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2015年9月 3日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-22)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

 

 前回(28-21)の最後に、〈このように、ここでマルクスが何を問題にし、どのようにそれを論じているかを明確に捉えれば、これまでの議論がどれほど間違った土俵の上での議論であったかが分かるであろう。しかしまだハッキリとは問題点が捉えきれていない人のために、少しこの間の議論を振り返ってその無意味さを確認しておくことにしよう。(しかしそれは若干、長い説明になるので、次回に回すことにする。)〉と書いたように、今回は、この第28章の解釈をめぐって行われた、マルクス主義同志会の内部における議論を取り上げる。〔なおこの議論は、『海つばめ』紙上で行われた。ただ議論の内容としては検討するほどの意義は認められない。しかし関心のある人もあるかも知れないので、関連する論文をすべて紹介するのは困難だが、関連すると思われる論文が掲載された『海つばめ』の号数と目次一覧を最後に紹介しておくことにする。〕

 これまでの議論の批判的検討--この部分は興味のない人は飛ばして読んで頂いてもよいが、エンゲルスの手形割引論の批判と「利子生み資本」の意義について述べたところは重要なので参考にしてもらいたい。》

 まずこの間の議論における最大の論争点の一つは“イングランド銀行がAに貸し出す貸出の形態をどう捉えるべきか”ということであった。それは「手形割引」によるのか、それとも「有価証券を担保にした貸付」か、というものである。すでに述べたように、最初、林紘義氏は「手形割引」であって、「担保貸付」と理解した田口騏一郎氏はエンゲルスの修正に影響されているのだ、と批判したのであった。ところがすぐに林氏は自己の見解を180度転換して、今度は「公債を担保にした貨幣融通」だと主張するようになった。これは要するに「有価証券を担保にした貸付」のことであり、つまり田口氏と同じ立場に立ったわけである。
 それに対して、仁田氏は最初は林氏らに同調するような立場を示していたが、最終的には、マルクスは「手形割引」と言っているが、それは「手形貸付」のことであり、そのように理解すべきである。そうすれば何もかもうまく説明できるのだ、などと主張し、自己の見解をさまざまな資料などを持ち出して論証して見せてくれたのであった。
 この論争そのものは、結局、決着がついたのかどうか分からないうちに打ち切られてしまった。表面上は一見真剣で激しく、口角泡を飛ばす、喧々諤々たる議論ではあったが、しかしこのレジュメを通してマルクスが何を問題にしているのかを知ったわれわれにとっては、その余りの不毛さにただ唖然とし、茫然自失するだけなのである。
 少なくとも、このレジュメのなかで、これまでわれわれはマルクス自身はどちらか一方ではなく、あえていえば、そのどちらも想定していることを確認してきた。そればかりかいま見たように、肝心の銀行券の還流を問題にするところになると、むしろマルクスはそうした形態には何の関心も払っていないことに気づくのである。
 これはある意味では当然であって、そもそもここでマルクスが問題にしているのは、銀行学派がイングランド銀行が銀行券で貸し出ししても、その銀行券は「資本の貸付」になるから、すぐに銀行に還流し、銀行券の流通高には影響しないと主張するのを、では本当にそうなのかとマルクスが分析しているところなのである。だからこの場合、問題は銀行券がイングランド銀行の外に出て行くということが重要なのであって、それがどのような貸付の形態で出て行くかといったことはそもそも問題にもならないからである。だからマルクスは〈有価証券にたいして発行された銀行券は〉とか〈同行はAに、彼の有価証券にたいして銀行券を支払う〉といったように、それがどういう貸付で行われたかについてはまったく問題にせずに、ただAの有価証券に対して銀行券が貸し付けられるという事実のみを確認して、その上で問題を論じているのである。マルクスにとっては銀行学派の主張を検討するためには、それで十分だったからである。
 では何故、林氏や田口氏、あるいは仁田氏は、イングランド銀行の貸付の形態がさも重要であるかに議論したのであろうか? それは彼らがここでマルクスが何を問題にしており、それをどのように論じているかについてまったく理解できなかったからである。それは彼らがそもそもマルクスのこの28章の草稿の最初の部分からキッチリ読み取ってこなかったからであるが、同時にエンゲルスが次のように言っていることにも大きく影響されているのである。エンゲルスはマルクスの本文に大胆な修正を加えて次のように書き出している。

 〈では、銀行からAへの前貸は、どの程度まで資本の前貸とみなされ、どの程度までたんなる支払手段の前貸と見なされるのか?……この問題は前貸そのものの性質にかかっている。これについては三つの場合を検討する必要がある。〉

 そしてエンゲルスは「無担保貸付」と「担保貸付」そして「手形割引」の三つについてそれぞれ検討しているのである。この部分は全体として混乱しているのだが、その検討はとりあえずわれわれは置いておこう(このレジュメは最初にも断ったように、エンゲルスの修正を批判的に検討することが本題ではない)。
 このエンゲルスの問題意識を見ても、彼がここでマルクスが何を問題にしているのかをまったく理解していないことが分かる。エンゲルスはマルクスが銀行による貸付が資本の貸付になるかどうかを検討しているので、それが本題であるかに勘違いしているのである。
 しかしマルクスが資本の貸付かどうかを検討しているのは、あくまでも銀行学派がそれを主張しているからであり、しかもこの場合の「資本の貸付」というのは銀行学派のいう意味でのそれである。マルクスにとって銀行が貸し付ける銀行券が「利子生み資本」という意味での貨幣資本(moneyed Capital)であることは当然なのである。しかしマルクスはそのことをここでは銀行学派の混乱した主張に対置する形では批判を展開していないのである。それはこの銀行学派批判の最後の結論として明確にする問題だと考えているからである。銀行学派の主張にそってその矛盾や混乱を内在的に批判することが、ここでのマルクスの課題なのである。エンゲルスはまったくこうしたことを読み誤っている。彼は銀行が貸し出す銀行券が利子生み資本であることさえ見落としているのだが、その詳しい批判は後にやることにしよう。
 ところでこの間の論争者も、エンゲルスとまったく同じ立場に立っているのである。というよりエンゲルスの修正に大きく影響されているのである。だから彼らも銀行の貸付が「手形割引」によるのか、それとも「担保貸付」によるのかが何か重要な問題であるかに考えたのである。(ついでに言うと、林氏も先のエンゲルスの修正文の最初の一文を引いてきて、エンゲルスの「何の断りもない、勝手な書き加え」を激しく非難している。しかしだからといって林氏が何か正しい理解に達しているかといえば決してそうではないのである。マルクスは銀行学派に対して、彼らは通貨説のやつらを批判するが、しかしそのことだけでは彼らが正しい理解に到達するには十分ではないと指摘していたが、この場合の林氏にも同じことがいえるであろう)。

 ところで林氏が最初「手形割引」を主張しながら、一転して、「公債を担保にした貨幣融通」、つまり「担保貸付」に転向したのは、マルクスが〈Aへの貸付は残る〉と述べているからであるという。林氏にとってはどうしてもこの〈Aへの貸付が残る〉とマルクスが言っている事態を、「手形割引」では説明不可能に思えたというのである。どうしてそうなのか? それは林氏が「手形割引」とは何かを正確に理解していないか、それとも恐らくこちらの方が真実に近いと思うが、エンゲルスが「手形割引」について述べていることに影響されているからであろう。しかしエンゲルスの主張は混乱しており、間違っているのである。だからわれわれはまずエンゲルスの主張を批判的に検討することから始めなければならない。エンゲルスは手形割引について次のように説明している。

 〈第3の場合--Aは銀行で手形を割り引いてもらい、そのかわりに、割引料を差し引いた金額を現金で受け取った。この場合には、彼は流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って、そのかわりに流動的な形態にある価値額を受け取ったのである。つまり、まだ流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って、そのかわりに現金を手に入れたのである。その手形は今では銀行の所有物であるこのことは、支払が行われない場合には最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証するということによっては、少しも変わらないAはこの責任を他の裏書人たちや振出人と分担しているのであって、これらの人々にたいしては彼自身が請求権をもっているのであるだから、ここにあるのは、けっして前貸ではなく、まったく普通の売買であるそれゆえ、Aは銀行になにも返す必要はないのであり、銀行は満期日に手形の取立によって保証を受け取るのである。この場合にもAと銀行とのあいだには相互的な資本移転が、しかも他のどの商品の売買の場合ともまったく同様に、行われたのであり、またそれだからこそAはなにも追加資本を受け取ってはいないのである。彼が必要として受け取ったものは支払手段だったのであって、彼はそれを、銀行が彼のために彼の貨幣資本の一方の形態--手形--を他方の形態--貨幣--に転化させてくれたことによって、手に入れたのである。〉(下線は引用者)

 ここで下線を引いた部分はすべて間違っているか、エンゲルスのマルクスの文章に対する無理解を示している部分である。こうしてみるとずいぶん多いのであり、それはほとんどだといえる。とくに手形割引を〈まったく普通の売買である〉としているのは、決定的である。下線を引いた部分がなぜ間違いなのかについて、長くなるが少し解説しておこう。

 まずAが銀行から〈割引料を差し引いた金額を現金で受け取った〉としている部分は、もちろんそれ自体が間違いというのではない。エンゲルスは恐らくAが銀行から貸付を受けたのは差し迫った支払のための手段に窮したからであるから、この場合、Aが受け取るものを「現金」としたのであろう。そしてそれはその限りでは間違っていない。しかしエンゲルスは、このように書くことによって、ここでマルクスが何を問題にしているのかをまったく理解していないことを自ら暴露しているのである。なぜなら、すでに説明してきたように、マルクスはここでは銀行学派の主張を批判しているのである。そして銀行学派に大きな影響を与えているのは、イングランド銀行がその銀行券で貸付を行うのに、銀行券の流通高には影響しないという事態なのである。だから貸付が銀行券で行われるということがこの際、重要なのである。もちろんAが貸付を受けたのは法貨としてのイングランド銀行券によってであり、その限りではエンゲルスのいうようにそれは「現金」なのだが、しかしここで重要なのは銀行券で貸し付けられるということなのだから、それをエンゲルスのように単に「現金」と言ってしまうと、何が問題になっているかを全く理解していないことを自ら示したことになるのである(なぜなら「現金」というなら、一般論として「金(鋳貨)」もその中に入るからである)。
 次にエンゲルスは〈彼は流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って〉とか〈つまり、まだ流動的でない形態にある貨幣資本を銀行に売って〉と述べている。これはいうまでもなく、手形割引を〈だから、ここにあるのは、けっして前貸ではなく、まったく普通の売買である〉と説明することと関連している。
 つまりエンゲルスは銀行が貸し付ける銀行券が銀行にとっては「利子生み資本」であるということを見落としているのである。もし銀行が貸し付ける銀行券が利子生み資本であることを理解するならば、それが「手形割引」でなされるか、あるいは「無担保貸付」でなされるか、それとも「担保貸付」でなされるかはこの場合どうでもよいことであることが分かるであろう。もしこのレジュメを最初から読まれた人なら、銀行が貸し出す銀行券が利子生み資本であるということを聞いたら、ピーンと来る筈である。われわれはこのレジュメの最初に「利子生み資本とは何か」についてザットした説明を与えておいた。それをもう一度思い出してみよう。次のようにレジュメでは書かれていた。

 〈「取り戻しを条件とする一時的な価値の手放し」を「貸借」というのである。そしてこの貸借こそ信用関係そのものなのである。「利子生み資本」とは、こういう貸借を通じて運動する貨幣のことである。だからそれは信用制度の下で運動するわけだ。銀行は出来るだけ有利な条件で貨幣を貸し出し、儲け(利子)を得ようとする。それに対して企業はまた出来るだけ有利な条件で資金を調達し、それを使って儲けようと(つまり産業利潤や商業利潤を上げようと)する。銀行にとって有利な貸し出しとは、つまり高い利子で貸し出すことである。それに対して企業にとって有利な資金調達とは低い利子で借り出すことである。だからここに「貨幣市場」なるものが生まれる。彼らは貨幣そのものを「商品」として“売買”するのである。もちろん、“売買”とはいうが、実際は「貸し借り」である。ただ貨幣市場では貨幣そのものが取引きされるために、あたかも貨幣そのものが商品として売買されるかの外観を得るわけである。〉

 だから銀行から貸し出される銀行券が利子生み資本であるなら、それは利子生み資本に固有の運動をするのである。それはどういう運動だったか? すなわち「貸借」である。それは「取り戻しを条件として」銀行から手放されたのであり、だから必ず一定の利子をつけて銀行に返済されなければならないのである。確かにこの場合も売買の外観を取る。とくにエンゲルスが間違って捉えているように、手形割引の場合はあたかも「まったく普通の売買」であるかに見えるのである。しかし本当はそうではなく、やはりそれは利子生み資本の運動なのであり、それに固有の運動形態、すなわち貸借関係を表しているのである。もちろん、それは手形割引だけの問題ではなく、エンゲルスが分析している他の前貸の形態、すなわち無担保貸付であろうが、担保貸付であろうが、それらもやはり利子生み資本の貸付であり、手形割引と同様利子生み資本に固有の運動形態を取るのである。だからその貸付がどのような形態でなされるかといったことは、この場合にはまったく問題ではないのである。

 林氏は手形割引だとマルクスが〈Aに貸付が残る〉と述べていることが説明できないという。つまり林氏もエンゲルスの手形割引論に影響されているのである。要するにそれを〈まったく普通の売買〉と捉えているから、銀行に対するAの貸付は残らないと考えているのである。
 しかし銀行が貸し付ける銀行券が利子生み資本であることが分かれば、そんな間違いを犯すことはない。銀行はあくまでも手形を持ち込んだAに銀行券を貸し付けたのであり、だからその手形が満期になってその振出人から支払われたとしてもやはりそれはAからの返済金なのである。もしそうでなければ帳簿上Aへの貸付がいつまでも残ることになってしまうであろう。Aへの貸付は手形が満期になって振出人から支払があって初めて返済され、よって利子生み資本としての運動(循環)はそれで終わるのである。だからそれまでは銀行にとってはAへの貸付として残っているのである。
 そして実際、Aにも支払義務が残っている。この点、エンゲルスの捉え方には理解しがたいところがある。エンゲルスは〈このことは、支払が行われない場合には最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証するということによっては、少しも変わらない。Aはこの責任を他の裏書人たちや振出人と分担しているのであって、これらの人々にたいしては彼自身が請求権をもっているのである〉という。ここでエンゲルスが〈このこと〉といっているのは、要するにAが銀行に手形を「売って」「現金」を入手し、手形は銀行の「所有物になった」という「こと」である。
 しかしこのエンゲルスの言明は正しいであろうか? なぜなら、エンゲルスのいうように、手形の振出人が支払えない場合、〈最終裏書人のAが銀行にたいしてその金額を保証する〉必要があるのであれば、それはまさにAがその場合は銀行への返済義務を負っていることを示しているのではないのか。AはそれをさらにAの前に裏書きした人物に遡って請求できるだけである。しかし銀行との関係では第一義的にはAに支払義務があり、Aにその不渡りになった手形を買い取る義務が生じるのである。だからエンゲルスの主張とは異なり、Aには手形が満期になり支払が完了するまでは、依然として返済義務が残ることをそれは示しているのである。

 最後に仁田氏の“思いつき”である。「手形割引」を「手形貸付」と解釈すべきという主張についても少しだけ検討しておこう。
 まずすでに述べたように、このように仁田氏が考えたのも、同氏が林氏や田口氏らと同じように、エンゲルスの手形割引論に影響されてのことであろう。つまり同氏も「手形割引」では、「Aへの貸付が残る」とするマルクスの文章の説明がつかないと考えているのである。だからこの点では、仁田氏は一見激しく対立・論争した林氏や田口氏らとまったく同じ土俵の上にあったのである。
 しかし仁田氏は「手形割引」と「手形貸付」とは根本的に異なることを理解すべきである。歴史的には会計上それらが区別されずに処理されていたと仁田氏は指摘していたが、しかしわれわれにとって重要なのはその科学的な概念である。それにマルクスが両者を混同して論じているなどと仁田氏は事実上いうのであるが、それはまったくマルクスに対するいわれのない“誹謗中傷”の類である。
 手形貸付はエンゲルスが最初の例であげている無担保貸付と事実上同じものである(ただ貸し出す時点ですでに満期までの利子が割り引かれ支払われる)。つまりその場合の手形はただ借用証明書と同じであり、その代わりに手形が振り出されたものでしかない。しかし手形割引で銀行に譲渡される手形は、そうしたものではない。Aはその手形を、それと交換に彼自身が生産した一定の等価物を譲渡して入手したのである。だからその手形は再生産過程における資本の運動を表しているのである。それに対して手形貸付で銀行に譲渡される手形は、そうしたものとは本質的に異なり、再生産過程を何も表していない。つまりそれは再生産過程の外部にある関係なのである(マルクスは商業信用は再生産過程の内部における資本の運動における信用であると指摘しながら、しかし融通手形や投機のための手形等はそれらから除外している。こうしたマルクスの立場からすれば、仁田氏のいうように両者を無区別に論じているなどという言いがかりは思いもよらないことであろう)。
 再生産過程の内部の関係かそうでないかということが、決してどうでもよいものではないことを、すでにわれわれは貨幣資本(moneyed Capital)と利子生み資本との区別を論じたところで指摘しておいた(マルクスが「利子生み資本」の概念を論じたところ[第5篇第21~24章]でもそれを強調していたことをわれわれは指摘しておこう)。少なくとも仁田氏にはこうした認識が欠けているのではないだろうか。もちろん、どちらの手形にしても、この際、それと交換に譲渡される銀行券は、すでにそれ自体が再生産過程の外部にあるものである。だから利子生み資本としての銀行券からみれば、それが手形割引で譲渡されるか、それとも手形貸付で譲渡されるか、あるいは担保貸付でされるかはどうでもよいことなのである。

 われわれはこの機会に、「利子生み資本」の概念の重要性について、ここで再び確認しておこう。エンゲルスがこの概念を見落としたために、どんなに間違ったところに迷い込んだかをわれわれはすでに見たが、現代のさまざまな金融現象を概念的に捉えるためには、利子生み資本の概念は極めて重要なのである。
 エンゲルスは手形割引を「まったく普通の売買」であると見てしまった。こうした外観は、例えば株式などの売買の場合には一層そのように見えるのである。われわれは株式やその他の有価証券などが日常的に他の商品と同じように売買されているのを見る。しかし株式などの売買は、決して一般的な商品の売買とは同じではない。なぜなら一般的な商品というのは、価値と使用価値の統一したものであり、その売買の最終目的はその使用価値の消費である。しかし貨幣商品というのは確かにそれも価値と使用価値の統一したものではあるが、その使用価値とは「価値を増殖する」という特殊な“使用価値”であり、「平均利潤を獲得する」という“使用価値”なのである。だからその「消費」とは、それを事業に投資して産業利潤や商業利潤を獲得することなのである。この相違を捉えているならば、手形割引や株式の売買を、「まったく普通の売買」であるなどと見間違うことはないであろう。
 例えば株式の売買も、それ自体は利子生み資本の運動である。株式を株式市場で購入する人は、その株式を“消費”するわけではない。株券で腹が膨れるわけでもなく、またそれでケツを拭くわけにも行かない。株式を購入する人は、やはり彼の貨幣を利子生み資本として投資したのであり、だからその貨幣は利子生み資本に固有の運動をするのである。つまり彼の目的は、株式購入で支出した貨幣を一定の利子をつけて回収することなのである。だから彼が株式購入に支出した貨幣は、決して購買手段として機能したのではない。それは、あくまでも「取り戻しを条件に譲渡された」のであり、すなわち「貸付」られたのである。だから彼の目的は利子の獲得であり、彼はそれを将来的には一定の利子をつけて「返済」されるべきものと考えているのである。そしてまた、だからこそこうした“売買”は再生産過程の外部にある運動なのであり、現象なのである。それらは再生産過程を直接反映しているものではない。それらは再生産過程に究極的には規定されてはいるが、しかし相対的に独立・自立しており、よってまた独自に肥大化し得るのである。
 株や国債などの売買が、「まったく普通の売買」であって、リンゴや鉄を売買するのと変わらないのだ、という人は、両者の形式的な類似性に目を奪われて、その本質的な相違を見ていないのである。後者は、社会の再生産を媒介しており、それはあらゆる社会が営んできた人間の生活の再生産過程を反映している。社会の冨を生産し、人類の社会そのものを再生産しかつ拡大する、その特殊歴史的形態としての商品であり、その売買である。しかし前者はそうしたものではまったくない。ただ生産的労働者から搾取した剰余価値の分け前をめぐる駆け引きであり、その分け前に預かる権利の“売買”やその蓄積でしかないのである。この両者の本質的な相違を見落とすことは許されない。
 現代の現実資本の再生産過程をその価格総額において何倍も上回る膨大な金融市場における諸現象も、だからこうした利子生み資本の概念なくして解明することは出来ないのである。それらは、すべて利子生み資本の運動であり、それらを利子生み資本の運動として捉えて初めて概念的に捉えることが可能になる。
 その意味では、『資本論』第3部第5章の主題を「利子生み資本」の概念やその運動諸形態、さらにはその歴史性の解明にあると喝破した大谷氏の見識は立派なものだったと言わねばならないであろう。

 (以下、続く)

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§§第5篇第28章をめぐってマルクス主義同志会内で行われた論争に関連すると思われるものの一覧

◆905号(2003.2.23)【三面トップ】『資本論』3巻28章の“怪”――マルクスの文章を大幅に書換え――エンゲルスの考えていたことは何か
◆907号【二~三面】『資本論』第3巻の修正問題――エンゲルス版とマルクスの草稿――ミッシェル・ハインリッヒ
◆910号【二~三面】特集・エンゲルスの“修正”をめぐって
 ・林氏の論難は不当――エンゲルスを擁護する
 ・「鋳貨と貨幣の区別」?――横井氏の“銀行学派的”観念
 ・別の基準でマルクス批判――エンゲルスの挿入、削除に関して
◆911号(2003.4.27)【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か①】「銀行学派」批判の根底――第三巻二十八章冒頭の一句
◆912号(2003.5.4)【二~三面】論争・利子生み資本の概念について
・林氏の批判に応える――資本の特徴的な流通形態こそ重要
・利子生み資本を“至上”視――貨幣資本家と生産資本家の区別と対立
・問題は「貨幣」と「資本」の区別――論点ずらす横井氏の議論
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か②】何が「正しい見解」か不明――エンゲルスの手による「注」
◆913号【二~三面】特集・銀行券はいかに還流するか
・まず混乱を正せ――横井・田口氏の共通の誤り
・仁田氏の批判に答えて――故意の削除云々は不当
・手形割引論か担保貸付論か――エンゲルス修正の評価を語れ
【三面サブ】エンゲルスの“大修正”――『資本論』第三巻第二十八章
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か③】繁栄期に比べて「強い」か――沈滞期における「貸付への需要」
◆914号(2003.5.25)【三面トップ】エンゲルス修正問題(28章)
・マルクスの正確な理解を――修正問題は是々非々で
・公債担保の貨幣融通――逼迫期に行われていたこと
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か④】奇妙な修正や削減――道義的責任さえ問われる
◆915号(2003.6.1)【三面トップ】真理を封印する不破の策動――エンゲルス修正を実質擁護――権威主義の破綻を恐れて
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑤】全くのピント外れ――混乱のもと・長大な挿入文
◆916号(2003.6.8)【二面~三面】銀行学派の評価めぐって
・マルクスのフラートン批判――田口氏の説明は混乱している
・仁田氏の「元帳の立場」――銀行券還流の仕方が問題か
・田口氏はもう少し慎重に――マルクスは反対を言っている
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑥】改善とは到底言えず――エンゲルスの「介入」の仕方
◆917号(2003.6.22)【三面トップ】誰もが“コンフュージョン”――手形割引論でも説明可能――手形貸付の概念を適用すれば
【三面サブ】一番の「混乱」は誰か――仁田氏の衒学趣味的おしゃべり
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑦】問題設定が別ものに――マルクスへの敬意欠く
◆918号(2003.7.6)【三面サブ】何でもかんでも手形貸付で説明――仁田氏の独断的議論
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑧】エンゲルスの「誤解」の根底――なぜ「追加資本の借入れ」持ち出すか
◆919号(2003.7.13)【三面トップ】手形貸付はマルクスの時代にも――草稿理解のカギはここに――林、田口両氏の批判に答える
【三面連載/『資本論』の修正問題――エンゲルスは正当か⑨・最終回】『資本論』の理論を妨げる――不当なエンゲルスの“修正
◆920号(2003.7.27)【三面トップ】エンゲルス編集の問題点――諸概念が不明瞭に――マルクスの執筆時期を無視
◆921号(2003.8.3)【三面サブ】鋳貨と貨幣の区別?――両者は同じものではないのか
◆923号(2003.8.24)【三面トップ】銀行の貸し出すカネの区別
 ・貨幣と「貨幣資本」の違いだ――二つの流通部門への貸し出し
 ・銀行学派と一緒ではないか――資本の「貨幣形態」を理解せず
◆924号(2003.9.7)【一面サブ】労働者セミナーに参加しよう――エンゲルスの『資本論』修正を問う
◆926号(2003.9.28)【四面トップ】エンゲルス修正をどう評価するか――「完成された『資本論』」の幻想を排す
◆927号(2003.10.5)【三面トップ】労働者セミナー/三講師、要点を語る
・表式の意味不明確にした修正――マルクスの問題意識ぼかす
・恐慌論の叙述をどう読むか――エンゲルスの削除は問題
・インテリ追随を排す――「信用」を論じてないと言えるか
◆928号(2003.10.12)【三面トップ】ひいきの引き倒しではないか――田口(騏)氏のマルクス“擁護”
【三面サブ】レジュメへの疑問と意見
◆929号(2003.10.26)【四面トップ】労働者セミナーに参加して――「修正」の問題点明らかに
・再生産表式の理解深めたい――『資本論』をどう学ぶかで悩む
・印象に残った過少消費説批判――自分なりに問題点を理解
・予習して参加したが難解だった――マルクスの草稿を誰もが読めるように
・発言できなくて残念――久留間の主張からも学びたい
◆931号(2003.11.9)【三面トップ】エンゲルス修正の不当性明らかに――待たれるマルクスの草稿出版――労働者セミナーの議論の要点

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