問題にしているのは、いうまでもなく、後者の立場からであることは確認するまでもないであろう。だから林氏の単純再生産の概念のとらえ方は不十分なのである。むしろ単純再生産や拡大再生産はマルクスも述べているように、単に価値の量的大きさかや増大ということだけではなく、社会的に見れば、社会の生産過程そのものの現象、その構造の変化、つまり質的な相違の問題なのである。
 次は最後の(4)である。これは林氏の一文をそのままもう一度紹介してから始めよう。

 〈実際には、第 I 部門(生産手段生産部門) の使用価値の全体が、つまり生産手段の全体が--これはもちろん、価値としては6000である--、第 I 部門の「現在完了の労働("生きた労働")」の2000によって、その有用的労働の機能によってのみ、新しく生産されたのである。

 もちろん、これを間違いだなどというのではない。マルクスも簡単化のためにこのようにいうこともあると思えるからである。しかし I (1000v+1000m)は決して直接労働時間を表すわけではないし、現在完了の労働を表すわけではない。それは直接には前年度の生産過程で新たに追加された価値部分を表すのである。それに対して、 I 4000cは移転・保存された価値部分を表している。だからもし厳密に説明するなら、価値としては6000の部門 I の総生産物は2000の価値を追加的に形成する労働(その有用的属性)によって生産されたというべきであろう。それは4000の価値ある生産手段を使って、2000の新たな価値を追加する労働によって生産されたのであり、その労働の有用的属性によって6000の価値ある生産物の使用価値は生産されたのだと言えるわけである。これはだからまあ、それほど問題にすべきことはないといえる。
 確かにこのように適当な修正を加えれば、林氏のこの説明は間違いなどということはできない。しかしわれわれは、これまでの林氏の主張からするなら、どうしても一つの疑問を提示しなければならない。というのは、林氏は生産手段の使用価値全体を問題にし、その価値を6000だとし、それは〈第 I 部門の「現在完了の労働("生きた労働")」の2000によって、その有用的労働の機能によってのみ、新しく生産された〉という。しかし林氏にわれわれは聞かねばならない。〈第 I 部門の「現在完了の労働("生きた労働")」の2000〉が生産物に対象化する価値は幾らか? と。2000の労働が対象化する価値は2000でしかありえない。とするなら〈第 I 部門(生産手段生産部門) の使用価値の全体、--これはもちろん、価値としては6000である〉とはどうしても一致しない。残りの4000の価値は、一体、どこから生まれたのか? 誰がどの労働によって対象化したのか? つまり林氏は上記のように述べることによって、4000の価値は〈その有用的労働の機能によってのみ〉第I部門の生産手段の価値4000が新たな生産物に移転・保存されたことを認めざるを得ないのである。しかし自分勝手な林氏にとっては、こんな疑問や自分の主張との矛盾などどうでもよいのではあるが。

●〈機械が機械のコピーを生産するかの観念は、越村の図示した「再生産表式」そのままである、つまり再び存在している生産手段は、第 I 部門の2000の「有用的労働」によって生産された--再生産された--ものであることが確認されていないのである。つまり彼の「再生産表式」は事実上、ただ価値の側面においてのみ妥当であって、有用的労働とそれによって生産された使用価値の面については何も語っていない、あるいはあいまいなままに放置されているのである。それは生産手段を生産する労働を、有用的労働の関係として、また抽象的労働の関係として、さらにはその両者の関係において、明瞭に提示してくれていないのであり、したがって我々のテーマの解明のためにはほとんど意味を持たないのである。〉(36-7頁)

 まず〈機械が機械のコピーを生産するかの観念〉が越村にあるという根拠を林氏は何も示していなかったが、どうやらそれは越村の図示した「再生産表式」から伺えるというもののようである。しかし、まず疑問に思うのは、越村の図は、生産手段の具体的な内容について何も語っていないことである。それはただ白色の囲みで示されているだけである。つまりこの白い囲みということがそれが生産手段であることを表示しているわけである。しかしそれをもって、林氏のように〈機械が機械のコピーを生産するかの観念〉を示しているなどとは言えないであろう。生産手段は生産手段であって、前年に生産された生産手段も今年度の生産の結果である生産手段も、その具体的な種類や内容は異なるかもしれないが、生産手段という範疇で括られるかぎりでは同じになるのは道理であって、それをもって、〈機械が機械のコピーを生産するかの観念〉だなどという批判は果たして正当な批判と言えるであろうか。
 そしてそもそも〈機械が機械のコピーを生産するかの観念〉と〈再び存在している生産手段は……「有用的労働」によって生産された--再生産された--ものである〉ということとどんな関係があるのであろうか。越村は労働者の労働もなしに、ただ機械が機械のコピーを生むというような観念に陥っているとでも林氏は言うのであろうか(そういえば思い出したが、林氏が「有用労働による価値移転論」を批判した一文にはそれと同じような観念に陥っていたところがあり、それを私は批判したことがあるが、むしろそうした観念に陥っていたことがあったのは林氏本人ではないのか、林氏はそれを批判した私の論文--確かこの批判文も『海つばめ』に投稿したがボツになった気がする--を思い出したのかどうかは分からないが、そうした批判を今度は越村に押しつけているわけである)。しかし、これは越村に対する誹謗中傷の類以上ではない。越村に、そんなことが分からない筈がないからである。
 果たして越村は部門 I の新たな生産物W’の使用価値全体が2000の労働の有用的属性によって生産されたものだということを理解していないのであろうか。しかしこんなことはある意味で当たり前のことなのである。なぜなら、そもそも再生産表式で表されている総商品資本(総生産物)は、前年度の総生産の結果であって、それは前年度の労働によって生産されたものであることは、当然の前提としているからである。事実、越村自身も、再生産過程を考察する前提をいくつか述べているが、その中に、次のようなものがある。

 〈(3)資本の回転度数を年1回とすること〉(175頁)

 つまり資本の回転を年一回にするということは、表式で表されているW’は、前年度の労働によって生産された総商品資本(総生産物)であることは当然の前提なのである。だからそれらが前年の労働によって、つまり林氏が〈"生きた労働"〉としている労働によって生産されたことは前提されているのである。林氏はそれが〈"生きた労働"〉の具体的有用労働の属性によって生産されたのだという認識が越村にはないかに言うのであるが、しかし、越村は、総商品資本(総生産物)の価値を前年以前から受け継いだ不変資本の価値と前年度に追加された価値との合計として考えているのであって、その価値をすべて前年度に形成されたものとは考えていないのである。だから総生産物を生産したのは具体的な有用労働であることは当然ではないだろうか。越村がそれを念を押して確認していないからといって、越村にそうした認識がないとは言い得ないであろう。
 そればかりか、われわれは林氏こそ、こうした認識が無かったことを知っている。われわれは林氏が労働の二重性が再生産過程でも問題になることを否定したのに対して、それが重要であることを指摘し、林氏はスミスと同じ誤りに陥っていることを暴露したのであった。すなわち林氏は、年生産物価値と年価値生産物との区別が出来なかったのである。以前の林氏の主張とそれに対する私の批判を少し紹介しておこう。林氏はかつて次のように主張していたのである。

 〈だから「有用的労働による価値移転論」は、それがあり得るとしても、『資本論』のこの個所(搾取――剰余価値の生産――のメカニズムを説明する)においてのみ意義を持つのであって、何か人間の生産的労働の一般的な理論であるかに、商品を生産する社会的労働の普遍性であるかに言いはやすのはナンセンスでしかないのである。〉(1138号)

 これに対して、私は次のように批判した。

 【しかし有用労働による価値の移転の問題は、資本の回転のところで考察される固定資本と流動資本との区別や、あるいは社会的総資本の再生産のところで問題になる、社会の総商品資本の価値と素材における補填関係を考察する場合にも重要な意味を持つのであって、決して、この第5章や第6章だけの問題ではないし、ましてやただ〈搾取――剰余価値の生産――のメカニズムを説明する〉だけの問題ではないのである。そればかりか、われわれが確認したように、マルクス自身は、〈搾取――剰余価値の生産――のメカニズムを説明〉しているのは、価値増殖過程の問題としてであり、そこでは有用労働による価値の移転そのものは問題になっていないのである。】

 さらに林氏は次のようにも言っていた。

 〈例えば、資本の再生産(循環)においては(さしあたり、我々は「単純再生産」を前提として議論する)、その概念が問題になるかぎりでは、こうした理屈は意味を持たないであろう。〉(同)

 そしてそれに対しても、次のように批判したのである。

 【しかしこれはとんでもない主張である。単純再生産においては、生産手段の価値が移転するからこそ、マルクスも指摘するように、年間の生産物価値と年間の価値生産物とは違ってくるのだからである。社会の総商品資本(総生産物)は確かにその一年間の有用労働の産物である。しかし社会の総商品資本の価値(総生産物の価値)は、決してその一年間に支出された抽象的人間労働の対象化したものだけではないのである。なぜなら、総商品資本の価値は、前年度以前に生産された生産手段の価値が今年度の有用労働によって移転した価値も含まれるからである。マルクスが想定している単純再生産の表式の具体的数値をもとに考えてみよう。社会の総商品資本の価値は9000である。しかしここには6000の前年度に支出された価値が含まれており、今年度に創造された価値は3000に過ぎないのである。だから〈資本の再生産(循環)においては(「単純再生産」を前提として議論する)、その概念が問題になるかぎりでは、こうした理屈は意味を持たない〉などというのは、単純再生産のなんたるかが分かっていないとしか言いようがない。例えば生産手段の生産部門の1000の価値をもつ労働力は、その具体的有用労働においては、6000の価値ある商品生産物を生産したのである。しかしそれは抽象的人間労働としては2000の価値しか生み出していないのである。では残りの4000はどうしたのか? 林氏は答えることができるのであろうか。それは前年度に生産された生産手段(生産手段の生産のための生産手段)が、今年度の生産手段を生産する具体的有用労働によって移転された価値なのである。そして同じことは消費手段部門についても言いうる。部門IIの500の価値をもつ労働力は、その具体的有用労働によって3000の価値ある消費手段を生産したのである。しかしその抽象的人間労働においては、1000の新たな価値を追加したに過ぎない。残りの2000は前年に部門 I で生産された生産手段の価値がその500の価値をもつ労働力の有用労働によって生産物(消費手段)に移転されたものなのである。林氏の〈“有用労働による価値移転論”批判〉が再生産論に対する飛んでもない間違い(スミスとまったく同じ間違い!)につながっていることをわれわれは確認することができる。これはとりもなおさず、〈「有用的労働による価値移転論」は、それがあり得るとしても、『資本論』のこの個所(搾取――剰余価値の生産――のメカニズムを説明する)においてのみ意義を持つ〉などと考えることが正しくないこと、そのように考えるからこそ、林氏は、社会的総資本の再生産についても正しい理解ができないのだということを示しているのである。】

 もっとも林氏は、今回の報告文書では、次のように反省の言葉を述べている。

 〈そればかりではない、むしろ我々が「錯誤」という言葉で表明した勘違い--我々のすべてが自然発生的に陥っていた勘違い--の原因にさえなったのである。〉(37頁)

 もちろん、ここで〈我々〉というのは正確ではない。それは林氏本人であって、むしろ「私は」と書くべきところである。だから〈我々のすべてが自然発生的に陥っていた勘違い〉などいうのは自分の誤りの責任を他に転化しようとするいやらしい根性が透けて見えてくる。
 思い出しついでに、林氏が〈機械が機械のコピーを生産するかの観念〉に陥っていたときにどのように主張し、それを私がどのように批判したのかも振り返っておこう。それは1135号の論文である。林氏は次のように論じていた。〔なお、この『海つばめ』の記事を批判した一文も、あるいはこのブログで紹介する機会があるかも知れない。〕

 〈ナイフや弓が、確かに偉大な生産力であり――この水準の発展段階の人間社会にとって――、次期のナイフや弓を作り出す上で不可欠であるとしても、それはナイフや弓を作り出す労働に取って代わるものではなく、また代わることができないということが見逃され、忘れられるのである。〉

 これに対して、私は次のように批判したのである。
 【これを見ると、林氏はどうやらナイフは次期のナイフをつくり、弓は次期の弓を作ると考えているようである。確かに生産手段のなかには次の生産のための手段になるものがある。例えば生産物としての石炭は、石炭の生産のために再び生産手段として、燃料として役立つ、収穫された穀物は生産物であるが、それを次期の播種に使うなら、それは生産手段である等々。しかしナイフが次のナイフの生産のために不可欠であり、弓が次の弓の生産のため不可欠となるというのは聞いたことがない。しかしこの一文では、それこそナイフは“無媒介的に”に次のナイフを作り出す上で不可欠なのだそうである。こんな途方もない観念は例えブルジョアでも持たないであろう。もっとも林氏は、いや無媒介的にではない、労働が媒介するのだともおっしゃる。そしてそれがブルジョア的意識には見逃される、と。しかし何度もいうが、そんなことを例えブルジョアであっても見逃すはずはない。ナイフや弓もそれを作るために一定の労働が支出されなければならないことぐらいはブルジョアだって分かるであろう。ナイフが次期のナイフを作り出すなとという突飛な観念こそ、驚きいったものではないか。林氏はナイフや弓などの生産手段も、母牛が子牛を生むように、自己増殖するとでも考えているのであろうか。例えブルジョアだって、“母ナイフ”が“子ナイフ”を“生む”などという観念を持つはずがない。】

 このように〈機械が機械のコピーを生産するかの観念〉というのは、林氏が自分が以前持っていた観念だったというわけである。

●〈越村は、第 I 部門と第II部門の〔C〕と〔v+ m〕との相互補填についても、第 I 部門の1000vと剰余価値1000mは、第 I 部門ではどうしようもないから、「ともに消費資料に支出されなければならぬ」、第II部門のcは、第II部門では役に立たないから、「生産手段の更新に充用されねばならぬ」といった恣意的、形式的な説明--「ゾレン」から出発する関係としての--をするのであり、また「要するにこの取引においては、両部門における等しい価値の生産物が、資本家としては、自らの部門では用途を見出しえず、それぞれ他の部門でのみ、あるいは生産的に、あるいは個人的に消費され得るにすぎない。したがってこれらの生産物は両部門で等価関係において交換されるのである」と結論してすますのである。
 総資本の再生産のための前提を形成し、それを準備するために、こうした資本の流通過程が、商品資本の諸部分、諸契機が相互補填されるのであり、それが必然的となるのであって、使用価値が「自らの部門では用途を見出し得」ないから相互に交換されるといった、恣意的な問題ではない。
 こうした説明に帰着するのは、越村の「再生産表式」が一面的なものであって、社会主義における「価値規定による分配」という法則も--資本の流通過程の「価値」の側面の説明としては、間違いではないにしても--明らかにし得ない--そのための出発点となり得ないことを示しているのである。
(37頁)

 越村の「再生産表式」が〈社会主義における「価値規定による分配」という法則も……明らかにし得〉るかどうかは知らないが(しかし念のために断っておくと、越村自身は、同じ著書のなかで「社会主義社会の経済表」という図式を明らかにしている)、こうした批判はほとんど言いがかりに過ぎないであろう。なぜなら、越村は当然、社会的な総資本の再生産を説明しているのだからである。だからそれに対して〈総資本の再生産のための前提を形成し、それを準備するために、こうした資本の流通過程が、商品資本の諸部分、諸契機が相互補填される〉などと言ってみても、そんなことは当たり前のことであり、問題は、だから部門 I で生産された生産物と部門IIで生産された生産物とはどのような補填関係にあるのかを見ているだけなのである。
 林氏は越村の説明の仕方は〈恣意的、形式的な説明〉だというのであるが、しかし、林氏自身も次のように説明していなかったであろうか。

 〈資本の生産過程の結果としての商品資本は、生産部門では生産手段の形態であり、他方消費部門では消費手段の形態を取っており、どちらの部門も生産過程に入っていくことができない、というのは、たとえ生産物が商品(商品資本)の形態をとってはいても、生産部門は生産手段(不変資本の形態における) と労働力(可変資本の形態における) の結合としてのみ生産過程だからである。
 この過程を見ると、そのために、第 I 部門の生産手段の一部と、第II部門の消費手段の一部が流通過程を通して相互に補填されなくてはならない、つまり配置転換されなくてはならない。そしてこれが生産過程の前提としての流通過程であり、またその役割である。資本主義的生産では、このことはただ商品の流通によってのみなされ得るのであり、なされなくてはならないのである。
〉(34頁)

 このように林氏も〈資本の生産過程の結果としての商品資本は、生産部門では生産手段の形態であり、他方消費部門では消費手段の形態を取っており、どちらの部門も生産過程に入っていくことができない〉だから、〈第 I 部門の生産手段の一部と、第II部門の消費手段の一部が流通過程を通して相互に補填されなくてはならない、つまり配置転換されなくてはならない〉というように、〈ならない〉、すなわ〈「ゾレン」から出発する関係として〉として説明しているではないか。もし越村の説明を〈恣意的、形式的な説明〉だというなら、上のような林氏の説明も同じことが言えるのではないか。これではまるで天に向かって唾を吐くようなものである。

●〈そしてこのことは、林の提起した問題は、「第 I 部門のvとmが、第II部門のcと交換されるという形で、すでに解決されている」という田口等の主張がナンセンスであって、資本の流通過程のこうした現象からは--それは「価値法則」の貫徹の一つの契機であるにすぎない、つまりブルジョア的"経済法則"の枠内の問題にすぎない--、社会主義における分配の問題、「価値規定による(個人的)分配」の問題を理論的に解明することは決してできないことを教えている(事実田口は、自分の解決を示すことはできなかったし、今後もできないであろう)。〉(37頁)

 ここで〈このこと〉というのはいま一つよく分からないが、要するに〈越村の「再生産表式」が一面的なもので、社会主義における「価値規定による分配」という法則も明らかにし得ない--その出発点となり得ない--こと〉のようである。
 どうもこれだけでは林氏の批判点はいま一つよく分からない。それに対置するものが、この段階ではまだ提示されていないからであろうが、いずにせよ、林氏は資本主義における社会的な総資本の再生産を表示する表式、あるいはそのための図式であっても、それは〈社会主義における「価値規定による分配」という法則も明らかにし得〉るし、〈その出発点となり得〉るとどうやら考えているようなのである。果たしてそれはどういうものか、それは林氏の提示する図式を見てから検討することにしよう。

 (以下、続く)

2015年9月10日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-23)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

 今回から、本来のテキストの解読に復帰する。

【39】 (これまで銀行学派の主張にそって、発行された銀行券がどうなるかについて、1) 地金の輸出のために銀行券が貸し付けられた場合、つまり地金との交換によって銀行に還流する場合と、2) 支払手段として貸し付けられた銀行券が預金として還流する場合、3) 同じように支払手段として貸し付けられた銀行券が満期手形の支払として還流してくる場合について検討したが、ここではそれ以外の銀行券の還流のケースについて検討している)

〈私営発券銀行の場合には,次のような違い〔がある〕。すなわち,自行の銀行券が地方的Circulationのなかにとどまっているのでもなく,また預金または満期手形の返済のかたちで同行自身に帰ってくるのでもない場合には,同行は,同行の銀行券を手に入れた人々に,それと引き換えに金またはイングランド銀行券を返さなければならない,ということである。この場合には,同行にとっては,同行の銀行券の前貸は,事実上はイングランド銀行券の前貸を意味し,または,同行にとっては同じことであるが,金の前貸を, したがってその銀行の銀行業資本の前貸を表わしているのである。同様に,イングランド銀行自身が--そしてこのことは,銀行券発行の最高限度を法定されているすべての銀行にあてはまるのであるが--,同行自身の銀行券をCirculationから引き上げて次にふたたびそれを発行するために公的有価証券を売却しなければならない場合には,同行にとっては,いまや自身の銀行券が,同行の譲渡された銀行業資本の一部分を表わしているのである(大谷訳260頁)

 一応、前パラグラフ(38)で、銀行学派に決定的に影響を与えているイングランド銀行における有価証券の保有高と銀行券の流通高が反対に動くという現象は、実際はどういう事なのかについての分析は基本的に終わっている。マルクスはここからは、フラートンら銀行学派の主張にもとづいて銀行券の発券銀行への還流を考えるならば、これまで検討してきたケースだけではなく、それ以外にもあることを指摘しようとしているように思える。実際、銀行学派は【29】パラグラフの原注で引用されていたフラートンの主張を見ても分かるように、イングランド銀行と地方の私営発券銀行とをまったく同じと見なす立場に立っていたのである。だからその意味でもこうした批判的検討は必要と考えたのであろう。そういう観点から、若干、説明を加えた解読をしておこう。

 〈われわれは、イングランド銀行の場合、銀行券が還流してくるケースを一つは地金の輸出を理由に貸し出された場合(だから地金との交換という形で還流する場合)、あるいは支払手段の必要から求められて貸し出された場合で、預金として還流してくる場合と満期手形の支払として還流してくる場合とについて検討した。しかしではそれ以外に銀行券が還流してくるケースはないのかというとそうではない。そうした場合についても検討しておこう。
 イングランド銀行の場合には考えられないが、地方の発券銀行、つまり私営発券銀行の場合には考えられる銀行券の還流のケースであるが、それは次のようなものである。すなわち、自行の銀行券が地方的流通のなかにとどまっているのでもなく、また預金または満期手形の返済のかたちで同行自身に帰ってくるのでもない場合には、同行は、同行の銀行券を手に入れた人々に、それと引き換えに金またはイングランド銀行券を返さなければならない、ということである。なぜなら逼迫期には地方の私営銀行の銀行券は信用がなくなり、それを入手した人々は誰でもそれをもっと確かな金あるいはイングランド銀行券に換えようとするからである。こうした場合も確かに銀行券は銀行に還流する。そしてこの場合は、同行にとっては同行の前貸は、事実上はイングランド銀行券の前貸を意味し、または、同行にとっては同じことであるが、金の前貸を、したがってその銀行の銀行業資本の前貸を表しているのである。なぜなら、それは彼らにとっては(彼らの元帳の立場からすると)紙と印刷費以外に費用のかからない銀行券が費用のかかる前貸に転化したことを意味するからである。
 もう一つ銀行券が還流するケースとして考えられるのは、--これはイングランド銀行にもまた銀行券発行の最高限度が法定されているすべの発券銀行にもあてはまるのであるが--すでに発行した銀行券が法定の発行限度額に達している場合に、新たに銀行券を追加発行するためには、同行自身の銀行券を一旦流通から引き上げるために公的有価証券を売却しなければならない場合である。この場合も確かに銀行券は発券銀行に還流する。そしてこの場合にも、同行にとっては、いまや自身の回収した銀行券は銀行業資本の一部分を表している。なぜなら、同行はその銀行券の代わりに、同行が保有していた公的有価証券を売却したのであり、だからもはや次に発行される銀行券は、元帳の立場から見て、紙と印刷費以外何の費用もかかっていないとはとても言えないからである。〉


《補足・【39】パラグラフの考察--以下の文章は、【39】パラグラフの私自身の考察過程であり、何かの参考になるかと紹介するだけで、興味のない人は飛ばして読んでいただきたい。》

 このパラグラフは、〈私営発券銀行の場合には、次のような違いがある〉という書き出しから始まっている。つまりこれはそれ以前にイングランド銀行の場合について分析してきたあとを継いだものだから、当然、発行された銀行券がどうなるのか、という分析についてである。これはいうまでもなく、フラートンらがイングランド銀行と地方の発券銀行をまったく同じものとして見ているから、単にイングランド銀行だけではなく、私営発券銀行の場合も、発行された銀行券の還流がどのようになされるかを見ていると考えることが出来る。
 イングランド銀行の場合、それはまず、1) 地金の輸出を目的とした貸付の場合と、2)  国内における支払のための貸付とにわけられ、後者は、① 銀行券が預金として還流してくる場合と、② 満期手形の支払として還流してくる場合について、それぞれ分析され、そしていずれもそれらが還流してくる理由は銀行学派がいうような「資本の貸付」だからではなく、それが支払手段(国際的支払手段および国内の支払手段)として貸し出されるからであり、その意味では「資本の問題」ではなく、あくまでもその限りでは「貨幣の問題」なのだというのがマルクスの批判であった。しかも②のケースでは銀行学派のいうような意味での「資本の貸付」とさえ言えないことも指摘されたのであった。
 そしてこのパラグラフでは、私営発券銀行の場合には、次のような違いがある、と述べて、地方の銀行券の場合、地方的な流通のなかにとどまっているのでもなく、また預金や満期手形の返済の形で同行自身に帰ってくるのでもない場合には、結局、同行は銀行券を手に入れた人々に、それと引き換えに金またはイングランド銀行券を返さなければならない、ということが指摘されている。これは逼迫期には、そうした地方の銀行券を入手した人たちは、それを一刻も早く手放そうとするのだが、しかしもはやそれでの支払に他の資本家たちは応じてくれないので、それなら発行した地方銀行に持ち込んで、それをより安心な金かイングランド銀行券に換えようとするからである。そして当然、地方の発券銀行はそれに応じなければならない。
 そしてこの場合には、同行にとっては同行の銀行券の前貸は、結局、金かイングランド銀行券で前貸ししたのと同じことになり、だから同行にとっては銀行業資本の前貸しを表しているのである。
 つまりこの場合、地方の発券銀行から銀行券で前貸しを受けた資本家Aは、少なくともそれを支払に利用できたことが前提されている。だからそれはまだ逼迫期ではなく、信用も動揺していない時期だったのかもしれない。そしてその資本家Aから地方銀行券で支払を受けた資本家Bは、しかし彼はすぐにそれをその銀行に預金したわけでもなく(彼はその銀行と取り引きが無かったからかもしれない)、とりあえず次の支払に使おうと所持していたのかも知れない。ところがBが支払おうとするときになると状況はすでに逼迫期に突入しており、もはや地方の銀行券では支払が出来ない状況に陥ってしまったのである。だからBはそれを発券銀行に持ち込み、金かまたはイングランド銀行券への交換を要求するわけである。そしてその結果、この発券銀行にとっては、最初のAへの銀行券での貸付が、結局は、金あるいはイングランド銀行券で貸し付けたのと同じ意味をもつとマルクスは指摘しているのである。
 こうしたことはそれ自体、それほど難しいことではない。問題は、なぜ、マルクスはこれをここで論じる必要があると考えたかである。〈私営発券銀行の場合に、次のような違いがある〉というが、その〈違い〉とはどういう〈違い〉であるかということである。
 まず後者から検討しよう。マルクスはどういう〈違い〉に注目しているのであろうか? まずマルクスが上げているものについてすべて見ていこう。
 1) マルクスはまず〈自行の銀行券が地方的流通のなかにとどまっているのでもなく〉と述べている。これは地方の銀行券も一定の額は地方的流通のなかに留まっているのである。これはスコットランドの地方銀行業者の議会証言を見ても、彼らは当時300万ポンドぐらいの銀行券が常に流通に留まっていることを証言している。しかしこれはイングランド銀行の場合も同じであろうし、これ自体に何か〈違い〉があるわけではない。
 2) つぎにマルクスは〈預金または満期手形の返済のかたちで同行自身に帰ってくるのでもない場合〉も上げている。この〈預金または満期手形の返済の形で同行自身に帰ってくる〉というのは、イングランド銀行の場合にも分析したことである。つまりこの場合は、預金として帰って来た場合は、銀行券による貸付は結局は、預金からの貸付になり、自分の資本からの貸付になること、つまり銀行学派がいうような意味で「資本の貸付」になることが指摘された。しかし他方で満期手形の返済の形で帰ってくる場合は、そうは言えないことが指摘された。この場合も地方銀行とイングランド銀行とに〈違い〉はない。
 3) そしてもう一つは、銀行券が直接、同行に持ち込まれ、金またはイングランド銀行券に交換される場合である。つまりこのケースは、イングランド銀行の場合には無かったのである。イングランド銀行券がイングランド銀行に持ち込まれて、金に交換される場合は確かにあった。それは地金の輸出を目的にした場合であり、それはマルクスが一番最初に取り上げて分析したケースである。しかしイングランド銀行券をイングランド銀行に持ち込んでイングランド銀行券に換えるなどという馬鹿なことをする人は誰もいない。つまりマルクスは地方の発券銀行の場合は、イングランド銀行の場合と違って、こうしたケースも考えられるので、それを特別に取り上げて分析しているのである。
 このように〈違い〉が理解されれば、なぜ、マルクスがここでこれを論じる必要があると考えたのか、という最初の疑問も氷解するのである。
 そしてマルクスはこうした地方発券銀行にだけありうるケースを取り上げて、その場合も確かに銀行学派がいうような意味での「資本の貸付」であることを確認している。

 次に、マルクスは続けて、〈同様に、イングランド銀行自身が……、同行自身の銀行券を流通から引き上げて次にふたたびそれを発行するために公的有価証券を売却しなければならない場合〉を取り上げている。ここでも論じられている内容そのものは難しいことは何もない。
 しかしまず、マルクスは最初に〈同様に〉と述べているが、なぜ〈同様に〉なのかということ。そしてなぜこの問題をここで論じる必要があるとマルクスは考えたのかということである。
 まず最初の問題から検討しよう。地方発券銀行の銀行券の場合は、それを持っている資本家は、逼迫期になるとそれでは支払が出来ないから、それを発券銀行に持ち込んで、金かイングランド銀行券への交換を要求するようになる。つまりその限りでは、地方銀行券が流通から回収されることになるわけである。だからマルクスは〈同様に〉と述べて、今度は、イングランド銀行の場合にイングランド銀行券を流通から引き上げる場合を論じているわけである。だからこの場合の〈同様に〉というのは、流通から銀行券を引き上げ、回収するという意味で〈同様〉なのである。
 しかしなぜマルクスはこのように、イングランド銀行が自行の銀行券を流通から引き上げる場合を論じる必要があると考えたのであろうか?
 マルクスはまずイングランド銀行の場合、同行の銀行券が同行に還流してくる場合は、どういう場合かを考えたのではないか。1) 一つは発行された銀行券が地金を輸出する目的で貸し出された場合である。この場合は銀行券は金と交換されるために、同行に還流してくる。次は支払手段としてイングランド銀行券が貸し出された場合である。その場合は、2) 一つは預金として同行に還流してくる場合と、3) 満期手形の支払として還流してくる場合とがあることが分析された。しかしイングランド銀行券が同行に帰ってくるケースは、それ以外に無いのかというと、そうではない。それは、4) 同行自身が保有する公的有価証券を売却して流通からイングランド銀行券を回収する場合である。その場合も確かにイングランド銀行券は同行に還流してくるのである。ただそういう場合は、どういう状況なのかを考えると、それは同行の発券額が法定の発行限度一杯まで発行されている時である。そしてその限りでは、そうしたケースというのは何もイングランド銀行に限られるのではなく、発行限度額が法定されているあらゆる発券銀行に共通することであることが分かる。だからマルクスはすべての発券銀行にあてはまると補足しているのである。
 そしてこれらの場合の銀行券の還流もやはり、銀行業者的な意味での「資本」を表していることを確認しているのである。

(以下、続く)

2015年9月 8日 (火)

林理論批判(17)

 〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.8〉


報告文書〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉(林紘義)の批判的検討

§§ 第3章 いわゆる「再生産表式」の幻想--資本の流通過程と社会主義の分配法則(続き)

●〈問題はマルクスの以下のような「表式」をいかに理解し、評価するか、である。「再生産表式」と言うとしても、それは前の時期の「再生産」の総括であるとともに、次の「再生産過程」を準備し、それにつながる「資本の流通過程」という意味の、その枠内の話であって、「再生産」そのものが論じられているわけではない。〉(33頁)

 これは表式として提示されているものが、前年度に生産された総商品資本であることを前提に述べているのであろう。しかし、林氏は〈「再生産」そのもの〉という言葉で何を考えているのであろうか。以前紹介したマルクスの一文をもう一度紹介してみよう。

 〈生産過程がその一契機をなしている資本の総流通過程は、ここでは再生産過程として現われるのであり、本来的流通W'-G-Wは、この再生産過程の特殊的、流動的な一契機としてのみ現われる。商品の貨幣への転化と商品の貨幣からの再転化、つまり資本によって行なわれる単純な商品変態は、ここでは再生産過程のたんなる契機として、しかし同時に再生産過程の、より正確にいえば客体的な労働諸条件および主体的な労働諸条件の(生産諸条件の)再生産過程の、必然的契機として現われるのである。〉(中峯・大谷訳『資本の流通過程』大月書店、42頁、下線はマルクスによる強調)

 つまり林氏は〈「再生産」そのもの〉ということで恐らく流通過程を抜いた「生産過程」そのものという意味を込めているのであろうが、しかし、「再生産過程そのもの」自体は資本の流通過程をその一契機として含んでいるのである。だからこそマルクスは前年度の総生産の直接の結果をその機能配置によって表している総商品資本(だからそれは単に総商品資本だけを表すのではなく、社会的に見た不変資本、可変資本、剰余価値の構成をも表しているのである)、そしてこれから流通過程を通過して、生産過程(と個人的消費過程)に入り、再生産を繰り返すものとして想定されている総商品資本の表式によって表したものを、「再生産の表式」と言っているわけである。だからそれはまさに〈「再生産」そのもの〉を考察の対象にしようとするものなのである。
 林氏には『資本論』から謙虚に学ぶ姿勢はまったく見られない。林氏は、マルクスが「再生産過程」あるいは「再生産の表式」と述べているものの厳密な内容を、『資本論』を真剣に研究してしっかり理解しようとするのではなく、自分の思いつきに過ぎない勝手な解釈を押しつけているだけなのである。そしてそれにもとづいて、『資本論』の理解を前提に論じている田口氏を批判しているだけである。だからそれは実際上は『資本論』そのもの、あるいはマルクスをも批判することになってしまっているわけである。『資本論』の重要性を強調し、『資本論』を繰り返し学ぶ必要を主張していた張本人が、一番『資本論』をないがしろにしているのは皮肉なことではある。“言うは易し行うは難し”。

●〈"不変資本" とは素材的には「生産手段」(「労働手段」つまり機械等々と、「労働対象」つまり原材料などである) であり、4000はその価値であり、他方"可変資本" とは労働力であり、1000はその価値である。不変資本という名称は、資本のこの部分は生産過程において価値増殖しないから、価値量を変えないから、つまり「不変な資本」であるということからマルクスによって名付けられ、他方、労働力に投じられた資本は剰余価値の源泉となるから、価値を増殖させるから、「可変な資本」と命名されたのである。また4000とか1000とか言う単位は、その価値を表現しており、単位は億円でも兆円でも何でもいい。〉(33頁)

 もちろん、これは表式を前提して、それを説明しているつもりなのであろう。しかし、そうであるなら、それは必ずしも正確とは言い難い。なぜなら、例えば「 I 4000c」というのは、正確には不変資本部分というべきだからである(「部分」に注意)。つまりそれは部門 I で前年度に生産された総商品資本のうち、不変資本部分を表すものという意味である。総商品資本をこうした価値構成によって区別が可能と考えるには、次のようなマルクスの考察が前提されている。少し長いが紹介しておこう。

 〈年々の全生産過程は、年々の収入を生みだすためにのみ行なわれる。しかしこの過程が継続的--不断の再生産過程--であるためには、消費可能な生産物を年々再生産するのに必要な生産手段(不変資本)だけでなく、この生産手段を年々再生産するのに必要とされる生産手段もまた、年々の総生産物から補填されなければならない。〔しかしいまでは〕不変資本のうち、生活手段の直接的生産にはいる部分も、不変資本のうち、不変資本の生産にはいる部分も、ともに補填されているのである。
 われわれは、A 消費可能な生産物、B 消費不可能な生産物、という二つの部類だけを仮定してきた。使用価値からみればある種の生産物はこの両部類に属しうるとしても、それは問題にならない。石炭は、私人の住宅での暖房のためには個人的に消費され、産業では生産的に消費される、等々。穀物は人聞によっても動物によっても消費されうるし、小麦は種子として、あるいはパンの原料として、あるいはまた、澱粉の製造のためにも役立つことができる。しかし、実際上それらはつねに、AおよびB〔のどちらか〕のもとにはいらなければならないのであり、またこの二つの部類に分けるものは(蓄積を度外視して単純再生産だけを考察する)、消費可能かどうか、というそれらの使用価値だけではないのであって、一方では新たに追加された労働によって形成される価値によって、他方では不変資本の価値によって、それらの範囲が与えられているのである。
 この決定的に重要な理論は、次の二つの命題に帰着する。
 (1)なんらかの資本によって生みだされた生産物の価値は、P=c+v+m、すなわち、不変資本の価値あるいは生産物のなかに消費されている生産手段の価値・プラス・可変資本の価値あるいは労賃の価値・プラス・剰余価値すなわち不払労働の結晶化である価値部分、である。創造された追加的価値は、=P-c、すなわち、生産物の価値・マイナス・生産手段の価値、であり、そしてこの追加的価値は、=v+mである。追加的価値は、もっぱら、新たに追加された労働の分量によって規定されている。これにたいして、この労働が追加されたさいの形態である紡績労働および織布労働、等々は、総生産物にそれの特定の姿態とそれ特有の使用価値とを与えるのである。生産物を生産手段から区別するその独自な姿態は、さまざまな財貨あるいは使用価値としてのそれらのもののあいだの区別にすぎない。この区別は、それ自体としてはそれらの価値とはかかわりがないのであって、だからこそ一定分量の生産諸手段がそれら自身の生産物の一定分量にたいして同一の価値を表わす、等価物を表わす、ということが実際にできもするのである。ところで、生産物の価値部分は、どこをとっても、等しく、生産手段の価値と新たに創造された価値とから、過去の労働と追加された支払労働および不払労働とから成り立っているが、それに応じて、生産物は三つの部分に、つまりそのうちの一つの部分はcだけを、他の一部分はvだけを、他の一部分はmだけを代表する、という三つの部分に分割することができる。〉(中峯・大谷訳『資本の流通過程』大月書店246-8頁、下線はマルクスによる強調。)

 つまりこういうことである。部門 I のすべての個々別々の商品資本を見ると、それぞれの価値は、その生産過程で消費された生産手段の価値が移転したものと、新たに追加されたものとに分けられ、後者は、労働者が自身の労賃と同じだけの価値を再生産したものと、資本家が利潤として取得するものとに分けられる。つまりc+v+mに分けることができる。部門 I で生産された生産物(生産手段)はさまざまな使用価値を持っているが、しかしそうした区別は、それ自体としては価値とは関わりのないものてある。だからさまざまな生産物の価値部分は、どこをとっても、等しく、それぞれの生産手段の価値と新たに創造された価値とから、過去の労働と追加された支払労働および不払労働とから成り立っているが、それに応じて、生産物全体は三つの部分に、つまりそのうちの一つの部分はcだけを、他の一部分はvだけを、他の一部分はmだけを代表する、という三つの部分に分割することができる、というのである。だからこそ、マルクスは部門 I の総商品資本をその価値構成にもとづいて、 I (4000c+1000v+1000m)と表示しているのである。

 「 I 4000c」は〈素材的には〉、もちろん、この場合は「生産手段」であるが、しかし不変資本部分が常に素材的に「生産手段」を表すとは限らないのである。例えば「II2000c」も不変資本部分であるが、決して素材的には生産手段ではないからである。また「 I 1000v」も素材的には、部門 I で生産された生産手段であって、そのままでは決して〈労働力〉ではないのである。だから、林氏の説明では、表式で表されているのが総商品資本であることを忘れていることを暴露しているのである。林氏は、表式で表されているcやvやmが、そのままでは決して不変資本や可変資本、剰余価値〈そのもの〉ではないことを知らない。それらはあくまでも総商品資本の価値の構成を表すものという自覚がないのである。
 但し、マルクス自身は簡単化のために「不変資本」、「可変資本」、「剰余価値」と「部分」を省略して表現している場合もある。恐らく林氏はそうしたマルクスの用語の使い方を厳密に理解していないのである。われわれは確認のために、マルクス自身はどのように述べていたかを紹介しておこう。

 〈われわれは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。
 要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。
 これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化して行く。それゆえ、私はこれを可変資本部分またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする.労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本成分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである。〉(全集23a273頁、下線は引用者)

 このようにまずマルクスが問題にしているのは〈生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割〉であることを確認することが重要である。つまり再生産表式で現されているものも前年度の総商品資本(総生産物)であり、その総価値を形成するために〈資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけ〉て見ているのである。そしてその総商品資本(総生産物)の価値のうち、それを生産するための生産手段に投じられた資本部分を表しているものを、マルクスは〈不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶ〉とし、〈労働力に転換された資本部分〉を表している部分を、マルクスは〈可変資本部分またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶ〉と述べているのである。

●〈マルクスがこの表式で最も重要な問題としているのは、第 I 部門の2000 (v+ m)が、第II部門の2000 (c)と相互に交換され、補填され合わなくてはならない、ということである。流通を通して、この相互補填がなされなくてはならないのは容易に理解されえるだろう。我々にとって問題となるのは、「価値規定による分配」という課題と関連して、この関係をどう考えるか、ということである。〉(33-4頁)

 マルクスが表式を使って何を考察しようとしているのか、そこで何を〈最も重要な問題としている〉のかについては、以前、第10回大会報告を批判する一文のなかで簡単に指摘しておいた(この大会報告を批判する一文も、必要なら、この連載のなかで紹介してもよい)。もう一度、その部分を、すなわちマルクス自身が何がもっとも重要な問題かを述べているところを紹介しておこう。それは現行版の「第20章 単純再生産」の「第4節 部門IIのなかでの転換 必要生活手段と奢侈手段」(これらの表題はすべてエンゲルスによるものである)の冒頭の部分である。

 〈次には部門IIの商品生産物の価値のうちその成分 v+m を研究しなければならない。その考察は、ここでわれわれが取り扱う最も重要な問題、すなわち、各個の資本主義的生産物の価値のc+v+mへの分解は、たとえさまざまな現象形態によって媒介されるにしても、どこまで年間総生産物の価値にも同様にあてはまるかという問題には、少しも関係がない。この問題は、一方では①Ⅰ(v+m) 対 IIc という転換によって解決され、②他方では年間商品生産物ⅠのなかのⅠcの再生産についてのあとに残されてある研究によって解決される。〉(全集24巻495頁、太字は引用者、また①、②は引用者が便宜的に付けた)

 だから林氏が〈第 I 部門の2000 (v+ m)が、第II部門の2000 (c)と相互に交換され、補填され合わなくてはならない〉というような問題は、マルクスが〈ここでわれわれが取り扱う最も重要な問題〉としているものの①の部分でしかないのである。要するに、林氏は、マルクスが再生産表式で何を解明しようとしているのかということについて必ずしも正確な理解を持っているわけではない。
 もう一つ、マルクスはすでに紹介した初稿のなかでも〈この決定的に重要な理論〉について言及しているので、長くなるが紹介しておこう。

 〈ところが、現実の再生産遁程の考察では、事情が異なる。
 われわれははじめから、個別的一資本ではなくて社会の総資本をその運動において考察しなければならないという困難にであうのである。われわれは、v+m には--というよりもむしろ、v+m が実現されている諸生産物には--過去の労働を表示する一要素が含まれていることを知っている。他方われわれは--そして肝心なのはこのことであるが--、商品の生産過程で消費された不変資本は新たな労働分量追加的労働分量によってつくりだされなければならないのであり、またcそのものの生産手段もたえず再生産されなければならない、ということを知っている。生活手段〔の生産過程〕で消費された生産手段をつくりだすために労働が支出されなければならない。またそのほかに、この生産手段の生産手段がたえず再生産されなければならない。
 これにたいしてP=c+v+m という定式では、Pが貨幣に転化されたのちこの貨幣がcに再転化するのにはなんの困難もない、ということが前提〔unterstellen〕されている。しかし、貨幣がcを自分の前に見いだすのは、ただ、cが追加的労働の支出によって再生産されているかぎりにおいてである。だが、P=c+v+m という定式では、cは過去の労働だけを、v+m は追加的労働だけを表示している。追加的労働はすべてv+m に分解する。しかし、その場合には、c(不変資本)を再生産する追加的労働はどこに残っているのだろうか? 他方では、v+m に等しい生産物部分を再生産する諸資本の生産物、収入として消費されうる生産物、これらの諸資本の生産物は、他のすべての資本の生産物と同様に、c+v+m である。そうだとすれば、それの価値がv+m にだけ、追加的労働にだけ分解するということは、どのようにして可能なのか。また、もしそれがそれらに分解できないのであれば、c+v+m である商品資本はどのようにしてv+m で買われうるのであろうか? 最後の困難がはいって来るのは、次のことによってである。すなわち、v+m 、つまり収入が消費されていく当の諸生産物は、社会的資本の一つの特殊的部分の生産物としてそれ自身c+v+m なのであるが、他方、われわれが,一つの資本の生産物だけを考察していた最初のところでは、v+m はこの一つの資本の生産物の特殊的構成部分として現われたのにたいして、それらは他方、再生産過程では、特殊的な自立的諸資本の、多くの生産部門を包括する一つの大量の特殊的生産物、自立的生産物として現われてくる、ということによってである。もう一つの困難は、次のことによってはいって来る。すなわち、P=c+v+m のときは、貨幣への再転化ののちにはcが目のまえに見いだされることが前提〔unterstellen〕されている、ということによってである。だがいまや、すべての労働(追加的)がv+m に分解するというのに、どの新たな労働がわれわれのためにcを創造してくれるのか、という問題が発生する。他方ではまた、どのようにしてv+m が、他のすべての資本の生産物と同じくc+v+m である諸資本の生産物にたいして支払うのか〔という問題が発生する〕。
 これらの問題は次のことによって解決される。すなわち、追加的労働の一部分がcの再生産のために支出されるのであり、それゆえ、v+m のある量だけはcという生産物で、すなわら、生産手段で表示されるということ、しかしこの追加的労働によって創造された価値はcそのものの生産物では消費されず、むしろそのうちのv+m に等しい部分は、個人的消費のための生産物を生産する諸資本のcを補填するのだ、ということによって解決される。cの収入とv+m を創造する資本のcとのこの交換が困難の一部分を解決するのである。他方、ある一定量の資本の生産物として同じくc+v+m である、cの生産手段について言えば、それは再生産された使用価値ではあるが、しかしそれは新たに創造された価値を、新たに追加された労働の結晶化を表わしてはいない。これらの生産物は、瓦いに補填しあうのであり、したがってそれらの補填はそれらの価値の大きさによって規定されてはいるが、しかし、v+m であるPは、価値からみても使用価値からみてもそれらを補填しない。このように、社会の総生産物は、収入(=可変資本の価値プラス剰余価値)という一つの部分と資本(不変資本)を補填する一つの部分とに配分されるのである。
 つまり、再生産〔過程〕の内部でわれわれが研究するのは、P=c+v+m は、社会によって生産される総商品資本の素材変換のなかで、どのようにしてその実を示し、自己を実現するのか、また、どのような条件のもとで、各個の資本の生産物であるP=c+v+m は、その実を示し、自己を実現するのか、という問題である。この問題は、再生産過程について次のことを前提している。すなわち、cは、他のある部面で他のある資本によって再生産されるが、しかも社会的総資本の生産物はやはり=c+v+m なのであって、ここでは新たに追加される労働はすべてv+m という価値に体化され、したがってまた収入として支出されることができる、ということである。〉(中峯・大谷訳『資本の流通過程』大月書店249-251頁、下線はマルクスによる強調箇所、但し、「v+m」の下線は本来は「v+m」の上に円弧として描かれているが、表記できないために下線にしたものである。)

●〈そもそも商品の流通過程が生産過程を準備するとは、以下のようなことであるにすぎない。
 資本の生産過程の結果としての商品資本は、生産部門では生産手段の形態であり、他方消費部門では消費手段の形態を取っており、どちらの部門も生産過程に入っていくことができない、というのは、たとえ生産物が商品(商品資本)の形態をとってはいても、生産部門は生産手段(不変資本の形態における) と労働力(可変資本の形態における) の結合としてのみ生産過程だからである。
 この過程を見ると、そのために、第 I 部門の生産手段の一部と、第II部門の消費手段の一部が流通過程を通して相互に補填されなくてはならない、つまり配置転換されなくてはならない。そしてこれが生産過程の前提としての流通過程であり、またその役割である。資本主義的生産では、このことはただ商品の流通によってのみなされ得るのであり、なされなくてはならないのである。
 ブルジョア的生産すなわち剰余価値の生産は、ただ生産手段と労働力(生きた労働) を結合することによってのみ可能になるのだが、しかし個々のブルジョアにとって、前年の生産の結果がただちに次の年の生産の出発点にはなり得ないのである、というのは、第 I 部門の生産の結果は生産手段としてしか存在しておらず、生産手段だけでは再生産はできないからである。機械や原材料だけあっても労働力を欠くなら、価値の再生産、したがつてまた剰余価値の再生産も不可能であることは明らかであろう。
 また第II部門においても同様であって、この部門では生産の結果はすべて消費手段であって、この消費手段は労働力には転化することが可能だが、しかし機械も原材料もなく、ただ労働力だけが手元にあっても、どんな生産もあり得ないこともまた自明であろう。〉
(34頁)

 そもそも林氏の持論は、「いわゆる「再生産表式」(「いわゆる」を付け、再生産表式はカギ括弧に入っていることに注意、これは林氏の表式に対する評価が込められているのである)というものは、〈「再生産」そのものが論じられているわけではな〉く、あくまでも〈資本の流通過程〉が問題になっているのであり、それが「再生産」と言われるのは、その枠内の話なのだ、ということであった。
 とするなら、林氏はいま表式に「資本の流通過程」をみようとしているのであろうか。それ自体としては、言っていることがおかしい。なぜなら、もし林氏が「流通過程」を問題にするのなら、W’-G’-Wを問題にするということであろう。つまり表式に表されている総商品資本はこれから貨幣資本に転化し、さらに商品資本(あるいは商品)に転化するということでなければならないわけである。
 しかし、林氏が問題にしているのはそういうことではない。なぜなら、林氏はまず次のように述べているからである。

 〈資本の生産過程の結果としての商品資本は、生産部門では生産手段の形態であり、他方消費部門では消費手段の形態を取っており、どちらの部門も生産過程に入っていくことができない、というのは、たとえ生産物が商品(商品資本)の形態をとってはいても、生産部門は生産手段(不変資本の形態における) と労働力(可変資本の形態における) の結合としてのみ生産過程だからである。

 これは何を問題にしていると林氏は考えているのであろうか。これはまさに林氏が再生産表式では問題にされていないという〈「再生産」そのもの〉を問題にしていることなのである。林氏は商品資本が貨幣資本にまず転化し、その上で、生産諸要素であるさまざまな商品(生産手段と労働力)に再転化するという〈資本の流通過程〉そのものはまったく見ずに(捨象して)、ただW-Wの関係として問題を見ているからである。これは流通過程を捨象して、その流通過程が媒介している、再生産過程の現実的諸条件を見ていることなのである。林氏は〈そもそも商品の流通過程が生産過程を準備するとは、以下のようなことであるにすぎない〉として論を展開しているのであるが、そこで林氏が問題にしているのは、まさに〈流通過程そのもの〉ではなく、流通過程を捨象した再生産そのものの諸条件なのである。自分が何を問題にしているのかも分からずに論を展開するとはやっかいな人ではある。
 しかも、そこで述べていることは、必ずしも正確とは言い難い。なぜなら、生産手段の生産部門の生産物がそのまま生産過程に入っていけないなどということはありえないからである。それに林氏は〈生産手段(不変資本の形態における) と労働力(可変資本の形態における) の結合としてのみ生産過程だ〉というのだから、労働力はそもそも資本の生産物ではないのだから、資本は永遠に生産できないことになりかねない。

 〈ブルジョア的生産すなわち剰余価値の生産は、ただ生産手段と労働力(生きた労働) を結合することによってのみ可能になる〉というが、しかしあらゆる生産は〈生産手段と労働力(生きた労働) を結合することによってのみ可能になる〉といえるのであって(もちろん、生産手段を一切必要としない生産があればそれは例外となるであろうが)、だからそれは〈ブルジョア的生産すなわち剰余価値の生産〉に限った話ではない。

 〈また第II部門においても同様であって、この部門では生産の結果はすべて消費手段であって、この消費手段は労働力には転化することが可能だが、しかし機械も原材料もなく、ただ労働力だけが手元にあっても、どんな生産もあり得ないこともまた自明であろう〉というが、しかし、もし第II部門にこうした条件を認めるなら、第 I 部門もやはり、その生産物の一部分は、そのまま第I部門の生産手段として入っていることが出来ることを認めるべきだが、それは林氏は指摘していない。
 全体に、林氏の表式の理解はこのように粗雑としか言いようがないのである。

 (以下、この2は2回にわけて紹介する。次回も2の続きになる。)

2015年9月 3日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-22)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

 

 前回(28-21)の最後に、〈このように、ここでマルクスが何を問題にし、どのようにそれを論じているかを明確に捉えれば、これまでの議論がどれほど間違った土俵の上での議論であったかが分かるであろう。しかしまだハッキリとは問題点が捉えきれていない人のために、少しこの間の議論を振り返ってその無意味さを確認しておくことにしよう。(しかしそれは若干、長い説明になるので、次回に回すことにする。)〉と書いたように、今回は、この第28章の解釈をめぐって行われた、マルクス主義同志会の内部における議論を取り上げる。〔なおこの議論は、『海つばめ』紙上で行われた。ただ議論の内容としては検討するほどの意義は認められない。しかし関心のある人もあるかも知れないので、関連する論文をすべて紹介するのは困難だが、関連すると思われる論文が掲載された『海つばめ』の号数と目次一覧を最後に紹介しておくことにする。〕

 これまでの議論の批判的検討--この部分は興味のない人は飛ばして読んで頂いてもよいが、エンゲルスの手形割引論の批判と「利子生み資本」の意義について述べたところは重要なので参考にしてもらいたい。》

 まずこの間の議論における最大の論争点の一つは“イングランド銀行がAに貸し出す貸出の形態をどう捉えるべきか”ということであった。それは「手形割引」によるのか、それとも「有価証券を担保にした貸付」か、というものである。すでに述べたように、最初、林紘義氏は「手形割引」であって、「担保貸付」と理解した田口騏一郎氏はエンゲルスの修正に影響されているのだ、と批判したのであった。ところがすぐに林氏は自己の見解を180度転換して、今度は「公債を担保にした貨幣融通」だと主張するようになった。これは要するに「有価証券を担保にした貸付」のことであり、つまり田口氏と同じ立場に立ったわけである。
 それに対して、仁田氏は最初は林氏らに同調するような立場を示していたが、最終的には、マルクスは「手形割引」と言っているが、それは「手形貸付」のことであり、そのように理解すべきである。そうすれば何もかもうまく説明できるのだ、などと主張し、自己の見解をさまざまな資料などを持ち出して論証して見せてくれたのであった。
 この論争そのものは、結局、決着がついたのかどうか分からないうちに打ち切られてしまった。表面上は一見真剣で激しく、口角泡を飛ばす、喧々諤々たる議論ではあったが、しかしこのレジュメを通してマルクスが何を問題にしているのかを知ったわれわれにとっては、その余りの不毛さにただ唖然とし、茫然自失するだけなのである。
 少なくとも、このレジュメのなかで、これまでわれわれはマルクス自身はどちらか一方ではなく、あえていえば、そのどちらも想定していることを確認してきた。そればかりかいま見たように、肝心の銀行券の還流を問題にするところになると、むしろマルクスはそうした形態には何の関心も払っていないことに気づくのである。
 これはある意味では当然であって、そもそもここでマルクスが問題にしているのは、銀行学派がイングランド銀行が銀行券で貸し出ししても、その銀行券は「資本の貸付」になるから、すぐに銀行に還流し、銀行券の流通高には影響しないと主張するのを、では本当にそうなのかとマルクスが分析しているところなのである。だからこの場合、問題は銀行券がイングランド銀行の外に出て行くということが重要なのであって、それがどのような貸付の形態で出て行くかといったことはそもそも問題にもならないからである。だからマルクスは〈有価証券にたいして発行された銀行券は〉とか〈同行はAに、彼の有価証券にたいして銀行券を支払う〉といったように、それがどういう貸付で行われたかについてはまったく問題にせずに、ただAの有価証券に対して銀行券が貸し付けられるという事実のみを確認して、その上で問題を論じているのである。マルクスにとっては銀行学派の主張を検討するためには、それで十分だったからである。
 では何故、林氏や田口氏、あるいは仁田氏は、イングランド銀行の貸付の形態がさも重要であるかに議論したのであろうか? それは彼らがここでマルクスが何を問題にしており、それをどのように論じているかについてまったく理解できなかったからである。それは彼らがそもそもマルクスのこの28章の草稿の最初の部分からキッチリ読み取ってこなかったからであるが、同時にエンゲルスが次のように言っていることにも大きく影響されているのである。エンゲルスはマルクスの本文に大胆な修正を加えて次のように書き出している。

 〈では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度までたんなる支払手段の前貸と見なされるのか?……この問題は前貸そのものの性質にかかっている。これについては三つの場合を検討する必要がある。〉

 そしてエンゲルスは「無担保貸付」と「担保貸付」そして「手形割引」の三つについてそれぞれ検討しているのである。この部分は全体として混乱しているのだが、その検討はとりあえずわれわれは置いておこう(このレジュメは最初にも断ったように、エンゲルスの修正を批判的に検討することが本題ではない)。
 このエンゲルスの問題意識を見ても、彼がここでマルクスが何を問題にしているのかをまったく理解していないことが分かる。エンゲルスはマルクスが銀行による貸付が資本の貸付になるかどうかを検討しているので、それが本題であるかに勘違いしているのである。
 しかしマルクスが資本の貸付かどうかを検討しているのは、あくまでも銀行学派がそれを主張しているからであり、しかもこの場合の「資本の貸付」というのは銀行学派のいう意味でのそれである。マルクスにとって銀行が貸し付ける銀行券が「利子生み資本」という意味での貨幣資本(moneyed Capital)であることは当然なのである。しかしマルクスはそのことをここでは銀行学派の混乱した主張に対置する形では批判を展開していないのである。それはこの銀行学派批判の最後の結論として明確にする問題だと考えているからである。銀行学派の主張にそってその矛盾や混乱を内在的に批判することが、ここでのマルクスの課題なのである。エンゲルスはまったくこうしたことを読み誤っている。彼は銀行が貸し出す銀行券が利子生み資本であることさえ見落としているのだが、その詳しい批判は後にやることにしよう。
 ところでこの間の論争者も、エンゲルスとまったく同じ立場に立っているのである。というよりエンゲルスの修正に大きく影響されているのである。だから彼らも銀行の貸付が「手形割引」によるのか、それとも「担保貸付」によるのかが何か重要な問題であるかに考えたのである。(ついでに言うと、林氏も先のエンゲルスの修正文の最初の一文を引いてきて、エンゲルスの「何の断りもない、勝手な書き加え」を激しく非難している。しかしだからといって林氏が何か正しい理解に達しているかといえば決してそうではないのである。マルクスは銀行学派に対して、彼らは通貨説のやつらを批判するが、しかしそのことだけでは彼らが正しい理解に到達するには十分ではないと指摘していたが、この場合の林氏にも同じことがいえるであろう)。

 ところで林氏が最初「手形割引」を主張しながら、一転して、「公債を担保にした貨幣融通」、つまり「担保貸付」に転向したのは、マルクスが〈Aへの貸付は残る〉と述べているからであるという。林氏にとってはどうしてもこの〈Aへの貸付が残る〉とマルクスが言っている事態を、「手形割引」では説明不可能に思えたというのである。どうしてそうなのか? それは林氏が「手形割引」とは何かを正確に理解していないか、それとも恐らくこちらの方が真実に近いと思うが、エンゲルスが「手形割引」について述べていることに影響されているからであろう。しかしエンゲルスの主張は混乱しており、間違っているのである。だからわれわれはまずエンゲルスの主張を批判的に検討することから始めなければならない。エンゲルスは手形割引について次のように説明している。

 〈第3の場合--Aは銀行で手形を割り引いてもらい、そのかわりに、割引料を差し引いた金額を現金で受け取った。この場合には、彼は流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って、そのかわりに流動的な形態にある価値額を受け取ったのである。つまり、まだ流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って、そのかわりに現金を手に入れたのである。その手形は今では銀行の所有物であるこのことは、支払が行われない場合には最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証するということによっては、少しも変わらないAはこの責任を他の裏書人たちや振出人と分担しているのであって、これらの人々にたいしては彼自身が請求権をもっているのであるだから、ここにあるのは、けっして前貸ではなく、まったく普通の売買であるそれゆえ、Aは銀行になにも返す必要はないのであり、銀行は満期日に手形の取立によって保証を受け取るのである。この場合にもAと銀行とのあいだには相互的な資本移転が、しかも他のどの商品の売買の場合ともまったく同様に、行われたのであり、またそれだからこそAはなにも追加資本を受け取ってはいないのである。彼が必要として受け取ったものは支払手段だったのであって、彼はそれを、銀行が彼のために彼の貨幣資本の一方の形態--手形--を他方の形態--貨幣--に転化させてくれたことによって、手に入れたのである。〉(下線は引用者)

 ここで下線を引いた部分はすべて間違っているか、エンゲルスのマルクスの文章に対する無理解を示している部分である。こうしてみるとずいぶん多いのであり、それはほとんどだといえる。とくに手形割引を〈まったく普通の売買である〉としているのは、決定的である。下線を引いた部分がなぜ間違いなのかについて、長くなるが少し解説しておこう。

 まずAが銀行から〈割引料を差し引いた金額を現金で受け取った〉としている部分は、もちろんそれ自体が間違いというのではない。エンゲルスは恐らくAが銀行から貸付を受けたのは差し迫った支払のための手段に窮したからであるから、この場合、Aが受け取るものを「現金」としたのであろう。そしてそれはその限りでは間違っていない。しかしエンゲルスは、このように書くことによって、ここでマルクスが何を問題にしているのかをまったく理解していないことを自ら暴露しているのである。なぜなら、すでに説明してきたように、マルクスはここでは銀行学派の主張を批判しているのである。そして銀行学派に大きな影響を与えているのは、イングランド銀行がその銀行券で貸付を行うのに、銀行券の流通高には影響しないという事態なのである。だから貸付が銀行券で行われるということがこの際、重要なのである。もちろんAが貸付を受けたのは法貨としてのイングランド銀行券によってであり、その限りではエンゲルスのいうようにそれは「現金」なのだが、しかしここで重要なのは銀行券で貸し付けられるということなのだから、それをエンゲルスのように単に「現金」と言ってしまうと、何が問題になっているかを全く理解していないことを自ら示したことになるのである(なぜなら「現金」というなら、一般論として「金(鋳貨)」もその中に入るからである)。
 次にエンゲルスは〈彼は流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って〉とか〈つまり、まだ流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って〉と述べている。これはいうまでもなく、手形割引を〈だから、ここにあるのは、けっして前貸ではなく、まったく普通の売買である〉と説明することと関連している。
 つまりエンゲルスは銀行が貸し付ける銀行券が銀行にとっては「利子生み資本」であるということを見落としているのである。もし銀行が貸し付ける銀行券が利子生み資本であることを理解するならば、それが「手形割引」でなされるか、あるいは「無担保貸付」でなされるか、それとも「担保貸付」でなされるかはこの場合どうでもよいことであることが分かるであろう。もしこのレジュメを最初から読まれた人なら、銀行が貸し出す銀行券が利子生み資本であるということを聞いたら、ピーンと来る筈である。われわれはこのレジュメの最初に「利子生み資本とは何か」についてザットした説明を与えておいた。それをもう一度思い出してみよう。次のようにレジュメでは書かれていた。

 〈「取り戻しを条件とする一時的な価値の手放し」を「貸借」というのである。そしてこの貸借こそ信用関係そのものなのである。「利子生み資本」とは、こういう貸借を通じて運動する貨幣のことである。だからそれは信用制度の下で運動するわけだ。銀行は出来るだけ有利な条件で貨幣を貸し出し、儲け(利子)を得ようとする。それに対して企業はまた出来るだけ有利な条件で資金を調達し、それを使って儲けようと(つまり産業利潤や商業利潤を上げようと)する。銀行にとって有利な貸し出しとは、つまり高い利子で貸し出すことである。それに対して企業にとって有利な資金調達とは低い利子で借り出すことである。だからここに「貨幣市場」なるものが生まれる。彼らは貨幣そのものを「商品」として“売買”するのである。もちろん、“売買”とはいうが、実際は「貸し借り」である。ただ貨幣市場では貨幣そのものが取引きされるために、あたかも貨幣そのものが商品として売買されるかの外観を得るわけである。〉

 だから銀行から貸し出される銀行券が利子生み資本であるなら、それは利子生み資本に固有の運動をするのである。それはどういう運動だったか? すなわち「貸借」である。それは「取り戻しを条件として」銀行から手放されたのであり、だから必ず一定の利子をつけて銀行に返済されなければならないのである。確かにこの場合も売買の外観を取る。とくにエンゲルスが間違って捉えているように、手形割引の場合はあたかも「まったく普通の売買」であるかに見えるのである。しかし本当はそうではなく、やはりそれは利子生み資本の運動なのであり、それに固有の運動形態、すなわち貸借関係を表しているのである。もちろん、それは手形割引だけの問題ではなく、エンゲルスが分析している他の前貸の形態、すなわち無担保貸付であろうが、担保貸付であろうが、それらもやはり利子生み資本の貸付であり、手形割引と同様利子生み資本に固有の運動形態を取るのである。だからその貸付がどのような形態でなされるかといったことは、この場合にはまったく問題ではないのである。

 林氏は手形割引だとマルクスが〈Aに貸付が残る〉と述べていることが説明できないという。つまり林氏もエンゲルスの手形割引論に影響されているのである。要するにそれを〈まったく普通の売買〉と捉えているから、銀行に対するAの貸付は残らないと考えているのである。
 しかし銀行が貸し付ける銀行券が利子生み資本であることが分かれば、そんな間違いを犯すことはない。銀行はあくまでも手形を持ち込んだAに銀行券を貸し付けたのであり、だからその手形が満期になってその振出人から支払われたとしてもやはりそれはAからの返済金なのである。もしそうでなければ帳簿上Aへの貸付がいつまでも残ることになってしまうであろう。Aへの貸付は手形が満期になって振出人から支払があって初めて返済され、よって利子生み資本としての運動(循環)はそれで終わるのである。だからそれまでは銀行にとってはAへの貸付として残っているのである。
 そして実際、Aにも支払義務が残っている。この点、エンゲルスの捉え方には理解しがたいところがある。エンゲルスは〈このことは、支払が行われない場合には最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証するということによっては、少しも変わらない。Aはこの責任を他の裏書人たちや振出人と分担しているのであって、これらの人々にたいしては彼自身が請求権をもっているのである〉という。ここでエンゲルスが〈このこと〉といっているのは、要するにAが銀行に手形を「売って」「現金」を入手し、手形は銀行の「所有物になった」という「こと」である。
 しかしこのエンゲルスの言明は正しいであろうか? なぜなら、エンゲルスのいうように、手形の振出人が支払えない場合、〈最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証する〉必要があるのであれば、それはまさにAがその場合は銀行への返済義務を負っていることを示しているのではないのか。AはそれをさらにAの前に裏書きした人物に遡って請求できるだけである。しかし銀行との関係では第一義的にはAに支払義務があり、Aにその不渡りになった手形を買い取る義務が生じるのである。だからエンゲルスの主張とは異なり、Aには手形が満期になり支払が完了するまでは、依然として返済義務が残ることをそれは示しているのである。

 最後に仁田氏の“思いつき”である。「手形割引」を「手形貸付」と解釈すべきという主張についても少しだけ検討しておこう。
 まずすでに述べたように、このように仁田氏が考えたのも、同氏が林氏や田口氏らと同じように、エンゲルスの手形割引論に影響されてのことであろう。つまり同氏も「手形割引」では、「Aへの貸付が残る」とするマルクスの文章の説明がつかないと考えているのである。だからこの点では、仁田氏は一見激しく対立・論争した林氏や田口氏らとまったく同じ土俵の上にあったのである。
 しかし仁田氏は「手形割引」と「手形貸付」とは根本的に異なることを理解すべきである。歴史的には会計上それらが区別されずに処理されていたと仁田氏は指摘していたが、しかしわれわれにとって重要なのはその科学的な概念である。それにマルクスが両者を混同して論じているなどと仁田氏は事実上いうのであるが、それはまったくマルクスに対するいわれのない“誹謗中傷”の類である。
 手形貸付はエンゲルスが最初の例であげている無担保貸付と事実上同じものである(ただ貸し出す時点ですでに満期までの利子が割り引かれ支払われる)。つまりその場合の手形はただ借用証明書と同じであり、その代わりに手形が振り出されたものでしかない。しかし手形割引で銀行に譲渡される手形は、そうしたものではない。Aはその手形を、それと交換に彼自身が生産した一定の等価物を譲渡して入手したのである。だからその手形は再生産過程における資本の運動を表しているのである。それに対して手形貸付で銀行に譲渡される手形は、そうしたものとは本質的に異なり、再生産過程を何も表していない。つまりそれは再生産過程の外部にある関係なのである(マルクスは商業信用は再生産過程の内部における資本の運動における信用であると指摘しながら、しかし融通手形や投機のための手形等はそれらから除外している。こうしたマルクスの立場からすれば、仁田氏のいうように両者を無区別に論じているなどという言いがかりは思いもよらないことであろう)。
 再生産過程の内部の関係かそうでないかということが、決してどうでもよいものではないことを、すでにわれわれは貨幣資本(moneyed Capital)と利子生み資本との区別を論じたところで指摘しておいた(マルクスが「利子生み資本」の概念を論じたところ[第5篇第21~24章]でもそれを強調していたことをわれわれは指摘しておこう)。少なくとも仁田氏にはこうした認識が欠けているのではないだろうか。もちろん、どちらの手形にしても、この際、それと交換に譲渡される銀行券は、すでにそれ自体が再生産過程の外部にあるものである。だから利子生み資本としての銀行券からみれば、それが手形割引で譲渡されるか、それとも手形貸付で譲渡されるか、あるいは担保貸付でされるかはどうでもよいことなのである。

 われわれはこの機会に、「利子生み資本」の概念の重要性について、ここで再び確認しておこう。エンゲルスがこの概念を見落としたために、どんなに間違ったところに迷い込んだかをわれわれはすでに見たが、現代のさまざまな金融現象を概念的に捉えるためには、利子生み資本の概念は極めて重要なのである。
 エンゲルスは手形割引を「まったく普通の売買」であると見てしまった。こうした外観は、例えば株式などの売買の場合には一層そのように見えるのである。われわれは株式やその他の有価証券などが日常的に他の商品と同じように売買されているのを見る。しかし株式などの売買は、決して一般的な商品の売買とは同じではない。なぜなら一般的な商品というのは、価値と使用価値の統一したものであり、その売買の最終目的はその使用価値の消費である。しかし貨幣商品というのは確かにそれも価値と使用価値の統一したものではあるが、その使用価値とは「価値を増殖する」という特殊な“使用価値”であり、「平均利潤を獲得する」という“使用価値”なのである。だからその「消費」とは、それを事業に投資して産業利潤や商業利潤を獲得することなのである。この相違を捉えているならば、手形割引や株式の売買を、「まったく普通の売買」であるなどと見間違うことはないであろう。
 例えば株式の売買も、それ自体は利子生み資本の運動である。株式を株式市場で購入する人は、その株式を“消費”するわけではない。株券で腹が膨れるわけでもなく、またそれでケツを拭くわけにも行かない。株式を購入する人は、やはり彼の貨幣を利子生み資本として投資したのであり、だからその貨幣は利子生み資本に固有の運動をするのである。つまり彼の目的は、株式購入で支出した貨幣を一定の利子をつけて回収することなのである。だから彼が株式購入に支出した貨幣は、決して購買手段として機能したのではない。それは、あくまでも「取り戻しを条件に譲渡された」のであり、すなわち「貸付」られたのである。だから彼の目的は利子の獲得であり、彼はそれを将来的には一定の利子をつけて「返済」されるべきものと考えているのである。そしてまた、だからこそこうした“売買”は再生産過程の外部にある運動なのであり、現象なのである。それらは再生産過程を直接反映しているものではない。それらは再生産過程に究極的には規定されてはいるが、しかし相対的に独立・自立しており、よってまた独自に肥大化し得るのである。
 株や国債などの売買が、「まったく普通の売買」であって、リンゴや鉄を売買するのと変わらないのだ、という人は、両者の形式的な類似性に目を奪われて、その本質的な相違を見ていないのである。後者は、社会の再生産を媒介しており、それはあらゆる社会が営んできた人間の生活の再生産過程を反映している。社会の冨を生産し、人類の社会そのものを再生産しかつ拡大する、その特殊歴史的形態としての商品であり、その売買である。しかし前者はそうしたものではまったくない。ただ生産的労働者から搾取した剰余価値の分け前をめぐる駆け引きであり、その分け前に預かる権利の“売買”やその蓄積でしかないのである。この両者の本質的な相違を見落とすことは許されない。
 現代の現実資本の再生産過程をその価格総額において何倍も上回る膨大な金融市場における諸現象も、だからこうした利子生み資本の概念なくして解明することは出来ないのである。それらは、すべて利子生み資本の運動であり、それらを利子生み資本の運動として捉えて初めて概念的に捉えることが可能になる。
 その意味では、『資本論』第3部第5章の主題を「利子生み資本」の概念やその運動諸形態、さらにはその歴史性の解明にあると喝破した大谷氏の見識は立派なものだったと言わねばならないであろう。

 (以下、続く)

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§§第5篇第28章をめぐってマルクス主義同志会内で行われた論争に関連すると思われるものの一覧

◆905号(2003.2.23)【三面トップ】『資本論』3巻28章の“怪”――マルクスの文章を大幅に書換え――エンゲルスの考えていたことは何か
◆907号【二~三面】『資本論』第3巻の修正問題――エンゲルス版とマルクスの草稿――ミッシェル・ハインリッヒ
◆910号【二~三面】特集・エンゲルスの“修正”をめぐって
 ・林氏の論難は不当――エンゲルスを擁護する
 ・「鋳貨と貨幣の区別」?――横井氏の“銀行学派的”観念
 ・別の基準でマルクス批判――エンゲルスの挿入、削除に関して
◆911号(2003.4.27)【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か①】「銀行学派」批判の根底――第三巻二十八章冒頭の一句
◆912号(2003.5.4)【二~三面】論争・利子生み資本の概念について
・林氏の批判に応える――資本の特徴的な流通形態こそ重要
・利子生み資本を“至上”視――貨幣資本家と生産資本家の区別と対立
・問題は「貨幣」と「資本」の区別――論点ずらす横井氏の議論
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か②】何が「正しい見解」か不明――エンゲルスの手による「注」
◆913号【二~三面】特集・銀行券はいかに還流するか
・まず混乱を正せ――横井・田口氏の共通の誤り
・仁田氏の批判に答えて――故意の削除云々は不当
・手形割引論か担保貸付論か――エンゲルス修正の評価を語れ
【三面サブ】エンゲルスの“大修正”――『資本論』第三巻第二十八章
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か③】繁栄期に比べて「強い」か――沈滞期における「貸付への需要」
◆914号(2003.5.25)【三面トップ】エンゲルス修正問題(28章)
・マルクスの正確な理解を――修正問題は是々非々で
・公債担保の貨幣融通――逼迫期に行われていたこと
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か④】奇妙な修正や削減――道義的責任さえ問われる
◆915号(2003.6.1)【三面トップ】真理を封印する不破の策動――エンゲルス修正を実質擁護――権威主義の破綻を恐れて
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑤】全くのピント外れ――混乱のもと・長大な挿入文
◆916号(2003.6.8)【二面~三面】銀行学派の評価めぐって
・マルクスのフラートン批判――田口氏の説明は混乱している
・仁田氏の「元帳の立場」――銀行券還流の仕方が問題か
・田口氏はもう少し慎重に――マルクスは反対を言っている
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑥】改善とは到底言えず――エンゲルスの「介入」の仕方
◆917号(2003.6.22)【三面トップ】誰もが“コンフュージョン”――手形割引論でも説明可能――手形貸付の概念を適用すれば
【三面サブ】一番の「混乱」は誰か――仁田氏の衒学趣味的おしゃべり
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑦】問題設定が別ものに――マルクスへの敬意欠く
◆918号(2003.7.6)【三面サブ】何でもかんでも手形貸付で説明――仁田氏の独断的議論
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑧】エンゲルスの「誤解」の根底――なぜ「追加資本の借入れ」持ち出すか
◆919号(2003.7.13)【三面トップ】手形貸付はマルクスの時代にも――草稿理解のカギはここに――林、田口両氏の批判に答える
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑨・最終回】『資本論』の理論を妨げる――不当なエンゲルスの“修正
◆920号(2003.7.27)【三面トップ】エンゲルス編集の問題点――諸概念が不明瞭に――マルクスの執筆時期を無視
◆921号(2003.8.3)【三面サブ】鋳貨と貨幣の区別?――両者は同じものではないのか
◆923号(2003.8.24)【三面トップ】銀行の貸し出すカネの区別
 ・貨幣と「貨幣資本」の違いだ――二つの流通部門への貸し出し
 ・銀行学派と一緒ではないか――資本の「貨幣形態」を理解せず
◆924号(2003.9.7)【一面サブ】労働者セミナーに参加しよう――エンゲルスの『資本論』修正を問う
◆926号(2003.9.28)【四面トップ】エンゲルス修正をどう評価するか――「完成された『資本論』」の幻想を排す
◆927号(2003.10.5)【三面トップ】労働者セミナー/三講師、要点を語る
・表式の意味不明確にした修正――マルクスの問題意識ぼかす
・恐慌論の叙述をどう読むか――エンゲルスの削除は問題
・インテリ追随を排す――「信用」を論じてないと言えるか
◆928号(2003.10.12)【三面トップ】ひいきの引き倒しではないか――田口(騏)氏のマルクス“擁護”
【三面サブ】レジュメへの疑問と意見
◆929号(2003.10.26)【四面トップ】労働者セミナーに参加して――「修正」の問題点明らかに
・再生産表式の理解深めたい――『資本論』をどう学ぶかで悩む
・印象に残った過少消費説批判――自分なりに問題点を理解
・予習して参加したが難解だった――マルクスの草稿を誰もが読めるように
・発言できなくて残念――久留間の主張からも学びたい
◆931号(2003.11.9)【三面トップ】エンゲルス修正の不当性明らかに――待たれるマルクスの草稿出版――労働者セミナーの議論の要点

2015年9月 1日 (火)

林理論批判(16)

〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.7〉

報告文書〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉(林紘義)の批判的検討

§§ 第3章 いわゆる「再生産表式」の幻想--資本の流通過程と社会主義の分配法則

●〈私が俗に「再生産表式」について、「いわゆる『再生産表式』」と書くのは、それが「生産過程」自体を表現するのではなく、商品資本の総循環の問題、とりわけ「再生産表式」といわれるものについては、生産過程の前提としての商品資本の「流通」の問題を論じているに過ぎないと考えるからである。それは、商品資本に特有な運動もしくは「循環」を表現しているのであって、基本的に「再生産」にかかわる理論ではないのである。私はすでに以前、このことを指摘しておいた。〉(31-2頁)

 こうした主張に対しては、すでに私は「資本の流通過程」が、なぜ「資本の再生産過程」として考察される必要があるのかを明らかにして、林氏の無理解を暴露したが、ここでは違った観点から、こうした考え方の誤りを指摘することにしよう。
 マルクスは蓄積にはそれに先行する潜勢的貨幣資本として貨幣の蓄蔵が不可欠なことを指摘して、その蓄蔵貨幣が如何に形成されるかを論じているところで、次のように述べている(太字はマルクスによる強調)。

 〈この剰余生産物を次々に売っていくことによって,資本家たちは蓄蔵貨幣,《追加的な》潜勢的貨幣資本を形成する。いまここで考察している場合には,この剰余価値ははじめから生産手段の生産手段というかたちで存在している。この剰余生産物は,B,B',B”,《等々》( I )の手のなかではじめて追加不変資本として機能する。しかしそれは,可能的には、それが売られる以前から,貨幣蓄蔵者A,A’,A”等々( I )の手のなかで追加不変資本である。これは, I の側での《再》生産の価値の大きさだけを見るならば,単純再生産の限界の内部でのことである。というのは,この可能的な追加不変資本(剰余生産物)を創造するのに追加資本が動かされたわけでもなく,また単純再生産の基礎の上で支出されたものよりも大きい剰余労働が支出されたわけでもないからである。違う点は,ここではただ,充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけである。この剰余労働は,IIのために機能すべき,またそこでc(II)となるべき生産手段の生産にではなくて,生産手段( I )の生産手段に支出されたのである。……
 したがって、単純再生産--《たんに》価値の大きさ《だけ》から見れば--の内部で、拡大された規模での再生産の、現実の資本蓄積の、物質的土台〔Substrat〕が生産されるということになる。それはまさにとりもなおさず(当面の場合には)、《直接に》生産手段の生産に支出された剰余労働 I 、すなわち可能的剰余不変資本の創造に支出された、労働者階級( I )の剰余労働である。だから、 I のA、A'、A"、等々の側での可能的な新追加貨幣資本の形成……は、生産手段( I )の追加的生産の単なる貨幣形態なのである。
 したがって、可能的追加貨幣資本の生産は、ここでは……、生産過程そのものの一現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない。〉(第2部第8稿、大谷訳『経済志林』54-58頁、下線は引用者)

 いきなり、こういう文章を提示されても、なかなかすんなり理解できないかも知れない。だからある程度かみ砕いて説明することにしよう。ここではマルクスは、蓄積・拡大再生産の本質、その概念を解明しているのであるが、蓄積に必要な貨幣蓄蔵は剰余価値を実現して入手した貨幣を蓄蔵するのであるが、しかしその販売される剰余生産物そのものがすでに追加的な生産手段として生産されていなければならないこと、だからもし剰余労働が、ただその量において単純再生産の場合と同じであるなら、拡大再生産が単純再生産と異なるのは、その剰余生産物を生産する労働者の〈充用される剰余労働の形態だけであり,その特殊的な役立ち方の具体的な性質だけ〉が問われるのだというのである。だから蓄積(拡大再生産)というのは--そしてそれに必要な潜勢的貨幣資本の形成というのは--、〈生産過程そのものの一現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えば〔realiter〕それの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかにはなにも表現していない〉と述べているである。
 まだ分かりにくいかも知れないので、もう少し説明しよう。マルクスは一体、何を蓄積、あるいは拡大再生産の概念として語っているのであろうか。拡大再生産が単純再生産と異なるのは、剰余価値が資本家によってすべて個人的に消費されてしまうのではなく、それが新たな生産の拡大のために投下されること、それがすなわち蓄積であることは誰でも分かっている。しかしそのためには、そもそも剰余価値を生産した剰余労働が生産する生産物そのものが単純再生産と拡大再生産とでは質的に違っていなければならない、ということをマルクスは主張しているのである。だから拡大再生産、あるいは蓄積というのは、〈生産過程そのものの一現象、すなわち生産資本の一定の形態の、あるいは実体的に言えばそれの諸要素の一定の形態の生産という現象のほかには何も表現していない〉と述べているのである。

 さらに分かりやすく説明するために、われわれはマルクスの表式を持ち出そう。単純再生産の表式Aと拡大再生産の表式Bを並べて紹介してみる。

   I  4000c+1000v+1000m
A 
  II 2000c+ 500v+ 500m

   I  4000c+1000v+1000m

  II 1500c+ 750v+ 750m

 マルクスが先の引用文で指摘しているのは、次のような事実である。B( I )の資本家は、1000mの剰余価値のうち500mを個人的に消費し、500mを蓄積に回す。つまり1000mの剰余生産物のうち半分は部門IIに売り、残り半分は部門 I に売るのである。とするなら、その剰余生産物の半分は部門IIの生産手段、残りの半分は部門 I の生産手段、つまり生産手段のための生産手段でなければならない。つまり蓄積するということは、剰余生産物の内容がすでに蓄積が可能な形態でなければならないということなのである。
 同じことは、だから単純再生産でも言える。A( I )の資本家は剰余価値1000mをすべて個人的に消費すると前提されている。とするなら、その1000mの剰余生産物をすべて部門IIに販売するわけである(そしてそれと引き換えに部門IIの1000cの個人的消費手段を購入して消費する)。だから1000m( I )の剰余生産物は部門IIの生産手段、つまり個人的消費手段の生産のための生産手段として生産されていなければならないことになるのである。
 だからわれわれが単純再生産だ、拡大再生産だというが、それはそもそも社会の生産の形態、あるいはその構造がそうしたものになっているということが前提されるのだ、とマルクスは指摘しているのである。単に剰余価値の一部、あるいはそれを貨幣に転換したものを、収入として消費に支出せずに、貨幣資本として蓄積に回すというだけではなく(個別資本だけを見ているなら、それだけの問題であるように見えるのだが)、社会的な総再生産の過程として考察すると、そうしたことだけでは駄目であり、社会的な生産の物質的な構成、つまり生産過程の物質的条件と、その生産物の内容(特に剰余生産物の内容、だから剰余労働の具体的な形態)が問われるのだとマルクスは指摘しているのである。つまり単純再生産や拡大再生産というのは、社会の物質的な生産構造そのものがそうしたものになっていないとそれは出来ないのだ、というのがマルクスが述べていることなのである。
 だから林氏が、再生産表式といゔのは、ただ〈 商品資本の総循環の問題、とりわけ「再生産表式」といわれるものについては、生産過程の前提としての商品資本の「流通」の問題を論じているに過ぎない〉というのは、とんでもない話なのである。そもそも林氏の想定している表式で表されている総商品資本というのは、前年の生産の総結果である。つまりその総生産物の使用価値を見れば、前年の一年間の生産過程がどういうものであったか、何がどのようにどれだけ生産されたものかをそれらは表しているのである。そしてそうだからこそ、それらは今年度の生産をもまた物質的に規定してもいるともいうことができるのである。つまり表式というのは、こういう形で生産過程の物質的な条件を表示しているものなのである。だから表式に流通だけを見るというのはどれほど馬鹿げた主張であるかが分かるであろう。
 それにそもそも林氏は、〈「流通」の問題〉として何を論じようと考えているのであろうか。なぜなら、少なくとも『資本論』の第2部の段階では、資本の流通は、価値通りに行われることを前提しているのだからである。資本の流通には現実にはさまざまな攪乱が伴うが、しかし、それらは捨象されて、少なくとも再生産の表式を考察する段階においては、諸商品資本の転換は価値どおりに行われることが想定されている。だから「流通」に固有の問題というのはそれほど多くはないのである。強いて上げれば、例えば固定資本の補填や蓄積を考察する場合に、蓄蔵貨幣の形成とその量的均衡が条件として入ってくるといったような問題があるぐらいである。しかし、マルクスが表式で考察しているのは、単にこうした問題だけでないのはいうまでもないであろう。
 結局、林氏が〈「流通」の問題〉として想定しているのは、恐らく部門 I と部門IIとの、あるいは部門 I 内部や部門II内部での価値と素材における補填関係と言ったものであろう。しかしこうした関係は決して〈「流通」の問題〉ではないのである。なぜなら、それらは部門 I や部門IIの生産物の物質的形態や、あるいは部門 I や部門IIにおける生産過程の物質的条件や支出された労働(時間)やその形態を問題にすることだからである。

 マルクスは貨幣資本の循環G-W…P…W’-G’の過程の第一段階G-W、すなわち林氏がいうところの〈資本の流通〉の最初の段階を説明して、冒頭、次のように述べている。

 〈G-Wは、ある貨幣額がある額の諸商品に転換されることを表わしている。買い手にとっては彼の貨幣の商品への転化であり、売り手たちにとって彼らの諸商品の貨幣への転化である。このような、一般的な商品流通の過程を、同時に一つの個別資本の独立した循環のなかの機能的に規定された一つの区切りにするものは、まず第一に、この過程の形態ではなく、その素材的内容であり、貨幣と入れ替わる諸商品の独自な使用性質である。それは一方では生産手段、他方では労働力であり、商品生産の物的要因人的要因とであって、それらの特殊な性質は、もちろん、生産される物品の種類に相応していなければならない。〉(全集24巻36-7頁、下線は引用者)

 このように林氏が恐らく〈「流通」の問題〉として想定しているW’-G’-W、すなわち商品資本の貨幣資本への転換と、その貨幣資本の商品への転換というのは、決して単に流通だけの問題ではないことが分かるであろう。つまりG-Wの過程は、単純な商品流通を想定するだけなら、Wは商品であれば何でも良いのであるが、資本の転換として考察する場合には、商品の〈素材的内容〉〈諸商品の独自な使用性質〉が問われるのである。そしてそれがどういうものでなければならないかは〈生産される物品の種類に相応していなければならない〉、すなわち生産過程の問題なのである。生産過程の物質的形態、物質的条件がそこでは問題になることが分かるであろう。だから林氏が表式では〈「流通」の問題〉だけが問題になるのであって、生産過程は問題にならないなどというのがどれほど問題を、つまり「資本の流通過程」そのものを自身が理解していないかを自ら語っているに等しいのである。
 林氏がまったくといってよいほどマルクスの再生産表式を理解していない(再生産表式だけではなく第2部全体もほとんど理解していない)と、恐らくこれまで真剣に研究したこともないと(越村の解説本を斜めに読んだぐらいはあるであろうが)、われわれは断言せざるを得ない所以である。
 林氏は、社労党を解党して、同志会に強引に移行する時に、『資本論』の重要性を指摘し、その学習を呼びかけたが、これはまったく建前だけであった。なぜなら、林氏一人だけが、それを何ら自分自身の問題として、自分自身の課題として考えてこなかったからである。そして今では、『資本論』に依拠して論を展開する会員に対して、「マルクス絶対主義者」なるレッテルを張り、『資本論』をないがしろにする有り様なのである。林氏はその半世紀以上にもなる社会主義者としての活動のなかで、一体、何をしてきたのか。『資本論』を真剣に研究し、それにもとづいて労働者が当面する諸課題を理論的に明らかにして、提示するということをほとんど出来ずに来ているではないか。ただ手前勝手な罵詈雑言の類を、機関紙・誌で書き散らしてきただけではないか。理論的な深まりという点で、まったく進歩のない活動の半世紀である。そして今では老いぼれて、『資本論』やマルクスに悪態をつくまでになっているのである。ただ情けないの一言でしかない。

●〈確かにマルクスのくだんの「表式」は、これまで一般的に--とりわけ共産党系の学者たちによって--「再生産表式」と言いはやされて来たが--エンゲルスが二巻三篇のタイトルを、「流通過程と再生産過程との現実的諸条件」というマルクスのものから、「社会的総資本の再生産と流通」といったものに書き変えたこともあいまって--、しかしそれ自体、資本の「再生産表式」といったものではない、すなわち資本の「生産過程」そのもの、「生産過程」自体の分析や検討が理論課題にされているのではないことを確認しておくことは重要であろう。〉(32頁)

 これも知ったかぶりをしているが、何を言っているのか意味不明である。林氏は、現行の第3篇の表題がエンゲルスの手になることを知っている。しかし、マルクスが第2稿に書いた表題「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」でどういう意図を持っていたのかということについて、果たしてどれだけ理解しているというのであろうか。もしそれを知っていたら、エンゲルスがそれを「社会的総資本の再生産と流通」に変え、「現実的諸条件」という一文を削除したことがどういう影響をもたらしたかが分かるであろう。
 マルクスは、第3章(第2稿の段階では現行の第3篇は「章」であった)の表題を「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」としたあと、以前にも指摘したが、それを(1)と(2)にわけて、(2)には表題も何も書かなかったのに対して、(1)の表題を「社会的に考察された不変資本、可変資本、および剰余価値」とし、それを「(A)単純な規模での再生産」、「(B)拡大された規模での再生産、蓄積」にわけている。そしてそれぞれを「(a)貨幣流通による媒介なしの叙述」と「(b)貨幣流通による媒介を入れた叙述」に分けたのである。つまりマルクスはそこでの研究の対象を「単純再生産」、あるいは「拡大再生産」という形で、つまり「再生産過程の考察」であることを明確に語っているのである。
 そしてマルクスが「流通過程および再生産過程の現実的諸条件」としたのは、「社会的に考察された不変資本、可変資本、および剰余価値」の補填関係によって実現されている社会的物質代謝の現実的諸条件(物質的諸条件)を考察するということなのである。つまり社会は、資本の流通を通じて、如何にして再生産を行っているのか、社会の物質代謝の現実的(物質的)諸条件が、そうした資本の流通を通じて、つまり社会的に不変資本や可変資本、剰余価値のそれぞれがどのように補填し合うなかで、貫いているのか、あるいは社会的な物質代謝が維持されているのか、を見ていくということなのである。だからマルクスの意図は、最初から社会的な物質代謝の法則が、資本の社会的な総流通という媒介を通して、如何にして自己を貫徹しているのかをみることにあるのである。
 それをエンゲルスが「社会的総資本の再生産と流通」と表題を変えることによって(「現実的諸条件」という用語を削除することによって)、その意図を見えなくしているのである。だからエンゲルスが表題を変えたことが、林氏がいうように、第3篇の課題が「再生産」であるかに思わせるようになったなどというのはむしろ反対なのである。エンゲルスの修正は、反対に第3篇の課題が「流通」にあるかに思わせるようなものになっているのである。つまり林氏こそが,マルクスの本来の表題の意味を理解せず、エンゲルスの修正に影響されているのである。
 自分の無知を省みず、知ったかぶりとはったりで世の中(といっても特定の狭い組織内だけの話であるが)を渡ってきた人物の卑しさがにじみ出た文章ではある。

●〈マルクスが第二巻の課題を「資本の流通過程」という名で総括していることからも明白なように、「再生産」といったことは--それが、「総資本」のであれ、社会的総生産のであれ--理論的な課題として提起されてはいないのである。問題は資本の「運動」であり、あるいは「循環」であり、その三つの形態である。「再生産」について語れるにしても、この限界の中でのことであって、「資本の流通過程は、その生産過程と《やはり関連している》」等々と主張することで、この第二巻の理論的な課題を忘却したり、あいまいにしたりすることはできないのである。仮に「関係」なり、「関連」なりがあるにしても、それはマルクスが定式化しているものが流通過程であり、商品資本の流通過程を通して、生産過程を規定し、準備するものでしかない、という事実を変えるものではない。私は田口に、「いわゆる『再生産表式』のどこに、『生産過程』なるもの(の分析なり、論理なり)があるのか」と質問したが、田口は答えてくれなかったし、今も答えていない。〉(32頁)

 林氏は『資本論』の第2巻の表題だけは読んだことはあるが、その中身を研究したことはないのであろう。そのなかでマルクスが「再生産過程」という用語をどれほど使って問題を論じているのかを知らないのである。初稿には方法論的に示唆する叙述が多いが、次のように書いている。

 〈生産過程がその一契機をなしている資本の総流通過程は、ここでは再生産過程として現われるのであり、本来的流通W'-G-Wは、この再生産過程の特殊的、流動的な一契機としてのみ現われる。商品の貨幣への転化と商品の貨幣からの再転化、つまり資本によって行なわれる単純な商品変態は、ここでは再生産過程のたんなる契機として、しかし同時に再生産過程の、より正確にいえば客体的な労働諸条件および主体的な労働諸条件の(生産諸条件の)再生産過程の、必然的契機として現われるのである。〉(中峯・大谷訳『資本の流通過程』大月書店、42頁、下線はマルクスによる強調)

  これは「流通過程の第二の形態」の考察の最後の方で書いている一文であるが、資本の流通過程にはそもそも生産過程がその一契機をなしていること(そうでなければ資本の増殖は不可能である)、だから資本の総流通過程は、不可避に再生産過程として現れるという認識が林氏にはないのである。
 林氏は「生産過程」の分析はないなどと田口氏に言い募っているが、生産過程の分析は、第1巻で行われたことは周知のことではないか。そんなことをいうことに何の意味があるのか。今問われているのは、何故、資本の流通過程は、資本の再生産過程として現れるのかということである。第2巻の分析の対象が、第1巻とは違うということなど当たり前のことであり、そんなことを幾ら強調しても何の意味もない。第1巻の「資本の生産過程」の分析を前提しているからこそ、第2巻の「資本の流通過程」は、生産過程と流通過程とを統一したものとして、現れることができるし、現れてくるのである。それがマルクスが「資本の総流通過程」として述べているものである。だからマルクスは、資本の循環の諸形態を考察した上で、総括的に次のように述べている。

 〈総過程は、流通過程と生産過程との統一として現われ、したがって、直接的生産過程が流通過程の媒介的な契機として現われるのと同様に、流通過程は生産過程の媒介的な契機として現われる。〉(同55頁)

 林氏のように、「資本の流通過程」と「資本の生産過程」とを対立的に捉えたり、機械的に切り離すのは、ほとんど問題を何も理解していないに等しい。一体、第2巻の何を学んだというのであろうか。

●〈マルクスは、資本の流通過程の一つの根本問題は、単なる資本の「形態変態」ではなく、「実体的な変態」でもある、それを包含していると強調している。つまり流通過程を中断し、それを制約する一契機として存在する生産過程の前提としての商品(資本) の交換であり、それは素材的、実体的に見るなら、その相互補填の関係を含むのであり、含まなくてはならないのである。いわゆる「再生産表式」は、この課題に答えるためのものであって、基本的に、資本の生産過程--それは基本的に、『資本論』第一巻の課題であった--とは区別された、「資本の流通過程」に属する問題である。
 マルクスは資本の三つの形態の循環を問題にし、その総括として次のような循環の定式を与えている(2巻4章の冒頭)。
「 一) G-W…p…W…G
  二) P…Ck…P
  三) Ck…P (W’)」
 ここではCkは、マルクスの説明では「総流通過程」を意味している(他は、G、W、Pはそれぞれ貨幣資本、商品資本、生産資本であり、’は増殖したことを意味している)。
 ここを見ても明らかだが(とりわけ、二と三)、「総流通過程」はただ生産過程の前提として、そしてまたその結果としてしか現われていない、つまりマルクスが問題にしているのは「再生産表式」といったものではなく、基本的に「総流通過程」であることが確認されるだろう。〉
(32-33頁)

 林氏は『資本論』に依拠しながら、『資本論』を否定できるとでも考えているのであろうか。しかし、それは手品でも使わない限り不可能である。そこで林氏は姑息な手品を使うわけである。林氏は「第2巻(第1篇)第4章の冒頭」(林氏は姑息にもわざと「第1篇」を抜かしている)の一文を持ってきて、「第2部第3篇」を否定するわけである。あるいは「再生産表式」を持ち出すが「再生産過程」は持ち出さないというマジックを使っているわけである。
 しかし、われわれが知っているように、マルクスが「再生産の表式」を持ち出しているのは、第3篇である。第1篇や第2篇では、個別資本の循環や回転が問題になっているが、第3篇では社会的な総資本の流通と再生産の現実的な諸条件が対象になっている。だから第1篇の理屈を持ち出して、第3篇を否定できるなどということはそもそも出来ないのである。そして第1篇や第2篇では「再生産表式」は確かに問題になっていないが、「再生産過程」は幾らでも問題になっているのである。そして「再生産表式」というのは「再生産過程」の社会的な総過程を「表式」を使って分析・考察するものである。つまりマルクスが第3篇で表式を使って、考察しているものは、社会の総資本の単純再生産や拡大再生産の過程であることは誰でも知っているであろう。だからマルクスは第2部全体を通して「再生産過程」(=流通過程)を問題にしているのである。事実、「再生産過程」という用語なら、林氏が紹介している「定式」を、マルクス自身が説明している一文のなかにも出てくる。このマルクスの説明文はあとで紹介するが、次の引用文は、その後で引用・紹介するもののすぐ後に出てくる一文である(ただし太字は引用者による)。

 〈W-Gが買い手にとってはG-Wであり、G-Wが売り手にとってはW-Gであるかぎりでは、資本の流通はただ普通の商品変態を表わしているだけであって、商品変態のところで(第一部第三章第二節)展開された流通貨幣量に関する諸法則があてはまる。しかし、この形態的な面にとらわれないで、いろいろな個別資本の変態の現実の関連を見れば、すなわち、事実上、社会的総資本の再生産過程の諸部分運動としての諸個別資本の諸循環の関連を見れば、この関連を貨幣と商品との単なる形態転換から説明することはできないのである。〉(124-5頁)

 ここでマルクスは何を言っているのであろうか。資本の流通をただ形態的な面だけでみるなら(つまり林氏のように「資本の流通過程」で、ただ流通だけを問題にするなら)、それは単に商品の変態を表すだけである。しかし実際の個別資本の変態の現実の関連をみるならば、それは事実上、社会的総資本の再生産過程の諸部分としての個別資本の諸循環の関連を見ることであり、そうすれば、それは社会的な総生産の現実的な諸条件を見ることになるのであって、だからそれは単に貨幣と商品との形態転換だけから(つまり林氏が拘っている流通過程だけがら)では、説明することは出来ないのだということである。
 これ以外にも、マルクスは第1篇や第2篇でも、資本の流通過程を再生産過程として説明しているところは一杯あるが、いちいち、紹介していたらキリがないのでやめておく。

 次は、林氏が持ち出している「定式」そのものが、林氏の理屈を否定しているということを指摘しておこう。林氏の持ち出している「定式」で、マルクスが問題にしているのは、流通過程と生産過程との統一という問題であって、林氏がいうように「流通過程」だけではないのである。それをマルクスは図示しているのである。林氏が引用しているのは、「第2部 資本の流通過程」の第4章の冒頭の一節である。つまりこの「定式」が示すものこそ、「資本の流通過程」というのは、流通過程と生産過程とを統一させて問題を論じる必要があることなのである。つまりこれこそは、林氏自身が自説の誤りの証拠を自ら示しているものでもあのである。
 林氏はわざと〈つまりマルクスが問題にしているのは「再生産表式」といったものではなく、基本的に「総流通過程」であることが確認されるだろう〉と述べている。ここには三つの誤魔化しがある。一つはすでに述べたように、第1篇の一文を持ってきて、第3篇を否定するという誤魔化し、もう一つは「再生産表式」と述べて、「再生産過程」とは述べない誤魔化し、マルクスの「定式」は紹介するが、その「定式」を説明しているマルクス自身の一文は隠す、という誤魔化しである。
 では、マルクス自身は林氏が隠している一文で、林氏が紹介している「定式」をどのように説明しているのか、それをみよう。

 〈三つの形態を総括してみれば、過程のすべての前提は、過程の結果として、過程自身によって生産された前提として、現われている。それぞれの契機が出発点、通過点、帰着点として現われる。総過程は生産過程と流通過程との統一として表わされる。生産過程は流通過程の媒介者になり、また逆に後者が前者の媒介者になる。
 三つの循環のどれにも共通なものは、規定的目的としての、推進的動機としての、価値の増殖である。 I ではそれが形態に表わされている。形態IIは、pで始まり、価値増殖過程そのもので始まる。IIIでは、循環は増殖された価値で始まって、新たに増殖された価値で終わっており、運動が元のままの規模で繰り返される場合でもそうである。〉(124頁)

 ごらんの通り、〈つまりマルクスが問題にしているのは……基本的に「総流通過程」であることが確認されるだろう〉などとは言えないことは明らかであろう。これが林氏流の誤魔化しのテクニックである。「定式」は紹介するが、その「定式」を説明しているマルクス自身の一文はカットして手前勝手な、自分に都合のよい解釈を押しつける。それが林氏流なのである。これは不破が得意としていたやり方でもあった。
 マルクスは何を言っているのか。三つの形態を総括すれば、過程の前提は、その結果として、結果は前提として現れる、それぞれは出発点、通過点、帰着点として現れる、ということであって、決して、「総流通過程」だけを問題にしているのではない。そして〈総過程は生産過程と流通過程との統一として表わされる。生産過程は流通過程の媒介者になり、また逆に後者が前者の媒介者になる〉と明確に述べている。林氏の誤魔化しは明らかであろう。
 さらに次のパラグラフでは、〈三つの循環のどれにも共通なものは、規定的目的としての、推進的動機としての、価値の増殖〉だと述べ、形態IIは生産過程、すなわち価値増殖過程そのもので始まる、つまり全体の推進動機である価値増殖がなされるのは、まさに生産過程であり、それ抜きに全体を語ることは出来ないことをも述べているのである。

●〈しかし資本の流通過程はまた一部、消費手段の分配過程をも含んでいるのであって、その意味で、社会主義における分配法則を明らかにしようとする我々にとって、この資本の流通過程は重要である。それ故に、我々はマルクスのいわゆる「再生産表式」から出発するし、しなくてはならないのである。そしてその場合の出発点にもなるのは、資本の「生産過程」の直接的な結果として現れる「商品資本」(総商品資本)であり、そうでなくてはならない。〉(33頁)

 〈資本の流通過程はまた一部、消費手段の分配過程をも含んでいる〉だって? しかし単に林氏のように〈資本の流通過程〉だけを問題にするなら、そこには個人的な消費は必然的な契機としては入ってこない。総資本の流通と再生産を考察する時に、はじめて個人的消費も考察の対象になるのである。マルクスは次のように述べている。

 〈G-Wを補足する結びの段階W’-G’の結果として実現された貨幣資本G’は、貨幣資本がその最初の循環を始めたときとまったく同じ形態にあるのだから、その循環から出てくれば、大きくされた(蓄積された)貨幣資本G'=G+gとして再び同じ循環を始めることができる。そして、循環の繰り返しにさいしてgの流通がGの流通から分離するということは、少なくともG…G'という形態では表わされていない。それゆえ、貨幣資本の循環は、その一回だけの姿で見れば、形熊的には、ただ価値増殖・蓄積過程を表わしているだけである。消費はこの循環のなかではただ生産的消費としてG-W(A,Pm)によって表わされているだけであり、個別資本のこの循環のなかにはただ生産的消費が含まれているだけである。G-Aは、労働者の側から見れぽ、A-GまたはW-Gである。つまり、彼の個人的消費を媒介する流通A-G-W (生活手段)の第一の段階である。第二の段階G-Wはもはや個別資本の循環にははいらない。しかし、それはこの循環によって準備され、これによって前提されている。というのは、労働者が資本家の搾取材料としてつねに市場に現われているためには、彼はまず第一に生きている必要があり、したがって個人的消費によって自分を維持しなければならないからである。しかし.この消費そのものは、ここでは、ただ資本による労働力の生産的消費の条件として、したがってまた、ただ労働者がその個人的消費によって自分を労働力として維持し再生産するかぎりで、前提されているだけである。そして、循環にはいって行く本来の商品Pmは、ただ生産的消費の食料になるだけである。A-Gという行為は、労働者の個人的消費を、すなわち生活手段が彼の血となり肉となることを、媒介する。もちろん、資本家も、資本家として機能するためには、そこにいなければならないし、したがってまた生活し消費しなければならない。そのためには、彼はじっさいただ労働者として消費するだけでよいであろう。したがって、それ以上のことは流通過程のこの形態では前提されていないのである。形態的にはそういうことさえ表わされてはいない。というのは、この定式は、G'で、すなわちすぐにまた増大した貨幣資本として機能できる結果で、終わっているからである。〉(全集24巻72-3頁)

 このようにマルクスは個別資本の循環、すなわちその流通を問題にするだけなら、個人的消費は前提はされているが、流通過程そのものには入ってこないと述べている。これに対して、社会的総資本の再生産を問題にする場合には、それが考察の対象になることも、次のように述べている。

 〈この総過程は、生産的消費(直接的生産過程)とそれを媒介する形態転化(素材的に見れば交換)とを含むとともに、個人的消費とそれを媒介する形態転化または交換とを含んでいる。それは、一方では、労働力への可変資本の転換を、したがって資本主義的生産過程への労働力の合体を含んでいる。ここでは、労働者は自分の商品である労働力の売り手として現われ、資本家はその買い手として現われる。しかし、他方、商品の販売のうちには労働者階級による商品の購買、つまりこの階級の個人的消費が含まれている。ここでは、労働者階級は買い手として現われ、資本家は労働者への商品の売り手として現われる。
 商品資本の流通は剰余価値の流通を含んでおり、したがってまた、資本家がそれによって自分の個人的消費すなわち剰余価値の消費を媒介するところの売買をも含んでいる。
 だから、社会的資本として総括された個別的諸資本の循環、つまり総体として見たこの循環は、資本の流通だけではなく一般的な商品流通をも包括しているのである。〉(同上430-1頁)

 だから林氏のように、社会的な総資本の流通と再生産の現実的諸条件を考察してるものに、ただ〈資本の流通過程〉だけを見るとするならば、そこには個人的消費手段の分配などは本来は入ってこないのである。ただ『資本論』第2巻をまともに研究したこともない人だけが、自分が何を言っているのかも分からずに、勝手なことを言いふらすことができるだけである。

(以下、続く)

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