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2015年8月

2015年8月27日 (木)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-21)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

【37】 (マルクスはイングランド銀行から貸し出された銀行券が、すぐに銀行に還流する場合を第1と第2に分けて分析する。このパラグラフはその第1である)

 第1に,同行はAに,彼の有価証券にたいして銀行券を支払う。Aはこの銀行券でBに満期手形の支払をし.Bはその銀行券を同行に預金する。発券はこれで終りとなるが,しかし貸付は残っている。(「貸付は残っているが,通貨〔currency〕 は,もし必要がなければ,発行者のもとに帰っていく。」) (フラ一トン,97ページ)同行がAに前貸ししたものは,資本ではなくて,銀行券であったが,同じ銀行券がいま同行に帰ってきた。これに反して,同行は,この銀行券で表現されている価値額だけのBへの債務者であり,だからBは,銀行の資本のうちのこの価値額に相当する部分を自由に使うことができる。それゆえ,同行の元帳の立場からすれば,取引は,同行がAに資本を前貸しした,ということに落ちつくのである。しかしこの元帳の立場は,取引の本性をいささかも変えるものではない。そしてその本性とは,Aが必要としたものは資本ではなくてBへの「支払手段」であったということ,発行された銀行券は支払手段として機能したということ,そして貨幣融通への圧迫はけっして資本への需要ではなくて,支払手段への需要だということである。ただし最後の場合に同行がその需要を満たすことができるのは,流通総量〔Circulationsmasse〕にそれだけの銀行券を追加することによってではなくて,同行がBにたいする一定価値額の債務者となることによって,つまり前貸が同行の資本の勘定にかかってくる,ということによってでしかないのではあるが。〉大谷論文255-256頁)

 このパラグラフ以下は、この間、論争されてきたところなので、論争点について少し注意しながら読んでもらいたい。論争そのものの評価はまた必要な時にやるであろう。まず平易な書き下しである。

 〈イングランド銀行から貸し出された銀行券がすぐに還流するのはどうしてか、それを詳しく検討してみよう。われわれはこれを銀行券が預金として還流する場合(第1)と満期手形の支払として還流する場合(第2)とに分けて検討しよう。
 第1に、同行はAに、彼の有価証券にたいして銀行券を支払う。Aはこの銀行券でBに満期手形の支払をし、Bはその銀行券を同行に預金する。この場合は明らかに銀行券はすぐに銀行に還流するわけである。発行された銀行券は元にもどったのだから、発券はこれで終わっている。ただ銀行のAにたいする貸付は残っている(これを銀行学派は「貸付は残っているが、通貨はもし必要がなければ、発行者のもとに帰ってくる」というのである)。
 銀行学派は、なぜ発行された銀行券がすぐに発行者のもとに帰ってくるのかを、それは「通貨としての銀行券」はもはや社会の必要を満たしているからであり、だから銀行の貸付は「資本の前貸」となるしかないからだ、というのである。果たしてそうなのか、彼らの言っていることは実際は何を意味しているのかを検討しよう。
 銀行がAに前貸したのは、資本ではなくて、銀行券であったが、同じ銀行券がいま銀行に帰って来た。その結果、銀行にはAへの貸付が残り、また銀行はBからの預金を獲得した。つまり、同行は、この銀行券で表現されている価値額だけのBへの債務者であり(なぜなら預金は銀行からみれば債務だから)、だからBは、銀行の資本のうちのこの価値額に相当する部分を自由に使うことができる(彼はそれを金で引き出すこともできるわけだ)。つまりBの預金は銀行にとっては借入資本である。だからそれは銀行にとっては費用のかかっているものであり、彼らの独特の言葉でいえば「資本」なのだ。だから、銀行の元帳の立場からすれば、つまり帳簿にはAへの貸付が残り、Bの預金が書きつけてあるわけだから、Aへの貸付はBの預金(つまり銀行にとっては借入資本であり、「自分の資本」)からなされたことになるのである(銀行券の発行は還流した時点で差引ゼロになっている)。だから取引は、同行がAに資本を前貸した、ということに落ち着くのである(Bの預金はすでに述べたように、Bが自由にできるものであり、もし仮にBが金でそれを引き出せば、結局、Aへの貸付の結果、銀行は金を手放すハメになったのであり、だからAへの貸付は金でやったのと同じになる、だからその場合は明らかに銀行にとっては、「資本の前貸」になるのである)。
 しかしこれはあくまでも「元帳の立場」からそう言い得るのであって、それによっては、この取引の本性をいささかも変えるものではない。その取引が実際はどんなものであるかということとはまた別の話なのだ。
 ではこの取引の実際の内容とはどんなものか、それを次に見ていこう。すなわち、その本性とは、Aが必要としたものは資本ではなくてBへの「支払手段」であったということである。もちろんそれはAの貨幣資本でもあるのだが、しかし資本として貸付られた銀行券は実際は支払手段として機能したということである。だから貨幣融通の圧迫は決して資本への需要ではなくて、支払手段への重要だったということである。
 つまり発行された銀行券がなぜすぐに銀行に還流したのかを説明するのは、それが銀行学派が言うように資本として貸し出されたからではなく、支払手段として貸し出されたというところにその理由があるのである。逼迫期には誰もが支払手段に窮する。そしてその貸付の需要が銀行に殺到する。そうした場合の銀行券は、貸付を受けた資本家によってすぐに支払われて、いま検討しているこの第1の場合はすぐに預金として銀行に帰って来たわけだ。だからこの場合の銀行券は確かにAにとっては貨幣資本なのだが、しかしそれは貨幣資本だからすぐに還流したというのではなく、それが支払手段という貨幣の機能を果たすものであったから、すぐに還流したのである。これこそこの場合の取り引きの本性なのである。だからこの場合もやはり銀行学派の主張は間違っているのである。
 もちろん、この場合の最終結果をみれば分かるように、確かに銀行学派がいうように、同行がその貸付需要を満たすことができるのは、流通総量にそれだけの銀行券を追加することによってではなく、同行がBにたいする一定価値額の債務者となることによって、つまり前貸が同行の資本の勘定にかかってくる、ということによってでしかないのではあるが。ただそのことは銀行学派がこうした銀行業者的な立場に立って、問題を粗雑に見ていることを示すだけなのである。〉

 ここでこの間の論争として重要なのは、イングランド銀行がAに貸し出す場合の形態が何かということであった。つまりそれは「手形割引」か、それとも「有価証券を担保にした貸付」か、といった議論である。N氏が「手形割引」を「手形貸付」と理解せよと主張したのも同じ土俵の上での争いといえるであろう。しかしその本格的な検討は次のパラグラフの検討を終えた後で、一緒にやるのが適当であろう。
 このパラグラフでは(その前のパラグラフ【36】もそうだが)、マルクスは〈同行はAに、彼の有価証券にたいして銀行券を支払う〉と述べているだけである(36】では〈有価証券にたいして発行された銀行券は〉と述べている)。つまり少なくともマルクスは有価証券にたいして銀行券を支払うと述べているだけで、それが「手形割引」か「担保貸付」かといったその形態には一つも拘っていないということである。それは何故なのかについては後に検討しよう。とりあえずその事実だけは確認しておいて、次のパラグラフの検討に移ろう。

【38】 (これは【37】が〈第1〉とあったのに対して、〈第2〉の場合、つまりイングランド銀行が発行した銀行券が、同行に対する支払として還流してくる場合について検討する)

 第2に,AはBに支払い,そしてB自身か,またはさらにBから銀行券で支払を受けるCは,この銀行券で同行に,直接または間接に,満期手形の支払をする。この場合同行は,自分自身の銀行券で支払を受けたののである。だが,この場合には取引はこれで終わっている{Aから銀行への返済だけを除いて}のだから,同行がなんらかの仕方で資本を前貸ししたと言うことはできない。同行は銀行券を発行し,それがAにとってはBへの支払手段として,Bにとっては同行への支払手段として役立ったのである。ただAにとってのみ資本{これはここでは,事業に投下される価値額という意味においてである}が問題となるが,それは,彼がのちに自分の還流金を,したがって自分の資本の一部分を,同行に支払わなければならないというかぎりでのことである。この場合,彼がこれを金で返済するかそれとも銀行券で返済するかは,彼にとってまったくどうでもよいことである。というのは,彼は(銀行とは違って)なんらかの種類の商品資本を譲渡しなければならない,言い換えればなんらかの譲渡の受取金を銀行に支払わなければならないのであり, したがって金または銀行券を,[516]それらの貨幣名に等しいなんらかの等価物と引き換えに受け取ったのだからである。彼にとっては,この金または銀行券は資本の価値表現なのである。|〉(同257頁)

 今回も〈第1〉と同様、まず最初はかなり説明を加えながら平易に書き直そう。

 〈第2に、つまり銀行券が銀行への支払として還流してくる場合であるが、その場合は、AがBに支払い、そしてB自身か、またはさらにBから銀行券で支払をうけるCは、この銀行券で同行に、直接または間接に、満期手形の支払をするのである。BまたはCが同行に「直接に」満期手形の支払をするということは、BまたはC自身が振り出した手形が、別の第三者によって同行に持ち込まれ、割り引かれた結果、同行の持つこととなっている場合である。その場合はその手形が満期になった場合、それを振り出したBまたはCが同行にその支払をしなければならないのだが、それを彼らはたまたまAから支払われた同行の銀行券でやったというケースである。また「間接に」支払うということは、やはりBまたはCの振り出した手形がイングランド銀行の手にあるのだが、その満期になったのをBまたはCの取引銀行からの支払いによって決済する場合である。この場合も、やはりBまたはCがAから支払いを受けた銀行券をその取引銀行に預金し、その銀行券がイングランド銀行に支払われるのであり、やはり銀行券はイングランド銀行に還流することになるのである。
 確かにこの場合にもイングランド銀行券は発行されても、第1の場合と同様に、すぐに同行に還流することになる。しかしこの場合には取引はこれで終わっているのである(もちろん同行のAに対する貸付は残っているが)。だからこの場合は、銀行学派がいうようような意味で、何らかの仕方で同行は資本を前貸したということはできない。つまりこの場合は、明らかに銀行学派の主張とは矛盾するわけである。彼らは銀行券がすぐに還流するのはその貸付が資本の貸付だからだと主張する。しかしこの場合は、銀行券はすぐに還流するのに、彼らの言い分からしても決して「資本の貸付」とはいえないからである。
 イングランド銀行は銀行券を発行し、それがAにとってはBへの支払手段として、Bにとっては同行への支払手段として役立ったのである。取引はそれだけであり、それで終わっている。ただAにとってのみ資本(ただしこの場合は、銀行学派がいう意味での「資本」ではなく、事業に投下される価値額という意味においてなのだが)が問題になる。というのは彼はイングランド銀行から当面の支払手段を借りたのであり、それは彼にとってはすでに事業に、つまり生産に必要な諸手段を購入するのに投資した貨幣資本(彼はそれを商業信用で購入したのであるが)の決済のためであったとはいえ確かに彼の資本の循環の一結果であり、一過程なのである。だから彼のイングランド銀行への返済は彼の資本の還流金から支払わねばならないが、それは彼が自分の資本(貨幣資本)の一部を同行に支払わなければならないということであり、その限りで、それはAにとっては資本だといえるからである。
 しかしこの場合は、彼がこれを金で返済するかそれとも銀行券で返済するかは、彼にとってはまったくどうでもよいことである。発券銀行の場合は金で貸し付けるか、それとも銀行券で、つまり紙と印刷費以外に彼らにとって何の費用もかからない単なる信用で貸し付けるかは決してどうでもよいことではない。しかしAにとっては、銀行と違って、その金または銀行券を入手するためにはその代わりに何らかの種類の商品資本を譲渡しなければならないのである。言い換えれば、何らかの譲渡の受取金を銀行に支払わなければならないのであり、したがって金または銀行券をそれらの貨幣名に等しい何らかの等価物と引き換えに受け取ったのだからである。彼にとっては、この金または銀行券は確かに彼の資本の価値表現なのである。
 しかしすでに言ったように、これは決して銀行学派がいう意味での「資本」ではないし、このことによって銀行学派の主張が正当化されるものでは決してないのである。〉

 このように、ここでマルクスが何を問題にし、どのようにそれを論じているかを明確に捉えれば、これまでの議論がどれほど間違った土俵の上での議論であったかが分かるであろう。しかしまだハッキリとは問題点が捉えきれていない人のために、少しこの間の議論を振り返ってその無意味さを確認しておくことにしよう。(しかしそれは若干、長い説明になるので、次回に回すことにする。)

(続く)

2015年8月25日 (火)

林理論批判(15)

 〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.6〉

報告文書〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉(林紘義)の批判的検討

§2章 「価値増殖過程」(剰余価値の生産過程)--「有用的労働による」価値移転論批判(の続き)

●〈一見して何の問題もないかの主張であるが、しかし「労働過程」は単に使用価値を生産するものとして「質的にのみ」考察され、ブルジョア的労働過程は、「量的にのみ」考察されるというのは、すでに一面化であって、ブルジョア的労働過程もまた、労働過程の一つの歴史的な形態である、ということを忘れた"暴論"と言うべきであろう。〉(27頁)

 これは林氏が引用した越村の一文に対する批判である。『プロメ』の論文を直接検討している人なら、その続き具合は分かるだろうが、そうでない人は何が問題になっているのかわからないだろうから。やはり林氏が引用している越村の文章をまず重引・紹介しておくべきだろう。それはつぎのようなものである。

 〈「労働過程と価値形成過程と比較して見ると、労働過程は使用価値を生産する具体的有用労働に立脚するものであって、そこでは労働は、質的に、すなわちその特殊な種類と様式とにおいて、特定の目的と内容にしたがつて考察される。しかるに価値形成過程においては同じ労働過程が量的にのみ考察されるのであって、生産手段に含まれるにしろ、労働力の機能によってつけ加えられるにしろ、労働はただその時間的尺度にしたがって計算されるだけである。もちろん、労働過程と価値形成過程とは、同じ生産過程をただ質と量との二つの側面から観察したものにすぎぬのであって、この二つの過程はなんら時間と空間を異にする別々の過程ではないのである」(『図解資本論』96頁)。〉(26-27頁)

 先に紹介した林氏の批判文は、この越村の引用文に直接続けて書かれたものである。
 さて、林氏は越村が「労働過程」と述べているものに対して、〈ブルジョア的労働過程〉を対置している。しかし、これは労働過程というものが何であるか、そこでマルクスは何を論じているのかを理解していないに等しい。なぜなら、マルクスは労働過程について、次のように論じているからである。

 〈労働力の使用は労働そのものである。労働力の買い手は、労働力の売り手に労働をさせることによって、労働力を消費する。このことによって労働力の売り手は、現実に、活動している労働力、労働者になるのであって、それ以前はただ潜勢的にそうだっただけである。彼の労働を商品に表わすためには、彼はそれをなによりもまず使用価値に、なにかの種類の欲望を満足させるのに役だつ物に表わさなければならない。だから、資本家が労働者につくらせるものは、ある特殊な使用価値、ある一定の品物である。使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなけれぽならないのである。〉(233頁)

 確かにマルクスも「資本の生産過程」として労働過程を問題にしており、その限りでは〈ブルジョア的労働過程〉を問題にしているといえる。しかし、それがまず労働過程として分析に対象にされているのは、〈どんな特定の社会的形態にもかかわりな〉い、単なる使用価値の生産として考察されているのである。だから労働過程を問題にしながら、それに〈ブルジョア的労働過程〉を対置するということは、何が問題になっているのかを知らないことを自ら暴露するようなものである。
 それとも林氏は〈ブルジョア的労働過程〉を「価値形成過程」として論じているつもりであろうか。しかし、少なくとも越村は価値形成過程を〈ブルジョア的労働過程〉などとは述べていないのであって、それをそのような訳の分からない用語で論じているのは、林氏本人である。それに「価値形成過程」を〈ブルジョア的労働過程〉などというのは正確であろうか。価値を形成するのは、何もブルジョア社会に固有のものではないからである。単純な商品を生産するなら、それがブルジョア的な歴史的形態を必要としないのだから、価値形成過程をブルジョア的生産過程に限定する必要はないわけである。

●〈確かにブルジョア的形態における労働過程は、商品を、つまり価値を、そして剰余価値の生産を追求するものであって、この面では、「量」とその増大が、すなわち「価値」の増大が生産の目的として現われるのだが、だからといって、それが使用価値の生産を媒介にしてのみあり得ることを、つまりブルジョア社会もまた生産関係の一つの歴史的な形態であるにすぎない、ということを否定するものではないのである。ブルジョア的労働過程は、「労働過程と価値増殖過程の統一として現われるのであって、越村のように機械的に両者を切り離し、区別することはできないのである。〉(27頁)

 少なくとも越村は(林氏が引用した一文を見る限りでは)、〈ブルジョア的形態における労働過程〉を〈商品を、つまり価値を、そして剰余価値の生産を追求するものであって、この面では、「量」とその増大が、すなわち「価値」の増大が生産の目的として現われる〉などと述べているわけではない。越村はあくまでも労働過程と価値形成過程とについて、その特徴を論じているだけである。そしてマルクスも同じように労働過程を考察したあと、価値形成過程を論じているが、だからそれは、当然、その前に論じた労働過程の考察を前提した上で、論じていることは言うまでもないだろう。そんなことは当たり前のことであろう。機械的に切り離しているのは、越村というより林氏ではないのか。ここでの林氏の越村批判は、林氏が引用している越村の一文に対する批判としては、ほとんど言いがかり以上のものではないことは明らかである。

●〈そして資本主義的生産過程においては、価値(抽象的労働)と使用価値(有用的労働)の関係も、単純な商品生産の場合と違った契機が問題となるのであって、そのことが重要な意味を--とりわけ、いま我々が問題にしているテーマにとっては--もって来るのである。
 すなわち、「生きた労働」を主体として考察した場合、有用的労働としての使用価値は全体としての綿糸であるが、抽象的労働の結果としての価値は、その綿糸の一部であって、他の一部は資本価値の移転したものとして現われる、ということである。越村はこのことをはっきり語らない、あるいはあいまいの中に放置し、その代わりに--意識的か、無意識的かは問わないとして--、有用的労働と抽象的労働についての、知つたかぶりの、もったいぶった、偉そうなおしゃべりが、どうでもいいような「真理」なるものがふんだんに振りまかれるのである。
 綿糸を生産する労働は、抽象的労働としては、つまり「価値」としては、綿糸という使用価値のすべての価値ではなく、その一部にすぎないということを確認しておくことは、社会的総生産の問題を考察する上で、そして社会主義おいて、「価値規定にもとついて」分配が行われるという課題を検討する上で、決定的に重要なこととして現れるだろう。我々はこの点において「錯誤」を抱いたのであって、それが問題の正しい解決を困難にし、遅らせてきたのである。〉
(27頁)

 社会的総生産を考察する上で、有用労働によって生産されるのは生産物の使用価値すべてであるが、その抽象的契機によって形成される価値は、生産物の価値の一部だという、この〈決定的に重要なこと〉を〈我々はこの点において「錯誤」を抱いた〉ことを林氏は正直に述べている。しかしここで〈我々〉というのは、林氏本人とそれに無批判に追随する人たちのことであって、林氏を最初から批判してきた人たちは、こんな〈「錯誤」〉など〈抱いた〉ことはまったく無かったわけである。それに林氏は〈抱いた〉と過去形で書いているが、しかし、われわれに言わせれば、それは林氏にあっては、いまだ現在進行中であり、依然として〈「錯誤」〉の中にあるのだと思っている。
 ここで林氏が批判している越村の主張というものは、その前に林氏が引用している一文だけではよく分からない。よって、われわれも越村の著書を直接検討する必要があるだろう。果たして越村の著書では〈「生きた労働」を主体として考察した場合、有用的労働としての使用価値は全体としての綿糸であるが、抽象的労働の結果としての価値は、その綿糸の一部であって、他の一部は資本価値の移転したものとして現われる、ということ〉について、〈このことをはっきり語らない、あるいはあいまいの中に放置し、その代わりに--意識的か、無意識的かは問わないとして--、有用的労働と抽象的労働についての、知つたかぶりの、もったいぶった、偉そうなおしゃべりが、どうでもいいような「真理」なるものがふんだんに振りま〉かれているのであろうか。
 われわれは別に、林氏の批判に対して越村を擁護するわけではないが、少なくとも越村は、次のように述べている(旧仮名遣いや漢字を現代用語に変えてある)。

 〈生産手段に体化されている過去の諸労働も、それが与えられた社会的生産諸条件のもとにおいて平均的に必要とせられる労働時間を表はすかぎりにおいて、生産物の価値形成に参与してくる。なぜかというに、ある生産物を生産するために、一定の生産手段が必要であるとすれば、生産者は、生産手段によって完成生産物を生産するまえに、生産手段そのものを生産せねばならないからである。生産手段の生産から、完成品の生産にいたるさまざまな労働過程が、いかに時間的および空間的に分離されていようとも、それは同一の労働過程の連続的な一系列の段階とみなされ、この意味においてただに生きた現在の労働のみならず、生産手段に体化されている死んだ過去の労働も、完成生産物の価値形成要素となるのである。〉(『圖解資本論第1巻』93頁)

 確かに越村は、マルクスと同じように綿糸の例を上げて論じているわけではないが、しかし、上記のように、生産手段の価値は、それによって生産される生産物の価値の一部を構成することを明確に語っている。だからこの限りでは、越村が〈このことをはっきり語らない、あるいはあいまいの中に放置し〉ているという林氏の批判はあたらないであろう。

●〈越村は「価値増殖過程」について語るとしながら、実際には、資本の総循環過程について--つまり生産過程だけでなく、流通過程も含めて、あるいは混同して--論じているが、「価値増殖過程」の課題を理解しているとは考えられない。それ故に、越村の「価値増殖過程」の説明は、ますます一面的で、無意味な形式として、荒唐無稽なものとしてさえ現れている。我々はもちろん、ここでは流通過程は最初から「捨象」して(差し当たり、考慮外において)論じるが、それは『資本論』の第二巻では、基本的に生産過程を「捨象」するのと同様である。(田口は、私が「いわゆる『再生産表式』」--実際には、流通過程と理解すべき--と主張することに反発し、再生産表式とは再生産表式である、というのは、それは生産過程と「関係している」ことは明らかである、などと強弁する--唯一、「それは事実ではないか、それを否定できるのか」ということを論拠に--が、自分が概念的に、つまり論理的に考えることが全くできないことを暴露しているにすぎない。「関係している」ということと、流通過程の独自の課題を考察し、分析するということは全く別であって、田口はこう主張することで、流通過程の独自の課題を論理的に明らかにするという課題から逃走しているにすぎない、つまり問題になり、議論されている課題が何かさえも理解していないのである)。〉(27-8頁)

 この引用文の後半部分で、丸カッコのなかで言われていることは、すでにわれわれは以前、林氏の無理解(無知)を暴露したので、ここでは取り上げないことにする。
 前半部分では、林氏は〈越村は「価値増殖過程」について語るとしながら、実際には、資本の総循環過程について--つまり生産過程だけでなく、流通過程も含めて、あるいは混同して--論じているが、「価値増殖過程」の課題を理解しているとは考えられない〉と言うのであるが、しかし、越村の著書の本文を読む限りでは、越村の説明は〈実際には、資本の総循環過程について〉述べているようなところはない。恐らく林氏は越村の著書の94頁に掲載されている「第14図」「価値増殖過程」を見て(本文は読まずに)批判しているのであろう。確かに越村のこの図では「流通過程」も含めて書いてあり、あまり価値増殖過程を説明するものとしては、適切とは言えないかも知れない。図示というものが、取り上げている問題を分かりやすく説明する意図のもとに掲載されているものであるとするなら、この場合の図は必ずしも適切とは言い難いかも知れない。
 しかし、林氏は、この越村の図が次のような本文の説明として、付けられていることについて、まったく不問に伏している。

 〈かくて前にマルクスによって提起された価値増殖の難問は、マルクス自身によつて解決された。貨幣の所有者は労働力といふ商品を価値どおりに買って、その使用価値を消費し、それによって生産せられた商品を価値どおりに売って剰余価値を実現することができるのである。この場合商品交換の永遠の法則はなんら犯されていない。取引においてはつねに等価と等価とが交換されている。しかもこの剰余価値の獲得は、流通部面のなかで行はれ、しかも流通部面のなかで行はれていない。それは労働力の購買を条件とするものであるから、流通を媒介として行われる。しかしそれは流通部面のなかで行われない。なぜかなら流通部面は価値増殖過程を手引きするにすぎぬものであって、価値増殖過程は,流通部面のそとで,すなはち生産部面にて行はれるものだからである。萬事はうまく運んでいる。「手品は遂に成功した。貨幣は資本に転化された。」〉(95-6頁)

 ここで越村氏が〈前にマルクスによつて提起された価値増殖の難問〉と述べているのは、第4章「貨幣の資本への転化」で次のようにマルクスが述べていたことを指している。

 〈貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則に基づいて展開されるべきであり、したがって等価物同士の交換が出発点をなす。今の所まだ資本家の幼虫として現存するにすぎないわれわれの貨幣所得者は、商品をその価値どおりに買い、その価値どおりに売り、しかもなお過程の終りには、彼が投げいれたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面の中で行なわれなければならず、しかも流通部面の中で行なわれてはならない。これが問題の条件である。“ここがロドスだ、ここで跳べ!”〉(217-8頁)

 そして越村の上記の説明は、マルクスが第5章第2節「価値増殖過程」のなかで、次のように書いていることを、そのまま簡略化して紹介したものである。

 〈もっと詳しく見よう。労働力の日価値は3シリングだったが、それは、労働力そのものに半労働日が対象化されているからである。すなわち、労働力の生産のために毎日必要な生活手段に半労働日がかかるからである。しかし、労働力に含まれている過去の労働と労働力がすることのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。労働者を24時間生かしておくために半労働日が必要だということは、けっして彼がまる1日労働するということを妨げはしない。だから、労働力の価値と、労働過程での労働力の価値増殖とは、二つの違う量なのである。この価値差は、資本家が労働力を買ったときにすでに彼の眼中にあったのである。糸や長靴をつくるという労働力の有用な性質は、一つの不可欠な条件ではあったが、それは、ただ、価値を形成するためには労働は有用な形態で支出されなければならないからである。ところが決定的なのは、この商品の独自な使用価値、すなわち価値の源泉でありしかもそれ自身がもっているよりも大きな価値の源泉だという独自な使用価値だった。これこそ、資本家がこの商品に期待する独自な役だちなのである。そして、その場合彼は商品交換の永久な法則に従って行動する。じっさい、労働力の売り手は、他のどの商品の売り手とも同じに、労働力の交換価値を実現してその使用価値を引き渡すのである。彼は、他方を手放さなければ一方を受け取ることはできない。労働力の使用価値、つまり労働そのものはその売り手のものではないということは、売られた油の使用価値が油商人のものではないようなものである。貨幣所持者は労働力の日価値を支払った。だから、1日の労働力の使用、1日じゅうの労働は、彼のものである。労働力はまる1日活動し労働することができるにもかかわらず、労働力の1日の維持には半働日しかかからないという事情、したがって、労働力の使用が1日につくりだす価値が労働力自身の日価値の二倍だという事情は、買い手にとっての特別な幸運ではあるが、けっして売り手にたいする不法ではないのである。
 われわれの資本家には、彼をうれしがらせるこのような事情は前からわかっていたのである。それだから、労働者は6時間だけではなく12時間の労働過程に必要な生産手段を作業場に見いだすのである。10ポンドの綿花が6労働時間を吸収して10ポンドの糸になったとすれば、20ポンドの綿花は12労働時間を吸収して20ポンドの糸になるであろう。この延長された労働過程の生産物を考察してみよう。20ポンドの糸には今では5労働日が対象化されている。4労働日は消費された綿花量と紡錘量とに対象化されていたものであり、1労働日は紡績過程のあいだに綿花によって吸収されたものである。ところが、5労働日の金表現は30シリング、すなわち1ポンド10シリングである。だから、これが20ポンドの糸の価格である。1ポンドの糸は相変わらず1シリング6ペンスである。しかし、この過程に投入された商品の価値総額は27シリングだった。糸の価値は30シリングである。生産物の価値は、その生産のために前貸しされた価値よりも9分の1だけ大きくなった。こうして、27シリングは30シリングになった。それは3シリングの剰余価値を生んだ。手品はついに成功した。貨幣は資本に転化されたのである。〉(254-5頁)

 まさにこうした説明を図示したものだから、その図には流通過程が含まれていたのである。それを林氏は本文を読まずに、ただ勝手な思い込みだけで批判しているだけなのである。

●〈そこで私は、越村のとは全く違った図表を提出したのである。そこでは、まず階級関係は捨象されている、つまり生産的労働は必要労働と剰余労働に分割されないで表され、さらに価値は直接に労働時間で表されている、つまり資本主義的な形態もまた捨象されている(実質的に、社会主義の生産関係ということになる)。もちろん、表現されているのは生産過程の直接の結果であって、流通過程や「分配関係」は含まれていない。〉(28頁)

 このように説明されている〈図表〉というのは、どうやら21頁に紹介されている【図表1】のことらしい。林氏はそれを説明して〈そこでは、まず階級関係は捨象されている、つまり生産的労働は必要労働と剰余労働に分割されないで表され、さらに価値は直接に労働時間で表されている、つまり資本主義的な形態もまた捨象されている(実質的に、社会主義の生産関係ということになる)〉などと述べているが、しかし、【図表1】の表題をみると、〈資本主義の下における価値(商品)の生産及び剰余価値(資本)の生産〉と書かれているし、図表のなかには「搾取の実現」の説明として、「剰余価値」や「支払労働」や「資本が取得」、「賃金分」などという説明があるではないか。一体、林氏の意図はどちらにあるのであろうか。自分が書いたものも忘れているのであろうか。馬鹿げた話ではある。(下に紹介した図表1を参照)

●〈マルクスの「価値増殖過程」をアレインジし、あるいはモデファイした図表1でいえば、有用的労働と抽象的労働の区別を前提にし、その結果としての使用価値と価値の区別と関係も示している。つまり綿花と紡錘によって綿糸を生産する場合、斜め下向き(右の方向に向かっての) の斜線の部分が有用的労働の結果としての使用価値の部分を、そして斜め上向きの部分が、抽象的労働の結果としての価値部分を表現している。
 一見して、両者の部分が違っているのを確認できるが、それはただ、有用的労働と抽象的労働が生産的労働の全く別の二つの側面を、契機を有していることの結果であって、こうした認識は、ただ抽象的労働と有用的労働の本質的な概念規定からのみ明らかにされ、説明され得るのである。抽象的人間労働は価値として対象化されるが、具体的有用労働は「価値を移転する」といった概念規定からは、ここではどこかに追いやられてしまうのであり、むしろこうした俗論は真実の認識を妨げる契機にさえなったのである。だからこそ、「有用的労働による価値移転論」といった観念は、スターリン主義学者たち、共産党やその系統の学者たち、大谷禎之介らがひどく愛好し、"偉そうに"持って回るものとなったのである。〉
(28頁)

 このように林氏は得意気に自身の提示した図表を説明しているのであるが、しかし、そもそも綿糸の価値が生産手段を生産した「過去完了の労働」が対象化した抽象的人間労働と紡績労働の「現在完了の労働」が対象化した抽象的人間労働で構成されていると図示されているが、それは紡績労働という〈具体的有用労働は「価値を移転する」といった概念規定から〉説明されることではないのだろうか。林氏は「過去完了の労働」や「現在完了の労働」という用語を図表で用いているが、これらは具体的な有用労働について言いうるものであって、抽象的人間労働では言い得ないものであるとの認識があるのであろうか。マルクスは次のように述べている。

 〈こういうわけで、糸の価値、糸の生産に必要な労働時間が考察されるかぎりでは、綿花そのものや消費される紡錘量を生産するために、最後には綿花や紡錘で糸をつくるために、通らなければならないいろいろな特殊な、時間的にも空間的にも分離されている、いくつもの労働過程が、同じ一つの労働過程の次々に現われる別々の段階とみなされることができるのである。糸に含まれている労働はすべて過去の労働である。糸を形成する諸要素の生産に必要な労働時間は、すでに過ぎ去っており、過去完了形にあるが、これにたいして、最終過程の紡績に直接に用いられた労働はもっと現在に近く、現在完了形にあるということは、まったくどうでもよい事情である。一定量の労働、たとえば三〇労働日の労働が、一軒の家の建築に必要だとすれば、三〇日目の労働日が最初の労働日よりも二九日おそく生産にはいったということは、その家に合体された労働時間の総計を少しも変えるものではない。このように、労働材料や労働手段に含まれている労働時間は、まったく、紡績過程のうちの最後に紡績の形でつけ加えられた労働よりも前の一段階で支出されたにすぎないものであるかのように、みなされうるのである。〉(246-7頁)
 〈紡績工の労働が価値形成的であるかぎり、すなわち価値の源泉であるかぎりでは〉(248頁)〈糸の生産手段に実現されている綿花栽培者や紡錘製造工の労働と少しも違ってはいない。ただこの同一性によってのみ、綿花栽培も紡錘製造も紡績も同じ総価値の、すなわち糸の価値の、ただ量的に違うだけの諸部分を形成することができるのである。〉(同)

 つまり価値形成的である限りの労働(つまり抽象的人間労働)を問題にするなら、それが過去完了か現在完了かなどということは〈まったくどうでもよい事情〉なのである。林氏が果たしてこうしたことを理解した上で、図表で使っているのであろうか。

●〈図表1は、マルクスの剰余価値の生産を説明した概念をそのまま表式化したものだが、もちろん、私の課題--「価値規定による分配」--を意識して作られている。もちろん、上のものは、単純な価値生産を表現し、下のものは「延長された」価値の生産過程、つまり剰余価値の生産過程の説明である。二つの表式の左下がりの斜線部分は、「現在完了の労働」(特定期間、例えば一年間に支出された"生きた労働") による「価値」部分、右下がりの斜線部分は、同じく、その「使用価値」部分を示している。〉(28頁)

 この部分を引用したのは、林氏が〈「現在完了の労働」〉を説明して〈(特定期間、例えば一年間に支出された"生きた労働") 〉と述べていることに注意を促したかったからである。つまり林氏が「現在完了の労働」と述べているのは、一年間の支出された労働であり、それは林氏が「生きた労働」と述べている場合のものと同じと理解していることを確認したがったことである。とするなら、林氏が「過去完了の労働」という場合、それは特定の期間、例えば一年間以前に支出された労働という意味でなければならない。われわれはこうしたことを確認しておこう。つまり林氏は生産手段に支出された過去完了の労働はある年度の生産を考えた場合、それはその年度以前に支出された労働と考えているということである。果たしてそうした考えが、林氏において一貫して論じられているかどうかは、やがてすぐに分かるであろう。なぜなら、今、われわれが知っている林氏の“新”理論というものは、ある年度の社会的な総生産を、生産手段を生産する労働と消費手段を生産する労働とは同時並行に支出されるという理論だからである。林氏はここでは自身の図表を説明して〈図表1は、マルクスの剰余価値の生産を説明した概念をそのまま表式化したものだが、もちろん、私の課題--「価値規定による分配」--を意識して作られている〉と述べている。しかし、われわれが知っている最近の林氏の〈「価値規定による分配」〉理論というものは、“同時並行論”なのである。
 ところでやはりここで問題になっている〈図表1〉というものも、その現物を見ることができないこのブログの読者には何のことかはわからないので、やはり紹介しておくことにする。それは次のような図である。
55561 

●〈その結果、自ずから単なる右肩下がりだけの部分は、移転された資本価値、いわゆる「過去の労働」を表示することになるが、それらはことの本質上、「価値規定による分配」にはどんな役割も果たしていない。しかしそれは、社会主義において実際にそうであることの単純な結果であるにすぎない。社会主義において、生産手段--機械等々--はすでに価値形態、つまり資本という形態を廃棄しており、単に生産手段として現われ、決して「資本」としては現われない、という単純な真実を我々は忘れてはならない。〉(29頁)

 しかしこれは奇妙な話ではないか。林氏は「価値規定による分配」を論じ、生産物の価値をそれに支出された労働時間で表した。それを林氏は、〈価値は直接に労働時間で表されている〉から〈資本主義的な形態もまた捨象されている(実質的に、社会主義の生産関係ということになる)〉と説明した。つまり生産物の価値は過去完了の労働(生産手段に支出された労働)と現在完了の労働との合計であると図表では説明された。とするなら、労働者が自分が社会に与えた労働に対応した労働が費やされた消費手段の分配を受ける場合、その消費手段の「価値規定」というものは、過去完了の労働(生産手段の生産に支出された労働)と現在完了の労働(消費手段の生産に支出された労働)との合計ということではないのか。どうして過去完了の生産手段に支出された労働が〈ことの本質上、「価値規定による分配」にはどんな役割も果たしていない〉なとと言えるのであろうか。訳が分からないのである。
 その理由として、林氏は〈社会主義において、生産手段--機械等々--はすでに価値形態、つまり資本という形態を廃棄しており、単に生産手段として現われ、決して「資本」としては現われない、という単純な真実〉を言うのであるが、しかし、林氏は先の図表は〈実質的に、社会主義の生産関係ということになる〉と説明して来なかったか。つまり社会主義の生産関係を表す場合でも、生産物の価値には過去完了の労働と現在完了の労働が関係すると図示していたのではないのか。一体、何を言っているのであろうか。

●〈私はついでに、『海つばめ』1163号で私が提示した概念をも図示しておいた(図表2)。図を見ても分かるように、マルクスの例が生産手段を生産する場合であったのに対し、私のは消費手段--個人的消費に入る乗用車を生産する場合--であるが、これは決して偶然ではない、つまりマルクスの場合は消費手段を生産する場合であっても、生産手段を生産する場合であってもかまわないのだが、私の場合は消費手段でなくてはならなかったからである、というのは、私はもっぱら「価値規定による分配」というテーマを明らかにしようとしていたからであって、生産手段の生産の場合を、つまり「資本価値」に関する(「価値移転論」や「過去の労働」に関係する)生産のことは問題外に置いていた(つまり、その限り捨象した)からである。マルクスのものと私のものとの、本質的な同一性と、この区別性を確認しておいてほしい。というのは、第三章「いわゆる『再生産表式』」における議論では、この区別が決定的に重要になってくるからである。〉(29頁)

 ここでも林氏は奇妙な理屈を述べている。林氏は自分の図は消費手段の生産を例に上げているが、それは林氏が〈もっぱら「価値規定による分配」というテーマを明らかにしようとしていたからであって、生産手段の生産の場合を、つまり「資本価値」に関する(「価値移転論」や「過去の労働」に関係する)生産のことは問題外に置いていた(つまり、その限り捨象した)からである〉と述べている。つまり生産手段の生産を〈「資本価値」に関する生産〉というのである。なぜ、生産手段の生産は資本価値の生産なのかがまったく分からないのである。林氏は生産手段というのは資本価値としてしか存在しないとでもいうのであろうか。しかし、マルクスは労働過程をさしあたりは如何なる社会形態からも独立したものとして考察するなかで、やはり労働手段と労働対象を生産物の立場から見て「生産手段」として現れるとしており、それらはその限りでは、資本主義的な形態からも独立したものとしてて考察されているのである。だからそれらは、その限りでは社会主義においても、共通して存在している客観的・物質的な過程であり、そういう意味として労働過程は論じられているのである。だから生産手段の生産は〈「資本価値」に関する生産〉だなどという林氏は、まったく間違った観念を持っていることになる。(なお図表2も、とりあえず、特に紹介する必要は感じないが、しかし公平を期するために、紹介しておこう。それは次のような図である。)
55562

●〈資本主義的生産における価値の生産過程を表示する図表は、いずれも基本的に個別資本、あるいは資本一般についての表式であって、総資本(その生産過程の結果) についてのものではない。しかしマルクスの例でもある個別資本(綿糸、つまり生産手段を生産する資本) の総計が、生産手段を生産する資本の総計になり、また林の例でもある個別資本(自動車、つまり消費手段を生産する個別資本) の総計が、総体としての消費手段を生産する資本になるのは見易い道理であろう。その意味では、マルクスの例(生産手段を生産する個々の資本) は単純にそれらを合計すれば、総資本としての資本の生産過程になるということではないのは、自動車(消費手段を生産する個々の資本)の例を単純に合計すれば、それが総資本として評価されるということではないのと同様である。というのは、総資本(による生産過程の結果)は生産手段を生産する資本の合計と、消費手段を生産する総資本の合計としてのみ現実的だからである。そこにはすでに、個別資本の生産過程の分析と総資本の生産過程の分析との間には自ずから区別があることが--個別資本の分析の一面性が、限界が--確認されるし、されなくてはならないのである。〉(29頁)

 これは特に長々と抜粋する必要はなかった。というのは、個別資本と総資本の考察では〈自ずから区別がある〉などということは、ある意味では当たり前のことだから、それについて特に批判することはないからである。ただここで林氏は、生産手段の総計を一つの商品(例えば綿糸)で、消費手段の総計を一つの商品(自動車)で表すことが出来ると考えている。つまり林氏が個別資本を単純に総計すれば、総資本にならない理由として上げているのは、単に総資本としては生産手段と消費手段との区別が必要だということだけである。つまり生産手段の総計を一つの商品で象徴させ、消費手段の総計をもう一つの商品で象徴させれば、二つの商品で社会の総資本を象徴させることが可能だというのが、ここで林氏が言っていることである。しかし、果たしてそんなことが可能かどうかは、林氏がそうした前提で論じている部分を批判するなかで、われわれも明らかにして行くことにしよう。

●〈綿糸の生産(生産手段、"生産財" の生産)だけでもって総生産を代表させることも、また自動車や衣服(消費手段、"消費財") の生産だけでもって、総生産を代表させることもできない、というのは、社会的総生産は、生産手段の生産と消費手段の生産の合計であって、単にどちらかの個別資本の総計と言えないことは明らかだからである。だから、我々は、単に個別資本の再生産とは違う--区別される--総資本の再生産の法則なり、理論なりを見出さなくてはならないのである。第 I 部門の個別資本の生産の合計が生産手段部門の生産の総計であり、同様に、第II部門の個別の合計が消費手段部門の総生産だとするなら、社会的総生産は両部門の合計としてしかあり得ない。〉(30頁)

 一見するとこれは当然の真理であるかに思えるかも知れない。しかし、林氏が見ていないのは、社会の総資本(総生産物)とそれの総再生産過程を考察するということは、それらの諸資本の絡み合いを考察するということであり、それはまたそうした諸資本の絡み合いによって表現されている物質的な生産過程の結びつき、すなわち社会的分業を考えるということなのである。だから単に生産手段と消費手段を別々の商品に代表させてその二種類の個別資本を総計すればそれでよいというような簡単な問題ではないということに果たして林氏は気づいているかどうかが問題であろう。諸商品資本の絡み合いはW’-W’であるが、これは単純な商品流通においてもそうであるが、それは社会的な物質代謝を表しているのである。つまり両方の商品の相互の交換関係というのは、商品の物質的な社会的関係を前提しているのである。りんごの生産者はそれを売って、コメを買い、コメの生産者はそれを売って、自動車を買う、等々、というように諸商品の交換関係には、諸商品の価値の素材的担い手である使用価値が表す社会的な分業の絡まりを、表現しているのである。それは社会の物質代謝を媒介しているのであって、だからこそ、われわれはこうした商品交換や商品資本の転換の背後にある物質的な関係を忘れてはならないのてある。林氏はこうした商品(資本)の交換のベースにある物質的な関係を見ていないのである。だから単純に一つの商品でそれぞれの総生産物を代表させることが出来るなどと簡単に考えているのである。

●〈そこで我々は、綿糸の生産ではなく、上着を生産する個別資本を取り上げよう。そうすれば一つの困難は取り除かれたが、しかし次の困難が登場する、つまり生産された消費手段は上着だけである。資本家は消費手段である上着を生産手段として生産を継続し得ないのは明らかであろう。だが、この"矛盾" の解決は、基本的に第二巻の「資本の流通過程」の課題であって、ここでは一切問題にされていないのである、つまりどんな使用価値を生産するかということは分析の対象から「捨象されて」いるのである。資本の運動の諸側面、諸契機を含む現実のすべては「いっときに」説明され、理解されるものではないのであって、まさにそれ故に、我々は現実の総体を理解するには知識と理解と概念を"積み重ねる" 以外ないのである。〉(31頁)

 こで言われていることはもっともなことであり、特に問題視することはないのだが、注意しておきたいのは、林氏は生産手段の生産と消費手段の生産との関連については、〈基本的に第二巻の「資本の流通過程」の課題〉だとしていることである。つまりそこでは〈どんな使用価値を生産するかということ〉が〈分析の対象〉になっていると、どうやら考えているらしい。しかしわれわれは、この主張に対しては、林氏の旧来からの説からすると首をかしげざるを得ない。なぜなら、われわれは少し前に、次のように田口氏を口汚く批判していたのを思い出すからである。

 〈(田口は、私が「いわゆる『再生産表式』」--実際には、流通過程と理解すべき--と主張することに反発し、再生産表式とは再生産表式である、というのは、それは生産過程と「関係している」ことは明らかである、などと強弁する--唯一、「それは事実ではないか、それを否定できるのか」ということを論拠に--が、自分が概念的に、つまり論理的に考えることが全くできないことを暴露しているにすぎない。「関係している」ということと、流通過程の独自の課題を考察し、分析するということは全く別であって、田口はこう主張することで、流通過程の独自の課題を論理的に明らかにするという課題から逃走しているにすぎない、つまり問題になり、議論されている課題が何かさえも理解していないのである)。〉(28頁)

 また以前には、何度も紹介してきたが、次のようにも言ってきたのである。

 〈林はいわゆる「再生産表式」というものはない、そう言われているものは日和見主義者やスターリン主義者たちが言いはやしてきたものに過ぎない、そもそも第二巻は「資本の流通過程を分析しているのであって、「生産過程」なるものは第一巻の課題である、いわゆる「再生産表式」といわれているものは、むしろ「生産過程」のいわば前提として、その準備の過程としての商品(商品資本)の流通の問題である(流通過程の枠内の問題だ)、それを「再生産表式」だと理解して、不合理で、無理な理屈を持ち出すなら、それは途方もない愚劣さとナンセンスに行き着くしかない、と田口に繰り返し言うのですが、田口は決していうことに耳を傾けず、それは「再生産表式」だと言い張ってやみません。問題の出発点からずれていて、まともなことを言えるはずもありません。〉(通信No.14〔第9期〕)

 ところがここでは林氏は第一巻「資本の生産過程」では〈つまりどんな使用価値を生産するかということは分析の対象から「捨象されて」いる〉が、それは〈基本的に第二巻の「資本の流通過程」の課題〉だと述べている。つまり第二巻でも〈どんな使用価値を生産するか〉という〈生産〉の問題が論じられていることを認めるわけである。
 いずれにせよ、このような自分勝手な人物は無責任に、あっちで言っていることをすぐに忘れて、それと矛盾することをこっちで平気で主張しても、自分は間違ったことは言っていない、自分こそが真理であると言い張るわけである。
 とりあえず、第2章の検討はこれで終える。

 (続く)                

2015年8月16日 (日)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-20)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

(今回は、前回の最後に〈とにかくこのレジュメは「分かり易く」をモットーにしているので、次回は、少し小見出しをつけて、この間のマルクスの展開を整理してみることにする〉と予告したように、私自身のこれまでの整理とまとめである。)

 《この間のマルクスの展開の整理》

 ◎全体の大まかな流れと構成

  ■ 

 まずマルクスは、冒頭のパラグラフで、銀行学派が主張する「通貨と資本との区別」を取り上げると述べている。というのはこの「通貨と資本との区別」こそ、銀行学派が通貨学派を批判するときの主要な論点、あるいは立脚点だからである。しかし銀行学派はこの区別を論じるなかで、彼らの無概念をさらけ出しているのである。だからここでいう「通貨」も「資本」もまたその「区別」もあくまでも銀行学派の主張するものであって、決して科学的な概念ではないことに注意が必要である。だからマルクスは一番最初に、「鋳貨としての流通手段と、貨幣と、貨幣資本と利子生み資本とのあいだの諸区別が乱雑に混同される」とわざわざ科学的な概念を対置して、何が問題なのかを示しているのである。
 ただそれ以後、マルクスは銀行学派の批判を、彼らの主張に沿ってその主張の論理的な矛盾や一面性を暴露し、また彼らの主張の根拠になっている現象は本当はどういう事態なのかを明らかにするといった形で、つまり彼らの概念的混乱を内在的に暴露するというやり方をとっている。そのために、マルクスは最初に示した科学的な概念を銀行学派の誤った混乱した概念に機械的に対置するのではなく、銀行学派が使っている言葉をそのままマルクスも使っているのである。例えば「資本の移転」といった言葉もそうであるし、あるいは「資本の貸付」といった言葉もそうである。そもそも「資本」と銀行学派がいう場合も彼ら独特の意味を持たせていることをマルクスは明らかにしていることはすでに見たところである。だからそれを何かマルクス自身の言葉であり、科学的な概念であるかに理解するととんでもない間違いを犯すことになるのである。この点は常に注意しながら読む必要があるであろう。

 (この点、この間の論争で、Y氏はこうしたマルクスの叙述の特徴が理解できず、マルクスが銀行学派の用語をそのまま使っているのは、「それは単純にまだ自分の言葉を持っていなかったからだと考えられる」などと主張し、だからマルクスがこの草稿を書いたのは1857年の恐慌を挟んだ前後であろうなどというまったく馬鹿げた荒唐無稽な類推をするに及んでいる。しかしすでに述べたように、マルクスはY氏のようなとんでもない勘違いをする人が出てくるかも知れないと考えたのかどうかは分からないが、とにかくそうした混乱が生じないように、一番最初に、科学的な概念を呈示しているのであり、「自分の言葉を持っている」ことをハッキリと示しているのである)。

 このレジュメの最初に、第28章が「貨幣資本(moneyed Capital)」論の本論の最初に置かれていることを指摘した。マルクスはこの章(もちろん「章」そのものはエンゲルスの編集によるものだが)では、「利子生み資本としての貨幣資本(moneyedCapital)」を銀行学派の混乱した主張を批判的に検討するなかで、具体的に確定しようと考えていたと思われる。つまり利子生み資本としてのmoneyed Capitalの概念を明確に捉えることが出来なかった銀行学派の混乱を批判的に取り扱うなかで同概念の重要性を際立たせるというのがマルクスの意図のように思える。だからその科学的な概念としての呈示は、いわば結論にまで取っておくことになったのではないかと思えるのである。こうしたマルクスの独特の叙述のやり方もエンゲルスをはじめ多くの人たちを惑わせてきた理由の一つでもあるだろう。(しかもこの問題はこのレジュメの一番最後に取り扱う予定であるが、マルクスがこの第28章部分の結論として書いたと思われるものが、実際にはエンゲルスの編集のために第29章の中にあるために、一層こうしたマルクスの叙述の特徴を分かりにくくさせているという面もあるように思えるのである。)

  

 次にマルクスは銀行学派が、スミスにならって商品流通を「小売商人と消費者との間の流通」と「商人と商人との間の流通」に分け、前者を「収入の実現を媒介するもの」、後者を「資本の移転を媒介するもの」として、前者において流通する貨幣を「通貨」とし、後者において流通する貨幣を「資本」としていることを指摘する。しかしそれは一面的であることも同時にマルクスは指摘している。すなわち彼らが「収入の実現を媒介する」という流通においても、小売商人にとっては彼らがいうところの「資本の移転」でもあるからであり、また彼らが「資本の移転」としている流通においても貨幣は購買手段としても支払手段としても機能しているから(つまり彼らのいう「通貨」でもあるから)である。これがまず最初のマルクスの銀行学派の「通貨と資本との区別」に対する批判であった。つまりそれはいわば銀行学派の主張する「通貨と資本との区別」の直接的な批判とでも言い得るものである。銀行学派は通貨と資本とをまったく別々のものとして両者を区別するが、しかしマルクスに言わせれば、銀行学派のいう「通貨」はすなわち「資本」でもあり、また彼らのいう「資本」は同時に「通貨」でもあり得る、というのである。

  

 そのうえで、マルクスは三つのことによってさらにさまざまな混乱が入ってくると述べて、a、b、cに分けて、その混乱を暴露している。このa、b、cに分けた批判は、銀行学派が通貨学派を批判するために上げているさまざまな論拠とそれにまつわる混乱をマルクスが整理整頓して、それを適切・簡潔にまとめたものであり、これだけを見ても、マルクスが如何に問題を徹底的に考え抜いた上でこの草稿を書いているかが分かるものである。だからそれを通貨学派を批判する銀行学派の主張としてもう一度、再確認しておこう。

 、まず最初の銀行学派の混乱は、「通貨と資本との区別」を、一方が「収入の実現」を担い、他方が「資本の移転」を担うという機能上の区別として論じることにあった。
 こうした彼らのいう機能上の区別そのものも、マルクスに言わせれば彼らの「がさつな」問題の捉え方からくるものであった。そもそも貨幣の本来の諸機能(価値の尺度機能や鋳貨としての流通手段の機能、あるいは本来の貨幣として蓄蔵貨幣の諸機能、さらには同じ本来の貨幣としての支払手段や世界貨幣の機能等々)からすれば、銀行学派が主張するこうした“機能”は、まったく表面的なものでしかなく、それによって貨幣の本来の諸機能が見落とされては話にならないのである。マルクスは貨幣の本来の諸機能を、銀行学派は概念的に捉えることができず、それをただ表面的ながさつな捉え方でしか捉えていないことを暴露したのであった。

 、通貨学派と銀行学派の最大の争点は、通貨学派が、金鋳貨と紙券が混合して流通する当時のイギリスにおいて、通貨の増発(その結果としての通貨価値の下落、ひいてはそれによって生じると彼らが考えた地金の流出と恐慌の勃発)を防ぐために、彼らが持ち出した通貨政策の評価を巡ってであった。通貨学派は、通貨の増発を防ぐためには、結局は、紙券、すなわち銀行券の増発を防ぐことであると主張した。それにたいして銀行学派は、通貨学派のいう紙券の増発という考えは、ナポレオン戦争時の兌換が停止されていた状況を現在に引き移したものであり、兌換制度が復活した今日には当てはまらないこと、兌換銀行券の流通量は発券銀行が勝手に増減できるものではなく、それは社会の需要によって規定されているのだと主張したのである。
 銀行学派はこうした自分たちの主張の論拠として、一国の通貨の流通量というのは、スミスのいうように(マルクスはそれを「v+mのドグマ」と特徴づけたが)結局は「収入の実現」を担う貨幣量に帰着すると主張した。これは「収入の実現」を媒介する貨幣を彼らが「通貨」としたのと整合していたし、実際上でも、彼らのいう「資本の移転」の部面では、取引の大半は信用によって行われ、貨幣が顔を出さなかったことからも彼らのこうした主張は正しいものと考えられたのである。
 これに対しては、マルクスは一国の貨幣の流通量というのは、単純な商品流通における貨幣の流通量の法則が妥当するのであって、その貨幣が資本を流通させるか、収入を流通させるかといったことによっては何も変わらないのだと指摘するにとどまっている。

 、これから、われわれが取り組もうとしている部分(【31】以下)は、まさにこのcの一部であることを再確認してもらいたい。そしてこのcについては項を改めて検討しよう。

 ◎cの部分のこれまでの大まかな流れと構成

  

 このcというのは、銀行学派が流通を二つにわけた両部面(「収入の実現」部面=第一部面と「資本の移転」の部面=第二部面)で流通する通貨の分量が繁栄期と反転期とでは、その相対的な割合が違うので、それを根拠に銀行学派がまたいろいろと混乱した主張を行っているという問題であった。

  

 マルクスはまず両部面における通貨が繁栄期と反転期ではどのように変化するのかを分析している。これは銀行学派の言い分にもとづいて、マルクス自身が分析を加えるといった形で展開されており、その限りではマルクス自身の分析である(しかし使っている言葉は銀行学派のものである)。

  

 次にマルクスは逼迫期では確かに第一の部面(収入の流通)では、通貨の総量は減少し、第二の部面(資本の流通)ではそれは増加するが、しかしそれはフラートン等々が言い立てている「貸付資本に対する需要と追加の流通手段に対する需要とはまったく別のものであって、両方がいっしょに現れることはあまりない」という命題とどこまで一致するのかを、詳しく研究しなければならないと問題を提起している。つまりここから銀行学派の混乱の本格的な検討を始めようというわけである。
 その批判を、マルクスはまずフラートンらの命題の直接的な批判から始め、フラートン等の命題における対置は正しくないことを明らかにする。次に彼らの命題の根拠になっている現象の分析にとりかかる。つまり彼らが言い立てている命題の根拠になっている現象は本当はどういう事態なのか、それをフラートンらはどのように間違って捉えているかを暴露するというやり方でである。それをマルクスはフラートンらの主張を、そのまま実際に現実に当て嵌めてみて、それがどれほど一面的であり、かつ矛盾したものであるかを暴露するという込み入ったやり方で批判を展開するのである。マルクスはフラートンらの用語をそのまま使い、彼らの言葉の実際の内容を暴露するという方法を取っている。だからそれらの言葉をマルクス自身の言葉と勘違いしたりすると大きな間違いに陥ることになるのである。それはおいおい説明していこう。

  

 マルクスはノート331頁の原注b)でフラートンからの長い引用を行い、そこでフラートンらが「資本」という場合、どういう意味なのかを明らかにしている。それはすでにこのレジュメの【5】でトゥックの主張の批判としてマルクスが展開していたものとほぼ基本的な内容は同じである。つまり彼らが「資本」というのは、単に支払約束(銀行券)だけで、つまり信用だけで貸すのではなく、帳簿上自分の資本(自己資本あるいは借入資本)から貸すことになる場合に、それを彼らは「資本」あるいは「資本の貸付」と言っているだけだ、というのである。これは重要な指摘であって、これをエンゲルスはまったく見落としているのである。

  

 マルクスは銀行学派の命題の根拠になっている現象、すなわちイングランド銀行においては有価証券の保有高が増えても、銀行券の流通高が増えないばかりか、むしろ減っているという現象は、一体、何を意味するのか、の分析を開始する。マルクスはそれを、1)その貸付が外国との取り引きにおける地金の輸出のために行われる場合と、2)国内の取り引きにおいて、手形割引や担保貸付で貸し出される場合とに分けて検討する。

  

 まず、1)としてマルクスは、地金輸出のための「貨幣融通」の場合をとりあげ、確かにその場合は、銀行券はすぐに銀行に還流し、流通高に影響を与えないが、しかしそれは銀行学派がいうように、その貸付が「資本の貸付」だからではなく、むしろこの場合は国際的な支払手段としてそれが貸し付けられるからそうなのだ、だからそれは「資本の問題」ではなく、その限りでは貨幣の問題なのだと銀行学派の主張の誤りを指摘したのである。

  

 そしていよいよこれからわれわれが問題にするところに来たわけである。つまり、先に紹介した「 2)国内の取り引きにおいて、手形割引や担保貸付で貸し出される場合」がそれである。だからもはやこの部分でマルクスが何を問題にしようとしているかを見間違う人はいないであろう。だから次のパラグラフに進むことにしよう。

(次回以降は、引き続き、マルクスのテキストの解読を行っていくことにしよう。)

林理論批判(14)

〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.5〉

報告文書〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉(林紘義)の批判的検討

§2章 「価値増殖過程」(剰余価値の生産過程)--「有用的労働による」価値移転論批判(の続き)

●〈「有用的労働による価値移転論」に私が一貫して反発してきたのは、それが共産党系の学者たち、インテリたちにとって、もつともらしく持ち出され、強調されてきたからであり、また有用的労働は価値移転、抽象的労働は価値創造という形で、この生産的労働の二つの側面が対立的に位置づけられ、規定されることに最初から違和感を感じたからである。〉(24頁)

 もちろん、もし「商品にあらわれる労働の二重性」を説明する文脈のなかで、林氏がいうように〈有用的労働は価値移転、抽象的労働は価値創造という形で、この生産的労働の二つの側面が対立的に位置づけられ、規定される〉なら、確かにそれは正しくないであろう。しかし、そうした定式化がどういう文脈のなかで言われているのかが問題であろう。なぜなら、もし生産手段の価値がそれによって生産される新たな生産物の価値の中に移転・保存されるという問題を論じているなかで、そうした定式化がされたとしたら、それ自体は必ずしも間違ったものとは言えないからである。だから全体の文脈のなかから、その一文だけを取り出してきて、だからそれは労働の二重性を規定するものとしてはおかしいなどというのは、必ずしも正しい批判の仕方とは言えないである。
 というのは、われわれはマルクス自身も次のように述べていることを知っているからである。

 〈しかし、労働対象に新たな価値をつけ加えることと、生産物のなかに元の価値を保存することとは、労働者が同じ時間にはただ一度しか労働しないのに同じ時間に生みだす二つのまったく違う結果なのだから、このような結果の二面性は明らかにただ彼の労働そのものの二面性だけから説明のできるものである。同じ時点に、彼の労働は、一方の属性では価値を創造し、他方の属性では価値を保存または移転しなければならないのである。〉(23a261頁)
 〈つまり、その抽象的な一般的な性質において、人間労働力の支出として、紡績工の労働は、綿花や紡錘の価値に新価値をつけ加えるのであり、そして、紡績過程としてのその具体的な特殊な有用な性質において、それはこれらの生産手段の価値を生産物に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存するのである。それだから、同じ時点における労働の結果の二面性が生ずるのである。
 労働の単に量的な付加によって新たな価値がつけ加えられ、つけ加えられる労働の質によって生産手段の元の価値が生産物のうちに保存される。このような、労働の二面的な性格から生ずる同じ労働の二面的作用は、いろいろな現象のうちにはっきりと現われる。〉(:前掲263頁)

 このようにマルクスも〈彼の労働は、一方の属性(つまり「抽象的人間労働」という属性--引用者)では価値を創造し、他方の属性(「具体的有用労働」という属性--同)では価値を保存または移転しなければならない〉とか、〈その抽象的な一般的な性質において、人間労働力の支出として、……新価値をつけ加えるのであり、そして、……その具体的な特殊な有用な性質において、それはこれらの生産手段の価値を生産物に移し、こうしてそれらの価値を生産物のうちに保存する〉と述べている。つまり問題はその文章がどういう文脈のなかで述べられているかである。それを問わずに、このように労働の二つの属性を特徴づけていることだけを全体の文脈から切り離して取り出して、それは労働の二重性の説明としてはおかしい、などいう批判はタメにする批判としか言いようがないのである。
 果たして〈共産党系の学者たち、インテリたち〉が、労働の二重性の説明として、そのように述べているのであろうか。そんな筈はないであろう。彼らも『資本論』を読んでいるのだから、労働の二重性を説明する時には、『資本論』の第1章第2節にもとづいて説明する筈だからである。だから林氏がこうした自分が一面化したものに、〈有用的労働は使用価値を生産する労働としてまず確認され、そしてそうしたものとして抽象的労働に対置されなくてはならない〉などという、ただ『資本論』の第1章第2節の立場を対置したからといって、それ自体は大した批判とは言えないのである。そんなことは誰でも--『資本論』を少しでも読んだ人なら--知っていることだからである。そんなことを自慢たらしげにいうことこそ、自らの批判能力の貧相さを反対に示しているようなものではないか。
 ところで、林氏はそのスターリン主義者の一文として『経済学教科書』の一文を紹介しているが、しかし、その内容をみると、それ自体は、労働の二重性を直接説明した文章というより、不変資本と可変資本との区別を論じた文章であり、だからマルクスが第1部第6章で論じている内容と同じなのである。そしてマルクスはまさに具体的有用労働による価値の移転を論じているのは、第6章のなかにおいてのことである。この『教科書』がそうした文脈のなかで、こうしたことを論じているからと言って、それを問題視するのは筋違いであろう。私は生憎この第一分冊を持ち合わせていないので(捜せばあるかも知れないが、それがなかなか面倒なのである)、それがどういう文脈のなかで問題にされている文章なのか、果たして最初の労働の二重性を論じている部分の一文なのかを確認することは出来ないのであるが、それこそがまず確認されるべきであろう。

●〈もちろん、「商品の形をとる労働の二面性を解明したこと」は、それを、仮にスターリン主義者のいうような意味で--すなわち、有用的労働は「価値を移転」し、抽象的労働は「価値を作り出す」という意味で--理解したとしても、それは「不変資本と可変資本との区別をつけ」ることとは何の関係もないだろう。
 というのは、不変資本と可変資本を区別するものは、前者に投じられた資本部分は同一の資本価値として存在し続けるのに対し、後者に投じられた資本部分はその価値を増殖させるところにあるのであって、それは後者が労働力と交換されることによって、労働を搾取することができるからにすぎない。そして後者はただ労働者を、自分の消費と生活のための労働時間を超えて働かせる--労働時間を延長させる--ことによってのみ、労働の搾取を、つまり剰余価値の取得を実現できるのである。つまり抽象的労働自体は価値を作り出すことはありえても、それ自体、剰余価値を作り出すわけではなく、したがってスターリン主義者が言うような、労働の二面性を持ち出したところで、搾取を、つまり貨幣を可変資本に転化する契機を明らかにすることはできないのである。スターリン主義者のドグマは、結局、実際の過程を混沌とした過程に変え、労働者に蒙昧主義を振りまき、空虚な空文句で労働者の頭を一杯にする以外、何もしていないのである(というより、実際には一つの悪事を働いたのである、というのは、つまらないドグマを大層な理論といつわって労働者に押しつけ、資本主義の真実を認識するのを妨げ、遅らせたのだから)。〉
(25頁)

 果たしてこの一文は正しいであろうか。われわれがまず指摘しなければならないのは、すでに述べたように、マルクスは『資本論』第1部第3篇「絶対的剰余価値の生産」の「第6章 不変資本と可変資本」のなかで、しかもその冒頭から、有用労働による価値の移転問題について論じている事実である。なぜマルクスはこの章で、こうした問題から始めているのか、それはこの章の表題である「不変資本と可変資本」というカテゴリーをマルクスが確定しようとするためではないのか。〈「不変資本と可変資本との区別をつけ」ることとは何の関係もない〉のなら、どうして、マルクスはこの章をこの問題から始めているのか、林氏はまともに答えることが出来るのだろうか。
 なぜ、マルクスは「不変資本と可変資本」と題した章を有用労働による価値の移転の問題から始めているのかについては、以前、私はこの章やその前の第5章について、詳細にマルクスの叙述を跡づけたことがあるのでそれを見ていただければ分かると思うのだが(1138号の林論文を批判した支部学習会レジュメ2011.1.17提出参照〔この文章についても、もしこのブログでこの連載を続けるなら、やがては公開する機会があるだろうが、とりあえずは、それまで待っていただきたい。〕)、とりあえず、マルクスがこの章の最後のあたりで、不変資本と可変資本を結論的に規定している次の一文を見てみることにしよう。

 〈われわれは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。
 要するに、生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする。
 これに反して、労働力に転換された資本部分は、生産過程でその価値を変える。それはそれ自身の等価と、これを越える超過分、すなわち剰余価値とを再生産し、この剰余価値はまたそれ自身変動しうるものであって、より大きいこともより小さいこともありうる。資本のこの部分は、一つの不変量から絶えず一つの可変量に転化して行く。それゆえ、私はこれを可変資本部分またはもっと簡単には、可変資本と呼ぶことにする。労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として、区別されるその同じ資本成分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである。〉(前掲273頁)

 マルクスが有用労働による価値の移転・保存について分析したのは、〈生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を〉明らかにするためであった。そしてその結果、生産手段は生産過程で、その価値を変えず、それを新たな生産物の価値の一部として移転・保存するだけであること、よってそれをマルクスは不変資本と呼ぶことにしたと述べている。つまり有用労働による価値移転問題を論じているのは、明らかに、不変資本を規定するための前提であることは明らかであろう。だからこれが〈「不変資本と可変資本との区別をつけ」ることとは何の関係もない〉などというのはおかしなことである。
 林氏は〈不変資本と可変資本を区別するものは、前者に投じられた資本部分は同一の資本価値として存在し続けるのに対し、後者に投じられた資本部分はその価値を増殖させるところにある〉という、確かにその通りである。しかし、生産手段に投じられた資本部分が、そのまま生産物の価値として移転・保存されるというのは、マルクスが〈生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけた〉結果として導き出されたものではないのか。つまり有用労働による価値の移転が考察された結果として、マルクスは〈生産手段すなわち原料や補助材料や労働手段に転換される資本部分は、生産過程でその価値量を変えないのである。それゆえ、私はこれを不変資本部分、またはもっと簡単には、不変資本と呼ぶことにする〉としているのではないのか。林氏はそうしたマルクスの考察を前提してただその結論だけを持ち出しているに過ぎないのである。そうしてその上で〈有用的労働は「価値を移転」し、抽象的労働は「価値を作り出す」という意味で--理解したとしても、それは「不変資本と可変資本との区別をつけ」ることとは何の関係もない〉などというのである。自分が何を言っているのかも分かっていないのだろうか。
 〈抽象的労働自体は価値を作り出すことはありえても、それ自体、剰余価値を作り出すわけではな〉い、というのも馬鹿げた主張である。これでは剰余価値は価値ではないかのようである。マルクスはまず価値増殖過程の前提として価値形成過程を分析し、その上で、価値増殖過程を説明しているのであるが、価値増殖過程も、価値形成過程でないなどと林氏はいうのであろうか。価値増殖過程は、価値形成過程が、ただ労働力の価値に等しい価値を生み出す以上に継続された価値形成過程であるに過ぎない。だからそれらの過程は、すべて新たな価値が形成される過程であるという点では同じなのである。マルクスはどのように説明しているか見てみることにしよう。

 〈労働過程の主体的要因、自己を発現している労働力の場合は、事情が違う。労働は、その合目的的な形態によって生産諸手段の価値を生産物に移転し維持するあいだに、その運動の各瞬間に、付加的価値すなわち新価値を形成する。労働者が彼自身の労働力の価値との等価物を生産した点、たとえば六時間の労働によって三シリングの価値をつけ加えた点で、生産過程が中断すると仮定しよう。この価値は、生産物価値のうち、生産諸手段の価値に帰せられる構成部分を超える超過分を形成する。この価値は、この過程の内部で生じた唯一の本来の価値であり、生産物価値のうちこの過程そのものによって生産されている唯一の部分である。たしかにこの価値は、資本家によって労働力の購買に際して前貸しされ、労働者自身によって生活諸手段に支出された貨幣を補填するものでしかない。支出された三シリングとの関係で見ると、三シリングの新価値は再生産としてのみ現われる。しかし、この価値は、現実的に再生産されているのであって、生産諸手段の価値のように単に外見的にのみ再生産されているのではない。ある価値の他の価値による補填は、この場合には新たな価値創造によって媒介されている。
 けれども、すでにのべたように、労働過程は、労働力の価値の単なる等価物が再生産され、労働対象につけ加えられる点を超えて続行される。この等価物のために十分である六時間ではなく、この過程はたとえば一二時間続けられる。したがって、労働力の発現により、それ自身の価値が再生産されるだけでなく、ある超過価値が生産される。この剰余価値は、生産物価値のうち、消耗された生産物形成者--すなわち生産諸手段および労働力--の価値を超える超過分をなす。〉(前掲272-3頁)

 このようにマルクスは、資本家が可変資本として投下した3シリングは彼にとっては「再生産」としてのみ現れるが、〈しかし、この価値は、現実的に再生産されているのであって、生産諸手段の価値のように単に外見的にのみ再生産されているのではない。ある価値の他の価値による補填は、この場合には新たな価値創造によって媒介されている〉と説明している。そして剰余価値の形成については、この新価値の形成の過程が、労働力の等価分以上に形成された結果、〈ある超過価値が生産され〉たものとして説明しているのである。
 林氏は〈労働の二面性を持ち出したところで、搾取を、つまり貨幣を可変資本に転化する契機を明らかにすることはできない〉というのであるが、しかし、生産過程において、労働の抽象的な属性が、新たな価値を形成するためには、同時にその具体的属性で生産手段の価値を移転・保存することが解明されて、労働力に投じられた価値、すなわち可変資本が、労働力の価値を補填する以上に価値を形成する過程も、明確に位置づけられたのではないだろうか。もっとも林氏のように、資本による搾取を問題にするのであれば、それは不変資本と可変資本を規定した第6章というより、第5章第2節「価値増殖過程」で論じられているのである。林氏だけが勝手に、第6章を資本の搾取を解明するところだと思い違いしているだけなのである。

●〈そもそも「商品の形をとる労働の二面性を解明したことは、マルクスにとって、不変資本と可変資本との区別をつけ、資本主義的搾取の本質を明らかにする手がかりとなった」などと言うのは間違いであり、一つのドグマ、こじつけでしかない。「搾取の本質」は、資本家が労働者を「必要労働時間」を超えて強制労働に従事させ得ることができたことに関係しているのであって、「商品の形をとる労働の二面性を解明した」こととは何の関係もないのである。それはむしろ、基本的に「価値法則」の問題であって、「労働の二面性」にかかわる問題ではない。不変資本と可変資本の概念的区別は、搾取の秘密を暴露し、解明する前提ではなく、その真実が暴露された後に明らかにされ、資本のあれこれの部分の性格として、特徴として規定されたのである。〉(25頁)

 まったく言っていることが、あっちとこっちではバラバラなのである。というのは、林氏は1138号の論文の冒頭、そのリードのところで、次のように言っていたからである。〔この論文に対する私批判もやがて公開する機会があるとは思うが、それは何時になるかは今の時点では分からない。〕

 〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解することなくしては、その意味を本当に理解することはできないのであって、ただあれこれの理念や言葉だけをそのまま受けとればいいというものではない。「有用的労働による価値移転」という“理論”も、マルクスがいかなる問題を理論的に解決(説明)しようとしているかとの関連で理解されないなら、空虚な(そして有害でさえあり得る)ドグマに転化するのであり、せざるを得ないのである。マルクスがこの理屈を持ち出しているのは、資本が流通過程では、「自己増殖する価値」(G→G’、G→G+g〔貨幣価値→貨幣価値と増加した貨幣価値〕、つまり一〇〇万円→一一〇万円等々)といった無内容な(矛盾した)形態で現象するが、その現象形態を超えた、資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所であり(『資本論』一巻五、六章)、その概念を明らかにするための、そうした理論的な課題に沿った、その課題に制約された理論としてであるにすぎない。

 つまりここでは「有用労働による価値移転」の理論は、〈資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所であり(『資本論』一巻五、六章)、その概念を明らかにするための、そうした理論的な課題に沿った、その課題に制約された理論〉だなどと説明しているわけである。そうして当然、「有用労働による価値移転」を説明するためには、〈商品の形をとる労働の二面性を解明したこと〉が前提になっていることはいうまでもないであろう。とするなら、林氏こそ〈「商品の形をとる労働の二面性を解明した」こと〉こそ、〈資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所であり(『資本論』一巻五、六章)、その概念を明らかにするための〉ものだったというべきではないのか。
 〈不変資本と可変資本の概念的区別は、搾取の秘密を暴露し、解明する前提ではなく、その真実が暴露された後に明らかにされ、資本のあれこれの部分の性格として、特徴として規定されたのである〉だって?! 言っていることがこれでは逆ではないか。林氏は不変資本と貨幣資本が規定されている第6章について、〈資本の根本的概念――剰余労働の形成と取得――を与える個所であり……、その概念を明らかにする〉ところだと言っていたのではないか。確かに私は、こうした林氏の1138号の主張を批判して次のように指摘したのである。

 【林氏が第5章と第6章を一緒くたに論じるのは、〈「有用労働による価値移転」論〉を〈資本の概念を与えている個所、つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている個所〉と結びつけたいからである。というのは〈資本の概念を与えている個所、つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている個所〉というのは、すでにわれわれがみてきたように、第5章の第2節だからである。しかし本当は〈「有用労働による価値移転」論〉というのは〈資本の概念を与えている個所、つまり搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにしている個所〉とは直接には関連していないし、そこでの課題もそうしたものではないことをわれわれは確認してきたのである。林氏もそれを知っているのだが、しかし〈「有用労働による価値移転」論〉を何か狭い限定された問題のための「理屈」であると理解したい林氏としてはそうした誤魔化しが必要だったというわけである。
 また林氏は〈そこではマルクスは、「自己増殖する価値」としての資本の外面的な形式を提示した上で〉と書いている。その前の文章からの続きを考えるなら、この〈そこでは〉は、〈『資本論』の第一巻第三篇第五章と六章、とりわけ六章〉を指すと考えられるが、しかしわれわれは第5章にも第6章にもそうしたものを見いだすことはできなかったわけである。というのは、それは第2篇第4章「貨幣の資本への転化」で明らかにされていることだからである。そしてわれわれはこの第2篇第4章で提起された課題--“ここがロドスだ、ここで跳べ!”--が、第5章第2節で見事に解決されていることを確認したのである。つまり林氏がいうような〈「自己増殖する価値」としての資本の外面的な形式〉の背後に隠されている〈搾取のメカニズム――剰余価値の生産――を明らかにし〉〈資本の概念を与えている個所〉というのは、第5章第2節であるということである。こうした真実を林氏は誤魔化しているのである。林氏が〈マルクスのあれこれの理論や観念、そして言葉さえも、いかなるところで、いかなる理論的な課題との関連で述べられているかを理解することなくしては、その意味を本当に理解することはできないのであって、ただあれこれの理念や言葉だけをそのまま受けとればいいというものではない〉という自身のもっともらしいご高説に決して忠実ではないことが分かるであろう。】

 林氏が、こうした私の批判(この批判は『海つばめ』に投稿したがボツにされた経緯がある)を受け入れたのなら、それはそれで良いのであるが、もちろん、そんなことはないであろう。要するに、自分があっち言ったことを忘れて、こっちでは、まったく逆のことを言っても、平気なのである。それほどチャランポランになっているということだ。

●〈スターリン主義者のこうしたドグマは有害である、というのは、理論的混沌によって労働者の現実に対する意識を混濁させ、したがってまたその階級意識を鈍らせるという犯罪性に加えて、「商品を生産する労働の二面性」の根底的な、正しい理解をどこかに追いやることによって、さらに有害な結果をもたらすからである。〉(25-6頁)

 この言葉は〈スターリン主義者の〉を「林氏の」に置き換えれば、そのまま当てはまる。

●〈というのは、生産的労働の一つの側面である有用的労働の特性が、価値移転であるかに強調し、使用価値の生産であるということをあいまいにすることによって、資本主義的生産の全体を合理的に理解する道をとざし、したがってまた社会主義における分配法則を理解することを困難にしたのであって、そのことは、我々が問題にし、今取り組んでいる理論課題の解決が、正しい抽象的労働と有用的労働の認識に依存し、そのことによってのみ可能となった、ということからも明らかである。実際、スターリン主義者たちやその学者たちは、抽象的労働は価値を作り、有用的労働は価値を移転するといった主張の陰で、それに隠れて、社会主義や社会主義における「価値規定による分配」の実現不可能性を叫んで来たのであり、来ることができたのである。〉(26頁)

 林氏は自分の言っていることがどれほど混乱した主張であるかが分かっているのであろうか。林氏の主張では、有用労働が生産手段の価値を移転することが、それが使用価値を生産することと何か別のことであるかのようであるが、とんでもないことである。有用労働は生産手段を使って(つまり生産手段の使用価値を消費〔実現〕して)、新たな使用価値を生産するが故に、その消費した生産手段の価値を新たな使用価値の中に移転・保存するのである。この両者を対立的に捉える林氏は、ほとんど何も分かっていないとしか言いようがない。林氏はマルクスからの引用を極度に嫌うが、われわれはマルクスから引用することにしよう。

 〈価値は、価値章標における単なる象徴的な表現を別にすれば、一つの使用価値、一つの物の中にのみ存在する。(人間そのものも、労働力の単なる定在として考察すれば一つの自然対象であり、たとえ生きた自己意識を持った物であるとしても、一つの物なのであって、労働そのものはこの労働力の物的発揮である。)それゆえ、使用価値がなくなれば価値もまたなくなる。生産諸手段は、それの使用価値と同時にその価値を失いはしない。なぜなら、生産諸手段が労働過程を通してその使用価値の最初の姿態を失うのは、実のところ、生産物において別なある使用価値の姿態を獲得するためでしかないからである。しかし、価値にとっては何らかの使用価値のうちに存在するということがいかに重要であるとしても、商品の変態が示すように、どのような使用価値のうちに存在するかということはどうでもよいことである。以上のことから結論されるのは、労働過程において、価値が生産手段から生産物に移行するのは、生産手段がその独立の使用価値と共に、その交換価値をも失う限りだということである。生産手段は、それが生産手段として失う価値だけを生産物に引き渡す。しかし、労働過程の対象的諸要因は、この点について、それぞれ異なった事情にある。〉(265頁)

 これを見ても、有用労働が、生産手段の価値を移転するのは、それが新たな使用価値を生産するが故にであることがよく分かるであろう。林氏には、そもそも有用労働が価値を移転するということの内容が分かっていないのである。というのは、林氏には、それが〈労働力の“使用価値”(具体的有用労働)が「価値」の概念の根底に入り込み、適用される〉(1135号林論文)かのように思い込んでいるのだからである。

(第2章の項目3以下の批判は、次回以降に続く)

2015年8月12日 (水)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-19)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)

【35】 (ここからは地金流出とは別の問題を論じる予定だったようだが、結局は、再び地金流出問題を論じることになっている。地金問題は一応このパラグラフで終える)

 さて,われわれは地金の流出を度外視しよう。--〔{〕 地金の流出についてはいっさいの知恵が次のことに帰着する。すなわち,国際的な流通・支払手段にたいする需要は,国内の流通・支払手段にたいする需要とは違う,ということであり{それゆえにまた,当然,「流出の存在は必ずしもCirculationにたいする圏内需要の減退を意味しない」(フラ一トン, 112ページ)ということにもなるのである},また,貴金属の国外輸出(国際Circulationへの貴金属の投入)は,国内Circulationへの銀行券や鋳貨の投入と同じではない,ということである。{なお,私はすでに以前に,国際的な支払のための準備金として集中されている蓄蔵貨幣の運動は,それ自体としては,流通手段としての貨幣の運動とは少しも関係がないということを述べておいた。〔}〕もっとも,次のことによって紛糾の種がはいりこんでくる。すなわち,この準備金が同時に銀行券の免換性と預金とにたいする保証として役立つということによって,すなわち,私が貨幣の本性から展開した蓄蔵貨幣のさまざまな機能,つまり支払手段(国内におけるそれ,満期になった支払)のための準備金としての,通貨 〔currency〕 の準備金としての,最後に世界貨幣の準備金としての,蓄蔵貨幣の機能が,ただlつの準備金に負わされる{それゆえにまた,事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということにもなる}ということによってであり,さらにそのうえに,蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備金として果たさなければならない諸機能の本性からはけっして〔出てこない〕機能である,信用制度〔Creditsystem〕や信用貨幣が発達しているところで兌換保証準備として役立つという機能が付け加えられるということによってであり,そしてこの2つのこととともに,1)1つの主要銀行への一国の準備金の集中, 2) できるかぎりの最低限度へのこの準備金の縮小〔が生じること〕によってである。ここから,フラ一トンの次のような嘆きも出てくるのである。--「そして,イングランドでイングランド銀行の蓄蔵貨幣がまったく[515]枯渇しそうに思われるときにきまって現われる熱病的な不安動揺の状態に比べて,大陸諸国では為替相場の変動がまったく平静にすらすらと経過するのがふつうだということを思えば,この点で金属通貨〔currency〕がもっている大きな長所に思いあたらざるをえないのである。」(同前, 142ページ。) }--では,地金の流出を度外視すれば,||333上|どうしたら,たとえばイングランド銀行は,自行の〔銀行券〕発行額〔の増加〕なしに,自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)増やすことができるのであろうか?

① 〔注解〕 カール・マルクス『経済学批判。第1分冊』〕,ベルリン, 1859年,130-132ページ(MEGA,II/2,S,211/212)。

 このパラグラフは最初に〈さて、われわれは地金の流出を度外視しよう〉と書き出しながら、しかしその後、挿入の形で、地金流出問題が延々と続き、結局、このパラグラフの最後のあたりまでそれは続いている。先の【34】は全体が括弧に入っている挿入文であり、当面の課題には直接関連しないもので、ただ補足的に述べたものであったが、今回も地金流出問題については先のパラグラフと同様、補足の域をでないものと言える。
 よってわれわれは、このパラグラフは、まず最初は地金流出問題の続きの部分を先に検討し、その後、それを度外視した場合に問題となる次の課題を提起している部分を検討する、という順序で、このパラグラフを見ていくことにしよう。まず最初は地金問題の続きである。ただし以下の文章はそれほど理解困難なものではないので、そのまま書き写し、若干の説明を加えておくだけにする。

 〈地金の流出については、いっさいの知恵が次のことに帰着する。
 すなわち、国際的な流通・支払手段にたいする需要は、国内の流通・支払手段にたいする需要とは違う、ということであり{それゆえにまた、当然、「流出の存在は必ずしも通貨にたいする国内需要の減退を意味しない」(フラートン、112ページ)ということにもなるのである}、また、貴金属の国外輸出(国際流通への貴金属の投入)は、国内流通への銀行券や鋳貨の投入と同じではない、ということである。
 {なお、私はすでに以前に、国際的な支払のための準備金として集中されている蓄蔵貨幣の運動は、それ自体としては、流通手段としての貨幣の運動とは少しも関係がないということを述べておいた。}もっとも、次のことによって紛糾の種がはいり込んでくる。すなわち、この準備金が同時に銀行券の兌換性と預金とに対する保証として役立つということによって、すなわち、私が貨幣の本性から展開した蓄蔵貨幣のさまざまな機能、つまり支払手段(国内におけるそれ、満期になった支払)のための準備金としての、通貨の準備金としての、最後に世界貨幣の準備金としての、蓄蔵貨幣の諸機能が、ただ一つの準備金に負わされる{それゆえにまた、事情によっては国内への流出が国外への流出と結びつくことがありうるということになる}ということによってであり、さらにそのうえに、蓄蔵貨幣がこれらの質のどれかにおける準備金として果たさなければならない諸機能の本性からは決して出て来ない機能である、信用制度や信用貨幣が発達しているところでは兌換の補償準備として役立つという機能が付け加えられるということによってであり、そしてこの二つのこととともに、1)一つの主要銀行への一国の準備金の集中、2)できるかぎりの最低限へのこの準備金の縮小が生じることによってである。
 ここから、フラートンの次のような嘆きも出てくるのである。--「そして、イングランドでイングランド銀行の蓄蔵貨幣がまったく枯渇しそうに思われるときに決まって現れる熱病的な不安動揺の状態にくらべて、大陸諸国では為替相場の変動がまったく平静にすらすらと経過するのが普通だということを思えば、この点で金属通貨が持っている大きな長所に思い当たらざるをえないのである。」(同前、142ページ)。}〉

 つまりマルクスは、地金の流出に関して通貨学派を批判する銀行学派の知恵というのは、結局は、国内流通と国際流通とは違うのだ、ということに帰着するのだと指摘している。
 ここでフラートンの著書の112頁からの引用は同著(『通貨調節論』)の第7章の表題から取られているが、フラートンは本文の中で次のように述べている。

 〈輸出を目的としてイングランド銀行の金庫から引き出された金の額と貨幣の介在を必要とする国内の売買取引額との間には、必然的な因果関係は存在しない。かかる取引の数量と価値とは、正金が流出しても全く影響されずにそのままである。〉(前掲、174頁)

 このようにフラートンは国内流通と国際流通との「必然的な因果関係は存在しない」としているのである。

 同じことをマルクスは〈すでに以前に……述べておいた〉と書いている。これについては注解が指示する『経済学批判』の頁を見てみたが、必ずしもマルクスがここで述べていることと同じものを見いだすことは出来なかった。ただ以下のものはやや類似すると言えば言えるかも知れない。

 〈国際的商品流通では、金銀は流通手段としてではなく、一般的交換手段として現れる。しかし一般的交換手段は、購買手段と支払手段という二つの発展した形態でだけ機能するが、けれども両者の関係は世界市場では逆になる。国内流通の領域では、貨幣はそれが鋳貨であり、W-G-Wという過程的統一の媒介者として表したかぎりで、言い換えれば、諸商品の止むところない位置変換の中の交換価値のただ瞬過的な形態を表したかぎりで、もっぱら購買手段として作用した。世界市場では逆である。ここでは金銀は、素材変換がただ一方的で、したがって購買と販売とが互いに分離している場合に、購買手段として現れる。……いろいろな国民的流通領域の間の商品交換が発展すればするほど、国際収支決済のための支払手段としての世界貨幣の機能が発展する。
 国内流通と同じように、国際流通もまた金と銀のたえず変動する量を必要とする。だから蓄蔵された蓄蔵貨幣の一部分は、どの国民のもとでも世界貨幣の準備金として役立ち、この準備金は、商品交換の振動に応じて、ある時は空になり、ある時はまたいっぱいになる。〉(草稿集第3巻376-7頁)

 ここではマルクスは発展した信用制度のもとでは一国の準備金が中央銀行に集中されるために、あらゆる準備金の諸機能(鋳貨準備金、支払手段の準備金、世界貨幣の準備金)を一つの集中された準備金が担うことになること、さらにそれはそうした準備金とは機能的には全く異なる信用制度の中軸としての役割(兌換の保証準備としての役割)をも持たされることになり、おまけにそれが常に最低限にまで縮小される傾向があるために(というのはこうした準備金そのものは利子を生まないために、資本はその負担を最低限にしようとするからである)、それが枯渇しそうになると、極めて大きな不安や動揺が生じることを明らかにしている。

 またここでフラートンの引用が出てくるが、フラートンが言っているのは、大陸諸国(フラートンは特にフランスでは膨大な金が蓄蔵されていることを指摘している)ではまだこうした信用制度の発展が見られず、金属貨幣が通用しているために、為替相場の変動で右往左往することがないことをうらやんでいるのである。

 さて次は、本来このパラグラフでマルクスが問題にしようと考えていたであろう〈地金の流出を度外視〉した場合について検討しよう。これもとりあえず、マルクスの一文を平易に書き写しておこう。

 〈さて、われわれは地金の流出を度外視しよう。そうすると、どうしたら、例えばイングランド銀行は、自行の銀行券の発行額の増加なしに、自行の有価証券を(すなわち自行の貨幣融通の額を)を増やすことができるのであろうか、ということが問題になる。
 というのは最初にも述べたように、銀行学派に大きな影響を与えているのは、イングランド銀行の有価証券の保有高が増えているのに(つまり同行の銀行券による貨幣融通が増えているのに)、銀行券の流通高が増えないばかりかむしろ減っているという現象だからである。銀行学派は、そうした現象こそ通貨学派の主張の誤りを事実で持って証明するものだと考えている。彼らはそうした事態が生じる理由を、イングランド銀行の貨幣融通が「資本の貸付」だからだと説明し、銀行券はたとえ発券されても、資本として流通する(資本の移転を担う)限りは、それはすぐに銀行に還流し、通貨の増加にはならない、だから通貨としての銀行券の流通量を銀行はコントロールできないのだという自説の正しさを証明するものと考えているのである。しかし果たしてそれは正しいのかどうか、それが問題である。〉

 かなりマルクスの本文に書き加えたが、それはこれからマルクスが何を問題にしようとしているのかを出来るだけ正確に理解してもらいたいからである。すでに紹介したこの間の論争では、この点での理解がないままに、いわば間違った土俵の上でなされてきた感があるからである。

  《追加補足》

 マルクスは1851年2月3日付けエンゲルスへの手紙のなかで、通貨学派の批判の一環として、地金流出が国内通貨に影響しないこと、ただ地金流出がイングランド銀行の手形割引などの利子率を変動させ、それが国内景気の動向に影響して、その結果として、通貨の流通が変動することをいくつかのケースに分けて分析している。長くなるが、これまでの通貨学派の批判としても興味深いので、この機会に、紹介しておこう。

  〈リカードをはじめロイド氏やその他もろもろの連中の理論とは次のようなものだ。
 この国に純粋金属流通が行なわれていると仮定しよう。もしそれがこの国で過剰になれば、物価は上昇し、したがって商品輸出は減少するだろう。外国からこの国への商品輸入は増加するだろう。こうして輸入は輸出を超過するだろう。つまり貿易収麦は逆になる。為替相場も逆。正貨は輸出され、通貨は収縮し、商品価格は下落し、輸入は減少し、輸出は増加し、貨幣は再び流入し、要するに事態はもとどおりの均衡に復するだろう。
 必要な変更を加えれば、逆の場合も同様だろう。
 このことからの教訓。紙幣は金属通貨の運動に倣わなければならないのだから、つまり、他の場合には自然的な法則であるものに代わって紙幣の場合には人為的な調節が行なわれなければならないのだから、イングランド銀行は、地金が流入するときには発券高をふやさなければならないし(たとえば国債や大蔵省証券などの買い入れによって)、地金が減少するときには手形割引の縮小や政府証券の売却によって発券高を減らさなければならない。そこで、僕が言いたいのは、イングランド銀行はこれとは反対に行動しなければならないということ、すなおち、地金が減少するときには手形割引をふやし、地金が増加するときには手形割引を普通の調子でやっていかなければならないということだ。そうしないと、近づきつつある商業恐慌を不必要に激しくすることになる。だが、これについてはまた別の機会に。
 ここで僕が論じたいのは、問題の根本に関することだ。つまり、僕は次のように言いたいのだ。純粋な金属流通の場合にもその数量やその膨張収縮は貴金属の流出入や貿易収支の順逆や為替相場の順逆とはなんの関係もない。といっても、実際にはけっして現われないが理論的には規定できる極端な場合は別としてのことであるが。トゥックも同じことを主張しているが、彼の1843-1847年についての『物価史』のなかには証明は見つからなかった。
 ごらんのとおり問題は重要だ。第一には、全通貨理論がその根底において否定される。第二には、信用制度が恐慌の一条件だとはいえ、恐慌の経過が通貨と関係をもつのは、ただ、1847年のように通貨調節への国家権力の気違いじみた干渉が当面の恐慌を激化させることがありうるというかぎりでのことだ。
 以下の例解では、ここでは次のことが仮定されているということに注意するべきだ。地金の流入は、好景気、まだ高くはないが上り坂にある物価、資本の過剰、輸入にたいする輸出の超過に関連がある。金の流出は、必要な変更を加えれば、その逆だ。ところで、このような前提を、論争の相手方の人々はもっている。彼らはこれにたいしてはなにも言うことができない。現実には、金輸出国では金以外の商品の価格が金輸入国におけるよりもずっと低いにもかかわらず金が流出するという場合が、1001もありうる。たとえばイギリスでは1809-1811年や1812年などがそれだ。とはいえ、この一般的な前提は、第一に抽象的には正しいし、第二に通貨論者によって仮定されている。だから、これについてはここではしばらく論議しないことにする。
 そこで、イギリスでは純粋な金属流通が行なわれているものと前提しよう。だからといって、信用制度がなくなったと前提するわけではない。イングランド銀行はむしろ同時に預金-貸付銀行に変わることになるだろう。だが、その貸出はただ現金貨幣だけでなされることになるだろう。もしこの前提がいやなら、ここでイングランド銀行の預金として現われるものを個人の蓄蔵貨幣として現われるものとし、イングランド銀行の貸出として現われるものを個人の貸出として現われるものとすればよいだろう。つまりここでイングランド銀行の預金と言うのは、ただ、過程を分散させないで一つの焦点に集約して述べるための簡単化でしかないのだ。
 第一例。地金の流入。この場合には事態は非常に簡単だ。多額の遊休資本、したがって預金の増加。これを運用するために、銀行はその利子率を引き下げるだろう。そこで、国内での事業の拡張。通貨は、ただ、事業が盛んになってその経営により多くの通貨が必要になるような場合にのみ、膨張するだろう。そうでなければ、余分に貸し出された通貨は手形の満期などによって預金その他として再び銀行に還流するだろう。だから、通貨はこの場合には原因としては作用しない。通貨の増加は、結局、より大きな資本が動かされることの結果であって、その逆ではない。(だから、ここにあげた場合には、直接の結果は預金の増大、すなわち遊休資本の増大で、通貨の膨張ではないであろう。)
 第二例。ここでほんとうに問題が始まるわけだ。地金の輸出が前提される。逼迫期の始まり。為替相場は逆。そのうえ不作などが(または工業原料の騰貴も)ますます多くの商品輸入を必要にするだろう。このような時期の初めにイングランド銀行の勘定は次のようだと仮定しよう。

(a)資本金……   14,500,000(ポンド、以下同)
    準備金……    3,500,000
    預    金…… 12,000,000                
    (小計)           30,000,000

    政府証券……10,000,000
    為替手形……12,000,000
    地金または鋳貨……8,000,000            
    (小計)           30,000,000

銀行の債務は、前提によれば銀行券は存在しないのだから、ただ1200万の預金だけだ。同銀行の原則によれば(預金-商業銀行は通例その債務の三分の一だけを現金で保有していればよい)、800万という保有地金は半分だけ多すぎる。より多くの利益をあげるために、銀行は利子率を引き下げて、手形割引をたとえぽ400万だけふやし、この400万は穀物などの代金として輸出される。そこで銀行の勘定は次のようになる。

(b)資本金……14,500,000
    準備金…… 3,500,000
    預  金……  12,000,000          
   (小計)          30,000,000

    政府証券……10,000,000
    為替手形……16,000,000
    地金または鋳貨……4,000,000      
    (小計)           30,000,000

 この勘定からは次のようなことが出てくる。
 商人は、を輸出する必要が生ずれば、まず第一にイングランド銀行の地金準備に働きかける。この輸出される金はその準備金(銀行のそれ)を減らすが、通貨には少しも影響を及ぼさない。400万が銀行の地下室のなかにあろうとハンブルク行きの船の上にあろうと、通貨にとっては同じことである。結局、一国の通貨にも事業にも一般に少しも影響を及ぼすことなしに、かなり多額の地金流出、この場合には400万ポソド・スターリングの流出が生じうる、ということがわかる。つまり、この全期間中に、債務に比べて過大だった地金準備がそれにたいする適当な割合に減らされるだけのことだ。
  (c) 400万の流出を必要にした事清、たとえば穀物不足とか原料綿花の価格上昇とかが、なおも続いている、と仮定しょう。イングランド銀行はその安全のための配慮を受ける。銀行は利子率を引き上げ手形割引を制限する。そのために商業界では逼迫が現われる。この逼迫はどのように作用するか? 銀行の預金を引き当てに手形が振り出され、それに比例して銀行の地金は減って行く。もし預金が900万まで下がれぽ、すなわち300万だけ減れば、銀行の地金準備から300万が流出せざるをえないだろう。そこで、地金準備は900万の預金にたいして100万に(400万・マイナス・300万に)下がることになるだろう。この割合はイングランド銀行にとって危険なものになるだろう。だから、同銀行がその地金準備を預金の三分の一に維持しようとするならば、その手形割引を200万だけ減らすだろう。
  そこで、勘定は次のようになるだろう。

   資本金……14,500,000
   準備金…… 3,500,000
  預  金……  9,000,000         
  (小計)        27,000,000

   政府証券……10,000,000
   割引手形……14,000,000
  地金または鋳貨……3,000,000      
  (小計)        27,000,000

ここから次のようになる。流出が大きくなって、地金準備が預金にたいする適当な割合に達したならば、イングランド銀行は利子率を引き上げて手形割引を減らす。そうなれば預金への影響が始まって、預金の減少のために地金準備は減少するが、しかし手形割引はそれ以上に大きな割合で減少する。通貨は少しも影響を受けない。引き出された地金と預金との一部分は銀行金融の収縮が国内流通のなかにつくり出す空隙をうずめ、他の一部分は外国に出て行く。
  (d) 穀物の輸入などがさらに続いて預金が450万まで減ると仮定すれば、イングランド銀行は、その債務にたいする必要な準備金を維持するために、その手形割引をさらに300万だけ減らすだろう。そして、勘定は次のようになるだろう。

   資本金……14,500,000
   準備金…… 3,000,000
  預   金…… 4,500,000             
   (小計)       22,500,000

   政府証券……10,000,000
   割引手形……11,000,000
  地金または鋳貨……1,500,000       
   (小計)       22,500,000

 イングランド銀行はこの前提のもとで手形割引を1600万から1100万に、つまり500万だけ減らしたわけだ。流通上の必要は引き出された預金で補われる。だが、同時に資本の不足、原料の高価格、需要の減退、したがって事業の不振、したがって結局は流通の減少、必要な通貨の減少。通貨の過剰な部分は輸入代金の支払のために地金として外国に送られるだろう。通貨は最後に影響を受ける。そして、通貨は、地金準備が預金にたいする必要不可欠な割合を越えて減らされるとき、はじめてその必要量を越えて減らされるだろう。 なお次のことを付言しておきたい。
 (1) イングランド銀行は、その手形割引を減らさないで、そのかわりに保有公債を売ることもできるだろうが、それはこの前提のもとでは不利であろう。とはいえ、結果は同じことだ。銀行は、自身の準備金や手形割引は減らさなくても、そのかわりに、貨幣を公債に投ずる個々人のそれを減らすことになるだろう。
  (2) 僕はここでは銀行にとって650万の流出を前提した。1839年には900万-1000万の流出があった。
  (3) ここで前提したような純粋な金属流通の場合の過程は、紙幣の場合と同じに支払停止にまで進むこともありうる。一八世紀にハンブルクで二度も起きているように。〉(全集第27巻154-157頁)

【36】 (このパラグラフは、これから分析しようとしている「銀行券の還流」問題のいわば導入部分である)

 〈同行の店舗の外にある銀行券は,流通していようと私人の金庫のなかで眠っていようと,同行自身に関していえば,すべてCirculationのなかにある,すなわち同行自身の保有にはない。だから,Circulationを増やさないためには,有価証券にたいして発行された銀行券は同行に還流し〔refluiren〕なければならない。これは2つの仕方で起こりうる。〉

 二度使われている〈Circulation〉を如何に理解するかも含めて、以下、平易な書き下し文を示しておこう。

 〈さて、われわれは貸し出されたイングランド銀行券が、どうなるのかをこれから見ていくのだが、その前にまず確認しておかなければならないことは、同行の店舗の外にある銀行券は、流通していようが私人の金庫のなかで眠っていようと、同行自身に関して言えば、すべて流通のなかにある、すなわち同行自身の保有にはない。だからわれわれが「銀行券の流通高」という場合、それは実際に流通しているものだけではなくて、同行自身の保有にはないものすべてを指しているのである。だから貸付を増やしても流通高を増やさないためには、有価証券にたいして発行された銀行券はすぐに同行に還流しなければならないのである。それは二つの仕方で起こり得る。〉

 このマルクスの文章そのものは素直に読めば難しいことは何もない。またこれまでこのレジュメを読んできた人なら、マルクスがこれから何を問題にしようとしているのかを見間違うことはないであろう。しかし、この間の議論を少しでも検討したことのある人なら、その議論が以下の数パラグラフの解釈をめぐって激しく行われてきたことを知っている。実は、その議論は、ここでマルクスが何を問題にしているのかをまったく取り違えた議論なのである。だから私はこれまでにも常にマルクスが何を問題にしているのかを読者に注意するように促してきたつもりである。よってレジュメをここまで読んできた人なら、まさか見間違うことはないとは思うのだが、しかし「念には念を」という言葉もあるので、もう一度、これまでのマルクスの展開を跡づけて、問題を整理し、これからマルクスが何を問題にしようとしているのかを再確認しておこうと思う。というのはそれを取り違えている議論が、エンゲルスを筆頭にあまりにも多いからである(恐らくそれらの間違った議論は、エンゲルスに影響されているのであろうと思うのだが……)。
 とにかくこのレジュメは「分かり易く」をモットーにしているので、次回は、少し小見出しをつけて、この間のマルクスの展開を整理してみることにする。(続く)

2015年8月11日 (火)

林理論批判(13)

 〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.4〉

報告文書〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉(林紘義)の批判的検討

 今回から2012年労働者セミナーの報告文書の批判的検討を紹介していく。何度も断っているが、この批判的検討はこの文書の最後まで行われていない中途半端なものであるが、それは支部のこの『プロメ』合併号を使った学習会が、途中で断ち切れてしまったためであり、ここではそれをそのまま紹介するにとどめる。
 なお批判的検討は、これまでと同じように、報告文書の各章の表題や番号をそのまま紹介しながら、その中で問題と思われるごとに、一定のテーマをまず書いて批判する場合もあれば、ただ林氏の文書をそのまま紹介しながら、そのどこが問題かをコメントするというような形で行われている。

            *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

§1章 労働価値説と「価値規定」の意味--ロビンソン・クルーソーと共産党

●20年前の共産党は今日の同志会と同じ?

 林氏は次のように書いている。

 〈かつて二〇年ほど前、すなわち一九九〇年前後、ソ連体制(社会) のブルジョア的本性が暴露され、またその解体が進んだ頃、日本の共産党内にも深刻な「社会主義」への不信や幻滅や疑惑が広がり、……党内に「社会主義」についてのありとあらゆる混乱した見解、実際上社会主義とその概念を否定し、「市場経済」に置き換えるような見解、したがってまたマルクスの見解に対する異議さえ持ち出された〉(13頁)

 しかし今日の同志会を振り返るなら、〈社会主義の真髄〉などという大げさな物言いで、〈「価値規定による分配」〉なるものが“金科玉条”のごとく持ち出され、〈マルクスの見解に対する異議さえ持ち出され〉ているのではないのか。“人の振り見て我が振り直せ”ではないのか。

●〈「価値規定」は「価値規定」であって、ロビンソンの場合と資本主義を克服した段階の社会主義とは違うということはありえない(それはマルクスも明確に語っている)、違うというなら、それはそれが実際に行われる形式であってそれ以上ではないのである。社会主義における「価値規定に基づく分配」が社会的な形態を取った労働についてのことであつて、ロビンソンの場合のように単純ではないというなら、それはその通りだが、しかしそのことは、社会主義の分配が「価値規定」に基づいて行われ得ないということに、なぜなるのか。二つのことは全く別のことであろう。必要なことは、資本主義を克服した後の「価値規定による分配」、つまり全面的に発展した社会的労働が行われている場合の「価値規定による分配」の特殊性を明らかにすることであって、それが不可能だと結論することではない。〉(17頁)

 これを読む限り、林氏のいう「価値規定」というのは、あらゆる時代の社会的な物質代謝の中に一般的に貫いている法則というような意味に考えられるが、こうしたものを「価値規定」と称することの是非はともかく、こうした理解そのものは、この限りではまったく正当である。
 しかしマルクスがロビンソンで問題にしているのは、消費手段の分配ではない。そもそもロビンソンにおいては、消費手段はすべて自分のものなのだから、それを分配する必要などないからである。ロビンソンでマルクスが強調しているのは、ロビンソンが自分のさまざまな欲求を満たすために、、必要にかられて、さまざまな生産活動をやらざるをえないが、しかしそれを彼は、目的意識的に自覚的にやるのだということである。彼がどの活動にどれだけの自分の時間を費やさなければならないかは、現実の有用効果を生み出す上での困難によって決まってくる。例えば、木を切り倒すということ一つとっても、鉄の斧を難破船から持ち出すことが出来たなら、短時間で可能であるが、もしそれが無かったなら、適当な石を斧にして、切らねばならず、長時間を要するであろう。つまり彼のさまざまな具体的な労働が有用効果を生み出すにかかる時間、つまり生産力がそれを規定するわけである。しかし、経験は彼にそれらを教える。すなわち、魚を捕るためには、どれどれの時間が必要だが、獣を狩るには、これこれの時間が必要だ、等々。だからロビンソンは、自分の欲求を満たすために、どの作業にどれだけの時間を要するかを知るようになり、だから彼は一年間の自分の時間をどのように割り振りすれば、彼の一年間の生活が維持できるかを知るわけである。だからこの場合には、彼が生み出したすべての財産目録には、彼がそれを生産するために費やした労働時間が書かれており、それらは彼には明瞭に分かっているのだ、というのがマルクスが述べていることである。そしてここには〈価値のすべての本質的な規定が含まれている〉というのである。
 つまりマルクスがロビンソンの例で言いたいのは、ロビンソンは自覚的に自分の労働を配分し、彼の欲求を満たしたが故に、彼が生み出した生産物にどれだけの労働が支出されたかも彼は明瞭に知ることができるのだということである。つまり生産活動そのものが自覚的・計画的に行われることこそが、生産物に対象化されている労働時間をわれわれが直接知り得るための条件なのだというのがマルクスが言わんとすることである。

●〈ロビンソンの話が現実の社会主義の話でないことは当たり前であるが、マルクスの言いたいことは、社会主義でも、社会の総労働時間を配分し、また労働時間によって消費も--したがってまた、個々の労働者への消費手段の分配も--規定される、ということだけである。〉(17-8頁)

 このように林氏は〈だけ〉と述べているが、果たしてそうであろうか。
 もともと、このロビンソンの話や将来の社会の話は、第1章第4節で〈商品の呪物的性格とその秘密〉を明らかにするために、〈商品の神秘的な性格は商品の使用価値からは出てこないのである。それはまた価値規定の内容からも出てこない〉その例証として、説明されているものなのである(第二版ではかなり文章の変更があったが、初版では文章の繋がりから、そうしたマルクスの意図が明瞭に分かるようになっている)。
 もう一度言おう。ロビンソンの話で、マルクスが述べていることは、ロビンソンは彼の欲望を満たすためには、自然に働きかけて諸使用価値を得なければならないが、そのために彼はその生産活動において自分の労働を自覚的に合理的に配分しなければならないこと、その配分は有用効果を得るための困難さによって定まり、経験はそれを彼に教えること、そしてそれらを几帳面に帳簿に付けたロビンソンにとっては、だから特定の彼の財産目録には、それに費やされた彼の労働が克明に記帳されているということである。そしてここには〈価値のすべての本質的な規定が含まれている〉としているのである。つまりここでマルクスが〈価値のすべての本質的な規定〉と述べているのは、その前に彼はそこにはもともと神秘的なものは何もないと述べた〈価値規定の内容〉のことに他ならないのである。
 だから林氏がロビンソンの話を説明して、〈マルクスの言いたいことは、社会主義でも、社会の総労働時間を配分し、また労働時間によって消費も--したがってまた、個々の労働者への消費手段の分配も--規定される、ということだけである〉というのはおかしいのである。少なくともマルクスはロビンソンの話のなかでは、社会主義については何も述べていないし、ましてや〈個々の労働者への消費手段の分配〉などまったく問題にもなっていないのである。
 マルクスが社会主義について語っているのは、次の一文である(どうしてか、林氏はこの間の一連の論文のなかで、この一文を引用するのを慎重に避けているのではあるが)。

 〈最後に、気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。ここでは、ロビンソンの労働のすべての規定が再現するのであるが、ただし、個人的にではなく社会的に、である。ロビンソンのすべての生産物は、ただ彼ひとりの個人的生産物だったし、したがって直接に彼のための使用対象だった。この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である。この生産物の一部分は再び生産手段として役だつ。それは相変わらず社会的である。しかし、もう一つの部分は結合体成員によって生活手段として消費される。したがって、それは彼らのあいだに分配されなければならない。この分配の仕方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類と、これに対応する生産者たちの歴史的発展度とにつれて、変化するであろう。ただ商品生産と対比してみるために、ここでは、各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間によって規定されているものと前提しよう。そうすれば、労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面では、労働時間は、同時に、共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分けまえの尺度として役だつ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。〉(全集版105頁)

 まず確認しなければならないことは、マルクスは〈この結合体の総生産物は、一つの社会的生産物である〉と述べていることである。だから個人的消費手段も、少なくとも生産された物としては、社会的生産物として存在しているのである。つまりそれらはすべてそれに対象化された労働時間を直接知ることの出来る生産物なのである。
 そしてその上で、そのうち生産手段として役立つ生産物は、依然として社会的である。すなわち共同の生産手段として役立つ。ただ個人的消費手段は、共同体の成員によって消費されるわけだが、だからそれらは個々人に配分される必要があるが、この分配の仕方は社会主義と共産主義とでは違うことを前提に、社会主義では〈各生産者の手にはいる生活手段の分けまえは各自の労働時間によって規定されている〉としているのである。
 そうすると、労働時間は二重の役割を果たすとして、一つは〈労働時間の社会的に計画的な配分は、いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する〉と述べている。これは社会の総労働を社会的な欲望に応じて、計画的にそれぞれの生産分野の生産力に応じて配分することであり、労働の直接的な社会化と計画的な生産を意味している。マルクスがまず社会主義の生産において果たす労働時間の役割を述べていることを林氏はまったく無視しているのある。マルクスは、最後の締めくくりでも〈人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である〉と、〈生産においても分配においても〉と述べているのは決してどうでも良いことではない。生産において〈透明で単純〉だからこそ、分配においてもそうなるのだからである。
 そしてマルクスは、もう一つの労働時間の役割として〈共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だち、したがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分けまえの尺度として役だつ〉と述べているのである。
 そしてマルクスは〈ロビンソンの労働のすべての規定が再現する〉と述べているのだが、ここで〈ロビンソンの労働のすべての規定〉というのは、〈価値のすべての本質的な規定〉ということであり、だからそれは〈価値規定の内容〉ということなのある。
 林氏が先に見たように、自分が考えている「価値規定」というのは、「価値規定の内容」とは違うというのであれば、それは林氏がマルクスのロビンソンの話を正確に理解していないことを意味するだけである。

●〈そもそも、価値法則と価値規定が商品社会・資本主義社会と社会主義の双方に「当てはまる」などというのは、"ブルジョア" ならではの見解であつて、「価値法則」はまさに商品と資本の運動法則であって、そんなものは資本主義が止揚されるとともに一切止揚され、克服されるからこそ社会主義は社会主義であり、また社会主義における「価値規定」について仮にマルクスが語るにしても、それはただ、個々の労働者の分配に関することに限られているのであって、こうした概念を超歴史的なものとして論じること自体、共産党の指導部分(党官僚)たちや理論家たちがすでに立派に"ブルジョア" にまで"成長"していることを暴露するのである〉(18頁)

 価値規定が価値法則と異なるというのは、その限りでは正しい。しかし、林氏が〈社会主義における「価値規定」について仮にマルクスが語るにしても、それはただ、個々の労働者の分配に関することに限られている〉というのは、まったく正しくない。すでに見たように、マルクスは生産と分配について語っているのであって、決して個人的消費手段の分配だけを語っているのではないからである。そればかりかマルクスは、常に消費手段の分配をいう前に、生産手段の分配を論じる必要があるが、それは生産の様式、つまり生産そのものを問うことであると、個人的消費手段の分配だけに関心をよせる俗物共に注意を促し、強調しているのである。
 林氏は19頁上段3パラでも〈「価値規定による分配」という社会主義の根底的概念〉などとも述べているが、要するに社会主義において根本になるのは、個人的消費手段の分配であって、生産手段の分配、すなわち生産様式ではないと主張しているわけである。だから、社会主義の概念を個人的消費手段の分配をどうするか、それが出来るかどうかなどという問題に矮小化しているという点では、林氏は〈共産党の愚者たち〉(20頁)と同罪なのである。だから林氏が共産党の連中に対して〈我々は、"ブルジョア"共産党員たちが「できもしないし、やるべきではない」という、「価値規定による分配」つまり「労働時間による分配」が本当に「不可能」なのかという根本問題を突き出して検討しようというのであり、この理論課題を明瞭かつ合理的に解決する--当面は概念的にではあるが--ことによって、実践的に共産党の愚者たちに反論し、その皮相浅薄な見解を徹底的かつ最終的に粉砕することを課題とした〉などと大上段に言い放っても、結局は、“目くそ鼻くそ”の類でしかなく、“俗流社会主義”の枠内での争い以上にはなりようがないのである。


§2章 「価値増殖過程」(剰余価値の生産過程)--「有用的労働による」価値移転論批判

●林氏はマルクスの撚り糸の例を図示するとしているが、数値は必ずしもマルクスの例の通りではない。

 しかし、これは事実を指摘するだけ。

●〈資本家は20キロの綿花と紡錐(これらによって生産手段が代表させられている) によって、20キロの綿糸を生産する。資本価値(「過去の労働」) として(労働時間で表わされると)、綿花と紡錘はそれぞれ12時間ずつ、合計24時間である。これらは資本価値として、生産過程の間に綿糸に移転される。他方、「生きた労働」として"対象化"される労働は6時間である。かくして、生産物としての綿糸には合計30時間が"対象化"されている、つまり綿糸は合計30時間の労働時間によって生産されたのである〉(21)

 ここでは林氏は、少なくともマルクスに倣って、生産手段の価値の「移転」について述べている。また労働の「対象化」についても論じている。もっとも〈「生きた労働」として"対象化"される〉というように、例によって例のごとく「対象化」に“ ”を付けているのであるが。一体、この“ ”で林氏は何を言いたいのか。つまり林氏も、綿糸には生産手段に対象化されている労働が生産過程で移転されること、その結果、生産過程で追加される労働と合わせて、それらがすべて生産物に対象化されていることを認めているわけである。とするなら、価値の移転も認めることになるがどうであろうか。

●資本価値を「過去の労働」と説明

 先の引用文の中にも〈資本価値(「過去の労働」) として(労働時間で表わされると)、綿花と紡錘はそれぞれ12時間ずつ、合計24時間である。これらは資本価値として、生産過程の間に綿糸に移転される〉とある(また別のところには〈この剰余価値は、いわゆる「過去の労働」つまり資本価値、〉〔22頁〕という一文もある)。つまり林氏は生産手段は過去の労働の産物だから資本価値であり、それを加工して新たな労働を対象化する「生きた労働」と対比して論じているわけである。しかし資本価値を過去の労働として捉えるのは正しいであろうか。あるいは過去の労働だからそれは資本価値であるなどという説明はどうであろうか。
 資本価値というのは、資本家がその増殖を目的に投じた価値だから、資本価値というのである。あるいは資本として主体的に運動し自己増殖する価値という意味で、それを資本価値と言われる場合もある。だから資本価値とそれが過去の労働の産物かどうかということは何の関係もないのである。例えば国債や株式のような架空な貨幣資本に投下された資本なども、マルクスは資本価値とも述べている。それらはその限りでは、自己増殖する価値だからである。だから資本家が増殖を目的に投下した価値という意味では、現物形態としては、生産過程にある生産諸手段だけではなく、労働力もその限りでは資本家にとっては資本価値なのである。それは資本の価値が生産資本の形態をとったものだからである。だから資本価値を「過去の労働」などと捉えるのは必ずしも正確とは言えないし、何らかの間違った観念に行くつくであろう。
 例えば、林氏が対象にしている第1部第3篇「絶対的剰余価値の生産」に出てくる「資本価値」について、少し見てみよう(因みに、林氏が今問題にしている第5章にはまったく出てこないのだが)。マルクスはどのようにこの言葉を使っているのか。

 〈生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。それは、消費された肉体から、新しく形づくられた肉体に移る。しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行なわれる。労働者は、元の価値を保存することなしには、新たな労働をつけ加えることは、すなわち新たな価値を創造することはできない。なぜならば、彼は労働を必ず特定の有用な形態でつけ加えなければならないからであり、そして労働を有用な形態でつけ加えることは、いろいろな生産物を一つの新たな生産物の生産手段とすることによってそれらの価値をその新たな生産物に移すことなしには、できないからである。だから、価値をつけ加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。そして、この天資は、労働者にとってはなんの費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのである。景気のよいあいだは、資本家は利殖に没頭しきっていて、労働のこの無償の贈り物が目に見えない。労働過程のむりやりの中断、すなわち恐慌は、彼にこれを痛切に感じさせる。〉(全集23a270頁、太字は引用者、以下同じ)
 〈われわれは、生産物価値の形成において労働過程のいろいろな要因が演ずるいろいろに違った役割を示すことによって、事実上、資本自身の価値増殖過程で資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴づけたのである。生産物の総価値のうちの、この生産物を形成する諸要素の価値総額を越える超過分は、最初に前貸しされた資本価値を越える価値増殖された資本の超過分である。一方の生産手段、他方の労働力は、ただ、最初の資本価値がその貨幣形態を脱ぎ捨てて労働過程の諸要因に転化したときにとった別々の存在形態でしかないのである。〉(同273頁)
 〈前貸しされた資本Cが生産過程で生みだした剰余価値、すなわち前貸資本価値Cの増殖分は、まず第一に、生産物の価値がその生産要素の価値総額を越える超過分として現われる。〉(276頁)

 まあこれぐらいで良いだろう。最初の引用文は〈現にある資本価値の保存〉ということで、「過去の労働」と無関係ではないが、しかし、マルクス自身は資本価値という言葉を過去の労働を意味するものとして使っていないことは明らかであろう。もっともこの場合も、「マルクス絶対主義者」ではない林氏であるから、こんな用語の使い方などどうでもよいのではあろうが、われわれ「マルクス絶対主義者」としては拘るところなのである。

●〈この剰余価値は、いわゆる「過去の労働」つまり資本価値、すなわち綿糸の中にただ移転された労働部分によってではなく、労働者の機能している「生きた労働」を搾取することによってのみ、資本の立場から言えば、不変資本からではなく可変資本--この部分が労働者にとっては賃金として、支払われた労働として現象するのだが--からのみ、生じるのである。〉(22頁)

 これから指摘することは、あるいは人によっては「細かなことの詮索」のように思えるかも知れないが、しかし、われわれ『資本論』を厳密に理解しようと努めている者にとっては(そして『資本論』はそうした理解を要求する)、こうした粗雑な文章に出くわすと、やはり見過ごすことができないのである。だから以下は、別に内容には関係がないが、林氏の『資本論』理解が如何に粗雑かを示すために論じるのである。
 先に「資本価値」を「過去の労働」とする林氏の理解は何らかの誤った観念に行き着くだろうと指摘したが、ここでも林氏の文章は同じような曖昧さと粗雑さを示している。林氏は「資本価値」を「過去の労働」としていることから、実際上は、剰余価値は、資本価値、から生じるのではない、と言うことになってしまっている。しかし他方で、それは可変資本からのみ生じるとも述べているのである。これでは、可変資本は資本価値ではないかのようではないか。しかし言うまでもなく、可変資本もまた資本価値であることに違いはない。それは資本価値のうち「可変」部分、つまりその価値を変化させる(増殖する)部分だからである。
 また〈資本の立場から言えば、不変資本からではなく可変資本……からのみ、生じる〉などと、わざわざ〈資本の立場から言えば〉などとも書いているのであるが、どうして〈資本の立場から言えば〉、そう言えるのか皆目分からないのである。なぜなら、資本の立場から言えば、利潤(剰余価値)は、彼らが前貸した資本全体から〈生じる〉ものとして現象するのだからである。どうしてここで〈資本の立場から言えば〉なとという限定が入るのか皆目分からないのである。いずれにせよ、林氏の『資本論』理解が如何に粗雑なものに過ぎないかが分かるであろう。

●〈労働者がここでなぜ資本家によって搾取されるかといえば、資本家は労働力を事実上、半分の価格で買ったからであり、全部に支払わなかったからである。〉(同)

 これもおかしい。労働力を〈半分の価格で買った〉だって? これでは資本の搾取を詐欺や瞞着から説明することになるではないか。資本家は労働力をその価値どおりに買っても、尚且つ、その搾取を成就するのである。
 とにかく、それ以外にも色々と引っかかる言葉の使い方があるのであるが、いちいち細かい事まで引っかかっていたら、前に進まなくなるので、それらの大半には目をつぶり、以下では、あまりに酷いものだけを取り上げる事にしよう。

●〈つまりこれは「価値」は、それを実体とする使用価値の形態の違いによっては量的に変化しないという、価値の本性からくるものである。〉(23頁)

 「実体」の使い方がおかしい。〈それを実体とする使用価値〉ではなく、「その担い手である使用価値」の方がよい。価値の「実体」というなら、それは抽象的人間労働が凝固したものを意味する。

●〈有用的労働による「価値移転論」といったものは、こうした価値の本性と関係されて理解されるべきであつて、スターリン主義者たちがやって来たように、何かドグマ化して語られるべきことではない。〉(同)

 しかしそれまで林氏が述べてきたことは何一つ〈有用的労働による「価値移転論」〉とは関係ないし、そうしたものを論じたものではない。どうしてここで〈有用的労働〉が出てくるのかも皆目分からない。〈スターリン主義者たちがやって来た〉という〈ドグマ化し〉た語りというものも、われわれは知らないのである。林氏がただ〈ドグマ〉だとレッテルを貼っているだけではないのか。レッテルを貼っただけでは、確かに〈スターリン主義者たちがやって来た〉ような“批判”とは言えても、革命的な科学的な批判とはとても言えない。

●〈さらに、「有用的労働」による資本価値の移転もしくは"引き継ぎ"といった概念は、ただ資本の"運動" としてあるだけであって、社会主義になればそれはどうでもいいことになる(廃棄される)、つまりどんな考慮も配慮も要請しない事項になる、というのは、すでに生産手段は資本として存在せず(その規定性を脱却しており)、単なる社会的に共有される生産手段でしかないからであり、労働もまた「価値」の形態を取らないからである。したがって我々は、社会主義について、社会主義における分配の概念について考察する限り--これが我々の課題だったのだが--、「有用的労働による(資本)価値の移転」といったことは考慮外に置かれるのである。〉(24頁)

 ここでも林氏は問題をごっちゃに論じている。わざとそうしているのか、それは分からないが、しかし、われわれはこうした文章にも付き合わなければならないわけである。
 まず社会主義になれば、〈資本価値〉が〈どうでもいいことになる(廃棄される)〉のは当然ではないか。資本主義ではなくなるのだから、〈資本価値〉もまたなくなる、これは当たり前の事である。そんなことをわざわざ言う必要があるのかとさえ思う。しかし、いうまでもなく、林氏がここで言っていることは資本主義において「価値の移転」として現象している関係は、社会主義では〈どうでもいいことになる(廃棄される)〉ということである。しかし、そうならそうとハッキリいうべきなのだが、それを林氏はいわずに、わざと(かどうかは知らないが)、〈資本価値〉云々というのである。
 しかし林氏は、その少し前では、撚り糸の価値を考えるのに、それに対象化された労働時間で考えていなかったであろうか。そこでは生産手段(綿花と紡錘)に対象化されている労働時間は、撚り糸の生産過程で追加された労働時間(林氏が「生きた労働」と言っていた)と共に、撚り糸に対象化された労働時間として合計されると述べていなかったか。
 ごうした関係は、資本主義に固有の問題であって、社会主義では問題にもならないと林氏はいうのであろうか。それならそうとハッキリいうべきではないか。
 しかし資本主義において、そうした関係を認めるなら、例え社会主義になっても、やはり生産手段に対象化されている労働時間は--それは確かに価値の形態を取らないが--、やはり最終生産物に“引き継がれる”ということはありうるのではないのか。それは生産物に対象化された労働時間が価値という形態をとるか否かには関係ない。それはいわばマルクスがクーゲルマンへの手紙で述べている「自然法則」ではないのか。
 もちろん、社会主義では、すべての労働は直接社会的に結びつけられており、だから生産手段に対象化された労働が、生産過程で、有用労働によって生産物に移転されるなどという観念は不要であろう。なぜなら、生産手段の生産に支出された労働も、それを使って新たな使用価値を生産する労働も最初からそれらの社会的関連は明確なのだから、だから最終の生産物にどれだけの労働が費やされたかは、それらの労働時間をすべて合計すればすむ話だからである。だから「移転」や“引き継ぎ”といったことが、この場合には何の問題にもならないというなら、確かにそうである。しかし、林氏はそれが問題にならない理由を正しく指摘しているわけではない。ただ林氏が言っているのは、社会主義は資本主義ではない、ということだけである。こんなことなら言わない方がましである。
 〈社会主義における……「有用的労働による(資本)価値の移転」といったことは考慮外に置かれる〉。こんなことは当たり前のことであろう。社会主義では「資本」も「価値」も問題にならないのだから。こんな当たり前のことを言って、何かご大層なことを言っていると思い込んでいる人は、確かに幸せな人である。

●〈他方、有用的労働による使用価値の生産と、抽象的労働による価値の規定は、社会主義においても、分配を規定する概念として重要な意義を持つのであって、その点で、「有用的労働」による資本価値の移転とは区別されるのである。人は一般に「価値移転論」がただ資本の運動、資本の生産過程においてしか意味を持たないという、その限界を自覚していない、つまり自らの認識をブルジョア的生産関係の枠内に留めているのである。〉(24頁)

 この文章も細かく見ていくと色々と訳の分からない混乱がある。まず具体的な有用労働による使用価値の生産が、社会形態に関わりのないものだから、当然、社会主義でも資本主義でも〈意義を持つ〉のは当然であろう。しかし〈抽象的労働による価値の規定〉はどうか。林氏は果たして社会主義でも生産物は商品になり、よってその物象的属性としての価値は残ると考えているのであろうか。それならこの文章は納得がゆく。しかし恐らく林氏はこの言葉で、労働生産物に対象化された労働というものは、社会主義でも〈重要な意義を持つ〉と考えているのであろう。しかしそれならそれをわざわざ〈価値の規定〉などという必要はないのである。なぜ、〈価値規定〉に拘るのかさっぱり分からないのである。
 そしてそれに続く一文もおかしい。〈その点で、「有用的労働」による資本価値の移転とは区別される〉。〈その点〉というのは、文章から考えるに、社会主義でも〈重要な意義を持つ〉かどうかいう〈〉であろう。とするなら、社会主義で〈資本価値の移転〉など問題にもならないのは、そもそも資本主義を克服した社会主義で〈資本価値〉など問題にもならないのだから、当然のことなのである。しかしこれは社会主義は資本主義とは違うと言っているほどのことしか言っていないに等しいのであり、ほとんど無意味なことである。
 そして次の文章。〈人は一般に「価値移転論」がただ資本の運動、資本の生産過程においてしか意味を持たないという、その限界を自覚していない、つまり自らの認識をブルジョア的生産関係の枠内に留めているのである〉。しかし果たして〈「価値移転論」〉なるものを社会主義でも〈重要な意義を持つ〉などと主張した人はあるのであろうか。私はまったく知らないのである。しかし、もしそうした人があったとして、それがどうして〈自らの認識をブルジョア的生産関係の枠内に留めている〉ことになるのであろうか。確かに〈「価値移転論」〉なるものは資本主義に固有の問題である。だから社会主義でもそれが〈重要な意義を持つ〉と主張するなら、社会主義を実際上は資本主義と同じようなものとして考えていると言いたいのであろうか。しかしそれをいうなら、社会主義でも〈価値の規定〉に拘り、社会主義でも「価値」が〈重要な意義を持つ〉かに考えている林氏こそが、〈自らの認識をブルジョア的生産関係の枠内に留めている〉ことにならないであろうか。誰も社会主義でも「価値」が残り、だからその「移転」も〈重要な意義を持つ〉などと主張しているような人は、少なくとも会員のなかにはまったくいないのではないか。一体、林氏は誰を相手に喧嘩をしているのであろうか。

 (以下、続く)

2015年8月 7日 (金)

『資本論』第3部草稿(現行版第5篇)の研究(28-18)

現行版第5編第28章該当箇所の草稿の解読

(2) 各パラグラフごとの解読(続き)
【32】 (これは331頁下段途中に書かれており、原注である)
 この原注はフラートンの引用の箇所を示すためにつけられたものである。しかし……、
 〈【原注】/331下/c)フラートン。(131ページ。)【原注終わり】|
  ① 〔注解〕ジョン・フラ一トン『通貨調節論…….1.ロンドン. 1845年。

 とあるだけで、極めて簡単である。あまりにも簡単なので、その部分のフラートンの引用部分を書き出しておこう。フラートンの著作では次のようになっている(下線部分はマルクスが引用しているところである)。
 〈実のところ、これは通貨の問題に非ずして資本の問題である。地金の自然な流れが、或る特別の国において貴金属の現物の大々的供給を求める特別な需要が生じたために、わきへそらされるという、特殊な場合を暫く別とするならば、現下の貨幣事情のもとにあって為替相場に影響したり一国から一国への地金の流れを支配したりし得るこれら各種の原因の一切は、結局、唯一の項目に帰着する、すなわち、対外支払差額の状態如何ということであり、これを決算するために或る一国から他の一国へと絶えず繰り返し資本を移さねばならぬという必要これである。穀物の収穫が思わしくなくて、住民の窮乏を救うためには300万クォーターの小麦が外国から輸入されねばならぬとしたならば、これがために国民の資本はそれだけ犠牲とされねばならぬであろう。その資本が商品として送られるか、それとも正金として送られるか、ということは、何ら取引の本質に影響しないところである。穀物は等価物と交換することによってのみこれを獲得しうる、したがってこの等価物は、その形態の如何に関わらず、その国の冨から消え去るのである。〉(フラートン『通貨調節論』改造選書161-2頁)
【33】 (これは332頁下段の最初に書かれており、原注である)
 この原注は、注解によれば、マルクスのいわゆる「ロンドン・ノート,1850-1853」からとられた「商業的窮境--にかんする秘密委員会第一次報告書』からの抜粋である。この抜粋は現行版の第26章の最初のあたりに紹介されているが、ほぼ同じ内容である。回答者(--以下の部分)はモリスだが、質問者はロード・G・ペンティンクと説明されている。「商業的窮境……委員会」というのは次のようなものである。1844年にピール銀行法が制定されて以後、最初の恐慌であった1847年恐慌では、ピール銀行法の停止を余儀なくされた。そのために恐慌終了後同年末に「最近の商業的窮境の原因ならびにこの窮境はどの程度に要求払の銀行券の発行を規制している法律(ピール条例)によって影響を受けたか、について調査するために」委員会をイギリス議会上下両院に設けることになったのである。この委員会では多くの関係者を諮問し、その報告書が出された。マルクスは下院の報告書からその抜き書きを作成しているのだという。
 さて本文だが、書き直しようがないので、そのままここに書き写しておこう。
 〈【原注】|332下|a) 商業的窮境1847-48年。もっともこの場合、イングランド銀行の糞ひり主義は、同行が1847年にも1857年にも恐慌の結果すばらしい商売をして、その配当が1847年には9%以上、1858年には11%以上に増大した、ということによって、いささか和らげられたのである。【原注終わり】|〉

 要するにイングランド銀行は1847年の恐慌のどさくさに紛れて高い利率で銀行券による貸出をやることによって大儲けをやったということである。それをマルクスは〈糞ひり主義〉とどぎつく表現し、それによって恐慌の犠牲が〈いささか和らげられた〉と強烈な皮肉を飛ばしているのである。一般にピール銀行条例は、恐慌時に高くなる利子率をさらに引き上げることによって、大儲けをする銀行業者の利害にかなったものであったとされている。それをマルクスは皮肉を込めて暴露しているのである。

 もっともここでマルクスが指摘しているのは〈イングランド銀行〉であり、その〈糞ひり主義〉である。われわれの常識からするとイングランド銀行は中央銀行だから、それが他の一般的な市中銀行と同じように儲け主義に走るというのは奇妙に思えるかもしれない。しかし、以前にも説明したが、ピール銀行条例ではイングランド銀行は銀行部と発券部に分けられ、銀行部は他の一般の銀行と同じものとされたのである。だからイングランド銀行の銀行部は一般の銀行と競って手形の割引などに応じたのであり、それで一儲けを企んだのである。1866年5月の金融危機で政府は三度目のピール銀行条例の停止を余儀なくされたが(最初は1847年恐慌時、二回目は1857年恐慌時)、1878年にはついに「バンク・レートは常に市場利子率よりも高く設定し、マネーマーケットで最後の貸手として行動する」という原理を公表した。つまりここに至って、ようやく現代の中央銀行の原型ともいえるものが誕生したと指摘されている。このようにイングランド銀行が中央銀行として明確にその行動をとるようになるのは19世紀も後半になってからなのである。だから1847-48年の商業的窮境時においては、イングランド銀行も他の一般の銀行を相手に手形割引競争を行い、その貸し付けを増大させて一儲けを企んだのである。

【34】
 (332頁上段の途中にあり、これは直接【31】に続いている本文である。しかし全体が括弧に入っており、挿入文になっている。これは地金流出問題とは関連はあるが、しかし当面の問題とは直接関連していないのでこうした形になっていると考えられる。)
 〈/332上/{トゥックの発見,すなわち,「ただlつか2つの,しかも十分に説明のできる例外を除けば,過去半[514]世紀聞に起こった,金の流出を伴う為替相場の異常な低落は,すべて,いつでも流通媒介物の比較的低い状態といっしょに起こっており,また逆の場合には逆であった」(フラ一トン,121ページ)--ということは,次のことを証明している。すなわち,この流出のが現われるのは,たいていは,「すでに始まっている崩壊の信号」として,市場の在庫過剰や,われわれの生産物にたいする外国の需要の途絶や,還流の遅れや,またこれらのすべてのことの必然的な結果としての商業上の不信や,工場の閉鎖や,労働者の飢餓や,産業と事業との一般的な停滞やの徴侯 」(フラ一トン,129ページ)として現われるのだ,ということである。〔これは〕もちろん同時に,「潤沢なCirculation」は地金を追い出し,低位のCirculationは地金を引き寄せる,という通貨説の奴ら〔d.currency Kerls〕にたいする最良の反駁〔である〕。しかしわれわれにとってとくに注目すべきであるのは,地金流入のことを考えるからである。彼らのの主張とは反対に,潤沢な地金準備はたいてい繁栄期にじっさいにみられるものだとはいえ,この蓄蔵貨幣はつねに,嵐〔Sturm〕のあとにくる沈静停滞期に形成されるのである。}

 ① 〔注解〕この引用での強調はマルクスによるもの。
  ② 〔注解〕この引用での強調はマルクスによるもの。

 このパラグラフはほぼフラートンの著書からの引用文で構成されている。そして最後にマルクス自身のコメントが付け加えられているだけである。だから平易な書き下し文は不要であろう。その代わりというわけではないが、少し解説しておこう。

 まず最初の方のフラートンの引用は、通貨学派が兌換銀行券が過剰に発行されると主張し、その過剰発行が物価を押し上げ、地金の流出をもたらすとしたのに対して、フラートンが「しかしながら私は、兌換券の流通高が物価を高騰させるほど過剰の状態を続けることが、そもそもありうるとなすような想像を峻拒するために、すでに述べた諸理由を持って十分であると確信する」と述べ、以下、マルクスが引用している文章に続けているのである。
 つまりトゥックの発見によれば、金の流出をともなう為替相場の異常な低落は、いつも流通媒介物、つまり流通銀行券の比較的低い状態と一緒に起こっており、逆の場合は逆であったというのである。だから地金の流出は銀行券の過剰発行から生じるなどという通貨学派の主張はそもそも事実で持って反論されているのだ、というのである。
 これについては、マルクスも確かにこれは「最良の反駁」だと認めている。そしてまた、地金流出が恐慌の前触れであるとのフラートンの指摘も正しいものとして評価している。このフラートンの一文は次のようになっている。
 〈事実はただ、為替相場の引き上げと金の流入とを誘致する諸事情は同時にまた一般に国内産業の活況、生産消費の好調、しかしてまた貨幣の使用と需要との昂進に必須なあらゆる条件の存在を示すものである、というだけのことである。他方、商業的興奮と投機との時期に続いて為替相場の低落と金の流出とが起こったならば、これら現象の出現は、一般に、すでに始まった景気崩壊の信号である。すなわち、市場の在荷過剰、自国商品に対する外需の中絶、資金回収の遅滞、そしてこれら一切の必然的継続としての商業的不信、--工場は閉鎖され、職工は飢餓に脅かされ、産業と企業心とは一般的に萎縮沈滞する、等々、--を暗示するものである。〉(前掲159-60頁)
 同時に、マルクスは〈とくに注目すべきであるのは、地金流入のことを考えるからである〉と述べ、それはフラートンのいうように繁栄期に実際に見られるものだが、この蓄蔵貨幣はつねに恐慌後の沈滞停滞期に形成されるのだとも指摘している。
 ただ若干補足しておくと、マルクスはエンゲルス版の第35章に相当する草稿で、〈地金の流出入については次のことに注意しなければならない〉と断って、〈第1に〉から〈第9に〉まで箇条書きで関連するさまざまなことを述べている(大谷論文「『貴金属と為替相場』(『資本論』第3部第35章)の草稿について」の下の100頁以下参照)。そこでは次のようなことが指摘されている。

 すなわち、この第28章ではフラートンの地金流出は恐慌の前触れとの指摘についてマルクスは高く評価しているのだが、しかし第35章では〈第6に、たとえば1837年の恐慌は別として、現実の恐慌はいつでも、為替相場の逆転の後に、すなわち地金の輸入がふたたび輸出よりも優勢になったときに、はじめて勃発した〉とも指摘している。例えば〈1847年4月の独立の貨幣パニックをもたらした〉のも〈地金の流出〉なのだが、しかしこの場合も地金流出は〈やはり恐慌の前触れに過ぎず、恐慌が勃発するときには逆転していた〉というのである(大谷上記論文106-7頁)。

 これは考えてみれば、ある意味では当然であろう。なぜなら地金の流出が続いている間は、まだ国際的な支払が行われているということであり、その限りではいまだ完全には行き詰まってはいないことを意味するが、しかし流出より流入が増えるということは、もはや支払手段の貸付が困難になったということ、国際的な支払手段が底をついたということであり、もはや後は破産しか残っていないという状況を示すわけだからである。そして事ここに至った段階では誰もがただの紙切れになりかねない債権類をもっとも安全な貴金属(あるいはイングランド銀行券)に換えて、その退蔵に走るのであり、だからパニックの直前には地金の輸入が輸出より優勢になるわけである(だからまたそれに続く沈滞期には蓄蔵貨幣が形成されるのである)。よって地金の流出は、あくまでも恐慌の前触れであって、恐慌が勃発するときには反対にそれが逆転して流入の方が優勢になっているのだということである。
 また恐慌後の地金流入については次のように述べている。少し長いが紹介しておこう。
 〈第7に、一般的な恐慌が燃え尽きてしまえば、地金はふたたび(産出諸国からの追加の地金の流入は別として)、各国それぞれの蓄蔵として均衡状態で存在していたときの割合で配分される。ほかの事情が変わらない限り、それぞれの国にある地金の相対的な量は、その国が世界市場で果たす役割によって規定されているであろう。地金は、通常よりも大きな分け前を持っていた国から流れ出て、他方の国に流れ込むのであって、このような流出入の運動は、ただ、いろいろな国々の蓄蔵の間への地金のもとの配分を回復するだけである(この再配分はさまざまな作用によって媒介されるのではあるが、このことについてはすでに為替相場の逆転のところで言及した)。通常の配分が回復されれば、--この点を超えて--増大が現れ、次にはふたたび流出が現れる〉(大谷論文107-8頁)

 〈地金の輸入の運動はおもに二つの時期に現れる。第1に、恐慌の後に生じて生産の縮小の表現である低利子率の局面においてであり、第2に、利子率は上がってくるがまだそれの中位の高さには達していない局面においてである。後者は、還流は円滑で商業信用は大きく、だからまた貨幣資本(moneyed Capital)に対する需要は生産の拡大に比例しては増大しないという局面である。貨幣資本(moneyed Capital)が比較的豊富なこの二つの局面では、さしあたりは貨幣資本(moneyed Capital)としてしか機能できない形態で存在する資本(金銀)の過剰供給は、利子率に、したがってまた事業全体の調子にも大きく影響せざるをえないのである〉(同上111-2頁)
 (以下、続く)

2015年8月 4日 (火)

林理論批判(12)

 〈『プロメテウス』第55・56合併号の批判的検討ノートNo.3〉

「科学的社会主義の真髄し今明らかに--労働者に身近な「社会主義における『分配』と『消費』の問題」(林紘義)の批判(続き)

●〈問題になったのは、社会主義における「分配」である、というのは、社会主義で問題になる「分配」は、消費に関してのみであって、生産においては、生産手段は私的に、資本として存在しておらず、したがつてまたその「分配」といったことは全く問題にならないからである(配置とか、配分とかはあり得るだろうが)。社会主義における、特有の分配のこれは資本の支配を一掃した後に、労働者の課題としてたちまち実践的な課題として現われて来るのである。我々が提出した図表(本書38頁参照)は、この課題の解決のためのものであった。〉

 もちろん「分配」であろうが、「配置」「配分」であろうが、言葉は違うが社会主義では同じことを意味する。問題は、生産手段の分配を問うということは、生産の様式を問うということであり、だからこそ生産の分配こそが消費手段の分配を規定するのだ、ということを、果たして林氏は理解しているかどうかであろう。これについては、マルクス自身の言葉として何度も紹介したが、もう一度、確認のために紹介しておこう。

 〈最も浅薄な見解では、分配は生産物の分配として現われ、したがって生産から遠く離れたもの、生産にたいしてまるで独立しているようなものとして現われる(つまり林氏のように!--引用者)。しかし、分配は、それが生産物の分配であるまえに、(1)生産用具の分配であり、(2)同じ関係のいっそう進んだ規定ではあるが、いろいろな種類の生産への社会成員の分配である。(一定の生産関係のもとへの個人の包摂。)生産物の分配は、明らかに、ただ、このような、生産過程そのもののなかにふくまれていて生産の編制を規定している分配の結果でしかない。このような生産にふくまれている分配を無視して生産を考察することは明らかに空虚な抽象であるが、他方、逆に、生産物の分配は、このような最初から生産の一契機をなしている分配とともにおのずからあたえられているのである。
……(中略)……
 このような、生産そのものを規定する分配が生産にたいしてどんな関係をもつかは、明らかに、生産そのもののなかにある問題である。すくなくとも生産が生産用具のある一定の分配から出発しなければならないかぎりでは、この意味での分配は生産に先行し生産の前提をなしていると言うならば、これにたいしては、たしかに生産にはその条件と前提とがあるが、これらの条件や前提は生産そのものの契機をなしているのだと答えなければならない。この条件や前提は最初は天然のものとして現われるかもしれない。生産過程そのものによってそれらは天然のものから歴史的なものに転化される。そして、ある時代にとってはそれらが生産の自然的前提として現われるとすれば、別のある時代にとってはそれらは生産の歴史的結果だったのである。生産そのもののなかでそれらは絶えず変化させられる。たとえば機械の応用は諸生産用具の分配も生産物の分配も変化させた。近代的大土地所有は、それ自身、近代商業と近代工業との結果でもあれば、農業への近代工業の応用の結果でもある。
 これまでに提出された問題は、すべて結局は次のような問題に帰着する。すなわち、一般的歴史的諸関係は生産のなかにはいってどのような作用を及ぼすか、また、歴史的運動一般にたいする生産の関係はどうか、という問題である。問題は、明らかに、生産そのものの論究と説明とに属する。〉(全集13巻623-4頁)

 〈たしかに、資本は(また資本が自分の対立物として含んでいる土地所有は)それ自身すでにある分配を前堤している、と言うことはできる。すなわち、労働者からの労働条件の収奪、少数の個人の手のなかでのこれらの条件の集積、他の諸個人のための土地の排他的所有、要するに本源的蓄積に関する章(第一部第二四章)で展開された諸関係のすべてを前提していると言うことができる。しかし、このような分配は、人々が生産関係に対立させて分配関係に一つの歴史的な性格を与えようとする場合に考えている分配関係とはまったく違うものである。あとのほうの分配関係は、生産物のうちの個人的消費にはいる部分にたいするいろいろな権利を意味している。これに反して、前のほうの分配関係は、生産関係そのもののなかで直接生産者に対立して生産関係の特定の当事者たちに割り当たる特殊な社会的機能の基礎である。この分配関係は、生産条件そのものにもその代表者たちにも特殊な社会的性質を与える。それは生産の全性格と全運動とを規定するのである。〉(全集25b1123-4頁)

 〈だから、いわゆる分配関係は、生産過程の、そして人間が彼らの人間的生活の再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独自に社会的な諸形態に対応するのであり、またこの諸形態から生ずるのである。この分配関係の歴史的な性格は生産関係の歴史的な性格であって、分配関係はただ生産関係の一面を表わしているだけである。〉(同1128頁)

 〈私が、一方では「労働の全収益」に、他方では「平等な権利」と「公正な分配」とにやや詳しく立ちいったのは、一方では、ある時期には多少の意味をもっていたがいまではもう時代おくれの駄弁になっている観念を、わが党にふたたび教条として押しつけようとすることが、また他方では、非常な努力でわが党にうえつけられ、いまでは党内に根をおろしている現実主義的見解を、民主主義者やフランス社会主義者のお得意の、権利やなにやらにかんする観念的なおしゃべりでふたたび歪曲することが、どんなにひどい罪悪をおかすことであるかを示すためである。
 以上に述べたことは別としても、いわゆる分配のことで大さわぎをしてそれに主要な力点をおいたのは、全体として誤りであった。
 いつの時代にも消費手段の分配は、生産諸条件そのものの分配の結果にすぎない。しかし、生産諸条件の分配は、生産様式そのものの一特徴である。たとえば資本主義的生産様式は、物的生産諸条件が資本所有と土地所有というかたちで働かない者のあいだに分配されていて、これにたいして大衆はたんに人的生産条件すなわち労働力の所有者にすぎない、ということを土台にしている。生産の諸要素がこのように分配されておれば、今日のような消費手段の分配がおのずから生じる。物的生産諸条件が労働者自身の協同的所有であるなら、同じように、今日とは違った消費手段の分配が生じる。俗流社会主義はブルジョア経済学者から(そして民主主義者の一部がついで俗流社会主義から)、分配を生産様式から独立したものとして考察し、また扱い、したがって社会主義を主として分配を中心とするものであるように説明するやり方を、受けついでいる。真実の関係がとっくの昔に明らかにされているのに、なぜ逆もどりするのか?〉(同21-22頁)

 このようにマルクスは、個人的消費手段の分配の前に、まず生産諸条件、すなわち生産手段や労働力の分配(配分)が問われなければならないこと、そしてそれは生産の様式を問うことなのだ、だから分配関係は生産関係の一面を表しているに過ぎないと指摘している。これらはあらゆる歴史的な社会に共通の関係として論じられており、だから社会主義でもまったく同じことが言えるのである。林氏だけが〈社会主義で問題になる「分配」は、消費に関してのみであって、生産においては、生産手段……の「分配」といったことは全く問題にならない〉などと考えることが出来るのである。しかし、それは林氏の勝手な夢想以上ではない。林氏は社会主義では生産手段の分配が問題にならない理由として〈生産においては、生産手段は私的に、資本として存在して〉いないからだとしている。しかし、林氏は他方で、社会主義でも生産手段の〈配置とか、配分とかはあり得る〉ことは認めるのである。しかし、そうであるなら、まさに生産手段の、あるいはそれに対応した労働力の〈配置とか、配分〉も、〈社会主義における、……労働者の課題としてたちまち実践的な課題として現われて来る〉のではないのか。どうして林氏はそれを問題にしないのか、問題にする必要がないとどうして言えるのであろうか。それはまさにマルクスが生産手段や労働力の分配(配分)として述べていることではないのか。そうであるなら、社会主義においても、まず問われるのは、生産における生産手段や労働力の分配(配分)であり、個人的消費手段の分配はその一側面、あるいはその一結果でしかないと言えるのではないのか。
 社会主義においては、個人的消費手段の分配だけが問われるという林氏の主張は、マルクスがいうところの〈最も浅薄な見解〉であり、〈俗流社会主義〉そのものではないだろうか。

●〈我々が提起した図表は、社会主義における「価値規定のよる分配」が、つまり労働者への労働時間に基づく分配がいかにして、いかなる概念もしくは「法則」によって行われるかを明らかにすることを課題にしているのであって、それは、マルクスのいわゆる「再生産表式」が課題とすることとは全く別である。〉

 ここからは〈本書38頁〉に掲げられている〈図表〉が参考に上げられ、それにもとづいた主張が展開されている。この図表そのものは報告を議論するときに、詳しく批判的に検討することにしたいと考えている。だからここでは林氏が問題にしている主張を批判するに必要な限りで、われわれも図表について論じることにしたい。

 まずここでは、林氏は、自分が提示している図表は、マルクスの再生産表式とは、その〈課題とすることとは全く別〉だと述べている。しかし、林氏はこの図表を説明している報告書のなかでは、次のように述べている。

 〈それはマルクスのいわゆる「再生産表式」を改作し、モデファイしたものだが、それはむしろ総生産過程あるいはその直接の結果の図式である。ここでも階級関係は捨象され、また価値の形態も事実上捨象されている(もちろん、価値規定は残っているが、それは価値形態を捨象することとは少しも矛盾しない、むしろ反対に、労働者たちの関係は直接に労働時間とその交換の関係として表示されている)。〉(37-8頁)

 このようにここでは、自分の図表がマルクスの再生産表式を改作したものだと述べている。また〈それはむしろ総生産過程あるいはその直接の結果の図式である〉とも述べている。しかし、これは林氏がマルクスの再生産表式を正しく理解していないから、このように述べているのである。林氏は、以前、すでに見たように、マルクスの再生産表式そのものを否定し、そこに流通過程しか見なかったから、だからここでは、そうした彼自身が理解するマルクスの再生産表式、つまり流通過程だけを表しているというものに対して、自身の図式は、〈総生産過程あるいはその直接の結果の図式〉なのだと言っているわけである。しかし、マルクスの再生産表式に対する林氏の理解はそもそも間違っているのである。それは社会の総商品資本を、二部門にわけて、価値構成によってその機能配置を示したものであるが、これもすでに述べたことだが、それらはこれからW’-G’-W…P…W’という商品資本の循環を開始するものとして前提されている。だから表式に表されているW’とは前年度の〈総再生産過程……の直接の結果〉なのである。だから林氏が自身の図表をそのように説明していることは、結局は、マルクスの再生産表式を真似ている(下手くそに)ということを自ら述べているに等しいのである。
 またここでは〈労働者たちの関係は直接に労働時間とその交換の関係として表示されている〉とも述べている。しかし社会主義において、労働者が彼らの労働時間を「交換」するという理解を、林氏が否定しいてたことを、ついさっきわれわれは見てきたばかりである。林氏は、次のように述べていたのである。

 〈労働者(生産者)が、それぞれの「労働時間を交換する」ということなど全く不可能であって、こんな主張を持ち出した人は、ブルジョア社会を克服したのちの社会について語っていたのではないことは明らかであった。〉(7頁)

 これでは、まさに自ら天に向かって唾を吐くに等しいであろう。〈全く不可能〉なことと主張しながら、それを自分の図表では〈表示されている〉と説明して、何の矛盾もないと考えている神経が分からない。これでは自分の図表は〈ブルジョア社会を克服したのちの社会について語っていたのではないことは明らか〉なものと認めているようなものではないか。とにかく支離滅裂な文章は、最近の林氏のひとつの特徴になっているのである。

●〈問題は第二部門つまり消費財部門であり、それもまた生産過程の結果として提示されている。例として取り上げられている自動車は、生産手段(機械によって代表されられている)と原料(鉄鋼によって代表させられている)から生産されているが、問題はこの自動車の生産に、全体として、どれだけの労働日が必要であったか、ということである。
 第二部門で自動車の生産のために支出された労働日は、簡単に確認することができる。問題は自動車の生産のために必要な鉄鋼と機械のための労働(日) であって、それがいくらであるかが明らかにされなければ、自動車の生産に必要な総労働日を確定することができない。そして機械と鉄鋼の生産に必要な労働者日は、それらが生産された部門、つまり第一部門においてのみ明らかにされ得るのである。そしてこの過程(論理) は機械も鉄鋼も基本的には同じであり、したがって鉄鋼で明らかにされたことは同様に機械においても適用され得るのである。したがって我々は鉄鋼だけを取り上げて論じたのである。〉(9-10頁)

 林氏は自分の図表を説明して〈それはむしろ総生産過程あるいはその直接の結果の図式である〉と説明していた。とするなら、社会の総生産過程の直接の結果であるから、つまり社会の生産過程が生み出した総生産物をそれらが象徴しているとするなら、少なくともそれは、物質的には三つの区別されるものからなっていなければならない。一つは個人的消費手段であり、もう一つは個人的消費手段を生産するために必要な生産手段であり、さらにはその個人的消費手段のための生産手段を生産するに必要な生産手段である。ところが、林氏の図表では生産手段とされる機械も鉄鋼も、いずれも自動車(個人的消費手段)を生産するための生産手段とされているだけであり、最後の生産手段を生産するための生産手段が欠けているのである。だからそれは社会の〈総生産過程あるいはその直接の結果〉を象徴させた図式とは言えないのである。

 (ところでこれはついでに述べておくのだが、林氏は機械を「生産手段」とし、鉄鋼を「原料」などとしているが、基本的なカテゴリーが誤っている。なぜなら、原料も生産手段だからである。マルクスの説明を紹介しておこう。

 〈要するに、労働過程では人間の活動が労働手段を使って一つの前もって企図された労働対象の変化をひき起こすのである。この過程は生産物では消えている。その生産物はある使用価値であり、形態変化によって人間の欲望に適合するようにされた自然素材である。労働はその対象と結びつけられた。労働は対象化されており、対象は労働を加えられている。労働者の側に不静止の形態で現われたものが、今では静止した性質として、存在の形態で、生産物の側に現われる。労働者は紡いだのであり、生産物は紡がれたものである。
 その全過程をその結果である生産物の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現われ、労働そのものは生産的労働として現われる。〉(23a237-8頁)

 つまり生産手段というのは、労働手段(機械等)と労働対象(原料=鉄鋼)の両方を含んだものをいうのである。だから林氏は生産手段=労働手段と思い込んでいるわけである。もちろん、林氏は「マルクス絶対主義者」ではないのだから、マルクスがどう言っていようが、そんなことにはお構いなしなのであり、もしマルクスが林氏の主張と違うことを言っているなら、それはマルクスの方がおかしいのではあるが……。)

●〈我々が、マルクスのいわゆる「再生産表式」、つまり二部門の分割という概念から出発するとしても、それはマルクスの問題意識とは別であるだけではない、第一部門の生産手段が第二部門の消費手段と「交換」されるとか、第二部門の生産に「用いられ」たり、「移行した」り、「入り込んだ」りするといったこととは何の関係もないのである。第二部門における、自動車の生産ために用いられる鉄鋼とか、機械とかはただ一定の「生きた」労働(「現在完了の」労働)の継続時間を代表するものとしてのみ問題とされ、考察の対象となっているのであって、ただそれらは一定の労働時間を表すものとしてのみ、第二部門では存在するのである。ここでは"物神崇拝的な"外皮は、つまり資本の流通というマルクスの表式の内容は完全に捨象されているのである。
 マルクスにあっては、二部門分割は、生産過程の前提として必然である資本の流通過程、すなわち二部門間の価値と使用価値の交換、相互補填を明らかにするために必然的であったが、我々の社会主義における分配問題の解決のためには、第一部門は、ただ第二部門の消費手段の生産の必要な総労働時間--自動車なら自動車を生産するための総労働時間--を規定するために、つまり第二部門における、自動車の生産のための鉄鋼とか機械を労働時間に還元するためにのみ、意義が与えられているのであって、マルクスの表式と我々の図表の区別は決定的であり、明瞭である。〉

 林氏は、マルクスの「再生産表式」について、ほとんど理解していないというか、誤解している。確かにマルクスの表式は、社会の総商品資本の価値構成による配置を表しており、その限りでは資本主義的な総再生産過程を表すものである。しかし、それは林氏が誤解するように〈資本の流通〉を表すだけではない。何度も言ってきたが、それは商品資本の循環(W’-G’-W…P…W’)として社会の総再生産過程を考察しようとするものである。だから当然、そこには〈資本の流通〉、すなわちW’-G’-Wを含んでいるが、それだけではなく資本の生産過程、W…P…W’も含まれているのである。そしてそれは総再生産過程だからそれが年次を変えて繰り返すと前提されている。だからマルクスは拡大再生産の考察では、年次を繰り返して計算しているのである。
 また資本主義的な諸形態を〈"物神崇拝的な"外皮〉とするのは必ずしも正確ではない。なぜなら、マルクスのカテゴリーは決して、物神崇拝に囚われた概念として提示されているわけではないからである。反対に、マルクスはブルジョア達が日常的に使っている用語を利用しているときでさえ、それらの科学的な内容を厳密に規定し直して、マルクス自身の用語として使っている場合が多く、ましてやマルクス自身が独自に作り出した用語においては何をかいわんやである。だからそれらを〈"物神崇拝的な"外皮〉などというのは正しくないのである。例えば「不変資本」、「可変資本」、「剰余価値」というカテゴリーは、果たして物神崇拝に囚われた用語だと林氏はいうのであろうか。あるいは「貨幣資本」、「商品資本」、「生産資本」等々はどうか。これらも物神崇拝に囚われた用語なのか。決して、そうではない。前者はマルクス自身が作り出した用語であり、後者はブルジョア達によっても使われていた用語である。しかし、これらはすべてマルクスによって科学的に厳密に対象を反映した用語として用いられているのである。

 林氏が、自分の図式とマルクスの表式との違いを述べていることについては、まあ、ここでは批判は置いておこう。違うというのなら、確かに違うわけであるから、違いはないなどという批判は出来ないからである。
 林氏にとっては、とにかく消費手段の分配だけが問題なのであり、だから消費手段にどれだけの労働が費やされているのかを知ることだけが必要なのである。しかし、彼は、消費手段に費やされた労働時間を直接知りたいなら、そのためには社会の総生産における労働が直接社会化されたものとして前提されなければならないこと、だからそうした社会の総生産過程がどのように社会的に計画的に行われるかを知らないと、消費手段に支出された労働時間も、社会は直接知ることが出来ないことを知らない。ただ消費手段に支出された労働時間を直接知ればよい、ということではない。そのためには、すべての社会の生産物がそれらに支出された労働時間によって直接計られる必要があり、そのためには、社会は、すべての労働を計画的に社会的に配分して社会の総生産過程を意識的に行う必要があるのである。だから、消費手段だけを問題にする点で、自分の図式はマルクスの表式とは違うのだなどと偉そうに言っている林氏は、自身の馬鹿さ加減を自慢しているようなものである。

●〈なぜ社会主義の分配の法則を明らかにするために、マルクスのいわゆる「資本の再生産表式」(商品資本の流通過程表式)が必要だったのか、そんな形式が不可欠だったのかと問う人もいた。それには色々な契機があるだろうが、一つ言えるのは、我々は人類にとって、一つの現実的で、必然的な歴史的社会としての社会主義の分配法則を検討しているのであって、それは資本主義の分配や生産の現実や"法則" の止揚によって勝ち取られるものであり、資本主義の社会関係を無視したり、単純に廃棄するところから生まれて来るものではないということである。我々はある意味で、資本主義の生産関係や分配関係に中に、社会主義の分配の法則を"探った"のであり、またそれ以外のやり方はなかったのである。〉

 林氏はここでは、〈マルクスのいわゆる「資本の再生産表式」〉を言い替えて〈商品資本の流通過程表式〉と述べている。つまりそれをW’-G’-Wの過程を表すだけの表式だと理解しているわけである。しかし、これはそもそもマルクスの表式をまったく理解していないことを意味しているのである。
 資本主義的な分配は資本主義的な生産の様式から必然的に出てくるものであり、だからこそ、社会主義の分配を知りたいなら、社会主義に固有の生産の様式をまず理解する必要があるという認識が林氏にはない。マルクス主義者なら常識の類に属するこうした基本的な認識さえ林氏に欠けていることは驚きではないか。
 〈我々はある意味で、資本主義の生産関係や分配関係に中に、社会主義の分配の法則を"探った"のであり、またそれ以外のやり方はなかったのである〉とも述べているが、果たしてその意味を正しく理解してこのように述べているのか疑問である。マルクスは『資本論』では、常に資本主義的な生産関係の中に一般的な契機や法則を明らかにし、資本主義的生産に固有の形態規定性を暴露するという形で論じている。いくつかの例を見てみよう。

 〈使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。れわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている--交換価値の。〉(49頁)

 〈それゆえ、労働は、使用価値の形成者としては、有用労働としては、人間の、すべての社会形態から独立した存在条件であり、人間と自然とのあいだの物質代謝を、したがって人間の生活を媒介するための、永遠の自然必然性である。〉(58頁)

 〈社会的生活過程の、すなわち物質的生産過程の姿は、それが自由に社会化された人間の所産として人間の意識的計画的な制御のもとにおかれたとき、はじめてその神秘のヴェールを脱ぎ捨てるのである。しかし、そのためには、社会の物質的基礎または一連の物質的存在条件が必要であり、この条件そのものがまた一つの長い苦悩にみちた発展史の自然発生的な所産なのである。〉(106頁)

 〈使用価値または財貨の生産は、それが資本家のために資本家の監督のもとで行なわれることによっては、その一般的な性質を変えるものではない。それゆえ、労働過程はまず第一にどんな特定の社会的形態にもかかわりなく考察されなけれぽならないのである。〉(233頁)

 だからわれわれが社会主義の総再生産過程を理解するためには(よって林氏が拘っている消費手段の分配を理解するためにも)、マルクスの再生産表式を基礎にして理解するべきだというのは、それが資本主義的な総再生産過程を解明するものであると当時に、そこに貫いている社会の再生産過程の一般的契機をもベースとして論じられているからであり、だから資本主義に固有の形態規定性をそこから取り除けば、それは将来の社会の総再生産過程を表す表式として理解することができると考えるからである。そして実際、それがどのようにして社会主義における再生産過程を表すかについては、すでに別個に論じたので、ここでそれをもう一度紹介する愚は避けることにする。

●〈我々の課題とした問題を矮小に理解した人々も、いないこともなかった、つまり「労働時間による分配」という課題を、搾取の廃絶の問題を論じていると勘違いした人もいたのであつた。つまり資本のもとでは、労働者は8時間労働しても4時間を資本に搾取されるが、社会主義では8時間の労働すべてが労働者のための、自分のための労働として現われる、そのことが「社会主義における労働時間による分配」のことだと誤解したのだが、そんな人の議論がまるでかみあわない、ピントはずれのものになったのは一つの必然であった。しかし議論の中で、そうした"組合主義的"卑小さは断固として否定されたのであった。そんな人の見解はいわば、ラッサールの「労働の収益の公平な分配」のたぐいであって、彼は我々が問題にした重要な課題に全く無自覚であることを暴露したと言えよう。ラッサールが、当時のドイツの卑俗な組合主義の代表として現われ、マルクスの批判を浴びるような「労働の全収益」論を持ち出したのは、決して偶然ではないのだ。〉

 私はセミナーに参加していないから分からないが、果たしてこのような主張をする人があったのであろうか。確かにマルクスは『ゴータ綱領批判』のなかでラッサールの〈「労働の全収益」論〉を批判しているが、林氏は果たしてその内容を吟味したことがあるのであろうか。マルクスは次のように批判している。

 〈 「労働収益」とはなにか? 労働生産物のことか、それともその価値のことか? そして、後者であるとすれば、生産物の総価値のことか、それとも消費された生産手段の価値に労働が新たに付加した価値部分だけのことか?
 「労働収益」とは、ラサールがはっきりした経済学上の概念のかわりにつかった漠然たる 観念である。〉(全集19巻18頁)
 〈だが、「社会の全員」とか「平等な権利」とかいうのは、明らかにことばのあやでしかない。核心は、この共産主義社会では、各労働者が、彼のラサール式「労働の全収益」
を受け取らなければならない、という点にある。
  まずこの「労働収益」ということばを、労働生産物という意味にとろう。そうすれば、協同組合的な労働収益とは社会的総生産物である。
 ところで、この社会的総生産物からは、次のものが控除されなければならない。
  第一に、消耗された生産手段を置きかえるための補填分。
  第二に、生産を拡張するための追加部分。
  第三に、事故や天災による障害にそなえる予備積立または保険積立。
 「労働の全収益」中からこれらのものを控除することは経済上の必要であって、この控除の大きさは、もちあわせている手段と力とにおうじて、また一部は確率計算によって決定されるべきものであるが、けっして正義によって算定できるものではない。
 総生産物の残りの部分は、消費手段としての使用にあてられる。
 だが、各個人に分配されるまえに、このなかからまた、次のものが控除される。
  第一に直接に生産に属さない一般管理費
  この部分は最初から、今日の社会にくらぺればきわめてひどく縮小され、そして新社会が発展するにつれてますます減少する。
  第二に、学校や衛生設備等々のようないろんな欲求を共同でみたすためにあてる部分
 この部分は最初から、今日の社会にくらべてひどくふえ、そして新社会が発展するにつれてますますふえる。
  第三に労働不能者等のための元本。つまり、今日のいわゆる公共の貧民救済費にあたる元本。
  ラサールの影響で、綱領は偏狭にも「分配」だけしか眼中においていないが、ここではじめてこの「分配」、すなわち協同組合の個々の生産老のあいだに分配される消費手段の部分に達する。
  私的個人としての生産者から失われるものは、社会の一員としての彼に、直接間接、役だつのではあるが、「労働の全収益」は、すでにこっそりと「削減された収益」に変
わっている。
  「労働の全収益」という文句が消えうせたように、いまや全体として「労働収益」という文句が消えうせる。
  生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では、生産者はその生産物を交換しない。同様にここでは、生産物に支出された労働がこの生産物の価値として、すなわちその生産物にそなわった物的特性として現われることもない。なぜなら、いまでは資本主義社会とは違って、個々の労働は、もはや間接にではなく直接に総労働の構成部分と
して存在しているからである。「労働収益」ということばは、今日でも意味があいまいだからしりぞけるべきものだが、こうしてまったくその意味を失ってしまう。〉(前掲18-19頁)

 このマルクスのラサール批判を読めば、ここで批判されている〈「分配」だけしか眼中においていない〉というのは林氏自身のことであり、だから〈ラサールの影響〉を受けうけているのは、実は、林氏その人であることが分かるであろう。
 マルクスの、ラサールの「労働の全収益」の公平な分配に対する批判点は、まずその概念のあいまいさ、次に全収益を社会的総生産物と理解するなら、そこから社会は必要なものを控除した上で、個人への分配が初めて問題になるという点である。
 しかしそもそも林氏の〈社会主義における「価値規定」による分配〉論に、こうした社会的な控除の必要などという観点が果たしてあったであろうか。何もない。その林氏が、誰が言ったのかは知らないが、その主張をラサールの「労働の全収益」論だなどと批判する資格が果たしてあるのかどうか、少し考えて見れば明らかである。

●〈また、第一部門と第二部門の労働者は1000と2000、合計では3000であり、二つの部門の労働者がそれぞれ6000の生産手段と3000の消費手段を生産する、そして労働者は生産手段を消費するわけはなく(そんなことはできるはずもない)、ただ消費手段を費消するだけだから、3000の労働者が3000の消費手段を分配し、費消するといえば済むという簡単なことにすぎない、それなのに、何でこんな七面倒臭い議論をあれこれ持ち出す必要があるのか、といった"迷論"も持ち出されたが、しかし3000の人々が3000を分配するという、その3000とは何なのかを説明することはできなかった。使用価値が3000だなどというのは意味のないことだから(千差万別の無数の使用価値を一つの共通物に還元して、合計3000だなどと言うことは決してできないから)、この3000は労働者(労働)だということになるしかなく、したがってこうした見解は、3000の労働者(労働もしくは労働時間)は3000の労働者(労働時間)である(3000とは3000である)、というナンセンスな同義反復に、何の意味もない空虚な妄言に帰着するしかなかったのである。〉

これも具体的に誰が主張したのか分からないが、確かに林氏のような〈七面倒臭い議論をあれこれ持ち出す必要が〉ない、と主張する点では共感するところがある。3000の労働時間を支出した労働者が、3000の労働時間が対象化されている消費手段を、それぞれ社会の保管庫から引き出して、消費すると言えば、社会主義の消費を説明するという限りでは、それで十分なのである。自動車や鉄鋼など面倒なものを持ち出して、ごちゃごちゃ論じる意味はないのだ。林氏の議論は、その意味ではまったく無意味な馬鹿話以上ではない。
 問題は、分配よりも、まず生産こそが重要であり、それこそがまず明らかにされるべきこと、そうすれば、分配は自ずから明らかになるだうとわれわれは主張する。生産がすべて直接、使用価値と労働を基準にして組織されうるなら、消費も直接労働を基準に行うことは容易であろうからである。

●〈さらに、マルクスが「労働時間の内容による分配」を主張しているという前提から、ドグマ的見解を持ち出す参加者もいたが、しかしマルクスがそんなことを主張しているということは、誰も「発見する」ことできないだろう。マルクスが『ゴータ綱領批判』の中で言っているのは、社会主義でも生産物の分配は、ブルジョア社会で行われている、価値法則と「同様な原則に支配されるが、しかしその内容と形式は違っている」--というのは、問題になっているのは単なる「価値規定」だけだから--ということであって、ここで「価値規定の内容」による分配といったことが--これがどういうことを意味するかは、必ずしもはっきりしなかったのだが--言われるはずもないのである。そんなことをしたら、マルクスの論理は「台無し」であろう。〉

 ここでは〈「労働時間の内容による分配」〉と〈「価値規定の内容」による分配〉とが出てくるが、恐らく最初のものは間違いなのであろう。つまり林氏は〈「価値規定の内容」〉ではなく、〈単なる「価値規定」だけ〉が問題なのだと言いたいようである。しかし、果たしてこの両者の区別を林氏はどのように理解しているのか、その説明はない。この両者の区別については、『資本論』を読む会の第1章第4節の物神崇拝のところで、説明したので、それを参照していただきたい(但し電子書籍版の方を参照)。 

 またマルクスが『ゴータ綱領批判』の中で言っていることを説明しているが、林氏はマルクスの主張をまったく正確には理解していない。マルクスは〈社会主義でも生産物の分配は、ブルジョア社会で行われている、価値法則と「同様な原則に支配されるが、しかしその内容と形式は違っている」〉と述べていると林氏は主張しているが、マルクスが述べてるのは、正確には〈商品交換が等価物の交換であるかぎりでこの交換を規制するのと同じ原則が支配している〉と述べているだけである。林氏がいうように、それを「価値規定による分配」だと述べているわけではない。ここでマルクスが述べているのは、〈交換を規制するのと同じ原則が支配している〉ということである。つまり個人が社会に与えたのと同じだけの労働時間が対象化されたものが、その個人に分配される、だからそれはある形の労働と同じ量の別の形の労働とが交換されているのと同じだと述べているのである。しかしこれは決して価値規定による分配と同じではない。価値規定というのは、あくまでも商品に対象化された労働から具体的諸契機を捨象して同等・同質なものに還元して抽出された抽象的人間労働の対象化されたものであり、商品価値の社会的実体である。しかし、ここで問題になっているのは、等量の異なる具体的な有用労働同士が交換されるということである。これがマルクスがここで、すなわち『ゴータ綱領批判』のなかで、述べている「原則」の中身である。林氏こそ問題をまったく取り違えており、これでは〈マルクスの論理は「台無し」であろう〉。

●〈労働者の社会主義を闘い取るための階級的な闘いはどんな優れた理論によっても「代行」され得る課題ではない、しかし他方では、労働者階級は自らが勝ち取る社会の具体的な内容を、まさに歴史的、合理的に、すなわち"科学的に"理解し、確認することなくして、社会主義を闘い取ることも、建設していくこともできないのである。労働者が自ら闘い取る理想社会の諸関係を正しく、合理的に理解するなら、労働者の闘いは一層強化され、不屈のもの、不敗のものになり、何人と言えども、ブルジョアはもちろん、デマゴギー政治にふける、下劣な反動勢力、ファシズム勢力と言えども、それを打ち破ることはできないだろう、というのは、労働者の闘いだけが、自らの歴史的な矛盾と限界ゆえに腐敗し、解体していく資本主義を止揚し、克服して、人類の未来を切り開いていくことができるだろうからである。実際に社会と個人の生活過程の根底を支え、維持するために、孜々(シシ)として生産的労働にたずさわる、健全なる人々だけが、人類の未来と希望を代表することができるのである。〉(12頁)

 何とスターリニスト的な文章であることか! 
 大げさな表現が並ぶ割りには内容がない。形式ばった表現。から文句、等々。

 〈労働者階級は自らが勝ち取る社会の具体的な内容を、まさに歴史的、合理的に、すなわち"科学的に"理解し、確認することなくして、社会主義を闘い取ることも、建設していくこともできない〉だって?!

 自動車と鉄鋼を例に上げれば、それが「具体的」な説明だと林氏はいうのであるが、具体的という言葉が間違っている。具体的というのは、さまさまな諸規定の総体・体系として対象を捉えた時に、それは概念として具体性を得ることができるのであって、何か一つ二つの例を上げれば、それで対象を具体的に認識したことにはならないのである。それは一つの例を上げて、それに象徴せているだけで、その内容を明らかにしたことにはならないからである。社会主義の具体的な概念などを、今の段階で語ろうということそのものが間違っているのである。社会主義の概念は資本主義的生産様式の諸法則を解明するなかで明らかになるのであって、だからそれは不可避に抽象的なものにとどまらざるを得ないのである。社会主義の概念を、将来の個人的消費手段がどのように分配されるか、などという俗物的な関心のなかに追い求めることは、俗流社会主義者のやることである。だからこの文章は林氏の俗悪ぶりを暴露するものであり、スターリン主義的な大仰な物言いが“のりうつっている”ことを見ても、林氏の何たるかが暴露されている。

●〈我々は社会主義における「分配」の問題を解決することよって、"科学的社会主義"の概念の重要な契機を、その神髄とも言える一環を明らかにし得たのである、というのは、社会主義において「生産」を組織するのは容易であるが--というのは、社会主義では、その問題は生産手段と労働との直接の相互関係として現われるにすぎないから--、他方、社会主義における「分配」と「消費」の問題の解決については、その課題に特有の困難で、複雑の問題が絡まっていたのであって、マルクス主義の、つまり「労働価値説」や「価値法則」や「価値規定」等々についての厳密で、正しい理解が必要だったからである。だからこそ、社会主義における「分配」の問題はこれまで、まともに議論されることも、解決が目指されることも--そこに困難な問題があることの認識さえ--、ほとんどなかったのである。我々のみがこの問題の所在を確認し、またその課題に接近し、それを基本的に解決し得たのである。我々は全国の心ある、多くの労働者が、社会主義の神髄の一端--最も重要な社会主義の内容の一つ--を学び、それを自分のものにすることを願い、また期待して止まない。〉(12頁)

 何度も言ってきたが、〈社会主義における「分配」の問題を〉〈"科学的社会主義"の概念の重要な契機〉、〈その神髄とも言える一環〉と捉えるのは間違っている。
 〈社会主義において「生産」を組織するのは容易である〉と林氏はいうのであるが、しかし、林氏はそれがどのように行われるかをわれわれに明らかにしてくれたことはない。〈というのは、社会主義では、その問題は生産手段と労働との直接の相互関係として現われるにすぎないから〉。なんだって! これが〈容易である〉理由だというのだが、その理解は決して容易ではないのである。〈問題は生産手段と労働との直接の相互関係として現われる〉とはどういうことなのか。まったくもって何も分からないし、容易ではない。そしてどうして生産に対して、消費の方が〈その課題に特有の困難で、複雑の問題が絡まって〉いるのかも皆目分からない。林氏が勝手にわけの分からない例を持ち出して、論じているだけではないのか。ただ不毛な議論を会員に押しつけているだけではないのか。実に馬鹿げた話である。自分の馬鹿話を何か大仰で、ご大層なものであるかに言い募る、自信過剰と誇大妄想の老人性痴呆症には付き合いきれないのである。

●〈「社会主義社会における『分配』」という困難な理論問題の解決は簡単ではなく、それゆえに、我々は長い、「紆余曲折」に満ちたを検討と議論を経なくてはならなかったのだが、しかし人類史上初めて、いくらかでも合理的な答えにたどりついたのであり、つくことができたのだが、これは我々が数十年にもわたって、階級的、革命的な実践的闘いを貫徹しつつも、営々として『資本論』を、マルクス主義を学び、研究し、精進してきた結果でもあって、我々の誇っていい成果であろう(与謝野晶子の言う「黄金の釘一つ打つ」のたぐいかも知れない)。我々は立派に、我々がマルクス主義の党派であることを、自らの理論的実践によっても証明したのである。〉(12頁)

 社会主義における分配など簡単だ、と先に主張した人の方が正しい。それを何か馬鹿げた“理論”として持ち出し、下らない議論をしている方が間違っている。何が〈人類史上初めて〉であろうか。馬鹿も休み休みいうべきであろう。『資本論』を〈営々として……学び、研究し、精進してきた〉だって、マルクスの再生産表式一つ理解できなくて、何を偉そうなことを言っているのであろうか。ほらの吹き方ようだけは〈立派〉ではある。

(以上で、巻頭論文〈科学的社会主義の真髄し今明らかに--労働者に身近な「社会主義における『分配』と『消費』の問題〉の批判的検討を終える、次回からは、報告文書〈社会主義の根底的意義を問う--「価値規定による分配」とは何か〉の批判的検討を紹介していく。)

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